おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

闇の子供たち

2020-05-31 06:18:23 | 映画
「闇の子供たち」 2008年 日本


監督 阪本順治
出演 江口洋介 宮崎あおい 妻夫木聡
   プラパドン・スワンバン
   プライマー・ラッチャタ
   豊原功補 鈴木砂羽 佐藤浩市

ストーリー
日本新聞社バンコク支局の記者、南部浩行は、東京本社からあるネタの調査を依頼される。
それは近く日本人の子供がタイに渡り、臓器移植手術を受けるらしいとの情報だった。
その頃、東京の大学で社会福祉を学んだ音羽恵子が、アジアの子供たちのために何かをしたいという思いで、バンコクの社会福祉センターを訪ねる。
女性所長ナパポーンとスラム街の視察に同行した音羽は、貧民層の厳しい現実を目の当たりにし、アランヤーという少女の消息が分からなくなっていることを知る。
さらに、取材のためにセンターを訪れた南部から、子供の臓器移植手術の情報を聞かされる。
アランヤーは、チェンライの街にある売春宿に売り飛ばされていた。
アランヤーから助けを求める手紙を受け取ったナパポーンと音羽は、売春宿の場所を探り当てるが、警察は証拠不十分として動こうとしない。
マフィアの監視の目があるので、自力での救出も難しい状況であった。
そんな中、東京に飛んだ南部と音羽は、臓器移植手術のネタを掴んだ記者、清水と合流、梶川という商社マンの自宅へ向かう。
彼こそタイで手術を受けようとしている子供の父親であったが、取材は決裂。
無力感に打ちのめされながらタイに戻った音羽は、売春宿から捨てられたゴミ袋の中に、病に冒されたアランヤーを発見、救出に成功した。
一方、南部は、フリーカメラマンの与田と協力して、臓器提供者の子供が病院に連れてこられる決定的瞬間を撮影しようと試みるが、マフィアに見つかり拳銃で脅される。
子供たちを救おうともがき苦しむ南部は、人間の内に潜む真の闇と向き合うことになるのだった…。


寸評
この映画では少年少女が売春行為を強いられる状況と、その虐待から子供たちを救おうと尽力するNGO職員の奮闘と、不正な心臓移植がタイの子供を使って行われるという事件の二つが並行して描かれている。
さすがに阪本監督は児童買春のシーンでは直接描写を避け、逆に相手の男たちの薄汚い姿を描写することで異常性愛者の非人間性を描き出している。
日本人の売春ツアーは聞いたことのある話であるが、少年少女への行為は聞いたことがない。
映画の中では犯罪グループの一人によって、日本人の行為を避難する言葉が語られるが、売春で登場するのはすべて欧米人で、しかも醜い姿の男たちだが(女も一人登場する)、その裏には海外で売春に興じる日本人への告発も感じ取れる。
それを確定させるのが映画の最後に映される"あるもの"で、監督の直接的で強烈なメッセージとなっている。

児童買春、エイズ、人身売買、生きたままの臓器摘出と描かれている内容は重くて深刻なものだが、緊迫感と意外性のあるストーリー展開で退屈することはない。
アッと驚くような裏切りも描かれている。
ここで描かれた話は本当の話なのかフィクションなのかは知らないけれど、児童買春の映像はリアリティが感じられ本当に行われているような気がする。
一方の心臓移植では、移植希望者が日本人の少年で、日本における心臓移植の問題点が患者の父親である佐藤浩市から語られる。
余命の短い我が子を救おうとする親の気持ちも描かれ、NGOの宮崎あおいと激突する。
それまではタイの子供を殺して心臓が提供されるということを依頼者は知らないのだと思っていたが、この映画に登場する依頼者は、それを知っているのだ。
果たして、そのようなことが本当に起こり得るのだろうか。
依頼者にも葛藤があるようには描かれているが、それにしたって行われる行為は殺人である。
他の子供の命が奪われることを知りつつ、自分の子供の命を救うと言うことを本当に行えるのだろうか?
「心臓移植を受けようと思っている子供の両親が、よその子供を殺してまで自分の子供を助けたい、精神的にそう思っている人は、一人もいない。 親だから、子供をなんとしても助けたいという思いはあっても、人を殺してまで生きたい、生かしたいという親はいない」という医師の発言記事を読んだ記憶があるので、この話はフィクションに違いない。

貧困が解消できていない国々で、児童売買春が行われているのは事実だ。
そしてその客は比較的豊かな国からやってきているという構造的問題があるのも事実だ。
子供たちが性的サービスを強いられる相手は白人であり、しかもその姿がきわめて醜悪に描かれている。
しかし、それよりさらに非道といえる、殺人を前提とする心臓移植を日本人が行おうとしている。
これは日本人を告発する映画なのか。
ラストの衝撃はやはり日本人を告発している。 正義ぶってる日本人よ、思い上がるなと。
それにしても、逃げ出してきたエイズ患者の子が荼毘に付されるシーンは哀しくて残酷だったなあ。
日本人俳優も、タイの俳優も非常に熱演していて上手さを感じさせた。

山の郵便配達

2020-05-30 11:05:15 | 映画
「山の郵便配達」 1999年 中国


監督 フォ・ジェンチイ
出演 トン・ルージュン
   リィウ・イェ
   リィウ・イエ
   ジャオ・シイウリ
   ゴォン・イエハン
   チェン・ハオ

ストーリー
1980年代初期の、湖南省西部の山岳地域。
長年、責任と誇りを胸に郵便配達をしてきた男にも引退の時が近づいていた。
ある日、男はその仕事を息子に引き継がせるため、息子とともに自らの最後の仕事へと出発する。
それは一度の配達に2泊3日を要する過酷な道のり。
父にとっては最後の、息子にとっては最初の郵便配達だ。
重い郵便袋を背に、愛犬を連れ、険しい山道を辿り、いくつもの村を訪ねる。
父は多くを語らず、黙々と仕事をこなす中で、道筋や集配の手順、そしてこの仕事の責任の重さと誇りを息子に伝えていく。
息子は父と村民たちの深い交流を目の当たりにし、トン族の結婚式の祝宴にも加わる。
息子はお母さんがいつも故郷を恋しがっていたから山の娘とは結婚しないという。
お母さんは山の娘でケガをしたのをお父さんが助けて結ばれたのだという。
父に対して少なからずわだかまりを抱えていた息子も、人々の信頼を集める父の姿に接し、徐々に尊敬の念と仕事への責任感を深めていく。


寸評
郵便配達の仕事をしている父親が、一人っ子政策の為なのか一人息子と、次男坊と名付けた犬と共に山道を歩いて郵便配達を行う物語で、息子にとっては父の仕事を引き継いだ初仕事である。
山道を分け入って山村を目指すある種のロードムービーだが、目に飛び込んでくる自然の景色が美しい。
山々や田んぼの緑に心も洗われるが、登場してくる人々の表情や流れるメロディは一服の清涼剤である。
大きな水車、谷あいに飛んでいく紙飛行機など枚挙にいとまがないほどで、うっとりとしてしまうシーンに出会うことができる静かな映画だ。
両親の出会いと結婚、父が仕事の為に家に居なかった頃のことが、回想するように会話のない映像として挿入され、それが息子が父を理解していくこととシンクロしていく。
息子は父親を「父さん」と呼んだことがなかったが、この旅を通じて初めて「父さん」と呼ぶようになる。
この旅に同行しているのが次男坊と名付けられたシェパードで、この犬がまたいい役目を請け負っている。
この犬を主人公にしてもいいぐらいな存在で、なかなか仕込まれた演技を行っていて微笑ましい。

中国政府による道徳教育をされている印象もあるが、事件らしい事件も起こらない中で美しい山娘との出会いが詩情豊かに描かれて感動的だ。
祭りで踊る若い二人の姿が目に焼き付く。
二人に恋が芽生えるのかと思わせておきながら、山娘は山が一番よく似合うと結ばれぬ恋を暗示している。
この娘が行うラジオにお椀をかぶせてステレオ効果を出すシーンに感心した。
そう言えば日本でも白黒テレビしかなかった時代に、フィルターのついたパネルをテレビ画面の前に取り付けるとカラー画面らしきものになり納得していたことがあった。

息子はバス道があるからバスを使えばいいと言うし、ヘリがあっても山道を歩いて郵便配達をするのかと疑問を呈するが、父親は昔気質の性格のためか自分の足だけを信じている。
郵便局長も母親もこの仕事が過酷な仕事であることを分かっている。
しかし誰かがやらねばならない仕事として、父親は信頼できる息子に引継ぎを決意している。
息子は父親と村人たちの交流を見ながら、父親の仕事を引き継ぐことを決意する。
この映画は山の郵便配達を詩情豊かに描いた作品であるが、同時に父と息子による親子回復の物語でもある。
息子は父親を川で背負い、郵便配達の袋よりも軽いことを実感する。
息子はかつては父親に肩車をしてもらっていたことを回想する。
いつかはやって来る世代交代だが、息子にとっても父親にとっても淋しいことだ。
父親は現役を引退する淋しさも抱えている。
行く先々で息子を紹介し、次からは息子がやって来ることを伝える。
村の少年が次に来た時にはインタビューするからと言っても、自分はもう次は来ないとつぶやく。
父親のような仕事人間だった者にとって、現役を退くことは辛いことなんだろうな。
一人で仕事に向かう息子を見送る父親の姿は胸に迫るものがある。
何かしら懐かしいもの感じる作品で、中国映画にはこのような良心的な作品をよく見かける。
しかし、そのどれもが非常に寂れた田舎を舞台としているのは国情によるものか?


山猫

2020-05-29 10:15:23 | 映画
「山猫」 1963年 イタリア / フランス


監督 ルキノ・ヴィスコンティ
出演 バート・ランカスター
   アラン・ドロン
   クラウディア・カルディナーレ
   パオロ・ストッパ
   リナ・モレリ
   ロモロ・ヴァッリ

ストーリー
1860年春、イタリア全土はブルボン王朝から、国王ビクトル・エマニュエルの統治下に入った。
シシリー島の名門を誇っていたサリナ公爵(バート・ランカスター)にとって、政治的変動は大きなショックだった。
そんなある日、サリナ家は田舎の別荘に出掛けた。
一行の中、公爵の甥タンクレーディ(アラン・ドロン)はブルボン王朝側と戦った革命派で早くも公爵の娘コンチェッタ(ルッチラ・モルラッキ)の心をとらえていた。
一家が田舎に着くと新興ブルジョアの一人である村長のセダーラ(パオロ・ストッパ)が歓迎会を開いた。
コンチェッタはタンクレーディと結婚したいとまで考えていたが、村長の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)の出現が、タンクレーディをひきつけ、彼が求婚までしたと聞いて絶望した。
タンクレーディが連隊に復帰すると間もなく公爵に手紙を送り、アンジェリカとの挙式の手配をしてくれと頼んだ。
公爵夫人(リナ・モレリ)は彼を貴族を裏切るものだとののしった。
タンクレーディとアンジェリカは毎日のように会い、愛情は燃え上った。
アンジェリカも平民の娘と思えぬ程の気品を初めての舞踏会で漂わせた。
その席で公爵は急に自分の老いと孤独を感じた。
アンジェリカの求めに応じて踊ったものの、何となくその場にそぐわない気さえする。
時代は代り、歴史の大きな歯車は少数の人間の意思とは全く無関係に回転していくものなのかもしれない。
公爵はやがてくる自分の死を考えていた。


寸評
ヴィスコンティの執念、エネルギー、意地を感じる作品だ。
兎に角、一つ一つの場面が長い、言い換えれば必要以上の丁寧さがある。
1860年、ガリバルディは赤シャツ隊を創設して、シチリアやイタリア南部へ遠征に向かい、ブルボン朝の軍を何度も打ち破って征服に成功し、1861年、統一国家としてのイタリア王国の成立が宣言されたというのは史実。
映画ではタンクレーディも参加した赤シャツ隊の進撃が描かれているが、この場面の描かれ方はタンクレーディの獅子奮迅の活躍を描くようなものではなく、戦闘を遠望しているような描き方で主人公の一人であるタンクレーディの登場時間もわずかなものである。
タンクレーディの活躍を描いていないにもかかわらず、この革命軍の進撃場面はかなりの長さで描かれている。
革命分子の射殺や、助命を懇願する女性たち、圧政を引いてきたブルジョアジーの処刑、王朝側と革命側の古典的な銃撃戦などが、内乱の点描のような形で描かれ続ける。
僕はこの場面を見ていて、「山猫」は近代史におけるスペクタクル作品なのかと思ったぐらいだ。

丁寧ともいえる描き方はサリナ公爵がタンクレーディが結婚しようとしているアンジェリカのセダーラ一家がどのような家庭であるかを、狩猟のお供をするチッチョに尋ねるシーンでも発揮されている。
チッチョは父親のセダーラが狡猾な野心家である事、その夫人は美人だが教養など全くないことを演劇的に長々と述べ続け、そのことを述べさせるのに、これだけの長さが必要なのかと思えるくらい長いシーンに感じた。

同じ観点から言えば圧倒されるのが最後に描かれる別の貴族の屋敷で行われた舞踏会の場面だ。
シーンと呼ぶにはあまりにも長く、観客は舞踏会の様子を1時間近く見せられることになる。
しかし催されている貴族の館は豪勢、調度品も衣装も本物を感じさせる。
登場人物も非常に多い。
テーブルに並んだ料理は豪華だが手作りの味わいがある。
ひたすら食べて、その後は踊る者、酒を飲む者、おしゃべりする者と分かれて、どれだけあるかわからない部屋の中や庭にたむろする。
家柄を重んじるあまり従妹同士の結婚が増え、生まれた子供たちは節度がなく騒ぎ立てるだけという様子が事細かに描かれていく。
公爵が貴族の時代がたそがれていく時の移り変わりに身をゆだねようと決意し、誰もいない部屋で鏡に向かって涙する場面は、自身もまた北イタリアの貴族出身であるビスコンティ自身の姿かもしれない。
そして老人の死の場面を描いた絵の前で語る言葉は、老人観客には身に迫るものである。
サリナ公爵とアンジェリカの音楽に乗った流麗な身のこなしのダンスが終わると、だんだんと踊る者、飲む者、談笑する者に分かれてグループが小さくなっていく様をカメラが追い続ける。
それはまるでこの貴族屋敷で行われている舞踏会が、終わりの無い享楽だと訴えるようでもあった。
空がしらじらとしてくる頃、公爵は馬車を断って徒歩で屋敷を去るが、まだ明りが灯った家の戸口から朝早い庶民の暮らしが覗いている。
終わりが無いと思われた享楽のパーティは終わり、やがて獅子(王)と山猫(貴族)の時代も終わり、サリナ公爵の人生も終わろうとしていることを暗示する納得のいくラストだ。

屋根の上のバイオリン弾き

2020-05-28 08:53:49 | 映画
「屋根の上のバイオリン弾き」 1971年 アメリカ


監督 ノーマン・ジュイソン
出演 トポル
   ノーマ・クレイン
   ロザリンド・ハリス
   ミシェル・マーシュ
   ニーバ・スモール
   エレイン・エドワーズ

ストーリー
アナテフカの牛乳屋テビエは貧しくも信仰深く、少々口やかましい妻ゴールデ、愛らしい5人の娘、ツァイテル、ホーデル、ハーバ、シュプリンシェ、ビルケの家族と暖かい家庭を築いていた。
アナテフカはウクライナ地方の貧しい小村で、市場、肉屋、かじ屋、仕立屋、宿屋などが雑然と立ち並び、屋根の上にはバイオリン弾きが、危なげなバランスを保って楽しい曲を弾いている。
村じゅうが安息日の準備に忙しいある日、イェンテ婆さんが肉屋のラザールと長女ツァイテルの結婚話をもってきたのでゴールデは喜んだが、ツァイテルには仕立屋のモーテルという恋人がいた。
テビエは仕事の帰り道で、キエフから来た貧しい革命を夢見る学生パーチックと意気投合し、彼を招いて家族に紹介し、安息日の祈りを捧げた。
次の日、テビエは肉屋のラザールとツァイテルとの結婚を認めたが、翌日、思いあまったツァイテルは、テビエにモーテルとの恋を打ち明け、結局テビエはモーテルとの結婚を許してやるのだった。
反対していたゴールデも、ようやくモーテルとの結婚を認めた。
楽しい結婚式が、突然入り込んできた警官隊にメチャメチャにされてしまった。
三女のハーバはロシアの若者フヨードカと恋に落ち、パーチックはホーデルに結婚を申し込んだ。
怒るゴールデにテビエはホールデの気持を説明し、たしなめるのだった。
間もなく学生闘士パーチックは逮捕され、ホーデルはパーチックを追ってシベリアに旅発った。
三女のハーバもフヨードカのもとへ走った。
政情は悪化する一方で、ついにユダヤ人の強制退去命令が下り、村人たちは次々と村を離れていった。
家財道具を積み込み、静かに村を離れていこうとするテビエに、バイオリン弾きがもの悲しい曲を奏でて後にしたがうのだった。


寸評
「屋根の上のバイオリン弾き」というタイトルだが、主人公はバイオリン弾きではなく牛乳屋のテビエである。
バイオリン弾きは言ってみればアナテフカ村の象徴としてだけの登場に思える。
物語は昔からの古いしきたりに縛られる世代と、新しい考えで行動する世代の軋轢や、親子の愛情や肉親との別れに加え、ユダヤ人迫害という人種問題が描かれていく。
迫害シーンは描かれてはいるが、よくあるナチス・ドイツによるホロコーストのような悲惨な場面は登場しない。
むしろ牧歌的なテビエ一家の様子が描かれていると言った印象だ。
この村では父親が決めた相手と結婚するのが習わしらしい。
テビエ一家は貧しい家庭なので、母親も金持ちとの結婚を望んでいて、相手が年配の男であろうと資産家でさえあれば娘も幸せになれると思っている。
日本においてもある時期までは、今ではすっかり見なくなってしまった仲人を生きがいとするオバサンがいて、何枚もの見合い写真を持ち歩いて結婚の世話を焼いていた。
そんな仲人さんによって結ばれたカップルも大勢いたはずだ。

女5人の父親であるテビエは子供たちを愛しているが、決定権は自分にあると思っているし、それが家長としての権威でもあると言う思いがある。
しかし時代の流れか、娘たちは自らの意思に基づいて結婚相手を選び、場合によっては親に内緒で結婚式を挙げてしまう始末となっている。
手塩にかけて育ててきた娘が、そんな風にして自分の元を去っていくのは辛いものだと思う。
テビエは結婚に反対しながらも、相手の男は案外いい奴に違いないとか、娘の目は男を愛している目で幸せそうではないかと自問して、ついには結婚を許してしまう。
その気持ちは娘を持った父親ならわかるはずだし、テビエの揺れる心が微笑ましく思え面白く描けている。
長女ツァイテルの結婚式の場面はこの映画で一番楽しいシーンとなっている。
僕にとっては唯一と言っても良い耳慣れた音楽「サンライズ、サンセット」が感動を呼ぶ。

ミュージカル映画ではあるが、僕はドラマとしての要素は希薄だと感じる。
娘たちの結婚話で物語は進んでいくが、それぞれのストーリーに盛り上がり感がない。
長女ツァイテルが親の決めた相手から、愛し合っている幼なじみの仕立て屋と結婚に至る展開は滑稽さだけが残るし、身分と人種が違う男と結婚する三女のハーバの結婚もドラマチックな割にはアッサリと片付けられている。
家庭教師のパーチックの先進的な思想に触れて運命を共にする次女ホーデルの話などはもっと盛り上がっても良いはずだと思うが、パーチックが逮捕されてしまって投獄されていると言うだけで彼は登場しなくなる。
やがてユダヤ人たちは村ごとの強制退去を迫られる。
それはナチスによるゲトーからの強制退去命令に通じるものだ。
彼らは抵抗することなく世界各地に散っていく。
あたかも千年に及ぶ放浪の民となったユダヤ人の姿を象徴しているような光景だ。
暴動蜂起を期待していた僕は肩透かしを食った気持ちだったが、静かなエンディングこそが彼らの悲劇を示していたのかもしれない。

やくざの墓場 くちなしの花

2020-05-27 07:21:10 | 映画
「ま」行が終わり、いよいよ「や」行です。

「やくざの墓場 くちなしの花」 1976年 日本


監督 深作欣二
出演 渡哲也 梶芽衣子 藤岡琢也 今井健二
   矢吹二朗 小林稔侍 金子信雄 梅宮辰夫
   室田日出男 佐藤慶 藤岡重慶 大島渚

ストーリー
巨大組織・山城組傘下の在阪団体とミナミを地盤とする西田組とが衝突を起こし、両者の間は一触即発の状態が続いていた。
折しも同地警察捜査四課に舞戻った腕利き刑事黒岩竜(渡哲也)は、西田組の情報収集担当として復起したが、捜査本部の上層部は黒岩の個人プレーに走る傾向を恐れて意識的に捜査担当から外した。
黒岩のやり口は最初から凄じく、あわてた西田組二代目組長・杉政明(藤岡琢也)と若者頭代理の松永啓子(梶芽衣子)が、地元警察署長・赤間(金子信雄)を伴って詫びを入れる程だった。
この一件で、黒岩は規律を重んじる本部上層部の本部長、副本部長等に睨まれたばかりか、西田組顧問でキック・ボクシングジム拳義会館長・岩田五郎(梅宮辰夫)の怒りも買った。
ある日、黒岩は山城組傘下の組員を追跡し、金融ブローカー「山光総業」の事務所内に逃げ込んだ男と格闘になったが、そこの事務員はすべて捜査四課のOBだった。
そこへ現われたのは元捜査副本部長で、現在山光総業社長の寺光伝之助(佐藤慶)で、一万円札をチラつかせて事をウヤムヤに処理しようとした。
黒岩は今だに本部の上層部に絶大な圧力を持つ寺光に、何かキナ臭さを感じてその場を去った。
黒岩は、いつしか戦いに不利な西田組に荷担し、しかも若者頭の夫の留守を預かる啓子に何かと手を貸すようになっていたが、警察本部は管轄外の山城組には手をつけず、一方的に西田組解散の方針を打ち出して、新たに西田組担当班室長に日高警部補(室田日出男)が新任して来た。
日高と黒岩は警察学校の同期生で、二年前の射殺も彼が仲の良い日高をかばったための発砲が原因だった。
追いつめられた西田組は、岩田の計らいで山陽、九州一帯を総轄する連合組織・雄心会に加盟して、山城組に対抗しようとし、その結縁式には啓子の招きで黒岩も出席した。


寸評
昭和51年度文化庁芸術祭参加作品と大きく映し出される。
内容を見ると、どこが昭和51年度文化庁芸術祭参加作品なんだと言いたくなるようなもので、警察とヤクザの癒着が描かれ、「やくざの墓場」のタイトルとは違って、主人公ははみ出し者の刑事である。
刑事の黒田はヤクザよりヤクザらしくて、ヤクザ側は梅宮辰夫以外は小者に見えてしまう。
一方の警察側は、署長が金子信雄、警察OBの寺光が佐藤慶、捜査四課長が藤岡重慶、警部補が室田日出男と並び、どっちがヤクザか分からない面々だ。
異色は特別出演扱いで本部長を演じている映画監督の大島渚で、堂々とした演説を行っていて彼のキャリアの中で出演作として記録されるべき存在感を見せている。

警察の腐敗や暴力団やヤクザ組織との癒着は洋の東西を問わず描かれ続けている。
警察組織と暴力組織の間には癒着構造が存在しているのかもしれないが、ここで描かれた癒着は警察側の面々を見てもひどいものだ。
警察OBの寺光は暴力団まがいの手口で悪事を働いていて、そのくせ警察本部に堂々と出入りし顔を聞かせているし、どうやら警察内部の人事にも影響力があるらしいのだ。
キャリア組でない者たちの天下り先として、裏社会の組織があるのかもしれない。
黒岩は捜査は滅茶苦茶だが正義感だけはあるといった、よくあるキャラクターではない。
むしろ自身に潜む暴力性のはけ口として警察を選んだような人物で、こぶしでパチン、パチンと音を鳴らす仕草は感情を抑え爆発を抑えているように見える。
黒岩は満州からの引揚者で、少年の頃には内地の子供たちからイジメいじめを受け差別されてきた過去を持つ。
そして彼に絡む梶芽衣子は父親が朝鮮半島出身という在日二世だ。
同じく兄弟分となる梅宮辰夫は朝鮮人である。
この設定は意図したものであることは明らかなのだが、その意図は不明確ながらも感じ取れる場面はある。
印象的なのは黒岩の渡哲也が高層団地が立ち並ぶ道を歩いてくる姿をロングショットでとらえたシーンで、それに続く梶芽衣子とのやりとりだ。
黒岩は彼女を部屋に招じ入れ、窓を開け、スタンドの電気をつける。
風にカーテンが揺れ、スタンドの光で部屋が照らされ、団地における一人暮らしの黒岩の生活のリアルな実態を垣間見せるいいシーンだ。
そして黒岩は啓子に「人間の住むとこちゃうよ。下に降りていくより、こっから飛行機乗っていくほうが早いくらいの高さや!」と言う。
飛行機乗っていくほうが早い所とは、朝鮮半島であり旧満州なのだ。
下に降りていった大地は日本国そのものであり、そこが人間の棲むところではなかったのは引揚者や朝鮮人や在日家族達が味わってきた苦汁を示しているのだろう。
その思いの発露が鳥取砂丘の海辺のシーンであり、岩田が兄弟分の盃を黒岩に迫るシーンだ。
彼等は疑似家族を形成したといえるが、このような関係の行方が破滅へと向かっていくことはいうまでもなく、黒岩は破滅へ向かっていく。
渡哲也はその悲劇を見事に演じきっている。

モンタナの風に抱かれて

2020-05-26 08:02:54 | 映画
「モンタナの風に抱かれて」 1998年 アメリカ


監督 ロバート・レッドフォード
出演 ロバート・レッドフォード
   クリスティン・スコット・トーマス
   サム・ニール
   ダイアン・ウィースト
   スカーレット・ヨハンソン
   クリス・クーパー
   チェリー・ジョーンズ

ストーリー
13歳の少女グレースは乗馬中に巻き込まれた事故で親友と右足を失い、人生に深く絶望していた。
また彼女の愛馬ピルグリムも、事故のショックで人間になつかない暴れ馬になっていた。
ニューヨークで雑誌編集長として活躍しているグレースの母親アニーは、娘の心を回復させるにはピルグリムの全快が必要だと考え、弁護士の夫ロバートをひとりニューヨークに残し、モンタナで馬専門のクリニックを開業しているトム・ブッカーの元へ、グレースとピルグリムを連れてトレーラーで旅立った。
トムは突如訪問してきたアニーの強引な態度に呆れるが、グレースが協力するならばという条件つきでピルグリムの治療を引き受ける。
トムの自然に逆らわない優しく誠実な治療法により、ピルグリムは徐々に回復し、グレースも少しずつ笑顔を取り戻していった。
そしてアニーはトムに、またトムもアニーに、心惹かれはじめる。
そんな時、アニーに会社から解雇命令が届いた。
トムに恋していたアニーは、意外にも全くショックはなかった。
あるキャンプの夜、ふたりはキスを交わすことになる。
だがしばらくして、ロバートがニューヨークからやって来た。
ロバートはすっかり元気になった娘の姿を見て、トムに心から感謝するが、アニーはそんな夫を見ているのがつらかった。
やがてピルグリムはグレースを背に乗せて歩けるまでに回復する。
そろそろモンタナを去る時が来たようだ。


寸評
冒頭の少女グレースが事故にあう場面で映画に引き込まれてしまう。
雪深い山道を友人と愛馬と駆け上がっている時に友人の馬が足をとられ滑り落ちる。
グレースも巻き込まれるように道路まで滑り落ちていくシーンが、事故シーンであるにもかかわらず美しい。
友人の少女は走ってきたトラックにひかれて死亡し、グレースも右足を失ってしまう。
愛馬のピルグリムも傷つき殺処分寸前である。
僕が競馬に夢中になっていた時期には、名馬が骨折の為に走れなくなり、懸命の介護にもかかわらず走れない馬は衰弱していき、やがて薬殺されたというニュースを幾度となく目にした。
馬にとっては生きていても走れないことは致命傷なのだ。
ピルグリムはよく助かったものだと思う。

少女のグレースが片足を失うという悲惨な事故だが、愛馬のピルグリムの姿はさらに悲惨なものである。
傷ついた顔がすさまじく、画面に映し出された時には思わずのけぞってしまう。
動物が出てくる映画はどこか微笑ましいものであることが多いのだが、ここでのピルグリムはそんな気持ちが湧いてこないほど痛ましい。
どうしても助けたい母親のアニーはモンタナのトムの牧場へ連れていく。
僕はアメリカの各州の所在がよく分かっていないので、モンタナ州がどこにあるのか調べてみると、カナダとの国境を接する北西部の州であること、面積は広いが人口密度が低いこと、自然豊かな土地であることを知った。
映画はそのモンタナの牧場を背景に馬と少女と母と男の物語が繰り広げられる。
傷ついた馬は傷ついた少女と同化していく。
アクセントとなるのは大都会ニューヨークでキャリアウーマンとして辣腕をふるっている母親のアニーの存在だ。
母親の性格は病院でのやりとりで端的に示される。
アニーは牧場についても電話で打ち合わせが絶えない仕事魔である。
のどかなモンタナの風土とマッチしないアニーだが、やがて人間性に目覚めていくこと、その中でトムに魅かれていくことは物語として予想されることだ。
それがモンタナの自然に溶け込むように静かに描かれていることでウットリとさせるもになっている。

馬のことを知らないだけに、馬の調教場面は手に汗握るシーンとなっている。
盛り上げるために劇的なことを描いているわけではない。
リアルな演出によりその場に立ち合っているような錯覚にさせてくれる。
調教場面はピルグリムの再生であると共に、グレースの再生でもある。
見守る牧場の人たちの笑顔に、観客である僕も自然と笑みを浮かべていた。
さてトムとアニーの恋だが、駆け付けた夫のロバートの告白がいい。
ロバートはアニーがロバートを愛しているよりも、自分がアニーを愛している力の方が強いと言う。
愛するあまり、背伸びしてやってきた自分を切々と語る。
僕はこのロバートに共感したし、愛することは苦しいことなのだと改めて思った。
でも最後はああなるんだなあ・・・古くは「シェーン」も、、イーストウッドの「マジソン郡の橋」でも。

モロッコ

2020-05-25 09:55:36 | 映画
「モロッコ」 1930年 アメリカ


監督 ジョセフ・フォン・スタンバーグ
出演 ゲイリー・クーパー
   マレーネ・ディートリッヒ
   アドルフ・マンジュウ
   ウルリッヒ・ハウプト
   ジュリエット・コンプトン
   フランシス・マクドナルド

ストーリー
外人部隊の名うての色事師トム・ブラウンは、モロッコで酒場の歌手エイミー・ジョリーと恋に落ちる。
彼には副官夫人の情人があったが、彼女は野次馬や乞食共を買収してエイミーに襲いかからせた。
彼女をかばおうとしたトムは街を騒がせたかどで軍隊に捕らえられ、懲罰の意味でサハラの前線に送られた。
任務に赴く日トムは別れを告げるためにエイミーのもとを訪れたがラ・ベシェールが彼女に求婚しているのを立ち聞きし、ラ・ベシェールとの結婚が彼女を安楽と幸福に導くべきことを悟って彼女に当てた一通の手紙を残してこっそりその場を立ち去った。
エイミーはトム重傷の報が届くと矢も盾もたまらず、彼のもとへ駆けつける。
ラ・ベシェールはとうてい自分の恋が遂げられないことを知り、トムに力を貸して脱走させようと提議し、エイミーもまた彼と一緒に逃げることを希望した。
しかしトムはもし真に自分を愛してくれるなら、彼女もまた立派な兵士の如く勇敢でなければいけないと行って脱走しようとはしなかった。
やがて彼が部隊と共に砂漠に向かって行軍を起こした時、部隊の後に付き従っていくボロをまとい髪ふり乱した女軍の一隊があった。
それは兵士達の赴くところどこまでも行こうとする彼等の妻や愛人達の一隊で、エイミーのけなげな姿がその中に見いだされたのはもちろんであった。


寸評
1930年と言う制作年を考えると十分に見応えのある作品で、日本語字幕が最初に採用された作品として映画史的価値もある作品である。
僕にとってゲイリー・クーパーは「真昼の決闘」のイメージが強すぎて、渋みのある西部劇スターという印象なのだが、彼の若かりし頃の姿が見られるのも映画ならではだ。
この作品におけるマレーネ・デートリッヒはいい。
古典的な美人ではないが、勝気な女を演じると魅力的な女優である。
太い声による歌唱も魅力的で、この作品でもその歌声を聞かせてくれる。
男装の麗人よろしくモロッコの酒場に登場するシーンにうっとりする。
脚線美がもてはやされたそうだが、それを自慢するかのようなポーズが度々描かれ、当時の男性観客はそれだけで興奮してしまったのではないかと想像させる。
この映画においてはマレーネ・デートリッヒだ。
戦闘シーンにおいてはさすがに時代を感じさせる。
外人部隊が機関銃の攻撃を受け、トム・ブラウンとセザール副官がその掃討に出かけたところ、彼らを狙った機関銃の連射の音はするものの一向に銃弾が飛んでこない。
飛んできているのかもしれないが、今では当たり前の銃撃を受けているような処理は施されていない。
そんな中でセザール副官が銃弾を受けて死ぬのだが、「えっ、撃たれていたの?」と思ってしまうようなものだ。
時代を考えれば仕方のないことで、特にそのシーンに違和感があるわけではない。

トム・ブラウンはセザール副官の奥さんと出来ているようなのだが、どれくらいの関係なのかは分からないし、妻が夫に不満をいだいていたのかどうかも分からない。
見ている限りにおいては、どうやらセザール夫人のほうがトムに入れ込んでいるようである。
セザール副官は妻の不貞を薄々感づいていてその証拠も握るのだが、セザール夫妻が結局どうなったのかは分からずじまいである。
本筋はトムとエイミーの恋模様なのだから、必要ないと言えば必要のない話だが、やはり気にはなる。
トムは外人部隊を抜けてエイミーと結婚しようと思うが、外人部隊の契約上そうすることが出来ない。
エイミーの幸せを願って資産家のベシェールに託すことになる。
一方のエイミーもトムに気がありながらも一度はベシェールとの結婚を決意する。
言わば悲恋物語なのだが、僕は、お互いの気持ちがうまく合致せず別れることになる切なさを感じ取れない。
その原因はトムが見せるプレー・ボーイ的な態度によるものだったと思う。
どうも一途にエイミーを思っている風には感じ取れないのだ。
恋物語としては若干盛り上がりに欠けるところがあるように思う。

評判のラストシーンはやはりいい。
女たちは愛する人が居る外人部隊の後ろを追いかけていく。
ベシェールに言わせれば後方部隊である。
女たちの愛する人への決意を感じ取れる名シーンである。

モリのいる場所

2020-05-24 09:46:11 | 映画
「モリのいる場所」 2018年 日本


監督 沖田修一
出演 山崎努 樹木希林 加瀬亮
   吉村界人 光石研 青木崇高
   吹越満 池谷のぶえ きたろう
   林与一 三上博史

ストーリー
昭和49年の東京。モリと呼ばれる熊谷守一(山崎努)は、夫婦生活52年目になる妻・秀子(樹木希林)と、草木の生い茂る庭付きの一軒家に住んでいる。
モリの庭には、鳥や猫、蟻にめだか、カエルにカマキリと多くの動植物が暮らしている。
モリは毎日、森の番人さながら、毛皮を腰に巻きフェルト帽子を被り補聴器を付け、庭に探検にでる。
庭には新しい生命があふれ、毎日観察してもしきれない生命の神秘にモリは夢中である。
ある時は寝転がって蟻の歩き方を観察し、新しい葉っぱに声をかけ、覚えのない石に思いを馳せ、ある時は30年掘り続けた池のめだかを見に行くのに迷子になる始末。
モリは30年間、家から外に出たことがない。
熊谷家の家事を手伝いに来る、姪っ子の美恵ちゃん(池谷のぶえ)は、モリの手書きの表札が絵と同様お金になると思われ何度も盗まれる「熊谷の表札」問題で頭を抱えている。
そんなモリに看板の文字を書いてほしいと、旅館の主人(光石研)が熊谷家にやってくる。
その場に居合わせた画商の荒木(きたろう)は、書いてもらえることに驚く。
出来上がった文字はというと、「無一物」(むいちぶつ)、モリの好きな言葉だった。
モリの人柄に惚れ、写真を撮り続けている男・藤田(加瀬亮)がアシスタントの鹿島(吉村界人)を連れてやってきたが、虫が苦手と、虫よけスプレーをしだす鹿島に、藤田は切れ気味。
しかし、モリの庭での観察を一緒に経験していくうちに鹿島もいつの間にか、モリのファンになってしまった。
モリの家は、今日も穏やかだ。


寸評
沖田修一監督らしいと言えば沖田修一らしい作品で、ほんわかムードに浸らせてくれるほのぼのとした作品だ。
僕は熊谷守一という画家を知らなかったし、当然その作品を見たこともないが、フィクションとは言え実にユニークな人物であったことがうかがえる。
大笑いするような映画ではないがオフビートな笑いが、主人公モリのユニークな言動とそれを受け絶妙のコンビを見せる妻の秀子のやり取りによってもたらされる。
自由奔放なモリを演じた山崎努、それを懐の深い演技で受け止めた樹木希林という二人の演技を見るだけでも価値のある映画といえる。

熊谷守一という画家を描いた作品だが彼が描く場面や作品は一切出てこない。
夜になると妻の秀子が「学校に行く時間ですよ」と告げると、制作部屋に入っていくシーンがあるくらいだ。
描かれているのはモリの仙人のような言動と、集まってくる人々との交流を通じた理想郷ともいえる世界。
家に集った人々がザ・ドリフターズの話題で盛り上がった後で、天井から落ちてくるはずのないものが突然落ちてくるのだが、ドリフターズを知らない者にとっては「何だこりゃ?」となる。
いかりや長介が出てきそうなギャグが挿入され笑わせる。
美恵ちゃんの池谷のぶえが主役の二人に負けない存在感を見せている。

モリは「もう一度人生をくりかえせるとしたら」と秀子に問いかけると、妻の秀子は「疲れるから嫌だわ」と言う。
するとモリは「俺は何度でも生きるよ。生きるのが好きなんだ」と答える。
30年間もほとんど自宅から出たことがないモリで、仙人のような生活をしているモリなのだが、モリはあれで結構人生を楽しんでいるのだ。
モリにとっては生きていること自体が素晴らしいことで、新しい発見は常に身近にあるものだと言っているようだ。
自宅の庭でも新しい発見があり、見つけた小石を何時間も見つめていても飽きない。
切り株の上を歩き回るアリを眺めていると、左から2番目の足から動き出すことを発見したりする(真偽のほどはわからない)。

隣に大きなマンションが建ち、藤田は思い立ったように屋上に駆け上がる。
そこから見えた景色は、自分が何年もかけて探索し描いた庭が一望のもとに見える。
すごい森のように見えた庭のなんと狭いことか。
モリはそのなかでいつものように木々の間に寝そべってうごめいている。
広さとか大きさとかは関係ないのだ。
自分の生きる世界は自分の中にあり、そこは宇宙よりも広い世界なのだ。
モリが掘った池からアンコウのような男が出てきて、この池は宇宙につながっているから一緒に行こうと誘うが、モリはここに居ると言ってその男を見送る。
モリは自宅の世界に、自分の心の中に宇宙を見出していたと言う事だろう。
自然破壊の問題や経済優先の時代への警鐘を描きたくなるところだが、この映画ではそんな方向には進まず、マンション工事の作業員とモリの予想外の交流を描いているところがいい。

もらとりあむタマ子

2020-05-23 10:17:17 | 映画
「もらとりあむタマ子」 2013年 日本


監督 山下敦弘
出演 前田敦子 康すおん 鈴木慶一
   中村久美 富田靖子

ストーリー
秋。東京の大学を卒業したものの、就職せず、父の善次(康すおん)がひとりで暮らす甲府の実家へ戻ってきたタマ子(前田敦子)は善次が営むスポーツ用品店・甲府スポーツをろくに手伝うこともなく、開店時間になってもぐうぐう眠り続けている。
冬。大みそかを迎え、新年の準備に忙しい甲府スポーツ。
タマ子も今日ばかりは、買い物をしたりカレンダーを張り替えたりと、珍しく家事を手伝っている。
夜、こたつに当たっているタマ子のもとへ、善次の義姉・よし子(中村久美)がおせちを届けに来てくれた。
タマ子は「母さんから連絡ないね」と言って、今でも連絡を取り合う離婚した母の近況を善次に話す。
そこへ結婚して家を出た姉が帰ってきて大晦日の夜が更けてゆく……。
春。美容院で髪を切ったタマ子はどうやらどこかに履歴書を送るつもりのようだ。
面接用の洋服をねだられた善次は、感慨深げにいいよと答える。
買ったばかりの洋服を着て、タマ子は中学生の仁(伊東清矢)に履歴書用の写真を撮ってもらう。
タマ子の履歴書の提出先はどこなのだろうか。
夏。クーラーが効いてキンキンに冷えた居間で、タオルケットに包まれてマンガを読むタマ子。
次の日の夜、善次の兄・啓介(鈴木慶一)の家で、タマ子は善次がアクセサリー教室の先生をよし子に紹介されたことを知る。
勇気を出して様子を見にいったアクセサリー教室で、タマ子は先生の曜子(富田靖子)と初めて顔を合わせる。
父の再婚話に心揺れるタマ子。
その思いは果たして――。


寸評
アイドルグループのAKB48で人気No1を誇った前田敦子主演なのだが、アイドルの面影は一切ない。
これだけの雰囲気と演技を見せられると、この子の将来性に期待を抱いてしまう。
主人公のタマ子は、東京の大学を卒業したものの、就職もせずに甲府の実家に戻ってきているのだが、離婚してやもめ暮らしである父の作る料理を食べ、昼寝してはマンガを読んで過ごしている完全なダメダメ女である。
そのダメ女ぶりを前田敦子がいい雰囲気で演じている。
パラサイトの娘はこんななのだと思わせるし、そんな娘を持った父親もこうなるしかないのだと言わんばかりのリアリティを感じさせた。
前田敦子と康すおんのコンビがバツグンの面白さを見せる。

タマ子はたまにテレビを見て政治ニュースに「日本はダメだ」と毒づく。
自分は何もしていないのに一人前のこと言う人間の代表だ。
そして、父に仕事を探すように言われると、「その時が来たら動く!」とのたまう。
若い子が言いそうなセリフである。
そして「少なくとも…今ではない!」などと言う言葉が続くとぶん殴りたくなるが、父親はそうもできない。

大晦日になってもタマ子は父親にべったりの生活を続けている。
母親が男と出て行って別居していることや、結婚している姉がいることなども知らされるが、彼女たちは画面に登場しない。
話し方にしろ、食事をするしぐさや居眠りしている姿など、全身でダメさを表現する前田敦子が描き続けられる。
街角で見かけた中学生の仁のデート場面を目撃してニタリと笑う表情などは単なるアイドルと一線を画していた。

高校野球を見ながら「夏の暑い中でよく野球をやるわ」とつぶやくタマ子に、「人にはいろいろな生き方がある。タマ子はタマ子でいい」という父親。
この父親と娘の関係がなかなかよくて、全体をゆる~い空気で包んでいた。
父親はあまりうるさいことは言わないが、やはり娘のことが気がかりである。
父親に反抗しつつも、完全には突き放せない娘。
二人の距離感が何とも言えず、父親のことをアクセサリー教室の先生に語る場面などは可笑しいのに思わずホロリとさせられる。
その先生との再婚話にタマ子が微妙に心を乱す心情がうまく表現されていた。
写真館の息子の中学生に、履歴書用の写真を内緒で撮らせるエピソードや先生の様子を探らせるエピソードなどは山下監督らしいオフビートの効いた笑いを誘った。
モラトリアムって待期期間の事だと思うし、前田敦子はアイドルだしと思って見ていたが終わり方は良かった。
進展を感じさせるエンディングでもあったし・・・。
特別の美人でもない前田敦子の魅力全開といった作品になっていた。
僕にとっては前田敦子を再発見した映画だった。
いまどき珍しい1時間ちょっとという上映時間もよかった。

モテキ

2020-05-22 07:30:26 | 映画
「モテキ」 2011年 日本


監督 大根仁
出演 森山未來 長澤まさみ 麻生久美子
   仲里依紗 真木よう子 新井浩文
   金子ノブアキ リリー・フランキー
   ピエール瀧

ストーリー
31歳の藤本幸世(森山未來)は、金なし夢なし彼女なし。
派遣会社を卒業し、ニュースサイトのライター職として新しい生活を踏み出そうとしているが、結局のところ新しい出会いもないまま。
だがある日突然、“モテキ”が訪れた。
キュートな雑誌編集者・みゆき(長澤まさみ)、清楚で素朴な年上OLるみ子(麻生久美子)、ガールズバーの美人店員・愛(仲里依紗)、美貌のSキャラ先輩社員・素子(真木よう子)というまったくタイプの異なる4人の美女の間で揺れ動く幸世。
「こんなの初めてだ……今まで出会った女の子と全然違う。冷静になれっ、期待しちゃダメだぁ……」
モテキの波を越えて、幸世は本当の恋愛にたどりつくことができるのか……。


寸評
モテキ(モテ期)とは、嘘のようにもてまくる期間のことで、どんな男にも一度はやってくるといわれているらしいのだが僕には思い当たることがない。
まして長澤まさみや麻生久美子といい関係になれるなんて夢のまた夢である。
そんな夢みたいなことを藤本幸世(森山未來)が経験する。
そりゃあこんなに上手く、こんなに素敵な女性とトントン拍子に事が運んでいくなんて、藤本でなくても有頂天になってしまうというものだ。
長澤まさみと言えば、隠れ巨乳として噂され抜群のスタイルをなるべく人目につかぬようにしていた印象があるのだが、本作ではそのプロポーションをいかんなく見せ、胸元もアップで披露している。
真木よう子は正真正銘の巨乳だし、仲里依紗もそれを強調するようなコスチュームで登場する。
麻生久美子も含めて、その路線の女優さんを集めたなと男の僕は思ってしまう。
森山未來と長澤まさみとなれば一世を風靡した「世界の中心で愛を叫ぶ」のコンビだが、断然こちらのほうが魅力的で映画としての出来もいい。
僕は長澤まさみをそれほど評価していないのだが、ここでの彼女はいい。
汚れ役の部類に入るのに、彼女の本性から湧き出る清々しさの様なものが前面に出ていた。

全体としては喜劇であり、下ネタ満載、サブカルチャーのオンパレードといった作りで、いろんなアーティストの恋歌に乗ってストーリーがポップに展開される。
最初に「20代の恋は幻想である。30代の恋は浮気である」というゲーテの言葉が藤本の独白で紹介され、続いて三島由紀夫の「愛することに関しては女はプロで男は素人である」が語られ、「愛というのはどんどん自分を磨いてゆくんだ」と尾崎豊の言葉を独白する。
この森山未來の独白はその後も続くが、それが何とも言えず面白い。
今どきの歌に全くと言っていいぐらい暗い僕だが、挿入される歌に可笑しさをこらえることが出来なかった。
大江千里の「格好悪いふられ方」を流したカラオケビデオ風映像にくすぐられ、パフュームの曲をフィーチャーしたダンスシーンに拍手した。
アイドルグループ”ももクロ”の「走れ!」が流れたかと思いきや、麻生久美子による竹内まりやの「カムフラージュ」も聞けるから、それだけでも楽しくなってしまう作品である。

突如モテ始めたことに対する戸惑いと、流れに身を任せて二股をかけてしまう男の性(さが)。
藤本だけでなく、みゆきだって二股状態だし、みゆきの男だって二股状態で、どうしようもない状況を打破できないでいる。
一途に走ったるみ子だけがボロボロになっていくが、「牛丼おかわり!」の叫び声がスッキリさせる。
本当なら、そんなこんなで浮ついている間にモテ期が終わってしまうと言うのが喜劇的展開だと思うのだが、途中で雰囲気が変わってしまい純愛路線へと転換される。
純愛物はあまり好きでない僕としては、ラストもコメディタッチにしてほしかったという気持ちはある。
でも最初から最後までノリノリになる映画ではあったし、エンドクレジットも作品の雰囲気を締めくくるもので好感が持てた。

もうひとりの息子

2020-05-21 07:20:51 | 映画
「も」に入りますが、いまのところ6本ぐらいしか思い当たりません。

「もうひとりの息子」 2012年 フランス


監督 ロレーヌ・レヴィ
出演 エマニュエル・ドゥヴォス
   パスカル・エルベ
   ジュール・シトリュク
   アリーン・オマリ
   ハリファ・ナトゥール
   マハディ・ザハビ
   マフムード・シャラビ

ストーリー
テルアビブに暮らすフランス系イスラエル人の父アロンと母オリットの18歳になる息子ヨセフ。
ある日、兵役検査で両親の実の子ではないことが判明する。
18年前、湾岸戦争の混乱の中、病院で別の赤ん坊と取り違えられていたのだ。
しかも相手は高い壁の向こうに暮らすパレスチナ人夫婦の息子ヤシンだった。
最初は事実を受け止めきれず激しく動揺する二人の息子たち、そして二人の父が葛藤するなか、二人の母は……。


寸評
描かれるのは子供の取り違え事件。
となれば、真っ先に同時期公開の日本映画『そして父になる』が思い浮かぶが、こちらもなかなかの秀作である。
『そして父になる』と同様に子供の取り違え事件というだけで重たいテーマなのだが、こちらは今なお根深い対立が続くイスラエルとパレスチナの問題を背景としているのでさらに複雑だ。
それぞれの母親は自分がお腹を痛めた子が実はこの子かと情愛を見せ、状況の打開に苦悶する。
父親たちは民族の対立を抜け出せず言葉を交わすこともできない。
取り違えの当事者の息子たちは、苦しみながらも交流を深めて前に進んでいくのが印象的だが、それはあたかも対立の解決は現在の世代では無理で、次の世代に託さざるを得ないと言っているようでもあった。
もしも彼等がそれぞれの指導者となって和解を果たすようにでもなれば、少しは光明が見えるようになるのではないかと想像を働かせてしまった。
ラストシーンはそんな光明を示しているようでもあった。
それにしても根深い。
生まれながらにしてユダヤ人であり、パレスチナ人であることの宿命。
パレスチナ人=テロリストという暗黙の理解。
民族闘争、宗教闘争から遠い日本人には想像を超えた世界だ。
映画はその対立を描いているわけではない。
あくまでも「家族とは一体何なのか?」ということを問いかけ、被写体とは一定の距離を保ちながら、イスラエルとパレスチナ(ユダヤとアラブ)のどちらの立場に立つこともなく対立問題を抑制的に描いている。
時間の経過と共に見せるそれぞれの表情や仕草の描き方が丁寧だ。
兄弟や父親たちも徐々に徐々に変わっていく変化がテーマを思わせる。
ヨセフはミュージシャンを目指している。
ヤシンの兄は時々笛を吹いている。
実の父親の血を引いていると言う。
ヨセフがヤシン一家を訪問した時、突如歌いだして父親のサイードが弦楽器でそれに呼応する。
血がわだかまりを薄めていく感動的な場面だった。
それにしても、自らのアイデンティティを一瞬の内に奪い取られてしまうなんて、やっぱり残酷だなあ・・・。
『そして父になる』でもそうだったが、こんな問題になると母親は強い。

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

2020-05-20 09:03:38 | 映画
「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」 2005年 アメリカ / フランス


監督 トミー・リー・ジョーンズ
出演 トミー・リー・ジョーンズ
   バリー・ペッパー
   ドワイト・ヨーカム
   ジャニュアリー・ジョーンズ
   メリッサ・レオ
   フリオ・セサール・セディージョ

ストーリー
米テキサス州。メキシコ人カウボーイのメルキアデス・エストラーダ(フリオ・セサール・セディージョ)は、ある日突然、山間にある放牧場で銃弾に倒れる。
彼の遺体を目にした同僚のカウボーイ、ピート・パーキンズ(トミー・リー・ジョーンズ)は、生前のメルキアデスと交わした、彼が死んだら故郷ヒメネスへ運んで埋める約束を思い出した。
まずピートは、この殺人事件を闇に葬ろうとする地元警察官に憤りを感じ、自ら必死になって犯人を捜す。
そして、赴任してきたばかりの国境警備隊員マイク・ノートン(バリー・ペッパー)がメルキアデスを誤って撃ち殺したことを突き止めた。
ピートはマイクを拉致し、メルキアデスの遺体をラバに担がせ、以前メルキアデスに見せられた故郷ヒメネスで家族と撮ったという写真と地図を頼りに、メキシコへと向かう。
マイクの誘拐を知った警察と国境警備隊に追われながら、長く苛酷な旅が続く。
その間にマイクの妻ルー・アン(ジャニュアリー・ジョーンズ)は、ひとりテキサスの町から去ってしまった。
そしてようやくピートは、写真に写っていたメルキアデスの妻であるはずの女性を見つけるが、彼女には別の夫がおり、メルキアデスのことを全然知らないという。
しかも地元の住人たちは、ヒメネスという村など存在しないと言うのだ。
困惑するピートだったが、とある場所をヒメネスだと思い込み、そこでメルキアデスの葬儀を行なう。
そしてマイクを釈放すると、ひとり馬に乗ってその場を離れるのだった。


寸評
国境を描いた作品に時たま出くわすが、それはベルリンの壁だったり、中東の紛争地域だったりしたのだが、アメリカとメキシコの国境にも大きな隔たりがある。
金網で仕切られた場所もあるようだが、多くはここで描かれた地続きの場所なのかもしれない。
目に見えない線で分けられているその地域は、一方は富める町で、一方は貧困にあえぐ村である。
メキシコからテキサスへ人々は富を求めて移動している。
作中でもあちらで働いていたと話す若い女性が登場し、この辺ではみな英語も話せると言う。
メルキアデスもそんな不法移民だった。
あまりの流入の多さに大統領候補だったトランプ氏は「メキシコ国境にメキシコ負担で万里の長城の様な壁を築く」と宣言したくらいだ。
テキサスからメキシコへと境界を越える目的のほとんどが逃亡だと思われる。
ピートも警察、警備隊に追われながらテキサスからメキシコへと入っていく。
逃亡の道連れは死体のメルキアデスと、そのメルキアデスを射殺してしまったマイクだ。
この異様な三人の組み合わせと、国境近辺の殺伐とした風景が作品を覆いつくしている。

若いマイクが赴任した場所はテキサスの片田舎の様で、娯楽も少なく離れた場所にあるショッピングセンターへ行くのが気晴らし程度の町だ。
マイクの妻はそこへ出かけるが、マイクは一緒に買い物に出かけない。
殺したメルキアデスのことが気になっているようでもあるが、ここでの生活で夫婦間に亀裂が生じかけている。
刺激のないこの町の所帯持ちの女たちは別の男と寝ることが楽しみの一つになっているようだ。
ほっておくとマイクの若い妻もやがてそうなってしまうのかもしれない危うさを持っている。
結局彼女はこの町を一人で去ってしまった。

一種のロードムービーとも見て取れるが、その場合の重点は旅の友とか、出会った人々との心の交流あるいはトラブルなどが描かれるのが常である。
出会った人で印象に残るのが盲目の老人である。
老人は貧しいながらもピート達を優しく迎え入れるが、別れ際の頼み事として「殺してくれ」と申し出る。
敬虔なキリスト教徒である彼は自殺は神に背く行為なので、殺してくれと切望したのだが、ピートは自分も神に背きたくないとそれを断る。
命の大切さをやんわりと描き、老人は追ってきた警備隊に逃亡者など見ていないと告げるが、その見えない目はピートらの旅の無事を祈っていたように思えた。

妻にさえ最低だと思われたマイクも最後には何かに目覚めたようで、去っていくピートに「一人で大丈夫か」と声をかけることでそのように思わせるが、無事帰っても妻はもういないのである。
ピートは旅を通じて家庭を持ちたいと思ったのだが相手は拒絶した。
ピートは孤独な日々をどこで送るのだろうかと思うと、男の約束を果たしたピートの後姿が思わず泣ける。
トミー・リー・ジョーンズの初監督作品だが、老獪な演出が見て取れた力作であった。

メリー・ポピンズ

2020-05-19 08:37:54 | 映画
「メリー・ポピンズ」 1964 アメリカ


監督 ロバート・スティーヴンソン
出演 ジュリー・アンドリュース
   ディック・ヴァン・ダイク
   デイヴィッド・トムリンソン
   グリニス・ジョンズ
   エド・ウィン
   ハーミオン・バッデリー

ストーリー
ロンドンでも美しい桜通りに住むバンクス氏(デイヴィッド・トムリンソン)は銀行家で気むづかし屋。
奥さん(グリンス・ジョーンズ)も婦人参政権運動に夢中で子供は放りっぱなし。
乳母任せの子供たちは腕白ざかりで一向に乳母が居つかない。
ある日、子供たちは自分の夢にぴったりの、優しくて、美しい、親切で若い乳母という条件を書いて父親に見せたが、父は紙片をストーブに放りこんでしまい、それは煙突から空高く飛んでいった。
翌朝、パラソルを開いた若い女性がフワフワ空からやってきた。
彼女はメリー・ポピンズ(ジュリー・アンドリュース)という魔法使いで、子供達の書いた紙片を持っていた。
彼女が指を鳴らすと魔法のように散らかったものが片づき、彼女は不思議な鞄からは何でも出すのだ。
散歩のときなど大道芸人バート(ディック・V・ダイク)の描く絵の中にさえ入って行け、遊ぶことさえできる。
彼女がやって来てからは家中が朗らかになり、歌まで歌いだしたのがバンクス氏は不思議でたまらない。
子供の躾に厳格なバンクス氏は子供たちに倹約を教えようと預金させようとした。
銀行の老頭取が無理に預金をさせようとしたので、子供は思わず「私のお金を返して!」と大声をだした。
それを聞いた預金者たちは銀行が危ないのではないかと勘違い、あわてて払いもどしに殺到し大混乱。
逃げだした子供は途中で煙突掃除夫姿のバートに出会った。
煙突だらけの屋上に上ると、煙突の中からメリー・ポピンズが現れ、あちこちから煙突掃除夫が飛んできて、皆で踊りつづけた。
その夜、バンクス氏は銀行から呼び出しをうけて重役から取り付け騒ぎを起こしたと叱りとばされたが、メリー・ポピンズのことが目に浮び、まったく気にならない。
翌朝、陽気になったバンクス氏は一家揃ってタコあげにでかけた。


寸評
ジュリー・アンドリュースは映画デビューする前にすでにブロードウェイで名声を得ていたのだが、映画デビュー作となったこの「メリー・ポピンズ」でいきなりアカデミー賞の主演女優賞を獲得した。
日本では同じミュージカルの「サウンド・オブ・ミュージック」が先に封切られ大ヒットしていたので、当時の僕の印象はそれにあやかって「メリー・ポピンズ」が封切られたというものだった。
「メリー・ポピンズ」はデズニ―映画らしく、実写とアニメと融合させた子供たちも楽しめる内容となっている。
バートが描いた絵の中に入ってアニメの動物たちと遊園地で遊んだりメリーゴーランドから飛び出て競馬をやったする楽しい場面がある。
アニメとの融合を見せたかったのか、このシーンにかなりの時間を割いている。
主人公が魔法使いのこともあってファンタジー映画なのだが、僕はミュージカルとしては断然「サウンド・オブ・ミュージック」の方が好みだ。

ミュージカル映画としてメインタイトルを入れて17曲が披露される。
最もポピュラーなのは「チム・チム・チェリー」で、一度は聞いたたことがある名曲だ。
前任の乳母を初め、出演者がこぞって歌って踊ってを繰り返すが、主演のジュリー・アンドリュースとディック・ヴァン・ダイクがいたるところで歌声を響かせるのは当然で、ミュージカル・ファンは楽しめる。
ただ僕はディック・ヴァン・ダイクのオバー過ぎると感じる演技に抵抗があった。
乗り切れなかったのは、この映画の描いたファンタジー性が僕の感性とマッチしなかったからだろう。
メリー・ポピンズの叔父さんは笑うと空中に浮かび上がってしまうという場面がある。
面白いギャグを言っては笑い、一向に下に降りてこられない。
メリー・ポピンズが帰ると言うと、悲しくなって降りてくるという微笑ましい場面なのだが、僕はジョークに反応できなかったし、何か乗り切れないものを感じてしまった。

厳しい父親がいて子供たちを躾ている親子の関係は「サウンド・オブ・ミュージック」と同様である。
僕はどうしても先に公開された「サウンド・オブ・ミュージック」と比較をしてしまう。
父親は銀行の役員で、厳格なうえに帰宅時間もいつも同じというお堅い人物である。
メリー・ポピンズと父親の対立は常にあるわけではなく、父親からクレームを受けた時にはいつもメリー・ポピンズが父親を煙に巻いてしまう。
あくまでもメリー・ポピンズと子供たちの交流をメインに描き続けている。
このあたりはまさにデズニ―映画と言う感じがする。
子供たちはメリー・ポピンズになついていて、彼女が大好きなのだが最後には父親と凧揚げに出かけて行く。
これは大好きなメリー・ポピンズよりも、子供たちはやはり父親が、家族が一番なのだと語っているのだろう。

デズニ―は誰でもが楽しめる分かりやすい作品を作り続けているので、いわゆる性格俳優と呼ばれるような俳優を必要としていない。
そのことがデズニ―映画からアカデミーの主演女優賞が出ない理由の様に思うのだが、本作で主演女優賞に輝いたジュリー・アンドリュースは特異な例で、もしかすると唯一となるかもしれない。

めまい

2020-05-18 13:47:40 | 映画
「めまい」 1958年 アメリカ


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ジェームズ・スチュアート
   キム・ノヴァク
   バーバラ・ベル・ゲデス
   トム・ヘルモア
   ヘンリー・ジョーンズ

ストーリー
元刑事のジョン・ファーガスン(ジェームズ・スチュアート)は、屋上で犯人追跡中に同僚を墜死させたことから、高所恐怖症にかかって今は退職していた。
そんなある日、昔の学校友達ゲビン・エルスター(トム・ヘルモア)から電話があって、美しい妻のマドレイヌ(キム・ノヴァク)が時々、昔狂って自殺した曽祖母のことを口走っては、夢遊病者のように不可解な行動に出るのでその妻の尾行をしてほしいと依頼された。
翌日からジョンの尾行がはじまったが、ある日彼女は海に身を投げた。
ジョンは彼女を救って自宅につれかえり介抱したのだが、今はもう彼女を愛している自分を知ることになる。
何事かを恐れるマドレイヌの心理を解きほぐすために、ジョンは彼女を、よく夢に見るというサンフランシスコ南部のスペイン領時代の古い教会にともなった。
しかし、突然彼に愛をうちあけながら彼女は、教会の高塔にかけ上り、めまいを起したジョンが階段にたちつくすうちに、身を投げて死んだ。
そのショックから、ジョンはサナトリウムに療養する身となった。
まだ自分をとりもどすことの出来ぬ彼は、街をさまよっているうちに、ふとジュデイ(キム・ノヴァク)というショップ・ガールに会った。
身なりや化粧が俗だったとはいえ彼女の面ざしはマドレイヌに似ていた。
ジョンはいつか彼女の面倒をみてやる身となり、マドレイヌに似た化粧や身なりを教えた。
しかし彼女はそれをいやがった。
何故なら彼女こそは・・・・。


寸評
「めまい」とは上手くつけたタイトルだ。
前半はキム・ノヴァクの謎めいた行動が描かれ、何かにとりつかれているのではないかという雰囲気が漂う。
墓地に行ったり美術館に行ったりするが、一体何が彼女に起こっているのかは不明のままである。
ジェームズ・スチュアートが昔の学校友達の依頼で彼女を尾行しているのだが、どうやら曽祖母に関係ある場所を巡っていることだけは判明してくる。
町一番の物知りの書店の店主から過去のいきさつを聞かされ、過去の不幸な出来事が彼女に影響しているらしいことが匂ってくる。
ずっと謎を明かさずにキム・ノヴァクの行動だけを追い続けることで、ミステリーとしての興味は高まっていく。

さあ、どうなるとなったところでキム・ノヴァクがサンフランシスコ湾に投身自殺を図る。
尾行していたジェームズ・スチュアートが海に飛び込んで彼女を救い、そのことで今度はジェームズ・スチュアートとキム・ノヴァクの間のホンワカムードが加味されてくる。
それでも謎は残ったままなので、二人の間がどうなるのかという興味がまた一つ増えたといった感じになってくる描き方が観客の興味を尽きさせなくていい。

ジェームズ・スチュアートは2度目の転落事故死を目撃して鬱になってしまう。
かつては婚約していたこともある商業画家の女友達ミッジが献身的に看病するが、医者からは治るのに最低6ヶ月はかかると言われる。
このミッジのバーバラ・ベル・ゲデスがいじらしいのだが、彼女がジェームズ・スチュアートの癒し系になっているだけで、突如消えてしまうのは何とかすべきだったのではないか。
ジェームズ・スチュアートのファーガスンがマドレイヌの投身自殺現場から立ち去ってしまうのは無理がある。
その後の裁判シーンで精神が錯乱して一時的な記憶喪失になっていたことが語られるが、一般人ならともかくも彼は元刑事である。
それを考えると現場に駆け付けるとか、警察に連絡するとかをしそうなものだが、彼は上記の理由で何もせず立ち去ってしまっているのである。
死体を見れば判明したことが行われなかったのだから、そうなると犯人は彼のとる行動を予見していたことになる。
これはちょっと出来過ぎだ。

あらを探せばきりがないが、ストーリー展開と言い、サスペンスの盛り上げ方と言い、ヒッチコックの作品の中でも上位にランクされる作品に仕上がっていると思う。
キム・ノヴァクの登場シーンでは緑のドレスを着ているが、どうしたわけか僕はこの衣装が作品イメージとして残っていて、「めまい」を思い浮かべる時にはこの衣装が浮かんでくる。
キム・ノヴァクの再登場シーン(ジュディとしての登場)でも緑のセーターを着ている。
緑に何か意味があったとは思えないが、なぜか気になる緑の衣装だった。
キム・ノヴァクの金髪も目に焼き付いたし、「めまい」は彼女の代表作の一つになっていることは間違いない。
彼女が二役をやっていることもあって、この作品はキム・ノヴァクの映画だった。

メゾン・ド・ヒミコ

2020-05-17 13:46:40 | 映画
「メゾン・ド・ヒミコ」 2005年 日本


監督 犬童一心
出演 オダギリ ジョー 柴咲コウ
   西島秀俊 歌澤寅右衛門
   青山吉良 柳澤愼一 井上博一
   森山潤久 洋ちゃん 田中泯

ストーリー
塗装会社の事務員として働く吉田沙織(柴咲コウ)、24歳。
ある事情で借金を抱え、夜はコンビニでバイトをしているが、いっそ風俗で働こうかと思い悩んでいる。
ある雨の日、沙織のもとに若く美しい岸本春彦(オダギリ ジョー)が訪ねてくる。
彼は、幼い沙織と母を捨てて出て行った父親の恋人だった。
沙織の父・吉田照雄は妻子の元を離れた後、ゲイバー「卑弥呼」の二代目を継いだが、今は神奈川県大浦海岸の近くにゲイのための老人ホームを創設。
春彦は、その父が癌で余命いくばくもないと告げ、ホームを手伝わないかと沙織を誘う。
父を嫌い、その存在を否定して生きてきた沙織だったが、破格の日給と遺産をちらつかされてその申し出を承諾する。
西欧のリゾート風プチ・ホテルを改装したホーム“メゾン・ド・ヒミコ”には、個性的な住人ばかりがいた。
生まれ変わったらバレリーナと相撲部屋の女将になることを夢見る陽気なニューハーフ・ルビイ(歌澤寅右衛門)、洋裁が上手く女性的で心優しい山崎(青山吉良)、元・小学校の教員で今は将棋が趣味の政木(柳澤愼一)、ホームのパトロンの元・部下で、家庭菜園に精を出す木嶋(森山潤久)、ギターがうまく背中には鮮やかな刺青を入れている高尾(井上博一)、ゲイバー「卑弥呼」の元・従業員でTVドラマに夢中なキクエ(洋ちゃん)、春彦と一緒に老人たちの面倒をみているいつも元気なチャービー(村上大樹)。
みんな明るく沙織を迎え入れてくれるが、実の父・卑弥呼(田中泯)は娘との予期せぬ再会に戸惑う。
沙織はその場所すべてに嫌悪感を抱くが、彼らの底抜けに明るい日常とその裏側に隠された孤独や悩みを知るようになる。


寸評
ゲイであるために、より正直に生きている人たちの姿に心打たれるものがあった。
僕も以前、六本木のオカマバーに行ったことがあって、ゲイが演じる芸にも酔いしれたものだ。
そして以外にもと言えば失礼な表現なのだがその真摯な生き方に心打たれたことを思い起こす。
「田舎に帰る時が一番つらいわ。親には内緒なので、その時だけ男に帰るの。でもその時が一番苦痛なの・・・」と語ってくれたのを思い出した。
だから、ルビィさんが引き取られていったシーンは悲しかったな。
あの六本木の彼女(彼)も歳をとっただろうに、今頃どうしてるのかなと思い出させた。

春彦が沙織に心惹かれてコトに及ぼうとするが、女を相手にしたことがなく動作がぎこちない。
沙織が「触りたいところがわからないんでしょ」とつぶやいて、この二人に肉体関係が生じえないことを描いていたのだが、心が通じ合っているのにその先へ進めない悲しさの様なものを感じさせて切なかった。
柴崎コウのファンとしては、この沙織役には拍手物だった。
あのギョロ目が何ともいえなくて、山崎さんの部屋で繰り広げるコスチュームショーの彼女は可愛くて、まるでミュージカルのような楽しさがあった。
演奏される曲も尾崎紀世彦の「また逢う日まで」というのも的を得た選曲だったと思う。
何もあんなにずっと不機嫌な顔をしなくてもいいのにと思うが、彼女の可愛さは性格ブスを演じさせた時にきらめきを放つ。

ラストシーンのショットはうまいなあと感じさせた。
沙織を迎えるホームの人たちはキクエ以外はジーンズで、落書きはまだ写りこんでいない。
隣人のお婆さんを最初に訪ねて来たときと同様に登場させ、普通の幸せな老後を過ごしている人の象徴を感じさせながら、より気持ちの通じ合った幸せな世界を描き出していたと思う。そしてカメラがパンすると・・・といった一連の流れが、エンディングらしくて映画を見たなという気にさせてくれた。
何となくホッとする雰囲気で明日への希望が感じられ、人間は孤独だけど、けっして一人ぼっちじゃないと思わせてくれる。

オダギリジョーも柴崎コウもいいけれど、卑弥呼の田中泯はスゴイ!
彼の横たわったままの演技には引き込まれてしまう。
「私にも言わせてくれる。あんたのことが好きだよ・・・」は胸に迫ってくるものがあった。
世間離れしたホームの世界とは正反対の世界にいて、まったくの部外者で居続ける細川専務役の西島秀俊もいい。
女にだらしないくせに、それを表に出さない普通の男としての雰囲気を醸し出していた。
最後の落書きを見つめる表情は現実社会にいる自分を見直しているようでいい表情だった。
エリナ役の村石千春さんは脇役だが、いい味を出していて、これからが楽しみな人だと感じた。
役者さんではないとのことだが、キクエさんをやった洋ちゃんとか言う人、すごく存在感があって、セリフなんかは少ないのに画面を引き締めていた。