おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

PLAN 75

2024-02-29 07:44:28 | 映画
「PLAN 75」 2022 日本 / フランス / フィリピン / カタール


監督 早川千絵
出演 倍賞千恵子 磯村勇斗 ステファニー・アリアン
   たかお鷹 河合優実 大方斐紗子 串田和美
   矢野陽子 中山マリ

ストーリー
75歳以上が自ら生死を選択できる制度が国会で可決された近未来の日本。
夫と死別して一人で暮らしていたミチ(倍賞千恵子)は清掃員として働いていたが、会社の健康診断でふとプラン75のCMを目にした。
健康診断が終わり、ミチが何人かとカラオケに向かったところ、その中の一人がリゾートホテルのパンフレットを取り出した。
どうやら彼女はプラン75を利用するようで、利用者だけが貰える10万円で最後の贅沢をするのだと話した。
孫のためになら腹をくくれると聞いたミチと友人の稲子(大方斐紗子)は、複雑な気持ちになった。
いつものように働いていたミチと稲子だったが、突然稲子が倒れ病院へ運ばれた。
その後、ミチや他の高齢女性たちが、高齢を理由に解雇された。
職を失い、家まで立ち退きになったミチ、もちろん新しい仕事もなかなか見つからず住む家もなかった。
どうにか交通整理の仕事についたが、高齢のミチにはきつい仕事だった。
ある日ミチが稲子の家を訪ねると、稲子は家で亡くなっていた。
マリア(ステファニー・アリアン)は夫と娘を国に残し、仲間から紹介されプラン75の関連施設で働くことになった。
ヒロム(磯村勇斗)はプラン75の窓口で働いていた。
かねてよりプラン75のやり方に葛藤を覚えていたヒロムの前に、叔父がプラン75の申請にやってきた。
どうにかしたいヒロムだったが、規則により親族は担当から外されてしまう。
仕事もなかなか続かず住むところもないミチは、ついにプラン75の申請をすることに決めた。
プラン75の利用者だけが貰える10万円も、ミチには使い道がなく困っているところに、コールセンターの瑤子(河合優実)から電話があった。


寸評
「PLAN75」は架空の物語であるがテーマは重い。
その為にあえてドラマ性を排除してリアルな物語として描いているように思う。
ミチの同僚が仕事中にホテル内で倒れるが、倒れる音だけで映像はない。
観客は想像するだけである。
その後にミチたちの処遇が描かれることによって、我々観客は何が起きたのかを知ることになる。
PLAN75の関連施設で働くことになったマリアは遺品整理中に大金を発見するが、その大金をどうしたのかも描かれておらず、それも観客の想像に任せている。
娘の手術費のために盗ったのか、あるいは以前に時計の受領を断ったように届け出たのだろうか?
ヒロムの叔父さんはどうやら火葬時間に間に合わなかったようだが、ではその後どうしたのかも不明のままだ。
物語は架空だが、描かれているのはそんなこともあるだろうなというリアルな出来事である。
そこにドラマはなく、カメラは静かに回されて三人の物語がそれぞれに進んでいくのだが、そのトリミングが絶妙に思え、我々の想像を掻き立てる。
安楽死を認めている国はあるようだが、日本では認められていない。
映画は安楽死を否定も肯定もしていない。
むしろ現行制度である介護保険制度への疑問を感じさせる。
自分で自分のことが出来れば自立していることになるのか。
制度が自立を補助し、自立を目指しているものであるなら、ではそうできない人は一体どうしたらいいのか。
冒頭で青年が、老人が増えすぎたので若者にしわ寄せがきていると述べ、老人を殺して自分も自殺している。
冒頭のショッキングなシーンなのでその主張は耳に残るし、実際に日本ではそのような傾向が顕著だ。
大災害が起きたりパンデミックで社会が止まると、所得の影響を受けるのはフリーターに代表されるような若者たちで、年金生活者の我々老人は何があろうともいつもと変わらぬ年金額を受け取っているのだ。

コールセンタースタッフの新人に“PLAN75に応募した人が考えを変えることがあるが、そうならないように励まさないといけない”とさりげなく語られている。
死を覚悟した人はさっさと亡くなってくれという国家のホンネが見え隠れする。
生きるか、逝くか、僕にも決断を迫られる時が来るかもしれない。
しかし僕はミチさんの選択はとらないと思う。
「おらおらでひとりいぐも」の桃子さんのように一人になっても、“今が一番充実している”という晩年を目指しているのだが、それでもこの映画には切ないものを感じてしまう。
ミチは生きることを選択するが、だからと言ってラストシーンに希望を見出すことは出来ない。
ミチの明日からの状況は変わりなく、彼女は生活苦に直面しながら一人で生きていくことになるのだ。
目前に迫っている老人社会の問題、介護の人材を外国人に頼らねばならなくなってきている現状。
それらに警告を発しながら映画は静かに終わる。
僕が見た時の映画館は高齢者の観客がほとんどであった。
皆さん自分の行く末を案じておられるのだろうか。
僕もその中の一人なのだ。


無頼 殺(バラ)せ

2024-02-28 06:58:38 | 映画
「無頼 殺(バラ)せ」 1969年 日本


監督 小沢啓一
出演 渡哲也 松原智恵子 江原真二郎 野添ひとみ
   和田浩治 水島道太郎 今井健二 須賀不二男
   郷えい治 近藤宏 高樹蓉子 武藤章生 睦五郎

ストーリー
松永組長(水島道太郎)率いる入江崎一家は川崎の歓楽街を仕切っていた。
そこを狙う東友会の剣持会長(須賀不二男)は鉄砲玉たちを送り込み、小料理屋で食事中の松永を狙った。
修羅場をくぐってきた松永は全員を返り討ちにしたが、実はこれも剣持にとっては想定内だった。
目撃者が大勢いるために松永は罪を免れることはできなかった。
剣持は彼の服役中にそのシマをゆっくり我が物にしようという腹だったのだ。
案の定実刑判決が出ると、早速子分たちに川崎支部の看板を上げさせ、あちこちで入江崎一家の男たちに嫌がらせを始めた。
そんな中、藤川五郎(渡哲也)が川崎に現れた。
五郎は極道の世界では「人斬り五郎」という名前で知られた風来坊のヤクザだった。
五郎はデパートで買物中にエレベーターガールに絡んでいた東友会の男たちを叩きのめした後、やはり東友会から襲われた入江崎一家の組員を助けた。
入江崎一家の事務所にはムショで義兄弟の契りを結んだ守山(江原真二郎)が、代貸しとして組長の代わりを務めていた。
宿無しの五郎は守山の好意に甘えてその家に厄介になったが、守山の義妹は偶然昼間助けたエレベーターガール、浅野弓子(松原智恵子)だった。
やがて剣持が子分とともに川崎のトルコ風呂を訪れた際、事件が起こった。
かねてから男を上げたいと思っていた入江崎一家の宇野(和田浩治)が剣持を刺殺しようとして失敗。
五郎が助けようとしたものの、結局殺されてしまった。
親分を狙われた東友会が黙っているはずはなく、守山は子分たちの声に応え、自分たちから殴り込みをかけることにした。


寸評
渡哲也のアップ・スチールで始まるが、正にこのシリーズは日活最後のスター渡哲也だけのものだと言っているようで、ヒロインである松原智恵子の影はシリーズを追うごとに徐々に薄くなっている。
6作目となる本作では彼女の影が一番薄いのではないか。
ラブロマンスの要素はほとんどと言っていいぐらい消え失せている。
その分、江原真二郎と野添ひとみの夫婦と、和田浩治の若いチンピラを取り巻くエピソードが描かれている。
五郎が言うように野添ひとみは組を背負う代貸しの妻と言う感じではない。
しかしヤクザの女房と言う立場は理解していて、子供を身ごもってもその事を夫に告げることが出来ない。
なぜなら夫も自分がいつ殺されるか分からない立場であることを認識しているからで、母子家庭になってしまうことを恐れているのだ。
たぶん江原真二郎の守山も小市民的な生活を望んでいたのだろうが、松永組長が収監されてしまっているので立場上逃げ出すようなことは出来ないのだと思う。
私も社会人時代に勤めていた会社の実状、それも決して良くない状況を立場上知り得ていたのだが、責任を放棄し仲間を見捨てるような行為は取れるものではなかった。
立場に応じたものではあるが、責任を果たすと言うことは重いものなのだ。

毎回登場する下っ端の組員だが、今回は和田浩治が務めている。
彼は腕っぷしが強いわけでもなく、自分の命を惜しむ弱い男だ。
兄貴分が襲われた時も一緒に戦うのではなく、仲間を呼ぶために逃げ出してしまっている。
理由をつけて嫌な役目から逃げ出してしまうのは、彼らの社会だけにあるものではない。
自然に備わった人間の自己防衛本能なのかもしれない。
五郎が彼をかばった証言をしたものだから、他の組員の間に彼の虚像が出来上がっていく。
彼がその事に関して引け目を感じているのは当然であろう。
どこかで虚像を埋めることをしなければならないというプレッシャーを感じて押しつぶされていく。
それは東友会の駆け出し幹部とも言える郷鍈治にも言える。
彼は会長や大幹部の沖津の言いなりに動くしかない。
ある時、会長から自分たちは特攻隊に過ぎないことを聞かされる。
下っ端のヤクザは使い捨てで死んでいくしかないのだと悟るが、しかしもう引き返すことが出来ず、彼も破滅の道へ突き進んでいく。
郷鍈治は日活がダメになったこともあって、1980年代前半にひっそりと引退したのだが、歌手・女優のちあきなおみさんとの夫婦生活は幸せに満ちたものだったようで、55歳の若さで他界したのは残念だった。
最後の乱闘シーンはいつもながらシャープである。
若者たちがダンスに興じているクラブの下で五郎と東友会が大立ち回りを演じるのだが、その間に乱闘の物音や叫び声は一切聴こえなくて、クラブで歌われている「君恋し」の歌声が流れ続けている。
乱闘シーンに時折その歌手が歌う様子が挿入されるのだが、この演出は目新しい。
一番の盛り上がりとなる殴り込みの場面なのに無音なのである。
マンネリ化していたシリーズであったが、ラストの場面だけは毎回工夫が見られて楽しめるものとなっている。

無頼 黒匕首(くろドス)

2024-02-27 07:00:54 | 映画
「無頼 黒匕首(くろドス)」 1968年 日本


監督 小沢啓一
出演 渡哲也 松原智恵子 川地民夫 北林早苗 葉山良二
   田中邦衛 中谷一郎 露口茂 高品格 青木義朗
   深江章喜 郷えい治 藤江リカ 菅井一郎

ストーリー
藤川五郎(渡哲也)は、義理だてのために、暴力組織の抗争に巻込まれ、恋人の由利(松原智恵子)を犠牲にしてしまった。
それから数日、先輩三浦(中谷一郎)を訪ねた五郎は、彼の会社で働くことになった。
五郎は、砂利現場で清々しい汗を流したが、立川にも暴力団武相会の手が伸び、三浦建材はしばしば脅されていた。
ある日五郎は、現場で人命救助をしたが、自らも負傷してしまった。
そんな五郎を、三浦の妹志津子(松原智恵子)は手厚く看護するのだった。
その志津子もまた武相会の志下末雄(川地民夫)につきまとわれていた。
やがて、志津子は五郎に恋心を寄せるようになった。
だが、五郎は志津子の身を案じ冷たくあしらうのだった。
ある日、五郎はかつて自分を愛していた女小枝子(北林早苗)に会った。
小枝子は、ヤクザの竹宮(露口茂)と結婚していたが、二人は武相会の執拗ないやがらせを受けていた。
竹宮が武相会の安本(青木義朗)にリンチを受けると、五郎は安本を刺し、竹宮も怒り狂い単身で武相会に殴り込んだ。
その頃武相会は、三浦を強迫し、五郎をおびきださせた。
五郎は、三浦を憎んだが、彼の苦悩を知って許すのだった。
やがて、五郎は武相会の罠から逃れたが、三浦はメッタ斬りにされてしまった。
無惨な三浦の姿を見ては、対決をとめる志津子の声も届かなかった。
由利と三浦の復讐をこめた五郎の黒匕首が武相会の志下らを葬ったのはそれから間もなくのことだった。


寸評
日活マークの後で主題歌とともに、敵と斬り合う五郎の姿を効果的なストップモーションで描いていく。
5作目ともなると主人公である藤川五郎という男のキャラクターは織り込み済みということだろう。
そして五郎は「やくざの身の行く末は、みんなこんなもんだ。ツラもろくに知らねえもん同志が、まるで獣みたいになって殺し合って、俺もその一人だ」とつぶやく。
そしてさらに「別に悔いもねえ、ただ一つ気がかりなのは、もとの堅気の暮らしに戻してやりてえばかりに、叱りつけるようにして旅立たした女のことだ。今頃は、真っ暗闇を突っ走る汽車の中で、遠くに行っててくれりゃいいが・・・」と続きタイトルが出るのだが、これまでのシリーズのエッセンスを凝縮したオープニングとなっている。

本編が始まった冒頭で渡哲也と川地民夫が争っている所へ松原智恵子が現れる。
今迄のヒロインそのものの姿である。
止めに入った松原智恵子を川地民夫が刺し殺してしまう。
今回の物語は、この喪失から始まり、それが「無頼」の世界の情感を高めてくれる筈なのだ。
冒頭で描かれるシーンの7分間は、今までにない描かれ方で濃密なのだが、それが生かされたとは言い難い。

あれ?なんでこんなに早くヒロインが死んでしまうのかと思っていたら、再び松原智恵子が別人で登場し、なんだそういうことかと納得させられる。
例によって松原智恵子は渡哲也に好意を寄せ、渡哲也も好意を持ちながらヤクザの世界に引き込むことを恐れて冷たく接する。
殺してしまった松原智恵子の残像に支配されている川地民夫の存在が面白いと思うのだが、この設定が上手く生かされているとは言い難いのだ。
それは渡哲也と松原智恵子の関係描写が希薄なことに原因がある。
むしろ北林早苗の小枝子のほうが重く描かれている。
小枝子は五郎とかつて愛し合った仲で、五郎が服役中に作った草履のマスコットを大事に持っているのだが、いまは武相会の標的となっている嶋岡組のヤクザ・竹宮と結婚していると言う関係だ。
露口茂の竹宮は五郎に嫉妬しながらも心を寄せる気持ちもある。
この複雑な関係と同じように、渡、川地、松原の関係も複雑なものだ。
志津子が由利とそっくりということで複雑な関係を引き起こしているのに、その間の渡と松原両者の心の動きが読み取れないのだ。
松原と渡は、はっきり好きあってはいるが、どうもそれが話の芯になっていないのは残念である。
渡哲也が由利の写真を見せて発するセリフが僕をシラケさせてしまう。
その気持ちと、その気持ちを知りながらも、なおも五郎を愛する志津子という情感が乏しかったような気がする。
一方で無頼シリーズの殺陣はキレがある。
渡のドスが死体から抜けなくなって立ち回りをするシーンなどはなかなか見応えがあるのだ。
ラストの殺陣も、迷路のような細かい路地を走りまわり斬り合うというものでスピード感がある。
武相会の安本が嶋岡組の若い組員に指一本10万円のカード賭博を持ちかけるとか、竹宮の指を一本一本折っていくとかのサディスチックなシーンが興味を引くが、もしかするとサド的趣味が小沢啓一にあるのかもしれない。

無頼 人斬り五郎

2024-02-26 07:01:45 | 映画
「無頼 人斬り五郎」 1968年


監督 小沢啓一
出演 渡哲也 松原智恵子 小林千登勢 小池朝雄
   岡崎二朗 深江章喜 高宮敬二 殿岡ハツ江
   藤竜也 杉江広太郎 谷村昌彦 南原宏治

ストーリー
藤川五郎(渡哲也)と弟分の林田(藤竜也)は、名振会との出入りがもとで刑務所へ入ったが、林田は姉しのぶ(小林千登勢)のことを頼むと死んでしまった。
五郎は仮出所の許可がおりると、林田の故郷を訪れ、しのぶの勤務先を探した。
だが、尋ねあてた劇場は、三年も前にストリップ小屋になっており、彼女の姿はなかった。
五郎は「ホテル三河」のボイラーマンとして住込み、しのぶ探しを始めた。
そんな矢先、五郎はホテルで、バスで一緒になったことのある由紀(松原智恵子)に出会った。
由起の父は八年前に死んだが、それは名振会が殺したものだった。
由起はある日、名振会の幹部白山(佐藤慶)から父が貸した金の返済という名目の金を受けとった。
この一件以来由紀は、名振会のいやがらせを受ける羽目になってしまった。
由紀をかばった五郎もまた元やくざの素姓が知れ、ホテルをクビになってしまった。
街におりた五郎は、由起が今度は名振会の黒松(深江章喜)から、いやがらせを受けているのに出くわし乱闘になったが、その仲裁をしたのは白山だった。
白山からしのぶが赤線にいることを聞いた五郎は、落ちぶれた彼女の力になろうと心に誓った。
一方、名振会では、五郎がストリップ小屋主海藤(小池朝雄)の所にいると聞きこみ、由起を囮に使っておびきだそうと計画した。
会長の牧野(南原宏治)は、その役目に石丸(岡崎二朗)をたてたが、五郎は石丸をさとし逃がすのだった。
だがこの一件から、石丸の恋人苗子(秋とも子)が名振会の連中にレイプされ、怒った石丸は黒松を刺した。
石丸と苗子の死体が見つかったのは、その翌日だった。
それから間もなく、五郎は牧野にそそのかされた海藤に襲われたが、五郎は海藤の急所をわざと外した。
傷ついた海藤はしのぶの手当を受けたが、裏切り者として牧野一味に殺されてしまった。
渡世の義理で白山は五郎の殺害に向かった。


寸評
ヤクザ世界の義理に縛られている者のあわれさと、ヤクザ世界自体の汚さを描き、そしてそこから脱出したいと思う渡哲也、その渡を救いだそうと思いをよせる松原智恵子という構図で成り立っているシリーズである。
藤川五郎は人斬り五郎と呼ばれて、ヤクザの世界では名の知れた男なのだが、人として優しい一面も持っている男なのだと言うことを冒頭のバスの中のエピソードで見せている。
藤川五郎という男のキャラクターイメージとヒロインの役割がこの作品あたりで確立されたと思うし、「大都会」「西部警察」というテレビドラマで人気を博した渡哲也の俳優としてのイメージもこのあたりで出来上がったのではないかと思う。

東映が得意だった着流しのヤクザ映画ではなく、若者中心のアクションヤクザ映画でもある。
小林千登勢が赤線にいるというくだりは、1作目の松尾嘉代や2作目の芦川いづみとダブる設定だ。
白山の佐藤慶が得な役柄である。
彼はやくざの幹部なのだが、死なせた男の娘である松原智恵子に金を送る、いわゆる「あしながおじさん」という存在で、これは時々見かける設定である。
正体を隠していた白山がその相手である松原智恵子を見たときの演技、また渡哲也と話すなかで暗示的に逃げる道を教える場面、そして最後の死んでいくまでの一連の演技など、佐藤慶のイメージとは違ういい人を演じているのだが、この予想を裏切るキャスティングは前作の内田良平と同じだ。
もっとも、この白山のキャラクターはよくわからない。
白山がどういう人間なのかがさっぱり分からないのだ。
松原智恵子の父親を殺すことになった経緯もわずかに触れられるだけで、彼が松原智恵子に抱く贖罪の気持ちの根底にあるものが不明なので、「あしながおじさん」としての苦悩が伝わってこないのだ。
そして、それに輪をかけるように会長である南原宏治との関係もよく分からない。
重要な登場人物なのだが、その背景が不明確なので魅力が半減されているように感じる。

前会長の大滝秀治を殺されたことで現会長の南原宏治が渡哲也の命を狙っている。
だとすれば渡哲也が松原智恵子の身代わりとなって名振会の組員たちにリンチを受け、両方の手のひらにアイスピックを突き刺されるだけで終わるのはおかしいのではないか。
なぜ殺そうとしないで痛めつけるだけだったのかとの疑問が残る。
全体に大雑把な作りなのだが、この頃の日活映画の雰囲気だけは醸し出している。
藤川五郎に関わった人物が必ず命を落とすというのも毎回の構図で、本作でも冒頭の藤竜也、最後の佐藤慶、岡崎二朗と秋とも子のカップル、小池朝雄と彼が心を寄せている小林千登勢などで、生きているのはヒロインの松原智恵子だけというのがお決まりとなっている。
ラストで、宿敵の南原宏治を死闘の上で殺害し、倒れている渡哲也が落ちていたサングラスに映る松原智恵子を見る。
このスタイリッシュなラストも忘れられない一作である。
監督が小沢啓一で助監督は澤田幸弘である。
彼らがもう少し早く登場していれば日活の歴史も変わっていたのかもしれない。

無頼非情

2024-02-25 09:24:11 | 映画
「無頼非情」 1968年 日本


監督 江崎実生
出演 渡哲也 松原智恵子 和田浩治 名和宏
   玉川伊佐男 葉山良二 渡辺文雄 高品格
   郷えい治 藤江リカ 内田朝雄 内田良平 扇千景

ストーリー
藤川五郎(渡哲也)は、三木本(富田仲次郎)への義理から沢田(葉山良二)を狙っていた。
その沢田は三木本の子分新関(名和宏)の短刀を脇腹に受け、五郎に妻亜紀(扇千景)のことを頼むと言い残し息をひきとった。
やがて、沢田組がつぶれたのは、三木本のイカサマ賭博のためと知った五郎は、賭場から三百万円をわしづかみにすると亜紀のところへ走った。
そして亜紀と子分久保(郷英治)を連れて熱海を出たが、列車が横浜に近づいた時、亜紀が突然倒れた。
五郎は亜紀を入院させると、波止場で働きはじめた。
五郎はそこで昔仲間の相良(内田良平)に会った。
一方、新関は五郎を追って横浜へ来ると、古賀(渡辺文雄)に援護を求めた。
そんな折、相良は彼の妻百合(藤江リカ)に五郎を紹介した。
百合はすでに五郎の境遇について知っており心を痛めた。
というのは彼女が古賀の妹だったからだ。
ある日、五郎は波止場の近くのしストランで、ヤクザからいやがらせを受けていた恵子(松原智恵子)を救った。
そんな折、沢田の弟健二(和田浩治)が、五郎を襲った。
五郎はその場を亜紀に救われたが、健二は五郎を兄の仇ときめつけ、古賀のところへ身を寄せた。
その頃、古賀と新関は亜紀を病院からおびき出す計画をたてていた。
亜紀を心配する健二は、姉には手をだすなと言い残し古賀組を去った。
そうとは知らない五郎は、亜紀を、見舞いに訪れて驚いた。
そこには亜紀のかわりに瀕死状態の久保と健二が横たわっていた。
五郎は亜紀の危険を感じ、すぐさま古賀のクラブに乗り込んだ。
相良と健二の加勢を得て、亜紀を取り戻したものの、亜紀は息をひきとってしまった。


寸評
監督が江崎実生に代わったこともあって、黄金期を誇った日活アクションと後年生まれた日活ニューアクションという二つのアクション映画の雰囲気を持った作品だ。
五郎は渡世の義理から沢田の殺害に向かうが、沢田の妻の亜紀が重い病気と知り逃がそうとしたところ、新関が飛び出してきて沢田を刺し殺す。
瀕死の沢田から「仁義を切って挨拶したのは、お前さんが初めてだ。気に入ったぜ、一つだけ頼みがある」と、病弱の妻を長野まで送って欲しいと依頼され、五郎はその約束を果たそうとする。
相手の未亡人を送り届けるために、拒絶されながらも旅を続けるのはまるで長谷川伸の「沓掛時次郎」だ。
長野までの道行となるところだが、ここでは列車で亜紀の容態が悪くなり、横浜の病院へ入院することとなる。
この亜紀を演じているのが後年政治家となり参議院議長も務めた扇千景大先生である。
タカラジェンヌの娘役出身だが、芝居は上手いとも言えず政治家となって良かったのではないか。
夫である四代目坂田藤十郎との間に、長男・四代目中村鴈治郎、次男・三代目中村扇雀を育てているから関西歌舞伎の名門を残すことにも貢献したと言える。

「無頼」のヒロインは常に松原智恵子である。
松原智恵子の父親はスナックを経営している頑固一徹の元やくざという高品格で、往年の日活アクションで彼が演じてきたのと同じキャラクターである。
松原智恵子は自立する強い女性ではなく、どちらかと言えば古風な女性である。
渡哲也から「お前が思っているような男じゃねえんだよ」と言われると、「知ってます。今、見送って出て行った人が、一時間後には、ずたずたに斬られて帰ってくることもある。やくざの女房は、今日、男が狙われやしないか、明日、殺されやしないかって、年中ハラハラしながら暮らしているんです」と答える覚悟を持った女性だ。
しかし松原智恵子の恵子が渡哲也の五郎に魅かれていくエピソードがほとんどなく、たった一度のキスという印象で、オヤジさんの心配をよそに徐々に深まっていくという雰囲気はない。
また藤江リカの歌手・百合が内田良平の妻で、古賀組組長・渡辺文雄の妹という立場から、渡哲也を助ける内田良平と渡哲也を狙う渡辺文雄の関係に苦悩することになるのだが、どうもこのナイトクラブの歌手でもある百合の描き方は淡白で苦悩が伝わってこない。
百合がクラブで歌うのが、淡谷のり子の「別れのブルース」やフランク永井の「夜霧に消えたチャコ」だったり、恵子がスナックで弾くピアノ曲が「月の砂漠」だったりするのは、往年の日活アクションを思い出させる。

ラストの立ち廻りはなかなかよくできている。
色とりどりのペンキをぶちまけ、そのペンキに足をとられながら転げまわり、ペンキ紛れになりながら渡辺文雄や内田朝雄を追い詰めていくのは悪を倒す善と言う構図の迫力を生み出していた。
傷つきながら内田良平に電話をし、そこに居る松原智恵子が「五郎さん行かないで!」と電話越しに懇願するのは、まるで「渡り鳥」シリーズの浅丘ルリ子のようである。
内田良平は悪が似合うのに、最後まで善側だったのは僕には予想外だった。
和田浩治のキャラクターは重い内容を明るいものに変えていたし、渡哲也に付き従う郷英治は日活ニューアクションを背負っていく事になるから、やはりこれは過渡期的な作品だったように思う。

大幹部 無頼

2024-02-24 08:10:30 | 映画
「大幹部 無頼」 1968年 日本


監督 小沢啓一
出演 渡哲也 松原智恵子 田中邦衛 松尾嘉代
   岡崎二朗 内田良平 太田雅子 深江章喜
   真屋順子 山内明 芦川いづみ 二谷英明

ストーリー
藤川五郎(渡哲也)は暗い過去を清算するために、雪子(松原智恵子)や夢子(松尾嘉代)の待つ弘前にやって来たところ、途中で土地のヤクザ牧野(江角英明)らにいやがらせを受けている旅廻りの一座を救った。
三ヵ月ぶりに逢った雪子は、病身の夢子をかばい働いていた。
五郎は荷役人として人生の再出発をした。
そこを牧野に見つけられ、連れて行かれた稲武組で、かつての仲間木内(内田良平)に出逢った。
五郎の腕をかう木内は、木内組に誘ったが五郎の決意は変らなかった。
そんな折、夢子の病状が悪化した。
入院費の工面に困った五郎は、横浜の木内組にわらじをぬぎ、二十万円を雪子に送った。
木内と対抗している和泉組との出入に行った時、五郎は弘前で救った旅廻りの菊絵(芦川いづみ)に逢った。
彼女は根本(田中邦衛)の情婦に落ちぶれ、根本は兄貴分上野の仇と五郎を狙っていた。
この急場を救ったのは、和泉組の代貸浅見(二谷英明)で、二人は旧知の間柄だったのだ。
その頃、容態が悪化した夢子は、雪子に見守られてこの世を去った。
五郎は、彼を慕ってやって来た雪子から、雪子が打った電報を木内に握りつぶされていたことを知った。
浅見の指揮する和泉組が木内組に殴り込んだのは、それから間もなくのことだ。
凄まじい闘争の中、木内は消極的な態度をとる五郎を裏切り者と罵倒したが、急場を五郎の素早い木刀さばきに救われ、義理を果たした五郎は木内の元を離れた。
勝負は和泉親分(山内明)が殺されることによって決した。
かねてから木内のきたない仕打ちに憤慨していた五郎は、出入の際に若林(岡崎二朗)がその場にいなかったことを理由にリンチを受けて死ぬと、単身木内と対決した。
多人数を相手の闘いに傷ついた五郎を救ったのは菊絵だった。


寸評
無頼シリーズの2作目で前作を引き継ぐ形で話が展開し、タイトルも「大幹部 無頼」と逆転している。
純粋な続編として、前作のラストで五郎の鑑別所時代の先輩・杉山(待田京介)の妻・夢子と、五郎を慕う雪子が青森県弘前に旅立った後の物語として始まる。
前作同様、五郎の少年時代がモンタージュされ、第1作のダイジェストが古い写真のようにモノクロ処理されて今迄の経緯が紹介されている。
五郎の乗った汽車は雪子たちが待つ津軽板崎駅へと到着するが、この時の五郎は流れ者のヤクザではなく、堅気としてこの土地で生きて行こうとする明確な目的を持っている。
流れ者のヤクザとして生きてきた五郎が落ち着こうとしているがそうはいかないことはすぐに示される。
駅を出ると、興行一座のダンサー菊江たちが、地元の稲武組の牧野に因縁をつけられていて、それを通りかかった五郎が助けるのだが、松原智恵子が芦川いずみに代わっただけでシチュエーションは前作と同じである。
稲武組が今回の相手かと思っていると、そこに木内の内田良平が登場して話は横浜へと移っていく。
夢子の治療費のために、五郎は旧知の横浜の木内の話に乗って再びヤクザの世界に戻ってゆくのだが、金の為に用心棒として雇われる姿は、五郎を流れ者のヤクザとして明確に位置づけている。

今回も五郎の先輩として待田京介に代わり二谷英明が和泉組の代貸浅見として登場する。
彼には妻子がいて、妻は真屋順子である。
浅見の妹でフラメンコダンサーの恵子として太田雅子、恵子と恋仲なのが敵対する木内組の岡崎二朗の若林と多彩な人物が登場するが、太田雅子は後に梶芽衣子と改名する。
さらに第1作の上野組長(青木義朗)の弟分として田中邦衛の根本も登場してくる。
本作での登場人物たちは、しがらみに縛られて、それぞれがギリギリの局面を迎えてゆく展開を見せる。
津軽板崎駅で助けた菊江は五郎を思い続けているが娼婦に落ちていて、彼女を贔屓にしているのが五郎を仇と狙う根本という皮肉な関係である。
組長を殺されて木内に追われることとなった浅見は、五郎の忠告を無視して家族の元へ向かい殺されるが、ヤクザの家族が背負う悲劇を感じさせる。
もちろん若林と恵子の間に起きることも同様である。
ヤクザ組織の非人間性と圧殺されていく個人というテーマは1作目、2作目に共通しているテーマだ。

クライマックスは五郎と木内の壮絶な戦いシーンである。
五郎は木内の乗る車をパンクさせて戦いを挑んでいく。
木内組の連中との戦いは操車場のような線路上に移り、やがて用水路へ、そこから出た小川へと異動していく。
近くに学校のグラウンドがあり、そこでは女生徒たちがバレーボールをしている。
無心にバレーボールの試合をする女生徒たちと、壮絶な戦いをしている五郎との対比である。
もちろん五郎は木内を仕留めるが、五郎も満身創痍である。
ヨロヨロとグラウンドに流れ込んできて、バレーボールのネットにしがみつき倒れ、呆然と見守る女生徒たちの俯瞰ショットは印象的で、青春物語的な要素のあった第1作から、まったく雰囲気を変えるラストシーンとなっている。
一連のシーンは練りに練られたものであることを想像させるに十分なものとなっていた。

「無頼」より 大幹部

2024-02-23 07:42:11 | 映画
無頼シリーズです。

『「無頼」より 大幹部』 1968年 日本


監督 舛田利雄
出演 渡哲也 松原智恵子 川地民夫 藤竜也
   待田京介 松尾嘉代 三条泰子 富永美沙子
   北林早苗 高品格 青木義朗 戸田皓久
   深江章喜 水島道太郎 浜田光夫

ストーリー
藤川五郎(渡哲也)は、世話になった水原一家のために、上野組の殺し屋杉山(待田京介)を刺した。
五郎と杉山は、少年の頃からの親友だったが、やくざの世界の義理から、しかたのないなりゆきだったのだ。
杉山は重傷を負い、五郎は三年間、刑務所で過ごした。
誰にも告げずに出所した五郎は、かつての街に舞い戻ってきたが、その時、上野組の五人組にからまれていた雪子(松原智恵子)を助けた。
雪子は嫌な縁談を親に押しつけられ、家をとび出してきたのだった。
彼女は五郎から離れようとはしなかった。
そんな五郎を、今は上野組にとってかわられ、すっかり落目になった水原(水島道太郎)が暖かく迎えた。
水原一家の若いやくざ猛夫(浜田光夫)は、五郎を兄のように慕い、自分の部屋を住居に提供するのだった。
一方、五郎の帰りに上野組は色めき立ち、水原一家との闘いは必至だった。
そんな時、杉山が病気にかかり刑務所から出てきた。
だが上野組は杉山には何の償いも与えず、その上、杉山の女夢子(松尾嘉代)が生活に困って身を売っているのを知りながら、何の援助もしていなかったことを知った杉山の怒りは大きかった。
衝突の寸前で水原一家と上野組は大親分神宮(加原武門)の肝いりで手打式を行なった。
水原は一家の維持のために、しかたなく上野組ににらまれている五郎と縁を切った。
その数日後、ほとほとやくざの世界に嫌気のさした五郎は、杉山や夢子や雪子と共に足を洗おうとしたが、やはり五郎の勧めで堅気になろうとした猛夫や、杉山が上野組に殺されてしまったことを知った。
五郎は雪子と夢子に杉山と共に必ず行くと嘘をついて杉山の故郷弘前に二人を見送った。
上野組に単身殴り込んだ五郎は上野(青木義朗)たちを倒しながらも、自らも深手を負い、よろよろと夜の街をさまよって行った。


寸評
「無頼シリーズ」は渡哲也のイメージを決定づけたシリーズだったが、本作はその記念すべき第一作である。
日活は石原裕次郎や小林旭による無国籍アクションで一世を風靡していたが、人気は東映の任侠路線に移りつつあり、時代は日活にかつての勧善懲悪を求めていなかった。
全盛の東映任侠映画に対抗するように実録路線的な作品が生み出されていく。
その皮切りがベテラン舛田利雄監督による渡哲也主演の「無頼より 大幹部」だったと思う。
石原裕次郎をカッコいいヒーローに仕立てた舛田利雄が新しいヒーロー像を生み出したのも興味を引く。
彼のもとから小澤啓一や澤田幸弘が巣立っていき、日活がロマンポルノに移行する直前に傑作群を生み出すことになったのだから、本作の存在は内容以上の価値があったと思う。

本作はヤクザ映画ではあるが東映の任侠映画とは一線を画している。
主人公の五郎は精神的にも肉体的にも追いつめられ、徹底的に傷つけられる。
苦痛にのたうち回り、弱い自分も曝け出してしまう男として描かれ、かつて描かれてきた石原裕次郎や小林旭のヒーロー像とは対極にあると言っていい。
1968年に始まる日活ニューアクションはベトナム戦争、学生運動、そして先行き不安な時代の閉塞感が色濃く反映していたと思われる。
人斬り五郎と呼ばれる渡哲也は狂犬のような目付きを見せるが、ときに少年のような笑みを見せるのだ。
その相手はヒロイン雪子の松原智恵子である。
東映任侠映画のように一方が善で一方が悪と言った関係ではなく、対立する組織はどちらも悪と言った構図のなかにあって彼女の純情は処女性を失わせない。
東映の任侠映画で主人公に想いを寄せる女性が芸者などの水商売系なのに対して、ここでは純情可憐な素人娘であることは日活らしい。
雪子は五郎の素性を知りながらも、また時に高圧的な言葉を投げかけながらも献身的に尽くす。
僕は見ていて五郎と雪子に男と女の関係を感じず、雪子にはどこまでも処女性を感じてしまっていた。

五郎は上野組に拉致された鈴本(藤竜也)を助けに行くが、当初は平身低頭して懇願するものである。
そこで彼は詫びを強要され指を詰めることになる。
主人公が小指を自ら切り落とすなどは、それまでのヒーロー像では考えられないものだ。
ところがその後で鈴本が拷問のうえ殺されてしまっていることを知り五郎の怒りが爆発する。
瞬間的な怒りの表現として納得できるものがある。
孤立無縁のヒーロー像は日活の伝統を引き継いでいると思うが、監督が舛田利雄ということもあるのだろう。
川地民夫と浜田光夫の兄弟が敵と味方で傷つけあう非情の世界も描かれる。
組織の中で悪戦苦闘して埋没していく若者の姿もニューアクションが描く世界だ。
青江三奈が「上海帰りのリル」を歌う中で渡哲也の殴り込みが描かれるが、歌声が聞こえる中で乱闘場面が無音で描かれるのは新鮮な演出であった。
あれだけの抗争を起こしながらも、一向に警察が出てこないことに疑問を挟ませない。
渡哲也のカッコ良さであろう。

フェアウェル

2024-02-22 07:13:35 | 映画
「フェアウェル」 2019年 アメリカ / 中国


監督 ルル・ワン
出演 オークワフィナ ツィ・マー ダイアナ・リン
   チャオ・シュウチェン 水原碧衣

ストーリー
ニューヨーク。ビリー・ワンは物書きになることを夢見て日々奮闘していたが、グッゲンハイム・フェローから選外になったという通知が来て落胆していた。
そんな折、ビリーは両親から長春で暮らすナイナイ(ビリーの祖母)が末期の肺がんで余命幾ばくもないという事実を知らされた。
両親は医者と結託してその事実をナイナイに知られないように努めており、彼女には「良性腫瘍が見つかった」と嘘の説明をしていた。
ナイナイの親戚たちはハオハオ(ビリーの従兄)が中国で結婚式を挙げることを口実に一堂に会することにし、ナイナイと最後の思い出を作ることにした。
両親はビリーがナイナイに真実を告げるのではないかと思い、彼女にニューヨークに留まるよう言いつけたが、ビリーは言いつけに背いて長春へと向かった。
ビリーは両親と口論になりかけたが、ナイナイに真実を伝えないと確約することで事なきを得た。
そうは言ったものの、長春滞在中、ビリーは「ナイナイに嘘をつき続けるのは不誠実なのではないか」と悩み続けることになった。
思いつめたビリーは、母に中国に残ってナイナイの世話をしたいと相談するが、「誰も喜ばないわ」と止められる。様々な感情が爆発したビリーは、幼い頃、ナイナイと離れて知らない土地へ渡り、いかに寂しく不安だったかを涙ながらに母に訴えるのだった。
葛藤の中で過ごす数日間、うまくいかない人生に悩んでいたビリーは、逆にナイナイから生きる力を受け取っていく・・・。


寸評
ニューヨークで暮らす若い女性ビリーは中国人移民2世だ。
2歳で両親と共にアメリカに渡ったので中国語が上手くない。
祖母ナイナイの余命がわずかと言うことで、祖母の住む中国本土の長春へ向かう。
アメリカ文化で生きてきた一人の女性が、中国本土で味わう困惑と逡巡をインフォームド・コンセントに対する考え方の違いを通じてハートフルに描いているのがこの映画だ。
患者本人へ癌告知をしない慣習は、アメリカ育ちのビリーには不条理と思え、周囲の人間がついている嘘をめぐる葛藤が全編の基調となっている。
この一家は長男がアメリカへ移住しているし、次男は日本に在住で息子は日本人と結婚するという国際一家だ。
ホテルマンはビリーにアメリカの方が良いだろうと何度も言い、日本医療の方が素晴らしいことも描かれているが、一方で中国なら100万ドルなんてすぐに稼げるとも述べている。
中国人の裕福ぶりは日本人の比ではないことも実感としてあるから、そのどれもが中国の実態だろう。
端々で描かれる小ネタがくすぐったい。

イギリス留学の経験がある若い医師が登場してビリーと英語でやり取りをする。
医師は中国流に癌告知の回避をごく自然にやってのけ、「告知しないのは良い嘘なのだと」と話す。
医師は欧米文化に通じているはずだが、ここでは中国流の習慣にためらいもなく従っている。
異文化を経験した者が持つ異なる思いの共存を許す感情であろう。
別の医師は悪性腫瘍の診断結果を良性腫瘍と、これ又ためらいもなく書き直している。
僕から見れば随分といい加減な国に思える。
日本においても当人に癌告知を控えるということが当たり前だった時期もあったので、彼らが取る行為は理解できないものではないが、さすがに診断書を偽造することはやっていなかったと思う。

肉親の愛情を感じさせるハートフルな作品だが、日本人の僕には同じアジアでありながらも日本とは違う異文化に対する興味と可笑しさが勝った作品であった。
中国では肉親の死にあうと泣かないのは薄情だと思われるので「泣き屋」という商売があるらしい。
墓前で遺族の今後を祈るときの仕草も愉快に思えたし、結婚式の様子などは正に異文化であった。
マッサージの後についた背中の跡形には笑ってしまうが、ありそうには思えた。

祖母ナイナイは中国文化に無知な孫の日本人花嫁を毛嫌いしているが、溺愛する孫娘のビリーが日本人の花嫁以上に中国文化への距離を感じているとは思いもよらなかったであろう。
しかし一方で、長春のホテルの一室でふと気づけば、窓際にニューヨークで見たのと同じ小鳥が羽を休めているシーンが用意されている。
いるはずのない小鳥の存在は、覇権を争っているアメリカと中国にお互いを理解し合える架け橋があることをルル・ワン監督が信じているということだったのかもしれない。
僕にとっては、何かあるごとに皆が集まって大騒ぎをする様子を懐かしく思わせる映画でもあり、希薄になりつつある人間関係に疑問を持たせる内容でもあった、

ファーザー

2024-02-21 07:56:34 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/8/21は「シンデレラマン」で、以下「スウィングガールズ」「スケアクロウ」「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」「スタンド・バイ・ミー」「スティング」「ストリート・オブ・ファイヤー」「スピード」「スペース カウボーイ」「スラムドッグ$ミリオネア」「砂の女」と続きました。

「ファーザー」 2020年 イギリス / フランス


監督 フロリアン・ゼレール
出演 アンソニー・ホプキンス オリヴィア・コールマン
   マーク・ゲイティス   ルーファス・シーウェル
   イモージェン・プーツ

ストーリー
ロンドンで一人暮らしを送るアンソニーの元へ娘のアンが駆けつけた。
アンがアンソニーのために苦労して探したヘルパーから、ひどい扱いを受けたから辞めたいという連絡が入ったためだ。
81歳を迎えたアンソニーには認知症の症状が出ていた。
しかし、癖の強い性格のアンソニーは「誰の助けもいらない」とヘルパーを拒否。
そんな父親にアンは、ロンドンを離れるから今のように毎日会いにくることができないと告げた。
「なぜだ?」と納得がいかない様子のアンソニーに、アンは「心から愛する人と出会い、彼の住むパリへ行く」と、これまでに幾度となく説明してきたことを繰り返す。
苛立ちを隠せないアンソニーに、パリへ言っても週末には会いに来るとアンは約束した。
ある日、アンソニーがキッチンで紅茶を淹れていると、リビングから物音がした。
不審に思い見てみると、ソファに見知らぬ男が座っていた。
その男はアンの夫でポールだと名乗った。
しかしとっくの昔にアンは離婚しているはずだが、男はアンとは結婚して10年になると言った。
それだけではなく、ここはアンソニーの家ではなく、自分の家だと主張した。
混乱の中、アンソニーはアンが帰宅したことで胸を撫で下ろしたのだが、目の前に現れたのは見たこともない女だった。
その女はアンと名乗ったので、アンソニーは女にポールのことを尋ねた。
すると5年前に離婚したと言い、夫などいないと呆れた様子を浮かべた。
それならさっきの男は一体誰なのか、そう思い振り返ると男の姿はなかった。
アンソニーの認知症の病状が悪化していくことに胸を痛めながらも、献身的に支え気丈に振る舞うアン。
次に見つけたヘルパーのローラを父に紹介すると、アンソニーは珍しく機嫌が良かった。
しかし、アンソニーを見て笑うローラに一転、人が変わったかのように辛辣な言葉を投げつけ、「自分を家から追い出そうとしている」と娘を責め立てた。
アンは深く傷付き、涙をこらえることができなかった。
それでも、時にはチャーミングでアンへ感謝の言葉を口にすることもある父を、心から憎むことはできなかった。
そんなある日、アンソニーがキッチンへ行くとこれまでに見たこともない男がいた。
男はアンからポールと呼ばれていた。
「アンは大変な思いをしている」と言う男に、アンソニーは「アンとは合わない」と答えた。
そしてアンの妹ルーシーがどんなに素晴らしい娘だったか語り始めた。
ルーシーとはもう何年も会ってないと嘆くアンソニー。
しかし、実際のルーシーは交通事故で亡くなっていた。
そんなアンソニーを見て、男は「いつまで我々をイラつかせる気ですか?」と厳しく迫まった。
ある夜、どこからともなくルーシーの声が聞こえて目が覚めたアンソニー。
部屋を出るとそこは病院の廊下へと繋がっており、声のする部屋に行くと、血だらけでベッドに横たわるルーシーの姿があった。
アンソニーは事実と幻想が混濁していたのだ。
その後のアンソニーは施設にいた。
アンはおらず、介護人の女性と医師らしき男性が部屋に入ってきた。
なんと、女性を見るとアンだと名乗っていた女、そして男性のほうはリビングで座っていた男。
アンソニーは何が何だかわからなくなっていった。
「私は誰なんだ!」とアンソニーは頭を抱えて自己崩壊を加速させていく。
まるで自分の葉が一枚ずつ失われていくかのようだ、と。
そして泣きじゃくった。
介護人の女性はアンソニーを抱き寄せて言う。
「天気がいいから2人で散歩に行って、一緒に木の葉を眺めましょう」と。
窓の外ではたくさんの葉をつけた木が優しく風に揺れていた。


寸評
認知症の父親を描いた作品だが身につまされて痛々しさを感じる。
明日は我が身を感じさせてしまうのだ。
妻に先立たれ、もしも自分が一人になったら娘に描かれたような苦労をさせるのだろうと思い続けさせる。
僕が認知症にならなくても最後は必ずやってくる。
その時、娘にはあれこれと迷惑をかけるに違いないと思い始めると、この映画を見ていること自体が辛くなってくる。
作品を見続けることをやめようとする気持ちを思いとどまらせたのはアンソニー・ホプキンスの好演である。
僕には「羊たちの沈黙」におけるレクター博士の印象が強かったアンソニー・ホプキンスだったのだが、癖が強い男なのに憎めない所がある認知症になった男を静かに演じていてさすがに名優と思わせた。

ヘルパーさんを泥棒呼ばわりすしたり、人の判別がつかないなどアンソニーの認知症の度合いを示しながら娘アンが父親に接していく姿を描く難病ものと思いながら見ていると、カメラは認知症を発症している父親アンソニーの目線に立っていることに気付くようになる。
当初は誰が誰やら、何が本当なのか分からないような描き方で進んでいくうちに、アンソニーをとらえながら映りこんでいることは、アンソニーの幻想なのだと分かってくる。
逆に言えば、アンソニーが映りこんでいないシーンは本当の出来事だったのではないかと思えてくるという手の込んだ演出となっている。
父親に優しく接しているアンが真逆の行動をとる短いシーンがある。
認知症の父に手を焼くアンの心の内だろうし、本当にその瞬間があったのだろうと思わせる。
そのシーンによって僕はアンの離婚原因も、パリへ行く話も、起きたことの時系列も霧が晴れるようにスッキリと整理された。
そして最後に看護師がアンソニーの問いかけに答えた内容によって、起きたことの時系列に対する僕の想像が間違いではなかったと思えた。
誰が誰だか分からなくなったアンソニーが最後に「私は誰なのだ」とつぶやく姿には泣けた。
僕も一人寂しくこのようにして消えていくのかなあ。

ひばりの森の石松

2024-02-20 07:27:52 | 映画
「ひ」は1本だけになりました。

「ひばりの森の石松」 1960年 日本


監督 沢島忠
出演 美空ひばり 若山富三郎 里見浩太郎
   植木千恵 加賀邦男 花房錦一 杉狂児
   澤村宗之助 吉田義夫 徳大寺伸 尾上鯉之助
   阿部九州男 堺駿二 大河内伝次郎

ストーリー
縞の合羽を海風になびかせて、三度笠、長脇差一本腰にぶちこんだ石松(美空ひばり)。
逃げまどう旅鴉を追っかけて三人の渡世人が斬りつけるのを見て助太刀におよんだ。
石松は大暴れの末、旅鴉を逃がしてやったが後が大変。
三人の渡世人は清水一家の大政(加賀邦男)、小政(長島隆一)に、増川の仙右衛門(尾上鯉之助)で、逃げた旅鴉が仙右衛門の親の仇神沢の小五郎(徳大寺伸)だというのだ。
石松は小五郎をさがしに船着場に日参した。
ある日、船着場で盲がフクロ叩きにあっているのを目撃、石松はその盲を救けたが、これが牛若の三次(里見浩太朗)という大泥棒。
しかし、三次から小五郎がドモ安(阿部九洲男)一家に潜んでいることを聞き出した。
石松は単身ドモ安一家になぐりこみをかけた。
これを聞いた次郎長(若山富三郎)一家も助太刀に出た。
仙右衛門は親の仇を討った。
--石松は奉納金五十両を持って四国の金比羅さんに出発した。
清水を出た途端、丸亀藩の姫と家老が悪家臣に追われて逃げて来た。
石松は千恵姫(植木千恵)を救ったが、家老の田宮鉄斎(大河内傳次郎)は殺された。
そこで三次に会い、三次は丸亀藩に注進のため一足先に出発、石松と千恵姫の二人旅が始まった。
船中ではやくざ通の町人(堺駿二)におだてられていい気分だったが、讃岐の船着き場には、千恵姫の命を狙う安藤伊十郎(沢村宗之助)らの悪家臣がずらり待ち伏せしていた。
石松は千恵姫をかばって大活躍したが多勢に無勢、次第に追いつめられた。
と、そこへ三次が案内する丸亀藩の忠臣が駈けつけ、無事千恵姫を救った。


寸評
この頃の東映は男優が中心の映画会社で主演を張る女優はいなかったと言ってもいい。
そんな中で歌謡界で実力と共に絶大な人気を誇った美空ひばりが主演した映画は数知れず、初期には松竹作品にも出ていたが、「ひばりの森の石松」が撮られた頃はもっぱら東映作品だった。
シリアスな作品に出ても与えられた役をこなせたと思うが、人気ゆえか出演作は大衆娯楽作品とでも呼ぶべき軽妙な作品ばかりで、当然のように作中では美空ひばりの歌を聞くことが出来る。
大衆はそんなひばり映画を支持していたのだと思うが、ひばり主演作品は軽いものばかりの印象がある。

「ひばりの森の石松」も美空ひばりが森の石松をやっているという以外に取り柄のない作品だが、ひばり映画の中ではマシな方だろう。
茶摘み娘との二役をやっていることもあって、富士山をバックにした茶摘み娘の踊りがオープニングと共に繰り広げられるが、この内容にしてこれだけのエキストラを使うのかと感心させられる人員投入である。
この頃の作品には大部屋俳優を初めとするエキストラが贅沢と感じるくらいに登場している。
最後の金毘羅さんの階段を行きかう人も実に大勢だ。
竜宮城のシーンなど、ひばりファンへのサービスも旺盛だが全体の脚本は荒っぽい。
石松は増川の仙右衛門の敵討ちで武居のドモ安一家に殴り込みをかけているが、仲裁があったとはいえ次郎長一家とドモ安一家の出入りは起きないでドモ安一家はその後登場しない。
騒動の後始末としては拍子抜けする。

後半は知られている石松の金毘羅さんへの参内であるが、丸亀藩の盲目のお姫様を伴っての旅という設定が付け加えられている。
これに牛若の三次が絡むのだが、三次の里見浩太朗が歌を披露しているから準主役の立場である。
その準主役である三次が石松の金を盗んだのではないかという展開はひねりが効いていたと思うが、最後の乱闘はイマイチ盛り上がりに欠けている。
千恵姫の命を狙う一派の頭目である安藤伊十郎は画面をかすめる程度で斬られているし、首領が斬られても他の仲間が逃げ出すことはしない。
姫様を巡るお家騒動の中身は全く不明のままである。
そして助けに来たお城の侍に守られてお姫様は城に去ってしまう。
石松が必死で守った姫様は一体どうなったのだろう。
そんなことをふっ飛ばしても、ひばりが男役を演じて気風のいいタンカを語り続けることに当時の映画ファンは堪能していたのだろう。
楽しませ方としては、今どきのアイドル映画と大差はない。
沢島正はこのようなB級作品を大量に撮った監督だが、美空ひばりの主演作もたくさん撮っている。
僕には美空ひばりの映画と言えば、監督は沢島正とのイメージがある。
そして美空ひばりは男役を随分とやった役者でもある。
竜宮城のシーンもそうだが、どこか宝塚歌劇を思わせるところがあるのがひばり映画だ。

パンズ・ラビリンス

2024-02-19 07:37:58 | 映画
「パンズ・ラビリンス」 2006年 メキシコ / スペイン / アメリカ


監督 ギレルモ・デル・トロ
出演 イバナ・バケロ セルジ・ロペス マリベル・ベルドゥ
   ダグ・ジョーンズ アリアドナ・ヒル アレックス・アングロ
   ロジェ・カサマジョール マノロ・ソロ セサール・ベア

ストーリー
1944年、スペインはフランコ政権軍とゲリラとの内戦状態。
内戦で父を亡くした少女オフェリアは山間部でゲリラの鎮圧にあたるビダル大尉と母が再婚したので山奥へ向かっていた。
途中で臨月の母カルメンの気分が悪くなったので車を止め、オフェリアが森の中に下りると足元に石が落ちていた。
それには目の形の模様が彫ってあり、少し歩くとちょうど目の欠けた石碑があった。
そこにはめ込むと、ナナフシが彼女の前に現れて飛び回った。
大尉という地位にあり、厳しい父親との制圧基地での生活に、臨月の母はストレスのため眠り薬を与えられる。
その夜、母と一緒に眠っていると部屋の中に何かがいる気配がした。
昼に森で出会ったナナフシはオフェリアを、入ってはダメとお手伝いのメルセデスに言われていた家の近くにある古い迷宮へ招いた。
ついていくと、そこは地下に繋がっており、そこの番人パンが、オフェリアは地下の国のモアナ王女で、地下の王国に迎えたいが、完全に人間になってしまっていないか、満月までに三つの試練を課すと言って、一人で読むようにと一冊の本を彼女に渡した。
オフェリアは、大尉が高官達を呼んで行う晩餐会をよそに、仕立ててもらった服と洋服を着たまま、本の指し示す森の中の大木の虚の中に入っていく。
一つ目の試練は、大木の下に住まう大蛙に、用意された石を二つ飲ませることに成功して
鍵を見つけた。
オフェリアが二つ目の試練に挑もうと浴室で本を開いた時、臨月の母は大量に出血したためオフェリアは一人部屋に移されてしまう。
一人になった夜、彼女の枕元にパンが現れ、二つ目の試練を早く行うように迫ると、オフェリアは母親の容態が心配だと反論する。
するとパンは母親の治療法を示し、二つ目の試練として宴のテーブルの食べ物は一切口にせず、砂時計の砂がなくなるまでに鍵で中のものを持ってくるようにと蛙の中から取り戻した鍵を渡した。
その夜、オフェリアは渡されたチョークで壁に四角を書くと、それは扉のように押し開く事が出来た。
中に入ってみるとそこはお城の広間に続き、宴のテーブルには美味しそうな食事、そして上座にいる人物は目がなく眼球が銀の小皿においてあった。
オフェリアは横にあった棚の鍵穴に鍵をさし、その中の一つを明けると、中から短刀を取り出した。
帰ろうとする時、オフェリアは誘惑に負け、ブドウを二粒食べてしまう。
すると、それまで動かなかった上座の怪物は手のひらに眼球をはめて動き出し、妖精を掴んで食べてしまった。
恐ろしくなったオフェリアは逃げ出し、怪物が出てこぬように上から閉じ込めた。
パンは禁を破ったオフェリアに王女に戻る資格はないと言って消えてしまう。
一方、ゲリラに拠点になっている家を襲撃された大尉はメルセデスを疑い始める。
そして、森の中にいるゲリラを一網打尽にし、まだ息のあった吃音の男を連れ帰り、拷問を始める。
大尉は医者がゲリラたちと通じている事を知り射殺した。
オフェリアの母は難産の末、男の子を無事に生むが、母親は死んでしまう。
ますます残酷になる大尉は内通者のメルセデスを拷問部屋へ、またメルセデスと懇意にしていたオフェリアを部屋に閉じ込めてしまう。
拷問部屋に縛り付けられたメルセデスは、隠し持っていたナイフで大尉を刺し、基地からゲリラのいる森へ逃げ出した。
ゲリラの仲間たちの援護射撃によって彼女は助かり、ゲリラの所に身を寄せる。
とじこめられたオフェリアの元に再びパンが現れ、「最後の試練を達成できたら王女として認めよう、迷宮に弟を連れてくるように、質問は一切禁止」と言う。
ゲリラの夜襲によって明るくなった廊下に、赤ん坊を抱いたオフェリアの影が浮かび、大尉は自分の息子を連れ去られた事に気づき追いかけた。
迷宮まで弟を連れてきたオフェリアにパンは、「今夜満月に照らされた地下への入り口に無垢な血をたらせば、道が開く。生まれたばかりの弟の血が必要だ」と、二つ目の試練で彼女が持ち帰った短刀で弟に傷をつけようとする。
殺すわけではなく、少し血を流せばいいだけだと言うが、弟に傷をつけたくないオフェリアは反抗する。
パンは「もう王女として迎える事は出来ない」とすると、大尉が後ろから彼女を打ち抜き、倒れた彼女の手から息子を取り戻した。
迷宮から赤ん坊と共に出てきた大尉は、ゲリラに囲まれて銃弾に倒れる。
オフェリアの血が流れ、迷宮の満月を映す水溜りに流れ込むと、オフェリアの身体は金色に光り、地下の国へ迎えられる。
そこは美しい場所で、優しげな王と王妃が彼女を待っていた。
弟を守り、自ら血を流した彼女の判断は正しかった。
そうしてオフェリアはおとぎの国王女になった。


寸評
一方はオフェリアが経験するファンタジーの世界が描かれ、もう一方は現実のゲリラがフランコの独裁政権に抵抗する戦いが描かれていく。
そしてオフェリアがパンから命じられる試練が現実世界へのメッセージとしてリンクしていて、単純な特撮ファンタジー作品としていないのがユニークである。
オフェリアの一つ目の試練は大蛙に用意された石を飲み込ませることなのだが、これは困難に立ち向かっていく勇気を著していて、独裁政権に対して立ち向かっていかねばならないというメッセージでもある。
二つ目の試練は抵抗、あるいは不服従を示している。
妖精は三つある鍵穴の真ん中を示すが、オフェリアはそれに従わず別の鍵穴を選択する。
大尉への反抗もあり、メルセデスを密告することもない。
大尉の絶対的命令にドクターが無条件に受け入れることなどできないと拒絶していることもオフェリアに通じる意識の表れである。
その間に大尉の非情な行為、ひいては独裁政権側の非道ぶりが描かれていき、サスペンス的な要素も盛り込まれているのだが、メルセデスやドクターがゲリラ側と通じていることが当初からはっきりと感じられる描き方は、ゲリラ側のスパイとしてのサスペンス性を弱めているように思う。
メルセデスはどのような理由で大尉に重用されているのかとの疑問が付きまとった。
最後に政府軍とゲリラの闘いの決着、オフェリアへの第三の試練が一気に描かれるが、ファンタジーと現実が融合していく展開が小気味よい。
ここで描かれるのは慈悲の心であり自己犠牲を伴う愛である。
キリストの教えでもあるだろうし、釈迦も自らの身体を飢えた虎に与えている。
スペイン内戦とリンクされた描き方は独裁国家に対する批判だろう。
独裁国家の国民たちよ、勇気をもって独裁者に抵抗を試みよ。
次世代の者たちの幸せの為に立ち上がれと叫んでいるともとれるのだ。

パンク侍、斬られて候

2024-02-18 08:48:48 | 映画
「パンク侍、斬られて候」 2018年 日本


監督 石井岳龍
出演 綾野剛 北川景子 東出昌大 染谷将太 浅野忠信
   永瀬正敏 村上淳 若葉竜也 近藤公園 渋川清彦
   國村隼 豊川悦司

ストーリー
自ら“超人的剣客”と豪語する浪人・掛十之進(綾野剛)がとある街道に姿を現わすや、いきなり物乞いの老人を斬り捨てる。
そして居合わせた黒和藩の藩士・幕暮孫兵(染谷将太)に“腹ふり党”なる新興宗教団体の脅威が迫っていると説き、重臣・内藤帯刀(豊川悦司)のもとで仕官への道を開く。
内藤は権力の座を重臣・大浦主膳(國村隼)と争っており、“腹ふり党”の一件で大浦を失脚させようと画策する。
ところが“腹ふり党”はすでに解散していることが判明、自らの立場を守るべく“腹ふり党”の元幹部・茶山半郎(浅野忠信)をたきつけて、藩内で騒動を起こさせようとする十之進だった。
発令される隠密ミッションを巡って、クセもの12人が、繰り広げる腹の探り合いと、1人の女・ろん(北川景子)をめぐる恋の行方は・・・。
そして、謎の猿将軍(永瀬正敏)が語り出す驚愕の真実とは・・・。
藩主・黒和直仁(東出昌大)に率いられた黒和藩の軍勢と“腹ふり党”の一大決戦が繰り広げられる。


寸評
僕は石井聰亙時代の「逆噴射家族」(1984年)を見て、随分と好き勝手する監督だなあと思ったのだが、石井岳龍と改名している今回の作品はそれ以上にハチャメチャで、これはもう付いていける人と付いていけない人がはっきり分かれるだろう。
僕はどちらかと言えば付いていけない部類だが、出演陣の快演だけはそのメイクを含め楽しめた。
冒頭こそオーソドックスな時代劇風だが、すぐにあらぬ方向へ暴走し始める。
登場するのは、お調子者のフリーター掛十之進をはじめ、いずれも強烈かつ奇妙奇天烈な人物ばかり。
おまけに"腹ふり党"の教義が「世界は巨大なサナダムシの腹の中だ!」だというのだから、もう何をかいわんやである。
したがって、基本は破天荒な暴走エンターティメントである。
内藤は自らの立場を守るべく「腹ふり党」元幹部・茶山半郎をたきつけて腹ふり党を復活させ、藩内で騒動を起こさせようと画策するのだが、そこで登場する茶山半郎の顔は天才バカボンのようなメイクで、その茶山を浅野忠信が怪演する。
浅野忠信だけではない。
幕暮孫兵の染谷将太も、ろんの北川景子も「よーやるわ」つい言ってしまう演技を見せる。
悪ふざけが過ぎると言いたくなるが、ここまで堂々とやられたらアッパレとしか言いようがない。
ミュージカル的なところもあるし、人形劇もあるし、影絵のような演出もあるし、ド派手なCGも飛び出す始末で、まさに何でもあり状態なのだ。
自分でものを考えずにひたすら流行に付き従う庶民を描いたり、正論しか言わない藩主がいたり、皆に迎合する軟弱な藩の幹部がいたりするのは現実社会への風刺ともいえるが、それよりもこの制作費の無駄使い的な映画作りを誰が許しているのかと思ってしまう。
ハッキリしたことは、僕は石井岳龍作品には溶け込めないということだった。

バンド・ワゴン

2024-02-17 10:53:35 | 映画
「バンド・ワゴン」 1953年 アメリカ


監督 ヴィンセント・ミネリ
出演 フレッド・アステア シド・チャリシー
   ジャック・ブキャナン オスカー・レヴァント
   ナネット・ファブレイ

ストーリー
ダンス映画でその名を謳われたトニイ・ハンター(フレッド・アステア)も、いまや自分の人気が下り坂になったことを悟らねばならなかった。
そこへブロードウェイ時代からの親友レスター(オスカー・レヴァント)とリリー(ナネット・ファブレイ)のマートン夫妻が、とくにトニイのためにミュージカル・コメディを書きあげたからといって、しきりに誘いをかけて来た。
マートン夫妻の新作は、「バンド・ワゴン」といったが、かれらの売り込みに乗って来たのは、高尚な芸術を目指すジェフリイ・コードヴァ(ジャック・ブキャナン)という男で、彼は「バンド・ワゴン」を「ファウスト」の近代的音楽劇化に折込もうとした。
これを知ってトニイやマートン夫妻はがっかりしたが、ジェフリイが説得上手のうえに金蔓もにぎっているので、彼のアイディアをそのまま受け入れることにした。
ジェフリイはトニイの相手役に意表をついてクラシック・バレエの新星ガブリエル“ギャビイ”・ジェラード(シド・チャリシー)を選んだ。
トニイとギャビイは新しい仕事への不安で、初めから喧嘩をしたが、ある夜、2人だけで語り合い、お互いの誤解やわだかまりもすっかり解けたが、ジェフリイのあまりにも現代ばなれしたアイディアのため、興行は惨々な失敗に終った。


寸評
1974年にMGMミュージカルの変遷を、各作品のハイライト・シーンを並べて見せたミュージカル・アンソロジー映画として「ザッツ・エンタテインメント」が制作されたが、そのタイトルは本作のナンバーからとられている。
それほど本作はMGMミュージカルの中では特筆されるべき作品なのだと思うが、僕の好きなミュージカル映画とは違う古いタイプのミュージカル映画だ。
かつてハリウッド最大手として知られ、ミュージカル映画では他社の追随を許さなかったメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)が送り出したMGMらしいミュージカル作品なのだろうが、「雨に唄えば」も含めて僕の感性にはぴったりこない。
映画的な処理が施されているとは言え、どこかミュージカルの舞台を見ているような感じだ。

フレッド・アステアは僕らの時代の者からすれば随分と前の世代の人で、晩年に出演した「タワーリング・インフェルノ」などでのバイプレーヤーとしての彼しか知らない。
本作での彼を見ると、タップダンスも巧みなダンサーでまさにミュージカル・スターだったのだと認識させられる。
僕にはフレッド・アステアが演じたトニイ・ハンターはフレッド・アステアそのものに思えた。
おそらくこの時点ではフレッド・アステアはまだまだトップ俳優の地位を保っていただろうが、そろそろ彼の時代の終焉が始まっていたのではないか。
そんな雰囲気がもっと出ていたならよかったのにと思う。

高尚な芸術を目指すコードヴァの演出が高尚さゆえに観客に受け入れられない様子がイマイチで、彼の演出した舞台は結構楽しく見ることが出来た。
舞台を見せずに出資者に愛想をつかされることで不人気を表現していたが、その後に演じられた断片シーンは結構見せる舞台となっていたように思う。
もちろん本当にそのシーンが面白くなかったら映画観客にも愛想をつかされただろうけれど・・・。

かつての大スターであるトニイ・ハンターはクラシック・バレエの新星ギャビィに恋をするのだが、その顛末にも僕は消化不良を覚えた。
ミュージカルのダンスとクラシック・バレエの違いから最初はぎくしゃく、やがて二人の間に愛が芽生えてという展開なのだが、その盛り上がりには欠けていた。
地方巡業を終えて、彼等一行は再びミュージカルの本場であるニューヨークのブロードウェイに凱旋してくる。
そこで観客から圧倒的支持を受けてトニイとギャビィの恋が成就することは描かれてはいるのだが、もう少し盛り上がりたかったなあ。
巡業中、トニイのギャビィを愛する気持ちは次第につのっていったが、彼はこれを自分の胸一つにおさめていた。
しかし、ギャビイも心秘かにトニイを愛していた。
ブロードウェイの披露公演大成功のパーティで、ギャビイはトニイに愛を打ち明け、トニイの喜びは絶頂に達するというものだけに、前段階からもう少しと何とかしておいてほしかったという感じ。
最後にフレッド・アステア、ジャック・ブキャナン、ナネット・ファブレイ、オスカー・レヴァントにシド・チャリシーが加わって「That's Entertainment」を熱唱するのはまるでショービジネス賛歌の様でもあった。

バルフィ! 人生に唄えば

2024-02-16 07:09:44 | 映画
「バルフィ! 人生に唄えば」 2011年 インド


監督 アヌラーグ・バス     
出演 ランビール・カプール プリヤンカー・チョープラ
   イリヤーナ・デクルーズ

ストーリー
生まれつき耳が聞こえず、話すこともできない青年バルフィ。
しかし、彼の眼差しや表情、あるいはジェスチャーは言葉以上の表現力を持ち、誰とでも心を通わせることが出来た。
1972年。絶世の美女シュルティと出会い、一目惚れするバルフィ。
しかし、彼女は資産家の男性と婚約中だった。
それでも、バルフィの温かい心に惹かれていくシュルティだったが…。
一方、バルフィの幼なじみの自閉症のジルミルは、家族の愛に恵まれず心を閉ざして生きてきたが、偶然バルフィと再会して惹かれていく。
止むに止まれぬ事情から富豪の孫娘であるジルミルの誘拐を企てるバルフィ。
紆余曲折の末、計画は頓挫してしまうも、自分から離れようとしないジルミルと一緒に逃亡生活を送るハメに。
1978年。愛のない結婚生活を送るシュルティは、バルフィと偶然の再会を果たすが…。


寸評
摩訶不思議なインド映画だ。
そもそもインド映画そのものが僕にとっては摩訶不思議な世界をもっているという先入観が有る。
主人公三人の内、バルフィは話すことが出来ないし、ジルミルは自閉症で会話らしい会話が出来ない。
したがって主人公をとりまくセリフは最低限だ。
それを2時間半も引っ張る作品に仕上げていることにインド映画の底力を感じる。
ともすれば重たくなってしまう内容なのにエンタメ性の高い作品になっている。
もちろんインド映画特有の歌ありダンスありの内容は際立ってはいないが伝統を受け継いでいた。
表情やしぐさで彼らの心理を描き、田園風景や下町の様子などの美しい映像に、歌と音楽をかぶせて台詞の少なさを十分すぎるほど補っていた。
そのあたりがこの映画の持つ摩訶不思議さだったのだろう。

ドラマの中心はシュルティとのラブロマンスで、それは典型的な許されざる恋の物語で、そこに絡んでくるのがバルフィの幼なじみの自閉症の少女ジルミルで、言ってみれば男と二人の女性の三すくみの恋物語なのだが、単純な三角関係でないのがこの作品に奥行きを持たせている。
その奥行き感は時代をシーンを重ねるなどして縦横無尽に行き来することでさらに高めている。

映画は途中休憩(実際に休憩時間があったわけではないが)をはさんだ二部構成になっている。
前半はバルフィとシュルティの恋物語で、バルフィがシュルティの両親に結婚を申し込みに行くシーンが泣かせる。
後半はバルフィとジルミルのピュアすぎるとも言える愛が感動を誘う。
そしてバルフィの父が病に倒れたことから起きる事件や、上手く表現できない自閉症のジルミルが書いたメモが重要なファクターとなってミステリー性を醸し出していく。
全体的に少し間延びしている印象を持ち、もう少しコンパクトにまとめていればと思いつつ見ていたのだが、これはバルフィの人間性を表現するために必要な時間だったのだと徐々に感じ始めた。
ラストはラブロマンスを人間讃歌につなげる心憎い展開だったと思う。

バルフィがジルミルに捧げる愛情を見守るシュルティの複雑な気持ちが手に取るように分かり、切なさがひしひしと伝わってきた。
ジルミルの呼ぶ声が聞こえないバルフィに、それを伝えるシュルティの表情が秀逸だった。
少し前に発したシュルティの独白が思い出され、彼女の複雑な気持ちが伝わってくるいいシーンだ。
久しぶりのインド映画を満喫したが、始まってすぐに流れる歌の訳詞に驚いてしまった。
映画館での注意事項などが盛り込まれていて、これは映画の中の歌なのか、始まる前の注意事項を歌にしたものなのか戸惑ってしまったが、でもそれが僕をしてスムーズにインド映画の世界に導いてくれた。
愉快。

バトル・ロワイアル 特別篇

2024-02-15 07:17:24 | 映画
「バトル・ロワイアル 特別篇」 2001年 日本


監督 深作欣二
出演 藤原竜也 前田亜季 山本太郎 栗山千明
   塚本高史 高岡蒼佑 石川絵里 神谷涼
   柴咲コウ 安藤政信 ビートたけし

ストーリー
中学生の七原秋也(藤原竜也)は、母親が家を出ていった後に父親(谷口高史)を自殺で亡くすという壮絶な過去を持っていた。
秋也のクラスの担任であったキタノ(ビートたけし)は生徒にナイフで刺されるという事件を起こしてしまったことで学校を退職していた。
その現場を目撃していた、秋也のクラスメイトである中川典子(前田亜季)は咄嗟に凶器のナイフを持ち帰ってしまった。
秋也たちは中学3年生になり、修学旅行に向かっていた。
生徒たちはいつの間にか眠らされてしまい、途中で目覚めた秋也はバスガイド(深浦加奈子)に殴られて気絶してしまった。
生徒たちが目を覚ますと、無人島の教室に集められていた。
全員に金属製の首輪がはめられており、生徒たちは混乱した。
そこへ軍のヘリコプターでやってきたキタノが到着した。
教壇に立ったキタノは転校生の川田章吾(山本太郎)と桐山和雄(安藤政信)を紹介し、生徒たちにBR法の説明を始めた。
秋也たちのクラスはBR法によって選出された、生き残りが一人になるまで殺し合うプログラムに参加させられるクラスなのであった。
キタノの話を信じられない生徒が反抗的な態度を示すと、キタノは躊躇なくナイフを投げ刺して彼を殺害した。
この無人島はいくつかのエリアに分かれており、時間が経つにつれて禁止エリアが発生し、そこに残っていたものは首輪が爆発して死んでしまうというものであった。
生徒たちはパニック状態のまま、3日間のプログラムが開始された。
生徒たちには水や食料、地図などが支給されランダムで武器も与えられた。
秋也は親友の国信(小谷幸弘)が典子を好きだったことから、彼女を守ることを決意した。
凶悪な不良で知られる桐山はマシンガンで生徒を殺害し、プログラムに参加したくない生徒が自殺をするなど現場は凄惨な状況であった。
キタノの放送で死んだ生徒の名前が知らされるのを聞いた秋也たちは、森の中を歩き始めた。
秋也たちは川田と合流し共に行動することにした。
しかし典子が怪我を負ってしまい発熱してしまったため、島の診療所に隠れていた。
一方、素行不良で知られる相馬光子(柴咲コウ)は卑劣な手を使ってクラスメイトを殺害していた。
さらに光子は陸上の短距離走者である千種貴子(栗山千明)も弓矢で殺害した。
貴子は思いを寄せていた杉村(高岡蒼佑)の隣で息を引き取った。
川田は自分が以前のプログラムの優勝者であることを秋也たちに打ち明けた。
川田は島の脱出方法を知っていることを秋也たちに伝え、銃を託した。
診療所に桐山に追われていた織田が現れ、織田(山口森広)がくわえさせられていた手榴弾が爆発したので、秋也は自分が囮になって典子と川田を逃がした。
その後、秋也も海に飛び込むことで桐山から逃れ、灯台に隠れていた女子生徒たちに助けられた。
しかし、生徒の一人が食事に毒を盛ったことで疑心暗鬼になった女子生徒たちは殺し合いを始めてしまった。
その頃、典子と川田は秋也とはぐれた場合の集合場所である神社に向かうが、典子は光子に遭遇してしまい殺害されそうになるが、突然現れたキタノによって命を助けられた。
キタノが去ると、秋也が現れ典子と再び合流することができた。
光子の前に桐山が現れ、光子は鎌を持って立ち向かうが死んでしまった。
三村(塚本高史)は廃墟で本部のハッキングを試みて成功したが桐山に殺されてしまい、そこに現れた川田が桐山を殺害した。
学校に到着した秋也たちの前にキタノが立ち塞がった。
キタノは典子と無理心中しようと試みるが秋也の銃撃によって命を落とした。
秋也たちはボートで島から脱出しようとしたが、途中で怪我を負っていた川田は息絶えてしまった。
島から逃げた秋也と典子は、全国指名手配犯として逃走する身となった。


寸評
僕は2000年に公開された「バトル・ロワイアル」を大阪ミナミの千日前にあった「国際シネマ」で見たのだが、鑑賞券を貰わなければ行くことはなかった映画館であった。
2階席のある映画館で、僕はバルコニー風の2階席で見たのだが、そのような劇場はもう存在しないのかもしれない。
廃館近い時期で劇場の傷みも見受けられたが、劇場のすさんだ雰囲気はこの映画にピッタリだったように記憶している。
その時は、ただ殺し合いを続けているだけの映画と思っていたと思うが、再見して見ると意外に隠されていたものがあったのだなと思い直すところがある。
一つは10代の若者の秘めたる恋を描いたラブ・ロマンスでもあったことだ。
国信が中川典子に抱いていた思いを初め、内海幸枝が七原秋也に「これどういう意味か分かる」と片思いの心境を語ったりしているし、秋也と典子の間にも最後は恋心が生まれていたと思う。
暴力描写に隠れているが、彼らの青春があちこちにちりばめられている。
幸枝たち女子6人が隠れる灯台内の様子はもはや女子会状態で、女子中生が集まればこんなだろうと想像させる。
「ちょっと~、七原来ちゃったけどどうするの~」と、周りが幸枝をからかい恋バナで盛り上がるかとおもうと、料理担当の松井知里が作ったパスタを食べて「美味しい~!もう結婚して~」と中川有香がはしゃぎ始めるなど殺人ゲーム中を忘れさせる描写だ。
ところが料理を食べた一人が血を吐いて絶命すると仲間に疑心暗鬼が持ち上がる。
「誰が毒を仕込んだの!」と叫ぶ者がいれば、「知里、料理したのはあんたよね?」と言い出す。
「あたしやってない、料理だったらはるかだって」と責任転嫁すれば、「大体、ムキになる聡美が一番怪しいんだよ」と責めだすし、「幸枝、リーダーぶるんじゃねーよ」と本音が出だす始末である。
仲良く見えた関係だが、実は彼女たちの友情は上辺だけのもので、人を疑いだせばキリがなくなる人間の醜さを見せつけられる。
キタノは授業をボイコットした生徒たちや、無視されていた娘への復讐心からの行動でもあったのだろうが、彼は若者を理解できない大人の代表者として映る。
「こんな時、大人は子供になんて言えばいいんだよ」とつぶやくのは、子供を理解できない大人の気持ちの表れでもある。
バトルゲームを先取りしていた映画のような気もするが、彼らの殺人行為はバブルがはじけた後の閉塞感への若者の反逆にも見える。
この島から抜け出す方法を知っていると言っていた川田の行動から、秋也と典子が走り出すラストまでの流れは決まっている。
世の中を変えるのは若者の力が必要だ。
私にはその力はもう残っていない。