おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ラストエンペラー

2018-11-27 17:02:53 | 映画
今朝の朝刊でベルナルド・ベルトルッチ監督の訃報記事を目にする。
思い出すのはこの1本。

「ラストエンペラー」 1987年 イタリア / イギリス / 中国


監督 ベルナルド・ベルトルッチ
出演 ジョン・ローン  ジョアン・チェン
   ピーター・オトゥール  坂本龍一
   デニス・ダン  ヴィクター・ウォン
   高松英郎  マギー・ハン

ストーリー
1950年、ハルビン駅では次々と中国人戦犯たちが送りこまれ、800人を越えるその人の中には“清朝最後の皇帝”愛新覚羅溥儀(ジョン・ローン)の顔もあり、様ざまな過去が彼の脳裏をよぎった・・・。
まだ何もわからぬ幼少(リチャード・ヴゥ)の頃、光緒帝は帰らぬ人となり、実質的支配者だった西太后(リサ・ルー)は、溥儀を紫禁城に迎え皇帝にと考えたが、溥儀の心の支えは乳母(イエード・ゴー)だけだった。
7年後、溥儀(タイジャ・ツゥウ)は、中国全土に革命の嵐が吹き荒れる中で、孤独の溥儀は、家庭教師のレジナルド・ジョンストン(ピーター・オトゥール)から数学やテニスなど西洋の文化を学ぶ。
15歳になった溥儀(ワン・タオ)は17歳の婉容(ジョアン・チェン)を皇后に、12歳の文繍を第二の妃に迎えた。
1924年、中華民国の軍人である馮玉祥のクーデターで、溥儀は紫禁城を追われ、ジョンストンが、婉容、文繍(ウー・ジュン・メイ)、女官らと共に英国大使館に保護することになる。
溥儀は、日本の甘粕大尉(坂本龍一)との日々を思い出していた。
蒋介石率いる国民党が上海を攻略し、溥儀の身を案じた甘粕は、日本公使館へ逃亡するように指示する。
民主主義に日覚めた文繍は離婚を申し出、溥儀の元を去り、かわりに日本のスパイであり婉容の従姉のイースタン・ジュエル(マギー・ハン)がやってきた。
やがて友人のジョンストンも帰国したが、1932年、全世界の非難にも関らず溥儀は“傀儡政府”である満州国の執権になり、2年後皇帝となった。
1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣言、玉音放送を聞きながら、甘粕はピストル自決を遂げ、日本へ脱出しようとした満州国皇帝は、長春の空港でソ連軍の捕虜となった。
1959年、10年の収容所生活を経て、特赦された溥儀は庭師になってあの紫禁城を訪れる。

寸評
清朝は中国王朝の歴史において最後の王朝であり、溥儀はその王朝の最後の皇帝であるが、愛新覚羅溥儀という名は日本軍の傀儡国であった満州国皇帝であったこともあり親近感がある。
更に愛新覚羅という名前は溥儀の実弟である溥傑の長女愛新覚羅慧生が日本人男性と天城山で心中した事件でも記憶されているから馴染み深い。
しかし日本政府に翻ろうされた溥儀も、今や歴史上の人物となってしまっていて、多くの日本人からは忘れ去られようとしている。

映画は1950年に中華人民共和国の戦犯として政治犯収容所に送られ、「戦犯」としての自己批判を強要されるなかで、厳しくも善良そうな所長相手に「すべては儀式でしかなかった」と振り返りながら、自らの過去を回想する形をとっている。
この映画を重厚ならしめている最大の要因は紫禁城で撮影されていることだ。
セットでは表せないスケールと、本物が醸し出す雰囲気を画面いっぱいにまき散らしている。
中国政府がよく撮影許可を出したものだと思う。
そしてその圧巻シーンが、故宮太和殿での即位式の荘厳で華麗な場面であり、3歳の皇帝が居並ぶ将兵の間を駆け回るシーンは映画史に残る名シーンの一つだろう。
ここで渡されたコオロギ(キリギリス)が最後のシーンで生きて出てくるという映画的処理にも感動する。

前半は紫禁城での異様な生活が描かれ、王朝末期の腐敗と奇異な生活に興味が注がれる。
淋しさからか乳母のアーモの乳房に顔をうずめ授乳する姿を、先帝の妻たちが双眼鏡で眺めているシーンなどはゾッとするものがあった。
紫禁城から追放される乳母のアーモは溥儀にとっては初恋の人だったのかもしれない。
溥儀は紫禁城の中ではいまだに皇帝であり、宦官たちも皇帝あっての自分達であることを知っている。
皇帝には絶対の服従を見せているが、陰では宝物を盗むなどして私腹を肥やしている。
証拠隠滅のために宝物殿を燃やしてしまうなどやりたい放題で、さすがに溥儀は宦官を紫禁城から追放するが、その退去ぶりが本当かと思いながらも、本当だろうなとも思わせる。
というのは宦官たちは自分の切り取った一物を保管していて、それをもって退去して死ぬ時には完全な男として死ぬということが描かれていたのだ。

溥儀は自己批判中にニュース映画を見せられるが、その中に日本軍による南京虐殺が描かれ20万人を殺したと報じられている。
おそらくこれは中国政府のでっちあげだろうが、それを配慮した配給会社がそのシーンをカットしたところ、ベルトリッチ監督の抗議があり、再び追加されたとの逸話を有している。
監督は甘粕に切腹をさせたかったらしいが、これは坂本龍一の意見で見送られ拳銃自殺となっている。
どうやら実際の甘粕は服毒自殺だったようである。
文化大革命の中で溥儀は一生を終えるが、収容所所長を連行する紅衛兵たちもまた異常である。
文化大革命も異常さを感じさせるし、その延長線上にある中国という国も異常さを引きずっているような気がする。

ある愛の詩

2018-11-10 10:55:30 | 映画
フランシス・レイの訃報を聞いて思い出す映画の1本。

「ある愛の詩」 1970年 アメリカ


監督 アーサー・ヒラー
出演 ライアン・オニール アリ・マッグロー
   レイ・ミランド ジョン・マーリー
   キャサリン・バルフォー ラッセル・ナイプ
   トミー・リー・ジョーンズ ウォーカー・ダニエルズ

ストーリー
オリバーはニューヨークのセントラル・パーク・スケート場の観覧席で1人想いに沈んでいた。
彼は若い弁護士で、少し前に医者から、妻のジェニーに死期が迫っていると聞かされたばかりだった。
初めてジェニーに会ったのは大学の図書館だった。
オリバーは高名な良家の4世で、アイス・ホッケーだけが趣味の世間知らず、ジェニーはイタリア移民の菓子屋の娘で、バロック音楽好きという共通点のない2人だったが、あまりの身分の差が、かえって2人をひきつけた。
オリバーがジェニーのハープシコードの演奏を聴きにいって、モーツァルトやバッハの名を口にするようになって、ふと気がつくと2人はもう恋の虜になっていた。
ある日、ジェニーは突然、フランスで勉強したいと言い出した。
彼女は今の幸福が束の間のものであり、実らないであろう恋の悲しみから逃げようと考えたのだ。
ロード・アイランド出の貧しい娘と富豪の息子では、あまりに身分が違いすぎるのだ。
しかし、オリバーは問題にせず、そして結婚を申し込んだ。
オリバーは両親にジェニーを会わせたが、彼と父との間には深いミゾがあった。
母は息子と夫との間に入ってとりなそうとするが、オリバーは父を軽蔑しきり、父も彼の身勝手さをなじるため、うまくゆかず、父の、送金を中止するという脅しも蹴ってしまう。
2人はロード・アイランドにいるジェニーの父に会いに行ったが、父は2人を歓迎しながらも前途を心配した。
そして2人は結婚し、生活は貧しかったが、愛し合う彼らは幸福だった。
やがて、オリバーが優秀な成績で卒業し、2人はニューヨークのアパートを借り、オリバーは法律事務所へ勤めることになった。
そんな新しい生活が始まったばかりのところ医者からジェニーの病状を聞かされた・・・。

寸評
一方は名家で富豪の出身で、もう一方は貧しい家の子という身分的違いがありながらも恋に落ちる。
周囲の反対を押し切り結婚したが、やがて一方が不治の病で亡くなってしまうというベタな恋愛ものである。
男女が入れ替わったり、若干のオプションがあったりするが、そのモチーフはよく描かれる内容だ。
本作は奇をてらったような演出がなく正攻法で描いていることで、当時の殺伐とした世の中にあって、この純愛物語は人々の心を打ったのではないかと思うのだが、今見ても安心して見ることが出来る。

オリバーとジェニーは図書館で出会い、その後の交流が手際よく描かれ二人の性格描写が手短に知らされる。
誰もが経験した、あるいは経験したいと思ったような二人の無邪気な関係を、ある者は郷愁を感じながら、ある者はあこがれをもって見ることが出来る。
雪が積もったスケートリンクで戯れるオリバーとジェニーの姿に思わず笑みがこぼれてしまう。
あんな風に楽しんだなあとか、あんなふうに楽しみたかったなあといった感覚が湧いてくる。
ケンカして家を飛び出していったジェニーが見つからず戻ってきたオリバーに“鍵がないの”と涙を浮かべて笑いかけるシーンなどは、男の僕には抱きしめたくなるような可愛さを感じさせた。
兎に角ジェニーは非の打ち所がないと言っても過言でないほどのいい女性だ。
明るく聡明で、彼を愛し献身的でもあり、そんなジェニーをオリバーも誠心誠意愛し抜いている。

そんな平穏な物語に影を落としているのが、オリバーと彼の父親との確執である。
父親は息子を愛しているが、名門ゆえのお仕着せにオリバーは反発している。
対比的に描かれるのが、ジェニーと彼女の父親の関係で、彼女は父親をフィルと名前で呼ぶような間柄で、親子の信頼とお互いの愛情を感じさせる存在である。
しかもこの父親は、オリバーが親子断絶になっているのは良くないと、その仲を取り持つような態度も見せるような良識を持ち合わせているいい父親として描かれている。
この図式も単純なものなのだが、くどくど描いていないのがいい。

暗さのない作品で、ロースクール時代の苦境はあまり描かれず、上辺を通り一辺倒な描き方でスルーしている。
エリート街道も羨ましいし、楽し気な新婚生活は憧れさえ持たさせる描き方である。
そこで映画としては転換を見せ、ジェニーの病が明らかとなる。
散々明るさを振りまいてきたジェニーなので、病床の彼女は絶望感を見せない。
アリ・マッグローの健康的な容姿が悲壮感を弱めてしまっている。
激やせして悲壮感を出すまでには至っていないのだが、これは意図したものかアリ・マッグローの努力不足によるものかは不明だ。
最後に再び「愛とはけっして後悔しないもの」との名セリフが登場し、この映画を締めくくる。
お涙頂戴を強要するでもなく、純愛物を約束通り締めくくりながら終わるが、この自然さが中身がないにもかかわらず、作品を純愛物の名作として存在させている理由ではないだろうか。
もちろん、フランシス・レイの音楽が大いに寄与していることは言うまでもない。

男と女

2018-11-09 10:56:06 | 映画
フランシス・レイさんの訃報に接して。

「男と女」 1966年 フランス


監督 クロード・ルルーシュ
音楽 フランシス・レイ
出演 アヌーク・エーメ ジャン=ルイ・トランティニャン
   ピエール・バルー ヴァレリー・ラグランジェ

ストーリー
アンヌ(アヌーク・エーメ)は夫をなくして、娘はドービルにある寄宿舎にあずけている。
パリで独り暮しをし、年はそろそろ30歳。
その日曜日も、いつも楽しみにしている娘の面会で、つい長居してしまい、パリ行きの汽車を逃してしまった。
そんなアンヌに声をかけたのはジャン・ルイ(ジャン・ルイ・トランティニャン)という男性。
彼も30歳前後で、息子を寄宿舎へ訪ねた帰りだった。
彼の運転する車でパリへ向う途中、アンヌは夫のことばかり話しつづけた。
その姿からは夫が死んでいるなどとは、とてもジャン・ルイには考えられなかった。
一方、彼はスピード・レーサーで、その妻は彼が事故を起したとき、ショックから自殺への道を選んでいた。
近づく世界選手権、ジャン・ルイは準備で忙しかったが、アンヌの面影を忘れられなかった。
次の日曜も自分の車でドービルへ…と電話をかけた。
肌寒い日曜日の午後、アンヌ、ジャン・ルイ、子供たちの四人は明るい笑いに包まれていた。
同時に、二人はお互いの間に芽生えた愛を隠し得なかった。
二人は砂浜で身体をぶっつけ合い、その夜は安宿のベッドに裸身をうずめた。
だが、愛が高まったとき、思いもかけずアンヌの脳裡に割りこんできたのは死んだ夫の幻影だった。
二人は黙々と服を着て、アンヌは汽車で、ジャン・ルイは自動車でパリへ向った。
しかしアンヌを忘られぬ彼は、彼女を乗換え駅のホームに待った。

寸評
ラブロマンスなのだが、そんじょそこいらの恋愛映画とは違う映像詩で語り掛けてくる。
少なくとも僕はこの映画を公開時に見て衝撃を受けた。
恋愛ものに付き物の燃え上がるような会話はない。
フルカラーの映像はもとより、画面はモノトーンになったり、セピア調になったりしながら現在と過去を紡いでいく。
時にシャンソンの歌声でその時の心情を表現したりするが、フラシス・レイの音楽と流れるようなカメラワークが別世界へ観客を誘う。
色調を代えてとらえられる風景はロマンチックな雰囲気を醸し出していく。
総合芸術としての映画を感じさせる、クロード・ルルーシュ会心の一作だと思う。
僕はこの一作に衝撃を受け、その後もルルーシュ作品を何本か見たのだが、ついに「男と女」を超える作品に出会うことはできなかった。

アンヌは愛し合っていた夫を映画の撮影事故で亡くしている。
ジャン・ルイと結ばれた時に、愛し合っていた夫のことを思い出すのだが、その事を語ることはなく、また衝動的にジャン・ルイをはねのけるような行動もとっていない。
かつての楽しい思い出を音楽に乗せながら無音の映像で見せ続ける。
かなり長い時間そんな場面を流し続けることでアンヌの苦悩を表現している。
直接的な言葉でなく映像で語り掛けてくるのは全編を通した手法である。
音楽と映像のテンポ、さらにはセリフのテンポも絶妙にマッチしており、それゆえセリフすらも音楽の一つに溶け込んだように心地良く響いてくる。
「ダバダバダ、ダバダバダ・・・」というスキャットが心地よい。

恋愛映画の金字塔の一つだと思うが、若いカップルのラブロマンスでないところも雰囲気に貢献している。
急激に燃え上がるのではなく徐々に高まっていく感じがよく出ている。
子供たちを交えた海辺のシーン、肩に手を掛けそうで掛けない食事のシーン、その間に割り込むように挿入される犬と散歩する人や、水墨画のような海辺の風景がリズミカルに感情の高まりを感じさせていく。
監督のクロード・ルルーシュが撮影にも参加しており、パトリス・プージェと共にもたらすカメラワークにうっとりとしてしまうし、音楽担当のフランシス・レイのスコアがたまらなくいい。
こんな組み合わせの奇跡が起きるものなのかと思ってしまうほどの見事なアンサンブルである。

ジャン・ルイには母親になっても良いと思っている女性がいそうで、二股をかけているような描写もある。
アンヌはモンテカルロ・ラリーに出場しているジャン・ルイに「愛してる」と電報を打つ積極性を見せたかと思うと、夫の幻影に出会い男のもとを去る。
逃げれば追いたくなるのが人間の性なのか、男は二股女性を棄ててアンヌを猛追する。
去った女は男に未練たらたらでという、そんな中年男女が最後にストップモーションで締めくくられる。
見事というほかない。

津軽じょんがら節

2018-11-04 14:38:13 | 映画
江波杏子さんの訃報が届いた。

津軽じょんがら節 (1973) 日本


監督: 斎藤耕一
出演: 江波杏子 織田あきら 中川三穂子
    西村晃  佐藤英夫  寺田農
    戸田春子 東恵美子  富山真沙子

ストーリー
津軽の荒れ果てた漁村に、中里イサ子(江波杏子)がヤクザ風の若い男をつれて帰って来た。
男は岩城徹男(織田あきら)、よその組の幹部を刺したために追われており、イサ子は徹男を匿うためと、出漁中に死んだ父と兄の墓を建てるつもりだったのだ。
海辺の小屋で二人の新しい生活が始まったが、徹男にとっては単調な毎日が、やりきれなかった。
そんな徹男を、盲目の少女・ユキ(中川三穂子)は慕っていた。
やがて生活に行きづまったイサ子は、村の飲屋に働きに出た。
徹男は、ユキの祖母から、盲目の少女はイタコか瞽女になる、という話を聞いた。
イサ子の稼ぎを当てにしている徹男は、村の連中を集めて花札賭博に熱中していた。
父の遭難には保険詐欺の疑いがあるとして保険金の支払いを拒否され、貯金通帳を飲屋の同僚に持ち逃げされるなど、イサ子の不運は続いた。
しかも、次第に自分から離れていく徹男に不安を感じ、徹男と一緒に村を出ようと決心した。
徹男は、ユキを騙して金儲けをしようという、飲屋の主人・金山(佐藤英夫)の話に乗った。
翌日、旅仕度をした徹男は、何も知らないユキを、客のいる飲屋の二階へ連れて行き、イサ子の待つ停留所へ向ったが、その時、徹男は津軽三味線の音を聞いた。
盲目の女旅芸人--瞽女の中にユキを見た。彼は幻想を見たのだ。
身をひるがえした徹男は飲屋へ戻ってユキを救い、そしてこの村に留まる決心をしたのだった。
そんな徹男を見てイサ子は「ふる里が見つかって、よかったわね」と咳くと、一人村を去っていった。
以来、徹男は海に漁に出て働き、ユキの家に帰っては互いに求めあった。
しかし、その幸福な日は長くはつづかなかった・・・。

寸評
津軽三味線の音色に乗って流れる津軽じょんがら節の歌声が津軽の風情を高めていく・
画面を圧倒するのは津軽の海辺に打ち付ける激しい波と風の音だ。
かつては賑わった漁村も今はさびれ、男たちは出稼ぎに行かねばならなくなっていて、時期によっては老人と女と子供だけになって風雪に耐えている村が舞台である。

イサ子はかつて為造(西村晃)のせがれと駆け落ちしたが別れて、新たな男の徹男を連れて帰ってきた。
とても帰れた場所ではないが、徹男がヤクザ組織に追われていることも手伝って、出漁中に死んだ父と兄の墓を建てる為に故郷に戻ってきた。
僕は転居を繰り返したので生まれ故郷とか故郷(ふるさと)と言う感覚が乏しいのだが、人にとってはやはり故郷は特別な存在なのだろう。
父と兄の船は事故に会い二人はそれで死亡しているのだが、どうやら船の保険金詐欺を計画していたらしく保険金は下りないと言う。
それでもイサ子は故郷に二人の墓を建てたいと思い続けている。
徹男は育った境遇から故郷と言える場所を持っていない。
息子を奪われた茂造の元で、皮肉なことに息子を奪った女の男である徹男はシジミ採りの漁を手伝うことになる。
その様子を見たイサ子がつぶやく「故郷が出来てよかったね」は心に響く。

イサ子の着ている真っ赤なコートが厳しい風景の中でまぶしい。
真っ赤なスカートも着ていて、江波杏子の着ている赤い衣装はさびれた村の中にあっては強烈な印象を残す。
事故で死んだ息子の遺骨を抱いて茂造はイサ子とすれ違うが二人の間には会話はない。
いきさつからして当然の無言なのだが、演じた西村晃と江波杏子の表情が素晴らしい。
咎めることをしない老人と、咎められているような気になる女の心情を見事に活写していた。

近親相姦で生まれたと噂される盲目のユキは無垢な少女である。
徹男はこの少女に心の安らぎを覚えていく。
盲目の少女はイタコか瞽女になるのが常らしいのだが、ユキはイタコになるのは嫌で全国を旅する瞽女になりたいと思っている。
イタコ修行に出かけたユキがムチ打たれ、徹男はイタコを突き飛ばしてユキを救う。
心が通った徹男とユキは結ばれるが、釣り具の内職の様なことをしている祖母と母親は、作業の手を休めることなく別室に消える二人を見送るだけだ。
二人の関係を許し、二人が一緒になってくれればいいと思っているようでもある。
ユキはこれで自分たちは夫婦で間違いないのだなと徹男に問いただす。
盲目のユキが前途に希望を見出した瞬間だが、しかし結末は淋しい。
故郷を持てず、あるいは故郷を去り、ユキは徹男の面影だけを抱いて瞽女になるのだろうか。
江波杏子はシリーズ物の主演も務めた女優であるが渾身の一作と言えばこの作品だろう。
この頃の斎藤耕一はいい作品を撮っていた。