おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

火口のふたり

2022-04-30 09:37:59 | 映画
「火口のふたり」 2019年 日本


監督 荒井晴彦
出演 柄本佑 瀧内公美
声の出演 柄本明

ストーリー
東京で川に釣り糸を垂らしていた賢治(柄本佑)の携帯に、従妹の直子(瀧内公美)の結婚が決まり、直子から賢治に式の日程を連絡するように頼まれたと故郷の父(柄本明)から電話が来る。
東日本大震災の影響で勤めていた印刷会社が倒産して以来、賢治は「プータロー」をしていた。
挙式まであと10日の直子は早朝、式に出るために秋田に帰省した賢治の実家に行った。
賢治の母が死に、父が再婚し、ふだんその家には誰も住んでいなかった。
新居で使うテレビを家電量販店から運ぶのを手伝って直子の実家に行った賢治は、直子が大切にしていたアルバムを見る。
そこにいるのは東京で保母の専門学校に通っていた20歳の直子と、25歳の賢治。
二人が肉欲のままに体を重ねる姿を撮った何枚もの白黒写真だった。
「私の体を懐かしくなったことって本当に一度もないの?」と言う直子。
500万円で買ったという新居にテレビを持って行った後、帰ろうとする賢治をつかまえ直子は「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」と、賢治の唇を、首を、胸を吸い、賢治もそれに応える。
一晩だけのつもりだった。
だが翌日、賢治は直子の実家に行き、直子をテーブルに押し倒してセックスをする。
婚約者が来週の水曜日に出張から帰ってくる。
それまでの五日間、賢治と直子は昔の二人に戻ることにした。
賢治は直子と別れた直後にできちゃった婚で結婚したが、その後浮気をして、娘が1歳の時に離婚した。
それ以来娘と会ったことはなかった。
結婚式を直前に控えた朝、賢治に父から結婚式が延期になったとの電話が入った。


寸評
かつて関係を持っていた男女が、女の結婚を控えて再会してセックス生活を行っているだけの映画と言えばそれまでだが、荒井監督の執念のようなものを感じさせる作品でもある。
直子は子供が欲しくなったと言うだけの理由で結婚を決意していて、結婚相手のエリート自衛隊員に愛情を感じている風でもない。
しかも、一人娘の自分が子供を産まないと母親に悪いからとの思いが根底にある。
つまるところ直子は結婚生活に夢を描いているわけではないので、不本意な生活の入る前にやりたい事をやっておこうとの気持ちが湧いたのだろう。
賢治と直子の関係においては、直子の方が積極的である。
賢治が故郷から離れた時も追いかけて行っているし、今回も直子からモーションをかけている。
1回だけと言いながら、今度は賢治の方が直子から離れられなくなる。

直子は結婚相手に対して生身をさらけ出すことができない。
おまけに相手が自衛官とあって、機密事項を結婚相手にも告げることが出来ないし、直子がそれを知ると叱責されてしまうような関係である。
どこかよそよそしい関係だが、直子は賢治に対しては逆に素直になれてしまう。
直子と賢治の間には愛と言う感覚はなく、一番気楽な相手で何もかもさらけ出すことができる間柄だ。
直子は素っ裸でいることも、お腹が痛くなれば恥じらいなく撫でてもらうこともできる。
要するに気の置けない関係で、一番リラックスして付き合える間柄なのだ。
賢治の亡くなった母親はそんな二人の関係を見抜いていたのかもしれない。
しかし、二人には未来に対する関係性の展望はない。
そんな関係を表現するかのように、二人は事あるごとにセックスにふける。
突然たまらなくなって新居を訪問した賢治が直子に襲い掛かる。
建物の隙間でも事を行う。
スリルを味わうためか、バスの中でも行為に及ぶ。
セックスに対しては無軌道な二人で、その姿を追い続ける荒井晴彦の執念ともいえる粘りはスゴイし、演じた柄本佑も瀧内公美もスゴイ。
二人の姿にはリアリティがある。
見方によってはセックスシーンしかない映画なのだが、どこかで自分を押さえたり演じたりしなければならない結婚生活のつまらなさに比べれば、どこまでも自分に正直な二人の生き方を礼賛しているようにも思える。

富士山の大きな火口の写真がある。
明日にもその富士山が再噴火するかもしれない。
二人の生き方は今にも噴火しそうな火口の周りを歩いているような危ういものである。
明日には吹き飛ばされて死ぬかもしれないので、今日を悔いなく楽しく生きる二人なのだが、どこか破滅的で僕は乗り切れないものを感じた。

革命児サパタ

2022-04-29 07:32:41 | 映画
「革命児サパタ」 1952年 アメリカ


監督 エリア・カザン
出演 マーロン・ブランド
   ジーン・ピータース
   アンソニー・クイン
   ジョセフ・ワイズマン
   マーゴ
   ミルドレッド・ダンノック

ストーリー
1911年、ダイアス大統領の圧政に苦しんでいたメキシコ農民の中に、エミリアノ・サパタという青年がいた。
彼は土地問題でお尋ね者となったため、兄ユーフェミオ、友人パブロとその女ソルダデラを連れて山に隠れたところ、ある日フェルナンドという男からテキサスに住む革命家マデロのことを聞かされた。
サパタは自から革命に乗り出す気はなかったが、マデロには惹かれるものを感じてパブロをテキサスに送る。
サパタはかねて町の豪商の娘ホセファと相愛の仲であったが職のないお尋ね者では女の親が許すはずもなく、彼は歓心を買うため金持ちの牧場に雇われることになった。
この働きが賞でられて、やがて彼は警察の追求も解けた。
ホセファとも対等の立場に立つようになった頃、パブロの手引きで彼はマデロと会見した。
計画によるとサパタとマデロが南北呼応して立てば革命は成就するはずだったが、サパタは固く断った。
しかし、偶然の事故から彼は再びお尋ね者となり、官憲に捕らわれた。
兄やパブロらが民衆の助けで彼を救ったことが革命の口火となり、ついにサパタは同志の協力を得て南部一帯を征圧し、北からはマデロが首都に攻め入った。
メキシコが民衆の手に帰した時、サパタはホセファと結婚した。
平和主義者のマデロの意向によりサパタは武装を解除したが、その隙を見てフェタ将軍が裏切りを行ない、マデロは暗殺された。
サパタはフェタ将軍を倒したものの、この事件はパブロとマデロによる自分をおとしいれる罠であったと邪推し、パブロを殺害した。
彼は大統領に推されたが、兄ユーフェミオは権力に敗れ非業の死をとげた。
かねてサパタを亡きものにしようとしていたフェルナンドは、彼の留守中サパタ討伐軍を起こした。


寸評
この作品は1952年の制作であるが、その年は赤狩りの嵐が吹き荒れており、エリア・カザンはそれまでの姿勢を一転させて数人の友人が共産党員であることを暴露し、尚かつ“NYタイムズ”紙に“自分は共産党員ではない!”と、自費広告まで出して物議を醸した年でもある。
40年近く経ったアカデミー名誉賞受賞の折りにも式場にいた半数の映画関係者が拍手もしなかったから、彼への恨みと非難は根深いものがある。
僕は当時のいきさつを全く知らなかったのでエリア・カザンそのものは評価している。
「欲望という名の電車」、「波止場」、「エデンの東」などの作品を手掛けているからだ。
マーロン・ブランド、ジェームス・ディーン、ウォーレン・ビューティなどを見出したのもカザンである。
マーロン・ブランドはすでに「欲望という名の電車」でカザンと組んでいるが、ここでのブランドもなかなかいい。
僕は「逃亡地帯」でマーロン・ブランドを知り、「エデンの東」のリバイバル上映でカザンを知って、1969年の「アレンジメント/愛の旋律」が最後の出会いとなった。

その後に本作を見ることになったのだが、エリア・カザンらしさは随所に出ていたと思う。
すごいスペクタクル・シーンでもないのだがハッとする美的構図で観客を引き付ける才能を持っている。
サパタたちが列車を襲って武器と弾薬を奪うシーンでの、転覆させた列車の屋根などに乗って喚起する反乱軍兵士を捉えたショットなどは美しいし、ラストの凄まじい射殺シーンの堂々たる構図とカッティングの妙が印象的だ。
連行されるサパタのもとに農民たちが集まってくるシーンなども近景、遠景を取り混ぜて感動を呼ぶ。

それらのシーンに比べると脚本は見劣りがする。
描くべきところを描き切れていないような気がするのだ。
サパタは名家の出らしいが今は貧しく文字も読めない。
罪に問われた彼は裕福な家の使用人となり、そこの主人の釈放運動により自由の身となっているのだが、その経緯などはあまり描かれていない。
資産のなさからホセファの父に結婚を反対されていたところ、サパタが将軍になったことで急に結婚が整うのだが、結婚の儀式の長さに比べれば、そこに至る様子は全く描かれていない。
兄ユーフェミオの土地略奪の件も結末だけで、そうしなければならなかった事情などはユーフェミオの主張で説明されているだけだ。
省くべきところを省けばそのあたりのことをもう少し描き込めたのではないかと思う。

フェルナンドという訳の分からない男が重要な人物となっていくのだが、彼の野望とかマデロとの関係とかが描かれていないので、たんなる戦争好きの男なのかと思ってしまう。
敵軍に農民たちの信仰の深さを語らせ、サパタは生き延び山にいて、いつでも自分達を守っていてくれるのだと思わせるラストは良かったのだから、もう少し丁寧に描いていればなという思いは残った。
これはカザンの演出が悪いと言うよりも脚本そのものに問題があったのではないかと思う。
しかしそれでも僕にとってはカザンとブランドのコンビ作品ということで懐かしさを覚える作品となっている。

隠し剣 鬼の爪

2022-04-28 08:54:24 | 映画
「隠し剣 鬼の爪」 2004年 日本


監督 山田洋次
出演 永瀬正敏 松たか子 吉岡秀隆 小澤征悦
   田畑智子 高島礼子 光本幸子 田中邦衛
   倍賞千恵子 田中泯 小林稔侍 緒形拳

ストーリー
幕末の東北、海坂藩。
母の生前に奉公に来ていた百姓の娘・きえと、3年振りに町で偶然再会した平侍の片桐宗蔵。
だが、伊勢屋という大きな油問屋に嫁ぎ幸せに暮らしているとばかり思っていた彼女の、痩せて哀しげなその容姿に胸を痛めた彼は、それから数ヵ月後、きえが過労で倒れ病床に臥せっていると聞くや、嫁ぎ先へ乗り込み強引に彼女を連れ帰るのだった。
その甲斐あって、やがてきえの体は順調に回復し、宗蔵の侘しい独身生活も、明るさを取り戻した。
しかし、彼の行動は藩内で悪評を呼び、きえを実家に帰すことを余儀なくされてしまう。
そんな矢先、大事件が起こった。
海坂藩江戸屋敷で謀反を働いた罪で郷入りの刑に処されていた藩内きっての剣豪・狭間弥市郎が牢を破り、百姓の家に人質をとって立て籠もったのだ。
そこで、大目付の甲田は彼と同じ剣術指南役・戸田寛斎の門下生だった宗蔵に討手を命じた。
果たして、宗蔵は弥市郎との戦いに挑むも、弥市郎の命を奪ったのは――鉄砲隊の放った銃弾だった。
侍らしい最期を遂げられなかった弥市郎の悔しさを嘆く宗蔵。
更に、家老の堀が夫・弥市郎の命乞いにやって来た桂の体をもてあそんだことを知った彼は、ふたりの無念を晴らすべく、戸田から授かった秘剣“鬼の爪”で堀の命を奪う。
その後、侍の道を捨て蝦夷へ旅立つ決意をした宗蔵は、きえに胸に秘めていた想いを伝え、きえも宗蔵の気持ちを受け止めるのだった。


寸評
この映画は藤沢周平ワールドであり山田洋次ワールドなのだろう。
ごく普通の男が、実はすごい剣の達人で・・・という話は、藤沢周平の短編にはよく見られる設定で、前作の「たそがれ清兵衛」もそうだし、例えば「うらなり与右衛門」や「ごますり甚内」、「ど忘れ万六」、「だんまり弥助」などもそうだ。この「隠し剣鬼の爪」も同様で、貧しい下級武士だが剣の腕だけはスゴイというのが底辺にある。
この映画は別作「雪明り」とで一つの作品にしているから、差し詰め恋愛篇と武術篇とでも呼ぶにふさわしい構成になっている。

さてその恋愛篇だが、僕は松たか子さんのきえはミスキャストだと思う。どうも百姓の娘にしては気品がありすぎるし、病気になっても健康そうで、とても痩せ衰えているようには見えなかった。あまりにも健康的なのだ。
リアリズムを追求して宗蔵を演じる永瀬正敏の月代(さかやき)は伸ばさせて下級武士の実態を表現していたと思うので、なおさら松たか子・きえの百姓屋からの奉公人にはみえない雰囲気に違和感を感じた。もっとも、それを消し去るぐらい、吟から躾られていた事を表現したかったのなら別だけど・・・。

非常に細やかな配慮をしながら作られていると思う。
火鉢を突っつくとパッと火の粉が舞い上がるシーンがごく片隅に映し出され、見ている僕たちが何も思わず普通の光景として見逃してしまいそうな個所にも配慮して、東北の田舎の雰囲気を醸し出していたのは流石だと思う。
冒頭の叔父が漏らす刀と鉄砲談義が、後半部で対照として利用されるためのものである事などは、映画の常套なんだけれども行き届いていると思った。

前作に比べれば山田洋次らしさが出ていて、随分とリラックスしたシーンが盛り込まれていた。倍賞智恵子、吉岡秀隆もいるので何だか寅さんワールドでもあった。
山田洋次作品には本当の悪人らしい悪人が出てこないので、必殺仕置人の如く恨みを晴らしたあとのザマア見ろ的な盛り上がりには欠ける。
家老の堀は悪なのだが、心底憎めないのだ。どうも弥一郎の妻・桂の無念さも伝わってこない。
隣の席のおじさんは宗蔵の秘剣に、「あっ、隠し剣や!」と小さく声を漏らされましたが、僕はそんな感動は持てなかった。もっと拍手喝采するような気分になりたかった。そうなれなかった理由が、堀の悪人ぶりにあったと思う。山田さんは悪人を描くのは苦手な人だと思うし、それをやれば、それはそれで山田ワールドではなくなってしまう寂しさもあるから難しいものだ。

映画は非常に丁寧に作られているから安心してみる事ができる。だけど、僕としてはどうも「たそがれ清兵衛」もそうなのだが喰い足りない気分なのだ。
もっともそれが藤沢周平の世界なのかもしれない。

顔役

2022-04-27 08:02:25 | 映画
「顔役」 1971年 日本


監督 勝新太郎
出演 勝新太郎 山崎努 太地喜和子
   若山富三郎 藤岡琢也 伴淳三郎
   山形勲 前田吟 大滝秀治 蟹江敬三

ストーリー
悪徳刑事か、カッコいい刑事か、立花良太(勝新太郎)は一見しただけでは判断できないタイプの刑事だ。
博奕も打つし、ストリップも木戸御免で、殺人事件の現場へでかける途中で、新米の和田刑事(前田吟)にネクタイを買ってやったり、朝の集合に顔をださなかったり・・・。
だが腕は一流、独得の捜査方法で、立花は某信用金庫の不正融資事件の核心へ。
そして、その裏で糸を引く暴力組織へぐいぐい入り込んでいった。
事件の核である、大淀組と新興の入江組は、無気味な勢力争いを続け、その為白昼、車と人の洪水の中で傷害事件や、ナイトクラブをでた大淀組々長・尾形千造(山形勲)を狙った拳銃乱射事件が起きた。
捜査当局はが然色めき、今度こそは徹底的に暴力組織壊滅へと意気込んだ。
立花は大淀組の若衆頭・杉浦俊夫(山﨑努)を逮捕してもうれつに取調べ始める。
だが、事件の鍵を握る信用金庫の栗原支店長(藤岡琢也)は、家族ぐるみ乗っていた車を滅茶苦茶につぶされて即死してしまう。
さらに何者かの圧力によって突然捜査の打切りが決定した。
立花はいきどおり、警察手帳を課長(大滝秀治)に投げつけ、夜の雑踏へとまぎれ込む。
一方、大淀組と入江組の対立は一層激化。
一触即発の危機をふくみながら、大親分星野(若山富三郎)の仲介で手打式が打たれた。
だが、偽装だった。
これは、裏で立花が仕組んだ一手で、彼の怒りも憎しみも消えていなかった。
数日後、高級乗用車に尾形と同乗した立花は、警察署の前で車をUターンさせた。
やがて車は一望千里の荒ばくたる埋立地を走る・・・。


寸評
牧浦地志のカメラがいいのか、これが監督第一作となる勝新太郎の演出がいいのか、独特の雰囲気を持った作品に仕上がっている。
はみ出し刑事物は、その刑事のキャラクターが第一で、はみ出しぶりを見せる相手や組織が第二の要因として魅力的に描かれなければならない。
勝新太郎という役者は真面目な人間は演じられないような雰囲気を持っていて、はみ出し刑事はうってつけの役どころとなっている。
立花は「自分たちはどぶ掃除の機械みたいなものだ。ゴミをさらってもまたゴミが湧いてくる。だけどどぶ掃除をしなければ日本中がゴミだらけになってしまう」と言っているから、はみ出しではあるが正義感はある男である。
信用金庫の不正融資事件を捜査していくが、元大臣の口利きで捜査が途中で打ち切られることを懸念している。
昇進というレールの上を走っている官僚は上役からの指示は絶対で、捜査の打ち切りを指示されるとそうなってしまうのだろう。
映画においてそのようなシーンが度々見受けられるから、実際にもそのようなことがあるのかもしれない。
大滝秀治の捜査課長もカッコいい事を言っているが、結局彼も上役の指示に従い出世していく。

この映画の特徴を一言で言えばアップの多様である。
多様と言うより、むしろアップばかりをつないだ作品といっても過言ではない。
冒頭、実際の賭場の息つまる緊迫感を背景にクレジットタイトルがシャープに挿入されるところで引き込まれる。
そして本編が始まると、アップ、アップ、アップの連続なのである。
カメラを引いたカットは数えるほどしかない。
その徹底ぶりはきわめて個性的な雰囲気を生み出している。
警察に組織があるように俺たちにも組織があると杉浦が言い、重要な証言者である支店長が家族もろとも事故を装って殺されてしまう非情さを示す描き方はよくあるものだが、ストーリー的にハマっている。
残念ながら終盤に近付くにしたがって描き方にキレがなくなったのは残念だ。
復活した立花は尾形を尾形の専用車で警察に連行する。
そこで最後の仕上げにかかるのだが、立花が尾形を連行したのは組員たちも見ているわけで、尾形が居なくなれば立花の仕業だとすぐに分かってしまうはずだ。
そうすれば組員による報復を受けるか、そのことで立花が逮捕されることになるか、この先が見えてしまっているのではないかと思うので、誰がやったのか分からない描き方で終わった方が余韻を残せたような気がする。
立花と前田吟の若い刑事和田の関係は面白かったので、このコンビの関係をもっと深く描き込んでいれば面白さ倍増だったのではないかと思う。
しかし勝新太郎はテレビの座頭市シリーズでも金銭を無視した斬新な映像を追い求めて破綻していった人だから、勝プロを旗揚げした当初の作品では彼の斬新さがより一層際立っていたのだと思う。
それは確かに菊島隆三の助けを借りた脚本にも有ったと思うのだが、それ以上に牧浦地志のカメラが勝新太郎の感性をくすぐったのだと思う。
勝新太郎は映画史に残る型破りな俳優であった事はゆるぎないのだが、監督として彼の描く映像世界を表現した第一作としては及第点を与えられる出来栄えになっていたと思う。

帰らざる河

2022-04-26 08:33:01 | 映画
「帰らざる河」 1954年 アメリカ


監督 オットー・プレミンジャー
出演 ロバート・ミッチャム
   マリリン・モンロー
   ロリー・カルフーン
   トミー・レティグ
   ダグラス・スペンサー

ストーリー
1875年、ゴールド・ラッシュのアメリカ北西部へマット・コールダー(ロバート・ミッチャム)という男が、今年16歳になる息子マーク(トミー・レッティグ )の行方を尋ねてやって来た。
マークは酒場の芸人ケイ(マリリン・モンロー)の世話になっていたが、マットは彼を引き取って新しく買った農場に落ち着いた。
ある日、マットは農場のはなれを流れている河で、筏に乗って漂流しているケイと夫ハリー(ロリー・カルホーン )を助けた。
賭博師のハリーはポーカーでとった砂金地の登記をするためケイと一緒にカウンシル・シティへ行く途中だった。
マットがこの河は危険だというと、ハリーは銃をつきつけてマットから馬と食糧を奪い、隙をみて銃を奪おうとするマットを殴り倒し、ハリーの態度にあきれるケイを残して一人で旅立った。
マットがケイに介抱されて気をとり戻したとき、農場はインディアンに襲撃されそうになっていた。
彼は直ちにケイとマークを連れて筏に乗り激流を下った。
マットはハリーに復讐しようと思っていたが、ケイは極力それを止めようとし、口論のはずみにかつてマットがある男を背後から射殺したのを暴露したことでマークは父を卑怯な人だと思いこんでしまった。
2日目の夜、マークが山猫に襲われそうになったが、通りがかりの二人の男に救われた。
二人はイカサマ賭博でハリーから砂金地をまき上げられた連中で、ケイに怪しい振る舞いをしかけたがマットに追い払われた。
マットら三人はインディアンの執拗な追跡を逃れ、ようやくカウンシル・シティに着いた。
ケイからマットに詫びるよう忠告されたハリーは、承知した風を装い、隙を見てマットめがけて滅茶撃ちをしかけた・・・。


寸評
主要登場人物は四人で、主演はロバート・ミッチャムとマリリン・モンローなのだが、この映画は間違いなくモンローの映画だ。
酒場で歌う女と、ジーンズをはいた気丈な女を演じているが、スタイルもいいし生歌を聞けるのもいい。
余り作品に恵まれてこなかった彼女自身がかぶさってくるケイという役柄だった。
伝説の女優になってしまったマリリン・モンローだが、その魅力は十分引き出されていると思う。

彼女の魅力は堪能できるのだが、ストーリーとしては稚拙で、これは脚本が悪いのかもしれない。
父親が留守の間に母親は亡くなっているのだが、その後のマークの暮らしぶりが分からない。
それが分からないからケイがマークを世話をしていた期間とか、どうのように世話していたのかは不明である。
ハリーは鉱山の権利書をギャンブルで勝って手に入れたようなのだが、その詳細が分からないことは許せても、鉱山の登記を終えても戻らなかった理由の説明がないのは不満である。
ハリーがマットを撃とうとした理由も不明だし、カウンターに置いていったはずの拳銃をなぜ持っていたのかの描写もない。
先住民のインディアンが執拗なまでにマットたちを追い続けている理由もよくわからない。
ハリーを追ってきた二人組もあっさり消えてしまって二度と登場しない。
マットに「生きてろよ、俺が殺してやる」と言い残して去ったはずなのにである。
そのように何かにつけて説明不足で、そのために全体的な盛り上がりに欠ける作品になってしまっている。

一方でマットとケイのラブ・ロマンスがあるのだが、マットが急にケイを襲う場面などがあって、徐々にマットとケイの間が縮まっているという雰囲気が描かれていない。
最後にマットがケイをかっさらうような形で農場へ戻っていくのだが、その劇的なシーンが唐突に思えてくる。
ラブ・ロマンスの描き方としては失敗していると思う。

川下りのアドベンチャー映画の側面も持っているのだが、制作年代からして仕方がないのかもしれないが、あからさまな合成はちょと興ざめしてしまう。
映画の中ではハリーとケイの関係、マットとハリーの関係、マットとケイの関係などが描写されるが、この映画を救っているのはマーク少年とケイの関係だ。
どのような経緯かは知らないが、二人は古くからの友達だと言っている。
ケイがマークに接するときは母性本能を見せて、実の母親以上なのである。
ラストシーンにおいても、馬車に乗ったマークを抱きしめるシーンがあって、この二人の関係は微笑ましいものがあって、僕がもうひとつしっくりこないものを感じていた三人の旅の中にあって安心できる描写になっていた。
息子への愛の間に割って入ることなどできないと思ったのか、ケイは元の酒場女に戻るのだが、「私はもう生活のための酒場女には戻らないわ」といった気持ちの表れの赤いヒールは印象的で、ずっとその靴が入った袋を持ち続けていたことだけは納得させられた。
これでもかとばかりにマリリン・モンローを引っ張り出しているし、悩ましい姿も披露させているので、まったくもってこれはマリリン・モンローのための映画であった。


快盗ルビイ

2022-04-25 07:38:07 | 映画
「快盗ルビイ」 1988年 日本


監督 和田誠
出演 小泉今日子 真田広之 水野久美 岡田真澄
   木の実ナナ 陣内孝則 吉田日出子 高見恭子
   奥村公延 富士真奈美 秋野太作 天本英世

ストーリー
ある日DM発送会社に勤める林徹(真田広之)のマンションに女の子(小泉今日子)が引っ越してきた。
彼女は加藤留美というフリーのスタイリストだが、本当はルビイという名の快盗だった。
徹はさっそく相棒として犯罪を手伝わされる。
まずは巧妙な手口で食料品屋の親父(天本英世)から売上げ金を盗んだが、中味は大金とは程遠くて経費を差し引くと赤字だった。
頭の切れるルビイと頼りない徹だったか、二人は次に銀行襲撃を計画した。
しかし、これも徹が脅迫の手紙と買物メモを間違えて失敗。
ルビイは凝りずに宝石店詐欺を試るが、あっさり店主(斎藤晴彦)に見抜かれてしまう。
犯罪計画を楽しむような二人は豪華マンションに忍び込むが、管理が厳しくて脱出するのに精一杯で物を盗むどころではなかった。
徹はルビイが好きだが、彼女には恋人(陣内孝則)がいた。
ルビイが喧嘩した恋人に宛てた手紙を取り戻してほしいという。
徹は気やすく引き受けるが、運悪く警察に捕まってしまう。
気のいい刑事(秋野太作)と法医学者(名古屋章)の計らいで徹はすぐに釈放されたが、ルビイはそんな自分のワガママを聞き入れてくれた彼を暖かく迎えた。
そして今度は徹のほうが、新しい犯罪計画をルビイに持ちかけるのだった。


寸評
小泉今日子は1980年代のアイドルの一人で、KYON2(キョンキョン)の愛称で松田聖子と中森明菜の2強に続く存在だった。
1982年に歌手としてデビューし、アイドル歌手として活躍していたが年齢を重ねて女優業が多くなっていった。
「快盗ルビイ」は初期に属する作品で、時期的にもアイドル映画と言ってよいと思う。
アイドル映画としてはよくできており、喜劇ファンタジーとして単純に楽しめるし、キョンキョン・ファンならば十分に楽しめる内容となっているが、特段のファンでない僕は内容の軽薄さに乗り切れないでいる。
通常だと「怪盗ルビィ」とされるべきタイトルを、わざわざ「快盗ルビイ」としていて内容を髣髴させている。
話の展開も映像もポップな感じで進んでいき、小泉今日子の真っ赤な口紅が脳裏に残る作品である。

監督・脚本の和田誠は著名なイラストレーターで、飄々とした風合いのイラストは味わいがあり、僕たちの世代の者は彼のイラストをあちこちで見かけていたと思う。
僕は氏がキネマ旬報に連載されていた「お楽しみはこれからだ」が単行本化された2冊を持っているが、作品中のセリフを基にしたエッセーで、シンプルなイラストが素敵な読み物である。
本作は彼の描くイラストそのままに、かわいらしくもちょっと大人っぽいロマンチックな仕上がりとなっている。
真田広之が小泉今日子と出会い自転車の稽古をする出だしに続き、食料品屋の親父からカバンをだまし取るエピソードで示されるのが、盗んだカバンを返しに行く理由が赤字だからという滑稽なことから、それ以降の犯罪がどのように失敗していくのかに興味がいくように仕向けられている。
そして何よりもファッションを含め、小泉今日子がカッコイイ女性として描くことに重点を置いている。
それを際立たせるために真田広之に変な格好をさせていたと思われる。

宝石店での失敗、銀行強盗の失敗、高級マンションでのコソ泥の失敗、手紙の奪還作戦の失敗が面白おかしく描かれていくが、アイドルの小泉今日子を犯罪者にするわけにもいかず、可愛く失敗を重ねていく様子は真田広之の可笑しさもあって肩がこらない。
二人のデュエットも楽しめるシーンとなっている。

面白くさせている要因の一つに豊富な脇役陣がある。
真田広之の母親役を水野久美が演じて出番も多いが、チョイ役として食品店の主人に天本英世、宝石店の店主で斎藤晴彦が滑稽な演技を見せ、銀行の窓口係りとして吉田日出子、愛人関係らしい二人に岡田真澄と木の実ナナ、小泉今日子の恋人に陣内孝則、刑事が秋野大作で、法医学室担当の名古屋章が最後に粋な言葉と粋な計らいで真田広之を助ける。
その他にも伊佐山ひろ子、富士真奈美などが出ていたが、チョイ役として前述の名古屋章が最後を締めていた。

シーンの所々で絵画的な映像演出が見られ監督がイラストレーターであることを感じさせる。
特にラストシーンで夜空を見上げるシーンはそれらしい。
若い頃の小泉今日子を見る分には随分と楽しめる映画である。

母べえ

2022-04-24 07:33:47 | 映画
「母べえ」 2007年 日本


監督 山田洋次
出演 吉永小百合 浅野忠信 檀れい 志田未来
   佐藤未来 中村梅之助 笹野高史 吹越満
   左時枝 小林稔侍 鈴木瑞穂 倍賞千恵子
   戸田恵子 大滝秀治 笑福亭鶴瓶 坂東三津五郎

ストーリー
昭和15年の東京で家族と共に倹しくも幸せに暮らしていた野上佳代(吉永小百合)だが、反戦思想を持ったドイツ文学者の夫、滋(坂東三津五郎)が治安維持法違反で検挙されてから、その暮らしは一変する。
不安を募らせる野上家に、一筋の光として現れたのが、滋のかつての教え子である山崎(浅野忠信)だった。
小さな出版社に勤める彼は、不器用だが優しい性格で長女・初子(志田未来)と次女・照美(佐藤未来)に親しまれ、“山ちゃん”の愛称で野上家に欠かせない存在となる。
滋がいつ帰れるか全く見通しが立たないため、佳代は小学校の代用教員として一家の家計を支え始める。
帰宅すれば深夜まで家の雑事に追われる毎日の中、滋の妹の久子(檀れい)が時折手伝いにきてくれた。
そして夏休みの間だけ、叔父の仙吉(笑福亭鶴瓶)が奈良から上京してくる。
変わり者の仙吉は、デリカシーのない発言をして思春期を迎えた初子に嫌われてしまうが、その自由奔放な姿は佳代の心を癒した。
昭和16年に入り、佳代の故郷・山口から、警察署長をしていた父・久太郎(中村梅之助)が上京してくる。
思想犯となった滋との離婚を命じるためだが、佳代の心は少しも揺るがなかった。
そしてその年の12月8日、ついに太平洋戦争が勃発。
昭和17年に入り、滋が獄死し、その悲しみに追い打ちをかけるように、山崎に赤紙が届く。
3年後、ようやく終戦となるが、山崎は戦死し、久子は故郷の広島で被爆して亡くなっていた。
そして現在、美術教師となった照美(戸田恵子)は、初子が医師として勤める病院に入院している佳代の容態が悪化したと聞き、病院に駆けつける。


寸評
黒澤明作品の常連スタッフで知られる、野上佳代の自伝的小説を映画化したものだが、 野上佳代を演じた吉永小百合の頑張りが目に付く。
この時、吉永は62歳で映画の中では9歳の娘を持つ母親役である。
30歳は若い人物を演じていたわけで、さすがに日本で一番美しい62歳と思わせる奮闘ぶりである。
少々無理もあるのではないかと思わせるが、海岸を走り、海に飛び込み人命救助するアクションシーンまで必死にこなしているのを見ると頑張っているなあと思わせる。
いくら水泳が得意だと言っても、走る姿などを見ると気の毒に思え、ほかに適役がいなかったものかと思ってしまったのだが、そう思わせるほど吉永小百合は頑張っていたと思う。

この映画の役者はみな上手に仕事をこなしているが風貌に反して芝居は上品だ。
現実の野上佳代さんのイメージはない。
それは映画なのでまあいい。
夫である滋、その教え子である山ちゃんが髪の毛がバサバサの冴えない姿で登場するが、どこかに気品を漂わせている。
滋は大学の先生だし、山ちゃんはその教え子だから、当時としてはインテリ層でそんな雰囲気を持っていたのかもしれないが、やはりハイソサエティを感じさせる。
滋の妹の久子を演じた檀れいも吉永に負けず劣らず、どこかいいとこのお嬢さんといった感じである。
借家住まいの生活に苦しむ一家だが、落ちぶれた上流階級の人たちの様な感じだ。
日本映画史に燦然と輝く宝石のような映画女優に、この役を与えたためのものだったのかもしれない。

山ちゃんは佳代の歌う姿に見とれ、そのことを通じて山ちゃんの佳代への思いを表現している。
一方、山ちゃんを送る久子は十五夜の月を見上げる場面で自分の気持ちをほのめかす。
あくまでも秘めた思いなのだ。
三角関係がもっと濃密に描かれるかと期待したが、まったくもって簡単な結末で終わってしまった。

人情ホームドラマ的なユーモアは健在だが、終盤になると山田洋次の持つ左翼思想が出てきて左翼プロパガンダ的演出が見受けられる。
僕が山田洋次をそのようにみているせいかもしれない。
それでも、戦争は庶民の幸せを奪い取ってしまうものなのだという思いは感じ取ることが出来る。
父を父べえ(とうべえ)、母を母べえ(かあべえ)、長女初子を初べえ(はつべえ)、次女照美を照べえ(てるべえ)と呼び合うユニークな家族の親子愛を描いた作品だったのだが、最後はやはり戦争反対だった。
別に悪いことではないのだが。
しっかり者の初べえ(倍賞千恵子)が医者になり、久子から私より絵が上手いと言われていた照べえ(戸田恵子)が美術の先生になっていたので、野上家はその後まあまあいい暮らしが出来たのではないかと想像。
良かったと思ったが母べえが最後に「向こうに行けば父べえにも久子おばさんにも山ちゃんにも会える」と言われ、「死んでから会いたくない、生きて会いたかった」と囁くのはやはり戦争への大きな抵抗だったように思う。

かあちゃん

2022-04-23 12:07:46 | 映画
「か」の作品は2回にわたって紹介しています。
1回目は2019/3/1の「会社物語 MEMORIES OF YOU」からでした。
その後、「怪談」「海炭市叙景」「顔」「ガキ帝国」「鍵泥棒のメソッド」「隠し砦の三悪人」「影武者」「風と共に去りぬ」「家族」「家族ゲーム」「かぞくのくに」「学校」「カッコーの巣の上で」「勝手にしやがれ」「葛城事件」「カティンの森」「彼女の人生は間違いじゃない」「蒲田行進曲」「神々の深き欲望」「紙の月」「紙屋悦子の青春」「髪結いの亭主」「ガメラ 大怪獣空中決戦」「ガメラ2 レギオン襲来」「かもめ食堂」「花様年華」「カルメン純情す」「川の底からこんにちは」「ガンジー」「歓待」「カンバセーション…盗聴…」「がんばっていきまっしょい」を紹介しました。

2回目は2020/12/6の「海外特派員」からでした。
その後、「海軍特別年少兵」「鍵」「駆込み女と駆出し男」「影なき男」「影の軍隊」「陽炎座」「カサブランカ」「華氏451」「家族はつらいよ」「火宅の人」「学校II」「カプリコン・1」「カポーティ」「カメラを止めるな!」「カルメン故郷に帰る」「華麗なる一族」「華麗なる賭け」「がんばれ!ベアーズ」を紹介しております。
興味のある方はバックナンバーからご覧ください。

3回目の今回は、追加で思いついた作品を紹介します。

「かあちゃん」 2001年 日本


監督 市川崑
出演 岸恵子 原田龍二 うじきつよし 石倉三郎
   中村梅雀 勝野雅奈恵 山崎裕太 飯泉征貴
   紺野紘矢 宇崎竜童 春風亭柳昇 コロッケ
   尾藤イサオ 常田富士男 小沢昭一

ストーリー
飢饉による不景気で貧窮生活を余儀なくされていた天保末期の江戸。
老中・水野忠邦による改革の効なく、江戸下層階級の窮乏は更に激化していた。
とある貧乏長屋で5人の子供を育てる気丈夫な母おかつ(岸惠子)。
だがおかつの家では一家総出で働いてかなりの金を貯め込んでるという噂があった。
ある夜、その噂を聞きつけた若い男・勇吉(原田龍二)が泥棒に入るが、勇吉と出くわしたおかつは怯えることもなく、彼に金を貯めている理由を語った。
その理由とは、おかつの長男・市太(うじきつよし)の大工仲間で、3年前に生活に困った挙げ句に仕事場の帳場から盗みを働いた源さん(尾藤イサオ)が牢から出て来た時に、新しい仕事の元手にする為のものだったのだ。
そのことをおかつから聞かされた心根の優しい勇吉は、他人の為にそこまでやるおかつたちの気持ちに感動し何も盗らずに去ろうとするが、そのままおかつに引き留められ、彼女の5人の子供たちと一緒に暮らすことになる。
やがて、おかつによって身元の証の書付まで用意して貰った勇吉は、市太の紹介で職にも就いた。
ある日、「俺ァ、生みの親にもこんなにされたことがなかった」と勇吉は感謝の気持ちを口にした。
しかし、それを聞いたおかつは声を震わせて怒鳴った。
「子として親を悪く云うような人間は大嫌いだよ!」
その言葉に、一層、人間を心底愛するおかつの心を知った勇吉は、心の中でそっと呟いた。
「かあちゃん」と・・・。


寸評
人情小話の落語を聞いているような作品で、色を落としたセピア調の画面で雰囲気を出している。
飢饉に苦しむ庶民の長屋のセットがさらに彼らのおかれた状況を表していて美術の健闘が光る。
出演者数も限られていて群衆シーンなどはない。
中村梅雀、春風亭柳昇、コロッケ、江戸家小猫の4人が狂言回し役としていつも居酒屋でたむろしているが、この居酒屋の客は彼ら以外にはいない。
長屋の女将さん連中が集って騒ぐ場面もなく、錆びれた長屋であることも分かる。
落語の枕よろしく、映画のタイトルが出る前に石倉三郎の熊五郎宅に入る泥棒のエピソードが描かれる。
この小ネタでもって、この作品の雰囲気が知らされていた。

気丈な母親であるおかつに岸恵子が適役だったのかどうか判断に苦しむが、でも彼女の持っている凛とした雰囲気はおかつの人柄を表してはいた。
人情話なので悪人は出てこない。
泥棒の勇吉も優しい男で、おかつの説教に素直に従ってしまう。
大家の小沢昭一もひょうひょうとしていて適役だった。
珍しく好々爺を演じていて、今まで演じてきた特異なキャラクターとおさらばしている。

牢屋から出てきた源さんを迎えるシーンはホロリとさせられる。
人の親切、人の情が薄れていく昨今だが、ここで描かれた人と人の無償の係わり合いに感激するようでは現実社会はいい世の中とは言えない。
私も少年の頃、可愛がってくれた近所のおばさんの家でいつも昼ご飯を頂いていた。
「昼ご飯を一緒に食べていき」と言うのが常の事で、幼かった私はその言葉に遠慮するなどと言う心配りなど持ち合わせておらず、いつも腹いっぱい食べさせていただいていた。
そのまま居残り、兄貴分と慕う先輩にべったりだったことを思い出す。
そんな近所付き合いは無くなってしまったような気がする。

珍しくなった家族愛も描かれる。
子供達5人は母親を信頼し、母親の意見に素直に従っている。
4男1女で末っ子の七之助はまだ幼い。
その七之助も普請のあった屋敷などに行っては鉄くずを集めてきて金に換えている。
これなども私が幼かったころにやっていた行為だ。
電力会社の電線工事があれば、前述の兄貴分の号令のもと切り落とされた銅線を皆で拾い集める。
当時は銅が結構いい値で売れて、集められた銅線を鉄くず屋へ持っていくと幾ばくかの菓子代ぐらいにはなって、皆でその分け前にありついたことも思い出された。

娘のおさんが勇吉に思いを抱いていることをほのめかしながら、この家族の結束と信頼を描いて映画は終わるが、特別の感動をもたらす作品ではなく、誰もの心に染み入る文部省推薦的な作品であった。


女は二度生まれる

2022-04-22 07:50:01 | 映画
「女は二度生まれる」 1961年 日本


監督 川島雄三
出演 若尾文子 藤巻潤 フランキー堺 山村聡
   山茶花究 山岡久乃 倉田マユミ
   村田知栄子 高野通子 江波杏子

ストーリー
靖国神社の太鼓の音が聞こえる花街で、芸者小えん(若尾文子)は建築家の筒井(山村聡)に抱かれていた。
売春禁止法も彼女にとってはなんの拘束も感じさせなかった。
そんな彼女にも心をときめかすことがあった。
それはお風呂屋への行き帰りに顔を合わせる大学生牧純一郎(藤巻潤)に行きあう時であった。
しかし彼女の毎日は、相かわらず男から男へと、ただ寝ることだけの生活だった。
そんな時知りあった寿司屋の板前、野崎(フランキー堺)にふと触れ合うものを感じ、商売をはなれて泊ったりしたのだが、この野崎も将来のことを考え、子どもまである女(仁木多鶴子)のところに入婿に行ってしまった。
その一方、彼女は遊び人の矢島(山茶花究)と箱根に遠出したりした。
その帰りではじめて牧と口をきいたが、大学をでた彼はよそに行くとのことで彼女は淋しかった。
そんなある日、彼女のいた置屋の売春がばれて営業停止になった。
彼女はもとの同僚にさそわれるまま、銀座のバーにつとめ、そこで筒井に再会し、すすめられて二号となった。
ロードショー劇場であった少年工(高見國一)をかわいがって筒井を怒らせたりした。
しかし、筒井が病にたおれると本妻(山岡久乃)の目を盗んで賢明に看病したりもした。
そして一時小康をたもった筒井が死ぬと写真をかざり、喪服を着てなげいた。
彼女はふたたび座敷にでて牧に再会したが、彼が外国人客の接待をたのんだのを知って絶望した。
街で彼女はいつかの少年工に会い、少年が山に行きたいのを知って、故郷へ行って見ようと思った。
その途中、妻子ともに幸福そうな野崎にばったり出あった。
彼女から金をもらって元気に山にでかける少年を見送り、故郷へ行く決心をした彼女の目には新しい人生を生きていこうという生きがいのようなものが見られた。


寸評
冒頭で小えんが筒井と寝床を共にしている時に靖国神社の太鼓が聞こえてくる。
靖国神社はこの映画における一つのファクターとなっていて、小えんが大学生の牧と両親について語るのも靖国神社の境内である。
牧の父親は戦死していて靖国神社に祭られているが、小えんの両親は空襲によって亡くなっている。
菊のご紋を背景にその事が語られるが、牧が語るときはカメラは正面を向き、小えんが語る時にはカメラは下から仰ぎ見ていて、語る内容と共に父親の死の違いによる二人の歩んだ道の違いを象徴的に見せる。
牧はアルバイトにも恵まれているが、小えんは肉親を亡くし、芸者とは名ばかりの売春婦の道を歩んでいる。
一人ぼっちになった小えんは疑似家族を作っていく。
「お父さん」と呼ぶパトロンの筒井であり、「お母さん」と呼ぶ置屋の女将だ。
「お姉さん」と呼ぶ先輩芸者がいて、小えんを姉さんと呼ぶ後輩芸者はさしずめ「妹」たちだ。
泉山という工員は小えんにとっての「子供」なのだろう。
小えんはそれらの疑似家族の中で次々と男と関係を持ちながら渡り歩いていく。
ところがその時の小えんには商売気が感じられず、情を移しての交際を結んでいるように見える。
小えんは気立ての良いいい女で、和服姿の若尾文子が輝いている。
京マチ子や山本富士子に若尾文子が当時の大映におけるスター女優であったと思うが、世の中をしたたかに生きる女を演じさせると若尾文子が天下一品だったと思う。
若尾文子は川島雄三や増村保造と組んで数々の傑作を生み出している。
京マチ子が溝口健二の「雨月物語」、黒澤明の「羅生門」、衣笠貞之助の「地獄門」などで、海外の映画祭で次々と受賞し「グランプリ女優」と呼ばれたりしたが全て海外で受ける時代劇だった。
現代劇をやれば、僕は当時の女優の中ではやはり若尾文子が一番だったと思っている。

筒井の二号であった若尾文子と本妻である山岡久乃が言い争う場面がある。
本妻は筒井があげたと思いこんで母の形見のヒスイを返してほしいと言いがかりをつけに来る。
その事でののしり合う本妻と二号との言い争いは男を巡る女の言い争いとして見苦しく見せる。
若尾が撒いた清めの塩が母親を迎えに来た娘の顔にかかってしまう。
女学生の娘が立派な挨拶をして芸者仲間たちから感心されるが、これは少女がしっかりしていたからではない。
小えんがお父さんと呼んでいた死んだ筒井にとって、ここで一堂に会した者たちは本妻を含めてすべて彼と血がつながっていない連中で、唯一彼の血を引いているのがこの娘だけであったからなのだ。
血は水よりも濃いと言われる事が見事に表されているシーンだったように思う。
家族を得て幸せそうな野崎の姿を見て、最後に小えんは血のつながりがある育ててくれた叔父の家に向かう。
一人列車を待つ小えんのいる所は上高地であり、後ろには乗鞍の山々がそびえている。
男の間をあっちへフラフラ、こっちへフラフラとやってきた小えんだが、彼女の後ろにある山は堂々として決して動くことはない。
小えんは野崎の姿を見たからではなく、雄大な山の景色を見て自分の生きる道を考え直したのだと思う。
後になって、上高地に着物で訪れる人なんているのだろうかと思ったのだが、そんな疑問を感じさせない若尾文子のたたずまいであった。

オレゴン魂

2022-04-21 08:04:14 | 映画
「オレゴン魂」 1976年 アメリカ


監督 スチュアート・ミラー
出演 ジョン・ウェイン
   キャサリン・ヘプバーン
   ストローザー・マーティン
   リチャード・ジョーダン
   アンソニー・ザーブ
   ジョン・マッキンタイア

ストーリー
アーカンソー州西部地区保安官代理ルースター・コグバーンは、派手に人殺しをやりすぎるために、パーカー判事にバッジを取りあげられてしまった。
ところがある日、悪名高いホークをボスとする一味が、荷馬車一杯のニトログリセリンを運搬していた騎兵隊を皆殺しにするという事件が勃発した。
一味の中にはルースターのかつての友人のブリードも入っているという。
そこでパーカー判事はコグバーンに、ホーク一味の生捕りに賞金2000ドルと終身保安官の地位を与えることを条件にホーク一味追跡を申し出た。
翌日、コグバーンはホーク一味追撃の旅に出かけフォート・ルビーという町に着いたが、一足先にホーク一味がこの町で暴れまわり、教会の牧師のほか多数のインディアンを殺したことを知った。
そして、牧師の娘で婚期をはるかに過ぎたユーラとインディアンの少年ウルフが彼と一緒にホーク一味の後を追って仇討ちをすると言い出した。
コグバーンは、何とか彼女を思いとどまらそうとしたが、結局2人を連れて旅を続けることになった。
やがて、コグバーンたちは、ホーク一味が騎兵隊から奪った荷馬車の周囲でキャンプしているのに出くわした。
ホークとブリードは出かけていなかったが、コグバーンは巧妙な作戦で彼らを混乱させた。
だが一瞬気を抜いた彼を救ったのは、ユーラの見事な射撃の腕だった。
彼女は、少女時代、初恋の青年から射撃と乗馬を教わっていたのだった。
一方、荷馬車を奪われたことに気づいたホークたちは、3人を追った。
夜が明ける頃、大きな河の渡し場に到着した3人は、急流にイカダを漕ぎ出した。
一足ちがいで河岸に先着していたホーク一味のルークは河面にロープを張り渡し、イカダを止めようとした。


寸評
「勇気ある追跡」の主人公ルースター・コグバーンが再び登場するので内容的には「続・勇気ある追跡」と言っても良いが、出来栄えは前作の足元にも及ばない。
これでキャサリン・ヘップバーンが出演していなくて、ジョン・ウェインとの掛け合いがなければ全く面白くない作品になっていたであろう。
これは監督のヘンリー・ハサウェイとスチュアート・ミラーの力量の違いだったと思う。
スチュアート・ミラーはジョン・フランケンハイマーの「終身犯」や、アーサー・ペンの「小さな巨人」などの製作者でもあり、監督としてではなく、そちらの方で映画史に名を遺した人だと思う。

前作におけるキム・ダービーのマティに代わるのがユーラ(シスター)のキャサリン・ヘップバーンで、相手役としては少女からオバサンになっているが、冗長な流れの中にあってジョン・ウェイン共々老優二人のやり取りは文字にすると味わいが薄くなるが見応えがある。
二人の丁々発止のやり取りが場面の多くを占めているので尚更そう感じる。

コグバーンが保安官バッジを取り上げられる経緯では、助手を殺されたための仇討と言う側面を描き込んでおくべきだったと思う。
判事の前で遺族となった奥さんへ顔向けができたと述べているが、彼の犯人射殺がやむを得ず行われているという説明として必要だったのではないか。
キャサリン・ヘップバーンが開拓している村が襲われるが、彼女の去った後の村をだれに託したのかが分からないし、草むらに逃がした子供たちはどうなったのか。
全体にそのような細かい描写を省略しているために大雑把な感じを受ける作品となっている。
保安官になりたいと言っていたウルフも結局シスターと共に説明もなく村に帰って行った。

一番まずいのはホークを初めとする悪役に迫力がないことだ。
ホークは仲間を見捨てる非情な面を見せてはいるが、コグバーンと対等に戦う相手としては小者の感じがする。
実際ホークはコグバーンにやられっぱなしである。
コグバーンはニトログリセリンを運んでいるので、一味がなかなか銃撃できないという一面もある。
決着の付け方も断然「勇気ある追跡」におけるコグバーンの方がかっこよかった。
「オレゴン魂」は西部劇としての醍醐味は持っているのだが、やはりここぞという見せ場は有しておいてほしい。

見ながら僕はキャサリン・ヘップバーンが急流下りをやる映画があったなと思い出していたのだが、たぶんそれは「アフリカの女王」だったと思う。
ジョン・ウェインが最後に「あいつ、またいいところを持っていきやがった」とつぶやくが、僕はもしかするとこのセリフはジョン・ウェインのアドリブだったのかもしれないなと思っている。
映画はジョン・ウェインとキャサリン・ヘプバーンの共演作として存在しているような印象。

ALWAYS 三丁目の夕日'64

2022-04-20 08:45:51 | 映画
「ALWAYS 三丁目の夕日'64」 2011年 日本


監督 山崎貴
出演 吉岡秀隆 堤真一 小雪 堀北真希
   薬師丸ひろ子 もたいまさこ 三浦友和
   須賀健太 小清水一揮 染谷将太 マギー
   温水洋一 神戸浩 ピエール瀧 正司照枝
   森山未來 大森南朋 高畑淳子 米倉斉加年

ストーリー
昭和39年(1964年)。
オリンピック開催を控えた東京は、ビルや高速道路の建築ラッシュとなり、熱気に満ち溢れていた。
そんな中、東京下町の夕日町三丁目で、ヒロミと結婚した小説家の茶川竜之介は、高校生になった古行淳之介と3人で仲良く生活している。
茶川商店の一角は改装され、ヒロミがおかみを務める居酒屋「新山藤」となった。
ヒロミは身重で、もうすぐ家族が一人増える様子。
茶川は「冒険少年ブック」の看板作家として連載を続けているが、最近は新人小説家の作品に人気を奪われつつあった。
編集者の富岡から「もっと新しい雰囲気で」と言われ、茶川はますますスランプに陥っていく。
一方、鈴木則文とその妻・トモエ、一人息子の一平、住み込みで働く星野六子が暮らす鈴木オートは、順調に事業を拡大し、店構えも立派になった。
六子にも後輩の従業員ができ、厳しく指導をする姿はすっかり一人前。
彼女無しでは鈴木オートの仕事は回らないほどであった。
そんな六子は、毎朝おめかしをして家を出て行く。
それは、通勤途中の医者・菊池孝太郎とすれ違い、朝の挨拶をかわすためだった。
六子のほのかな恋心を温かく見守るのは、大田キン。
そして小児科医・宅間史郎は、今日も町の人のために診療を続けている。
そんな折、茶川が隠していた、とある電報をヒロミが見つけてしまう……。


寸評
毎回お定まりのストーリーと音楽、同じセットで同じお客さんを泣かせるプログラムピクチャーであるが、経済成長を目指す日本にあって、それらとは無縁のように家族の生活を良くしようと頑張ってはいるものの、人を追い落としてまで無理な出世をしようとか、金を稼ごうなどということは考えない人々の交流にノスタルジーと感動を覚えるし、
僕たちの世代の者にとっては、みんなでテレビを見に隣の家に行ったりしていた昭和が懐かしく思い出される。
1964年は東京オリンピックの年で、僕は中学三年生だった。
VFXを駆使した昭和の景色も懐かしい。

3作目となった今回はエピソードがてんこ盛りで、もう少し整理すればよかったのにと思ってしまう。
今回は六ちゃん(堀北真希)の恋と結婚が描かれる。
青森の両親を差し置いて、自分の娘のようにやきもきする鈴木夫妻(堤真一、薬師丸ひろ子)の姿が微笑ましい。
茶川(吉岡秀隆)はスランプで、匿名作家として人気を得ている淳之介(須賀健太)との確執も描かれる。
親子の確執は茶川と父親(米倉斉加年)にもあったのだが、父親の影ながらの応援に涙してしまう。
茶川竜之介と父親、茶川竜之介と淳之介、鈴木則文と六子と、今回は親子関係にも焦点が当たっている。
淳之介も六子も実の子供ではない。
しかし鈴木オートも茶川も、二人を実の子供以上に気に掛けているのである。
二組の親子を別々の視点で見ながら、愛情を紡いでいく展開が感動を呼ぶ。
茶川は父親が気持ちを押し殺して自分にしてくれたことを淳之介に対して行う。
茶川と父親の確執が、茶川と淳之介の確執を溶かしてゆく変化が巧みだ。

六子はやけどの治療をしてもらったことから、外科医の菊池(森山未來)に恋い焦がれる。
ところが、菊池は女遊びがひどくてヤクザともつきあっているようだとのウワサがある。
その噂を気に掛けながらも六子を応援するキン(もたいまさこ)やヒロミ(小雪)もおなじみのメンバーである。
すったもんだがありながらも六子と菊池は結婚し、初代の新幹線「こだま」に乗って新婚旅行に旅立っていく。
六子の服装が懐かしい。
今ではすっかりラフな服装で出かけるのが当たり前となった新婚旅行だが、当時の新婚旅行は国内がメインで、しかも服装はまるでパーティにでも行くのかと思われるようなものだったのだ。

64年のオリンピック、70年の万博を経ながら、日本は猛スピードで経済成長を続けていく。
誰もが電化製品に代表される文化的な生活を目指し、人よりも抜きん出ようと競争社会に突入していった時代でもある。
宅間先生(三浦友和)が言うように「人の幸せって何だろう?」と思わせる三丁目の人々なのだが、日本人が本当にそのことを考え出すのはずっと後のことである。
淳之介は巣立っていく、一平(小清水一揮)は六ちゃんの後輩ケンジ(染谷将太)と夢を語り合う。
茶川とヒロミの間には女の子が生まれた。
菊池と六子は地域医療に貢献していきそうだ。
夢と希望があった戦後の昭和時代である。

ALWAYS 続・三丁目の夕日

2022-04-19 08:00:15 | 映画
第一作は2019年2月27日に掲載しています。

「ALWAYS 続・三丁目の夕日」 2007年 日本


監督 山崎貴
出演 吉岡秀隆 堤真一 小雪 堀北真希
   薬師丸ひろ子 もたいまさこ 三浦友和
   須賀健太 小清水一揮 温水洋一 平田満
   ピエール瀧 小日向文世 吹石一恵
   貫地谷しほり 手塚理美 上川隆也

ストーリー
昭和34年、春。鈴木オートに新しいファミリーが増えた。
事業に失敗した親類から、しばらく娘を預かって欲しいと頼まれた則文が快諾したのだ。
しかし、その娘・美加は根っからのお嬢さん育ちで、下町での生活に馴染むことができなかった。
小説家を目指す茶川は、淳之介と親子のような生活を続けていたが、淳之介の実の父親である川淵は引き取りたいと再三、申し出ていた。
大学の同窓会で肩身の狭い思いをして、踊り子のヒロミにも堂々とプロポーズできない茶川は、一念発起して芥川賞を狙った新作を書き上げると宣言する。
そんな日々の中、六ちゃんは一緒に上京してきた幼なじみの中山と再会する。
ほのかな思いを六ちゃんに寄せる中山だが、仕事の方はうまくいかず、悪い先輩にそそのかされて詐欺まがいの手口の片棒を担がされていた。
そんな中山の行状を知って六ちゃんは心配する中、茶川の小説は、芥川賞の候補として選ばれた。
大騒ぎになる三丁目に、受賞するためには審査員を接待する必要があると語る男が現れる。
その口車に乗せられてしまう則文たちだったが、それは中山が関わった詐欺だった。
芥川賞には落選して、深く落胆する茶川だが、彼を待っていたのは裕福な男からのプロポーズも断ってやってきたヒロミだった。
これからは三人で暮らせることに、淳之介も大喜びする。
その一方で、父親が迎えにきて、鈴木オートから美加が別れを告げる日がやってきた。
別れの言葉を交わす一平と美加を、三丁目の夕日はやさしく照らし続けていた。


寸評
あんなにエピソードは必要だったのだろうか?というのが第一印象。
たとえば同窓会のエピソードは、この映画の中でどんな意味を持っていたのだろうと思ってしまう。
預かる事になった女の子が心を開いていく様も、上辺をさらっとすくっていったような感じ。
六子の同郷のボーイフレンドの話も同様に感じたし、小雪演じるヒロミとの恋の行方もまた然りであった。
エピソードが多い分だけ、それぞれの話の密度は薄いのだが、それでも退屈させずに146分を引っ張れたのは、それぞれが納得できるエピソードとして、観客である我々が物語に同化できた為だろうと思うが、作品としては前作の方が良かったと思う。
それでもこの映画がいいなと思えるのは、懐かしい昭和があって、登場人物が良い人たちで、見終わってホッとする気持ちになれるからだ。

茶川が作品を書き上げ、作者名を書いてからタイトルを書き込むで場面が切り替わったが、雑誌に載った作品のタイトルを見てゾクッとした。
大人が子供に見せる細やかな愛情にホロリ、近所の者達の人情味溢れるつき合いにホロリ。
感涙に咽ぶシーンが多いのがこの映画の良いところで、昭和のノスタルジーと共に、人と人の温かい交流が底辺にある。
そしてここに描かれる人間関係を失くしてしまった懐かしいものとして感じてしまうのは、なんともなんとも本当になんとも悲しいことだと思う。

前作では鈴木オート一家の三人が夕日を見て終わったが、今回は茶川、ヒロミ、淳之介の三人が夕日を眺めるシーンで終わる。
真っ赤な夕日は明日の幸せの象徴だから、この三人にも幸せがやってくることを暗示していて、見ているこちらも幸せな気分になれた。
映画は希望を持って終わらなくては・・・と感じた次第。

前作において、当時圧倒的な風俗として存在していた「映画」に関するシーンが全く登場していなかったが、今回はその挽回とばかりに2度登場する。
一つは懐かしのTOHOスコープの後に登場する東宝としてのプレゼントであり、一つは風俗として象徴的な日活の裕次郎映画だった。
映画館の入り口には、裕次郎特集の看板が見え、「錆びたナイフ」「嵐を呼ぶ男」が掛かっており、次週上映に「狂った果実」のポスターが見えていた。
「嵐を呼ぶ男」のドラム・シーンの場内を描いていたが、裕次郎の歌うシーンは見ることは出来なかった。
エンド・ロールでは、ポスター協力=日活とだけあった。

オリエント急行殺人事件

2022-04-18 07:47:23 | 映画
「オリエント急行殺人事件」 1974年 イギリス


監督 シドニー・ルメット
出演 アルバート・フィニー
   ジャクリーン・ビセット
   アンソニー・パーキンス
   マイケル・ヨーク
   ローレン・バコール
   イングリッド・バーグマン

ストーリー
イスタンブールで事件を解決した私立探偵エルキュール・ポアロ(アルバート・フィニー)は、新しい事件のためオリエント急行で急遽ロンドンに向かうことになった。
ポアロは国際寝台車会社の重役である友人のビアンキ(マーティン・バルサム)に再会する。
イスタンブールを出て2日目の夜、雪のために列車はバルカン半島内のある場所で停車してしまう。
そしてその翌朝、一等車に宿泊していた裕福なアメリカ人の乗客ラチェット・ロバーツ(リチャード・ウィドマーク)が死体で発見される。
ポアロとビアンキは、二等車の乗車で捜査対象外とされたギリシャ人医師コンスタンティン(ジョージ・クールリス)、フランス人車掌ピエール・ミシェル(ジャン=ピエール・カッセル)と共に捜査に乗り出す。
コンスタンティン医師の検死により、ラチェットは合計で12回刺されており、そのうち少なくとも3回が致命傷になるほど深かったことが分かった。
手掛かりを元に、ポアロは一等車の乗客の尋問を開始する。
そしてポアロは「ラチェットの隠された過去」を暴き出す。
実はラチェットは、カッセッティと呼ばれるマフィアのボスだったのだ。
ラチェットは、正義の名の下に殺されてもやむをえないような人物だった。
かといって、このまま殺人犯を見逃すわけにもいかない。
果たして殺人を遂行したのは一体誰なのか?
国際色豊かな乗客たちには相互に何のつながりもないと思われたが、彼らには他の乗客を証人とする完璧なアリバイがあったのだが、ポアロの灰色の脳細胞が導き出した事件の真相は、予想もつかないものだった。


寸評
僕は外国のミステリー作家としては「シャーロック・ホームズ」の生みの親であるコナン・ドイルと本作の原作者であるアガサ・クリスティしか知らない。
逆に言えばそれだけ両者は著名な作家ということになる。
中でもこの「オリエント急行殺人事件」は有名なもので、一体誰が犯人なのかは映画を見る前から知っていた。
僕の認識は、犯人は分かっているのだが、それがどのような関係の人だったのかは明確なものではなく、このような人が犯人だったのだという漠然としたものだった。
従って、作品を見る前の興味は、出演者がどのような演技を見せ、主人公のポアロがどのようにしてなぞ解きを興味深く見せてくれるかに尽きていた。

主人公の探偵ポアロにアルバート・フィニー、殺されるラチェットにリチャード・ウィドマーク、その秘書役にはアンソニー・パーキンス、多彩な乗客としてアーバスノット大佐はショーン・コネリー、同じく乗客の中年のスウェーデン人宣教師にイングリッド・バーグマン、ハンガリーの外交官にはマイケル・ヨーク、アンドレニイ伯爵の若くて美しい夫人にはジャクリーン・ビセットなどそうそうたるメンバーが揃っていて、彼らの演技合戦を見ているだけでも面白い作品である。
アルバート・フィニーのポアロはイメージなのだろうが、オーバー演技とその風貌に演劇的なものを感じる。
そう、これはまさしく映画に名を借りた集団舞台劇なのだ。
実際イングリッド・バーグマンはこの作品でアカデミー賞助演女優賞を獲得した。
これだけ多くの登場人物を描き分けたシドニー・ルメットの力量はやはり大したものだと思う。

冒頭でニューヨークのロングアイランドに住む大富豪アームストロング家の三歳になる一人娘が誘拐され、20万ドルという巨額の身代金が犯人に支払われたにもかかわらず、幼児は死体となって発見された事件がダイジェスト的に描かれる。
観客である我々はこの時点で、この後に起きる出来事はこの事件に関係しているということを感じ取る。
これを描いておかないと、オリエント急行の中で起きた殺人事件の関係者のことが理解できないのだが、しかし誘拐事件を描くことで犯人はこの事件の関係者だと判ってしまい、犯人探しのスリルとなぞ解きのだいご味は半減されていると思う。

登場人物の中で犯人から除外されるのが主人公の探偵ポワロと、彼の友人でこの鉄道会社の重役であるビアンキ、それと車両が違っていた医者のコンスタンティンであるのだが、このコンスタンティンのジョージ・クールリスが滑稽な役割を演じている。
ポアロが尋問した人物をその都度犯人に違いないと決めつけるのである。
これは日本映画でも市川崑が横溝正史の金田一耕肋シリーズの中で加藤武に演じさせていたのと全く同じだ。
このような謎解き映画にはそのような役割の人物を登場させたほうがエンタメ性に富むのだろうか?
それとも両巨匠とも同じような感性を持っていたのだろうか?
ちょっと面白い共通点だった。

汚名

2022-04-17 10:35:04 | 映画
「汚名」 1946年 アメリカ


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ケイリー・グラント
   イングリッド・バーグマン
   クロード・レインズ
   ルイス・カルハーン

ストーリー
アリシア・ハバーマンは売国奴の父を持ったために心ならずも悪名高き女として全米に宣伝されていた。
ある夜うさ晴らしに開いたパーティで、彼女はデブリンというアメリカの連邦警察官と知り合った。
デブリンは南米に策動するナチ一味を探る重要な職務にあった。
首謀者セバスチャンをよく知っているアリシアを利用する目的で近づいたのだったが、やがて彼女に強く引かれるようになった。
一緒に南米に行き、リオ・デ・ジャネイロでの楽しいあけくれに、二人の愛情は日毎に深まり、アリシアはデブリンの愛によって、その昔の純情さを取り戻していった。
が間もなく、彼女は命令で首領セバスチャンを探ることになったが、彼が以前父親の相棒だったことから、アリシアは容易にセバスチャン邸に入り込むことに成功し計画通りに彼は彼女を恋するようになった。
一夜、彼の邸でナチスパイ連の晩餐会が催されたが、その時出された一本のぶどう酒に対するハブカの態度とそれに次いで起こった彼の変死にアリシアは強い疑念を持った。
セバスチャンの花嫁となった彼女は、家中を見回ることが出来たが、地下室の酒蔵にだけは入れなかった。
デブリンとの打ち合わせによって、一夜またパーティが催され、アリシアは酒蔵の鍵をセバスチャンから盗み取りデブリンに渡した。
目的の酒瓶を辛うじて盗み出して彼は逃げ去ったが、嫉妬から絶えずデブリンを監視していたセバスチャンはかぎつけてしまった。
ぶどう酒の瓶を見て取り乱したハブカの殺された前例からも、セバスチャンはアリシアが酒蔵を調べた事を仲間に疑われてはならなかった。


寸評
「カサブランカ」や「ガス燈」などと並んで、この頃のバーグマンの美しさには時を超えて見とれてしまう。
その印象だけが残る作品で、ヒッチコック映画としては物足りなさを感じる。
サスペンスよりもラブロマンスが勝っている内容だが、ラブロマンスとしては今一歩だし、サスペンスとしても今一歩の感はぬぐえない。
ケイリー・グラントとイングリッド・バーグマンをもってしてもストーリー展開の歯切れが悪いし、かと思うと説明不十分なまま場面が飛んだりもするので間延び感が出てしまっている。

ラブロマンスとしては二人の関係が深まる演出に手抜き感があり、リオの景色が一望できる高台でのシーンになって突然キスしたりというシーンには唐突さを感じてしまう。
今流に言えばアリシアはセバスチャンをハニートラップにかけているわけで、その役目をバーグマンが負っているところにそもそも問題があるのではないか。
究極のハニートラップとしてアリシアはセバスチャンと結婚までしているのだから、当然そこにはハニートラップとしてのきわどいシーンがあってしかるべきなのだが、さすがにバーグマンにそんな艶っぽいシーンを演じさせるわけにもいかないだろう。
夫となったセバスチャンとの嫌々ながらのベッド・シーンなんて彼女には似合わないので、そんな場面は一切出てこない。
しかしアリシアの新婚生活は容易に想像できるわけだから、デブリンは一体どんな気持ちで過ごしていたのか。
そんな役目を彼女にやらせるなんて、デブリンは愛する女性よりも仕事を優先させたことになる。
ラブロマンスとしてメデタシ、メデタシで終わったとしても、何か釈然としないものが残るのだ。
相手がイングリッド・バーグマンだから僕の焼きもちがあるのかもしれない。

ワインセラーの鍵が重要な小道具になっているが、この鍵を巡るシーンは上手くできている。
鍵を隠し持った手をセバスチャンに見つけられそうになった時のアリシアのとっさの行動とか、盗み取った鍵をデブリンに渡すショットなどは流石ヒッチコックと思わせるものとなっている。
毒入りコーヒーを仲間の一人が飲みそうになり、セバスチャンと母親が同時に「それは!」と叫ぶことで、アリシアが毒入りを悟るシーンもなかなかいい。
本来なら主演であるケイリー・グラントとイングリッド・バーグマンによる何らかのシーンで終わるべきところだが、あえてセバスチャンが仲間に呼びつけられて邸宅に入っていきドアガ閉まるところでエンドにしている演出を僕は評価する。
セバスチャンに待ち受けている運命を想像させるシーンで映画に余韻を残した。
アリシアがデブリンの愛によって回復に向かうであろうことも想像できるのだが、むしろセバスチャンの運命を最後に持ってきたことでサスペンス映画としての決着がつけられたと思う。
原題の「NOTORIOUS」を「汚名」と約した邦題で、父がナチと繋がっていたことで娘のアリシアがマークされることになっていることを指しているが、タイトルを「NOTORIOUS」とするなら、彼女が汚名を着せられている様子がもっと描かれていても良かったのではないかと思う。
バーグマンは素敵だが、ヒッチコック作品としては物足りない演出だったように感じる作品だ。

溺れるナイフ

2022-04-16 09:22:38 | 映画
「溺れるナイフ」 2016年 日本


監督 山戸結希
出演 小松菜奈 菅田将暉 重岡大毅 上白石萌音
   志磨遼平 嶺豪一 伊藤歩夢 水澤紳吾
   堀内正美 ミッキー・カーチス

ストーリー
東京で人気のティーン雑誌「プラム」でモデルをしていた美少女・望月夏芽(小松菜奈)は、ある日突然父の故郷である浮雲町に引っ越すことになる。
東京から離れた田舎町には刺激がなく、自分が欲する「何か」から遠ざかってしまったと落ち込む夏芽だった.。
だが、その土地一帯を取り仕切る神主一族の末裔で跡取りである長谷川航一朗=コウ(菅田将暉)と出会い、強烈に惹かれてゆく。
意地悪で気まぐれでエキセントリックなコウに反発しつつも、彼の発光するような神々しさに心を奪われ、やがて夏芽はてコウを“わたしの神さん”だと思うようになる。
コウは先祖代々その土地を守る「月ノ明り神社」の神主長谷川家の跡取り息子。
「この町のモンは、全部俺の好きにしてええんじゃ」といい、勝手に授業を抜けたり、「神様がいる」立ち入り禁止の海に入ったりと、その行動は気まぐれで傍若無人。
人生に退屈していたが、田舎では類を見ない夏芽の美しさに自分と同種の力を感じ惹かれていく。
次第に気持ちを通わせていく夏芽とコウ。
「一緒にいれば無敵!」とさえ思っていた夏芽とコウだったが、火祭りの夜にある悲劇が起こり、二人の心は離れてしまう。
孤独な彼女を救ったのはムードメーカー的存在で、真面目で心優しい同級生の大友勝利(重岡大毅)だった。
心を閉ざした夏芽を心配してそっと寄り添ううちに、いつしか想いを寄せていく。
彼の優しさに癒されながらも、コウに急接近する幼馴染の松永カナ(上白石萌音)に心を乱され、夏芽は行き場を失ってゆく。
そんなある日、夏芽にモデル復帰のチャンスが訪れる……。


寸評
早い話が青春恋愛映画なのだが、俗に言う学園青春ものとはまったく次元が異なる作品である。
閉塞的な田舎町を舞台に、他人とは違う何かになろうともがきながら生きる夏芽とコウの恋愛ドラマがこの映画の大きな柱となっている。
それだけだとよくある青春ドラマと何ら変わらないのだが、舞台が世界遺産に登録されている和歌山の熊野とあっては、それだけで作品自体が独特の雰囲気を持ってくる。
熊野は神が宿る特別な場所だ。
その場所で夏芽とコウの恋は神話へと昇華していくような趣を醸し出す。

いわゆる青春ものとしての評価を試みるなら、リアルな恋愛映画として見ると物足りないが、ファンタジーとして見ると輝きが増している作品だ。
映像的にもそのような雰囲気を出すシーンをいくつも挿入している。
美しいまでの海の景色だったり、海中での二人をとらえたショットや、神秘の森の中などが神の存在を感じさせる。
二人が最初に出会った入江は神様が住むという立ち入り禁止の場所で、コウ自身もまるで神であるかのような発言をする。
コウは「海も、山も、こいつも全部俺の好きにしてええんじゃ」と叫ぶが、それは地域を支配する家の跡取りのドラ息子が発する傲慢な言葉と言うだけではなく、神の支配を意味していたと思う。
その意味ではコウは神の化身であり、火祭りは神がコウに降臨してきたような感じにも見える。

青春ドラマから浮いたような夏芽とコウの恋から、青春ドラマに引き戻しているのが大友勝利の存在で、演じた重岡大毅が以外なほど好演している。
秘かにコウを思っているらしいカナの上白石萌音もアクセントをもたらす存在だ。
大友が夏芽に寄せる思いはピュアである。
必死に夏芽を励ます姿がいじらしくて、これこそ青春ドラマだと思わせる。
真っ赤なツバキを吸う姿や、バッティングセンターで夏芽を励ます様子が微笑ましい。
ツバキの赤を足のマニュキュアで示し、夏芽の心の動きを表現するなどは映画的で好感が持てる。

再び描かれる火祭りの夜の衝撃的な出来事。
この話を大人の世界で描いていたら、土着の宗教性を帯びたどろどろとしたものになったのだろうが、最初の事件などは中学生だからやはり土着の宗教から発せられるドロドロしたものを描くには限界があったように思う。
反面、神話的な要素も取り込みながら、少女の恋愛と成長を描いたファンタジー作品として見た場合は結構まとまっていると思える作品だ。
不思議な感覚を持って終わりたいところだったが、ラストシーンはそれを壊していたと思う。
僕としては残念に感じた。