おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

博士の異常な愛情 1964年 アメリカ

2017-08-31 07:53:43 | 映画
スタンリー・キューブリックは「2001年宇宙の旅」を見て心酔した監督で、その後本作を映画座で見た。
遥か昔のことであるが、昨日NHKのBS放送で放映されたので再見した。
北朝鮮核の脅威が話題となる中でタイムリーな放映だったが、タイトルは正しくは「博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」というものである。


監督:スタンリー・キューブリック
出演:ピーター・セラーズ ジョージ・C・スコット スターリング・ヘイドン

ストーリー
合衆国の戦略空軍基地にリッパー将軍の副官として赴任したマンドレイク英空軍大佐は、突然「R作戦」開始の命令をうけて愕然とした。
ソ連攻撃に備えた緊急かつ最高の報復作戦「R」を下令するのだ。
基地は完全に封鎖され、厳戒態勢がとられて哨戒飛行機の全機も通信回路が遮断され、基地からの指令だけしか受けられない状態になり、50メガトンの水爆を搭載、直ちにソ連内の第1目標に機首を向けた。
その直後、大佐は司令官が精神に異常をきし、敵の攻撃もないのに独断でこの処置をとったことを知ったが、手遅れだった。
その頃国防省の最高作戦室では、大統領を中心に軍部首脳と政府高官が事態の処理をめぐって激論を交わし、議長のタージッドソン将軍は時間の緊迫を訴え、編隊の呼戻しが不可能な以上、全力をあげソ連に先制攻撃をかける以外道のないことを説いていた。
しかし、大統領はソ連大使に事態を説明し撃墜を要請した。
だが、1発でも水爆が落ちれば全世界は死滅してしまうので解体は不可能なのだ。
同じ頃、大統領の命令をうけたガーノ陸軍大佐指揮下の部隊は基地接収のため交戦中だった。
やがて基地警備隊は降伏、司令官は自殺、マンドレークは呼返しの暗号を発見した。
しかし、ミサイル攻撃を受けて通信機に損傷を受けたキング・コング少佐の機だけは直進していた……
そして、地球上のあらゆる場所を核爆発の閃光が彩っていった…。

寸評
戦争風刺映画としては最高の部類に入る作品だ。ブラック・ユーモアが全編を通じて散りばめられている。
初めに「アメリカ空軍はこの様な事は絶対に起こさない」とのテロップが写されるが、この映画ではたった一人の精神異常をきたした将軍により核戦争が引き起こされてしまう。
核のボタンは大統領だけにゆだねられた権限のはずで、作中でもピーター・セラーズの大統領がそのことを指摘するが、それがこともあろうに司令官の命令で実行されてしまう。
現場指揮官がこのような行動を取った場合に、現実において、はたして抑止が働くものだろうかと思ってしまう。
上官の命令に従わない軍隊なんてありえないわけで…。

リッパー将軍は事前に基地の180メートル以内に近づく人および物体は全て敵だといって攻撃をするよう基地内のアメリカ兵に指令を出していたため、政府が送った部隊にも発砲してアメリカ軍同士による戦闘が開始される。世界破滅の戦争は同士討ちから始まるという皮肉だ。
精神異常をきたしているリッパー将軍は「自分は拷問に耐えられない」と言って自殺してしまう無責任者である。

3役をやるピーター・セラーズも面白いが、タージドソン将軍をやるジョージ・C・スコットがこれまた狂気の軍人を怪演していてこの映画における異常性を高めている。
タージドソン将軍はリッパー将軍に劣らぬ反共、反ソで、ソ連と全面的に戦争するべきだとの強攻策を熱弁する超タカ派で、会議中にやたらとガムを噛み続ける変人だ。
熱弁中に勢い余って後ろに転び、立ち上がり尚も熱弁するが、それはヒトラーが演説中に興奮したときに見せたらしいので、アメリカにもヒトラーが登場しうるぞと言っているようでもあった。

原題になっているストレンジラヴ博士は何度も大統領を総統と呼び間違え、興奮気味になると右手が勝手に動きそうになり、それを左手で何とか押さえつけるといった奇行が目立つ。
明らかにこれはヒトラーに対する敬礼を茶化しているのだが、ヒトラー崇拝の狂人が政府にもいるかもしれないぞと警告しているようでもある。
世界が終わろうとしているのに、それでも任務に忠実なのかソ連大使がその期に及んでもカメラを使ってスパイ活動をしているのも笑ってしまう。
アメリカにもバカがいるが、ソ連にはもっとバカがいるとアメリカの対面を守ったのかもしれない。

内容がブラックとすれば、ホワイトとでも言いたいような音楽が奇妙な効果を上げている。
キューブリック最後のモノクロ映画だが、その画面に無機質な空撮を見せることでこれまた奇妙な感覚を与えている。
キング・コング少佐が予定通りピーター・セラーズだった方がもっとユニークさが出ていただろうが、彼の怪我で実現できなかったのはおしい。
キング・コング少佐がカウボーイ・ハットをかぶり、ロデオよろしく核弾頭にまたがってヤッホーと堕ちていくシーンが目に残る。

13ディズ 2000年 アメリカ

2017-08-29 15:09:57 | 映画
北朝鮮がミサイルを打ち、Jアラートが発表されて朝から緊張気味の放送が続いていたので、なんとなく「13ディズ」を再見した。


監督:ロジャー・ドナルドソン
出演:ケヴィン・コスナー ブルース・グリーンウッド スティーヴン・カルプ ディラン・ベイカー
   ルシンダ・ジェニー ビル・スミトロヴィッチ

ストーリー
1962年10月16日、ソ連がキューバに核兵器を持ち込んだという知らせがケネディ大統領のもとへ届く。
彼は直ちに緊急の危機管理チーム、国家安全保障会議緊急執行委員会、通称エクスコムを招集。
会議では空爆が推薦されたが、第三次世界大戦の勃発につながる危険があり、大統領はそれを避けたかった。
彼は本音を打ち明けられる弟の司法長官ロバート、親友の大統領特別補佐官ケネス・オドネルと共に、最善の手を探る。
空爆を迫る軍部を退けた大統領は、国連総会のため訪米したソ連外相と会談するが、外相はミサイルの存在を否定する従来の主張を繰り返すのみ。
大統領の疲労と緊張は限界に達しはじめるが、腹をくくった大統領は海上封鎖実施を発表。
しかしキューバのミサイルは発射準備を整えつつあり、大統領は止むなく29日に空爆の準備を指示。
さらに、爆撃目標の最終確認に飛び立った偵察機が撃墜されるという事件が起こる。
軍部は即時報復を進言し、事態は一触即発の状態に。

寸評
ケネディはこの翌年、ダラスにおいて疑惑の凶弾に倒れ、フルシチョフはこの危機処理が一つの伏線となってクレムリンを追われることになるのを我々は歴史を通じて知っている。
しかし、この時の当の当事者達はそんな歴史を知らず、国家の威信と世界平和を背負って、ぎりぎりの決断を行っていた事がドラマティックに描かれていて、歴史の裏側を見るような気分にさせてくれた。
オープニングはいい。タイトルと共にミサイル発射や原爆実験の映像が映し出され緊張感を醸し出す。
そして大統領特別補佐官オドネル家の朝食風景で始まるのだが、そこには子供の通知表を見せられ成績の悪さに文句を言いながら出かける主人公がいる。ごく普通の家庭人であることの象徴的シーンで、その普通人が世界を震撼させ米国及び世界の命運を決定する瞬間に立ち会うことになるという宿命を上手く表していた。

大統領の権限があるように、それぞれの担当者にも権限があって、思惑によってその個人の権限を行使しようとする所などに偶然がもたらすことへの恐怖を感じる。えてして歴史はそんなところから動くのかもしれないからだ。
軍部は悪人で、シビリアンは善人と言うのはいささか単純な区分けだとは思うが、それでも軍部のワナの様なものが描かれていて、職業軍人の思考は怖いものがある。
米国人にはチェコスロバキアの領土問題でドイツに譲歩し、ヒトラーの思い通りにされてしまったというミュンヘン協定のことが何回か語られる。彼等にはその時の外交の失敗がトラウマになっているのだろうけど、その根深さは日本人の僕は実感として感じられない。同様にピッグス湾事件でのキューバ侵攻失敗もトラウマになっているようで、どちらもこれからの決定に心理的影響を与えていそうなことがサラリと描かれていて興味深かった。
でもホワイトハウスの連中の家族だけが身分証と共にヘリポートから安全地帯に逃れる手はずが整えられていたとなれば、米国の一般国民は不満に思わないのだろうか?変な所に気をもんだ。

ジョン・F・ケネディ45歳、ロバート・ケネディ36歳、ケネス・オドネル38歳、この若い男達がアメリカのリーダーとして、世界的危機を回避したことにあらためて関心する次第だ。ケネディ大統領のもとで、弟のロバートがあんなに重要な役割を果たしていたことに驚いた(僕の無知が招いた驚きなのだが)。
彼等のリーダーとしての指導力に、軍部が押さえ込まれていく所は、昨今のわが国の政治的指導力の無さを見るにつけ、まことにうらやましい限りと感ぜずにはおれない。
その大統領の権限とその権威に対する自負や、若きケネディが年配の幹部達を叱責するシーンを見ていると、自分達や子供の命を託すに足る人物を大統領選で選んでいる事が理解できる。やはり日本も首相公選制をとるべきだろうと思ってしまうし、シビリアンコントロールは何があっても効かせなければならないなと感じてしまう内容だ。

時折モノクロ画面に変わるシーンがあるが、ドキュメンタリー効果を狙ったものだったのだろうか。
最高幹部の招集シーンやソ連外相グロムイコの登場シーンなど、重要人物の登場シーンだけかと思っていたが、そうでもなさそうでイマイチ意図が読み取れなかった。
しかしこのキューバ危機のことが、翌年の暗殺事件につながったのではないかとの疑念は残ったままで、同じくケビン・コスナーで以前作られた「JFK」がつながってくる。ケネディの暗殺事件はやはりミステリーだ。
最後のナレーションは心打つし、全くもってその通りだと思わされる。

阿修羅のごとく 2003年 日本

2017-08-28 19:42:12 | 映画

監督:森田芳光
出演:大竹しのぶ 黒木瞳 深津絵里 深田恭子 仲代達矢 八千草薫 中村獅童

ストーリー
三女・滝子(深津絵里)の突然の呼びかけで、久し振りに竹沢家の4姉妹が集まった。
70歳を迎える父・恒太郎(仲代達矢)に、愛人と子供がいるというのだ。
母・ふじ(八千草薫)の耳には入れないようにしよう、と約束する姉妹。
この事件を機に、一見平和に見えた女たちがそれぞれに抱える、日常のさまざまな事件が露呈してくる。
未亡人の長女・綱子(大竹しのぶ)は、華道の師匠で生計を立てており、出入りの料亭の妻子ある男性と付き合っているが、その妻に勘付かれてしまう。
次女の巻子(黒木瞳)は、サラリーマンの夫と2人の子供と平凡な家庭を営んでいるが、最近夫の浮気を疑い始め、ノイローゼ気味。
図書館に勤める三女の滝子は、父の愛人の調査を頼んだ内気な青年・勝又(中村獅童)と恋愛感情はあるのだが、その恋はなかなか進展しない。
四女の咲子(深田恭子)は、売れないボクサー陣内(RIKIYA)と同棲中。
新人戦に勝ったあと、家族に紹介し結婚しようと思っている。
母・ふじ だけは、夫の愛人問題も耳に入っていないのか、泰然と日常を過ごしているようだった…。
季節が移り、家族それぞれが急展開を見せることになる・・・。

寸評阿修羅と言えば僕は真っ先に興福寺の国宝阿修羅像を思い浮かべる。初めて見た時は自分が描いていた印象とは違い案外と小さな仏像で有ることに驚いた。
阿修羅は仏教の守護神ではあるが闘争的であり、帝釈天と闘い敗れた神であり、その戦いの場面から修羅場なる言葉も生まれているといのが僕の認識。
この映画でも最初にその阿修羅像が映し出され、「阿修羅とは表面的には仁義礼智信を揚げるかに見えるものの、内には猜疑心が強く互いに事実を曲げて、いつわって他人の悪口を言い合う、言い争いの象徴とされるインド民間信仰上の神のこと」と表示される。
描かれた内容は主人公達、脇役達を含めて、正にその世界を具現化した現世の出来事だ。
その説明に続いて、四姉妹が演じる一コマに役名と演者タイトルがでるのだが、この扱い方は「さあ映画を見るぞ」という気分にさせてくれてよかった。
タイトル通りここでは女たちの修羅場が演じられるが、一方で家族間のいさかいを描きながらもその実、家族の深い結びつきを描いていた作品だったと思う。

ここに描かれている四姉妹は谷崎の「細雪」とはまた違う四姉妹で、それぞれが違った愛の世界にいる。
未亡人の長女は不倫相手とのただならぬ仲にいる。
それが、ウナギの出前をとった時にバレてしまうのだが、いやはや滑稽に描かれ包括絶倒だ。
次女は一見平和相でありながらも夫に対する猜疑心を抱いている。
それを確信する時の、薄笑いを浮かべながらのつぶやきと、その後の時間をかけない処理は心情を想像させるに十分なのだが、どこか滑稽。
三女は恋愛下手でいまだに独身、自由奔放に生きていると感じている四女に嫉妬している気配だ。
その思いは幼少時のささいな出来事に由来しているらしいことが後で知らされるが、それでも頭脳明晰、正確ブスを思わせる行動が続く同情の対象者だ。
末っ子は一般的にはどうかと思われる男と同棲中なのだが、やはり三女だけにはライバル心を持っているといった具合。
四姉妹それぞれが満たされぬ愛の中に生きていて、そして阿修羅の如き本音での闘争と生きざまを見せるのだが、当の本人達は真剣なのだろうけど見ている我々には滑稽に見える出来ごとのオンパレードで、クスクス笑いが絶えない。

姉妹の言い争いを描き、会話の中にちょっとした嫌味を見せがらも、家族や親子の本当の感情などが随所で伝わってくるような描き方をしている。森田芳光の演出はそれらをユーモアをもって描き、家族の思いやりをどこか笑ってしまうキャラクター達に演じさせている。ともすれば重くなりそうなテーマだが、それを面白おかしいまるで喜劇映画の様な雰囲気で終始一貫押し通している。
仲代、八千草の両親は物静かで言葉少なだが、結局すべてお見通しよといったものを感じさせ、流石は長い人生を生きてきた老人たちの年輪をピシャリと決めていた。
四姉妹は、結局は家族が好きなのだ。母の存在がまた姉妹を姉妹たらしめていたのだと思う。
立派な親にはいい子が育つ。はたして我が家の一人娘は…。


愛の予感 2007年度 日本

2017-08-28 07:46:14 | 映画

監督:小林政広
出演:小林政広 渡辺真起子

ストーリー
新聞社に勤める順一(小林政広)は、数年前に妻をがんで亡くし、中流所得層にとって憧れである東京湾岸の高層マンションで娘と二人暮らしの生活を送っていた。
そんなある日、事件が起こった。
娘が学校の教室で、同級生の女の子に刺し殺されたのだ。
妻も娘も失い、生きる希望を失った順一は、仕事を辞め、鉄工所での職を得て、北海道にある民宿でひっそりと暮らし始める。
そして彼は、その民宿で賄いの仕事をするひとりの女、典子(渡辺真起子)と出会う。
この女性こそが、順一の娘を殺した子の母親だった。
典子もまた身を隠すように東京を離れ、北海道の僻地でひっそりと暮らしていたのだ。
互いに名乗ることもせず、言葉を交わすこともない2人だったが、やがて順一にとって、原罪を背負ったかのように生きる典子が、次第にかけがえのない存在になっていく。
ある日、順一は買い求めた携帯電話を愛情表現として典子に渡すが、典子は順一を徹底的に拒絶する。
しかし、典子の心に変化が起こり潤いが漂い始める。
今度は典子が順一に携帯電話を渡すが、順一はその携帯電話を屑篭に捨ててしまう。
はたして二人は心を通わすことが出来るのだろうか・・・?
二人の間に愛は芽生えるのだろうか・・・?

寸評
主人公の男は元新聞記者ということもあって、佐世保で起きた小6女生徒の殺害事件を連想させる。
男は当時毎日新聞の記者だった御手洗氏がモデルなのかもしれないが、そのことは全く関係なくて題材をそこから得ただけの作品だと思われる。
事件の背景とか、当事者である小学六年生であった女生徒の心象に迫っているわけではなくて、加害者の女生徒をかかえた母親と、同級生だった娘を殺害された被害者である父親のいたたまれぬその後の人生を描きながら、やがて不条理の愛情を芽生えさせる恋愛映画だったと思う。
ただしこの作品はただの恋愛映画ではなくて、構成は実験映画めいていて劇中のセリフは全くない。
冒頭に加害者の母親と、被害者の父親へのインタビューがあり、そこで二人の肉声を聞かされる。
ふてくされたように見える母親、すべて親の責任なのかと開き直る母親、子供のことがよくわからないと戸惑いを見せる母親。
冒頭のインタビューに答える渡辺真紀子さんは存在感があって、その後のセリフのない映画を際立たせる役目をしっかりとこなしていた。
ただ謝りたいという加害者の母親と、その伝言を聞いても会いたくありませんと拒絶する被害者の父親。
そこで終わったインタビューのあとはラストの父親の独白まで台詞が入ることはない。
ただただ同じようなシーンが何回も何回も繰り返されるだけである。
男は製鋼所で同じような作業を繰り返し、宿舎に帰っては晩御飯を食べ風呂に入るだけの生活。
女は宿舎の賄い婦としてジャガイモの皮むきなど、これまた毎日同じような作業を繰り返し、一人壁に向かってサンドイッチの昼食をとる毎日。
それが何回も何回もあきるほど繰り返される。
ところがセリフのない同じような画面を見ているうちに観客である僕はふと気付くのだ。
女は卵焼きを作っているのに男のメニューにはなくて、彼はいつも卵かけご飯を食べているのはなぜ?
どうやらおかずには箸をつけていないようなのだが、いったいそれはなぜ?
そこで僕は推測する。
いつかの時点で生卵でよいことを伝えたはずだから男と女に会話がなかったわけではないのだと。
そう思うと男はわざとおかずに箸をつけていないのだと思えてきた。
おそらく男は女が加害者の母親であることを気づいていて、彼女の作ったものなど口にいれたくないという意思表示ではないのかと。
そう想像すると、とたんにこの映画は自分の中で急展開を見せる。
女はなぜおかずを食べなないのか問いただした筈だとか、もしかするとそのことを通じて男は自分の正体を女に告げたのかもしれないとか、勝手な想像が駆け巡りだす。
そうしているうちに最後に男の独白を聞く。
「僕は貴女なしでは生きられない。貴女と一緒では生きていく資格がない。だからあなたをただただ・・・。」と。
そのあとの続く言葉はきっと「愛し続けることだけ」だったと思う。
親として子供の責任を背負う必要に迫られ、それでもその親にも人としての一生が残っており、そこには苦行とも思える人生が生み出され・・・。
切ないなあ~。