おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

もどり川

2023-04-30 06:26:34 | 映画
「もどり川」 1983年 日本


監督 神代辰巳
出演 萩原健一 原田美枝子 藤真利子 樋口可南子 蜷川有紀
   池波志乃 高橋昌也 柴俊夫 加賀まり子 米倉斉加年

ストーリー
今日も苑田岳葉(萩原健一)は、浅草・十二階下の遊廓の千恵(池波志乃)のところに来ていた。
そんな岳葉を外で待つ妻のミネ(藤真利子)は胸を煩っていた。
歌風のことで村上秋峯(米倉斉加年)に破門された岳葉は、その夜、前から心ひかれていた秋峯の妻・琴江(樋口可南子)のところに強引に忍び込み関係をもつ。
二人は駈け落ちの約束をし、琴江は駅で岳葉を待つが、彼は秋峯に姦通罪で訴えられて刑務所に送られた。
刑期を終えた岳葉は、琴江が十二階下に居るという噂を聞いて出かけ、そこで関東大震災に遇う。
その混乱のなか、岳葉はミネを療養所に入れ琴江を探し出すが、彼女は娼婦になっていて岳葉を冷たく突き放すのだった。
首をつろうとしていた岳葉のところに、彼のファンだという音楽学校の学生文緒(蜷川有紀)が訪れた。
文緒は銀行頭取令嬢で、岳葉との交際を親に知られ家からでることを禁じられたが、姉・綾乃(加賀まりこ)のはからいで京都へ演奏旅行した際、桂川のほとりの旅館で岳葉と落ちあった。
岳葉から心中を持ちかけ、手紙で琴江に知らせるが返事は来ない。
心中は未遂に終わり、それを詠った桂川情歌で岳葉は有名になった。
そして自分が誰かの見替わりだと気づいた文緒は自殺してしまう。
ミネを見舞った療養所で、岳葉はもと詩人で今は社会主義運動家の友人・加藤の妻・朱子(原田美枝子)と知り合った。
加藤(柴俊夫)は胸を煩っていたが、大杉栄が殺されてから過激になり、持ち歩いていた爆弾で彼を追って来た警官と共に爆死してしまう。
岳葉は朱子に心中をもちかけ、知らせを聞いた琴江が二人のいる旅館にやってきた。
岳葉と琴江が話している間、朱子は岳葉のノートを見つける。


寸評
原作は連城三紀彦の「戻り川心中」なのだが、主人公の苑田岳葉は太宰治がモデルではないかと思われる。
太宰は薬物中毒、女性関係、自殺未遂と苑田岳葉よりもひどい経歴の持ち主だと思うが、この作品での苑田岳葉という男も実に自分勝手な人間として描かれている。
神代辰巳は日活ロマンポルノで秀作を連発した監督だが、本作もその延長線上にあるものの尺が延びただけで作品としての密度は薄い。
セリフは聞き取りにくいところが多々あり、主人公は女好きなだけという印象で、それぞれの女性に惚れた理由がよく分からない。
本当に心から惚れていたのかどうかも疑問である。
心中事件を起こすのも、それをネタにして名声を得るためという打算的な男でもある。
あらましを言えば、岳葉は吐血した妻を放置して師の妻である琴江にチョッカイを出し、娼婦の千恵の元に入り浸り、琴江に「自分と心中してくれないと他の女と心中する」と言って脅し、彼女の身代わりとして文緒と心中を図り、文緒が自殺すると、その責任を琴江に押し付ける。
友人の妻・朱子と知り合い心中未遂を計画するが朱子に見破られる。
朱子が死に、それを見ていた琴江も自殺し、それを知った岳葉も自殺すると言ったおどろおどろしい物語である。

主人公の萩原健一相手に女優陣が大胆ヌードを惜しげもなく繰り広げて、安物のエロ映画を見ている気分になるのだが、演じているのは無名の女優ではない。
妻・ミネの藤真利子、村上秋峯の妻で遊郭の女となる琴江の樋口可南子が裸体をさらせば、遊廓の千恵を演じる池波志乃も同様だ。
演出家・蜷川幸雄を叔父に持つ文緒の蜷川有紀も例外ではない。
蜷川有紀はキャスティング・クレジットで新人となっているが、すでに1981年の根岸吉太郎作品「狂った果実」でヒロインを演じている。

全体的にはダラダラした感じがあり、苑田岳葉という男の女性遍歴を描いているのか、エゴイスチィックな男に翻ろうされる女性たちを描いているのかよく分からない。
内容的に2時間以上の尺が必要だったのかどうかも疑問である。
関東大震災における朝鮮人の虐殺事件や大杉栄事件などを描く必要が何故あったのかにも疑問がわく。
兎に角、余分なエピソードが多くて間延び感を感じてしまうのが欠点のように思う。
岳葉が朱子と舟に乗って心中を行うまでも非常に長く感じる。
大芝居だけが目に付くシーンとなっている。
何だかあら捜しをしたくなるような作品で、物足りなさを感じる。
しかし、最後のテロップは何だったんだろう?
苑田岳葉って実在の人物だったの?
何を描きたかったのか、よくわからん映画だなあ・・・。

モーターサイクル・ダイアリーズ

2023-04-29 10:34:08 | 映画
「モーターサイクル・ダイアリーズ」 2003年 イギリス / アメリカ


監督 ウォルター・サレス
出演 ガエル・ガルシア・ベルナル ロドリゴ・デ・ラ・セルナ
   ミア・マエストロ メルセデス・モラーン ジャン・ピエール・ノエル

ストーリー
1952年。23歳の医学生エルネストは、7歳年上の友人アルベルトと共に、ブエノスアイレスの自宅を出て、南米大陸を中古バイクで縦断する旅に出発する。
まずはエルネストのガールフレンド、チチーナが住むミラマールの豪邸を訪ね、甘い一時を過ごす。
いよいよ本番。バイクは何度も転倒し、故障するが、彼らは理想に燃えて旅を進める。
国境を越えてチリに入ると、金のない2人は寝場所と食料の確保に奔走。
アルベルトの口先八丁でうまくいくが、酔ったエルネストが修理工の妻を口説き、町から追われるハメに。
さらに2人は牛の群れに突っ込んでしまい、バイクの修理が不可能になるという災難が。
ヒッチハイクでバルパライソを通過したあと、灼熱のアタカマ砂漠をなんとか徒歩で抜ける。
その中で移民労働者や地元の人々と出会った2人は、ラテンアメリカの厳しい真の姿を見始めていた。
ペルーでは南米の中心クスコで、インカ建築とその都市が体現する歴史を目の当たりにする。
そしてリマで、有名なハンセン病研究者、ペッシェ博士と出会った2人は、南米最大のハンセン病コロニーで働くことに。
サン・パブロに着くと、2人の物の見方に大きな変化が表れてきた。
そんな中、エルネストは24歳の誕生日を迎える。
やがてベネズエラのカラカスに着いた時、2人が旅した距離は1万キロ以上に達していたのだった。


寸評
大学で医学を学んでいたエルネスト・ゲバラが在学中に年上の友人のアルベルト・グラナードとオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験し、その過程でチリの最下層の鉱山労働者やペルーのハンセン病患者らとの出会いなどを通じて南米各地の状況を見聞してマルクス主義に共感を示すようになった事は知られている。
この映画は若者のオートバイでの南米旅行を描いたロード・ムービーであるが、若者がゲバラとアルベルト・グラナードであることが興味を増加させている。
僕も大学入学前に友人と半月ほどの放浪旅行をしたことがある。
旅先で出会った優しい人やユニークな人たちとの楽しい思い出は今も脳裏に刻まれているのだが、年齢もあって彼らのような人生を変えるようなものではなく、ただただ楽しいだけの旅行であった。
それでもヒッチハイクで助けてもらったり、友人の親戚の家に泊めてもらったり、巨大地震に遭遇したりと、彼らと同じように旅先での貴重な経験をしたものだ。

出発当初は僕たちと同じように馬鹿騒ぎと馬鹿げた行動による楽しい旅が描かれる。
文無し旅行を続けている彼らはアルベルトの口八丁で食べ物と宿にありついているが、エルネストもある町で新聞社に自分たちのことを過大に報告して記事にしてもらうことに成功。
その記事を見たバイクの修理工が無償でバイクを修理してくれる。
気に入られてパーティに参加したエルネストは修理工の奥さんを口説いて騒動となり、逃げるようにして町を去る愉快なシーンがある。
この頃は彼らもまだ若者らしい放浪旅をやっているという感じだ。

アルゼンチンは南米の中では比較的裕福な国のようだが、国境を超えると想像もしなかった人々と出会うことになり、エルネストたちの意識が変わってくる。
共産主義と言うだけで追われて職を探して放浪している夫婦に出会い、エルネストは過酷な鉱山労働者とでしか生きていけない彼らにチチーナから預かった15ドルをあげている。
ラテンアメリカの厳しい状況を目の当たりに目にしていくが、それはアルゼンチンにいた時には知り得なかった実情である。
彼らはハンセン病コロニーで働くことになるが、患者たちは根拠のない差別を受けている。
看護婦長までが素手で彼らと接触しないようにしていて手袋が必需品となっている。
医学生でもあるエルネストはハンセン病が伝染病でないことを理解しており、素手で彼らと握手を交わす。
手袋をするという決まりを知っているのかと聞く患者に対して、彼らは説明を受けているということが伝えられ、患者たちは彼らはいい人たちだとの思いを持ち親交を温める事になる。
エルネストの誕生日を祝う日に、患者たちがいるアマゾン川の対岸へエルネストが泳いでいくシーンは感動的だ。
エルネストとアルベルトは別れることになるが、二人は出発時とはまったく違っていることが分かる。
旅は人を成長させるのかもしれない。
特に自国を出て広い世界を知ることは己を見直すきっかけになるのかもしれない。
この作品を見た後で、スティーヴン・ソダーバーグの「チェ 28歳の革命」と、「チェ 39歳 別れの手紙」を見ると、エルネスト・チェ・ゲバラ3部作を見たという気がする。

燃えよドラゴン

2023-04-28 07:31:53 | 映画
「燃えよドラゴン」 1973年 香港 / アメリカ


監督 ロバート・クローズ
出演 ブルース・リー ジョン・サクソン ジム・ケリー
   アーナ・カプリ アンジェラ・マオイン シー・キエン
   ロバート・ウォール ベティ・チュン ヤン・スエ

ストーリー
陰謀うず巻く国際都市香港から、南シナ海にうかぶ要寒島ハンで開かれる大武術トーナメントへの招待状が世界中の武術の名人にあてて送り出された。
ロサンゼルスに住む黒人のカラテの名手ウィリアムス、同じくサンフランシスコのローパーもその招待状を手に香港へ向かった。
その頃、香港に近い田舎で中国人ばかりのカラテの試合が行なわれていた。
優勝者は少林寺で仏の道と武術を勉強中のリーという若者だった。
早速彼は、秘密情報局のブレースウェートから、要寒島での武術トーナメントに出場するよう要請されるが、武術で名を挙げるよりも無名のままの修道を望むリーはそれを断わった。
しかし、修道僧長から要寒島の支配者ハンもかつては少林寺の修行僧であったが、この寺で学んだ武術の知識を今は自分の利益のために悪用していること、さらに父から、妹のスー・リンが数年前ハンの手下のオハラに殺されたことなどを聞かされ出場を決意した。
リーはブレースウェートのもとを訪れ、要寒島でハンがおこなっている麻薬製造密売の内情を探り出せとの指令を受け、まだ見ぬハンやオハラへの復讐心に燃えて、悪の要寒島へ出発した。
そしてブレースウェートが潜入させた女性秘密情報局員メイ・リンがリーの手助けをすることになった。
翌日からトーナメントが開始され、リーはオハラを倒し勝ち進む。
リーは地下工場にもぐり込み、人肉市場に売り出されようとする女たちを発見し、司令部のブレースウェイトに無線連絡しようとした途端警報ベルが鳴り響き、続々と襲いかかってくるハンの手下をなぎ倒したものの、罠におち捕らえられてしまった・・・。


寸評
この映画によってカンフー・ブームが沸き起こり、ヌンチャクという武器があちこちで振り回された。
甲高い叫び声と、独特の立ち回り、これまた特徴のあるブルース・リーの表情が印象に残る。
作品自体は安っぽいし、大雑把な描き方と展開だが、なにせ今までになかったジャンルの作品なので、その斬新さだけで見せる映画となっている。
カンフーは格闘技の一種だから当然マシンガンなどの飛び道具には勝てるはずはなく、そのためにハンが支配する島へは拳銃の持ち込みが厳重にチェックされているという設定が用意されている。
そのようにして用意されたカンフー対決の動きは面白い。
リーは妹のスー・リンが数年前ハンの屈強な手下オハラの仲間達によって追い詰められ自害させられているので、オハラに対する復讐も遂げるのだが、その時の悲しげな表情が彼独特のもので印象に残る。

島には諜報員のメイ・リンが先行して潜り込んでいるが、彼女は最後に囚われの身の人々を開放するだけで、どんな活躍をするのかと見ていたら、いなくても良いような存在で脚本の稚拙さを感じる。
セットなども安っぽいものに感じるが、それがまたB級映画と呼ばれる通俗作品群の魅力ともなっている。
タイトル表示は「「ENTER THE DRAGON」となっているから、これこそ「ドラゴンへの道」だと思うが、この題名は「最後のブルース・リー ドラゴンへの道」で使用され、英題も「THE WAY OF THE DRAGON」と改題されている。
つまり、ブルース・リーの死亡によってこれが最後の作品となったのだが、公開年度の関係でこの作品が以前に撮られていた作品に影響を及ぼしたということだ。
それほどこの「燃えよドラゴン」は世界的にヒットしたのだが、日本では司馬遼太郎に断りを入れ「燃えよ剣」からタイトルを拝借したことも良かったと思う。
僕には、当時のロードショー館に掲げられたブルース・リーの巨大肖像画看板が懐かしい。
今はシネコンばかりで、外壁にそのような巨大看板を掲げている映画館は見当たらない。

ブルース・リーが最後に悪玉ハンの手下たちと大立ち回りをやるのだが、取り巻く大勢の手下たちはたぶんエキストラなのだろうがただ突っ立っているだけ、中には笑っている者もいる間延びのしたものである。
編集段階でカット、もしくは撮り直しが行われても良いシーンだがお構いなしである。
その前の段階では、捕らえられたはずのリーが無傷で広場に連れ出されていて自由に動き回れる状態だったし、それはないだろうとつぶやきたくなるシーンの連続で、見方を変えると突っ込みどころ満載の面白さだ。
最後の見せ場はリーとハンによる鏡の間での対決だ。
鏡に姿は写るが本人はどこにいるか分からない緊迫感を、ありきたりとは言え上手く撮られていたと思う。
しかし相手のハンを演じるシー・キエンが60歳近いこともあって、いくら少林寺の達人と言ってもあまり強くは見えないのが残念だ。
ウィリアムスが金属の義手を持つハンになぶり殺されてしまうことで、その強さを表していたと思うが、ローパーをも一撃で倒すぐらいの圧倒的強さを見せるべきだった。
そうであれば、フリー過ぎる姿で引き出されたリーに対するハンの強さへの自信が描けていたかもしれない。
ローパーがボロを倒した後のハンの慌てぶりは滑稽すぎる。
でもそれがB級映画の面白いとこなんだけど・・・。

燃えつきた地図

2023-04-27 07:32:52 | 映画
「も」は今までに
2020/5/21の「もうひとりの息子」から「モテキ」「もらとりあむタマ子」「モリのいる場所」「モロッコ」「モンタナの風に抱かれて」と6作品を
2021/12/16の「目撃」から「モダンタイムス」「モダン・ミリー」の3作品を紹介しています。

「燃えつきた地図」 1968年 日本


監督 勅使河原宏
出演 勝新太郎 市原悦子 中村玉緒 渥美清 長山藍子 酒井修
   笠原玲子 吉田日出子 小松方正 田中春男

ストーリー
男は妻と別居し、最も職業らしくない職業という理由で興信所の調査員になった。
間もなく男は、ある女から失踪した夫の行方動向の調査を依頼された。
しかし、女は夫を探すのには熱心ではなく男に協力的でなかった。
男はまず失踪者が残していった運転手募集広告、喫茶店「つばき」の電話番号を手掛りに調査を始めた。
しかし、いずれもはかばかしくなく、何の結果も得られなかった。
そんな時、男は女の弟と名乗るやくざ風の男に会った。
弟は失踪者の日記を見せるといって姿を消した。
男は弟に会ったが河原に連れて来られ、そこで、やくざの乱闘に巻き込まれてしまった。
この事件で弟は殺され、男も興信所から解雇されてしまった。
結局、弟が死に日記も入手出来ずに終ったが、男は単独で失踪者を探そうと決心した。
男は久しぶりに妻に会ったが、男には何の感激もなく、自分が失踪者であるような感覚に襲われた。
翌日、失踪者の部下田代の案内でヌード・スタジオを訪れた男は、田代が失踪者のことで嘘を言っているのを知った。
田代は弁解したが、男は取りあわず、そのため田代は予告自殺を遂げてしまった。
間もなく、「つばき」を訪れた男は、そこがいつもと違って運転手の客でごったがえしているのに驚いた。
「つばき」は日雇運転手の斡旋所で、彼らは身許も過去も問われない、一種の失業者の群だった。
男は失踪者について情報を得ようとして何者かに襲われ、気を失ったまま、女のベッドの上で目覚めた。
その時男は、失踪は脱落ではなく、都会の砂漠の中で生きている人間の、人間的な抵抗だと悟った。


寸評
成功したとは言い難い映画だが、所々に面白いシーンが登場する観念的な作品である。
興信所の勝新太郎が市原悦子から疾走した夫の調査依頼を受けて行動を開始するが、一向に手がかりがつかめない中で、依頼人のヤクザな弟の大川修や怪しい雰囲気を持つ喫茶店のマスター信欣三などが登場してサスペンス映画の様相を呈してくる。
おまけに依頼人の市原悦子は非協力的で、夫の安否よりも夫の失踪原因に興味がありそうである。
謎解き映画と思って見ていると、やがてそれは全然思惑違いであることを感じてくる。
勝新太郎があちこち動き回るが、探す男の足取りはまったく分からないどころか、無意味と思われるような出来事が描かれるようになってくると、僕は作品自体が分からなくなってきた。
図書館で勝新太郎の前に座る女が見つからないように本を切り取っているのだが、この女は何のために登場したのかよくわからなかった。
市原悦子の弟がヤクザの乱闘騒ぎで殺されてしまうので日記の話は立ち消えとなってしまうのだが、一体あの日記の存在は何だったのだろう。

失踪者の会社を訪ねると、そこには部下だった渥美清がいたのだが、渥美は小心者で言っていることが本当なのか嘘なのかが分からない男である。
失踪者がヌード写真を撮ることを趣味にしていたと語り、勝新太郎をスタジオに連れていきモデルになった長山藍子を紹介するが、写真のモデルは彼女だったかどうかは不明で、もしかするとモデルは奥さんの市原悦子だったのかもしれないと思わせる。
それよりも、渥美は失踪願望を持っており、そして究極の失踪でもある自殺を遂げてしまう。
渥美は喜劇役者としてのイメージが強いが、ここではシリアスな演技を見せて、人々に巣くう現実逃避の悩みを持つか弱い人間を演じている。
関係のない人物や関係ない事物のショットが入り込み、時には思わせぶりに反転した映像で描かれるシーンもあったりで、この頃になるとストーリー的には何が何だか分からなくなっている。
そう言えばあの頃、蒸発する人がかなりいて社会問題化していた。
社会は高度経済成長期に入っていたが、ノルマに追われ自らの人間性との狭間で悩むサラリーマンが出始めていた頃でもあったと思う。
そんな時代性が出ている作品でもある。

勝新太郎は闇営業をやっている喫茶店の「つばき」で客たちから暴行を受けて記憶をなくし、彼自身も失踪者の様になってしまう。
記憶をたどり「つばき」に行くと顔を見せない店員は吉田日出子ではなく、声を聞く限り市原悦子のようだ。
勝新太郎が出会ってきたことは幻だったのだろうか。
誰もが自らが進むべき道を記した地図をなくして彷徨い始めているのではないかとのメッセージが読み取れる。
安部公房原作、勅使河原宏監督のコンビ作品は肩の凝る作品ばかりだ。
なぜだか知らないが、冒頭のタイトルクレジット部分が紛失し、現存版では外国版のものが適用されている。
タイトル部のフィルムも失踪したようだ。

めぐり逢えたら

2023-04-26 06:54:03 | 映画
「めぐり逢えたら」 1993年 アメリカ


監督 ノーラ・エフロン
出演 トム・ハンクス メグ・ライアン ビル・プルマン
   ロス・マリンジャー ロージー・オドネル ギャビー・ホフマン
   ヴィクター・ガーバー リタ・ウィルソン バーバラ・ギャリック
   キャリー・ローウェル ロブ・ライナー

ストーリー
ボルチモアの新聞記者アニー・リードは、カーラジオで偶然聞いた番組に心ひかれた。
それはリスナー参加のトーク生番組で、シアトルに住む8歳の少年ジョナ・ボールドウィンが「落ち込んでいるパパに新しい奥さんを」といじらしいまでに切々と訴えていた。
続いて電話口に出た父親サム・ボールドウィンの声が、彼女の胸に響き、もらい泣きするアニー。
その時から彼女の内部で何かが変わり、婚約者のウォルターを相手にしても楽しくない。
一方のサムは、心配した仕事仲間のジェイから、女性との積極的な交際をアドバイスされている。
やがてサムこそ自分にとって最もふさわしい相手だと信じたアニーは、ジョナに手紙を書き、データベースでサムのことを調べ始める。
サムは友人たちの紹介でビクトリアという女性とデートするが、ジョナはお気にめさない。
パパにふさわしいのはアニーだけだと考えたジョナはラジオを通じて彼女に呼びかける。
アニーはシアトルに向かうが、お互いの顔を知らない彼女とサムは幾度かすれ違っただけだった。
バレンタイン・デーに、ニューヨークのエンパイヤ・ステート・ビルの展望台でのめぐり逢いを約束するメッセージをアニーはサムに送り、ジョナも「会ってあげて」と頼むが、サムは耳を貸さない。
ジョナはアニーとの約束を果たすため単身ニューヨークに向かい、あわてて追いかけるサム。
そのころ、エンパイヤ・ステート・ビルを望むレストランでは、アニーがウォルターに婚約解消を告げていた。
彼女はやはりサムのことが気になって仕方なく、入口が閉まりかかったエンパイヤ・ステート・ビルの屋上に登らせてもらうと、そこにサムとジョナがいた・・・。


寸評
事前にあらすじなどを見て、「あれ、これって見たことのある映画と似ているなあ」と思ってひらめいた。
そうだ、これはケイリー・グラントとデボラ・カーが主演した「めぐり逢い」だと。
そう思いながら見ていたら、本当にその「めぐり逢い」へのオマージュ作品となっていて、ビデオ再生による「めぐり逢い」のシーンが何度も出てくる。
おまけにサムの妹が映画のクライマックスで演じられるケイリー・グラントとデボラ・カーのやりとりシーンを話しだして泣き出す。
僕はそのシーンに「そうだった、そうだった」と相槌を打っていた。
そしたらサムがリー・マービンやアーネスト・ボーグナインが出ていた「特攻大作戦」を語りだして、両作品を見ていた僕はそれだけで嬉しくなった。

ラストシーンのエンパイヤ・ステート・ビルの屋上シーンは完全に「めぐり逢い」を髣髴されるものがあり、ノーラ・エフロンはよほどケイリー・グラント&デボラ・カーの「めぐり逢い」が気に入っているのだろうと思わせる。
そこに至る展開はまったく別の試みで、二人が空港で言葉もなくすれ違い、シアトルの街で道路を挟んで向かい合いお互いに「ハロー」と言葉を交わすだけである。
サムの息子ジョナが恋のキューピッド役を演じ、ジョナの女友達がオマセで手助けするのも微笑ましいのだが、子供を絡ませるとそれだけで映画はなんとなく治まりを見せてしまう。
子供と動物には不思議な力がある。
しかし、よくよく考えてみれば、まだ見ぬアニーをジョナがなぜ気に入ったのか、なぜ自分の新しい母親だと思えるようになったのかはよく分からない。
サムがアニーを一目見て心を奪われたのはマジックなのだろう。
アニーがジョナのラジオを聞いてサムに心を奪われるのもマジックのなせる業なのだろう。
アニーの母親が語った、父との手の触れ合いのマジック話がラストシーンに生かされていた。

二人が結ばれるためにお互いの相手は極端に描かれていて、そのことが作品を軽いものにしている。
サムの相手のビクトリアはハイエナのような笑い声を多発する女性で、見るからに馬鹿っぽく見える。
ジョナでなくても嫌悪感を抱かせる女性として描かれている。
アニーの婚約者のウォルターはアニーを愛しているようだが魅力の乏しい男で、小さい時からニック・ネームもつけられたことがない平凡な男である。
アレルギーの為に使用したティッシュ・ペーパーをフワフワさせる寝姿などを見ると、若い女性は興ざめしてしまうだろうし、アニーも同じような気持ちになったかもしれない。

アニーはサムの妹を恋人と勘違いしてショックを受けたのだが、彼女のことを「ジョナがアバズレだと言った風には見えず友達になれそうな気がした」と同僚のベッキーに語って終わらせるなど、全編を通じて恋に付き物の微妙な心の動きをしっとりと描き感じさせる演出は見られない。
反面、すごく気楽に見ることができる作品で、「めぐり逢い」を見ていれば全く違う印象を受けるだろう。

めぐり逢い

2023-04-25 07:10:07 | 映画
「めぐり逢い」 1957年 アメリカ


監督 レオ・マッケリー
出演 ケイリー・グラント デボラ・カー リチャード・デニング
   ネヴァ・パターソン フォーチュニオ・ボナノヴァ
   キャスリーン・ネスビット ロバート・Q・ルイス

ストーリー
ニューヨーク航路の豪華船コンスティテュウション号の美しき船客テリイ(デボラ・カー)は、置き忘れたシンガレット・ケースが縁でニッキイ(ケリー・グラント)と知りあった。
2人は一緒に食事をするほどの仲になったが、共に言い交した人のある身で、船内のゴシップになるのをさけて、別行動をとらねばならなかった。
船がナポリに着いたとき、ニッキイはテリイを誘って彼の祖母の家をたずね忘れ難い旅情に1日をすごした。
ここでテリイはニッキイが才能のある画家であることを知った。
別れの曲に思い出深い1夜を、ニューヨーク港の船内ですごし、6ヵ月後の再会を約して2人は別れた。
その時こそ2人の愛が真実であることを認められるのであろうと信じて……。
やがて誓いの宵、ナイトクラブに出演して成功したテリイは、約束の場所に急ぐ途中、走ってきた車にはねられて重傷を負ってしまった。
それとは知らぬニッキイはそぼ降る雨にぬれながら、夜おそくまで待っていた。
何ヵ月かたったある日、ニッキイは画商から自動車事故で不具になった女性が、彼の描いたテリイの肖像画を欲しがっているが、金が無くて買えないという話をきき、今はすべてをあきらめて、その絵をその女性に贈った。
その後とある劇場でニッキイは車椅子に乗ったテリイにあったが、昔と違う彼女に気づかずに別れてしまった。
クリスマスの日、あの不幸な女性への贈物にと、ニッキイは祖母のショールをもって彼女をおとずれ、部屋にあの絵があるのをみて、総てを知った。


寸評
ブルジョアの恋物語を思わせる前半は、ゴシップを恐れる二人のとる態度が面白おかしく描かれる。
ニッキィは資産家の娘と婚約しており、そのニュースが世界中に配信されている。
一方のテリィも言い交わした男性がいるのだが、その二人が相手を捨ててまで一緒になろうとする気持ちの盛り上がりが上手く描けているとは言い難い。
若い恋人たちが見る分にはロマンチックでウットリするものがあると思うが、それぞれの相手の立場になればたまったものではない。
それを押しのける二人の感情がもっと描き込まれても良かったような気がする。

テリィの気持ちを変えていくのがニッキィの祖母で、老婆の邸宅を訪問し彼女と話すうちに自分の道は自分で決めるということを悟る。
亡くなった祖父は外交官で、趣味で集めたその家の調度品は立派なものだ。
そのことも上流階級の物語を感じさせるのかもしれない。
庶民の僕たちにとっては、羨ましく思える環境下での恋だ。
雲の上の話として僕たちをうっとりさせるのかもしれない。

アメリカに戻った二人は再会を果たし結婚することを約束するが、事故によって再会は果たされない。
それでもお互いを想い続けている二人だが、ケネスが理解を示し本当のことをニッキィに伝えようとするが、テリィはそれを拒否する。
なぜそうしないのかの理由はイマイチ説得力に欠けるが、それも甘いムードで包んでしまう。
デボラ・カーがそうするのだから、そうなのだろうなという雰囲気である。
足を悪くしたテリィは教会で子供たちに音楽を教えている。
その子供たちが唄う場面があるが、意味のない割には結構長い時間を費やして描いている。
歌手として頑張っていたテリィを強調するためだったのかもしれないが、僕は子供を登場させて感動を押し付けているように感じたのだが、多分それは僕のうがった見方だろう。

電話番号からテリィの住居にたどり着いたニッキィが、自分は待ち合わせ場所に行かなかったと嘘をいい、その時の自分の気持ちをテリィに語らせるという着想は面白い。
脚本の妙だ。
ニッキィはテリィの家から去ろうとするが、そこで何を思ったか引き返して部屋のドアを開ける。
そこに自分が描いた祖母とテリィの絵が飾られていてすべてを悟るというエンディングなのだが、なぜニッキィは思い立ったように引き返してきたのだろう。
何のために部屋のドアを開けたのだろう。
僕は一体何をしているのだろうと思ったのだが、そんな疑問も吹き飛ばすハッピーエンドである。
当時はウットリしたのだろうが、今見ると古い作りの映画だなあと感じる。
しかし、それも許せる大人のための善良な映画であることは間違いない。

めがね

2023-04-24 07:08:03 | 映画
「め」は2020/5/11の「明治侠客伝・三代目襲名」から「夫婦善哉」「女神は二度微笑む」「めぐりあう時間たち」「めし」「メジャーリーグ」「メゾン・ド・ヒミコ」「めまい」「メリー・ポピンズ」「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」を掲載しています。

今回は3作品になりました。

「めがね」 2007年 日本


監督 荻上直子
出演 小林聡美 市川実日子 加瀬亮 光石研 もたいまさこ 橘ユキコ
   中武吉 荒井春代 吉永賢 里見真利奈 薬師丸ひろ子

ストーリー
春まだ浅い南の小さな海辺の町の空港に一機のプロペラ機が着陸した。
小さなバッグを手にタラップを降りてきためがねの女性サクラ(もたいまさこ)は、迎えの人に深々と一礼する。
同じ飛行機から降りてきたもう一人の女性、タエコ(小林聡美)。
大きなトランクを引きずりながら、地図を片手に不安げに向かった先は小さな宿、ハマダ。
出迎えたのは宿の主人ユージ(光石研)と犬のコージ。
翌朝、宿の一室で目覚めたタエコの足元に、不思議な雰囲気を持つサクラの姿があった。
サクラは毎朝、町の人たちと共に自作の「メルシー体操」を浜辺で行い、そのあとはカキ氷の店を開いている。
そして泊り客でもないのに、高校教師ハルナ(市川実日子)が、いつも宿周辺でぶらぶらしている。
奇妙な人たちの言動にペースを狂わされてばかりのタエコは、ついにたまりかねて別の宿に移る決心をする。
だがマリン・パレスという宿の女主人・森下(薬師丸ひろ子)に出迎えられたタエコは、危険な雰囲気を察知して、すぐに踵を返す。
そして道に迷っていたところをサクラに助けられ、またハマダに戻ってきた。
編み物をしたり、釣りをしたり、ただ海を眺めたり、気ままに日々を過ごすうち、彼女の心の枷がゆっくりと外れていく。
数日後、タエコを「先生」と呼ぶ青年・ヨモギ(加瀬亮)がハマダに現れ、すぐにここの生活に溶け込む。
いつしか全員めがねを掛けた五人は、お互いの素性もよく知らないまま、奇妙な連帯感で結ばれていった。
だがやがて季節の変わり目が訪れ、ヨモギはハマダを去って行く。
タエコも元の生活に戻ることにするのだが、気がつけばまたハマダに戻っているのだった。


寸評
フィンランドの食堂を舞台にスローな日常を描いた癒し系映画『かもめ食堂』に続いて荻上直子が撮ったスローライフ映画だが、前作ほどの新鮮味はない。
兎に角、何も起こらないし、謎めいたことがひとつも明らかにされない。
観光する場所もなく、「たそがれる」くらいしかすることがない島と語られるが、「たそがれる」くらいしかすることがないとは一体どのような状態を言うのだろう。
なんだか分かったような、分からないような表現だが、この映画を見ていると何となく納得させられる表現だ。
僕は映画を見ながら遥か昔のハネムーンを思い出していた。
石垣島から、さらにツアーで西表島に渡ったのだが、ツアーバスの集合時間に遅れそうになり大急ぎで駆け戻ったら、ツアーコンダクターに「ここまできて走るのなんかやめましょうよ」と優しく言われた出来事だ。
僕が一番印象に残っている出来事で、時間に縛られない雰囲気の島内観光は時間を忘れさせてくれたのだ。
今日中に帰ればいいやの雰囲気があった。
帰りの船では退屈しのぎに、人生初めてで唯一の高速艇の運転をさせてもらったことも懐かしい。

タエコはどのような理由で、一体何の為にこの島を訪れたのかは不明である。
一応、観光名所を聞いたりしているので単純な逃避行ではなさそうだ。
それでもあまり人とは関わり合いたくなさそうで、食事に誘われても、体操に誘われても、かき氷に誘われても「結構です」を連発する。
とにかくノンビリと時間が過ぎて行き、タエコの引きずる大きな旅行ケースは周りの景色に馴染まない。
タエコを先生と呼ぶ青年も登場するが、一体何の先生なのかさえわからずじまいだ。
高校教師のハルナもこの島に移り住んでしまっているようなのだが、そうなった理由はわからない。
ハマダの主人ユージは「あのかき氷に出会っていなかったら、ここにはいなかっただろう」と言うが、彼が背負っているものも一切描かれない。
何もわからないし、何も起こないことで観客はいつの間にか心癒されているような作風である。
そうなれるのは、あまりにも美しすぎる海や空が映し出され、登場する料理が実に美味そうだからでもある。
何気ない朝食もそうだし、もらったのを忘れていたとして出された"てんこ盛りの伊勢海老"などにお腹が鳴った。

サクラは息を潜めて小豆を煮ながら「大切なのはあせらないこと、あせらなければやがて…」と言う。
サクラは時間の精だったのだろうか?
描かれる島民は自給自足の生活で、物々交換の経済活動のようですらある。
それをユートピア的に描いているけれど、僕たちはそんな世界などあり得るはずがないことは知っている。
したがって、描かれていることへの白々しさはあるけれど、登場人物の一切を描かないことでメルヘン世界の存在を訴えていたのだろう。
でも僕のようなナマケモノが、あんな場所に住んだら本当に何にもしないで毎日毎日ボーッとした生活を送ってボケてしまうのではないかと思うが、少し憧れもある。
登場人物が全員メガネをかけているのは一体なんだったのか、僕はまだ答えを見いだせないでいる。

ムトゥ 踊るマハラジャ

2023-04-23 07:19:12 | 映画
「ムトゥ 踊るマハラジャ」 1995年 インド


監督 K・S・ラヴィクマール
出演 ラジニカーント ミーナ サラット・バーブ

ストーリー
大地主のラージャーに仕えるムトゥは、性格の明るさと腕っ節の強さで主人からの信頼と使用人仲間たちからの信望も厚い人気者だった。
ラージャーには伯父のアンバラがいて、彼の財産を手に入れるため娘のパドミニと結婚させようと企んでいた。
そんな中、ムトゥは芝居好きのラージャーに付き合わされる形で芝居見物をすることになるが、芝居に興味のないムトゥは途中で居眠りをしてしまい、看板女優のランガを怒らせてしまう。
一方、ランガの美しさを見て一目惚れしたラージャーは彼女との結婚を決意する。
ラージャーはランガに求婚し、「承諾するときは屋敷に来て欲しい」と告げるが、彼女はラージャーの話を聞いていなかった。
巡業先に到着したランガたちの前に借金取りたちが現れて「借金のカタ」としてランガを連れ去ろうとする。
ラージャーの命令でランガを助け出したムトゥだったが、二人は愛を誓いあう仲となった。
ムトゥはランガを屋敷で働けるように取り計らい、「結婚を承諾したから屋敷に来た」と勘違いしたラージャーは彼女を歓迎する。
ムトゥがランガと婚約していることを聞いたアンバラは、カーリを使い「ムトゥがランガに無理矢理結婚を迫っている」「ムトゥが屋敷の財産を狙っている」とラージャーに嘘を吹き込ませる。
カーリの話を真に受けたラージャーは激怒し、ムトゥを解雇して屋敷から追い出してしまう。
ランガから本当のことを聞いていた母シヴァガーミは息子を叱責し、ムトゥの正体を明かす。
ムトゥは屋敷を含む広大な土地を所有していた地主の息子であり、自分たちは地主から土地を奪い取ったことを語った。


寸評
インド映画と言えば、僕は「大地のうた」などのサタジット・レイ作品しか知らなくて、その昔、機会あってこの「ムトゥ 踊るマハラジャ」を見ることができたのだが、その時かなりカルチャ・ショックを受けたことを思い出す。
安っぽい作りに思われるが、多分、世界有数の映画製作国であるインドの、圧倒的多数を占めるB級映画は、このような作品なんだろうなと想像される。
見終わった感想の第一は、映画全体の構成のハチャメチャ振りがなんとも懐かしく思えたということだ。
なんだか子供の頃よくみた映画をリバイバルで見ているよな気になった。
あの頃はこのような観客サービスにあふれた活動大写真的な作品が多くて、映画館がすごく楽しい雰囲気を持っていたものだ。
とにかく、ブルース・リーを思い起こさせるカンフー・アクションがあるかと思えば、ミュージカル映画かと錯覚させられるぐらい、ダンスと歌のシーンが登場する。
カー・アクションばりの馬車シーンも登場するし、お涙頂戴シーンも盛り込まれている。
なにせ、ごった煮で、突然シーンと衣装が変わって歌い、踊りだすなんていうのはザラだ。
コミカルな喜劇タッチのシーンも登場する。
その支離滅裂さが不愉快かと言うとそうではなく、むしろ快感すら感じてしまうのだ。

冒頭でムトゥのラジニカーントが踊りながら歌って登場するシーンにまず驚かされる。
歌と踊りは何回も登場するが、ミュージカル映画でなくてもそれがインド映画のお決まりとのことである。
しかしこれだけ登場すればミュージカル映画と言ってもいいと思うのだが、ダンスはほとんどが腰振りダンスで、慣れ親しんだミュージカル映画のダンスシーンとはかけ離れたものだ。
1度なら物珍しさも手伝うが、毎回同じようなダンスを見せられると、これがインド特有のダンスなのだろうと思えてくるのだが、リズムとダンスは楽しいものである。
ランガのミーナが肉感たっぷりで艶めかしい。
何とか観客を楽しませてあげようというサービス精神に心打たれてしまう。
ラブレターが次々と渡っていき、勘違いした人たちが待ち合わせの庭園に集まってくるなど、ベタな話が多くて安物の喜劇映画を思わせるが、ここまで徹底するとそのベタさを楽しまないと損をする。
これだけ歌と踊りが入り込んでくると、話の内容の割には166分という超尺になるのも仕方がないだろう。

クレジット・タイトルでスーパー・スターとして紹介される主演者に興味を持って、インド映画の俳優名鑑を調べてみたが、あちらの女優さんは皆さん美人だ(少し、ふっくらされてる方が多いように思うが)。
大体において、インドの女性は美人が多いと思う。
多分、目がパッチリしているせいと思うが、僕がシンガポールのインド人街に行った時に出会った人も、小柄だがきれいな女性ばかりだった。
一方、男優人は濃い人が多いように感じた。
トム・クルーズばりのシャー・ルク・カーンもいるのだが・・・。

無言歌

2023-04-22 09:26:11 | 映画
「む」は2020/5/5からの「ムーラン・ルージュ」「ムーンライト」「麦の穂をゆらす風」「息子」「無法松の一生」「無法松の一生」と
2021/12/15の「娘・妻・母」でした。
今回は2作品です。

「無言歌」 2010年 香港 / フランス / ベルギー


監督 ワン・ビン
出演 ルウ・イエ ヤン・ハオユー シュー・ツェンツー
   リャン・レンジュン チョン・ジェンウー

ストーリー
1960年。
中国では、世界の誰にもしられぬまま、人々が辺境で死に向かっていた。
中国西部、ゴビ砂漠の収容所。
中華人民共和国の反右派闘争によって、多数の人間が甘粛省の砂漠にある政治犯収容所に送られ、強制労働についていた。
轟々と鳴る砂と嵐。
食料はほとんどなく、水のような粥をすすり、毎日の強制労働にただ泥のように疲れ果てて眠る。
かつて百花のごとく咲き誇った言葉は失われ、感情さえ失いかけた男たち。
董建義(ヤン・ハオユー)は、自分の死体を妻が持ち帰ることのできるように手配してほしい、と李民漢(ルウ・イエ)に言い残して命を落とす。
その後ある日、董顧(シュー・ツェンツー)が夫を探して上海からやって来る。
彼女は夫の死を知らされ、泣き崩れる。
数えきれない人間が葬られている砂漠で夫の死体を見つけることは不可能だと周囲の誰もが考えたが、彼女だけは決して諦めることなく、夫の死体を探し続ける。
愛する者に逢いたいと、ひたすらに願い、嗚咽する女の声が、いつしか男たちの心に忘れかけていた生命のさざ波を広げていく……。


寸評
この映画は中国共産党が党への批判を理由に行った反右派闘争を題材にしており、反革思想のレッテルを貼られた人たちが辺境の地で“労働改造“と称して過酷な生活を強いられた史実を基にした人間ドラマであるが、厳しい言論統制下にある中国だからこそ生まれた作品であろう。
政権批判を初め言論の自由が保障されている日本では発想すら思い浮かばない作品と言え、中国でよく撮ることができたものだと思う。
シーンの大半は地下壕の様子であることもあって内容は極めて暗い。
地下壕で寝起きして働かされている人が実にあっけなく死んでいく。
彼らは毛沢東によって右派分子の烙印を押され、辺境の労働教育農場に送られた知識人たちだ。
プロレタリア独裁を唱える政府に全国民独裁と言うべきだと言っただけで右派だと決めつけられて強制労働をさせられている。
彼らは農地の開拓をやらされているのだろうが、作物はとれず寒さと飢えと病に苦しむ毎日である。
上は人々を襲い、人の吐き出したものを食べる者もいるし、ネズミを捕らえて食料としている者もいるし、中には死体を食べたと罰せられる人も出てくる始末である。
そこには人間の尊厳などはない。
ワン・ビン監督は長廻しのロングショットで過酷な状況をたんたんと写し出していく。
ドラマチックなことは何も起こらない。
静かすぎる描写から、イデオロギーの名の下で行われた悲惨な政策への怒りと批判、犠牲になった人たちへの哀悼の気持ちが響いてくる。
中国は経済発展をして大国となったが、言論統制が厳しい一党独裁の国家体制は恐ろしさを感じる時がある。
描かれたことは過去のことなのかもしれないが、もしかすると今でも行われているのではないかとすら思ってしまう。
亡くなった人たち、生き延びた人たちに捧げるとなっているが、この映画からは救いも希望も感じ取れない。
告発だけをしていて中国では上映されることはないだろうと思う。

みんなのいえ

2023-04-21 08:16:03 | 映画
「みんなのいえ」 2001年 日本


監督 三谷幸喜
出演 唐沢寿明 田中邦衛 田中直樹 八木亜希子 伊原剛志 白井晃
   八名信夫 江幡高志 井上昭文 榎木兵衛 松山照夫 松本幸次郎
   野際陽子 吉村実子 清水ミチコ 山寺宏一 中井貴一 布施明
   近藤芳正 梶原善 戸田恵子 梅野康靖 小日向文世 松重豊
   佐藤仁美 明石家さんま

ストーリー
飯島直介(田中直樹)はバラエティ番組を手がける放送作家である。
妻民子(八木亜希子)との仲は睦まじく、二人は新居を建てることにした。
民子の提案で、設計を彼女の後輩で建築デザイナーの柳沢(唐沢寿明)に依頼する。
そして、施工を大工の棟梁である父長一郎(田中邦衛)に頼むことにした。
しかし、フランク・ロイド・ライトなどモダニズム建築を志向する新進気鋭のインテリア・デザイナー柳沢に対し、日本の在来工法でしか家を建てられないと言い張る長一郎。
おしゃれで開放感溢れるアメリカ建築をデザインする柳沢と、とにかく頑丈な和風建築を建てようとする長一郎は対立を始めてしまう。
ドアを外開きか内開きにするかでさえ、激しく対立する。
直介はどちらかの依頼を取り下げようと試みるが、柳沢の腕力の強さに怖がり、舅には面子をつぶさないように言われ、失敗する。
結局、柳沢が匙を投げる形で建築が進められるが両者の対立は解消したわけではない。
そんな中、大嵐が発生し、長一郎が念のため建築現場を見に行くと、柳沢も見に来る。
そこで直介も現場に行くことにするが、帰り道の柳沢の車と鉢合わせとなり、柳沢の車が横転。
積んでいた200万円相当のバロック式の家具が壊れてしまい、依頼主から修復を頼まれていた家具が完全に壊れて途方にくれる柳沢。
直介は長一郎に家具の修理を懇願。
壊れた家具を見た長一郎は家具の修復を決意し「昔も今も職人の考えることは同じだ」と言い、修復してしまう。
完成するころには両者は和解していたのだった。
飯島夫妻の家は無事完成するが、はたしてその出来映えは…。


寸評
脇役人がスゴイ。
しかもそれぞれがいい味を出している。
いわゆる芸達者な役者の面々にたいして、新築の家を建てる主人公の夫婦がお笑いコンビ、ココリコの田中直紀と元アナウンサーの八木亜希子の言わばその道の素人である。
実際、彼らの芝居は上手いとはいえず素人芝居の域を出ていない。
ところがその素人さが、新進気鋭らしく論理を振りまく唐沢寿明と、頑固な職人集団の棟梁である田中邦衛の間で右往左往する様子にピタリとはまっている。
特に八木亜希子は中々のものであった。

脇役たちを列挙すると、両家の母親が野際陽子と吉村実子で、野際陽子はキャバレーのマダムらしいのだが風水に凝っていて、これがひと悶着に一役買っている。
オープニングは何かよくわからないシーン。
中井貴一が中井貴一として登場しているのだが、どうやら直介が書いている作品の主演俳優の様だ。
彼の住むマンションの通路で繰り広げられるドタバタ劇は大した意味はなく宙に浮いている。
堀ノ内の布施明は「ラヂオの時間」に続いて同じ役で登場。
バーの客では常連の戸田恵子や梅野康靖に交じってイラストレイターの和田誠もいた。
バーテンダーはなんと真田広之。
棟梁の取り巻き大工には八名信夫などのバイプレイヤーがずらりと並ぶ。
その他にも、ココリコの遠藤章造、明石家さんま、香取慎吾、小日向文世、松重豊、清水ミチコなどなどがちょっとしたエピソードに登場していて、その存在を発見するのも楽しみ方の一つかもしれない。

ただ話はマイホーム建設にあたって設計者と大工が対立するというだけのもので、そこに特段の目新しさの様なものは見受けられず、映画的な興奮は生じなかった。
テレビドラマで十分な内容で物足りなさを感じる。
真田広之のバーテンが気に入らないカクテルを「自分の問題ですから」と言って何回も作り直す姿を見て、柳沢は塗料を壁にぶちまけるが、そこからの展開がないから一体あれは何だったのかと思ってしまう。
玄関のドアが外開きか内開きかに始まって、寸法がインチか寸かでもめたり、家の間取りや使用する照明器具のことでもめたりするのだが、それもなんだか迫力不足。
前作「ラヂオの時間」のハチャメチャぶりを見ているだけにちょっとガッカリ。

直介は義父の長一郎と柳沢が仲良くなっていくことに嫉妬を覚えるが、いっそ民子が柳沢と出来てしまって、彼を新しい婿養子に迎えるぐらいのぶっ壊しがあっても良かったのでは…。
それに切れた直介が、出来上がった新築の家に火をつけるとか…。
それだと喜劇がシリアスドラマになってしまうか……。
やはり喜劇はシリアスドラマより難しいのかもしれない。

未来を生きる君たちへ

2023-04-20 07:18:23 | 映画
「未来を生きる君たちへ」 2010年 デンマーク / スウェーデン 


監督 スサンネ・ビア                    
出演 ミカエル・パーシュブラント トリーヌ・ディルホム 
   ウルリク・トムセン ウィリアム・ヨンク・ユエルス・ニルセン
   マルクス・リゴード トーケ・ラース・ビャーケ ビアテ・ノイマン 

ストーリー                         
少年エリアスはデンマークで母マリアンと幼い弟のモーテンと暮らしているが、毎日学校で執拗なイジメにあっていた。
父のアントンは医師としてアフリカの地に赴任し、キャンプに避難している人々の治療を行っている。
様々な患者の中には妊婦の腹を切り裂く悪党“ビッグマン”の犠牲者もいた。
父親のアントンが大好きなエリアスはその帰国を喜ぶが、両親は別居中である。
ある日、母親の葬式を終えたクリスチャンが、エリアスのクラスに転校してくる。
その放課後、イジメっ子のソフスにエリアスは絡まれ、クリスチャンも巻き添えを食らう。
翌日、クリスチャンはソフスを殴り倒し仕返しをする。
ソフスの怪我が表沙汰になり、呼び出された父親クラウスは、報復にはきりがないと諭すがクリスチャンはやり返さなきゃだめだと口応えする。
帰国したアントンが、子供たちとクリスチャンを連れて出掛けた帰り、モーテンがよその子と公園でケンカになった。
割って入ったアントンだが、駆け寄って来た相手の子の父親に、理由も訊かれずに殴られてしまう。
翌日、クリスチャンとエリアスが自分を殴った男ラースの職場を割り出したことを聞いたアントンは、子供たちとラースの職場を訪れる。
殴った理由を問いただすアントンを、ラースは再び殴るが、アントンは決して手を出すことなく、屈しない姿を子供たちに見せた。
帰り道、殴るしか能のない愚か者だとラースを評するアントンに、エリアスとモーテンは同調するが、クリスチャンは報復しなかったアントンに納得がいかない。
アントンがアフリカへと戻った後、祖父の作業場で大量の火薬を発見したクリスチャンは、爆弾を作ってラースに復讐しようとエリアスに持ち掛ける。
一方、アフリカのキャンプでは脚に怪我を負ったビッグマンがやって来る。
アントンは周囲に反対されながらもビッグマンの治療を行うのだが…。


寸評
クリスチャンを演じたウィリアム・ヨンク・ユエルス・ニルセンがいい。
少年期の多感なそれでいて恐ろしさを秘めた姿を、その目力で見事に演じていた。
大きなテーマとなっているのは「復讐と赦し」だ。
復讐が暴力の連鎖を招くと考え、徹底して否定するエリアスの父アントンに対して、やられたらやり返すべきだと考えるクリスチャン。
大人の対立、子供の対立ではなく、世代の違う2人を対比させた構図がユニークである。
クリスチャンの父親も暴力の連鎖を否定しているので、クリスチャンの考えは父の教えではなさそう。
彼は母親をガンで亡くし、父親に対して複雑な感情を抱いていることも、その考えの底にあると思わせる。
一方は母への思慕を持ち父を毛嫌いし、一方は父を敬愛し母を疎ましく思っている構図も対比的で、全体構成を膨らませている。
その2組の父子の微妙な心のすれ違いが巧みに映し出されていく過程がなかなか良い。
後半になっていくと、孤独なクリスチャンの過激な行動を中心に据え、父子関係により強く焦点が当たり、映画全体に迫力が出てくる。
アントンがアフリカで地元の極悪人を治療すべきかどうかで苦悩するエピソードを加えて、より深くテーマに迫るが、常に冷静なアントンが切れることにより、簡単に結論の出るテーマではないことを印象付けた。

エリアスとクリスチャンは、お互いにかばい合い裏切ることはない。
きっと一生のいい友達になるだろうと思う。
そして2組の親子の再出発を印象付ける希望にあふれたエンディングで感動的だった。
夫婦の再生まで描くのは、やり過ぎのような気もするが、「復讐と赦し」と同時に「恨みと赦し」もあるので、その具現化だったのだろう。
エンドタイトルのバックに大自然や自然の営みが映し出されたので、それはある種監督のメッセージであるかのように感じた。

「未来を生きる君たちへ」への君たちは、エリアスとクリスチャン、そして私達だと思うのだが、それにしてもこの邦題は何とかならなかったものか?

宮本武蔵

2023-04-19 07:06:27 | 映画
引き続き加藤泰・高橋英樹による「宮本武蔵」です。 

「宮本武蔵」 1973年 日本


監督 加藤泰
出演 高橋英樹 田宮二郎 倍賞美津子 松坂慶子 仁科明子 佐藤允
   細川俊之 浜畑賢吉 笠智衆 石山健二郎 有島一郎 フランキー堺
   木村俊恵 加藤嘉 加藤武 穂積隆信 戸浦六宏 谷村昌彦 汐路章

ストーリー
〈第一部・関ヶ原より一乗下り松〉
作州宮本村の武蔵(高橋英樹)と又八(フランキー堺)は、出世を夢みて関ヶ原の戦いに参加したが、敗れて伊吹山中をさまよい歩くうち、お甲(木村俊恵)・朱実(倍賞美津子)の母娘に救われた。
又八はお甲に誘惑され夫婦になり、武蔵は帰国の途中関所破りをして役人に追われるはめになった。
一方、又八の母・お杉(任田順好)は、息子が帰らないのは武蔵のせいだと、武蔵に恨みを抱いた。
又八にはお通(松坂慶子)という許嫁がいたが、彼女は武蔵を慕うようになった。
それから三年…。京都の名門・吉岡道場の当主・清十郎(細川俊之)は、お甲の営む料亭に入りびたり、朱実に執心し、又八は、お甲に喰わせてもらい、半ばやけっぱちの生活を送っていた。
洛北蓮台寺野における武蔵・清十郎の試合は、武蔵が清十郎を一撃のもとに倒し一方的に終った。
清十郎の弟・伝七郎(佐藤允)も、蓮華王院・三十三間堂にて武蔵に挑んだが敗れた。
滅亡に瀕した吉岡家では、吉岡家の血につながる少年・源次郎(田村正勝)を名目人に立てて武蔵に試合を申し込んだが、単身乗り込んだ武蔵は、真っ先に、源次郎を殺した。
凄惨な決闘中、武蔵は無意識のうちに二刀を使って、門弟を次々と倒し、勝利を得た…。
〈第二部・柳生の里より巌流島〉
宝蔵院流槍術、鎖鎌の宍戸梅軒(戸浦六宏)を破って腕に磨きをかけた武蔵だった。
柳生に挑戦したところ、武蔵の剣は殺生剣として試合を否まれ、自分の未熟さを知った。
やがて、武蔵は小倉藩細川家の家老長岡佐渡(加藤嘉)の世話になり、宿敵佐々木小次郎と再会した。
慶長17年4月13日、武蔵と小次郎(田宮二郎)の試合が、長門の船島で決行されることになった。
お通に「武士の出陣は笑って送ってくれい」と言い残した武蔵は船島へと向った。
藩の名誉のために策略が巡らされた決闘の地で武蔵は小次郎を倒し早船に乗って引き上げる。


寸評
戦後公開された東宝版が3部作で東映版は5部作だったのだが、この松竹版は1本で撮られているためにどうしてもダイジェストのようになってしまったのは致し方のないところか。
武蔵が千年杉から解放されて逃げたのち、再び捕らえられて3年間姫路城の天守に幽閉されたことなどはナレーションで語られ、前触れもなく吉岡清十郎との対決となる。
宍戸梅軒との対決、宝蔵院との対決もテロップが入れられ紹介されるが、対決だけの描き方で経緯は描かれず、勝負は早いうちに決着がつく。

吉岡清十郎が武蔵に敗れた後に、吉岡道場側では道場と吉岡の家名を残すための騒動となっていくが、これは最後に細川藩の家名を残すための策略が張り巡らされ、武蔵を推挙する家老長岡佐渡もそれを了解するしかないという封建社会の非道性につながっていたと思う。
武蔵は小次郎が藩指南役として殿様の用意した船で船島に向かい、自分が長岡佐渡の用意した船で向かえば、殿様に長岡佐渡が逆らったようになってしまうと配慮を見せているのに、長岡佐渡はお家大事を決断させているあたりは、加藤泰の解釈だったのか、脚本の野村芳太郎の解釈だったのか?

加藤泰監督が得意とするローアングルは徹底されていて、随所のシーンでローアングルが用いられている。
陸上での撮影はもとより、川や海のシーンでは水中に半分没したカメラで撮影する徹底ぶりである。
船島へ向かう船底を水中から写すことまでやっていて、水中カメラ大活躍であった。

3社版の内では、本作の武蔵とお通が一番情熱的である。
武蔵とお通はなさぬ仲であったが、お互いに思いあっていたかのような描き方で、やがて武蔵もお通もその愛をストレートに伝えあっているが、僕が描く両者のイメージとは違っていた。
半面、朱実の武蔵への慕情の描き方は希薄であった。

武蔵が約束の時刻に遅れる理由は説明されているが、船島での小次郎との対決は雨中で行われ、太陽の影響は受けていない。
勝利した武蔵は引き上げる船に乗って悲しげな表情を浮かべるが、それは宿敵の佐々木小次郎を失ったことによるものか、武士道の非情性を垣間見たことによるものだったのだろうか?
それにしても加藤泰はこの映画で何を描きたかったのだろう。
人間武蔵を描いたにしては切り込み不足だし、じれったくなるようなすれ違いドラマにもなっていない。
話があまりにもポピュラーすぎて脚色するのが難しいのかな…。

武蔵の宿敵佐々木小次郎役は、東宝版が鶴田浩二、東映版が高倉健、この松竹版では田宮二郎が演じたが、一番似合っていたのは田宮二郎ではなかったかと思う。
半面本作に於けるお通の松坂慶子と朱実の倍賞美津子はミスキャストだったような気がする。
松坂慶子はエネルギッシュ的であり、倍賞美津子に可憐さはなく、どちらもやけに成熟した女性に見えた。
城太郎、伊織などの武蔵の弟子は登場しない。

宮本武蔵・完結編 決闘巌流島

2023-04-18 07:25:54 | 映画
「宮本武蔵・完結編 決闘巌流島」 1956年 日本


監督 稲垣浩
出演 三船敏郎 鶴田浩二 岡田茉莉子 桜井将紀 上田吉二郎 高堂国典    
   八千草薫 岡豊 志村喬 佐々木孝丸 音羽久米子 瑳峨三智子
   清川荘司 加東大介 澤村宗之助 千秋実

ストーリー
旅僧日観(高堂国典)から将軍家師範柳生但馬守に仕官するように勧められ、城太郎(桜井将紀)を伴って江戸へ出た武蔵(三船敏郎)は馬喰町の旅篭で、来る日も来る日も観音像を彫っていた。
その頃、小次郎(鶴田浩二)も細川候(岡豊)へ仕官のため、これも江戸に来ていた。
お目見得の御前試合で、心ならずも相手を不具にした小次郎を慰めたのは家老岩間角兵衛(佐々木孝丸)の娘お光(瑳峨三智子)であった。
ある日、武蔵と出逢った小次郎は対決を迫り、明日の再会を約して別れるが、翌日、果し合いの場所に城太郎が手紙を持って来た。
試合を一年後に延期してくれというのである。
城太郎と博労熊五郎(田中春男)をつれて旅に出た武蔵は、法典ヵ原に小屋をつくり、剣も鍬、鍬も剣なりと畑を耕すのだった。
そんなある日、匪賊に襲われた男装の女を城太郎と熊五郎が救ったが、それはお通(八千草薫)だった。
その頃、江戸吉原の遊廓に身を沈めていた朱実(岡田茉莉子)は細川藩に仕官した小次郎から武蔵の消息を聞き、法典ヵ原に向かったが野武士に囲まれた。
首領は辻風典馬の兄黄平(富田仲次郎)、手下は祇園藤次(加東大介)の一味である。
黄平は朱実を囮にして武蔵を討とうと図るが、却って武蔵に斬られ、朱実は藤次の匁にかかって死んだ。
朱実を葬った武蔵に、豊前小倉へ赴任した小次郎から、舟島で試合をしたいと手紙が届いた。
その当日、武蔵が舟から浅瀬におりると、小次郎が迫った。
東の空が紅く染まり武蔵の背後に朝日が輝いた。
小次郎の剣が円を描いて武蔵の鉢巻を斬った瞬間、武蔵の木刀が打ちおろされた。
砂上に倒れた小次郎の顔には「勝った」という微笑がうかんでいた。
船頭佐助(千秋実)の漕ぐ舟の上で、武蔵の眼から涙が流れ落ちていた。


寸評
武蔵がここまで成長してくると、ユーモアを感じさせるシーンも登場してくる。
筆頭は城太郎と秩父の熊五郎のやり取りだ。
馬喰の熊五郎は武蔵が箸でハエを捉える姿に感服して弟子に志願した男なのだが、弟子ということからいえば子供の城太郎の方が先ということで兄弟子風を吹かせる。
このやり取りが緊張感を和らげる。
城太郎は武蔵とお通を結びつける接着剤の様な役目も負っている。
この作品における城太郎は、もう一人の弟子である伊織の分も合体させた存在で、このシリーズでは伊織は登場してこない。
ちなみに伊織は武蔵の養子となり宮本伊織貞次と名乗って、弱冠20歳で明石藩の家老となっている。
肥後へ移封後も島原の乱には侍大将と奉行を兼ねるなどの武功もあげ、家中の譜代・一門衆を越えて筆頭家老となったようである。

出来事を省いて描くことは、このシリーズの特徴なのかもしれないが、お甲も辻風天馬の兄である辻風黄風に殺されてしまっている。
それは語られるだけで殺害シーンはない。
その辻風黄風と一緒にいるのが祇園藤次で、二人に出合った朱実はお甲を殺した辻風黄風といることを非難するが、殺害シーンがないので祇園藤次への憎しみも半減だ。
祇園藤次は朱実をそそのかして村を襲うのだが、祇園藤次への恨みよりも、恋争いに敗れたお通への恨みの方が上回ったことへの配慮だったのかもしれないが…。

武蔵は高僧日観からの紹介状をもらっておきながらも柳生但馬守とは「まだまだ修行がしたいと」言って会わないことにする。
城太郎は武蔵が出世すれば自分も出世できたのにと残念がるが、武蔵は「お前はそんなことを考えていたのか」と言うだけで咎めることはしない。
説教臭いこともどちらかと言えばあっさりと描いていて、肩ぐるしさを感じさせないシリーズである。

巌流島での決闘シーンは美しい。
相当天候待ちをしたであろうことがうかがえる。
朝焼けの中を武蔵が小舟に乗って現れ、波打ち際で佐々木小次郎がそれを迎える。
朝焼けの空が真っ赤に染まり、その中に二人の姿が浮かび上がる。
太陽の動きなどを見ると一気の撮影だったのかもしれない。
太陽が水平線の雲間から徐々に上っていく様子が背景に写り込む。
上りきると朝日が武蔵越しにまばゆい光で小次郎を照らし出す。
決着は分かっているのだが、対決の緊迫感を生み出す美しい場面で、このシリーズにおける出色のシーンとなっている。
このシーンを見るだけでも価値ある一遍だ。

続・宮本武蔵 一乗寺の決闘

2023-04-17 07:34:26 | 映画
「続・宮本武蔵 一乗寺の決闘」 1955年 日本


監督 稲垣浩
出演 三船敏郎 鶴田浩二 堺左千夫 平田昭彦 藤木悠 加東大介
   東野英治郎 尾上九朗右衛門 御橋公 高堂国典 谷晃
   八千草薫 岡田茉莉子 水戸光子 木暮実千代 滝花久子

ストーリー
鎖鎌の達人宍戸梅軒(東野英治郎)と戦って勝った宮本武蔵(三船敏郎)は、そのまま京への道を歩んで行く。
その彼を追い求めているのはお通(八千草薫)と朱実(岡田茉莉子)であった。
やがて京の三条大橋に現われた武蔵は、そこで待ちわびて居たお通に逢った。
そこへ吉岡道場の一味が現われ、武蔵はお通をかばいながら激しく斬り合ったが、それを橋上から眺めているのは物干竿と呼ばれる大刀を持った佐々木小次郎(鶴田浩二)である。
武蔵を見失ったお通は、清十郎に恥ずかしめられた朱実に出会ったが、二人共求める男が武蔵であることを知ると、朱実は嫉妬をあからさまに示した。
その頃、修行の旅から帰って来た吉岡伝七郎(藤木悠)は、兄清十郎(平田昭彦)の不甲斐なさに武蔵を討つ決心をしたが、三十三間堂での戦いで逆に斬られてしまった。
雪の夜、伝七郎を討ち、そっと廓に戻った武蔵の袖の血を、吉野大夫(木暮実千代)が懐紙で拭った。
やがて武蔵と清十郎の対決する時が来た。
一乗寺下り松では、門弟等大勢が武蔵をだまし討ちにしようと待ち構えていた。
小次郎が立合いに来たが、その外お通と朱実もかけつけ、お杉(三好栄子)と又八(堺左千夫)もそれを追った。
やがて武蔵が現われ鉄砲が火を吹き、いつしか二つの剣を持って戦う武蔵は手傷を負っていた。
やがて門弟に謀られて遅れた清十郎もやって来て武蔵と対決した。
武蔵の勝ちであった。
谷川のほとりで傷を癒やす武蔵とお通。
心をかき乱された武蔵はお通を枯草の上に倒した。
驚き身を退けるお通、はッと我に返った武蔵は起き上って姿を消し去った。


寸評
脚本が大きく原作から隔たっているのが3部作のうちのこの続編である。
吉岡清十郎との対決の前に、弟の伝七郎と戦っている。
伝七郎は兄の敵討ちではなく、兄のふがいなさを見て先に三十三間堂で対決している設定だ。
一乗寺下り松の決闘における名目人は子供ではなく、吉岡清十郎その人がたっているが、門人の配慮でその場所にはいない。
吉岡清十郎は武蔵との戦いに敗れ、そのことをもって武蔵と吉岡一門との勝負はついたとしている。
大きな改変はそのあたりだろうが、意図はよくわからない。

始まりはいきなりの宍戸梅軒との対決であったが、しかし勝負は意外とあっさりと決着がつく。
僕の記憶では宍戸梅軒との対決は吉岡一門との対決の後だったように思う。
二刀流をここで見せるが、梅軒の鎖鎌に対抗することで二刀流に開眼したというイメージはない。
吉岡清十郎の弟の伝七郎は三十三間堂で武蔵と対決するが、その決闘場面はなぜか省略している。
宍戸梅軒といい、吉岡伝七郎といい、どちらの決闘場面も迫力のないものだ。
これは僕の想像だが、その後に起きる一乗寺下り松での戦いを際立たせるために、あえて簡略化したのではないかと思う。
実際、一乗寺下り松の戦いは田んぼやあぜ道を上手く使って、緊迫感のある戦いの場面を生み出していた。
多勢に無勢で、さすがの武蔵も終わりかと思われる中、足場の悪い水田に吉岡勢を誘い込み、自分は足場の良いあぜ道にいて、そこを進んでくる相手を一人ずつやっつけていく。
その戦い方を高台にいる佐々木小次郎が解説者のように実況中継するのが面白い。
本作は宮本武蔵恋愛編と言ってもいいかも知れない。
武蔵を取り巻く女性たちの姿がかなりのウェイトで描かれている。
朱実とお通の恋のさや当ても描かれているし、吉野太夫の武蔵への思慕の姿も描かれている。
その他にも吉岡清十郎と朱実、祇園藤次とお甲の関係、佐々木小次郎と朱実など、男と女が絡むシーンが意外と多い。
男が主人公の映画であるが、案外と男と女の関係が控えめながらも描かれていて雰囲気を変えていた。
そして、強い男の象徴として武蔵があり、その対極の男として又八を登場させている。
又八は妻のお甲が祇園藤次と旅立つ時にぶつかり倒れるが、酔っていたのでそれに気づかない。
又八は重要な登場人物だと思うのだが、この後に登場することはない。

本作で宿敵の佐々木小次郎が登場するのが大きな出来事だが、キャスティングはなぜか本位田又八が三国連太郎から堺左千夫に代わっている。
東映版では高倉健が、この東宝版では鶴田浩二がそれぞれ佐々木小次郎を演じているが、後に任侠映画を支えた二人が共に佐々木小次郎を演じているのが興味深い。
そして、この時点では明らかに佐々木小次郎の方が剣の腕が勝っているような描き方だった。
お通はどうして武蔵を拒絶したのかなあ。
突然のことで思わず…ということなのだろけれど。

宮本武蔵

2023-04-16 07:45:38 | 映画
内田吐夢・中村錦之助に続き、稲垣浩・三船敏郎版の紹介です。

「宮本武蔵」 1954年 日本


監督 稲垣浩
出演 三船敏郎 尾上九朗右衛門 三国連太郎 八千草薫 水戸光子
   岡田茉莉子 三好栄子 平田昭彦 阿部九州男 小杉義男
   加東大介 小沢栄 上山草人 谷晃

ストーリー
新免武蔵(三船敏郎)と本位田又八(三国連太郎)は出世を夢みて関ケ原の戦さに参加して敗れ、伊吹山中をさ迷い歩くうち、お甲(水戸光子)と朱実(岡田茉莉子)の母娘に救われた。
又八は朱実に惹かれるが、彼女は男らしい武蔵に心を寄せる。
ある夜、野武士辻風典馬(阿部九州男)一味がこの家を襲うが、武蔵は木剣で多くを倒した。
お甲は彼に言い寄るが武蔵ははねのける。
お甲は腹いせに武蔵に迫られたとウソを言って又八と夫婦になり、朱実をつれて三人で出奔する。
武蔵は又八の無事を告げるために故郷宮本村に帰るが、又八の母お杉婆(三好栄子)は息子が帰らないのを武蔵のせいにして恨んで、関所破りとして役人に追わせる。
沢庵和尚(尾上九朗右衛門)は山中に逃げた武蔵の心が荒むのを憂え、又八の許婚お通(八千草薫)と二人で武蔵を連れ出し、沢庵は武蔵を杉の大木に吊りさげて武道一点ばりの彼を戒める。
追手の侍大将青木丹左衛門(小杉義男)は武蔵の引き渡しを要求するが、沢庵和尚は城主の池田輝政(小沢栄)と懇意であることをにおわせ身柄を引き受ける。
その夜、お通は大木につるされた武蔵を救い、二人は助け合って逃げた。
お通は追手に捕えられ、武蔵は彼女を救うため姫路域に忍びこもうとする。
彼の人物を惜しむ沢庵は、お通の無事を告げ、彼を天守閣にとじこめ文を学んで道を開けと教える。
その頃お甲と朱実は京都で料亭を営み、剣の名門吉岡道場の吉岡清十郎(平田昭彦)は朱実に恋したが、彼女は今も武蔵を思っていた。
城内で三年の修業をつんだ武蔵は見違えるような人物となり、その年月城下で武蔵を待ったお通と、心を鬼にして別れ、修行の旅に立った。


寸評
宮本武蔵は実在の人物らしいが、武蔵のイメージは吉川栄治の小説によるところが大きい。
とは言え、僕とは時代が違うので新聞小説を読んではいない。
徳川夢声によるラジオ朗読も聞いたわけでもないし、戦前に作られた映画を見たわけでもない。
それでも宮本武蔵は僕が知る剣豪のなかでも図抜けた知名度だ。
匹敵するのは柳生十兵衛ぐらいのものだ。
塚原卜伝や伊藤一刀斎もいるが、なんといっても宮本武蔵は抜きん出ている。
その名前は子供の頃にはすでに脳裏に刻まれていた。
いったいどこから知りえたのか、今となっては知る由もない。

さて「宮本武蔵」だが、僕は戦前の映画は見ていないが、戦後に作られた作品は幸いにして見ることができた。
稲垣浩監督の東宝版3部作、内田吐夢監督の東映版5部作、加藤泰監督の松竹版1部作である。
この東宝版は3社作品の中では一番きらびやかな作品だ。
関ヶ原の合戦や山狩りのシーンなどでのエキストラの配置や、セット撮影における美術などに当時の映画に賭ける情熱を感じる。
このあたりがアカデミー賞の現在の外国映画賞に当たる名誉賞受賞に輝いた理由だろう。

お通は当初、又八と心を通わせているように描かれているが、又八とお甲からの手紙を見て武蔵に心変わりしていく。
その過程が希薄なのでどうも武蔵とお通の慕情関係がすんなりと入ってこない。
お通は又八が帰ってくるまで待っていると本心から言っているように描かれていたのに、たった一通の手紙だけで武蔵に心変わりしてしまう。
しかも、お通が心変わりするまでの時間がやたらと短いのだ。
沢庵和尚も若すぎる感じがしてならなかった。

武蔵は姫路城の天守閣に3年間幽閉され、そこで学問を身に着けるが、その過程は描かれていない。
突如きらびやかな衣装で登場する。
幽閉を解かれた後に与えられた装束だと思われるが、孤高の剣豪宮本武蔵のイメージからは程遠いものが有り、池田輝政との対面シーンに違和感を覚えた。
お甲と朱実の母娘の衣装も、野武士が襲ってくるような野中の一軒家で、死人からの盗人家業を生業としているには艶やかな着物をまとっているといった具合に、全体的に出演者の衣装はきらびやかなのだが、これはカラー作品を意識したものだろう。
今見ると、必要以上のあでやかさだ。
3部作のモノローグで、特にこれといった見せ場はないが、八千草薫のお通が日本女性らしい美しさを保ちながらかわいらしく撮られている。
美人過ぎて薄幸の女性という感じはしないのは、彼女の若さと美貌のせいで、美人女優にはつらいところである。