おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

トイレット

2022-11-30 06:45:45 | 映画
「と」ですが、2021/6/23の「東京オリンピック」から始まり、以下「東京家族」「東京公園」「東京上空いらっしゃいませ」「トウキョウソナタ」「東京流れ者」「東京物語」「東京夜曲」「逃亡者」「TOMORROW 明日」「トゥルー・グリット」「トゥルー・ロマンス」「遠すぎた橋」「トータル・リコール」「トキワ荘の青春」「ドクトル・ジバゴ」「独立愚連隊」「独立愚連隊西へ」「時計じかけのオレンジ」「どついたるねん」「突然炎のごとく」「トッツィー」「突入せよ!あさま山荘事件」「トップガン」「ドッペルゲンガー」「となりのトトロ」「トニー滝谷」「扉をたたく人」「丼池」「飛べ!フェニックス」「止められるか、俺たちを」「共喰い」「ドライビング Miss デイジー」「ドライヴ」「トラ・トラ・トラ!」「とらばいゆ」「トラフィック」「鳥」「ドリームガールズ」と続き、2021/8/1の「泥の河」まで一気に紹介しています。
したがって今回は追加紹介となります。

「トイレット」 2010年 日本 / カナダ


監督 荻上直子
出演 アレックス・ハウス タチアナ・マズラニー
   デヴィッド・レンドル サチ・パーカー もたいまさこ

ストーリー
北米東部。とある企業の実験室に勤務するレイは、誰とも深く関わらないことを信条に生きてきた。
彼の唯一の趣味は、ロボット型プラモデルでのひとり遊び。
ところが母の葬儀の直後、ひとり暮らしのアパートから、レイはやむなく実家に舞い戻るはめになる。
そこには、引きこもりのピアニストの兄モーリーと、ちょっと勝気な大学生の妹リサ、猫のセンセー、そして“ばーちゃん”が暮らしていた。
ばーちゃんは、彼らの母親が亡くなる直前に日本から呼び寄せた3兄弟の祖母。
英語が全く話せないばーちゃんは自室にこもりきりで、トイレから出てくるたびに深いため息をつく。
そんなある日、以前母親が使っていた古いミシンを見つけたモーリーは、「布を買いに行きたい」と、ばーちゃんに訴える。
心の病のモーリーは4年間、外に出られずにいたのだ。
そんな彼にばーちゃんは無言で札束を差し出す。
一方、ばーちゃんがエアギターのコンテスト番組に見入っているのを知ったリサは、自分もコンテストに出ようと決意、そのための資金をばーちゃんはまたも気前よく無言で出してくれた。
予測不可能なことをやらかす3人に、レイの平穏な日常は破られ、ついキレてしまうこともあったが、そんなとき、ばーちゃんはレイのために餃子を焼いてやるのだった……。
モーリーが出場するピアノ・コンテストの日がやって来た。
お手製の花柄のスカートをはいたモーリーがステージに登場すると、客席にざわめきが起きる。
4年前にコンテストの演奏途中で緊張のあまり吐いたことがトラウマになっていたモーリーだった。
今また緊張でパニック寸前の様子を見たばーちゃんは、立ち上がりモーリーに大声で呼びかける。


寸評
荻上直子監督の描く映画は大した事件も起きないほのぼのとした作品ばかりである。
「かもめ食堂」の時にはその作風を新鮮に感じたが、度々見せられると少々飽きがきているのを感じる。
ウォシュレットは日本のTOTO株式会社の登録商標であるが、温水洗浄便座を代表する商品名として世の中に浸透している。
人気歌手のマドンナが日本公演で来日した時に、その素晴らしさに感動して購入して帰ったというニュースを目にしたことがあり、その性能はレイの同僚のインド人によって語られている。
どうやら、もたいまさこ演じるばーちゃんはアメリカの便器が気に入らなかったようで、トイレから出るといつもため息をついている。
英語が分からないのか一切しゃべらないが、孫たちの言わんとすることは理解できているらしい。
言葉が通じなくても気持ちがこもっていれば相手に通じると言っているようだ。
しかし、英語が喋れないんだったら日本語で孫たちと意思疎通を取ればいいと思うし、ばーちゃんが無言でいる必要性はどこにあったのだろう。
モーリーのピアノ演奏会シーンを撮りたいがためだったのだろうか。

この家族の家庭環境はよく分からない。
母親が死んで日本から来たばーちゃんと、一緒に暮すことになった三人の孫たちとの交流を描いているが、父親はどうしたんだろう。
離婚していたのか、先に死別していたのか、父親の影はまったく見えない。
母親が死ぬ前にアメリカに呼び寄せたようだが、大金を使って探し出したというから母親とばーちゃんの間にも何かあったと思われるが、それも分からずじまいで映画はこの4人が繰り出すコネタに終始している。
一つ一つのエピソードには尻切れトンボ感がある。
モーリーはなぜスカートをはきたいのか。
ただ単にはきたいからでは淋しい気がする。
詩の研究クラスにいるリサはなぜエアギターに挑戦する気になったのか。
これもまた単にばーちゃんがエアギターのコンテスト番組に夢中だったからなのか。
レイの出自にかかわることも、これで終わっていいのかなと言うような気がする。
3000ドルの返済と妹の紹介はどうなったのだろう。
兎に角この映画、誰も何も話さない空白の時間がとても多い。
そんなシーンを含めて描かれているのは、ごくごく当たり前の人間の日常の営みである。
日常の営みの代表が朝起きてトイレに行くことと食事をとることで、「かもめ食堂」同様に普通の食事jシーンが出てきて、今回は餃子である。
ばーちゃんは餃子の皮つくりをリサに教えるが、ここでもばーちゃんは無言である。
無言でありながら三兄妹が家族の絆を深める接着剤になっていくばーちゃんの姿はユーモラスではあるのだが、やはりどこか物足りなさを感じてしまう。
何も起こらない退屈な日々が一番幸せなのだと言っているように感じるのだが、僕はそんな生活が幸せだとは思えないのだ。

天平の甍

2022-11-29 07:24:10 | 映画
「天平の甍」 1980年 日本


監督 熊井啓
出演 中村嘉葎雄 大門正明 浜田光夫 草野大悟 高峰三枝子
   高橋幸治 志村喬 田村高廣 井川比佐志 藤真利子

ストーリー
天平五年春、若い日本人僧、普照(中村嘉葎雄)、栄叡(大門正明)、玄朗(浜田光夫)、戒融(草野大悟)の四人が第九次遣唐使船に乗って大津浦を出航した。
普照は美しい許婚者、平郡郎女(藤真利子)と苦悩の末、別れての出発だ。
四人は唐の高僧の渡日要請の任務を持って洛陽に入り、そこで、挫折した留学僧や、経典を正しく日本に伝えるため写経に一生を賭している業行(井川比佐志)などに出逢う。
四人は玄宗帝に従い洛陽から長安に移るが、渡日を快諾してくれる高僧にはなかなか会えない。
日本を出てから十年目、一行は高僧の鑑真和上(田村高廣)の存在を知る。
この間、戒融は仏陀の真理を悟るため一人旅立っていった。
和上は一同の熱意に渡日を表明する。
しかし、日本人僧の帰国渡航は非合法であり、まして中国人僧が渡日することは赦されることではなかった。
普照らの行動は張警備隊長(沼田曜一)に監視されることになった。
そして、栄叡と道抗(陶隆司)は密出国の主謀者として逮捕され、自信を失った玄朗は一行から別れていった。
三年後、道抗は獄死し、栄叡は釈放される。
天宝七年、和上は渡日を決行するが、暴風雨に遭遇して失敗、栄叡は疲労と熱病で死亡する。
その頃、奈良朝廷は第十次遣唐船の出航を決定、四人が出てから二十年が経ていた。
普照は還俗した玄朗からその話を聞き、駐唐大使、藤原清河(高野真二)を訪ね、和上の渡日を要請する。
一方、和上は度重なる疲労から失明していた。
そして、一同の情熱に触れた張警備隊長の温情もあって、普照らは日本に向う船に乗った。
しかし、業行を乗せた第一船は嵐に会い写経した厖大な経典も人命救助のため無慈悲に海中に投げ捨てられると、業行もその経典と共に荒れ狂う波間に身を躍らせた。


寸評
近鉄橿原線の西ノ京駅を降りると目の前に薬師寺がある。
薬師寺前の細い道を北へまっすぐ300メートルほど行けば唐招提寺を囲む土塀に突きあたる。
右に折れるとすぐに唐招提寺の南大門がある。
このあたりは同じ奈良県でも東大寺界隈ほどの喧騒はない。
開門前に行くと本当に静かで、南大門から誰もいない掃き清められた境内を見ると、真正面に石の灯篭があり、そのすぐ向こうに金堂が見える。
両脇の松の木立の間にどっしりと構える金堂を眺めただけで背筋が延びる。
境内の御影堂を通り過ぎて奥まったところに御廟があり、それがこの寺を創建した鑑真和上が眠る墓所である。
鑑真が何度もの渡航失敗による失明をおこしながらも来日して帰化した故事を知るだけに感慨深いものがある。
映画はその鑑真和上を日本に向かえるために腐心する、普照や栄叡らの苦難の日々を描いている。

上映時間もそこそこあり、エピソードも色々盛り込まれているのだが、全体的には散漫で熊井啓はこの映画を通じて一体何を描きたかったのだろうと思ってしまうのが僕の第一印象。
郎女との恋模様なのはその最たるものだ。
当時においては中国に渡るのも帰国するのも命がけだったことはわかる。
したがって遣唐使船が嵐にあうスペクタクルは予想通りだが、唐に入ってからのエピソードの羅列はB級ドラマのような安っぽい演出に終始している。
日本映画だから仕方がないのだが、登場する中国人が皆日本語を話しているのはリアリティに欠けている。
描かれている時代は玄宗皇帝が楊貴妃に溺れて安禄山の変も起きる頃だから、唐の役人の中には玄宗に反感を持っていた人もいたのかもしれない。
密航を取り締まっている役人が鑑真を初め普照たちを見逃がすのはそのような背景があったのかもしれないが、鑑真や普照たちを見逃がす役人の心の内はよく分からない。
単に熱意に打たれたにしてはやけにあっさりとした描き方だ。

20年にも及ぶ滞在だから、現地人と結婚したりして現地に溶け込んでしまう人が出てきても不思議ではなく、この映画にも登場する阿倍仲麻呂などは高官になり、日本への帰国を果たせずに唐で客死している。
そのような人物として浜田光夫の玄朗が登場するのだが、結婚していて子供までもうけている。
日本への帰国を夢見ていて妻も同行する予定だったが、いざとなった時に帰国を諦めてしまう。
ドラマチックな場面だが、玄朗と妻の葛藤は何処にあったのだろうと思う。
鑑真が日本にやって来る歴史絵巻のダイジェスト版として見るなら気軽に見ることができる作品だが、映画の出来栄えとしては宗教の持つ崇高さにも欠けていて少し物足りなさを感じる。

評価されるのは中国本土でのロケシーンで、雄大な風景はこの映画に溶け込んでいる。
現地ロケをはじめ、日本ロケで得られたも映像はセットではない本物の魅力を出している。
鑑真和上の田村高広は、もともとが坊さん顔だし適役であった。

天地明察

2022-11-28 08:16:20 | 映画
「天地明察」 2012年 日本


監督 滝田洋二郎
出演 岡田准一 宮崎あおい 佐藤隆太 市川猿之助 横山裕 笹野高史
   岸部一徳 渡辺大 白井晃 市川染五郎 中井貴一 松本幸四郎

ストーリー
江戸時代前期。
安井算哲(岡田准一)の生まれた安井家は将軍に囲碁を教える名家であるものの、算哲自身は出世欲のない不器用な男だった。
星の観測と算術の問いを解くことが好きで、あまりにも熱中しすぎて周囲が見えなくなることもしばしばだった。
本能八幡宮に和算家の関孝和(市川猿之助)による設問が掲げられ、算哲はその問題を解くことに熱中する。
算哲が設問者の関に会えると思い村瀬塾を尋ねると、              村瀬義益(佐藤隆太)から関の校本を渡された。
そこで算哲は行儀見習いに神社に行かされている村瀬の妹えん(宮崎あおい)と出会う。
算哲は将軍の前での形ばかりの勝負となった囲碁に次第に疑問を抱き、真剣勝負の場に身を置きたいとの願いを持つようになる。
そんな算哲を、将軍・徳川家綱(染谷将太)の後見人である会津藩主・保科正之(松本幸四郎)は暦の誤りを正す任に抜擢する。
800年にもおよび使われてきた中国・唐の時代の暦がずれてきたため新しい暦を作るというこの計画には、星や太陽の観測をもとに膨大な計算を必要とし、さらには本来なら朝廷の司る改暦に幕府が口を出すという朝廷の聖域への介入という問題をはらんでいた。
算哲は御用頭取の             建部伝内(笹野高史)、御用副頭取の             伊藤重孝(岸部一徳           )らと全国北極出地の旅に出る。
算哲は師や友人、算哲を慕いやがて妻となったえんや、彼のよき理解者であった水戸光圀(中井貴一)らに支えられながら、この難関に誠実に取り組んでいく……。


寸評
僕は和算の天才関孝和の名は知っていたが、暦作りに功績のあった渋川晴海の存在を知らないでいた。
映画は渋川晴海と改名する前の安井算哲の活躍を描いているが、暦作りと言う地味な題材だけに盛り上がりに欠けていたように感じる。
日本各地の神社には算額と称される数学問題が奉納されているらしい。
西洋数学でなく和算による面積問題が多いらしいのだが、そのようなことに熱中していた日本人の知的水準の高さを誇りに思うし、それが開国後の近代化に寄与したことも事実であろう。
モノローグでも算哲が関孝和の出した難問を必死で解く姿が描かれ、算哲と関の係わりも描かれていくのだが、数学の苦手な僕は関の数学的能力がどのように係わったのかが分からなかった。
関も暦を研究していたようなので、二人はライバルでもあったと思うのだが、互いに認め合う美談となっている。
算哲は水戸光圀の庇護を受けるが、なぜ水戸光圀が算哲を庇護したのかの説明がなく、その食生活の描写などから単なる殿様の道楽だったのかと思ってしまう。
名前を聞いたことがある実在の人物が登場して興味を引くのだが、その描き方は深くはない。
したがって描かれた登場人物の人物像は表面的なものとなっており、そのことで僕は盛り上がりを感じることが出来なかったのかもしれない。

映画には女性も不可欠なのだが、作中で女性と言えるのはえんの宮崎あおいだけで、誰彼が登場して話をゴチャゴチャにしていないのは評価できる。
ただし算哲を待つことを諦めて他家へ嫁いでいった経緯や、離縁された理由などは全く描かれていない。
本題とは関係ないので割愛したのだろうが、その為に算哲とえんが結ばれる感動はない。
これは恋愛映画ではないのだなと分かる。
算哲たちは会津藩主・保科正之の命で全国北極出地の旅に出るのだが、その旅の様子が興味深かった。
伊能忠敬の測量なども似たようなものだったのだろうが、こちらは結構楽しそうな旅である。
だけど全国北極出地の目的と意義がよくわからんかったなあ・・・。

新たな暦を作る中にあって、日食、月食がいつ起きるのかを予測するのを見どころとしている。
その為に関の計算式が必要とされるのだが、どのような計算でそれが導き出されるのかは知らされない。
僕のような者にそれを説明してもチンプンカンプンになるだけのことだったのかもしれない。
算哲は旧の暦との戦いに二度挑み、一度目は失敗するが二度目に勝利し、作成した大和暦の採用に成功する。
予測した日時に日食が起こる劇的場面は、直前に雨が降るなどしてスリル感を出しながら描いていくが、どうも自然現象の神秘さを民衆が感じる様子、予言が見事に証明された驚きの様なものが希薄だった。
切腹を覚悟し、刀を握りしめた手から血が出ていたはずだが、抱きしめたえんの着物が血で汚れないのはなぜなんだと変なところに目が行った。
それでも、どの時代にも天才とか努力家とかはいるものだし、僕などは及びもつかない頭脳でもって時代を切り開いた人を知ることは楽しいものがある。
僕にとっては安井算哲=渋川春海を知ることができたことが一番の収穫。

天地創造

2022-11-27 09:29:43 | 映画
「天地創造」 1966年 アメリカ / イタリア


監督 ジョン・ヒューストン
出演 マイケル・パークス ウラ・ベルグリッド リチャード・ハリス
   フランコ・ネロ ピーター・オトゥール ジョージ・C・スコット
   エヴァ・ガードナー スティーヴン・ボイド ジョン・ヒューストン
   エレオノラ・ロッシ=ドラゴ ガブリエル・フェルゼッティ

ストーリー
神の6日間にわたる創造のいとなみから、最初の人間アダムとイヴが誕生する。
エデンの園で暮らすうち、禁断の木の実を食べたイヴは、アダムにもそれを食べさせた。
神の怒りにふれた2人は楽園を追われ、アダムは労働に従事しなければならなくなった。
やがてカインとアベルという2人の息子が生まれ、カインは農場にアベルは羊飼いとなった。
ある日2人の神への供え物のうち、神はカインの供物を認めなかった。
怒りと嫉妬から、カインはアベルを殺してしまい、神の裁きを受けて放浪者となった。
イヴに三男セトが生まれ、この子孫がノアである。
彼は信仰あつく、神が洪水で人類社会を滅ぼした時も、彼だけは救われた。
はこ舟に、あらゆる生物と一緒に乗り、1年ののち、アララット山についた。
やがて、ノアの子孫クシの息子ニムロデは王となり、民を使役して、天にもとどくバベルの塔を築いた。
神はこれを喜ばず、彼らにさまざまな言葉をしゃべらせて、地球上の各地へ四散させた。
アブラムは妻サライ、弟ロトを連れてカナンの地へ行き、そこで栄えたが、サライには子が生まれない。
アブラムは妻の勧めで召使ハガルに子を生ませイシマエルと名づけた。
やがて隣国との戦いが起こり、アブラムは神の手引きにより敵を破り捕虜となったロトを救けた。
神は夫妻の名を、アブラハム、サラと改め、子孫は王になると予言しサラに子を授けると約束した。
ソドムとゴモラの都が滅びた時、ロトの妻は神の命令にそむき、塩の桂と化した。
アブラハムは神の命に従いイサクをつれ旅立ち、神にいけにえを供える場所にたどり着くが・・・。


寸評
僕はこの映画を高校時代の封切時に見ているのだが、保存しているパンフレットの日付を見ると1966年11月6日となっている。
キリスト教、聖書について詳しくなかった僕は、旧約聖書を忠実に映画化したとの触れ込みに興味を持って行ったところ、随分と大雑把な映画だなあとの印象を持ったように記憶しているのだが、再見してもストーリーを追い過ぎてドラマチックでないとの印象を持つ。
映画は「天と地の創造」、「アダムとイブ」、「カインの殺人」、「ノアのはこ舟」、「バベルの塔」、「アブラハムの放浪」、「ソドムとゴモラ」、「イサクの誕生」、「アブラハムの試練」という9編の物語を紡いでいる。
僕にとっては、概要しか知らなかった内容をビジュアル的に教えてもらったような教育映画である。

「初めに神、天と地を作り給えり」というナレーションから始まる神の6日間にわたる創造の営みから、最初の人間アダムとイブが生まれる。
アダムとイブは古事記で言えばイザナギとイザナミに相当すると思うが、物語的には古事記の方がドラマチックなような気がする。
アダムとイブにカインとアベルという二人の息子が生まれるが、カインによって人間にとって最初の殺人が弟に対して行われるが、カインの子孫が拡がっていくので人間は罪を背負って生きていく存在だと言うことらしい。
理屈から言えば僕たちはカインの子孫ということになるから、それは荀子の人間性悪説だ。
少なくともカインの弟殺しはもっとドラマチックに描けたはずだ。

前半のメインは「ノアのはこ舟」の物語である。
はこ舟のセットは存在感があり、選ばれた動物たちがよく調教されているというのが一番の印象。
世界の人々が国ごとで違う言語を有しているのはバベルの塔に由来するという解釈を初見時に初めて知った。
後半はアブラハムの物語となっている。
ソドムとゴモラという腐敗した街の滅亡も、子供が出来なかったアブラハムの妻サラに高齢にもかかわらず子供が生まれるのも、すべてアブラハムが関係している。
登場人物の中ではジョージ・C・スコットのアブラハムが一番印象深い。

音楽を日本の黛敏郎が担当している。
当初、音楽担当は「火の鳥」で知られるロシアの作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーに依頼しようとしていたらしいが交渉が決裂し、黛の「涅槃交響曲」をレコードで聞いたJ・ヒューストンが彼に白羽の矢を立てたとのこと。
キリスト教につながる映画の音楽を、仏教につながる交響曲を作曲した黛敏郎に依頼したと言うのが面白い。
芸術に宗教は関係ないと言うことだろう。

神は「光あれ」と言うと光があり、神はその光を闇と分けたと冒頭の天地創造のところで述べられている。
人間世界には戦争や犯罪と言った闇の世界ともいえるものが存在しているが、闇は結局光に勝てなかったのだとの思想が物語の中に流れているのではないか。
それこそ宗教を超えた人類共通の望みではないかと思う。

天使の分け前

2022-11-26 08:58:45 | 映画
「天使の分け前」 2012年 イギリス / フランス / ベルギー / イタリア


監督 ケン・ローチ                                                                   
出演 ポール・ブラニガン ジョン・ヘンショウ ガリー・メイトランド
   ウィリアム・ルアン ジャスミン・リギンズ ロジャー・アラム
   シヴォーン・ライリー チャーリー・マクリーン

ストーリー
長引く不況で若者たちの多くが仕事にあぶれるスコットランドの中心都市グラスゴー。
暴力が日常になっている環境に生まれ育ち、子供の頃から何度も警察の厄介になってきた青年ロビーは、恋人との間に子供ができたことをきっかけに、今度こそ生活を建て直したいと願う。
恋人の妊娠が判明し、心を入れ替えようとした矢先に再び暴力事件を起こしてしまい、裁判所から300時間の社会奉仕活動を命じられる。
彼がそこで出会ったのは、同じ社会奉仕を命じられて現場に集まった同世代の男女3人の若者たちと、彼らの指導にあたるウイスキー愛好家の中年男ハリーだった。
ハリーはロビーの境遇に理解を示し、まるで息子にでも接するように親身になって相談に乗ってくれる。
ロビーはやがて、親身に接してくれるハリーからウイスキーの奥深さを学び、興味を持つようになる。
だが恋人の父はロビーと娘の関係を認めず、手切れ金をやるから娘や子供と別れてロンドンにでも行けと圧力をかけてくる。
以前からもめ事の絶えないチンピラ連中も、事あるごとにロビーにちょっかいを出してくる。
このまま暴力事件にでも発展すれば、今度こそロビーは刑務所行き決定だ。
ロビーが煮詰まっている様子を見て、ハリーは彼をウィスキー蒸留所の見学に連れ出す。
だがこのことが、ロビーの人生を大逆転させるきっかけとなるのだった……。


寸評
この映画で一番良かったのはタイトルだ。
「THE ANGELS' SHARE (天使の分け前)」とは中々のタイトルでテーマそのものだ。
天使の分け前の云われは劇中で語られるが、ロビーにこれぐらいの分け前が有ってもいいのではないかと訴えていたと思う。
描かれている世界の現実は非常に厳しいものだ。
主人公のロビーは暴力事件を起こして監獄行きの一歩手前、仕事はもちろんのこと住む所すらない。
そんな境遇をストーリー展開の中でサラリと物語っていくところがよい。
ロビーはかつての悪仲間に付きまとわれていて、更生したい気持ちが有るにもかかわらず、彼らによって度々悪夢の世界に呼び戻されそうになる。
「いざとなった時は、良いことをやった仲間より、悪さを一緒にやった奴の方が助けてくれる」とは私の知人の言葉なのだが、ロビーにとっては彼等は厄介者でしかない。
そんなロビーを温かく見つめるのがハリーなのだが、このハリーも一介の労働者であり決して裕福ではない。
しかし彼の住む部屋には優しい日差しが入り込み、彼の人柄を表す空間として描かれている。
ハリーの優しさは、ロビーの長男誕生の報を祝ってスプリングバンク32年物のウィスキーをふるまうことで象徴的に描いている。
ネットで調べてみたら、このスプリングバンク32年物は4万円以上するシロモノだった。

前半では、貧しさが人を残酷にする様子を切々と描き、主人公と周辺人物にきっちり感情移入させていく。
その演出はけっしてオーバーにならず、あえて言えばドキュメンタリー風でもある。
必要以上とも思える前半の描き方から、後半部分では一転して非現実的と思えたり、時にクスクス笑ってしまうようなシーンが登場してくる。
そのアンバランスが、貧しい人々を救うのはこの程度の分け前で十分なんだぞと強調しているようで、前半に感じた重たい気分が、ここにきて爽快感に変わっていく。
このあたりの脚本は素晴らしいと思う。
最後のウィスキーを失うくだりや、ハリーへの感謝の表現は拍手喝さいものだった。

僕が知らなかったスコッチウィスキーの世界も、興味を持って見ることが出来た。
おそらく「天使の分け前」のエピソードは一生忘れないだろうし、ウィスキーを飲んだ時にウンチクを傾けたくなるだろうと思う。
テーマを表現する舞台装置としてのウィスキーだったのだろうが、でもやはりウィスキーが舞台装置である必要があった映画だと感じた。

天使の恍惚

2022-11-25 09:58:05 | 映画
「天使の恍惚」 1972年 日本


監督 若松孝二
出演 吉沢健 本田竜彦 大泉友雄 三枝博之 小山田昭一 横山リエ
   小野川公三郎 和島真介 荒砂ゆき 岩淵進

ストーリー
人気のないナイトクラブで秘やかに祝杯があげられる。
革命軍「四季協会」の秋軍団が首都総攻撃を期し、米軍基地襲撃、武器奪取作戦を敢行するのだ。
全裸の秋と十月が抱き合い、恍惚のさなかで誓い合う革命天使二人。
闘いの始まり。首都をもやしつくそうとする炎が、今、その炎の手を上げようとしている。
基地への突入隊は十月組隊長以下月曜から日曜までの八名の兵士。
その半数が戦死し、リーダーの十月は弾薬の爆発で目を負傷する。
別動隊の九月組は姿を見せず、女指揮官秋が現われ、アジトへの待機を指令する。
過大の犠牲を払い手に入れた爆弾兵器は、冬軍団二月組によってクラブの歌手である金曜日の部屋から徴収され、金曜日と月曜日はすまじいまでのリンチにたたきのめされてしまう。
冬軍団の爆弾闘争の成果が伝えられる中で、十月は失明、傷つき果てた十月組に、組を解体、秋軍団を解散した上で、冬軍団と統一し、連合冬軍を結成せよとの協会の指令が伝えられる。
上部の予定されきった指令に月曜日は怒り、一匹狼として爆弾闘争を開始する。
秋に籠絡された土曜日は、冬との統合を十月に迫るが、十月と金曜日は十月組のオトシマエは自身の手でつけるべく、決意表明としてアジトを爆破、逆に土曜日に十月の兵士として決意を迫る。


寸評
僕が大学生だったころ、若松孝二はピンク映画の旗手との認識であった。
ピンク映画とは大手以外の映画製作会社によって製作・配給された成人映画のことなのだが、多くの場合低予算で制作された作品中にはセックスシーンが盛り込まれており、その場面になると突如カラーになった。
男性客を相手とする風俗産業の一つだったように思うが、若松孝二のピンク映画は一般受けするような内容ではなく、反体制の視点から描いていたこともあり、当時の若者たちからの圧倒的支持を受けてピンク映画としては異例とも思える集客力を誇っていた。

日本において1974年8月から1975年5月にかけて連続企業爆破事件が発生し、三菱重工、三井物産、帝人、大成建設、鹿島建設、間組など財閥系企業や建設系企業が標的になっていた。
特に三菱重工爆破事件はオウム真理教によるサリン事件が起きるまでは8名の死者を出した国内最大のテロ事件だった。
当時、僕は仕事上で住友商事ビルに出入りしており、標的を恐れた会社が用意したガードマンによる持ち物検査を初め厳重な警戒態勢を目の当たりにした。
この映画は1972年の作品だが、これらの爆破事件を先取していた感がある。
かつてのような反体制運動は影を潜めたが、世界に目を転じれば規模を拡大して今も行われている。
覇権を目指す大国が他国の紛争に介入し代理戦争を引き起こす。
金がない反政府側は自爆テロ以外に手段がない。
正にここで描かれた内容の国際化だ。

登場人物たちは秋や冬といった季節だったり、10月や2月という月だったり、あるいは月曜や土曜のような曜日だったりして、その事が何か意味ありげに思わせる。
彼らは革命を目指し米軍基地に侵入し武器を奪うが、やがて内部抗争が起きる。
学生運動におけるセクト間の抗争の様でもある。
組織は巨大化すると官僚機構化する。
上意下達の官僚的組織が気に入らない者は一匹狼として爆弾闘争を開始する。
そうなれば統率するものがいないのだから収拾がつかなくなる。
今もありそうな状況である。
本作のような作品だと、どうしても現在の世相を思い浮かべてしまう。

1970年代の学生運動が市民と呼ばれる大多数の共感を得られずに衰退していった時期に撮られたのが本作であり、その時代に青春を謳歌した僕は再見すると人生を振り返る思いがする。
反体制運動は下火になっていったが、体制に抗うパッションだけは持ち続けているぞという熱意を感じる。
しかし今となっては、その熱意もどこかに行ってしまったのかもしれない。
ところで、この映画にもパートカラーが登場するのだが、どのような理由でカラーにする必要があったのだろう。
興奮度を高めるためと思われないようなシーンでも使用されている。

天国の門

2022-11-24 09:53:30 | 映画
「天国の門」 1981年 アメリカ


監督 マイケル・チミノ
出演 クリス・クリストファーソン クリストファー・ウォーケン
   ジョン・ハート イザベル・ユペール ジェフ・ブリッジス
   サム・ウォーターストン ブラッド・ドゥーリフ ジョセフ・コットン

ストーリー
1870年、東部の名門ハーバード大学の卒業式。
総長の祝辞を熱い視線でみつめる生徒たちの中にジェームズ・エイブリルとビリー・アーバインの顔があった。
それから20年、アメリカは混乱期を迎えており、ワイオミングにも、東ヨーロッパからの移民たちが押し寄せ、すでに生活を築いていたアングロ・サクソン系の人々とのトラブルは避けられなかった。
ある日、家畜業者協会の評議会が召集され、リーダーのフランク・カントンは、移民による牛泥棒の対策として粛清の議案を提出したのだが、なんとその人数は125名にもなっていた。
会議にはビリーも列席していたが、彼はかつての情熱を失い、今は酒びたりの生活を送っていた。
この土地に保安官としてやってきたジェームズは、再会したビリーから粛清の計画を聞き、なんとか阻止しようと移民の集まる酒場の主人ジョンに協力を求めた。
そして、彼が想いを寄せる娼館ホッグ・ランチの女主人エラのもとへ行く。
彼女を愛しているもう一人の男ネイサン・チャンピオンは、牧場主に雇われた殺し屋だ。
ネイサンから求婚されたエラは、彼の家族に紹介され、その誠意に心うごかされるが、その日、ホッグ・ランチに戻った彼女はレイプされ、店の女たちはカントンの傭兵によって全員惨殺された。
そして、ネイサンの家が傭兵に襲われ「エラを頼む」という手紙をのこして彼は死んでゆく。
戦いは開始された。


寸評
莫大な製作費をかけて撮られたフィルムは最終的に編集されて5時間30分のバージョンが出来上がった。
あまりに長尺なので、多くのシーンがカットされ3時間39分に再編集されたものがプレミアム公開されたが評判がよくなかった。
急遽2時間29分の短縮版がつくられて一般公開されたが、大幅な上映時間の短縮により映画は物語として機能せず、また、内容もアメリカ人の恥部を描いたようなものだったので、まったく興行成績がふるわず、公開後わずか1週間で打ち切りとなって大赤字を出し、ユナイテッド・アーティスツは倒産してMGMに吸収された。
その結果、この映画は天国の門から地獄の門へと揶揄されることになった。

映画の方はワイオミングの美しい大自然を捕らえた映像は素晴らしいし、大規模なセットもしっかり作り込まれており雰囲気を出している。
それぞれのシーンは丁寧に描かれているが、反面丁寧すぎていることが上映時間を長引かせている。
この映画に欠点があるとすれば、それだけの長時間を費やしながらも人物描写と説明がなされていないことだ。
オープニングで延々とハーバード大学の卒業式の描写が続き、その描写の中でジェームズとビリーが紹介されるように撮られている。
場面が変わった20年後でビリーは畜産者協会員になっていて、しかもその中で浮いた存在になっている。
どのようにして畜産者協会の会員になったのか、なぜその中で浮いているのかがよく分からない。
同じようにジェームズが保安官になった経緯も分らないし、町の人たちとの親密度もよく分からない。
駅員の男とジェームズはどのような関係なのか、ジェームズは酒場の主人ジョンと信頼関係があるのか。
ジェームズを取り巻く人たちによってジェームズの人物像が浮かび上がってくるという風でもない。
特にビリーの存在が宙に浮いたような感じで、重要人物のように描かれながら、この映画の中では大した役割を担っていない。
牛泥棒に手を焼いているのは理解できるが、フランクが移民を極端なまでに嫌い、自費で傭兵を雇ってまで殺そうとするのかもよくわからない。
多分ジェームズの妻なのだろうが、ラストでジェームズといっしょにいる薬におぼれているような女性は誰なのか説明がないまま終わっている。
枚挙にいとまがないほどそれぞれの人物の描き方に不足感を覚える。

移民たちは飢えに苦しんでいて牛泥棒をして食料にしている。
従ってジェームズの言うように、牛を盗まれている牧場主たちに正義はあるのだが、彼らの正義は殺人に向かう。
元はと言えば畜産家たちも移民だったはずだが、新たに入植してくる移民たちを排除に向かう。
すでに既得権を得ている者たちの身勝手な行動だ。
アメリカは人種のるつぼで移民によって成立した国だと思うが、この映画では往年の西部劇を通じて見てきた開拓者とは違う、負の部分が描かれている。
際立った存在のエラとジェームズを中心とした壮大な叙事詩だが、得てしてこのような作品は莫大な費用をかけた映画作家の自己陶酔になるようで「地獄の黙示録」もその部類のように感じる。
と同時に、この様な自己破産や会社倒産に追い込むような作品は撮られなくなってしまったなあとも思う。

天狗党

2022-11-23 08:19:34 | 映画
「天狗党」 1969年 日本


監督 山本薩夫
出演 仲代達矢 若尾文子 加藤剛 十朱幸代
   中村翫右衛門 山田吾一 神山繁

ストーリー
常陸国の百姓仙太郎(仲代達矢)は貢租の減免を願い出たことから強訴とみなされ北条の喜平一家に村から追われた。
復讐の念に燃える仙太郎は江戸で剣法の修業を積み、博徒となって故郷に向かった。
途中、仙太郎は仕置きの自分を助け起してくれた甚伍左親分(中村翫右衛門)に会い、娘お妙(十朱幸代)への伝言を頼まれた。
お妙の家では、彼女の父が“天狗党”に加わっているとし、喜平一家の者が暴力をふるっていた。
仙太郎は思わず抜刀、その腕の冴えに、偶然立会っていた天狗党水木隊長(神山繁)と隊士加多(加藤剛)は、尊皇攘夷、世直しのために決起する党への参加を説いた。
天狗党挙兵の知らせは筑波山麓から全国津々浦々に拡がり、仙太郎の働きは幕府軍の恐怖の的だった。
だが、ニセ天狗党の出没で百姓たちの信用を落した天狗党は、それを同じ水戸浪士ながら諸藩連合派に属す吉本(鈴木瑞穂)や甚伍左の策動と睨み、仙太郎を刺客兼、使者井上(鈴木智)の護衛役として、吉本との会談の為の江戸行きを命じた。
仙太郎は会合の場で、かつて馴染んだ深川芸者お蔦(若尾文子)に出会ったが、落着く間もなく、救いを求める井上の声に吉本を斬り、甚伍左の悲鳴を開かなければならなかった。
しかし、この非常手段も天狗党の敗色を挽回するには至らなかった。
水木は、天狗党の首脳部武田耕雲斎らを嘆願によって助命さすべく、それまで従ってきた百姓、やくざ、町人らを斬った。
それは、士分以外の者がいては単なる暴動とみなされ、全員死罪は免がれ得ないという判断からだった。
武士の言を信じた仙太郎もまた粛清のはめに陥入った。


寸評
以下は天狗党の乱における僕の軽薄な知識である。
天狗党の乱は幕末の悲劇的な事件だったと思う。
水戸藩は水戸学を確立させた藤田東湖の影響もあって尊王攘夷の急先鋒だった。
日米修好通商条約の無勅許調印を受け、孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書を直接下賜したために水戸藩内では勅書を幕府に返納する事を巡り対立が起きる。
尊王攘夷派の人々が水戸藩内で力を持ち始めた時に、井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が起き、江戸幕府に横浜港の鎖港を促すために天狗党が挙兵する。
天狗党は町や村を襲い、金品を強奪したり要求を拒んだ村人らを惨殺するという暴挙を繰り返すようになる。
桜田門外の変以降、過激な思想を唱える者は力を失い、幕府に忠実なグループが次第に勢力を持つようになった水戸藩内では抗争を繰り返すようになり、天狗党は京都にいる一橋慶喜を通して朝廷に尊王攘夷の主張を伝えようと京都を目指して進軍することになる。
しかし頼みの一橋慶喜が天狗党討伐の指揮を執っていることを知り越前で降伏することになった。
悲劇はここから起きる。
越前で天狗党の主だった者350名以上が斬首刑され、さらには水戸藩ではその家族までが処刑された。
江戸幕府が滅び、再び天狗党の支持者が実権を握ると、報復の為に反対派を次々に処刑した。
有能な人も多かった水戸藩だったが内部抗争で人材を失い、新政府のメンバーには水戸藩の名前はない。

映画は仙太郎を通じて天狗党の乱を描いていく。
山本薩夫監督作品だけに、単なる幕末物エンタメ作品ではなく、尊王攘夷を歌う天狗党の中にもあった身分差別への弾劾を描いている。
仙太郎は百姓上がりなので、天狗党に参加する百姓や町人に人気があり、それをやっかんだ武士階級である井上が仙太郎を卑下する態度を取るのが典型だ。
実際にもそうであったように天狗党の横暴が描かれ、武士団の彼らに庶民がひどい目に合う場面も描かれ、天狗党イコール正義という風には描かれていない。
天狗党は壊滅し、自分たちの蜂起が暴動ではないことを示すために隊長の水木は究極の身分差別として、武士以外の参加者の排除を決断する。
権力者、あるいは支配者の身勝手な言い分の為に、犠牲を強いられるのはいつも庶民なのだと言っている。
正義感に富んだ役柄が多い加藤剛だが、ここでは軍資金と称してヤクザが残した金を取っていくし、まるっきりの正義感の持ち主のようには感じられない。
加多は天狗党の掲げる正義に疑問を抱いても良いような人物像に見えたのだが、意外と淡々としている。
仙太郎は痛々しいが、映画は差別による怒り、庶民ゆえの怒りをストレートにぶつけても良かったように思うし、山本薩夫が描こうとしたテーマは少し希釈されているような気がする。

仙太郎への刑罰から始まるのだが、その後に出るタイトルとクレジットの文字が黒色なので、背景にかぶさってしまって非常に読み辛い。
スタッフやキャストの名前を見るのも楽しみな者にとっては、クレジットの文字色を変えてほしかった。

田園に死す

2022-11-22 08:34:50 | 映画
「田園に死す」 1974年 日本


監督 寺山修司
出演 菅貫太郎 高野浩幸 八千草薫 斎藤正治 春川ますみ 新高恵子
   三上寛 原泉 蘭妖子 木村功 原田芳雄

ストーリー
青森県の北端、下北半島・恐山のふもとの寒村。
父に早く死なれた少年は、母一人子一人で犬を飼って暮している。
隣の家に嫁にきた女が少年の憧れの人である。
少年の唯一の愉しみは恐山の霊媒に逢いに行き、死んだ父を口寄せしてもらうことだった。
ある日、村にサーカス団がやって来た。
人気者の空気女と一寸法師の夫婦は、遠い町のことを色々と少年に話した。
今の生活が嫌になっていた少年は、彼らの話に魅かれ、村を出たいと思うようになった。
この話を隣の嫁に言うと、嫁は一緒に村を出ようと言ってくれたが、待ち合わせに嫁は来なかった。
がっかりした少年は、野原に一人で寝てしまった……。
ここまでが私の少年時代の自伝的な映画の前半である。
二、三人のスタッフ、批評家と試写室で観ていた私は、「うまくまとまっている」とか「抒情的だね」などと、まわりに言われる。
フィルムは再び、荒涼とした北国の風景を写し出し、母親が途方にくれて少年を捜している……。
その時、試写室のドアが開き、少年(二十年前の私)が入って来て、この映画は過去を美化した作り物だ、と言って真実を語り始める。
空気女は男好きで、一寸法師はいつも嫉妬に狂っていた。
少年は「はじめから相手にしていなかった」と冷たく嫁に言われる。
母一人子一人の生活に戻った少年は、相変らず家出を夢見ている。
ある日、麦畑でばったりと現在の私と出会う・・・。


寸評
観念的な映画で、映画を娯楽と言う視点から見れば面白くない作品だが、それを凌駕するような映像で迫ってくる寺山修司らしい作品だ。
畳をあげると恐山の風景が現れる。
恐山は扉を開けても現れるし、テントの幕を開けてもそこは恐山というシーンがあったりする。
恐山そのものが死者と対峙しイタコによって死者と語り合う宗教的な場所で、恐山の風景そのものが神秘的だ。
過去の自分と、自分を取り巻く人々が白塗りの姿で登場するが、その様子はきわめて演劇的である。
自然の中でいろいろ繰り広げられるが、その中に置かれたセットや小道具がオブジェ的で、そのオブジェもなぜかしら存在感があって画面を圧倒するものがある。
自然の景色も時々着色フィルターがかけられて異様な世界を演出する。
それがどうしたと言えばそれまでなのだが、やはりそうした演出は見るものに何かを訴えてくる。
僕にはそれが何によるものなのかは分からないけれど、異次元の映像世界が展開していることだけは感じられ、それがこの映画のすべてであるようにも思える。

少年が育った時代、地方は貧困だ。
時として生まれた子供を間引かねばならない、まるで江戸時代の農村のような状況である。
女が産んだ私生児も川に流される。
女は戻っておいでと叫ぶが赤ん坊は流れていく。
すると上流からは少女の成長を祝うための雛祭りの段飾りが流れてくる。
真っ赤な敷物と段飾りの映像に圧倒される。

タイムスリップして100年さかのぼり祖母を殺したとしたら、今の自分は存在しないことになる。
だとすれば祖母を殺したのも自分ではない。
一体誰が祖母を殺すことになるのか、今の自分は一体誰なのか?
欺瞞に満ちた存在でしかない。
自分を偽っているのかもしれない。
少年が憧れた女性(八千草薫)は少年に優しかったはずだが、出会った女性は「はじめから相手になんぞしていなかった」と冷たく言い放つ。
自分の希望で美化していたのだろうか?
女は自分が愛した共産主義者と心中してしまう。

今、都会で暮らす自分はどこにいるのか?
新宿の繁華街にいても、恐山から抜け出ていない。
退廃的な和歌が度々インポーズされ、なんだか暗い。
少年が出会ったサーカス団の人々も風変わりな連中ばかりで、前衛劇を見ているような世界を展開する。
ATGだから作れた作品だし、ATGだから公開された作品でもある。
好きな人には映像美にあふれた芸術作品、認めない人にはくだらない作品だ。

テロ,ライブ

2022-11-21 07:47:52 | 映画
「テロ,ライブ」 2013年 韓国              

                        
監督 キム・ビョンウ                                
出演 ハ・ジョンウ イ・ギョンヨン チョン・ヘジン
   イ・デヴィッド キム・ソジン キム・ホンパ

ストーリー                                      
かつて国民的な人気を誇っていたアナウンサーのユン・ヨンファ(ハ・ジョンウ)は、不祥事を起こしたためにテレビ局からラジオ局に左遷となっていた。
彼が受け持つラジオ番組の生放送中、漢江にかかる橋を爆破するという脅迫電話を受ける。
イタズラと思って電話を切るが、その瞬間に漢江に架かるマポ大橋が爆破される。
ヨンファは爆破テロだと確信し、事件の実況と犯人との通話の独占生中継と引き換えに自分をテレビ局へ復帰させるよう報道局長(イ・ギョンヨン)に持ちかける。
その後、大統領の謝罪と21億ウォンの現金を要求した犯人は、ヨンファの耳に付けられたイヤホンにも爆弾を仕込んだことを告げる……


寸評
何でもありの韓国映画らしい作品で、どうして?などとの疑問を吹き飛ばしてしまうストーリー展開を見せつける。
犯人はどうして放送局のイヤホンに爆弾を仕掛けることが出来たのか?
そしてそれはどのような爆弾なのか?
警察による被害者救出作業は?
ビルを倒してしまうような爆弾をどのようにして入手、設置したのか?
突っ込みどころは一杯あるのに、そんな事は関係ないとばかりに一切を省略し、作品を力ずくで推し進めていく。
ストーリー展開、画面展開を含めてその強引さが韓国映画を感じさせてくれて小気味いい。

ほとんどユン・ヨンファを演じたハ・ジョンウの一人芝居なのに、ちょこっと出てくる脇役達がそれなりの存在感を出していた。
大統領の謝罪と言えば、過日に起きた「セウォル号」事件を思い起こしてしまう。
あの時も国を挙げての腐敗が報じられたが、ここでも盛んにその実態が描かれている。
かの国においては、政治の腐敗は本当に常習化しているのだろうと感じてしまった。
さらには、ニュースキャスターまでもが不正を働いていたとあっては救いようがない。
その救いようのなさがラストに至ってもない。
普通は一点の光明を示して終わるものなのに、誰一人、何事においても救われるものも明日への希望もなくラストを迎える。
スリルとサスペンスに満ちた娯楽作ではあるが、もしかするとこの作品は韓国という国の慢性的な腐敗を告発する社会映画だったのかも知れないなと思ったりした。

国家の見栄と、国家及び権力の前に無力な国民の姿が描かれていて、最後には欺瞞に満ちた大統領の演説が流れる。
封切時に映画館を出る時には、時の大統領に対する嫌悪感もあって、あの大統領が男性ではなく女性だったらもっと面白かっただろうにと想像していた。
いやいや、そんな事を言っては日韓関係にヒビがはいり、某新聞の慰安婦報道がごとき罪を犯してしまう。
やはり映画は絵空事なのだから、そこは架空大統領で良かったのだとしておこう。

鉄砲玉の美学

2022-11-20 08:26:51 | 映画
「鉄砲玉の美学」 1973年 日本


監督 中島貞夫
出演 渡瀬恒彦 杉本美樹 森みつる 碧川じゅん
   小池朝雄 松井康子 荒木一郎

ストーリー
関西に本拠を持つ広域暴力団天佑会は、九州に進出する為に、同会に所属するチンピラ、小池清(渡瀬恒彦)を“鉄砲玉”として宮崎市へ飛ばすことに決めた。
この頃、清は何もかもツイていなかった。
兎のバイも全く思わしくないし、情婦のよし子(森みつる)とも喧嘩したし、ハジキ一挺に、自由に使える現ナマの百万円に「やりま!」とたった一言、清の返事は短かかった。
宮崎市での初めての夜。
恐怖と緊張で全身を硬わばらせながらも、清は「天佑会の小池清や」と名乗って、精一杯、傍若無人に振舞ったが、どこからも反撃の気配すらなかった。
一寸した傷害事件がキッカケで、清は最高の女を手に入れた。
地元の南九会の幹部・杉町(小池朝雄)の情婦、潤子(杉本美樹)である。
「最高に生きるという事はこういうことや!」と、もはや清は何も疑わなかった。
宮崎市から離れた静かな地方都市を潤子と腕を組んで散歩する清には、ヤクザの顔は微塵もなく、ただ、満ち足りた平凡な一人の若者の顔しかなかった。
こうして波は二十四歳の誕生日を迎えた。
だがその日、潤子の姿が彼の前から消えて呆然とする清。
天佑会の九州進出が中止されたことにより、バックの無くなった清めがけて南九会の反撃が開始された・・・。
行き場のなくなった清は大阪でレイプされていた女(碧川ジュン)を霧島へ強引に連れ出そうとした。
宮崎市へ来た当初から、一刻たりとも傍から離さなかったハジキは、遂に意外な方向に向けて発射されることになった。
数時間後、潤子と二人で行く約束をしていた霧島行きのバスの中に息絶えた清の姿があった。


寸評
全盛を誇っていた様式がガチガチに固まった東映の任侠映画に陰りが見え始めたころ、中島貞夫は任侠映画の美学に対抗するような菅原文太主演の「まむしの兄弟シリーズ」を撮っていた。
中島貞夫は東映の監督であるが、「鉄砲玉の美学は」ATG提携作品である。
任侠映画の美学を真っ向から否定するような内容の本作を東映では撮れなかったのかもしれないが、しかし同時期に東映では「仁義なき戦い」が封切られているから、どうしてこれがATGなのかと疑問に思う。
ともあれ、「鉄砲玉の美学」と「仁義なき戦い」は東映の任侠路線に終止符を打ち実録路線へ向かわせるきっかけを作った作品であったと思う。

映画はロックバンドの頭脳警察が唄う「ふざけるんじゃねえよ」に乗って始まる。
歌詞は以下のような過激なもので映画の雰囲気は出ている。
  まわりを気にして生きるよりゃ一人でかって気ままに
  でも決めてる方がいいのさ
  だけどみんな俺に手錠を掛けたがるのさ
  ふざけるんじゃねえよ 動物じゃないんだぜ
  バカに愛想をつかすより ぶん殴る方が好きさ
  俺を邪魔するしきたりは人が勝手に決めたもの
  それでやられたって 生きてるよりゃましさ
  ふざけるんじゃねえよ やられる前にやるさ

清は路上でウサギを売っている暴力団の下っ端だが、以前はどこかの店のコックをやっていたようだ。
あくせく働いていたのだろうが、町では自由を謳歌した自分と同じ若者が闊歩している。
いつか自分もいい服を着て美味いものを喰ってと思っているが現実は厳しく、今は風俗店で働くよし子のヒモのような生活を送っている。
度胸があって、自分は恵まれていないと不満を持っている奴ということで清が鉄砲玉に選ばれたが、鉄砲玉は敵地に乗り込んで大暴れし、敵側に殺されることによって抗争のきっかけを作るのが役目だ。
言ってみれば暴力団社会の特攻隊だ。
死ぬことを求められている立場だが、清は初めて大金と力を手に入れ有頂天になる。
「俺は天佑会の小池清や」をどうやってカッコよく決めるかとポーズを研究する無邪気な男である。
清が敵地で傍若無人に振舞えるのは持っている拳銃のせいではない。
関西の天佑会とい巨大組織の力の為である。
大きな態度でいられるのも会社の名前があるからで、当人の実力とは無縁のものであることが多いサラリーマン社会と同じだ。
組織によって守られていた清は、組織にハシゴをはずされ行き場がなくなり、誰も見向きをしなくなる。
鉄砲玉を命じた組の裏切りにあって殺されてしまうのかと思ったが、そうではない。
カッコの悪い死に方で、何処に美学があるのだろう。
一時の有頂天を味わって死んでいったことが清の美学だったのだろうと想像するしかない。

清はウサギを飼っていて、それを売ることで生計を立てていたのだが、小さければ可愛さが増して売れるが、大きくなったウサギはなかなか売れない。
よし子に飼われるようになったウサギはもりもりと餌を食べ巨大化していて売り物になりそうもない。
人生で初めていい思いをした清は、もう必要のない男だったのだ。

ディス/コネクト

2022-11-19 09:10:55 | 映画
「つ」は少なかったですが、「て」も少なくなりそうです。
前々回は2019/11/16の「ディア・ドクター」から「ディストラクション・ベイビーズ」「ティファニーで朝食を」「テキサスの五人の仲間」「テス」「デトロイト」「天使のはらわた 赤い教室」「転校生」「天国と地獄」「天然コケッコー」と続き、
前回は2021/6/13の「ィア・ハンター」からィナーラッシュ」「ディパーテッド」「鉄拳」「鉄道員」「デルス・ウザーラ」「天国から来たチャンピオン」「天国の日々」「天井桟敷の人々」「天と地と」を紹介しました。

それでは紹介を始めます。

「ディス/コネクト」 2012年 アメリカ 

                         
監督 ヘンリー=アレックス・ルビン                        
出演 ジェイソン・ベイトマン ホープ・デイヴィス フランク・グリロ
   ミカエル・ニクヴィスト ポーラ・パットン
   アンドレア・ライズブロー アレキサンダー・スカルスガルド
   マックス・シエリオット コリン・フォード

ストーリー
内気な少年ベン(ジョナ・ボボ)はイタズラとは知らずにSNSで知り合った女性相手に自分のはずかしい画像を送ったばかりに、その画像をネット上にばらまかれてしまった。
彼はショックのあまり自殺未遂をして意識不明に。
その父親で仕事中毒の弁護士リッチ(ジェイソン・ベイトマン)は、自殺の原因を突き止めるべく調査に乗り出す。
一方、加害少年の一人であるジェイソン(コリン・フォード)の父親で元刑事のマイク(フランク・グリロ)は、ネット専門の探偵をしていた。
彼のもとにはネットでカード詐欺に遭ったハル夫妻(アレキサンダー・スカルスガルド、ポーラ・パットン)から捜査の依頼が持ち込まれる。
妻がチャットにはまり、知らぬ間に個人情報を盗まれていたのだ。
さらに、リッチが顧問弁護士をするローカルTV局の女性レポーター、ニーナ(アンドレア・ライズブロー)は、カイル(マックス・シエリオット)という少年を通じて違法ポルノサイトの取材に成功し、全国ネットでも放送され注目を集めるが…。


寸評
ネット社会は便利な社会だとは思うが、怖い要素もはらんでいる社会だとも思う。
実際ここでは、なりすまし、ハッキング、遠隔操作、アダルトサイトの氾濫、個人情報漏えいによるカード詐欺などネット犯罪がもたらす世界が描かれている。
バーチャルな世界の恐ろしさである。
しかし、バーチャルな世界にしか救いを求められない人種が登場しているのも事実で、今時の映画ではある。
この時代の映画としては中々の出来だった。

登場する少年ベンは友だちもいなくて、ネットでの友人(なりすましという仮想友人なのだが)とのやり取りにすがっている。
姉は弟を心配しているようでもあるが、両親はそんな彼の孤独感が分かっていない。
彼は食事中もスマホを離せない世界にいる。
それを注意する父親も、仕事のためとはいえ携帯を手放せないでいる。
誰も救ってくれなかった少年カイルは、サイト運営者に救われた格好でネットによる性犯罪に加担している。
弁護士の妻であるシンディは夫との違和感を打ち明けることが出来ず、ネット上でその不満を呟いている。

バーチャルな世界でしか自分を出せない彼等は現実社会ではそれぞれ言われぬ問題を抱えている。
そのバーチャルなネット世界と、現実のリアルな世界とのギャップの対比がこの映画を支えているもう一方の支柱で、ネット犯罪もさることながら現実の家族における問題の描き方がリアルで観客を釘づけにする。
親子の断絶、夫婦のすれ違いから、マスコミの怖さ、戦争の後遺症などが上手い具合に挿入され、その手際の良さに感心させられた。

ひとたび問題が起これば、なかなかその狂い始めた歯車の動きを止めることが出来ないネット社会の脆弱さ。
それはいつ我が身に起こるかもしれない怖さでもある。

三つのエピソードをうまくクライマックスに持って行く手際も鮮やかで、それぞれにまつわるシーンをオーバーラップさせるようなイメージでつないでいく。
その映像処理もなかなか巧みであった。
単純なハッピーエンドに持ち込まず、わずかに残るかすかな希望の火だけを残すラストは、よくある手法とは言えやはり余韻を残す。
家族の温かさはバーチャルな世界には存在しないものなのだ。

ツリー・オブ・ライフ

2022-11-18 09:34:33 | 映画
「ツリー・オブ・ライフ」 2011年 アメリカ


監督 テレンス・マリック
出演 ブラッド・ピット ショーン・ペン ジェシカ・チャステイン
   フィオナ・ショウ ハンター・マクラケン ララミー・エップラー
   
ストーリー
ジャック・オブライエン(ショーン・ペン)は実業家として成功していたが、人生の岐路に立つ。
そして深い喪失感のなか、少年時代を回想する――。
1950年代半ばの中央テキサスの小さな田舎町で、幸せな結婚生活を送るオブライエン夫妻とジャック、2人の弟たち。
一見平穏に見える家庭だったが、ジャックにとって心安らぐ場ではなかった。
社会的な成功と富を求める父(ブラッド・ピット)は、力こそがすべてだと考える厳格な男で、母(ジェシカ・チャステイン)は自然を愛で、慈愛に満ちた心で子供たちを包み込む優しい女だった。
11歳のジャックはそんな両親の狭間で2つに引き裂かれ、葛藤していた。
父に反感を抱きながら、父に似た成功への渇望や力への衝動を感じ、暗黒の淵に囚われそうになりながらも2人の弟との楽しい時を過ごすジャックだったが…。
そんな彼を光のさす場所にとどめたのはなんだったのか、数十年の時間を経て思いを巡らすとき、すべてを乗り越えつながり続ける家族の姿に、過去から未来へと受け継がれる生命の連鎖を見出す。


寸評
カンヌでグランプリを取った作品らしいが、まずもってカンヌ好みの映画で、全くと言っていいほど面白くない。
面白くないのに138分もの時間をスクリーンに引き止めたのは繰り返し映し出される美しい映像に圧倒されるものがあったからだ。
実際、写真に写し撮っておきたいような美しい景色が有ったかと思えば、大自然の驚異とでもいうタイトルが似合いそうな映像も続く。科学のドキュメンタリー放送を見ているような地球誕生物語の様な映像も繰り返し映し出される。まるで映像見本市とでも呼ぶにふさわしいものがスクリーンに展開され続ける。
僕などはほとんど会話のない冒頭の40分間ぐらいは、この映像でもって引っ張られた。
その映像はその後も続くが、しかしそこからは長く感じる。いや実際長い。
観念的な言葉が発せられて、なんだか宗教映画を見ているようだ。
分かるのは、父親が自分勝手な厳しさで息子たちを育てていて、息子たちはそれに反感を持ちながらも逆らうことが出来ないでいるということぐらい。
付け加えるなら、そんな子供たちを母親が優しく包んでいるが、その母親も父親には逆らえないでいるということ。
やがて長男のジャックも父と同じような年齢になって父を理解するようになったのではいかということかな(子供の頃に父と似ていると言っていた)。その他は何が何だか理解するのに苦労する。

地球が誕生し、やがてそこを舞台に万物が創造され、やがてそれらが成長、進化して人類が誕生するが、それらの上に絶対的な者としての神が存在しているといったようなものが感じ取れた。
しかし、僕はキリスト教徒でもないのでそんな宗教観は持ち合わせていない。
思えば太古の昔から弱肉強食で、強いものが生き延びて進化してきた事実があることは確かなことなのだ。
今のところ進化の到達点である人間にとってもそれは言えることで、力有るもの、富める者が社会的優位に立てることは、自由主義社会では自明のことである。
父親はその観点からのコンプレックスがあり、さらに現実の問題として工場も閉鎖され自らは職を失ってしまう。
そのコンプレックスから息子たちには自分の様にはなるなと諭す。
しかし、その思いの強さからの指導は子供たちには受け入れられないし、父親のとる行為は母親すら反感を抱いているようなのだが、そんな状況を描くのならよくあるごく普通の家庭ドラマのテーマで、映画の出来不出来はその描き方一つに係わってくると言える。
ところがこの映画は単純な家庭を舞台としたドラマではない。いや、単純なドラマを難解にしているともいえる。

母は人にも花にも優しくしなさいと言う。それは今世界で起こっている紛争を初めとする争いごとに対して発せられているようでもあったが、そこまで深読みする必要もなさそうだ。
父親は子供たちにとっては頼もしい存在であると同時に巨大な脅威でもある。
ひねくれた描き方だが、ジャックはこの圧倒的な力に対して先ず恐怖心を抱き、次に反発を覚えるのだが、最終的には和解するという描き方だ。
裏を返せば何の変哲もない少年の成長物語なのだ。それを哲学的なメッセージで表現しているとしたらひねりすぎだ。
最初と最後に出てきたCG映像、あれは一体何だったのだろう?

罪の手ざわり

2022-11-17 07:23:35 | 映画
「罪の手ざわり」 2013年 中国 / 日本 

                                     
監督 ジャ・ジャンクー                             
出演 チャオ・タオ チアン・ウー ワン・バオチャン
   ルオ・ランシャン チャン・ジャーイー リー・モン
   ハン・サンミン ワン・ホンウェイ

ストーリー
山西省に暮らす炭鉱夫のダーハイ(チアン・ウー)。
村の共同所有だった炭鉱の利益が、同級生の実業家ジャオと村長によって不当に独占されていることに激しい怒りを募らせる。
ダーハイは汚職により利益を吸い上げられてきた怒りを抑えることができず…。
重慶に妻子を残し仕送りを続ける若き父チョウ(ワン・バオチャン)は出稼ぎと偽り、各地で強盗を繰り返していた。
妻は、夫が単なる出稼ぎに行っているのではないと感づいてしまう。
湖北省で風俗サウナの受付係をしているシャオユー(チャオ・タオ)は、叶わぬ恋を続け、寄る辺ないまま歳を重ねてきた。
ある日、非常識な客に札束で殴られセックスを強要され、しつこく迫る客に我慢できず切りつける。
広東省の縫製工場で働く青年シャオホイ(ルオ・ランシャン)は、勤務中に同僚を怪我させてしまい金銭的に追い詰められていく。
そんな中、ナイトクラブのダンサー、リェンロン(リー・モン)と出会い、心惹かれていくのだが…。
厳しい現実の中で、それぞれにひたむきに日々を生きてきたはずの彼らだったが、はたしてその先にはいかなる運命が待ち受けていたのか?


寸評
拡大する貧富の格差が引き起こした悲劇の深層を4つのエピソードで構成した群像劇だ。
急速に変貌していく中国が抱える社会問題を背景にしているが、描かれている状況はあらゆる世界が内在している普遍的な問題でもある。
日本だとバカヤロー!と叫ぶのだろうが(バカヤロー! 私、怒ってます)、中国ではこれが一線を越えた暴力的な展開になるのだろう。
実在する4つの事件がモチーフというから、中国社会のひずみはやはり深刻だと思う。
拝金主義や貧富の格差、都会と地方の格差など描かれている世界はいかにもリアルだ。
聞き及ぶ世界だが、エンタメ性に富みながらも、このように描かれるとやはりリアル世界だと感じずにはいられない。

どうもがいても、そこから抜け出せないもどかしさと切なさはアチコチに存在しており、それがこの映画の普遍性でもある。
主人公たちは様々な理由で追い詰められて破滅へ向かうが、それを細やかな演出で支えている。
助けられた牛が一人(?)荷車を曳いていくショット、犯行現場に駆け付けるパトカーのショット、殺人を自ら警察に知らせる悲しげな顔のショットなどだ。
それまでは荒削りと感じさせながらも、その辺りになるとやけに繊細なのだ。

最後は暴力的になるが、それまではむしろ静かに展開する。
ポイント、ポイントでは驚くようなシーンを突如描きだす。
冒頭の真っ赤なトマトと共にひっくり返った車の目にも鮮やかなシーンから、強盗にあったチョウが逆にその強盗を射殺するに移るところなどは、ギャング映画を髣髴させる映像的展開で、一気に観客を画面に引き込む。
3話の女性などは、我慢を重ねたうえで最後に斬りつけるところなどは、まるで任侠映画的でこの映画のエンタメ的なところだ。
そのようなことが各エピソードで展開されるのだが、その意味からいえば第4話だけが少し異質。
いっそ、同じような展開にすれば良かったのにと思ったりした。
社会性に加えて、ヒーローが悪を倒す娯楽性も監督の大いに意図したものだったと思う。
最後に大衆の一方の娯楽である京劇を登場させ、そこで彼等の思いを語らせていた。
何だか奥深い映画だったなあ~。

罪の声

2022-11-16 07:45:33 | 映画
「罪の声」 2020年 日本


監督 土井裕泰
出演 小栗旬 星野源 松重豊 古舘寛治 市川実日子 火野正平
   宇崎竜童 梶芽衣子 宇野祥平 篠原ゆき子 原菜乃華
   阿部亮平 尾上寛之 川口覚 阿部純子

ストーリー
1984年、おまけ付きお菓子の有名メーカー「ギンガ」の社長が誘拐され、「くらま天狗」を名乗る犯人は、10億円もの身代金を要求したが、誘拐された社長は監禁場所から自力で脱出した。
しかし、くらま天狗は店頭のお菓子に青酸カリを混入すると脅迫し、警察に脅迫状を送り付けるという事件が起きたのだが犯人は特定できず、事件は未解決のまま時効を迎えた。
あれから35年、新聞社に勤める阿久津(小栗旬)が平成から令和に変わるこのタイミングで、この未解決事件を追うという企画の担当を任されてしまう。
途方に暮れていた阿久津は、社会部にいる鳥居(古舘寛治)から情報を得て、ロンドンに飛ぶ。
当時、怪しい動きをしていた中国人の噂を聞くためだったが、阿久津はそこに繋がる情報は得られなかった。
そのころ、テーラー曽根の二代目店主である曽根(星野源)は、家の押し入れから父の名前が書かれた箱を見つけ、そこには英語で何やら書かれた手帳と、1984と書かれたカセットテープが入っていた。
曽根がそのテープを再生すると、自分の幼少期の声が流れてきた。
読み上げるように話す過去の自分、そして曾根は手帳に「GINGA」と「MANDO」の文字を見つけ、過去にあったギンガ・萬堂事件を調べ始める。
さらに曽根は、時効を迎えたこの事件で、脅迫で使われた男の子の声が、先ほどの録音された自分の声と同じだということに気づいて驚愕する。
阿久津は水島(松重豊)からの情報で、当時ギンガ株の外人買いが進んでいたとの情報を得た。
当時を知る立花という証券マンに会うと、「ギン萬事件」は空売りを使って利益を得ていたのではないか、という可能性を指摘された。
このことが事実なら企業から一円も受け取っていない「くらま天狗」の本当の目的がみえてきた。


寸評
映画では「ギンガ萬堂事件」となっているが、モデルは「グリコ・森永事件」であることは明白である。
ギンガは江崎グリコ、萬堂は森永製菓のことだし、その他にも丸大食品、ハウス食品、不二家、駿河屋とわかる社名が変更されている。
「くらま天狗」は「怪人二十面相」であった。
道頓堀のグリコの看板もギンガに変更されているのだが、フィクションであることは分かっているのだからそのままで表現しても良かったと思うのだが、現存会社との関係でそうなったのだろう。
新聞紙上やテレビでセンセーショナルに報道されていたので僕もよく覚えている事件で、僕にとってのミステリー事件としては三億円事件とこのグリコ・森永事件が双璧である。
当時の報道を知っている者にはよくわかる内容になっているが、この事件を知らない者にとっては少々分かりにくかったのではないかと感じた。
フィクションではあるが実によくできていて、脅迫文や事件の発生日時が事実通りなので犯人グループにはリアリティがあり、本当にそうだったのではないかと思わせるものがある。

脅迫電話に子供の声が使われていたことはその通りで、言われてみればあの時の子供は今どうしているのだろうとの疑問は沸いて当然なのだが、事件の風化はそんな気持ちも奪っている。
映画はそこを掘り下げて、当時は子供だった者が大人になって苦しんでいる姿が描かれていく。
当初は別々に描かれていた阿久津と曽根だが、真相を知りたいと言う思いは共通である。
入れ替わるように描かれる二人の行動がシンクロし、ついには合流する描き方はサスペンスらしい。
当時の者たちは今どうしているのだろうとの疑問は、かつての学生運動の過激派のメンバーにも言える。
ここでは曽根の叔父である達男と、曽根の母親である真由美が登場する。
警察憎しで、母親の真由美は事件に加担したのだが、真由美には子供が罪人になる可能性を心配するよりも、国家権力を憎む気持ちの方が強かったということだ。
真由美が母性を捨てて犯罪に加担した気持ちは映画からは感じ取れなかったし、真由美があのテープを処分せずに残していた訳もよく分からなかった。
僕ならそんなヤバイものは早急に処分しただろうにと思うのだ。

一方で、あの時の子供の声は自分だと明かすことにした総一郎の行動は、現実にあってほしいものだが、真相は未だに闇である。
しかし、フィクションとしては説得力のある設定だし、姉の死を伝える場面もなかなかいい。
何よりもいいのは、フィクションと分かっていながらも、警察は発表していないがここで描かれたことは真実なのだと思わせる説得力を持っていることだ。
怪人20面相が多額を脅迫しておきながら現金を手にすることがなかったことの理由を納得させられた。
また警察の大失態と言われた滋賀県での取り逃がしの分析も納得するものがある。
それまでは現金を手にする気がなかったのに、あの時は本当に現金を手に入れようとしていたと言う指摘も、なるほどと思わせる。
グリコ・森永事件を知っている者にとっては実に面白いサスペンス劇であった。