おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

007 スカイフォール

2021-04-30 08:00:01 | 映画
「007 スカイフォール」 2012年 イギリス / アメリカ


監督 サム・メンデス
出演 ダニエル・クレイグ
   ハビエル・バルデム
   レイフ・ファインズ
   ナオミ・ハリス 
   ベレニス・マルロー
   アルバート・フィニー

ストーリー
NATOが世界中に送り込んでいるスパイのリストが収録されたハード・ドライブを盗まれる緊急事態が発生。
MI6のエージェント、ジェームス・ボンド(ダニエル・クレイグ)は新人女性エージェントのイヴ(ナオミ・ハリス)と、ハード・ドライブを取り戻すべくM(ジュディ・デンチ)の指示に従い、敵のエージェントを追い詰め、イヴはMの指示で犯人の狙撃を試みるが銃弾はボンドに命中し、彼の体は深い渓谷へ落下し犯人は逃げ延びる。
Mは責任を問われ、情報国防委員長であるマロリー(レイフ・ファインズ)から引退を勧められるも拒絶。
今度はMのコンピュータがハッキングされ、MI6本部が爆破される事態が発生し、窮地に立たされた彼女の前に手負いのボンドが姿を現わし、首謀者を突き止めるため僅かな手掛かりをもとに奔走する。
上海へ行くことになったボンドの前に「Q」(ベン・ウィショー)が現れ、一見学生のような若者・Qから秘密道具を渡され、黒幕の手がかりを掴んだボンドはマカオへ向かう。
NATOのエージェント5名の氏名がインターネット上に晒され、毎週さらに5名ずつ公表すると予告される。
マカオでボンドは上海で見かけた謎の美女・セヴリン(ベレニス・マルロー)と接触。
セヴリンの「ボス」への怯えを見抜いたボンドは、ボスに会わせて欲しいと持ち掛ける。
ボディガード達を倒したボンドはセヴリンとアジトの島へ行く船に乗ったが、島に着く直前に二人は囚われの身となってしまい、そこで一連の犯行はMへの復讐に駆られた元MI6の凄腕エージェント、シルヴァ(ハビエル・バルデム)によるものだということが判明。
一瞬の隙をつきボンドはシルヴァを捕らえ、MI6へと護送するが、それはシルヴァの予定の行動だった。
執拗にMをつけ狙うシルヴァとの戦いに挑むべくボンドはスカイフォールの廃墟のような生家にむかい、そこでボンドは番人・キンケイド(アルバート・フィニー)と再会し、自分を殺しに来る奴を、殺される前に殺すと告げた。


寸評
50周年を迎える記念作とあって、監督に1999年の「アメリカン・ビューティー」でアカデミー作品賞と監督賞を受賞したサム・メンデスを迎え、悪役を2007年の「ノーカントリー」でアカデミー賞の助演男優賞を獲得したハビエル・バルデムが演じ、気合を入れているなという布陣である。
冒頭のカーチェイスは、何とタイトル表示前の13分間にも及ぶから、まずはそれに注目だ。
しかもこのカーチェイスによって「ジェームズ・ボンド死す!」のニュースが流れることになるから、最高のカッコよさを売り物にしてきたシリーズとしてはあれあれというオープニングである。
もっとも僕は初期の007を見ているが、その後はご無沙汰しているので最近のボンドのスタイルは知らないでいる。

この作品のストーリーは単純である。
かつてMの優秀な部下だったエージェントのシルヴァが冒頭のボンドと同じように非情にもバッサリ切り捨てられてしまったため、その個人的な恨みを原動力として、M個人やMI6ひいては英国そのものに対して復讐するというのが本作のストーリーの軸である。
この構図はたとえば1994年にヤン・デ・ボンが撮った「スピード」の犯人の動機と同じようなもので、取り立てて目新しいものではない。
僕はこの作品を見ているうちに、裏テーマとして新旧交代を描いているのでないかと思えてきた。
まずMが責任を問われ、情報国防委員長であるマロリーから引退を勧められている。
実際ジュディ・デンチが演じるMI6の局長Mは本作で消えそうだ。
007シリーズではMI6武器開発担当者のQが面白い存在だが、本作ではそこに若手のQが登場する。
Qがボンドに支給するさまざまな武器や小道具が見もののひとつだったが、本作で支給されたのは、ボンドの指紋でしか撃てない銃とボンドの所在地を示す機器のみだ。
拳銃がその特性を生かすワンシーンはあるが、「出たぞ新兵器!」という感じではない。
Qは「あなたが1年かけて敵に与えるダメージを僕は紅茶を飲みながらパソコンであっという間にできる」と豪語していて、今はパソコン操作が全ての時代となったため、現場のスパイの武器はこれだけで十分ということか。
ボンドはここで「世代交代か・・・」とつぶやいている。
しかし話は旧世代としてのボンドとシルヴァの対決に絞られている。

ボンドはシルヴァのいる島にセヴリンと乗り込むが、二人はいとも簡単に囚われの身となる。
一瞬の隙をつきボンドはシルヴァを捕らえMI6へと護送するのだが、ボンドが捕らわれる展開といい、シルヴァが捕らわれる展開といい、なんだか簡単なものなんだなあと感じ、ちょっと中だるみ感がある。
もっともシルヴァが捕まるのは彼の計算の内であったことが判明するけれど、やはりあんちょこ感はある。
ボンドの生家での対決で、ボンド側は旧来の武器で戦うことになる。
アルバート・フィニー のキンケイドが登場するが、これがショーン・コネリーだったら面白かった。
シルヴァが近代的兵器をいくらでも使えるのなら、ヘリコプターから爆弾を一発落とせばいいではないかと思う攻防は汗握る興奮からは遠いものだが、総じてスパイアクション作品としてかなりの水準になっていると思うし、シリーズの中でも出色の出来の1本だろう。

007/ロシアより愛をこめて

2021-04-29 06:44:57 | 映画
今も人気のある007シリーズですが、
初代ボンドのショーン・コネリーと
現在のボンド役ダニエル・クレイグから1本づつ。

「007/ロシアより愛をこめて」 1963年 イギリス


監督 テレンス・ヤング
出演 ショーン・コネリー
   ダニエラ・ビアンキ
   ロバート・ショウ
   ペドロ・アルメンダリス
   ロッテ・レーニャ
   マルティーヌ・ベズウィック

ストーリー
英情報部長Mのもとにトルコ支局長ケリムから、ロマノワというソ連情報部の娘がロンドンに連れて逃げてくれたらソ連の暗号解読機を盗み出すといって来たのでボンドはイスタンブールへ飛んだ。
ロマノワも現われ解読機も呆気ないばかりに盗み出せた。
彼女は飛行機での脱出を拒み、急行列車を望んだ。
ケリムが護衛を買って出たがソ連情報部の刺客に襲われて死んだ。
次の駅でMから派遣されたグランドが乗り込んだ。
彼はその夜ロマノワを睡眠薬で眠らせ、ボンドを襲った。
彼は、秘密結社の第一級暗殺者だったのだ。
だが、ボンドの勝利に終った。
列車が急停車した。
グラント出迎えのトラックが線路上にわざと止っていたのだ。
ボンドはロマノワを連れてそのトラックを奪い、快速艇を奪ってベニスへ・・・。

国際的犯罪組織スペクターが仕組んだ、英ソ間を巻き込む陰謀との闘いを描く。
オリエント急行で繰り広げられる、R・ショウ演じるロシアの殺し屋との戦いや、ヘリやボートを駆使した機動的なアクション・シーン、ボンドガール歴代No.1の呼び声も高いD・ビアンキの魅力などなど、エンタテインメントの要素がフルにつまった、これぞ007の代表的傑作。
マット・モンローの歌う主題歌も大ヒットとなった。


寸評
1964年4月の日本公開時の日本語タイトルは「007危機一発」だった。
髪の毛一本の僅差で生じる危機的状況を意味する「危機一髪」と銃弾の「一発」をかけた一種の洒落だったが、あまりにもヒットしたため、四字熟語の試験問題で危機一発と誤答する者が続発したことを思い起こす。

兎に角オープニングからワクワクさせる。
007のテーマ曲が流れ、イスタンブールの踊り子と思われる女性のボディにクレジットタイトルが照射される。
ゆらゆらと映し出されるタイトルを見ただけで007の世界に引き込まれてしまうのだ。
007のタイトルバックは兎に角凝っていて、このタイトルバックを見ることも楽しみの一つだった。

ショーン・コネリーが演じたボンド・シリーズでは最高の出来で、歴代シリーズでも上位にランクされるであろうと思われる。
その後の007シリーズの方向性が本作で確立された感があるのも評価を押し上げる。
例えばダニエラ・ビアンキが、知性の中に色気とチャーミングさを覗かせ、その後のボンド・ガールの方向性を示している。
さらにはボンドに支給される秘密兵器がクライマックスで重要な役割を果たすこと(今回はアタッシュケース)。
何よりもオープニング・テーマの前に「プレ・アクション」が入るようになったことなどは後続作品に踏襲されているパターンだ。
今回はグラントという凄腕の男の腕前が披露され、ちょっとしたドッキリも盛り込まれている。
マンネリとも思われかねない約束事を有しているのがシリーズ物の特色で、それが観客を安心させるのだと思う。

冒頭でチェス大会があり、No5が頭脳明晰なのだと暗示するが、最後にはそれが逆転する。
顔は映し出されないNo1の男の前で、その男と同席するのがNo3のオバサンで、とてもスゴイ女とは思えないのだが、何年たっても記憶に残るのがこのオバサンの足技なのだから不思議だ。
作中に登場する車は自動車電話付きで、ポケットベルで呼び出しを受けたボンドがこの電話で本部と連絡を取っている。
どちらも、当時としてはまだ珍しいものだったのだが、今見ると懐かしい。
ライオネル・バートが作曲し、バラード・シンガーのマット・モンローが唄う同名タイトルの主題歌は歴代007シリーズの中でも一番ではないかと思う。
ショーン・コネリーはこのヒット・シリーズで世に出た俳優だが、あまりのヒットで長くボンドイメージから脱却するのに苦労していた。
その彼も年を経るごとに貫録が出て渋い役者になっていった。

以下余談。00のナンバーを持つ男は殺人を認められた諜報員の代名詞のようになっていて、テレビでは「0011ナポレオン・ソロ」が放映され人気となった。
こちらもロバート・ボーンのナポレオン・ソロとデビッド・マッカラムのイリヤ・クリアキンのコンビが人気を博し、最初は9時からの放映だったが、シリーズを重ねるごとに放送時間が遅くなっていった。

セブン

2021-04-28 07:47:59 | 映画
「セブン」 1995年 アメリカ


監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 ブラッド・ピット
   モーガン・フリーマン
   グウィネス・パルトロー
   ジョン・C・マッギンレー
   リチャード・ラウンドトゥリー
   R・リー・アーメイ

ストーリー
雨降りしきる大都会でまた新たな殺人事件が発生し、退職まであと1週間のベテラン、サマセットと血気盛んな新人ミルズの両刑事が現場に急行した。
被害者は極限まで肥満した大男で、死因は食物の大量摂取による内蔵破裂。
そして現場には、犯人が残したものと思われる〈GLUTTONY=大食〉と書かれた文字が残されていた。
まもなく弁護士のグールドが、高級オフィスビルの一室で、血まみれになって殺される事件が発生。
そして現場には血で書かれた〈GREED=強欲〉の文字が……。
サマセットは、犯人がキリスト教における七つの大罪に基づいて殺人を続けていることを確信し、ミルズにあと5人殺されるだろうと告げる。
「強欲」殺人の現場を再検証した2人は、壁の絵画の裏に指紋で書かれた「HELP ME」の文字を発見。
その指紋は前科者の通称ヴィクターのもので、ヴィクターの部屋に急行した捜査陣は、舌と右腕を切られた上、ベッドに縛りつけられて廃人同様となったヴィクターを発見。
部屋には彼が衰弱していく様を撮影した写真と〈SLOTH=怠惰〉と書かれた紙が残されていた。
グールドの部屋の指紋は、ヴィクターの切り取られた右腕で付けられたものだった。
捜査は振出しに戻り、サマセットはFBIの友人の協力を得て、犯罪者に利用される恐れのある要注意図書リストの「七つの大罪」に関する図書館の貸出記録から、容疑者を割り出そうとした。
ほどなくジョン・ドウという男が浮かび、半信半疑のまま2人は男のアパートを訪ねたのだが・・・。


寸評
キリスト教の“七つの大罪”になぞらえた連続殺人事件を描いた刑事物だが、定年まじかの刑事モーガン・フリーマンと若手刑事のブラッド・ピットの人物対比が面白い。
最初の殺人事件までは刑事二人の性格描写が丁寧に描かれる。
モーガン・フリーマンは退職まであと1週間のベテラン刑事で沈着冷静、几帳面な男であるサマセット刑事である。
一方のブラッド・ピットは直情型で、新たにこの町に赴任してきた妻がいる若手刑事である。
ブラッド・ピットのミルズ刑事がセルピコだと名乗るシーンがある。
セルピコと言えばアル・パチーノが演じた刑事の名前ではないか。
僕はシドニー・ルメットへのオマージュかと思ったりしたのだが、どうもセルピコは警察官としてアメリカでは有名な人物であるらしいことによるものなのだろう。

七つの大罪とは「虚栄」、「嫉妬」、「怠惰」、「怒り」、「強欲」、「貪食」、「淫蕩」である。
第一の殺人事件が起きる。
被害者は極限まで肥満した大男で、汚物にまみれ、食材のスパゲティの中に顔を埋めた恰好で死んでいた。
猟奇事件の発生を思わせるに十分な状況が描かれてサスペンスの始まりを感じさせる。
それを決定付けるのがサマセットが発見する〈GLUTTONY=大食〉と書かれた文字だ。
そして凄腕で名高い弁護士グールドが、高級オフィスビルの一室で血まみれになって殺され、現場には血で書かれた〈GREED=強欲〉の文字が書かれているのだが、この二つの事件を短時間で描き、観客を一気に映画の世界へ誘い込む。

第三の殺害者が発見される経緯もスピーディで、この小気味よさがこの手の作品には必須だ。
サマセットは金を渡してFBIの友人の協力を得るのだが、これは記者が事件現場に素早く駆け付け写真を撮った時に、警察内部の者が情報を提供して金を貰っているとサマセットが言っていたことが伏線となっている。
そしてこの伏線は更に大きな事を含んでいたことが分かる展開もいいと思う。
FBIが図書館の貸出記録情報を取得していて、どの人物がどのような本に興味を持っているかを把握していると思われるので、サマセットはFBIの友人にその情報提供を依頼している。
確かに、爆弾作りに興味を持っているとか、ナチスの狂信者であるらしいとか、殺人行為に興味がありそうだなどという個人情報をFBIならば秘密裏に取得しているだろうなと思わせる。
僕たちも知らず知らずのうちに個人の詳細情報を権力者によって把握されているのかもしれない。

犯人が判明して出会う場面もなかなか緊迫感がある。
ミルズが殺されそうになるが、これも大きな伏線となっている。
第4の殺人〈LUST=肉欲〉として娼婦が殺され、第5の殺人〈PRIDE=高慢〉として顔を切り裂かれて悲観した美人モデルが自殺している事を描く時間もテキパキしていてサスペンスを盛り上げている。
第6の殺人動機の〈ENVY=嫉妬〉も納得できるし、第7の殺人もよくできている。
サイコ・サスペンスとして「羊たちの沈黙」という傑作があったが、「セブン」はそれに迫るものがある力作である。

2021-04-27 06:58:52 | 映画
「Z」 1969年 フランス / アルジェリア


監督 コンスタンタン・コスタ=ガヴラス
出演 イヴ・モンタン
   ジャン=ルイ・トランティニャン
   ジャック・ペラン
   ベルナール・フレッソン
   イレーネ・パパス
   レナート・サルヴァトーリ

ストーリー
地中海に面した架空のある国で、反政府の勢力が日増しに大きくなっていった。
その指導者はZ氏で、大学教授であり医学博士であった彼は、党員ではなかったが、正義への情熱に燃える彼の行動は政府を脅やかしていた。
そうしたある日、町で開かれた集会での演説に向かった彼は、暴漢に襲われ、妻エレーヌの到着を前に、息をひきとってしまった。
警察と憲兵隊では、自動車事故から起きた脳出血が、彼の死因であると発表。
予審判事も事故死と判定し、訴訟を打ち切ろうとしたが、Z氏の友人たち、エール、マット、ピルゥ、マニュエルの証言から、本格的調査に乗り出した。
そして、直接の死因が二度の頭部打撲と判明、さっそく運転手のヤゴが逮補された。
そして家具師のニックが、ヤゴの犯行を裏づける証言をしたが、その彼も暴漢に襲われ入院してしまった。
判事は調査を急ぎ、ニックを取材した新聞記者も判事に協力した。
やがて、マニュエル、ピルゥ、ヤゴともう一人の運転手ガヤが、警察組織の一員らしいことをつきとめた。
もはや、政治的な計画殺人の容疑は濃厚となったので、意を決した判事は警察組織の要人を告訴した。
だが、この時、七人の重要な証人が突然行方不明になり、それとタイミングをあわせるように当局は、Z氏事件は警察組織とは無関係であると発表した。
権力はその無気味な力で事件を闇の中につつみこみ、その混乱に乗じて権力増大をはかった。
しかし、古代ギリシャ語の《Z》は象徴している、彼は生きていると。


寸評
僕は軍政時代のギリシャのことを知らないし、ランブラキス暗殺事件のことも知らない。
したがってこの映画が描く背景がピンと来ていないので受け取る印象は弱いものとなってしまっているが、しかし国家権力がその力を自分たちの意思に反したものに使いだすと、恐ろしい世界が生じえるのだということだけは伝わってくる作品で、学生時代に見たこの作品においてコスタ=ガヴラス監督を知った。

実在の人物、事件との繋がりは偶然ではなく意図的だというメッセージから始まるのが痛烈だ。
思想の病害の原因は寄生虫と同じだと、作物への農薬散布に例えて訴える権力側の演説もすごい。
民主主義だから集会は禁止しないがあらゆる病気、社会の病巣を根絶してやろう、とりあえずは言語弾圧だというとんでもない冒頭でこの映画の方向性を感じ取る。
イヴ・モンタン演じるZ氏は群衆の一人から陸上選手で教授だと言われているから、知っている人は直ちにグリゴリス・ランブラキスが思い浮かぶのだろう。
冒頭でモデルがいることを宣言していることを思うと、この後に登場する警察署長や軍人たちが誰であるのかも想像できるのかもしれない。
そうであれば、僕はもっとこの映画を楽しむことができただろう。

ジャン=ルイ・トランティニャン演じる予審判事が職務に忠実で気持ちいいが、あっけに取られるようなラストにびっくりしてしまう。
軍政は長髪、トルストイ、ストライキ、サルトル、オールビー、ベケット、現代音楽、そしてZの文字を禁じたとテロップされるのだが、「Z」はギリシャ語の「Ζει」に由来し、彼は生きているを意味するということである。
平和を訴えた男の精神はまだ生きているというメッセージで、それだけが救いだ。
Z氏はやはり英雄なのだろう。
日本においても源義経は死んでいなくて生きていたと言う伝説が各地に残っているようだし、大陸へ渡ってジンギスカンになったという伝説迄ある。
本能寺で倒れた信長がまだ生きていると言う情報を秀吉が流して、光秀に同調する武将を牽制したと言う話も伝わっている。
英雄は生きていてほしいし、生きていると信じたいものだ。
Z氏は民主化を望む人々の偶像となったのだと思う。
権力側がジャン=ルイ・トランティニャンの予審判事によって告訴されたことが分かると、それを夫人に知らせに来た男がZ氏は生きていたと叫ぶことが、そのことを表している。

振り返って、この映画を当てはめて我が国の現状を見ると、国民に知らせるべきことを自分たちの不祥事になるからと隠ぺいしている警察組織や国家組織のことが時々ニュースになっていることがあるので、ここで描かれたような権力側の防衛本能のようなものを感じる。
我々側の権力側への監視が必要だ。
新聞に代表されるマスメディアももう少し気合を入れて取材して欲しいと思う今日この頃である。

世界最速のインディアン

2021-04-26 08:26:58 | 映画
「世界最速のインディアン」 2005年 ニュージーランド / アメリカ


監督 ロジャー・ドナルドソン
出演 アンソニー・ホプキンス
   クリス・ローフォード
   アーロン・マーフィ
   クリス・ウィリアムズ
   ダイアン・ラッド
   パトリック・フリューガー

ストーリー
ニュージーランド南端の町、インバカーギルで独り暮らしのバート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)は、1920年型インディアン・スカウトという40年以上も前の古いバイクを改良し、数々のスピード記録を出している。
バートにはライダーの聖地であるアメリカのボンヌヴィル塩平原で世界記録に挑戦する夢があった。
とはいえ、バートの収入は年金のみ。
倹約精神を発揮してマシンの改良にも廃品を利用しているが、渡航費が足りない。
しかし、やるなら今しかないと決心を固めたバートは、銀行から借金し、いよいよ出発の日を迎える。
貨物船にコックとして乗り込み、ロサンゼルスに上陸したバートは、入国審査で『インディアン』と口にしてあらぬ嫌疑をかけられたりしながらも、どうにかモーテルにチェックイン。
ロングビーチの税関へマシンを引き取りに行くと、木枠は無惨に破損していたにもかかわらず、インディアンは奇跡的に無傷だった。
こうしてユタ州のボンヌヴィルへ向かって出発するバート。
様々な人との出会いと別れを繰り返し、『スピード・ウィーク』の開幕直前、ついにバートは見渡す限りの白い平原に立ち感無量だったが、思わぬ障害が待ち受けていた。
出場するには事前の登録が必要であることを知らなかったため、受付で門前払いされたのだ。
知り合ったばかりの出場者ジム(クリス・ローフォード)が係員を説得してくれたおかげでマシンの点検は受けられたものの、時代遅れのポンコツとバカにされ『整備不良』の烙印、おまけにバート自身も『年齢オーバー』と言われる始末。
この日のために手塩にかけた愛車インディアンとともに、はるばる地球の裏側からやって来たバート。
果たして、彼は世界一の夢を達成できるのか?


寸評
上質のロードムービーだ。
作品を見れば原題、および「世界最速のインディアン」という邦題も理解できるが、最初に抱くイメージからすれば、この邦題は失敗だったと思う。
僕たちの世代は、インディアンと言えばアメリカの先住民族を連想してしまう。
もう少し内容を思い起こさせる題名が付けられなかったものかと残念な気持ちになる。
そう思わせるほど中身はいいのだ。

独り暮らしをしている初老のバート・マンローは人はいいのだが近所迷惑な存在で、早朝からバイクの改造のために騒音を立てるし、庭は草ぼうぼうで景観を壊している。
ついにはガソリンをまいて燃やし、消防車が駆けつける騒ぎも起こしたりしている。
しかしその人の良さは隣家の少年を引き付け、少年はバートの家に入り浸っている。
タイヤを削る為に肉切り包丁を依頼すると、少年は母親の目をごまかし持ってくるという仲の良さである。
この少年との交流だけでも一本の映画が撮れそうな関係が微笑ましく描かれる。
バートは独り暮らしだが、支えてくれる女性がいる。
彼女との交流はうらやましいぐらいに優雅だ。
決して裕福ではない暮らしだが、心は裕福だし優雅なゆとりを感じさせる。
地元の若いバイク仲間連中が、バートにバイクでの喧嘩をふっかけていて険悪ムードかと思いきや、バートの旅立ちには選別の金をもってバートの車を先導する。
バートは彼等にも愛される人間であることがわかる。
老人はさもすれば社会から疎外され迷惑がられる存在だ。
死亡通知を受け取っても迷惑だと言わんばかりのことあって、死んでも迷惑がられるのかと悲しい気持ちになってしまうこともあるのだが、バートはそんな老人ではない。
いい加減にしろと言われている隣人からも、どこか愛されている所があるのだ。
老後はかくありたいと思わせる。

バートは南半球のニュージーランドから、北半球のロサンゼルスに旅立つが、旅先では皆から親切にしてもらう。
乗せてもらった貨物船の船長や船員たち。
モーテルの女性(?)とも心を通わせるが、それはバートが人を差別しない広い心を持っているからだ。
同年輩のご婦人たちには愛を与え、愛をもらう。
その様子も微笑ましい。
地元警察も彼には寛大な処置を取るが、警官もやり取りから彼の人の良さを感じ取るからだろう。
レースの地ボンヌヴィルは塩湖が干上がったような場所で、白い平原が延々と続いているのだが、世界には目を見張るような自然が作り出した場所があるものだと思わされる場所だ。
事前のすったもんだもあって、そこでのレース・シーンはやはり手に汗握る。
彼の記録がいまだに破られていないことに驚くと共に、自然と笑みがこぼれる老人賛歌の作品だった。

西部開拓史

2021-04-25 07:36:03 | 映画
「西部開拓史」 1962年 アメリカ


監督 ヘンリー・ハサウェイ
   ジョン・フォード
   ジョージ・マーシャル
出演 カール・マルデン
   キャロル・ベイカー
   ジェームズ・スチュワート
   ジョン・ウェイン
   デビー・レイノルズ
   グレゴリー・ペック

ストーリー
第1話 1830年代の終わり頃、ニューイングランドの農民ゼブロン一家は長女イーブ(キャロル・ベイカー)、次女リリス(デビー・レイノルズ)などを連れて未開の荒野に踏みこんだ。
一家が川岸にキャンプを張ったある夜、鹿皮服を着た毛皮売りのライナス(ジェームズ・スチュアート)がカヌーで近づいてきて、野性的で親しみやすい彼をイーブは一目で恋した。
イーブとライナスは開拓生活を誓ったが、蒸気船の汽笛は、リリスを新しい町セントルイスに誘った。
第2話 10年後、リリスはセントルイスのキャバレーの歌手だった。
常連の中に賭博師クリーブ・バン・ベイレン(グレゴリー・ペック)がいた。
愛を誓い合った2人は新しい都市サンフランシスコで運を試してみようと決心した。
第3話 南北戦争が始まり、長男ゼブ(ジョージ・ペパード)は銃火の中で父ライナスの死を知った。
シャーマン将軍(ジョン・ウェイン)とグラント将軍がいるのに気づいた南軍兵が引き金を引こうとしたので、ゼブはとっさに銃剣で南軍兵を刺殺した。
第4話 1860年代の終り頃、騎兵隊を指揮するのは中尉となったゼブである。
鉄道建設所長のマイク(リチャード・ウィドマーク)は新しいタイプの鉄道第一主義者で、長年インディアンと生活を共にした野牛狩りの男ジェスロ(ヘンリー・フォンダ)に反対して最短距離をとるために、インディアンの食糧供給路を通るのを主張した。
第5話 1880年代の終わり頃、未亡人となったリリスは借金のため豪華な邸を売ってアリゾナ州に移住した。
保安官になった甥のゼブや妻ジュリーたちとの再会を喜ぶ間もなく、ゼブはギャングのチャーリー・ガント(イーライ・ウォラック)の企てた列車襲撃を討伐しに向かった。


寸評
西部劇の集大成ともいうべき内容で、西部開拓の50年間をある家族の人々を通じて描いているのだが、何といってもキャストの凄さが特筆ものである。
西部劇スターを知りたければこの一作を見ればすべてが分かると言っても過言ではないだろう。
西部劇を支えてきた男優人はキラ星の如くである。
先ず登場するのが「アメリカの良心」と呼ばれたジェームズ・スチュアートで、ヒッチコックの「裏窓」や「めまい」にも出演し、西部劇としては「リバティ・バランスを射った男」がある。
スチュアートのライナスは南北戦争に志願して、あっけなく死んでしまうが直接的な場面はない。
川岸で酒場を開いている悪人の親分としてウォルター・ブレナンが出ていて、その手下にマカロニ・ウェスタンで一躍スターとなるリー・ヴァン・クリーフも出ている。

第2話に相当する場面ではリリスの相手としてグレゴリー・ペックが登場する。
「ナバロンの要塞」などの戦争物もあったが「大いなる西部」などにも出ているし、いろんな役をやった俳優だが「ローマの休日」におけるオードリー・ヘップバーンの相手役も印象深い。
ここでの彼はギャンブラーを演じてはいるが、あまり見せ場がなくて、彼の死もまた直接には描かれていない。

第3話になると成人したゼブとしてジョージ・ペパードが登場する。
前年に撮った「ティファニーで朝食を」で彼もオードリー・ヘップバーンの相手役を務めている。
そしてこのパートでは御大ジョン・ウェインもチョイ役で顔見世している。
チョイ役でもジョン・ウェインが登場してくるとオールスター出演という感じがするのは流石だ。

第4話ではジョージ・ペパードにからんでリチャード・ウィドマークとヘンリー・フォンダが登場する。
彼等も出演作品が多くて色んな役をやっているが、僕には西部劇スターのイメージが強い俳優である。
時代をどんどん追っていくので、ライナスの死もそうだが、ライナスの妻となったイーブの死も描かれず、墓標を示すことで事実を知らせているし、リリスと結婚したクリーブの死も描かれていない。
クリーブの死もあって未亡人となったリリスは邸宅を競売にかけゼブのもとへ旅立ち、50年にわたる一家の出来事を通じた西部開拓の様子が大団円を迎える。

一大叙事詩だが、いかんせんダイジェスト過ぎて中身は薄い。
それぞれのパートにふさわしいエピソードが描かれるのだが、深く切り込むような所がなく感動はあまりない。
ゼブが戦場で出会い、共に脱走しようと語り合った南軍兵士を刺殺せざるを得なくなってしまったシーンなども単なるエピソードにとどまっている。
主要人物の死が劇的に描かれても良さそうなものだが、前述したように報告的に描かれるだけなので悲しみも伝わってこない。
オムニバス映画の限界なのかもしれない。
先人が苦労して西海岸の繁栄がもたらされたのだろうが、その為に犠牲となった先住民の悲劇は少し描かれただけで、アメリカ人の身勝手と自己満足を感じてしまう最後のナレーションだった。

青春デンデケデケデケ

2021-04-24 13:37:13 | 映画
「青春デンデケデケデケ」 1992年 日本


監督 大林宣彦
出演 林泰文 柴山智加 大森嘉文 浅野忠信
   岸部一徳 ベンガル 永堀剛敏
   尾藤イサオ 入江若葉 水島かおり
   安田伸 尾美としのり 佐野史郎 勝野洋

ストーリー
1965年の春休み。四国・香川県の観音寺市。
高校入学を目前に控えた僕、ちっくんこと藤原竹良(林泰文)は、昼寝の最中にラジオから流れてきたベンチャーズの曲「パイプライン」の“デンデケデケデケ~”という音にまさに電撃的な衝撃を受け、高校に入ったらロックバンドを結成しようと心に誓う。
そうして浄泉寺の住職の息子・合田富士男(大森嘉文)、ギターの得意な白井清一(浅野忠信)、ブラスバンド部の岡下巧(永堀剛敏)、そして僕と4人のメンバーが揃った。
夏休みにそれぞれアルバイトでお金を稼ぎ、念願の楽器を購入、バンド名も〈ロッキング・ホースメン〉と決定、こうして本物の電気ギターの音が初めて町にこだました。
手製アンプを作ってくれた、しーさんこと谷口静夫(佐藤真一郎)という名誉メンバーも加わる。
河原での合宿もうまくいき、学内での活動も認められ、女の子たちの人気の的にもなった。
そしてスナックの開店記念パーティで念願のデビュー。
ロックバンドに明け暮れる高校生活はあっという間に過ぎていき、顧問の寺内先生(岸部一徳)が急死するという出来事もあれば、岡下の初キッス事件も起こった。
僕だって夏の終わり、クラスメイトの唐本幸代(柴山智加)に誘われて、海水浴場に2人で出かけたりする。
そして僕たちのバンドの最後の演奏となった高校3年の文化祭も、大成功の内に幕を閉じた。
卒業が近づき、東京の大学へ行こうとしているものの不安定な気持ちの僕を、バンドの仲間たちが「頑張れよ、終身バンド・リーダー」と励ましてくれる。
恋や友情の熱い思い出と、愛しい歌の数々を胸に、こうして僕は東京に向かっていくのだった。


寸評
舞台は香川県の観音寺市なのだが、観音寺と言えば僕が務めていた会社の縫製工場と流通センターが有った土地で時々出張で訪れていた町だ。
最寄りの観音寺駅は特急も止まる駅だったが、夜の8時にでもなると駅前ですら真っ暗になる田舎を感じさせる所で、仕事終わりに立ち寄る飲み屋は地元の人に案内されないと見つけることが出来なかった。
仕事に追われ市内を立ち回る余裕もなく、かろうじて本支店勤務になる新入社員を琴弾(ことひき)公園に案内し、有明浜の白砂に描かれた「寛永通宝」の砂絵を眺めたくらいである。
描かれたような風情ある町を散策しておけばよかったと映画を見ながら当時を思い起こす。

映画は絵にかいたような青春物語だが、特に僕たちの年代の者は再見するたびに青春がよみがえってくる内容で、それをもたらしているのが懐かしい当時の音楽である。
エレキブームの火付け役だったベンチャーズの「パイプライン」が流れてくるだけでウキウキしてしまう。
「ダイアモンド・ヘッド」、「10番街の殺人」、「キャラバン」などを収めたレコードも持っていた。
ベンチャーズはビートルズと共に僕の高校時代の音楽趣味に多大な影響を与えたバンドだったのだ。
男性ならば彼らの高校生活を見ると誰もが思い当たるふしのある内容だと思う。
自然光を捉えた温かみのある画面が彼らの青春を包み込み、僕たちにノスタルジーを感じさせる。
僕は音楽に造詣が深くなかったが、入学と同時に出会って親しくなった1年3組の仲間とはクラスが代わっても3年間は常に一緒だった。
中間、期末の試験が終わるたびに我が家に集まり徹夜麻雀に興じていた。
徹夜麻雀を楽しみにして試験を受けていたようなものだ。

映画は青春ど真ん中を大林監督らしいポップなシーンを挿入して面白おかしく描いているが、青春の輝きのうちに物語が終わるのではなく祭りの後も描かれている。
文化祭が終わり卒業する彼らはそれぞれの道を歩み始める。
主人公のちっくんと呼ばれる藤原竹良以外のメンバーは家業を継ぐため町に残るが、ちっくんは東京の大学を受験することになる。
周りが先へと進む中、バンド活動に対する未練、自分の進路への不安を抱えるちっくんは思い出の地を巡り、過ぎ去りし日々に思いを馳せるシーンがいい。
鍵のかかった部室の前で、「部室の鍵はもう下級生に譲り渡してしまった。したがって僕には入れない」と繰り返しつぶやき、文化祭で演奏をした体育館にひとり立ち、「みんな終わってしまったのだ」とつぶやくのは、青春は永遠ではないことを告げている。
僕が大学を卒業する時に感じた気持ちと相通じるものがあり、それがこのシーンに感情移入させたのだろう。
そんな彼の背中を押すためにメンバーは終身バンドリーダーの称号を贈る。
解散になっても、活動を続けなくなっても、「ロッキング・ホースメン」は在り続けるのだという証で、青春時代は有限でも青春時代の仲間は永遠なのだと言っているように思える。
多彩な出演者を発見するだけでも楽しいが、大森嘉文の合田富士男が大人びた挨拶をしたりして面白い。
大林映画の中でも好きな一本で、青春映画として僕の中では十指に入る作品である。

青幻記 遠い日の母は美しく

2021-04-23 07:59:45 | 映画
「せ」で始まる映画の第2弾になります。
第1弾は2019/9/1の「青春の殺人者」からでした。
興味にある方はバックナンバーから見てください。

「青幻記 遠い日の母は美しく」 1973年 日本


監督 成島東一郎
出演 田村高広 賀来敦子 山岡久乃 戸浦六宏
   小松方正 藤原釜足 原泉 浜村純
   殿山泰司 三戸部スエ 田中筆子
   新井康弘 伊藤雄之助

ストーリー
わたしは、三十年たった今も、母のことが忘れられない。
ふるさとの沖永良部島を訪れたわたしは、母の幻を見た。
そして、すっかり老いた鶴禎老人に会った。
私は幾晩かをこの老人と語り合い、この老人によって母の過去、そして母がどれほど美しかったか、いまでも語り草になっている敬老会の夜に、母が舞った「上り口説(のぼりくどき)」の見事さを聞かされた。
わたしの追憶も、あの三十年前の情景をありありとよみがえらせていく。
鹿児島での祖父と、祖父の妾のたかとくらしたつらい生活から逃げるようにして、船に乗り、島を初めて見たのは、母が三十歳、わたしが小学校二年生、昭和となってまもない頃だった。
母と祖母とわたしの三人の、貧しくとも温く肩を寄せ合った島の生活が始まった。
母は、学校帰りのわたしを、毎日迎えてくれた。
それよりも、わたしは一度でもいいから、母に抱きしめてもらいたかった。
しかし、母は、病いのうつることを恐れて、決してわたしにふれなかった。
台風のくる頃、海は荒れ、島の食糧は枯れ、灯りの油すら買えず、闇の中でひっそり眠った。
それでも、年に一度の敬老の宴で、村人たちは夜のふけるまで、酒をくみ、踊った。
母の踊りは、かがり火に映え、悲しみをはくような胸苦しいまでに美しい踊りであった。
そして、冬のある晴れた日、サンゴ礁で、草舟を浮かべたり、魚を捕ったりして、半日を遊んだ母とわたし。
それが、母とわたしの最後の日であった。


寸評
カメラマンだった成島東一郎の初監督作品で、僕は学生の頃にこの映画を見たのだが、恥ずかしいことにそれまで沖永良部という島の存在を知らなかった。
「青幻記 遠い日の母は美しく」は、沖永良部島の岩場で海に飲まれるようにして死んだ母の姿を息子の眼で描いた作品で、母子の6か月間の沖永良部島での暮らしと、母の死を経て、成人した稔が36年ぶりに島に帰ってきて、母の骨改めをすませたのち、母の遺骨を東京に持ち帰るまでが描かれている。
主人公は母サワを演じた賀来敦子だが、もう一方の主人公は紛れもなく沖永良部島である。
沖永良部島の背景なくしてこの映画の存在はない。

壮年となった稔が、36年ぶりに故郷に帰ることを思い立ち、ひとり島を訪ねて少年時代を回想するシーンが織り交ぜられて映画は進んでいく。
少年時代の稔を、成人した稔が見つめている構図が度々出てくる。
成人した稔が世話になるニシ屋敷の老人は、かつて母のサワを愛した人でもあった。
稔は幾晩かをこの老人と語り合い、サワの過去、そしてサワがどれほど美しかったか、いまでも語り草になっているサワが舞った「上り口説(のぼりくどき)」のいかに見事であったかを聞かされる。
老人の家、舞を舞う母とその衣装、沖永良部島に咲く美しい花々。
映画を見ている僕は少年の稔と旅をし、沖永良部の浜辺を歩くという一体感に包まれた。

母子はつねに引き裂かれる運命にあって、父は早くに亡くなり、母子は引き裂かれる。
稔は祖父に養育されながらもいじめにあっていた。
母は再婚相手の暴力から逃れるようにして息子の稔を連れ去るようにして、生まれ故郷の沖永良部に帰ってきたがすでに結核を患っていた。
幸せとは言えない人生を送ってきた母子だが、稔は幼くして母を亡くしたからか母を恋いていて、幼い頃の自分と母との出来事を鮮明に覚えている。
稔の記憶にある母は優しいながらも強い母であり、美しい母だ。
稔は島での友人から、「君は、東京で、あまり幸せでなかったようだな。その年になって、まだ、母親がこれほど忘れられんのじゃからな。いろいろ母親に聞いてもらいたいことがあったんだろ」と言われる。
しかしそれでも、そのように慕える母と母との思い出を持つ稔は幸せ者だと思う。
僕は亡き母との思い出をどれくらい持っているだろう。
哀しいぐらい思い浮かばないのだ。
稔のような鮮明な記憶がないことに我ながら驚いてしまう。
出来事の一つや二つは語ることもできるが、それが記憶の中の映像として浮かんでこない。
僕はあまりいい息子ではなかったのかもしれない。

子を恋い、母を恋う物語だが、物語としては迫ってくるものがない。
しかしそれを補って余りあるのが、島独特の風景であり文化だ。
僕に成島東一郎という名前と、沖永良部島を知らしめていつまでも心に残る作品となった。

スワロウテイル

2021-04-22 07:49:03 | 映画
「スワロウテイル」 1996年 日本


監督 岩井俊二
出演 三上博史 江口洋介 Chara 伊藤歩
   アンディ・ホイ 渡部篤郎 桃井かおり
   山口智子 大塚寧々 洞口依子
   ミッキー・カーティス 渡辺哲

ストーリー
娼婦だった母を亡くして知り合いをたらい回しにされた少女(伊藤歩)は、胸にアゲハ蝶のタトゥーを入れた娼婦のグリコ(CHARA)に引き取られたのだが、グリコは歌手を夢見て“円都”にやって来た“円盗”で、2人の兄と生き別れになってからは娼婦を生業として生きてきた女である。
グリコからアゲハという名前を貰った少女は、同じ“円盗”のフェイホン(三上博史)やラン(渡部篤郎)たちが経営するなんでも屋“青空”で働き始める。
ある夜、グリコの客の須藤(塩見三省)に襲われたアゲハは隣室の元ボクサー・アーロウ(シーク・マハメッド・ベイ)に助けられ、運悪く死んだ須藤の腹の中から、『マイ・ウェイ』が録音されたカセットテープを発見した。
同じころ、中国マフィアのリーダー・リャンキ(江口洋介)は行方不明の須藤が持ち逃げした偽造一万円札のデータが入ったカセットテープを探していた。
腕利きの殺し屋でもあるランは仲間のシェンメイ(山口智子)からリャンキの情報をつかむと、テープの正体をつきとめた。
大金を掴んだフェイホン達は、グリコの夢を叶えてやろうとライヴハウス“イェンタウンクラブ”をオープンさせる。
グリコの歌は評判を呼び、たちまち彼女は大スターとなった。
そんなある日、アゲハは仲間のホァン(小橋賢児)たちと試した覚醒剤で意識不明になり、偶然通りかかったリャンキに助けられ、リャンキがグリコの生き別れの兄であることを知った。
フェイホンはグリコの関係を引き裂こうとしたマネージャーの星野(洞口依子)に密入国を入国管理局に密告されたが、なんとか街に戻ってこれたフェイホンはグリコのために身を引いて、手切れ金を受け取った。
これにバンドのメンバーは激怒し、イェンタウンクラブは閉鎖に追い込まれてしまった。
アゲハは再び偽札を使って、店の権利とバラバラになった仲間の気持ちを取り戻そうとする。
一方、グリコの娼婦仲間・レイコ(大塚寧々)から須藤が死んだいきさつをつかんだリャンキの手下・マオフウ( アンディ・ホイ)は、執拗にグリコを追いつめていた。


寸評
"円"が世界で一番強かった時代。
一攫千金を求めて日本にやってきた外国人達は、街を"円都(イェン・タウン)"と呼び、日本人達は住み着いた違法労働者達を"円盗(イェン・タウン)"と呼んで卑しんだ。
そんな円都に住む、円盗たちの物語である。
そんなナレーションが最初と最後に入る。
舞台は中国マフィアがうごめいている架空の街だが、画面に描かれるスラム街の様子はその雰囲気を十分すぎるぐらい醸し出していた。
最初はスラム街での人身売買を含めた売春組織の様子が描かれ、そして「青空」という浮浪者の様な連中が商売をしている場所が描かれる。
人身売買も彼らが行う商売も非合法なもので無茶苦茶なのだが、アメリカのギャング組織やイタリアンマフィアと違って、中国マフィアならこんなことをやるだろうなと思わせる内容だ。
少女の人身売買ではまるで物を売る様に転売されていく様子が描かれるし、商売と言っても無理やり走っている車をパチンコで狙い打ってパンクさせ、その修理代を稼ぎながら尚且つガソリンを抜き取るといったものだ。
土地を不法占拠していそうなのに退去させられないのは何故なんだと思ったりもするが、そんな疑問を挟んではこの映画は楽しめない。
車に押しつぶされて死んだ須藤の腹の中から紙幣に埋められた磁気データの情報が入ったカセットテープが出てくるなどというのもぶっ飛んでいる。
兎に角前半は円盗と呼ばれる彼らの無軌道ぶりが徹底的に描かれるのだが、その異様な世界についていけなければこの時点でギブ・アップだ。

やがて「青空」も連中がそのデーターを利用して偽札を作り大金を得るのだが、本当にあのやり方で偽札が作れるのかどうかは分からない。
アゲハが偽札を作った時には小学生を大量動員させて換金するのだが、大勢の小学生にこんな犯罪行為をさせるのは映画と言え問題だと思う。
このシーンのためにR-12指定を受けたのだと後日に知った。
まともな判断だと思う。

日本映画だが交わされる会話は英語だったり中国語だったりで、ほとんど字幕が表示されるという形式で、そのことも異様な雰囲気の一役を買っている。
なかには何語だかわからないような言葉も使われていたような気がする。
グリコのライブシーンや、アヘン街をうろつく姿などシーン的に必要以上の長さを持つシーンが随所にある。
意図したシーンの表現なのだろうがこの映画を長くしている要因にもなっている。
ちょっとしか登場シーンしかない俳優さんもいるが、そのチョットで魅力を発散させるのは俳優さんの力量なのか監督の演出力によるものなのだろうか?
娼婦仲間レイコの大塚寧々や雑誌記者の桃井かおりは登場シーンが多いほうで、ランの仲間の山口智子などはチラッとしか登場しないから輝いていたような気がするし、一番格好良かった三上博史が儲け役だった。

スラップ・ショット

2021-04-21 06:48:56 | 映画
「スラップ・ショット」 1977年 アメリカ


監督 ジョージ・ロイ・ヒル
出演 ポール・ニューマン
   マイケル・オントキーン
   ジェニファー・ウォーレン
   メリンダ・ディロン
   ストローザー・マーティン
   リンゼイ・クローズ

ストーリー
全米プロ・アイスホッケーのマイナー・リーグのチャールズタウン・チーフスは最下位の三流選手のチーム。
しかもスポンサーの鉄工場が不況で閉鎖するため、おさきまっくらだ。
選手兼コーチのレジ(ポール・ニューマン)とネッド(マイケル・オントキーン)の2人はチームの解散を覚悟するが、マネージャーのジョー(ストロザー・マーティン)は、解散どころか新しく3人を採用。
この3人組、名前はジャック(デイヴィッド・ハンソン)、スティーブ(スティーヴ・カールソン)、そしてジェフ(ジェフ・カールソン)といい、モジャモジャ頭のガラの悪い馬鹿連中で世も末だ。
レジの私生活の方も、女房のフランシーヌ(ジェニファー・ウォーレン)とは別居中で、元どうりは不可能。
一方、ネッドの方も女房リリー(リンゼイ・クルーズ)と別居中。
数日後の試合の時、レジは相手チームのゴールキーパーに、「お前の女房はレズだ」とののしり、乱闘して勝利をものにする。
その日をさかいに、チーフスのチームの売り物は暴力となった。
なかでも例の3人組のメタメタは素晴らしく、チームは連勝につぐ連勝で、血をみてファンは熱狂した。
そんなある日、レジはチームの今後につき話し合うため現オーナーを訪ねる。
連勝のチームなのだから、何んとか未来は明るそうだったが、オーナーが今までチームを持っていたのは、税金対策のためだったと分かる。
その夜、優勝決戦が開始された。
最後の試合こそクリーンに--、でも相手チームは悪ばかりだ。


寸評
落ちこぼれチームが何かをきっかけに変質して勝ち続けるストーリーは、野球やフットボールなどのチーム競技を通じて描かれてきた格好の題材である。
「スラップ・ショット」はアイス・ホッケーを描いたスポーツ映画であるが、コメディの要素を多分に含んだ作品だ。
スポーツ映画でありながら、アイスホッケーの迫力とか、息詰まるような試合展開で手に汗握らせるという描き方を避けている。
ホッケー試合の背景である選手たちの生活や家庭、彼等を支える町の雰囲気などに重点が割かれている。
チーフスがいるチャールズタウンは鉄工場で成り立っている町だが、不況で1万人の失業者がでるようで、人々の中にうっぷんが溜まっていることが想像される。
チーフスの身売り話が起きていることも不思議ではないし、その事は皆も納得してそうだ。
選手は遠征のため留守がちで夫婦間に隙間風が吹いている。
ジャックは妻と別居中で、ジャックが未練たらたらなのに対し、妻のフランシーヌは離婚を決意している。
ネッドの方も妻のリリーと別居に至るなど、彼等の私生活の崩壊ぶりが作品に陰影を与えている。
アイスホッケーはアメリカでも人気のある4大スポーツの一つであるが、選手としてアメリカン・ドリームを獲得した者たちを描いているわけではない。
むしろ町の不況と言い、アメリカン・ドリームを獲得し損ねた人々を描いているように思える。
ドリームの体現者はチームの女性オーナーで、彼女がチームを持っている理由を知って反旗を翻すのは、社会を牛耳る数少ないドリームの成功者への反撥とも見える。

悪者三兄弟が加入し、ラフプレーで連勝するようになっていく過程が描かれるようになって映画は輝いてくる。
しかし、乱闘に至るまでの描き方は、乱闘シーンは面白いが、しかしそれを徹底的に描いているとは言えず、男性目線としては途中で打ち切られているようで、少々物足りなさを感じる。
ジャック、スティーブ、ジェフの3兄弟のキャラは面白く、もっと大暴れをさせても良かった。
脚本のナンシー・ダウドが女性であることが影響しているのかもしれない。

これが最後と思ったレジは本来のアイスホッケーをしようと提案し、ラフプレーを封印しボコボコにされる。
乱闘シーンを見たい観客は不満たらたらである。
野次馬根性が渦巻いている世の中の観客にとって、どんなスポーツでも乱闘シーンは面白いと感じてしまう。
チーフスのラフプレーに興味を持った全米プロ・アイスホッケーのスカウトが見に来ていると知ってから、チーフスの面々は本来の凶暴さを見せるのだが、彼等の態度が一変するのもちょっとアッサリしすぎていたように思う。
これは脚本のせいなのか、監督ジョージ・ロイ・ヒルの演出なのか、僕にはよくわからない。
観客は「殺せ、殺せ」の大合唱である。
暴力反対の立場をとるネッドは乱闘に加わらずベンチで控えている。
その時、スタンドで同じように「殺せ、殺せ」を叫んでいるリリーを発見し、ネッドはついにリンクに飛び出していく。
おお、やっとネッドも参加するかと思いきや・・・。
チーフスは反則オンパレードの暴力ではなくエロで優勝したというオチなのであるが、それは平和主義への提言であったのかもしれない。

スポットライト 世紀のスクープ

2021-04-20 07:01:09 | 映画
「スポットライト 世紀のスクープ」 2015年 アメリカ


監督 トム・マッカーシー
出演 マーク・ラファロ
   マイケル・キートン
   レイチェル・マクアダムス
   リーヴ・シュレイバー
   ジョン・スラッテリー
   ブライアン・ダーシー・ジェームズ

ストーリー
2001年、マサチューセッツ州ボストンの日刊紙『ボストン・グローブ』はマーティ・バロンを新編集長として迎える。
バロンは同紙の少数精鋭取材チーム「スポットライト」のウォルター・ロビンソンと会いゲーガン神父の子供への性的虐待事件をチームで調査し記事にするよう持ちかける。
チームは進行中の調査を中断し取材に取り掛かる。
当初、チームは何度も異動させられた一人の神父を追うが、次第にマサチューセッツ州でカトリック教会が性的虐待事件を隠蔽するパターンに気づく。
虐待の被害者のネットワークに接触したのち、チームは13人の神父に調査対象を広げる。
統計的には90人程度の神父が性的虐待を行っているはずだと言う指摘を受け、病休あるいは移動させられた神父を追跡して87人のリストを得る。
チームはカトリック信者の多いボストンで様々な妨害にあいながらも調査が佳境に差し掛かった9月11日にテロが起き、チームの調査はしばし棚上げされる。
枢機卿が虐待事件を知りながら無視したという公的な証拠の存在をつかみ、チームは活気づく。
ロビンソンはカトリック教会の組織的な犯罪行為を徹底的に暴くために記事の公開を遅らせる。
チームはより多くの証拠を公開するよう求めた裁判に勝ち、2002年にようやく記事を公開し始める。
記事公開の直前、ロビンソンは、1993年に性的虐待を行った20人の神父のリストを受け取りながら調査をしなかったことを告白するが、バロンはチームが今、犯罪を暴いたことを称賛する。
翌日、チームは多くの犠牲者から告白の電話を受け始める。
合衆国および世界中で聖職者による性的虐待のスキャンダルが明るみに出る。


寸評
特に著名な俳優が出ているわけではない(僕が知らないないだけかもしれないが)。
ハッとするようなドラマ性もない淡々とした映画である。
それなのに時間の経過を感じさせないトム・マッカーシーの演出力は相当なものがある。
日本は報道の自由度が世界の70何番目かで非常に低い。
スクープ記事は週刊文春におまかせといった状態で、日本の新聞記者に見せたい映画だ。
田中金脈を暴いて退陣に追い込んだのも出版社だった。
横並びで政府発表、警察発表だけを報道する日本の新聞社にこの努力はあるのかとの疑問が湧いてきた。

描かれているニュースは僕も目にした記憶があるが、キリスト教徒ではない僕はそんなに衝撃を受けなかったことも事実。
ひどいニュースだと思ったが、偽善に満ちた聖職者がそんなにもたくさんいたのか程度だったような気がする。
そもそも僕は聖職者と呼ばれる人たちに潜在的な反感を持っている。
先生、医者、宗教家などで、どうも僕はまともな人間ではなさそうだ。
寺の檀家の一員である僕だが、信心深いほうではないし、都合のいい時だけ神頼み仏頼みを行う不届き者で、お寺のおつとめや説教の会にも参加したことがない。
欧米の人にとっては教会は近い存在だと思うし、地域の教育機関の一翼も担っているのではないかと思う。
そこでの性的虐待事件の発生などは想像の外にあったし、日本の仏教界にそのような事件が存在しているとも思えないのだが、表ざたにならない事柄だけに実情は分からない。。
教会批判は欧米人にとってはタブーなのだろう。
そこに主人公たちは切り込んでいくし、この映画も切り込んでいく。
宗教問題は日本でもタブー視されている側面を感じないわけではない。
ある宗教団体を非難したばかりにラジオ番組を降板させられたキャスターもいた事実がある。
反論するパワーを持ち合わせていない皇室と違って、宗教団体は多くの信者を抱えているからその力は無視できないものがあり、政党の支持母体にもなっている。
しかしスポットライトのチームメンバーは地道な活動を通じてそのタブーに挑んでいく。
9.11の同時多発テロは世を震撼させ、彼等が追っている事件よりも優先される。
それでも彼らは諦めずに告発を成し遂げた。
禁欲生活を強いられている職種ではあるが、性的虐待が明らかになった教区の多さ、それが世界中で起きていたことには流石にあぜんとしてしまう。
本作は間違いなく地味な映画だ。
それなのにひきつけてやまないのは、記者たちの怒りや葛藤、仲間同士の絆、スクープへの情熱などが伝わってくるからである。
ドラマチックなところはないが、自分の力を100%発揮する社会人としての彼等の活動の在り方に共感する所から得られる感動があるからである。
ラストの被害者からの電話には心打たれ感動する。
派手ではないがエンタメ性も有していたと思う秀作である。

砂の器

2021-04-19 07:05:22 | 映画
「砂の器」 1974年 日本


監督 野村芳太郎
出演 丹波哲郎 加藤剛 森田健作 緒形拳
   島田陽子 山口果林 加藤嘉 春日和秀
   笠智衆 松山省二 内藤武敏 春川ますみ
   稲葉義男 花沢徳衛 信欣三 渥美清

ストーリー
1971年6月24日早朝、東京の国鉄蒲田操車場で殺害された男性の死体が発見された。
被害者の身元は不明で、事件の捜査にあたったベテランの今西刑事(丹波哲郎)と若手の吉村刑事(森田健作)は聞き込み捜査から、被害者は殺害の数時間前に現場近くのバーで若い男と一緒に酒を飲んでいたことを突き止める。
バーのホステスの証言によると、被害者は強い東北弁訛りで「カメダ」という言葉を何度も発言していたという。
東北の各県から「カメダ=亀田」姓の人物がリストアップされたが該当者はなく、今西と吉村は秋田県亀田に行ったが手がかりは何一つ発見できなかった。
その帰り、二人は列車内で天才音楽家の和賀英良(加藤剛)に遭遇する。
8月4日、何一つ手がかりのないまま捜査本部は解散、規模を縮小した継続捜査に移行する。
その日、中央線の列車の窓から一人の女が白い紙吹雪を車外に撒き散らしていた。
その娘のことを新聞のコラムで知った吉村にはある疑問が生まれた。
紙吹雪とは布切れだったのではないかと思った吉村は新聞社に問い合わせ、紙吹雪の女こと銀座のホステス高木理恵子(島田陽子)の元に向かうが、彼女は関与を否定して姿を消す。
そのバーには和賀が婚約者で前大蔵大臣令嬢の田所佐知子(山口果林)を伴って来店していた。
8月9日、被害者の身元は岡山県在住の三木謙一(緒形拳)と判明する。
しかし岡山には「カメダ」という地名はなく、三木の知人にも「カメダ」という人物は存在しなかった。
それでも今西は執念の捜査で、島根県の出雲地方には東北弁によく似た方言があり、そして亀嵩(かめだけ)という土地があることを突き止めた。


寸評
松本清張原作のサスペンスだが犯人探しの推理劇ではない。
なぜなら加藤剛が演じる和賀英良が早々に登場するので、この事件の犯人は和賀英良であることがすぐに推測されてしまうからだ。
全く関係のない主演級の人物が登場すれば大抵の人はそう思うだろう。
したがってサスペンスとしては、被害者と和賀英良の関係はどうだったのか、また和賀英良が殺人を犯す動機は何だったのかに目が向く。
時折、和賀英良の登場シーンが描かれるので、その思いは増幅されていく。
今西刑事の捜査はローカル色豊かな土地をめぐることになり、秋田県亀田、出雲地方、石川県などに通じるローカル線の風景が事件解決の困難さを感じさせる素晴らしい映像となっている。

国内においては原爆病、優生保護法による中絶など、根拠のない差別が行われてきたが、ハンセン氏病もその一つで随分と人権を無視した扱いを受けてきたことは周知の事実である。
この作品でもハンセン氏病に犯された本浦千代吉(加藤嘉)が幼い息子を連れて、迫害を受けながら放浪の旅を続ける姿が描かれる。
巡礼姿となった親子が登場すると同時に音楽監督である芥川也寸志の協力の下、菅野光亮によりこの映画の為に作曲された「宿命」が流れ出す。
ハンセン氏病の父と幼い秀夫が日本中を放浪するシーンは屈指の名場面となっている。
もっと言えば、このシーンがあるからこそ「砂の器」は名作たりえている。
四季折々の日本国中を差別を受けながら放浪する親子だが、作品はその姿を捉えるだけでセリフはなく音楽だけが流れる。
映し出される映像は過酷な旅、差別を受ける姿を描き出すと共に、父の本浦千代吉が見せる息子秀夫に対する人並み以上の愛情である。
このシーンは映像と音楽が一体化した正に映画ならではのもので、小説では絶対に表現できないものだ。
その事は原作者である松本清張氏も認めていたと聞く。
終盤の今西刑事がすべてを明かにする捜査会議と、犯人である天才音楽家が自ら指揮する協奏曲の発表会、そして彼の暗い過去でもある日本全土を貫く父と子の道行きの回想シ-ンがカットバックで描かれる構成は見事と言うほかない。
間延びすることのない展開だが、紙吹雪の女の下りは都合よすぎるように思う。

緒形拳が善良な巡査として登場するが、しかし彼の善意は必ずしも報われるものではなく、逆に不幸を呼び込むものになっているのは人の世の難しさを表していて興味深い。
三木巡査は親子を救おうとした善意によって、この親子は永遠に引き裂かれてしまっている。
父親を病院に入院させ、子供を引き取ることにするが、子供は三木巡査の元から逃げ出してしまう。
そして別人となって音楽の道で成功した主人公を偶然見つけてしまい、またもや善意によって実父との再会を熱心に勧めたことで悲劇が起きている。
一滴の水が注がれただけで崩れてしまう砂の器の如く、危うい状況の下にいるのが人間社会なのかもしれない。

ストレンジャー・ザン・パラダイス

2021-04-18 08:49:06 | 映画
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」 1984年 アメリカ / 西ドイツ


監督 ジム・ジャームッシュ
出演 ジョン・ルーリー
   エスター・バリント
   リチャード・エドソン
   セシリア・スターク

ストーリー
ウィリー(ジョン・ルーリー)はハンガリー出身で本名はベラ・モルナーといい、10年来ニューヨークに住んでいる。
ある日彼のもとに、クリーブランドに住むロッテおばさん(セシリア・スターク)から電話が入り、彼女が入院する10日間だけ、16歳のいとこエヴァ(エスター・バリント)を10日間ほど預かってほしいという電話がかかってくる。
ハンガリーからやって来たエヴァに、TVディナーやTVのアメリカン・フットボールを見せるウィリー。
彼にはエディー(リチャード・エドソン)という友達がいて、2人は、競馬や賭博で毎日の生活を食いつないでいる。
エヴァの同居をはじめ迷惑がっていたウィリーも、彼女が部屋の掃除や万引きしたTVディナーをプレゼントしてくれるうちに、親しみを覚えていった。
約束の10日が経ち、エヴァはクリーブランドへ旅立っていった。
1年が経った頃、ウィリーとエディーは、いかさまポーカーで大儲けして、借りた車でクリーブランドヘ向った。
クリーブランドは雪におおわれており、ロッテおばさんの家で暖まった2人は、ホットドッグ・スタンドで働いているエヴァを迎えに行く。
エヴァと彼女のボーイフレンドのビリー(ダニー・ローゼン)とカンフー映画を見に行ったりして数日を過ごした後、ウィリーとエディーは、ニューヨークに帰ることにするが、いかさまで儲けた600ドルのうち、まだ50ドルしか使ってないことに気づき、エヴァも誘つてフロリダに行くことにする。
サングラスを買って太陽のふりそそぐ海辺に向かい、2人分の宿賃で安モーテルにもぐり込む3人。
翌朝、エヴァが起きるとウィリーとエディはドッグレースに出かけており、有り金を殆どすって不機嫌な様子で戻って来たが、やがて競馬でとり返すと言って彼らは出て行った。
エヴァは土産物店でストローハットを買うが、その帽子のために麻薬の売人と間違えられ大金を手にする。


寸評
「The New World」、「One Year Later」、「Paradise」という3部構成になっている。
エヴァはハンガリーからニューヨークにやって来るが、地図も持たないでウィリーの住むアパート二向かっているのが不思議だったが、向かった先は僕たちがイメージするニューヨークではなく、どこかの田舎を思わせるような寂れた場所で、そこはたぶんダウン・タウンの一角なのだろう。
危険だから通りの向こうには行ってはいけないと言っているから、かなり危ない場所の様である。
そこでウィリーとエヴァの生活が始まるが、気がつくのは彼らがいたって無表情なこと。
やる気があるのか、ないのか、若者らしさを感じさせないけだるい仕草に、彼等の生き方の片りんを感じさせる。
気怠な生き方がモノトーンの画面を通じて強調され、映像と演出手法は実験映画の様でもある。
そして場面の切り替えはフェードアウトや、カットの切り替えではなく、暗転で行われていることも特徴のひとつだ。
それはあたかもアルバムを見開くような感覚をもたらし、暗転は時間の経過を表す役目を負っている。

ウィリーは正業を持っていないようだし、エヴァもTVディナーと称するテレビを見ながら食事をするための食材を万引きしてきているから、ともに不良っぽいところがあり、彼等の居住区はそのような場所なのだろう。
親しみさが増していっているのか、相変わらず気まずい雰囲気が残っているのかが微妙な関係が続くが、エヴァの万引きに感心したり、趣味の悪いドレスをプレゼントするなどの行為を通じて、感情表現が豊かではないが、これが彼等の気持ちの表現方法なのだろうと思えてくる。
エヴァが去ってしまった後に、ウィリーがエヴァに何かを言おうとして言えないでいるシーンなどは、むしろ繊細な若者の心の内を見せていたように思う。
面白いのは、ウィリーと友人のエディーが競馬の予想をするシーンだ。
そこで出走馬を読み上げるが、有力馬は「トウキョウ・ストーリー」である。
直訳すれば小津の名作「東京物語」となり、じっくり見返すと、その他に「Late Spring(晩春)」「Passing Fancy(出来ごころ)」と小津安二郎監督作品と思われる出走馬がいたので、ジム・ジャームッシュ監督は小津安二郎を敬愛していたのかもしれない。

ウィリーとエディーは大金を手に入れ、ニューヨークからクリーブランドにいるエヴァのもとを訪ねようとするが、出発間際で通行人をからかうようなことをやらかす。
一方でエディーは、エヴァが自分のことを覚えていてくれるかどうかを気にしたりする。
これら一連のドライブシーンでは無軌道だがナイーブな若者像が描かれていたように思う。
クリーブランドではエヴァを巡って、恋のさや当てのようなことも起きるが、ユーモアを感じさせる点描で茶化していて、何か起きそうで何も起きない日常を描いていて、それは実社会でも大抵の場合そうなのだ。
フロリダに到着してからは正に塞翁が馬状態で、今まで何も起きなかったことを埋め合わせするように、凶と出れば吉になり、それがまた凶となるような展開が繰り広げられる。
お互いに気になっているのだが、どこか素直になれず、それがちょっとしたズレで微妙な行き違いを生じさせていくという滑稽さが描かれる。
何が起きるでもない日常の出来事をユーモアを交えながら紡いでいく演出は、日本映画においては小津が得意とするところであったが、ジム・ジャームッシュの演出手法には小津の影響があるのかもしれない。

スタア誕生

2021-04-17 05:48:35 | 映画
「スタア誕生」 1954年 アメリカ


監督 ジョージ・キューカー
出演 ジュディ・ガーランド
   ジェームズ・メイソン
   ジャック・カーソン
   アマンダ・ブレイク
   チャールズ・ビックフォード

ストーリー
有名な映画スター、ノーマン・メインがハリウッド映画基金募集ショーの会場に酔って現れた。
撮影所長ニールは宣伝部長リビーに命じ、メインの出場を抜いて番組を進めさせたが、メインは舞台に飛び出してしまった。
出演していたジャズ歌手のエスターは酔ったメインを巧みにリードしてその場をうまくとりなした。
家に送り帰されたメインは真夜中町に出、ダウンビート・クラブで歌うエスターに会って映画出演をすすめた。
ヴィキー・レスターの芸名で出演したミュージカル映画は大成功で、彼女の名は一躍有名になった。
メインとエスターは結婚し、2人は幸福であると思われた。
しかし、メインの酒量は上るばかりで人気は次第に落ち、反対にエスターの人気は旭日昇天の勢いだった。
そしてついにアカデミー主演女優賞を獲得した。
授賞式の夜、メインは酒に酔いしれて現れ、エスターをやゆし、頬を打つまでの醜態を演じた。
メインはアルコール中毒治療のため病院に入った。
だが、ふと会った宣伝屋リビーに面罵され、その衝撃をまぎらわすためまた酒浸りになった。
そのあげく、警察に留置され、エスターと撮影所長の尽力で釈放される有様だった。
メインは海岸の自宅へ帰って静養していたが、エスターが女優を辞めて妻としてメインに尽くすと撮影所長に語るのをきき、エスターの愛情の深さに打たれた。
その夕方、メインは海に入って自殺した。
エスターの嘆きは一方ならぬものであった。
が、友人のダニーから、メインの死はエスターの成功を祈る心から出たと説ききかされた。
そして彼女はハリウッド映画救済資金のショーにノーマン・メイン夫人として華華しくカムバックしたのだった。


寸評
ジュディ・ガーランドと言えば先ず「オズの魔法使」のドロシー役が思い浮かび、本国のアメリカでは今でも人気のある作品の様だが日本人好みの作品でないように思う。
したがって僕はこの作品の方が自分の感性に合っている。
ジュディ・ガーランドは人気女優ではあったが、私生活では薬物や性的なスキャンダルが多かった女優でもある。
47歳で睡眠薬の過剰摂取によりバスルームで死去し、自殺と思われているから最後までスキャンダラス女優だったことになる。

ここでのジュディ・ガーランドは撮影中に問題も起こしていたようだがなかなかいい。
ミュージカル映画だが歌うのはジュディ・ガーランドだけと言っても過言でない。
劇中映画の中であったり、撮影スタジオでの撮影中の模様だったりで、劇中劇の中で歌われるミュージカル・ナンバーと言った風で、今見ると古いタイプのミュージカル映画といった感じを受ける。
監督の了承のもとに公開時カットされた部分も付け加えられたが、フィルムを紛失していた部分はスチール写真に置き換えられている。
知らないで見ると何か斬新な演出のように感じ、どうしてこのシーンをスチールにしたのだろうと想像を巡らせて見ていたが、調べてみるとそのような事情だった。

ノーマン・メイン (ジェームズ・メイソン)はアルコール中毒気味だがハリウッドの人気俳優で、撮影所の中に自分専用の建物を用意されているぐらいなので、専属俳優の中でも大スターだと言うことがわかる。
(日本でも五社が健在だったころには、スタジオに大物俳優だけの個室があてがわれていたと聞く)
エスター・ブロジェット(ジュディ・ガーランド)はノーマンに見いだされヴィッキー・レスターとして売り出す。
ノーマンの心配りで主演女優の代役を射止めスターダムに駆け上がる。
無名の女の子が見出されてスターダムを上り詰めるというストーリーは珍しいものではない。
文字通り、タイトル通りのスタア誕生物語である。

ノーマンとエスターが結婚するくだりは微笑ましい。
人気スター通しの結婚だが、やがてノーマンはアルコールによる悪行がたたり干されていく。
ヴィッキーとなったエスターは人気が急上昇で忙しい。
廻りの人々のノーマンを見る目が違ってきて、ヴィッキーの夫とみられるだけになり仕事もない。
ヒモ状態をののしられ、酒浸りとなり更生施設に入院となってしまうが、エスターのノーマンへの愛は不変である。
その愛の深さを知ったノーマンは彼女を思いながら自殺してしまう。
人々の興味をよそに彼女は嘆き悲しみ自宅に閉じこもってしまうが、バンド仲間だったダニーに励まされチャリティショーに出かける。
司会者が夫を亡くしたばかりのヴィッキーが欠席すると会場に伝えたところで、ヴィッキーがやってくる。
そしてヴィッキーは「ノーマン・メイン夫人です」と自己紹介するのだが、このシーンは泣かせる。
僕などは思わず涙がこぼれてしまった。
途中で少しだれるところもあるが、このラストシーンは感動的だった。

スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐

2021-04-16 07:50:02 | 映画
「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」 2005年 アメリカ


監督 ジョージ・ルーカス
出演 ユアン・マクレガー
   ナタリー・ポートマン
   ヘイデン・クリステンセン
   イアン・マクディアミッド
   サミュエル・L・ジャクソン
   ジミー・スミッツ

ストーリー
全銀河を揺るがすクローン戦争の勃発から約3年が経過し、戦争は銀河共和国優位の情勢にあった。
オビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)とアナキン・スカイウォーカー(ヘイデン・クリステンセン)は、ドロイド軍の人質となったパルパティーン最高議長(イアン・マクダーミド)を救出する命懸けの任務を遂行する。
ジェダイの騎士でありながら、妊娠した美しい元老院議員パドメ・アミダラ(ナタリー・ポートマン)と密かに結婚し、二重生活を送っている秘密を抱えることになったアナキン。
そんな彼に、パルパティーンはパドメを失う恐怖心を利用しながら、フォースの禁断の力、ダークサイドについて語って聞かせる。
実はパルパティーンは、シスの暗黒卿ダース・シディアスと同一人物だったのだ。
メイス・ウィンドゥにその事を報告したアナキンだったが、パドメを想うがあまりにパルパティーンの誘惑に屈して暗黒面に堕ちたアナキンは、シスの暗黒卿としての新たな名「ダース・ベイダー」を与えられる。
ダース・シディアスはジェダイの騎士メイス・ウインドゥ(サミュエル・L・ジャクソン)の対決の際、卑怯な手を使ってメイスを殺すが、ここからダークサイドのパワーがアナキンに取り憑いていく。
愛や正義の念ゆえにシス側に操られ、やがてジェダイを信用しなくなったアナキンは、師匠オビ=ワンと対決。
アナキンはオビ=ワンに片腕と両脚を斬られ、全身火だるまになる。
瀕死のアナキンはダース・シディアスに助けられ、手術を受けてダース・ベイダーとして再生した。
一方、パドメは双子の男女を産んで息絶える。
ルークとレイアと名付けられたその2人の赤ん坊は、別々の両親のところへ養子として引き取られていく。


寸評
新シリーズの最終章で、旧三部作の入り口といった内容で、新シリーズの中では一番楽しめる。
激化する共和国と独立惑星連合との戦いを軸に、主人公アナキンがダークサイドに落ちていく過程を悲劇的に描いていく流れの中で、愛するパドメ・アミダラとの恋の行方、師匠であり友であるオビ=ワン・ケノービとの別れなど、あらゆる登場人物の運命を一気に描いた見ごたえたっぷりの超大作である。

ストーリー運びは前作、前々作同様うまくないので、あらかじめある程度の予備知識を持っておいたほうがよい。
そもそも新シリーズは旧三部作を見ていることが前提となっているように思う。
なんといってもエピソード3は、主人公アナキンが悪の権化ダースベーダーに変わっていくというのがテーマで、彼の心理の移り変わりというのが最大の見所だ。
何気ない会話シーンでさえ、背後には無数のクリーチャーや宇宙船がひしめいているという、圧倒的なVFXの情報量がその見どころを支えている。
僕たちはダース・ベイダーがルーク・スカイウォーカーの父であるアナキン・スカイウォーカーであることを知っているわけで、ダース・ベイダー誕生秘話こそが新シリーズであるアナキン編の最大のテーマとなっている。
その誕生秘話を3作を費やして描いてきたわけだから、やはり新シリーズの中ではエピソード3がストーリー的にも群を抜いている。

僕たちはパドメがルークとレイアという双子を出産することや、生まれた赤ん坊が別々に育てられることも知っているので、パドメがアナキンの子供を産む場面にはあまり感動しない。
パドメは強い女性だったのにアナキンがダークサイドに堕ちてしまっただけで精神的に参って、生きる意志をなくしてしまって死んでしまうのは、パドメってそんなにメンタルが弱かったっけと突っ込みを入れたくなった。

コマンダー・コーディーが、オビ=ワンに落としたライト・セーバーを「これが無いと困るでしょう」と笑顔とともに渡すシーンがあって、その直後にパルパティーンから連絡を受けたコーディがオビ=ワンを撃ち殺す即裏切り行動をとることで、パルパティーンの支配が行き届いていること、またパルパティーンへの絶対忠誠が描かれていたと思うのだが、一方でパドメを失ったアナキンがそれでもダークサイドにとどまる理由がイマイチ分からなかった。
もうすっかりシスになってしまっていたということなのだろうか。
アナキンの行動には説得力に欠けることが多く、アナキンが暗黒面に堕ちダース・ベイダーが誕生するという決定事項のために無理矢理ドラマを動かしている感は否めない。
それでも終盤のアナキン対オビ・ワン、ヨーダ対ダース・シディアスという2つの闘いが交錯する演出はなかなか見応えがあり、新三部作の中では一番出来栄えがいいと思う。

生まれたルークとレイアがそれぞれ引き取られ、旧三部作に引き継がれるラストとなっていた。
余談であるが、知り合いの娘さんがアメリカ人と結婚し、生まれた女の子にこのシリーズのレイア姫から名前をとってレイアと名付けたそうである。
大きくなっても名前の由来を語れるくらいこのシリーズは映画史に残るシリーズなのだとは思う。