おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

プロミスト・ランド

2024-07-11 06:20:07 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/1/11は「八月の濡れた砂」で、以下「8 1/2」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「バックドラフト」「はつ恋」「初恋のきた道」「ハッシュ!」「パッチギ!」「パットン大戦車軍団」「ハッピーアワー」と続きました。

「プロミスト・ランド」 2012年 アメリカ 

                                   
監督 ガス・ヴァン・サント                        
出演 マット・デイモン ジョン・クラシンスキー
   フランシス・マクドーマンド ローズマリー・デウィット
   ハル・ホルブルック ベンジャミン・シーラー
   テリー・キニー タイタス・ウェリヴァー

ストーリー
大手エネルギー会社の幹部候補であるスティーヴ(マット・デイモン)は、仕事のパートナー、スー(フランシス・マクドーマンド)とともに、農場以外はなにもない田舎町マッキンリーへやってきた。
実は、マッキンリーには良質のシェールガスが埋蔵されているのだ。
スティーヴの目的は、その採掘権を町ごと買い占めること。
スティーヴたちは、近年の不況で大きな打撃を受けた農場主たちから相場より安くその採掘権を買い占めようとしていた。
農業しかないこの町で、不況に喘ぐ農場主たちを説得するのは容易なことと思われた。
地元有力者への根回しも欠かさず、交渉は順調に進んでいく。
ところが予期せぬ障害が立ちはだかることになった。
科学教師フランク(ハル・ホルブルック)が採掘に反対し賛否は住民投票にゆだねられることになった。
さらに他所から乗り込んできた環境活動家ダスティン(ジョン・クラシンスキー)が加勢し、思わぬ苦境に立たされるスティーヴだった
さらにスティーヴは、仕事への信念と情熱を根本から揺るがすような衝撃の真実を知ってしまい……。
ふと訪れた町で、図らずも自分の生き方を見つめ直す必要に迫られたスティーヴは、果たしてどんな決断を下すのか?


寸評
印象に残るのは、或る農夫が言う「あんた達はマンハッタンやフィラデルフィアなどでは井戸は掘らないだろう。ここが貧しい田舎だからお前達はやってくるのだ」の言葉だ。
僕はこの言葉を聞いて福島の原発を思い起こしてしまい、作品が身近なものに思えてきたのだ。
シェールガスという今時のテーマもった映画なのだが、結構普遍的なテーマでもあったと思う。
実際、私も高校生の頃に母親と共に河川改修に伴う立ち退き交渉にのぞんだことが有り、その時のことを思い出したりした。
その時の立ち退き交渉も、ここに描かれた交渉とさして違わぬものだった。

金を武器に貧しい町の町民に取り入り、持ち上げたり、脅したり、有力者に賄賂を贈ったりするスティーヴたちのやり口が赤裸々に描かれる。
時にはハッタリをきかせ安く買いたたき、マージンを低く設定していく。
しかしそれを悪と感じさせないのは、スティーヴのよかれと思ってやっている買収工作の姿に違和感を持たないからだ。
マット・デイモンが演じるスティーヴは全体的にはいい奴として描かれているが、一面では嫌悪感を持たれないような身なりにし、適当なウソもつくし、すごんだりもする一面を見せる。
彼がついていたと思われるウソが終盤になって大きな要素を持つが、これはこの映画の持つエンタメ性によるものだろう。
この二重人格的な主人公設定が作品を面白くしている。

日本でも昨今は地方再生が叫ばれている。
地方は貧しいし、若者が留まらない。
それは、そこに産業がないからで、働く場所がないからだ。
産業誘致は地方にとって再生の有力な手段の一つではある。
誘致に成功すれば莫大な金が地元に落ちることもまた事実で、僕は北陸を旅した時に福井の原発立地地域を見てそのことを痛感した。
福島の原発事故発生前のことだ。

映画は石炭や石油に代わるクリーンエネルギーといわれるシェールガスだが、その採掘方法は本当に安全なのか、あるいは住民に支払われる金は妥当な金額なのかなどの問題提起をしているようでもある。
福島も職場が出来、環境整備も行われ、箱物を含め多額の資金も地元にもたらしていたのだ。
そして誘致時には原発の安全性は大いに語られていたはずだが事故は起き、町の復興の目処は立っていない。
う~ん、地方再生は難しい…。
誰が考えても素晴らしいことなら躊躇することはない。
メリットが有れば、デメリットもあるというのが世の常だ。
ラストのマット・デイモンのつぶやきは、作者の良心でもあり苦悩でもあったような気がする。
色んな人々が登場したが、僕はアリスなる女性が人として一番魅力的に思えた。

プリズナーズ

2024-07-10 07:16:06 | 映画
「プリズナーズ」 2013年 アメリカ

                                             
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ                                    
出演 ヒュー・ジャックマン ジェイク・ギレンホール
   ヴィオラ・デイヴィス マリア・ベロ
   テレンス・ハワード メリッサ・レオ ポール・ダノ
   ディラン・ミネット ゾーイ・ソウル

ストーリー
感謝祭の日、平穏な田舎町に暮らすケラー・ドーヴァ(ヒュー・ジャックマン)とグレイス(マリア・ベロ)夫妻の6歳になる愛娘が、隣人のフランクリン・バーチ(テレンス・ハワード)、ナンシー(ヴィオラ・デイヴィス)夫妻の娘と一緒に忽然と姿を消してしまう。
警察は現場近くで目撃された怪しげなRV車を手がかりに、乗っていた青年アレックス(ポール・ダノ)を逮捕する。
しかしアレックスは10歳程度の知能しかなく、まともな証言も得られないまま釈放の期限を迎えてしまう。
ケラーは釈放されたアレックスの発した言葉や口ずさむ替え歌から彼が犯人であることを確信する。
しかし、一向に進展を見せない捜査に、ケラーは指揮を執るロキ刑事(ジェイク・ギレンホール)への不満を募らせていく。
そして自ら娘の居場所を聞き出すべく、ついにアレックスの監禁という暴挙に出てしまうケラーだったが…。


寸評
名作「羊たちの沈黙」を髣髴させる面白さと風格を持っていて、ワンシ-ン、ワンシーン、一言一句に意味が有り153分の長尺を全く飽きさせない。
ロキ刑事はハリー・キャラハンやジョン・マックレーンのようなスーパー刑事ではない。
その分、リアリスティックな刑事であり、彼は沈着冷静に地道な捜査を進めていく。
それとは対照的に、暴走していく父親を描いて対比することで異常な状況を一層盛り上げる。
オリジナル脚本ということだが、兎に角ストーリーが滅法面白い。
そのストーリー展開だけでも十分に観客を引き込んでしまう。

この映画のキャッチコピーの一つに”この映画、人ごとじゃない”とあるが、孫たちを滅茶苦茶に可愛く思っている自分が同じ立場になったら、はたしてあそこまでやれるだろうかと不安になってしまう。
ケラーの行為は罪に問われるのだろうが、それでも妻のグレイスに「私は感謝しています」と言わせている。
一言々々が大きな意味を持っていたと後で分かるのはミステリー映画の常道だけれど、適度の間隔でうまく散りばめられていた。
何の繋がりもないような事件が思いがけない形でからんでくるのも常道と言えば常道だが、それがあざとくないのがこの作品のいいところ。
新聞記事と雨のシーンが度々登場するが、新たな展開と息苦しさをうまく表現していたように感じた。
最悪の結末も有りうるのだと思わせ続ける演出もいい。

フェードアウトでそのシーンの後をくどくど描かないのもかえって雰囲気を醸し出していていい。
その手法はラストシーンでも生きていて、”おお!なかなかいいじゃないか!”と無言の内に叫んでしまいたい衝動にかられた。
ホイッスルという小道具を登場させた以上、最後の結末は容易に想像できるが、その描き方にはセンスを感じた。
日本映画だと絵空事に思えてしまいそうな話なのだが、アメリカ映画だと妙に真実味を感じてしまうのは僕のアメリカ社会に対する偏見なのだろうか。

アレックスは二重の意味でプリズナー(捕虜)だったのだけれど、完全主義者的なケリーもまたそれゆえに目をそむけることが出来ず狂気に走ってしまうプリズナー(自由を奪われた人)だったのだろう。
タイトルの複数形はそういうことではなかったか・・・。
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、前作の「灼熱の魂」も良かったけれど、こっちもそれを上回る出来栄えだった。

プロデューサーズ

2024-07-09 08:01:44 | 映画
「プロデューサーズ」 2005年 アメリカ 

 
監督 スーザン・ストローマン
出演 ネイサン・レイン マシュー・ブロデリック
   ユマ・サーマン  ゲイリー・ビーチ
   ウィル・フェレル ロジャー・バート

ストーリー
1959年、ニューヨーク。
かつてはブロードウェイで栄光を極めたものの今やすっかり落ち目のプロデューサー、マックス・ビアリストック。
製作費を集めるため、今日も有閑老婦人のご機嫌とりに悪戦苦闘。
そんな彼のもとに異常に神経質な小心者の会計士レオ・ブルームが訪れた。
さっそく帳簿の整理を始めた彼は、ショウが失敗したほうがプロデューサーは儲かる場合もあるという不思議なカラクリを発見する。
それを聞いたマックスは、大コケ確実のミュージカルを作り200万ドルの出資金を丸ごといただいてしまおうとレオに協力を持ちかける。
一度は拒否したレオだったが、小さい頃からの夢だったブロードウェイのプロデューサーになるチャンスと思い直し、マックスのもとへと舞い戻る。
かくしてレオとマックスは史上最低のミュージカルを作るべく、まずは史上最低の脚本選びに取り掛かると、またとない最低の脚本「春の日のヒトラー」が見つかるのだが…。


寸評
話自体は単純で、特別な盛り上がりが有るわけでも無いのに間延びしない演出はスゴイ。
導入部などはイマイチ乗り切れないのに、134分の長丁場を時間を気にすることなく引っ張っていく。
気がついてみたらエンディングロールが流れていたのだ。
これは個々の役者の奮闘以外の何者でもない。
マックス・ビアリストック役のネイサン・レインのミュージカルならではのオーバー演技に引き込まれてしまう。
ナチス信奉者を演じるウィル・フェレルやユマ・サーマンの演技はともかくとして、レオ・ブルーム役のマシュー・ブロデリックが毛布の切れ端を使って神経質な面を演じるのも、本来なら鼻についていた筈なのに、これもまた二人のやり取りの間と相まっていつの間にかその世界に溶け込んでしまっている。
これはミュージカル映画だからと暗黙の了解の下で納得させられ、いつの間にかスクリーンに引き込まれていて、そしてエンディングを迎えてしまっていた。
この力量というか、底力と言うか、裾野の広さというか、アメリカが抱えているショービジネスの懐の深さを感じてしまうのだ。

ビアリストックのパトロンであるばあさん達のダンスは印象的だったし、スウェーデン娘のウラを演じたユマ・サーマンは「キル・ビル」なんかより、ずっと可愛くってよかった。
「我が闘争」を薦め、アマゾンを紹介するのはシャレなんだろうけれど、最後の最後になって劇場ミュージカルを見終わった気分にさせてくれるサービスにニヤリとさせられてしまう。

フューリー

2024-07-08 07:14:38 | 映画
「フューリー」 2014年 イギリス

                                                
監督 デヴィッド・エアー                                       
出演 ブラッド・ピット シャイア・ラブーフ ローガン・ラーマン
   マイケル・ペーニャ ジョン・バーンサル
   ジェイソン・アイザックス スコット・イーストウッド
   ジム・パラック ラッド・ウィリアム・ヘンケ

ストーリー
1945年4月、第二次世界大戦下。
ドイツ軍が文字通りの総力戦で最後の徹底抗戦を繰り広げていたヨーロッパ戦線。
戦況を優位に進める連合軍も、ドイツ軍の捨身の反転攻勢に苦しめられていた。
ナチス占領下のドイツに侵攻を進める連合軍の中にウォーダディー(ブラッド・ピット)と呼ばれる米兵がいた。
長年の戦場での経験を持ち、戦車部隊のリーダー格存在である彼は、自身が“フューリー”と名付けたシャーマンM4中戦車“フューリー号”に3人の兵士と共に乗っていた。
ある日、ウォーダディーの部隊に新兵のノーマン(ローガン・ラーマン)が副操縦手として配属される。
だが彼はこれまで戦場を経験したことがなく、銃を撃つこともできない兵士であった。
繰り返される戦闘の中、想像をはるかに超えた戦場の凄惨な現実を目の当たりにするノーマン。
5人の兵士たちがぶつかりあいながらも絆を深めていく中、ドイツ軍が誇る世界最強のティーガー戦車がたちはだかる。
やがて彼らはドイツ軍の攻撃を受け他部隊はほぼ全滅となる。
なんとかウォーダディーの部隊は生き残るが、300人ものドイツ軍部隊が彼らを包囲していた。
そんな状況下、ウォーダディーは無謀にも“フューリー”で敵を迎え撃つというミッションを下す…。


寸評
映画が始まる前に米軍の戦車シャーマンがドイツ戦車ティーガーに劣っていたことがテロップされる。
そんな中での戦車戦が繰り広げられるが、戦車バトルを追求した戦争アクション映画ではない。
新兵が一人前の兵士に成長する話がメインではあるが、それが圧倒的な説得力を持つのは指導役とも言うべきブラッド・ピットが魅力を放っているからだ。
彼は戦場における勧善懲悪、スーパーヒーロではない。
新兵のノーマンに人を殺す事から教え始めるとんでもない上官である。
無抵抗の独軍捕虜を自分も手伝いながら無理やり射殺させる。
捕虜は家族がいるから助けてくれと写真を見せるが、その写真を叩き落して射殺する。
侵攻した村では美しいドイツ娘をノーマンに抱かせる。
生きて帰る為の強いリーダーなのか狂人なのか分からない。
そのくせ作戦、命令には忠実で激戦地にためらいもなく進んでいく。
戦場はそんな人間を育ててしまうのかもしれない。
ノーマンはその象徴だ。
これは戦争映画ではなく戦場映画なのかと言いたくなるくらい、戦場のリアルな様子が映し出される。
よくある戦死者の十字架を建てた埋葬シーンなど出てこない。
前線ではそんな事が出来ないくらいの死者が出ているのだ。
彼等はブルドーザーでもって一気に掘り起こされた穴の中に投げ入れられる。
そんな様子が兵士がうごめく背景として映し出され、戦車は死者をためらいもなく押しつぶして行く。
これが現実の戦場だと叫んでいるようでもあり、イスラム国に志願した日本人男性に見せたい気分だ。

戦闘シーンはとてつもない恐怖と興奮を与える。
弾がどこから飛んでくるかわからない。
跳弾の表現も臨場感を出し、貫通力を重視した対戦車砲の描き方も迫力がある。
5人のヒューマンドラマと言うよりも、不十分な戦力で攻撃をいつくらうかわからない恐怖に襲われながら進軍する過酷な戦場の物語のように感じた。
したがって、連合軍、ドイツ軍、どちらにも過剰に肩入れせず、かといって突き放しもしていない。
最後のドイツ兵士の行動などを見ると、独軍=悪という単純構図ではないことが分かる。
これもよくある戦場のセンチメンタリズムではあるのだが、不思議とこれが都合主義には見えない。
舞台はDデイも終わって連合軍がベルリンを目指していたヨーロッパ戦線の終結4週間前だが、まだ死闘が繰り返されている。
ウォーダディーは「戦争は終わる。その前に大勢の人間が死ぬ」と言う。
もうすぐ終わるという時期に、大勢の人間が死んでいった事実を突き付けられる。
ドイツ娘との食事や交流、教育的指導による殺人など一見妙なエピソードも必然性というものを感じてしまう不思議さがある。
それでもやはりアメリカ万歳的なメッセージが見え隠れすると感じてしまうのは、アメリカの戦争映画に対する先入観がもたらしているものなのだろうか?
ラストはちょっと拍子抜けした。

ブッシュ

2024-07-07 07:12:45 | 映画
「ブッシュ」 2008年 アメリカ           

     
監督 オリヴァー・ストーン                         
出演 ジョシュ・ブローリン エリザベス・バンクス
   ジェームズ・クロムウェル エレン・バースティン
   リチャード・ドレイファス スコット・グレン
   タンディ・ニュートン ジェフリー・ライト
   ブルース・マッギル デニス・ボウトシカリス

ストーリー
多くの政治家を輩出してきたアメリカの名門ブッシュ家。
“W”(ダブヤ)ことジョージ・W・ブッシュも、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの長男として重い期待を背負っていた。
しかし、偉大な父親の影に早々に押しつぶされていく。
父と同じ名門エール大学には入ったものの、在学中も卒業後も厄介事ばかりを引き起こし、いつしか家名を汚す不肖の息子となり果て、父の期待は弟ジェブにばかり向けられるようになる。
それでも、1977年にようやく“家業”の政治家を目指す決意を固めたW。
同年、生涯の伴侶となる図書館司書のローラとの出会いも果たす。
その後、88年の大統領選を目指す父の選挙戦を手伝うことになったWはその勝利に貢献するが、父の背中はますます遠ざかり、自分の存在はますます小さくなっていくと落胆する。
そんなひがみ根性が募る中、Wは“お前が大統領になるのだ”と神の啓示を聞いてしまい…。


寸評
つい先日まで政権の中枢にいた人々が実名で登場するのに驚く。
日本では作れない映画の一つだ。
ブッシュ前大統領はイラク政策の失敗があって決してよい大統領でなかったと思うのだが、この映画を見ると彼も実に人間的な弱さを持ったかわいげのある男だったと思わせる。
映画はイラク攻撃を馬鹿げた議論で決定していく様と、彼の生い立ちにおける苦悩を交互に描きながら、この男がアメリカ大統領であったことの不幸を描き出す。
それでも、父親への反感、兄弟間の競争、二人の子供への両親の期待度の違いなど、ごく普通に存在する家庭内の問題にむしろ目が行く。
彼もかわいそうな男だったんだなあの思いだけが残る。
イギリスのトニー・ブレアと散策しながら協力を要請し、フランスのシラク大統領には拒絶され、ロシアのプーチン大統領には慰められるところなども面白い。
「フランスが何か言った時には絶対に反対してやる」には笑った。
日本も喧々諤々だったイラク問題だが、各国の協力度合いの報告を受け、地雷除去の猿を送ってくる国もある中で「日本は調査団を派遣」とだけ触れられる。
もちろん小泉首相との対談シーンはない。
アメリカにとっての盟友はやはりイギリスなのだ。
この映画を見ていると、もちろん最終決定権者は大統領だから彼の責任ではあるのだが、イラク問題に関して言えばチェイニーが一番悪いんじゃないか?
どうもアメリカも中国もロシアも中華思想があってその覇権主義は、僕にとってそれらの国々を好きになれない国家としている。

フォックスキャッチャー

2024-07-06 08:10:19 | 映画
「フォックスキャッチャー」 2014年 アメリカ

               
監督 ベネット・ミラー                 
出演 スティーヴ・カレル チャニング・テイタム マーク・ラファロ
   シエナ・ミラー ヴァネッサ・レッドグレーヴ ガイ・ボイド
   アンソニー・マイケル・ホール ブレット・ライス        

ストーリー
1984年のロサンジェルス・オリンピックで金メダルを獲得したレスリング選手、マーク・シュル(チャニング・テイタム)。
しかし、マイナー競技ゆえに練習環境にも恵まれず苦しい生活を送っている。
同じ金メダリストでマークが頼りにする兄のデイヴ(マーク・ラファロ)も、妻子ができて以前のように付きっきりというわけにはいかない。
いまや、次のソウル・オリンピックを目指すどころか、競技を続けるのもままならなかった。
ある日アメリカを代表する大財閥の御曹司ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)からソウル・オリンピック金メダル獲得を目指したレスリングチーム“フォックスキャッチャー”の結成プロジェクトに誘われる。
自身のトレーニングに専念できること、そして彼が崇拝する兄デイヴの影から抜け出すことを願うマークにとってそれは夢のような話であった。
マークは最先端トレーニング施設を有するデュポンの大邸宅に移り住み、ようやくトレーニングに集中できる理想的な環境を手に入れたかに思われた。
名声や孤独、欠乏感を埋め合うよう惹き付け合うマークとデュポンだったが、デュポンの移り気な性格と不健全なライフスタイルが徐々に二人の風向きを変えていく。
そんな中、マークと同じ金メダリストであるデイヴがチームに参加。
だが、次第にデュポンの秘めた狂気が増幅され、誰もが予測できなかった事態へと発展していくのだった…。


寸評
この映画で何よりも強烈印象を残すのが、デュポンという男の異様な雰囲気だ。
無表情で何を考えているかわからない感じで、登場シーンから、圧倒的な不気味さが漂う。
「羊たちの沈黙」のレクター博士を彷彿させるが、デュポンの方が無表情かもしれない。
彼はレスリングにとりつかれていて、金メダリストを養成することで地位と名声を得ようとしている。
大富豪のワガママなのか、道楽なのか、はたまた精神異常なのか分らないデュポンの気味悪さは観ていてもゾッとする。

異様な雰囲気はデュポンが母親に対して屈折した感情を持っており、またマークも兄に対して同様の感情を持っていることだ。
母親はレスリングを嫌っている。
自分が愛する乗馬は高貴でレスリングは醜いとの偏見を持っているようで、デュポンにはそれが我慢ならない。
マークは常に兄の庇護下に在り、彼の勝利も兄への賞賛に変わることでコンプレックスを感じている。
デュポンは支配者として君臨することを望み、自己顕示欲を隠さず、強い愛国者であることを示そうとする。
やがてマークはデュポンに支配されていくようになっていく。
コカインを吸えと言われても拒絶することができない。
その不気味な雰囲気の中で、デュポンの心の闇が少しずつ見えてくるのだが、その狂気を演じたスティーヴ・カレルが素晴らしい。
ホラーのような怖さを出しつつ、観客に彼の心の奥底を色々と想像させるのだ。

彼等の人格を形作ったであろう過去の生い立ちなどは一切描かれない。
またデュポンがデイヴを射殺する理由も明確に示しているわけではない。
それゆえ、人間というものの不可解さを思い知らされる。
映画は最初から最後まで重苦しい雰囲気で進む。
そしてラストは救いようがない。
実際に起きた事件と、その後の顛末がそうなのだから仕方がないのかもしれないが、やりきれないものがある。
日本では吉田沙保里さんのようなスーパーヒロインがいたこともあって、結構注目されている競技だが、アメリカでは全くのマイナー競技で、そのマイナー性が引き起こした事件だったとも言えるのではないか。

ファーナス/訣別の朝

2024-07-05 06:43:58 | 映画
「ファーナス/訣別の朝」 2013年 アメリカ  

                               
監督 スコット・クーパー                                       
出演 クリスチャン・ベイル ウディ・ハレルソン ケイシー・アフレック
   フォレスト・ウィテカー ウィレム・デフォー ゾーイ・サルダナ
   サム・シェパード デンドリー・テイラー ビンゴ・オマリー

ストーリー            
アメリカ・ペンシルベニア州の田舎町ブラドックは溶鉱炉(ファーナス)が立ち並ぶさびれた鉄鋼の町で、不況の波が押し寄せていた。
ラッセル(クリスチャン・ベイル)は白煙を吐き出す溶鉱炉が立ち並ぶこの町で生まれ育ち、老いた父の世話をしながら製鉄所で働いていた。
恋人リナ(ゾーイ・サルダナ)の存在を励みに、貧しくも真っ当な人生を送っていた。
そんな彼の気がかりは、イラクから帰還した弟ロドニー(ケイシー・アフレック)。
仕事もせずにギャンブルに手を出して借金を重ねていた。
問題ばかりを起こす弟の尻ぬぐいに奔走するラッセルだったが、不注意で人身事故を起こしてしまい収監されてしまう。
数年後、ラッセルがようやく出所したとき、彼がギリギリで守ってきた平穏な生活は跡形もなく消え去っていた。


寸評
重い話に重厚な音楽が重なる重たい映画だ。
物語の場所は不況に苦しむ工場地帯で、赤茶けた製鉄所の風景が時折挿入され映画の雰囲気を醸し出していた。
前半はそこで暮らす最下層と思われる人々の姿が描かれる。
主人公ラッセルは家族思いのまじめな男である。
父親を敬愛し、弟のことを気にかけて秘かに彼の借金を肩代わりしてやるような所が有る。
彼の真面目さは鹿狩り場面でも証明されている。
貧しい暮らしだが必死に生きているということが分かる。

弟のロドニーはイラクに何回も派遣されて心を病んでしまっている。
国のために命をかけて戦ったのに、国は自分に一体何をしてくれたのだとの思いが有る。
彼はまともな仕事に就けなくなっていて、そのことが後半の事件に関係してくるのだが、まともな仕事に着こうとした矢先なだけに切ないものが有る。

最後のラッセルの行動は弟の復讐による憎しみの感情だけではなかったように思う。
彼は報われない人間で、一生懸命働いているが裕福に離れないし、飲酒運転事故で刑務所行きとなる。
その間に敬愛する父親は死亡し、恋人は警察官の元へ走っている。
そして弟の事件に出くわす。
ついていない男はどこまでもついていないのだ。
まるで負の連鎖を背負って生きているようでもある。
そうした積み重ねの人生において自分ではどうにもならないものを感じた怒りの行動だったようにも思えるのだ。

救われない人間を描いた重厚な人間ドラマで、見終わった後場内が明るくなった時にフーッと大きく息をした。
エンタメ性に富んだ犯罪映画ではないが、ぐぐっと引き込まれる作品だった。
出演者は皆渋い。上手いキャスティングだ。
見応えのあるアメリカ映画である。

ビリケン

2024-07-04 06:46:33 | 映画
「ビリケン」 1996年 日本


監督 阪本順治     
出演 杉本哲太 鴈龍太郎 山口智子 岸部一徳
   泉谷しげる 南方英二 國村隼 原田芳雄
   石井トミコ 浜村淳 笑福亭松之助

ストーリー                         
大阪・新世界に立つ通天閣に安置されているビリケン像にチンピラやホームレスなど様々な人々が願を懸けにやって来る。
その願いを叶えようと奔走するビリケンだったが、あることがきっかけで信用を失ってしまう。
同時にビリケン像は質屋に売り飛ばされてしまい、超能力を失ってしまう。
ビリケン像を買い戻すため、ビリケンは肉体労働を始める。
その頃、住民の立ち退き工作のために新世界にやって来た江影は、ビリケンの正体を知る、ビリケン憧れの月乃の教え子・清太郎を人質に通天閣に立てこもるのだが・・・。

寸評
ビリケンを演じた杉本哲太がはまり役。
いつも思うのだが、どのようにしてキャスティングしているのかと・・・。
この映画の第一の功労者は杉本哲太をキャスティングした人だと思う。
本来持っている杉本のエネルギッシュな印象の本作での描き方は、今までの杉本哲太像を変えてしまったのではないか。
身体にぴったりした縞のスーツに裸足というスタイルとともに、この映画の面白さはひとえに杉本哲太のキャラクターと脇役人の配置にあると思う。
山口智子はもちろん、岸辺一徳、南方英二、泉谷しげる、浜村淳、原田芳雄にはしびれる。

通天閣の上に杉本哲太を立たせて、その周りをヘリで旋回しながら空撮するショットを考えたひとも殊勲大だ。
ビリケン登場直後とエンディングに登場するこのショットが、通天閣の守護神ビリケンの一切を象徴的に描き出している。
兎にも角にもこれは大阪が誇る摩天楼『通天閣』の映画なのだ。

僕はこの通天閣がある新世界は大阪で好きな場所の一つである。
当時は映画館もたくさんあった。
公楽座の入り口の前に立つと、館内で上映されている映画のスピーカーからの独特のこもった音(声)を場外に流していた。
ラジオを聞いていると思えば、一日中楽しむ事ができたのだ。
でも昔の映画館はみなそうだったように思う。
入り口に貼られているスチール写真を見ていて、もれてくる音を聞くとつい切符を買ってしまっていたものだ。

通天閣は化粧直しが施されて看板の上にあった日立マークがなくなっています。
日立の広告はありますが、マークがないのはなんとなく淋しいです。
ビリケンさんは5階の展望台におられます。
エレベーターを乗り継いで展望台まで上りますが、 エレベーターガールはいなくて、おっちゃんと兄ちゃんの間ぐらいの人が案内してくれていました。
今はどうなっているのでしょう?

このビリケンさん、実は米国ミズーリ州カンザスシティーで“誕生”した神様です。
米国での呼び名も「ビリケン(BILLIKEN)」で、1909年にはビリケンの貯金箱や小さな置物が売り出され、大人気となったが半年ほどでブームは冷え込んだそうだ。
ビリケンさんが初めて大阪・新世界にあった遊園地「ルナパーク」に置かれたのは、1912年(明治45)のこと。
1923年の遊園地閉鎖とともに行方不明となったが、1980年に繊維商社の田村駒に残っていたのを見本に復活させ、伊丹市在住の安藤新平さんが彫刻されたということである。
知らない人は足の裏を撫でているが、願い事をするときは足の裏を掻いてやらねばならない。
そのため、足の裏は溝になって擦り切れている。
(映画ではビリケンがくすぐったがっていた)
長い間、通天閣に行っていない。
想い出の中にある通天閣は変わってしまっているかもしれない。

アメリカ生まれのマスコットが、神さまに変身して、なにわのシンボルの通天閣に鎮座する。
その姿は何ともほほえましいではないか。

ビフォア・ミッドナイト

2024-07-03 07:48:36 | 映画
「ビフォア・ミッドナイト」 2013年 アメリカ 

                            
監督 リチャード・リンクレイター                           
出演 イーサン・ホーク ジュリー・デルピー
   シーマス・デイヴィー=フィッツパトリック
   ジェニファー・プライアー シャーロット・プライアー
   ウォルター・ラサリー ゼニア・カロゲロプールー
               
ストーリー
列車の中で出会い、その9年後再会しパートナーがいるにも関わらず互いへの愛に気付いた小説家のジェシーと環境活動家のセリーヌは、今や家庭を築き双子の娘にも恵まれていた。
友人の招きを受け、パリに暮らしている彼らはジェシーの元妻と住んでいる息子ハンクともども南ギリシャの美しい港町にバカンスにやって来ていた。
一足先にハンクがシカゴへ戻るためジェシーは見送りに空港へ向かうが、演奏会に行くと伝えたところ母親がナーバスになるからシカゴには来ないでほしいと言われてしまい、ショックを受ける。
ジェシーと元妻の関係は良好ではないせいで息子になかなか会えないことを気にするジェシー。
セリーヌが先行きについて悩んでいる仕事やハンクについてなど様々なことを話し合っているうちに、ジェシーはシカゴへ引っ越さないかと提案。
セリーヌは激怒する。
別荘の主である老作家や孫、友人たちとの会食の後、友人たちの計らいで子どもたちを預かってもらえることになり、教会に立ち寄ったり海辺で夕日を眺めたりしながらロマンチックな時間を過ごす二人。
しかしちょっとした言葉のはずみで再び彼らの間に険悪なムードが漂いはじめ、ついにはセリーヌがホテルの部屋を飛び出してしまう……。


寸評
シリーズ作品らしいのだが僕は前2作を見ていない。
見ていなくても二人を取り巻く環境や経緯が推測できるので十分に楽しめる内容になっている。
それにしても、すさまじいばかりの会話劇だ。
車の中のシーンや道を歩くシーンなど長回しシーンが随分と多いのだが、その間にはふたりの会話が延々と続く。
その会話を楽しむことが出来るかどうかが、この映画を受け入れられるかどうかの分岐点。

ジェシーがアメリカに帰る10歳の息子を空港に送るシーンから映画は始まる。
そこで父の息子への愛情や別れた元妻との関係などが観客に知らされる。
息子は振り返ることもなくアメリカへ帰っていく。
続くシーンは、ジェシー、セリーヌ、そして2人の間に生まれた双子の娘が空港から車で移動する場面となる。
これがその後も続く会話と長回しの幕開けとなる。
その後は、ふたりが滞在する家の人々を交えたランチでの会話、道を歩くふたりの会話、そしてホテルでのふたりの会話などが延々と続く。
会話の中身は哲学的であったり、あるいは他愛のない会話もはさみながら、離れて暮らす息子の心配、二人の愛情、生と死についてなどが彼らのこれまでの人生を織り込みながら語られる。
やがてホテルでの言い争いになるのだが、下手をすると中年カップルのつまらないケンカ話になってしまう内容なのに、そうはなっていないのは一にも二にもごく普通の会話の中身による。
脚本を書いた3人である監督のリチャード・リンクレイター、主演のイーサン・ホーク、ジュリー・デルビーの努力に敬意。

途中から、この映画、いったいどうやって終わらせるつもりなのだろに興味しんしんとなったのだが、タイムマシンのたとえ話で彼らの行く末を観客の想像に委ねたラストの会話の小粋さを聞かされ、この作品の一貫した作風を堪能。
ただし、ボンヤリと見ているわけにはいかない作品で有ることは確かで、ミニシアターの暗闇の中で集中して見るべき作品だと感じた。
そしてその暗闇の中で僕は自分の過去を思い起こし、現在と未来に思いをはせていた。

ひとりぼっちの青春

2024-07-02 07:32:01 | 映画
「ひとりぼっちの青春」 1969年 アメリカ


監督 シドニー・ポラック
出演 ジェーン・フォンダ マイケル・サラザン スザンナ・ヨーク
   ギグ・ヤング レッド・バトンズ ボニー・ベデリア
   ブルース・ダーン ロバート・フィールズ

ストーリー
1932年、不況真っただ中のアメリカ。
ハリウッドに程近い海岸のダンスホールで賞金のかかったマラソン・ダンス大会が開催される。
世の中は失業者の群れでいっぱいだったが、その中の1人、ロバートはマラソン・ダンス場に流れこんだ。
マラソン・ダンスとは1時間50分踊って、10分休憩し、昼夜ぶっ通しで踊り続け、最後に残った者に賞金が与えられるものであった。
プロモーターはロッキーで参加者を募っていた。
参加者のグロリアは連れが病気で困っていたが、ロッキーがロバートと組ませてダンスが始められた。
グロリアとロバートは踊り続けるうちに次第に心安くなっていた。
ダンスは数日間続けられ、脱落者も増えていったが興奮は高まっていった。
見物人を楽しませるための「ダービーレース」が取り入れられた。
それは4組のダンサー達の耐久力比べで、最後の1組が勝ち残るレースであった。
ロバートとグロリアも参加したが、やがてロバートは足の筋がつって踊れなくなった。
グロリアは、今までの苦労が水の泡になると言って彼を引きずって踊った。
ロバートはヘトヘトになり、彼女から離れてアリスと休んだのでグロリアは怒っていた。
やがて「ダービーレース」でアリスと組んだ船乗りが心臓発作で倒れた。
ロバートとグロリアは和解して再び組んだ。
ロッキーは2人に余興として結婚式を挙げれば1,000ドルの報酬を出すという話を持ちかけた。
しかし式の費用は2人持ちとなっていて、2人はかつがれていた。
優勝しても一文にならないことを知ってグロリアは怒って出ていき、ロバートは後を追った。
2人の精神状態はついに限界に達し、グロリアはロバートに殺してほしいと頼み、彼は彼女の頭を拳銃で撃ち抜いた。
近づいた警官に、彼は子供の頃の記憶を思い出して「廃馬は撃つものでしょう?」と語る。


寸評
1930年代、不況下のアメリカを舞台に、高額の賞金を求めて当時流行したマラソン・ダンスに参加した男と女の執念を描く。
何日間も不眠不休で繰り広げられるマラソン・ダンスで、ふとしたきっかけから、ロバートとグロリアはパートナーを組み踊る事になった。
賞金を目当ての参加者は、身重の女、船乗りなどさまざま。
ダンスが上手とか、二人の息があっているとか、そんなことは関係ない。
最後まで踊り続けた人が勝ちというのがマラソン・ダンス大会で、最後まで残ったカップルに1500ドルの賞金が与えられる。
過酷なレースは参加者を次々と振り落としていく。
時間の経過に伴って心身共に激しい疲労にさいなまれ、まともに立っていることもできない。
参加者はうつろな表情で、よたよたしながらなんとなく体を揺らしているだけとなってくる。
一人で立っていることもできず、パートナーに寄りかかってなんとか倒れずに済んでいるという状態だ。
とてもダンスとは言えず、ただ、ゆらゆら、ゆらゆらとしているだけだ。
このダンスシーンの描写のすごさが最後の海を引き立てている。
踊り続けて、疲労でぼろぼろになっていく参加者たちを、観客が喜んで見ている。
他人の不幸を楽しめてしまう人間の醜さだ。
狂気じみた競技に参加する人々、それを観戦する人々、どちらも狂っている。
やっと勝ち残った勝者が手にした賞金とは・・・。
ジェーン・フォンダの冷たく鋭い眼差し。
深く冷たい画面のトーン。
次のシーンの音声がかぶりながら切り替わる画面の不安感など、私は一級品だと思っている。
二人の行動によって、冒頭で馬が撃たれて倒れるシーンの意味が分かる。
邦題はいただけない。

PK ピーケイ

2024-07-01 06:43:46 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/1/1は「麦秋」で、以下「ハクソー・リッジ」「奕打ち 総長賭博」「白熱」「薄氷の殺人」「幕末太陽傳」「箱入り息子の恋」「ハスラー」「ハスラー2」「裸の島」と続きました。
 
「PK ピーケイ」 2014年 インド

                            
監督 ラージクマール・ヒラニ                    
出演 アーミル・カーン アヌシュカ・シャルマ
   スシャント・シン・ラージプート サンジャイ・ダット
   ボーマン・イラニ    サウラブ・シュクラ
   パリークシト・サーハニー ランビール・カプール

ストーリー            
留学先のベルギーで悲しい失恋を経験し、傷心のまま帰国し、現在は母国インドのテレビ報道局で働くジャグー(アヌシュカ・シャルマ)は、ある日、地下鉄で黄色いヘルメットを被り、大きなラジカセを持ち、あらゆる宗教の飾りをつけてチラシを配る奇妙な男(アーミル・カーン)を見かける。
そのチラシには神様の絵に“行方不明”の文字。
この男はいったい何者?なぜ神様を捜しているの?」
さっそく取材してみると、PK(酔っぱらい)と名乗るその男は、“自分は宇宙人で、宇宙船と交信するためのリモコンを失い、帰れなくなった”と語る。
そして、そのリモコンを見つけてもらうために神様を探しているというのだった。
ジャグーは謎めいたPKのリモコン探しの旅に密着する。
世間の常識を全く知らないPKが語る話はにわかには信じられないものだった…。


寸評
宇宙船が登場し裸の男が降り立つ「ターミネーター」のようなオープニングはSF映画を思わせる。
しかし降り立った男がミスター・ビーンのローワン・アトキンソンを髣髴させる奇妙な眉毛と耳を持ったアーミル・カーンで、彼が地球人の不思議に戸惑うくだりではコメディ映画に変身する。
インド映画なので突然歌と踊りが始まるのはお決まりで、その時にはミュージカル映画の様相を呈してくる。
ジャグーとサルファラーズの恋とか、PKのジャグーに対する恋心か描かれるとラブロマンス物語の雰囲気になっていく。
実に盛りだくさん、サービス精神旺盛な作品である。
そのどれもが安っぽい作りなのに、まとまってくると一本芯が通ってくるから不思議だ。
インドとパキスタンの難しい関係を、恋愛にからめて描いているのだが堅苦しいところは微塵もなく、インド映画独特の明るさを保っている。
イスラム教とヒンズー教の宗教対立やテロ行為も描かれるが、同様に深刻なものとして描いていない。
徹底していることで娯楽映画の快作にしている。

仏教、ヒンズー教、イスラム教、キリスト教と、あらゆる宗教が同居するインドの宗教事情は日本とは比較にならないし、宗教は日本よりもずっと生活に密着したものであると想像する。
その宗教問題の矛盾にもろに真正面からぶつかっていく勇敢な作品だ。
神や信仰そのものを否定せず、多くの宗教が互いに憎しみあったり、導師、教祖、神父などの神の代理人が献金や不正に左右された“ニセモノ”として、その行為に「なぜ?」とPKは素朴な疑問を投げかける。
PKは、神様は二人いると言う。
我々を創った創造主たる本物の神と、人間が創り出してお金を貢がないといけない偽の神である。
偽の神を作った代理人(教祖とか神主、神父たち)はお金を取るだけで、人々の願いを叶えていないと言う。
恐怖心を起こさせ宗教に導いているとも言っている。
我々も誰も見ることが出来ない死後の世界を語られて納得させられている。
お賽銭を投げ入れて願い事をするが、叶えられたことなどない。
宝くじが当たりますようになどという下世話な願いをしたためなのだろうか?
お布施もしているが仏さまに届いているのだろうか。
テロリストは我々の神を守ると言い、PKと対峙する導師も神を守るというが、PKは宇宙を生み出した神を守るなどと、宇宙から見れば小さな地球の人間が言うなどおこがましいと言う。
キリスト教伝来時、一神教としてのキリスト教を説く神父に「キリストを知らなかった我々の先祖は皆救われていないのか?」と問いただしたと聞く。
その時の日本人の思考の到着点として、「神はこの世に一人なのだ、その神が姿を変えてあらゆる国にあらわれたのだ」と考えるに至ったと何かの書物で読んだ。
宗教戦争を起こさなかった日本人の知恵である。
PKは正にそのような思考の持ち主で親しみが持てる。

PKは人の手を握ると相手の心が読める。
それを利用したラブロマンスが切なくて泣かせる。
宝物とされているリモコンがPKのものであると証明する人物がテロに巻き込まれ死んでしまうが、ここからラストに向かっていく盛り上がりは心得たものだ。
導師との宗教対決の逆転劇と、ラブロマンスのエピソードが絡み合って、それまでの滑稽な雰囲気から一変して観客をくぎ付けにする。
PKのピュアな恋も相手の幸せを心から願うもので感動的だ。
我が家は村にある寺院の檀家ではあるが無神論者だと自覚している。
それでも神の愛を感じずにはいられない作品となっていた。
インド映画、恐るべしである。

ビッグ・フィッシュ

2024-06-30 06:14:33 | 映画
「ビッグ・フィッシュ」 2003年 アメリカ


監督 ティム・バートン
出演 ユアン・マクレガー アルバート・フィニー
   ビリー・クラダップ ジェシカ・ラング
   ヘレナ・ボナム・カーター アリソン・ローマン
   ロバート・ギローム マリオン・コティヤールストーリー

ストーリー
息子のウィルとその父エドワード・ブルームは、3年前のウィルの結婚式で仲違いをしてしまった。
父はウィルが生まれた日に、結婚指輪を餌にして巨大な魚を釣り上げたと、その場にいた人々を沸かせたのだが、その話を何回も聞いているウィルはウソの昔話をまたしていると父を責めた。
それから父と疎遠になっていたウィルは、病で倒れたという父のもとにやってきた。
しかし同じように父は過去の話をウィルに話しはじめるのだった。

エドワードは大人になると町で人気者となった。
しかし、ある日町にやってきた巨人カールを町から遠ざけるために一緒に旅にでた。
途中でスペクターという町にたどり着き、詩人ノザー・ウィンズロウ、ジェニファーという少女に出会った。
町をでたエドワードはカールとともにサーカス団に加わった。
サーカス団のサンドラという女性に恋をしたエドワードは彼女と結婚したのだが、戦争に駆り出されてしまった。
中国やロシアなど危険な任務をこなしサンドラのもとにエドワードは帰ってきた。

ウィルはジェニファーと父が浮気をしていたのではと疑いジェニファーのもとを訪れる。
ジェニファーはエドワードが町を救ってくれたことなど彼の思い出をウィルに話して聞かせた。
ウィルの質問にジェニファーは父が決して母を裏切らなかったと話し、ウィルは父の元へと戻った。
ウィルが戻ると、発作をおこして危険な状態の父はウィルに自分の死ぬときの話を聞かせてくれと頼んだ。
父から死ぬときの話は一度も聞いたことのなかったウィルだったが、父が今まで出会った人々に囲まれながら、大きな魚となって川へと泳いでいくという空想の話を父にきかせた。
ビッグ・フィッシュの正体は父であったと締めくくるウィルにエドワードはその通りだと答える。


寸評
年老いたエドワード(アルバート・フィニー)と大人になったウィル(ビリー・クラダップ)が生きる「今」と、若かりし頃のエドワード(ユアン・マクレガー)の冒険を描く「過去」が交互に描かれ、父と子の和解へと導いていく。
「過去」のパートは思いっきり鮮やかで華やかに彩られているファンタジックな作品だ。
息子が子供の頃は父の話を面白おかしく聞いていたが、それがホラ話だとわかる年齢になると、毎回聞かされることに辟易して疎遠になってしまっている。
しかし、聞かされる話として、愚痴や自慢話より失敗談の方が断然面白いものだ。
時として失敗談も自慢話に聞こえることも有るが、聞く側として話を楽しく聞くことが出来る。
話す方としては受けを狙う気持ちもあって、往々にして話を盛る傾向があると思う。
エドワードのホラ話はそのように盛られたものだったのだろう。
本当ではないが、全くの作り話でもなかったのだと思う。
母親のサンドラは「本当のこともあったのよ」と語るが、その事を知ったウィルの行動からラストに向かう展開が「ビッグ・フィッシュ」というタイトルを浮かび上がらせる。

エドワードのファンタジックなホラ話の本当はどうだったのかを想像するのも楽しい。
5メートルもある巨人は2メートルを超える大男だったのではないかとか、下半身が一つの双子の美女歌手は普通の双子だったとか(実際そうであったように示されている)、ノザーの多額の謝礼で白い柵の現在の家を手に入れたのは本当だったのではないかなどだ。
お化け屋敷の魔女の正体も上手く処理されている。
過去の話が華やかな色彩で描かれるのに対し、今の世界は落ち着いた色調で語られる。
ウィルと違って、エドワードが愛するサンドラと、ウィルの妻はエドワードを理解して寄り添っているようで、死を迎えるエドワードにそのような人がいたことは彼にとって幸せなことだったと思う。

死を迎えようとしているエドワードが息も絶え絶えにウィルに自分の最期の話をしてくれと頼む。
ウィルは父親がやったようにホラ話の結末を考えながら話し出す。
その話の結末はエドワードが口から金の婚約指輪を出してサンドラに渡すと言うもので、エドワードが話していたビッグ・フィッシュはエドワードその人だったということだ。
葬儀の参列者は喪主を初めとして生きている人の人脈によることが多いと思うのだが、エドワードの葬儀に集まった人たちはエドワードを慕って参列した人たちだったと思う。
エドワードも「虎は死んで皮を残し、人は死んで名を残す」に該当する人だったと思う。
確執のあったウィルもその事を知ったのだろう。
数年後、実家のプールで遊んでいるウィルの息子は友達に「おじいさんは5メートルの大男と戦ったことがあるんだ」と自慢すると、ウィルは「そうだよ」と答える。
ホラ話は父から息子へ、そのまた息子へと語り継がれていく。
そのようにして長い年月を語り継がれたホラ話はやがて伝説となって残るのだろう。
各地に残る伝説はそのようにして出来上がったのかもしれない。
ティム・バートンらしい作品で子供たちも楽しめるのではないかと思う。

悲愁物語

2024-06-29 08:07:46 | 映画
「悲愁物語」 1977年 日本


監督 鈴木清順
出演 白木葉子 原田芳雄 岡田真澄 和田浩治
   佐野周二 小池朝雄 宍戸錠 野呂圭介
   仲谷昇 葦原邦子 左時枝 江波杏子

ストーリー
女子体操競技で世界中を熱狂させたチェブルスカをライバル社の極東レーヨンにさらわれた日栄レーヨン社長の井上(仲谷昇)は、対抗馬のタレント発見を急ぐよう命令する。
企画室長の森(玉川伊佐男)や広告代理店の田所(岡田眞澄)は、若くてプロポーション抜群のプロゴルファー・桜庭れい子(白木葉子)の起用を決定し、れい子をまず女子プロゴルフ界のチャンピオンにしなければと、雑誌「パワーゴルフ」の編集長でれい子の恋人でもある三宅(原田芳雄)に特訓をたのむ。
三宅に依頼を受けた高木(佐野周二)のハード・トレーニングによって、れい子が全日本女子プロゴルフ選手権に優勝したことで彼女の人気は爆発し、日栄レーヨンのポスターは店頭からまたたくまになくなった。
れい子は、日栄レーヨンと専属タレント契約を結び、五千万円を手にする。
れい子は、弟の純(水野哲)といっしょに郊外に大邸宅を構え、テレビのホステスにも起用された。
しかし、れい子の家の近所の主婦たちの憧れは、しだいにドス黒い嫉妬へと変っていった。
多忙なれい子の唯一の心のやすらぎは、三宅の胸に抱かれている時だけであった。
そんなある日、三宅とれい子の乗った車が近所の主婦、仙波加世(江波杏子)をはねてしまった。
実は、れい子に嫉妬した加世が自分から車に飛び込んだのだが、二人はその場を逃げてしまった。
れい子の弱みをにぎった加代は、れい子をメイドのように酷使し、邸宅を我が物顔で使用して友子(左時枝)など近隣の主婦たちと傍若無人の大騒ぎを繰り返す。
あろうことかそのうえ、加世はれい子に自分の亭主(小池朝雄)に抱かれることを命じた。
姉を自分だけのものと思っていた純が、ついに主婦たちの蛮行に怒りを爆発させた。

寸評
製作は三協映画と松竹で、制作者に梶原一騎、藤岡豊、川野泰彦           、浅田健三、野村芳樹が名を連ねている。
劇画の世界の梶原一騎、テレビアニメの世界の藤岡豊、実写映画の世界の川野泰彦という別々の世界で存在していた製作者が「三人で協力する」ものして命名されたのが三協映画である。
これに脚本家の大和屋竺が加わり、10年間ほされてどうしようもなかった鈴木清順が監督することで、最高にどうしようもない作品が出来上がったと思えるのがこの「悲愁物語」である。
鶏頭牛尾で、どうせなら最高の駄作となっていることで存在感を示しているというのが僕の印象だ。

前半はプロゴルファーを目指すスポコン物の雰囲気でスタートするが、B級どころか子供だましもいい加減せよと言いたくなるような描写が続く。
それが後半に入るとホラー映画の様相を呈してきて、普通の女が魔女のような女の魔女狩りによって破滅に向かう姿を描くようになる。
狂った女を演じる江波杏子の存在感が際立っている。
突如、江波杏子の顔が緑色になる時があるのだが、それ以外にも色が強調されるシーンが随所にちりばめられていることに自然と気が付く。
緑は狂気の象徴であり、黄色は生を、黒は死を表し、白は無垢であり赤は性を表していたと思う。
少年純が彼を慕う少女と対面するときは白いシャツを着ていて、彼は部屋を黄色の縄梯子で出入りしている。
そう言えば純たちが語らう背景は桜が満開で、最後のれい子が着ているドレスにピンクの模様が浮かんだから、ピンクは愛の象徴だったのかもしれない。
れい子が三宅と接触する時のマニュキュアの色はまっ赤であり、加代と接触する時は緑もしくは黒、純と乃入浴シーンでは黄色が用いられている。
もちろんれい子の最後のマニュキュアは黒であり、分かりやすい演出だ。
三宅と田所が殴り合いを繰り広げる場面では、あたかも赤と緑の対決と言った風だった。

れい子を演じたのが白木葉子という新人女優である。
記憶に残る女優さんではなかったように思うが、僕たちの年代の者にとって白木葉子と言えば、梶原一騎原作、ちばてつやによる「あしたのジョー」における矢吹丈をリングへ導く財閥令嬢でありヒロインの白木葉子なのだ。
梶原一騎が制作者の一人だったから、このヒロインの名前を芸名にしたのだろうと思われる。
白木葉子が演じるれい子が江波杏子演じる仙波加世によって蝕まれていく様子は滑稽なぐらい強調的に描かれているが、言いがかりとも言える理由で逆恨みの犯行を起こす事件は珍しいことではなくなっている。
社会はやはり蝕まれているのだろう。
野次馬的な主婦たちの恐るべきパワー、モンスター主婦の出現である。
僕は江波杏子よりも、この主婦たちの方に嫌悪感と恐怖感を持った。
江波杏子は悪意を持って行動しているが、主婦たちは罪悪感をまったく持っていなくて、群集心理によるある種の暴動行為である。
抹殺すべきは登場した主婦たちではなかったか。
それにしても自己満足に徹したヒドイ映画だったなあ。

バロン

2024-06-28 05:49:11 | 映画
「バロン」 1989年 アメリカ


監督 テリー・ギリアム
出演 ジョン・ネヴィル サラ・ポーリー
   エリック・アイドル オリヴァー・リード
   ジョナサン・プライス ロビン・ウィリアムズ
   ユマ・サーマン ヴァレンティナ・コルテーゼ

ストーリー
18世紀後半、ドイツはトルコ軍の攻撃に晒されていた。
指揮官のホレィシオ・ジャクソン参謀長は、自分の命令に逆らう部下を次々と処分していた。
廃墟の中に建つ劇場では、ヘンリー・ソルト一座による『ミュンヒハウゼン男爵の冒険』が興行されていたが、突然本物のバロンを名乗る老人が乱入。
彼は、今回の戦争の原因は自分にあると主張し、そのいきさつを語りだした。
老人が回想していたところにトルコ軍の砲撃が始まり、劇場にも直撃する。
老人は負傷するが、一座の娘であるサリーに救われる。
物語の続きを聞きたがるサリーだが、砲撃を再び始めたトルコ軍に老人は反撃を決意。
ヘンリーから嘘つき扱いされる老人だが、一座の女優に頼られた老人は町を救うと宣言。
援軍を呼ぶべく、熱気球で町から脱出したバロンだったが、気球には密かにサリーも乗っていた。
2人はバートホールドのいる月へと向かい、20年前に幽閉されたきり記憶喪失となっていたバートホールドを連れ出して月を脱出する。
月を脱出した一行はエトナ火山の火口に落下して、剣から核兵器まであらゆる武器を製造しているバルカンのもてなしを受け、メイドとして働いていたアルブレヒトと再会。
しかし、バロンはバルカンの妻ヴィーナスとのダンスに夢中になって街のことを忘れてしまう・・・。
果たしてバロンとその家来達、そしてサリーは町を救い出すことができるのか?


寸評
ほら吹き男爵が語る話がホラなのか本当の出来事なのか混とんとしてくるファンタジー映画なのだが、ファンタジー映画であるからには楽しくなくてはならない。
しかしこの作品、金をかけている割には楽しくないし面白くない。
ホラ男爵の話を上演している舞台に、ホラ男爵本人がやってくるまではいいのだが、そこからの展開は自己満足に過ぎないような場面が延々と続く。
僕などは途中で眠気を催してしまった。
こんなデタラメな映画がこんなにも大規模なセットで大金をかけて撮られたと言う事がファンタジーである。
キャラクターはそれなりの魅力を持っているのだが、気に入ったのは羽を持った死に神くらいだった。
バロンには4人の家来がいる。
俊足のバートホールド、射撃の名手アドルファス、驚異的な肺活量を持つ小人グスタヴァス、怪力の持ち主アルブレヒトである。
バロンはエジプト旅行の帰途でサルタンから勧められたワインよりも美味しいトカイワインを持参する賭けを行う。
ワインを取りに行くのは俊足のバートホールドで、すごい勢いで走っていくがウサギとカメのウサギよろしく油断したのか途中で眠ってしまう。
その目を覚まさせるのが、遠くが見渡せる射撃の名手のアドルファスで、とんでもない距離の所にある木の下で眠りこけるバートホールドに銃弾を撃ち込んでたたき起こす。
再び走り出したバートホールドは約束の時間を計る砂時計の最後の一粒が落ちる直前に到着する。
掛けに勝ったバロンは約束通り、持てるだけの財宝を貰うことになる。
力持ちの大男であるアルブレヒトは財宝の総てを持ち上げて運んでしまう。
怒ったサルタンが襲ってくるが、グスタヴァスが噴き出す息で撃退する。
それぞれの得意技を要領よく描いているのだが、バカバカしすぎて笑えないし騒がしすぎると感じる。

バロンは子供みたいな爺さんで、基本的には肌がしわくちゃな爺さんなのだが、途中で肌がつやつやして少し若返ったりして、年寄りと若返りを繰り返している。
どうやら、自信をなくしたり傷心したりするとしわが目立つ老人となり、逆に自信を取り戻したり気持ちが高揚してくると若返っているらしいのだが、そのような細かい配慮もよくよく注していないと気が付かない。
なぜなら少々飽きがきてぼんやりと眺めているだけになってしまっているからだ。
僕は最後がどうなったのかすら覚えていない。
印象の少ない作品だがボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」よろしく登場してくるユマ・サーマンだけが脳裏に残った。
僕は本作以外にテリー・ギリアムの作品を見ていないのだが、テリー・ギリアムは2018年に「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」という作品を撮っている。
どうもこの人自身をドン・キホーテに感じてしまう。
大金をつぎ込みながら制作費を回収することはできなかった作品だが、当時の最先端を行く特撮を使ってこれだけ好き勝手に作った作品があったということで記録されるかもしれない。
稀有な作品である。

パリで一緒に

2024-06-27 07:29:06 | 映画
「パリで一緒に」 1963年 アメリカ


監督 リチャード・クワイン
出演 ウィリアム・ホールデン オードリー・ヘプバーン
   グレゴワール・アスラン ノエル・カワード
   レイモン・ビュシェール トニー・カーティス

ストーリー
脚本家ベンスンはパリのホテルで彼の友人マイヤハムが金を出している新作映画のシナリオを執筆していた。
期限はあと2日というのに書いたのは少しだけ。
彼はガブリエルというタイピストを雇ったが、それは彼のシナリオにも良い結果を生んだ。
シナリオは以下のようなものだった。
リックという大盗賊が、俳優フィリップがギャビーとのデイトをすっぽかしたため、ギャビーを誘惑し、おとりにして警察の目をくらませ、大仕事をしようと企んだ。
ところが、ギャビーは実はパリの売春婦で、警察の手先になってリックの行動を探っていたのだ。
それを知らないリックは彼女を伴って撮影所に行き、大作フィルムを盗み出した。
そして、リックは彼女を警察のスパイと見抜き殺そうとしたが・・・。
シナリオの口述をここまで聞いたガブリエルはベンスンの人柄にひかれ、恋心を抱くようになった。
脚本の続き・・・リックは盗んだプリントで大金をゆするが失敗した。
そしてギャビーは警官をだまして1室にとじこめ、2人は空港に逃げた。
リックが待たせてあった飛行機に乗ろうとしたとき、監禁された部屋から脱出、追って来た警官に撃たれ、ギャビーの腕の中で死んだ。
脚本は完成したが、リックがベンスンに思えるからガブリエルは気に入らなかった。
締め切りの日、ベンスンが目を覚ますとガブリエルの姿がない。


寸評
脚本家のベンスンが脚本内容をタイピストのガブリエルに語り、その内容が描かれていくというだけの映画で、オードリー・ヘプバーンがガブリエルを演じていなかったら単なるお遊び映画となっていただろう。
脚本が映画シーンとなって描かれるが、先ず登場するのがマレーネ・ディートリッヒで、彼女はその1シーンだけの出演となっている。
作中映画の主題歌をフランク・シナトラが歌っているが、それもわずかな時間となっている。
トニー・カーティスなんかは出番が多い方であるが、作中で何回もお前は端役だと言われるというジョークが盛り込まれている。
兎に角ゲスト出演が多い映画である。
ゲスト出演だけではない。
ウィリアム・ホールデンが劇中映画で演じている男の名前はリックで、これは「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが演じた役名で、オードリー・ヘプバーンが劇中映画で演じた女性の名はギャッビーで、これは「望郷」でジャン・ギャバンのペペル・モコがラストで叫ぶ女性の名前で、名作映画へのオマージュが感じられる。
ウィリアム・ホールデンは「ティファニーで朝食を」や「マイフェア・レディ」を語っていて、どちらもオードリーの主演作だから楽屋オチだと思うのだが、「マイフェア・レディ」はこの作品よりも制作年度は後だから、もしかしたら「マイフェア・レディ」の制作とオードリーの出演がすでに決まっていたのかなと思ったりする。

ベンスンとガブリエルの恋が、ベンスンの脚本に従って描かれるリックとギャッビーの恋に重なるように描かれるが、リックとギャッビーの恋は劇中映画の中の事だと分かっているので盛り上がりを感じない。
シリアスでもないし、コメディでもないお遊び映画に付き合って、ロマンチックな雰囲気を楽しむだけのものとなっている。
僕はオードリー・ヘプバーンの主演作を何本か見ているが、その中では最低の出来栄え作品だと思う。
オードリー自身が、「撮影はとても楽しかったので、映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べているから、彼女もこの映画の出来栄えを評価していなかったのだろう。
同時進行していた「シャレード」の方が格段に出来が良い。

オードリー・ヘプバーンと言えば何といっても「ローマの休日」なんだろうけど、彼女の魅力が一番発揮されていたのは次の「麗しのサブリナ」だったと思う。
作品的には「ローマの休日」以外では1967年の「暗くなるまで待って」、1963年の「シャレード」、1961年の「ティファニーで朝食を」などが好きだな。
でもオードリーの相手ってどうして中年の男ばかりなのだろう。
同世代だとリアルすぎて彼女の持つファンタジー的な魅力が削がれてしまうからなのだろうか。
何れにしても僕にとっては外国の映画女優の中において、名前で劇場へ向かわせた唯一の女優と言っても良い存在であったことは間違いがない。
そのオードリーをもってしても、この作品はいただけない。
制作も兼ねるリチャード・クワイン監督の遊びが過ぎた作品だったように思う。