おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

次郎長三国志 第三部 次郎長と石松

2023-11-30 07:06:22 | 映画
「次郎長三国志 第三部 次郎長と石松」 1953年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 小堀明男 森繁久弥 久慈あさみ 若山セツ子
   小泉博 広沢虎造 河津清三郎 森健二
   田中春男 田崎潤 石井一雄 沢村国太郎
   小杉義男 花房一美 清水元 鴨田清
   渋谷英男 峰三平 天見龍太郎 岩本弘司

ストーリー
森の石松(森繁久彌)は旅の途中で次郎長一家と一緒になり、子分になれと誘いをうけたが断って皆と別れ、一人旅をつづけていたが、黒駒勝蔵の代貸大岩(鴨田清)の妹おもと(花房一美)とねんごろになって大岩に追われる追分三五郎(小泉博)をひょんなことから救った。
三五郎はちゃっかりした男だが宿場の賭場で投節お仲(久慈あさみ)の艷な打ちぶりに幻惑されてスッテンテンになり、応援に出た石松もお仲のいかさまにかかって文無しになった。
翌日二人の部屋を訪れたお仲は歯切れのいい仁義を切ったあと、昨夜はいかさまをしたといって石松に金をもどし、石松はお仲にゾッコンとなってしまった。
料理屋で一緒になった石松とお仲は酒を酌み交わし、お仲は酔いつぶれて「明日の朝、橋のたもとで待っているから二人で旅をしよう」と思ってもないことを言ってしまう。
女好きの三五郎もお仲にすっかり参ってしまっていて、お仲から昨夜の出まかせの後始末を頼まれると仮病を使って石松を引き止める。
人の好い石松は三五郎を置去りにすることができず、お仲は一人宿を立っていった。
一方次郎長一家は旅の途中のある賭場でお仲を見かけ、次郎長(小堀明男)は彼女のいかさまを見破る。
しかし開帳中に役人が押し寄せ、次郎長一家は罪をかぶり捕えられた。
牢に入れられた彼らは横柄な牢名主(小杉義男)をとっちめたりしていたが、清水港から彼らを探してきた張子の虎三(広沢虎造)の知らせで、次郎長の兄弟分江尻の大熊(澤村國太郎)の繩張りが黒駒の勝蔵に荒らされそうになっているのを知った。
三五郎と石松はまたしても大岩の追手に遭ったが、三五郎を追ってきた大岩の妹が三五郎の薄情を悲しんで滝に身投げすると騒ぎ出し、さすがの女蕩し三五郎も一寸閉口垂れた。
百叩きの刑をうけて放免された次郎長一行は早速清水港へ急ぎの旅をつづけていた。


寸評
前作でほんの少し登場した森の石松を中心に描いているが、やがて石松と共に次郎長一家に入ることになる追分の三五郎が登場している。
次郎長一家とは関係なく、森繁久彌の石松と小泉博の三五郎による掛け合いが続き、これに久慈あさみの投げ節お仲が絡むという展開がずっと続く。
女にモテモテで調子のよい三五郎と、吃音のハンデを持ちながらも人のいい石松の掛け合いは面白いが、何といっても森の石松を演じている森繁久彌の軽妙な演技が際立っている。
この頃の森繁久彌はまだまだ駆け出しと言ってもいいような時期だったと思うが、彼の原点はこの作品にあるのかもしれない。

おもとを巡って追手の大岩と争いを起こし足を怪我した三五郎を石松が助太刀する。
意気投合した二人は宿屋で酒を酌み交わすが、調子のいい三五郎は女中へのチップを石松からせしめ賭場へ行き投げ節お仲と出会う。
追いかけてきた石松もバクチにはまりスッカラカンにされる。
お仲を好いた二人だが、要領のいい三五郎に馬鹿正直な石松が振り回されるという顛末がそれらの経緯の中で描かれていく。
二人のキャラクターを決定づけるように、少々くどいと思われるくらい同類のエピソードが手を変え品を変えで描かれているので、僕はこの間の描き方に間延び感を感じた。

よくわからないのは投げ節お仲の性格だ。
三味線流しをしながら、その土地の親分の元でイカサマ博打をするしたたか女だが、この作品におけるヒロイン的な存在でもある。
心にもなく石松に「好きよ」と言って二人一緒の旅立ちを約束しておきながら「あんな男は大嫌い」と言わせてはヒロインとしていかがなものか。
ヒロインなら一見悪そうだが、本当はいい女なのだという一面をもっと見せても良さそうなのにと思う。
うぶな素人娘ではなく、世間にもまれた玄人筋の女を意識させるためだろうか。
その為に吹き替えながらお仲のヌードシーンを挟んでいる。

このお仲を接着剤にして前半と何の関係もない次郎長一家を後半で描いているが、やはり別々の話が一つの作品の中にあるという違和感はぬぐえない。
これでシリーズは3作目となるが、主人公の次郎長に特別な魅力はなく影が薄い。
むしろ脇役たちに魅力的なキャラクターと役者が並んでいるように思える。
法印大五郎の田中春男などが存在感を見せ始めている。
極めつけは前述のとおり森の石松の森繁久彌である。

張子の虎三がやってきて、次郎長に清水港で江尻の大熊と黒駒勝蔵の出入りが迫っていることを告げる。
三五郎を慕うおもとの兄が黒駒勝蔵の代貸である大岩だということで次回作へのつなぎを感じさせる。

次郎長三国志 第二部 次郎長初旅

2023-11-29 06:58:39 | 映画
「次郎長三国志 第二部 次郎長初旅」 1952年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 小堀明男 若山セツ子 河津清三郎 田崎潤 森健二
   田中春男 石井一雄 森繁久弥 広沢虎造 豊島美智子
   隅田恵子 和田道子 三好栄子 沢村国太郎

ストーリー
御用提灯の群れが喧嘩の罪で次郎長(小堀明男)や大熊(沢村國太郎)たち親分の行方を追っている。
次郎長はお蝶(若山セツ子)と二世のちぎりの盃をし、次郎長一家が役人をひきつけ客人の親分衆を裏口から逃がし、次郎長はお蝶を残し大政(河津清三郎)、桶屋の鬼吉(田崎潤)、関東の綱五郎(森健二)、法印大五郎(田中春男)をつれて旅へ出た。
途中、赤鬼の金平の仔分相手に果し合いとなった増川の仙右衛門(石井一雄)のため口を利いてやった。
そして次郎長一行は、昔馴染みの沼津の佐太郎(堺左千夫)宅に立ち寄る。
佐太郎は女房お徳(隅田恵子)の着物を質に入れ、久しぶりの次郎長を歓待する。
佐太郎に同情した仙右衛門は、佐太郎をそそのかして次郎長たちの着物を質に入れ、賭場へ草鞋銭を稼ぎに出かけるが、かえって自分たちまで裸になってかえって来た。
次郎長は、仙右衛門の恋人おきね(和田道子)の父を訪ねて二人の仲をまとめてやり、ここでやっと古着を都合して金平の許へ乗込んだ。
金平は次郎長の言葉をきかず新川の川原での果し合いになり、次郎長たちは金平一家を押しまくった。
一行は街道の茶店へはいり、そこで独り酒を呑んでいる吃音の男を鬼吉と法印が笑ったことからこの男と喧嘩になった。
吃音のくせにこの男、喧嘩となると滅法歯切れのよいタンカを切るのに次郎長は惚れ込む。
吃音の男は森の石松(森繁久弥)と名乗った。
石松に別れた一行は更に気の向く旅を続けるのだった。


寸評
人情編ともいえる一遍だ。
ほだされるのが佐太郎の女房お徳の亭主のメンツを想いけなげに尽くす姿である。
一見冷たそうで勝ちそうに見える隅田恵子扮する女房・お徳の姿がいじらしく思える。
兄弟分が訪ねてきたことを悟ったお徳はあばら家を掃除する。
ありたけの酒を出し、足りない分は自分の着物を質屋に入れて都合をつける。
料理屋が魚屋に注文するのかとからかわれながらも酒の肴も都合をつける。
次郎長たちもその事を悟り、少ない酒で酔ったふりをしたり、感謝しながら酒と肴をもらっている。
お徳は着物を売ってしまったので寒さに震えながら眠る事になるが、それもいとわない気丈ながらも気のいい女で、男性の観客はこの女房に相当肩入れしてしまいそうな描き方である。
それに比べると亭主の佐太郎は頼りない。
女房に頭が上がらないようであるが、女房のことを心底いたわる優しい一面を持っていて、この夫婦はいい夫婦関係なのだと感じさせる。
荒れ放題になっている佐太郎の料理屋で繰り広げられる様子は、これだけで一つの作品になりそうな人情噺だ。

この夫婦に対比するような形で登場するのが増川の仙右衛門とその恋人おきねである。
仙右衛門は若いし世間知らずでもある。
おきねもお蝶ほどのヤクザ世界の男である仙右衛門の立場にたいする理解力がない。
おきねはお徳やお蝶のような大人になり切れていない娘として描かれている。
おきねは家を飛び出していて、頑固な父親はおきねも仙右衛門も許していないが、母親はおきねのことが気になってしようがない。
また二人の間を許すようになった父親が着物をなくしている次郎長一家のために必死で都合をつけてやる姿は、娘を想う父親の真の姿でもあり、父と娘の親子関係をうまく描いている。
佐太郎の件と言い、おきね親子の件と言い、今回は人情に訴える要素が非常に多い。

それに比べると金平一家との果し合い場面はあっけない。
おおよそヤクザの喧嘩はこのようなものだろうというものだが、乱闘をカメラワークを駆使して描くと言うものではなく、次郎長一家の無事を描くことで勝利を示していて、肩透かしを食ったような描き方だ。
それを補うのが森の石松の登場である。
おそらく現在ではほとんどカットされてしまいそうな森繁の吃音演技は見事というほかない。
わずかの登場であるが非常に印象深い。
極度の吃音なのだが仁義を切るときだけ「立て板に水」になるのが面白い。
手前生国と発しまするは三河にござんすから始まり、てまえ元は堅気、気立てはいいが女にほれるが悪い癖、
金波銀波の遠州灘、男伊達なら度胸なら俺の右に出るものはねえと続き、ピリッと利いたワサビの気風、惚れた女は星の数、情に脆いが玉にキズ、娘十八のアダさす森の茂みはオイラのしけば、胸のほてりを醒まそうと、石を抱いて松の根枕、人呼んで遠州森の石松と申す 粋な・・・ええいぃ 粋なヤクザでござんす。
惚れ惚れするタンカだった。

次郎長三国志 第一部 次郎長売出す

2023-11-28 07:19:42 | 映画
「次郎長三国志」シリーズを掲載します。

「次郎長三国志 第一部 次郎長売出す」 1952年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 小堀明男 若山セツ子 田崎潤 森健二
   河津清三郎 田中春男 広沢虎造 豊島美智子
   広瀬嘉子 沢村国太郎 小川虎之助 阿部九州男

ストーリー
清水港きっての暴れん坊米屋の長五郎、通称次郎長(小堀明男)が、張子の虎三(広沢虎造)が巻き起こした居酒屋の喧嘩出入りで旅人の小富、武五郎を海へ叩き込んだ。
死なせてしまったと思い込んだ次郎長は長い草鞋を吐くことになり、幼なじみでもある江尻の大熊(澤村國太郎)の勧めもあり、次郎長に思いを寄せる大熊の妹お蝶(若山セツ子)に見送られ旅に出る。
二年ぶりに清水港へ帰る途中、秋葉の馬定一家の賭場で鬼吉(田崎潤)という若者に惚れられ子分を契った。
この鬼吉が一目惚れした寿々屋の娘お千ちゃん(豊島美智子)の事で馬定一家の乾分と喧嘩をし、馬定一家の関東綱五郎(森健二)が喧嘩口上の使者としてやって来た。
しかし五丁徳(阿部九洲男)などの卑怯なやり口を怒った彼は、喧嘩に加勢はおろか、やがて軌りまくられて逃げ出した五丁徳らを尻目に次郎長第二の子分となった。
お千に一目惚れした綱五郎は、飲み屋で鬼吉と取組み合いの大喧嘩を始め、浪人風の相客伊東政五郎(河津清三郎)に表へ放り出された。
政五郎は侍の世界に愛想をつかし藩を出奔してきた腕も学問もある人物で、武士階級を離れることを頑なに拒む妻ぬい(広瀬嘉子)への未練を断ち、名も大政と改めこれも次郎長から盃をもらって渡世人となった。
折から次郎長の叔父和田島の太左衛門(小川虎之助)が甲州津向の文吉(清川荘司)に喧嘩を売られた。
次郎長は喧嘩の原因が馬定の中傷だと知り、仲裁役を買って出て男を上げた。
この出入りでお経よりも喧嘩が好きという変な坊主法印大五郎(田中春男)が加わり、又一人乾分がふえた。


寸評
僕が子供の頃、いや今もってと言ってもいいかもしれないのだが、浪花節(浪曲師)と言えば広沢虎造であった。
森の石松を語ったものが耳に残っていて、「江戸っ子だってねえ」、「神田の生まれよ」、「そうだってねえ、酒のみねえ、スシ喰いねえ」というしわがれ声の名調子は忘れ難い。
その広沢虎造が喧嘩が全く弱いヤクザ者の張子の虎吉として登場していて、語り部としての役割も担っている。

侠客と言えば幡随院長兵衛、黒駒勝蔵、国定忠治、大前田英五郎、笹川繁蔵、飯岡助五郎、新門辰五郎、会津小鉄などが思い浮かぶが、中で最もポピュラーなのが清水次郎長だろう。
清水一家二十八人衆などと呼ばれる子分たちがいたようだが、ここでは初期段階で徐々に子分を増やしていく様子が描かれている。
子分の一番手となるのが桶屋の鬼吉で、このキャラクターを演じる田崎潤がやたらと目立っていて、誇張された名古屋弁を駆使してあばれまわり、その存在感は次郎長を追いやってしまっている。
田崎潤が桶屋の鬼吉を演じるために自ら東宝に企画を売り込んだということを知り、それならばさもありなんということが分かる桶屋の鬼吉の活躍である。

二番目の子分になるのが関東綱五郎なのだが、この二人がお千ちゃんを巡って恋のさや当てをする。
お千ちゃんが客に絡まれているのを救ったのが鬼吉なのだが、綱五郎がお千ちゃんに絡む態度は先のゴロツキと大して変わらないじゃないかと言うもので、とても正義のヒーロには見えなかった。

三番目の子分となるのが大政である。
武士の家に養子に入ったが、武士の暮らしが肌に合わず家を抜け出している。
政五郎を探しに来て、家に帰ってくれと請願する妻のぬいとの別れは涙を誘う場面なのだが、武士の暮らしを嫌う夫と、家名を守ろうとする妻の葛藤にもう少し深く入り込めていたならより感動するシーンとなっただろう。
ここで一緒に暮らそうと誘う夫に見切りをつけて実家に帰る妻の心情をもう少し描いて欲しかったところだが、それを描き込めばこの作品の持つ軽妙な雰囲気が壊れてしまうのかもしれない。

目に付くのは次郎長一家が走る姿である。
桶屋の鬼吉が口上を伝える役に立ち、三保の松原での馬定一家との出入りに向かう場面ではクラブ活動のランニングよろしく掛け声に合わせて駆け出している。
和田島の太左衛門と甲州津向の文吉の出入りでも、喧嘩の原因を作った男を戸板に縛りつけ、文吉方に掛け声とともに駆け出している。
何かといえば駆け出す次郎長一家という感じだ。
この出入りで、河原に寝転がっていた法印大五郎が飛び入り参加し次郎長一家に加勢している。
次郎長一家4番目の子分である。
一家には森の石松、増川仙右エ門、大瀬の半五郎、追分三五郎など馴染みのある子分がいるが、彼等はまだ登場せず次回作への期待を持たせて終わるのはシリーズの第一作らしい。

書を捨てよ町へ出よう

2023-11-27 07:36:12 | 映画
「書を捨てよ町へ出よう」 1971年 日本


監督 寺山修司
出演 佐々木英明 斎藤正治 小林由起子 平泉征
   森めぐみ 丸山明宏 新高恵子 浅川マキ
   鈴木いづみ 川村郁 J・A・シーザー
   クニ河内 チト河内 川筋哲郎 蘭妖子

ストーリー
“映画の中には、何もないのだ。さあ、外の空気を吸いに出てゆきたまえ”というセリフで映画は始まる。
主人公の「私」の名前は北村勝、しかし誰も私の名を知らない。
月給二万八千円のプレス工の「私」は、ときどき人力飛行機で空を飛ぶ幻想にひたる。
「私」の家族は五年前に一家そろって家出してきた。
万引きぐせのあるおばあちゃん。
もと陸軍上等兵、もと屋台ラーメン屋、いま無職、48歳になってもまだオナニーを止められない親父。
ほとんど口をきかず、ウサギを偏愛している妹セツ。
「私」は、ある学校のサッカー部の「彼」を、尊敬している。
「彼」は「私」のことを、一人前の男にしてやるといって、元赤線の娼婦みどりのところへ連れていった。
全裸のみどりの愛撫をうけながら、妹とお医者さんごっこをしたこと、女医に乳房を押しつけられたことなど少年時代のことを想い出したが……いつのまにか、「私」は娼婦の部屋から、はだしで逃げ出していた。
おばあちゃんは、隣の部屋の金さんから、セツの、ウサギの可愛がり方が異常だといわれ、金さんにウサギを殺させる。
これを知ったセツは大変なショックをうけ、家を飛び出し、一晩中表をさまよい歩いたあげく、サッカー部の脱衣所にさまよい込み「彼」をふくむ部員たちから輪姦される。
「私」は、ぐうたらな親父を立ち直らせようと思い、ラーメンの屋台車を手に入れることを「彼」に頼む。
「彼」が手に入れた屋台車は盗品で、「私」は刑事に手錠をかけられ連行される。
そして「私」は映画の中の「演技」の私に訣別する。


寸評
場内の照明が消えて真っ暗になり映画が始まる。
真っ白だったスクリーンも黒くなるのだが、なかなか映画は始まらず観客は相変わらず暗闇の中だ。
そこで主人公が登場し、観客である我々に語り掛けてくる。
”そっちは禁煙なんだろ?こっちは自由だ。映画館の中にいても何も起こらない、さあ映画館を出て外に出て行きたまえ”と呼びかける。
「書を捨てよ町へ出よう」とは何ともカッコいいタイトルである。
書とは文字通り本のことであるが、同時に学校や会社、家庭といった制約のある社会のことで、そこでは勤勉さが評価されるであろう。
町とはその逆で規則や道徳の支配が効かない場所で、いわばアウトローの世界なのだがその中に飛び出さないと真実の人生はないとでも言いたいのだろう。

映画はすべてがハプニングでストーリーなんか存在しない。
脈略もなく町に飛び出し、脈略のない出来事を描き出すが、ストーリーを追うことになれている僕はついていけないものを感じる。
映像は実験的で、時々緑やピンク、青などのフィルターがかかった画面となる。
それが何を表しているのか僕は分からなかった。
ただアジテーション的な叫びが聞こえ、音楽が流れてくると変な高揚感があった。
僕は見たことはないのだが、何か「天井桟敷」の公演を見ているような気になった。
当時はアングラ劇団が一部の人たちにはもてはやされていた。
「天井桟敷」の寺山修司、「状況劇場」の唐十郎、「早稲田小劇場」の鈴木忠志、「黒テント」の佐藤信たちだ。
この映画はやはりアンダーグラウンドである。
実験映画と言っても良いが、僕には2時間以上の上映時間が辛かった。

主人公は青森県の田舎出身で鬱屈した青春を送っている。
若者としての情熱を持ち合わせているが、その情熱を何処にぶつけたらいいのか分からない。
サッカー部の先輩に、男になる為に元赤線の娼婦を紹介してもらうがこのシーンは訳もなく長い。
その最中に少年時代の性的な思い出がよぎり、その場所から靴も履き忘れて逃げ出してしまう。
普通の映画なら、そんな意気地なしの彼の屈折した青春を描くのだろうが、そんな雰囲気はない。
色んな人物が出てくるが、人生でカッコイイことなんてほとんど無いとでもいいたいのか皆カッコ悪く生きている。
これはATG作品で商業映画ではない、逆に言えば この映画は芸術映画なのだ。
映画は娯楽であると同時に芸術でもあると思うのだが、共存するかどうかは見る人によって違うだろう。
この映画に関しては僕の中で共存しなかったので、これは芸術映画なのだと思い込むことでしか消化することが出来なかった。
最後はオープニングと逆で真っ白な画面となり、アジテーションが流れる。
実験映画なので、スタッフやキャストのクレジットはない。
その代わりに主人公が名前をあげ、最後にそれぞれの顔が次々映し出されて映画は終わる。

少林サッカー

2023-11-26 07:23:53 | 映画
「少林サッカー」 2001年 香港


監督 チャウ・シンチー / リー・リクチー
出演 チャウ・シンチー ン・マンタ ヴィッキー・チャオ
   パトリック・ツェー カレン・モク セシリア・チャン
   ヴィンセント・コック ウォン・ヤッフェイ
   モウ・メイリン ティン・カイマン ラム・ジーチョン

ストーリー
“黄金の右”と呼ばれるサッカー選手ファンは、チームメイトのハンが持ちかけた八百長試合に荷担したことがきっかけで、自慢の脚を折られてしまった。
夢半ばで諦めざるを得なかったファン。
それから20年、ファンは、いまやサッカー界の首領として君臨するハンの雑用係にまで落ちぶれていた。
自分を陥れたハンへの怒りを抱くファンは、ある日、少林拳使いの不思議な青年シンに出会う。
が、自分の不自由な体を指摘されてカッとなる。
ファンと別れたシンは、饅頭屋の店頭で、太極拳を使って饅頭を作るムイと出会う。
シンは彼女に好感を持つが、ムイは顔中にできている吹き出物のせいで心を閉ざしていた。
しかしシンの優しさにより、少しずつ心を開いていく。
一方、ファンはシンの恐るべき脚力に気づき、サッカー・チームを作ることをシンに持ちかける。
シンはメンバー集めのため、かつて少林寺で修行した兄弟たちをスカウトして回った。
少林チームの誕生だ。
それぞれ得意技を活かしてどんどん勝ち進む少林チームは、ついにサッカーの全国大会に出場を果たす。
決勝戦の相手は、ハン率いるデビルチーム。
だが、ハイテクトレーニングや筋肉増強剤の投与で不死身と化したデビルチームに、少林チームのメンバーは次々つぶされていく。
代わりの選手がいなくなり、少林チームが負けを覚悟したその時、なんと坊主頭にしたムイがやってきた。
彼女をメンバーに加え試合再開、少林チームは見事優勝を果たすのだった。


寸評
実にバカバカしいギャグ満載のコメディなのだが、繰り広げられるバカバカしさを受け入れられるかどうかで見る人の評価が分けれる。
劇画のような出だしのシーンに続き、饅頭屋で働くムイが登場して太極拳の達人らしく生地をこねる。
顔中に吹き出物がある事から女性としての自信が持てず、前髪を伸ばして顔を隠すようにしているのだが、その仕草や描き方からこの映画の雰囲気がくみ取れる。
ダンスシーンが出てきて、ミュージカル仕立てかと思いきや、シンが缶ビールの空き缶を蹴とばすと遥か彼方に飛んでいくので、これはもう何でもありのドタバタ喜劇なのだと分かる。
この空き缶は路地のコンクリート壁に突き刺さっていて、それを引っこ抜くと壁が崩れ落ちるから、作品は劇画の様ではなく全くの劇画の世界といえ、このオーバーアクションの描き方は最後まで続く。

ファンとシンはサッカーチームを編成するためにメンバー集めに奔走するが、その相手はシンのダメ兄弟たちで、今までの描き方からして観客がすでに予想している通りのダメぶりと、半面持っている超人的な能力が示される。
その能力は少林拳の技らしいもので示されるが、文字面からしてサッカーにおける技術としての想像はつく。
彼等の技が先ず示されるのが練習試合なのだが、最初は対戦相手の反則を通じてボコボコにされる。
目覚めた彼等はついに各自が持つ少林拳の技を示すのだが、これがまた漫画の世界。
ある者は空中浮揚を見せ、ある者は逆立ちして頭で立っているという具合である。
メンバーのニックネームも鉄の頭、旋風脚、鎧の肌、魔の手、軽功・空渡りなど奇想天外なものばかり。
彼等は超常的な技を蘇らせて不良チームを倒すのだが、それは劇画を実写化したような描き方で笑ってしまう。

ギャグ満載の中で唯一しんみりさせるのがムイの恋だ。
ムイはシンとの出会いから少しずつ自分に自信が持てるようになり彼に惹かれているのだが、シンは悪気があるわけではないが無神経な面があり、ムイの気持ちに対して鈍感だ。
ムイは悲しみの涙を流し、涙は饅頭の生地におちて塩味がするようになってしまったので饅頭屋をクビになっているというエピソードが披露される。
他がすべてギャグで処理されているから、このムイのエピソードはシリアスさがあって切なくさせ、全体の中の一つのアクセントとなっている。

当然見せ場は決勝戦となるし、その為には対戦相手は強くなくてはならない。
その強さは新型薬物のドーピングと謎の科学トレーニングでもたらされているらしいのだが、それが分かりづらい。
デビルチームの放つシュートに不死身のゴールキーパーもノックダウンしてしまうのだが、事前に彼等の強さを見せておいてくれた方が盛り上がったと思う。
退場や負傷でメンバーが足りなくなると没収試合となりそのチームは3対0での敗戦となるらしく、実際にそのような試合は存在しているようである。
人数不足でピンチになった時ムイが登場するが、あっという間の活躍で勝利してしまうので、大活躍を期待していた僕としては肩透かしを喰った感はある。
さて冒頭で記した問いかけだが、僕はこの作品に入り込むことはできなかった。

少年と自転車

2023-11-25 08:20:57 | 映画
「少年と自転車」 2011年 ベルギー / フランス / イタリア 


監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ / リュック・ダルデンヌ          
出演 セシル・ドゥ・フランス トマス・ドレ
   ジェレミー・レニエ ファブリツィオ・ロンジョーネ
   エゴン・ディ・マテオ オリヴィエ・グルメ

ストーリー
シリルは、もうすぐ12歳になる少年。
父親は彼を児童養護施設に預けたまま行方知れずに。
彼の願いは、自分を児童養護施設へ預けた父親を見つけ出し、再び一緒に暮らすこと。
シリルは自分が捨てられたとは露とも思わず、父親を必死で捜し続ける。
そんな中、美容師のサマンサと出会う。
彼女は、なくなった大切な自転車を取り戻してくれた。
そしてシリルは、サマンサに週末だけの里親になってくれと頼み、2人で父親捜しを続ける。
やがて、ようやく父親を見つけ出し、再会を果たしたシリル。
ところが父親は喜ぶどころか、シリルをすげなく拒絶してしまう。
サマンサはシリルを心配し、それまで以上に彼の世話を焼くようになる。
恋人との間に軋轢が生まれるほどに、彼女はシリルを大切に思い始めていた。
どうしようもなく傷ついた心を抱えるシリルだが、ふたりの心は徐々に近付いていくかに見えた。
けれど、ふとしたことで知り合った青年との関係が、シリルを窮地に追い込む…。


寸評
必要最低限のセリフで細かな説明もほとんどなく観客に対して多くの余白を残して逆に多くのことを物語る構成。
その流れに沿って美容師が少年に徹底した愛情を注ぐ理由は語られない。
あくまでも観客に判断をゆだねているのだが、このスタンスを受け入れることが出来るかどうかが、見た人にとってのこの映画の評価につながると感じた。
僕は感情過多になりがちな物語を淡々と描写しながら、登場人物のしぐさや表情からその内面を描がきだせていたと思うので良かったと思っている。
少年シリル役のトマス・ドレ、美容師役のセシル・ドゥ・フランスの自然な演技が全体を支えていた。
美容師のもとで立ち直るかに思えたシリルが、まもなくワルい仲間に目をつけられて悪の道に足を踏み入れてしまうが、そのあたりの彼の心情も想像の域になっているのだが、ふとしたきっかけで道を踏み外してしまうことが起こりうる少年期の不安定さを表現していたと思う。
当初、金の受取を拒んでいて、無理やり押し付けられた経緯からして、彼が父親への援助が真意だったとは思えないので、僕は上記の様な想像をするのだ。
一方で、大人達(特に男が)が見せる身勝手な行為が少年に同情を誘うのだが、ラストの大人が見せる身勝手さがラストシーンを逆に引き立てていた。
少年は素直ではないし、憎たらしい一面を随所で見せるので、一方的に感情移入出来る存在ではない。
それでもラストシーンで少年の新たな姿を見せて希望の火を灯してくれている。
きっとこの少年に明るい未来が待ち受けていると、美容師にとっても平和な日々が訪れるであろうことを僕に暗示してくれた。
やはり映画は希望を持って終わらなくてはならないと思う。

少年H

2023-11-24 07:06:29 | 映画
「少年H」 2012年 日本


監督 降旗康男
出演 水谷豊 伊藤蘭 吉岡竜輝 花田優里音 小栗旬
   早乙女太一 原田泰造 佐々木蔵之介 國村隼
   岸部一徳 濱田岳 山谷初男 でんでん

ストーリー
昭和初期の異国情緒あふれる神戸。
胸に名前の頭文字“H”が大きく刺繍されたセーターを着るHこと妹尾肇(吉岡竜輝)は、好奇心に満ちた少年だった。
洋服の仕立屋を営む父・盛夫(水谷豊)、クリスチャンの優しい母・敏子(伊藤蘭)に温かく見守られながら、2歳下の妹の好子(花田優里音)とともに家族4人で楽しく元気いっぱいの毎日を送っていた。
仕事柄、外国人との付き合いも少なくない盛夫は偏見や周囲の空気に流されることなく、自分の目で見て考えることの大切さをHに教えていく。
幸せいっぱいに過ごす妹尾一家だったが、時代は急速に軍国化の道を突き進み、近所のうどん屋の兄ちゃん(小栗旬)が政治犯として逮捕されたり、召集されたおとこ姉ちゃん(早乙女太一)が脱走したりと、一家の周囲にも次第に戦争の足音が忍び寄ってきた。
いよいよ開戦し、軍事統制が一層厳しくなる。
自由に物を言うこともできにくい空気が漂う中、自分が疑問に思ったりおかしいと感じたりしたことを素直に口にするHに、盛夫はしっかりと現実に目を向けるよう教える。
やがてHは中学へ進学したが、明けても暮れても軍事教練ばかり続く。
盛夫は消防署へ勤め、敏子は隣組の班長になり、好子は田舎へ疎開していた。
敗戦の色が濃くなり、神戸の街も空襲により一面焼け野原となる。
そして迎えた終戦。
少年Hたちは、新たなスタートを切るために一歩踏み出す……。


寸評
少年の目を通して戦争直前、戦中、戦後の混乱期が描かれているが、声高に反戦を歌うようなところがなく、ごく普通の人々を通して世相を描いているのが新鮮と言えば新鮮と言える。
洋服の仕立屋を営む妹尾盛夫はリベラルな思想を持つ人物だが、現実的な選択をする一般的な庶民である。
スパイにみられるといけないからと息子の肇に軍艦の写生を禁じているし、クリスチャンを咎められたら踏み絵をすればいいんだと家族に言って聞かせている。
世の中の流れに逆らってまで自分の信念を表に出して生きようとしている人物ではない。
思いをはせてみれば世の中で一番多いタイプの人間だと思う。
悪く言えば長いものには巻かれろという生き方だが、性格はいたってまじめで誠実な人物である。
父親の影響を受けている息子の肇は、そんな大人びた生き方が出来ないから、つい余計な一言を発してしまう。
それはまともな意見なのだが、得てしてあまりにもまともすぎる正論は受け入れられないことがある。
少年の純粋さと、理想を受け入れない時代の流れの中で、肇は現実社会と戦っていくことになる。

現実に目を向けて生きていかざるを得ない少年を描いているのだが、全体的にリアリティを感じないのが残念。
とても戦時中のことを描いているとは思えない描写が多くて本当に自伝的小説が原作なのかと疑ってしまう。
エンパイアステートビルが写った絵葉書を見、車の普及や地下鉄の発展を聞き、肇は開戦直後に「アメリカに勝てるわけない」と思うのだが、肇はそれほど賢明な子供なのだろうか。
目標を失って気が抜けたようになってしまった父親に対して、肇は一体どう思っているのかと詰め寄るのだが、軍国主義の中を生きている子供が両親にタメ口でつっかかるのも違和感が生じる。
何よりもセット丸出しの町内の様子がリアリティを奪っていた。

世相を表すシーンを盛り込んでいるので、当時の様子が分からぬでもないが至ってのんびりしたものに感じる。
防空壕のシーン、バケツリレーの訓練シーン、中学生への対戦車用の軍事訓練、思想犯に対する赤狩り、スパイを疑われる家族への嫌がらせ、戦後の思想変節など、どのシーンをとっても風俗描写的に描かれているだけで、そこにドラマを感じ取ることはできない。
僕は、この作品は明らかな失敗作だと思うが、反面良心的な作品であることも確か。
見所は父親と息子の精神対決だろう。
それに博愛主義者の母親との対峙も加わって、成長していく少年の気概が感じ取れるものとなっている。
あの時代に生きた少年たちは精神的にも肉体的にも鍛えられた強固な子供たちだったのだと思う。
戦後復興の礎になりうるものを身に着けていたのだと感じる。
原田泰造の軍事訓練教官は恥じらいもなく民主主義を謳歌する側に廻っているのだが、戦後民主主義は見方によっては軟弱な日本人を生み出していったのかもしれない。
佐々木蔵之介の教官は元の時計屋に戻って必死に生きている。
父親も仕立て屋を再開することになる。
庶民は雑草の如く強いのだ。
それにしても、降旗康男って高倉健を使わないとダメな監督なのかなあ・・・。

将軍家光の乱心 激突

2023-11-23 06:46:59 | 映画
「将軍家光の乱心 激突」 1989年 日本


監督 降旗康男
出演 緒形拳 松方弘樹 千葉真一 加納みゆき
   二宮さよ子 真矢武 織田裕二 浅利俊博
   京本政樹 長門裕之 丹波哲郎

ストーリー
将軍・徳川家光(京本政樹)は性格、容貌が自分と似ていないという理由で長男・竹千代(茂山逸平)を嫌って佐倉藩に預け、次男・徳松を溺愛していた。
その上将軍継承に絡み、老中・阿部重次(松方弘樹)に対して竹千代を殺すよう命じていた。
ある日、山間の温泉で入浴中の竹千代を幕府の刺客団が襲ったが、石河刑部(緒形拳)ら凄腕の浪人達が護衛していたため、事無きを得た。
佐倉藩主・堀田正盛(丹波哲郎)が家光の陰謀を考えて備えていたのだ。
石河刑部と家光、阿部の間にも因縁があった。
かつて石河は妻を阿部によって家光の側女として無理矢理召し上げられていたのだ。
それが、お万の方(二宮さよ子)であった。
幕府から竹千代に元服式を行うので江戸城へ出仕するよう命令がきた。
罠と知りつつ竹千代は石河らに守られながら江戸城へと向かった。
途中で幾度となく幕府の刺客に襲われたが、そのたびに命知らずの浪人達は竹千代を守り抜いた。
安倍配下の伊庭庄左衛門(千葉真一)は途中の藩を動員し山狩りを行い石川たちを追い詰めていく。
石河は宿場町で大軍勢に囲まれも、死を覚悟して矢島局(加納みゆき)に小刀を渡して竹千代を頼んだ。
石川は一騎打ちの勝負で伊庭を倒し、命を投げうって竹千代を江戸城へと導く。
家光はお万の方に竹千代を毒殺するよう命じたが、かつての夫・石河が命を賭けて守ろうとした竹千代を殺すことはできなかった。
家光はついに自分の手で竹千代を殺そうとするが、矢島局に小刀で刺されたのだった。


寸評
アクションに次ぐアクションの連続で、その攻防は楽しめるがそれ以外には何もないので、理屈をつけずに単純に見るのに限る。
アクション監督を千葉真一が務めており、追手たちは千葉が率いるJAC(ジャパン・アクション・クラブ)の面々が演じており、そのスタントぶりは十分楽しめる。
オープニングでいきなり暗殺集団が竹千代を襲ってくるのだが、スローモーションも駆使して大アクションが繰り広げられ、主演の緒形拳がキャスティング名と共に現れる。
そこからは緒形拳を頭とする雇われ者が竹千代を守って江戸に向かうのを、千葉真一率いる一団が追いかける展開が繰り広げられる。
追われる方と、追う方との虚々実々の知恵比べや駆け引きは全くなく、ただただ活劇が繰り返される。
ロープを伝って対岸の山へ移ったり、絶壁から川に飛び降りたりと、AJCならではのスタントが手を変え品を変えて描かれ続けられる。
アクションシーンの臨場感は馬にも及び、撃たれて倒れる馬や仕掛けに引っかかって倒れる馬などが度々描かれ、動物愛護協会からクレームが出てもおかしくないぐらいのアクションぶりで、馬は主役の一人(?)に挙げても良いかもしれない。

石河刑部の妻だったのが、無理やり将軍家光の側室にと召し上げられたお万の方であり、お万の方は老中阿部の妹である。
阿部はその事を通じて老中まで出世したという人間関係が裏にあるのだが、前述のようにアクションに隠れてしまっていて、運命に翻弄された憎しみのようなものが描き切れていない。
途中でその出来事がわずかに挿入されるが、その事が劇的な効果をもたらしているとは言い難い。
ラストでお万の方が元夫の所持していた品を見て態度を変えるが、その場面も盛り上がりには欠ける。
矢島の局によってもたらされる結末もあっけなく、結末を急ぎ過ぎているきらいがある。
ちょっと大雑把な作りに感じてしまう。
時代劇と言えば東映がお手のものだったが、任侠映画に押されたりして途絶えていた時期があり、1978年に12年ぶりに時代劇を復活させて「柳生一族の陰謀」を撮り大ヒットしたのを皮切りに何本か撮られた。
本作は久しぶりに撮られた時代劇だが、かつての時代劇の輝きはない。
一番の見せ場は緒形拳と千葉真一の対決シーンで、二人は所狭しと暴れまくる。
ある時は屋根の上で戦い滑り落ち、ある時は天井を破って落下し、またある時は床を跳ね上げ飛び出してくる。
千葉真一はアクション監督に付け加えるようにキャスト名が表示されているから、アクション監督に重きを置いていたのだろうが、ここでの立ち回りにおいても面目躍如だ。
全体において大層な芝居っ気がある演出となっているのだが、これは中島貞夫の脚本によるものか、降旗康男の意図したものだったのか。
これは4代将軍継承問題を題材にしているが、作品としては3代将軍継承問題を描いていた「柳生一族の陰謀」の方が断然よくできているし面白い。
ここで描かれた家光は半ば狂人のようであり、「柳生一族の陰謀」では不幸な容貌と吃音という性癖で秀忠に疎まれていたのだが、どうして家光はそのように悪意に満ちて描かれるのだろう。

春江水暖~しゅんこうすいだん

2023-11-22 07:19:54 | 映画
「春江水暖~しゅんこうすいだん」 (2019) 中国


監督 グー・シャオガン
出演 チエン・ヨウファー  ワン・フォンジュエン
     スン・ジャンジエン  スン・ジャンウェイ
   ジャン・レンリアン  ポン・ルーチー
   ドゥー・ホンジュン  ジャン・グオイン
   ジェアン・イー    スン・ズーカン

ストーリー
杭州市、富陽。大河、富春江が流れる。
しかし今、富陽地区は再開発の只中にある。
顧<グー>家の家長である母の誕生日の祝宴の夜。
老いた母のもとに4人の兄弟や親戚たちが集う。
その祝宴の最中に、母が脳卒中で倒れてしまう。
命は取り留めたものの認知症が進み、介護が必要になってしまう。
「黄金大酒店」という店を経営する長男、漁師を生業とする次男、男手ひとつでダウン症の息子を育て、闇社会に足を踏み入れる三男、独身生活を気ままに楽しむ四男。
恋と結婚に直面する孫たち。
彼らは思いがけず、それぞれの人生に直面することになる。


寸評
三国志の孫権が統治していたところが舞台である。
孫権の部下だった周瑜が水軍を率いて活躍したとも聞くから、河川が入り組んでいる地域なのだろう。
その河をとらえたシーンはどの場面であれ美しい。
歴史的な景観、山水画を思わせる美しいショットが映し出される。
俯瞰的なカメラワークと音楽が重なった相乗効果によって、悠久の時を感じる。
グーシーとジャンが川べりの公園で語り合っている。
そこでジャンは目的地まで泳ぐ自分が早いか、歩いていく彼女が早いか競争を持ち掛け、ジャンは河に飛び込み泳ぎ始める。
川岸には柳並木が続いている。
大河を泳いで行く男とその周りに悠然と広がる風景を遠景で何分間にも及ぶ長いトラベリングで追い続ける。
石段のある場所に泳ぎ着くとグーシーが先に到着待っている。
服を着て、船の時間がないからと船着き場に急いでいき、船に乗り込み会場に上がり、二人はデッキに出て大河を眺める。
そこまでを遠景でとらえて一気に見せる。
長回しと言うより、ロングテイクと言った方が似合う、とても長いワンカットである。
長いカットは度々使われて、その緩やかなカメラワークによって、時間と空間という概念を感じさせられる。
このカメラワークと映像がすべてと言ってよい作品である。

母のユーフォンは2度目の結婚で富陽へやってきた。
誕生日を祝う場面は、中国の家族、親戚関係を感じさせる。
認知症を発症しても、グーシーを理解し励ます姿に感動する。
長男のヨウフーは「金大酒店」オーナー兼料理人で、昔はシングの選手だったようだ。
金に苦労しているらしく、漁師の弟に魚代が払えずにいる。
ヨウフーの妻フォンジェンは娘のグーシーが金持ちと結婚してくれることを望んでいてジ
ャンとの結婚には反対である。
相手の家にすがろうとする気持ちと共に、娘の幸せを願う親心もある。
この感情はグー家に限ったことではないだろう。
次男のヨウルーは富春江で漁をして船上暮らしだ。
家はあるが、その家も立ち退き・取り壊しになり、立ち退きの金で息子に家を買おうとして
いる。
製紙工場で働いている息子のヤンヤンが近々、結婚の予定なのだ。
ヨウルーの妻アインは息子の幸せだけを願っている極普通の母親である。
三男のヨウジンは妻と別れ、男手一つでダウン症の息子カンカンを育てている。
息子の治療費と借金返済の為にイカサマ博打に手を出している、兄弟の中ではハグレ者な
のだが、グーシーに言わせれば兄弟の中で一番情があるらしい。
四男のヨウホンは再開発の取り壊し現場で働いていて、気ままな独身暮らしをしていたが、
兄の薦めで女性と会う。
映画はこれらの家族が織りなす群像劇なのだが、特に大きなドラマがあるわけではない。
三男ヨウジンの賭博行為がアクセントになっているが、それがメインではない。
物語は母親の発病で始まり、母親の死で終わる。
北京や上海ではない田舎の市井の人々の暮らしはこんなだろうと思わせる。
爆買いをする大金持ちは大勢いるのだろうが、大多数の中国人は描かれたグー家のような
暮らしと意識のもとで生きているのではないかと想像するが、僕は中国社会がよく分から
ないでいる。

ジュリアス・シーザー

2023-11-21 07:25:22 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/5/21は「コイのゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」で、以下「好奇心」「河内山宗俊」「幸福な食卓」「荒野の決闘」「荒野の七人」「荒野の用心棒」「コキーユ-貝殻-」「告白」「午後の遺言状」「ゴジラ」と続きました。

「ジュリアス・シーザー」 1953年 アメリカ


監督 ジョセフ・L・マンキウィッツ
出演 ルイス・カルハーン ジョン・ギールグッド
   ジェームズ・メイソン マーロン・ブランド
   グリア・ガーソン デボラ・カー
   エドモンド・オブライエン

ストーリー
紀元前44年、ローマはジュリアス・シーザー(ルイス・カルハーン)が終世執行官となるに至って、貴族たちの間に政治的憤懣が高まった。
シーザーの反対派はかつて彼が葬り去ったポンペイの追従者たちで、一方シーザーの味方は彼に熱烈な忠誠を誓う軍隊の隊長マーク・アントニー(マーロン・ブランド)であった。
その中間に理想主義者たちがおり、その指導者は哲学者のカトーだったが、彼の自殺後、彼の娘婿ブルータス(ジェームズ・メイスン)がこの中間派の第一人者だった。
シーザー打倒を指導するカシアス(ジョン・ギールグッド)がブルータスを言葉巧みに抱き込みにかかっていた。
3月14日の夜、激しい雷雨をついてカシアス、カスカ(エドモンド・オブライエン)ら謀反一味は、彼らの計画をブルータスに打ち明けるため彼の家の庭に集まった。
ブルータスはシーザー暗殺には賛成したがアントニー殺害には反対した。
一味が帰ったのち、ブルータスの妻ポーシャ(デボラ・カー)は物思いに沈む夫を見て何か気がかりであった。
一方シーザーの妻カルプルニア(グリア・ガースン)もその夜は不吉な夢から目覚め、夫に今日は元老院へ行かぬよう切願したのだが、シーザーは元老院に王冠が自分を待っているものと信じ、振り切って出かけた。
謀反者たちは計画どおりシーザーを殺害した。
シーザーの死を悼んだので熱狂した群衆は暴動化し、ブルータスらの謀反者は逃れ去り、ローマはアントニーとオクタヴィアスの支配に帰した。
謀反者たちの間は円満に行かず、ブルータスとカシアスが対立したが、ポーシャ自殺の悲報に和解し、ハイリポの平原でアントニーの軍勢と決戦を挑む決意を固めた。


寸評
今ではガイウス・ユリウス・カエサルを略して単にカエサルと称されるが、僕が初めて世界史を習った頃は英語読みでジュリアス・シーザーと教えられた。
シェイクスピアの戯曲の影響もあったのだろうが、現在ではカエサルと呼ぶことで統一されている。
カエサルはローマ帝国の歴史においてもっとも有名な人物の一人である。
ガリア戦争に勝利して「ガリア戦記」を著し、ポンペイウス、クラッススとの三頭政治を行った後ポンペイウスとの政争に勝ち、エジプト遠征ではクレオパトラに味方し、ブルータスらによる暗殺で倒れたといった数奇な運命が人気のもとかも知れない。

映画はカエサル暗殺の謀議から始まり、暗殺の実行とその後の顛末がダイジェスト的に描かれていくが、内容は希薄ながら史実に基づいているように思える。
カシアス(字幕ではキャシアスとなっている)らによる暗殺の大義名分はカエサルが王位の野望を持っているということで、そのことが殺害に値するのはローマ人たちは王政アレルギーだったことによる。
アントニウス(映画ではアントニー)が王冠に模した冠をカエサルに当てようとしたが、それをカエサルが拒絶し民衆の喝さいを浴びたことが語られているが、これも事実の様である。
カエサルに王位を狙っているという噂が付きまとったのは、彼がパルティア遠征を公表したことに端を発している。
ローマ人が事あるごとにお伺いに出向くシビラの予言の中に、「パルティア遠征は王者によってしか成功しない」というのがあり、それが噂の出所だった所へアントニウスの軽挙が輪をかけたようである。
パルティア遠征の目的は9年前にクラッススが敗北し、捕虜となった1万のローマ兵の奪還にあったが、「ローマ人の物語」の著者、塩野七生氏によるとパルティア軍との会戦で勝利し、オリエントの諸侯にローマ帝国の力を見せつけユーフラテス川を防衛線として確立したかったのだろうと述べられている。
塩野氏は、さらにドナウ河を防衛線として確定させ、ライン河、ドナウ河、黒海、ユーフラテス川と続くラインでローマ帝国の防衛線を完成させるというのがカエサルの思惑だったのではないかと推測されている。

カエサルは有名な「ブルータス、お前もか」という言葉を発して紀元前44年3月15日に暗殺されてしまう。
暗殺場面は演劇的で劇的なものを感じないが、その後に行われたアントニウスの追悼演説場面は盛り上がりを見せ、僕にはこの映画で一番楽しめるシーンとなっていた。
アントニウスは次期の権力者になる野望を持って、ブルータスを讃えながら実は非難しているという演説を行うのだが、若きマーロン・ブランドの絶叫によって、徐々に民衆の気持ちがアントニウスに傾いていく様子が上手く描かれていたと思う。
「戦艦ポチョムキン」で用いられたモンタージュ手法は採用されていないが、アントニウスと民衆のカット・バックはブルータス粛清へ向かう民衆の力を感じさせた。

アントニウス、レピドゥス、オクタビアヌスのよって行われた第二次三頭政治は、年齢でも実績でも筆頭格はアントニウスであったが、やがてアントニウスはオクタビアヌスと争って敗北することになる。
映画はその事を告げずに終わるが、終わり方と言いタイトルは「ジュリアス・シーザー」とするより「ブルータス」とした方が的確だったような内容だが、ネームバリューはやはりカエサルが勝っているということかな・・・。

終電車

2023-11-20 07:15:10 | 映画
「終電車」 1980年 フランス


監督 フランソワ・トリュフォー
出演 カトリーヌ・ドヌーヴ ジェラール・ドパルデュー
   ジャン・ポワレ ハインツ・ベネント
   ポーレット・デュボスト アンドレア・フェレオル
   サビーヌ・オードパン リシャール・ボーランジェ

ストーリー
第二次大戦中、ナチ占領下のパリ。
人々は夜間外出を禁止され、地下鉄の終電車に殺到する。
この混乱の時代は、しかし映画館や劇場には活況を与えていた。
そんな劇場の一つモンマルトル劇場の支配人であり演出家のルカ・シュタイナーは、ユダヤ人であるため、南米に逃亡し劇場の経営を妻であり看板女優のマリオンにまかせていた。
彼女は、今、ルカが翻訳したノルウェーの戯曲『消えた女』を俳優のジャン・ルーの演出で上演しようとしていた。
相手役には新人のベルナール・グランジェが起用された。
ジャン・ルーは、この戯曲の上演許可のため、ドイツ軍の御用批評家となっているダクシアとも親しくしているというやり手である。
連日稽古が続けられるが、稽古が終ると、ベルナールはカフェで数人の若者たちと会って何か相談し合っており、一方マリオンは暗闇の劇場に戻って地下へ降りていく。
地下室には、何と、南米に逃げたはずのルカが隠れていたのだ。
夜マリオンが会いに来るのを待ちうけ、昼は、上で行なわれている舞台劇の様子を通風孔の管を使って聞き、やってくるマリオンにアドバイスを与えていたので、彼は地下にいながら実質的な演出者だった。
初演の日、『消えた女』は、大好評のうちに幕をとじるが、ルカは満足しなかった。
そして、翌日の新聞でダクシアは酷評を書いた。
マリオンは、舞台の稽古をしながら、いつしかベルナールに惹かれている自分を感じていたが、あるレストランで彼がダクシアに酷評の謝罪を迫ったことで彼に怒りをおぼえた。
『消えた女』は好評を続けるが、ベルナールがレジスタンスに参加するために劇場を去ることになったある日、初めて会ったルカから「妻は君を愛している」と言われ動揺するベルナール。


寸評
ナチスドイツがパリを占領していた時代の話である。
タイトルが「終電車」となっているが電車は登場しない。
パリは1940年6月から44年に連合国によって解放されるまでナチスドイツの占領下にあり、夜間外出禁止令が出されていて、市民はナチが許可した演劇が大きな息抜きの時間として過ごし、人々は外出禁止時間をさけるため終演後に終電車を目指したことでのタイトルである。
画面上にドイツ兵を登場させることによって戦争による環境を描き出していて戦闘場面はない。
ナチスのユダヤ人迫害を受けてルカは劇場の地下に隠れ住んでいる。
時代がもたらす閉塞感の中で恋愛模様が描かれていくのだが、燃えるような恋というわけではない。
終わってみると僕は「突然炎のごとく」と同様に男女の三角関係を描いていたのだと気付いたのだが、見ている時は逃亡したと思われていたルカが劇場の地下にいて、彼が事実上の演出を行っていることでの反戦映画の印象を持っていた。
ベルナールもレジスタンスの一員と思わせるシーンもあり、反ナチ、反戦をテーマにしてどのような展開を見せていくのかと思っていたのだ。
それがベルナールがマリオンに「君の中には二人の女性が見える」と言い出したあたりから、ナンパ男の彼がマリオンに好意を抱き始めているのかなとの雰囲気を感じ始める。
しかし描かれていく内容が、カトリーヌ・ドヌーヴ演じるマリオンの一人舞台という感じで三人の関係が描かれていくので、恋愛物語として見た場合の盛り上がりは感じ取れない。

彼らの愛の三角関係は常にマリオンに主導されて進んでいく。
ベルナールはマリオンに想いを寄せるものの今一つ彼女に近づけないでいる。
ルカは地下にいて、妻の姿を見つめることでベルナールが妻を愛していることに気がつく。
ベルナールのマリオンへの愛は、ダクシアの酷評に食って掛かることで爆発する。
「夫人に謝れ!」とダクシアに迫るベルナールを見て、この映画の恋愛劇は初めて盛り上がりを見せる。
それまで主導権を握っていたマリオンは、ベルナールの激しい吐露をみて逆にベルナールを拒絶するようになるのだが、それはマリオンがルカとの関係が壊れることへ恐れを感じたからに違いない。
三人の複雑な関係はラストでは意外な展開を見せる。
ベルナールを迎えた新作「消えた女」は大成功したものの、モンマルトル劇場はゲシュタポの捜査を受ける。
ルカは難を逃れるが、そこでベルナールとルカが初めて対面し、ルカが意外な言葉をベルナールに伝える。
ルカは優れた演出家で、演出家として妻のマリオンの内面を冷静に見抜いていたのだろう。
連合軍がノルマデーに上陸しパリが解放され、813日の辛抱を経てルカは久しぶりの太陽降り注ぐパリの街を眩しそうに眺めることが出来るようになる。
そして究極のラストである。
自由の身となったルカが加わり、三人の関係はどうなるのかと興味を持たせるのだ。
三者三様の気持ちが交差しただろうが、トリュフオーはここで、ひとつのシークエンスの中で、現実と芝居を連携させて映画の結末を描くというテクニックを見せる。
アッと驚く場面設定で、その後の彼らを想像させるに十分な幕切れであった。

十一人の侍

2023-11-19 07:17:44 | 映画
「十一人の侍」 1967年 日本


監督 工藤栄一
出演 夏八木勲 里見浩太郎 南原宏治 西村晃
   大友柳太朗 宮園純子 大川栄子 菅貫太郎

ストーリー
将軍の弟にあたる館林藩藩主松平齊厚(菅貫太郎)の短気から、忍藩の藩主阿部正由(穂高稔)が殺された。
忍藩次席家老榊原帯刀(南原宏治)は訴状を老中水野越前守(佐藤慶)に届け出た。
しかし、齊厚の暴虐と知りつつも、水野は徳川家を守るため忍藩の非とした。
このままでは、藩は取潰しにされると、帯刀は仙石隼人(夏八木勲)に齊厚暗殺を命じた。
隼人は同志九人と共に江戸に向い、暗殺計画を綿密に練った。
一方、館林藩の知恵家老秋吉刑部(大友柳太朗)は、忍藩の暗殺隊を予知し、吉原に入りびたりの齊厚に警護をつけ、逆に隼人らを襲うが、浪人井戸大四郎(西村晃)に妨げられてしまった。
やがてある日、水野の策略で帰藩を早めた齊厚は刑部の率いる五十人の騎馬隊に守られ、日光街道をひた走って行った。
それを察知した隼人らは街道脇の森林に細工をして待ちうけていた。
しかし、その矢先、水野に踊らされた帯刀は計画中止を命令、隼人らは成功を目前にして涙をのんだ。
それは水野が刑部と仕組んだ謀略だった。
ことの真相を直ぐに知った帯刀は腹を切って隼人たちに詫び、怒った隼人は、すぐさま行列を追った。
やがて齊厚は館林領の手前の房川に到着した。
刑部にも、齊厚にも館林を目前にして気のゆるみがあった。
房川の農家で雨宿りの焚火をして休憩しているのを、隼人らが狙っているとは知らなかった。
折から、天候はくずれ豪雨となっていった。
隼人らは、巧妙な作戦を立て、一気に、齊厚を狙って斬りかかっていった。
篠突く雨の中に、凄惨な死闘が繰りひろげられ、刑部ら五十人を相手に、隼人らも次第に味方を失っていった。
隼人と刑部も刺し違えて果てることになった。
長い死闘に残ったのは、井戸大四郎ただ一人であった。
すべては齊厚の短気な気性から生まれた、無意味な死闘だった。


寸評
松平齊厚は始まってすぐに傍若無人の振る舞いを見せるバカ殿ぶりで、制止を聞かず隣国に入り込み領民を殺害してしまう。
それを咎めた忍藩の藩主が齊厚の矢を受け死亡し、将軍の弟である齊厚の非道は留まるところを知らない。
この冒頭の一件で松平齊厚が悪で、主君の仇を討とうとする家臣たちは善という図式が示される。
その悪人ぶり、バカ殿ぶりが徹底していて図式は単純だ。
亡き主君の仇討と言えば赤穂浪士が思い起こされるが、それを描いた忠臣蔵の一面も感じさせる脚本である。
仇討ちか、お世継によるお家存続かで揺れ動く榊原帯刀はさしずめ大石蔵之助といった役柄である。
しかし両者による虚々実々の駆け引きが次々と起きるという展開ではない。
駆け引きは遊郭での一件ぐらいで、老中水野が刑部と語らって画策するのもインパクトのあるものではない。
駆け引きの面白さは、例えば黒澤明の「隠し砦の三悪人」などの方が相当手が込んでいる。
主人公たちは齊厚暗殺に突っ走るが、それは遊郭の場面と、森林を抜ける街道場面だけで、展開としてはシンプルなものであり、不発の展開が盛り上がりに欠けるものとなっている。
あとは破れかぶれの突撃シーンとなっていて、そこに仙石隼人と秋吉刑部の知恵比べは存在していない。

遊郭で興じている齊厚を救い出した刑部は暗殺者をおびき寄せる手立てを講じるが、その手に乗って隼人の義弟である喬之助(近藤正臣) が捕らえられる。
その時の拷問で、突き刺した刀が喬之助の手を切り裂くシーンが生理的にゾクッとさせる。
なぜか手のシーンが多い。
脱藩を決意した隼人が妻である織江(宮園純子)の頬にそっと触れる場面。
江戸に訪ねてきた織江と最後の別れとなるであろう場面での手の触れ合い。
齊厚を襲撃する森のシーンでは、木の陰に身を隠している一人が幹にいた虫を捕まえ手のひらを這わせている。
殺伐としたシーンが続く中にあって、しっとりとさせるシーンとなっていた。

理不尽な判定で取り潰しが懸念される忍藩の目論見は、齊厚を暗殺することで対面を重んじる幕府が事を表ざたにせぬために忍藩の取り潰しを取りやめるであろうとのことなのだが、その目論見の説明が弱い。
したがって、襲撃が取りやめとなるところの盛り上がりがイマイチ盛り上がりに欠けるものとなっていたと思う。
彼等はすでに死んだ人間となっているのだが、その背景の描き方も不足していたように感じる。
脚本的には粗さも目立つが、齊厚の菅貫太郎が将軍の弟をかさに着て我儘し放題の無能殿様を怪演していて、説明不足な部分を覆い隠している。
この人の観客に不快感を与える演技はなかなかいいものがある。
圧巻は何と言っても最後の襲撃シーンだ。
豪雨の中での闘争劇はなかなか迫力のあるものとなっている。
時代的にコンピューター処理に頼らずカメラワークと実写で見せているのがいい。
あの豪雨の中でたき火が燃え盛っているというご都合主義はさておいても、豪雨の中で、あるいは豪雨越しに繰り広げられる乱闘シーンは「七人の侍」には及ばないものの集団抗争としての迫力十分であった。
ある程度の本数が撮られた集団抗争時代劇だが、工藤栄一作品としては数を重ねるごとに出来は低下している。

ジャンゴ 繋がれざる者

2023-11-18 08:23:38 | 映画
「ジャンゴ 繋がれざる者」 2012年 アメリカ                                               

監督 クエンティン・タランティーノ                                       
出演 ジェイミー・フォックス   クリストフ・ヴァルツ
   レオナルド・ディカプリオ  ケリー・ワシントン
   サミュエル・L・ジャクソン ドン・ジョンソン
   ジョナ・ヒル  ウォルトン・ゴギンズ

ストーリー
奴隷制度をめぐる対立が色濃くなる南北戦争勃発前夜のアメリカ南部。
賞金稼ぎのドイツ人歯科医キング・シュルツは、お尋ね者三兄弟の顔を知る黒人奴隷ジャンゴを見つけると、黒人奴隷として売りに出された彼の鎖を解き放ち、三兄弟の追跡に繰り出す。
その後、ジャンゴの腕を見込んだシュルツは、彼を賞金稼ぎの相棒にして2人で旅を続けることに。
しかし、そんなジャンゴが真に目指す先は、奴隷市場で生き別れた最愛の妻ブルームヒルダのもと。
やがて、彼女が極悪非道な農園領主カルビン・キャンディに売り飛ばされたことを突き止めたジャンゴとシュルツ。
カルビン・キャンディは奴隷を鍛えあげ、奴隷同士を闘わせては楽しんでいる男だ。
2人は、ヒルダ奪回のためにある周到な作戦を準備してキャンディに近づくのだったが・・・。


寸評
撃って、撃って、撃ちまくり、血、肉飛ぶ映像は少しどぎついが爽快も感じられる。
白いものに飛び散る血しぶきは美しくさえある。
悪い奴らを撃ちまくる痛快さだけかと思いきや、案外とラブストーリー的でもあることがいい。
そして元歯科医のドイツ人と元奴隷のコンビがどこかユーモラス的に描かれ、ドイツ人であることも重要ファクターにしているところは設定の妙と言える。
さあこれから始まるぞと思ったら、それがメインではなくあっさりと片付けてられてしまい、次の展開へと導くのも脚本の妙と言えた。
初悪役のデカプリオも見どころの一つだが、黒人差別主義者の黒人執事に育てられて下剋上が起きているような描かれ方も面白い。
悪役デカプリオよりもサミュエル・L・ジャクソンの執事のほうが悪い奴だと思わせるストーリーも中々のもの。
シンプルな脚本で有りながら一工夫が随所に見られたものとなっていた。
主要人物のくたばりかたのあっさりしているところが新鮮だ。
マカロニ・ウェスタンへのオマージュ作品なのだろが、オマージュ作品らしくタイトルと言い音楽と言い懐かしかったし、ハッピー・エンドで終わる痛快な作品だった。

釈迦

2023-11-17 07:49:30 | 映画
「釈迦」 1961年 日本


監督 三隅研次
出演 本郷功次郎 チェリト・ソリス 勝新太郎 川崎敬三
   川口浩 小林勝彦 市川雷蔵 山本富士子 中村玉緒
   叶順子 京マチ子 近藤美恵子 藤原礼子 三田登喜子
   市田ひろみ 阿井美千子 三田村元 大辻伺郎 根上淳
   中村鴈治郎 清水元 山田五十鈴 月丘夢路 北林谷栄
   杉村春子 千田是也 東野英治郎 滝沢修

ストーリー
インド北方の国にあるカピラ城は、ある朝、金色の大光輪に包まれた。
スッドーダナ王の妃マーヤー(細川ちか子)がシッダ太子を生み落したのだ。
それから二十年--美貌のほまれ高いスパーフ城の王女ヤショダラー姫(チェリト・ソリス)の婿となるべき男の武芸大会が開かれ、各国王子の中で最後まで残ったのは、シッダ太子(本郷功次郎)とその従兄ダイバ・ダッタ(勝新太郎)の二人であったが、競うこと半日、ついにシッダ太子が勝利を収めた。
カピラ城内で太子夫妻の幸福な結婚生活が六年間おくられた。
しかし、その頃から次第にシッダ太子の心深くに人生への懐疑が生れた。
自らの境遇と奴隷や賤民の身の上との余りの違いに人生の苦悩を持ったのだ。
ある夜、太子は心の安らぎと人生の悟りの道を得るために最愛の妻と城を後に禅定の地を求めて出城し、太子の諸国の放浪が続いた。
一方、ヤショダラー妃へのよこしまな恋情を捨て切れないダイバは、ある夜、策略をろうして妃を犯してしまう。
妃は自殺したが、この悲報にも太子は城に帰ろうとしなかった。
こうして菩提樹のもとであらゆる誘惑を退けながら六年の間苦行を続けたシッダ太子は、一切の怒りと憎しみを忘れ村の女サヤ(京マチ子)の介添により遂に悟りを開き、太子は仏陀として生れ変ったのだ。
仏陀の高い噂を聞いたダッタは、シュラダ行者のもとで神道力を授かるや敢然として仏陀への挑戦を開始、バラモンの布教に勤めだした。
マダカ国のアジャセ王子(川口浩)がその出生の秘密に苦悩し、父王と不和であることを知ったダイバはうまく王子に取り入り王子の権力を悪用してバラモンの大神殿を建造させると共に、仏教徒に対する迫害と処刑を図ったのだが・・・。


寸評
日本初の70ミリ映画ということで、最初にその事をうたう「70mmスーパーテクニラマ」が表示される。
大画面を意識した巨大なセットが度々登場して見せ場を作っている。
そうしたことから映画史に記録される作品ではあるが、肝心の中身はそのことに意識が行き過ぎてドラマとしての盛り上がりには欠けてしまっているのは、歴史に残る作品としては残念である。
そもそも題材として釈迦を選んだことが間違いだったのではないかと思う。
本郷功次郎が問題ではなく、日本人俳優が仏陀を演じることにどうしても違和感を感じてしまう。
仏教映画でありながら、インドやタイなどへの海外ロケがなく、すべて国内ロケやセットで撮影されていることも違和感の原因であろう。
しかし当時は「ベンハー」や「スパルタカス」など70mm作品がもてはやされており、本作も興味を持って迎え入れられ大ヒットしたようである。
当時、松竹の「カルメン故郷に帰る」が国内初のカラー作品として公開されており、日本初のシネマスコープ作品としてワイドスクリーンである東映スコープの「鳳城の花嫁」も公開されており、大映としては、というよりも大映社長の永田雅一としてはどうしても日本初と言う称号の作品を撮りたかったのだろう。
名プロデューサーでもあった永田雅一の執念を感じる作品である。

大映は相当力を入れていたようで勝新太郎、本郷功次郎をはじめオールスター・キャストである。
オムニバス映画のようにそれぞれのスターに個別の物語が割り振られている。
シッダ太子が悟りを開く場面で登場するのが京マチ子のヤサである。
ヤサは帝釈天の仮の姿であり、太子はここに「仏陀」となる。
山田五十鈴は子供をさらうことで恐れられている夜叉のカリティとして登場し、仏陀に諭されて弟子となる。
仏陀の許に全国から教えを乞うて人々が集まるようになり、市川雷蔵と山本富士子の夫婦が登場し、市川雷蔵のクナラ王子が盲目となっているエピソードが披露される。
原因となっているのが中村鴈治郎演じるアショカ王の愛人である月丘夢路で、クナラ王子を誘惑しようとして拒絶された腹いせから、クナラ王子に言い寄られたと嘘をついたことによるのだが、彼女は自殺することになる。
自分の出自に疑いを抱いて両親といさかいを起こすのが川口浩で、その妻が中村玉緒である。
母親役は杉村春子で、その他に仙人として滝沢修が出ていたりで、僕が思いつく人で出ていないのは大映のスターとしては藤村志保だけなのだが、藤村志保はこの頃はまだデビューしていなかったと思う。

スペクタクル映像には特撮も駆使されていて、シッダ太子生誕のほか、花が一斉に咲くシーンや太子が悪魔が放つ弓矢を跳ね返すシーン、象が仏陀の弟子たちを踏みつけるのを思いとどまるシーンなど、動画と実写特撮を融合したシーンは、当時としては賞賛を受けたのだろう。
宮殿のセットなどには金をかけており、エキストラも人数を集めている。
それでも話が散漫すぎて、ドラマとしての盛り上がりには欠けている。
仏陀誕生までのエピソードが多いためか、それともオールスターによる密度の薄さによるものか、僕はそのどちらにも原因があったと思う。

失楽園

2023-11-16 07:30:47 | 映画
「失楽園」 1997年 日本


監督 森田芳光
出演 役所広司 黒木瞳 星野知子 柴俊夫 寺尾聰
   平泉成 木村佳乃 岩崎加根子 中村敦夫
   小坂一也 あがた森魚 石丸謙二郎 原千晶
   金久美子 速水典子 村上淳 井上肇

ストーリー
出版社の敏腕編集者だった久木祥一郎(役所広司)は、ある日突然、閑職の調査室配属を命じられた。
そんな久木の前に、彼の友人・衣川(寺尾聰)が勤めるカルチャーセンターで書道の講師をしている松原凛子(黒木瞳)という美しい人妻が現れる。
彼女は“楷書の君”と呼ばれているほど折り目正しく淑やかな女性だったが、久木の強引でひたむきな恋の訴えに、やがて彼を受け入れた。
そして、週末毎に逢瀬を重ねていくうちに、凛子はいつの間にか性の歓びの底知れない深みに捕われていく。
ふたりの関係は次第にエスカレートしていき、凛子の養父が死んだ通夜の晩、久木にせがまれた凛子は、夫や母親の眼を逃れて喪服姿のままホテルで密会した。
凛子は罪悪感にさいなまれるが、それはかえってふたりの気持ちを燃え上がらせる。
やがて、久木は密かに都内にマンションを借り、凛子との愛の巣を作り上げた。
凛子の夫・晴彦(柴俊夫)は興信所の調査で妻の不貞を知る。
晴彦はあえて離婚しないことで凛子を苦しめようとし、一方、久木の妻・文枝(星野知子)は静かに、しかしキッパリと離婚してほしいと要求した。
家庭や社会からの孤立が深まっていくなか、それでもふたりは逢うことを止めようとはせず、世間並みの日常が失われていく分だけ、ふたりだけの性と愛の充足は純度を増していく。
そんな折、久木は会社に告発文が送られてきたのをきっかけに辞職を決意し、文枝との離婚も承諾する。
凛子もまた晴彦や実母との縁を切って、久木のもとに走った。
「至高の愛の瞬間のまま死ねたら」という凛子の願いに久木は共感し、ふたりでこの世を去ろうと決意する。


寸評
原作の小説は1995年9月から翌年10月にかけて日本経済新聞に掲載されていたのだが、当時会社勤めをしていた僕もこの連載小説を興味をもって読んでいた。
その興味は一般紙の新聞小説にしては濃密な性描写がふんだんに出てくるところにあり、日経新聞がこのような小説を連載してもいいのかと言う批判もあったぐらいである。
しかしそれゆえに話題になったのか「失楽園」は流行語にもなった。
この映画においては松原凛子を元宝塚歌劇の娘役のトップスターだった黒木瞳が演じること、またその黒木瞳がセックスシーンをどこまでやるのかが話題となっていた。

他の宝塚出身の女優と違って黒木瞳は銀幕デビュー時から結構脱いでいたし、この作品でも頑張っていて役目は十分に果たしていたと思う。
原作自体もそうなのだが、この映画も二人の逢瀬を濃密に描いているだけで、僕はそこに至ってしまう背景の様なものを感じ取ることが出来なかった。
出版社に勤める久木は突然編集の第一線から外され、閑職というべき調査室への配属を命じられる。
すっかり仕事への情熱を失ってしまう久木だが、そのことが妻や娘に囲まれた幸せな生活を捨てることにどうつながるのか、別の女性に走ってしまう気持ちになぜなってしまうのかが分からなかった。
仕事は久木の人格形成にとってどのようなウェイトだったのか、家族とは久木にとってどのような存在だったのか。
普通の浮気男がするのと同様に、久木は普段通りを装って妻や娘と接している。
一方で、久木は家族に内緒で都内にマンションを借り、凛子と半同棲生活を始めている。
久木にはそれだけ経済力があったのだろう。
同じサラリーマンであった僕には到底できない行動である。

一方の凛子は医師の夫との暮らしは金銭面では不自由なくとも、夫婦関係はどこか息苦しいものとなっている。
凛子は夫の晴彦とどのようにして結婚したのだろう。
打算的な結婚だったのだろうか。
凛子はいつの間にか夫婦生活では得られなかった体の悦びに目覚めていくのだが、性の目覚めを描くならかつての日活ロマンポルノの秀作の方が上手く描けていたように思う。
当初、妻から離婚を切り出された久木はそれを受け入れていない。
結婚生活を維持しようとした久木は何を思っていたのだろう。
結婚生活を続けて、凛子とも今まで通りのセックスライフを送りたいと言う思いだったのだろうか。
二人はいつしか「最高の愛の瞬間のまま死ねたら」という願望を抱くようになり心中を決意する。
不倫の結末として心中を描くなら、最後はもっと人間臭い姿があっても良かったと思う。
この世の名残りとして、何度も何度も交わるような姿だ。
僕はどこかの記事で、心中したカップルがいた部屋は精液の匂いが充満しているというのを目にした記憶がある。
久木と凛子の最後の姿はそれらしいものだが、美しく描きすぎて人間らしさを感じなかった。
それは僕がゲスな人間だからだろうか。
どうも人間の本性の様なものを感じ取れなかったなあ・・・。