おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

日本の夜と霧

2021-08-19 06:55:55 | 映画
「日本の夜と霧」 1960年 日本


監督 大島渚
出演 桑野みゆき 津川雅彦 小山明子
   渡辺文雄 芥川比呂志

ストーリー
霧の深い夜、新安保闘争で結ばれた野沢晴明(渡辺文雄)と原田玲子(桑野みゆき)の結婚式が行われた。
野沢はかつて破防法時代には学生運動の指導をし、今は新聞記者をしている。
式場には仲人の宇田川夫妻(芥川比呂志、氏家慎子)、破防法では共に火焔ビン闘争に参加した友人の中山・美佐子夫妻(吉沢京夫、小山明子)らが出席したが、突然現れた太田(津川雅彦)が同志である北見(味岡亨)の失踪をよそに、幸せな生活に入ろうとする玲子をなじった。
ハンガリー民謡を歌う色眼鏡の青年が入って来た時、式場からは結婚の幸せな空気は消えた。
かつてハンガリー民謡を口ずさんでいた高尾(左近允宏)がスパイとして党の査問委員会にかけられ、中山と美佐子の結婚式の夜、自殺していたのだ。
これらをきっかけにして、約10年前の破防法反対闘争前後の学生運動のあり様を語り始め、玲子の友人らも同様に安保闘争を語り始める。
野沢と中山は暴力革命に疑問を持つ東浦(戸浦六宏)と坂巻(佐藤慶)を「日和見」と決めつけていたが、二人は武装闘争を全面的に見直した日本共産党との関係や「歌と踊り」による運動を展開した中山に「これが革命か」と批判し、会場は世代や政治的立場を超えた討論の場となる。
式場では運動の犠牲者高尾の死の真相が明るみに出るにつれ、野沢と美佐子の過去の関係まで暴露された。
破防法阻止運動の失敗、今度の新安保闘争では北見が行先不明となって戦列を離れてしまった。
何の進歩もなかった、このことは玲子を責めることでもあった。
北見を求めて外に出た玲子を追った太田は刑事に取り囲まれ、玲子は再び花嫁になった。


寸評
製作された1960年、公開四日目で上映中止になった問題作であり、公開後すぐに社会党委員長の浅沼稲次郎が3党首立会演説会の演説中に刺殺された。
撮影に際し大島は松竹からいつ打ち切りを言われるかもしれないとの気持ちを持っていて、短期間での完成を目指していたようである。
その為に長回しが多用され、出演者が少々口ごもっても撮り直しを行わずに流しているとのことである。
しかし、そのことで演説にリアリティを生み出し緊迫感も生み出しているから、何が幸いするかわからない。
メッセージ性が強い作品だが、映像作品としても見応えがある処理がなされている。
逮捕状がでている太田が結婚式会場に登場して、かつての安保闘争時代に起こった同士たちの出来事を糾弾し始め、出席者を取り巻いた当時の様々な出来事をサスペンスフルに時間を交錯しながら描いていく描き方が、時に演劇的で目を離させない。
時折、舞台演出のようにスポットライトで人物をとらえたかと思うと、舞台が暗転するように画面が真っ暗になる。
彼らが激論を交わす外は霧深い闇が広がっており、物事の本質がかすんでいることを示している。
この演出効果はバツグンだと思う。

大島さんたちは60年安保闘争世代なのだろうが、僕は70年安保闘争世代である。
デモにも参加したことはあるが、僕はノンポリで日和っていたような気もする。
それから何十年も経っているが、この映画を見ると何年たっても何も変わっていないのだなと思う。
僕の学生時代には安保闘争、佐世保闘争、成田闘争、学園紛争と学生運動の嵐が吹き荒れていたのだが、卒業すると火が消えたように学生運動が下火になっていき、あの学生運動は何だったのかの疑問がわく。
大学の自治を守り、なんとか世の中を少しでも良くしようと思っていたことだけは確かなのだが、結局は安定的な生活を目指し家庭の平穏が一番の自分がいる。
但し、僕はその事を恥じているわけではない。

この映画の最後で当時委員長だった中山が延々とスピーチを行うが、内容は学生時代とは全く違うものだ。
中山は、武力闘争から話し合いによる解決に闘争の形が変わったとはいえ、闘争は本来労働者が臨むべき運動であり、学生たちは世の中の流れに盛り上がっていただけで、彼らは親の庇護を受けているプチブル的存在でしかなかったのだと述べる。
そして、本当に目指す信念もなく、社会の盛り上がりに乗じただけだったのだと続けるのである。
これは大島の学生運動に対する批判でもあるのだろう。

ドラマの面から見ると、彼らの運動の背後に起こるほんの些細な矛盾が生み出す悲劇の構成がいい。
中山たちの闘争当時のスパイ事件を時間を前後に組み合わせて真相らしきものを語り、中山の妻となった美佐子と野沢の関係を描きつつ、真実と思われていたことの裏に存在する本当の真実とはこういうものだと暗に語る組み立てもいい。
組織が出来ると主流派と反主流派が生じるのは宿命のようなものだし、思想を横に置いた勢力拡大のための離合集散も見飽きたもので、そのことも何年たっても変わらないのだなあと思ってしまう。