おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

父、帰る

2019-10-31 09:01:16 | 映画
「父、帰る」 2003年 ロシア


監督 アンドレイ・ズビャギンツェフ
出演 イワン・ドブロヌラヴォフ
   ウラジーミル・ガーリン
   コンスタンチン・ラヴロネンコ
   ナタリヤ・ヴドヴィナ

ストーリー
母とささやかに暮らしている、アンドレイとイワンの二人の兄弟。
ある夏の日、家を出ていた父が12年ぶりに突然帰ってきた。
写真でしか見覚えのない父の出現に、混乱する兄弟。
しかも父は家長然とした態度でいろいろ仕切りはじめ、しばらく息子たちと旅に出ると言い出す。
翌日の朝、父と兄弟の3人は釣り竿とテントを積み、車で遥か北部の湖に浮かぶ無人島を目指して出発した。
目的地までは3日かかるらしく、父は息子たちに男としての強さを教育しはじめる。
その余りに粗暴な教え方に、イワンは時折歯向かってみるが、その度に押さえ付けられるだけだった。
アンドレイは次第に父を慕っていくが、イワンは憎しみが募るばかり。
そんな中、無人島に到着。
兄弟は一時間だけの約束でボートで湖に出るが、イワンが魚を捕ることにこだわり、遅刻。
父は激怒し暴力をふるう。
我慢できなくなったイワンは逃げて塔の上に登るが、追いかけてきた父が転落死してしまう。
兄弟は泣きながら父の遺体を運び、無人島を脱出するが、陸地についたとたんボートが流されてしまい、遺体は湖の底へと沈んでしまうのだった。


寸評
物語は、きわめてシンプルに見える。
12年間も消息不明だった父親が、ある日突然、家族のもとに帰ってくる。
父親は、ふたりの息子を小旅行に連れだし、大人になるための試練を与え教育する。
兄はそんな厳しい父親を受け入れていくが、弟は事あるごとに激しく反発し、やがて父親を受け入れられない弟の行動によって悲劇が起こるというものである。
この映画では、時代背景や社会状況を示す場面が全くない。
ローカル色豊かな所を走っているので登場人物もごくわずかだ。
社会活動が全く描かれず途中の町は死んでいるようだし、立ち寄ったレストランには客はおらずウエイトレスが一人いるだけだ。
映画は父親の強権行使を描き続け、道中で弱虫と言われていた弟が反抗的になり強く見えてくるのに対し、父親を受け入れつつある兄は弟に指示されているように見えてくるという逆転現象を引き起こしている。
そして象徴的な物として二つの塔が出てくる。
まず冒頭では、塔から湖に飛び込めるかどうかをめぐって兄弟の間に亀裂が生まれ、その塔の上で、母親が飛び込めない弟を慰め受け入れる。
そして、父親と兄弟がたどり着いた無人島にも、同じような塔がある。
その塔では、まず父親と兄がその塔を共有し島を見渡す、やがてそこで父親と弟が対峙することになる。
特に弟への関わり方が象徴的なもの感じさせる。
冒頭の塔の場面は包み込むような母の愛の表現であり、島の塔の場面は自分を犠牲にして息子を救うという父親による愛の表現だったと思う。

息子たちは憶えのない父親と12年ぶりに対面する。
父親の味を知らない僕には、彼らが抱く感情を想像することができない。
祖母と母との生活にはなかった力強いものを感じたのか、それとも居なかった時には上手くいっていた生活をかき乱す存在でしかなかったのか。
疑問とか謎を抱えたまま物語は進行し、それらが解き明かされることはない。
それがこの映画の特徴だ。
父は12年間もどこへ行っていたのか、なぜ帰って来たのか。
なぜ島へ向かっているのか、向かう途中で誰に電話しているのか。
父親が掘り出したものは何だったのか。
最後になっても、このあっけなさは何なんだと思わせ、また全てを明らかにせず、そしてそれにもかかわらず最後に子供たちに心底から「パパ!」と叫ばせている。
ドラマは日曜日から始まって土曜日に終わるだけでなく、そのラストが最初のシーンに繋がって、輪廻するような構造になっている。
冒頭で兄弟は家族で撮った古い写真で父親を確認し、ラスト兄弟が発見した写真には父の姿はない。
父親は帰ってきたのではなく、兄弟が父親を召喚したようにも見えてくる。
深読みするとどこまでも読み続けることができる作品だ。

父親たちの星条旗

2019-10-30 09:21:38 | 映画
「父親たちの星条旗」 2206年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 ライアン・フィリップ
   アダム・ビーチ
   ジェシー・ブラッドフォード
   バリー・ペッパー
   ジェイミー・ベル
   ポール・ウォーカー
   ジョン・ベンジャミン・ヒッキー
   ジョン・スラッテリー

ストーリー
太平洋戦争末期、硫黄島に上陸したアメリカ軍は日本軍の予想以上の抵抗に苦しめられ、戦闘は長引き、いたずらに死傷者を増やす事態に陥っていた。
そんな中、摺鉢山の頂上に星条旗が高らかに翻る。
この瞬間を捉えた1枚の写真が長引く戦争に疲弊したアメリカ国民の士気を上げるために利用された。
星条旗を掲げる6名の兵士、マイク、フランクリン、ハンク、レイニー、アイラ、ドクは一躍アメリカの英雄となった。
しかし、その後祖国に帰還したのはドク、アイラ、レイニーの3人だけだった。
国民的英雄として熱狂的に迎えられた彼らは、戦費を調達するための戦時国債キャンペーンに駆り出され、アメリカ各地を回るのだった。
兵士の中には、自分が祖国で名を成すとは知らずに撮影直後に死んでいった者もいた。
生還した者でも、祭り上げられることに関心を抱かず、自分を英雄などとは思わない者もいた。
彼らはただ、名誉とは無縁に戦い、戦死した仲間たちとともに前線に留まりたかっただけだった…。


寸評
今のイラク戦争においても報道統制、虚偽報道が行われている事は想像に難くない。
米軍の戦死者は発表数よりも相当多いらしいし、戦死者は60万人とも言われているが実体はわからない。
しかしながら戦争遂行のために英雄が作り出される構図は、第一次上海事変の肉弾三勇士をはじめ、最近のでっち上げられた女性兵士の例に見られるように必ず存在してるものなのだろう。

国家の犠牲になってピエロ役を背負わされた人間が苦悩する様は、戦争の惨さの一つの現れ方を示していて痛ましいものがあった。
特にインディアンの血を引き、人種差別とも戦っていかねばならなかったアイラに心打たれる。
英雄となった彼らが、平和になった後は忘れ去られ、幸福とはいえない一生を終えることに虚しさを覚える。
アメリカの英雄になりながら戦場で死んで行くマイク、フランクリン、ハンクの姿も痛ましかったが、そのことがもう少し奥深く描かれていたら、戦争の非条理さがもっと感じれたのではないかと思う。

お互いに戦闘体勢で戦った太平洋戦争において、死傷者の数となると唯一日本軍を上回った硫黄島の戦いなのだから、もう少しその戦いの中身が描かれているものと思っていたので少し肩透かしを食った気分だ。
それでも上陸開始後の米軍の被害状況は地獄絵で、無数の死体に混じって飛び散った腕や首などが写しだされ、戦場の凄まじさが伝わってくる。
海岸線が防御の第一番が常識のところ、日本軍は栗林中将の作戦でそれを放棄している。
米軍はその作戦のために第1陣は簡単に上陸を果たし、米兵も「なぜ撃ってこない」と疑問を持ちながら進軍するが、潜んでいた日本軍が一斉に攻撃を開始すると、近くまで来ていた米軍は甚大な被害を出していくことになる。
事前の擂鉢山への艦砲射撃は凄まじく、船上の米兵もその光景を微笑みながら見る余裕はあったのだが、地下要塞は堅固だったのだ。

最初に掲揚された国旗を欲しがる上層部や、事前攻撃の少なさの指摘を無視した攻撃など、少しはその作戦の無謀さを描いた個所もあったが、テーマはそのことではなかったので、それらの場面はさらりとした描き方だった。
むしろテーマを追求するために、そちらはあえて割愛したところがって、それを期待したのはこちらの身勝手な想像だったことを思い知らされる。
三人が帰還してからのキャンペーンに翻弄される姿と、戦場に戻るアイラの姿が、有名な写真に隠されたエピソードと当の本人達の揺れる心を我々に訴えて切々たるものがあった。

硫黄島二部作で、日本側から見た「硫黄島からの手紙」があるが、映画の出来栄えとしては本作の方がいいように思う。
戦闘場面をはさんで、いろんなえピソードを時間を前後させながら描いていく手法にもよるが、米国人自身(イーストウッド)が自国側を描いていることにもよると思う。
戦争の不条理は、自国側を描いたほうが訴える力は強いと思うのだ。
敵側を描くと、どうしてもプロパガンダ的になってしまうような気がするのだ。
イーストウッドはスゴイと思うのは、日米両国の視点で描いたこの二部作が水準を維持していることだ。

近松物語

2019-10-29 08:25:34 | 映画
「近松物語」 1954 日本


監督 溝口健二
出演 長谷川一夫 香川京子 南田洋子
   進藤英太郎 小沢栄  菅井一郎
   田中春男  石黒達也 十朱久雄
   荒木忍 東良之助 浪花千栄子

ストーリー
京烏丸四条の大経師内匠は、宮中の経巻表装を職とし、町人ながら名字帯刀も許され、御所の役人と同じ格式を持っていて、毎年の暦の刊行権の収入も大きく、当代の以春(進藤英太郎)は財力を鼻にかけていた。
その二度目の若い妻おさん(香川京子)は、外見幸福そうだったが何か物足らぬ気持で日を送っていた。
おさんの兄道喜(田中春男)は借金の利子の支払いに困って、遂にその始末をおさんに泣きついた。
金銭に関してはきびしい以春には冷く断わられ、止むなくおさんは手代の茂兵衛(長谷川一夫)に相談した。
彼は内証で主人の印判を用い、取引先から暫く借りておこうとしたが、主手代の助右衛門(小沢栄、現・小沢栄太郎)に見つかってしまい、彼はおさんのことは口に出さず、いさぎよく以春にわびたが厳しく追及された。
ところがかねがね茂兵衛に思いを寄せていた女中のお玉(南田洋子)が罪を買って出た。
だが以前からお玉を口説いていた以春の怒りは倍加して、茂兵衛を空屋に檻禁した。
お玉はおさんに以春が夜になると寝所へ通ってくることを打明けた。
憤慨したおさんは、一策を案じて、その夜お玉と寝所をとりかえて寝た。
ところが意外にもその夜、その部屋にやって来たのは茂兵衛であった。
彼はお玉へ一言礼を云いにきたのだが、思いも寄らずそこにおさんを見出し、而も運悪く助右衛門に見つけられて不義よ密通よと騒がれ、遂に二人はそこを逃げ出した。
琵琶湖畔で茂兵衛はおさんに激しい思慕を打明け、ここに二人は強く結ばれ、以後役人の手を逃れつつも愛情を深めて行ったが、以春は大経師の家を傷つけることを恐れて懸命におさんを求めた。
大経師の家は、不義者を出したかどで取りつぶしになった。
一方、捕らえられたおさんと茂兵衛は罪に問われて刑場へと連れていかれることになった。
しかしその表情の何と幸福そうなこと…。 

寸評
茂兵衛がとった行動は明らかに業務上横領罪で非難されて当然の所業なのだが、動機のこともあって同情を寄せてしまい、むしろその罪を咎める以春に嫌悪感を抱いてしまうのが映画の面白いところ。
ちょっとした偶然や勘違いによって、物事があらぬ方向に進んでしまい、弁明すればするほど事実とは違う方向へと流れができてしまうという世上のアヤを上手く描いている。
依田義賢の脚本がいいのか、そもそも近松門左衛門の着想が素晴らしいのかは不明だが、悲劇に向かう筋立てには違和感がない。

冒頭で別件の不義密通の罪で磔の刑に処せられるふたりが描かれ、はやくもこの映画が封建社会の身分制度の悲劇と、それに対する恋人たちの愛の不滅を歌い上げるものであることが暗示される。
主演の長谷川一夫はこのような役が良く似合い、彼の中でも最高の演技に属するものではないかと思う。
僕にとっての長谷川一夫は銭形平次であったり、生涯の当たり役のひとつとなったNHKの大河ドラマ『赤穂浪士』の大石内蔵助だったりしたのだが、かれが出演する何作かを再見すると、ちょっとなよっとした女性っぽい匂いを残す男を演じたほうが持ち味を出せていたような気がする。
その中でも本作は溝口健二によって、その魅力がいかんなく引き出された作品だと感じる。

目を見張るのは、大経師以春が取り仕切っている店のセットの素晴らしさだ。
どっしりとしたセットで、それが暦の利権を一手に握る大店であることを無言のうちに物語っている。
店内で働く使用人たちの姿を背景に写し込んで、店の様子が一望のもとに分かるようにしているものだ。
その店内をカメラは縦横無尽に動き回る。
レールに乗ったカメラが横にスライドして行ったかと思えば、奥へ奥へと進んでいき、時には二階へと登っていく。
そのような動きが出来るカメラスペースがあり、しかも家屋の様子を途切れなく見せる本格的構造を持つものだ。
調度品も含めて、モノトーンの画面に映し出されるそのセットに当時の職人技術の質の高さを感じる。

話の展開で面白いのは、夫の浮気を知った妻のおさんが、それまでの弱い立場の人間から急に強くなることだ。
実家の困窮や女としての立場の弱さから、以春に対しても自分自身に対しても毅然とした態度が取れないおさんなのだが、お玉から以春の仕打ちを聞かされてからは態度を豹変させる。
その後、茂兵衛から思慕の気持ちを打ち明けられ、さらに強い女に成長して死ぬことなどきっぱりと否定する。
この長谷川一夫と香川京子の濡れ場はしっとりとしていい。
琵琶湖畔にふたりの乗った船が静かに登場する。
運命に翻弄されたようなふたりは共に死ぬことを覚悟するが、裾を乱さにように足元を縛られたおさんに茂兵衛が秘めていた愛を告白する。
その前に、おさんを抱えて茂兵衛が水たまりを渡る場面があるのだが、その抱き方がまた色気のある所作であったので、ことさらこのシーンが生きてきた。
その後、茂兵衛の生家に逃げ延びたり、おさんの実家で再会したりと、二人の逃亡劇が描かれる中で愛の情念が燃え上がっていくのだが、誰がなんと言おうと離れられなくなってしまった二人を、長谷川一夫、香川京子が日本の古典音楽に乗せて情感豊かに演じていた。

地下室のメロディー

2019-10-28 09:24:26 | 映画
「地下室のメロディー」 1963年 フランス


監督 アンリ・ヴェルヌイユ
出演 ジャン・ギャバン
   アラン・ドロン
   ヴィヴィアーヌ・ロマンス
   モーリス・ビロー
   ジャン・カルメ

ストーリー
ジャン・ギャバンとアラン・ドロンの2大スターが共演した犯罪アクション。
洗練されたモノクロの映像、モダンジャズの音楽、そして何より主人公2人の卓越した心理描写が光る、フランス映画史に残る名作。

五年の刑を終って娑婆に出た老ギャングのシャルル(ジャン・ギャバン)は足を洗ってくれと縋る妻ジャネット(ヴィヴィアーヌ・ロマンス)をふりすてて、昔の仲間マリオ(アンリ・ヴァルロジュー)を訪ねた。
シャルルはある計画をうち明け、マリオからホテルの建築図を手に入れた。
計画はカンヌのパルム・ビーチにあるカジノの賭金をごっそり頂こうという大仕事だ。
マリオが健康上で参加できないことが分かり、相棒が必要なのでシャルルは刑務所で目をつけていたフランシス(アラン・ドロン)と彼の義兄ルイ(モーリス・ビロー)を仲間に入れた。
賭金がどのように金庫に運ばれるのかをたしかめると、シャルルは現場での仕事の段取りをつけた。
各自の役割がきまり、フランシスはホテルの踊子ブリギッタ(カルラ・マルリエ)に近づき、自由に楽屋に出入りできるようになる。
決行の夜、フランシスは楽屋裏から空気穴を通ってエレベーターの屋根にかじりついた。
金勘定に気をとられている会計係とカジノの支配人の前にマシンガンを手に持った覆面のフランシスがエレベーターの天井から飛び降りてきた。
彼は会計係から、鍵を奪ってシャルルを表から入れた。
札束を鞄に詰めると、シャルルとフランシスは、ルイの運転するロールス・ロイスを飛ばした。
金はフランシスが借りた脱衣所にかくした。
警察が乗り出したころ、シャルルとフランシスは何食わぬ顔で別なホテルに納まっていた。
完全犯罪は成功したのだ。
しかし朝食をとりながら、眺めていた新聞のある記事と写真が一瞬シャルルの眼を釘づけにした。
無表情な彼の顔に、かすかな動揺が起った。

寸評
第一級のサスペンス映画だ。
タイトルバックと共に流れ出るテーマソングがいい。
同じフレーズを繰り返すミシェル・マーニュのモダンジャズの響きは犯罪映画のムードたっぷりであり、一度聴いたら忘れることが出来ないメロディーで、映画史上屈指のテーマ音楽の一つだと思う。

オープニングから圧倒されるのはジャン・ギャバンの圧倒的な存在感と渋さだ。
5年の刑期を終えて出所したシャルルが、トレンチコートに身を包み仏頂面で歩いている。
タクシー、列車を乗り継いで自分の家へ向かうのだが、早朝の電車の中ではサラリーマンたちがローンを組んでギリシャ旅行に行ったという会話をしている。
その会話を聞きながら、シャルルは「そんなローンのためにあくせく働くのなんかごめんだ」と呟く。
このつぶやきは大詰めとなったところで、フランシスの義兄で本来真面目な小市民であるルイが金の受け取りを拒否する理由と対比されることになり、我々はルイの論理に納得することとなる。
かつて彼が住んでいた街は再開発で高層住宅が立ち並び、通りも変わってしまい自分の家の所在すら分からなくなっていて、ようやくたどり着いた彼の家だけがポツンとその中にある。
感情を殺した妻との会話が次のシーンにかぶさっていき、シャルルを追い続ける流麗なカメラワークが展開されていくという独特のテンポと、フィルム・ノワールともいうべき光と影の織りなすモノクロ映像の世界は、現在の僕たちが観ても全く色褪せていない。
この冒頭シーンで、シャルルが5年の刑に服していたこと、また彼がまじめにコツコツ働くタイプではないことが要領よく示されていて、この映画の持つテンポを生み出している。

犯罪映画の常として、成功するように思えながらも、結局は成功しないことは見る前から分かっていることなので、どのように破たんを迎えるのかに興味は自然の流れで移っていく。
完全犯罪成功!と思ったら些細なミスから破綻する、というのは犯罪映画の定石だ。
ラストシーンはどのようなオチなのか、計画が失敗するのは何故なのか、そこに犯罪映画の醍醐味がある。
フランシスは楽屋裏に出入りするためにホテルに出演中の踊子に近づいていく。
最初はその劇団のピアニストから取り入っていくという短い話を付け加えていて、観客を納得させるに十分な行き届いた演出となっている。
手段なのか、本気なのか分からないフランシス、ブリギッタ二人の関係とやり取りも、サスペンスを盛り上げる。
踊り子の男に嫉妬心を燃やすシーンの何とも心憎い処理の仕方だ。
そして伝説のラストシーンだ。
ここでのギャバンとドロンの表情がいい。
二人とも言葉を発しないで、その心理を見事に表現している。
アラン・ドロンは二枚目俳優の代名詞のような俳優だが、決してルックスだけの役者ではない。
無言のうちに見せる表情にしびれてしまう。
フレンチ・ノワールは、スリリングでありながらキメの細かい人間描写や、生活の細かいディティールに凝っているところが魅力なのだが、この作品はその魅力をいかんなく発揮していて名作の名にふさわしい出来栄えだ。

チェンジリング

2019-10-27 07:04:51 | 映画
今日から「ち」に入ります。そして映画仲間と「孤狼の血」のロケ地巡りの一泊旅行です。

「チェンジリング」 2008年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 アンジェリーナ・ジョリー
   ジョン・マルコヴィッチ
   ジェフリー・ドノヴァン
   コルム・フィオール
   ジェイソン・バトラー・ハーナー
   エイミー・ライアン
   マイケル・ケリー

ストーリー
1928年、ロザンゼルス。
クリスティン・コリンズは、9歳の息子ウォルターを抱えたシングルマザー。
彼女は息子の成長だけを生きがいに、日々を送っていたがある日突然、ウォルターが自宅から姿を消す。
クリスティンは警察に捜査を依頼し、そして5ヵ月後に警察からウォルター発見の朗報が届いたのだが、クリスティンの前に現れた少年はウォルターではなかった。
すぐさま、少年が別人であることをジョーンズ警部に訴えるクリスティン。
だが、警察の功績を潰されたくない警部は“容貌が変わっただけだ“と取り合わない。
繰り返し再捜査を願い出るが、逆に警部に依頼された医師が彼女のもとを訪れ、自分の息子がわからなくなったクリスティンに問題があると診断を下す。
時間だけが過ぎていく中、彼女のもとにグスダヴ・ブリーグレブと名乗る牧師から電話が入る。
警察の腐敗を追及する彼は、新聞で事件を知り、クリスティンの危機を察知して連絡してきたのだった。
ブリーグレブを味方に、息子を探すクリスティンの戦いが始まる。
だが、それを知った警察は彼女を精神病院に入院させる。
そこで知ったのは、彼女同様、警察に反抗して精神病院送りにされた女性が多数いるという事実だった。
ブリーグレブの尽力でクリスティンは何とか退院できたものの、ウォルターの行方は依然として知れない。
そこへ、郊外の農場で子供の死体が発見される事件が発生し、被害者の一人がウォルターである可能性が出たことで人違いを認めた警察だったが、ウォルターが農場で殺されたと早々に断定する。


寸評
息子の生存を信じて官憲に抗して行動する母親のすさまじいまでの愛情と信念の吐露をアンジェリーナ・ジョリーが熱演していた。
警察の腐敗と、市民を犠牲にしてまでも自らの権威を保つことのみを考える警察には怒りを覚えたが、決して官憲の横暴さを告発している映画ではない。
描かれていたのは、息子を生きがいとするシングルマザーの執念と愛情だった。
クリスティン・コリンズは息子に父親が「責任」を捨てたからだと告げてシングルマザーであることの説明をする。
なかなか含蓄のある言葉と説明だったのだが、これは最後に彼女が語る言葉と対になっている。
彼女は最後に見つけたものは「希望」だと語るのである。
脚本と言う映画藝術の一パートの面白さである。
警察の腐敗を描くことをメインにはしていないが、それにしても当時のロス市警の腐敗ぶりはひどい。
特殊権力を握った組織の勝手な暴走ほど恐ろしいものはないということだ。

息子ウォルターを名乗った少年の背景は少し弱かったように思う。
結局彼も警察の道具にされたのだが、そこに至った経緯が希薄だった。
ロス市警の腐敗を示す一つなのだが、物語上重要な位置を占めていただけに、もう少し描きこんでも良かったかもしれない。
僕たちはこの少年が偽物であることは当初から知っているが、彼はウォルター少年の姓名も住所も正確に言えているのだから相当叩き込まれていたのだろう。
では一体いつ、どこで、誰が彼にその情報を与え、ウォルターになり切ることを強要したのか。

後半になって彼女に支援者が現れはじめ努力が報われ始めるあたりから、あるいは病院で協力者と目で合図を交わすシーンぐらいから涙があふれ始めた。
僕にはこの映画に北朝鮮の拉致家族の人たちの姿がだぶって、上記の感動と、同情と共に、拉致被害者家族を応援する気持ちを再確認させるものがあって感慨深いものがあった。
クリスティン・コリンズの姿と思いと行動は、まさに自分たちの肉親の生存を信じて活動している拉致被害者家族そのものだと感じさせた。
まして、実際に生存者が帰ってきたところなども同じで、そういう人がいれば自分の子供や肉親が今も生存しているのだと信じて行動する気持になるものだとよく分かった。
今も北朝鮮を舞台に同じようなことが起こっていて、拉致被害者救出活動をしている家族がいるとのテロップを流してほしいぐらいだった。
クリスティン・コリンズは生涯息子のウォルターを探し続けたそうだが、同様の行動を続けている同朋の苦しみが非常にダブる映画だ。

イーストウッドは役者としても名を残している人だが、監督としての方が才能を開花させている人だと思う。
年齢を重ねて撮る映画が年々渋くなって来ているように思うが、その瑞々しさは衰えるところを知らないでいる。
近年、この監督の作品にハズレはないように思う。

タンポポ

2019-10-26 11:01:44 | 映画
「タンポポ」 1985年 日本


監督 伊丹十三
出演 山崎努 宮本信子 役所広司
   渡辺謙 安岡力也 桜金造
   池内万平 加藤嘉 大滝秀治
   洞口依子 津川雅彦 村井邦彦
   松本明子 高橋長英 橋爪功
   藤田敏八 中村伸郎 上田耕一 
   大友柳太朗 岡田茉莉子

ストーリー
雨の降る夜、タンクローリーの運転手、ゴローとガンは、ふらりとさびれたラーメン屋に入った。
店内には、ピスケンという図体の大きい男とその子分達がいてゴローと乱闘になる。
ケガをしたゴローは、店の女主人タンポポに介抱された。
彼女は夫亡き後、ターボーというひとり息子を抱えて店を切盛りしている。
ゴローとガンのラーメンの味が今一つの言葉に、タンポポは二人の弟子にしてくれと頼み込む。
タンポポは他の店のスープの味を盗んだりするが、なかなかうまくいかない。
ゴローはそんな彼女を、食通の乞食集団と一緒にいるセンセイという人物に会わせた。
それを近くのホテルの窓から、白服の男が情婦と共に見ている。
“来々軒”はゴローの提案で、“タンポポ”と名を替えることになった。
ある日、ゴロー、タンポポ、ガン、センセイの四人は、そば屋で餅を喉につまらせた老人を救けた。
老人は富豪で、彼らは御礼にとスッポン料理と老人の運転手、ショーヘイが作ったラーメンをごちそうになる。
ラーメンの味は抜群で、ショーヘイも“タンポポ”を町一番の店にする協力者となった。
ある日、ゴローはピスケンに声をかけられ、一対一で勝負した後、ピスケンも彼らの仲間に加わり、店の内装を担当することになった。
ゴローとタンポポは互いに魅かれあうものを感じていた。
一方、白服の男が何者かに撃たれる。
血だらけになって倒れた彼のもとに情婦が駆けつけるが、男は息をひきとった。
やがて、タンポポの努力が実り、ゴロー達が彼女の作ったラーメンを「この味だ」という日が来た・・・。


寸評
食べ物、あるいは食べることを題材とした映画は少なからず撮られているのだが、その中でも「タンポポ」は間違いなく上位にランクされると思うし、思わずラーメンが食べたくなり、食欲を起こされる作品だ。
オープニングと同時に白服で決めたヤクザの幹部らしい男が映画館に入ってくる。
一番前の席に座るが、子分と思われる男たちがテーブルと共に、シャンパン、フランスパンなどを持ってきて彼の前に並べる。
観覧中のマナーを客の一人に恫喝し、そちらも映画館なのねと観客に話しかける。
映画のための映画であり、これは食べ物の映画なのだと冒頭で示していた思う。
次のシーンはタンポポの小学生の息子であるターボーがイジメにあっていて、それをゴローが助けるシーン。
人は誰かに助けてもらって生きているのだと言うテーマも象徴していたシーンだ。
本線として、未亡人のタンポポ(宮本信子)がやっている流行っていないラーメン店を、流れ者のゴロー(山崎努)らと共に行列ができる美味い店にするという奮闘ぶりが描かれるのだが、食べ物に関するおびただしいと言ってもいいぐらいの話が挿入される。
その脇道が結構楽しめて、上手く本線のシーンと切り替えれていた。
白服の男(役所広司)と情婦(黒田福美)の絡みはエロティックである。
情婦はボウルに入った生きた車海老を腹に乗せられるなど、白服の男の食道楽に付き合っているのだが、卵黄を口移しでやり取りするシーンなどはヌードシーンを必要としない艶めかしさがある。
海辺で少女(洞口依子)から牡蠣をもらって食べるシーンもゾクッとさせられた。

ゴローはガン(渡辺謙)と長距離トラックの運転手をしているのだが、どうやらガンはラーメンに関する本を読んでいるようで、その中に登場する男(大友柳太朗)が具現化して登場し、ラーメンの正しい食べ方を講釈する。
本当かどうか分からないけれど、通はそうして食べるのかと思わせるし、チャーシューに向かって「あとでね」と語りかける場面などにはクスリと笑みをこぼしてしまう。
思わず微笑んでしまうシーンが多いし、皮肉を込めたユーモアも散りばめられている。
ゴローとタンポポがトレーニングしている時に会社員らしい一行とすれ違う。
カメラは二人からその一行に切り替わり、話が本線からわき道にそれていく。
高級レストランらしい店に入った専務(野口元夫)を初めとする一行はメニューがよくわからない。
一人が注文すると皆が知ったかぶりしてそれと同じものを注文する。
カバン持ちの下っ端(加藤賢崇)が専門的な注文をして、重役たちが真っ赤な顔になるのだが、そのメイクが実にオーバーで権威者を笑い飛ばしていた。
聞くのがはばかられるときに、周りの人を見て同じようにする経験は僕にもある。
スイートポテトの糸を容器に入れた水で切るのも分からなくて、僕は指先を洗うものかと思っていた。
マナーを知っていた人の行為を見て、同席していた人が次々とスイートポテトを食べ始めたことを思い出した。

マナー教室の話、母親から健康志向の食事を強要されている子供の話、詐欺師の話、家族の食事を作って死ぬ主婦の話、ホームレスの面々のグルメぶりなど、まるでオムニバス映画を見ているようだった。
伊丹十三は短期間で数多くの作品を撮った監督だが、その中でもいちばん彼らしい作品ではないかと思う。

団地

2019-10-25 11:41:48 | 映画
「団地」 2015年 日本


監督 阪本順治
出演 藤山直美 岸部一徳 大楠道代
   石橋蓮司 斎藤工 冨浦智嗣
   竹内都子 濱田マリ 原田麻由
   滝裕可里 宅間孝行 小笠原弘晃
   三浦誠己 麿赤兒

ストーリー
山下ヒナ子(藤山直美)は、夫の清治(岸部一徳)と共に団地で暮らしている。
2年前に一人息子の直哉(中山卓也)を交通事故で亡くした夫妻は、老舗の漢方薬局を閉店し、半年前に団地へ引っ越してきたのである。
ヒナ子はスーパーマーケットでレジ係を務めており、清治は団地の裏の林での植物観察を日課としている。
真城(斎藤工)が山下夫妻の住む302号室を訪ねてきた。
最も効能があるのは山下夫妻の生薬だという真城には、特別に生薬を提供することになる。
以後、宅配便の男(冨浦智嗣)が定期的に302号室へ集荷に訪れる。
行徳君子(大楠道代)は清治に、次の自治会会長選挙では清治を推薦するつもりだと伝える。
最初は断ろうとする清治であったが、日が経つにつれて、次第に乗り気となってゆく。
しかし、投開票の結果、君子の夫の正三(石橋蓮司)が大差で自治会会長に再選される。
後日、清治は、君子が清治の人望のなさを団地の住民と語っている現場に居合わせる。
その言葉に傷ついた清治は、自分は死んだことにしてほしいとヒナ子に告げて、床下に閉じこもってしまう。
団地の住民たちのあいだでは、清治はヒナ子に殺されたのではないかという噂が広まった。
真城が再び302号室を訪ねてきて、同郷の者たち約5,000人分の生薬を2週間後に用意してほしいと、山下夫妻に依頼し、その報酬として真城は直哉に会わせることを約束する。
山下夫妻と同じく初めての子供を亡くしている真城は、ワイシャツの前をはだけて、自分が地球人ではないことを明かし、直哉のへその緒を持って行けば、直哉に会うことができるのだという。
山下夫妻らが出発への準備を進める中、君子と正三が清治の生死を確かめるために302号室を訪れた。


寸評
阪本順治監督と主演の藤山直美のコンビとくれば傑作「顔」を思い出す。
「団地」というタイトルから何となく映画の雰囲気を想像したのだが全く違ったものになっていた。
言ってしまえば、これは坂本順治版「未知との遭遇」だ。
吉本新喜劇を髣髴させる会話による喜劇でもある。
兎に角、二組の夫婦が面白い。
藤山直美と岸部一徳の団地に引っ越してきた夫婦と、石橋蓮司と大楠道代の自治会長夫婦が実に面白いのだが、見ているうちに大阪人である僕には受けたのだが、はたして他府県の人にはこのバタ臭い笑いが通じるのだろうかと不安がよぎった。
おまけにどこかの国から来たと思われる斎藤工の発する「ごぶさたでした」を「ごぶがりでした」と言ったりする勘違い言葉は吉本新喜劇そのものである。
ウケルのかなあ~、この笑い…

山下夫婦は交通事故で息子を亡くしているらしいことが分かり、夫婦の過去の傷をめぐる人間ドラマかと思ったところでアッサリと期待を裏切られてしまう。
清治が会長選挙で仁徳がないという主婦たちの陰口を聞いてしまい、むくれて床下に隠れてしまうのである。
そこから清治が失踪したのではないか、清治はすでに殺されているのではないか、死体は室内のどこかに隠されているのではないかなどという噂が飛び交うようになっていく。
おしゃべり好きな団地の主婦に限ったことではない。
人は噂話が好きなのだ。
そして一度広まり始めた噂が噂を呼び、まるで見てきたかのような真実として独り歩きを始めてしまう。
そんな面白さ、怖さが現実社会にもあって、この団地においても例外ではない。
ヒナ子のドンくささも加味されて、この間の騒動がこれでもかと面白おかしく展開され堪能できる。

雰囲気が変わるのは斎藤工演じる真城さんの正体が明らかになってからである。
映画館の観客は圧倒的に年配の方が多かったし、70歳を超えると思われる方も大勢いた。
それは藤山直美と言う役者のせいでもあるし、団地というタイトルのせいでもあったのだと思うが、果たしてこの展開を受け入れることが出来たのだろうかと疑問に思った。
いや案外と映画ファンが多くて、この展開から「未知との遭遇」をイメージした方がほとんどだったのかもしれない。
そう、まさにここからは「未知との遭遇」だった。
人は、もし自分があの時代に戻れるならという思いは持っているのではないだろうか。
あの時代に戻れたなら、やり残したことをやってみたいという思いである。
それは勉強であったり、何かへの挑戦であったり、恋い焦がれた人への告白だったりするかもしれない。
山下夫婦にとっては、時空を超えて戻りたかった時代はあの頃だったのだと思わせるラストは唐突だったがジーンときた。
これは夫婦の再生物語でもあったのだろう。

ダンス・ウィズ・ウルブズ

2019-10-24 10:21:51 | 映画
「ダンス・ウィズ・ウルブズ」 1990年 アメリカ


監督 ケヴィン・コスナー
出演 ケヴィン・コスナー
   メアリー・マクドネル
   グレアム・グリーン
   ロドニー・A・グラント
   ロバート・パストレッリ
   フロイド・レッド・クロウ・ウェスターマン
   ウェス・ステューディ
   モーリー・チェイキン

ストーリー
1863年秋、南北戦争の激戦地で足に重傷を負い、片足を切断されると思い込んだ北軍中尉ジョン・ダンバーは、北軍と南軍両陣営の眺み合いが続く中、決死の覚悟で単身馬を駆って敵陣に飛び込んだ。
戦闘が終わって一躍英雄となったダンバーは、殊勲者として勤務地を選ぶ権利を与えられ、フロンティアと呼ばれていた当時の最西部、サウスダコタのセッジウィック砦に赴任した。
見渡す限りの荒野のただ中の砦とは名ばかりの廃屋で、ダンバーは愛馬シスコ、そしてトゥー・ソックスと名付けた野性の狼とともに、1人きりの、しかし不思議に満ち足りた生活を送り始めた。
1カ月がたち、ダンバーはシスコを盗みに来たインディアンを慌てて追いはらう。
ダンバーが辺境に来て以来初めて出会った人間こそ、インディアンのスー族の聖人蹴る鳥で、長老とともに150人の部族を仕切っていた。
集落に帰った蹴る鳥は、風変わりな白人の話をし、将来のために彼と接触すべきだと長老たちに力説し、一方ダンバーも、インディアンとコンタクトを取りたいと望み、自ら乗り込もうと決意していた。
翌日、軍服を来て出掛けたダンバーは、途中で1人の目の青いインディアン女性が倒れているのを助け、集落まで送り届けた。
この事件がきっかけとなり、やがて、彼らは頻繁に行き来するようになる。
意志の疎通のもどかしさを解消するために立てられた通訳は、以前ダンバーが助けた拳を握って立つ女で、彼女は幼い頃に拾われてスー族に育てられた白人女性だった・・・。


寸評
相当以前の伝統的な西部劇においては、騎兵隊は正義の象徴でインディアンは悪の象徴だった。
そこでは、インディアンはたいてい野蛮な未開人で白人社会を脅かす者として排除されるべき存在だった。
そのような形で登場するインディアン=先住民に対するアンチテーゼ映画としてこの「ダンス・ウィズ・ウルブズ」は一つの到達点を示す作品だ。

片足を切断されると思い込んだダンバー中尉は自殺覚悟で敵陣の前を横切るが、その行為が引き金となって味方は勝利し、彼は自由に任地を選ぶ権利を得る。
彼が選んだのは開拓最前線基地で、更に彼はもっと先の廃屋となった砦が駐屯地となる。
そこを選んだ理由が、開拓されてなくなってしまう景色を見ておきたいというものなのだが、実際彼が赴いた先で映し撮られる景色は美しいの一言に尽きる。
やがて彼は先住民のスー族と交流を持つようになるが、このスー族が非常に人間らしい心を持ったインディアンとして描かれている。
彼らは素朴で誠実な人々として登場し、独自の文化を持ち、自然を敬い、自然と共生し白人とは異なる存在だ。
映画のなかでは白人の生活ではなくインディアンの生活が前面に繰り広げられ、「10頭の熊」、「風になびく髪」や「蹴る鳥」などインディアンひとりひとりの表情が観客に見えてくる。
インディアンは主人公と同列に並ぶ仲間として描かれ、観客は騎兵隊よりもインディアンのほうに親近感を感じるようになっていく。
それは声高に叫ぶことによってもたらされるものではなく、静かに観客の心に入ってくるという演出によってだ。
観客のまなざしはダンバーを連行する騎兵隊の小隊を全滅させたスー族と主人公ダンバー中尉の側にある。

崇高さを感じさせるインディアンの裏返しとして、白人側は強欲な存在として描かれ背を向けられている。
最初に到着した任地の司令官は小便を漏らしても分からないような状態で自殺し、騎兵隊の隊員は粗野で無学な者たちの集まりである。
白人のハンターが通った跡には皮を剥がれたバッファローの死体が数多く横たわっているといった状況だ。
無教養な隊員はダンバーの戦友とでもいうべきシスコという名の馬を撃ち殺し、ダンバーの友達でもあったツーソックスと言う名の狼を撃ち殺してしまう。
この狼は映画のタイトルにかかわる大事な狼で、狼は鎖に繋がれ護送されるダンバーのことを心配そうに遠目に見守っているのだが、その狼を騎兵隊員たちは面白がって争うように撃ち殺している。
映画の後半においては愚かで身勝手な白人の姿が執拗に描写され続けている。
ダンバーはそんな白人社会を捨て、ポロニー族との戦いを経てスー族の一員となることを選択する。
追手のことを考えダンバーは仲間の元を離れるが、その後スー族がどのような過酷な運命をたどったのかは描かれていないし、ダンバーが聞く耳を持った人に真実を伝えられたのかどうかも描かれていない。
ただフロンティアが無くなっていったことだけが語られるだけである。
種族間の戦闘とダンバーを救い出す際の襲撃以外にアクションシーンのない3時間に及ぶ作品だが、目を離させずにこれだけじっくりと見せる演出は素晴らしい。
ケヴィン・コスナー渾身の一作である。

丹下左膳餘話 百萬兩の壺

2019-10-23 09:43:09 | 映画
「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」 1935年 日本


監督 山中貞雄
出演 大河内傳次郎 喜代三 沢村国太郎
   山本礼三郎 鬼頭善一郎 阪東勝太郎
   磯川勝彦 清川荘司 高勢実乗
   鳥羽陽之助 宗春太郎 花井蘭子
   伊村理江子 達美心子 深水藤子

ストーリー
二万三千石の柳生の城では、百萬兩の隠し金が埋められている場所を記した絵図面を、こけ猿の壺に塗りこめてあることが判明し家老は喜ぶのだが、城主対馬守(阪東勝太郎)は浮かぬ顔でそんな事とは知らないから、江戸へ養子にいった源三郎(沢村国太郎)の婚礼の引き出物として持って行かしたと言う。
早速、家臣高大之進(鬼頭善一郎)がその壺を江戸の不知火道場にいる源三郎にもらいに行くと、兄の頼みと言う言葉を聞いて、自分に対する待遇の悪さに腹を立てていた源三郎は断わってしまう。
勢い余って、汚く疎ましく感じていた壺を新妻萩乃(花井蘭子)にいいつけ、たまたま通りがかりのくず屋(高勢実、鳥羽陽之助)に十文で売ってしまう。
貧乏長家に帰って来たくず屋の二人は、妻に先立たれた七兵衛(清川荘司)の独り息子安吉(宗春太郎)が金魚を入れるためにと、買って来たばかりの壺をあげてしまう。
七兵衛は、ヤクザ二人組をちょっとからかってしまった所から、帰宅時に待ち伏せされ刺し殺されてしまう。
矢場の主人をしているお藤(喜代三)と、その店の用心棒を兼ねて居候していた丹下左膳(大河内傅次郎)は、ヤクザの仕返しを用心して七兵衛を送ってやった手前、最悪の結果を招いてしまい何ともバツが悪い。
七兵衛の「安を宜しく頼む…」が気になり、二人して探した結果、店に連れて帰って面倒を見るはめになる。


寸評
擬似家族が織り成すホームドラマ風人情喜劇が展開するのだが、上質のコメディ映画を思わせる。
何よりもこれが1935年、昭和10年という先の大戦前の作品でありながら、ここまでの完成度を誇っていることに驚かされる。
セットもしっかりしたものだし、カメラアングルやカット割りは今見ても古さを感じさせない。

大河内傳次郎の丹下左膳と喜代三演じる射的屋の女将お藤の掛け合いが面白い。
自分の本当の気持ちを言えず、いつも真逆のことを言ってしまう。
お藤は子供なんて嫌いだと言いながらちょい安を可愛がる。
竹馬を買ってくれとせがむちょい安にダメだときつく言っておきながら、次の場面ではお藤が竹馬を教えているといった具合である。
二人は意地っ張りで口も悪く、いつも意見が対立している。
ちょい安を道場に通わせるという丹下左膳に対し、お藤は寺子屋にやると言い張る。
お互いに譲らないが、次の場面ではお藤の意見通りになっている。
左膳は強がっているがお藤には頭が上がらないようである。
そんな左膳とお藤を何度も描いているのだが食傷気味にさせない脚本と演出の良さがある。

女性上位は柳生源三郎も同様である。
彼は次男坊で婿養子に出され、兄に対してひがみ根性がある。
婚姻の品が茶壷一つという事でも肩身の狭い思いをしているのだが、その古い茶壷が騒動を巻き起こす。
源三郎はこけ猿の壺を探しに出るのだが、妻の荻野に「美しい妻のそばに居たい」と言って喜ばせておいて、射的屋で働く娘に軽い浮気心を抱く。
源三郎は頭の上がらぬ家にいるよりも外に出て女と遊んでいたいのだ。
その浮気がばれて奥さんにとっちめられるのは、源三郎でなくても経験のあるところだろう。
源三郎は柳生の次男坊だから新陰流の免許皆伝なのだが、実際の腕はどうやら大したことはなさそうで、道場破りにやって来た左膳に60両で負けてくれと頼んでいる。
源三郎は100万両の壺よりも自由の方がいい男で、婿養子の悲哀を沢村国太郎が飄々と演じていて面白い。

この映画を楽しく見ることが出来るのは、もちろん作品自体がしっかりと撮られていることもあるが、この作品の古さにあると思う。
これだけのテイストの作品をこの時代にも撮っていたんだという驚きが一層作品の価値を高めている。
今や伝説的スターである大河内傳次郎の丹下左膳を見ることが出来るのもその一端である。
ノスタルジーを感じながら見ることが出来、作品としての評価は制作された年代が大いに寄与している。
この頃の日本映画の水準は相当高かったのだと思うし、山中貞雄が30を前にして戦病死したのは惜しい。
戦争は若い才能を摘み取っていたのだ。

タワーリング・インフェルノ

2019-10-22 13:42:45 | 映画
「タワーリング・インフェルノ」 1974 アメリカ


監督 ジョン・ギラーミン
   アーウィン・アレン
出演 スティーヴ・マックィーン
   ポール・ニューマン
   ウィリアム・ホールデン
   フェイ・ダナウェイ
   フレッド・アステア
   O・J・シンプソン
   リチャード・チェンバレン
   スーザン・ブレイクリー
   ロバート・ヴォーン
   ロバート・ワグナー
   ジェニファー・ジョーンズ

ストーリー
サンフランシスコの空にそびえ立つ138階建ての世界一高い超高層ビル“グラス・タワー”が落成の日を迎えた。
設計者のダグ・ロバーツ(ポール・ニューマン)とオーナーのジム・ダンカン(ウィリアム・ホールデン)は、屋上に立って眼下にひろがる市の光景を見下ろしていた。
工事主任のギディングス(ノーマン・バートン)と打合わせをすませたロバーツは婚約者のスーザン・フランクリン(フェイ・ダナウェイ)と久しぶりに二人だけの時間をもったのだが、惨事はその時すでに始まっていた。
81階にある物置室の配線盤のヒューズが火を発し、絶縁体の破片が発動機のマットをくすぶらせ始めたのだ。
保安主任ハリー・ジャーニガン(O・J・シンプソン)の緊急報告を受けたロバーツは配線工事が自分の設計通りに行われていないのに憤然として、落成式の一時中止をダンカン企業の広報部長ダン・ビグロー(ロバート・ワグナー)に申し入れたが、ダンカンは拒絶した。
ロバーツはダンカンの義理の息子であるロジャー・シモンズ(リチャード・チェンバレン)に会い、ビルの配線工事を担当した彼の配慮不足を責めたが、あとの祭りだった。
一方、火災の発生をまだ知らない“グラス・タワー”の借間人たちは落成式パーティの準備に浮き足立っていた。
オフィス用、住宅用に作られたこのビルには、株専門のサギ師ハーリー・クレイボーン(フレッド・アステア)、富豪未亡人リゾレット・ミューラー(ジェニファー・ジョーンス)などすでにさまざまな人が住みついた。
外部からの招待客として上院議員ゲイリー・パーカー(ロバート・ヴォーン)などがいた。
だが81階の物置室から出火した火は拡がり、ロバーツは消防署に急報した。
連絡を受けた消火隊は隊長のマイケル・オハラハン(スティーヴ・マックィーン)の統率のもと、ほどなくビルに到着しダンカンに緊急避難を令じた。


寸評
パニック映画としては「ポセイドン・アドベンチャー」とこの「タワーリング・インフェルノ」が双璧ではないかと思う。
「ポセイドン・アドベンチャー」ほどのドラマ性はないが、救出劇、鎮火作業激を極めてストレートに描いている。
アメリカ映画が得意としてきた王道を真正面から描いた作品と言える。
それを示すかのような映画の入りで、始まるとすぐにヘリコプターの飛行が映し出される。
海辺を飛び、山超え、丘越え、霧のサンフランシスコに飛来していく。
その間少しケバいタイトルが表示され、この映画を消防士たちに捧げるとのテロップも入る。
やがてヘリコプターに乗っている主人公のひとりであるポール・ニューマンのアップになり物語が始まる。
すぐに手抜き工事による発火が起こり、その原因を引き起こした人物が描かれてこの映画の悪役が決定する。
パーティに参加している人たちは火災の発生を知らないが、観客である我々は知っている。
登場人物たちがエピソードを交えて紹介されていくが、これから2時間半の長丁場をどうやって引っ張っていくのかと思うほど早い時期での事故発生なのだ。

火災が次々と延焼拡大し、それに従って救出手段がどんどん変っていく。
内部エレベーター、展望エレベーター、屋上に救助ヘリ、隣のビルへワイヤーで吊るす救命籠、ヘリでエレベーターを吊り下げる、極めつけは・・・という風に変化していくテンポがいい。
主役二人はかっこいいが、特にマックイーンが黙々と消火することに邁進する一点集中ぶりにしびれてしまう。
このストレート感がこの映画の持ち味だ。
地味だが忘れがたい存在なのがバーテンダーで、彼は非常時でも平常心で仕事をこなし子供の面倒もみる。
死を覚悟し、自分は詐欺師であると告白しようとする老詐欺師に、「全て嘘だと知っていたわ」と許す未亡人。
鎮火後、老詐欺師は未亡人を探すが彼女は転落死しており、助かった猫を渡される。
アメリカ人てこういうエピソードが好きだと思うので、これもまた王道を行っているのだと感じる。

火災を消し止め、疲れた様子で石段に座るニューマンにマックイーンが声をかける。
「今日の死者は200人を切ったが、今にもっと大きなビルで1万人以上の死者がでる」
当時は予言だったのだろうが、それがテロという火災事故とは別な原因によるものとはいえ、9.11という現実が我々に突きつけられてしまったことは悲しいことだ。
超高層ビルはバベルの塔だ。 人間の思い上がりの象徴でもある。
そこに予想だにしなかった事が起きると、巨大ビルだけに滞在している人数も人数だけに、その被害は計り知れないものがあることは想像に難くない。
日本でも絶対安全なはずの原発が事故を発生させたのだ。
テロリストの航空機による自爆テロが原発に対して行われることなどは予想していない状況下にある。
公開当時は現実には起こりえないパニック映画として楽しめた映画だったが、今見ると40年後の現在を予言していたような映画だったのだという気がする。

話しが終わりかけたとき、ひょっこり無傷であらわれる保安主任のO・J・シンプソンは一体どこでなにをしていたのかなあ?

誰も知らない

2019-10-21 08:30:19 | 映画
「誰も知らない」 2004年 日本


監督 是枝裕和
出演 柳楽優弥 北浦愛 木村飛影
   清水萌々子 韓英恵 YOU
   串田和美 平泉成 加瀬亮
   木村祐一 遠藤憲一 寺島進

ストーリー
とある2DKのアパートに、スーツケースを抱えた母親のけい子と息子の明が引越ししてくる。
アパートの大家には「主人が長期出張中の母子2人である」旨挨拶するが、実はけい子には明以外の子供が3人おり、スーツケースの中には次男の茂、次女のゆきが入っていた。
長女の京子も人目をはばかり、こっそり家にたどり着く。
子供4人の母子家庭との事実を告白すれば家を追い出されかねないと、嘘を付くのはけい子なりの苦肉の策であり、彼女は大家にも周辺住民にも事が明らかにならないよう、明以外は外出を禁ずるなど、子供たちに厳しく注意する。
子供たちはそれぞれ父親が違い、出生届は出されておらず、大家には小学校6年生と紹介した明も学校に通ったことさえない。
転入当初は、日中けい子が百貨店で働く間に明が弟妹の世話をする日々が続くが、新たに恋人ができたけい子は家に不在がちになり、やがて生活費を現金書留で送るだけとなり、けい子は帰宅しなくなる。
母が姿を消して数か月。渡された生活費も底をつき、料金滞納から電気・ガス・水道も止められ、子供たちだけの生活に限界が近づき始める。
そんな中、4人は遊びに行った公園で不登校の中学生・紗希と知り合い、打ち解ける。
兄弟の凄惨な暮らしを目の当たりにした紗希は協力を申し出て現金を明に手渡そうとする。
しかし、それが援助交際で手に入れた金と知る明は現金を受け取れない。


寸評
父親が全部違う4人の子供を次々に生んで、学校にも通わせないで、ついには置き去りにしてどっかに行ってしまった母親の話なのだが、主人公はその母親ではなく子供達。
母親のドラマは全く描かれていないので、このとんでもない母親を直接的に糾弾するような作品ではない。
ひどい母親なのだが憎みきれないキャラクターで、この母親をYOUが自身の持っているキャラを最大限活かして好演している。
虐待といえば虐待と言えるようなことをやらかしているのだが、そこには家庭内暴力は存在していなくて、むしろこの一家はすごく仲の良い家族のように見える。
そのアンバランスさから生じる異様な世界が繰り広げられるのだが、その間に劇的な事件が次々起きるような構成ではなく、むしろ淡々と子供たちの生活をドキュメンタリー風に写し取っていくので間延び感がある。
母親は彼らを置いて出て行く、そしてしばらくすると戻ってくるが、またいなくなる。
お金だけは定期的に送金してくるが十分でないこともあるので、子供たちは困る事になることを淡々と描く。
それなのに最後にはその間延び感からくる彼らの強さがジワジワと見ている僕の心に染み込んできていたことに気付く。

物語は一家の引越しから始まるが、その引越しの異様さで映画に引き込まれる。
引越し荷物の2つのスーツケースから茂とゆきがでてくるのだが、ゆきの入っているスーツケースはルイ・ビトンなのでまんざら貧乏でもなそうなことがわかる。
母親は子供たちに、「大声で話さない」、「外に出ない、ベランだもダメ」、「明はお母さんが遅い時は皆の面倒を見る」などと約束事を伝えるのだが、子供たちに全くの無関心ではなく、勉強を見てやるし、いっしょになって遊ぶこともするし、子供たちの髪もすいてやる優しさも持っているようなのだ。
しかし、子供たちが学校に行きたいといっても「そんなの行かなくても立派な人はいる」と言って行かせない。
しかし子供たちは母親が好きで、京子にとってはマニュキュアは母の温もりだったのだと思う。

子供たちは自分たちで生活のやりくりをし、閉じ込められた生活の中に喜びを見出していく。
子供たちの日常生活だけで、最後まで引っ張っていってしまう描写力が素晴らしい。
明が悪ガキと知り合ったり、いじめられっ子の女子中学生と仲良くなったりと小さな出来事を描きながらも、カメラは手持ちも含めて彼らの生活だけを描き続ける。
その単調な描き方の中で、ささやかな幸せさえ破綻していくのが切なくなって迫ってくる。
ラストでは明がいじめられっ子の女子中学生とともに、「飛行機を見に行こう」という約束を果たすために、ゆきの入ったスーツケースを羽田に運んでいく。
最初はビトンのスーツケースに入れようとしたが入らない。
「ゆきは大きくなっていたんだね」とつぶやく言葉が胸を突く。
夜の空港を背景に作業するふたりの姿、夜明けの帰り道、重なるテーマ曲。
この一連のシーンは美しくて、悲しくて、切なくて、思わずグッときてしまう。
子供たちのたくましい生命力は、悲惨な運命の中でも小さな幸せを見つけて生かせていくのだと言っているようなラストシーンだが、しかしこんなことで得られるたくましさなど僕は与えたくない。

ダラス・バイヤーズクラブ

2019-10-20 11:54:45 | 映画
「ダラス・バイヤーズクラブ」


監督 ジャン=マルク・ヴァレ
出演 マシュー・マコノヒー
   ジャレッド・レトー
   ジェニファー・ガーナー
   デニス・オヘア
   スティーヴ・ザーン
   グリフィン・ダン
   マイケル・オニール
   ダラス・ロバーツ
   ケヴィン・ランキン

ストーリー
1985年、アメリカ南部に位置するテキサス州ダラス。
電気工でマッチョなロデオカウボーイのロン・ウッドルーフは酒と女に明け暮れ、放蕩三昧の日々を送っていた。
多くの女性と性行為を重ねた末、ある日、体調を崩した彼は、突然医者からHIVの陽性で余命30日と宣告される。
ほかの多くの人同様、エイズは同性愛者がかかる病気と信じていたロンにとって、それはあまりにも受け入れがたい事実だった。
突然の事態に驚き、生きるためにエイズについて猛勉強するロン。
アメリカでは認可されている治療薬が少ないため代替治療薬を求めて向かったメキシコで、未認可医薬品やサプリメントを密輸できないかと思いつく。
同じくエイズ患者であるトランスセクシュアルのレイヨンとともに非合法組織ダラス・バイヤーズクラブを設立し新薬の提供を始めたところ、友人や顧客のおかげでネットワークはどんどん拡大し、ロンは日々世界各国を飛び回って特効薬を探していた。
しかしそんな彼に司法当局は目をつける…。


寸評
ロンは余命30日と宣告されながら7年も生きた。
いわゆる難病者だが、政府と闘った偉人伝でもなければ、お涙頂戴の感動物語でもない。
態度も悪く、下劣な言葉を吐き、国や製薬会社の愚かさを批判しながら、生きるために前へ前へと進んでいくロンのバイタリティーに圧倒されるエンタメ性に富んだ作品だ。
アカデミー賞の主演男優賞に輝いたマシュー・マコノヒーの演技だけでも観る価値ありの映画だ。
ゲイの青年役のジャレッド・レト、女性医師役のジェニファー・ガーナーもなかなかな演技で、この三名の出演者が素晴らしい。
ロンの生き様を示すと同時に、社会批判的な要素も込められているが、肩をこらさずに楽しめる映画になっている。
ロンはまるでビジネスマンで、世界をまたにかけて飛びまくっている。
あらゆる手立てを使って薬を国内に持ち込んでくる。
なんと、日本にまで触手を伸ばしていた。
自ら生きるためではあるが、一方で金もうけのためという側面も描いているので単純なお涙頂戴物語になっていないのだろう。
僕は日本の厚生労働省に大いなる疑問を持っている。
薬事行政に関して絶大な権限を持っているので、その政策に懐疑的であるのだ。
メタボ診療など、どうも利権と結び付いているような事柄が多い役所だと感じていて、すべてに懐疑的なってしまっているのだ。
そんな気持ちが根底にあるので、ロンがそれらしい機関と対決していく様に拍手を送りながら見ていた。
もしかすると、そのあたりが、僕がこの映画を楽しめた第一要因だったのかもしれない。
エリザベス・テイラーの抱擁されてエイズで亡くなったロック・ハドソンの名前が度々出るが、偏見時代の象徴として描かれていたのだろう。
ロンの最後を描くことはなく、その後多様な治療薬が認められるようになったこと、ロンが7年も生きたことがテロップで示される。
ラストがロンの末期などではなく、彼が破れながらも拍手で迎えられるシーンだったことは押し付けがましくなくて感動的だった。
でも、あの女医さん、結局その後はどうなったのかなあ・・・。
ちょっと気にかかる。

魂萌え!

2019-10-19 09:12:36 | 映画
「魂萌え!」 2006年 日本


監督 阪本順治
出演 風吹ジュン 田中哲司 常盤貴子
   三田佳子 藤田弓子 由紀さおり
   今陽子 加藤治子 寺尾聰
   豊川悦司 林隆三 左右田一平

ストーリー
定年を迎え夫婦ふたりで平穏な生活を送っていた関口敏子、59歳。
63歳の夫・隆之が心臓麻痺で急死し、敏子の人生は一変する。
亡くなった夫の携帯電話にかかってきた女性からの電話。
8年ぶりに現れ強引に同居を迫る長男・彰之。
長女・美保を巻き込み持ちあがる相続問題。
ついには居たたまれなくなり衝動的に家を飛び出した敏子は、カプセルホテルに宿泊することに。
そこで敏子は常連客だという不思議な老女・宮里と出会うのだったが…。
矢継ぎ早に迫ってくる孤独や不安に、やがて敏子は恐る恐るではあるけれど立ち向かって行く。
妻でもない母でもない一人の女として、新たな人生を切り開く決意を固める敏子。
世間と格闘しながら、もうひとつの人生を見つけ、確かな変貌を遂げていく…。


寸評
桐野夏生さん原作の同名小説の映画化だが、NHKドラマとしても少し前に作られていて、そちらは高畑淳子さんが関口敏子で 高橋惠子さんが伊藤昭子で、残された妻と愛人の葛藤を中心に描いていた。
同じ原作だが作りは全く違っていて、こちらは風吹ジュン演じる平凡な主婦が、ダンナの死によって強く生きる自分を取り戻す姿を描いている。
一番端的なシーンが愛人だった三田佳子が線香を上げにくるシーンだった。
未亡人が愛人と直感した女を待ち受ける。負けてはならじと化粧をし直し真っ赤な口紅で迎えると、どう見ても自分よりは年上で、風采もあがらないオバサンではないか(三田さんゴメンナサイ)。
何でこんな人が愛人なんだとの思いがにじみ出た核心的シーンだった。
愛人の方が若くて美人なテレビ版との描き方の一番の違いだった(高畑さんゴメンナサイ)。
ラストシーンを見ると、阪本順治監督はこの映画を撮るにあたって、涙腺刺激映画の名作として有名な「ひまわり」のイメージが有ったのかもしれないなと思った。
「ひまわり」が今に残るのは、テーマ音楽と、か弱さとは無縁のようなソフィア・ローレンの演技に負うところが大きかった思う。
またオープニングやエンディング、そして本編の随所に挿入されるのが、明るさや力強さをイメージさせるひまわりの花で、その花が哀しみや涙といった言葉とはおよそ対極の位置にあることで、二人の切ない運命をより強く照らし出しす役割を担っていたとも思う。
そして、彼女たちが希望と夢を持って輝いていた時の象徴として、女学生時代の8ミリ映画がひまわりの花と同じような使われ方をしていたと思う。
8ミリ映画はそれが流れる毎に、彼女が輝きを取り戻して行っているような使われ方だった。
そして本編で流れる映画はもう一本あって、それがラストシーンで映し出されるビットリオ・デ・シーカの「ひまわり」だ。
あの映画はマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの夫婦が戦争で生き別れとなり、妻は夫の帰宅を待ち続けている。
妻は夫を探し出すが既に新しい妻と子供がいる事実を知り絶望のままイタリアに帰る。
今度は夫がイタリアの元妻を訪ねるが、妻は再出発を拒絶し、夫はロシアで待つ現妻の元へ帰っていく。
そんな内容の映画だったが、この映画のラストシーンでそちらのラストシーンを流したのは、主人公を「ひまわり」のソフィア・ローレンにダブらせる意味合いがあったのだろうと思う。
それを思うと映写技師として映画のソフィア・ローレンを見つめる風吹ジュンのキリッとした目つきが増幅されてすごく良かった。
彼女もまた凛として生きていく決意の表情だったし、ダンナの死でもって真の自分を取り戻した瞬間でもあったと思う。
やはり、これは紛れもなく阪本順治作品だった。

Wの悲劇

2019-10-18 13:31:21 | 映画
「Wの悲劇」 1984年 日本


監督 澤井信一郎
出演 薬師丸ひろ子 世良公則 三田佳子
   三田村邦彦 高木美保 蜷川幸雄
   志方亜紀子 清水紘治 南美江
   仲谷昇 梨本勝 福岡翼

ストーリー
三田静香は、女優を目指す劇団“海”の研究生。
次回公演の『Wの悲劇』の主役を研究生の中からオーディションで選ぶことになり張り切っていたが、静香についたのは結局セリフ一言の小さな役。
が、大阪公演の幕が開けたその夜、静香は劇団の看板女優・翔の部屋で彼女のパトロン・堂原良造が死んでいる現場を目撃してしまう…。
このスキャンダルで自分の女優生命も終わりかと絶望的になっていた翔は、静香に自分の身代りになってくれ、もし引き受けてくれたら摩子の役をあげると言い出す。
最初は首を横に振っていた静香だったが、「舞台に立ちたくないの!」という一言で、引き受けてしまうのだが・・・。


寸評
薬師丸ひろ子は角川映画が産んだ最大のスターだと思う。野生の証明でデビューし、セーラー服と機関銃で「カイカーン」と叫んだアイドル女優だったが、この「Wの悲劇」ではアイドル性を保ちながら大人の女優への脱皮を感じさせている。彼女はこの後も多くの作品に出演したが、彼女の代表作は未だにこの「Wの悲劇」ではないかと思う。「病院へ行こう」や「三丁目の夕日」のようなとぼけた役が似合っているが、そこからはどうしても脱却できないでいると思う。それでもいつまでたっても可愛い女優さんで少女の様な匂いを持ち続ける稀有な存在だ。
澤井信一郎にとっても上位にランクされる出来に仕上がっている作品だと思う。

導入部分は薄暗い中での出来事で、役者の卵の決意を表すシーンとして立ち上がりとしては上出来。
主人公の静香は役者修行のためにと初めて男と寝るが、その男は誰だか分からない。
それに続く静香のわずかな行為で相手を暗示して、その次で明白にする細やかな演出は僕の好きなパターンだ。

「Wの悲劇」が劇中劇として演じられているのだが、劇中劇のシーンが結構長い割には本編に違和感や間延び感を持たせず挿入されている。
もちろん、設定が舞台俳優を目指す少女とその世界の出来事なので当然かもしれないが、出演者の舞台らしい演技がそれを支えていた。
劇中劇の一つの描き方として、演じられている劇が現実とリンクしていくというものがあるが、ここでも「Wの悲劇」という芝居は母親の犯した殺人の犯人として娘が身代わりになるという内容で、現実には静香がトップスターのスキャンダルの身代わりとなる構成で挑んでいる。やや漫画的な運びだが、役を取るんだ、女優になるんだという決意を見せる薬師丸の表情がそれを感じさせない。
余談だが蜷川幸雄ってやっぱ芝居も上手いんだなあと思った。上手いといえば芸能レポーターの面々が本職であるインタビューシーンとは言え中々の演技で驚いた。

抜擢された菊池かおりがスターである羽鳥翔に向かって「追い抜いてやる」と睨みつけるが、翔もまた後日スキャンダルの顛末を語る場面で「私は追い抜かれない」と言葉を発している。
上がってくる者がいれば沈んでいく者もいるのはどこの世界でも同じだが、スターという地位はまた特別なものがあるのだろう。
それを目指す静香も初々しいが、守ろうとする翔の執念も十二分に描かれていた。
その最たるものが翔が静香抜擢のために舞台上で叫ぶ三田佳子の演技だ。
ここ一番での彼女の演技を見ると流石だなあと思わせるに十分で、この映画で一番迫力あるシーンだった。

世良公則が演じるところの昭夫に薬師丸ひろ子演じる静香が、別れのポーズを取る。泣きそうになるところをもう一人の自分が笑えと命じているという表情がいい。
このラストのストップモーションは最高だ。この表情が彼女を永遠のものにしたと言っても過言ではない。もしかすると薬師丸ひろ子、一生に一度の表情とポーズになるかもしれない。
これは日本版「イヴの総て」だと思うが、ラストシーンがこの映画を青春映画のジャンルにしていると思った。

TATTOO[刺青]あり

2019-10-17 09:33:07 | 映画
「TATTOO[刺青]あり」 1982年 日本


監督 高橋伴明
出演 宇崎竜童 関根恵子 渡辺美佐子
   太田あや子 忍海よし子 矢吹二朗
   下元史朗 島貫晃 山路和弘
   ポール牧 垂水悟郎 青木和子
   泉谷しげる 荻島真一 原田芳雄
   植木等 西川のりお 上方よしお
   趙方豪 大杉漣 北野誠

ストーリー
検死官が運ばれた死体を調べ、“体の特徴 刺青あり”と報告した。
竹田明夫の死体だった。
15歳の時、遊興費欲しさに強盗殺人事件を引き起こした明夫は保護監察処分取り消しになった20歳の時“30歳になるまでにドデカイ事をやったる!”と誓った。
それまでの生活を一変させるためにパーマをかけ、胸にボタンの刺青を入れキャバレーのボーイになった。
同じ店で働くナンバーワンのホステス、三千代を強引にくどき、同棲生活を始める。
しかし三千代は明夫の性格についていけなくなり、別の男・鳴海のもとへ逃げてしまう。
三千代を連れもどそうとするが、鳴海の気魄に負け、雨の降る中を帰って行った。
明夫にはなぜ三千代が逃げたのか分からず、また四国の田舎町でひっそり暮らす母親のためにも男をあげなければならないと思った。
ボーイから転進した雇われ店長をやめ、贈答品会社とは名ばかりの取り立て屋を始めた。
再会した幼なじみのタクシー運転手・島田を相棒に銀行襲撃計画を練り、参考になりそうな本を読みあさり、クレー銃の練習を始めた。
尻込みする島田に車の用意をさせ、30歳を過ぎようとする昭和54年1月26日、大阪市内の銀行に銃声とともに押し入った。
篭城する明夫を説得する母親、そして……。
深夜の列車から白い骨箱をかかえ駅に降りた母親は、明夫のかぶっていた帽子を頭にのせ、人のいなくなったベンチに座っていた。


寸評
1979年1月に起きた三菱銀行人質事件をモデルにしていて、主人公竹田明夫を演じた宇崎竜童の風貌は犯人の梅川昭美によく似ている。
三菱銀行人質事件は1月26日に発生した。
大阪市住吉区にある三菱銀行北畠支店に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質に立てこもった事件で、犯人の梅川昭美は警察官2名、行員2名(うち1名は支店長)の計4名を射殺している。
梅川は女性行員を全裸にして盾代わりに並ばせたり、男子行員に別の男子行員の耳を切り取らせたりするなど非道の限りを尽くしたが、事件発生から42時間後に立てこもった梅川は、警察の特殊部隊により射殺された。
映画は人質事件そのものを描いているわけではないので、銀行内の様子や犯人の行動を全く描いていない。
唯一、母親を説得役として連れてきた警察に「母親の姿を見せたら殺すぞ」と凄む竹田明夫が登場するだけなのだが、僕は三菱銀行のさる支店長から報道されている以上の行内のひどい状況を聞いたことがある。
何よりも射殺された支店長は栄転で北畠支店長となられる少し前まで、僕が務めていた会社の取引銀行支店長としてお目にかかっていた方だったのである。
栄転のお祝いを渡した直後の事件だけに、運命の皮肉さを感じずにはいられなかった。
そんなこともあって「TATTOO[刺青]あり」は僕にとっては特別な映画となっている。

凶悪な犯罪へと主人公を駆り立てたものは何だったのかに的を絞った西岡琢也の脚本が素晴らしい。
特に、息子を盲目的に愛する母親の期待に応えようとして背伸びする主人公の姿、世間から迫害されるようにして生きてきた二人の関係の異常さと、そこに端を発した「世間を見返してやろう」という異常なまでの執念が君が悪いぐらいに迫ってきて、胸部に彫られた刺青によって自分を強者と錯覚して堕ちていく姿は痛々しい。
明夫は時として優しく、時として暴力的になる二重人格者のような男でもある。
三千代を散々痛めつけておいて、優しく湿布薬を貼ってやるようなアンバランスな行動を疑いもなくやる。
明夫は短略的に30歳までに大きなことをやることに固執しているのは一人前になった姿を見せたいと言う母への背伸びだ。
明夫は脅し取った電化製品を母親に送っているが、母親はそれを息子と思い疑いもせず大切にしている。
盲目的に息子を愛する母とマザコン的に母を慕う息子なのだが、彼等の精神構造はいびつだ。

この映画は三菱銀行人質事件を髣髴させるが、もう一つ鳴海清による山口組三代目襲撃事件も描かれている。
三千代は鳴海清とも関係を持っているから、とんでもない男二人と関係していたことになり、彼女こそ踏みにじられた人生を送っていると言ってもよい。
彼女は男をダメにすると言われているが、二人の男とやっと切れることが出来た、この映画では唯一救われることを想像させる人物に思えた。
この映画に欠点があるとすれば、主人公の明夫にまったく共感する点がないことだ。
息子の遺骨を抱き暗闇の駅舎に浮かぶ母親の姿を見ると、この母親の不幸な人生に同情する。
ラストは切ないが映画としてはいい終わり方だ。
宇崎竜童はシンガーとしても作曲家としても成功を収めていたが、役者としてもすでに「曽根崎心中」などで存在感を見せていたが、僕はこの作品の明夫役が一番だと思っている。