おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

の・ようなもの

2021-08-27 08:00:56 | 映画
「の」は2019/12/20から「野いちご」「野良犬」など7本を紹介しましたが、更に思いついたのは「の・ようなもの」だけでした。

「の・ようなもの」 1981年 日本


監督 森田芳光
出演 伊藤克信 秋吉久美子 尾藤イサオ
   麻生えりか でんでん 小林まさひろ
   大野貴保 内海好江 五十嵐知子

ストーリー
23歳の誕生日を迎えた落語家の志ん魚(伊藤克信)は仲間達にカンパしてもらい、初めてソープランドに行く。
相手をしてくれたソープ嬢のエリザベス(秋吉久美子)はどこかあどけなさの残る志ん魚を可愛いと気に入り、自宅の電話番号まで教えてくれた。
志ん魚はエリザベスに高級フレンチをご馳走してもらったりと分不相応なデートを楽しむようになる。
ある日志ん魚は落語研究会に所属する女子高生達のコーチを頼まれ、弟弟子の志ん菜(大野貴保)とともに高校を訪ねた。
部員の由美(麻生えりか)に一目ぼれした志ん魚が口説くと、由美も嬉しそうに応じた。
その後志ん魚は志ん水(でんでん)らの兄弟子達や落語研究会の女子高生らとともに番組制作会社と協力して団地住まいの主婦向けに天気予想クイズを企画し大成功、その後も青空寄席と称して志ん米(尾藤イサオ)が団地の中で寄席を行って大盛況となる。
志ん魚はエリザベスに由美と付き合うことになったことを告白し、別れを告げようとする。
しかし元々私達は友達なのだから別れる必要もないというエリザベスの甘い言葉に乗せられ、志ん魚はずるずると二股交際を始めるようになってしまう。
由美の自宅に招かれた志ん魚は「二十四孝」という古典落語を披露したところ、由美の父から古今亭志ん朝や立川談志に比べると下手だと辛口で斬り捨てられ、さらに由美も父の意見に同調し始め、すっかり自信をなくした志ん魚は終電も逃してしまい、夜の街を彷徨い始めた。
ひたすら夜の街を歩き続け、浅草へ着くと由美が先回りして待っていてくれた。
兄弟子の志ん米が真打に昇進することが決まり、仲間達は自分のことのように喜ぶ。
一方エリザベスは友人に誘われ滋賀の雄琴に引っ越すことになった。

寸評
何があると言う映画ではない。
恋愛劇でもないし事件が起きるわけでもない。
ただ若手落語家の日常が描かれているだけで、それが本当の落語家の日常であるかどうかも分からない。
伊藤克信が話す独特のイントネーションの喋りが印象に残る。
しんととが23歳の誕生日に皆からカンパをしてもらってソープランドに行き、そこでソープ嬢の秋吉久美子と知り合い、恋人のような関係になる。
恋人のようにも見えるが友達のような関係でもある。
この頃の秋吉久美子ファンだった僕には、凄く羨ましい関係であった。

しんととたちは少し歳を食っているが青春時代を謳歌しているのかもしれない。
僕たちもその時代には随分とバカをやったものだ。
ラブホテルや銭湯で繰り広げるバカには笑ってしまうが、でも思い当たるフシがあるバカ騒ぎなのだ。
彼らは落語家で根っから面白い男たちなのだが、しかし誰もが形を変えた面白さを持っているから人間は面白い存在なのだと思う。
そして彼らはいい加減な男たちだが、非常に優しさを携えた男達でもある。
しんととの誕生祝をしてやり、志ん米の真打昇進を心底から喜び祝ってやる。
人にはこの優しさが必要だ。

しんととは由美の父親から演じた落語を酷評される。
志ん朝や談志と比較され、彼らは真打だが自分はまだ二つ目だと言い訳し、打ちひしがれた彼は、深夜から明け方にかけて東京の街を「しんとと・・・しんとと・・・」とつぶやきながら、歩いている場所を点描するように口ずさんでいく彷徨シーンがとてもいい。
このシーンがあるからこの映画は成り立っていると思う。
志ん米の昇進祝伊おパーティがビヤガーデンを借り切って行われる。
そこで弟弟子と「早く真打になりたいな」と語り合うが、やがて無音となりしんととの明るい笑顔出話す姿などが捕らえられ、かすかに尾藤イサオの歌う主題歌が聞こえてくる。
一抹の淋しさを感じさせるこのラストは余韻を残した。

僕は、古典落語が好きなしんととは最後まで真打になれなず、売れない落語家で終わったと思う。
落語が好きなここと上手いことは別次元で、しんととは由美親子から下手だと酷評された落語が最後までうまくならなかっと思うのだ。
しかし、たとえ真打になれなくても、しんととは好きな古典落語を続けたと思う。
そういう人生もありかなと思うのだ。
青春時代は楽しいもので、ずっと続けていたいと思うものだが、そうはいかない。
どこかで踏ん切りをつけて新たに歩き出さねばならないのだが、出来るならいつまでもバカをやっていたい。
僕の思い込みかもしれないが、落語家ってそれが出来る人たちのような気がして、羨ましくもある。