おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

淵に立つ

2020-02-29 13:48:28 | 映画
「淵に立つ」 2016年 日本 / フランス


監督 深田晃司
出演 浅野忠信 筒井真理子 太賀
   三浦貴大 篠川桃音  真広佳奈
   古舘寛治

ストーリー
郊外で小さな金属加工工場を営む鈴岡家は、夫・利雄(古舘寛治)、妻・章江(筒井真理子)、10歳の娘・蛍(篠川桃音)の三人家族。。
夫婦の間に業務連絡以外の会話はほとんどないものの、平穏な毎日を送るごく平凡な家族だ。
そんな彼らの前にある日、利雄の旧い知人で、最近まで服役していた八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。
利雄は章江に断りなくその場で八坂を雇い入れ、自宅の空き部屋に住まわせてしまう。。
章江は突然の出来事に戸惑うが、敬虔なクリスチャンである章江の教会活動に参加し、蛍のオルガン練習にも喜んで付き合う礼儀正しい八坂に好意を抱くようになる。
すっかり家族同然になった八坂は、あるとき章江に殺人を犯したことを告白するが、すでに彼に揺るぎない信頼を寄せていた章江にとっては、むしろ八坂への感情が愛情に変わるきっかけとなるばかりであった。
家族が八坂を核として動き始めた実感を得たとき、彼による暴挙は始まった。
すべてを目の当たりにし狼狽する利雄をおいて、八坂はつむじ風のように暴れ、そして去っていった。
8年後。
八坂の行方は知れず、利雄は興信所に調べさせているが、一向に手がかりはつかめないでいた。
工場では古株の従業員・設楽篤(三浦貴大)が辞めることになり、代わりに山上孝司(太賀)が新人として入ってきたのだが、母を亡くして独り身の孝司は屈託のない人柄でたちまち夫婦の信頼を得る。
だが皮肉な巡り合わせにより、八坂の消息をつかめそうになった時、利雄と章江は再び己の心の闇と対峙することになるのだった……。


寸評
ミステリー・サスペンスの様相を見せるがそうではない。
かと言って家族崩壊を描いているのかと言えば、一概にそうとは言えないものがある。
幸せそうだった家族が、第三者の登場によって崩壊していくというのは何度か見た内容だし、最初はそんな印象で見ていたが全く期待を裏切る展開を見せる。
八坂は人を殺して刑務所に入り、利雄がそれに関わっていたことが早いうちに示唆されているし、八坂自らの口で自身の過去が語られてしまうからミステリー性は早い段階で消え去る。
また利雄一家はクリスチャンの章江と娘が食事の前にお祈りを捧げているのに、夫の利雄は全く関心を示さない関係で、どこか隙間風が吹いているような感じを最初から示している。

そして八坂が登場して物語は一気に展開を見せていくのだが、この八坂の服装が異様である。
何処に行くのにも白いカッターシャツを着ていて、眠るときもそんな姿のままだったりしている。
刑務所暮らしが身についているらしく、食事は早いし歩く姿勢は手先をピンと伸ばしたものだ。
彼は礼儀正しいし、オルガンを教えたりできるし、利雄の子供である蛍もなついている男なのだが、その表面的な顔の裏に潜む凄みを見せる時がある。
僕たちはその場面で彼の本質を垣間見ることになる。
僕も大学時代にアルバイト先で今は足を洗っている本物のヤクザの凄んだところを目撃したことがあり、その時は玄人さんの怖さに身震いをした事を思い出す。
ある事件の後に八坂は姿をくらましてしまうが、浅野忠信演じる八坂の存在が際立ってくるのが不思議なことに彼がスクリーンから消え去ってからだ。
どのようにして彼がスクリーン上に復帰してくるのかとワクワクしながら見ていたのだが中々再登場しない。
やっと登場したかと思うと、見事にその期待は裏切られてしまう。
画面から消え去った人物が、こんなにも存在感を見せる作品は少ないのではないかと思う。

家族は結束の強いものだと思われているが、それがちょっとしたことでもろくも崩れ去ってしまう危うさを秘めたものであることを迫ってくる作品だ。
妻の章江は夫への不満があったのか、利雄に別な魅力を感じたのか利雄に対して好感を抱き始める。
二人の関係は利雄の目を盗んで続けられるが、利雄はそれを感じ取っていた。
しかし家族の維持のために利雄も章江も平静を装っている。
家庭を維持していくためには、夫も妻も本心を明かしてはいけないことがあるという事だろう。
河原に四人が寝転ぶシーンが二度登場するが、一度目が疑似平穏の状況だったのに対し、二度目では崩壊の状況に追い込まれている。
これだけ必死になるのなら、あの時ああしておけばよかったと手遅れな反省をしているようでもあった。
秘めた暴力性を一瞬だけ見せる浅野忠信、闇を抱えつつひたすら自己抑制に努めているような寡黙な夫の古館寛治、その時々の感情を的確に表現し続けた筒井真理子の迫真の演技。
俳優たちが存在感を見せ、罪と罰、因果応報、信仰というものについて考えさせながら家族の危うさを突きつけてきた重量感のある作品だ。

武士道残酷物語

2020-02-28 12:06:25 | 映画
「武士道残酷物語」 1963年 日本


監督 今井正
出演 中村錦之助 東野英治郎 渡辺美佐子
   荒木道子 森雅之 有馬稲子 加藤嘉
   木村功 江原真二郎 岸田今日子
   山本圭 佐藤慶 河原崎長一郎
   丘さとみ 三田佳子 西村晃

ストーリー
日東建設の営業部員、飯倉進(中村錦之助)は婚約者の人見杏子(三田佳子)が自殺を計ったとの知らせに、故郷信州の菩提寺で発見した先祖の日誌に記された、世にも残酷な話の記憶を呼びおこした。
(飯倉次郎左衛門の章)寛永15年、主君と共に島原の役に服した次郎左衛門(中村錦之助)は、一揆勢に黒田屋敷を焼かれた科で幕僚から叱責を受けた式部少輔(東野英治郎)の罪を被り、本陣門前で割腹して果てた。
(飯倉佐治衛門の章)乱後三年、近習に取立てられた伜佐治衛門(中村錦之助)は衷心をもって病床の式部少輔に仕えたが、勘気にふれて閉門を命ぜられ加増分を召上げられたが、佐治衛門の忠心は変らず、ほどなく死亡した式部少輔の後を追って切腹した。
(飯倉久太郎の章)時代は元禄、佐治衛門の孫久太郎(中村錦之助)は時の藩主丹波守宗昌(森雅之)の眼にとまりお手付小姓となったが側室萩の方(岸田今日子)との仲を疑われ、羅切りの酷刑にかかり、果てには萩の方を妻にもらいうけ信州に帰った。
その後も(飯倉修蔵の章)(飯倉進吾の章)(飯倉修の章)(飯倉進の章)と悲劇は続く。
そして現代、進は上司山岡営業部長(西村晃)に杏子との仲人を頼んだところ、信州ダムの入札に関する競争会社飛鳥建設の情報を盗むよう言われた。
飛鳥建設のタイピストを勤める杏子はしぶしぶ承知したが、杏子の悲しみと怒りは睡眠薬服用というかたちで進を責めた。
あの残酷な歴史、かくは生きまいと誓った進がそれをくり返していたのだ。
進は二人だけで結婚する決心をした。


寸評
滅私奉公の精神がもたらす悲劇をオムニバス形式で描いているが、何とも暗い映画で僕はあまり好きでない。
サラリーマンである板倉進の述懐で始まり、自殺未遂した三田佳子のベッドの脇で、板倉進が「二人だけで結婚しよう」ときっぱり言うラストシーンで終わる。
ラストシーンはこの映画の唯一の救いになっているのだが、この取って付けたような終わり方は映画全体のテーマからして、これで良かったのだろうかという疑問が残るもので、どうもテーマ追求という点から見ると物足りなさを感じてしまい、その事が僕を映画にのめり込むのを阻害している。
現代で始まり現代で終わっているから、過去の日本人の封建的な生き方を弾劾しながら、戦後の日本人も体質的に変わっていないのではないかという問題提起をしているのだと思うが、しかし自己変革への意志や希望を示唆したとは言い難いように思う。
制作年度の頃における日本は高度経済性等の時代で、サラリーマンは終身雇用、年功序列の雇用形態の真っただ中にいて、企業戦士としてより良い暮らしを求め会社に忠誠を誓っていた。
自己犠牲をして働く生き方に警鐘を鳴らすという意図が感じ取れるのだが、それが素直に伝わって来たかと言うと少しばかり不満が残る。

第一話の飯倉次郎左衛門が主家の為に責任を背負って切腹して果てるのは時代劇の中で度々描かれてきたのでモノローグとしては適度な尺でとっつきやすい。
それを引き継ぐ第二話では飯倉次郎左衛門の殉死が描かれる。
乃木希典が明治天皇の大葬が行なわれた1912年9月13日に自刃し明治天皇への殉死として知られているが、
殉死は徳川4代将軍家綱の時代ぐらいから禁止されていたから驚きをもって伝えられたかもしれない。
次郎左衛門の殉死は寛永15年(1638年)となっているから、この頃はまだ殉死が横行していたのだろう。
謹慎中の次郎左衛門が殉死したのは乃木に通じるものがあるような気がする。
三話は男色の主君に飯倉久太郎がもてあそばれる話で、森雅之が嫉妬に狂う殿様を好演している。
久太郎は生殖器を切り落とされ、更には側室の岸田今日子を押し付けられるという悲劇だが、その時すでに岸田今日子の萩の方は久太郎の子供を宿していたということだから、その後の二人の生活はどうだったのだろう。
案外幸せな余生だったかもしれないのだが、後日談は描かれておらず想像の域を出ない。
第四話飯倉修蔵の悲劇はオムニバスの中では一番悲惨な話だと思う。
修蔵の妻である有馬稲子の自害も理不尽な出来事だが、運命に翻弄される娘のさとが痛ましい。
江原真二郎の殿様が憎々しいし、修蔵の切腹はこの映画一番の見どころとなっている。
旧主家の落ちぶれた殿様である加藤嘉の面倒を見る第五話の飯倉進吾、第六話の特攻隊として出撃する飯倉修になってくると少々端折り過ぎの感がある。
そして最後の七話になって飯倉進は三田佳子の杏子と二人だけの結婚式を決意するのだが、進は会社を辞めないのだろうか。
二人して会社を辞めて再出発するのが望ましいと思うのだが。
作品は第13回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞したのだが、武士道と言う言葉でくくられた日本へのイメージが受賞させたのだろうか。
今井正としては「仇討」などの方が武士道の残酷さが出ていたように思う。

ふがいない僕は空を見た

2020-02-27 09:19:03 | 映画
「ふがいない僕は空を見た」 2012年 日本


監督 タナダユキ
出演 永山絢斗 田畑智子 窪田正孝
   小篠恵奈 田中美晴 三浦貴大
   梶原阿貴 吉田羊  藤原よしこ
   山中崇  銀粉蝶  原田美枝子

ストーリー
高校生の斉藤卓巳(永山絢斗)は、助産院を営む母子家庭のひとり息子。
卓巳はアニメのイベントで、あんずと名乗るアニメ好きの主婦・岡本里美(田畑智子)にナンパされる。
里美は卓巳を自宅に招き、大好きなアニメキャラクターのコスプレをさせて情事に至る。
だがある日、卓巳は同級生の松永七菜(田中美晴)に告白され、里美との関係を断つことを決心する……。
里美は、元いじめられっこ同士で結婚した夫・慶一郎(山中崇)と二人暮らし。
子作りを求める姑・マチコ(銀粉蝶)からは不妊治療や体外受精を強要され、マザコンの夫は頼りにならない。
里美は卓巳との関係を夫と姑に知られてしまい、土下座して離婚を懇願するが受け入れられず、代理母を捜すためにアメリカに行くことが決定する……。
卓巳の親友・福田良太(窪田正孝)は、団地での極貧の生活に耐えながらコンビニでバイト中。
店長の有坂(山本浩司)からは“団地の住民たち”と蔑まれ、共に暮らしている痴呆症の祖母は辺りを徘徊、新しい男と暮らしている母親には消費者金融の督促が後を絶たない。
だがバイト先の先輩で元予備校教師の田岡良文(三浦貴大)が「団地から脱する武器を準備しろ」と勉強を教えてくれるようになるが、彼もまた心の闇を抱えていた……。
福田と同じ団地に住むあくつ純子(小篠恵奈)は、アニメ好きの姉が見つけたという写真のプリントアウトを七菜に見せるが、それはコスプレして里美がセックスしている卓巳の写真だった。
学校でも瞬く間に写真が出回り、卓巳は家に引きこもってしまう。
卓巳の家庭訪問にきた担任の野村(藤原よしこ)を見て、卓巳の母・寿美子(原田美枝子)はお腹に子供がいることを見抜く。


寸評
登場人物すべてが欠陥だらけで、それぞれに問題を抱えてもがき苦しんでいる。
やっかいなものや、どうしようもないものを抱えた登場人物たちを、ふがいないと感じて憐れみの目で見ていたが、
やがて彼らや彼女たちを愛おしく感じるようになる。
誰だって迷ったり失敗しながら生きている、しかし生きていれば何とかなると思わされる。
それでも何んともならない事もあるのが世の中の実情だが、映画の世界では何とかなると思えないといけない。
最後に子供の誕生を描いて希望を感じさせるのは当然とはいえ良かったし、卓巳の最後の言葉もいいね。
そう、これは「性」から「生」へと繋がる、漢字があってはじめて説明がつく日本の映画だった。

冒頭で高校生の卓巳と主婦の里美とのコスプレ・セックスが描かれる。
この時点では、「なんじゃ、これは?」というもので、田畑智子の脱ぎっぷりに目が行っているだけ。
ところが田畑の主婦里美は不妊治療に苦しんでいて、孫欲しさ一辺倒の義母からプレッシャーをかけられているのだが、その義母を送っていく長回しによる道行のシーンがいい。
義母は友達の子供と孫の話を一歩的に話しているが、やがてその矛先が聡美に向かっていく展開が見事。
義母の家は資産家らしいが、その行動と言葉は全く身勝手なもので、不妊治療に苦しんでいる女性が見たら殴てやりたい気持ちになるのではないかと思う。
夫婦はお互いにイジメにあっていた経験が有り、ダンナからは「いじめられっ子のDNAをもつ子供なんて」と言われ、味気ない生活の不満は現実逃避として里美をコスプレの世界に逃げ込ませている。
高校生の卓巳を金で買うようなところもあるが、彼女のふと見せる憂いのある表情が心情を想像させ素晴らしい。
そのシーンの多さから、脱ぎっぷりに目がいってしまう田畑だが中々どうして、この作品を支える演技を見せた。

後半のメインになる卓巳の友人である福田も悲惨な状況で、複雑な心の内を見せつける。
彼の極貧生活をサポートするように卓巳の母親は弁当を差し入れするが、福田はそれを施しを受けていると感じて、口では「ありがとう」と言いながら、口もつけずに捨ててしまうその精神は相当屈折している。
屈折した精神のはけ口が、彼が同級生のバイト仲間の女性と取る行動に凝縮されている。
一方では卓巳をかばうような行動を取っているにも関わらずである。
一方では拒絶、一方では親友という二面性は異常とも思えるが、なぜかリアリティを感じた。
福田はひもじい思いに耐え切れず、ついには卓巳の母親の弁当にむしゃぶりついてしまう。
人間とは実に情けない生き物だと思うが、この福田のエピソードは切なかったなあ・・・。
卓巳の母は助産院を営んでいる産婆さんである。(かつてはどの村にもいたが、今ではとんと見かけなくなった)
自然分娩の施設だが、異常があれば病院を頼らねばならず、そのときは妊婦の夫から責められ、病院からも嫌味を言われてしまう。
彼女も問題を抱えているが、しかしこの母親は助産院という「生」に関わる仕事をやっていることもあり、その存在は希望そのものである。
福田を助けるバイトの先輩田岡が、自分でもわかっていながら、自分ではどうすることもできない闇を背負っていただけに、この母親の存在に救われる。
高校生とは思えない永山絢斗は気になったが、原田美枝子はここでもその存在感を見せていたのはサスガ。

フォレスト・ガンプ/一期一会

2020-02-26 10:34:08 | 映画
「フォレスト・ガンプ/一期一会」 1994年 アメリカ


監督 ロバート・ゼメキス
出演 トム・ハンクス
   サリー・フィールド
   ロビン・ライト
   ゲイリー・シニーズ
   ミケルティ・ウィリアムソン
   マイケル・コナー・ハンフリーズ
   ハンナ・R・ホール
   ハーレイ・ジョエル・オスメント

ストーリー
アラバマ州グリンボウで、幼い日のフォレスト・ガンプは、母の女手一つで育てられた。
小学校に入ったが、友達は最初の登校日にスクールバスで席を譲ってくれた美しく優しい少女ジェニーだけで、
ある日、同級生たちにいじめられたフォレストは、ジェニーの「走って!」という声で猛然と駆け出した。
その駿足が買われ、数年後、フォレストはアメリカン・フットボールの選手として大学に入学。
ジェニーは彼の存在が邪魔になる時もあったが、なぜか憎みきれず、ある雨の降りしきる夜、すぶ濡れの彼を女子大の寮にこっそり招き入れ、裸の胸にそっと抱いた。
大学を中退したジェニーはヌード劇場で歌っていたが、会いに来たフォレストの前から去る。
5年後、彼はベトナム戦争に出征し、従順なフォレストは過酷な状況下でも言われるままに行軍する。
激しい銃声を背にフォレストは走ったが、あまりに走りすぎたため隊を見失ってしまう。
彼はジャングルに戻り、親友のババと尊敬するダン小隊長を助けるが、ババは彼の腕の中で息絶えた。
両足を失ったダンは、なまじ命を救われたことを恨み、彼をなじった。
フォレストが首都ワシントンで大統領から栄誉勲章を送られた日、首都では平和大集会が開かれていた。
見物に行った彼とジェニーは再会したが、反戦運動にのめり込みヒッピー生活を送っていたジェニーは彼の一途な愛を受け入れることなく、同志たちと去って行った。
ケガの治療中に病院で卓球を覚えた彼はたちまち腕を上げ、中国で開かれた世界選手権大会に出場。
たちまち有名人となったフォレストはエビ漁船を買ったが、それは亡きババとの約束だった。
母の死をきっかけに故郷に帰ったフォレストの前にジェニーが現れたが、彼女はまた1人で去って行った・・・。


寸評
自分の過去を誰かに語り掛けることで物語が進行していくという構成は時々用いられる手法だが、この作品ではフォレスト・ガンプの話を聞く相手が次々と変わっていくのが新鮮だ。
フォレスト・ガンプがいる場所がバス停なので、バスを待つ人が相手となるので時間と共に対象者が代わる。
その相手も、話の進行とともにキャラクターが話に合わせた人となり、的を得たよいキャスティングだった。
目に付くのは過去のニュース映像や、それらへの合成シーンで、この映画の持つ一つの魅力となっている。
幼いフォレスト・ガンプにギターを教えたのがエルビス・プレスリーで、成人してからはケネディ大統領、ジョンソン大統領、ニクソン大統領と会っていて、ジョン・レノンとも対談している。
あたかも会話を交わしているように編集されていて、観客へのサービスシーンとなっていた。

もう一つのキーワードがジェニーの発した「走って!」という言葉だ。
彼女の叫びで、フォレスト・ガンプは矯正器具を弾き飛ばして俊足を披露する。
IQは低いのだが、俊足を買われてフットボール選手として大学に入学し、試合ではその俊足を披露する。
ベトナム戦争に従軍した時に攻撃を受けたが、彼女の言葉通りジャングルを走って逃げて生き延びている。
ひとりになったフォレスト・ガンプは、ただ走りたいという気持ちだけで米国中を走り回る。
走ることは彼にとって人生そのものでもあった。

フォレスト・ガンプはIQは低いが、正直者で素直で優しさを持つ男だ。
子供の時に親しくなったジェニー一人を最後まで愛し続けた。
同様に戦友のババを愛し、ダン小隊長を愛した。
ダン小隊長の命を救うことはできたが、ババは死んでしまう。
ジョンソン大統領から議会栄誉勲章を贈られる時に、冗談で戦場で負ったお尻の傷を見せてほしいものだと言われ、本当にズボンを脱いでお尻を見せるなど、滑稽なシーンも多い。
しんみりとするシーンも多いのだが、同時に上記のような滑稽シーンも多いので作品自体は重くない。
逆に言えば、重厚な作品にもなったと思うが、むしろ全体的には軽い感じがする作品で僕好みではない。
しかし第67回アカデミー賞では作品賞を受賞しているし、主演のトム・ハンクスは前年の「フィラデルフィア」に続いて主演男優賞を受賞しているから、この作品を評価する人も大勢いるのだろう。

フォレスト・ガンプの人生を描いた作品だが、ジェニーの人生も描かれる。
彼女は彼と出会ったり、別れたりを繰り返しているが、心が安らぐ相手はフォレストだけだったと思う。
父親の虐待を受けていたようだから、フォレストの母親との関係とは真逆の関係だったのだろう。
女子大に入ったが、大学の服を着てグラビア誌に登場したことで退学となり、フォレストがベトナムに出征する時には、落ちぶれてストリップ劇場で働いている。
フォレストが議会栄誉勲章を贈られる時には反戦活動を行うヒッピーの仲間になっている。
ある日ジェニーは彼の前に現れ幸せな日々を過ごすがフォレストに黙って家を出ていってしまう。
そのように出会う度に様子の違うジェニーなのだが、あまり恵まれた環境ではない。
その彼女が最後に見せる姿は美しいし、そして感傷をもたらすラストの締めは良かった。

フォーン・ブース

2020-02-25 09:31:16 | 映画
「フォーン・ブース」 2002年 アメリカ


監督 ジョエル・シューマカー
出演 コリン・ファレル
   フォレスト・ウィテカー
   ラダ・ミッチェル
   ケイティ・ホームズ
   キーファー・サザーランド

ストーリー
スチュ(コリン・ファレル)はいかなる状況も口先一つで乗り切ってきた自称やり手のパブリシストであった。
傲慢で嘘をつくことを何とも思わない彼は、アシスタントと別れたあと、ニューヨーク8番街53丁目に残る最後の電話ボックスに入り、結婚指輪を外してクライアントの新進女優パメラ(ケイティ・ホームズ)に電話をかける。
しかしスチュが受話器を置いて外に出た途端にベルが鳴り、彼は思わず受話器を取った。
すると電話の発信者(キーファー・サザーランド)はなぜかスチュの私生活を熟知しており、どこかからかライフルで狙いつつ、言うことを聞かなければ殺すと脅迫する。
やがて、その公衆電話をめぐってスチュといざこざを起こした娼婦の用心棒が射殺される。
スチュが殺したとわめき散らす娼婦たち。
まもなく警察がボックスを包囲し、レイミー警部(フォレスト・ウィティカー)がスチュに電話を切るよう説得する。
そしてパメラと、妻のケリー(ラダ・ミッチェル)も現場にやってくる。
電話の男は警察の言うことを聞かないように、自分の事も言わないように促したが、今や銃を持っていると確信している警官にいつ撃ち殺されても不思議ではない状況におちいっていた。
やがて電話の声に命じられるまま、スチュは浮気心を持ったことなどを公衆の面前で懺悔する。
そして自分を撃つようにとボックスの外に飛び出すが、先に警察にゴム弾で撃たれて倒れたため、助かった。
犯人は、警察が現場に踏み込む前に自殺。
しかしその遺体は、前にスチュが手荒く扱ったピザの配達人であり、真犯人である電話の発信者は、静かに現場を去っていくのであった。


寸評
スチュが口から出まかせの売り込みを行ったり、レストランの予約を行ってアシスタントと別れ、電話ボックスから下心を持っているパメラに電話を掛ける。
調子のいい芸能関係者と思われるこの男は、この後電話ボックスから出ることはない。
ただただ姿の見えない電話相手との会話が描かれるだけなのに滅茶苦茶スリリングだ。
映画の中と実際の時間の経過がシンクロするつくりになっているこの脚本はスゴイ!
電話ボックスという制約だらけのちっぽけな舞台で、これでもかというくらい、たくさんのアイデアをつめこんだ一級のサスペンスとなっている。
映画が始まると、主人公の性格や社会的背景が短時間で簡潔に説明されて、物語はすぐに電話ボックスの悲劇に移っていき、そこから先は一瞬も目が離せないのだ。

どこからかライフルで狙い、「電話を切ったら撃つ」と言う犯人の目的はさっぱりわからない。
さっさと電話を切って出ていけばいいではないかと思うのだが、犯人はそうはさせない手段を持っている。
観客はこの時点でスチュと一体化している。
僕たちが想像できる手段で脱出しようとするから、脱出劇に観客も参加させることを目論んでいるようにさえ思えてくる。
事件をリアルタイムで進めていくので、そのシーンが描かれるタイミングがグッドだ。
僕たちがこうすればいいかもと想像しだしたところで、その行動が描かれるから臨場感が自然と湧いてくる。

スチュは娼婦たちの用心棒らしき男の怒りもかってしまう。
男が暴力的な態度に出ると電話の男は何度も「助けようか?」と聞いてくるのだがスチュは「結構」と答える。
殴られながらも受話器を離さないスチュに電話の男は再度「やめさせようか?」と聞いてきたところ、スチュは思わず「イエス」と答えてしまう。
直後に男はうめき声をあげながらのけ反り地面に倒れ絶命してしまうのだが、この非情性がスチュに恐怖心を植え付ける。
スチュはチャランポランな男の様であるが、正義の心は持っている。
警官などに照準器のレーザー光が当たると必死で射撃をやめさせる。
狙われている人間は自分に照準器のレーザー光が当たっていることに気がつかない。

犯人は警官に暴言を吐くように求めたり無理難題を要求してくるが、それを拒絶しながらも従わざるを得ないスチュの焦りがひしひしと伝わってくる。
妻のケリーが駆けつけ、ニュースを見たパメラもやって来て、ドラマはますます盛り上がっていく。
弁護士を使ったやり取りがスリリングに行われるうちに犯人の居場所がわかり、事件解決と思いきや・・・。
ここに至って、スキのない脚本が最後の一撃をくらわす。
上手い!
僕も正直に生き、謙虚に過ごさねばならない。

42 ~世界を変えた男~

2020-02-24 09:29:20 | 映画
「42 ~世界を変えた男~」 2013年 アメリカ


監督 ブライアン・ヘルゲランド
出演 チャドウィック・ボーズマン
   ハリソン・フォード
   ニコール・ベハーリー
   クリストファー・メローニ
   アンドレ・ホランド
   ルーカス・ブラック
   ハミッシュ・リンクレイター

ストーリー
1945年ニューヨーク、ブルックリン・ドジャースのGMブランチ・リッキー(ハリソン・フォード)は、一人の黒人選手と契約を交わす。
その名はジャッキー・ロビンソン(チャドウィック・ボーズマン)。
彼はメジャーとは縁のないニグロリーグで活躍していたのだが、ドジャースのマイナー契約したことで最愛のレイチェル(ニコール・ベハーリー)にプロポーズし結婚した。
当時アメリカでは、トイレやレストラン、交通機関などあらゆる公共のものの使用が白人と有色人種とで分けられるという人種差別が横行していた。
野球界も例外ではなく、有色人種の採用はジャッキーが初めてだった。
リッキーのこの決断に対し、敵球団や一般大衆、マスコミはもとより、チームメイトからすら非難が起きる。
リッキーはそんな立場のジャッキーを心配し、黒人記者のウェンデル・スミス(アンドレ・ホランド)を派遣し、ジャッキーのサポートにつける。
それでも下部リーグの3Aに出場し、逆境の中で実績を残していくジャッキー。
どんなに理不尽な差別にあっても自制心を働かせ、己の力を発揮することに集中するジャッキーだった。
そしてついに1947年、彼はドジャースの一員として、背番号42のユニフォームに袖を通し、メジャーのグラウンドに立つ。
しかしそんな彼の前には、数々の差別的待遇や卑劣ないやがらせが当然のように待ち受けていた。
チームメイトさえ味方してくれない過酷な状況の中、リッキーとの約束を守り、歯を食いしばって耐え忍び、プレーに集中するジャッキーだった。
そんな彼の姿にチームメイトやファンは心を動かされ、ジャッキーはやがて野球界を、そして世界を変えていく。


寸評
ある年のメジャーリーグ発表によると、野球を変えた男として1位のベーブ・ルースに次いで、ジャッキー・ロビンソンは第2位に列せられている。 (ちなみに、我が野茂英雄は第30位でそれはそれで大したものだ)
黒人をメジャーリーグに導いた先駆者として尊敬されているのだろう。
彼に敬意をこめてメジャーではジャッキー・ロビンソン・デーという日(4月15日)があって、その日はメジャーの全選手が彼の付けた背番号42のユニホームを着るそうだ。
メジャーもなかなか粋なことをやる。

第二次大戦後だとアメリカにはまだまだ人種差別が残っていたのだろう。
南アメリカのアパルトヘイトのように、白人オンリーとか有色人種専用などという看板があちこちにみられる。
トイレも使わせてもらえず、ホテルの宿泊も拒否されるなど、迫害もかなりのものなのだが、ジャッキーはそんな差別に立ち向かって行く。
メジャーリーグ社会においてもそうなのだが、こと野球においては彼は忍耐強く我慢を重ねる。
それは彼をメジャーに引き上げてくれたオーナーのブランチ・リッキーからの忠告による。
忠告を守り、誹謗中傷に耐えてプレーを続けたジャッキー・ロビンソンも立派だが、オーナーのブランチ・リッキーも大したもので、この男は正義感にあふれ魅力的である。
彼にも嫌がらせが続くが屈することはない。
ジャッキーを受け入れない選手をトレードに出してまでジャッキーを擁護する。
当初は差別的だった監督もオーナーの脅しで平等に扱うようになる。
球団オーナーの権力はすごいものがあると思わせる。
ハリソン・フォードはすごく得な役回りで、見ているうちに彼に聖人的なものを感じてしまう。

野球映画だともっと臨場感に富んだ作品もあったように思うが、実在の人物の伝記映画としてはまとまっていたように思う。
初めての黒人選手として、妨害にもめげずにひたむきにプレーする主人公と、黒人にメジャーへの門戸を開こうとするオーナーの強い意志が、誇張されることなくてきぱきと描かれていく。
それにジャッキーを愛するヒロインがそちらにウェイトが移りすぎない程度に夫婦愛を見せる。
最初は反感を持っていたチームメイトも、やがてはジャッキーを受け入れるようになる。
ヤジを飛ばす相手チームの監督に文句を言いに行ったり、シャワーを一緒にするよう誘ったりといくつものエピソードを積み重ねていく。
その手際に無駄はなく、ある意味ではオーソドックスな運びである。
逆に言えば劇的な盛り上がりを見せるとか、差別に対する暴力的な事件を描くなどドラマとしての見世物的要素は少ないように思う。
真面目な野球映画で、そのスタイルはジャッキー・ロビンソンに通じるものだと感じた。
野球殿堂入りしたチームメイトなどを紹介しながらエンドクレジットに入るラストは、野球ファンには楽しめるものとなっている。

フィラデルフィア

2020-02-23 09:21:24 | 映画
「フィラデルフィア」 1993年 アメリカ


監督 ジョナサン・デミ
出演 トム・ハンクス
   デンゼル・ワシントン
   ジェイソン・ロバーズ
   メアリー・スティーンバージェン
   アントニオ・バンデラス
   ジョアン・ウッドワード

ストーリー
フィラデルフィアの一流法律会社に務めるアンドリュー・ベケット(トム・ハンクス)は、ある日突然エイズと宣告され、ウィラー社長(ジェイソン・ロバーズ)に解雇される。
不当な差別に怒ったベケットは、損害賠償と地位の保全を求めて訴訟を決意したが、次々と弁護を断わられ、以前敵同士として渡り合ったやり手の弁護士ジョー・ミラー(デンゼル・ワシントン)を訪ねた。
ミラーはエイズに対して抜きがたい恐怖を感じていたが、世間の冷たい視線に対しても毅然と対処し、熱心に資料を漁るべケットの姿に、ミラーの心は動かされる。
ミラーは弁護を引き受け、母のサラ(ジョアン・ウッドワード)をはじめ、ベケットの肉親たちは彼に熱い支援を約束し、解雇から7カ月後、〈自由と兄弟愛の街〉フィラデルフィアで注目の裁判が開廷した。
ミラーは解雇が明らかな法律違反だと主張したが、対する会社側の主任弁護士ベリンダ(メアリー・スティーンバージェン)は、彼の弁護士としての不適格性を激しく突く。
裁判を優先させて本格的治療を先に延ばそうとする彼に、恋人でライフパートナーのミゲール(アントニオ・バンデラス)は苛立つ。


寸評
エイズ差別に対する告発映画だが、静かな語り口で説教臭くない所がいい。
描き方は時間の経過を省いた演出を見せながらも細部に至るまで丁寧な描き方だ。
エイズに対してある時期までは無知による偏見や差別が存在していた。
死に至る病である、エイズ患者は同性愛者だといったものであり、同時に同性愛者への差別も存在していた。
この映画が撮られた頃はまだまだそんな差別意識が横行していた頃だったと思う。
一方、フィラデルフィアと言えば「ロッキー」の舞台であることを思い浮かべ、その他のことは全く知らないでいるが、どうやら町の名前は古代ギリシア語で「兄弟愛の市」を意味することに由来するらしい。
それを知ると映画タイトルも意味あるものであることが理解できる。

始まるとすぐに主人公のベケットが健康診断を受けているシーンとなる。
あらすじを頭に入れて見ていると、血液検査などを受けているからここでエイズが発見されるのかと思わせる。
しかし結果はいたって正常で、報告を聞いた母親は安堵の様子を見せ、涙ぐみそうにさえなる。
予備知識なしで見た人は、この母親の表情の意味が分からないのではないかと思う。
母親はベケットが同性愛者であることを知っていて、その上で彼を理解しているのだ。
その為に彼がエイズ感染しないかと心配しているのだが、彼女はただ優しく彼を見守るだけである。
ジョアン・ウッドワードは大芝居をするわけでなく、まるで聖母のようにたたずんでいる母親に存在感を与えていて、家族愛の象徴として見事な役割を果たしていたと思う。
後になって描かれた出来事の意味が明らかになるのは、このシーンだけでなく訴訟書類の紛失騒動も同様なのだが、それをドラマチックに描いていない所がかえって効果をもたらしている。
深刻な話に強弱をつける演出として上手いと僕は評価する。

裁判劇は口角泡を飛ばし合うという法廷劇でない。
むしろ静かな対決を続けていく。
経営者側はベケットの失態や無能を理由に解雇したのであって、エイズ感染を理由に解雇したのではないと主張するのだが、それを覆すためにデンゼル・ワシントンの黒人弁護士ミラーが弁舌をふるう。
しかし、よくある裁判劇のようにある事実が判明することによって劇的勝利を得るというような展開は見せない。
創られたドラマ性を排除しているようにも感じられる演出で、これが説教臭さを感じさせないのだろう。

マリア・カラスのアリアを聴きながらベケットが語るシーンは、死の側に足を踏み入れてしまった人間の絶望的な孤独感とそれでも戦う強い意志が感じ取れるこの映画一番の感動的シーンだ。
僕はこのシーンに身震いを起こしてしまったほどだ。
実録物でよくある、これが原因でこの後制度がこのように変わりましたというようなテロップが流れることなく、関係者が集まったところでベケットの楽しく遊ぶ子供時代のビデオが流れているエンディングは余韻を残した。
ベケットも他の子供と同じように、愛に囲まれ自らの人生と最後を知る由もなく、無邪気で元気に生きていたのだ。
言うまでもないことだが、病魔に侵されやせ衰えていくベケットを演じたトム・ハンクスはスゴイ!

フィギュアなあなた

2020-02-22 10:09:24 | 映画
「フィギュアなあなた」 2013年 日本


監督 石井隆
出演 柄本佑 佐々木心音 竹中直人
   風間ルミ 桜木梨奈 伊藤洋三郎
   間宮夕貴 壇蜜

ストーリー
フィギュア愛好家・内山健太郎(柄本佑)は真面目に暮らしていたが、突如会社からリストラされた上に恋人に逃げられ、どん底に突き落とされる。
新宿でヤケ酒をあおった勢いで奇妙な二人組の“巨乳男”、ヨッちゃんに因縁をつけてしまい、ヨッちゃんに追い回されて歌舞伎町の廃墟ビルの一室に転がり込むと、そこには打ち捨てられたマネキンが山のように積み重なっていた。
赤い灯りが点り異様な光景にたじろぐ内山だが、マネキンの中にセーラー服を着た美少女フィギュア(佐々木心音)があるのを見つける。
恐る恐る手を伸ばすと、そのフィギュアは心臓の鼓動はないもののまるで生きているかのようにぬくもりもやわらかさもあり、内山は安らぎを感じる。
そんな至福のときも束の間、追ってきたヨッちゃんが廃墟ビルに潜んでいたハグレヤクザ三人組と衝突し射殺され、内山も狙われる。
あわやというとき、フィギュアが動き出して内山を助けるかのように三人組に襲いかかり、ついには奪った銃で彼らを射殺する。
地獄のような一夜が明け、目を覚ました内山の隣りには、例の美少女フィギュアが横たわっていた。
昨夜の地獄のような出来事の痕跡はないが、戦っているときに美少女フィギュアが負った怪我を内山が手当てした跡が残っていた。
昨夜の地獄絵図は夢だったのか現実だったのか釈然としないながらも、フィギュアを自宅へ運び込む内山。
フィギュアに心音(ここね)と名前をつけ、フィギュアとの奇妙な生活を始める。
しかし、あの地獄はまだ終わっていなかった……。


寸評
クレジット・タイトルによると流れている音楽はアメリカ民謡の「オーラ・リー」に監督の石井隆が作詞したものとなっていたが、僕にとってはそれはエリヴィス・プレスリーが唄う「ラブ・ミー・テンダー(やさしく愛して)」だった。
確かに原曲はアメリカ民謡なのだろうが、それでも挿入メロディは「ラブ・ミ・テンダー」であってこそ意味があったのだと思う。

マネキンがあそこまでヌードを披露する必要があったのだろうか?
下着をつけないで空を舞うシーンなんて、何のためにそうしたのだろうかと思ってしまう。下着をつけていた方がファンタジックだったような気がするのだが…。その他のシーンでも必要以上に下半身を写していたなあ。
でも監督の意図はそこにあったんだろうな。でも分かんない。

この手の作品になるとファンタジックな物語というより、それが現実の世界なのか妄想の世界なのかということがテーマの一つになっている事が多い。
この作品だって最後の最後には妄想の世界に誘って行く。
健太郎は心音のアドバイスで賭けマージャンに行き、数多くの打ち手が憧れる役満の筆頭である九蓮宝燈(ちゅうれんぽうとう)を上がって大勝ちする。
しかし、麻雀の世界では究極の役満ともいえる九蓮宝燈を成立させることで全ての運を使い果たしてしまい、九蓮宝燈を上がった者は死ぬという迷信がある。
健太郎もそのような場面に出くわし、見捨てられたマネキンも元に戻って「幸せだったよ」ともらす。

どこまでが現実で、どこからが妄想だったのか?
僕はマネキンを拾ってくるまでが現実で、そこからは妄想の世界に入り込んでいて、そして実社会で心音を発見したところで現実に戻っていると思った。
心音はマネキンなのだから健太郎に従順で、会社の人たちと違って健太郎に優しく接する。
そんな心音と瓜二つの人間と出会ったことで健太郎は初めて満たされ、現実世界に引き戻されたのだと思う。

健太郎は会社では、けなされるばかりで恋人と思われる女性にも見放される。
言いたい本音も発せられないでいる。
正にラブ・ミー・テンダー状態なのだ。
そんな健太郎を慰めてくれるのはマネキンの心音だけだ。
幻想の中でしかものを言わないが、けっして責めることはなく励まし続ける。
そんな存在を得て健太郎は自信を取り戻して行きそうなのだが、なかなか現実は厳しくてそうはならない。
僕にはそんな悲劇ドラマと映ったのだが、それはうがった見方なのだろうか?
健太郎が悲劇の主人公にならなかったのは、グラビアアイドルの佐々木心音が体当たりのヌードを披露して、そちらの印象を強くしていたからだ。
しかし、これだけ大胆に食傷気味になるくらい見せられると、いやらしさや欲情感は全く生じない。
やはり見せないことでのエロチックさの方が、よりエロチックなのだと再認識。

フィールド・オブ・ドリームス

2020-02-21 11:41:01 | 映画
「フィールド・オブ・ドリームス」 1989年 アメリカ


監督 フィル・アルデン・ロビンソン
出演 ケヴィン・コスナー   エイミー・マディガン
   ギャビー・ホフマン   レイ・リオッタ
   バート・ランカスター  フランク・ホエーリー
   ドワイヤー・ブラウン  ティモシー・バスフィールド
   ジェームズ・アール・ジョーンズ

ストーリー
ある春の夕暮れ、アイオワ州のとうもろこし畑で働いていたレイ・キンセラは、突然「それを建てれば彼がくる」という幻の声を聞き、畑をつぶして野球場を建てる決心をする。
妻のアニーは夫の思いを遂げさせようとレイを温かく見守るが、町の人々の反応は冷やかだった。
1年が過ぎたある日、娘のカリンが野球場に19年のワールド・シリーズにおいて八百長試合のかどで球界を追放されたシューレス・ジョーが現われるのを発見する。
その日を境に、シューレス・ジョーとともに球界を追放されたシカゴ・ホワイトソックスの8人のメンバーが次々と姿を現わした。
その時レイはまたしても「彼の苦痛を癒せ」という幻の声を聞き、彼は60年代の作家テレンス・マンを訪ねてシカゴヘ向かう。
そしてフェンウェイ・パークで野球を観戦中、レイとマンは電光掲示板に映ったメッセージを読みとり、今度はムーンライト・グラハムという野球選手を探すことになった。
2人はミネソタ州チゾムに彼を訪ねるが、すでにグラハムは亡く、その夜レイはなぜか60年代のムーンライト・グラハムと出会った。
しかしその頃アイオワでは、レイの野球場が人手に渡る危機を迎えようとしていた。
アニーからそれを聞いたレイは、マンとともに帰途につくが、道中ひとりの若き野球選手を車に乗せる。


寸評
ファンタジー作品ながら詩情豊かな作品で、野球をテーマにこのような作品を撮りあげるアメリカ映画界の底の深さを思い知らされる作品でもある。
日本のプロ野球でも八百長試合を巡る黒い霧事件というのがあって、池永という優秀なピッチャーが抹殺された。
池永もシューレス・ジョーと同様に、仕方なく一度は金を手にしたが返金して八百長はやらなかったようなのだが、疑わしきは罰するでプロ野球界を永久追放になった。
名誉が回復されたのはずっと後年のことであった。
古くからのプロ野球ファンにそんな事件を思い出させる作品でもある。

1919年のシカゴ・ホワイトソックスとシンシナティ・レッズによるワールドシリーズで、ホワイトソックスの8人の選手が八百長行為に加担していた事が明らかになった事件を知らなくても、テレンス・マンのモデルがジェローム・デイヴィッド・サリンジャーであることを知らなくても十分に楽しめる作品だ。
夢を追い求める人、安らぎを求めている人には見えるという幽霊が登場し、時にはタイムスリップして過去の時代に入り込むなどカルト的要素を持っているのだが、そのことでの違和感を全く感じさせない。
散歩に出たレイがムーンライト・グラハムと出会うシーンなどは幻想的だ。

とうもろこし畑をつぶして野球場を建てるということに賛成する妻などいるのかといったヤボな詮索は抜きだ。
優しい内容だが完全に男性向きの映画で、男ならジーンとするシーンが満載だ。
妻のアニーは夫の我儘ともいうべき行動を温かくどこまでも見守る。
こんな良妻を持ちたいと思うのは誰しもではないか。
ラストシーンでレイは若き父親とキャッチボールをするが、無言のキャッチボールでお互いの気持ちが通じ合う感覚は、男ならこれまた誰しもが感じたことのある気持ちではないかと思う。
ぐうたらなイメージしか持っていなかった父親だが、ここでの父は若くて颯爽としている。
妻と娘を紹介しキャッチボールを始めるシーンはジーンとくる。

レイは失っていた父への愛を取り戻すかのように、父の姿を追い続ける。
家族を思いあう愛の素晴らしさ、夢を追い続けることの素晴らしさがひしひしと伝わってくる。
娘のカリンが観覧席から落ち気絶した時に、若き日のムーンライト・グラハムが結界を超えてやってくる。
結界を超えると同時に医者となっている老いたムーンライト・グラハムに変身し、もう戻れなくなってしまった彼がカリンを診察するシーンなどにも愛を感じる。
ムーンライト・グラハムを探している時に、レイとテレンス・マンが交わした会話が伏線となっていて感動的だ。

キャッチボールする二人をアニーがライトのスイッチを入れて照らし出す。
カメラがパンするとカリンが言ったように、かつて感じた安らぎを求めて大勢の人がヘッドライトを灯して引き付けられるように野球場にやって来ている。
感動的なラストで、「ああ、野球っていいな」と囁きたくなる。
フィル・アルデン・ロビンソン渾身の一作で、この一作だけで名を遺すだろう。

ファンタジア

2020-02-20 09:47:58 | 映画
「ファンタジア」 1940年 アメリカ


アニメーション監督 ベン・シャープスティーン
動画監督      ウォード・キンボール

ストーリー
8つの古典名曲の調べに合わせておのおのの動画が展開し、映画は7つの部分に分かれている。
(1) 『トッカータとフーガ・ニ短調』バッハ(1685-1750)作曲。
音のもつ色合と動きをそのままスクリーンの色彩と動きに変えたもの。
(2) 『組曲くるみ割り人形』チャイコフスキー(1840-1893)作曲。
チャイコフスキーがホフマンのお伽噺『くるみ割りとネズミの王様』をバレエ化しそのバレエ音楽中8曲を選んで組曲としたもので、映画ではそのうちの6曲である。
1金平糖の踊ー『露の精』の幻想が動画となる 。2中華民国の踊ー『キノコの踊』の動画。3葦笛の踊ー『開花のバレエ』の動画。4アラビアの踊ー『水のバレエ』の動画。5ロシアの踊ー『あざみの少年とらんの少女』の幻影。6花のワルツー『秋の精、ひめはぎのバレエ、霜の精、雪の精』の動画。
(3) 『魔法使いの弟子』デュカ(1865-1935)作曲。
ミッキー・マウスが登場する。
(4) 『春の祭典』ストラヴィンスキー(1882-1971)作曲。
全体は2部に分かれた舞踊曲。第1部が8曲、第2部が6曲から成っている。
映画は地球の発生から生物の誕生、巨大な動物たちの斗争から太陽の讚歌で結ぶ。
(5) 『田園交響曲』ベートーヴェン(1770-1827)作曲。
虹の女神アイリス、黄金の車を駆るアポロ、月の女神ダイアナ、夢の神モルフェウスの幻想の動画。
(6) 『時の踊り』ポンキエリ(1834-1886)作曲。ワニの王がカバを頭上に捧げる。ワニとカバ全員の踊りの動画。
(7) 『禿山の一夜とアヴェ・マリア』前者はムソルグスキー(1839-1881)、後者はシューベルト(1797-1828)作曲。
『禿山の一夜』の夜明けの牧歌を巡礼のみあかしに続け、高い木の幹の間をぬって進む『アヴェ・マリア』の歌声に移す。


寸評
僕が生まれる前の1940年に作られた映画だが、僕が最初に見たのはそれから50年も経ったころだったと思う。
その時は出来栄えの素晴らしさに驚嘆し、アニメ映画の最高峰だと思ったのだが、その思いは今もって変わることはない。
アニメは全編を通じて一言も発せず、その間に音楽が流れているだけだから、はたしてこれをアニメ映画としても良いものかどうか。
むしろ音楽映画と言っても良いのかもしれない。

オープニングでブルーのスクリーンを背景にオーケストラが準備に入るので、アニメを期待していると面食らう導入部に続き、指揮者レオナルド・ストコフスキーによる映画の簡単な説明が入る。
指揮者の彼は音楽について3種類あると説く。
一つは物語を伝える音楽で、二つ目は物語のない映像に彩りや描写を与える音楽で、三つ目が音楽の為の音楽ということらしい。
そして三つ目の音楽から始まる映画音楽は「トッカータをフーガ 二短調」で、途中から音楽に合わせて幾何学模様のアニメーションが映し出される。
次の音楽はチャイコフスキーの「くるみ割り人形」で、ピーターパンに登場するティンカー・ベルのような妖精が飛び回り、キノコや花、金魚などが画面上を動き回るのでアニメ映画らしさが出てくる。
キャラクターは「金平糖の踊り」、「中国の踊り」、「葦笛の踊り」、「アラビアの踊り」、「コサックダンス」、「花のワルツ」と色々なダンスを見せてくれる。
そして一番目の物語を伝える音楽が始まり、おなじみのミッキーマウスが登場する。
魔法使いの帽子をかぶったことで魔力を手に入れたミッキーが、自分のやっていた水くみの仕事をホウキにやらせるというストーリーとなっていて、音声のないアニメ映画という感じだ。
最後にはアニメのミッキーとストコフスキーが合成されるのは、制作された年代では驚きだったかもしれない。

次のパートは歴史劇である。
科学映画ではないが生命の誕生から恐竜が出現し滅びるまでが描かれる。
そしてオーケストラの休憩が入り、再開時にはそれぞれの楽器のチューニング・シーンがあって、この場面を見る限りにおいては音楽映画の色彩が強いが、そこでストコフスキーによってサウンドトラックの説明がなされる。
映画フィルムには映像が収められたコマの外側に細いスペースがあり、そこに光学的に音が記録されている。
音が波の形で記録されているこのスペースをサウンドトラックと言うのだが、そのイメージの映像が展開される。
映写室で映画フィルムを扱っていた学生時代が懐かしい。
そしてベートーヴェンの「交響曲第六番 田園」が始まる。
田園のイメージに物語を付加すると言う二番目の音楽だ。
ユニコーンや女のケンタウロスが登場する神話の世界が描かれている。
「時の踊り」が繰り広げられ、「禿山の一夜」、「アヴェ・マリア」でフィナーレを迎える。
アニメのスムーズな動きを見ると、作画枚数の膨大さが想像できるし、格調の高さは年代を経ても鑑賞に堪えうるもので、ウォルト・デズニ―の執念が感じ取れる作品だ。

ファーゴ

2020-02-19 10:40:32 | 映画
「ふ」の映画は結構思いつきました。

「ファーゴ」 1996年 アメリカ


監督 ジョエル・コーエン
出演 フランシス・マクドーマンド
   スティーヴ・ブシェミ
   ウィリアム・H・メイシー
   ピーター・ストーメア
   ハーヴ・プレスネル
   ジョン・キャロル・リンチ
   クリステン・ルドルード
   トニー・デンマン

ストーリー
1987年冬。ミネソタ州の自動車ディーラー、ジェリー・ランガードは多額の借金を負い、大金を必要としていた。
彼は妻ジーンを偽装誘拐して、妻の父親ウェイドから身代金を引き出し、借金返済に回そうとしていた。
ジェリーは整備工場で働く元囚人から2人の男を紹介してもらい、ノース・ダコタ州ファーゴへ向かった。
神経質に喋り通しの男カールと一言も喋らない凶暴そうな大男ゲアは、誘拐の実行を約束する。
ジェリーは義父と彼の財政顧問に駐車場を作るという提案をしており、そのための借金を申し込んでいた。
だが、義父が彼に大金を投資するわけがなく、そこで考えた最後の手段が偽装誘拐計画だった。
ところが、自宅に帰ったジェリーに義父は、新事業の打ち合わせをしようと言う。
慌てたジェリーは2人組に連絡を取ろうとするが、彼らはつかまらない。
とりあえず打ち合わせに行くが、義父たちは無能なジェリーに投資する気はなく、自分たちで事業化して手数料を彼に払うつもりだったことが分かり、ショックを受けたジェリーは、雪に埋もれた駐車場で怒りを爆発させる。
一方、カールとゲアは白昼堂々、誘拐を決行。
しかし、隣町ブレイナードへ逃走中、ゲアはパトロール中の警官と目撃者をあっけなく殺してしまう。
翌朝、ブレイナードの女性警察署長で出産を控えているマージ・ガンダーソンが殺人事件の捜査に乗り出した。
彼女は残された証拠を一つ一つ洗い、ついに犯人が乗っていた車からジェリーにたどり着いた。
彼は予期せぬマージの出現に動揺し、その場は何とかごまかすが、逆に彼女に不信感を抱かせる。
ジェリーの計画は完全に狂い、身代金の受け渡しももつれて、カールは義父を射殺してしまった。
カールは何とか湖畔の隠れ家に逃げ戻るが、短気なゲアもジーンを殴り殺してしまっていた。
カールとゲアは、車をどちらがもらうかでもめ、その結果、ゲアが斧でカールを殺してしまう。


寸評
およそ犯罪映画とは思えない荘厳なカーター・バーウェルのスコアが流れ、雪で煙る中でクレジットが表示されていくオープニングが素晴らしく、それだけで僕は映画の世界に引き込まれた。
冒頭で示されたように仮に事実だとしても人物描写は相当脚色されているように思う。
それでも、実在の人物を思わせるような人々が登場し、そのデフォルメされたキャラクター描写は面白い。
ランガードは資産家の娘と結婚した為に、義父から車のディーラーの営業部長にさせてもらっているが、見るからに仕事ができないタイプの男である。
軽薄っぽい妻のジーンも父親べったりなのだから、ランガードは婿養子状態で義父に頭が上がらない。
義父は娘と孫を気に掛けているが、婿のランガードを小馬鹿にしているような所がある。
そんな中でランガードは偽装誘拐を画策するのだが、描かれる内容は負の連鎖だ。
犯罪における負の連鎖は時々見かける題材だが、ここでの負の連鎖は悲惨と言うよりどこか滑稽である。
登場してくる人物がどこかのほほんとしていて、犯罪映画に付きものの緊迫感を感じさせない。

いきなり犯罪者たちの打ち合わせが行われ、計画の背景と彼等の性格描写が要領よく示される。
余分な描写をせずに観客を納得させるので、見ている人はスムーズに作品に入っていける。
シーンが変わると、平凡な、いやどちらかというと風采の上がらない夫婦が登場するが、妻は妊娠中で女性警察署長のマージ・ガンダーソンだとわかる。
ごく普通の主婦だが、さすがに警察署長だけあって観察力は鋭いが、雰囲気はまるで田舎のオバサンである。
このオバサンが何とも言えない映画の雰囲気を生み出していて、演じたフランシス・マクドーマンドが光っている。
彼女を取り巻く描写が一方でこの映画を支えていると思われる。
かつてのクラスメートとの一件などはありそうな話で、マージがスーパー警官でないことの証明だし、ウソというキーワードでの偽装誘拐との対比でもある。
夫とは仲睦まじく、夫は妻のために朝食を作ってやっているし、妻が夫のために魚釣りの餌であるミミズを買ってきて二人でハンバーガーを食べるシーンなんてごく普通の夫婦を感じさせる。
事件とは関係のないこの夫婦のたわいないやり取りが何回か描かれるが、この夫婦のたわいないやり取りこそがこの作品の主題でもある。
個々のキャラクターのおかしさと、さりげない台詞は効果的で、ドラマの完成度は高く、テーマを感じさせる。
マージは”こんなにいい天気なのに・・・人生はお金だけではないのよ”と犯人のゲアに話しかけるが、ゲアは何も答えない。
事件解決後、マージは寝室で夫ノームに”あと2ヶ月なの”と新しい命の誕生を待ち望む事を伝え、夫ノームは、妻に自分のデザインした切手が発売されると報告するという会話が続く。
今は使う機会が少ない3セント切手だが、郵便料金が値上げされると不足分に使われるはずだと語るのは、明日を信じる小市民の平和と愛に満ちた生活を感じ取らせる見事なまでの人間賛歌であった。

示されたように事実だとすれば、雪に埋めた大金はどうなったのか、祖父と母を殺され父が逮捕された少年はその後どうなったのかが気になった。

ピンポン

2020-02-18 10:17:24 | 映画
「ピンポン」 2002年 日本


監督 曽利文彦
出演 窪塚洋介 ARATA サム・リー
   中村獅童 大倉孝二 松尾スズキ
   荒川良々 津田寛治 山下真司
   石野真子 夏木マリ 竹中直人

ストーリー
卓球をこよなく愛し、勝つことへの絶対的な自信を持ちながら天真爛漫で気分屋のペコ(窪塚洋介)と、常に彼の背後に隠れ、「卓球は死ぬまでの暇潰し」と公言するクールで笑わないスマイル(ARATA)。
二人は幼なじみで、小さい頃から近所にある卓球場、タムラに通っていた。
高校生になった二人は共に片瀬高校の卓球部員に属していたものの練習にはまともに参加しない毎日を送っていて、ペコはオババ(夏木マリ)の経営するタムラ卓球場で賭けピンポンをしていた。
そんな二人が対戦すると必ずペコが優位に立つ。
ふたりは、夏のインターハイ地区予選大会に出場する。
スマイルは、辻堂学院高校に中国から留学してきたチャイナ(サム・リー)と接戦の末に敗れる。
ペコは、やはり幼なじみで名門・海王学園に進んだアクマ(大倉孝二)に、まさかの敗退。
その時、日本卓球界の星と期待された過去を持つ卓球部顧問の小泉(竹中直人)に卓球の天賦の才能を見出されたスマイルは、小泉の指導の下、めきめきとその頭角を現わしていく。
インターハイチャンピオンの海王学園のドラゴン(中村獅童)が一目置くスマイルに勝つことによってプライドを保とうとしたアクマはあっけなくスマイルに負け、荒れたアクマはその夜チンピラと喧嘩して退学となってしまう。
一方、アクマに敗れスマイルの変貌を目の当たりにして腐っていたペコだが、アクマに続けろと言われて目が覚め、ホームグラウンドである卓球場タムラの主人・オババの特訓を受け徐々に自信を取り戻してゆく。
そして二度目の夏、ペコはチャイナに勝ち、強敵ドラゴンも破り、決勝戦の相手はスマイルだった。
数年後、予選大会で2位だったスマイルは社会人となり、優勝したペコは今や日本代表として世界と戦っていた。


寸評
際立ったキャラクターが画面を圧倒する。
主人公ペコの窪塚洋介もさることながら、オババの夏木マリが強烈なキャラを示し、さらにその上を行くのが映画初出演となるドラゴンの中村獅童である。
ドラゴンはインターハイチャンピオンの実力者だが、才能の壁に苦しむことになるペコの強力なライバルである。
丸坊主にして鋭い眼光を放つ中村獅童がいて、軽いキャラのペコ窪塚洋介が引き立っていた。

小さいころからの卓球仲間であったアクマがプライドをかけて戦ったスマイルに敗れ、「オレはお前の何十倍も努力したよ!何でオレじゃねえんだよ!」と叫ぶ。
それを聞いてスマイルは「君に卓球の才能が無いからだよ」と残酷に言い放つ。
作中ではヒーローというキーワードと、才能というキーワードが度々使われる。
コミックが原作だけに漫画的に描かれているが、「ピンポン」は紛れもなく才能豊かなヒーローが活躍するスポーツ映画である。
日本映画におけるスポーツ映画と言えば圧倒的に野球を題材にした作品が多いが、マイナースポーツである卓球を題材にしているだけでもユニークな作品となっている。

冒頭のペコが橋から飛び降りるシーンから始まるのだが、飛び降りたペコが空中で静止した瞬間にカメラがグルっと180度回り込みながら、一気に上空まで引き上げられていく。
このCG画面が予告していたかのように、その後もCG画面が観客を圧倒していく。
冒頭のこのシーンは後半でも登場し、ペコの行動の意味が明らかとなる。
ペコは月にタッチできるぜと言ってジャンプする。
これはスマイルと戦える喜びの表現だったのだと分かる。
ペコの名前は星野裕でラケットに星のマークを書いている。
スマイルは月本誠といい、ラケットには三日月のマークを書いているのである。
高くジャンプするという単純な叫びではなく、月本に向かっていくぞとの決意表明でもあったのだ。

試合会場にやってきたアクマは、久しぶりにドラゴンと会話を交わす。
「風間さんは、誰の為に卓球をやってるんですか?」
必ず勝つ事を宿命付けられたドラゴンにとって、卓球はもはや苦痛でしかなかったことを知ってしまったアクマは静かにその場を立ち去り、駆け寄ってきた彼女に一言、「来るな!少し、泣く…」。
いいシーンだなあ~。

ペコにとってスマイルは、幼馴染みであり、ライバルであり、掛け替えの無い友人であり、スマイルにとってペコは、唯一無二の“永遠のヒーロー”であり続けたのだ。
久しぶりに試合会場で再会した二人の会話は短く、ペコが「いくぜ、相棒!」と言えば、スマイルが「お帰り、ヒーロー」と言うだけで、まさに青春スポーツドラマだ。
ちなみに社会人となったスマイルが卓球場で指導しているのは少年の頃の染谷将太である。

ビルマの竪琴

2020-02-17 09:04:27 | 映画
「ビルマの竪琴」 1985年 日本


監督 市川崑
出演 石坂浩二 中井貴一 川谷拓三
   渡辺篤史 小林稔侍 井上博一
   浜村純 常田富士男 北林谷栄

ストーリー
1945年夏、ビルマ戦線の日本軍はタイ国へと苦難の撤退を続けていた。
そんな逃避行の最中、手製の堅琴に合わせて「はにうの宿」を合唱する一部隊がいた。
井上小隊長が兵士の心をいやすために歌を教えみ、堅琴で判奏するのは水島上等兵であった。
小隊は国境近くまで来たところで終戦を知り、武器を棄てて投降した。
彼らは南のムドンに護送されることになったが、水島だけは附近の三角山で、抵抗を続ける日本軍に降伏を勧めるため隊を離れて行った。
小隊はムドンで労務作業に服していたが、ある時、青いオウムを肩に乗せた水島そっくりの僧とすれ違った。
彼らは僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず歩み去って行った。
三角山の戦いの後ムドンへ向かった水島は、道々、無数の日本兵の死体と出会い、愕然としたのである。
そして自分だけが帰国することに心を痛め、日本兵の霊を慰めるために僧となってこの地に止まろうと決意し、白骨を葬って巡礼の旅を続けていたのだ。
物売りの話から、井上はおおよその事情を推察し、もう一羽のオウムを譲りうけ、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ」と日本語を覚えこませる。
数日後、小隊が森の中で合唱をしていると、大仏の臥像の胎内にいた水島がそれを聞きつけ、思わず夢中で堅琴を弾き始めた。
兵士たちは大仏の鉄扉を開けよとするが、水島はそれを拒んでしまう。
その夜、三日後に帰国することが決まり、出発の前日、水島がとうとう皆の前に姿をあらわした。
収容所の柵越しに、兵士たちは合唱し、一緒に帰ろうと呼びかけるが、水島は黙ってうなだれ、「仰げば尊し」を弾奏し、そして森の中へ去って行く。
帰国の途につく井上のもとへ、オウムが届いた。
オウムは「アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ」と叫ぶのだった。


寸評
リメイク版で、脚本、監督が同じとなれば、一体どんな変化があるのかと思って見始めたら、カラー化されている以外はほとんど同じだった。
全く同じ場所で撮影されたのではないかと思うシーンもあるし、全く同じカメラアングルで撮影されているシーンもあり新鮮さはない。
前作を見ていない人たちへの新作として見るべき作品なのだろうか?
僕が見た前作は総集編だと思うので、それからすると随分と丁寧に作られたなという印象を持つ。
前作の表現不足を補うような演出がなされていたような気がする。
井上部隊の敗走の様子は詳しい。
冒頭はイギリス兵の探索に対して、息をひそめ隠れている井上部隊が描かれる。
イギリス兵の注意を引き付けるために水島の弾く竪琴の音が聞こえてくるシーンもある。
途中で弾薬を積んだ荷車を1台失ったりしているし、敵軍から銃撃も受けているといった具合だ。

水島は助けてもらったビルマの僧が水浴びをしている隙に、その僧の僧衣を盗む。
僧は水島の行為を知っていながら見ぬふりをするのだが、その仕草は前作よりも強調されていると思う。
そして衣服と共に置いてあった腕輪も盗んだのだが、実はその腕輪は高僧が身に着けるものと後半で判明する。
そのことを通じて、水島がビルマに残ってこの慈悲に満ちた態度を取った高僧に弟子入りしたことが伝えられ、話としての一貫性が保たれているなど、細かい配慮がなされた脚本となっている。
細かいついでに言うと、飢えに苦しんでいたはずの水島の腕が筋肉隆々だったのは気になった。

井上部隊がたどり着いた村での出来事も前作とまったく同じ描き方だが、やがて「埴生の宿」を歌いだすシーンはこちらのほうが感動的である。
井上部隊は、敵軍の包囲網を欺くためにわざと騒いで手拍子を打ちながら歌う。
庭先に置いた弾薬を積んだ荷車の確保のために、祭りの踊りの様な振る舞いで取りに出る。
いつ銃撃されるかと冷や冷やしながらやっと戻ったところで、イギリス軍から「埴生の宿」の歌声が聞こえてくる。
水島はそれに合わせるように竪琴を弾く。
戦争映画では時々見られる、敵も味方も一緒になって歌うシーンだ。
暗闇の広場に出てきて歌うイギリス兵の姿は、カラー化されたこともあって美しい。
人間としての美しさだ。

水島はビルマに残る決心をし、仲間と別れの挨拶のためムドンの捕虜収容所前に現れる。
言葉を交わさず「仰げば尊し」を竪琴で奏でる。
「いまこそ分かれ目、いざさらば」とメロディが流れると、自然と僕の涙腺は緩んでしまった。
収容所の面々は水島の名を叫ぶ。
このシーンは川谷拓三を初めとする本作の面々の方が、その思いが伝わるものとなっていて感動的である。
北林谷栄が前作同様に大阪弁を話すビルマの老婆役で出ているが、相変わらず達者なところを見せ面白い。
戦争がもたらす、ものすごい悲惨性を描いた作品ではないが、それでも戦争は良くないと思わせる一遍である。

昼顔

2020-02-16 08:33:50 | 映画
「昼顔」 1967年 フランス


監督 ルイス・ブニュエル
出演 カトリーヌ・ドヌーヴ
   ジャン・ソレル
   ジュヌヴィエーヴ・パージュ
   ミシェル・ピッコリ
   フランソワーズ・ファビアン
   マーシャ・メリル
   ピエール・クレマンティ
   クロード・セルヴァル

ストーリー
セブリーヌ(C・ドヌーブ)とピエール(J・ソレル)の二人は、仲の良い幸せそのものの若夫婦だ。
セブリーヌもよく夫に仕え、満足な毎日を送っているのだが、彼女が八つの時、野卑な鉛管工に抱きすくめられた異常な感覚が、潜在意識となって妖しい妄想にかられてゆくことがあった。
情欲の鬼と化したピエールがセブリーヌを縛りあげ、ムチで責めさいなんだ挙句、犯したり卑しい男に強姦されるという妄想であり、セブリーヌの奥底に奇妙な亀裂が生まれていることを、ピエールの友人アンリ(M・ピッコリ)だけは見抜いていた。
アンリはいつもねばっこい目でセブリーヌをみつめているのだが、セブリーヌはそんなアンリが嫌いだった。
ある時、セブリーヌは友人のルネ(M・メリル)から、良家の夫人たちが夫には内証で売春をしているという話を聞き、大きな衝撃を受けたが心に強くひかれるものがあった。
テニス・クラブでアンリを見かけたセブリーヌは、さり気なくその女たちのことを話した。
アンリもまたさりげなくそういう女たちを歓迎する家を教えた。
一時は内心のうずきを抑えたもののセブリーヌは、自分でもわからないまま、そういう女を歓迎する番地の家をたずね、そしてセブリーヌの二重生活がはじまった。
女郎屋の女主人アナイス(G・パージュ)は、セブリーヌに真昼のひととき、つかの間の命を燃やすという意味で「昼顔」という名をつけてくれた。
セブリーヌは、毎日午後の何時間かを行きずりの男に抱かれて過し、夜は今まで通り貞淑な妻だった。
セブリーヌには夫を裏切っているという意識はなく、体と心に奇妙な均衡が生れ、毎日が満ち足りていた。
しかし、その均衡が破れる日が来た。
セブリーヌに、マルセル(P・クレマンティ)という、金歯だらけの口をした、粗野で無鉄砲で野獣のような男が、すっかり惚れこんでしまったからだ。


寸評
ルイス・ブニュエルは映画史に残る監督だと思うが、カトリーヌ・ドヌーブを使ったこの「昼顔」や「哀しみのトリスターナ」はイマイチ出来が良くない。
同じような「小間使いの日記」などはなかなかいいと思うのだが、この差はジャンヌ・モローとカトリーヌ・ドヌーブの違いによるものなのだろうか。
セブリーヌは夫と仲の良い生活を送っているが、不感症で愛していながらも夫とベッドを共にしていない。
満たされない欲情を娼婦になって男に支配されることで悦楽を知り、その世界にのめり込んでいくのだが、その変化の表情に女の奥底に潜む魔物的な物を感じ取れない。
ジャンヌ・モローにはトニー・リチャードソンの「マドモアゼル」という作品もあるが、どちらにおいても表現力は抜きん出たものがある。
この作品は、ルイス・ブニュエルがカトリーヌ・ドヌーブにエロチシズムを振りまく姿を見せさせることを目的に撮ったのではないかというのが僕の印象である。

ブニュエルは暴虐的な性に興味を持っているのではないかと思わせるところがある。
この作品でもその片鱗を大いに見せている。
セブリーヌは幼い頃の性的な嫌な思い出があり、それがトラウマとなっているようだ。
現実と違うシーンが時々挿入されるが、それはセブリーヌの妄想だ。
セブリーヌは娼館を訪ね、その世界にのめり込んでいく。
訪れる客は紳士的な男はいなくて、暴力的とか変質者的な男ばかりである。
セブリーヌ最初は抵抗があったにもかかわらず、やがて性的にも満足を得て快楽を初めて経験する。
しかし映画に於いて、この変化の過程が上手い具合に表現されているとは言い難い。
そのことでピエールとの家庭生活におけるセブリーヌと、娼館で娼婦としてふるまうセブリーヌに違いを感じない。
男たちはセレブとして変わらないセブリーヌを気に入ったのかもしれないが、僕にはどうもセブリーヌが娼婦として出かけていくセブリーヌの精神構造が読み取れなかった。
セブリーヌはピエールとの結婚生活の何が不満だったのだろう。

アンリはセブリーヌが娼館に向かうことを予期していたのだろうか。
彼の行動理由も僕はよく分からなかった。
セブリーヌを求めるわけでもなく、またセブリーヌを支配したそうでもない。
それともピエールへの優越感に浸りたかったのだろうか。
ピエールはセブリーヌに惚れこんだ男によって銃撃され半身不随状態となり今は口もきけず目も見えない。
友人のアンリによってセブリーヌの秘密を聞かされ涙を流す。
しかしセブリーヌはお互いに気持ちの上で平等になったことで笑みを漏らし、ピエールとの新しい幸せな生活を夢見るのだが、そんなハッピーエンドってあるか?
この時のセブリーヌは余りにも自分に都合よすぎないか。
ブニュエルらしい表現は所々で見受けられるが、彼にしては平凡な作品になってしまっていると思うのだが・・・。

ヒューゴの不思議な発明

2020-02-15 10:59:30 | 映画
「ヒューゴの不思議な発明」 2011年 アメリカ


監督 マーティン・スコセッシ
出演 ベン・キングズレー
   ジュード・ロウ
   エイサ・バターフィールド
   クロエ・グレース・モレッツ
   レイ・ウィンストン
   エミリー・モーティマー
   ヘレン・マックロリー
   クリストファー・リー

ストーリー
1930年代、雪のパリ。モンパルナス駅の時計台に隠れて暮らす孤児ヒューゴ・カブレは、亡き父親が遺した壊れた機械人形とその修復の手がかりとなる手帳を心の支えとしている少年だった。
彼は駅の構内を縦横無尽に行き来して、大時計のねじを巻き、時にはカフェからパンや牛乳を失敬し、駅の中の人間模様を観察する毎日を送っていた。
ある日ヒューゴが機械人形を修理するための部品をくすねようとした時、店の主人ジョルジュに捕まってしまい、あの手帳も取り上げられてしまう。
ヒューゴは、店じまいをしたジョルジュの後を尾行し、そこでジョルジュ夫妻の養女であるイザベルという少女と知り合ったのだが、彼の話に興味を持ったイザベルは、手帳を取り戻す協力をしてくれるという。
明くる日、再び玩具屋でジョルジュと対峙したヒューゴは、壊れた玩具を元通りに修復することを命じられる。
ヒューゴは父親仕込みの修理の腕前を披露し、ジョルジュは玩具屋の手伝いをしたら手帳を返すと告げる。
仕事の手伝いを続ける中で、彼はイザベルとも仲良くなった。
機械人形はほとんど修理が済んでいたが、人形のぜんまいを巻くためのハート型の鍵が見つからなかった。
ところがヒューゴはある日、鉄道公安官に追いかけられるドタバタのあとで、イザベルが身に着けていたペンダントにまさしくハート形の鍵がついているのを発見する。
早速、機械人形に鍵を差し込みぜんまいを回してみると…人形はペンを片手にすらすらと絵を描きだした。
出来上がった絵には、月にロケットが突っ込んでいる様子が描かれており、それはかつてヒューゴの父が語ってくれた“ある映画”のストーリーそのままであった。


寸評
映画ファンならリュミエール兄弟やジョルジュ・メリエスの名前は聞いたことはあるだろうし、「列車の到着」や「月世界旅行」の断片を一度は目にしているのではないか。
リュミエール兄弟は、トーマス・エジソンと並び称せられるフランスの映画発明者で「映画の父」と呼ばれている。
世界最初の実写映画とされる「工場の出口」を制作し、また「列車の到着」ではカメラに向かってくる汽車を見て観客が大騒ぎしたという伝説を産んだとされている。
ジョルジュ・メリエスはフランスの映画製作者で、映画の創成期において様々な技術を開発した人物である。
“世界初の職業映画監督”と言われ、彼の最も有名な作品が1902年の映画「月世界旅行」ということである。
「ヒューゴの不思議な発明」は彼等へのオマージュであり先駆者への尊敬を表した作品と言える。
名前を聞いただけでくすぐられるし、現存するフィルムが映し出されると嬉しくなってくる。
映画ファンでよかったと優越感に浸ることが出来るのだ。
3Dを意識した映像がふんだんに盛り込まれているが、これを見たらリュミエールもメリエスも驚いただろう。

この映画の主人公はヒューゴという少年だが、監督のスコセッシがそれ以上に思い入れを持って描いた人物はパパ・ジョルジュという老人だろう。
映画黎明期を支えたフランスの映画監督であるこの実在の人物を、あえてフィクションの物語中で生き生きと描くことで、スコセッシが映画への愛と、メリエスへの感謝を表明した作品になっている。
劇中でも語られているが、メリエスは映画を芸術として昇華させた功労者だと思う。
映画作家としてのスコセッシが抱くメリエスへの尊敬の念が感じ取れた。

作品は少年が主人公なだけに子供も楽しめる内容となっている。
わかりやすいアドベンチャー的見せ場や、子供たちが胸踊るような設定が用意されている。
古めかしい駅の時計版の向こう側に、親のいない子供が1人でたくましく暮らすというのは、子供の誰もが抱く冒険へのあこがれとして胸がワクワクする設定だったと思う。
そしてスコセッシは子供たちにメッセージを送る。
それが表明されるのが、ヒューゴがイザベルに時計台で機械について語る場面だ。
ヒューゴは、機械には不要な部品が一つもないということを語り、町の中に住む人間も1人として不要な存在などいないんだということを語る。
我々は社会に必要とされて存在している。
個々人にはなさねばならないことがあってこの世に存在しているのだ。
僕は出来るだけ多くの人に望まれる人間になりたいと思っている。
家族や会社や地域社会にとって必要な人間でありたいし、自分の足跡をそこに残したいと切望している。

フィルムはデジタル記録と違って焼失し劣化する。
古典映画はそのフィルムで撮影されてきた。
その古典映画を大切に保存公開していくことは、後世の我々に課せられた使命のような気がする。