おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ゴジラ

2017-10-31 17:18:59 | 映画
「ゴジラ」 1954年度 日本


監督: 本多猪四郎
出演: 志村喬 河内桃子 宝田明
    平田昭彦 堺左千夫 村上冬樹

ストーリー
太平洋の北緯二十四度、東経百四十一度の地点で、次々と船舶が原因不明の沈没をした。
新聞記者萩原(堺左千夫)は遭難地点に近い大戸島へヘリコプターで飛んだ。
島では奇蹟的に一人だけ生残った政治(山本廉)が、海から出た巨大な怪物に火を吐きかけられて沈んだというが、誰一人信じない。
只一人、島の老漁夫だけは昔からの云い伝えを信じ、近頃の不漁もその怪物が魚類を食い荒すせいだという。
海中に食物がなくなれば、怪物は陸へ上って家畜や人間まで食べると伝えられている。
萩原は信じなかったが、暴風雨の夜、果して怪物は島を襲って人家を破壊した。
国会は大戸島の被害と原因を確かめる調査団を派遣した。
古生物学者山根博士(志村喬)を先頭に、その娘で助手の恵美子(河内桃子)、彼女の恋人でサルベージ会社の尾形(宝田明)、原子物理学の田辺博士(村上冬樹)に萩原と政治の弟新吉(鈴木豊明)も加った。
そして調査団は伝説の怪物が、悠々と巨大な姿を海中に没するのを見た。
帰国した山根博士は200万年前の海棲爬虫類から陸上獣類に進化する過程の生物ゴジラが、海底の洞窟にひそんで現代まで生存していたが、度々の水爆実験に生活環境を破壊されて移動し、而も水爆の放射能を蓄積して火を吐くのだと説明した。
フリゲート艦が出動して爆雷を投下したが何の効果もなく、ゴジラは復讐するかの如く海上遥かに浮上り、東京に向って進んだ。
直ちに対策本部が設けられたが一夜にして東京は惨澹たる街となった。

寸評
なかなか登場しないゴジラのシチュエーションなんか、スピルバーグの「ジョーズ」などよりもいい。
初めて登場するときの、目ん玉だけがギョロリとするところなんか最高だ。
白黒映画のせいか、前半部分なんかやけにリアリティがあって、ゴジラの存在が現実味を帯びていたように思う。
僕は、日本のSF映画でこの「ゴジラ」を追い抜く映画が、いまだ出現していないように思うのだが・・・。
「ゴジラ」はシリーズ化されて何本も作られたが、断然この第一作が光っている。
やはりゴジラは怖くなくてはならない。

1952年(昭和27年)11月1日、アメリカはマーシャル諸島エニウェトク環礁にあるエルゲラップ島で、史上初の水爆実験を行った。
実験でエルゲラップ島は粉塵となって海上から消滅し、海底には直径1600メートルで深さ70メートルの巨大なクレーターができあがったそうだ。
広島の原爆の700倍以上の威力を持つものだった。
そして1954年3月1日に再びビキニ環礁で実験が有り、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆してしまう。
映画「ゴジラ」は偶然の産物か、まさに時を同じくして3月13日に封切られた。
核戦争への警鐘をテーマに据えながら、悲劇としか言いようのない出来事とともにゴジラが我々の目の前に登場したのだ。
水爆実験はたびたび行われていたので、先見性が有ったと言えるかどうかわからないが、その登場した時代背景を考え合わせると、娯楽性に富みながらも社会的テーマを持たせた正しく第一級の作品だ。

キャラクターで目立っているのが芹沢博士の平田昭彦で、彼が作り出したオキシジェン・デストロイヤーを通じて核に対するメッセージが直接的に語られる。
言い換えればオキシジェン・デストロイヤーは核兵器そのものである。
その芹沢博士と山根博士の娘の恵美子、そして彼女の恋人である尾形の微妙な関係が大人の鑑賞に耐えさせていたように思う。
ゴジラは人間によって生み出された悲劇と恐怖の象徴だが、生み出しておきながら滅ぼさざるを得ない人間の身勝手さも感じ取れる。
最後はついにやっつけたという感覚より、ゴジラに対して感情移入してしまっているのはそんな自責の念を感じ取ってしまっていたためだろう。

どついたるねん

2017-10-24 09:15:10 | 映画
村田諒太の世界戦勝利を記念して再見。

「どついたるねん」 1989年 日本



監督: 阪本順治
出演: 赤井英和 原田芳雄 相楽晴子 麿赤兒 大和武士
    笑福亭松之助 正司照枝 芦屋小雁 輪島功一
    結城哲也 大和田正春 升毅 ハイヒールモモコ
    山本竜二 美川憲一

ストーリー
イーグル友田(大和田正春)との試合で負傷し、再起不能となった元チャンピオン、安達英志(赤井英和)は、所属のナショナルジムを飛び出して、ニューハーフのクラブママである北山(美川憲一)の支援を受けて自らのジムを設立した。
ある日、英志のジムにふらりと中年男が現れた。
男は左島牧雄(原田芳雄)という元ウェルター級の日本チャンピオンだった。
英志は左島をコーチとして雇うが、ジムに集まった練習生たちは英志のあまりの横暴さに嫌気をさし、みな去ってしまう。
結局、ジムを閉めることになった英志は、ナショナルジムに戻ろうとするが、会長の鴨井(麿赤兒)は英志の頭のケガを心配しカムバックに反対する。
しかし結局、鴨井の娘・貴子(相楽晴子)、そして左島と共に現役カムバックへと向かっていった。
そんな時、英志のカムバック戦の相手が決まった。
ナショナルジムでの英志の後輩で今は原田ジムにいる清田(大和武士)だった。
そして、遂に試合の日となり英志は再びリングに立った。
ゴングが鳴り、清田と命賭けの死闘を繰り広げる英志。
しかし、前の試合での負傷を背負っている英志にはやはり不利であった。
そして、見兼ねた貴子がタオルを投げた瞬間、同時に英志のパンチが清田をダウンさせたのだった。

寸評
まるで喜劇映画かと思わせるような滑稽なシーンがあふれている。
粗野で暴力的ながらボクシングにのめり込んでいる安達英志=赤井英和がぶっきらぼうに怒鳴りまくるセリフがとてつもなく面白い。
その彼がとる子供じみた態度にも大笑いさせられてしまう。
またそれを補完しているのが相楽晴子が演じる貴子で、彼女の存在なくしてこの映画はなかったと言えるぐらい奮闘している。
英志と貴子は幼馴染で、子供の頃から英志は腕っぷしが強く、貴子は男勝りの性格で英志に従っている。
その二人が大人になって、貴子は父親の経営するボクシングジムでトレーナーをやっていて、英志はそこに所属するプロボクサーとなっているのだが、映画がはじまり少年時代のエピソードが描かれた後、いきなりのボクシングの試合シーン。
世界タイトル挑戦が予定されているので英志はかなりランクは上で、その試合も世界戦の前哨戦的な意味合いだったのだろうが、予想に反して英志は格下のイーグル友田にノックアウトされてしまい、おまけに頭に大けがをして手術を受ける羽目になってしまう。
手術後の英志のとる態度からこの映画のパワーが全開となっていく。
舞台が大阪の新世界なので大阪人の僕はそれだけでのめり込めるし、炸裂する大阪弁と大阪喜劇人の出演が更に映画に親密感を持たせた。

英志と清田のボクシングシーンは、演じる赤井英和も大和武士も元プロボクサーだけに決まっている。
迫力を出すためのクローズアップなど必要でなく、リング上の二人を俯瞰的にとらえているだけで十分に迫力あるものになっていた。
もちろん減量シーンやトレーニングシーンなども滑稽でありながらもリアリティがあった。
減量に苦しむ清田の前で鶏肉をむしゃぶりつくシーンなどは包括絶倒なのだが、そのあとで英志が指を口に突っ込んで食べたものを吐くシーンを挿入させ、減量の大変さを見せつけていた。
左島牧雄の原田芳雄が登場してくると、さすがに原田は実力俳優だけあって画面が絞まる。
赤井英和が役者としてはまだまだ粗削りながらも頑張っているので、それを原田芳雄がサポートするように脇を固めていた。
しかし、前述したように何といってもいいのが相楽晴子だ。
気が強く荒々しい世界に身を置いている女性なのだが、時折見せる弱さがたまらなく可愛いこの映画のマスコットの様な役柄である。
赤井英和との掛け合いがまるでボヤキ漫才を見ているような可笑しさと心地よさがある。

英志のカムバックがタイトル戦などではなく4回戦という設定も現実的でいい。
精一杯の見栄を張る英志の姿を描いて最後まで笑わせる。
ラストシーン・・・・・・決まってる!
大阪を描いた映画は色々あるけれど、その中でも十指に入る作品として仕上がっていると思う。

ロッキー

2017-10-23 16:09:19 | 映画
村田諒太の世界戦勝利を記念して再見。

「ロッキー」 1976年 アメリカ



監督: ジョン・G・アヴィルドセン
出演: シルヴェスター・スタローン タリア・シャイア
    バート・ヤング カール・ウェザース バージェス・メレディス

ストーリー
フィラデルフィアのスラムに賞金稼ぎボクサーとしてヤクザな生活をしているロッキーがいた。
今、彼には新たな生きがいがある。
ペット・ショップに勤めるエイドリアンに恋心を抱き始めたからだ。
素朴な彼女は精肉工場に勤める兄ポーリーと共に暮している。
4回戦ボーイのロッキーは、今日もラフファイトぶりで勝利をおさめるが、『お前のようなガムシャラなファイトぶりではゼニにならん』と、ジムをほうり出されてしまう。
酒場でロッキーはポーリーと飲み交い、ポーリーはロッキーの妹への好意に感謝する。
数日後、ロッキーに人生最大のチャンスが訪れた。
近づく建国200年祭のイベントの一つ、世界タイトルマッチでのアポロの対戦相手がケガをしたため、代役としてロッキーが指定されたのだ。
ロッキーに元ハードパンチャーとして鳴らしたポーリーと、かつてのジムの老トレーナーのミッキーが各々彼への協力を申し出、そしてエイドリアンとの愛も育っていった。
ロッキーの短期間の猛訓練が始まった。
そして試合当日、賭け率は50対1でゴングが鳴った・・・。

寸評
スポーツ映画の金字塔の一つに挙げてもいい作品だ。
ストーリーは単純でひねったところがなく、そのシンプルさが素直な感動を呼ぶ。
三流ボクサーが世界チャンピオンと互角の試合を行うというサクセスストーリーは目新しいものではない。
弱者が強者に対して戦いを挑み勝利を得ると言う話は、形を変えて幾度も映画化されてきた。
その頂点に立つ作品と言っても過言でないくらいに上手くまとまっている。
前半はロッキーのすさんだ生活と、ペットショップに務めるエイドリアンとの恋が描かれる。
ロッキーは3流ボクサーで、借金の取り立て役で生活を維持している。
そんな生活に愛想をつかされ、ジムのトレーナーであるミッキーにまともな面倒を見てもらっていない。
恋心を寄せるエイドリアンは引っ込み思案んで男性と上手く付き合えない陰気な女性である。
エイドリアンと同居している兄のポーリーは精肉店に努めているが、ロッキーの仲立ちで街のボスに取り入ろうとしているヤクザな男で、登場人物は下層階級のあまり恵まれていない人々だ。
不良少女に意見するロッキーもどこかすさんでいる。
この前半は少しくどいところがあり、歯切れも悪いので僕は少々だれるところがあった。
ところがこの前半に溜まった鬱積みたいなものが後半に入るや否や一挙に爆発する。

上映時間的にも世界チャンピオンのアポロから対戦のオファーが入るところからが後半と言える。
一挙に映像が輝き始めるのがトレーニングシーンだ。
ステディカムという手ぶれを吸収してしまう手持ちカメラを駆使した映像が気分を高揚させる。
夜明け前のランニングでのフィラデルフィアの街並み、美術館前の広場で両手を挙げて街を見下ろすシーンの何と爽快なことか。(この階段は映画のヒットを受けて、ロッキー・ステップと呼ばれるようになったらしい)
僕が一番好きなトレーニングシーンは、ロードワークで市場の中を走り抜けるシーンだ。
狭い道路の両側にはいろんな店が並んでいるが、その中を声援を受けながらロッキーが走っていく。
やがて果物屋の店主がロッキーにオレンジを投げ渡し、それを走りながらロッキーがキャッチする。
小市民たちが一体化した瞬間だった。
そして後半の後半になると、いよいよアポロとの試合となる。
対戦前にロッキーはすでに敗戦を覚悟しているが「俺はクズだったが、もし15回にはいっても立っていたならクズでなくなる」との思いをエイドリアンに告げている。
エイドリアンは試合を見ることが出来ず、控室で待っていると言ってロッキーを送り出す。
ロッキーのテーマが鳴り響き気分はいやがうえにも高揚する。
ビル・コンティのこのテーマ曲は日常でも流れてくると力がみなぎってくる名曲だ。
試合シーンはアメリカ映画お得意のもので、臨場感もあり迫力がある。
ロッキーは最初のダウンを奪うが、それで本気になった世界チャンピオンとの死闘を演じる。
分かっているけれど、倒れても倒れても起き上がってくるロッキーに誰もが感情移入してしまう。
そしてラスト・シーンとなり、エイドリアンの名前を呼び続けるロッキー。
観客をかき分けリング上のロッキーに抱き着くエイドリアン。
負けたけれど二人の愛が確かめられるというエンドで締めくくる見事な脚本だった。

ブラッド・ダイヤモンド

2017-10-21 08:07:53 | 映画
シエラレオネで見つかった709カラットの巨大なダイヤの原石が12/4にニューヨークで競売にかけられる。
というわけで、この作品を再見した。

「ブラッド・ダイヤモンド」 2006年 アメリカ

監督: エドワード・ズウィック
出演: レオナルド・ディカプリオ ジェニファー・コネリー ジャイモン・フンスー
    マイケル・シーン アーノルド・ヴォスルー カギソ・クイパーズ

ストーリー

内戦が続くアフリカ、シエラレオネ共和国。
漁師ソロモンは平穏に暮らしていたが、反政府軍RUFの襲撃により家族と引き離されてしまう。
ソロモンが連れて行かれたのはRUFの資金源となっているダイヤモンドの採掘場だった。
そこで驚くほど大粒のピンク・ダイヤを発見するソロモン。
これがあれば家族を救えると思い、危険を承知で彼はダイヤを秘密の場所に隠すのだった。
一方、ダイヤの密輸を生業としているアーチャーは、刑務所でそのピンク・ダイヤの話を聞き、ソロモンに接近しようとする。
家族を探す手伝いをする代わりにピンク・ダイヤの在り処を教えてくれと取引を持ちかけるアーチャー。
しかしソロモンは承知しなかった。
一方でジャーナリストのマディーがアーチャーに近付いてくる。
RUFの資金源となっている「ブラッド・ダイヤモンド」の真相を追っている彼女は、アーチャーの持っている情報が欲しかったのだ。
しかしアーチャーは口を閉ざした。
やがてソロモンは難民キャンプで家族と再会するが息子の姿だけが無かった。
RUFが連れ去った可能性が高いので、ソロモンは覚悟を決め、アーチャーの申し出を受け入れた。
こうして異なる目的を持った三人がピンク・ダイヤを求めて過酷な道を歩き出す。
アーチャーはこの暗黒の大陸から抜け出すため、ソロモンは息子の行方を突き止めるため、そしてマディーはアーチャーから決定的な情報を引き出すために……。

寸評
アフリカ内戦の様子が描かれるが、映像はリアルで内戦の悲惨さをいかんなく伝えている。
テロを誘発している武装集団はあちこちに出没していて、ニュースは彼らが引き起こしたテロの惨状を幾度となく伝えているが、それらは事後の様子を伝えるだけの一過性のものである。
それでもその惨状は悲惨さを伝えて余りあるものであるが、むしろここに描かれたような日常茶飯事的な行為こそ内戦の実情なのではないか。
反政府組織のRUFは人々を虐殺していく。
政府が実施する選挙に投票できないようにと腕を切り落としてしまうような残虐行為を行っている。
少年をかどわかしては薬と暴力による恐怖心で洗脳し、兵士として育て上げていく。
村を襲っては虐殺を繰り返す彼等に同情を寄せる観客はいないだろう。
ならば政府軍は正義なのかというと、まんざらそうでもない。
指揮官の大佐は100カラットはあろうかという大きなダイヤを搾取しようともくろんでいるのだから、内戦ぼっ発中といったような混乱期においてはそのような輩も多数出現するのだろう。
戦争のどさくさに紛れて財を成す者は、古今東西を問わず存在しているのだと思わされる。

僕が内戦の悲惨さを一番感じたのは、酒場の主が殺されていたシーンだった。
かれはアーチャーにRUFがもうすぐやってくるだろうと述べていたのである。
彼はなぜその場所から逃ることをしなかったのだろう。
難民となって生きることの過酷さを嫌ったのだろうか。
100万人ともいわれる難民キャンプが映し出されていたが、その様子を見ると命を長らえてもという気持ちが分からぬでもないし、難民キャンプにたどり着くまでの安全が保障されているわけでもないのだ。
どうすることもできなくて惨殺されてしまった市井の人の姿に僕は内戦の悲惨さを感じた。

洗脳されていたソロモンの息子のディアが父親の語りで目覚めていくが、そんなに簡単に洗脳が解けるものかと思いながらも、息子探しの結末としてホロリとさせられた。
内戦を通じた銃撃戦やアクションシーンもふんだんにあるが、家族全員が再開するシーン、ソロモンが証言台に立つシーンと共に感激をもたらすシーンとなっていて、作品に格調を与えている。
アーチャーがスーパー・ヒーローとして、100カラットはあろうかという大きなダイヤをソロモンに与えて去っていくという展開もあっただろうが、アーチャーは撃たれて瀕死の状態となって一人で政府軍を迎え撃つことになる。
しかし彼の最後の場面は描かれることはなく、その姿は我々の想像に任されている。
無残に撃ち殺されるシーンを描かないことで彼に対する余韻が生まれたと思う。
アフリカに生まれたために悲惨な人生を送らざるを得なかった犠牲者の一人なのである。
部族間の争いがあるとはいえ、内戦を引き起こし千村を持ち込んでいるのは白人社会なのだ。
富を独占したい一部の白人社会は内戦の継続を望んでいる。
いつの時代にも戦争を欲望の糧にしている人間がいるものなのだ。
給料の何倍もの婚約指輪を贈る人がいる限り、誰よりも大きな宝石を身に着けたい人がいる限り、ダイヤモンドに翻弄される下層の人たちが出てきてしまうということだろう。

シン・シティ

2017-10-19 10:53:17 | 映画
ハーヴェイ・ワインスタインがプロデュースした作品の一つ。

「シン・シティ」 2005年 アメリカ



監督: フランク・ミラー ロバート・ロドリゲス クエンティン・タランティーノ
出演: ブルース・ウィリス ミッキー・ローク クライヴ・オーウェン
    ジェシカ・アルバ ベニチオ・デル・トロ イライジャ・ウッド
    ブリタニー・マーフィ デヴォン青木 ジョシュ・ハートネット

ストーリー
醜い傷跡が顔に残る仮出所中のマーヴに愛をくれたのは、高級娼婦のゴールディだった。
しかし彼女は殺され、罪をきせられたマーヴは復讐を心に誓う。
農場で殺人鬼ケヴィンにハンマーで倒されたマーヴは、この男こそゴールディ殺しの犯人と確信。
脱出したマーヴは、黒幕がロアーク枢機卿であることを突き止める。
マーヴはケヴィンを殺害しロアークの元へ進むが、結局警察に捕らえられ、すべての罪を被ることになる。
ある時、ドワイトは、恋人のシェリーにつきまとう男、ジャッキー・ボーイを痛めつける。
退散したジャッキーは、ドワイトの昔の恋人ゲイルが仕切る娼婦たちの自治区、オールド・タウンへ。
街を手に入れようと画策するキャング一味との全面戦争となり、ドワイトと娼婦たちは、ギャングたちを皆殺しにするのだった。
ハーディガン刑事は、引退の日にも幼女殺人犯ロアーク・ジュニアを追っていた。
誘拐された11歳のナンシーを救出したハーティガンだが、相棒ボブの裏切りの銃弾に倒れ、ロアークに罪をきせられる。
8年後、出所したハーディガンは、19歳のストリッパーに成長したナンシーと再会。
2人は互いの強い愛を確認し合い、やがてロアーク・ジュニアに復讐を果たす。

寸評
この映画の最大の特徴は全編がモノクローム調の映像で描かれ、そこに各シーンの中でのポイントとして原色があしらわれていることだ。
モノクロと言っても、完全なモノクロではなく艶の有るモノクロなので、その部分カラーが一層印象的になっている。
例えば、モノクロの背景と全身の中で真っ赤に輝く女のドレスや唇。
輝くブロンドの髪や悪党の不気味な黄色い肌などだ。
こうしたモノクロに1色か2色の原色パートカラーの映像が、映画に現実とは違った輝きを与えている。
きわめてポップアート的な作品になっている。
それが、漫画チックで、グロテスクな暴力、殺人シーンをグラフィックなシーンに変えている。
飛び散る血しぶきが黄色だったり、全くのモノトーンで白く写されたりすると、反吐を吐きそうなシーンに目をくぎ付けされてしまうのだ。
両足を切断された胴体や、生首を直視出来てしまうから不思議だ。
普通はこんなシーンの過剰表現は食傷気味になるか、その非現実さに失笑が漏れるのが落ちなのに、逆に見とれてしまう。
ハードボイルドな世界観を完璧に活かすため、セリフやカット割はほぼコミックスを忠実に引用しているような印象があり、これはもう動く劇画と呼んでもいいのではないか。

3つのエピソードからなる物語は、わずかに重なる部分があるが、基本的には独立したストーリーである。
それぞれの男たちは、無法の町で殺人を繰り返すが、それも愛する女たちのために命を賭けて戦いを挑んでいった結果で、有る意味でラブ・ストーリーだったのだと思う。
そして相手の女たちもまたタフネスで、決して守られているだけの女達ではないのが痛快だ。
恐怖の犯罪都市を舞台に、警察官、娼婦、議員、ギャング、犯罪者、聖職者などが血で血を洗うスサマジイ抗争劇を展開する。
とにかく血がドバドバ、ナイフがグサリ、拳銃バンバン、生首が飛ぶわ、手首が飛ぶわ、内臓をえぐるわというグロテスクなシーンが続く。
それなのに、意外とそれほど気色悪く感じないのはその映像のせいだと思う。

タイム・スパイラル的にそれぞれの無意識な関係が描かれて、タイトル通りの罪の町の出来事が描かれるが、その中で実質的な監督だったと思うロバート・ロドリゲスと名を連ねる原作者でもあるフランク・ミラーと特別監督のタランティーノの役割が想像できなかった。
しかし、メッタに見ることが出来ない映画を見たという満足感は間違いなく脳裏に刻まれた。
これだけ見事な映像美にはめったに出会えるものではない。
ストーリーがどうのこうのよりも、見事な映像美を楽しむ映画だと思う。

ハーティガンはどうしてロアーク議員を殺らなかったのか? ジョシュ・ハートネット演じる殺し屋の存在は単に最初と最後の為だけだったのか? ちょっと疑問に思う点もあったけど・・・。


コールド マウンティン

2017-10-17 10:40:24 | 映画
ハーヴェイ・ワインスタインがプロデュースした作品の一つ。

「コールド マウンテン」 2003年 アメリカ



監督: アンソニー・ミンゲラ
出演: ジュード・ロウ ニコール・キッドマン レニー・ゼルウィガー
    ドナルド・サザーランド ナタリー・ポートマン
    フィリップ・シーモア・ホフマン ジョヴァンニ・リビシ
    レイ・ウィンストン ブレンダン・グリーソン

ストーリー
南北戦争末期の1864年。南軍兵士としてヴァージニア州の戦場に送られたインマンは、瀕死の重傷を負って病院に収容される。
回復を待つ間、彼の脳裏に浮かぶのは、3年前に離れた故郷コールドマウンテンの情景と、出征前にただ一度だけ口づけを交わした恋人エイダの面影だった。
彼女への愛に駆り立てられたインマンは、脱走兵として死罪に問われるのを覚悟で、故郷への道を歩み出す。
一方、その間に父のモンロー牧師を亡くす不幸に見舞われたエイダは、裕福な環境から、明日の食べ物にも事欠く苦境に陥っていた。
そんな彼女を見かねて、隣人のサリーは、流れ者の女ルビーをエイダの農場に向かわせた。
ルビーの指導によって、エイダはたくましく生きる術を身につけていく。
その頃、インマンの徒歩での旅路は困難を極め、黒人奴隷を妊娠させて追放された牧師のヴィージーと道連れになったはいいが、一見気のいい農夫ジュニアに義勇軍に売り飛ばされてしまう。
なんとか脱走したインマンは、山羊飼いの老婆マディや若き未亡人セーラに助けられつつ、コールドマウンテンを目指す。
そしてついにエイダと再会し、二人は結ばれる。
しかし幸せな日々は束の間、インマンは義勇軍と撃ち合って死亡する。
戦争終結後、エイダはインマンとの間に生まれた娘と、ルビーの家族とで平和に暮らすのだった。

寸評
一つ一つのエピソードは感激的であり、時にはユーモアもあって面白い。
レニー・ゼルウィガ演じるルビーと、彼女のどうしようもないブレンダン・グリーソン演じる父親の関係は面白い。
ルビーは父親を見放していてののしってばかりいる。
その父親の登場シーンもあっけにとられるものであるが、実はステキな演奏が出来るようになっていた親父が、朝目覚めたときに窓の下で仲間を連れて演奏していたシーンなどでジーンとさせる。

インマンが一夜の宿として泊めてもらった未亡人のセーラが、亡き夫を思いインマンの胸でむせび泣くシーンなどは秀逸だったと思う。
インマンはセーラと子供を守るために必死に闘うが、前夜に女としての弱さを見せたセーラが、自分に乱暴しようとした男たちに怒りを爆発させ、インマンが開放してやろうとした男の仲間が逃げるところを射殺するシーンに、彼女の強さを垣間見た。
この時代の環境下で、女が赤ん坊と生きていくためには非情さと強さが必要なのだと思わせる。
南北戦争を背景としているが、登場する兵士は北軍も南軍もいい人間は登場しない。
セーラに殺される北軍の若者などは、赤ん坊を気遣う面を見せていたからまだマシな方だった。

全体として過去と現在、インマンとエイダの出来事が断片的に綴られる展開はいいと思うのだけれど、ただ見終わって何か物足りなさを感じたのは何故なんだろう。
インマンとエイダはたった一度のキスを想い出にお互いを結び付けているのだけれども、そこに至るまでの盛り上がりが希薄だから、どうも必死で彼女の元へ向かう姿や、彼を待ちつづける姿への説得力が希薄になっていたのではないか。
したがって、出会ってからのベッドシーンなどは、なにか付け足しのような感じで、感激するよりもニコール・キッドマンのお尻ってきれいだなといったような不謹慎な見方になってしまったのだと思っている。
もっとも、それは私の助平心の為だと言われれば反論の余地はないのだけれど・・・。

ダメ親父の援助もあって、この映画ではレニー・ゼルウィガが目立っていたと思う。
彼女が演じたルビーはエイダと違って上品ではないが、反面強い生命力と生活力を持っている。
エイダのメイドではないと宣言し、対等の立場を維持し、時としてエイダに指示する姿がたくましい。
野性的で、つっぱているけれどその実、芯は優しい女を好演していたし、実際の所、主演のジュード・ロウやニコール・キッドマンよりも登場する脇役人が味を出して随分と盛り上げている映画だ。
そんな見方をしてみるのも面白い作品なのかもしれない。

女は愛しい人を待ちつづけ、男はその人の元へ必死でたどり着こうとするシチュエーションで言えば、小林正樹監督の「人間の条件」の方が鬼気迫るものがあり、戦争の悲惨な一面を伝えていたと思う。(映画は9時間以上もあって仲代達矢が、テレビは連続ドラマで加藤剛が熱演していた)
一粒種の遺児を登場させ、希望のようなものを持たせて終るので、「人間の条件」のような絶望感を持ったまま映画館を出ることはないので、それはそれで「まあ、いいか・・・」なんだけれども。

キルビル

2017-10-16 10:29:36 | 映画
ハーヴェイ・ワインスタインがプロデュースした作品の一つ。

「キルビル」 2003年 アメリカ



監督: クエンティン・タランティーノ
出演: ユマ・サーマン デヴィッド・キャラダイン ダリル・ハンナ
    ルーシー・リュー 千葉真一 栗山千明

ストーリー
毒ヘビ暗殺団で最強と言われた元エージェントの女、ザ・ブライドが、4年間の昏睡状態から奇跡的に目を覚ます。
彼女は自分の結婚式の最中に、かつてのボス、ビルとその手下たちに襲われ、頭を撃ち抜かれたのだ。
ザ・ブライドはかつて、世界中を震撼させた暗殺集団の中にあって最強と謳われたエージェント。
5年前、彼女は自分の結婚式の真っ只中に、かつてのボス“ビル”の襲撃に遭い、愛する夫とお腹の子どもを殺された上、自らも撃たれて死の淵をさまよった。
いま、目覚めた彼女の頭の中はビルに対する激しい怒りに満たされていた。
ビルに復讐することだけが彼女の使命であり運命となった。
復讐の鬼と化したザ・ブライドは、自分の幸せを奪った者すべてを血祭りに上げるため、たったひとりで闘いの旅へと向かうのだった…。
まずはナイフの使い手であるヴァニータ・グリーンの自宅で彼女を殺す。
そして沖縄へ飛び、服部半蔵から刀を手に入れて東京へ。
青葉屋に乗り込み、暗殺集団クレイジー88を皆殺しに。
少女の殺し屋ゴーゴー夕張、さらに日本刀の名手オーレン・イシイも苦闘の末に倒す。
そして飛行機の中、ビルの名で終わる復讐リストを書き記すのだった。

寸評
冒頭に深作欣二に捧げると出るが、見終わった時にこれは伊藤俊也に捧げるか、篠原とおるに捧げるだと思った。
最後のクレジット・タイトルの部分で、梶芽衣子さんの「怨み節」がフルコーラスで流れる。それで確信してしまった。
これはビッグコミックに連載されていた篠原とおるの劇画「さそり」で、1972年に伊藤俊也監督、梶芽衣子主演で映画化された「女囚さそり」シリーズだと。
ユマ・サーマン演じる主人公はその「さそり」の主人公である松島ナミの再来だ。もっとも松島ナミはもっとクールな感じがしたけど・・・。

荒唐無稽、A級映画とB級映画というジャンル分けが正式に有るのかどうかは知らないが、有るとすれば正しくこればB級映画の傑作だ。
B級映画なのだから、どうしてここで日本語をしゃべる必要があるのかなどと、細かい事に疑問をはさんだり、変な理屈をこねて見たりしてはいけない。
しかしどこかで「それは変だ、おかしい」とケチをつける部分も持っていないといけない。その量が多過ぎてもいけないし、逆に少なすぎてもいけない。
 この映画はその辺のころあいが丁度良くて、なつかしいチャンバラとかカンフーとか西部劇のガンファイトを見るつもりで肩の力を抜くと、事実アクションシーンは本当にそれらのミックスで、そのミックスさ加減がなかなか味わいがあって面白い。
ここまで徹底的に殺戮シーンを描かれると、見ているほうはだんだんと慣れてきて快感すら感じるようになる。
 腕が叩き切られ、手首が飛ぶのはざらで、果ては首が飛び、血しぶきが吹き上がる。
最後には切られて上部が無くなった頭蓋骨から脳みそが見えていた。
なんだかグロテスクな映画だな・・・。おっと、そんなことも気にしてはいけない。B級なのだ、B級なのだ。

クエンティン・タランティーノ監督は梶芽衣子ファンなのかな?きっと彼女の「修羅雪姫」も見ていると思う。
多分、鈴木清順や山下耕作あたりのプログラム・ピクチャもたくさん見ているのではないか。大立ち回りのシーンのセットや、ライティングの感じなんかは以前に何回か見たような気がした。
 70年代の歌がカバーバージョンとして今の歌い手さんでヒットしてたり、その頃の歌をバックにCMが作られていたりしているのと同じ線上で、リメイクというか悪く言えばパクリをやって楽しい作品作りをしているように思えた。
実は、それはそれでより一層の面白さを感じる事が出来るのがB級映画の面白いところで、まさにそれがB級映画の一番の醍醐味だと思う。

映画館を出たら「花よ 綺麗とおだてられ 咲いてみせれば すぐ散らされる 馬鹿な 馬鹿な 馬鹿な女の 怨み節」と無意識のうちに“怨み節”の口笛を吹いていた。
この「怨み節」、劇場版では「月に一度は血を流しゃ」ときわどい歌詞があったのですがレコードになった時には割愛されていた。
実のところ僕は梶芽衣子さんのファンだったのです。

シカゴ

2017-10-15 10:20:46 | 映画
ハーヴェイ・ワインスタインがプロデュースした作品の一つ。

「シカゴ」 2002年 アメリカ


監督: ロブ・マーシャル
出演: レニー・ゼルウィガー キャサリン・ゼタ=ジョーンズ
    リチャード・ギア クイーン・ラティファ ジョン・C・ライリー
    テイ・ディグス ルーシー・リュー クリスティーン・バランスキー
    コルム・フィオール ドミニク・ウェスト

ストーリー
1920年代、シカゴ。
ヴォードヴィルのスターを夢見るロキシー・ハートは、人妻でありながら、自分をショーに売り込んでくれるというケイスリーと浮気していたが、その言葉が嘘だったことを知り、彼を撃ち殺し逮捕されてしまう。
一方、ロキシーの憧れの歌姫、ヴェルマ・ケリーも殺人罪で逮捕されていた。
しかしヴェルマは女看守長ママ・モートンを買収して敏腕弁護士ビリー・フリンを雇い、夫と妹に裏切られた被害者として自分を演出し、スターとしてのステイタスをさらに上げている。
それを真似ようとしたロキシーは、お人好しの夫エイモスを使ってビリーを雇う。
ロキシーはマスコミの同情を買い、シカゴ史上最もキュートな殺人犯として獄中から一世を風靡する。
スターの座を得たロキシーはヴェルマを見下すが、社交界の花形令嬢キティーが殺人事件を起こした途端、マスコミの関心はそっちに移った。
ロキシーは巻き返しを図り、ビリーと共に無罪判決を勝ち取る賭けに出る・・・。

寸評
物語の中で人物が登場すると、やがて彼らは衣装をまとい酒場のステージや舞台のステージで歌いだす。
この切り替わりがスピーディで、舞台レビューと映画が一体化して観客に迫ってくる迫力が圧倒的で上質なステージを見ているようだ。
繰り広げられるダンスとジャズ・ナンバーにのめり込ませるテンポとカメラワーク、カット割の素晴らしさは日本映画がまったくかなわない所で、すごいなーと感心してしまう一級のミュージカル映画だ。

ロキシー(レニー・ゼルウィガー)とヴェルマ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は刑務所の女性棟に監禁されているが、管理しているのはママ・モートン(クイーン・ラティファ)と呼ばれている女性看守で、彼女は賄賂で囚人たちに便宜を図っているのだが、このママ・モートンの歌も恰幅同様に迫力があるものだった。
ロキシーは騙した男に逆上し、ヴェルマは夫を妹に寝取られ、それぞれ男を射殺して逮捕されている。
他の囚人たちも多かれ少なかれ男絡みの事件で収監されているのだが、その彼女たちが刑務所で繰り広げるダンスシーンは迫力があった。
真っ赤なライトがシンプルな牢屋のセットを浮かび上がらせ、そこで囚人たちが歌い踊ると、もうそれはブロードウェイの舞台そのものだ。
ダンスシーンは、基本的に主人公の妄想という設定になっている。
ロキシーは敏腕弁護士のビリー・フリン(リチャード・ギア)を雇うが、このビリーが凄腕弁護士なのか悪徳弁護士なのかよくわからないキャラクターで、被告を無罪にするためならでっち上げなどはお手の物で、頭が悪いロキシーが余計なことを言わないように、ビリーが代わってマスコミに答えるシーンでは腹話術になり、ロキシーはビリーに操られる人形になる舞台らしい楽しい場面になったりもする。
カタリンという無実の罪で囚われている女囚の絞首刑場面でも同様の演出効果で、この演出手法は最初から最後まで貫かれていて、それがこの映画の特徴でもあり素晴らしい部分でもある。
人気をさらわれそうになったロキシーがとっさに妊娠騒動をおこしたのをみて、ヴェルマが「あのアマ!」と叫ぶシーンは包括絶倒でお腹が痛くなった。
そんなコミカルなシーンを併せ持った上級ミュージカルだと思う。
ビリーがロキシーの日記に対する反論を行う場面ではリチャード・ギアのタップダンスが重なり、観客である僕は裁判劇などそっちのけ状態だった。

ヴェルマ・ケリーを演じるキャサリン・ゼタ=ジョーンズは、僕にとっては洋画にのめり始めた頃に見た「黄金の七人」に出ていたロッサナ・ポデスタを髣髴させるボリュームある身体をしている。
それにもかかわらず、あの身のこなしはすごいし、逆にあの体力がないと勤まらないのかもしれない。
ショービジネスに夢見る人の底辺の広さを感じさせる。
ショービジネスといえば、弁護士のビリーにとっても裁判は金儲けの手段で、ある意味ショービジネスなのだという所が面白く、最後でロキシーとヴェルマがコンビを組んでステージに立ち、小道具にマシンガンを持ち出したときに見せるリチャード・ギアの「やってくれるじゃないか」とでも言いたいような苦笑いがそう思わせた。
ロバート・ワイズの「ウエスト・サイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」、ジャック・ドミーの「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」などと共に最良ミュージカルの仲間に加えておこう。 本当に面白い!

ショコラ

2017-10-14 10:37:22 | 映画
ハーヴェイ・ワインスタインがプロデュースした作品の一つ。

「ショコラ」 2000年 アメリカ


監督: ラッセ・ハルストレム
出演: ジュリエット・ビノシュ ヴィクトワール・ティヴィソル
    ジョニー・デップ アルフレッド・モリナ ヒュー・オコナー

ストーリー
古くからの伝統が根付くフランスの小さな村。
レノ伯爵の猛威で因習に凝り固まったこの村に、ある日、不思議な女ヴィアンヌと娘アヌークが越してきてチョコレート店を開く。
しかし今は断食の期間。
ミサにも参加しようとせず、私生児であるアヌークを連れたヴィアンヌの存在は、敬虔な信仰の体現者で村人にもそれを望む村長のレノ伯爵の反感を買ってしまう。
次々と村の掟を吹き飛ばす二人の美しい新参者に、訝しげな視線を注ぐ人々。
厳格なこの村に似つかわしくないチョコだったが、母ヴィアンヌの客の好みにあったチョコを見分ける魔法のような力で、村人たちはチョコの虜になってしまう。
チョコレートのおいしさに魅了された村人たちは、心を開き、それまで秘めていた情熱を目覚めさせていく。
そして、夫の暴力を恐れ店に逃げ込んだジョゼフィーヌがヴィアンヌ母娘の生活に加わってまもなく、河辺にジプシーの一団が停泊する。
ヴィアンヌは、そのリーダーであるルーという美しい男性に心を奪われ、彼を店に招き入れる。
だがよそ者であるジプシーたちを快く思わない村人たちの、ヴィアンヌに対する風当たりは強くなった。
やがて老女アルマンドの誕生日パーティー中、ルーの船は放火され、ジプシーの一行は村を出ていく。
そして疲れて眠ったまま息を引き取ったアルマンドの葬式が続く中、ヴィアンヌは荷造りをして、次の土地に移るべく、嫌がる娘を引っ張って出ていこうとするのだった。

寸評
保守派VS進歩派というか、古い因習に縛られている人々を、迫害を受けながらもやがて人々封建的案を因習から解き放つという骨組みの映画はよくある。
でも、そこにファンタジーの要素を詰め込んだことで、とてもホノボノとした感じの映画になっている。
舞台はフランスの小さな村だが、冒頭のその村の俯瞰はその光景そのものが童話の世界の様で、ファンタジー作品の幕開けと言った感じだ。

古い因習を背負って立っているのがレノ伯爵だ。
親子が店を開いたのは断食の時期で、その時期にチョコレートのショップをオープンさせただけで反感を抱く。
彼は村長だが、教会の若い牧師に高圧的で、まるで宗教をも支配しているようでもある。
彼に対抗するのがチョコレート店をオープンしたヴィアンヌで、彼女は断食とは無縁だし教会にもいかない。
ヴィアンヌは特殊な能力を有していて、客の好みのチョコレートを当てることが出来る。
そしてそのチョコレートを食べた夫婦は、疎遠になっていたが再びラブラブになるし、同じく夫の暴力に悩んでいた妻は自立を決意したりするし、老人の恋も成就するようになる。
チョコレートは人生が良い方向に進み出す魔法の食べ物なのだ。
このあたりはファンタジーの世界なのだが、ヴィアンヌは超能力者のスーパーレディではない。
伯爵の冷酷な態度に怒ったヴィアンヌは、彼のところに怒鳴り込んで伯爵を非難しわめき散らす。
炎に包まれた娘を助けようと川に飛び込んで止められた時には、絶望のあまり錯乱する普通の母親なのである。
普通の母親としての姿を描くことで、単なる子供だましのファンタジー映画から脱却することに成功している。

娘のアヌークは寝物語として祖父の話を聞くのが好きだ。
祖父の妻、すなわちヴィアンヌの母は人々を助ける薬を売り歩くために旅を続ける宿命の女性で、少女であったヴィアンヌを連れて夫のもとを去った。
おそらくヴィアンヌも同様の行動を取ったのではないかと推測される。
その意味では彼女たちは神の系譜であり、神の象徴なのかもしれない。
しかしヴィアンヌは神というよりは、ちょっとした人々にチョコレートを通じて人生の「歓び」を分け与える特技を持っているだけなのである。
その経緯はジョゼフィーヌの夫からの自立を除いて何ともほほえましいものである。

役者はヴィアンヌのジュリエット・ビノシュと、糖尿病を患っている老女アルマンドを演じたジュディ・デンチが魅力的である。
店を引き継いだジョゼフィーヌが店に名前を「アルマンド」としたのも泣かせる。
ただラストはファンタジー映画の為か、チョコレート映画の為か、非常に甘いものとなっている。
ここまで徹底したハッピーエンドを描いたのは勿論作者の意図であろう。
しかし滅茶苦茶甘いなあ・・・。
もっとも、こういう作品を観ると何だかホッとした気持ちになれるのも映画の魔力だ。



恋におちたシェイクスピア

2017-10-13 13:51:51 | 映画
ハーヴェイ・ワインスタインがプロデュースした作品の一つ。

「恋におちたシェイクスピア」 1998年 アメリカ


監督: ジョン・マッデン
出演: グウィネス・パルトロー ジョセフ・ファインズ ストーリージェフリー・ラッシュ
    コリン・ファース ベン・アフレック ジュディ・デンチ 寸評トム・ウィルキンソン

ストーリー
芝居熱が過熱するエリザベス朝のロンドン。
ローズ座は人気作家ウィリアム・シェイクスピアのコメディが頼みの綱だったが、彼はスランプだった。
なんとか書き出した新作コメディのオーディションにトマス・ケントと名乗る青年がやってくる。
実はトマスは裕福な商人の娘ヴァイオラの男装した姿だった。
商人の館にもぐり込んだシェイクスピアは、ヴァイオラと運命の恋に落ちるが、そこでトマスがヴァイオラの仮の姿だと知る。
心のままに結ばれたふたりはその後も忍び逢いを続け、この恋が次第に運命の悲恋物語「ロミオとジュリエット」を形づくっていく。
ヴァイオラは、トマスとして劇場の皆を欺き芝居の稽古を続けていた。
初演を待つばかりの日、トマスが実は女性であることがバレ、劇場の閉鎖が言い渡される。
女性が舞台に立つことが許されない時代だったのだ。
ライバル劇場のカーテン座の協力で初演を迎えたが、同じ日ヴァイオラはいやいや結婚式を挙げていた。
式の後劇場に駆けつけたヴァイオラは、突然声変わりが起こって出演できなくなった少年の代わりに、ジュリエット役を演じることになり、ロミオ役はシェイクスピアだ。
詩に溢れた悲恋劇は大喝采を呼ぶが、芝居好きのエリザベス女王の許しで劇場閉鎖は免れたものの、ヴァイオラの結婚は無効にはならず涙ながらにふたりは別れることに。
結婚して新天地アメリカに赴いたヴァイオラを思い、シェイクスピアは新たなコメディ「十二夜」を書き始める…。

寸評
シェイクスピアの秘めたる恋を劇中劇に絡めて描いていくところが面白い。
劇中劇はもちろん「ロミオとジュリエット」である。
例えば実在の著名な劇作家で居酒屋での喧嘩に巻き込まれて不慮の死を遂げたといわれるクリストファー・マーロウの死を、シェイクスピアが告げた嘘で引き起こされたと勘違いして悩むところなどは、「ロミオとジュリエット」にかぶせているなと感じた。
ヴァイオラとシェークスピアの恋は偶然の出会いから一気に燃え上がるが、その様子は舟で愛の言葉を交わすシーンで巧みに表現していた。
カメラは言葉を発するたびにふたりのアップで切り替わり、その間のカット数はやたらと多い。
しかしそのカットの多さでもって恋の盛り上がりを感じさせられた。
わずかの時間でそれを演出してみせたのは素晴らしいと思う。

「十二夜」と題する新作喜劇の構想を練るシェイクスピアは、アメリカに渡ったヴァイオラの新しい人生を夢想する。
難破した船から一人生き残ったヴァイオラが、アメリカ大陸に上陸するシーンで映画は幕を閉じるのだが、エンドクレジットと共に映される砂浜を歩き続ける長いそのシーンは余韻を残す。
豆粒のようなヴァイオラが歩き続けるのだが、その姿は凛としているようであり、彼女の生きる決意を暗示していたようでもあった。

ヴァイオラとしてシェークスピアと逢瀬を重ねている時と、男装してトマス・ケントとして芝居をやっている時と、行ったり来たりしながら物語が進行していくが、片や金髪のロングヘアで片や茶色のショートヘアなのが見ながらずっと気にかかっていた。
ヴァイオラのロングヘアはカツラなのかと思ったぐらいだ。
流石にそのままでは違和感がありすぎなので、ある時トマス・ケントがさっとカツラを脱ぎ捨てるとロングヘアが現れるシーンが用意されていた。
でもそれは映画的なトリックで、グウィネス・パルトローがトマス・ケントをやっているシーンは、髪を切ってまとめ撮りをしていたに違いないと思う。
トマス・ケントが女性であることを暴く陰気な少年ジョン・ウェブスターも実在の人物で、劇作家になったことを知ったが、時代を描く中でエリザベス1世は当然として実在の人物がいろいろ登場すると歴史映画らしさが増してくる。
それにしてもジュディ・デンチのエリザベス1世はその風貌とともに存在感があったなあ。
ヤケにあの顔を思い出してしまう。
最後の裁きも貫禄充分だったし、「遅すぎる」と言って水たまりの中を歩き馬車に乗り込むシーンなどは滑稽だった。

シェイクスピアが「彼女は僕の生涯のヒロインだった。名前は…」と独白するシーンがあるが、大抵の男はそんな独白をしたくなるような経験を有しているのではないかなと思ったりもした。
中世の雰囲気は出ていた映画で、女王は婚姻をも支配する絶対権力を持っていたんだなあということもわかった映画だった。

グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち

2017-10-12 09:46:19 | 映画
ハリウッド・スキャンダルのハーヴェイ・ワインスタインがプロデュースした作品の一つ。

「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」 1997年 アメリカ


監督: ガス・ヴァン・サント
出演: ロビン・ウィリアムズ マット・デイモン ベン・アフレック
    ステラン・スカルスガルド ミニー・ドライヴァー

ストーリー
ウィル・ハンティングは、マサチューセッツ工科大学で清掃員のバイトをしている。
親友のチャッキー、モーガン、ビリーらとつるんで、たびたび警察沙汰の事件を起こしたしてタチが悪い。
しかし、実は彼は特に数学に異様な才能を見せる天才だった。
ウィルはある日、MITの掲示板に書かれた難解な数学の証明問題を人目を盗んでこっそりと解く。
出題者のランボー教授は問題を解いたのがウィルと知り、傷害事件で拘置所にいた彼をたずねて、週2回彼と共に研究室で勉強し、さらに週1回セラピーを受けることを条件として身柄をあずかる。
フィールズ賞受賞のランボーでさえ手こずる数学の難問をあっさり解いて周囲を驚嘆させるウィル。
しかし、孤児で里親を渡り歩き、虐待までされた不幸な過去を送った彼は、誰にも心を開かないのだ。
ランボーは大学時代のルームメイトだったショーン・マクガイアをたずね、ウィルと境遇が似ている彼なら、ウィルの相手もつとまるのでないかとセラピーを依頼する。
マクガイアの言葉をウィルは黙って聞くが、セラピーでは沈黙を守った。
ウィルはハーヴァード大学の女子学生スカイラーをデートに誘い、やがて結ばれるが、自分の素性だけはどうしても告白できない。
西海岸の医学校に進学を決めたスカイラーは、一緒に来てとウィルを誘うが、混乱する彼は拒否した。
ウィルは傷心を抱えてセラピーもすっぽかし、刑務所に逆戻りの危機まで訪れるなかで、ショーンにも虐待の過去があったことを知る・・・。

寸評
登場する3人の性格設定が映画を面白くしている。
ウィルは孤児で転々とした里親からの虐待を経験し、そのトラウマから抜け出せないでいて、捨てられる前に捨てるという孤独の世界にいて人と打ち解けないでいる。
ショーンも妻と死別して、そこから立ち直れずかつての生気をなくしてしまっているのだが、過去にウィルと同じような経験も有している。
ランボー教授は数学のノーベル賞とも言われるフィールズ賞を受賞している有能な数学者なのだが、そのことを鼻にかけているような所があり、上から目線の態度を見せる。
そして、ランボー教授とウィルの関係はまるでサリエリとモーツァルトの関係みたいだ。
ウィルの才能を惜しみ、彼の将来に道を与えようとしていながら、ウィルの才能の前に自分の無力を知り嫉妬に駆られたりしている。
彼は威厳を保つために、ウィルの出した解答に間違いがあるようなことを言う。
それに反発したウィルが答案用紙を燃やすと、答えが消え去ってしまうのに慌てた教授が必死で火を消し止めたが答えが消失してしまっていて愕然とする場面などは二人の関係を面白く描いていた。
ランボー教授は自分のために彼を利用しようとしているフシも見受けられたが、ショーンとの関係はそうではない。
ショーンが描いた絵から心理学にも長けていたのだろうウィルに心の傷を言い当てられてしまう。
そこでショーンが妻への侮辱は許さないと感情をあらわにしたことで二人の距離は近づいたようだ。
上から目線の相手より、自分と同じような傷、あるいは欠点を持った人間との方が打ち解けあえる典型のようだ。
その場面での会話は興味がわいた。
女子大生のスカイラーと出会う場面で、知識を見せびらかす男子学生に「受け売りのエセは50年後に自分の正体を知る」と言い放つ。それと同じようなことをウィルはショーンから言われていて、ウィルの知識も書物からの知識にすぎず、自ら確認したものでないと指摘される。
ショーンはそのことを通じて、あるいは自分の経験を通じてスカイラーとの関係のあり方を説くいい場面だ。

ウィルの心を許していそうな友人たちとの生活は、単純労働の世界であり、警察沙汰を起こすすさんだものだ。
しかしその中の一人であるチャッキーは「才能のあるお前が、もしずっとこの町にいたら、俺はお前を殺す。ここにいるのは俺たちへの侮辱だ」と忠告する。
不良仲間だけど、友達っていいよなあと思わせる感動的な場面だった。
彼等の精一杯の気持ちでポンコツ車をプレゼントする仲間の交流は心が和むものだった。
提示された難問とされる問題が一体どのような命題なのかは観客にわからないままだが、その命題を示されたところで僕にはその意味すら理解できなかっただろうけどね。
ラストはある程度予測されたものだったが、驚いたのは、知らなかったことだけどマット・デイモンが名門ハーバード中退のインテリだったことだ。
ハーバード大学はマサチューセッツ工科大学の近くにあるということを、ウィルがスカイラーと出会ったことで知った次第。変なところに興味がいった。

日の名残り

2017-10-06 14:53:10 | 映画
カズオ・イシグロ氏がノーベル賞の文学賞を受賞したので、彼の代表作の一つである「日の名残り」を再見した。

「日の名残り」 1993年 イギリス


監督:ジェームズ・アイヴォリー
出演;アンソニー・ホプキンス エマ・トンプソン ジェームズ・フォックス
   クリストファー・リーヴ ピーター・ヴォーン ヒュー・グラント

ストーリー
1958年。オックスフォードのダーリントン・ホールは、前の持ち主のダーリントン卿が亡くなり、アメリカ人の富豪ルイスの手に渡っていた。
かつて政府要人や外交使節で賑わった屋敷は使用人もほとんど去り、老執事スティーブンスの手に余った。
そんな折、以前働いていたミス・ケントンから手紙をもらったスティーブンスは彼女を訪ねることにする。
離婚をほのめかす手紙に、有能なスタッフを迎えることができるかもと期待し、それ以上にある思いを募らせる彼は、過去を回想する。
1938年、スティーブンスはミス・ケントンをホールの女中頭として、彼の父親のウィリアムを副執事として雇う。
スティーブンスはケントンに、父には学ぶべき点が多いと言うが老齢のウィリアムはミスを重ねる。
ダーリントン卿は、第二次大戦後のドイツ復興のため非公式の国際会議をホールで行う準備をしていた。
会議で卿がドイツ支持のスピーチを続けている中、病に倒れたウィリアムは死ぬ。
1936年、卿は反ユダヤ主義に傾いてユダヤ人の女中たちを解雇し、ケントンはそんな卿に激しく抗議した。
2年後、ユダヤ人を解雇したことを後悔した卿は、彼女たちを捜すようスティーブンスに頼み、彼は喜び勇んでこのことをケントンに告げ、彼女は彼が心を傷めていたことを初めて知り、彼に親しみを感じる。
ケントンはスティーブンスへの思いを密かに募らせるそんな折、屋敷で働くベンからプロポーズされた彼女は、スティーブンスに結婚を決めたことを明かすが、彼は儀礼的に祝福を述べるだけだった。
20年ぶりに再会した2人だが、孫が生まれるため仕事は手伝えないと言うケントンの手を固く握りしめたスティーブンスは、彼女を見送ると、再びホールの仕事に戻った。

寸評
執事としてストイックにその職務を遂行するアンソニー・ホプキンスの姿が目に焼き付く作品だ。
かれは主人であるダーリントン卿を尊敬しており、身を粉にして彼に尽くしている。
その献身ぶりは僕などにはとてもまねできないもので、重要な会議に居合わせてもその会話の内容に聞き耳を立てるようなことはしない。
主人であるダーリントン卿のいう事には無条件に従う、卿にとっては忠実な執事なのである。
しかしそれは彼の保身からくるものではなく、執事と言う対場と職務に対する忠実さから来ているのである。
その為には父親のプライドを気にしながらも副執事から掃除係に降格を告げることもいとわない。
そのストイックな姿が印象深い。

物語はミセス・ケントンからの手紙を読むことから始まり、そのことで過去の出来事を回想する形をとっている。
この家には社交界、政界の名士たちが集まって来て、大戦前夜のヨーロッパ状況が話し合われるのだが、ダーリントン卿はナチス・ドイツの指示者であることが含みを持たせている。
後世の我々はヒトラーの率いるナチス・ドイツがどんなにひどかったのかを知っているが、当時のヨーロッパの人々にはここで描かれたような考えが交錯していたのだろう。
ダーリントン卿は人格者の様でもあるし、独善的な行為を取る人でもなさそうだ。
第一次世界大戦ごのドイツへの対処があまりにも過酷だったことから、なんとかドイツの再興を助けようとしているのだが、そのドイツとはナチス・ドイツであることでダーリントン卿の人格とのギャップが全体構成を覆っている。
イギリス、フランス、アメリカ、ドイツを巻き込んだ政治的な会合が行われているのだが、執事が各国の要人をもてなす姿が興味本位的に僕を引き付ける。
イギリス貴族の生活とはこのようなものなのだと。

ストイックなスティーブンスに対してメイド頭のケントンはひるむことなく意見もする。
そんなケントンにスティーブンスは好意を持っていそうなのだが、その感情を表すことはない。
自分を引き止めてほしいような言いようをされても、スティーブンスは素直な言葉を返せない。
僕も経験があるが、極めて冷静を装う精一杯の強がりなのである。
過去を振り返るところから、ケントンに会いに行く現実シーンが展開されるが、この現実は切ないものだ。
おそらく離婚も視野に入れている彼女はメイド頭として復職つもりだったのだろうが、孫が誕生したことで娘と孫のためにとどまることを選択する。
スティーブンスは彼女に「努力して幸せになってほしい」と告げる。
幸せな結婚生活は我慢と努力で得られるものなのだ。
お互いに愛する気持ちを持っていても、それを口に出すことはなく、二人は強く握手した手を放さねばならない現実を受け入れざるを得ない。
スティーブンスは新しい主人の執事として戻るのだが、その間の彼の心情を描き込んで欲しかった気持ちは残ったのだが、ケイトンとの別れは彼の一生における最後の思い出となったのかもしれない。

ハッピーアワー

2017-10-04 08:08:33 | 映画
長時間作品を前編、後編で公開する作品が見受けられるが、興行を考えて前後編に分けられているのかもしれない。
それを一回で上映した作品もある。
「ヘブンズ ストーリー」278分、「ハッピーアワー」317分などである。
今回はその「ハッピーアワー」を再見。

「ハッピーアワー」 2015年 日本

監督:濱口竜介
出演:田中幸恵 菊池葉月 三原麻衣子 川村りら
   申芳夫 三浦博之 謝花喜天 柴田修兵 出村弘美

ストーリー
神戸市で暮らす看護師のあかり(田中幸恵)、専業主婦の桜子(菊池葉月)、学芸員の芙美(三原麻衣子)、科学者の妻の純(川村りら)は、お互いに仲が良く、行動を共にすることが多い。
彼女たちは、鵜飼(柴田修兵)が開催したワークショップに参加する。
打ち上げの席上、純が離婚調停を進めていると知ったあかりは、なぜ今まで話してくれなかったのかと怒り、その場を立ち去る。
あかり、桜子、芙美、純は約束していたとおり温泉へ出かけた。
あかりと純のあいだにあったわだかまりは消えて、彼女たちは旅行を満喫するが、芙美は、夫で編集者の拓也(三浦博之)と小説家のこずえ(椎橋怜奈)が連れ立って歩いている場面を目撃してしまう。
後日、あかり、桜子、芙美は、純の夫の公平(謝花喜天)からの連絡を受けてカフェを訪れ、純の行方が分からなくなっていると聞かされ、さらに離婚を望んでいた純が裁判に敗れたこと、そして、純が公平との子を妊娠しているらしいことも、公平の口から語られる。
一方、桜子は、中学生の息子が恋人の女性を妊娠させてしまったと知らされる。
夫の良彦(申芳夫)と話し合ったのち、良彦の母のミツ(福永祥子)と共に女性の家を訪ねた桜子は、女性の両親に土下座した。
その帰り道で息子と出会った桜子は、良彦との仲を取り持ってくれたのが純であったと話す。
こずえの小説の朗読会が開催され、司会を務めていた鵜飼が途中で退席するが、純を探して朗読会に来ていた公平が司会を引き継いで、朗読会は無事に終わる。
打ち上げでは、公平、桜子、芙美、拓也、こずえのあいだで口論が起こってしまい、こずえと拓也が残された。

寸評
一つ一つのシーンが長いので上映時間317分と5時間を超える長編となっている。
冒頭でのワークショップにおける「重心を聞く」という催し物のシーンで、これがずっと続くのなら耐えれないなと思っていた僕は、そのシーンが実はじわじわと心に沁み込んでいたのだと体感することになる。
このシーンをはじめ、純が帰りのバスで旅行者と語り合うシーン、朗読会でこずえが自分の小説を朗読するシーンなど、場面場面が異様に長い。
一見無駄とも思える会話やシーンが続くのだが、知らず知らずのうちにその世界に引きずり込まれていて、映画を見ている自分ではなく、その会話の中に入っているような臨場感を覚えていく。
観客である僕が、出演者として映画に参加しているような感覚だ。
この感覚こそがこの映画の醍醐味である。

ワークショップの打ち上げ会で、あかりが述べる話は重かったし新鮮だったし考えさせられた。
「医療技術が進歩し寿命が延びて、今までだったら亡くなっていた人が生き延びている。その結果、病気を抱えて認知症になっている。その患者が徘徊、病院を脱走すれば看護師の責任になる。死亡でもすれば裁判に負けて慰謝料を要求される。そのための保険に自腹で加入している」と話すのである。
長生きするだけがいいのか、患者を看ている看護師だけが責任を負っていいのかと思う。
人は誰かと無意識のうちに触れ合っていたいものなのだろう。
子供の頃には意味もなく体を触り合っていたのにと語られる。
4人の交流は、まさにそのような本能とも思える欲求に支えられたもので憧れさえ持つ関係だ。
僕はこの打ち上げ会のシーンでも同席しているような錯覚を覚えた。

演技経験がないと言う4人の主演女性はスゴイ!
長回しもあるが、その中での自然体の演技は観客を引き付けるし、表情、会話にリアリティがあり、そのために静かな画面に迫力を感じる。
神戸が舞台とあって話される会話が関西弁であることが、関西人である僕により一層リアリティを感じさせて引き付けていたのかもしれない。
4人の性格描写が素晴らしい。
仲の良い4人の中にあるわずかな感情の違い、わだかまり、個々が抱える友人にも言えない別々の悩みなどが示され、誰か一人に感情移入してもよさそうなのだが、それぞれの立場や気持ちが伝わってきてしまい、一人に同調することはないし、挙句の果てには彼女たちを取り巻く男連中にも感情移入できてしまう。
問題が解決されたわけではなく、彼女たちに起きた変化の帰結は不明のままである。
それにも係わらず4人はまた旅行に行って、無意識に体を触れ合うことが出来る仲の良い友人として出発するのだろうと思わせるラストであった。
彼女たちの至福の時は家庭にあるのではなく、彼女たちの交流の場にあったのだと思う。
自分が生きている空間と、自分が存在している空間は違うのだと僕は感じた。
すごく新鮮な映画作りに衝撃を覚えるし、この内容で5時間を感じさせないのは驚異的だ。
まれにみる傑作である。