おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ハリー・ポッターと秘密の部屋

2024-08-31 07:46:36 | 映画
「ハリー・ポッターと秘密の部屋」 2002年 アメリカ


監督 クリス・コロンバス
出演 ダニエル・ラドクリフ ルパート・グリント エマ・ワトソン
   リチャード・ハリス マギー・スミス アラン・リックマン
   ロビー・コルトレーン フィオナ・ショウ ジョン・クリーズ
   トム・フェルトン マシュー・ルイス ケネス・ブラナー

ストーリー
ホグワーツ魔法魔術学校の1年生を修了したハリー・ポッターが、夏休みを意地悪な叔母一家と過ごしていたある夜、ハリーの元に突然妖精ドビーが現われ、ハリーにホグワーツには戻ってはならないと警告してきた。
ホグワーツこそが自分の本当の居場所と信じて疑わないハリーは当然猛反発、ドビーは魔法を使って叔母一家の客人に悪戯を仕掛けて去ってしまった。
ハリーの仕業だと思い込んだ叔母一家は窓に鉄格子を打ち付けてハリーを監禁状態に置いてしまうが、そこに親友のロンやその妹ジニーたちが空飛ぶ車に乗って駆け付け、ハリーを救い出して飛び去っていった。
新学年の準備のためダイアゴン横丁を訪れたハリーはハグリッドやハーマイオニーと再会を果たし、ホグワーツに新任教師として赴任することになったベストセラー作家のロックハートにも対面した。
2年生になったハリーは新入生たちの憧れの的となっていたが、やがてホグワーツには不気味な怪奇現象が次々と起こるようになった。
ハリーはロンやハーマイオニーと共に怪奇現象の正体を突き止めようとしたが、ハーマイオニーや女子学生らが襲われて石に変えられてしまい、ハグリッドは容疑者として捕えられて魔法監獄アズカバンに送られ、ダンブルドア校長は一連の事件の責任を負わされて停職処分となってしまった。
ハリーはロンと共に“秘密の部屋”の入り口を突き止めたが、そこではジニーが何者かに操られていた。
ハリーはジニーを操っているのはかつてホグワーツの生徒だったトム・リドルであることを知った。
そしてトムこそが後に闇の帝王ヴォルデモート卿の若き日の姿だったのだ。
トムはハリーに襲い掛かり、巨大な毒蛇を放ってハリーを殺そうとする。
ハリーは剣で毒蛇を倒すと、その牙でトムの亡霊を消滅させ、ロンやジニーと共に秘密の部屋から無事脱出することに成功し、秘密の部屋の陰謀が明らかにされた。


寸評
一作目の「賢者の石」を見ているか、あらかじめ解説を読むかして事前知識がないと少し入り込めないところがあるのは連作物の宿命かも。 
僕は原作を読んでいないし、元来この手の作品にあまり興味を示さない傾向がある。 
それだけが理由ではないにしても、第二作目の「秘密の部屋」は前作の「賢者の石」に迫る仕上がりになっていないような気がする。 
一応2時間半以上を退屈させないようにしているのだが、何だか物足りなくて残るものがなかった次第。
なぜなのだろうと振り返ったら、結局思わせぶりな割には中途半端だったのではないかとの結論に至った。 
例えば、妖精のドビーのご主人が一体誰なのかという疑問を持たせないままに終わってしまった。 
否、疑問は持つのだけれども、ミステリーとして興味を抱かせるまで昇華していなかったと思う。 
ロンの妹の存在を途中で挿入しておきたかったのだろうが、そもそも外人の顔の見分けが苦手な僕にとって、時々挿入される彼女のアップがよく分からなかった。 
伏線としては少し弱いのではないか。 
なんだかロンの妹の描き方は消化不良だ。 

それに比べれば、ドビーへのプレゼントのオチに対する伏線のほうがうまく処理されていた。
個人的にはしっかり者のハーマイオニーが好きなので彼女の存在感をもっと高めてほしかったなぁ。
全体的には登場人物すべてが希薄で内容を軽くしてしまっているのではないかと思う。 
もともと空想物語なのだから、その辺の人物描写をしっかり描かないと、次回作以降は子供だまし映画に成り下がるのではないかと危惧させた。

第2作の今回は新たなキャラクターが次々登場する。
最初のキャラクターはドビーで、ちょっとグロテスクなキャラクターで可愛くはないが愉快なキャラクターである。
秘密の部屋では巨大な毒蛇が出てきて追っかけっことバトルが繰り広げられる。
僕は劇場で「賢者の石」とこの「秘密の部屋」を見たのだが、ハリーポッターはもういいかなという気になった。
僕には、この話で2時間半はきつかった。
ファンタジー映画としては、同じような時期に封切られた「    ロード・オブ・ザ・リング」の方が作品的にも見応えがあり、そちらのシリーズの方が僕の感性にあっていたので、映画館通いは「              ロード・オブ・ザ・リング」のシリーズになってしまった。

ところで不死鳥が飛んでくるのは解かるのだが、クモの大群に襲われた時に空飛ぶ自動車がなぜ現れたのかがわからない。 
あれは誰かの意思?それとも車自身の行動なの? 
映画が終わって長いクレジットタイトルの後に、もうワンシーンあるのは最後まで付き合ってくれた人へのサービスだったのかな?

ハリー・ポッターと賢者の石

2024-08-30 07:19:22 | 映画
ハリー・ポッター・シリーズから2作品を

「ハリー・ポッターと賢者の石」 2001年 アメリカ


監督 クリス・コロンバス
出演 ダニエル・ラドクリフ ルパート・グリント エマ・ワトソン
   リチャード・ハリス マギー・スミス アラン・リックマン
   イアン・ハート ロビー・コルトレーン フィオナ・ショウ
   リチャード・グリフィス ジョン・クリーズ

ストーリー
ハリー・ポッターは叔母一家の元に預けられて虫けらのように虐げられ、こき使われていた。
やがて、11歳の誕生日を迎えたハリーの元にホグワーツ魔法魔術学校からの入学許可証が届いた。
ハリーの元にホグワーツの森番をしているという大男ハグリッドが現れ、叔母夫婦がひた隠しにしていたハリーの出生の秘密を明かした。
ハリーの両親は高名な魔法使いだったが10年前に闇の帝王ヴォルデモート卿に殺害されており、唯一生き残ったハリーは魔法界では知る人ぞ知る存在だった。
自分にも魔法使いの血が流れていることを知ったハリーはホグワーツへの入学を決意、ロンドンのキングズ・クロス駅からホグワーツ特急に乗り込む。
ハリーは汽車の中で少年ロンと少女ハーマイオニーと知り合い、意気投合する。
新入生は4つの寮に振り分けられ、ハリーとロン、ハーマイオニーはグリフィンドール寮で共同生活を送ることになり、ハリーと折り合いの悪い同級生ドラコ・マルフォイはスリザリン寮に入り、スリザリンの寮監を務めるスネイプ先生は、なぜかハリーをじっと睨みつけていた。
ホグワーツのダンブルドア校長は新入生に対して「禁じられた森」には入らないこと、そして4階には決して行かないことを約束させ、いよいよ1年生の授業が始まった。
ハリーはその高い素質と才能を認められ、魔法界の人気スポーツである“クィディッチ”の選手に大抜擢される。
しかし、スネイプはクィディッチの試合中にハリーの妨害をするなど嫌がらせ行為を働き、ハリーはスネイプの行動に疑いを抱いた。
ある日、うっかり立入禁止の4階に立ち入ってしまったハリーとロン、ハーマイオニーは、3つの頭を持つ番犬が謎の隠し扉を守っているのを目撃した。


寸評
世界的なベストセラー「ハリー・ポッター・シリーズ」の映画化第1作であり、後日USJに特別なアトラクション施設が出来るなど、家族連れで見ることが出来るファンタジー映画である。
魔法魔術学校が舞台となれば、これはもうファンタジー以外の何者でもない。
これはファンタジー映画であり深刻な作品ではないことは、ハリーが叔母一家から虫けらのように虐げられてこき使われている様子が子供だまし的に描かれていることで示される。
やがてハリーの元にホグワーツの森番をしていると言う大男のハグリッドが現れて、いよいよ魔法使いの世界に入っていくのだが、9 3/4番線など魔法世界への切り替えはスムーズで冒頭の滑り出しはいい。
ハリーは汽車の中でロンとハーマイオニーと知り合うが、この時点で三人のキャラクターも決定づけられている。
ハリー・ポッターは魔法世界では有名人らしいのだが、その為か先生を初めホグワーツの人たちからえこ贔屓されているような所がある。
同級生であるドラコ・マルフォイがハリー・ポッターの敵役となるところだが、皆がハリー・ポッターを応援しているので、彼がイジワルを言おうが何をしようがドラコの思い通りにはならない。
敵役の雰囲気を出すのはドラコ・マルフォイが入寮しているスリザリンの寮監を務めるスネイプ先生だ。
ハリー・ポッターに何をするでもないが、明らかに敵意を持っているような雰囲気が出ている。
彼の正体が明らかになるのはもう少し劇的であっても良かったように思う。

魔法はファンタジックに描かれ大掛かりなものではない。
ハリー・ポッターは伯母夫婦の息子であるダドリーにいじめられていたのだが、大男のハグリッドが魔法をかけてダドリーのお尻に豚の尻尾をはやすなどの小ネタ的な魔法が多いのも楽しめる要因となっている。
研究熱心なハーマイオニーが呪文を唱えて使う魔法もそのたぐいである。
ハリーたちは番犬が守っているのは賢者の石に違いないと確信し、自分たちの力で賢者の石を守ろうと決意。
ハリーとロン、ハーマイオニーは意を決して隠し扉に潜入、仕掛けられていた“悪魔の罠”をかいくぐりながら一番奥の部屋へと辿り着く。
そこで戦いが切って落とされるが、戦いがチェスになぞらえたものであることもファンタジーで、自己犠牲の美談も盛り込まれていて楽しめる。
内容は子供だましのようなものなのだが、元々の原作が児童文学なのだからやむを得ないだろう。
ダンブルドア校長は、賢者の石は“使おうとしない者”だけが手にすることができると語り、ハリーの亡き母の愛がハリーを魔の手から守ってくれたのだと語る。
使おうとしない者だけが手にする事が出来るのであれば、賢者の石は何の役にも立たないただの石という事になるのだが、この石の持つ意味とは何だったのだろう。
1年生を修了したハリーたちはそれぞれの実家へと戻っていくが、叔母の家に戻るハリーは再びイジメに会うのだろうか。
ハリーはホグワーツこそが自分の本当の居場所だと思わせる言葉を残しているから、やはりイジメに会ってホグワーツに戻ってくるのだろうなと予感させる。
シリーズ化が見込まれていた作品だが、ホグワーツの雰囲気はUSJ のアトラクション向きで、セットはなかなか凝っていたと思う。

青いパパイヤの香り

2024-08-29 07:02:58 | 映画
「青いパパイヤの香り」 1993年 フランス / ベトナム


監督 トラン・アン・ユン
出演 トラン・ヌー・イェン・ケー リュ・マン・サン
   グエン・アン・ホア クエン・チー・タン・トゥラ
   ヴォン・ホイ

ストーリー
1951年、平和な時代のサイゴンの一家に下働きの使用人として、あどけない10歳の少女ムイ(リュ・マン・サン)が雇われていく。
その家庭は琵琶を弾く以外、何もしない父(トラン・ゴック・トゥルン)と家計を支え布地屋を営む母(トルゥオン・チー・ロック)、社会人となった長男チェン(タリスマン・バンサ)、中学生の次男ラム(ソウヴァンナヴォング・ケオ)、小学生の三男坊ティン(ネス・ガーランド)に祖母、そして長年この家に仕えている年寄りの女中ティー(グエン・アン・ホア)がいる。
ティンはムイに朝が来ればまず葵を採り朝食の用意を始めることを教える。
ティーはまたムイにこの家の一人娘トーは父が家出している間に病死してしまったこと、それでも愚痴一つ言わない母について話して聞かせる。
ある晩、長男の友人クェン(ヴァン・ホア・ホイ)が一家を訪れ、ムイは彼にひそかなあこがれを抱く。
毎日を淡々と過ごす一家に再び暗い影が押し寄せる。
トーの死以来、外出することのなかった父が家の有り金を全部持って出て行ってしまったのだ。
祖母は母がいたらぬせいだと責め、涙を流す母をラムは、唇を噛みしめて見ていた。
母は乏しい商いで細々と生活を支えた。
ある夜遅く、帰宅した父が倒れているのをティーが発見する。
父は命を断ち、それから10年が経つ。
長男の嫁が来て、暇を出されたムイ(トラン・ヌー・イェン・ケー)に母は自分の娘のために用意しておいた宝石とドレスを渡す。
ムイは新進作曲家で長年憧れていたクェンの家に雇われる。


寸評
ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン市)が舞台だが、サイゴン市内の様子などは出てこずセットを組んで作られた極めて狭い空間での絵作りとなっている。
その空間は演劇的であり、会話が少ない演出も演劇的である。
映像は水や光、パパイヤを初めとする草木、蛙やコオロギなどの小動物といった自然を感じさせるものを融合させて独特の雰囲気をうみだしている。
ムイという少女の成長を描いているが、少女時代を演じたリュ・マン・サンの存在感は他を圧する魅力があり、彼女なくしてこの作品の成功はなかったであろう。

ムイは3年前に父親と死別して母親や妹と暮らしていたと語っているから、貧しい家庭の育ちで幼くして奉公に出されたのだろう。
ムイの奉公先は裕福そうだが、奉公先の主人は音楽が好きで一日楽器に触れては昼寝をしている酒浸りではないけれど、言わばぐうたら亭主だ。
女主人は夫との間に3人の息子がいるが、10年前に幼くして娘を亡くしている。
働かない夫の代わりに子供や義母の面倒を身ながら、家計を支えるために生地屋を営んでいるのだが、様子を見ると生活は遺産によるものかと思わせる。
三人の息子たちはそれぞれ問題児だ。
長男は父に似て放蕩癖があり、道楽にかまけている。
次男は父に反感を持っており、怒りを昆虫や物にぶつけている。
小栗康平の「泥の河」でも喜一がカニに火をつける印象深いシーンがあったが、本作でも次男のラムがアリにロウソクを垂らすシーンに同様の屈折した思いを感じさせた。
三男のティンはまだ幼く、父を恋しく思っているいたずら好きの少年である。
ムイに何かにつけちょっかいを出しているのだが、少年が初めて異性に見せる好意の行動なのだろう。
母親は優しい女性だが、義母は息子が愛人宅にいくのはお前のせいだと姑根性を見せる。
次男はそんな母を痛ましく思っているという複雑な家庭だ。
トラン・アン・ユン監督はそのような状況を極力会話を削除して表現し、それも直接的な表現ではなく観客に想像させるものとなっている。

母親はムイに死んだ娘を重ね合わせて可愛がっている。
ムイが家を去る日、淋しさのあまり泣き崩れ倒れるが、その後母親はどうなったのかは描かれない。
もしかするとそのまま亡くなってしまったのかと思わせるのである。
ムイは長男の友人クェンに少女のころから好意を持っている。
成人して彼の家に奉公してからの好意は、秘かな思いを示すものとして微笑ましくリアルである。
それまでの雰囲気を壊すようなクェンの婚約者の振舞いに嫌味を感じてしまうが、彼女のいたたまれぬ気持ちも分らぬでもない。
ムイが着飾り紅を指す場面は、彼女の心の内を見せてドキリとさせるシーンとなっている。
咳払いをすることもためらわせる静かな映画だが、映像と雰囲気が最後まで引っ張った。

いちご白書

2024-08-28 06:38:24 | 映画
「いちご白書」 1970年 アメリカ


監督 スチュアート・ハグマン
出演 ブルース・デイヴィソン キム・ダービー ボブ・バラバン
   ジェームズ・クーネン バッド・コート ジーニー・バーリン
   ダニー・ゴールドマン マーレイ・マクレオド
   マイケル・マーゴッタ ジェームズ・ココ

ストーリー
ボート部の練習に明け暮れる大学生のサイモンは、ベトコンには敬意を抱いているが政治には特に関心がなく、
それは同居する友人のチャーリーも同じ。
だが、サイモンの留守中にチャーリーが部屋に連れこんでセックスをしていた女子学生は、政治に関心をもち、ストライキに参加しろと二人に呼びかける。
多くの学生が大学が黒人の子供たちの公園を予備士官訓練所の本部にする計画であることに抗議してストライキを行い、学生が学長室を占拠している大学構内は解放区となっている。
人種差別丸出しの警官にことわりを入れて構内に入ったサイモンは何となく食料係にされた。
学長用の洗面所で遊んでいるサイモンの前に女子学生が現れた。
リンダと名乗る彼女も食料係で、脱出ルートを使って食料を手に入れて大学に戻った二人は大歓迎される。
サイモンは学長室からボート部の練習に通い、エリオットにストライキの武勇伝を話す。
エリオットもサイモンやリンダと公園での抗議活動に参加した。
公園を囲う柵を壊して警官たちと戦った学生たちはサイモンたちを含めて大量逮捕された。
警察に着くとサイモンの同室のチャーリーまで逮捕されていた。
気分が盛り上がるサイモンだったが、初犯なので家族に電話した後に解放された。
リンダはサイモンが決意をもって運動に参加しているのではないのに気づいたが、サイモンは迷っていた。
夜まで二人で過ごすが、リンダはサイモンに別れを告げてストライキの現場から去ることにした。
そして虚ろな日々を過ごしていたサイモンの前に、リンダが戻ってきてくれた。
建物にたてこもる学生たちに学長は、出てこないと警察が入る、君たちは逮捕され停学になるとメガホンで警告し、警察に加えて州兵も大学に到着した。


寸評
僕は描かれている彼らの時代の人間だし、本作をリアルタイムで見たのだが、当時も今も作品全体に甘さを感じてしまうのは、当時の学生運動はもっと激しかったという思いがあるからだろう。
当時、僕は大学生でサイモンと同じようにクラブ活動を謳歌していたのだが、一方では学生運動も激しさを増しており大学の本館は革マル派によって封鎖されていた。
僕は典型的なノンポリだったが、それでもデモ行進に参加したことはある。
封鎖をして改革を叫ぶ者たちに無条件で賛同する訳ではなかったが、それでも政府が検討していた法制度に反対する気持ちはあった学生だったので、当時の僕はサイモンという学生を自分たちの分身のように見ていた。
機動隊は大学構内には入ってこなかったが、大学外の道路では装甲車に乗って内部をうかがっていた。
ジュラルミンの盾でデモの進路を規制され、列を乱すと金具の入った靴で蹴とばされた。
当時の僕たちは国家権力の実行者として機動隊員を敵視していたと思う。

映画を見ていると、彼らが何を訴えて戦っているのかは分かるけれど運動の盛り上がりは感じ取れない。
彼らの様子は文化祭での大騒ぎのようにも見えるし、なんだかノンビリしているのには違和感があった。
多分僕はこの映画を学生運動が激しさを増す中での青春ラブストーリーとして見ていたのだと思う。
その視点で見れば、青春映画として評価は出来るし、ハッピーエンドではなく、むしろ敗北感を感じさせるラストシーンはニューシネマらしいと思ったものだ。
僕は、この映画に関してはボートを真上から捕らえたシーンとラストシーン、それに食料品店で食料を調達するエピソードだけが印象に残った状態で忘れ去っていた。
ところが後年、バンバンが唄った「『いちご白書』をもう一度」でこの映画を思い出すことになった。

いつか君と行った映画がまた来る  授業を抜け出して二人で出かけた
哀しい場面では涙ぐんでた  素直な横顔が今も恋しい
雨に破れかけた街角のポスターに  過ぎ去った昔が鮮やかによみがえる
君もみるだろうか「いちご白書」を  二人だけのメモリィー どこかでもう一度

この歌詞には当時の世相が感じ取れないし、僕には哀しい場面など思いつかない。
「いちご白書」という題名が歌詞にピッタリだった為だと思っている。
この映画はコロンビア大学での抗議行動がモデルとなっているが、映画の題名はコロンビア大学の学部長が「大学の運営についての学生の意見は、学生たちがイチゴの味が好きだと言うのと同じくらい重要さを持たないものだ」として見下したことによるとされている。
学部長のハーバート・A・ディーンは「大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、もし理にかなった説明がないものなら、自分にとってはイチゴが好きな学生が多数派か否か以上の意味を持たない」という意味だったと弁明しているが、何れにしても当時の学生運動はもしかするとその程度のもので、ある意味でファッションだったのかもしれない。
流行のファッションがあっという間に終わっていくように、学生運動も団塊の世代が卒業すると塩が引くように終焉していったのだ。

ベルリンファイル

2024-08-27 07:06:45 | 映画
「ベルリンファイル」 2013年 韓国


監督 リュ・スンワン
出演 ハ・ジョンウ ハン・ソッキュ リュ・スンボム
   チョン・ジヒョン イ・ギョンヨン チェ・ムソン
   クァク・ドウォン キム・ソヒョン ミョン・ゲナム

ストーリー
場所はドイツの首都ベルリン。
韓国情報院の敏腕エージェント、チョン・ジンスは、高級ホテルの一室で行われている武器取引の密談を隠しカメラで監視中、ロシア人ブローカーを介してアラブ系組織の幹部に新型ミサイルを売りつけようとしている北朝鮮の秘密工作員に目を留める。
その男、ピョ・ジョンソンは、CIAやMI6のリストにも記録がない“ゴースト”と呼ぶべき謎の人物だった。
ジンスは取引成立のタイミングを狙い部下たちに現場への強行突入の指令を下すが、イスラエルの情報機関モサドの横やりによって銃撃戦が勃発、ジンスはジョンソンを取り逃がしてしまう。
一方、北朝鮮で英雄と崇められるほど数多くの勲功を立ててきたジョンソンは、韓国側への情報漏洩に不安を抱き、内通者の存在を疑い始める。
そんな中、在ベルリン北朝鮮大使館のリ・ハクス大使は、平壌から派遣されてきた保安観察員トン・ミョンスから、大使館に勤める通訳官でジョンソンの妻リョン・ジョンヒが二重スパイだという情報を入手する。
上司であるハクスから妻の調査を命じられたジョンソンは、ショックを受けながらも彼女への監視と尾行を開始。
数年前に初めて授かった子供を亡くして以来、ジョンヒと感情がすれ違っているジョンソンは、彼女がアメリカに亡命するのではないかという疑念を強めていく。
その頃、旧知のCIA局員から連絡を受けたジンスも「北朝鮮の何者かが国連を通じて亡命を要請した」との情報をキャッチしていた。
だがアメリカ大使館近くの広場に姿を現した北の亡命志願者は、意外にもハクスだった。
韓国情報院の張り込みを察知して地下鉄構内に逃げ込んだハクスは、そこに駆けつけたジョンソンとミョンスによって拘束された。


寸評
これはボーン・シリーズの韓国版だなというのが第一印象。
最初から最後までアクションが迫力満点で、銃撃戦はもちろん、地下鉄線内や屋根の上での逃走劇や、素手での格闘など、どれもスピーディでアクション・シーンがこれでもかと繰り返される。
それはまるでハリウッド映画のようであり、日本映画には見られないカットの連続だ。
日本映画におけるこの手の作品は、金大中事件を扱った「KT」のようなものになるのだろうと推測される。
もっとも、これが日本映画だとあまりにも荒唐無稽でシラケてしまうかもしれないが、背景が北朝鮮と韓国の争いなだけに、なんとなく現実味が有る。
武器輸出にからんで、アラブ組織やロシアの政商、イスラエルのモサドなどが登場し、やがてCIAも登場してくる。
その人物関係が複雑に見えて少し戸惑うが、現実の日本社会においても貨物船の中から北朝鮮向けのミサイルが発見されて騒然となった事件があっただけに、なおさら現実味を感じてしまう。
そして、世界がこのような活動をやっているとしたら、日本の情報戦略はどうなっているのか心もとなく感じられた。

日本は北朝鮮と国交断絶状態にあるが、北朝鮮は各国と国交を持っているわけで、ましてや韓国とは長きにわたる休戦中とはいえ戦争継続中なのだから、描かれたようなことが現実として行われていても不思議ではない。
盗聴なんて朝飯前の行為であることは、CIAの盗聴問題の内部告発でも明らかなことだ。
そしてその舞台が、統一されたたとはいえ、ベルリンであることも説得性を持っている。
最初は分かりにくかった人間関係も、徐々に理解出来ていき、サスペンスとしての盛り上がりも見せてくる。
まったくもって間延びしないストーリー展開は唸らせるものが有る。
韓国内部の人事問題、北朝鮮の金正日体制から金正恩体制への切り替えの中での問題と腐敗などが描かれ、政治サスペンスとしての要素も盛り込まれている。
いやもうサービス精神旺盛である。

北朝鮮大使リ・ハクスから、大使の通訳でピョ・ジョンソンの妻のジョンヒが告げられる任務と、それを受け入れているかの如きピョ・ジョンソンの切なさ。
しかし、ジョンヒに二重スパイの疑惑があると告げられ苦悩するピョ・ジョンソンと、特殊任務についている夫婦の微妙な夫婦関係。
そして、やがて目覚めていく夫婦愛が物語を奥深く盛り上げていく。
このあたりの脚本は上手い。

物語は、軍の有力者の息子の保安監察員トン・ミョンスが登場してから急展開を見せ始めるが、このトン・ミョンスを演じたリュ・スンボムが得意なキャラで、裏の世界の異常性を際立たせていた。
反面、韓国側の諜報員であるチョン・ジンスを演じたハン・ソッキョは見るからにいい奴そうで、北に対抗する南の凄腕という感じがしなかった。
これは狙いだったのかもしれないが、スパイ・サスペンスとしての興味を押し下げていたかもしれない。
韓国版ボーン・シリーズと思わせるのはラストシーン。面白い。
特に、ボーン・シリーズを面白いと感じている人にはお勧めできる作品だ。

彼らが本気で編むときは、

2024-08-26 06:58:34 | 映画
「彼らが本気で編むときは、」 2017年 日本


監督 荻上直子
出演 生田斗真 柿原りんか ミムラ 込江海翔 門脇麦
   柏原収史 品川徹 江口のりこ 高橋楓翔 小池栄子
   りりィ 田中美佐子 桐谷健太

ストーリー
小学5年生の少女・トモ(柿原りんか)は母・ヒロミ(ミムラ)と貧しい母子家庭で暮らしていた。
ヒロミはろくに家事をしないのでアパートの部屋はいつも散らかしっぱなしで、トモは毎日コンビニのおにぎりを一人寂しく食べる日々を過ごしていた。
そんなある日、ヒロミは突然男を追って蒸発、取り残されたトモは叔父のマキオ(桐谷健太)が経営する書店に駆け込んだ。
現在、マキオはトランスジェンダーの介護士・リンコ(生田斗真)と同棲しており、最初のうちはリンコに馴染めなかったトモも次第にリンコの優しさに触れていった。
トモはリンコが作ってくれた美味しい料理に舌鼓を打ち、今まで一度も味わったことのない“家族団らん”を初めて体感していた。
ある朝、学校を休んだトモが目を覚ますとリンコとマキオは出勤しており、机にはトモの朝食と昼食の弁当が用意されており、部屋の中には何やら用途不明の毛糸の編み物が置かれていた。
公園で弁当の蓋を開けてみると、それは生れて初めてのキャラ弁だった。
荷物を取りに自宅へ戻ったトモのところに、近所に住む同級生・カイ(込江海翔)が現れた。
トモはカイが学校中でゲイの疑いをかけられるようになってからは距離を置いていた。
その後、トモは時間の経った弁当を無理やり食べてお腹を下し、それを知ったリンコは謝罪の意も込めてトモを抱きしめようとしたが拒否されてしまった。
帰宅したトモの元に、リンコの母・フミコ(田中美佐子)が再婚相手のヨシオ(柏原収史)を連れてやってきた。
ある日、トモがリンコとスーパーに行くと、そこではカイが母・ナオミ(小池栄子)と一緒に買い物をしていた。
リンコを変質者扱いするナオミにキレたトモは売り物の洗剤を彼女にブチまけ、警察沙汰となった。


寸評
トランスジェンダーと家族の在り方を静かに語りかけてくる、これまで撮ってきた癒し系ではないが荻上監督らしい作品だ。
性転換手術をしていることを除けば、リンコは介護士としてごく働く普通の女性だ。
彼女は心の整理もついているので、偏見や差別にも耐えることが出来る。
リンコと対比的に描かれるのがトモと親しかったカイだ。
カイは自分の意識は女性であることを言い出せないでいる。
柔道着を斬ることや水着姿になることを嫌っているが、親を含めた周りの大人たちはその事に気づかないでいる。

それぞれの親も対照的に描かれる。
カイの母親である小池栄子はリンコを差別的に見ていて、カイの変化にも無知である。
カイの変化に罪深いとさえ告げる。
自死しようとした子供に対する言葉だから、彼女は間違った愛情を注いできた母親と言える。
児童相談所に密告したのも彼女らしいことが匂わされる。
自分の差別意識を自覚しておらず、逆にいい人ぶって自己陶酔しているような所がある人だ。
自分は正しいと信じている厄介な人の代表者である。
一方の凛子の母親である田中美佐子はリンコの良き理解者だ。
子供として愛しており、リンコを苦しめたら承知しないとトモに脅しをかけている。
息子の変化を受け止め、今では娘として接している。
ズケズケとトモにも語り掛けるが悪意はなく憎めない人だ。

トモはリンコとの生活に馴染めなかったが、やがて疑似親子として心を通わせるようになる。
実の母親から愛情を注いでもらっていなかったトモは家族の一員となっていく。
それでもやはり実の親の方がいいのだ。
リンコにとっては辛い現実を突きつけられたことになる。
最後でトモはリンコが編んだ毛糸の“おっぱい”に触れる。
リンコの母がリンコの為に編んだ“おっぱい”の代わりであり、トモが触れたリンコの“おっぱい”の代わりでもある。
その感触は愛にあふれた母親からの贈り物だったのだ。
トランスジェンダーに対する差別を声高に叫ぶことはなく、受け入れてもらったリンコと理解されないカイ、受け入れたリンコの母と受け入れられないカイの母、煩悩を燃やしたマキオの母とこれから燃やそうとしているリンコ、相対する二人を描きながら静かな筆致でそれぞれの家族を描いていたのは荻上直子らしい演出であった。
トランスジェンダーに対する無理解を訴える唯一とも言えるエピソードが、リンコの入院時の対応である。
トモは悔しさと怒りをかみ殺して必死で編み物をする。
病院の対応は、やはりおかしいと思う。
気になるのはカイのその後である。
あの母親はカイを理解できるとは思えず、カイは結局家を出て行かざるを得ないのではないかと思う。
家族の形はそれぞれだが、子育ては難しいものだとも思わされた。

渇水

2024-08-25 08:10:17 | 映画
「渇水」 2022年 日本


監督 高橋正弥
出演 生田斗真 門脇麦 磯村勇斗 山崎七海 柚穂
   宮藤官九郎 宮世琉弥 吉澤健 池田成志 篠原篤
   柴田理恵 森下能幸 田中要次 大鶴義丹 尾野真千子

ストーリー
雨が降らない日照りの日が続き、ついには県に給水制限が発令された。
市民プールにも水が入らない空のプールになってしまい、幼い姉妹ががっかりしていた。
水道課の停水執行を担当している岩切と後輩の木田は、水道料金が滞っている家庭に出向いていき、料金を払うように促した。
一軒目は無職の伏見宅だったが、どうやらエアコンがついている所を見ると電気代は払っているようだ。
岩切はそのことを理由に水道料金を払うよう説得したが、水はタダでいいと開き直られる。
次に向かったのはシングルマザーの小出有希宅で、有希はスマホ代は払っているようだった。
同じく水道料金を払うよう説得したが、スマホは商売道具なのでと言い訳され水道料金を払おうとしない。
停水執行に踏み切ろうとした岩切だったが、そこに先程の姉妹が帰宅し、結局、停水執行を踏みとどまった。
岩切には妻と二人の娘がいたが、現在は別居中だった。
翌日もまた停水執行の仕事が続いた。
有希はお金を姉の恵子に手渡し仕事に向かい、そこに岩切たちが訪問してきた。
恵子は先程もらったお金と持っていたありったけのお金を出して水道料金を払おうとした。
しかし岩切はお金を受け取らず姉妹に水を溜められるだけ溜めるよう指示、木田にもそれを手伝うよう伝え、停水執行を決めた。
水を止める所を見たいという恵子たちの希望に応えた岩切は、書類を有希が帰ったら渡すよう恵子に伝えると帰っていった。
雨は一向に降る気配もなく、恵子の持っていたお金も底をつき、恵子はスーパーで万引きをしたり、公園の水を汲んできたりしなければならなくなる。
岩切は自分に似てきた息子の崇との向き合い方に悩んでいた。


寸評
電気、ガス、水道といったインフラを止められている家庭を見たことがなく、僕には多分極貧家庭なのだろうというイメージだけがある。
この映画で水道料金を滞納している人々が描かれているが、彼らは僕のイメージとは違ってそうは見えない。
払おうと思えば払えるように思えるのだが、生活費に困窮すれば水道料金の未払いが手っ取り早いのだろう。
滞納者に水は天から恵まれたものとの思いもあるのかもしれないし、電気やガスと違って生死に直結する水を止めにくい事情もあるのかもしれない。
門脇麦は水道料金は滞納していてもスマホの料金は払っていそうなのだが、それは金をせしめることが出来る男を探すためにはスマホが必要だからだ。
彼女の中では支払いに対する優先順位が出来ているということだろう。
払わない人に説明を施し水道を止める担当者が生田斗真の岩切で、磯村勇斗の木田とコンビを組んでいる。
水道局には必要な仕事であることは理解できるが、担当するには嫌な部署であることも理解できる。
会社勤めをしていた頃、社内にもクレーム対応をする者がいたが、あまり評価されていない営業マンが兼任していてブラックな仕事のイメージが定着していた。
ストレスをため込む彼を伴ってある施設に同行したことがあったが、精神的にきつい業務であることを知らされた。
岩切はそんな仕事を淡々とこなしている。
同僚から仕事内容に疑問を持たないかと聞かれても「別に・・・」と気のない返事をするだけで、滞納者から責められても「規則ですから・・・」と事務的に返答する。
そうでなければやれない仕事でもあると思うが、回りの人から見れば冷たい人に見えるだろう。

岩切は自身の幼少からの親子関係が尾を引いて、家庭生活を上手く作れず別居を余儀なくされている。
そんな私生活も影響して仕事中の岩切は無表情なことが多く感情を表さない。
しかし恵子と久美子姉妹に対した時の彼は普段とは違う姿を見せる。
小出家に停水執行を行うが、その前にあるったけの水を確保させる。
アイスキャンデーを買って来て4人で食べる場面があるが、辛い話が続く中でほんの少しの幸せな時間を感じさせるいいシーンになっている。
しかし姉妹に救いの手が差しのべられるわけではなく、彼女たちは夜間に公園の水を汲み、万引きを繰り返すことになる。
やがて岩切は小さなテロ行為を起こし諭旨退職となり、恵子と久美子の姉妹は施設で保護されるようだ。
水道料金の滞納世帯を回って給水停止を執行していく水道局職員の話で希望を感じさせない。
雨が降らず給水制限が厳しくなっていくが、それでも命の水はどこかにあり滝からはあふれんばかりの水が流れ落ちている。
その水を享受できる人がいる中で給水停止をされる人がいる。
社会的弱者は救われることはないのか。
小出有希は育児放棄の母親とも思えず、健気に生きる姉妹を見ているとそう思う。
原作では姉妹は自殺を試みるそうだが、そうならまったく救いのない映画になってしまう。
幸せ感のない地味な作品だが、最後に岩切が見せる微妙な表情にわずかな希望を感じさせる。

伊豆の踊子

2024-08-24 10:50:15 | 映画
「伊豆の踊子」 1963年 日本

 
監督 西河克己
出演 高橋英樹 吉永小百合 大坂志郎 堀恭子
   浪花千栄子 茂手木かすみ 十朱幸代
   南田洋子 深見泰三 郷えい治 小峰千代子
   井上昭文 安田千永子 桂小金治 土方弘
   宇野重吉 浜田光夫

ストーリー
舞台は昭和初期の東京、大学教授の川崎は教え子の男子学生から結婚の仲人を頼まれた。
相手の少女がダンサーだと知り、彼の脳裏に40年前の淡い恋が蘇った。
当時20歳だった川崎は、高等学校の制帽を被り、高下駄を履いて、1人伊豆を旅していた。
九十九折の山かどを曲がった拍子に旅芸人の一行に出くわし、川崎は湯ケ野まで一緒に行くことにした。
大島から来たという一行は、中年女性お芳が中心となって旅を続けていた。
お芳の娘千代子、その夫栄吉、栄吉の妹薫と、もう1人大島で雇った少女の5人組だった。
湯ケ野に到着した川崎は薫達とは別の宿を取り、風呂で出会った男性と碁を打っていると賑やかな音楽が聞こえてきたので外を見ると、向かい側の座敷で薫達が芸を披露していた。
翌日、薫は近所の子ども達と遊んでいる最中、みすぼらしい家で横になっている女性を見つけた。
彼女は酌婦のお清といい、仕事が原因で病に冒され、幾ばくもない命だった。
その夜、川崎は仕事を終えた薫達を、自分の部屋へ招いた。
碁盤を見つけた薫は目を輝かせ、さっさと風呂を済ませて五目並べをせがんだ。
風呂上りのお芳達から、明日下田へ発つつもりだと聞いた川崎は同行を願い出た。
しかし翌日になって薫達に急な仕事が入ったため、予定を1日ずらすことになった。
栄吉と散歩に出た川崎は、明後日が彼の子どもの四十九日だと聞いた。
栄吉は薫にだけはこんな生活をさせたくなかったと呟く。
その夜、薫から活動写真に連れて行って欲しいとせがまれた川崎は、快く承諾した。
その頃、お清は人知れず死亡していた。
薫達は下田に2、3日滞在した後、船で大島に渡る予定だったが、薫は川崎も一緒に大島へ行くものだと思い込んでいた。


寸評
「伊豆の踊子」は度々映画化されており、主人公の薫は時の人気スターが演じてきた。
松竹では田中絹代、美空ひばり、鰐淵晴子を起用して3作品が撮られ、続いて日活で撮られた4作目が本作で、その後に東宝から内藤洋子、山口百恵で2度映画化されている。
僕は本作しか見ていないのだが、原作者の川端康成は吉永小百合の薫を随分気に入っていたようだ。
冒頭とラストはモノクロで、40年後の川崎(宇野重吉)が過去の出来事を思い起こす形をとっているのだが、モノローグとしては気の利いたものとなっている。
教授の川崎に学生が仲人を頼みに来るのだが結婚相手はダンサーで、40年前の自分と踊り子に重ね合わせるというもので、演じているのがゴールデンコンビの浜田光夫と吉永小百合である。
吉永小百合は薫との二役だがアップにはならず、ゴールデンコンビの雰囲気だけをまき散らしている。
吉永小百合は1959年に松竹映画「朝を呼ぶ口笛」で映画デビューしたのだが、1962年に代表作である「キューポラのある街」を撮り、1963年には橋幸夫とデュエットした「いつでも夢」でレコード大賞を受賞するなどして人気絶頂で、多くのサユリストを生み出していた。
薫は14歳の子供だが見た目は17~18という設定で、吉永小百合の実年齢とドンピシャのため、踊子の恥じらい、天真爛漫な幼さ、花のような笑顔がリアリティをもって描かれている。
共同風呂から素っ裸で飛び出して手を振る場面がその象徴的シーンとなっている。
この作品における彼女のキャスティングには文句のつけようがない

旅芸人は差別の対象で、茶屋の婆さんが、「彼らはどこにでも泊まる」と売春をほのめかしたり、宿の女将さんも、「あんな者にご飯を出すのは勿体無い」と毒づき、また道中で通りかかった村の入り口には、「物乞い旅芸人村に入るべからず」という立札があったりで、旅芸人は芸を披露するのが主であるが、売春も行なっていたことでそのような差別を受けていたのだろう。
旅芸人たちは売春を行っていないが、代わりに南田洋子や十朱幸代など売春を行う酌婦が登場している。
反するように、主人公の川崎や旅芸人たちは「いい人」たちである。
率いている浪花千恵子もイジワル婆さんかと思いきや、案外と物わかりの良いオバサンだし、義理の息子である大坂志郎などは好人物の典型だ。
もっとも大坂志郎は薫と兄弟と言うには歳を取っており、僕は当初、浪花千恵子と夫婦かと思った(大坂志郎はミスキャストではないか)。
いい人たちの話なので安心して見ることが出来る。

川端康成が持っていた孤児根性を川崎に投影させていたと思われるが、映画の高橋英樹からはそのような暗い部分は感じ取れない。
また、薫と別れる港で老婆の送り届けを頼まれるシーンや、その後の船中のシーンも描かれていない。
川崎はどうして一人旅を続けているのか、川崎はどれほどのお金を持っているのかなどの疑問は残る描き方だ。
したがって、お金が底をついたから東京に帰ることにはなっていない。
あくまでも本作は青春の淡い恋物語として描かれている。
当時の吉永小百合にはそれだけでいいではないかと言う雰囲気があった。

生きる LIVING

2024-08-23 06:33:19 | 映画
「生きる LIVING」 2022年 イギリス / 日本


監督 オリヴァー・ハーマナス
出演 ビル・ナイ エイミー・ルー・ウッド
   アレックス・シャープ トム・バーク
   エイドリアン・ローリンズ ヒューバート・バートン
   オリヴァー・クリス マイケル・コクラン

ストーリー
ピーターが勤務する市民課の上司である課長のロドニーは山積みとなっている書類を感情なく淡々と処理し、勤務時間が終われば淡々と帰るだけの日々を過ごしていた。
役所は事なかれ主義が蔓延しており、毎日のように市民から陳情が寄せられるものの結局は聞き入れてもらえないことが日常茶飯事となっていた。
市の女性たちが陳情した、大戦の影響で荒れ果てた空き地を公園として整備してほしいという要望書は各課にたらい回しとなった後にロドニーの元にきたが、彼に読まれることなく机の書類の山に重ねられた。
一度も欠勤も遅刻もしたことのないロドニーだったが、この日は珍しく早退して病院に向かったところ、担当医から末期癌に侵されており、余命は半年、長くて9ヶ月という告知を受けた。
帰宅したロドニーは、同居している息子のマイケルとその妻フィオナにこのことを打ち明けようとしたが、マイケル夫妻はロドニーの話を聞いてはくれなかった。
余命宣告の翌日からロドニーは職場に姿を見せなくなった。
その頃、ロドニーは貯金をはたいて海辺のリゾート地に向かい、そこで大量に購入した致死量の睡眠薬を飲んで自殺しようとしたが果たせず、現地で出会った不眠症に悩むサザーランドに自分の睡眠薬を渡した。
ロドニーは、自分は人生を謳歌することができなかったと打ち明け、サザーランドなら人生の楽しみ方を知っているのではないかと問いかけた。
サザーランドはロドニーを夜のダンスホールや遊技場、パブに連れ回した。
ロドニーは職場復帰すると公園整備事業を生涯最期の仕事として本格的に乗り出した。
数ヶ月後、ロドニーは完成した公園でひっそりと息を引き取っていた。
この公園を作ったのはロドニーの功績であることを公にされず、それどころか役所側やジェームズ卿が手柄を自分たちのものにしようとした。


寸評
黒澤明の「生きる」のリメイク作品なので、内容はおおよそオリジナル作品を踏襲している。
「生きる」を見ている僕は、意識せずともオリジナル作品と比較してしまっている。
先ずは、こちらがカラー作品であることで、1953年という時代設定のロンドンの雰囲気がいい。
冒頭の情景が素直に映画に誘ってくれる。
主人公のロドニーが自分で紳士になりたかったといっているのだが、まさにうらぶれた感じはしないイギリス紳士という雰囲気で、           志村喬の渡辺との違いを感じさせる。
そのこともあって、黒澤明の「生きる」にあった鬼気迫るような雰囲気はなくて、随分と落ち着いたしんみりした仕上がりになっている。
ロドニーが涙を流すようなシーンもない。
癌の告知に関するエピソードなど割愛されたところもあって、本作はオリジナルに比べて40分も短い。
現在は癌告知も本人に正しく伝えて治療の選択を医師と患者が話し合うようになっているから、このエピソードは不要であるとの判断は正しかったと思う。
コンパクトにまとめられているが役所批判の切り口は弱まっているように思われる。
イギリスの役所に対する市民感情は日本の役所に対するものと違っているのかもしれない。
やるぞと気勢を上げても、結局は元の木阿弥になってしまうという皮肉は、黒澤版の方が強烈だったように思う。

オリジナルにないシーンとしてマーガレットと、ロドニーの息子マイケルが話し合う場面がある。
マイケルは癌であることを言ってくれていれば雪の中で死なせるようなことはなかったと悔やむが、果たしてそうだっただろうか。
マイケルがボスと呼ぶ妻との関係を考えれば、息子夫婦はロドニーに手厚い看護をしただろうか。
早く逝ってくれればいいとの感情を表したのではないかと勘ぐってしまう。
カズオ・イシグロはどんな思いでこの場面を入れたのだろう。
疎遠だった親子関係に光を差し込みたかったのだろうか。
僕の感じ方は皮肉れ者のスネた見方なのだろうな。
テーマに反して、老後の生き方より、自分の最後が気になってきているのも正直な気持ちである。
もちろん両作に共通する問いかけは、人はどう生きるのかということだ。
僕は映画監督や俳優さん、あるいは小説家や画家などの芸術家や、いつまでも歌われる名曲を残した作曲家や歌手など、それぞれのジャンルで名前を残した人たちを羨ましいと思っていた時期がある。
今の僕はどうやらロドニーの境地に近づけたのではないかと思っている。
大抵の人は後世に名前を残すようなことは出来ないで一生を終える。
しかし、自分が納得できるような仕事、やり遂げたと言う満足感を持てるようなことは出来るはずだ。
それらのことは忘れられるかもしれないし、また時代と共に捨て去られるようなものかもしれないものであっても、自分の意識は変えることは出来ないし、自負の中にあるものが消え去ることはない。
僕は両「生きる」を見て、その事を再確認して余生を過ごしたいと思っている。
とは言え、だんだんとそんな場所と事がなくなってきているなと実感する今日この頃でもあるのだが。
絶望感すら感じる黒澤版に比べれば、少なからず光明を感じさせる本作の方が安らぎを得られた。

シング・ストリート 未来へのうた

2024-08-22 07:29:07 | 映画
「シング・ストリート 未来へのうた」 2015年 アイルランド / イギリス / アメリカ


監督 ジョン・カーニー
出演 フェルディア・ウォルシュ=ピーロ ルーシー・ボーイントン
   マリア・ドイル・ケネディ エイダン・ギレン
   ジャック・レイナー ケリー・ソーントン
   ベン・キャロラン マーク・マッケンナ ドン・ウィチャリー

ストーリー
1985年、アイルランドのダブリン。
大恐慌による不況の波は、高校生コナーの家にも押し寄せていた。
コナーは、今よりも学費の安いカトリック系高校への転校を余儀なくされる。
転校先となったシング・ストリート高校は、煙草や飲酒、いじめもはびこる劣悪な環境だった。
登校1日目にしてコナーは不良のバリーから目をつけられ、いやがらせを受けてしまう。
家では、毎日のように両親がいがみ合っていた。
そんなコナーの唯一の楽しみは、大学中退で今は引きこもりという兄ブレンダンと一緒に、音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」を見ることだった。
コナーに話しかけてきたのは赤毛の同級生ダーレンで、この学校で初めてできた友人だった。
その日、2人で一緒に校門を出ると、向かいの建物の前に1人の少女が立っていた。
コナーはたちまち彼女に一目ぼれし、勇気を出して話しかけると、名前はラフィーナで16才だと分かった。
なんとかしてラフィーナの気を引きたいコナーは、「僕のバンドのビデオに出ない?」と誘い、彼女の電話番号をゲットすることに成功した。
コナーはダーレンに「バンドを組むぞ!」と言い、2人はバンドのメンバー探しを開始する。
ギターには、ペットのウサギを何より愛しているエイモンで、どんな楽器も演奏できて曲も作れた。
キーボードには、「黒人がいるとカッコいい」という理由で選ばれたンギグ。
そして、メンバー募集のチラシを見て来たベースのギャリーとドラムのラリー。
バンド名は、学校の名前をもじった「シング・ストリート」に決定した。


寸評
英国はイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという4つのカントリーからなる連合型の国家で、僕が大好きなラグビーでは英国だけはワールドカップなどで別チームとして出場してくる。
本作の舞台はその内のアイルランドで、コナーの一家は父親が失業、母親は週3日のパートと収入は乏しい。
両親はそのために言い争いが絶えず最悪状態の家庭である。
不況の時代なのだろうが、アイルランドは首都ロンドンがあるイングランドとは違って経済規模が小さい地方と言う印象を受ける。
ヒロインのラフィーナはモデル志望でロンドンを目指しているから、さしずめ日本の地方都市から東京を目指す若者といった感じだ。
そのような環境が示されることによって、カトリックの修道会が運営するシング・ストリート高校に厳しい校則が残っていることに違和感を持たない。

兄のブレンダンは引きこもり生活なのだが、音楽にだけは造詣が深くコナーの理解者でもあり、アドバイスを与える良い兄貴だ。
このキャラクターと演じたジャック・レイナーがなかなかいい味を出していて、僕には作品中で一番魅力的だった。
母親と同じように一人で日光浴する姿が彼の孤独感を表している。
それでも、二人をボートで送り出した後で見せる歓喜の姿は彼にも未来があることを予感させた。
母一人子一人で育った僕に、男兄弟っていいのかもと思わせた。
二人の関係はよく分かったのだけれど、家族関係の中でコナーの姉の存在だけは薄かった。
あまり必要のないキャラクターに思える。

シング・ストリート高校の校長は明らかに観客の批判対象者である。
作品はコナーたちバンドの青春物語であると同時に、古い因習に立ち向かう若者たちの抗議映画でもある。
中学生の頃迄はこのような先生もいたように思うし、父兄に気遣って弱腰に思える今の先生に校長のような態度があってもいいのではないかと思うことも有るが、それにしても校長はやり過ぎだ。
ラフィーナの住居は児童施設だと分かるが、生い立ちの悲惨さや貧しさの悲哀は作品を通じてあまり伝わってこず、兄のブレンダンが「愛のない親のもとで俺はずっと1人だった。末っ子のお前は、俺が切り開いた道を歩いてきたのだ。それなのに俺だけが落ちこぼれの笑いものだ!」と、たまっていたものを吐き出す場面が、唯一彼の鬱積した気持ちをぶつけた場面となっている。
ライブ演奏で校長の面をかぶって抗議するシーンも若者の反抗としては盛り上がりに欠けている。
それを訴えるなら違った演出方法があったのではないか?
音楽映画としてはコナーが理想を夢見て演奏するシーンが一番であった。
ラストでコナーがラフィーナと小島へピクニックに出かけた時にみた客船が再び登場する。
イギリス本土へ向かう大型客船の後をボートでついていく姿は未来への希望を表していたと思うのだが、彼らの前途は厳しいだろうと思わずにはいられない。
その後シング・ストリート高校での高圧的な教育がなくなったとのテロップが表示されるが、それはこの作品の中途半端さを助長するものとなっていたような気がする。

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

2024-08-21 07:04:25 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2020/2/21は「フィールド・オブ・ドリームス」で、以下「フィギュアなあなた」「フィラデルフィア」「42 ~世界を変えた男~」「フォーン・ブース」「フォレスト・ガンプ/一期一会」「ふがいない僕は空を見た」「武士道残酷物語」「淵に立つ」と続きました。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」 2015年 アメリカ


監督 ジェイ・ローチ
出演 ブライアン・クランストン アドウェール・アキノエ=アグバエ
   ルイス・C・K デヴィッド・ジェームズ・エリオット
   エル・ファニング ジョン・グッドマン ダイアン・レイン
   マイケル・スタールバーグ アラン・テュディック

ストーリー
第二次世界大戦が終結し、米ソ冷戦体制が始まるとともに、アメリカでは赤狩りが猛威をふるう。
共産主義的思想は徹底的に排除され、その糾弾の矛先はハリウッドにも向けられる。
ダルトン・トランボはアメリカ共産党員として積極的に活動していることから、コラムニストのヘッダ・ホッパーや俳優のジョン・ウェインなどのエンターテイメント業界における強硬な反ソ連の人物から軽蔑されている。
トランボは、ハリウッド映画における共産主義のプロパガンダに関して下院非米活動委員会(HUAC)で証言するよう召喚された10人の脚本家のうちの1人となった。
トランボたちの行動を支持するトランボの友人で俳優のエドワード・G・ロビンソンは、彼らの弁護士費用調達のためにゴッホの絵画を売却して手助けした。
しかし、リベラル派の判事二人が予期せぬ死去をしたことで、トランボの上訴する計画は叶わぬこととなり、1950年議会侮辱罪で収監されて最愛の家族とも離ればなれとなってしまう。
1年後、ようやく出所したトランボだったが、「ハリウッド・ブラックリスト」の対象が拡大し、トランボとその仲間たちは彼らとの繋がりを否認するロビンソンとプロデューサーのバディ・ロスによって見捨てられる。
彼は友人のイアン・マクレラン・ハンターに『ローマの休日』の脚本を渡し、ハンターが脚本の名義と報酬の一部を得るという手段をとる。
のどかな湖畔の家を売り、都会の家に引っ越した彼は、低予算のキング・ブラザーズ・プロダクションでペンネームを使った上で脚本家として働き、ブラックリストに載っている仲間の作家たちにB級映画の脚本執筆の仕事を回してやる。
彼が妻のクレオと10代の子供たちに仕事を手伝わせたことで家庭内不和が大きくなった。


寸評
僕はダルトン・トランボが係わった作品として「ローマの休日」、「ガンヒルの決斗」、「スパルタカス」、「栄光への脱出」、「いそしぎ」、「フィクサー」、「パピヨン」、監督作品として「ジョニーは戦場へ行った」を見ている。
半数にも満たないのだが、それらを見たころは主演が誰かと言うことが興味の第一であって、かろうじて監督が気になったこともあったぐらいで、洋画における脚本家を気にとめていなかった。
後年になって「ローマの休日」のゴーストライターがダルトン・トランボであった事を知った。
そして本作によって「スパルタカス」や「栄光への脱出」に、あのようなエピソードがあったのかと知識を得た。
「スパルタカス」のカーク・ダグラスがカッコいいところを独り占めしているのだが、演じた ディーン・オゴーマンの風貌は本物のカーク・ダグラスに似ていたなあ。
オットー・プレミンジャーが、いい場面ばかりだと映画はかえってつまらないと言うトランボに、「いい場面ばかりを書け、後は私がメリハリをつける」と語る場面も面白く思えた。

この映画におけるダルトン・トランボは迫害に屈することなく己の信念を貫いたヒーローとしては描かれていない。
カッコいいところはカーク・ダグラスに任せていて、彼自身は仕事に追われて家庭崩壊を起こしかねないダメ親父の側面を見せている。
彼を支えているのは寡黙な妻のクレオで、演じたダイアン・レインがなかなかいい雰囲気を出していて、寡黙だった彼女が唯一大声を上げる場面が活きている。
ダルトン・トランボが自分の作品を妻のクレオや娘のニコラと劇場で見ているシーンが何回か出てくるが、大変な環境下にあって幸せな時間であったろうと思わせる。
本当にそのような時間が彼らにあったのなら、少しは良かったかなと感じさせた。
刑務所で裏切り者のニュースを見た凶悪犯が「あんなチクリはここなら死体で出ていく」と言うのも面白いセリフで、凶悪犯によって裏切りにあった者たちの気持ちを代弁させていたと思う。

冒頭近くで述べられる「アメリカの好物は金とセックスだ」というセリフを伏線にして、フランク・キングに字も読めない観客いわゆるブルーカラーを相手にしたようなキワモノ映画を提供するために、トランボはブラックリスト仲間の脚本家たちとシナリオを書きながらタフに食いつないでゆく。
共産主義者として干されているはずのトランボが食いつないで行けたのは、資本主義社会のアメリカであったからであることが皮肉めいていて面白い。
フランク・キングは反共映画団体の男がオフィスへやって来て、ジョン・ウェインやロナルド・レーガンの名を語りながらダルトン・トランボの起用をやめなければスタア俳優の出演をボイコットさせると言われるのだが、彼は手近にあったバットを振り回しながら「われわれの映画は所詮クズだから、俳優は素人でいい。どこかに書きたてようが、われわれの映画の観客は字が読めないから大丈夫だ」と怒鳴りつけて男を追い払う。
本作で最も痛快な場面で、高圧的なメジャーの威力には猛然と反骨をもってのぞむ彼に思わず拍手したくなる。
悪役となっているゴシップコラムニストのヘッダ・ホッパーも、実は背後に若き日からの積年のスタジオ・システムへの怨念があるらしいことが匂わされているから、メジャーに反感を持っていた人たちもいたという事だろう。
ニュース映像を挟みながら伝記映画としてのリアリティを出しているが、映画関係者の伝記映画なので映画の一ファンとして楽しめる作品となっていた。

百花

2024-08-20 07:56:23 | 映画
「百花」 2022年 日本


監督 川村元気
出演 菅田将暉 原田美枝子 長澤まさみ
   北村有起哉 岡山天音 河合優実
   長塚圭史 板谷由夏 神野三鈴 永瀬正敏

ストーリー
レコード会社に勤務する葛西泉(菅田将暉)は、ピアノ教室を開き女手一つで自分を育ててくれた母・百合子(原田美枝子)との間に、子どもの頃のある出来事が原因で深い溝が生まれてしまい、今もその溝を埋められずにいた。
そんなある日、一人暮らしをしている母の認知症が判明する。
スーパーでは同じ商品を何度も買い物かごに入れ、挙句の果てには“浅葉さん!”と叫んで未精算の買い物かごを持ったまま見ず知らずの男を追いかけて万引きと疑われる始末である。
行方不明になることも度々生じて、泉はついに母親を施設に入れる決心をする。
妊娠中の妻の香織(長澤まさみ)と施設を訪問しても二人が誰だか分からなくなってきた。
徐々に記憶を失っていく中で“半分の花火が見たい”と不可解な言葉を口にするようになる母の姿に戸惑いを隠せない泉だったが…。

寸評
認知症になった母親と息子の姿を描いているが、二人の間には微妙な確執が横たわっていることが一風変わった設定となっている。
「なんで忘れてんだよ、こっちは忘れられないんだよ」と泉が叫ぶシーンは胸に突き刺さってくるが、そう叫ぶ泉も忘れていることがある。
その事が判明した時はさすがに感動を呼ぶ。
その前に宍道湖での思い出があったことで感動が増幅されているのだが、伏線めいた過去の記憶に関する場面の挿入に巧みさを感じる。
一輪差しが多かった理由の見せ方、ビスケットの思い出の見せ方も上手いと思う。
反面、巧みさの中での説明不足感もあったようにも感じる。
百合子が友人から聞かされる日記の話も伏線の一つで、百合子の日記は泉にショックを与えたようなのだが、どのように伝わったのか不明である。
また泉の父親は泉が物心つかないうちに死亡したのか、あるいは離婚したのかも不明だ。
途中で登場する重要人物の永瀬正敏は死亡したのか、あるいは生存していたのかだし、災害によって百合子が子供への母性を呼び起こされて戻ったのかも不明だ。
色々想像できるから面白いのかもしれないが、微妙なフラストレーションが起きた。
私も母親との関係において上手くいっていたとは言い難いが、それでも母親を見捨てられないのが親子関係でもある。
半ば義務感、半ば愛情と感謝で母親と接している泉の姿は私の投影でもあったような気がする。

ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ

2024-08-19 06:44:30 | 映画
「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」 2023年 アメリカ


監督 アレクサンダー・ペイン
出演 ポール・ジアマッティ / ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ
   ドミニク・セッサ / キャリー・プレストン
   ブレイディ・ヘプナー / イアン・ドリー
   ジム・カプラン / ジリアン・ヴィグマン / テイト・ドノヴァン

ストーリー
舞台は1970年、雪の積もるボストン近郊の全寮制男子校。
クリスマス休暇を前にした最終日、親たちが子供を迎えに来るなか、5人の「訳あり」学生たちが、置いてけぼりをくらう。
やがてその内の4人が寮から出ていくことが出来て、母親が再婚したばかりのアンガス(ドミニク・セッサ)だけが帰る場所を失い、冬休み中、学校に残る羽目になった。
彼の見張り役を任されたのは、生徒にも教師にも疎まれている、気難し屋の教師ハナム(ポール・ジアマッティ)。
そんなでこぼこコンビに、息子をベトナム戦争で亡くしたばかりの料理長メアリー(ダバイン・ジョイ・ランドルフ)が加わり、3人の奇妙な休暇が始まるなか、お互いの秘密が明らかになっていく。


寸評
クリスマスを含む冬休み中、学校に残る生徒がいるので教師のポールがお目付け役を命じられる。
年末年始に出勤を命じられるサラリーマンの様なもので、誰でも逃れたい気持ちがある。
別の教師が担当するはずだったのだが、その教師は母親の病気をでっちあげて逃れてしまったためにハナムは校長から指名されたのだ。
この校長はかつてハナムの教え子だったが、今ではハナムの上司となっているといういびつな関係である。
ハナムはこの学校にしか居場所がないのでその関係に甘んじているが、なぜそうなのかが後半で明らかになる。
ポールは身体的欠陥があり、そのことで女性に対して臆病でずっと独身を通している。
親切にしてくれる事務員の女性もいるが、彼女の態度は観客にも勘違いを起こさせる。
でも誰でも思い当たることがありそうな関係で、このエピソードだけでなく、映画は大きなドラマではない日常の何気ない出来事を上手く散りばめている。

この学校に居場所を求めているのは料理長のメアリーも同様だ。
時代が1970年ということで、アメリカはベトナム戦争の真っただ中だ。
メアリーの息子はこの学校の優秀な生徒だったが、貧しい家庭の彼は退役後に大学進学の補助が得られることで出征し戦死してしまっている。
メアリーは息子との思い出が残るこの学校を去ることが出来ない。

髪を切らないとスキーに連れて行かないと言っていた父親が迎えに来る。
息子は「親父はやわだ」というが、親はどうしても子供を見放すことが出来ないのだ。
一緒に残っていた生徒たちが去ってしまい、アンガスは一人で残ることになる。
アンガスたちは口実を作ってボストンに向かう。
ここからの展開は感動を呼び起こす。
アンガスは父親が好きだったのだろう。
しかし、父親が最後に漏らす言葉が画面の雰囲気とは違って残酷だ。
短い言葉なのに、なるほどと思わせる上手い演出である。

男二人が素晴らしい演技を見せているが、メアリーのダヴァイン・ジョイ・ランドルフも存在感を示している。
ハマムが下す決断も泣かせるが、僕はメアリーが生まれてくるメアリーの妹の子供の為にお金を貯めるという言葉に泣けた。
息子を失った彼女は、妹の子供に夢を託すのだろう。
肉親はいいものだ。
ハマムとアンガスは疑似親子のような関係になっていたのだろう。
信頼関係を築く自信がないと言って生徒を見放す教師もいれば、ハマムのように存在しなかった信頼関係を築いて去っていく教師もいるのだ。
お互いに「頑張れよ」と言って別れるのがいい。

天国の駅

2024-08-18 06:43:53 | 映画
「天国の駅」 1984年 日本


監督 出目昌伸
出演 吉永小百合 津川雅彦 西田敏行 丹波哲郎
   三浦友和 中村嘉葎雄 真行寺君枝 白石加代子

ストーリー
昭和45年6月11日、東京小管拘置所内の処刑場で、一人の女がこの世に別れを告げ、天国への階段をのぼっていった。林葉かよ、47歳。
昭和30年春。結城つむぎの織女として、また美人としても評判のかよ(吉永小百合)は、まだ32歳の女盛りであった。
夫の栄三(中村嘉葎雄)は傷痍軍人で、下半身マヒの障害者だったのでかよに辛くあたった。
そんな彼女に目をつけて接近したのが巡査の橋本(三浦友和)だった。
満たされぬ日々に悶々とするかよと深い仲になるのに時間はかからなかった。
妻の浮気を知った栄三は狂ったように折檻し、思いあまったかよは夫を毒殺したが脳内出血による死亡として処理された。
栄三の死後、警察を辞めた橋本はかよの世話で東京の大学へ通わせてもらうようになった。
そんなある日、橋本は東京から幸子(真行寺君枝)という女を連れて帰って来た。
かよと幸子二人の女は、橋本に騙されていたことを知り手切れ金を渡して縁を切った。
同じ男に騙された妙な連帯意識で姉妹のように仲良くなった二人は、綿谷温泉郷にたどりつき、かよは土産物店を開き、幸子は芸者として、人生の再スタートを切った。
結城の事件以来、かよを追っていた五十沢刑事(丹波哲郎)がやって来て、かよのことを探り始めた。
そして、結城の頃から、かよに想いを寄せていた通称ターボという知的障害の一雄(西田敏行)も、いつのまにかこの地に住みついていた。
大和閣の主人・福見(津川雅彦)は、かよに惹かれ、何かと援助を申し出ていた。
ダニのような橋本が現われ、かよに金をせびりに来た時も、福見は手切れ金として200万円を渡して追い返した。
しかし、福見には精神病院に入院している妻・辰江(白石加代子)がいる。
そこで、ターボのかよに対する気持ちを利用して辰江を殺害させた。
邪魔者はいなくなった福見とかよは晴れて結婚し、幸子も芸者を辞めて大和閣に落ち着いた。
ところが、200万円を費い果たした橋本が再び舞い戻って来た。


寸評
夫が下半身マヒの傷痍軍人なため、かよは女ざかりの体に悶々としている。
そこに付け込んだのが、かねてより思いを寄せていた巡査の橋本で、二人は愛欲に溺れることになる。
橋本はゲスな男で、かよと肉体関係を持ち学費を出してもらっていながら、自分を気に入っている幸子といい仲になり金を貢がせている。
二股を続けていこうとしている自分勝手な男である。
肉体的欲望から若い男に溺れてしまう女を吉永小百合が演じ、女に救うダニのような男を三浦友和が演じている。
ドロドロとした内容からして、この二人はミスキャストである。
二人とも清廉、清純のイメージが強い俳優で、男と女のドロドロとした愛欲関係を表現するには適役とは思えない。
実際に二人が肉体的に溺れていく様はきれいすぎるし、もちろん吉永小百合のヌードシーンはなく、これが精一杯だろうと思われる描写にとどまっている。

橋本が幸子と深い仲になった経緯は描かれていないので想像するしかない。
仲良くなって結婚をちらつかせ金をせびっていたのだろうが、かよという女がいながら幸子を手玉に取る結婚詐欺師としての橋本のいやらしさは強調されずにいる。
かよは夫を毒殺する農薬を橋本から入手したようだが、二人が栄三殺害の相談をする場面がないので、愛欲に溺れすぎたために殺人を犯さねばならなくなってしまう女の性(さが)が感じ取れないものになってしまっている。
吉永小百合と三浦友和からは、男から好かれることで奈落の底へ堕ちていく女、女に救うダニのような男のイメージがどうも湧いてこない。

橋本はすでに逮捕されていて、取調室での会話が挿入されるけれども、それがサスペンス性を盛り上げているわけでもない。
彼の証言を嘘だと五十沢刑事が指摘するのも会話劇に終始している。
橋本がポスターを発見するくだりぐらいは有っても良かったように思う。
目だったのはターボの西田敏行で、少し頭の弱い彼は盲目的にかよを慕っている。
かよは自分のことを本当に愛してくれていたのはターボだと知って見せる雪の中での戯れは美しい。
かよが初めて見せる笑顔が雪景色とマッチしている。
吉永小百合の汚れ役が話題になったけれど、汚れ役には程遠い演出であった。

お母さんが一緒

2024-08-17 08:12:50 | 映画
「お母さんが一緒」 (2024) 日本


監督 橋口亮輔
出演 江口のりこ / 内田慈 / 古川琴音 / 青山フォール勝ち

ストーリー
親孝行のつもりで母親を温泉旅行に連れてきた三姉妹。
長女の弥生(江口のりこ)は美人姉妹と言われる妹たちにコンプレックスを抱き、次女の愛美(内田慈)は優等生の長女と比べられてきたことを心の底で恨んでいる。
そして三女の清美(古川琴音)は姉2人を冷めた目で見ていた。
そんな三姉妹は“母親のような人生を送りたくない”という思いを持っており、宿で母親への愚痴は徐々にエスカレート。
やがて互いを罵倒する修羅場に発展するが、清美がサプライズで呼んだ彼氏のタカヒロ(青山フォール勝ち)が現れたのを機に、事態は思わぬ方向へ向かう。


寸評
橋口亮輔もこのような喜劇を撮れるのかと感心する、ユーモアにあふれた作品だ。
三姉妹がそれぞれの存在感を示す罵詈雑言、口喧嘩がメインで、そのアンサンブルが素晴らしい。
タイトルが「お母さんと一緒」ではなく、「お母さんが一緒」となっているのが意味深である。
お母さんと一緒なら親孝行な姉妹の話になるのだろうが、お母さんが一緒だと母親に端を発して三姉妹の口喧嘩が起きる話になったのだと思う。

三姉妹は母親の誕生日祝いとして温泉に招待しているのだが、その母親は彼女たちの会話に出てくるだけで一度も登場しない。
三姉妹は“母親のような人生を送りたくない”という共通の思いを持っているのだが、それでも登場しない母親の影響をもろに受けていることが感じ取れるし、彼女たちにとって母親の存在は極めて大きいものなのだと感じさせる。
一回も登場しないことで、なおさらその思いを強くさせている。
一瞬、母親化と思わせるシーンが用意されているのも心憎い。

母親はネガティブな性格のようで、長女のプレゼントに素直に喜べない。
母親は40歳にして独身の長女に「こんなものを貰うより、はやく結婚して孫の顔を見せてほしい」と言ってしまう。
母親の好きな色のショールを必死で探してきたと思うのだが、多分母親はその気持ちを十分に分かっているのだが素直になれないのだ。
長女だからと特別扱いで厳しく接してきた母親にしてみれば、照れ臭いのか気持ちとは反対の態度に出てしまっているのだろう。
この関係は映画の世界だけでなく、現実社会でも目にする関係であり、僕にも似たような経験がある。
長女を演じた江口のりこの怪演が抜群だ。
敗けず劣らず、次女の内田慈(うちだ ちか)、三女の古川琴音(ふるかわ ことね)もそれぞれ性格の違う姉妹を存分に演じている。
三人が発する罵詈雑言、口喧嘩に思わず笑ってしまう。
僕は一人っ子なので兄弟姉妹に横たわる微妙な感情が分からないのだが、誇張はされているがありそうな感情だと思った。

言い争いだけが続く内容に癒し系として登場してくるのが、清美が結婚を考えているタカヒロである。
タカヒロは旅館の従業員から関係を聞かれ、「家族です」と答える。
常識人のタカヒロは全く異質なこの姉妹と義兄弟になろうとしているのだ。
それでも、さらに一ひねり用意しているのも笑わせる。
家族は切って切れない仲で良いものだと思わせ、ラストシーンがそのことを決定づけている。
三姉妹はあれほど嫌っていた母親のポジティブな発言を聞き、嬉々として母親の元へ駆けつけるのだ。
だから家族や親せきの悪口に他人が同調してはいけないのだ。
あっという間に元に戻るのも血縁なのだ。
僕には新たな橋口亮輔の発見であった。