おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

冬のライオン

2021-10-31 07:22:32 | 映画
「冬のライオン」 1968年 イギリス


監督 アンソニー・ハーヴェイ
出演 ピーター・オトゥール
   キャサリン・ヘプバーン
   アンソニー・ホプキンス
   ジョン・キャッスル
   ナイジェル・テリー
   ティモシー・ダルトン

ストーリー
1183年のクリスマスも近い日。
後継者問題で落着かぬ日々を送っているイギリス国王ヘンリー2 世は、忠臣マーシャルに命じ、例年のごとく一族である幽閉の身の王妃アキテーヌのエレナーをはじめ、長子リチャード、次男ジェフリー、末子ジョンを集めさせた。
それぞれの野望に燃えるこの4人に加えて今年は、フランス国王フィリップとその姉で、王の愛人であるアレースが加わっていた。
全員が集まるやいなや、ジョンを溺愛するヘンリーと、リチャードを嫡子であると主張するエレナーは口先の言葉にかくして互いの憎しみをぶつけあった。
また、ジェフリーとフィリップはこの葛藤を利用して、漁夫の利を狙うべく、ひかえていた。
そしてこの一族の有様に心悩ますアレースをよそに、王室一族の策謀はめまぐるしく変転。
リチャードに愛情を押し売りし、それを盾にアキテーヌの領地返還をヘンリーに迫るエレナー。
フィリップと組んで、王と王妃の排撃を計るジェフリーは、ジョンをも仲間に誘い込んでしまった。
この茶番劇に失望したアレースは、皆をはげしくののしるが、そんな言葉が、ますます内紛に油をそそぐことになってしまった。
問題解決の鍵を、フィリップとの同盟に求めたエレナーは、リチャードを彼の部屋に行かせた。
政治家としての術策にたけるフィリップは、先にやって来ていたジェフリーとジョンをカーテンの陰にかくし、リチャードの背徳を二人に示した。
傷心の王は冬の冷気につつまれた屋上に出て、孤独をかみしめ、やがて、3人の息子を地下牢に閉じ込めてしまった・・・・。


寸評
世界史に疎い僕はこの映画を封切時に何の予備知識もなく見たので、てっきりイギリス王室の後継者問題だと思い込んでいたのだが、再見するにあたって背景を調べると、むしろフランスの話だと理解した。
アキテーヌの領地返還とかが問題になっているが、見ている内にどうやらそれはエレナ―がかつて所有していた領地らしいことは分かった程度であった。
歴史物語はやはりその歴史を少しは勉強して置いた方が良いのかもしれない。
映画の舞台は当時フランスの西部に位置していたアキテーヌにあるシノン城である。
主人公はイギリス国王ヘンリー2 世のピーター・オトゥールと幽閉されている王妃エレナーのキャサリン・ヘップバーンである。
イングランド王ヘンリー2世のもとを辿ればアンジュー伯・ノルマンディー公アンリというフランスの地方領主。
エレナーはフランス全土の3分の1にも及ぶ広大なアキテーヌなどを有する女公で、フランス王ルイ七世と結婚し15年の結婚生活を送っていたが、信仰心強く学者的なルイ7世に対し、自由奔放な恋愛をする家系で育ったエレナーの間に陰りが見え始め、不貞を理由に結婚を無効とされてしまった。
そこに現れたのが、エレナーより11歳年下で18歳になるアンリで、エレナーはアンリと結婚したためにフランスの大半がアンリとエレナーに帰してしまった。
エレナ―のアキテーヌ国とアンリのアンジュー国が統合されて広大な領地を持ったアンリはイギリス国王ヘンリー2 世となる。
ヘンリー2世の王妃となったエレナーは10年間に5男3女をもうけたが、ヘンリー2世がロザムンドという名の若い女性を愛するようになったことで、子供たちを連れてイングランドを去り自分の領土であるアキテーヌに移り住み、フランス王ルイ7世をバックに息子たちとヘンリー2世に戦いを挑み、破れて幽閉されることになった。
映画は幽閉後の二人を描いている。
描かれた以後の王国を見ると、リチャードが王国を引継ぎ、その後をジョンが継ぎ王国はジョンの血統に引き継がれることになったが、ジョン自身は描かれていたように凡庸だったようで失地王と呼ばれ悪王として名高い。
エレナ―はヘンリー2世の死後に幽閉を解かれリチャードを支えて君臨し、エレナーの子孫はヨーロッパ中に根を張り、エレナ―はヨーロッパの祖母と呼ばれるようになり82歳という長寿を全うした。
こうした歴史的背景を理解していると更にこの映画を堪能することが出来るだろう。

それにしても二人の名優の共演は見応えがあるが、圧倒するのはキャサリン・ヘップバーンだ。
登場したとたんに不遇をかこっている王妃と分かる。
幽閉されている城の一室で絵を描いているところへ、使者から「クリスマスに家族が集まる」という知らせを告げられると、絵筆を止めて「どこで?」と聞き返す。
シノン城と聞いても動じず、その堂々とした振る舞いから、並の王妃ではない雰囲気がプンプンなのだ。
船に乗ってシノン城にやって来るシーンに惚れ惚れしてしまう。
家族がフィリップの部屋に集まってくる場面は盛り上がりを見せるが、それよりも老獪な二人が繰り広げる丁々発止のやり取りに引き込まれるものがある。
ラストシーンに僕は切なさと同時に感動を覚えた。
リチャードを演じているのがこれがデビュー作というあのハンニバル博士のアンソニー・ホプキンスである。

冬の華

2021-10-30 06:54:28 | 映画
「冬の華」 1978年 日本


監督 降旗康男
出演 高倉健 池上季実子 北大路欣也
   池部良 田中邦衛 藤田進
   三浦洋一 倍賞美津子 夏八木勲
   小池朝雄 寺田農 山本麟一
   峰岸徹 小林亜星 小林稔侍
   大滝秀治 小沢昭一 岡田眞澄

ストーリー
関東の東竜会幹部の加納秀次(高倉健)は、会長の坂田良吉(藤田進)を裏切り関西の暴力団に寝返った松岡(池部良)を殺害した。
しかし、殺された松岡には三歳になる洋子という一人娘があり、加納は洋子を舎弟の南幸吉(田中邦衛)に託して、旭川刑務所に服役した。
服役中、加納はブラジルにいる伯父といつわり、洋子と文通を続けその成長を見守る。
やがて、十五年の刑期を終え出所した加納は、洋子に加納の手紙を運ぶうち彼女の恋人となった竹田(三浦洋一)の案内で、洋子(池上季実子)の姿を見ることができた。
ある日、洋子の手紙によく書かれていた喫茶店で、加納は彼女と出会う。
加納がブラジルにいる伯父ではないかと思った洋子は、彼にそれを尋ねようとするが、加納はすばやく彼女の前から去り、店を出て行った。
組結成の話も断わり、堅気になろうと決心していた加納は、坂田から息子の道郎(北大路欣也)の相談相手になってくれと頼まれる。
加納と道郎が再会を喜び合ったのも束の間、坂田は関西の暴力団員に殺される。
その仇を討つため、道郎が関西連合の三枝(岡田眞澄)と東竜会を裏切った山辺(小池朝雄)を狙っていることを耳にした加納は、坂田から道郎を頼まれたこともあって苦悩する。
山辺殺害を決意した加納は、洋子へ電話をかけて当分日本には帰れないというのだった。
翌日、南に道郎が外に出れないように見張らせた加納は、山辺のもとへ向かう。
それは、再び会うことができないであろう洋子の幸福を願いつつ、十五年前の状況に戻ってしまう加納の宿命であった。


寸評
ヤクザ映画に「あしながおじさん」物語を加味し、クラシック音楽やシャガールの絵画を効果的に使っていて、東上を目指す関西の大暴力団と関東組織の抗争というありきたりな構図を一風変わた雰囲気に仕立て上げている。
タイトルが出る前に主人公の加納秀次が組を関西連合に吸収させようと画策していた兄弟分とも言える松岡を殺害するシーンが描かれる。
その時、松岡は「仕方がなかったんだ。お前と俺との仲じゃないか、見逃がしてくれねえか。ガキがいるんだ」と加納に言うのだが、加納は聞き入れず弟分の南が松岡の子供の相手をしているうちに刺殺する。
ヤクザのしがらみで、主人公が気持ちを通わせていた男を殺す場面は幾度となく描かれているが、「冬の華」における海辺のシーンは秀逸で印象に残る。

加納は15年の刑期を終えて出所してくる。
組員の迎はなく、住所を頼りにたどり着いたのは南が用意してくれたマンションで、最低限の物しかない殺風景な部屋である。
南は表向きの仕事として中古車販売をやっているが加納に心酔しているようである。
寺田農が演じている山本という男は山辺の所に預けられていて、加納に呼び戻して欲しいと言うが、加納は一家を構えているわけではないので聞きながす。
どちらも加納が刑務所に入る前からの深い付き合いのようなのだが、その関係はよくわからない。
しかし東竜会本家の面々は加納に心酔しているようで、会長の坂田が殺されてからも加納に一目置いている。
東竜会の幹部たちは関西に取り込まれている曲者ぞろいで、加納一派によって粛清されても良いような連中であるが、ターゲットは会長を裏切った山辺ひとりとなっている。
山辺は子供が慶応大学に合格したことを喜ぶ親バカぶりを途中で見せているが、これは上手い伏線の張り方だ。

一方の「あしながおじさん」として、加納は南に松岡の遺児である洋子の面倒を見させている。
まだ見ぬおじさんとして感謝されている加納だが、金銭を含めて実際の面倒を見ているのは南である。
南がどのような説明をして加納名義で洋子支援を行っていたのか分からないが、疑うこともなく洋子がおじさんからの支援を無邪気に受け入れているのが不思議に思える。
また加納の手紙を届けるうちに恋が芽生えたという竹田と洋子の関係は説明程度にとどまっている。
どちらも深く描いていないので、加納と洋子の物語は全体の中での添え物的ストーリーのように思える。

本筋は裏切った松岡を心ならずも殺すハメになった加納が、坂田会長から頼まれた道郎を復讐に向かわせないために再び裏切り者を殺害せざるを得なくなる宿命だったと思う。
ヤクザのしがらみによって、山辺の預かりとなっていた山本は山辺を守るために加納に襲い掛かり立花(夏八木勲)によって逆に殺される。
そして加納たちに取り囲まれた山辺は冒頭で松岡が言った内容とまったく同じことを言う。
しかも「ガキがいるんだ」まで同じなのだ。
山辺にそれを言わせる為に組み立てられた倉本聰の脚本だった。
降旗監督は三島由紀夫への思い入れがあったのか、北大路欣也の道郎はまるで盾の会の三島みたいだった。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

2021-10-29 09:13:08 | 映画
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」 2007年 日本


監督 吉田大八
出演 佐藤江梨子 佐津川愛美 山本浩司
   土佐信道 上田耕一 谷川昭一朗
   吉本菜穂子 湯澤幸一郎 ノゾエ征爾
   永作博美 永瀬正敏

ストーリー
両親の訃報を受け、音信不通だった長女・澄伽(佐藤江梨子)が東京からふらりと実家に戻ってくる。
女優になることを目指して上京していた澄伽は、自意識過剰な勘違い女。
自分が女優として認められないのは、家族の、特に妹・清深(佐津川愛美)の犯した消し難い行為のせいだと思い込んでいる。
それは四年前のことで、上京を父親の曽太郎(上田耕一)に反対された澄伽は、父をナイフで切りつけようとして、止めに入った兄・宍道(永瀬正敏)の額に消えない傷跡を作ってしまうなど、数々の痴態をやらかした。
その一部始終を、清深は漫画に描いて投稿。
それが新人賞受賞作としてホラー漫画雑誌に掲載されてしまったのだ。
まもなく東京の所属事務所をクビになった澄伽は、新進映画監督の小森哲生(土佐信道)と文通しながら、実は肉体関係を持っている宍道、彼の元に嫁いできた度を越したお人好しの兄嫁・待子(永作博美)、そして清深のいる実家でわがまま放題を始める。
やがて澄伽のもとに、次回作のヒロインとして起用したいという小森からの手紙が届き、澄伽は有頂天となる。
そのことで一家に平和が訪れるかと思いきや、澄伽は宍道と待子がセックスしているところを目撃し、嫉妬心から再び宍道に脅しをかけた。
家族の板挟みとなって絶望した宍道は、ある日、仕事場で不慮の死を遂げる。
やがて秋。密かに、再び姉をモデルにした漫画を描いていた清深は、ホラー漫画雑誌のグランプリを受賞。
東京で漫画家になると宣言し、さらに、小森の手紙はすべて自分が書いたものであることを姉に告げた。
逆上した澄伽は、故郷を去っていく清深に必死で喰らいつくのだった。


寸評
この映画を理解するためには、舞台となる和合家の家族構成を理解しなければならない。
兄の宍道は父の後妻の子で、澄伽と清深姉妹とは血がつながっていない。
宍道の妻である待子は捨て子として施設で育ったので天涯孤独の身で、ほかに行くところがない身の上である。
宍道は世間体があるから待子と結婚しただけで特に愛情があるわけではない。
血のつながっていない宍道と澄伽はかつて関係を持ったことがあるとういう複雑な関係。

澄伽は才能も仕事も無いくせに、「自分は他人と違う」と思い込んでいる自意識過剰女である。
主人公にサトエリをキャスティングしたのがこの映画の評価要因としては最大。
「演技が下手で、性格の悪い女優志望の女」って、まさにピッタリのイメージだ。
サトエリは普通の役は無理だろうが、こういうエキセントリックな役柄ならばだいぶ見られるようになっている。
でもまあ、キューティーハニーだけの役者のだろうけど、ここでは結構頑張っていた。
妹に自分が売れない原因はアンタの漫画だと言いがかりをつけて陰湿なイジメを繰り返す。
いくら妹に傷つけられたといっても、「ここまでやるか?」てなスサマジイ行為の連続で、こんな性悪女はいないと全ての観客に思わせる。
映画はどこかにリアリティを有していないと共感できない側面を持っていると思うのだが、この澄伽の自己中心的な発言と行動は誇張があるものの、身の回りには必ずと言っていいほど存在しているようにも思うので、絵空事としての印象は湧かない。
「お前、何様だ」とか「それだけ言うお前は、一体どれほどのことが出来るのだ」と言いたくなる相手に出くわした経験って、誰でも持っているのではないか?
そういう自分もその内の一人である可能性はあるのだが・・・。
兎に角、サトエリ澄伽の言いたい放題、やりたい放題が映画を引っ張る。

それを際立たせているのが、永作博美演じる兄嫁待子の能天気なほどの明るさだ。
待子はまるで奴隷か召使の様な扱いを受けているが、自分をごまかすためでもあるのか底抜けに明るい。
気持ちの悪い人形を楽し気に作っている変な女であるが、結局あの家を乗っ取ったような展開になるから、この女が一番強かったのかもしれない。
そもそもこの映画には変な人間しか出てこない。
悲しい場面でも必要以上に感情移入を求めることはしないので悲壮感は薄く、 変な人間達を生き生きと描いていっているのがいい。
前述したように、キャラクターは誇張されているものの、どこか回りにこういうヒトいるなと思わせる要素を持っているので 、キャラクター細部にそうしたリアリティを感じるから、ナンセンスな展開になっても観客はついていける。

残念に思ったのは、清深が次回作を手掛け始めたことを事前に挿入したことだ。
それによってラストの盛り上がりが透けて見えてしまい、残念なことをしたと思う。
たびたび「家族なんだから」とそれぞれの人に発言させていたが、それに対する答えがなかったことも一抹の寂しさを覚える。

舞踏会の手帖

2021-10-28 07:49:59 | 映画
「舞踏会の手帖」 1937年 フランス


監督 ジュリアン・デュヴィヴィエ
出演 マリー・ベル
   フランソワーズ・ロゼー
   アリ・ボール
   フェルナンデル
   ルイ・ジューヴェ
   ピエール・リシャール=ウィルム

ストーリー
秋も終わろうとする11月のイタリア、クリスチーヌは年かさの夫の野辺の送りを済ませたばかりである。
非常に人の良い夫ではあったが、年齢が離れすぎていた為にクリスチーヌは夫に愛を感じないままであった。
美しい若妻をいとおしむ余りか、夫は彼女に何人との交際も許さなかったのだ。
36歳のクリスチーヌは、もう一度人生を新しく出直そうと、夫の形見をすべて召使達に与え、思い出の品を炉に投げたところ、その中から一片の手帖が落ちる。
それはクリスチーヌが一人前の女として初めて舞踏会に出た折の、ダンス相手の男の名を書き記したものだ。
あの時の十人の若者達は、どうしているのであろう。
十六歳のクリスチーヌが秘かに愛を感じたジェラール。
瞼に浮かぶのは美しいシャンデリヤのもと、甘いワルツの曲に乗って、白いレースの裳も軽く、踊りに酔った20年昔の舞踏会だ。
亡き夫の秘書であったブレモンに頼んで、十人の男達の住所を調べて貰うと、その二人はすでに他界していた。
そして皮肉にもジェラールだけが、住所が解らない。
思い立った事だ、クリスチーヌは旅装を整えた。
先ず訪れたのはジョルジュの家だが、ジョルジュは20年前クリスチーヌの婚約を聞いた時自殺していた。
次はキャバレーの経営者となっているピエールだったが、今はジョウと名も変わって、夜盗団の采配を振る前科者で、ヴェルレーヌの詩を誦した昔日の面影はすでに失せていた。
ピアニストのアラン・レニョオルを訪ねると、今は神父ドミニックであった。


寸評
フランス映画の古典であるが完成度の高さに驚かされる。
オーバーラップの使い方やカメラワークは素晴らしいと思うし、雪崩のシーンなども迫力が出ている。
モノクロ画面に映し出される20年前のダンスシーンは美しい。
結果的に8人を訪ねることになるが、最初に訪ねたのはジョルジュ・オーディエの家で、彼はクリスチーヌの結婚を聞き自殺していた。
ジョルジュの母親はその事で気が変になってしまい、いまでも息子が生きているものと思い込んでいる。
年取ったクリスチーヌを当時のクリスチーヌの母親と思い込んで話し込む姿が痛々しい。
 2番目に訪ねたのはキャバレーの経営者となっているピエール・ヴェルディエだ。
ヴェルレーヌの詩を誦したやり取りが観客をホロっとさせるが、昔日の面影はない。
場所がキャバレーということで、フロアでショーが繰り広げられているが、ショーの女性が半裸なのが驚きだ。
日本映画において初めて女優が全裸になったのは1956年の前田通子とされているから、その点でもフランス映画は進んでいたと言える。
 3人目はピアニストだったアラン・レニョオルだったが、今は神父ドミニックとなっている。
彼はクリスチーヌ16歳の時、すでに40歳の高齢だった。
秘かにクリスチーヌを愛していたが、年齢に引け目を感じてストレートに伝えることが出来ず、自分の気持ちをそれとなく伝えていたのだが、クリスチーヌには伝わっていなかった。
自分の気持ちが上手く伝わらず、相手の女性に打ちひしがれるような態度を取られることはありそうなことだ。
 4人目の山岳ガイドとなっているエリック・イルヴァンと「過去のことを語るのではなく未来について語ろう」と言われていい雰囲気になるが、結局彼は彼女を置いて遭難者の捜索に出かけてしまう。
ただ彼が言う「当時は近寄りがたいものがあったけど今は話せる」という気持ちは分かるような気がする。
恋をしていた頃のクリスチーヌには恋い焦がれすぎて素直になれない所があったのだろう。
 5番目に訪ねたのは政治家志望だったフランソワ・パテュセで今は町長になっている。
全体の中では喜劇的要素を持ったパートとなっている。
女中と結婚式を挙げるところで、相手の女性がクリスチーヌと対局にいるような女性というのが面白い。
養子にした息子が不肖の息子となっているのは結末への伏線だろう。
 6番目のマルセイユで医師となっているチェリー・レナルは既に反狂乱の廃疾者だ。
内縁の妻にも暴力をふるうほどで、発作が起きた彼はどうやら内縁の妻を射殺したように思われるが、もしかしたら拳銃自殺したのかもしれない。
 7番目は生まれ故郷で理髪師になっているファビアンである。
手品が趣味の彼は娘にクリスチーヌという名前を付けているが、名付けた気持ちは分からぬでもない。
二人は懐かしい会場で催される舞踏会に出かけるが、クリスチーヌはそこで16歳の若い女性を見つける。
それはかつての自分の姿だ。
 そして最後に彼女が愛したジョルジュなのだが、湖の対岸に住んでいて亡くなったばかりで屋敷も処分される。
一人息子が残されており、彼を養子として引き取るハッピーエンドが用意されているが、全体のエピソードを振り返ると、昔の面影を追っても期待外れになることが多いと言うことだろう。
それでも昔恋した相手に会いたい気持ちは消えることはない。

淵に立つ

2021-10-27 07:12:03 | 映画
「淵に立つ」 2016年 日本


監督 深田晃司
出演 浅野忠信 筒井真理子 太賀
   三浦貴大 篠川桃音 真広佳奈
   古舘寛治

ストーリー
郊外で小さな金属加工工場を営む鈴岡家は、夫・利雄(古舘寛治)、妻・章江(筒井真理子)、10歳の娘・蛍(篠川桃音)の三人家族。。
夫婦の間に業務連絡以外の会話はほとんどないものの、平穏な毎日を送るごく平凡な家族だ。
そんな彼らの前にある日、利雄の旧い知人で、最近まで服役していた八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。
利雄は章江に断りなくその場で八坂を雇い入れ、自宅の空き部屋に住まわせてしまう。。
章江は突然の出来事に戸惑うが、敬虔なクリスチャンである章江の教会活動に参加し、蛍のオルガン練習にも喜んで付き合う礼儀正しい八坂に好意を抱くようになる。
すっかり家族同然になった八坂は、あるとき章江に殺人を犯したことを告白するが、すでに彼に揺るぎない信頼を寄せていた章江にとっては、むしろ八坂への感情が愛情に変わるきっかけとなるばかりであった。
家族が八坂を核として動き始めた実感を得たとき、彼による暴挙は始まった。
すべてを目の当たりにし狼狽する利雄をおいて、八坂はつむじ風のように暴れ、そして去っていった。
8年後。
八坂の行方は知れず、利雄は興信所に調べさせているが、一向に手がかりはつかめないでいた。
工場では古株の従業員・設楽篤(三浦貴大)が辞めることになり、代わりに山上孝司(太賀)が新人として入ってきたのだが、母を亡くして独り身の孝司は屈託のない人柄でたちまち夫婦の信頼を得る。
だが皮肉な巡り合わせにより、八坂の消息をつかめそうになった時、利雄と章江は再び己の心の闇と対峙することになるのだった……。


寸評
ミステリー・サスペンスの様相を見せるがそうではない。
かと言って家族崩壊を描いているのかと言えば、一概にそうとは言えないものがある。
幸せそうだった家族が、第三者の登場によって崩壊していくというのは何度か見た内容だし、最初はそんな印象で見ていたが全く期待を裏切る展開を見せる。
八坂は人を殺して刑務所に入り、利雄がそれに関わっていたことが早いうちに示唆されているし、八坂自らの口で自身の過去が語られてしまうからミステリー性は早い段階で消え去る。
また利雄一家はクリスチャンの章江と娘が食事の前にお祈りを捧げているのに、夫の利雄は全く関心を示さない関係で、どこか隙間風が吹いているような感じを最初から示している。

そして八坂が登場して物語は一気に展開を見せていくのだが、この八坂の服装が異様である。
何処に行くのにも白いカッターシャツを着ていて、眠るときもそんな姿のままだったりしている。
刑務所暮らしが身についているらしく、食事は早いし歩く姿勢は手先をピンと伸ばしたものだ。
彼は礼儀正しいし、オルガンを教えたりできるし、利雄の子供である蛍もなついている男なのだが、その表面的な顔の裏に潜む凄みを見せる時がある。
僕たちはその場面で彼の本質を垣間見ることになる。
僕も大学時代にアルバイト先で今は足を洗っている本物のヤクザの凄んだところを目撃したことがあり、その時は玄人さんの怖さに身震いをした事を思い出す。
ある事件の後に八坂は姿をくらましてしまうが、浅野忠信演じる八坂の存在が際立ってくるのが不思議なことに彼がスクリーンから消え去ってからだ。
どのようにして彼がスクリーン上に復帰してくるのかとワクワクしながら見ていたのだが中々再登場しない。
やっと登場したかと思うと、見事にその期待は裏切られてしまう。
画面から消え去った人物が、こんなにも存在感を見せる作品は少ないのではないかと思う。

家族は結束の強いものだと思われているが、それがちょっとしたことでもろくも崩れ去ってしまう危うさを秘めたものであることを迫ってくる作品だ。
妻の章江は夫への不満があったのか、利雄に別な魅力を感じたのか利雄に対して好感を抱き始める。
二人の関係は利雄の目を盗んで続けられるが、利雄はそれを感じ取っていた。
しかし家族の維持のために利雄も章江も平静を装っている。
家庭を維持していくためには、夫も妻も本心を明かしてはいけないことがあるという事だろう。
河原に四人が寝転ぶシーンが二度登場するが、一度目が疑似平穏の状況だったのに対し、二度目では崩壊の状況に追い込まれている。
これだけ必死になるのなら、あの時ああしておけばよかったと手遅れな反省をしているようでもあった。
秘めた暴力性を一瞬だけ見せる浅野忠信、闇を抱えつつひたすら自己抑制に努めているような寡黙な夫の古館寛治、その時々の感情を的確に表現し続けた筒井真理子の迫真の演技。
俳優たちが存在感を見せ、罪と罰、因果応報、信仰というものについて考えさせながら家族の危うさを突きつけてきた重量感のある作品だ。

豚と軍艦

2021-10-26 07:00:40 | 映画
「豚と軍艦」 1961年 日本


監督 今村昌平
出演 長門裕之 吉村実子 三島雅夫
   小沢昭一 丹波哲郎 山内明
   加藤武 殿山泰司 西村晃
   南田洋子 中原早苗

ストーリー
米海軍基地のある横須賀では、軍艦が入ると水兵相手のキャバレーが立ちならぶ町の中心地ドブ板通りは俄然活気を呈してくるのだが、そんな鼻息をよそに青息吐息の一群があった。
当局の取締りで根こそぎやられてしまったモグリ売春ハウスの連中、日森一家だ。
ゆきづまった日森一家は、豚肉の払底から大量の豚の飼育を考えついた。
ゆすり、たかり、押し売りからスト破りまでやってのけて金をつくり、彼らの“日米畜産協会”もメドがつき始めたところへ、流れやくざの春駒(加原武門)がタカリに来た。
応待に出た幹部格で胃病もちの鉄次(丹波哲郎)の目が光った。
たたき起されたチンピラの欣太(長門裕之)は春駒の死体を沖合まで捨てにいった。
彼は恋人の春子(吉村実子)と暮したい気持でいっぱいなのだ。
春子の家は、姉の弘美(中原早苗)のオンリー生活で左うちわだったが、彼女はこの町のみにくさを憎悪し、欣太には地道に生きようと言って喧嘩した。
ある日、鉄次が血を吐いて入院してしまったので日森一家の屋台骨はグラグラになった。
会計係の星野(大坂志郎)が有金をさらってドロンし、崎山(山内明)も残飯代を前金でしぼり取るとハワイに逃げてしまった。
欣太とはげしく口喧嘩をした春子は町にとび出し、酔った水兵になぶりものにされた。
日森一家は組長の日森(三島雅夫)と、軍治(小沢昭一)・大八(加藤武)とに分裂してしまった。
両者とも勝手に豚を売りとばそうと企み、軍治たちは夜にまぎれての運搬を欣太に命じた。
欣太は豚をつみこむ寸前に先まわりした日森らにつかまってしまった。
六分四分で手を打とうという日森だったが、欣太はもうだまされないと小型機関銃をぶっ放した。
ドブ板通りには何百頭という豚の大群があれ狂った。
誰もかも、豚の暴走にまきこまれ、踏みつぶされた・・・・。


寸評
戦後の闇市を思わせるような基地の街を舞台に最下層の人々が繰り広げる行動は喜劇である。
丹波哲郎が演じている人斬り鉄次と呼ばれている兄貴分は、胃を患っていて常に胃痛に悩まされている。
当人は胃癌ではないかと疑っていて、楽に死のうとするが死にきれないでいる。
電車に飛び込もうとするが恐怖で逃れてしまうし、それならと旧知の男に殺してくれと頼みに行くなど、とてもヤクザの幹部とは思えない姿を見せる。
ヤクザが豚肉が値が上がるからと養豚に精を出すのも可笑しい。
殺された春駒の処理に困って豚のエサにしてしまい、豚の丸焼きを食べている時に春駒の金歯が出てくる場面などはドタバタもいいところだ。

この町はアメリカに依存していて、女たちは米兵相手の売春行為で生きていて、ヤクザでさえも米軍に依存し、それを取り持ち利益を得ている者もいる。
ヤクザたちが扱う豚は米軍の排出する残飯で養われているのだ。
アメリカ異存は日本全体の縮図でもある。
金の為なら何でもやる彼らなのだが、仲間の中には金を持ち逃げする星野や、金を持ってハワイに逃げてしまう崎山のような男が出てくる。
二人は暴力団映画に出てくるように追われて命を狙われるようなことはない。
どんなことをしてでも先に金を得た者勝ちみたいだ。
1961年公開作品だから、経済復興を目指していた当時の風潮としてはこの様な気分が誰にでも少なからずあったのかもしれない。
欣太は最後に反乱を起こす。
やはり圧巻は欣太によって解き放たれた豚が大挙してヤクザ達に突進してくるシーンである。
「ブタ野郎」はダメ人間を卑下する時の呼称で、豚は下等な動物の象徴として扱われることが多い。
豚たちは、これまでの借りを返してやると言わんばかりに、ヤクザたちに襲い掛かり押しつぶしてしまう。
豚の攻撃は欣太と庶民の怒りの発散でもある。
胃癌と思い込んでもがき苦しんでいる鉄次は妻の勝代(南田洋子)に支えられて病院に連れ戻され、欣太は正当防衛の餌食となって息絶え、ヤクザたちは豚に押しつぶされる。
男たちは何とも惨めである。
それに反して、春子は男たちに蹂躙されながらも自分の足で歩んでいく。
米兵に強姦されたくらいで春子の意気は消沈しないし、かえって意気軒昂になって、ずぶとく生きてやろうという気持になっているのである。
いつの時代においても、最終的には女の方が生命力が強いのだと思う。

沖縄をはじめ米軍による日本の国土の一部占領という状況は今の日本に存在している。
軍事費を経済成長に回せたという事はあるとはいえ、いまだに戦勝国による国土の占領を許しているのは、どう考えても正常なこととは言えない。
その事に対する今村のブラックジョーク的な作品で、痛快ではないが愉快な作品だ。

BU・SU

2021-10-25 06:48:32 | 映画
「BU・SU」 1987年 日本


監督 市川準
出演 富田靖子 丘みつ子 大楠道代
   伊藤かずえ 高嶋政宏 イッセー尾形
   白島靖代 室井滋 伊織祐未
   輪島功一 中村伸郎 すまけい

ストーリー
18歳になる森下麦子(富田靖子)は片田舎で生まれ育ち、性格のひねくれた暗い女の子だった。
そんな“心のブス”を治すため上京し、置屋を営む叔母・胡蝶(大楠道代)のところで鈴女(すずめ)という名前をもらい芸者見習いをしながら高校に通うことになった。
しかし、ここでも鈴女はなかなか皆に溶け込むことができず、やがてボクシング部のヒーロー・律田邦彦(高嶋政宏)に思いを寄せることになるが、彼には京子(藤代美奈子)という校内でも評判のきれいな彼女がいた。
あるとき、置屋の老人・辰巳(はやしこば)がそんな鈴女を見かねて八百屋お七の墓へ連れて行った。
そして、これまで憎んでしかいなかった母・雪乃(丘みつ子)の過去を初めて聞かされた。
彼女の中で何かが少し変わり始めていた。
その頃、鈴女を可愛がってくれた売れっ子芸者の揚羽(伊藤かずえ)が駆け落ちした。
ショックは大きかったが、もう逃げるのはやめようと決めた鈴女は、半ば押しつけられた秋の文化祭での役割を引き受け、「お七」を踊ることにし、胡蝶の厳しい特訓が始まった。
しかし、一人では仕掛けが難しいのでネクラ派の友人二人に手伝ってもらうことにした。
文化祭当日、可憐に「お七」を踊る鈴女だが、最後のところでハシゴが壊れ、床に落ちてしまう。
思わぬ大失態に舞台の下で座り込む鈴女。
ステージでは次のプログラムであるアイドル・グループのピンク・ジャガーが登場し、華やかにショーが始まった。
すぐさま邦彦が駆け寄り、鈴女の手を取ってグラウンドへ連れ出した。
そしてファイヤー・ストームに火をつけ、炎の中に浮かぶ鈴女の踊る姿。
生まれて初めての解放感に彼女の表情は明るかった。


寸評
ブスと言っても容姿のことではなく性格が良くない女の子のことである。
性格が悪いと言っても富田靖子演じる鈴女はイジワルとかするのではなく、いわゆるネクラな女の子で人付き合いが上手くできないのである。
そのために主演でありながら富田靖子のセリフは非常に少ない。
しかしストップモーションやスローモーションを駆使し、鈴女の表情を捉えたカットを挿入して映像自体に独特のリズムを生み出している。
鈴女が秘かな好意を持っていることを匂わすように、一人で教室の窓から校庭でふざける邦彦を眺めるシーンは印象的なものとなっている。
よくあるような秘めた気持ちで眺めているだけではない、その間にフラッシュ的に彼女が思い浮かべているのであろう父親の姿がカットインされるので、ちょっと意表を突かれたようなシーンとなっている。
雨の窓越しにとらえられた鈴女のアップも何かのポスターを見るようで美しい。

鈴女は揚羽の駆け落ちにショックを受ける。
自分には取れない女の意思を明確に示した揚羽によって、彼女の中に自我が目覚めてきたのだろう。
鈴女は電車の中に揚羽に似た女子高生を見て、降りるべき駅を乗り過ごしそのまま学校をサボってしまう。
あてどもなく街をさまようが、カメラがよくて何か響いてくるものがあるシーンとなっている。
伯母に命じられて人力車の後を走っているが、いつの間にか人力車の前を走るようになっており、鈴女の変化を感じさせるが、彼女の変化の集大成が文化祭での「八百屋お七」の舞である。
クラス代表としての出演を引き受けたこと自体が鈴女にとっては大きな変化だ。
踊る前の鈴女の顔がアップになり、カメラはグングン彼女の瞳に寄っていくと一粒の涙が流れる。
母への思いが変わったこと、自分を見出したことへの感動の涙だったように思うが、ドキリとするシーンだ。

普通の青春ものだと、彼女の必死の稽古が実り、彼女の芸に感動したクラスメートから大喝采を受けるパターンが想像されるのだが、この映画ではそうはならない。
ボクシングをやっている邦彦は、文化祭のイベント試合で喧嘩の傷が元で負けてしまう。
鈴女は踊りのクライマックスで大道具が壊れ落下してしまい、皆の嘲笑を受ける。
観衆は卒業生であるアイドル歌手の公演に熱狂し、鈴女のことなど気にかけない。
邦彦は彼女を引っ張り出しキャンプファイヤーの元へ連れて行き、積まれたマキに火を放たせる。
それはあたかも「八百屋お七」の火付けのようである。
燃え上がる炎は彼女が受けるであったろう拍手よりも、僕たちの心に響き渡った。
鈴女は全く笑顔を見せなかったが、ラストシーンで故郷に帰った鈴女が母親との会話で初めて笑顔を見せる。
性格ブスだった鈴女の明らか変化であり、彼女を代表とする若者たちへの青春賛歌である。

ところで余談なのだが、この映画には僕が務めていた会社が衣装提供していて、エンドクレジットで協力会社として紹介されている。
作品以外のことなのだが、そんなことでもハッピーになったから不思議。

フェイク

2021-10-24 07:25:21 | 映画
「フェイク」 1997年 アメリカ


監督 マイク・ニューウェル
出演 アル・パチーノ
   ジョニー・デップ
   マイケル・マドセン
   ブルーノ・カービイ
   ジェームズ・ルッソ
   アン・ヘッシュ

ストーリー
FBI捜査官ジョー・ピストーネは囮捜査官として、マフィア組織に潜入することを命じられた。
彼の潜入名はドニー・ブラスコ。
マフィアとの接触を狙っていた彼が最初に近づいたのは、末端の気さくな男レフティ・ルギエーロだった。
当時、マフィアファミリーは、リトル・イタリーを拠点とするソニー・レッドの組と、ブルックリンを拠点とするソニー・ブラックの組と、2つの組が対立して存在していた。
後者に属していたレフティは出世とは縁がない男だったが、そんな彼の前に現れたのがドニーで、レフティは聡明で行動力に溢れた彼との出会いに、諦めていた昇進の夢を再び抱くようになる。
また、誠実な彼にドラッグに溺れる息子の姿を重ね合わせ、単なる弟分を超えた愛情を感じ始めていた。
レフティは、ドニーを組の上層部に紹介したり、マフィアの掟を教えるなど、親身に世話を焼く。
そんなレフティを足掛かりに、ドニーが仕掛けた盗聴器やビデオテープは定期的にFBIに渡され、作戦は着実に成果を挙げていた。
一方で、仕事の重責の中、彼の私生活の歯車は次第に狂い始めていた。
FBIから、行き詰まったマイアミの囮捜査の協力を要請されたドニーは、儲け話を持ちかけてソニー・ブラック一行をマイアミへおびき出すことに成功。
ソニーは廃れたバーを改装オープンして大金を掴もうとするが、開店当日に警察の手入れが入ってしまう。
レフティは「警察が来るのが早すぎる。この中に裏切り者がいるはずだ」と指摘するが、誰もドニーを疑う者はいなかったのだが・・・。


寸評
潜入捜査官のマフィアとの息詰まるようなサスペンスというよりも骨太な人間ドラマの趣が強い作品だ。
アル・パチーノ演じるレフティは組織の中では下っ端に属している。
軍隊が上官の命令を絶対としているように、マフィアの世界でも上の命令は絶対である。
レフティは実績を上げて昇格を目指しているが、服役中に家族などの面倒を見てやったソニーが自分よりも格上になってしまい、ソニーの命令に従わねばならない屈辱を味わっている。
サラリーマン社会と同じでマフィアの世界も出世争いがあり、昇格したレフティは中間管理職のような悲哀を味わっているように見える。
ドニ―は妻子をロスに置いてニューヨークの組織に潜入を果たす。
その為に3ヶ月に一度くらいしか帰宅できず、家庭は崩壊状態になっていく。
単身赴任のサラリーマンも同じような境遇だと思うが、ドニーは命がかかっている。
ましてや相手がマフィアなので、ドニー自体もヤクザのようになっていく。
妻は耐えられなくなっていくが、ドニーはもう後には引けなくなっている。
どんなに苦しくったって、責任ある仕事を引き受けてしまった以上は逃げ出すわけにはいかない。
重圧に押しつぶされた人は自殺の道を選ぶのだろう。
人は「死ぬ気になれば・・・」とか、「なにも死ななくても・・・」と言うのだが、そうはいかないのだ。
妻に何も明かさず暴力を振るうようになったドニーはどうかと思うが、それでも僕はドニーの言葉では言い表せない気持ちは分かるような気がする。
一方のレフティも息子をうまく指導できているとは言えないが、それでも生死の間をさまよう息子を心底心配する普通の父親像を見せる。
どちらも家庭に問題を抱えて苦闘している父親たちなのだ。

サスペンスとして潜入捜査の成果が次々と示されていく展開ではないが、マイアミのバーが摘発される頃から立ち遅れ感のあったサスペンス性が盛り上がってくる。
レフティは警察の動きの速さから裏切り者がいると指摘する。
この時点ではレフティはドニーが裏切り者だと思っていないのだが、いつ正体がバレるのかと緊迫感も出てくる。
ブルックリンを拠点にするソニー・ブラックが、リトル・イタリーを拠点とするソニー・レッドによって粛清されそうになる場面で一気に盛り上がりはピークに達する。
決着がついてからの出来事がスゴくて迫力十分だ。

ドニ―は30万ドルをやるので船を買って足を洗うようにレフティに言うが、レフティはその話に乗らない。
組織からドニ―がFBIの人間だと言われても、彼を信頼しているレフティたちは「ドニ―を知らなかったら信じるところだった」と、その時点でもドニーを信頼している。
それだから余計に裏切りを許せないのだが、レフティは「お前だから許す」と伝えるように妻に言い残して自ら粛清を受けに行く。
完全に二人の間に友情が芽生えていたということで、アル・パチーノは渋い。
彼らの家庭での出来事を描きながら、ゆがんだ友情で結ばれた男同士の人間ドラマとして秀逸な作品である。

風林火山

2021-10-23 09:01:15 | 映画
「風林火山」 1969年 日本


監督 稲垣浩
出演 三船敏郎 佐久間良子 大空真弓
   中村錦之助 中村勘九郎 中村翫右衛門
   中村賀津雄 田村正和 志村喬
   香川良介 中谷一郎 清水将夫
   久保明 土屋嘉男 嵯川哲朗
   堺左千夫 石原裕次郎

ストーリー
群雄割拠の戦国時代、一介の軍師に過ぎない山本勘助(三船敏郎)には壮大な野望があった。
名君武田晴信(中村錦之助)に仕官して、天下を平定しようというものだった。
勘助は暗殺劇を仕組んで武田の家老板垣(中村翫右衛門)に恩を売り、計略通り晴信の家臣になった。
天文13年3月、晴信は勘助の進言で信濃の諏訪頼茂(平田昭彦)を攻めた。
やがて機を見た勘助は和議を唱え、晴信は勘助の言を入れて和議の役目を勘助に任した。
無事に和議を整えた勘助は、三度目に頼茂が来城したさい部下に命じて頼茂を斬った。
目的のためには冷酷非情な手段をいとわぬ勘助を、晴信は頼もしく思うと同時に、底知れぬ恐しさを感じる。
主を失った諏訪高島城は難なく武田の手におち、勘助は城内で自害を図る由布姫(佐久間良子)を救った。
父を欺し討ちにした人でなしと罵られながらも、勘助は類いまれな美貌の由布姫を秘かに愛し始めていたが、由布姫は晴信の側室に迎えられた。
武田勢は破竹の勢いで周辺を勢力下において行き、残る当面の敵は村上義清(戸上城太郎)のみとなった。
天文15年武田勢は勘助の奇略で、戦わずして義清の属城信州戸石城を手中に収めた。
その年、由布姫は父の仇晴信の子を生み、天文20年2月、晴信は出家し、名を信玄と改めた。
その頃、同じく天下平定の野望を持つ越後の上杉憲政(石原裕次郎)も名を謙信と改め、入道になった。
天下を目指す二人は、相戦う宿命を自覚しながら、その機をうかがっていた。
4年後、由布姫は27歳で世を去り、勘助の生甲斐は、母布姫の子勝頼(中村勘九郎)の成人を見ることだった。
永禄4年8月15日、上杉謙信は一万三千の大軍を率いて川中島に戦陣を布いた。
一方の武田信玄は一万八千の軍勢を指揮して川中島の海津城に進出した。
やがて戦いの火蓋が切って落とされたが武田勢は防戦一方に追い込まれた。
やがて妻女山の背後に回っていた坂垣信里(中村賀津雄)の軍勢がようやく到着したのだが…。


寸評
風林火山と言えば武田の旗印。
武田信玄と言えば戦国時代を飾る英傑の一人であることは万人が認めるところ。
原作は未読で内容を知らないが、映画における物語の主人公は三船敏郎演じる山本勘助である。
山本勘助はその存在が疑われている人物ではあるが、もしかしたら実在していたのかもしれない。
近年では彼の存在を示す資料も発見されていると聞く。
主要な登場人物である武田信玄を大スターであった中村錦之助が演じているが、本作は三船プロの制作なので当然ながら三船が主人公である。
当時はスタープロが盛んで、勝プロ、中村プロ、石原プロなど各社の大スターがプロダクションを設立していた。
その中でも三船プロは群を抜いていて、スタジオ、オープンセット完備の撮影所を持ち、東京で時代劇を作れる唯一のスタジオだったと聞く。
映画会社の締め付け、いわゆる五社協定が厳しくスターの共演は厳しかったが、このころにはプロダクション間での貸し借りのように彼らがゲスト出演する作品が多く撮られた。
本作も同様で、信玄の中村錦之助に加えて、上杉謙信役で石原裕次郎が名を連ねている。
もっとも彼はセリフを発することはなく、その姿を見せるだけである。

山本勘助が主人公であることは間違いないのだが、もう一方の主人公は佐久間良子が演じる由布姫である。
由布姫は武田信玄によって滅ぼされた諏訪頼茂の娘で、後の勝頼を生むという立場で、淀君と似た境遇だ。
その波乱万丈な境遇にドラマ性があり、映画でも彼女の振る舞いに結構時間が割かれるが、その内面への切り込みは不足感がある。
描かれるエピソードは色々あるのだが、そのどれもが上辺だけで終ってしまっている。
ましてや山本勘助の由布姫への思慕の情があるのやら、ないのやらの描き方でもの足らずだ。
由布姫は信玄の側室となって、信玄を殺そうと思う時があったり、また信玄をいとおしく思う時があったりと、女としての苦悩を見せるが、それをセリフでもって表現していて、その苦悩がにじみ出てくるような演出ではない。
詰まるところ、この作品は人間ドラマではなく、やはり戦国絵巻だったのだろう。

撮影はそれなりの迫力を出していて、けっして大量動員のエキストラがいるわけではないが、それでも突撃シーンなどでは人数を補うカメラワークを見せている。
山道を進軍していく武田軍の長い隊列などの空撮も効果があった。
今見ると、僕たちの世代の者にとっては俳優たちの若さが懐かしい。
佐久間良子はまだまだ娘役が通じる年齢で美しい。
故人となってしまった十八代目中村 勘三郎などは中村勘九郎として勝頼の子供時代を演じる子役だ。
もちろん三船も錦之助も今はもういない。
魅力的だったのは板垣信里を演じた中村賀津雄で、寡黙ながらも堂々と山本勘助に意見するもうけ役だった。
戦国絵巻として見るなら、やはり見せ場は川中島である。
そこで山本勘助は討ち死にするのだが、彼の周りにあまり人がいなくて乱戦の雰囲気がない。
前半戦の苦境を脱するための壮絶な討ち死にという感じに乏しいのが減点と感じた。

風雲児 織田信長

2021-10-22 07:36:35 | 映画
「風雲児 織田信長」 1959年 日本


監督 河野寿一
出演 中村錦之助 香川京子 月形龍之介
   進藤英太郎 中村賀津雄 里見浩太郎

ストーリー
尾張の国守である父信秀が没したのは、信長(中村錦之助)が十六歳の時である。
万松寺で行われた葬礼で、信長は荒縄を腰に巻いた異形の姿で現れ、抹香を父の位牌に投げつけた。
妻の濃姫(香川京子)は彼の陽やけした頬に光る涙を見た。
世は群雄割拠の時代で、濃姫の実父・美濃国稲葉城主斎藤道三(進藤英太郎)も尾張を狙う者の一人だった。
使が信長との会見を申入れてきたが、信長は少しも関心を示さず武術のケイコに励んでいた。
「尾張の大うつけ」が定評となったが、それが信長のつけ目で、その奇行は家臣までもあざむいた。
家老・平手政秀(月形龍之介)は諫書を呈すと、切腹して果てた。
心から信頼していた臣を失ったことを悲しみ、信長はそれを契機に正徳寺で道三と会見した。
道三は罠を用意していたが、信長は槍と鉄砲計千人を道中にひき連れ、道三をおびやかし、会見の場では例の狂人的姿から礼装に早変りし、先手をうった。
道三は手の掌を返すように歓待し、信長は彼に勝った。
彼の帰りを予期しなかった濃姫はその無事を喜んだ。
--突然、上洛を目指す今川義元(柳永二郎)率いる四万の大軍が、尾張領になだれこんできた。
信長の手勢は四千、その前衛は次々につぶされた。
清洲城の信長は出陣の気配を示さず、家臣は焦立つ。
信長は濃姫に鼓をうたせ、“敦盛”を静かに舞い納めると、彼はすぐさま出陣を命じた。
義元は勝報に気をよくし、折からの猛暑を田楽狭間に避けた。
信長軍は嵐をついて桶狭間を襲い、義元の首級を馬前に、信長は清洲城に引き揚げた。
白装束で死を決していた濃姫には、夢のようだった。


寸評
織田信長という一大の英傑を主人公にした歴史時代劇で、1551年父親である織田信秀の死から1560年の桶狭間の戦いまでを描いている。
映画は義父である斎藤道三との面会場面と、今川義元を打ち取った桶狭間の戦いに焦点を当てていて、その間の出来事は描かれていない。
1556年には斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死している。
この時に信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却している。
また1557年には謀反を企てた弟の信行を病と称して清洲城に誘い出し殺害するなど、尾張統一に苦心していた時期でもある。
どちらも大きな出来事だと思うが、作品が散漫になる為か場面としては前述の二場面しかない。

斎藤道三を描くために信長の正室である濃姫を登場させ、仲睦まじい間柄を描いているが、濃姫に関する資料は少なく実際は冷遇されていたのではないかと思われる。
側室である生駒家の吉乃を厚遇し、二人の間には信忠、信雄、徳姫という三人の子供が生まれている。
信忠は嫡男であり、徳姫は松平信康の正室となり、信康切腹事件に絡んだ女性だ。
資料が全くと言っていいほど残っていない濃姫が物語上では著名で、ここでも香川京子がいい妻を演じているが、それは下剋上の典型ともいえる斎藤道三の娘だったからだろう。

信長と道三の会見場所は尾張と美濃の国境にあったとされる富田という集落の聖徳寺である。
信長が親衛隊を引き連れ、いつもの「たわけ」姿で聖徳寺へ向かう行進を、道三は富田の町外れで隠れてこっそり見ているとうおなじみの場面が描かれる。
兵が持つ300丁の鉄砲に驚く様子もよく描かれているが、6メートルを超える長槍の件は出てこない。
聖徳寺に着いた信長は素早く正装に着替え道三の前に現れる。
この時の錦之助は、さすがに貴公子と唸るほどの凛々しさを見せる。
当時の東映において、これだけの気品と威圧感を出せる俳優は中村錦之助を置いて他にはいない。
道三の家臣らの前を平然と通り過ぎて、縁側の柱に寄りかかり道三を待ち、現れた道三を家臣が紹介すると、信長は一言「であるか」と答えたというが、ここでは道三が信長を迎える形をとっている。
会見後の美濃への帰り道で、道三の家臣が「信長は評判通りのうつけでしたな」というと、「無念だがわしの息子らは、そのうつけの下につくことになるだろう」と道三が言ったという逸話も紹介されていない。
描き方はきわめてダイジェスト的である。

桶狭間の闘いを描くドラマでは、今川軍本隊が田楽狭間で休憩をとっている事を知った信長が、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取るような描かれ方が多いが、ここでは正面攻撃をかけているような印象である。
「迂回攻撃説」もあったが、今では「正面攻撃説」の方が有力の様で、ここでの描き方がより近いのかもしれない。
河野寿一はテレビに転じて「新選組血風録」や「燃えよ剣」などの名作時代劇を世に送り出したが、映画作品としてはこの「風雲児 織田信長」が一番だろう。

フィッシュストーリー

2021-10-21 08:13:46 | 映画
「フィッシュストーリー」 2009年 日本


監督 中村義洋
出演 伊藤淳史 高良健吾 多部未華子
   濱田岳 森山未來 大森南朋
   渋川清彦 大川内利充 眞島秀和
   江口のりこ 山中崇 波岡一喜

ストーリー
2012年。彗星が地球に激突するまであと5時間。
人々が方々へ避難し、静まり返った街で唯一つ営業を続けるレコード店があった。
そこにいるのは、店長(大森南朋)と不気味な車椅子の客、谷口(石丸謙二郎)。
“もうすぐ世界が終わる”と語る谷口に、店長は“正義の味方が世界を救う”と返す。
店内には、70年代に解散したマイナーなパンクバンドの曲“FISH STORY”が流れていた。
1982年。気の弱い大学生、雅史(濱田岳)は仲間と車で合コンに参加。
その最中、1人が“FISH STORY”という曲にまつわる不気味な噂を語り始める。
無音になる1分間の間奏の間に、女性の悲鳴が聞こえるという。
合コンの後、1人淋しく帰宅する途中、カーステレオから流れてきたのは“FISH STORY”。
その間奏で女性の悲鳴を耳にする雅史。
1999年。“ノストラダムスの大予言”で世界が終わるとされている7の月。
“明日、世界が終わる”という谷口の予言を信じて人々が集まるが、翌日も太陽は燦燦と輝いていた。
人々に責められた谷口は“2012年に、世界の終わりが来る!”と叫ぶ。
2009年。修学旅行の最中、フェリーに置いていかれた女子高生、麻美(多部未華子)。
泣きじゃくっていた彼女に優しく語り掛けてきたのは、正義の味方になりたかったと語るコック(森山未來)。
そのとき、フェリーがシージャックされる。
1975年。解散直前のパンクバンド“逆鱗”のメンバーはベースでリーダーの繁樹(伊藤淳史)、ボーカルの五郎(高良健吾)、ギターの亮二(大川内利充)で、彼らの最後のレコーディング曲は“FISH STORY”。
再び2012年。彗星の衝突が迫る中、正義の味方、売れなかったレコード、世界の終わり。
全く関連性のないように見えた出来事が、“FISH STORY”を通して一つにつながったとき、世界を救う…?


寸評
始まりは彗星が地球に激突するということで街はゴーストタウンと化しているから、これはSF作品かと思わせるが、そこから“FISH STORY”という曲を軸にして一見無関係な話が時代を前後して進んでいく。
映画的手法として無関係な話が最後には結びつくはずだと思って見ているのだが一向にその片鱗が見えない。
最初は1982年の気の弱い大学生の話。
彼は運命の女性との出会いを予言されるが、それがいったい誰なのか分からない。
やがて“FISH STORY”と共に運命の女性とはこの人だと判る展開。
しかしその話はそこで終わってしまい、時代は惑星直列が起こり世界が破滅するとされたノストラダムスの大予言の1999年に移る。
ここで冒頭の変な男が再登場し、世界が滅びるのは2012年だと叫ぶ。
なるほど…彗星が地球に衝突する2012年がこれでつながった。
続いて2009年のシージャック事件の話が展開される。
まったくもって関係のない話のように思える。
なんとなく”正義の味方”という言葉が頭の片隅に残る。

映画はここで中休み状態となって、1975年に戻って解散直前のパンクバンド“逆鱗”の活動が描かれる。
もちろん彼らの“FISH STORY”という曲がこの映画のキーになっているのだから、このシークエンスには注目せざるを得ない。
実際、重要なことが語られる。
一つは”フィッシュストーリー”という言葉の意味。
ああ、そういう意味だったのね…と少し知恵の輪がほぐれ始めた。
彼らは最後のレコーディングを行うが、そこでボーカルの五郎が途中でアドリブの言葉を発してしまう。
そこでの彼の発言が意味深長で物語全体をおぼろげに理解させる役割を担っていたと思う。
それまで描かれていた内容は、気弱な青年が決起する自分探しのドラマであり、地球滅亡を信じた愚かな人間たちのドラマであり、売れないバンドのキラキラする青春物語であり、シージャックをネタにしたヒーロー物語で、どれもが変な人間が登場する薄っぺらい物語の羅列だ。

上映時間も進んで、そろそろラストだと言うのに一向に話がつながらない。
と思いきや、最後の最後に一見無関係に思えたすべてのエピソードが、「フィッシュストーリー」という曲がかかる間に、一気につながってしまう。
う~ん、今までの話はそういうことだったのねという感動だ。
たまっていたモヤモヤが一気に吹っ飛ぶ。
この爽快感を得るために、一見くだらないと思えるようなエピソードにも付き合ってきたのだと分かる。
気弱な大学生雅史の濱田岳、レコード屋店長の大森南朋、正義の味方だった森山未來、修学旅行生麻美の多部未華子などの再登場に拍手。
中村義洋って面白い映画作るなあ…。

ファントム・オブ・パラダイス

2021-10-20 06:58:33 | 映画
「ファントム・オブ・パラダイス」 1974年 アメリカ


監督 ブライアン・デ・パルマ
出演 ポール・ウィリアムズ
   ウィリアム・フィンレイ
   ジェシカ・ハーパー
   ジョージ・メモリー
   ゲリット・グレアム
   アーチー・ハーン

ストーリー
ウィンスロー・リーチ(ウィリアム・フィンレイ)は天才的なロックの作詞作曲家だが、おとなしい若者だ。
その若者が、スワン(ポール・ウィリアムス)という大レコード会社の社長と出会うことによって悲惨なコメディを演じさせられることになってしまう。
スワンは最近ウィンスローが作った叙事詩的なロックのカンタータを横取りして自分のものにしようと企む。
彼は腹心の部下フィルビン(ジョージ・メモリ)に命じて、ウィンスローからカンタータを買いとる約束をさせた。
ウィンスローのカンタータを横取りしたスワンは、それをアレンジして自分の曲として彼が新しく開いたパラダイス劇場のこけらおとしとして公演する考えだった。
それを知ったウィンスローはスワンの大邸宅を訪ねたが、折からそこでは公演のためのオーディションが行われていて、テストを受ける多勢の男女が集まっていた。
ウィンスローは、順番を待つ美しい歌手フェニックス(ジェシ カ・ハーパー)と知り合った。
腹黒いスワンがウィンスローのポケットに麻薬をしのび込ませたために、警官に逮捕され5年の刑を言い渡され、スワン財団がスポンサーのシンシン刑務所に投獄された。
ウィンスローは刑務所内の歯科医の手で金属の総入歯にされ、醜い顔となった。
復讐を誓ったウィンスローは刑務所から脱走し、スワンのレコード工場に忍び込み、機械を壊そうとしたが、不運にもレコード・プレッシング機にまき込まれ顔の半分をつぶされたばかりでなく、ガードマンの拳銃で射たれ、河へ飛びこんだ。
一命はとりとめたものの、彼の顔はふた目と見られぬ形相となり、一夜にしてファントムと化した。
ある夜、ウィンスローはパラダイス劇場の天井さじきから舞台のオーディションの模様を見ていたが、彼のカンタータが改悪されているのを知ると激しい怒りにかられ、スワンにつめよった。
するとスワンは言葉巧みに、一緒に仕事をしないかと持ちかけてきた。


寸評
この映画は「オペラ座の怪人」のパロディなので、元ネタを知っていたほうが楽しめる。
「オペラ座の怪人」は、醜い顔を持つ作曲家がパリのオペラ座の地下深くに潜み、不遇の歌姫を見初めて彼女をスターにするために暗躍し、それに歌姫と幼馴染との恋が絡む話。
こちらは、自分の音楽作品を音楽プロデューサーに騙し取られた冴えない作曲家が、レコードのプレス機に挿まれ顔面を負傷してしまい、その結果仮面の怪人となって音楽プロデューサーに復讐しようとする話で、勿論不遇の歌姫も登場する。
ロック・ミュージカルと紹介されることが多いようだが、僕はそんな感じは受けなかった。
先入観からすれば、ロックはロックでも、もっとハード・ロックの映画かと思っていたが、案外とおとなしい音楽で普通の人でも嫌悪感を抱くことはないと思う。

一種の「カルト・ムービー」なので、 万人向きではなく、見る人によっては 「何だこの訳の分からない、いい加減な話は・・・」と感じてしまう観客も多いだろうことは想像できる。
特に元ネタを知らないと、その気持ちはきっと増幅されてしまうだろう。
脚本・監督のデ・パルマが、要するに彼のやりたい放題をやっている映画なのだ。

面白いのは音楽が商品化されることでの葛藤が描かれていることで、作品に対する入れ込みも解消しなくてはならないし、事細かな契約書も存在する。
そこで生じるひずみにプロデューサーのスワンが悪どい手口で乗じるのだが、最終的に契約書にうたわれている通りの結末を迎えてしまうのは現代的な解釈だ。
レコーディングルームみたいな所でファントムの声を補正していくシーンを見ると、今の音楽は電子的な処理でなんでも出来てしまうのだと思わされる。
実際、テレビの歌番組では口パクがあったり、バンド演奏も実は影のバンドがやっていたりということがまかり通っているみたいだもんね。
さらに面白いのは悪徳プロデューサーが自分の肉体にある秘密を抱えていることである。
これはファントムと化したウィンスロー・リーチが仮面とマントで自分の姿を隠しているのに対して、彼はその姿をさらけ出しているのだが、実は・・・という展開があっと驚かせる。

最後の最後で歌われるのが、「何の取り柄もなく人にも好かれないなら死んじまえ・・・悪い事は言わない・・・生きたところで負け犬・・・死ねば音楽ぐらいは残る・・・」という破れかぶれなものである。
負け犬の滑稽と悲しみにフェニックスが返すのは「ウィンスロー・・・」という切ない一言だった。
身も蓋もない歌詞ではあるが、しかし芸術家は死してその作品が残るのだから幸せというものだ。
凡人の私は残すものなど何もない。

独特の映像美と90分という短時間で語りきるスピード感があり、怪奇的だが喜劇的な要素もタップリなユニークな作品だった。

ファンシイダンス

2021-10-19 08:41:14 | 映画
いよいよ「ふ」です。
前回は2020/9/19の「ファーゴ」から、2020/3/15の「フレンチ・コネクション2」まででした。
今回も間口を広げて紹介します。

「ファンシイダンス」 1989年 日本


監督 周防正行
出演 本木雅弘 鈴木保奈美 大沢健
   彦摩呂 田口浩正 近田和正
   渡浩行 ポール・シルバーマン
   徳井優 竹中直人 河合美智子
   柄本明 岩松了 蛭子能収
   大杉漣 宮本信子

ストーリー
塩野陽平(本木雅弘)は、街の明るい大学4年生。
ロックバンドを組み、ライブハウスでリードボーカルとして翔んでる毎日を送っていた。
しかし、陽平には寺の跡取りという宿命があった。
恋人の真朱(鈴木保奈美)を残して、ド田舎の禅寺、明軽寺に弟の郁生(大沢健)と共に入った陽平たちを待っていたのは、つらく厳しい修行の毎日だった。
しかし、地獄の修行もしばらくすると、お寺の裏側が見えてくるようになってくる。
偉そうな顔した古参たちも裏に回れば何をやっているかわかったもんじゃないというのが現実だった。
そんなある日、たまたま会社の研修で参禅にやってきたバンド仲間のアツシ(みのすけ)から真朱が硫一(大槻ケンヂ)と付き合いだしたと聞かされた陽平は不安を隠せない状態に陥るが、そこへなんと真朱が明軽寺にやってきた。
久しぶりに愛を確かめ合おうと思ったものの、嫉妬深い寿流(菅野菜保之)に見付かってしまい、大目玉をくらってしまう。
そんなことで陽平は名物住職の南択然老師(村上冬樹)の行者となってしまった。
ところが、この老師はなんとも世話のやけるボケ老人。
しかし、なぜか陽平はそんな南老師のそばにいると気分が落ち着くのだった。
そして一年がたった。
真朱のもとに帰る日も近い!と浮かれていた陽平だったが、知らない間に山を降りる日を延期され、次の制中の首座に選ばれてしまった。
落ち込む陽平だったが南老師の言葉に奮起して修行に打ち込みだし、遂に法戦式の日が来た。
寿流らの妨害もあったが何とか無事に終ったのだった。


寸評
ピンク映画「変態家族 兄貴の嫁さん」で監督デビューした周防正行が一般映画に進出した第一作である。
3人組アイドル「シブがき隊」のメンバーでもあった本木雅弘がグループ解散後に主演した作品でもある。
修行僧が繰り広げるドタバタを描いたコメディだが、僕たちにとってはベールに包まれたお坊さんの世界が舞台だけに未知の事柄に対する興味も湧いてきて楽しめる。
ドタバタに終始せずそれぞれのエピソードをユーモアを交えながらきちんと描いていて、コメディ作品として水準を保った作品に仕上げている。
アイドルだった本木雅弘にとっても初の主演作品なのだが、役者としての才能を見せていて芸達者なわき役陣に後れを取っていない。

コメディだけにお坊さんを揶揄するようなエピソードがてんこ盛りで、よく寺院が撮影を許可したものだと思う。
陽平の父親(宮琢磨)はお寺の婿養子で、法事では檀家とカラオケに興じ、ゴルフも趣味のようで住職家業はお気楽なものだと言っているよう存在。
先輩修行僧の光輝(こうき・竹中直人)は先輩風を吹かせて厳しく指導にあたるが、自室で仲間と酒・タバコを自由にしていて、サラリーマンを装ってキャバクラに行くなどしている生臭坊主である。
晶慧(しょうえい・甲田益也子)は秩序を乱す者には厳しく対処する位の高い僧侶で郁生は彼女に憧れている。
彼女は肉、魚などの生臭い物が嫌いなことにかこつけて、光輝たちは寺の僧侶が留守にする夜にこっそり寿司の出前を取って内緒で食べている。
寿流(じゅりゅう・菅野菜保之)というくらいの高い僧侶は威厳のある人物に見えるが、それは表向きの顔で実は自室に家電製品を色々と所有したり下着はアニマルプリントのブリーフを着用するなど世俗的な考え方の持ち主で、ひっそりとビールで晩酌をやっている人物である。
そのようなお坊さんたちを見ていると、聖職の一つである僧侶も一皮むけば俗人と同様の人々なのだと思えるし、普段は聖人ぶっている分だけ偽善者の集まりの様に見えてしまう。
僧侶たちのひんしゅくを買いそうな描き方だが、夜の祇園や先斗町に行けば地方から出てきた僧侶がたむろしていると言うのはよく聞くので、あながち映画の世界の作りごととも思えない。

オープニングは本木雅弘がロックバンドのボーカリストとしてライブハウスで熱唱しているシーンなのだが、ロックバンドらしいヘアスタイルなのに振り返ると左半分がすでに坊主頭となっている。
アイドル本木雅弘君、よくぞやったという出だしで、コメディ映画としてツカミはOKという感じを受ける。
そしてラストシーンとなる法戦式で陽平を嫌う寿流から「修行中に女人と会っていたのはどういうつもりか」と問われた陽平は、堂々と「あるがままだ」と答える。
見事な禅問答で陽平の勝利を描き無事山を下りるかと思いきや、ここで真朱(まそほ・鈴木保奈美)が思わぬ行動をとりというのがオチとなっている。
お茶くみOLだった真朱が変身し仕事を指示する場面などはあるが、ペーソスや笑いの中にある主張は特段目立ったところがない。
しかし全体として結構まとまっていて、コメディ好きの僕は満足できた。

ビルマの竪琴

2021-10-18 08:12:24 | 映画
同監督がリメイクした「ビルマの竪琴」は2020/2/17で紹介しています。
バックナンバーからご覧ください。

「ビルマの竪琴」 1956年 日本


監督 市川崑
出演 三国連太郎 安井昌二 浜村純
   内藤武敏 西村晃 春日俊二
   中原啓七 伊藤寿章 土方弘
   北林谷栄 沢村国太郎 中村栄二
   佐野浅夫 三橋達也 伊藤雄之助

ストーリー
1945年の夏、敗残の日本軍はビルマの国境を越え、タイ国へ逃れようとしていたが、その中にビルマの堅琴に似た手製の楽器に合せて、「荒城の月」を合唱する井上小隊があった。
水島上等兵は竪琴の名人で、原住民に変装しては斥候の任務を果し、竪琴の音を合図に小隊を無事に進めていた。
やがて、小隊は国境の近くで終戦を知り、武器を捨てた彼らは遥か南のムドンに送られることになったが、水島だけは三角山を固守して抵抗を続ける日本軍に降伏の説得に向ったまま、消息を絶った。
ムドンに着いた小隊は、収容所に出入りする物売りの婆さんに水島を探して貰うが生死のほども判らなかった。
ある日、作業に出た小隊は青い鸚鵡を肩にのせた水島に瓜二つのビルマ僧を見掛けて声をかけるが、その僧侶は目を伏せて走り去った。
水島は生きていたのである。
三角山の戦闘のあと、僧侶姿の彼はムドンへ急ぐ道で数知れぬ日本兵の白骨化した死骸を見て、今は亡き同胞の霊を慰めるため、この地へとどまろうと決心した。
物売り婆さんからあの僧侶の肩にとまっていた鸚鵡の弟という青い鸚鵡を譲り受けた井上隊長は「水島、いっしょに日本へ帰ろう」という言葉を熱心に教え込んだ。
三日後に帰還ときまった日、隊長は物売り婆さんに弟鸚鵡をあの僧侶に渡してくれと頼んだ。
すると、出発の前日になって水島が収容所の前に現われ、竪琴で「仰げば尊し」を弾いて姿を消した。
あくる日、物売り婆さんが水島からの手紙と青い鸚鵡を持って来た。
鸚鵡は歌うような声で「アア、ジブンハカへルワケニハイカナイ」と繰り返すのだった。
それを聴く兵隊たちの眼には、涙が光っていた。


寸評
公開時には「ビルマの竪琴 第一部」と「ビルマの竪琴 第二部・帰郷篇」という形で公開されたらしいが、現在みることが出来るのは「第一部」「第二部」を編集した「総集編」で、本作がそれにあたる。
したがって、シーンによっては説明不足感があり少し違和感を感じるが、それを想像で補っていくとかえってテーマが浮き上がってくる。

三国連太郎が率いる井上小隊は結束していて、終戦間際の殺伐とした雰囲気はない。
それでも第二次大戦での敗北が濃厚になり、ビルマ戦線における井上小隊もイギリス、インドの連合軍に反撃され敗走している。
井上隊長は音楽大の出身ということで彼らは時々合唱をするが、追い立てられているなかで合唱などできるものかと疑問に思うが、そんな疑問を吹き飛ばしてしまう説得力はある。
彼らは殺戮部隊ではないので村人にひどい仕打ちを行うわけではなく、相応の対応をしてもらっている。
第一、この部隊の戦闘行為は全く描かれていない。
敵軍に取り囲まれたところで終戦を知り、武装解除を自ら行っている。

対極にあるのが三角山に立てこもる日本軍で、彼らは降伏を良しとせず玉砕の道を選ぶ。
井上隊長と、三角山守備部隊の隊長との考えの相違で三角山では多くが死んでしまう。
部隊の兵隊たちも玉砕を選択するが、位が低い連中は戦争が終わっているなら降伏したいような雰囲気もわずかであるが描かれている。
上層部が人命を左右したのだというテーゼでもあった。

水島上等兵は三角山の日本兵に戦争の終結を伝え、降伏をする説得する役目を井上隊長から命じられる。
結局その役目は果たされず、三角山守備隊は全滅してしまい、水島の彷徨が始まる。
水島はビルマの僧に助けられるが、その僧の衣服を盗んで彷徨を続ける。
僧衣を盗むという行為を咎めるような演出がないのはいかがなものかと思う。
この時点では水島の心は、ムドンにいる仲間の元へなんとしても帰り着きたいという思いが強かったと思う。
その為の僧衣着服だったのだが、しかしそれでも助けてもらった僧の衣服を盗むのはもってのほかだ。
悪いと思っていながらも、そうせざるを得なかった雰囲気は出ていなかった。
少し違和感を持ったシーンだった。

水島は彷徨を続ける中で、多くの日本人の亡骸を見る。
うち捨てられた死骸を見て、この人たちを置いて日本には帰ることが出来ないとの思いに至る。
彼の行為を見守る現地人。
やがて彼等も水島の埋葬作業に無言で参加する。
水島が竪琴で奏でる「埴生の宿」と共に、人間として心が通じ合ういいシーンだ。
一人の兵隊が言うように、井上隊長は水島の手紙を何と言って日本にいる家族に渡したのだろうと思う。
それを思うと目頭が熱くなる。

ビリー・ザ・キッド/21才の生涯

2021-10-17 07:22:26 | 映画
「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」 1973年 アメリカ


監督 サム・ペキンパー
出演 ジェームズ・コバーン
   クリス・クリストファーソン
   ジェイソン・ロバーズ
   ジャック・イーラム
   リチャード・ジャッケル

ストーリー
無法者の楽園、ニュー・メキシコ・テリトリーのフォート・サムナーでビリー・ザ・キッドは、仲間たちと陽気な日々を送っていたが、彼の前に友人でもあるバット・ギャレットがひょっこり現われ、これからシェリフになると告げた。
さらにギャレットは、親友ビリーに土地の有力者たちの意向を伝え、「5日以内にここを去れ」と警告した。
しかし、ビリーが彼の警告を無視したのでギャレットはビリーを逮捕し留置所にぶち込んだ。
縛り首が8日後に迫り、ギャレットが所用で町をでていた時、ビリーは拳銃を手に入れ、留守を預かるシェリフ代理2人を射ち殺して、群衆の見守る中を悠然と町から出て行った。
町に戻ったギャレットは、内心管轄外であるメキシコへ逃げてほしいと願いつつアラモサ・ビルを新たな代理に命じて後を追った。
しかし、ビリーはフォート・サムナーに戻って歓迎されていて、見知らぬ男のバートに挑戦され彼やその仲間を射殺した時、ビリーに加勢した若者エイリアスと友達になり、また美しい娘マリアを知った。
一方、ギャレットは無法者のブラック・ハリスからビリーに関する情報を掴もうとして老保安官ベイカーと夫人を使うが、ベイカーを死なせてしまう。
その頃ビリーは、故郷のメキシコに帰る老人のパコから、身の安全のため国境を越えるようすすめられ、ついに無法者の楽園を去る決心をした。
ビリーはその途中、パコとその家族がチザムの部下たちに襲われている所に行き合い、暴漢どもを射殺したが、パコは、間もなく息を引き取った。
ビリーは、弱い者いじめをするチザムや、ウォーレス知事に激しい怒りを覚え、再びフォート・サムナーに舞い戻り、ギャレットはポーやシェリフのキップ・マッキニーに出合い、フォート・サムナーに向かった。


寸評
邦題は「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」となっているが、やはり原題の「PAT GARRETT AND BILLY THE KID」通り、パット・ギャレットとビリーの物語である。
サム・ペキンパーは1969年に「ワィルドバンチ」を撮っていて、僕たちの世代の者にとってはこの作品のインパクトが非常に大きかった監督である。
射殺場面に「ワイルドバンチ」を髣髴させる演出を見せているが、本作は随分と詩情にあふれた男たちのバラードと言える仕上がりになっている。
その詩情を盛り上げているのがエイリアスとして出演もしているボブ・ディランの歌声で、僕には歌手としては初めてノーベル文学賞を授与されたボブ・ディランが出ている映画ということで記憶に残る作品となっている。
そしてボブ・ディランは1972年にリリースされたガロの「学生街の喫茶店」で ”学生で賑やかなこの店の 片隅で聞いていたボブ・ディラン” と歌われたことで脳裏に残る歌手でもある。
喫茶店に入り浸っていた学生時代に流行った歌のひとつが「学生街の喫茶店」だった。

開拓者たちが移植してきた西部に近代化の波が押し寄せてきて、資本家たちが幅を利かせるようになってきている社会に取り残される者が出てくる。
パットもビリーもそんな取り残され組の一人なのだが、パットは資本家に雇われる形で無法者から逆の立場の保安官に転身している。
一方のビリーはかつては資本家であるチザムの手下になっていたこともあるが、相変わらずの無法者として気ままな生活を送っている若者だ。
彼等の過去や性格もあって、無法者のビリーが悪で、それを追うパット・ギャレットは善という単純図式ではないことと、自然の残る西部を捕らえたショットや、無法者が巣くう村の描写などが全体の雰囲気を醸し出していく。
パットもビリーも無法者らしく、相手を倒すやりかたは正々堂々とした決闘ではない。
ビリーとアラモサ・ビルの決闘場面などはその最たるものだ。
決闘をするハメになった二人はお互いに「他に方法はないのか?」と尋ね合うが命を懸けるしかないと悟る。
決闘のしきたり通り背中合わせになって10を数えて撃ち合うのだが、ここで両者とも卑怯な手を使う。
それなのにビリーに嫌悪感が湧かないのは、彼の死者をいたわる振る舞いに詩情が漂うからだろう。
最も詩情を感じさせたのは老保安官のベイカーが撃たれる場面だ。
ベイカーの奥さんは男勝りでたくましく、まるで夫人が保安官で、ベイカーが保安官助手のような関係だ。
三人で無法者を追い詰めているが、ベイカーが撃たれてしまう。
撃たれたベイカーを見て夫人は駆け寄ろうとする。
ベイカーはヨタヨタと歩いていき、夕陽を見ながら妻に見守られて死を覚悟する。
ここで流れるのがボブ・ディランの歌う「天国の扉」だ。
本作のハイライトと言ってもいい名シーンとなっている。

「あいつは根っからの西部の男だ」と言ったり、ビリーの指を切り落とそうとした知事の代理人を蹴り上げたりして、パットはビリーへの友情と、滅びゆく西部開拓時代への郷愁を示している。
子供から石を投げられ振り返ることなく去っていくパットの姿は、名作「ワイルドバンチ」に通じるものがあった。