おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

招かれざる客

2021-11-30 07:41:22 | 映画
「招かれざる客」 1967年 アメリカ


監督 スタンリー・クレイマー
出演 スペンサー・トレイシー
   キャサリン・ヘプバーン
   シドニー・ポワチエ
   キャサリン・ホートン
   セシル・ケラウェイ
   ビア・リチャーズ

ストーリー
サンフランシスコ空港で飛行機から降り、タクシーに乗った若いカップルが、人目をひいた。
人々のぶしつけな視線など気にしないかのように、黒人青年と白人女性は親しげに語り合っていた。
青年はジョンといい、世界的に著名な医師で、女性の名はジョーイ・ドレイトン。
2人はハワイで知り合い、互いに愛し合う間柄となったのである。
ジョーイの母クリスティは、娘の婚約者が黒人であることを知り驚いたが、娘の嬉々とした様子に動揺は次第に喜びに変わっていったが、父のマットは、そうはいかなかった。
新聞社を経営し、人種差別と闘ってきたマットも、自分の娘のこととなれば話はちがってくるのだ。
ジョンは、学界でも有数な人物であることは、マットも知ってはいるのだが、黒人と白人との結婚には、想像を絶する困難があり、結婚を許しながらもマットは割り切れなかった。
ジョンのジュネーブ行きの時間が迫っており、2人はその前に、互いに両親の了解を得たがっていた。
息子の見送りと嫁に会うため、ジョンの両親プレンティス夫妻が空港に着き、ジョーイは出迎えたが、夫妻は嫁が白人であることを知り愕然とした。
やがて、夕食の時が訪れた。
ジョンとジョーイ、ドレイトン夫妻、プレンティス夫妻、そしてドレイトン夫妻の友人であるライアン神父。
母親同士は結婚には賛成だったが、父親同士は反対し、とくに、マットは頑固だった。
だが、そのマットも、若い2人のどんな困難にも立ち向かおうとする真剣さとその情熱に、かつての自分の青春を見、その尊さに気づき、2人の結婚を認めた。


寸評
すごくまともな映画で、全うすぎてしらけるくらいなのだが感動してしまう。
最後のスペンサー・トレイシーの大演説と、キャサリン・ヘプバーンの表情にもらい泣きしてしまった。
若い頃に見た時は何となく白々しいものを感じたが、歳をとって見ると親の気持ちがよくわかって胸に来る。

人種差別問題を描いているが問題の黒人がシドニー・ポアチエで、ドクターとしての凄いキャリアの持ち主と来ては結末が見え透いているし、登場人物がすべていい人ばかりで出来過ぎの感があると思っていたのだが、齢を重ねることによって、激しいものでなくても潜在的に差別意識はあって当事者になれば大いに悩むものだということが理解できるようになったのだと思う。
若い頃に人権問題のシンポジウムに出たことがあって、差別の講演を聞いたことがあるのだが、そこでも普段は差別に反対していた人が、自分の娘が出身者と結婚するとなるとたちまち反対したという事例を話されていた。
日本において差別は少しづつなくなってきていると思うが、それでもまだ存在していると思うし、中国、朝鮮半島の人への偏見も残っているのが現実だ。
欧米人との国際結婚に比べれば、東アジア系の人との結婚に抵抗を持つ人はまだまだ多いのではないか。
本作は狂気の人々ではなく、そんな風に思っているごく普通の人々にある人種差別を描いている。
なにせ黒人のメイドでさえ、白人と黒人の結婚には反対だと言っているくらいなのだ。
アメリカにおける黒人差別は根深いものがあるのだろう。

普通でないのは女性の生家であるドレイトン一家が裕福な上流社会の人ということで、サンフランシスコの高台に住んでいる新聞社の社長一家ということと、男性が高学歴のエリートドクターであると言うことだ。
物語上、父親のマットが差別反対を唱えながら自分の身に起こると態度を変える典型的とも思える父親として、リベラルを認じる新聞社の社長であることが必要だったのだろう。
母親のクリスティは画廊を経営する常識人だが、やはり娘の相手に驚きながらも娘の味方となる。
母親としての優しさを見せるが、同時に毅然とした態度もとり、興味本位な従業員をすかさずクビにしている。
キャサリン・ヘプバーンは揺れ動く心情を見事に演じていたと思う。
彼女の涙目はステキだった。
プレンティス夫妻も礼儀正しい普通の人で、父親が反対しても母親は息子に理解を示す。
プレンティス夫人がマットに浴びせる言葉は物静かだが痛烈だった。
ライアン神父が、問題をかかえる夫婦はお互いに協力して問題を乗り越えていこうとするから信頼関係が強いと話すが、きっとそうなのだと思う。
親にとっては子供の幸せな姿を見ることが何よりなのだが、わかっていてもつい親のエゴが出てしまう。
僕は娘に「お父さんの子供に生まれてくれてありがとう」と言いたいし、「お前の幸せな姿を見せてくれてありがとう」と言いたい。
スペンサー・トレーシーの演説は子供たちへのエールでもあったが、自分たち夫婦の愛の賛歌でもあり奥さんへの賛歌でもあったと思う。
見え透いた結末だが、それでも感動する愛の物語だった。

街の灯

2021-11-29 08:30:42 | 映画
「街の灯」 1931年 アメリカ


監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン
   ヴァージニア・チェリル
   フローレンス・リー
   ハリー・マイアーズ
   アラン・ガルシア
   ハンク・マン

ストーリー
ある町で盛大な銅像の除幕式があった。
紳士淑女こもごも立って祝辞を述べた後に、いざ像を覆っていた幕が引き下されると驚いたことに、この像の上には一人のみすぼらしい小男が眠っていた。
ところが、この浮浪者が計らずも、街角で花を売る娘を見て胸を踊らせたのである。
しかも、この盲目の娘は彼女に大金を恵んだ紳士が彼であると思い込んで彼の手を握っては感謝の言葉を述べるのであった。
彼は初恋に胸をときめかせ、そして働いて金を儲け彼女と交際しようと考えた。
まず街の清掃作業員になり、金が入ると彼女の家へ堂々として紳士らしく訪問していき、いじらしい盲目の娘と、つつましく話をしたり、彼女がやさしく微笑んだりするのを眺めては思慕の情を高めていった。
娘は病気になってしまったのだが、彼は職を失っていて大切な恋人の病を癒す大金の手当てがつかない。
ある日、彼の目の前に酔っ払いの百万長者が現れる。
この金持ちは酔うと、「やア親友!」と叫んでは浮浪者たる彼の首っ玉に跳びつく癖のある男で、彼も幾度かその邸宅に引っ張られて夜を明かしたことがある。
ただ残念なことには、酔いがさめると、もう全然酔中のことは忘れているということであった。
金の探索に困り抜いていた彼は金持ちに相談すると、そこは大金持ちでその上に酔っていたので、金持ちは大いに気前よく彼を我家に招じたうえに金1千ドル也をポンと投げ与えてくれたのだが・・・。


寸評
僕はチャプリン映画はそんなに好きではないのだが、「町の灯」は見方によっては色々な要素が持ち込まれていて考えさせられる作品になっていると思う。
映画は除幕式が華々しく行われている中で、その幕を取るとそこにいたのは1人の浮浪者が寝ているというコメディから始まる。
当時アメリカは繁栄していたと思うが、一皮めくれば浮浪者が変わらず存在する偽りのものでしかないという皮肉が込められていて、それを笑いをまじえたのコメディーで表現していると思われる。
多分権威者たちは説教じみた演説をしているいるのだろうから、彼らの演説は何を言っているか分からない擬音で皮肉的に表現されていて、アメリカ国家が流れると皆が直立不動となる欺瞞を描いたシーンだ。

浮浪者のチャプリンは酔っぱらった金持ちと出会う。
二人の間で最初に繰り広げられるドタバタは何度も川に落ちると言うもので、それがくどいと思われるくらい何度も繰り広げられる。
吉本の新喜劇を見ているようなバタくさいドタバタ劇で、これがコメディなのだと言わんばかりだ。
二人の関係は上流社会の人間と最下層の人間の交流というより対比を感じさせる。
金持ちはおそらく妻とも離婚してお先真っ暗で、もう死ぬしかないような精神状態に追い込まれているのだろう。
金持ちは酔って自我を失っている時でしか浮浪者と仲良くすることができない。
酔った勢いで店に行ったり、パーティを開いたりするが、浮浪者は彼らの仲間に入り込むことはできない。
花売り娘の所へ金持ちを装って行った時には、金持ちがいないから本当の金持ちの振る舞いが出来ない。
相容れない階級の差を示しているようで、滑稽ながら残酷なシーンでもあるように思う。
50ドルの金を稼ぐためにボクシングの試合に出ても、非力な彼はそこでも金を手に入れられない。
ギャグ満載で面白おかしく描いているが、描かれている内容は悲惨である。
しかし酔っぱらった金持ちに頼めば「彼女のことは任せろ、とりあえず1000ドルもあれば十分か?」と簡単にお金を渡してくれるのだ。

花売り娘が病気になり、代わりに老婆が花を売りに行く。
出かけて行くシーンだけでも良さそうなものだが、チャプリンはあえて誰も花を買ってくれない老婆の姿を1カット入れ込んでいる。
若い娘なら買ってもくれようが、老婆ではだれも見向きもしない。
随分と残酷な映画だ。
冤罪とは言え刑務所から出てきたチャプリンはみすぼらしい姿で、花屋で目が見えるようになった娘と再会する。
娘は「あの人私のことが好きみたい」と上から目線の立場になっている。
娘はチャプリンの手に触れ「You?」と尋ね複雑な表情を見せる。
映画はここで終わるから、その後は観客の想像に委ねられている。
足長おじさんが浮浪者と知った娘はどうしただろう。
チャプリンが「違う」と言って立ち去るエンディングでもなく、「No」と言って否定して終わるでもなく、認めたところで終わる絶妙のエンディングは流石と思わせた。

股旅

2021-11-28 08:11:34 | 映画
「股旅」 1973年 日本


監督 市川崑
出演 萩原健一 小倉一郎 尾藤イサオ
   井上れい子 常田富士男 夏木章
   加藤嘉 大宮敏充 二見忠男
   野村昭子 和田文夫 加茂雅幹

ストーリー
よれよれの道中合羽に身をつつんだ若い男が三人、空っ腹をかかえて歩いている。
生まれ故郷を飛び出し、渡世人の世界に入った源太、信太、黙太郎である。
流れ流れて三人は、二井宿・番亀一家に草鞋をぬいだ。
源太はここで偶然、何年も前に母と自分を置き去りにして家出した父・安吉と再会した。
夜、源太は安吉の家に行く途中、百姓・又作の家の井戸端で、若い女房のお汲が髪を洗っているのをみた。
背後からお汲に組みついた源太は、あばれるお汲を納屋につれこんだ。
翌日、安吉が、番亀の仇敵の赤湯一家と意を通じ、壷振りと組んでイカサマをやり、番亀一家の評判をおとそうとしたのがばれ、憤怒した番亀は、渡世人の掟を破った親父の首を持ってこいと源太に命じた。
親父を斬ることはない、と引止める黙太郎と信太に「義理は義理だ」と源太は飛び出したが、安吉は留守。
気抜けした源太は、お汲の家に行き「俺と逃げないか」と声をかけた。
やがて安吉の家へ引返した源太は、長脇差を抜き放ち、驚く親父に斬りかかった…。
やがて、源太は僅かな草鞋銭を渡され、番亀を追い出されたが、黙太郎、信太、そしてお汲も一緒だった。
途中で信太が竹の切株で足を傷つけ熱を出し、お汲の亭主の息子の平右衛門がお汲をつれ戻しに来た。


寸評
格好良さからかけ離れたアウトロー三人の姿が痛々しい。
主人公の三人は、ほとんどの若者がそうであるように、野望や希望は持ってはいるものの、おおよそそれらは夢に終わり、現実は満たされない生活を強いられている。
渡世人とはいえ、彼等の姿はボロボロの三度笠に、つぎはぎだらけの道中合羽といういで立ちである。
一応ヤクザ者としての仁義は人並みに切るのだが、仁義を切る信太や源太が地方なまりなら、受ける相手も地方なまりで、映画自体も格好のいい男を描いているわけではない。
要するに、登場人物総てがアンチ・ヒーローなのだ。

一宿一飯の恩義に預かると、草鞋を脱いだ一家の頼み事は断ることが出来ず、縄張り争いの出入りにも駆り出されるのだが、そこで繰り広げられる乱闘ははなはだ滑稽なものだ。
誰も死にたくないから、格好だけをつけた殺し合いを演じる。
別に剣客でもないからその立ち回りは刀を振り回すだけの不細工なものである。
しかし彼等は意地だけは示さねばならないから、精一杯の出入りを演じている。
70年安保闘争も終わり、学園闘争も潮が引くようになくなっていった時代背景の為か、彼等の姿からは望みは金と力のある大親分の盃をもらい、ひとかどの渡世人になるという小市民的なものしか感じられない。
世の中を変えようとか、自分も大親分に出世しようとかの大それた夢を抱いていない。
第一、頼みの親分は裏切った父親を殺してこいと命じておきながら、これも渡世の義理と泣く泣く殺してくれば、親殺しは大犯罪だから支援してやることはできないと追い出してしまうのである。
親分だってヒーロー像とは程遠い利己的な存在である。

ヒロインともいえるお汲(オクミ)は金に困った百姓一家から、老人の嫁にと売られてきた娘である。
息子の平右衛門が親父の後釜を狙っているようなところがあり、お汲は迎えに来た平右衛門を殺してしまう。
そして金に困った源太のために再び身売りされてしまうのだが、その身の上に同情が湧かない描き方だ。
お汲にちょっかいを出そうとした信太は足の裏を怪我して、今でいうところの破傷風にかかって苦しむ。
その苦悶の姿は不細工であり、破傷風で死ぬなんて渡世人としては不様な死に方だ。
渡世人の義理を立てるか、世渡り上手に生きるかで源太と黙太郎は争いを起こすが、その結末は実にあっけないものである。
これだと、ゴダールの「勝手にしやがれ」だ。
といっても黙太郎にとって源太は唯一の道ずれである。
なんだかんだ言っても友達と一緒がいいのである。
不細工だが、なんだか可哀そうになってくるラストである。
そんな風にして若者の夢が破れていっているようで、これまたなんだか悲しいものがある。
三人の中では出演者の中で一番癖のあると思われる萩原健一が目立たず、一番ひ弱そうに見える小倉一郎が彼に焦点を当てていることもあって最も光っている。
アンチ・ヒーローを描いた青春時代劇として、市川崑の才気走った演出も見られず、しみじみとしたものがあってスカッとはしないがじんわりくる作品で、股旅ものの傑編の一つに挙げても良いだろう。

マイライフ・アズ・ア・ドッグ

2021-11-27 08:31:24 | 映画
「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」 1985年 スウェーデン


監督 ラッセ・ハルストレム
出演 アントン・グランセリウス
   メリンダ・キナマン
   マンフレド・セルネル
   アンキ・リデン
   ラルフ・カールソン

ストーリー
幼いイングマルの心には元気な頃の母の姿が浮かぶ。
彼の母は病に侵され、今はやせ細っている。
おねしょをしたり、兄といさかいを起こして家の中で騒いだり、イングマルはやんちゃな男の子で母からいつも叱られていた。
夏の間イングマルは兄や飼い犬のシッカンとも離れて母方の弟のいる田舎町で過ごすことになった。
はじめは全く乗り気でなかったイングマルだったが、叔父一家やガラス工場のベリット、芸術家の男、サッカークラブのサガと緑の髪の毛のマンネなど楽しい人々に囲まれて充実した日々を過ごす。
夏があっという間に終わり、イングマルは地元に帰る。
早々に母に土産話を聞かせてやろうとするが、彼女の病状は芳しくなく、すぐに話を遮って眠りについてしまう。
病院に預けられたはずのシッカンも家にはおらず、イングマルが叔父の家に行っている間ずっと家には戻っていないようだった。
そのうち母は救急車で運ばれ入院してしまう。
イングマルには父がいたが、今は赤道エクアドルでバナナの出荷に携わっていて、すぐには戻ってこられない。
イングマルと兄は父方の弟の家で暮らすが、夫婦から迷惑がられて田舎で暮らすように手配される。
再び田舎町にやってきたイングマルだったが、もう一人の叔父は夏と状況が変わってしまったことを引き合いに出して、かつての同居人のお婆さんのところで寝泊まりするように言って聞かせた。
叔父の家の離れにある東屋でシッカンを引き取って一緒に暮らしたいと願うが、叔父の話では引き取り手のないシッカンはやむなく殺されてしまったらしい。


寸評
イングマルは星空を眺めながら自分の身を振り返っている。
思うことの一つは元気なころの母親ともっと話をしておけばよかったということである。
母親はうるさい存在だから、子供の頃には都合の良い時だけ甘える身勝手さがあるもので、イングマルも例外ではなく、独白は病弱で余り長話が出来なくなった母親に対する反省の気持ちだ。
そして、決して恵まれているとは言い難い家庭環境だが、もっと辛い目にあっている人がいるので自分はまだ恵まれていると思うことで、自分自身を慰めている。
色んな人を引き合いに出しているが、宇宙に行ったライカのことが何回か出てくる。
ライカは旧ソ連の宇宙船スプートニク2号に乗せられた犬の名前で、地球軌道を周回した最初の動物なのだが、スプートニク2号は大気圏再突入が不可能な設計だったので最初から死ぬことが分かっていた悲劇の犬である。
イングマルはそんなライカに比べれば、自分はまだマシな方だと思っているいじらしい子供である。

家族と別れなければならない少年、愛犬と引き裂かれ、その愛犬は殺されていると言う悲劇的な要素を交えながらも、主人公の友人や村の人々との出会いを通して、少年を中心にして人生そのものをユーモアを交えて描き、みずみずしいまでの美しさを感じさせる実に心温まる作品に仕上っている。
主人公のイングマルの時折り見せる何とも言えない笑顔が不思議な魅力となっている。
イングマルが預けられた叔父の家で経験することが輝きをもって描かれる。
僕も幼稚園に通園していた時に伯母の家に預けられていたのだが、母親が恋しいよりも、そこでの生活が楽しい気持ちの方が勝っていた。
遊び仲間が断然多かったし、実家に帰った小学生の時も夏休みに居候するのが待ち遠しかった。
イングマルもそこで新しい友達と仲良くなっていく。
特に男の子の恰好をしているサガという女の子との交流が楽しい。
この年齢にはよくあることだが、女の子は男勝りである。
サッカーをやらせれば上手いし、ボクシングだって男の子を圧倒する。
僕にも経験のあることで、かけっこをすれば僕より早い女の子がいたし、水泳をやれば模範になるのは女の子で、僕は悪い見本として泳がされた。

サガの胸が膨らみ始めたことの描写は微笑ましい。
子供とは言え異性への興味はあり、それが若い女性のベリットに向かうのも分らぬでもない。
リベットは彫刻家からヌードモデルを依頼されているが、変なことにならないようにイングマルをお目付け役として連れていくのだが、モデルとなって全裸でいるベリットを天井のガラス窓からのぞき込むシーンが可笑しい。
叔父さんの家にいるお爺さんは病床に伏せているが、女性下着の雑誌を内緒で見て楽しんでいるのが可笑しいエピソードであり、いつも屋根の修理をしている男や緑色の髪の毛の男の子など登場人物もユニークであるが、その存在に違和感がないのがいい。
再び叔父の家に厄介になることになるが、その時にはサガはすっかり女の子の服装になっている。
それでも相変わらず子供のあどけなさを持っていて、ボクシングで母国の選手が勝ったことに熱狂する大人たちを尻目にイングマルとサガが寄り添って眠る姿は、何事も乗り越えていく子供の可能性を感じさせる。

マイ・フェア・レディ

2021-11-26 08:25:13 | 映画
「マイ・フェア・レディ」 1964年 アメリカ


監督 ジョージ・キューカー
出演 オードリー・ヘプバーン
   レックス・ハリソン
   スタンリー・ホロウェイ
   ウィルフリッド・ハイド=ホワイト
   グラディス・クーパー
   ジェレミー・ブレット

ストーリー
イライザ(オードリー・ヘップバーン)は花売り娘で、うすら寒い三月の風の中で声をはりあげて売り歩く。
ある夜、ヒギンス博士(レックス・ハリソン)に言葉の訛りを指摘されてから、大きく人生が変った。
博士の家に住み込むことになったのだ。
だが、今までの色々の苦労よりももっと苦しい何度も同じ言葉を録音するという難行を強いられた。
ある日、イライザの父親ドゥリットル(スタンレー・ハロウェイ)が娘を誘惑されたと勘違いして怒鳴り込んだが、貴婦人になる修業をしていると聞いて喜んだ。
それから4カ月、イライザは美しい貴婦人として社交界へデビューした。
アスコット競馬場ではイライザの美しさは群を抜き、名うてのプレイボーイ、フレディ(ジェレミー・ブレット)でさえが彼女につきまといはじめた。
陰で彼女を見守る博士とピカリング(ウィルフリッド・ハイド・ホワイト)は気が気ではなかった。
彼女の正体がばれたら、貴族侮辱罪で社交界から追放されるだろう。
彼女は誰にも気づかれずうまくやっていたが、各馬がゴール寸前になって興奮のあまり、つい地金を出してしまった。 だが、それもご愛嬌ですんだ。
つづく大使館のパーティでは完全なレディになっていた。 成功だ。
その夜、イライザは博士とピカリングの話を立ち聞きして驚き、怒った。
自分は博士の実験台にすぎなかったことを知り、思わず邸を飛び出した。
博士は、イライザの不在に淋しさを感じ、彼女を愛する心を意識した。
録音器の訛りの多い声を静かに聞きながら心を痛めていた。
ふと、その録音器が止まった。


寸評
惨めなアヒルが美しい白鳥に変身する物語でオードリー・ヘップバーンの代表作の一つである。
ミュージカル映画好きの僕であるのに、どうもこの作品がしっくりこないのは感性によるものだろう。
美しく変身する割にはヒロインがオードリーだけに、最初から可愛いのだ。
ヒギンス博士は男尊女卑的に、どうして女は男の様に振舞えないのかと言いながら、やたらと喋りまくるのが鼻につくし、物語の展開にキレを感じないのだ。
ジョージ・キューカーに馴染めないのかもしれないが、それはあくまでも個人的な感想である。
それでもイライザが社交界にデビューしてからのファッションには圧倒される。
特にアスコット競馬場のシーンにはうっとりしてしまって、ファッションを見ているだけでも楽しいものがある。
ヘップバーン演じるイライザは目を見開き、舌を出し、相手をののしるというひどいありさまで登場する。
たぶん僕は冒頭から繰り返されるオードリーのこの姿にしっくりこないものを感じてしまったのだろう。
僕の中のオードリーは「ローマの休日」、「ティファニーで朝食を」、「シャレード」などの中のオードリーであって、イライザは彼女に似つかわしくないと思ってしまったことによる。
それでも社交界にデビューしてからのオードリーはさうがと言う雰囲気で、やはり見とれてしまう。
少なからず僕は可憐なオードリーのファンだったのだと悟る。

ミュージカル映画なので多くの楽曲が唄われるが、僕の耳に残るのは「運が良けりゃ (With A Little Bit of Luck)」と「踊り明かそう (I Could Have Danced All Night)」である。
スタンリー・ホロウェイ演じるイライザのダメ親父が、運が良ければ辛いことからも逃れられると歌い踊る場面はぐうたらな僕も共感できてしまう楽しい場面となっている。
貧乏で飲んべえなこの親父はヒギンズ博士のジョークで大金を得てしまったために結婚しないといけなくなる。
そして式を控えた前夜からつまらない結婚生活に入る名残にと昔仲間たちとどんちゃん騒ぎをする。
ヒギンズ博士も結婚は自由を奪われるつまらないものだと言い、女性をバカにしている所がある。
どうもこの映画、結婚生活否定、男尊女卑の傾向が見て取れる。
時代が代われば大バッシングを受けそうな内容である。
吹き替えと言うことだが、オードリーの歌う「踊り明かそう」は幸せ感を我々にももたらせてくれる。
オードリー歌のシーンに関しては、一部の歌い出し部分などを除いてほぼ全てが別人の歌声による吹き替えらしく、そのことを知ったオードリーは立腹したとか。
吹き替えを担当したのはマーク・ニクソンという女性で、数々のミュージカル映画の歌声吹き替えを担当していて“アメリカ最強のゴーストシンガー”と言われていたとのことである。
どうやら、各女優特有の発音の仕方や声色までを似せて歌うことがどきたらしい。
アメリカ映画界には色んな人材がいるものである。
ラストシーンでイライザは落ち込んでいるヒギンズ博士の元へ帰ってくる。
イライザにはヒギンズ博士への愛を感じるが、ヒギンズ博士は彼女を愛するようになっていたのだろうか。
それともピカリング大佐同様に、いないと淋しいだけの存在だったのだろうか。
「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐の様に、いつしか彼女を愛するようになっていたと言う感じがしなかったけどなあ・・・。

マイ・バック・ページ

2021-11-25 07:33:04 | 映画
「マイ・バック・ページ」 2011年 日本


監督 山下敦弘
出演 妻夫木聡 松山ケンイチ 忽那汐里 石橋杏奈
   韓英恵 中村蒼 中野英樹 山崎一 中村育二
   菅原大吉 あがた森魚 康すおん 古舘寛治
   山内圭哉 長塚圭史 三浦友和

ストーリー
東大安田講堂事件が起きた1969年に東都新聞に入社した沢田雅巳(妻夫木聡)は希望した「東都ジャーナル」ではなく、「週間東都」に配属された。
「週間東都」で沢田は、フーテンの下で潜入取材しコラム記事を書いていた。
その過程でテキ屋のタモツ(松浦祐也)と親しくなったが、誤って売り物のウサギを殺してしまう。
入社して2年が過ぎた頃に先輩の中平(古舘寛治)から東大全共闘議長の唐谷義郎(長塚圭史)を紹介された。
指名手配中だった唐谷だが、沢田は全共闘の集会に車で彼を送り届け、そこで学生運動に燃える若者たちを見て熱い気持ちが燃え上がってくる。
それから沢田は自らを京西安保の幹部の梅山(松山ケンイチ)だと名乗る男と接触した。
共に取材した中平は梅山を偽物だと見抜き、相手にしなかった。
しかし沢田は音楽の趣味が共通する梅山と同世代だったこともあり親しくなっていく。
沢田は「東都ジャーナル」へ配属され、京大全共闘で思想家の前園(山内圭哉)と梅山を引き合わせた。
梅山は部下に朝霞駐屯地で襲撃事件を起こさせ、自らは手を汚さなかった。
梅山を取材した沢田は、殺害された自衛官の腕章を写真に撮り、スクープが取れた喜びに浸っていた。
しかし警察が梅山を思想犯ではなく殺人犯と断定したため、沢田は警察に事情を聴かれることになった。
預かっててくれと頼まれた腕章を気味悪がって燃やしたため、沢田は証拠隠滅の容疑で逮捕されて、懲役の実刑判決を受けてしまう。
殺人犯として逮捕された梅山も前園に頼まれただけだと主張し、赤邦軍の責任のなすりつけあいが始まった。


寸評
川本三郎氏の自伝的な「マイ・バック・ページ-ある60年代の物語」を原作としているが、どうせなら実名で描いた方が分かりやすいのに、日本映画では分かり切っているのに名前を変えたりするのは何故なのか。
僕は映画評論家としての川本氏の印象が強いし、彼が最後に渡される雑誌も「キネマ旬報」だったように見えた。
描かれていた東都新聞は「朝日新聞」のことだし、東都ジャーナルは「朝日ジャーナル」、週間東都は「週刊朝日」であることは容易に想像できる。
松山ケンイチが演じた京西安保の幹部と称する梅山は京浜安保共闘を名乗っていた菊井良治のことだ。
妻夫木聡の沢田は川本氏であり、作中で彼に起こったことは懲役10か月、執行猶予2年の有罪判決を受けた事などすべて事実であるから、妻夫木は正に川本氏の分身である。

僕の年代の者にとっては感慨深いものがあり、今となっては懐かしさを覚えてしまう時代を背景としている。
梅山がうさんくさくて卑怯な人間に描かれていて、当時の学生運動を知らない世代に対しては、連合赤軍と共に学生運動を全否定する印象を与えそうだ。
しかし当時の学生運動には世の中を少しでも良くしようという気持ちも充満していたと思う。
カバーガールの女子大生に「感覚的には学生運動に親近感を抱くが、それでもこの事件はいやな感じがする」と言わせてバランスをとっている。
朝霞自衛官殺害事件を含めて、この一件はやはり特殊な出来事だったのだと思う。
沢田は東大の安田講堂の攻防戦を外から眺めていたというコンプレックスを持っている。
学生運動の闘士として自分も本物でありたかったという感情かもしれない。
沢田が逮捕状の出ている唐谷を集会に送り届け、そこで学生たちの熱気に触れて本物志向が目覚める。
運動のトップになりたかった梅山は沢田と同じように本物になれなかった臆病で卑怯な人間である。
梅山は自分の作ったセクトのトップでいたいだけの男で、武器を奪ってその後どうするかの展望がなく、結局何がしたいのかわからない男なのである。
そのくせ、居丈高な態度を取る自己中心的な人物で、実に嫌な男である。
そんな男であることを感じながらも、裏切られて警察の手入れを受ける安藤茂子には、女の哀しい性の様なものを感じて、彼女のような女性はあの時代だけのものではなく、時代を超えた存在のように思う。

新聞社を辞めた何年か後に沢田は以前に取材で潜り込んでいたテキヤ仲間のタモツと出会う。
商売用のウサギを死なせてしまい、テキヤを仕切るヤクザから叩きのめされて別れて以来の再会である。
タモツは結婚して子供も生まれ小さな居酒屋をやっている。
タモツは今でも沢田を信用していて、沢田が取材でテキヤをやっていたことなど疑いもしない。
沢田も梅山を信じたのだが、梅山は自分を裏切った。
自分はタモツを騙していたのに、タモツは今も自分を信じてくれている。
焦りと挫折は青春には付き物だが、しかし思い返せばやはり辛い。
タモツの素直な気持ちを知れば、沢田は泣くしかなかったのだろう。
沢田が「新聞はそんなに偉いのか」とつぶやいた時に、白井の三浦友和が「偉いんだよ!」と怒鳴り返す。
僕は朝日新聞の傲慢さを感じて、一番印象に残ったシーンであった。

舞妓はレディ

2021-11-24 07:50:31 | 映画
「ま」に入りますが、前回は2020/4/6の「麻雀放浪記」からでした。

「舞妓はレディ」 2014年 日本


監督 周防正行
出演 上白石萌音 長谷川博己 富司純子 田畑智子
   草刈民代 渡辺えり 竹中直人 高嶋政宏
   濱田岳 小日向文世 岸部一徳 中村久美
   高橋長英 草村礼子 妻夫木聡 徳井優
   津川雅彦 渡辺大 瀬戸朝香 加瀬亮

ストーリー
京都の歴史ある花街・下八軒(しもはちけん)。
そこでは舞妓がたった一人しかいないという大きな悩みを抱えていた。
今いる舞妓は10年目になる百春(田畑智子)ひとりだけ。
三十路のくせに舞妓などと揶揄される始末だった。
ある日、田舎から出てきた少女・西郷春子(上白石萌音)が老舗のお茶屋・万寿楽に舞妓志願にやって来る。
春子は、女将の小島千春(富司純子)にどうしても舞妓になりたいと懇願するが、どこの馬の骨ともわからない少女を老舗のお茶屋が引き取るはずもない。
千春は、鹿児島弁と津軽弁丸出しの春子を追い返そうとするが、偶然居合わせた言語学者の“センセ”こと京野法嗣(長谷川博己)は、鹿児島弁と津軽弁がミックスされた春子に興味を持つ。
そして、“あの訛りでは舞妓は無理”という老舗呉服屋の社長・北野織吉(岸部一徳)と春子が舞妓になれるか賭けをすることに。
そのおかげで、なんとか万寿楽の仕込み(見習い)になった春子だが、厳しい花街のしきたり、唄や舞踊の稽古、そして何より慣れない言葉遣いに戸惑い、何もかもがうまくいかない。
しかしそんな春子を、花街の厳しいしきたりと芸の稽古、そして何よりも訛りの矯正という過酷な試練が待ち受けていた。
芸妓の豆春(渡辺えり)や里春(草刈民代)、舞妓の百春(田畑智子)たちが心配する中、センセの弟子の大学院生・西野秋平(濱田岳)から「君には舞妓は似合わない」と言われ、ついに春子は声が出なくなってしまう……。


寸評
現在放映中のNHK朝ドラのヒロイン上白石萌音の主演作。
これは紛れもなく日本版「マイ・フェア・レディ」である。
「舞妓はレディ」という題名からして「マイ・フェア・レディ」をもじっているのは明らかだ。
ミュージカル仕立てなのだが、吹き替えなしで出演者に歌わせているので音楽のクオリティは高くはない。
それぞれの出演者の歌唱力は決してあるとは言えないのだが、この人が歌い、あの人も歌いで楽しませる。
これはいいと思わせるナンバーもないし、すごいダンスナンバーがあるわけではない。
それでも、舞妓さんや芸妓さんたちが踊るモダンなダンスは楽しい。
ラストのナンバーだけは耳に残るし、見終った後でハートフルな気持ちにさせてくれる。

冒頭で草刈民代が「緋牡丹博徒」のメロディに乗って現れ、片肌脱ぐと緋牡丹の入れ墨をしているなど、パロディの様な演出が随所にみられる喜劇性も併せ持っている。
富司純子の千春の初恋の相手が映画スターで、その役者名がポスターで映し出され、よく見ると赤木裕一郎となっていて、赤木圭一郎と石原裕次郎をミックスしたようなふざけた名前なのもその一例。
そもそも舞台が下八軒なのもパロディの一環だ。
関西の人なら聞きなれた京都花街の名前ではあるが、京都花街に上七軒はあっても下八軒などはない。
それでも本当にそんな場所があるのかと思わせるセットがなかなか良かった。
オチャラケたコメディなのだが、時々シリアスなドラマになって観客を引き付け、主人公の春子が薩摩弁と津軽弁を話すことになったエピソードもホロリとさせられる。
彼女の髪を結うアップショットの静謐な美しさなど、日本映画らしい良さが感じられてジーンとくるものが有る。
上白石萌音はオーディションで選ばれた新人なだけあって、素人としての初々しさを残していてこの物語にぴったりだ。
名のある子役を使わなくてよかったと思わせる。

僕は祇園界隈を散策したことはあるが、一元さんお断りの花街で遊んだことはない。
したがって、花街遊びの実態は映画やドラマでしか知らないのだが、所々でその風習を解説してくれていて、独特の習わしなどを知るだけでも楽しい。
とくに節分の日の「お化け」の風習を知らなかったし、見たこともなかったので新しい知識となった。
何よりも、日本にもハロウィンがあったのだと分かってうれしくなった。
しかもその背景に格式の様なものを感じて、ちょっと自慢ぽく思えたのである。
出演者がノロノリで、楽しんでやっているラストシーンも「お化け」なんだろうね。

濱田岳の大学院生に舞妓、芸妓を批判する言葉を言わせながら、それでもやはりこれは誇れる京都の文化だと納得させる作りはいい。
普通に生活していると、船場言葉を聞かなくなったのと同様に京ことばも耳にすることは少ない。
観光し下としての京ことばになりつつあるあるような気もするが、それでも京ことばはしたたかな京都人を支える重要な武器になっていると思う。
実に楽しい、京都エンターテイメントであった。

ぼんち

2021-11-23 07:59:12 | 映画
「ぼんち」 1960年 日本


監督 市川崑
出演 市川雷蔵 若尾文子 中村玉緒 草笛光子
   越路吹雪 山田五十鈴 船越英二 林成年
   倉田マユミ 毛利菊枝 北林谷栄 菅井一郎
   潮万太郎 中村鴈治郎 京マチ子 

ストーリー
四代続いた船場の足袋問屋河内屋の一人息子喜久治(市川雷蔵)は、祖母・きの(毛利菊枝)、母・勢以(山田五十鈴)にすすめられ砂糖問屋から弘子(中村玉緒)を嫁に貰った。
河内屋四代目の喜兵衛(船越英二)は婿養子であり、きのと勢以の力は絶大だった。
妊娠した弘子は病気と偽って実家へ帰り、久次郎(五代千太郎)を産んだが、家風を無視されたきのと勢以は弘子を離別するよう図った。
昭和五年、弘子を離縁してからの喜久治は新町の花街に足を入れるようになった。
富の家の娘仲居・幾子(草笛光子)が好意をよせた。
父が死に、喜久治は五代目の河内屋の若旦那におさまった。
襲名の宴を料亭浜ゆうで開いたが、仲居頭のお福(京マチ子)にきのと勢以は魅せられた。
彼女を喜久治にとりもって娘を生まそうと企んだ。
喜久治は待合金柳で芸者ぽん太(若尾文子)と馴染みになった。
妾となったぽん太はしきたりに従って本宅うかがいに現われ、さすがの勢以も気をのまれた。
喜久治はまた幾子が芸者に出たのを知ると彼女も囲った。
ぽん太に男の子が生れ、きのは五万円の金で生れた子と縁切りをするよう言った。
日中戦争が始まり、世の中は不景気の一途を辿っていた。
喜久治は道頓堀のカフェーで女給比佐子(越路吹雪)とねんごろになった。
幾子が難産の後、子癇を起して死んだが、妾の葬式を旦那が出してやることは許されない。
喜久治はお福のはからいで浜ゆうの二階から幾子の葬式を見送った。
男泣きに泣く喜久治を、お福は自分の体を投げ出して慰めた。


寸評
大阪の船場が舞台だが、さすがに大映京都で撮っただけあって、出演者の関西弁に違和感がない。
女優陣のオンパレードで、演技を競っているかのようで、それぞれが持ち味をいかんなく発揮している。
船場の古いしきたりが度々語られるが、その内容は今や骨董品的でピンとこないものの、物語の中では重要なファクターとなっている。
河内屋は代々妾が産んだ女の子を養女にして婿養子を迎えている。
祖母のきのによれば、嫁が産んだ男の子が優秀かどうかわからないので、妾が産んだ女の子を養女にすれば優秀な婿養子が取れるという理屈である。
喜久治は男なので店を継ぐことになるが、祖母も母もそのような理由で外で女を囲うことを認めている。
その母も養女で祖母にべったりである。
亭主である喜兵衛は婿養子ながら、こっそりと女を囲っているしたたかな面も持っていて、船越がハマっている。
妾は本宅に挨拶に出向くものらしく、若尾文子の芸者ぽん太が本宅に挨拶に来て述べる口上が決まっている。
認められたお妾さんには本宅から手当てが出るらしいから、何とも摩訶不思議な風習である。
子供は認知されず、縁切りとするための十分すぎる手切れ金が渡され、それは一生食べていける額だというのもすごい。
ガチャマンと言われ、機織りの機械がガチャッと音を立てるたびに金が舞い込んだという繊維産業全盛時代の話なのだろうが、それを思うと繊維産業、船場の衰退は目を覆うばかりである。

河内屋の女二人が絶妙で、毛利菊枝と山田五十鈴が見事な掛け合いを見せる。
二人が嫁の弘子をイジメ、妊娠したかどうかをトイレで確かめる場面には思わず笑ってしまう。
あっさりと離縁されてしまうのもこの時代ならではなのだろう。
草笛光子の幾子が妊娠して、七色のものを身に着ける風習を見せるが、信心の甲斐もなく死んでしまう。
その葬儀のいきさつも、これまた船場の風習と言うことである。
とにかく店の威信が第一で、河内屋がケチったと言われる世間体を気にするのである。
もっとも、その意地が船場を支えていたのかもしれない。

お福の京マチ子はすでに恰幅のいい女性になっていて、きのと勢以にかける挨拶も心地よいもので、二人はお福が気に入ってしまう。
それはお福が立派な子供を産めると思ったからなのだが、お福は子供が産めない体と知った喜久治がきのと勢以を笑い飛ばすのも可笑しい。
そのような家族関係が何よりもおかしい(不思議という意味)のである。
そんな喜久治を演じた市川雷蔵がみごとな放蕩息子を演じ、「夫婦善哉」における森繁久彌とは一味違った、若さからくる色気を出していて好演だ。
僕は何十年も前にこの作品を見ていたのだが、最後に市川雷蔵がシルエット的に表に出ていくシーンが鮮明に残っていた。
だからこのシーンはいいシーンなのだと思う。
若尾文子、京マチ子、越路吹雪の三人が入浴している場面は貫録を感じさせたなあ~。

ホワイトハンター ブラックハート

2021-11-22 08:41:04 | 映画
「ホワイトハンター ブラックハート」 1990年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド 
出演 クリント・イーストウッド
   ジェフ・フェイヒー
   ジョージ・ズンザ
   アラン・アームストロング
   マリサ・ベレンソン
   シャーロット・コーンウェル

ストーリー
1950年代黄金期のハリウッドで、映画監督ジョン・ウィルソンは、天才肌の成功者ではあるものの傲慢な男として有名だった。
新作映画の撮影を控える彼の家へ、友人で脚本家のピート・ヴェリルが訪ねて来る。
ヴェリルにアフリカとその地に生きる動物達の魅力を語ったウィルソンは、映画を全編アフリカで撮影することに決めていたのだが、映画撮影よりも憧れの象狩りに挑戦したいというのが彼の本心だった。
強引なウィルソンの態度にスポンサーは不安を覚え、プロデューサーのポール・ランダースは頭を悩ませる。
ストーリーについても、ハッピーエンドにすべきだと主張するヴェリルの意見を退け、ウィルソンは主人公を船の爆発で死亡させると譲らない。
ロケ隊より一足先にウガンダ、エンテベ空港に降り立ったウィルソンとヴェリルはマネージャーのラルフ・ロックハートらに出迎えられ、ホテルに移動する。
アフリカの地に興奮するウィルソンは、早くも撮影より象狩りに関心を寄せていた。
ウィルソンとヴェリルはコンゴに向かい、現地の青年キブを雇ってウィルソン達は狩りに出かけた。
すっかり象狩りに魅了されたウィルソンは、映画撮影より狩りを優先させようとする。
呆れ返ったヴェリルはロンドンに帰ると宣言するが、到着したランダースに説得され結局残ることになった。
ウィルソンはロケ地を勝手に変更してキブの暮らす村で撮影することにし、撮影が始まるという時に突然の雷雨に見舞われ撮影は中止となったので、ウィルソンはこれ幸いと早速狩りに出かけてしまう。
数日雨が降り続き、ようやく雨が上がり撮影が始まると思った矢先、象の目撃情報を得たウィルソンは撮影を放って狩りに出かけてしまう。


寸評
ジョン・ヒューストンは豪快な性格であったと言われており、「アフリカの女王」ではロケーション中に映画撮影を放り出して狩猟に没頭してしまうなどの奇想天外なエピソードを多く残していて、後年にはキャサリン・ヘップバーンに自伝で批判されている。
作品は「アフリカの女王」の撮影現場をモデルにしていて、クリント・イーストウッドのジョン・ウィルソンがジョン・ヒューストンで、マリサ・ベレンソンのケイ・ギブソンがキャサリン・ヘップバーンだろう。
ボロ船の耐久性を試すためにジョンやピートが乗り込んで荒れ狂う川を下っていくシーンは、正に「アフリカの女王」である。
映画は、天才肌の監督のわがままさや気骨のある行状をとらえていく。
ジョンはわがままし放題のとんでもない男だが、アフリカのホテルで同席した美女のマーガレットがユダヤ人への差別発言を始めたことで、怒ったウィルソンが彼女に強烈な皮肉を浴びせるという一面を見せる。
更に黒人ウェイターを罵倒する白人ホテルマンにも激怒して喧嘩沙汰を起こしているから、ジョンは不当な差別には毅然として立ち向かう男でもあることで、観客は彼に対して嫌悪感を持たない。
彼は一言で言えば正義漢なのだ。
ジョンのキャラは役者としてのイーストウッドの魅力が大きいと思う。

映画は派手な見せ場があるわけではなく、美しく捉えたアフリカの自然を背景にジョンが行うわがままな行動のエピソードを追うだけで、明確なテーマを追っているわけではないが力強い演出で作品を支えている。
やはりアフリカに行ってからが面白い。
ジョンは撮影よりも像狩りに夢中である。
象は陸上動物の中では最強の動物で、真の百獣の王は象なのは間違いがない。
それ故に危険もあって、特に子供がいる群れは危険この上ないことは想像できる。
動物には子供を守る本能が人間よりも強くて、カラスですら知らないで巣の近くに来た人間に襲い掛かってくる。
僕も泣き叫ぶカラスがいた道路を歩いていた時に、突然後ろから4度も襲われた経験がる。
ようやく雨が上がり撮影が始まると思った矢先、象の目撃情報を得たジョンは撮影を放って狩りに出かけてしまう。
キブに案内されると林の中に親子がいたが、白人のベテランハンターは非常に危険だと狩りの中止を訴える。
千載一遇のチャンスを逃したくないジョンはキブの意見を聞く。
キブが挑戦したいと答えたため彼らは象に向かって前進する。
すると子象を守らねばならない親の象が突進してくる。
ジョンは狙いを定めてライフルを身構えるという緊迫したシーンだ。
象狩りにおいてあのような場面に出ったら逃げないものなのだろうか。
キブがやったことは逃げても無駄と知っての行動なのだろうか。
村の人々は「ホワイトハンター、ブラックハート、白人の狩人、邪悪な心」」と太鼓をたたく。
ジョンは力無く「アクション」と声をかけるが、ラストの数分間はイーストウッドの表情が最大限の効果を発揮した名シーンとなっている。
監督、脚本家、プロデューサーがそれぞれの立場で言い合う内幕をみせながら、アフリカの大地に入り込んだ中々の力作となっている。

ボルベール <帰郷>

2021-11-21 08:15:41 | 映画
「ボルベール <帰郷>」 2006年 スペイン


監督 ペドロ・アルモドバル
出演 ペネロペ・クルス
   カルメン・マウラ
   ロラ・ドゥエニャス
   ブランカ・ポルティージョ
   ヨアンナ・コボ
   チュス・ランプレアベ

ストーリー
明るくたくましく生きるライムンダに、ある日突然、二つの死が降りかかる。
15歳の娘パウラが、本当の親ではないことを理由に関係を迫ってきた夫を、包丁で刺し殺してしまったのだ。
ライムンダはパウラを守るために、空き家となっていた隣のレストランの冷凍庫に、夫の死体をひとまず隠す。
そしてその夜、ライムンダの両親が死んだ大火事のショックから病気がちになっていた伯母も息をひきとった。
姉のソーレと隣人のアグスティナに伯母の葬式を任せ、夫の死体をどうするか頭を悩ませていたライムンダは、近くで撮影していた映画スタッフに店員と間違えられ、彼らに食事を提供することに。
やがてレストランはそのまま彼女の生活の場になっていった。
一方、伯母の葬儀のため故郷ラ・マンチャに戻ったソーレは、近所の人たちの奇妙な噂を耳にする。
火事で死んだはずの母の姿を見かけたというのだ。
動揺するソーレだが、葬儀を終えて家に帰り着いた時、車のトランクから母がにこやかに現れて仰天する。
突然の再会に戸惑いながらも、ソーレは母と一緒に暮らし始める。
やがてライムンダがソーレの家を訪れるが、母は、理解し合えないまま別れたライムンダの前に現れる勇気はまだなかった。
まもなく、ライムンダは映画の打ち上げパーティーで、母に教えられたタンゴの名曲を歌って聞かせる。
心の奥に眠る母への思慕を揺り起こす彼女。
店の前に停められたソーレの車に隠れて、母もまた娘への愛しさに瞳を濡らしていた。


寸評
映画が始まってしばらくすると事件が起きる。
ライムンダが帰宅すると、父親である夫に犯されそうになったパウラが父のパコを殺してしまう。
パコが「実の父親ではないから大丈夫だ」と言って迫ってきたとパウラが語っているように、パコはパウラの実の父親ではない。
パコは子供のいるライムンダと結婚していたことになるが、結婚生活はどれくらいの年月があったのだろう。
ライムンダは娘の父親殺しという衝撃的な事件を知って驚くが、これは自分がやったことだとパウラに言って聞かせ、パコの死体をレストランの冷凍庫に隠す。
娘可愛さのあまりという行動なのだが、ライムンダの夫パコへの愛情は感じられない。
サスペンス映画と思わせる導入部だが、そこからはパコの死体のことなど忘れ去られたかのような展開である。
この映画では男の存在はほとんどなくて、登場するのは女性ばかりである。
男と言えば、すぐに殺されてしまうパコと、食事の提供を求める撮影スタッフの一人と、この村を去りバルセロナへ行ってしまうレストランの持ち主であるエミリオぐらいで、エミリオも鍵を預けてからは登場しない。
冒頭の墓掃除のシーンでも、携わっているのは女性ばかりだった。

ライムンダが気にかけていた目が不自由で痴呆も進んでいる一人暮らしのパウラ伯母さんが亡くなってしまう。
隣人のアグスティナが取り仕切ってくれて、ライムンダの参列しない葬儀は姉のソーレが出席して無事終わる。
アグスティナによれば、契約や支払いなどの手続きはすべて済んでおり何も心配する事はないというのだが、これは姉妹の母親であるイレーネが行っていたらしいことが示される。
イレーネが登場するがまるで黒木和雄の「父と暮せば」や山田洋次の「母と暮せば」の世界の様だ。
やがてイレーネは亡霊ではなく生きていた本人だと分かるが、その存在をライムンダだけが知らない。
その間に描かれるのは、預かったレストランで撮影隊に食事を提供する生き生きしたライムンダの姿で、タイトルとなっているライムンダが唄う「望郷」という歌も披露される。
レストランの開業に近所の奥さんが協力したり、パコの死体の始末を娼婦の女性が手伝ったりと、活躍するのは徹頭徹尾に女性ばかりである。
死体処理などサスペンスの要素が時折盛り込まれるが、サスペンスと言うよりもどこか喜劇的である。

終盤になって母イレーネが身を隠していた理由が明かされ、衝撃の事実が明らかとなる。
ここに至って冒頭の事件に対するライムンダのとった行動の理由が観客に対して明確なものとなって提供される。
イレーネが登場して俄然面白くなる映画だが、母と伯母が知っていた事実の衝撃は、内容のスゴサほどの衝撃となって僕には届かなかった。
驚きではあるが、前半での伏線がないように思うし、表明のタイミングの割にはドラマティックな描き方でなかったような気がする。
ライムンダが主人公の映画ではあるが、内容的にはイレーネの贖罪となっているように思う。
最後にはアグスティナへの贖罪として、彼女の最後を看取ろうとしている。
アグスティナへは彼女が求めていた母の生存確認の結果が伝えられたのだろうか。

慕情

2021-11-20 08:53:37 | 映画
「慕情」 1955年 アメリカ


監督 ヘンリー・キング
出演 ジェニファー・ジョーンズ
   ウィリアム・ホールデン
   イソベル・エルソム
   ジョージャ・カートライト
   トリン・サッチャー
   マーレイ・マシソン

ストーリー
中国人とイギリス人のハーフで女医のハン・スーインは、国民政府の将軍の夫人だったが、良人が共産軍との戦いで戦死してからは、香港病院で働いていた。
ある日、病院の理事長宅でパーティが開かれた時、彼女はアメリカの従軍記者マーク・エリオットと知り合った。
仕事先のシンガポールから戻ったマークが病院にスーインを訪ね、泳ぎに行こうと誘った。
マークはシンガポールにいる妻には6年も会っていないと話し、スーインは香港では彼女のような混血を悪く思う人がいるからと言って、自分に深入りしないようにマークに釘を刺す。
スーインへの愛を語るマークに、スーインは眠れるトラを起こすなという中国のことわざを話すものの、彼女自身もマークに魅かれていく。
翌日は香港を一望できる病院の裏の丘で会い、草の上で二人は恋人関係になった。
マークは妻と正式に離婚して、スーインと結婚すると誓っただが、彼の妻は離婚に同意しなかった。
スーインはそれを聞いて、マークを優しくいたわるのだった。
その後、マークがマカオに出張すると、スーインは理事長の反対を押しきってマカオに向かった。
2人の楽しい週末もほんのひとときに過ぎない。
朝鮮に戦争が起こったためマークは現地へ急行しなければならなかったからである。
スーインは理事長にさからってマカオに行ったことから、病院に勤めることができなくなり、友達のノラの家に寄寓することになった。
彼女は毎日マークに手紙を書き、また彼からの便りを読んで淋しさをまぎらしていたが、ある日マークは共産軍の爆撃で帰らぬ人となった。
新聞でそれを知ったスーインは、マークと共に永遠の愛を語り合った思い出の町を歩く。


寸評
love is a many-splemdored thing
it's the April rose
that only grows in the early spring
love is nature's way of living
a reason to be living
a golden crown
that makes a man a king
映画「慕情」のテーマソングである。
このテーマ曲が最後になって歌い上げられるが、メロディはBGMとして常に流れているような印象である。
否応なく耳に残るのだが、これがまた実にいい曲で、「慕情」といえばシーンよりもこの曲が思い浮かぶ映画史に残る名曲である。
悲恋物語だが内容は深くはなく、主人公の ジェニファー・ジョーンズとウィリアム・ホールデンが楽しいデートを繰り返すだけなのだが、青春ものにはないウットリとさせる大人の恋の雰囲気に酔いしれることができる。

ジェニファー・ジョーンズのハン・スーインは中国人と英国人のハーフで、中国ではそうだったのか混血ということで差別を受けていて、ハン・スーイン自身もその事を引け目に思っている所がある。
時は1949年で香港はイギリス統治下にあり、中国本土では中国共産党と国民党が内戦を繰り広げている。
ハン・スーインは香港への大量難民を生み出している共産党を非難しているし、彼女の妹は共産党に殺されることを恐れて外国人の家に逃げ込んでいる。
国民党による台湾成立は1949年の12月で、1955年製作のこの作品ではアメリカが支持している台湾を擁護するように国民党を同情的に描いていると思われる。
ウィリアム・ホールデンのマークはハン・スーインと恋に落ち、関係が冷え切っている妻に離婚を切り出すのだが、その様子は描かれていない。
描いてもそれなりに盛り上がる演出ができたと思うが、どうやら争う場面などの暗いシーンは排除してあくまでもホンワカムードを押し通したかったのではないかと思う。
やましいことをしてはいけないと言っている病院の理事長も、実はハン・スーインの友人を愛人としているのだが、そのことを非難することもない。
理事長は病院の患者よりも自分の妻に気を遣う横暴な男なのだが、その事も追及することもしていない。
すべて、マークとハン・スーインの甘いムードを壊す要素として排除されている。
その事は一応の成果を上げているとは思う。

僕は社内旅行で香港とマカオに行ったことがあるのだが、雰囲気は1955年当時とは随分違っていた。
ビクトリアピークからの夜景ツアーが到着日に設定されていたのだが、寝坊して遅れてきた女の子を空港まで迎えに行くことになり、僕だけビクトリアピークには行けなかった。
様子が変わっていても「慕情」のロケ地から湾を眺めたかったのだが、後にピクトリアピークと想定されれいる場所は別の場所で撮影されたらしいことを知った (余談)。

北陸代理戦争

2021-11-19 07:31:57 | 映画
「北陸代理戦争」 1977年 日本


監督 深作欣二
出演 松方弘樹 野川由美子 地井武男
   高橋洋子 伊吹吾郎 矢吹二朗
   木谷邦臣 西村晃 ハナ肇

ストーリー
北陸富安組組長・安本(西村晃)は、若頭・川田(松方弘樹)に手をやいていた。
川田は、安本が競艇場の権利をゆずるという約束を守らないため、安本をリンチ。
二人の仲は決定的なものになる。
安本は、川田相手では勝目がないと考え、弟分・万谷(ハナ肇)に相談。
万谷は、仲介役として大阪浅田組の斬り込み遂長・金井組金井八郎(千葉真一)に相談。
金井はかねてより、北陸を支配下に入れようとねらっていたので、安本対川田の仲介役という名目で北陸に乗り出すことにする。
ある日、川田は万谷の闇打ちに合う。
重傷を負った川田は、きく(野川由美子)の実家で傷のてあてをする。
今は金井組の支配下となってしまった北陸を川田は、ひそかに取り戻そうと決心する。
川田は傷が治ってから万谷に復讐をするが、そのため刑務所に入り竹井義光(伊吹吾郎)と懇意になる。
出所後、川田は意表をついて大阪・浅田組に援助を依頼した。
金井は、その行動があまりにもすごく、浅田組は金井に手を焼いていたのだ。
そこで、浅田組は川田に援助することを約束する。
川田は、浅田組の援助のおかげで、金井組の連中を北陸から追い出すことに成功。
しかし、こんどは浅田組系の岡野組が幅をきかすようになった。
川田はそこで、今は落目の万谷と安本に、地元を北陸のやくざの手にもどすことを提案する。
そして、川田は兄貴分でもある岡野組に挑戦状を叩きつけるという結果になった。
かくして、なりふりかまわぬ北陸人特有のしぶとさの前に、大阪やくざは撤退を余儀なくされるのだった。


寸評
「仁義なき戦い 北陸代理戦争」としても良いような内容である。
例によって「この作品はフィクションであり、登場する人物及び組織名は架空のものである」との表示がなされるが、「仁義なき戦い」がそうであったように、この物語にもモデルは存在しているとの事である。
ラストで「俗に北陸三県の気質を称して越中強盗、加賀乞食、越前詐欺師と言うが、この三者に共通しているのは生きるためにはなりふり構わず、手段を選ばぬ特有のしぶとさである」とのナレーションが流れるのだが、作品はまさに北陸を舞台に繰り広げられる文字通りの仁義を無視した抗争劇を描いている。
冒頭で松方弘樹が親分に当たる西村晃を雪が降り積もる厳寒の土地に生き埋めにして脅迫している。
西村晃は弟分のハナ肇に助けを求めるが、松方弘樹からすればハナ肇はオジキ筋に当たる。
しかしそんなことには関係なく力によるぶつかり合いが演じられていくことになる。
ハナ肇の万谷は「仁義なき戦い」における金子信雄の山守を髣髴させる人物である。
西村晃の安本も同類の人物で、いい加減と思われる男が二人も登場するのは、舞台を北陸としているための演出によるものだろうか。
大阪や名古屋の組が北陸進出を目論んで圧力をかけているのは実社会の関係と同様だ。
都会の大資本が田舎の零細企業を飲み込んでいく姿と酷似している。
その中で安本や万谷はあっちに付き、こっちに付きと態度を豹変させながら生き残りを図っている。
入り乱れての関係は彼らだけではない。
野川由美子のきく、高橋洋子の信子、地井武男の隆士という三兄弟も骨肉を争う関係である。
男たちが盃に象徴される義理や筋目にこだわっているのに対し、女たちは感情に支配されてうごめいている。
姉のきくは川田といい仲であり、きくは川田の為に体を張っているが、川田はある事件をきっかけに妹の信子と結婚することになる。
川田が敵対している金井の盃をもらった隆士は、川田殺しを命じられたために妹の信子を利用して川田をおびき寄せ、その時信子は暴行を受けるという無節操な世界を展開するのだが、この姉弟姉妹の存在は面白い。

川田は孤軍奮闘で福井の土地を守るために、大阪の浅田組や金井組、名古屋の竜ケ崎一家の間を適当な言葉で泳ぎ回っている。
金井組を追い出したかと思ったら、同じ浅田組傘下の岡野組が進出してくる。
うまみがあると思えばたかってくるのがヤクザだ。
川田は「その人を倒さんと男になれん」という北陸ヤクザの鉄則を実践していくのだが、この作品における松方弘樹の熱演ぶりが際立っている。
この映画の凄いところは、川田のモデルとされている川内弘組長が映画のクランクイン当日に上部の組から破門を受け、さらに撮影が終了した約1ヶ月半後に喫茶店で4人の男によって襲撃され射殺されていることだ。
映画はフィクションかもしれないが、現実とシンクロしていたことになる。
川田は盃をかわした岡野と敵対することになり、「勝てない迄も、刺し違えることは出来ます、虫ケラにも、五分の意地って言いますからね」と宣戦布告ともとれる言葉を吐いている。
その結果が現実の社会で三国事件となるのだから、深作は怖くてもう実録路線映画を撮れなくなったのではないかと思う。

ボー・ジェスト

2021-11-18 09:00:05 | 映画
「ボー・ジェスト」 1939年 アメリカ


監督 ウィリアム・A・ウェルマン
出演 ゲイリー・クーパー
   レイ・ミランド
   ロバート・プレストン
   スーザン・ヘイワード
   ブライアン・ドンレヴィ
   J・キャロル・ネイシュ

ストーリー
英国のブランドン卿の邸宅には卿の夫人、姪のイソベル、それに孤児を養子として引き取ったボー、ジョン、ディグビーのジェスト3兄弟らが住んでいた。
ジェスト3兄弟は勇ましい遊びが好きで外国人部隊の砂漠の戦闘に憧れていた。
ブランドン卿は生活は楽でなく、夫人は秘宝の「青い水」を模造品に代えて生活をしのいでいたが、ボー・ジェストはこれを知っていた。
15年の月日が流れ、今ではジョンとイソベルは愛し合う仲だった。
ある日突然卿が金策に帰り、「青い水」を売ることになった。
ボーが売る前に青い水と名がついた宝石サファイアを見たいと言い出した。
夫人が秘密の部屋から取り出し皆の前で披露した。
面々が見守る中で突然電気が消えて暗くなり、再び明かりが灯った時にはサファイアが消えていた。
誰もが自分は盗んでいないと主張したが、翌朝ボーは盗んだのは自分だというメモを残して家出した。
しかもそれからディグビーも宝石を盗んだのは僕だと書いて出ていった。
残ったジョンも兄弟の後を追うことになり、イソベルはジョンに宝石を盗んでいないか尋ねると、ジョンは「この家で盗んだのはイソベルだけだ」と言い残して去っていく。
アフリカでフランス軍の外国人部隊に落ち合った3人はある夜「青い水」について話した。
これを聞き取ったマーコフ軍曹は、ボーが隠し持っているものと睨み、奪い取る機会を狙うようになった。
アラブ軍の猛攻でついにボーも傷ついて倒れ、ボーはジョンに手紙と包みをブランドンの叔母に届けてくれと言って息を引取った。
ジョンと落ち合ったディグビーはアラブ軍に合い、ジョンを逃すための犠牲となった。


寸評
オープニングは興味をそそる上手い入り方である。
砂漠の中にあるジンダヌフ砦にボージョレー少佐の部隊が到着するが、砦は異様な姿の死体だらけである。
ラッパ手1人が調査に入るが、砦は全員死んでる全滅状態だ。
もう一人が砦に入ると、死んでいる死体に手紙が残されていて、自分が宝石をを盗んだと書いてある。
ボージョレー少佐が入るがラッパ手がいなくなっていて、後から入った兵が見た死体もなくなっている。
ミステリーを示してこの後の展開に期待を持たせる導入部となっている。

場面は変わって15年前のイギリスで、子供たちが海戦ごっこで遊んでいる。
二隻の艦船が砲撃を浴びるシーンから入る描き方が凝っている。
長男がこの遊びを取り仕切っていて、彼らがその後の主人公たちになることが分かる。
遊びの延長で騎士の鎧の中に入ったボーは夫人の行動を見ることになり、それから15年後に成人した兄弟の姿と宝石の紛失劇が描かれる。
誰が盗んだのか分からないのだが、盗んだのはボーであることは明白であり、犯人探しに興味が行くことはない。
しかし、一体誰が電気を消したのか、それとも偶然にうまい具合に停電になったのか、ミステリーの一つだ。
3兄弟は外人部隊で再会するが、そこに悪役として鬼軍曹のマーコフが登場する。
このマーコフのキャラは強烈で、砦の場面では彼が主役ではないかと思うぐらい目立った存在である。
彼に比べれべれば、ゲーリー・クーパー演じるボーの影は薄い。
マーコフに反抗する者たちによる暴動が計画されるが失敗し、マーコフが処罰を断行しようとしたときにアラブ軍の襲撃を受け、砦の全員が応戦せざるを得なくなる。
そうなってからのマーコフの指揮ぶりが凄くて、ゲーリー・クーパーは主役の座を奪われている。
ゲーリー・クーパーが子供の頃のように長男としての差配を見せるところは少なかった。
マーコフは目を覆いたくなる行動をとるが、ボーが言うようになかなかの戦上手なのである。
戦場ではこの様な男が頼りになるのかもしれない。
砂漠の中を攻めてくるアラブ軍の描写は美しささえ感じるシーンの連続である。
一次攻撃、二次攻撃と変化を持たせて描いているが、二次攻撃以降の場面で、前回の攻撃で撃たれて死んだはずのアラブ兵の死体がないのはどうしたものかと思った。

やがて砦は全滅するが、その中でボーの死とマーコフの死が冒頭の謎を紐解くように描かれていく脚本の妙が示されて、大いに満足する展開である。
ジョンがなぜマーコフの死体を運んでいるんだと思っていたのだが、それがジョンとディグビーの会話の中で語られ、なるほどあの場面が伏線だったのかと唸った。
最初に「女性に対する愛は月のように欠けていく。だが兄弟愛は星のように不変である」との格言が示されているが、この作品は美しい兄弟愛を描いている。
昨今の映画では兄弟の確執を描くことが多いので、この様な純粋とも言える兄弟愛はかえって新鮮に思える。
ラストシーンは少し尻切れトンボ感があるように思うが、序盤に示されるミステリーや伏線の回収が巧みな作品で、制作年度を加味すると十分に堪能できる作品となっている。

ほえる犬は噛まない

2021-11-17 07:54:52 | 映画
「ほえる犬は噛まない」 2000年 韓国


監督 ポン・ジュノ
出演 ペ・ドゥナ
   イ・ソンジェ
   コ・スヒ
   キム・ホジョン
   キム・ジング
   ピョン・ヒボン

ストーリー
ユンジュ(イ・ソンジェ)は学者だが今は失業中で、大学に雇ってもらおうとコネを頼って就活をおこなっているがなかなかうまく行かない。
妻のウンシル(キム・ホジョン)が身重にもかかわらず働いていて、何とかマンションの家賃などの生活費をまかなっているので、ユンジュは彼女には頭が上がらず、妻のDVにも耐える毎日を送っている。
ある日、マンションで飼われている犬の鳴き声に気が立ったユンジュは、その犬を屋上から落とそうとするが、住人の老婆(キム・ジング)に見られたために断念して地下室へ行き、そこに棄てられていた衣装タンスに犬を閉じ込めて立ち去る。
ところが吠えていたのは別の犬だと知り、ユンジュは閉じ込めた犬を解放するために地下室へ戻ると、犬はマンションの警備員(ピョン・ヒボン)に食べられてしまっていた。
おまけに地下室には隠れて住んでいた住人(キム・レハ)に襲撃され何とか逃げ出したが、吠える犬への怒りはさらに高まることとなった。
ユンジュは吠える犬を見つけ、捕まえて屋上から投げ落としたが、それを別の建物にいたヒョンナム(ペ・ドゥナ)と友人のチャンミ(コ・スヒ)が偶然見ていた。
ヒョンナムはユンジュを追いかけたが取り逃がしてしまう。
ウンシルが仕事帰りに買ってきた犬をユンジュが散歩させていたところ、ちょっと目を離した隙に行方不明となってしまった。
妻に責めたてられたユンジュは必死に犬を探すが中々見つからず、手がかりを得るために張り紙をしていたところへヒョンナムが居合わせ捜索の手助けをすることになった。
彼女は地下室の住民が屋上でウンシルの犬を食べようとしている現場に出くわした。


寸評
オープニングで「ちゃんと管理して使ってます」なんてメッセージが流れるが、動物愛護協会や愛犬家が見ると卒倒しそうな内容で、もしかしたら動物虐待は行われていたのではないかと思ってしまうシーンが続く。
物語の舞台はあるマンションで、そこの住人の大学教授になれずに妻に食べさせてもらう男ユンジュと、管理事務所に勤めるものの上司や同僚から冷たい視線を浴びせられる女ヒョンナムという、ダメダメの男女を中心に話が展開するので中身はコメディである。
コメディなのでそんなバカなと思うシーンがありながらも、カメラワークを始めしっかりと描いているのでドタバタ的な軽さはなく本格ドラマの雰囲気を同時に有している不思議な作品となっている。

ユーモアはブラックでディテールを使った笑いを誘うものとなっている。
ユンジュに「韓国は昔から規則を守らない国だ」と言わせたりしているが、韓国人の多くがそのように思っているのだろうと想像する。
いっそ、「大統領も国家間の約束を守らない」と言わせてほしかった。
ユンジュが教授になる為の行為を見ていると、どうやら韓国社会はワイロ社会であることを感じる内容である。
一方で、コンビニまでの距離を測るのにトイレットペーパーを転がしてみたり、老婆の遺言状にあったのが「私の切干大根を食べて」だったりするクスクス笑ってしまう小ネタも多い。
コンビニまでの距離を測る賭けに負けたユンジュが妻のウンシルをお姉さんと呼ぶようになるのも可笑しい。
登場人物のキャラクターは笑うしかない。
ウンシルはひたすらクルミを食べる妻で、夫のユンジュを顎で使っている。
マンションの警備員は地下室で犬を食べているのだが、韓国って犬を食べる文化があるのかな?
ヒョンナムの女友達のチャンミは太目で、二人はまさにデコボコ・コンビといった風である。
チャンミはヒョンナムに「あのアマ!」とかつぶやいていて、仲がいいのか悪いのか分からない愉快な友達である。
地下室にはボロ布に紛れて住み込んでいる住人がいるが、彼も犬を食べようとしているから、やはり韓国には犬を食べる文化があるのだろう。
「ネギ゙を入れればもっと美味しいのに、馬鹿だなあ」と言って、鍋をつっつくシーンには笑てしまう。

この映画に出てくる人々は、みんな日常を生きているフツーの人たちで、特に中心人物の二人は、ダメな日常を送りながら、なんとかそこから脱却したいと思っている。
普通の人々の日常の中での幸せや怒り、悲しみといったものを抑制的に描いていて、単なるコメディとしていないのはホン・ジュノ監督の力量を感じさせる。
後半では、ユンジュとウンシルの夫婦の絆や、ユンジュの改心の情などを見せて観客をグッと感動させるツボも心得たものとなっているが、ひとひねりしたユーモアを組み入れてコメディ・スタイルを崩していない。
可愛がっていた犬が見つからなければ食事もできないと言っていた少女が、そんなことも忘れて新しい小犬を連れまわしている姿は、人はどれだけいい加減な動物であるかを言っているようだ。
ラストシーンではダメな生活から抜けだそうとする二人への光明を感じさせるが、しかしユンジュの姿は彼が日本人であれが、きっと、これでいいのかなあと思ってしまうだろう。
韓国は僕から見ればやはり変な国に思える。

ボウリング・フォー・コロンバイン

2021-11-16 08:27:07 | 映画
「ボウリング・フォー・コロンバイン」 2002年 カナダ / アメリカ


監督 マイケル・ムーア
出演 マイケル・ムーア
   チャールトン・ヘストン
   マリリン・マンソン
   マット・ストーン
   ジョージ・W・ブッシュ

ストーリー
マイケル・ムーア監督はコロンバイン高校での銃乱射事件をめぐるメディア報道と社会の反応に疑問を抱き、精力的な行動力とユーモアを武器に企業や著名人に取材し、さまざまな角度から米国銃社会を検証していく。
コロンバイン高校銃乱射事件の被害者、犯人が心酔していた歌手のマリリン・マンソンや全米ライフル協会(NRA)会長(当時)のチャールトン・ヘストン、『サウスパーク』の制作者マット・ストーン、清教徒のアメリカ大陸移住から現在までの銃社会の歴史検証や、コロンバイン市民らへのインタビューを行う。
そして、アメリカの隣国で隠れた銃器大国のカナダ、日本やイギリスなどの他の先進国との比較から、事件の背景と銃社会アメリカのいびつで異常な姿をあぶり出してゆく。
本作では銃規制を訴えてはいるが、しかしカナダはアメリカ以上に銃の普及率が高いのに、銃犯罪の発生率が低いのはなぜなのかという今まであまり疑問を待たれずにいたことにも、ある程度核心に迫る探求を試みる。
アメリカ建国の経緯に大きくまつわる先住民族インディアンの迫害・黒人奴隷強制使役以来、アメリカ国民の大勢を占める白人が彼らからの復讐を未来永劫恐れ続ける一種の狂気の連鎖が銃社会容認の根源にあるという解釈を導き出す。
作品中でムーアは、事件の被害者を伴ってアメリカ第2の大手スーパーマーケット・チェーンストアであるKマートの本社を訪れ、交渉の末全ての店舗で銃弾の販売をやめさせることに成功した。


寸評
コロンバイン高校銃乱射事件は1999年4月20日に発生した。
同校の生徒だったエリック・ハリスとディラン・クレボルドが銃を乱射し、12名の生徒と1名の教師を射殺した後、両名は自殺した。
重軽傷者も24名にのぼる衝撃的な事件で、日本でも大々的に報道されアメリカの銃社会が論じられた。
タイトルの「ボウリング・フォー・コロンバイン」だが、コロンバインは勿論コロンバイン高校のことであるが、その前のボウリングが意味深となっている。
一つはボウリングのピンが人の形に似ていて射撃の的になっていることによる。
もう一つは加害者たちが心酔していたロック歌手のマリリン・マンソンの影響が論じられているのに、彼らが犯行の直前に興じていたボウリングについては論じられていないと言う事への皮肉となっている。

猟銃などを除いて基本的に銃の所持が禁止されている日本から見ればアメリカの銃社会は異常である。
その銃社会を取り上げたドキュメンタリーであるが、テーマの割にはユーモアも交えた内容でインタビュー相手も、構成も練られたもので、アニメーションも交えて主張は分かりやすく見応えがある。
どうやらマイケル・ムーアはアメリカの銃社会と射殺事件の多さは差別とマスコミによる恐怖心を植え付ける洗脳にあると思っているようだ。
『サウスパーク』というテレビ番組の創設者マット・ストーンは射殺現場や携帯電話を警官に投げつける映像の方が視聴率がとれるのだと言う。
銃を所持している女性は、強盗が入った時に警察に電話するのは警官が銃を持っているからで、自分たちはその手間を省いているのだと真顔で語る。
日本でも警官を呼ぶだろうが、それは警官が拳銃を持っているからではなく、警察には逮捕特権があるからだ。
アメリカにおける暴力事件の逮捕映像は大抵の場合黒人である。
犯罪のニュースが流れると犯人像は黒人が連想されてしまう。
テレビが視聴者がそのように思ってしまうような映像を流し続け、隣人があたかも危険人物であるかのような報道を繰り返すことによって、人々は自衛のために銃を手にする。
マイケル・ムーアは同じように銃社会であるカナダにおいてはなぜ銃による射殺事件が少ないのかと疑問を投げかける。
NRAのチャールトン・ヘストンはアメリカの暴力の歴史だと語る。
明確な答えはない。
それでもスーパーで弾丸を販売している状態は、我々から見れば明らかに異常だ。
インタビューの中では銃の種類が色々出てくるが説明はない。
アメリカ人にとっては周知のことなのだろう。

カナダ人はアメリカは好戦的で話し合おうとしないと言う。
自分の土地に入ったというだけで銃を撃つと言う。
その姿勢は他国への軍事介入につながるもので、彼らの主張に一理あると感じる。