「砂漠の流れ者」 1970年
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/7a/fd6ea61aed8fa0374acb76cc1b29b78e.jpg)
監督 サム・ペキンパー
出演 ジェイソン・ロバーズ
ステラ・スティーヴンス
デヴィッド・ワーナー
ストローザー・マーティン
スリム・ピケンズ
L・Q・ジョーンズ
ストーリー
灼熱の砂漠の真ん中で探鉱試掘稼業のケーブル・ホーグは仲間のタガートとボーエンに裏切られ、手持ちの水が二人分となってきたところでライフルとロバと食糧を奪われた。
ケーブルは、彼らの墓にツバを吐く日がくるまで、石にかじりついても生き抜くと誓い、4日4晩歩き続けて砂を掘り水を探し当てたのだが、そこは駅馬車の通る道から40ヤードとは離れていなかった。
やがて通りかかた駅馬車の御者ベンが若干の食糧を与え、同乗をすすめたが、彼は断った。
こうして、ケーブルの砂漠生活は始まった。
鳥や獣もいて、なかなか快適な住みごこちだが、水を求めてくるタチの悪い連中と争うこともあった。
そんな頃、自称“説教師”と名乗る男ジョシュアが現れ、この給水所の所有権の請求を正式にやっておけと奨めたので、彼は町の登記所に行き、金を借りて登記した。
その町でグラマーな娼婦ヒルディと知り合い、泉に作った休憩所の調理をまかせるくらい意気投合したのだが、ほどなくヒルディは砂漠暮らしに退屈し、“サンフランシスコで待ってるわ”と発っていった。
彼には復讐の大仕事が残っていたのだが、やがてチャンスは到来し、2人が駅馬車でやってきたのだ。
しかし彼はすぐに仇討ちせず、むしろ泉のお蔭でいかに金を儲けたかを自慢し、儲けた金は泉に隠してあるとほのめかしながら昔の恨みは忘れたと言った。
翌日、隠し場所に入り込んだ二人を裸にして砂漠へ追いやり復讐の快感に酔った。
しかし、そんなことで引き下がらぬ彼らがやってきて、撃ち合いになったとき、馬のない馬車--自動車が飛び込んできて、未開の西部に生きるケーブルはビックリ。
しかも、自動車から出てきたのはヒルディだった・・・。
寸評
何とも悠長な復讐西部劇である。
ケーブル・ホーグは裏切った仲間に復讐を誓うのだが、普通の復讐西部劇と趣が違うのはケーブル・ホーグがひたすら裏切り者の出現を待っているだけというところだ。
そして、復讐劇でありながらそのことを忘れさせてしまう内容が描かれる。
近代化が近くまで押し寄せている時代だが、登場人物はどこか時代遅れな鷹揚な人々である。
ケーブル・ホーグはひょんなことから砂漠で水場を掘り当てる。
その土地を登記しておくように助言したのが、いかがわしい自称牧師のジョシュアなのだが、この男は好色で慰めごとを言っては女に迫って問題を引き起こして、この作品の喜劇性を高める役割となっている。
駅馬車会社の社長はケーブル・ホーグの話を信用しないが、銀行の頭取はなぜか信用して融資をしてくれる。
このあたりはサラリと描いていてご都合主義だが、観客には素直に受け入れられる展開だ。
そしてもう一人の重要人物である、娼婦のヒルディが登場する。
この女性がなかなかチャーミングに描かれていて、ヒロインらしい振る舞いを見せて楽しませてくれる。
ケーブル・ホーグが運営している駅馬車の休憩所で繰り広げられる夫婦気取りの様子が微笑ましい。
部屋の外にある風呂にヒルディが入っていて、そこに予想外に早く駅馬車が到着することになった時の彼女の慌てぶりが何ともおかしい。
裏切り者のタガートとボーエンが現れて、彼等に対する復讐も滑稽だ。
この作品では西部劇に付き物の拳銃によるガンマンの打ち合いはないし、はでな銃撃戦も登場しない。
裏切り者との対決はケーブル・ホーグがお金を埋めたと思われる場所を掘り返した穴にいる二人の所へケーブル・ホーグがガラガラ蛇を何匹も放り込んでやっつけるというものである。
甘く見た一人は撃ち殺されるが、もう一人は助命されるのだが、この男が馬鹿っぽい。
この男に後事を託すことになるのもほのぼのとしている。
兎に角、この映画は舞台を西部としているだけで、描かれているのは時代遅れというか、時代に取り残されそうな男の悲哀に満ちた生き様である。
悲哀に満ちているのだが、どこか滑稽で、監督のペキンパーはその様子をコマ落としやスプリット・スクリーン、映像の重ね合わせなどを用いて描いている。
流れるカントリーソングも郷愁を誘う。
ケーブル・ホーグは水飲み場を裏切り者のボーエンにまかせてサンフランシスコにいるはずのヒルディを探しに行こうとしたところでヒルディがやってくる。
しかも彼女は着飾って誰もがまだ見かけていない自動車でやってくる。
愛し合っていた二人が抱き合ってハッピーエンドと思わせたところでとんでもないことが起きる。
おいおいそんなのありかよという結末なのだが、このラストシーンの処理方法が中々小粋で泣かせる。
死にそうだという割にはとても元気なケーブル・ホーグが「この世は心配事ばかりだ。果たして、あの世はどうかな?」なんて言っているけれど、もしかするとこれはケーブル・ホーグの夢物語だったのかもしれない。
派手な「ワイルド・バンチ」を逆手に取るような静かな西部劇だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/7a/fd6ea61aed8fa0374acb76cc1b29b78e.jpg)
監督 サム・ペキンパー
出演 ジェイソン・ロバーズ
ステラ・スティーヴンス
デヴィッド・ワーナー
ストローザー・マーティン
スリム・ピケンズ
L・Q・ジョーンズ
ストーリー
灼熱の砂漠の真ん中で探鉱試掘稼業のケーブル・ホーグは仲間のタガートとボーエンに裏切られ、手持ちの水が二人分となってきたところでライフルとロバと食糧を奪われた。
ケーブルは、彼らの墓にツバを吐く日がくるまで、石にかじりついても生き抜くと誓い、4日4晩歩き続けて砂を掘り水を探し当てたのだが、そこは駅馬車の通る道から40ヤードとは離れていなかった。
やがて通りかかた駅馬車の御者ベンが若干の食糧を与え、同乗をすすめたが、彼は断った。
こうして、ケーブルの砂漠生活は始まった。
鳥や獣もいて、なかなか快適な住みごこちだが、水を求めてくるタチの悪い連中と争うこともあった。
そんな頃、自称“説教師”と名乗る男ジョシュアが現れ、この給水所の所有権の請求を正式にやっておけと奨めたので、彼は町の登記所に行き、金を借りて登記した。
その町でグラマーな娼婦ヒルディと知り合い、泉に作った休憩所の調理をまかせるくらい意気投合したのだが、ほどなくヒルディは砂漠暮らしに退屈し、“サンフランシスコで待ってるわ”と発っていった。
彼には復讐の大仕事が残っていたのだが、やがてチャンスは到来し、2人が駅馬車でやってきたのだ。
しかし彼はすぐに仇討ちせず、むしろ泉のお蔭でいかに金を儲けたかを自慢し、儲けた金は泉に隠してあるとほのめかしながら昔の恨みは忘れたと言った。
翌日、隠し場所に入り込んだ二人を裸にして砂漠へ追いやり復讐の快感に酔った。
しかし、そんなことで引き下がらぬ彼らがやってきて、撃ち合いになったとき、馬のない馬車--自動車が飛び込んできて、未開の西部に生きるケーブルはビックリ。
しかも、自動車から出てきたのはヒルディだった・・・。
寸評
何とも悠長な復讐西部劇である。
ケーブル・ホーグは裏切った仲間に復讐を誓うのだが、普通の復讐西部劇と趣が違うのはケーブル・ホーグがひたすら裏切り者の出現を待っているだけというところだ。
そして、復讐劇でありながらそのことを忘れさせてしまう内容が描かれる。
近代化が近くまで押し寄せている時代だが、登場人物はどこか時代遅れな鷹揚な人々である。
ケーブル・ホーグはひょんなことから砂漠で水場を掘り当てる。
その土地を登記しておくように助言したのが、いかがわしい自称牧師のジョシュアなのだが、この男は好色で慰めごとを言っては女に迫って問題を引き起こして、この作品の喜劇性を高める役割となっている。
駅馬車会社の社長はケーブル・ホーグの話を信用しないが、銀行の頭取はなぜか信用して融資をしてくれる。
このあたりはサラリと描いていてご都合主義だが、観客には素直に受け入れられる展開だ。
そしてもう一人の重要人物である、娼婦のヒルディが登場する。
この女性がなかなかチャーミングに描かれていて、ヒロインらしい振る舞いを見せて楽しませてくれる。
ケーブル・ホーグが運営している駅馬車の休憩所で繰り広げられる夫婦気取りの様子が微笑ましい。
部屋の外にある風呂にヒルディが入っていて、そこに予想外に早く駅馬車が到着することになった時の彼女の慌てぶりが何ともおかしい。
裏切り者のタガートとボーエンが現れて、彼等に対する復讐も滑稽だ。
この作品では西部劇に付き物の拳銃によるガンマンの打ち合いはないし、はでな銃撃戦も登場しない。
裏切り者との対決はケーブル・ホーグがお金を埋めたと思われる場所を掘り返した穴にいる二人の所へケーブル・ホーグがガラガラ蛇を何匹も放り込んでやっつけるというものである。
甘く見た一人は撃ち殺されるが、もう一人は助命されるのだが、この男が馬鹿っぽい。
この男に後事を託すことになるのもほのぼのとしている。
兎に角、この映画は舞台を西部としているだけで、描かれているのは時代遅れというか、時代に取り残されそうな男の悲哀に満ちた生き様である。
悲哀に満ちているのだが、どこか滑稽で、監督のペキンパーはその様子をコマ落としやスプリット・スクリーン、映像の重ね合わせなどを用いて描いている。
流れるカントリーソングも郷愁を誘う。
ケーブル・ホーグは水飲み場を裏切り者のボーエンにまかせてサンフランシスコにいるはずのヒルディを探しに行こうとしたところでヒルディがやってくる。
しかも彼女は着飾って誰もがまだ見かけていない自動車でやってくる。
愛し合っていた二人が抱き合ってハッピーエンドと思わせたところでとんでもないことが起きる。
おいおいそんなのありかよという結末なのだが、このラストシーンの処理方法が中々小粋で泣かせる。
死にそうだという割にはとても元気なケーブル・ホーグが「この世は心配事ばかりだ。果たして、あの世はどうかな?」なんて言っているけれど、もしかするとこれはケーブル・ホーグの夢物語だったのかもしれない。
派手な「ワイルド・バンチ」を逆手に取るような静かな西部劇だ。