おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

砂漠の流れ者

2021-02-28 09:06:16 | 映画
「砂漠の流れ者」 1970年


監督 サム・ペキンパー
出演 ジェイソン・ロバーズ
   ステラ・スティーヴンス
   デヴィッド・ワーナー
   ストローザー・マーティン
   スリム・ピケンズ
   L・Q・ジョーンズ

ストーリー
灼熱の砂漠の真ん中で探鉱試掘稼業のケーブル・ホーグは仲間のタガートとボーエンに裏切られ、手持ちの水が二人分となってきたところでライフルとロバと食糧を奪われた。
ケーブルは、彼らの墓にツバを吐く日がくるまで、石にかじりついても生き抜くと誓い、4日4晩歩き続けて砂を掘り水を探し当てたのだが、そこは駅馬車の通る道から40ヤードとは離れていなかった。
やがて通りかかた駅馬車の御者ベンが若干の食糧を与え、同乗をすすめたが、彼は断った。
こうして、ケーブルの砂漠生活は始まった。
鳥や獣もいて、なかなか快適な住みごこちだが、水を求めてくるタチの悪い連中と争うこともあった。
そんな頃、自称“説教師”と名乗る男ジョシュアが現れ、この給水所の所有権の請求を正式にやっておけと奨めたので、彼は町の登記所に行き、金を借りて登記した。
その町でグラマーな娼婦ヒルディと知り合い、泉に作った休憩所の調理をまかせるくらい意気投合したのだが、ほどなくヒルディは砂漠暮らしに退屈し、“サンフランシスコで待ってるわ”と発っていった。
彼には復讐の大仕事が残っていたのだが、やがてチャンスは到来し、2人が駅馬車でやってきたのだ。
しかし彼はすぐに仇討ちせず、むしろ泉のお蔭でいかに金を儲けたかを自慢し、儲けた金は泉に隠してあるとほのめかしながら昔の恨みは忘れたと言った。
翌日、隠し場所に入り込んだ二人を裸にして砂漠へ追いやり復讐の快感に酔った。
しかし、そんなことで引き下がらぬ彼らがやってきて、撃ち合いになったとき、馬のない馬車--自動車が飛び込んできて、未開の西部に生きるケーブルはビックリ。
しかも、自動車から出てきたのはヒルディだった・・・。


寸評
何とも悠長な復讐西部劇である。
ケーブル・ホーグは裏切った仲間に復讐を誓うのだが、普通の復讐西部劇と趣が違うのはケーブル・ホーグがひたすら裏切り者の出現を待っているだけというところだ。
そして、復讐劇でありながらそのことを忘れさせてしまう内容が描かれる。
近代化が近くまで押し寄せている時代だが、登場人物はどこか時代遅れな鷹揚な人々である。
ケーブル・ホーグはひょんなことから砂漠で水場を掘り当てる。
その土地を登記しておくように助言したのが、いかがわしい自称牧師のジョシュアなのだが、この男は好色で慰めごとを言っては女に迫って問題を引き起こして、この作品の喜劇性を高める役割となっている。
駅馬車会社の社長はケーブル・ホーグの話を信用しないが、銀行の頭取はなぜか信用して融資をしてくれる。
このあたりはサラリと描いていてご都合主義だが、観客には素直に受け入れられる展開だ。
そしてもう一人の重要人物である、娼婦のヒルディが登場する。
この女性がなかなかチャーミングに描かれていて、ヒロインらしい振る舞いを見せて楽しませてくれる。
ケーブル・ホーグが運営している駅馬車の休憩所で繰り広げられる夫婦気取りの様子が微笑ましい。
部屋の外にある風呂にヒルディが入っていて、そこに予想外に早く駅馬車が到着することになった時の彼女の慌てぶりが何ともおかしい。

裏切り者のタガートとボーエンが現れて、彼等に対する復讐も滑稽だ。
この作品では西部劇に付き物の拳銃によるガンマンの打ち合いはないし、はでな銃撃戦も登場しない。
裏切り者との対決はケーブル・ホーグがお金を埋めたと思われる場所を掘り返した穴にいる二人の所へケーブル・ホーグがガラガラ蛇を何匹も放り込んでやっつけるというものである。
甘く見た一人は撃ち殺されるが、もう一人は助命されるのだが、この男が馬鹿っぽい。
この男に後事を託すことになるのもほのぼのとしている。
兎に角、この映画は舞台を西部としているだけで、描かれているのは時代遅れというか、時代に取り残されそうな男の悲哀に満ちた生き様である。
悲哀に満ちているのだが、どこか滑稽で、監督のペキンパーはその様子をコマ落としやスプリット・スクリーン、映像の重ね合わせなどを用いて描いている。
流れるカントリーソングも郷愁を誘う。

ケーブル・ホーグは水飲み場を裏切り者のボーエンにまかせてサンフランシスコにいるはずのヒルディを探しに行こうとしたところでヒルディがやってくる。
しかも彼女は着飾って誰もがまだ見かけていない自動車でやってくる。
愛し合っていた二人が抱き合ってハッピーエンドと思わせたところでとんでもないことが起きる。
おいおいそんなのありかよという結末なのだが、このラストシーンの処理方法が中々小粋で泣かせる。
死にそうだという割にはとても元気なケーブル・ホーグが「この世は心配事ばかりだ。果たして、あの世はどうかな?」なんて言っているけれど、もしかするとこれはケーブル・ホーグの夢物語だったのかもしれない。
派手な「ワイルド・バンチ」を逆手に取るような静かな西部劇だ。

聖の青春

2021-02-27 10:53:04 | 映画
「聖の青春」 2016年


監督 森義隆
出演 松山ケンイチ 東出昌大 染谷将太
   安田顕 柄本時生 明星真由美
   鶴見辰吾 筒井道隆 竹下景子
   リリー・フランキー

ストーリー
村山聖(松山ケンイチ)は幼い頃から腎臓にネフローゼという難病を抱えていた。
漏れることのないたんぱく質が尿中に漏れ出してしまうことで顔や手足のむくみ、血圧の低下などがあり、悪い時には尿が出にくくなり血液が固まり命にかかわることもある。
聖は入退院を繰り返す中で、父から教わった将棋に夢中になる。
やがてプロ棋士を目指すようになり、森信雄(リリー・フランキー)に弟子入り。
15歳の頃から10年間森師匠と同居、師匠に支えられながら将棋に打ち込んでいった。
1994年、七段になった聖は将棋界最高峰のタイトル『名人』を狙い、森師匠のもとを離れ上京しようとする。
家族や仲間は反対する中、将棋にかける聖の情熱を見てきた森師匠は、彼の背中を押す。
将棋会館に行くと関西の村山として有名だったこともあり、遠慮されて橘正一郎(安田顕)と荒崎学(柄本時生)が来るまで誰も話しかけてくれなかった。
東京で荒れた生活をする聖に皆あきれるものの、聖の思いを理解し陰ながら支えていく。
前人未到の七冠を達成した同世代のライバル・羽生善治(東出昌大)を猛烈に意識する一方で憧憬も抱く聖。
橘と荒崎と飲みに行くが、酒癖の悪い聖は羽生に勝てば20勝の価値があるが荒崎に勝っても一勝の価値しかないと言ってのける。
名人位獲得のため一層将棋に没頭し、快進撃を続けていくが、彼の体をガンが蝕んでいた。
それでも医者の制止を聞かず、聖は“打倒、羽生”と“名人獲得”という目標に向かってなりふり構わず将棋を指し続ける。
名人目指して将棋に没頭する聖は順調な成績を収めていくが突然道端で倒れてしまう。


寸評
難病物でもありプロ棋士の世界を描いた内幕物でもある。
僕の将棋はヘボ将棋で弱いのだが駒の動かし方ぐらいは知っている。
最初の永世名人である木村義雄の名前ぐらいは知っているし、同じく永世名人である大山康晴や中原誠の活躍時代はよく知っている。
そういえばこの作品でも三名の揮毫による掛け軸が三本並んで将棋会館での対局シーンで写り込んでいた。
その後に登場した棋士で将棋の世界に詳しくない僕の記憶に残るのは谷川浩司、羽生善治ぐらいなのだが、この作品ではその羽生善治を東出昌大が演じている。
現役のバリバリ棋士でもあり、マスコミへの登場も多い羽生のイメージを出すのに苦労したような気がする。
漫画、酒、麻雀が好きな村山と、それらを全くやらない羽生との会話シーンが面白かった。

村山聖が倒れたり入院するシーンがあるものの、病魔と闘う場面は少なく悲壮感はないので難病物としての迫力には欠けている。
むしろ棋士の世界を描いた内幕物の要素が強く、僕には将棋会館内の描写が新鮮だった。
村山は関西の棋士で、冒頭では大阪の福島にある将棋会館での対局シーンがある。
対局は長時間を要するのだが、その時間経過をよくある時計を映して表現ではなく、朝の環状線の様子、昼の女子高生の下校姿などをスローで切り取り時間経過を感じさせる演出は好感が持てた。
村山は漫画が好きで本屋に立ち寄っているのだが、そこの女性店員との交流に広がりを見せなかった。
女店員は恋愛の対象者としての存在を感じさせるための存在だったのだろうか。
村山は自分の夢は名人になることと恋愛をすることだと言っているのだが、難病を抱え長生きを諦めている村山にとっての叶わぬ夢の象徴だったのかもしれない。

村山は直情的で棘があり人様に好かれるタイプの人間ではないように思えたが、橘や荒崎のモデルとなった仲間に巡り合えてよかったと思う。
特に荒崎のキャラクターは面白い。
じっさい彼のようなキャラクターの人間がプロ棋士の中にいるに違いないと思わせる。
そんな荒崎や師匠の森などが控室で批評しながら見ている中で行われた羽生との対局場面は、静かなものにならざるを得ない将棋の対局シーンながら緊迫感をだしている。
控室の面々は次の一手で村山の勝ちだと皆が思ったところで、村山は悪手を指してしまい負けてしまう。
その前の、後から考えると自分でもどうしてあんな手を指してしまったのかと疑問に思うような指し方をしてしまうことがあるいう会話が伏線となっている一手だ。
村山は棋譜を言いながら死んでいくが、将棋を教えた父親との関係がいいなと思わせた。
特にテイクアウトされた吉野家の牛丼を食べながら自分の葬式の話をする場面は、父親を知らずに育った僕にはうらやましく思えた。
藤井聡太という若き天才棋士が出現して盛り上がっている将棋界なので、作品的にはタイムリーだと思うが何か一つ物足りなさを感じさせたのは残念だ。

殺人の追憶

2021-02-26 06:32:27 | 映画
「殺人の追憶」 2003年


監督 ポン・ジュノ
出演 ソン・ガンホ
   キム・サンギョン
   パク・ヘイル
   キム・レハ
   ピョン・ヒボン
   ソン・ジェホ

ストーリー
1986年10月、農村地帯華城市の用水路から束縛された女性の遺体が発見される。
地元警察の刑事パク・トゥマンとチョ・ヨング、ク・ヒボン課長が捜査にあたるが、捜査は進展せず、2か月後、線路脇の稲田でビョンスンの遺体が発見される。
どちらも赤い服を身に着けた女性で、被害者の下着で縛られた上に、絞殺されていた。
パク刑事は恋人ソリョンの情報から、ビョンスンに付きまとっていたという知的障害を持つ焼肉屋の息子グァンホに目をつけ、彼を取り調べる。
そこへソウル市警の若手刑事ソ・テユンが赴任する。
グァンホを犯人と決めつけたパク刑事とチョ刑事は、証拠を捏造し、暴力的な取り調べで自供を迫る。
すると、グァンホは殺害方法を話し始める。
この供述からグァンホが犯人と思われたが、ソ刑事は遺体の状況からグァンホの麻痺した手では犯行は不可能であると断定する。
同時期に警察の拷問による自白強要が問題化し、ク課長は解任される。
新任のシン課長はソ刑事の主張を支持し、グァンホを釈放する。
ソ刑事は、殺害が雨の日に行われていると指摘し、行方不明になっているヒョンスン殺害を示唆する。
ソ刑事の進言を受けてシン課長は大掛かりな捜査に着手し、その結果、ヒョンスンの腐乱死体が発見される。
しばらくしてセメント工場近くで女性の遺体が発見される。
犯人は現場に手がかりとなる証拠を残さず実像が見えないが、女性警官ギオクがある情報をもたらす。


寸評
それまでの韓国映画が政府によって製作本数が制限され、日本に入ってこなかったこともあって僕は韓国映画と接してこなかった。
「殺人の追憶」は僕と韓国映画の最初の出会いであったが、その時の衝撃は大きかった。
抑圧されていた韓国映画、あるいは韓国映画人のエネルギーを感じさせた。
女性を狙った猟奇的な連続殺人事件を描いたサスペンスでありながら、いたるところに喜劇的要素が持ち込まれていて軽さを感じさせるが、不思議なことにそれが妙な緊張感をもたらしている。

殺人事件を追うパク刑事とチョ刑事の操作方法は無茶苦茶である。
それがパク刑事の自慢でもあるのだが、勘に頼る捜査で犯人と思われる人物を連行しては暴行を加えるという前近代的な捜査方法である。
それに反してソウルからやってきたソ刑事は冷静な判断を下す切れ者刑事という印象なのだが、それでも全くのヒーロー刑事ではない。
途中までは彼の推理が冴えわたるのだが、後半になるにつれてその推理が崩れていき理性をなくしてパク刑事と同類の刑事になっていく様が観客を引き付ける。
パク刑事が犯人とにらんだグァンホの運動靴の足跡を作りだして証拠写真を撮る行為も冷ややかに見ている。
犯行と被害者の共通点から犯人をおびき出すおとり捜査から、婦人警官のギオクが気付いた新たな共通点へと展開していくテンポにスキはない。
ローカル色豊かな村の様子が事件の背景として雰囲気を盛り上げている。

ソ刑事が容疑者と思われる男を24時間監視していたが、ふと眠りに落ちた拍子に男を見失ってしまう。
その夜にまたもや事件が発生したことでソ刑事の精神が一気に崩れていく。
終盤になって滑稽さは全く消え失せ、サスペンスとしての盛り上がりが増幅していく。
ポン・ジュノ監督の初作品ということだが、その力量は並々ならぬものがある。
殴る蹴るの暴行を繰り返し、拳銃を突きつけ自白を迫る行為は、まるで前半のパク刑事のやり方と変わらない。
それほどソ刑事が精神的に追い詰められているということだ。
パク刑事が2年生の大学出身なのに対し、ソ刑事が4年制大学出身者というプライドもそうさせたのかもしれない。
パク刑事とコンビを組むチョ刑事が高卒で、常に虐げられているのは学歴社会への批判ともとれる。
また、DNA鑑定をアメリカの機関に依頼して結果を待つのも、韓国という国家がアメリカの大きな影響下にあることを暗示しているようにも感じられる。

20年近く経ってパクは刑事という因果な商売をやめて民間会社のサラリーマンとなっている。
ごく普通の家庭を築いているようだが、ある日かつての連続殺人の第一現場を通りかかり、死体発見現場である水路の中を覗く。
僕は再びそこに死体があるかと思ったがそうではなかった。
しかし居合わせた少女の話から衝撃の事実がもたらされるエンディングも決まっている。
後半一気に盛り上がったこの映画によって、僕は韓国映画に引き寄せられたのだと思う。
やはり彼が真犯人だったのだろうか?

ザ・シークレット・サービス

2021-02-25 09:05:48 | 映画
「ザ・シークレット・サービス」 1993年


監督 ウォルフガング・ペーターゼン
出演 クリント・イーストウッド
   ジョン・マルコヴィッチ
   レネ・ルッソ
   ディラン・マクダーモット
   フレッド・ダルトン・トンプソン
   ゲイリー・コール

ストーリー
フランク(クリント・イーストウッド)は合衆国所属のシークレット・サービス・エージェント。
一匹狼的な異端児で相棒は臆病なアル(ディラン・マクダーモット)だけである。
ホリガンは、ケネディ大統領がダラスを訪問した際の護衛に失敗したことに深い自責の念を持っていた。
大統領の再選キャンペーンがスタートしたところに、大統領暗殺の脅迫が届いた。
やがてホリガンは殺し屋リアリー(ジョン・マルコヴィッチ)が大統領の行動を監視していることを知った。
さらにリアリーはJFK警護に失敗したフランクの過去を知っていて、電話で彼に挑戦してきた。
フランクはキャンペーンの護衛に加わるが、女性護衛官のリリー(レネ・ルッソ)以外の同僚は快く思わない。
変身術を身につけたリアリーはロサンゼルスに飛び銀行に口座を設けると、係の女性とルームメイトを惨殺し、ワシントンに戻った。
演説会場の安全を確保する忙しい日々の中でフランクとリリーに特別な感情が芽生える。
やがてリアリーの面が割れ、フランクは彼のアジトに侵入するが、彼を待ち受けていたのはCIAの局員だった。
逆探知に成功し、フランクとアルがリアリーのアジトを急襲した。
リアリーを追跡するフランクは、ビルの間を飛びこえようとして失敗し、危機を救ったアルは撃たれて絶命した。
やがて大統領がロサンゼルスに到着し、同時にリアリーもビジネスマンに化けて出現。
命令を無視するフランクは任務からはずされる。
フランクは、リアリーが部屋に残したメモが口座番号であることに気づく。
フランクはリアリーが多額の政治献金をして、大統領のパーティに出席していることを知る。
大統領のすぐそばの席に座るリアリー前にフランクは立ちふさがった。


寸評
シークレット・サービスを描いているが派手なアクションやカー・チェイスは出てこない。
主人公のフランクをスーパーマン的なヒーローとして描くことを避け、軽妙でユーモラスな面を見せながらバーでウイスキーを傾けながらピアノを奏でて女性エージェントを口説き、何度もにやけた表情を見せたりする実に人間的な男として描いているのが、かえって新鮮に映る。
大統領の乗る車を走りながら護衛する姿がフランクの年齢を上手い具合に感じさせている。
もう一つのファクターが、ケネディ暗殺事件の際に自分が役目を果たせなかったことを悔いていることだ。
しかも犯人のリアリーが指摘するように、もしかするとその時シークレット・サービスでありながら自分の身をかばったのではないかという疑念を感じさせる描き方は、主人公の精神構造を複雑にしていて興味を持たせている。

リリーによってフランクがケネディの浮気をもみ消して代わりに処罰されたことが語られている。
またリアリーはCIAの要人暗殺部門にいたということで、どちらもアメリカの闇の部分をそれとなく描いている。
秘密がばれないようにCIAがリアリーの殺害を計画したのか、それとも説得にいった仲間をリアリーが惨殺したのかは不明だが、リアリーが言うようにCIAが殺害しようとした方が説得力がある。
銀行の窓口嬢を殺害した理由や、プラスチックで拳銃を制作している理由、弾丸をキーホルダーに忍ばせる理由などが終盤で明らかとなる描き方は堂に行ったものだ。
それとなく描いて疑問を後から解きほぐす演出だったと思う。

CIAの暗殺要員として教育されたリアリーは、自分の人生を狂わし“怪物”に仕立て上げた政府への復讐のために大統領暗殺をくわだてる。
この男が主張する論理はおかしいのだが、そんな狂った男をジョン・マルコヴィッチが非常に説得力のある演技で見事に作り出している。
ハンターたちを撃ち殺すシーンは彼の非情さを見事に描いたものとなっている。
彼は別段個人的な恨みがあるわけでもないのになぜフランクを挑発するような行動をとったのか。
リアリーはフランクに「俺とあんたはよく似ている」と言っている。
リアリーは「お前は本当に死ぬ根性があるのか?」とフランクを挑発する。
彼は「なんのために生きるのか」を問題にしていて、結論的には「人生とはつまらないものだ」と思っていそうだ。
生の対極にある死を望んでいて、大統領を道連れとして死ぬことを望んでいたのかもしれない。
フランクへの録音メッセージを聞くと、自分は死にフランクは生きていることを予期したものと思える。
フランクの留守電に「俺たちのような誠実な人間には生きにくい世の中だ」というメッセージも残していたが、「俺たちは似ている」と言われたフランクは愛する女性とともに生きようとすることでフランクのメッセージを否定する。

ラストシーンのリンカーン記念堂で寄り添い合うフランクとリリー=イーストウッドとレネ・ルッソの後ろ姿、そこにかぶさるモリコーネの美しいメロディに深い感動をおぼえるが、見ていてどうもフランクとリリーの年齢差に違和感を抱き続けていた。
なんだか爺さんの老いらくの恋のような感じを受け続けたことがこの映画の欠点だろう。
とは言え、シークレット・サービスの裏の面を見せてくれた本作はイーストウッドの新たなキャラクターを示した。

サイコ

2021-02-24 08:32:00 | 映画
今日から第1弾が2019年6月19日だった「さ」になります。
「さ」の追加シリーズです。

「サイコ」 1960年


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 アンソニー・パーキンス
   ジャネット・リー
   ジョン・ギャヴィン
   ヴェラ・マイルズ
   マーティン・バルサム
   サイモン・オークランド

ストーリー
アリゾナ州の小さな町ファーベルの不動産会社に勤めているマリオン・クレーンは隣町で雑貨屋をひらいているサム・ルーミスと婚約していたが、サムが別れた妻に多額の慰謝料を支払っているために結婚できないでいた。
土曜の午後、銀行に会社の金4万ドルを収めに行ったマリオンは、この金があればサムと結婚できるという考えに負けて隣町へ車で逃げた。
夜になって雨が降って来たので郊外の旧街道にあるモーテルに宿を求めたマリオンは、モーテルを経営するノーマン・ベイツに食事を誘われた。
ノーマンは母親と2人でモーテルに接続している古めかしい邸宅に住んでいて、頭が良く神経質で母親の影響を強くうけていた。
ノーマンが1号室にマリオンを訪れた時、彼女は浴槽の中で血まみれになって死んでいた。
ノーマンは殺人狂の母親の仕業と見て4万ドルともどもに裏の沼に沈めた。
銀行に4万ドルが入ってないのを知った会社は、私立探偵アポガストにマリオンの足取りを洗わせていた。
マリオンの妹ライラは姉がサムの家に行ったと思いサムを尋ねてきたところ、探偵のミルトンもやってきて、2人ともサムの家にマリオンがやってきていないことを知った。
アポガストはファーベル町とサムの家の間にモーテルがあることを知り、それを調べに出た。
そこでマリオンが確かにモーテルに寄ったということを知った。
これから母親と会うという電話がアポガストからサムにかけられてきたが、アポガストは消息を絶ってしまった。
アポガストの連絡を待つサムとライラの2人は町のシェリフのチェンバースを訪れ意外なことを聞かされた。
ノーマンの母親は10年前に死んでこの世にはいないというのだ。
そうすると、マリオンが見た母親、アポガストが電話で伝えた母親とは――2人はモーテルに馳けつけた。
サムがノーマンをフロントに引き寄せておく作戦に、ライラはモーテルから屋敷へと忍び込んだ。


寸評
この映画は記念碑的な作品である。
作品の質以上にサイコ作品の原型となったからである。
この映画によって「サイコ」という言葉は日本を含む世界中に広まり、「精神異常」「多重人格」という意味を持つようになったのだ。
その異常精神を題材に各種の作品が制作され、時にサイコスリラーと呼ばれたり、時にサイコサスペンスと呼ばれる作品が存在したし、サイコホラーとうたわれた作品もあった。
反社会的な性格で、猟奇殺人もしくは快楽殺人を繰り返す殺人者であるサイコキラーを描いたものもある。
いずれにせよ、この作品によってサイコという言葉は一般的なものになった。

アンソニー・パーキンスが二重人格者であるノーマン・ベイツを演じているのだが、その演技力でというより、この作品でノーマン・ベイツを演じたということで、アンソニー・パーキンスは映画史の中にも、僕の中にも名を留めることになったのだと思う。
『友情ある説得』や『さよならをもう一度』もかれの代表作なのだろうが、作品的に劣る本作の印象の方が強い。

前半はマリオン(ジャネット・リー)という女性の逃避行が描かれる。
彼女は4万ドルという大金を横領しているため、途中で警官に不審がられる経緯もスリリングに描かれている。
警官は横領事件のことを知らないが、マリオンの挙動に疑問を抱き後をつけてくるのだが、特に強権的な尋問をするわけではない。
無言で不信感を表しているのだが、そのスタンスがサスペンス性を高めていたので、この警官の描き方は上手いと感じた。
やがてマリオンはモーテルに宿泊するが、そこで窓に映る女性の影を見、言い争いを聞く。
ノーマン(アンソニー・パーキンス)は一見好青年に見えたのだが、事務所の壁穴から1号室に案内したマリオンの姿をのぞき見する様子が描かれ、彼は普通の男ではなく、何かやらかしそうなことが分かる。
マリオンは過ちを犯したことを反省していて、「フェニックスに取り戻しに行く」という表現で会社に金を返す決意をしたことがうかがえるが、そこで事件が起きてしまう。
しかし、事件を起こしたのは母親の方で、ノーマンはそれを隠ぺいして調べに来た者たちをごまかすという展開になる。
ここからは登場人物が多様化して、妹のライラ(ヴェラ・マイルズ)や、探偵のアポガスト(マーティン・バルサム)などが登場し、マリオンの恋人であるサム(ジョン・ギャビン)も再登場してくる。
彼らが登場してくるテンポもよく、ストーリーが小気味よく運ばれていくので飽きることのない作品になっている。
モーテルのオーナーであるノーマンは隣接する古めかしい屋敷に住んでいるのだが、その屋敷が暗闇に浮かび作品の神秘性を出していた。
ライラはマリオンの滞在を彼女が記した計算メモで確信するが、内容からしてあのメモの大きさは小さすぎていないか? メモ内容をアップで出しても良かったと思う。
ヒッチコックはサスペンスを題材にした娯楽作品を数多く送り出した監督で、本作も記憶に残る一遍となっているが、二度見るとその評価が下がってしまう作品のように思う。

コンタクト

2021-02-23 09:02:00 | 映画
「コンタクト」 1997年 アメリカ


監督 ロバート・ゼメキス
出演 ジョディ・フォスター
   マシュー・マコノヒー
   ジョン・ハート
   ジェームズ・ウッズ
   トム・スケリット
   デヴィッド・モース

ストーリー
電波天文学者のエリーは、砂漠の電波天文台で観測中に、恒星ベガ付近から地球に向けて電波信号が発せられているのに気づく。
彼女は地球外生命体からのメッセージの探究をテーマに選び、大多数の科学者からの嘲笑や成功の確率の圧倒的な低さにも関わらず、何年も宇宙からの電波の観測を続けていた。
エリーが送られてくる電波信号を数字に変換すると、どこまでも続く素数の羅列になった。
これは、素数を理解するまでの水準に達した生物の住む惑星を探すため、何らかの知的存在が発したメッセージに違いなく、信号は単に素数を表しているだけでなく、複数の読み取り方ができることがわかった。
さらに世界中の国々が協力して解読を進めるうちに、驚くべき事実が判明。
メッセージには、乗員を宇宙へ運ぶことのできる宇宙間移動装置=ポッドの設計図が含まれていたのだ。
最初にメッセージを発見し、その後も解読の中心となってきたエリーだったが、彼女の功績を妬む科学者ドラムリンによって、科学調査班のリーダーの地位に彼女が適任かどうかを巡る争いが起こった。
彼女は国際的な影響力を持つ宗教学者で、政府の宗教顧問でもあるパーマー・ジョスに援護を求めた。
2人は、かつて愛し合った仲だったが、仕事第一のエリーのせいで、彼らの恋は短命に終わっていた。
宇宙に目を向けてきた科学者と、人間の内面に深く分け入ろうとする宗教学者、まったく異なる信念を持って生きてきた2人だが、メッセージを理解しようとする共通の情熱から新しい絆で結ばれ、改めて愛し合うようになる。


寸評
SF映画らしい綺麗な映像を随所に見せながら、現代を生きる我々に色々な問題提起をしていて、このような作品を撮らせると流石にアメリカ映画は上手い。
最初の方は宇宙人からのメッセージを捕らえようとする科学者たちの姿が描かれ、能書きの多い映画だなとの印象を持つが、話が進むにつれて徐々に面白さを増して引き込まれていく。

科学の発展は金銭的にも多くの無駄を発生させながら成し遂げてきていることが分かる。
エリー達が行っている研究は地球外の知的生物との交信というSF的なテーマである。
多くの研究がそうであるように莫大な資金と時間が費やされていく。
当然のように成果の見えない研究予算はカットされていく。
企業などのスポンサーがつく研究は恵まれた方なのだろうが、ここでも救世主的な人物が登場する。
ちょっとスーパンマン的であるが、功成り名遂げた人が死期を悟った時に思うことを示唆していたのかもしれない。
さらに組織における権力争い、功名心争いが加わって話が複雑な様相を見せてくる展開も飽きさせない。
アメリカ映画が時々用いる手法であるが、本物のクリントン大統領の映像をかぶせてリアル感をだしていく。
架空物語だと分かってはいるが、エイリアンや地球外生物が登場するわけではなく、ひたすらベガからの電波を解析する科学者たちの姿と、その情報をコントロールしようとする政府の思惑がぶつかって面白い展開を見せる。
その中心になるのがエリー・アロウェイ教授を演じるジョディ・フォスターで、証明できることしか信じない科学者が徐々に変化していく姿を好演していてキャスティングの妙が見える。
彼女は父親を愛していた事を問われ肯定すると、「証明できるのか」と問われる。
父を愛していたことは紛れもない事実だが、心の問題は証明することが出来ない。

そのことを提起するように科学と宗教の関係も観念的にならないように描かれている。
マシュー・マコノヒー演じる政府の宗教顧問は科学も宗教も真実を追求することでは一致していると答えている。
宗教の真実とは心の真実だろう。
科学と宗教は対立する言葉ではないのだと思う。
このテーマは重すぎて、十分に描き切れていたとは言い難い。
また、ベガから送られてきたメッセージを解読するくだりも少しあっけなく感じる。
エリーが見る海辺のシーンは美しい光景だが、ここでの盛り上がりは登場人物の割には欠けていたと思う。
登場させるのがあの人物でよかったのだろうか。
日本人にとっては、北海道が登場することは親近感をもたらせるが、人を出さないで下請け企業として貢献するという描き方は、カール・セーガンあるいはロバート・ゼメキスの日本観なのかもしれないが苦笑するしかない。
アニーが経験したと言い張ることは幻覚だと調査委員会で問い詰められるが、この場面はなかなか面白い。
これは人類への夢と警告を語ったスーパーマンの戯れだったのだとしても、随分と面白かったと思うのだが、大統領補佐官のような女性が漏らす言葉が余韻を残す。
宇宙における人類をしのぐ高等生物の存在を肯定しているようでもある。
宇宙の始まりはビッグ・バンだと言われても、その前はどうだったのかと思っている僕なのだが、無能で根性なしの僕はアニーにはなれない。

孤狼の血

2021-02-22 08:32:03 | 映画
「孤狼の血」 2017年 日本


監督 白石和彌
出演 役所広司 松坂桃李 真木よう子 滝藤賢一
   音尾琢真 駿河太郎 中村倫也 阿部純子
   中村獅童 竹野内豊 石橋蓮司 江口洋介

ストーリー
暴力団対策法成立直前の昭和63年。
広島の地方都市、呉原では地場の暴力団“尾谷組”と、広島の巨大組織“五十子会”をバックに進出してきた新興組織“加古村組”が一触即発の状態で睨み合っていた。
そんな中、呉原東署に赴任してきたエリート新人刑事の日岡秀一(松岡桃李)は、凄腕ながら暴力団との癒着など黒い噂が絶えないマル暴のベテラン刑事・大上章吾(役所広司)の下に配属される。
大上はヤクザの組織にどっぷり入り込み、警察からもヤクザからも一目置かれていて、捜査のためなら旅館に火を放ち、警察署の中で女(MEGUMI)にいかがわしい行為をさせてしまうような男であり、「警察じゃけぇ、何をしてもいいんじゃあ」と決めゼリフを言うような男である。
日岡の赴任早々、加古村組系列のフロント企業の経理担当が失踪する事件が発生。
暴力団絡みの殺人事件と睨んだ大上は、さっそく日岡を引き連れ捜査を開始する。
大上の理解者なのが、クラブ「梨子」のママ・里佳子(真木よう子)なのだが、彼女の店はヤクザがたむろし、彼女自身も若いヤクザを恋人に持っているがゆえ、徐々に抗争に巻き込まれていく。
小さな組・尾谷組を支えるのは若頭・一ノ瀬守孝(江口洋介)で、彼に仕える永川(中村倫也)はクレイジーな鉄砲玉として抗争に身を投じる。
尾谷組に執拗な嫌がらせを続けるのが、加古村組の若頭・野崎康介(竹野内豊)で、彼の配下の構成員・吉田(音尾琢真)は股間に仕込んだ“ごっつい真珠”が自慢で、里佳子を我がものにしようとしている。
大上は非合法な方法で捜査を続けていくが、彼の過去に関するネタを握った新聞記者(中村獅童)が現れ、大上は苦境に立たされ、ついに・・・。


寸評
舞台は広島の呉原市となっているが、それが架空の都市であっても呉市であることは容易に想像がつく。
広島の呉と言えば、我々の年代の者は直ちに「仁義なき戦い」を思い出す。
原作者の柚月裕子さん自身が「仁義なき戦い」へのオマージュを込めて書いたとおしゃっているから、映画も「仁義なき戦い」へのオマージュとなっている。
暴力団同士の抗争を背景にしているが、「孤狼の血」はむしろ警察内部に重心を置いて描いている。
そのまた中心が大上で、彼の捜査方法は無茶苦茶でヤクザから小遣い銭も受け取っている。
その大上とコンビを組んでいながら対極にいるのが若い日岡である。
日岡は正義感にあふれているが、見ているうちに両者ともそれぞれの正義感で動いていることが分かってくる。
日岡の正義感は分かりやすいが、大上は大上なりの正義から行動しているのだ。
殺された男が無人島に埋められていることを突き止めた大上が、島へと向かう舟の上で大勢の刑事たちの中でただ一人手を合わせる姿に彼の中にある正義を垣間見る。
大神が守ろうとしている正義の矛先は一般市民である。
ヤクザ同士で殺し合いをやっているのは構わないが、一般市民に手を出すことは許せないのだ。

組織の中の個人は弱い存在だ。
ヤクザ社会の下っ端たちは組を守るために身代わりとなって刑務所に入らねばならない。
暴力団には警察権力に守られ強い態度でいる大上も、組織によって自分が抹殺されることを恐れている。
大上の属している組織は警察であり、その組織あっての大上なのである。
権力機構である警察組織も腐っていて、幹部たちは自分たちの権威を守るためにでっち上げの発表をする。
腐った組織にいる大上は悪徳刑事の役回りを引き受け弱者を守っているのだが、彼はあくまでもダーティだ。
女たちも大上によってダーティな役割を押し付けられているが、かつてひどい目にあっていた自分を助けてもらった恩義からか嫌々やらされている風でもない微妙さが大山の人格を擁護している。
仲間の刑事たちは、広島から大組織の暴力団が進出してくることが分かると、大上がいないことで打つ手が分からず「大上さんがいないのに・・・」と嘆く。
日岡は里佳子から大上の日記を託されるが、大上はFBIのフーバーと同じ手法で自分を守ろうとしていたことが明らかとなる。
その日記を見て目を覚ました日岡の変身振りは見事である。

僕はロケ地巡りで呉市に行き、日岡と里佳子が歩いた黄ビル前の楓橋を訪ねてみた。
里佳子が吉田とやり取りする喫茶店「ブラジル」も訪問し、ママさんから撮影時の話も聞かせて頂いた。
それぞれのシーンが思い出されて感慨も深くでロケ地巡りもいいものだと思った。
日岡を引き立てるための大上を演じた役所広司は年齢を感じさせない迫力で「さすが!」と唸らされる。
白石和彌のバイオレンス描写もスゴイ。
男の自慢する真珠を取り出す場面などは、ここまでやるかというシーンになっている。
石橋蓮司の親分が発する「びっくり、どっきり、○○トリス」なんてよく思いついたもので、笑ってしまう。
懐かしい東映実録路線が帰ってきたという感じで、嬉しくなってしまう作品だ。

コミック雑誌なんかいらない!

2021-02-21 10:34:55 | 映画
「コミック雑誌なんかいらない!」 1986年 日本


監督 滝田洋二郎
出演 内田裕也 渡辺えり子 麻生祐未 原田芳雄
   小松方正 殿山泰司 常田富士男 ビートたけし
   郷ひろみ 片岡鶴太郎 桑名正博 安岡力也
   片桐はいり 趙方豪 三浦和義 桃井かおり
   横澤彪 おニャン子クラブ

ストーリー
ワイドショウのレポーター、キナメリは突撃取材で人気がある。
妻はコマーシャル・タレントだが、二人の時間帯はまったくかみ合わない。
その日も、成田から飛び立つ桃井かおりに、放送作家の高平哲郎氏との恋愛についてマイクを向けていたが、まるで相手にされなかった。
しかし、ワイドショウの司会者はそのコケにされ方がいいと誉める。
松田聖子、神田正輝の結婚式が近づいており、キナメリは聖子の家に張り込み、彼女が喜びのあまり、風呂場で唄う「お嫁サンバ」を録音することに成功するが、電信柱に昇っているところを警官に捕ってしまう。
警察ではこっぴどく叱られ、始末書を書かされるが、プロデューサーはどんどん過激にやれ、後の面倒は局が見るからとキナメリを煽る。
キナメリは聖子・正輝の結娘式ではガードマンに殴られ、準備中と札の出ているフルハムロード・ヨシエに入って三浦和義にマイクを向けてコーラを浴びせかけられてしまう。
彼は大阪に向かい、山口組、一和会の抗争の取材もする。
その頃彼のマンションの隣りに住む老人が、セールス・ウーマンから金を買ったという話を聞く。
番組で、金の信用販売についてレポートしたいとプロデューサーに提案するが相手にされない。
夜の新宿を歩くキナメリは、アルタの壁面のビデオで三浦が逮捕されたことを知った。
日航機の堕落を取材したキナメリは東京に戻り、金の信用販売会社、社長のマンションに向かうと、そこに二人組の男が現れ、取材陣の前で窓を破って中に入ると、アッという間に社長を刺殺してしまう。


寸評
「滝田洋二郎監督、内田裕也主演の映画、コミック雑誌なんかいらない!の上映が始まります。場内は消防法に付きセックスはご遠慮ください」というナレーションで始まるので、この映画は多分にオフザケがあるのだとの意識を持って見ることになる。
そして驚かせるのが冒頭の桃井かおりと高平哲郎との交際スキャンダルの一件で、桃井がなんと本人役で登場しているのだが、桃井かおりがオファーを受けての出演だったのかどうか分からない。
しかし映像を使っている以上、了解は得ていたんだろうなとは思う。
前半は本当か嘘か分からないような内容で、造語を作ればフェイク・ドキュメンタリーとでも呼ぶのがいいだろう。
そう思わせるのが次に続くバーでの出来事だ。
内田裕也の盟友・安岡力也が実名で登場し、同席していた桑名正博に当時内田が感じていたであろうロック界に対するマスコミの扱いに関して高圧的な文句を言わせるというシーンで、言われているのが日本のロック史に重要な足跡を残してきた内田裕也で、桑名に「ロックが分からん奴」と罵られるところは笑える。

当時ロス疑惑の渦中にあった三浦和義本人を登場させて、キナメリが突撃取材を敢行するというエピソードが続くが、ここでも三浦和義がオファーを受けていたのかどうか疑わせるような内容で、かなりハードな内容だ。
僕たちの世代にとってはロス疑惑は記憶に残っているが、今の世代にはロス疑惑とは何なのか分からないだろうから、ここでの突撃取材はピンと来ないかもしれない。
その意味では、この時代の映画であって普遍的要素の少ない作品だと思う。
石原真理子と玉置浩二のスキャンダルもそうだし、姿を見せない石原真理子がスプレーをぶっかけ、続いて登場した横浜銀蝿の嶋大輔がラブホテルから出てくるシーンを演じていて、キナメリや撮影スタッフに対し「銀蝿みたいにまとわりつきやがって」と言わせたり、神田正輝との結婚式を控えた松田聖子の部屋から、彼女が歌う郷ひろみの「お嫁サンバ」が聴こえてくるうおかしさを描かれると、やはりこれはドラマなのだと思えてくる。

そのくせ山口組と一和会の内部抗争を描いて、山口組の田岡組長宅前を撮影し、ドキュメンタリー風を見せる。
組員にインタビューに行き怒鳴られるシーンは迫力があり、内田が及び腰になるカメラマンを「前に出て行って撮れ」と叱咤する場面は生々しい。
と、思った瞬間子供たちを登場させコントを演じさせている。
時事ネタとして外国人女性を使った不法就業や、豊田商事による金の地金を用いた悪徳商法による組織的詐欺事件を髣髴させるエピソードも描いており、この事件は映画の重要なファクターとなっている。
リアルさと滑稽さのアンバランスがこの映画の持ち味で面白い点だ。

分からないのは当時人気番組だった「夕やけニャンニャン」のおニャン子クラブを登場させたり、日本航空123便墜落事故を取り上げている点で、何のためにこのエピソードを挿入したのかよく分からない。
僕には意味不明のエピソードに思えた。
体験レポートのパートは全くのお遊びだ。
特にホストクラブで郷ひろみが登場するエピソードはオフザケの最たるものとなっている。
1985年の世相を描いた映画だが、阪神タイガースの優勝がない。

孤高のメス

2021-02-20 11:51:02 | 映画
「孤高のメス」 2010年 日本


監督 成島出
出演 堤真一 夏川結衣 吉沢悠 中越典子
   松重豊 成宮寛貴 矢島健一 平田満
   余貴美子 生瀬勝久 柄本明

ストーリー
現役の看護師でありながら、病院内で適切な処理を受けることが出来ずに急死した母・浪子の葬式を終えた新米医師の息子・弘平は、整理していた母の遺品から一冊の古い日記帳を見つける。
そこには生前看護師を天職と語っていたとは思えない泣き言が綴られていた……。
1989年。浪子が勤めるさざなみ市民病院は、大学病院に依存し、外科手術ひとつまともにできない地方病院だったが、そこに、ピッツバーグ大学で肝臓移植も手掛けた当麻鉄彦が、第二外科医長として赴任してくる。
着任早々の緊急オペにも、正確かつ鮮やかな手際で淡々と対応する。
患者のことだけを考えて行動する当麻の姿勢は、第一外科医長・野本らの反発を招く一方、慣例でがんじがらめになった病院に風穴を開けていく。
特に、オペ担当のナースとして当麻と身近に接していた浪子は、彼の情熱に打たれ、仕事に対するやる気とプライドを取り戻していった。
ある日、第一外科で、一年前のオペが原因で患者が亡くなる事態が発生。
デタラメなオペをしながらそれを隠蔽、責任を回避する野本と対立して病院を去る青木に、当麻はピッツバーグへの紹介状を渡す。
そんな中、大川が末期の肝硬変で病院に搬送されるが、大川を助ける方法は生体肝移植のみだった。
だが、成人から成人への生体肝移植は世界でもまだ前例のない困難を極めるものだった。
当麻が、翔子ら家族に対して移植のリスクを説明する中、浪子の隣家に暮らす小学校教師・静の息子・誠が交通事故で搬送されてくる。
数日後、脳死と診断された誠の臓器提供を涙ながらに訴える静の想いに打たれた当麻は決断する…。


寸評
1989年の出来事を回想形式で描くが、描かれるのは脳死肝移植である。
当時は脳死移植が認めておらず、1997年に脳死臓器移植法が成立して脳死肝移植も可能となったようだ。
医療ドラマはテレビでも形を変えて色々と制作されるようになっているので、映画化にあたっての最低条件として手術シーンのリアルさが求められる。
その点においては医師の堤真一、ナースの夏川結衣の嘘っぽさを全く感じない演技と、リアルな臓器の映像とで及第点だった。

腕利きの新任医師と、権力欲のある病院を牛耳る医師との対立と言う構図はテレビドラマを含めて数多くある。
本作も例外ではない。
その権力の背景として、個人的名誉欲の他に大学病院の存在をあげているのが目新しいところで、大学病院の医師と医療に頼る地方病院の姿が描かれている。
僕だっていつ地方病院に運び込まれるか分からないが、実際に生瀬勝久のような医者に不幸にも当たったら嫌だなと思う。
どこかの大学病院で技術不足の医師によって多くの命が失われていた報道もあったので、生瀬勝久が演じた野本医師のような人はいるのかもしれない。
しかし医学のことなど全く分からない僕たちは担当医師を信じるしかない。
そうなった時にはいい先生に当たりたいなあ。
「そんなやつホントにいるのか?」と思われるスーパードクターである。

当麻医師は院内の旧態依然とした慣例に囚われず、患者のことだけを考えて正確かつ鮮やかに処置を行う。
看護師の中村は初めて医療らしい医療に出合い、失いつつあったやる気を呼び起こす。
物語は亡くなった中村の日記を回想する形で進んでいくが、社会派映画としての暗さはない。
むしろエンタメ性を盛り込んだ明るいものとなっている。
まず肝移植を受けることになる大川市長(柄本明)のキャラが際立っている。
当麻と対極の医師として野本という悪役を登場させ、観客が当麻に感情移入しやすいようにしている。
そして、当麻は「手術はセーターを編み上げていくような緻密なもの」と言い、手術中に都はるみの演歌を流すと調子が出るといった設定などである。

後半の命をつなぐ脳死肝移植の話は、特に譲る側の家族の姿が涙を誘う。
臓器移植手術は難しい手術なのだろうと思うが、脳死判定はさらに難しい判断が求められるのではなかろうか。
今はその基準が徐々に整備されて行ってるようなのだが、命の判定は慎重にしてほしい。
命のリレーとして、亡くなった人とその家族の願いが引き継がれるのはよくわかるのだが…。

医療ものとしてフィクションと現実のバランスがとれた、見やすいエンタメ作品となっているので、多くの人が退屈せず楽しめる作品になっていると思う。

告発の行方

2021-02-19 08:00:38 | 映画
「告発の行方」 1988年 アメリカ


監督 ジョナサン・カプラン
出演 ジョディ・フォスター
   ケリー・マクギリス
   バーニー・コールソン
   レオ・ロッシ
   アン・ハーン
   カーメン・アルジェンツィアノ

ストーリー
ミルという名の酒場から飛び出してきた若い男が、公衆電話から警察にレイプ事件が起きていると通報、彼の後を追うようにミルから出てきた半裸の女性が通りで必死に車を止めてそれに乗り込んだ…。
被害者はサラ・トバイアスで、酔ってマリワナも吸っていた彼女を3人の男達が犯したのだという。
サラから事情を聞いた地方検事補キャサリン・マーフィは、彼女とダンカン保安官を伴ってミルに行き犯人達を確認する。
やがて事件の捜査は進み、犯人側の弁護人が真っ向から戦いを挑む姿勢を見せたことにより、キャサリンは様々な証拠を基に裁判の状況を予測するが、被害者に有利なことは何ひとつなく、彼女は渋々ながらも、3人の容疑は過失傷害との裁定の取引きに応じた。
この事実を知ったサラはキャサリンを激しく責め、深く傷つき悲しみにくれる。
傷つき入院するサラを見舞ったキャサリンは、身も心も打ちひしがれてしまっている彼女の姿に、女性として検事として真にあるべき道を教えられ、再び事件を裁判の場で争う決意を固めた。
レイプを煽り、そそのかした男達を暴行教唆罪で告発しようという彼女は、サラの友人でミルのウエイトレス、サリー・フレイザーに暴行教唆犯を特定してもらうが、その際サラが事件直前、暴行犯の1人、大学生のボブと寝てみたい、とサリーに言った事実が明らかになる。
窮地に立たされたキャサリンは、事件の夜に警察に通報した若い男ケン・ジョイスを探し出すが、彼はボブとの友情から真実を話そうとしない。
そして遂に裁判の日がやってくる・・・。


寸評
レイプ事件を描いているがレイプした男を弾劾するのではなく、その場に居合わせてレイプを煽り立てた男たちを非難する内容となっている。
性犯罪事件は被害者が裁判と言う場で二度目の被害者となること恐れて泣き寝入りすることも多いと聞く。
被害者のサラは法廷でレイプされた状況を必死で答えるが、被告側の弁護士の反論にあってしまう。
被害者が晒し者なってしまう状況なのだが、現実社会ではもっとひどいことが起きていると思う。
サラは強い人間だが、多くの女性たちは世間の好奇の目を浴びることになるだろうし、あらぬ噂を立てられることも有るに違いない。
日本の裁判では被害者の人格を守るために、被害者の姿を隠すボードが立てかけられるようになったが、ここでのサラは傍聴席の前に姿を現している。
しかしサラが世間から興味本位の目で見られることや、からかい半分の嫌がらせを受ける場面はない。
むしろ被害者のサラがかなりいい加減な女性であったことが描かれる。
その為にレイプ犯を強姦罪に問う事が出来ず、司法取引で過失傷害で治まってしまう。
実刑判決が下りるが微罪の内である。
自らの対応を反省した検事補のキャサリンは、レイプを教唆したとしてレイプ現場にいながら止めることをせず煽り立てた男たちを告訴することにし、映画はその様子を描いていく。

誰がその場にいた男たちだったのかのサスペンスには乏しいものがあるが、ちょっと素行の良くないサラがレイプされるに至るシーンは迫力があり、悲惨なシーンとなっている。
男たちのゲスぶりが描かれ、男の僕でさえヘドが出る思いだから、女性観客はどのような思いで見ただろう。
群集心理が暴走していく恐さをこれでもかと描いていくすさまじいシーンとなっていて、ジョディ・フォスターの熱演が光る。
実はこの現場をサラの友人のサリーや、通報してきたケンも見ていたはずなのだが、彼らも男たちの行為を止めることをしていない。
僕は友人を救えなかったサリーの苦悩を描いても良かったと思うし、何よりも通報したケンが親友との間で苦悩する姿を描いても良かったと思っている。
特にケンは友人から、証言すれば自分の刑が5年に延びてしまうではないかと責められ、一度は記憶がないと証言を変えようとしている。
しかし裁判では証言をするようになるのだから、彼には相当の葛藤があったことが想像される。
その葛藤に打ち勝ったプロセスが描かれていないので、判決後に浮かべたケンの笑顔には非常に違和感を感じてしまった。
出所してきたボブと証言したケンの関係はどうなるのだろう?
ボブはケンを恨みに思って何か良からぬことが起きるのではないかと、余計なことを想像してしまった。

アメリカでは集団によるレイプ事件が多発していることが最後にテロップされるが、「告発の行方」は煽り立てることも見て見ぬふりをすることも共犯に該当するのだと主張する啓蒙作品である。
サラはレイプの被害者になってしまうが、好奇の目が彼女の上に注がれなかったのは救いであった。

告発のとき

2021-02-18 08:32:16 | 映画
「告発のとき」 2007年 アメリカ


監督 ポール・ハギス  
出演 トミー・リー・ジョーンズ
   シャーリーズ・セロン
   スーザン・サランドン
   ジョナサン・タッカー
   ジェームズ・フランコ
   フランシス・フィッシャー

ストーリー  
2004年11月1日、元軍警察のハンク・ディアフィールドのもとに、軍に所属する息子のマイクが軍から姿を消したとの連絡が入る。
軍人一家に生まれ、イラク戦争から帰還したばかりのマイクに限って無断離隊などあり得ないと確信するハンク。
不安に駆られた彼は、妻のジョアンを残し息子の行方を捜すため、帰還したはずのフォート・ラッド基地へ向かう。
同じ隊の仲間に話を聞いても事情はさっぱり分からず、念のため地元警察にも相談してはみたものの、まともに取り上げてはもらえず途方に暮れる。
そんな中、女性刑事エミリー・サンダースの協力を得て捜索を続けるハンクだったが、その矢先、マイクの焼死体が発見されたとの報せが届く。
殺害現場は基地の敷地外だと見抜き、一歩一歩真実を解き明かしていく。
しかしそこには父親の知らない息子の”心の闇”が隠されていた。
悲しみを乗り越え、真相究明のためエミリーと共に事件の捜査に乗り出すハンクだったが…。
疑うことなく抱き続けた自らの信念を根底から覆される時、人は真実とどう向き合い、どう答えを出すことができるのか・・・。


寸評
真正面から反戦を唱えているわけではないけれど、戦争の狂気やそれに毒された男たちの悲劇が描かれていく。
麻薬取り引きを匂わせ、ミステリー調で展開していくが、イラクで息子が携帯のビデオ機能で撮った映像が解析回復されていくにつれて、父親が知らなかった息子の姿を感じていく展開が、派手さがない分、余計に言いようもない歪んだ戦場の実態を感じさせた。

我が子を戦場に送り、そして失ってしまった父母の後悔と怒り。
特に自宅で待機する妻が電話口で「せめて一人は残してほしかった」と泣きながら叫ぶ姿は痛々しかった。
戦争に巻き込まれる実感と実体験をなくした我々日本人には一番ピンとこない感覚ではあるが、親としての悲しみだけは通じるものがあった。

殺された息子も、ある事件をきっかけに心を病んでいたことが明らかになる。
それが明らかになった時の父親のやるせない表情がなんともいえない。
冒頭で逆向きに掲揚されている星条旗を見つけ「それは助けを待っている時だ」と語ったラストに掲げられる逆さまの星条旗が、監督の静かだが伝えたかったメッセージではないかと思う。
ベトナム戦もそうだったが、厭戦気分や、戦争そのものへの疑問から反戦映画はたくさん撮られてきたが、イラク戦もまた泥沼の状況に追い込まれていて、そこには異常が正常化している狂気が発生していることを感じさせた。
真実を告白する真犯人の表情がそのことを物語っていて戦慄を覚える。

父親役のトミー・リー・ジョーンズは流石で、頑固一徹で、息子の死にも取り乱さない、しかし、それでも抑えきれない感情があふれる父親を見事に演じている。
その性格を表すためにベッドメイキングするシーンをコマ落としで見せたりしたのは秀逸な処理だと感じたが、願わくは、同僚たちのセクハラや軍との軋轢に苦しみ、捜査依頼者を見殺しにしてしまったことに悩む女性刑事などはもう少し描きこんでもよかったのではないかとも感じた。

哭声/コクソン

2021-02-17 08:08:23 | 映画
「哭声/コクソン」 2016年 韓国


監督 ナ・ホンジン
出演 クァク・ドウォン
   ファン・ジョンミン
   國村隼
   チョン・ウヒ
   キム・ファニ
   チャン・ソヨン

ストーリー
のどかな田舎の村。
いつの頃からか、山の中の一軒家に一人の日本人(國村隼)が住み着き、村人たちの間にこのよそ者に対する不気味な噂が広まり始めていた。
彼がいつ、なぜこの村に来たのかを誰も知らなかった。
男についての謎めいた噂が広がるにつれて、村人が自分の家族を惨殺する謎の猟奇事件が連続して発生する。
殺人を犯した村人は、必ず濁った眼に湿疹で爛れた肌をして、言葉を発することもできない状態で現場にいるのだった。
気のいい村の警察官ジョング(クァク・ドウォン)は、よそ者の日本人が関係していると睨んで捜査を進めるが、ある日自分の幼い娘ヒョジン(キム・ファニ)にも犯人と同じ湿疹を発見する。
ジョングは娘を救うためによそ者を追い詰めていくが、そのことで村は混乱の渦となっていき、事態は思わぬ展開に向かっていく。
悪霊にとり憑かれた娘だけは何としても守らなければと、祈祷師のイルグァン(ファン・ジョンミン)を村に呼び寄せるジョングだったが…。


寸評
多発する猟奇的殺人の謎解きから始まり、話が進むにつれてこれはゾンビ映画かと思わせ、その次にはこれは韓国版「エクソシスト」だと思わせる展開はまったく先が読めない。
緊迫感にあふれ、おぞましく、迫力満点の映像が凄い。
「う~ん、韓国映画だ!」と叫びたくなってくる。
事件を担当するのが気のいい警官のジョングなのだが、このような警官はアメリカ映画には登場しないし、もちろん日本映画にも出てこない。
気がいいというより、どこかバカっぽいのだが、韓国映画ではこの様な警官の存在に違和感を感じない。
喜劇映画なのかと思わせるような笑いを誘うシーンがあったかと思えば、血糊べったりで全身に湿疹が出ている死体が登場して顔を背けさせる。
そしていよいよ、國村隼演じる謎の日本人が登場して猟奇趣味が一気に噴き出す。
パンツ1枚だけの裸で四つん這いになった國村隼が生のシカ肉をむさぼり食らいついているのだ。
冒頭では宗教映画の一面があるようなことを匂わせていたが、僕はこの時点で怪奇映画の世界に迷い込んでしまった。
この國村隼の異様な姿がジョングの悪夢だったり、村人の噂を映像化したものへと変化することで謎と恐怖を増幅している。

ジョングは娘を守るために頼りない男から強くなっていくが、強くなるだけでなく凶暴になって、家族を守るためにジョングは変貌を遂げていく。
娘にとり憑いた悪霊を追い払うために祈?師にすがるのは、まるで「エクソシスト」なのだが、あちらはシンプルな展開だったのに対し、こちらは非常に複雑だ。
祈祷師のイルグァンが登場してからの映像は益々迫力を増していく。
國村隼の怪演もすごいが、ファン・ジョンミンの祈祷師もすごい存在感を見せる。
登場人物は神なのか、悪魔なのか、善か悪かもわからず物語が混とんとしてきて僕の頭はパニック状態だ。
祈祷師と悪魔の対決があり、ヒョジンは悶え苦しむのはオカルト映画の王道的描き方だが、そこから「えっ?」となる展開で驚き、更にまた「えっ!」となる展開で僕の頭のパニックは治まらない。
事件の真相や謎は解明されずに終わるので、見終わってからのカタルシスは感じ取れないのだが、それを凌駕する余韻を残す結末である。
悪魔は人を疑ってしまうという我々の心の中にこそ潜んでいるのかもしれない。

故郷

2021-02-16 07:59:16 | 映画
「故郷」 1972年 日本


監督 山田洋次
出演 井川比佐志 倍賞千恵子 伊藤千秋
   伊藤まゆみ 笠智衆 前田吟 矢野宣
   田島令子 阿部百合子 渥美清

ストーリー
瀬戸内海・倉橋島。精一、民子の夫婦は石船と呼ばれている小さな船で石を運び生活の糧を得てきた。
民子もなれない勉強の末に船の機関士の資格をとった。
決して豊かではないが、光子、剛の二人の子供、そして精一の父・仙造と平和な家庭を保っている精一に最近悩みができた。持船のエンジンの調子が良くないのである。
精一はどうしても新しい船を手に入れたかった。
そこで世話役に金策の相談を持ちかけたが、彼は困窮した様子を見せるだけだった。
各集落を小型トラックで回り、陽気に食材を売り歩いている松下は精一の友人で、精一の悩みを知って慰めるのだが、それ以上、松下には何の手助けもできない。
精一は大工にエンジンを替えるにしても、老朽化して無駄だと言われるが、それでも夫婦で海に出た。
数日後、万策尽きた精一夫婦は、弟健次の言葉に従い、尾道にある造船所を見学し、気が進まぬままに石船を捨てる決心をするのだった。
最後の航海の日、夫婦は、息子の剛を連れて船に乗った。
朝日を浴びた海が美しく、民子が機関士試験に合格した日のこと、新婚早々の弟健次夫婦と一家をあげて船で宮島の管弦祭に向った日のことなど、楽しかった島での生活が精一のまぶたをよぎった。
翌日。尾道へ出発の日である。
別れの挨拶をする夫婦に近所の老婆は涙をこぼした。連絡船には大勢の見送りの人が集った。
松下も駆けつけ、精一に餞別を渡し、山のようなテープを民子たちに配り陽気に振舞った。
大人たちは涙をこらえたが、六つになる光子だけは泣きだすのだった。
やがて、船が波止場を離れた。港を出て見送りの人がだんだん小さくなっていった。


寸評
70年に撮った「家族」の前段を後から撮ったような作品だ。
「家族」が炭鉱夫として生活できなくなった一家が長崎の島を出て行くところから始まったが、この作品では砕石運搬をやっている一家が、やはり生活できなくなるのだが最後に島を出て行くところで終わっている。
どちらの家族も高度経済成長の波に押し寄せられ、故郷を捨てて旅立たねばならない姿を描いている。

精一は「海が好きで、この仕事が好きで、島が好きなのに、どうして続けられないのか」と叫ぶ。
精一の父である仙造は”金”だと言っている。
金では買えないものもあり、故郷もその一つかもしれないが、それでも人間の欲望は人よりもいい暮らしを求めるし、裕福になりたいと願ってしまう。
慎ましやかな生活でいいと思っても、その生活を維持するだけの経済力を求められる。
精一と民子にはそれが分かっているので島を捨てるが、幼い光子はそれがわからないので故郷を捨てる場面で泣き出す。
光子は本当はそうしたくない両親の代弁者だったような気がする。

精一の船は古くて小さいので買い替えたいと思っているが、そんなお金はない。
修理するのにも多額の費用が必要で、それも出来ない。
かつては父や弟も乗っていて、時には船上でピクニックまがいのことができた時代もあったのだが、今は夫婦ふたりで運営している。
彼等の船と対比するように時々大きな運搬船がすれ違う。
最後の運搬での埋め立て作業時には、彼等の船の向こうに大きな船が有り、そこではブルドーザーを使って砕石を海に落とす作業を行っている。
精一と民子の埋め立て作業は船を半分ぐらい傾けて砕石を海に落とし込む過酷なものだ。
バランスを崩して転覆してしまうのではないかと思われるそのシーンは、作業のあり方そのものに驚いてしまうと同時に、彼等の誇りすら感じてしまう迫力のあるシーンだった。
そこに至るまでの航海は切ないものがある。
民子が機関士の免許を必死でとったことが思い出され、楽しかった過去の日々が思い出される。
船も今日が最後と知っているのかエンジンの調子がいい。
浜では廃船が燃やされていて、彼等の船もやがて焼き払われるに違いないことが分かる。
それを見つめる二人の姿に胸が痛む。

「家族」では最後に、貰うことになっていた牛が生まれ明日への希望を感じさせたが、この作品の精一と民子夫婦にはそれすら見えない。
彼らに平穏な日々が訪れるのだろうか。
島と都会の格差はますます広がるだろうし、島からの人口流出は止まらないだろう。
「どうして、こんないいところから皆出て行ってしまうのだろう」と精一の友人松太郎は言う。
それが前述の仙造が言う「給金だ」になる。
失われていく日本のふるさとへの山田洋次が贈る鎮魂歌だった

コールド マウンテン

2021-02-15 06:26:26 | 映画
「コールド マウンテン」 2003年 アメリカ


監督 アンソニー・ミンゲラ
出演 ジュード・ロウ
   ニコール・キッドマン
   レニー・ゼルウィガー
   ドナルド・サザーランド
   ナタリー・ポートマン
   フィリップ・シーモア・ホフマン

ストーリー
南北戦争末期の1864年。南軍兵士としてヴァージニア州の戦場に送られたインマン(ジュード・ロウ)は、瀕死の重傷を負って病院に収容される。
回復を待つ間、彼の脳裏に浮かぶのは、3年前に離れた故郷コールドマウンテンの情景と、出征前にただ一度だけ口づけを交わした恋人エイダ(ニコール・キッドマン)の面影だった。
彼女への愛に駆り立てられたインマンは、脱走兵として死罪に問われるのを覚悟で、故郷への道を歩み出す。
一方、その間に父のモンロー牧師(ドナルド・サザーランド)を亡くす不幸に見舞われたエイダは、裕福な環境から、明日の食べ物にも事欠く苦境に陥っていた。
そんな彼女を見かねて、隣人のサリー(キャシー・ベイカー)は、流れ者の女ルビー(レニー・ゼルウィガー)をエイダの農場に向かわせた。
ルビーの指導によって、エイダはたくましく生きる術を身につけていく。
その頃、インマンの徒歩での旅路は困難を極め、黒人奴隷を妊娠させて追放された牧師のヴィージー(フィリップ・シーモア・ホフマン)と道連れになったはいいが、一見気のいい農夫ジュニア(ジョヴァンニ・リビシ)に義勇軍に売り飛ばされてしまう。
なんとか脱走したインマンは、山羊飼いの老婆マディ(アイリーン・アトキンス)や若き未亡人セーラ(ナタリー・ポートマン)に助けられつつ、コールドマウンテンを目指す。
そしてついにエイダと再会し、二人は結ばれる。
しかし幸せな日々は束の間、インマンは義勇軍と撃ち合って死亡する。
戦争終結後、エイダはインマンとの間に生まれた娘と、ルビーの家族とで平和に暮らすのだった。


寸評
一つ一つのエピソードは感激的であり、時にはユーモアもあって面白い。
レニー・ゼルウィガ演じるルビーと、彼女のどうしようもないブレンダン・グリーソン演じる父親の関係は面白い。
ルビーは父親を見放していてののしってばかりいる。
その父親の登場シーンもあっけにとられるものであるが、実はステキな演奏が出来るようになっていた親父が、朝目覚めたときに窓の下で仲間を連れて演奏していたシーンなどでジーンとさせる。

インマンが一夜の宿として泊めてもらった未亡人のセーラが、亡き夫を思いインマンの胸でむせび泣くシーンなどは秀逸だったと思う。
インマンはセーラと子供を守るために必死に闘うが、前夜に女としての弱さを見せたセーラが、自分に乱暴しようとした男たちに怒りを爆発させ、インマンが開放してやろうとした男の仲間が逃げるところを射殺するシーンに、彼女の強さを垣間見た。
この時代の環境下で、女が赤ん坊と生きていくためには非情さと強さが必要なのだと思わせる。
南北戦争を背景としているが、登場する兵士は北軍も南軍もいい人間は登場しない。
セーラに殺される北軍の若者などは、赤ん坊を気遣う面を見せていたからまだマシな方だった。

全体として過去と現在、インマンとエイダの出来事が断片的に綴られる展開はいいと思うのだけれど、ただ見終わって何か物足りなさを感じたのは何故なんだろう。
インマンとエイダはたった一度のキスを想い出にお互いを結び付けているのだけれども、そこに至るまでの盛り上がりが希薄だから、どうも必死で彼女の元へ向かう姿や、彼を待ちつづける姿への説得力が希薄になっていたのではないか。
したがって、出会ってからのベッドシーンなどは、なにか付け足しのような感じで、感激するよりもニコール・キッドマンのお尻ってきれいだなといったような不謹慎な見方になってしまったのだと思っている。
もっとも、それは私の助平心の為だと言われれば反論の余地はないのだけれど・・・。

ダメ親父の援助もあって、この映画ではレニー・ゼルウィガが目立っていたと思う。
彼女が演じたルビーはエイダと違って上品ではないが、反面強い生命力と生活力を持っている。
エイダのメイドではないと宣言し、対等の立場を維持し、時としてエイダに指示する姿がたくましい。
野性的で、つっぱているけれどその実、芯は優しい女を好演していたし、実際の所、主演のジュード・ロウやニコール・キッドマンよりも登場する脇役人が味を出して随分と盛り上げている映画だ。
そんな見方をしてみるのも面白い作品なのかもしれない。

女は愛しい人を待ちつづけ、男はその人の元へ必死でたどり着こうとするシチュエーションで言えば、小林正樹監督の「人間の条件」の方が鬼気迫るものがあり、戦争の悲惨な一面を伝えていたと思う。(映画は9時間以上もあって仲代達矢が、テレビは連続ドラマで加藤剛が熱演していた)
一粒種の遺児を登場させ、希望のようなものを持たせて終るので、「人間の条件」のような絶望感を持ったまま映画館を出ることはないので、それはそれで「まあ、いいか・・・」なんだけれども。

コールガール

2021-02-14 11:40:51 | 映画
「コールガール」 1971年 アメリカ


監督 アラン・J・パクラ
出演 ジェーン・フォンダ
   ドナルド・サザーランド
   ロイ・シャイダー
   チャールズ・シオッフィ
   ドロシー・トリスタン
   リタ・ガム

ストーリー
ペンシルベニア、タスカローラ研究所の科学者トム・グルンマンが消息を絶って数か月。
ニューヨーク市警の刑事トラスクを中心にグルンマン夫人ホリー、グルンマンの親友で警官のジョン・クルート、グルンマンが勤務している工場の重役ケーブルが集まり、グルンマン捜索の対策を講じたが、手掛かりはただ一つ、グルンマンがニューヨークにいるコールガールに宛てた猥褻な内容の手紙だけだった。
偶然、トラスクが売春容疑で逮捕した売れっ子のコールガール、ブリー・ダニエルスへの尋問に期待を抱いたが、彼女は最近になって起こった気味の悪い事件への不安を訴えるばかりであった。
重役のケーブルに雇われ、秘密の捜査を依頼されたクルートはニューヨークに飛び、ブリーに捜査の協力を求めたが、警察に逮捕された怨みをもつ彼女は冷たく追いかえした。
クルートはブリーと同じアパートの1室を借り、ブリーの部屋に盗聴装置を施し、ブリーを監視した。
商売から戻ったブリーを捕まえたクルートが、自分の部屋に招き入れ盗聴装置を示すと、ブリーは激しく怒り、クルートを責めたてたが、ひるまぬクルートの厳しい質問攻めに、やがてブリーは、自分の受け取った猥褻な手紙の主は、マゾヒスティックな客ダンバーかもしれないと打ち明けた。
クルートは人の気配を感じ、瞬間身を翻して屋上へ駆け登ったが、見失ってしまった。
恐怖にかられたブリーは、ダンバーを仲介したのは昔の情人フランク・リグランだと告げた。
しかし、リグランにダンバーを紹介したのはジェーン・マッケンナという娼婦で、すでに自殺していた。
翌日、クルートはリグランの女アーリン・ページと情人バーガーを訪ね、グルンマンとダンバーが別人であることを聞き出し、ケーブルに報告すると、ケーブルは捜査打ち切りを命じた。
捜査の継続を主張するクルートは、そのあと、曳き舟にのせられたアーリンの水死体を見た。
ショックを受けたブリーはクルートにすがり、クルートもしだいにブリーを愛しはじめていた。


寸評
邦題の「コールガール」とはジェーン・フォンダ演じるブリーのことなのだが、原題はドナルド・サザーランドが演じる私立探偵の名前である「クルート」となっている。
日本ではジェーン・フォンダの方がネームバリューがあるのでそうしたのだろうが、邦題は「コールガール」でも「ブリ―」でも、もちろん「クルート」でも良かったと思わせるジェーン・フォンダとドナルド・サザーランドの良さである。
この二人の醸し出す雰囲気で保たれている作品だ。
逆に言えばサスペンスとしてのパンチ力には欠ける作品でもあるのだが、見終ると、どうも描きたかったのはサスペンスではなかったのだろうと思うに至る。

オープニングでペンシルベニアの研究所のトム・グルネマン家の幸せそうな食事風景が描かれ、そこにはトムの友人であるジョン・クルートの姿もある。
トムの幸せな家庭生活が描かれた次の場面でトムが猥褻な手紙を残して失踪している事が描かれるという急展開で、このオープニングを見る限りにおいてはサスペンス性が十分すぎるくらいだった。
しかし、トムやクルートがペンシルベニアに住んでいると言うことが重要なファクターだと感じてくる頃から映画の趣は大きく変わってくる。
ペンシルバニアはフィラデルフィアを擁する古い州で、東部にある田舎というイメージの州なのだろう。
日本でいえば大阪の隣の奈良県といったところかな。
ブリ―が暮らすのは文字通りの大都会ニューヨークである。
二人が生活している土地と環境が二人の性格付けをしていて、その二人が微妙に絡み合う姿が主演の二人の好演もあって魅力的に見える。

独りで大都会ニューヨークに住むブリーは自らの感情を感じないようにしてアイデンティティを保っている。
オーディションを受けても上手くいかないが、売春では自分のペースで男を操れることに快感を感じている。
彼女は部屋に独りなのが不安だとか言ってクルートの部屋に泊めてもらい、クルートの心理を操ってクルートに自分を抱かせて、終わると彼を翻弄するような言葉を残して去っていくという態度がそれを物語っている。
クルートは裏工作をせずに正攻法ともいえる誠実さでブリーに迫っていく。
都会人にある猜疑心を持たず、先天的に人を信じてしまう田舎人のような男だ。
麻薬中毒の女の言うことなど信じられないと言われても、クルートは彼女を信じている。
ビリーは無意識の中でクルートの誠実さを受け入れたくない気持ちもあって理解できないのだが、徐々に閉ざしていた女としての感情面が刺激されるようになっていくという描き方が物静かで好感が持てる。
ブリーとクルートの市場での買い物シーンなどは実に微笑ましいものがあり、映画の大半を占める雰囲気とは全く違う二人の関係を上手い具合に挟む演出の妙だ。
ブリーは客との録音テープを聞かされて、そこに男の性的妄想を翻弄する女としての自分のあり方や男の弱さを知って涙するシーンは、ブリーの心の浄化を示すこの映画の中で一番秀逸なシーンとなっている。
しかし彼女には夫の為に食事を作る生活は似合わないし、刺激のない田舎で生きることも出来ず、結局また大都会ニューヨークに舞い戻ってくるのだろう。
僕だって都会の喧騒から逃げたい気持ちを持ちながら都会を離れられない習性が身についてしまっているのだ。