おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

関東緋桜一家

2023-09-30 07:54:01 | 映画
「関東緋桜一家」 1972年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 藤純子 鶴田浩二 高倉健 若山富三郎 菅原文太 待田京介
   伊吹吾郎 山城新伍 木暮実千代 工藤明子 南田洋子
   長門裕之 水島道太郎 嵐寛寿郎 石山健二郎 金子信雄
   笠置シヅ子 八名信夫 藤山寛美 片岡千恵蔵

ストーリー
明治末頃、柳橋一帯の町内頭で鳶「に組」の副組頭の河岸政(水島道太郎)の娘・芸者鶴次(藤純子)はその美貌と男まさりの侠気と、幼い頃から北辰一刀流の達人で講釈師の呑竜(若山富三郎)から学んだ剣術で評判を呼んでいた。
鶴次には「に組」の組頭吉五郎(片岡千恵蔵)の一人息子である纒持信三(高倉健)という末を誓い合った男がいたが、信三は彼女に酔ってからんだヤクザ数人と乱斗し、その中の一人をあやめてしまったことから旅に出てしまっていた。
その頃、日本橋の博徒新堀一家の客分である、刑事くずれの博徒鬼鉄(遠藤辰雄)が柳橋で賭場を開き、河岸政が世話になっている旦那衆から金や財産を捲き上げたことから、いざこざが起こるようになった。
新堀一家の親分辰之助(嵐寛寿郎)と河岸政とは兄弟分であり、柳橋では賭場は開かないという約束が二人の間でかわされていたが、床に伏せている辰之肋をよいことに、新堀一家代貸の中州の常吉(名和宏)と鬼鉄は河岸政の縄張りに目をつけ、その拡張を計っていたのだ。
勢力拡大を狙う鬼鉄、その身内の大寅(天津敏)は、河岸政を大川端に襲って暗殺した。
「に組」小頭由次郎(菅原文太)の力添えによって鶴次が父の跡目をついだ。
鶴次暗殺に失敗した鬼鉄は、 出刃徳(楠本健二)に命じて割烹旅館金柳館に火を放った。
「に組」の消火作業で金柳館は一部を焼失しただけで済み、信三は出刃徳を捕えた。
鶴次は、鬼鉄に奪われた金柳館の権利証と出刃徳を賭けた勝負を挑んだ。
鬼鉄は、新堀一家に草鞋を脱いだばかりの客人旅清(鶴田浩二)をたて挑戦を受けた。
鶴次の心意気を察した旅清は勝を譲った。
それからしばらくして辰之助が後事を、義兄弟旅清に託して息を引きとった。
一方、銀次(待田京介)が、廓に売られ入水自殺を計ったお志乃(南田洋子)とその子供を救ったことから、お志乃は鬼鉄の妾であることが判明し、引き渡しを迫る鬼鉄と、母子をかばう銀次の対立は激しさを増した。


寸評
東映任侠映画を支えた藤純子の引退記念映画として大ヒットした。
僕も大阪梅田新道にあった東映会館でこの映画を見た。
なにせ「緋牡丹博徒シリーズ」のお竜さん、数々の任侠映画でヒロイン役を務めた藤純子をもう見ることが出来なくなるのである。
陰りを見せ始めていた任侠映画であったが、映画公開後の1972年3月30日に尾上菊五郎とホテルオークラで挙式した藤純子の引退が任侠映画の終焉を決定づけた。
結果的に最後の作品となったという事はあっても、引退記念映画を撮るなんてことは前代未聞であった。
彼女の引退記念映画として東映のオールスター作品ともなっている。
冒頭のキャスト紹介では台本をめくるように表示されていき、主演の藤純子に続き、鶴田浩二、高倉健、若山富三郎、菅原文太が一頁ずつ表示されていく。
そして待田京介などが連名で続き、最後に藤山寛美と御大の片岡千恵蔵が再び一頁で表示される。
出ていないのは梅宮辰夫や松方弘樹ぐらいではないか。
もっとも彼らは実録路線に代わってから大活躍したのだから、ここでの登場は無かったのかもしれない。

これだけのスターを集めたので、彼らの見せ場を作りながら藤純子映画の総花的な物が詰め込まれていて、内容的には薄いものになってしまっている。
高倉健は藤純子と数々の作品でしっとりとした濡れ場を演じてきたが、本作ではネームバリューと役柄の割には影が薄い。
同じヤクザ者としての存在感は断然鶴田浩二に軍配が上がる。
脚本の笠原和夫が、高倉健を鶴田浩二と同じやくざにしたら、鶴田が断然うまくて高倉は勝てないと言ったと伝わっているが、本当にその通りだった。
東映はポスト藤純子として中村英子、藤浩子、土田早苗、堀越光恵、松平純子、池玲子などを育てようとしたが、ついに彼女の代わりにはなれなかった。
この時代、主役を張れた女優は藤純子しか居なかったのだ。
もっとも僕は東映という映画会社では女優が育ちにくかったのだと思っている。

さて僕が見に行った回の上映での様子だが、ラストシーンで藤純子が「皆さんお世話になりました」と言って去っていくところで拍手が起きそうなものだが、どうしたわけか笑い声が起った。
そのシーンを撮りたいがための作品だったようにも思うが、そのことを感じ取った観客の拍手の代わりの笑い声だったように思う。
僕も一時代を築いた藤純子への惜別の気持ちを湧き上がらせながら、「よくやるよなあ~」と薄笑いを浮かべたことを思い出す。
その梅田東映は今はもう無い。
映画館もないけれど、富司純子としてスクリーンに戻ってきた彼女は年齢もあってかつての藤純子ではなかった。
藤純子は僕たちの脳裏の中に存在するだけの伝説的女優となってしまったのだ。

監視者たち

2023-09-29 06:41:30 | 映画
「監視者たち」 2013年 韓国

                          
監督 チョ・ウィソク / キム・ビョンソ    
出演 ソル・ギョング チョン・ウソン ハン・ヒョジュ ジュノ
   ジン・ギョング サイモン・ヤム

ストーリー
ずば抜けた記憶力を持つ女性刑事ハ・ユンジュ(ハン・ヒョジュ)は厳しいテストをみごとパスして、凶悪犯の行動監視を専門とする韓国警察特殊犯罪課の“監視班”に配属される。
監視班は特殊犯罪課内で凶悪犯の行動監視を専門とする班だった。
直属の上司となるベテラン班長のファン・サンジュン(ソル・ギョング)は荒っぽく無茶な要求も多いが人情味に溢れ、動物的な感覚と本能の持ち主として知られていた。
折しも街では、冷徹なリーダー、ジェームズ(チョン・ウソン)率いる武装集団による強盗事件が発生する。
サンジュンとユンジュは、ジェームズの追跡捜査を通して、徐々に相棒としての絆を深めていく。
しかしジェームズは抜群の頭脳と高度な戦略で、彼らの監視網を毎度くぐり抜けてしまう。
サンジュンとユンジュはあらゆる手を尽くしてジェームズを見つけ、彼の犯罪を阻止しようと試みるが…


寸評
話は単純で、監視カメラのシステムを利用して犯人を追って行くというだけのもの。
それなのに冒頭から息をもつかせぬスピーディな展開で観客を画面に引っ張り込む。
韓国映画によくある強引ともいえる手法だが、余計な理屈を抜いて兎に角面白い。

冒頭で主な登場人物がすべて紹介されるのだが、セリフは一切なしの緊迫した画面がミステリアスな世界に一気に引きずり込む。
ドアのところに立つ女性が主人公らしいのはすぐに理解できるが、そこから次々に怪しいやつが登場して何が何やらわからなくなっていく導入部でこの映画の虜になってしまう。
そして監視班の面々が動物のコードネームを持っていて、それでやり取りするのも脚本の妙で雰囲気を盛り上げるのに一役買っていた。

彼等のやり取りはセンターで録音されていて、仲間達もそれを共有している。
ユンジュがトイレの音を聞かれてしまうなど随所にニンマリしてしまうような場面を挿入しながら緊迫感を持続させているのが素晴らしい。
犯罪映画なので当然の如くカーチェイス、銃撃戦などもあるが、何よりもスリリングなのがお互いに連携を取りながらの追跡劇で飽きさせない。
犯人のジェームズがサンジュンやユンジュと同じような能力を備えていたことも設定として正解だった。
制服を着ることのなかった彼等が制服に身を包み、亡くなった同僚の墓の前で敬礼をする泣かせどころも決まっていた。

ユンジュをやったハン・ヒョジュはなかなかチャーミングで、役柄と共に好感が持てたし、犯罪劇と新人刑事の成長物語をうまく絡めて破格のスリリングさを生み出している快作だった。

2023-09-28 08:40:43 | 映画
「雁」 1953年 日本


監督 豊田四郎
出演 高峰秀子 芥川比呂志 宇野重吉 東野英治郎 浦辺粂子
   飯田蝶子 小田切みき 田中栄三 三宅邦子 姫路リエ子
   宮田悦子 山田禅二 町田博子

ストーリー
下谷練塀町の裏長屋に住む善吉(田中栄三)、お玉(高峰秀子)の親娘は、子供相手の飴細工を売って、わびしく暮らしていた。
お玉は妻子ある男とも知らず一緒になり、騙された過去があった。
今度は呉服商だという末造(東野英治郎)の世話を受ける事になったが、それは嘘で末造は大学の小使いから成り上った高利貸しで世話女房もいる男だった。
お玉は大学裏の無縁坂の小さな妾宅に囲われた。
末造に欺かれたことを知って口惜しく思ったが、ようやく平穏な日々にありついた父親の姿をみると、せっかくの決心もくずれた。
その頃、毎日無緑坂を散歩する医科大学生達がいた。
偶然その中の一人岡田(芥川比呂志)を知ったお玉は、いつか激しい思慕の情をつのらせていった。
末造が留守をした冬の或る日、お玉は今日こそ岡田に言葉をかけようと決心をしたが、岡田は試験にパスしてドイツへ留学する事になり、丁度その日送別会が催される事になっていた。
お玉は岡田の友人木村(宇野重吉)に知らされて駈けつけたが、岡田に会う事が出来なかった。
それとなく感づいた末造はお玉に厭味を浴びせた。
お玉は黙って家を出た。
不忍の池の畔でもの思いにたたずむお玉の傍を馬車の音が近づいてきて、その中で楽しそうに談笑する岡田の顔が一瞬見えたかと思うと風のよう通り過ぎて行った。
夜空には雁の連なりが遠くかすかになってゆく。


寸評
貧困にあえいでいる親子の娘が、おさんという婆さんの手引きで金回りの良い男と結婚させられる。
男は呉服商となっているが実際は嫌われ者の高利貸しであり、妻がいないと言い含められているが実は妻帯者であり、男はいきなり家に迎え入れるわけにはいかないからと別宅に住まわせ、父親にも家を世話してやる。
娘は気が付いていないが世間で言うところのお妾さんである。
未造と言う男とお玉という女の生活が、関係を知らない本妻のお常をはさんで描かれていく。
苦労して蓄えた金を元手に高利貸しとして成功している未造だが、お玉に対しては気前が良い。
お玉がねだれば何でも買ってくれていそうだし、父親にも小遣い銭を与えているようだ。
しかし金融業と言えば聞こえはいいが、高利貸しとなれば世間の目は冷たいし、お妾さんと言う立場にも世間の目は冷たい。
高利貸しのお妾さんと知れば、魚屋も魚を売ってくれない。

やがてお玉は未造の実像を知ることになる。
お玉の周りで修羅場とも言えるもめ事が起きても良さそうだが、内容の割にはドロドロとした人間関係に深く切り込んでいくような所がない。
未造の妻が浦辺粂子なのだが、これが少々だらしなくて未造でなくても高峰秀子のお玉に気が行くのも無理からぬことと思わせる。
とは言え、お常は妻なのだからお妾さんの存在は許せない。
取っ組み合いが始まっても良さそうなものだが、お常が遠くからお玉を睨み付けるだけで修羅場にはならない。
お常と未造の険悪ムードも離婚騒動には至っていない。
未造の高利貸しとしての悪どさが築地容子のお竹を通じて描かれるが、借金の肩代わりとして取られた反物をお玉が仕立てて着こんでいた事にお竹が噛みつくぐらいで、余り悪どい高利貸しとして描かれていないように思う。
お竹はその後に落ちぶれたようだが、その様子が描かれていないので未造の嫌われ振りが弱められている。
未造は高利貸しという商売から受けるイメージとは違って、お妾さんを持ちながらも根は弱い所がある人間なのかもしれない。

結局描かれていたのは金に縛られた人間のそれぞれの生き方だったように思える。
お常は離婚すれば帰る家もなく行き場がないとして未造と欺瞞に満ちた夫婦生活を続けるのだろう。
未造は世間から嫌われようが高利貸しを続けていくしかない。
お玉の父親は以前の貧しい生活に戻る事ができず、施しを受ける現状の生活に満足感が出てきてしまっている。
しおらしかったお玉はしたたかな面も出てきているが、父親のことも有りお妾さんという金に縛られた生活を続けていくのだろう。
彼女にとって岡田は一服の清涼剤を与えてくれた男性だったのだろうが、その彼は渡り鳥が飛び立つようにお玉の前からヨーロッパへと飛び立っていてしまう。
僕はお玉と岡田の結ばれぬ恋がメインかと思っていたのだがそうではなかった。
帰りにお玉は魚屋で鯛を買うが、あの祝い鯛はお玉にとって未造に対する精一杯の抵抗だったのだろう。
どこかに救いがあっても良さそうだが、そんなものが見当たらない淋しい作品だ。

カルテット!人生のオペラハウス

2023-09-27 07:30:37 | 映画
「カルテット!人生のオペラハウス」 2012年 イギリス                             

監督 ダスティン・ホフマン                                    
出演 マギー・スミス トム・コートネイ ビリー・コノリー
   ポーリーン・コリンズ マイケル・ガンボン
   グウィネス・ジョーンズ シェリダン・スミス

ストーリー
引退した音楽家たちが暮らす〈ビーチャム・ハウス〉には、カルテットの仲間であるレジー(トム・コートネイ)、シシー(ポーリーン・コリンズ)、ウィルフ(ビリー・コノリー)が暮らしている。
そこへもう一人の仲間であるジーン(マギー・スミス)が新たにVIP待遇の入居者としてやってきた。
かつて世界中のオペラファンを虜にした、20世紀最大の歌姫だ。
だが彼女の出現に、元テノール歌手のレジー顔色を変え、「これで私の安らぎの時はなくなった」と悲鳴を上げる。
じつはジーンとレジーは元夫婦という浅からぬ関係。
どうやらジーンは、ビーチャム・ハウスに元夫がいることを承知で入居を決めたらしい。
一体どういうつもりなのか……。
ことの成り行きに気を揉むのは、ふたりの古くからの友人で、ホーム一番のいたずら者でもある元バリトン歌手のウィルフ。
一方最近はすっかり認知症の症状が進んでいる元メゾソプラノ歌手のシシーは、古い友人であるジーンとの再会に大喜びだ。
ホームでは運営資金を稼ぐコンサートの準備が進んでいる。
監督のシィドリック(マイケル・ガンボン)はジーン入居の話を聞くや、彼女とレジー、ウィルフ、シシーの4人で伝説のカルテット(四重唱)を再結成し、コンサートの目玉企画にしようとする。
しかし、ジーンは過去の栄光にすがり、今では人前では歌えない状態にあった。
かつて英国史上最高のカルテットと謳われながらも決裂した4人は、ホームを救うためにコンサートへと臨む……。


寸評
実にゆったりとした雰囲気で最後まで描かれて、それはあたかも人生を物語っているようでもあった。
時としてユーモアを交えながら、奇をてらう演出もなくオーソドックスな画面展開は、知らず知らずのうちに安心感を植え付けていたと思う。
元音楽家だけが入ることのできる人生の終末場所としてのゴージャスなホスピスが舞台で、庶民派の我々からすれば羨ましくもあり、嫉妬心すら湧いてくるような設定なのに、そんな不安を打ち消すだけの作品全体の安定感があった。

認知症が進行している者もおれば、救急車に運ばれる者もいる。
明日は我が身の入所者は彼等にいたわりを見せる。
死は誰にでも訪れるし、登場するのはその時期が近い事を知っている人たちだ。
しかし彼等は万膳とその時を待っているわけではない。
若い時と、自分が全盛だった時と同じように、気持ちだけはその時の誇りと活力を抱き続けているのだ。
この集団、この場所は、僕等にとって、これはある種のユートピアなのだと思う。

みんな現役を退いているに現役時代の上下関係がそのまま生きているらしいのが面白い。
スターはスター、監督は監督で、現役の時と同じ態度と言葉使いで接している。
周りの者たちもそれを受け入れている。
僕も学生時代のクラブの面々と3年に1度の割で1泊旅行のOB会を開催しているのだが、そこでは当時の役職のままの世界が存在していることを連想させた。
部長は部長、副部長は副部長、総務担当は総務らしくなって、いつの間にか先輩・後輩を含めた暗黙の組織体系が復活している。
それを嬉々として受け入れているかつての仲間たちがいるのだ。
じつに穏やかな空間で、この映画でも元舞台監督は引退した後も舞台監督として振る舞っているし、プリマドンナは引退後もプリマドンナとして皆の尊敬を勝ち得ている。
もしもこのようなホスピスが日本に存在したなら、皆で入所しようじゃないかと提案して見たい気になった。

そして人生の最後に、本当に愛した人に出会うことが出来て、このようになれたらいいなと思わされた。
その為には、年老いて二人とも独身で有る必要があるのだけれども・・・。
クレジットタイトル、エンドクレジット、冒頭のピアノを弾く女性の描き方などはいいなと感じた。
ダスティン・ホフマンは僕が高校生の頃に「卒業」で初めてみた役者さんだが、今回が初監督作品とのこと。
自分も歳をとったのだから、彼も同じだけ歳をとったことになるわけだが、なんだか人生と言うものを悟りきった聖人になったのだろうかと思わせた。

カラマーゾフの兄弟

2023-09-26 06:44:02 | 映画
「カラマーゾフの兄弟」 1968年 ソ連


監督 イワン・プイリエフ
出演 ミハイル・ウリヤーノフ マルク・プルードキン
   リオネラ・プイリエワ  キリール・ラウロフ
   ワレンチン・ニクーリン スヴェトラーナ・コルコーシコ

ストーリー
五十を過ぎてもなお、肉欲にとりつかれているフョードル・カラマーゾフ。
親譲りの性格により、予備大尉の身を放縦な毎日に埋没させている長男ドミトリー、神を否定する大学出の秀才の次男イワン、清純な魂と深い信仰を持つ三男アリョーシャ。
カラマーゾフ家には、激しい葛藤があった。
特に、ドミトリーが婚約者カテリーナがありながら、ある老商人の世話になっているグルーシェンカに惹かれ、そのグルーシェンカが借金に苦しんでいるのを幸いに、父フョードルが自分のものにしようとしているので二人の対立は大変だった。
一方カラマーゾフ家の召使いのスメルジャコフは、昔フョードルが乞食女に産ませた子供で、彼は父を憎み、他の兄弟に嫉妬していた。
彼は前からイワンに近づいていたが、しきりにイワンにモスクワ行きを勧めて、行かせた。
ドミトリーは、グルーシェンカのために金の工面に奔放したが、都合はつかなかった。
ついに彼は、スメルジャコフの手引きにより父親を殺し、そして逮捕された。
実は犯人はスメルジャコフだったのだが、彼は自殺してしまい決定的な証言もないまま裁判は進行した。
アリョーシャの証言もグルーシェンカの愛情も役にはたたなかった。
彼はシベリア送りと決定した。
雪の広野を行く囚人の一行。
その後を、行く一台のソリ。
ドミトリーとの愛に生きる決心をしたグルーシェンカだった。


寸評
僕はロシアの文豪と言えばトルストイ、ツルゲーネフとこの「カラマーゾフの兄弟」を著したドストエフスキーの3名しか思い浮かばず、しかも彼らのどの作品も読んでいない。
全て映画をつうじての作品鑑賞である。
映画がどこまで原作を忠実に表現しているかは知らないが、映画化されるにあたって旧ソ連の映画はどうしてこんなにも面白くないのだろう。
小説はきっと面白いものなのだろうと想像できるのだが、僕は映画化されると映画としての表現力に見劣りを感じてしまうのである。
本作は三部構成で、第一部では登場人物の性格描写と、宗教論が論じられる中で「神は存在しているのか」との命題が示される。
フョードルはカラマーゾフ家の当主で三兄弟の父親だが強欲で好色な地主である。
ミーチャと呼ばれるドミトリーはカラマーゾフ家の長男で直情的な放蕩息子といった感じ。
イワンは次男でインテリ風な無神論者である。
三男のアリョーシャは真面目な修道僧なので信仰心が強く、登場人物たちの接着剤のような存在である。
グルーシェニカはフョードルとドミトリーの親子を翻弄する女だ。
カテリーナはミーチャの婚約者だがプライドが高い女性である。
スメルジャコフはカラマーゾフ家の使用人であるが、謎めいた雰囲気を有している。
それぞれに問題がありそうな人物が紹介されるのが第一部といった感じである。

度々宗教に関して語られるが、長時間語られると娯楽性を求める僕は退屈になってくる。
親子のいがみ合い、女同士の競い合い、男と女による愛の確執など人間関係に潜む愛憎劇が描かれるが、そのどれもが会話によって示され、感じ取るような所がないので僕は面白くないとの評価を下してしまうのだろう。
第二部の終わりで父親のフョードルが殺害されると言う衝撃的な事件が起きるのだが、それは殺害されたことが語られるだけで殺害されるシーンも、死体の状態も描かれることはないので盛り上がりを欠いている。
そしてグルーシェンカがフョードル、ミーチャ、イワン、将校の間を泳ぎ回り、アリョーシャを誘惑するような行動もとる悪女的な女性として描かれるのだが、彼女の本心は一体誰にあったのか、それとも生きていくために男を利用していたのか、面白い存在の女性なのだが悪女的な描写が不足しているので、アリョーシャが言う純真性を示す態度に僕は感動しなかった。

誰がフョードルを殺したかのミステリー性も出てきて、作品は大いに盛り上がるはずだったのだが、演出が稚拙に感じられてミステリーとしての面白さは十分とは言い難い。
裁判劇も何人かの証言者が登場してミーチャに関する証言をするのだが、裁判劇としての醍醐味を欠いている。
実際に殺人を行った者、殺そうとした者、殺して欲しいと願っていた者たちのぶつかり合いも空回りだったように思うのだが、それはストーリーだけを追う会話が多すぎて、映像を通して観客に訴えかける要素が少なかったことによるのではないのかと思う。
スメルジャコフが三兄弟と同じようにフョードルの子供であった衝撃もそのままだったしなあ・・・。
僕には、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の映画化ということで見続けることができた作品であった。

カツベン!

2023-09-25 06:32:02 | 映画
「カツベン!」 2019年 日本


監督 周防正行
出演 成田凌 黒島結菜 永瀬正敏 高良健吾 音尾琢真 徳井優
   田口浩正 正名僕蔵 成河 森田甘路 酒井美紀 草刈民代
   山本耕史 池松壮亮 竹中直人 渡辺えり 井上真央
   小日向文世 竹野内豊

ストーリー
時は大正、映画は“活動写真”と呼ばれており、まだ音はなかった。
弁士に憧れる少年・俊太郎と、女優に憧れる梅子は、活動写真の小屋に忍び込んで活動写真を鑑賞する。
俊太郎が盗んできたキャラメルを食べながら、2人は活動写真や活動弁士について楽しそうにお喋りを交わす。
それから10年の月日が流れ、染谷俊太郎(成田凌)は偽の活動弁士として泥棒一味の片棒を担がされていた。
安田(音尾琢真)率いる泥棒一味は、著名な活動弁士の名を語って活動写真を上映し、人を集めたその隙に家から物を盗んで逃げるという悪事を繰り返していた。
活動弁士が大好きな熱血刑事・木村(竹野内豊)に嘘を見破られて逃げる中で、俊太郎は泥棒一味からも逃げ出すことに成功するが、盗んだ大金をうっかり持ち逃げする形になってしまう。
行く当てのない俊太郎は、靑木館という小さな映画館に流れ着いた。
靑木館にはかつて名を馳せた弁士・山岡秋聲(永瀬正敏)がいたが、今は酒びたりで落ちぶれていた。
主に客を呼んでいるのはスター気取りで傲慢な弁士の茂木(高良健吾)で、館主の青木夫妻(竹中直人・渡辺えり)や職人気質で熱血の映写技師・浜本(成河)など、靑木館の人物は曲者ぞろいだった。
その頃、タチバナ館の社長・橘重蔵(小日向文世)と娘の琴江(井上真央)のもとには、安田の姿があった。
安田のボスは橘で、さらに琴江は茂木の引き抜きも画策していた。
ある日、俊太郎は代役として全盛期の山岡そっくりの喋りを披露して観客を沸かせる。
青木夫妻は客席の盛り上がりを見て大喜びするが、茂木は気に食わない。
期待の新人活動弁士として目立つ存在になった俊太郎は、安田に見つかってしまう。
さらに泥棒一味を追う木村刑事も登場し、俊太郎は、安田と木村刑事の両方から追われる羽目になる。
ある日、映画館の客席には女優の夢を叶えた梅子(黒島結菜)の姿があった。
2人は再会を喜ぶが、梅子は茂木とつながっており、彼には逆らえない事情を抱えていた。


寸評
僕が映画を見始めた頃はまだ白黒映画が主流だったがトーキーにはなっていた。
したがって、話には聞くものの活動弁士による上映を見たことがない。
回顧上映として活動弁士がいる無声映画の上映会なども開催されているが、僕はそちらへも参加したことがないので、活動弁士という人種にお目にかかったことがない。
この映画を見ると、活動弁士は監督であり、脚本家であり、役者でもあるようなことをやっていたのだなと分かる。
そもそも活動弁士という上映スタッフを有していたのは日本だけではないか?
無声映画を取り扱った洋画を何本か見ているが、そこに活動弁士の存在を見たことがない。

さて映画の方は、そもそも偽活動弁士である染谷俊太郎の活躍物語である。
弁士として俊太郎以外に、インテリ気取りの弁士や、俊太郎が憧れていた山岡秋聲、傲慢な弁士の茂木などが登場するが、当時の映画には人気弁士の存在が欠かせなかったことが分かる。
作品の出来もさることながら、弁士の優劣によって作品から受ける印象が随分変わったであろうことも推測できる。
また弁士目当てに来館する人もいたであろうし、映画スター以上に弁士は人気があったのだろう。
僕は活動弁士として徳川夢声の名前しか思い浮かばない。

冒頭で子供の頃の俊太郎と梅子のエピソードが描かれ、成人してから再びめぐり逢うラブロマンスでもあるのだが、そちらの要素をもう少し踏み込んで描いても良かったように思う。
全体としてはシリアスなドラマではなく、ドタバタ喜劇に近い描き方で肩がこらない。
チャップリンやバスター・キートンへのオマージュも感じられるし、過去の映画人への尊敬も見て取れる。
映写技師の浜本は切り取ったフィルムをコレクションしているが、映写室に入ったことのある者には(僕も映写室には入ったことがある)それが映写技師の性であることが容易に想像できる。
場内は禁煙ではなかったが、可燃性のフィルムを扱う映写室は当然禁煙だった。
当時の映写機が手動だったことは知らなかった。

俊太郎は山岡秋聲に憧れていて、子供のころからそれを真似ることで弁士の才が磨かれている。
それが幸いして青木館で弁士をやることになるが、青木館には座付きの弁士がいる。
当時の映画館にはそのような弁士が居たのだろうし、中には茂木のような嫌味な弁士も居たに違いない。
スター気取りに代表される思い上がりの態度見せる嫌われ者はどこの世界にもいる。
映画館の間では弁士の引き抜き合戦も行われているが、タチバナ館側の井上真央の描き方は中途半端で、彼女を含めて喜劇としてのパンチ力不足は否めない。

刑事の木村は「人生にも続編がある」と俊太郎を励ますが、刑期を終えた俊太郎に続編はあったのだろうか。
映画はこの後トーキーの時代に入っていき、多くの弁士がその職を失う時代が来るのだ。
その事を匂わすこともなく、映画は活動弁士華やかりし頃で終始している。
活動写真は弁士がいて楽団がいてという大層な娯楽だったのだろうが、どこか優雅な娯楽だったような気もする。
日本人は外から入ってきたものでも独自の文化に変えてしまうDNAを持ち合わせているのかもしれない。

学校Ⅲ

2023-09-24 07:11:12 | 映画
「学校Ⅲ」 1998年 日本


監督 山田洋次
出演 大竹しのぶ 黒田勇樹 小林稔侍 ケーシー高峰
   笹野高史 寺田農 余貴美子 吉岡秀隆 田中邦衛
   さだまさし 秋野陽子 中村メイコ 小林克也

ストーリー
零細企業の経理係で働く紗和子(大竹しのぶ)は、自閉症があるが新聞配達をする息子・富美男(黒田勇樹)と団地で二人暮らし。
しかし突然会社からリストラされてしまい、生活していくため正社員として働き口を探す。
職業安定所には紗和子が望むような募集がなく、資格取得のため職業訓練校(本作では、技術専門校のビル管理科)に入校する。
ビル管理科のクラスは、不景気でリストラされたり、経営していた店が潰れた40代以上の男たちばかり。
皆同じような境遇で紅一点の紗和子とも親しくなるが、周吉(小林稔侍)だけは他の生徒と交わろうとしない。
彼は、わがままで協調性のない人物で、会社をリストラされて技術専門校に渋々通っているのだ。
紗和子が慣れない資格の勉強に奮闘する中、周吉が紗和子の忘れた教科書を届けたことから二人は次第に心惹かれ合う。
それから彼女は、遅刻の多い周吉にモーニングコールをかけたり、夏休みには友人たちと一緒に海水浴へ誘ったりと、彼と親しくなっていく。
紗和子が慣れない資格の勉強に奮闘する中、富美男が新聞配達の仕事中に交通事故に遭い入院する。
看病と学業の両立の難しさから退校を考える紗和子だが、周吉は励まし、力になる。
やがて富美男も退院し、いよいよ試験の日がやってくる。
結果は全員合格だった。
卒業式の日、紗和子は周吉とふたりきりでお祝いをしようとするが、周吉は式に現れなかった。
周吉の妻が事業の失敗から自殺を図って、入院していたのだ。
彼にほのかな想いを抱いていた紗和子は、それを自分の胸にそっと封じ込める。
月日はめぐり、ビルの管理会社に就職した紗和子は、充実した日々を送っていたのだが・・・。


寸評
この映画に登場する職業訓練校のビル管理科に職業訓練校のビル管理科学ぶ人たちは会社をリストラさせらた人や、経営していた店がつぶれた人や経営していた工場が倒産した人たちである。
私が務めていた会社も業績が悪く、いつ倒産してもおかしくないような状態だった。
もしも倒産していたら一体自分はどのようにして生計を維持しただろうかと思うとゾッとするものがある。
管理職と言っても勤務している会社だからこその管理職であって、果たして自分のスキルは世間で通用したのだろうかとの疑問と不安が湧きおこる。
証券会社でエリートコースを歩んできた小林稔侍の高野が再就職先を求めて苦心している姿は身につまされる。
しかしながら、エリート意識が災いして他の生徒と交われないのは分からぬでもないが、そんな意識の彼がなぜ技術専門校のビル管理科に入学したのかとの疑問が当初からあって、どうもこの男の存在にリアリティを感じることが出来なかった。

一方の紗和子には自閉症の息子がいる。
自閉症を扱った作品を何本か見たことがあるので、富美男少年の異常行動には違和感がなく、幼い孫が入院していた時に同じ病室だった子供がやはり自閉症で、ここで描かれた富美男少年のような言動に母親が真摯な態度で接していたことを思い出すと、紗和子とのやり取りは高野と違ってリアリティを感じさせた。
僕はその家族と言葉を交わしたわけではないが、その母親をとても息子に愛情を注ぐ立派な人だと思えた。
紗和子と同じ団地に住む仲の良いおばさんとして余貴美子が登場するが、紗和子にこの様な理解者がいて良かったと思う。
また富美男にも余貴美子の息子役として伊藤淳史という色々と助言したり面倒を見てくれる友人がおり、勤務先では吉岡秀隆のような富美男を手助けする優しい性格の同僚がいたのも幸いなことである。
現実社会はもっと厳しい人間関係があるのではないかと想像する。

彼らが学ぶクラスに若者はいない。
授業を通じて専門知識を学ぶ中年となった彼らの苦闘が描かれる。
そのなかで紗和子と高野の淡い恋も描かれるが、どうも話を詰め込み過ぎているように感じる。
職を失った中年の人たちが頭脳の衰えと戦いながら、生活を維持するために学校で必死に学んでいるという雰囲気はなく、そもそも彼らの私生活が全く見えない。
途中からは職業訓練校を舞台にした中年の恋を描いているのかと思われるような展開になり、同時に自閉症の息子がメインかと思われる描かれ方も登場する。
紗和子が看護婦さんに依頼する場面では、幼児言葉を使わず成人男性として扱ってほしいとか、上手く表現できないことも有るが何が言いたいのかくみ取ってやってほしいとか、たまには褒めてやってほしいが変な気を使うのもいけないとか、自閉症に対する理解を求めるような描写もあるので、自閉症の息子を持った母親の苦労話なのかと思えてくる時間帯もある。
富美男の交通事故、高野が卒業式に現れなかったエピソード、紗和子が出会ってしまう試練、それを励ます同級生たち、中盤以降で描かれるそれぞれは感動的な物語なのだが、それだけに詰め込み過ぎの感じがする。
どれかを削っても良かったのではないかとの印象が最後に残った。

化石

2023-09-23 08:28:18 | 映画
「化石」 1975年 日本


監督 小林正樹
出演 佐分利信 岸恵子 小川真由美 栗原小巻 山本圭
   佐藤オリエ 長谷川哲夫 早川純一 杉村春子 中谷一郎
   井川比佐志 宇野重吉 宮口精二 小山源喜 神山繁
   近藤洋介 滝田裕介 稲葉義男

ストーリー
一鬼建設社長の一鬼太治平(佐分利信)は、仕事一筋に生き、男手一つで育て上げた二人の娘(小川真由美、栗原小巻)を嫁がせ、生まれて初めて仕事を離れ社員の船津(井川比佐志)を連れて保養のためにヨーロッパへ旅立った。
ある日、パリでふと美貌の日本女性と出会ったが、話しかけることもなく通り過ぎた。
その女性が、ヨーロッパ支社のパーティの席上、マルセラン夫人(岸恵子)であることを知った。
一鬼は体の異変に気づき船津の勧めもあり、医者に診てもらった。
数日後、船津あてに、病院から診断の結果を知らせてきたが、一鬼は自分を船津だと偽って聞いた。
病名は癌で、あと一年しか生きられないと一鬼は慟哭する。
二、三日して落ち着きを取り戻した一鬼は、若い日本人の岸夫婦(山本圭、佐藤オリエ)に、パリ近郊のブルゴーニュ地方にあるロマンの寺の見物をすすめられた。
この見物には、意外な事に岸夫婦が親しくしているマルセラン夫人も一緒だった。
そして、一鬼が死を意識する度に喪服の同伴者が現われ、彼と内面の対話を交す。
やがて帰国した彼は、癌で一カ月後には死ぬという友人・須波(宮口精二)を見舞った。
その須波に一鬼は一年後の自分を見るような気がした。
久し振りに一鬼は義母(杉村春子)を訪ねるが病気の事は告げず、ふたたび仕事にうち込み始める。
だが、今度は、以前と違って常に死を意識しながらの生活である。
やがて、一鬼の体の異変に気づいた娘たちのすすめによって、手術を受けるが、思いがけなく成功してしまう。
既に死を覚悟していた一鬼にとって、ロマンの寺もパリの寺院も過去の全てが「化石」としての存在でしかなくなっていた……。


寸評
映画の半分はフランス、スペインを巡る旅番組かと思われるくらい登場人物は散策し旅をする。
今では海外旅行も珍しくもなくなったが、当時はやっと一般人の海外旅行が始まった頃ではなかったか。
僕は1977年にハネムーンでパリへ行く計画を練っていたが、僕の病気で国内旅行に切り替わってしまった。
パリの街も随分描かれるがエッフェル塔や凱旋門は語りの中でワンショット映されるだけで、どちらかと言えばマニアックなところを訪れている。
一鬼が岸夫婦と出かけるのもブルゴーニュで、パリの喧騒とは違う静かな村の景色を見ると僕も行ってみたいと思ったし、名前も知らなかったロマンの寺にも興味がわいた。
ナレーションで物語の状況が説明され、一鬼の心の内が語られるので、小説を読んでいるような雰囲気もある。
当初は憧れもあってパリの景色楽しんでいたが、途中から井川比佐志の演じる船津に神経が集中していった。
彼は一鬼社長の秘書なのだろうが、その忠誠ぶりと献身的な振舞いに社会人時代を思い起こしていた。
僕も会社の中では立場上社長とかかわることが多かった方である。
ワンマンであった社長と付き合うことを嫌っていた社員もいたが、僕は社長をそれほど毛嫌いはしていなかった。
それでも何か月も一緒に旅をしたなら、僕は船津ほどの振る舞いはきっとできなかっただろうと思う。
献身的ではあるが、ずけずけとものを言う船津が羨ましいと思う自分がいた。

旅先でガンを宣告されて戸惑い悩む一鬼の姿を描いているが、余命わずかという事に苦しむ単純な人間ドラマとしていないのは岸恵子の存在である。
マルセラン夫人として一鬼の憧れの女性として登場しながら、一方では死に神として登場しているのがいい。
平板な内容に変化を与えている。
死に神の岸恵子がいなければつまらない作品になっていたような気がする。
作品が平板だと感じる要因は、かなりのキャスティングをしているのに、それぞれに関して深く描いていないことにもあると思う。
二人の娘の描き方も僕は物足りなかった。
特に妹の栗原小巻に関しては、親子の感情が中途半端でフラストレーションがたまった。
後妻であった杉村春子を嫌って中学生の時に家を飛び出していた一鬼だが、年老いた義母を訪ねると認知症がみられるようになっている。
それでも義母は義理の息子に気遣いを見せて招き入れる。
若い時と違って歳をとってからの義母と義息の間に生じている感情は、それだけでもドラマが一つ出来そうなものであるが、この親子関係も単なるエピソードの一つに終わっていたように思う。

日本に帰った一鬼は入院中の須波や、戦友の矢吹辰平と会い、自分の死を益々考えるようになる。
残り少ない人生をどう生きるか。
ところが、一鬼は手術に成功して余命は随分延びることとなる。
途端にそれまでの純粋な生への思いに邪念が生じてくる。
人間はどれほど強欲な動物なのかと思う。
人としての生き方は死を前にした時にしか出来ないものなのだろうか。

華氏911

2023-09-22 07:13:59 | 映画
「華氏911」 2004年 アメリカ  


監督 マイケル・ムーア

ストーリー
突撃取材スタイルで恐れを知らないドキュメンタリー作りをするマイケル・ムーア監督が、巨大国アメリカのブッシュ政権に、そして、アメリカ国民に問いかける。
「果たして、僕たちが追い求める自由はどこにあるのか?」と。
世界が目を覆った悲劇的な911同時多発テロ事件の後、強い大統領が発した「テロには絶対に屈しない」という言葉に突き動かされたアメリカ国民は、愛国心に燃え上がった。
アメリカ、9月11日の悲劇。
アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは、911以前から囁かれていたテロの可能性を軽視し、対策を見過ごしてきた。
ブッシュ大統領は、父ブッシュの代からサウジの富豪ラディン一族と石油ビジネスを中心に密接に関わっていたし、サウジとの間には、兆単位の石油マネーが動くからだ。
一族の厄介者、オサマが引き起こしたとんでもないテロを、ブッシュ大統領はいつの間にかイラクに結びつけ、アメリカを攻撃したこともないイラクへの空爆を開始した。
「自由」の名と、ゴルフクラブを振りかざして…。


寸評
公開初日の1回目上映にテレビクルーが取材撮影に来ていて、僕たちは先着100名様に配られるマイケル・ムーアのお面をかぶらされ、ニュース撮影に協力させられた。
それだけこの作品がスキャンダラスでセンセーショナルを巻き起こしている証拠だ。

作品は意図をもって編集されているから、全てがこの通りだとは思わないが、ある視点から見ればこれも事実なのだろう。
ドキュメンタリー手法で、ブッシュがテロに無警戒で関心を示さず、9月11日の悲劇が起きてもアクションを起こせず、責任をイラクのサダムに押し付けイラク戦争へと突き進んで行ったのは、すべて一族や政権の関係者の経済的利益のためだったと告発する。
そしてその結果、イラクの市民とアメリカの低階層の若者達が悲劇に見舞われている。それでいいのかと訴える。
でも、本当に大統領就任以来9月11日までの8ヶ月で42%が休暇だったのかなあ・・・。
それもまた幸せな事なのかなあ・・・とも思う。

編集と論理は明確で単純だから、観客である我々を引き込む力は強力で、ドキュメンタリーにありがちな間延びする退屈感はなく一気に見せる。
テロの瞬間は映像を流さず音声だけで想像させる手法や、突撃インタビューのやり方などは中々のもので、マイケル・ムーアの才能のなせる技かもしれない。

そして見終わった僕は思った。
ここで描かれた事実だけがあったとしたら、一体日本が選択した結論は何んだったのか?
本当にアメリカ追随をやって良かったのだろうかと。
そんな疑問を抱かせ、アメリカの正義に疑問を投げかけるアメリカ作品というだけではなく、じゃあ日本はどうすればいいのかを考えさせただけでも価値ある作品だったと思う。
そして、ディズニーの配給拒否はあったとは言え、名誉毀損問題も発生せずに映画が公開されるアメリカの表現の自由に対する懐の深さも同時に感じた作品だった。

映画の題名は、トリュフォーの「華氏451」から取ったらしい。
そしてカンヌ映画祭で最高賞のパルムドールを受賞していて、審査委員長のクエンティン・タランティーノが「政治は受賞に何の関係も無い。単に映画として面白いから君に賞を贈ったんだ」と述べている。
確かにドキュメンタリーとしては面白いし、主演=ジョージ・W・ブッシュと言うのも面白い映画ではある。
けれど、映画のジャンルが違うとは言え、ボクは映画としては「華氏451」の方が面白いと思う。

影の車

2023-09-21 07:49:15 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/3/21は「紙の月」で、以下「紙屋悦子の青春」「髪結いの亭主」「ガメラ 大怪獣空中決戦」「ガメラ2 レギオン襲来」「かもめ食堂」「花様年華」「カルメン純情す」「川の底からこんにちは」「ガンジー」「歓待」と続きました。

今日から「か」です。

「影の車」 1970年 日本


監督 野村芳太郎
出演 加藤剛 岩下志麻 小川真由美 滝田裕介
   岩崎加根子 芦田伸介 浜田寅彦
   稲葉義男 近藤洋介 早野寿郎 野村昭子

ストーリー
旅行代理店で働く浜島幸雄は、帰宅途中のバスの中で中学の同級生だった小磯泰子と再会した。
今の夫婦生活に味気なさを感じていた浜島は次の日の帰り道にもバスで泰子と一緒になった。
夫に先立たれた泰子は、六歳の息子健一を女手ひとつで育てていた。
泰子の家に立ち寄った浜島は、彼女の好意に甘えて手料理をご馳走になった。
浜島は保険の外交員として働く泰子のために世話を焼きはじめる。
泰子もまた紳士的で頼りがいのある浜島に惹かれていった。
健一だけが仲睦まじい二人の様子に嫉妬して孤独を深めていった。
惹かれ合う二人は理性を押さえられなくなり、ついにある夜一線を越えてしまった。
浜島は健一との距離を縮めたいと思うものの、健一はまったく懐く素振りを見せない。
母を奪われることを危惧した健一は、次第に浜島に反抗的な態度を見せるようになる。
浜島もまた健一からの嫌がらせがエスカレートしていることを強く感じるようになった。
泰子は二人の間に不穏な空気が流れているとは知らず、浜島との恋愛にどっぷりのめり込んでいった。
泰子の外出中に浜島がうたた寝していると、健一がヤカンを火にかけたまま外に遊びに行ってしまい、ガス中毒になりかけた浜島は健一が自分に強い殺意を抱いているのではないかと感じはじめた。
健一への後ろめたさを感じる浜島は、泰子を意識的に避けるようになった。
しかし泰子から健一は浜島が父親になってもくれてもいいと言っていると聞き不安を払拭した。
家族のように三人で楽しい夜を過ごした後、翌朝目覚めた浜島がトイレから出てくると、そこには健一がナタを持ってたたずんでいて、もみ合いになるうちに浜島は健一の首を絞めてしまう。
健一は短時間意識を失っただけで命に別状はなかったが、浜島は殺人未遂の容疑で逮捕された。


寸評
映画が始まると浜島と泰子が出会う場面が描かれる。
暫くしてタイトルが出るのだが、その時の背景はフィルムに処理が施された薄気味悪い海となっている。
毒々しい映像はクレジットの間中に流され、本編に入っても描かれるフィルムに特殊処理された映像は浜島の想い出の中にあるものと分かる。
いわゆる不倫ものであるが、そこに男の過去の想い出が重なることで破局を迎える展開は松本清張の構成力だ。
母子家庭の浜島少年は奇異な色彩映像の中で母を奪う男への殺意を募らせていく。
人は自分がそうであったなら他人もそうであるように思いがちである。
浜島は健一の姿に過去の自分を重ね合わせる。
健一が自分を見る目にあの頃の自分の目を感じ、饅頭に関する出来事、ガスコンロに関する出来事など偶然の出来事も健一の殺意に感じてしまう。
それは健一と同じ年頃の頃に自分がそうであったからだ。
男との間に楽しい時間はあったものの、健一の心の底にある嫌悪感は拭いようもなかったのだ。
自分にあった感情が健一に乗り移っていく描写がサスペンスとして盛り上がりを見せる。

健一はまだ子供だから、浜島が一緒にふざけてくれるときは楽しいし、プラモデルを買ってくれればうれしい。
泰子はそんな息子の姿を見て、息子が愛する男になついてくれていると思うが、それはそうあってほしいと願う泰子の曇った目がそう思わせている。
親の心子知らずと言うが、子の心親知らずと言うことも有る。
それが浜島と泰子、健一がドライブに行った時の出来事だ。
ドライブを続け渓谷を散策する一日を健一も大いに楽しんでいたのだが、健一が車で眠っていることを良いことに二人で森の中で逢瀬を楽しむ。
寝ていた健一が目覚めた時に浜島と母である泰子が居らず、世渡りを知り始めた健一は母を取られる思いを持ちながら知らぬふりをする。
泰子はあんなに喜んだ健一を見たことがないと浜島に告げるのだが、健一は逆の気持ちを抱いている。
自分たちの勝手から子供の気持ちに思いが至らないという象徴的な場面である。
事件が起きて警察に呼ばれた泰子は浜島がそんなことをする男ではないと言い、健一もそんなことをする子ではないと刑事に訴える。
刑事はそれなら、浜島が健一を殺そうとしたのか、それとも健一が浜島を殺そうとしたのかと詰め寄り、泰子は答えることが出来ず絶句してしまう。
事実はどうだったのだろう。
泰子が言うように、目が覚めてしまった健一がナタを持って林の中へ行こうとしていただけなのかもしれない。
あるいは健一が本当に浜島を殺そうとしたのかもしれない。
しかし浜島には健一がナタを持って自分を襲ってくるようにしか見えなかった。
それは自分の過去が蘇ってきたからだ。
刑事は6歳の子供がそんな気持ちを持つはずがないと言うのだが、浜島にはそうではない確信がある。
事実を明らかにせず終わるが、何事もなかったようにブランクで遊ぶ健一の姿こそ恐ろしいものを感じさせる。

オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分

2023-09-20 07:34:04 | 映画
「オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分」  2013年 イギリス / アメリカ
監督 スティーヴン・ナイト                        
出演 トム・ハーディ                    
声の出演 オリヴィア・コールマン(ベッサン)
     ルース・ウィルソン(カトリーヌ)
     アンドリュー・スコット(ドナル)
     ベン・ダニエルズ(ガレス)
     ビル・ミルナー(ショーン)
     トム・ホランド(エディ)

ストーリー
その夜、建築現場監督としてキャリアを積み上げてきた建設会社のエリート社員、アイヴァン・ロックは、妻カトリーナと二人の息子たちが待つ自宅へと愛車BMWを走らせていた。
翌朝は現場で重要な作業を控え、キャリアの中でも最高の瞬間になるはずだった。
だが、一本の電話が彼に人生の全てを賭ける決断を迫る。
しばらく考えを巡らせたロックは、自宅から遠く離れたロンドンへと連なるハイウェイにハンドルを切った。
しかも明日は、一大建設プロジェクトの着工を現場で指揮しなければならなかったというのに。
夜のハイウェイをロック乗ったBMWが走る。
そんな中、ロックのもとにはひっきりなしに電話がかかってくる。
上司のガレス、現場作業員のドナル、カトリーナ、子供たち、そして過去にロックと関係を持ったベッサン…。
激怒した上司が電話でクビを宣告し、妻は電話の向こうで取り乱してしまう。
ロンドンが近づくにつれ、ロックを取り巻く状況は公私共に悪化の一途を辿っていくが…。


寸評
本作は不倫相手が産気づき、今すぐ来て! というところから物語が始まる。
映画は病院までのおよそ90分間のドライブを、リアルタイムで描く密室劇だが、車の中という動く密室劇だ。
舞台は運転するBMW一台のみ、画面に現れるのはトム・ハーディ一人。
彼があちこちと車内電話で話すだけの映画だ。
画面に映るのは運転しながら電話するロックの姿と、ハイウェイを走る車のライトや夜の景色だけだ。
電話がかかってきたり、かけたりで、会話の連続だがその内容が面白いので時間が過ぎるのが早い。

明朝に控えた人生最大の仕事を、たまたま残っていた一作業員に電話指示でやらせなくてはならない。
この間のやりとりは会話だけなのにスリリングでエンタメ性に富んでいる。
出産を控えて不安なベッサンの相手をしなくてはならない。
愛を感じていない女性なのに誠実に対応しようとしているのは男のズルさかもしれない。
そして浮気相手の女性の出産を妻に告白もしなくてはいけない。
子供たちのサッカーの試合展開の報告が、家庭内で起きた問題の大きさを感じさせる。
しかしロックに迷いはない。
サッカーのテレビ中継を家族と見ることを諦め、ロンドンへハンドルを切った時にロックはすべての決断をしていたのだ。
しかも先程まであった家、家族、仕事を失うことを承知の上のことである。
彼の選択は正しかったのか?
映画の中で彼がどうしようかと迷う場面や、慌てふためく場面はない。
彼は既に決断している。
カーナビの画面は高速道路なので一本道を示し続ける。
彼はこの道しかないということを決断した暗示でもある。

ロックは誠実で正直な人間だ。
したがってクビになった会社の仕事でも最後はキッチリと仕上げようと思っている。
愛情などない女性でも、自分の責任だけは果たそうとしている。
浮気相手の女性から「愛していると言って」と言われても、その場限りのいい加減な返事は出来ない男だ。
病院からの電話にも、生まれてくる子の父親だとしか言わない。
この映画は、人間が責任をはたすという、その意味の重さをも描いていたのだと思う。
ロックの決断は正しかったのか?
ロックはこの状況をどのように収めるのか?
映画の最後に息子が主人公に語る言葉がじつにいい。
絶望感に打ちのめされながらも息子の話には、もしかしたらという望みとか希望が感じられる。
珍しい映画だが単純な映画でもある。
そしていつの間にか引き込まれてしまっていた映画でもあった。

おらおらでひとりいぐも

2023-09-19 06:32:36 | 映画
「おらおらでひとりいぐも」 2020年 日本


監督 沖田修一
出演 田中裕子 蒼井優 東出昌大 濱田岳 青木崇高 宮藤官九郎
   田畑智子 黒田大輔 六角精児 大方斐紗子 鷲尾真知子

ストーリー
74歳になる桃子(田中裕子)は都会の片隅で一人暮らしをしている。
桃子の脳裏に若き日の自分(蒼井優)が亡き夫・周造(東出昌大)と共に過ごした頃の姿が浮かんできた。
桃子はなんだか自分の頭がおかしくなってきたのではないかと不安げになっていたところ、突然自分と同じ格好をした三人の男(濱田岳、青木崇高、宮藤官九郎)が現れ、こたつを囲んで笑ってきた。
実はこの三人男の正体は桃子の心の寂しさが擬人化して現れたものであり、やがて桃子と三人男はジャズを奏でて踊り始めた。
翌朝。桃子の枕元には彼女の朝専用の擬人化男、通称“どうせ”おじさん(六角精児)が現れた。
桃子は病院の診察を受けに行ったが、いつものように問題ないことを告げられ、その後図書館に本を返しに向かった。
図書館の司書(鷲尾真知子)はいつものように桃子を習い事に誘ったが、桃子はいつものように断った。
帰宅した桃子を出迎えたのはいつもの寂しさ三人衆だった。
桃子は三人衆と賑やかに過ごし、そしていつものように翌朝“どうせ”に起こされた。
テレビには東京オリンピックに関するニュースが流れており、桃子はふと1964年に開催された最初の東京オリンピックの頃を思い出していた…。
桃子は周造に先立たれた哀しみを紛らわすかのように“脳内歌謡ショー”を催した。
故郷の古いしきたりから逃れ、“新しい女”になるはずだったのがいつしか自分も結局はしきたりに流されてしまったことを桃子は振り返り、周造の死によって“愛よりも自由”という心境に達したことも振り返っていた。
そんなある日のこと、桃子の元を娘(田畑智子)が孫を連れてやってきた。
かねてから疎遠状態に陥っている娘は孫の塾の費用の名目で桃子に金をせびり、その言葉に桃子は以前に自分が“オレオレ詐欺”に引っかかった時のことを思い出した。


寸評
ビッグバンが起き宇宙ができて地球が誕生し、やがてその地球に生命が誕生し人類が生まれ、大勢の人が済む発展を遂げた人間社会の中に桃子さんは一人でいる。
二人の子供は結婚し、長男は遠くに住んでいて音信もなく桃子さんは居ないものと思うことにしており、長女は近くに住んでいて孫に会えるのを楽しみにしているが、訪ねてくれば借金のお願いだったりするので、老人にとっては実の子供たちもあてにならない存在となっている。
桃子さんは夫の周造に先立たれて一人暮らしなのだが、桃子さんと同じような年齢になってきた私の回りにもそのような家がやたらと目についてきたから他人事ではない。
明日は我が身で、桃子さんの話は私の話でもあるのだ。

桃子さんの脳は若かりし頃を思い出し、自らを慰め鼓舞する空想の妖精を誕生させる。
桃子さんがお世話になっている現実の世界の一つは町の病院で、そこは待つこと2時間、診察時間は5分という事が行われている。
先生は診察もせず「お変わりありませんか?なければお薬を出しておきましょう」と言うだけで、認知症の相談をすると大きな病院へ行けと指示するだけ。
診察をすれば「様子を見ましょう」との答えしか返ってこない老人医療現場が皮肉られる。
以前は親身になって家族状況まで把握して住民のことを気遣ってくれるベテランの町医者がいたものだが、今は若い先生ばかりで多くは患者よりもパソコンを見ている人の方が多いような気がする。

幼なかった時、若かった時、そして現在の桃子さんがどのシーンにも登場して、息子や娘だけのシーンはない。
この映画は桃子さん一人の映画なのだ。
桃子さんは周造が亡くなってからが自分が一番輝いている時だと言う。
それは愛していた周造からも自立して、彼との愛の代わりに自由を得たからである。
一人になってしまうと話し相手もいない淋しい日々を連想するが、しかし僕がそうなったとしたらそれからを自由を得た輝く日々の再来にしたいと思う。
脈々とした命が受け継がれてきて今の自分があることを忘れてはならない。
そうであればこそ無駄に生きてはならないのだ。
僕に残された時間はそう多くはないと思うが、一人で生きていくことになっても想い出を背負いながら前を向いて歩いていくぞと思った。

沖田修一らしい滑稽なシーンが散りばめられている。
退治したゴキブリが新聞紙にこびりついているといったクスッと笑うものから、クソ周造の歌を唄う場面のように大笑いしてしまうシーンまで多岐に渡っている。
桃子さんのダンスシーンも愉快であった。
エンドクレジットのあとで節分の豆まきで撒かれた一袋が残されていて、桃子さんが焼く目玉焼きの音がかすかに聞こえる。
桃子さんは今日もいつもと変わらぬ日を送っているということだろう。

お早よう

2023-09-18 07:00:33 | 映画
「お早よう」 1959年 日本


監督 小津安二郎
出演 佐田啓二 久我美子 笠智衆 三宅邦子 杉村春子 設楽幸嗣
   島津雅彦 泉京子 高橋とよ 沢村貞子 東野英治郎 長岡輝子
   三好栄子 田中春男 大泉滉 須賀不二夫 殿山泰司 佐竹明夫
   諸角啓二郎 桜むつ子

ストーリー
東京の郊外--小住宅の並んでいる一角。
組長の原田家は、辰造(田中春男)、きく江(杉村春子)の夫婦に中学一年の子・幸造(白田肇)、それにお婆ちゃんのみつ江(三好栄子)の四人暮し。
原田家の左隣がガス会社に勤務の大久保善之助(竹田法一)の家で、妻のしげ(高橋とよ)、中学一年の善一(藤木満寿夫)の三人。
大久保家の向い林啓太郎(笠智衆)の家は妻の民子(三宅邦子)と、これも中学一年の実(設楽幸嗣)、次男の勇(島津雅彦)、それに民子の妹有田節子(久我美子)の五人暮し。
林家の左隣・老サラリーマンの富沢汎(東野英治郎)は妻とよ子(長岡輝子)と二人暮し。
右隣は界隈で唯一軒テレビをもっている丸山家で、明(大泉滉)・みどり(泉京子)の若い夫婦は万事派手好みで近所のヒンシュクを買っている。
そして、この小住宅地から少し離れた所に、子供たちが英語を習いに行っている福井平一郎(佐田啓二)が、その姉で自動車のセールスをしている加代子(沢村貞子)と住んでいる。
向う三軒両隣、日頃ちいさな紛争はあるが和かにやっている。
相撲が始まると子供たちが近所のヒンシュクの的・丸山家のテレビにかじりついて勉強をしないのである。
民子が子どもの実と勇を叱ると、子供たちは、そんならテレビを買ってくれと云う。
啓太郎が、子供の癖に余計なことを言うな、と怒鳴ると子供たちは反撃に出て沈黙戦術が始まった…。


寸評
最後の方で「はっちょうなわて」という駅が出てくるから、場所は川崎市の鶴見川あたりの土手下と思われる。
市営住宅が立ち並んでいるが、この頃にはこのような市営住宅が日本のあちこちにあった。
同じような家が立ち並び、玄関を開けると通りを挟んで向かいの家があり、お互いの台所が丸見えだ。
隣近所が非常に近く、住人たちは特に主婦たちと子供たちはお互いの家を行き来している。
そんな環境の中での人情喜劇といった感じで、話自体はたわいのないもので大したことも起きず、ただただご近所の日常を描いているに過ぎない。
奥さん連中は婦人会の会費をめぐってちょっとしたいざこざを起こしている。
ちょっとした物の貸し借りでもうわさが飛び交う始末である。
当事者たちはある人とはうわさ話をし、ある人とは険悪になったりするが、すぐにまた打ち解け合う。

子供たちはオナラ遊びに興じているが、オナラをこんなに描いた映画は古今東西この作品だけだろう。
近所の子供たちはテレビを持っている丸山家に夕刻から入り浸っている。
相撲中継を見せてもらうためで、あの頃はテレビを持っている家は珍しく、僕もテレビのある家に見に行っていた記憶がある。
1959年(昭和34年)4月10日の皇太子と美智子様とのご成婚パレードも隣の家で見せてもらった。
相撲中継では初代若乃花の名前が何度も出てくるし、わずかに若秩父の名前も聞こえる。
若秩父はほとんどの地位が前頭だったような気がするが愛嬌のあるお相撲さんで懐かしい。
林家の子供たちはテレビを買ってほしいとせがむが、「余計なことを言うんじゃない、静かにしていろ」と言われ、それを契機に口を利かないと言う抵抗をみせる。
この時、笠智衆が言った余計なことというのが後半の大きなテーマになっていく。
大人たちは題名となっている「お早よう」の挨拶や、「どちらへ?」「ちょっとそこまで」といった余計な会話をしているが、それは世の中の潤滑油で無駄と思われる行為も必要なのだという。
無駄なことは言うが、肝心なことはなかなか言わないのも大人の世界なのだが、それを佐田啓二と久我美子の恋愛感情に反映させている。
明確なテーゼとして描くのではなく、日常スケッチの様な感じで描き続けているので、ちょっとした笑いが起こるホームドラマで罪がない。

夜の商売についているらしい丸山夫婦は近所の自分たちに対するうわさ話に耐えられず引っ越していく。
直接的なシーンは描かれていないが、親たちはこの家に出入りするのを快く思っていないようだ。
ちょっとお上品な三宅邦子も引っ越したいと言うが、妹の久我美子に山奥にでも行かない限りどこに行っても隣近所はあると言われる。
隣近所はここに描かれたような交流があると煩わしいものではあるが、一方でお互いに思いやることもあっていい面もある。
徐々に失われつつある昭和の人付き合いでもあるし、啓太郎は富沢の再就職への協力としてテレビを購入してやる義理人情を持ち合わせている。
この作品で描かれたような軽妙さは、その多少はあるものの小津作品の底流を流れているものなのだろうと思う。

おだやかな日常

2023-09-17 06:59:32 | 映画
「おだやかな日常」 2012年 日本                                                            

監督 内田伸輝                                         
出演 杉野希妃 篠原友希子 山本剛史 渡辺杏実 小柳友
   渡辺真起子 山田真歩 西山真来 寺島進 志賀廣太郎
   古舘寛治 木引優子 松浦祐也                        

ストーリー
福島の原発事故の影響が明らかになり始める東京近郊のマンション。
マンションに住むサエコ(杉野希妃)は夫から一方的に離婚を突きつけられ、幼い娘を一人で育てなければならなくなる。
そんな彼女は放射能の恐怖から幼い娘の清美を守りたい一心で様々な行動に出るが、それが幼稚園の他の母親たちとの間に軋轢を生んでしまう。
一方、同じマンションの隣人ユカコ(篠原友希子)も放射能への危機感を募らせ、サラリーマンの夫に引っ越しを迫るのだったが…。


寸評
東日本大震災による原発事故をテーマにした映画で、放射能の恐怖におびえ追い詰められていく2人の女性を描いている。
マンションの隣人同士のサエコとユカコの二人に共通するのは福島からやってくる放射能への恐怖。
二人の行動はドラマの展開とともに、どんどん過激になっていき、、その行動は賛否が分かれるところだと思うのだが、作り手側もその行動を短絡的に肯定しているわけではない。
関西在住の僕は、正直、そこまでやると浮くんじゃないかと感じてしまうのだが、しかしサエコは突然夫から離婚を切り出されて一人娘を育てねばならない事情や、ユカコにも過去に負った事情などが、その異常性を納得させる背景となっている。
離婚を突き付けられているサエコの事情はストレートだが、一方のユカコの方は夫の務める会社では業績不振のためのリストラが始まっていて、妻には言いにくい転勤、転職事情が裏にある。
「地震の時にどれだけ不安だったか、あなたに分かる?」と問い詰められて「その時、どれだけお前のことを心配していたのか分かるのか」と切り返えさせたりしているのは、男としては生活維持のために背負っている苦しさもあるのだと代弁しているようで、このあたりの背景がこの映画を単純構造にしていないのだと思う。

原発事故を描いた映画なのだけれど、杉野希妃、篠原友希子の熱演もあって、母性を描いたドラマとして見応えがあった。
それぞれの恐怖や焦燥感は当事者でない僕にはオーバーに感じられたのだが、その感情そのものが”おだやか”すぎるのだろう。
考えてみれば水俣病だって、政府は当初チッソは関係ないと発表していたのだし、国民は少なからず今回の安全宣言も怪しいものだと感じているのではないか?
そして5年後、10年後に彼女達が恐れているようなことになると、結局泣きを見るのは子供たちだ。
水俣病と同じように、国家補償が得られたとしても、国家は賠償金を支払って終わりかもしれないが、苦しむのは当事者たちで、その苦しみは救いようがない。
同じことが起きないと誰が断言できるのだろう。
やはり、子供を守る気持ちが強いのは母親が一番なのだと思い知らされた。
自分のことは自分で守るしかないのだが、昨今の震災がれきの受け入れ問題と言い、時間がたつと周りは無関心になっていき、そこには”おだやかな日常”だけが有るようになってしまうのだろう。
当事者たちには軋轢、偏見、風評被害も生じているのだろうが、なんとか国家として救えないものかと思う。

舞台を福島でなく東京にしているのも微妙な感情を起こさせ、手持ちカメラを多用したドキュメンタリータッチで、少々堅苦しかったのだが、ユカコの夫に何事もなかったように暮らすことへの違和感を表明させ、かすかな希望をともすエンディングを用意していたので、このラストでもって一気にドラマとして昇華した。
最後の10分はいい。

王様と私

2023-09-16 08:09:21 | 映画
「王様と私」 1956年 アメリカ


監督 ウォルター・ラング
出演 ユル・ブリンナー デボラ・カー リタ・モレノ
   マーティン・ベンソン テリー・サウンダース

ストーリー
1862年、アンナ夫人は息子ルイズを連れてシャム王の王子や王女らの教師としてイギリスからシャムに渡る。
バンコックでは首相のクララホームの出迎え。
アンナは王が宿舎提供の約束を忘れていることを知り、直談判しようとする。
王はビルマ大公の貢物、美姫タプティムを受け取ったところ。
早々アンナを後宮へ伴い正妃ティアンを始め数多くの王子、王女らを引合わせる。
アンナは王の子女の教育についてティアン妃の援助を受けることになり、タプティムは妃達に英語を教えることになる。
アンナはタプティムの恋人がビルマから彼女を連れてきた使者ラン・タと知り、何とか心遣いをしてやった。
アンナは王子、王女らの教育で“家”という言葉を教え、宿舎の提供を怠った王の耳に入れようとする。
次代の王、チュラロンコーン王子たちは、シャムは円い地球上の小国と聞き驚く。
王は授業参観に赴くが、タプティムが持つアンナから贈られた小説“アンクル・トムの小屋”に興味を持ち、アンナと奴隷制度について論じたが、首相は西洋の教育は王の頭を混乱させるとアンナを非難する。
自分が英人から野蛮人と考えられていると知った王は、保護国の資格を失うと考え、近く国情調査にくる英特使のもてなしをアンナに一任し、特使ジョン・ヘイ卿の歓迎晩餐会はヨーロッパ風の豪華なものとなった。
その夜、宴が成功裡に終ったことを祝い、王とアンナは二人だけでダンスを踊る。
その最中、タプティムは恋人と駈落ちする。
捕らえられたタプティムはアンナのとりなしでムチ刑を逃れるが、ラン・タは殺害されてしまう。
心を痛めたアンナは故国へ戻ろうとするが、船が出帆する日、王が死の床にあると知らせが入る。


寸評
ユル・ブリンナーは多くの作品に出演したスキンヘッドが強く印象に残る男優で、「荒野の七人」が記憶に残るが代表作は舞台を含めてこの「王様と私」だろう。
タイの王室が舞台だけにオリエンタルムードが漂うミュージカルとなっている。
第29回アカデミー賞において9部門にノミネートされ、ブリンナーの主演男優賞、ミュージカル映画音楽賞、録音賞、美術賞、衣装デザイン賞の5部門を受賞した作品だが、印象としては古いタイプのミュージカル映画と感じる。
家庭教師が古い因習にとらわれている王様と子供たちを持ち前のバイタリティで変えていくのは、例えば「サウンド・オブ・ミュージック」などと同じような図式である。
「サウンド・オブ・ミュージック」がセット撮影だけでなく外へ飛び出しているのに対し、こちらの「王様と私」はすべてセット撮影となっている(タプティムとルン・タが秘かに会っている庭の部分はロケかもしれない)。
舞台のミュージカルを単純に映画に焼き直したような印象を受けるのは、セットが舞台的であることによる。
僕は舞台のミュージカルを見ていないので何とも言えないが、ユル・ブリンナーの動きは舞台俳優的に感じる。
オリエンタルムードがこのミュージカルの特徴だと思うし、劇中劇として演じられる「アンクル・トムの小屋」がそのムードを一気に高めている。

僕の無知もあって、楽曲は知らないものばかりだが「シャル・ウィ・ダンス? (Shall We Dance?)」だけは馴染みの曲で、王様とアンナが踊って歌うその場面は一番楽しいシーンとなっている。
ドラがなってダンスが終わってしまうが、もう少し二人のダンスを見ていたかったという気にさせる。
クララホーム首相は大事な登場人物になりえたはずなのに、あまり存在感がなく歌い踊る場面もない。
彼は王様以上に封建的な人物で、冒頭でも船長が彼には気を付けた方が良いとも言っていたし、アンナが施す教育に対してもっと妨害するシーンがあっても良かったような気がする。
タプティムとルン・タの悲恋も「アンクル・トムの小屋」の上演の中で暗示されているが、結末としてはあっけない終わり方で、悲しい終わり方が伝わってはこない補足的なエピソードとなっている。
イギリスからやってきた元恋人のエドワードと王様が恋のさや当てをするような場面もあるが、アンナとエドワードはどのような別れ方をしたのか分からない。
ミュージカルのせいか、大雑把なストーリー展開のような気がする。

王様は病気になって死を迎えようとしている時に息子に譲位を言い渡す。
王様の地位を譲られたチュラーンロンコーン王子は奴隷制度および平伏の廃止を公布する。
それを見届けて王様は息を引き取るが、危篤状態にしては元気すぎないか。
臨終シーンにリアリティがないのも舞台劇を思わせてしまう一因だ。
アンナが大様に抱いていた気持ちは、愛だったのか、尊敬だったのか、僕はよく感じ取れなかった。
多分尊敬の気持ちだったのだろうが、愛情が芽生えていて他の夫人たちと軋轢を生んだ方が面白かったと思うが、そんなストーリーはこの作品には似合わない。
デボラ・カーにとっても「王様と私」は代表作になったと思う。