おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ラストレター

2021-12-31 08:21:47 | 映画
「ラストレター」 2019年 日本


監督 岩井俊二
出演 松たか子 広瀬すず 福山雅治
庵野秀明 森七菜 小室等 
水越けいこ 木内みどり 鈴木慶一
豊川悦司 中山美穂 神木隆之介

ストーリー
遠野未咲の葬儀の日、娘の鮎美(広瀬すず)は母からの遺書を開封できずにいた。
いとこの颯香(森七菜)は夏休みの間、鮎美の住む祖父母の家で鮎美と一緒に過ごすと言う。
颯香の母・裕里(松たか子)は姉・未咲の高校時代の同窓会に出向く。
マドンナ的存在だった姉に間違われ、その死を言い出せず姉のフリをしたまま会場を後にした裕里に声を掛けてきたのは、かつて憧れていた乙坂鏡史郎(福山雅治)だった。
乙坂の誘いを断り、連絡先だけ交換して帰宅した裕里は、メッセージのやりとりを夫の宗二郎(庵野秀明)に見られ、スマホを壊されてしまう。
その事実を知らせるため、姉のフリをしたまま裕里は乙坂に自分の住所は書かず手紙を送り始めた。
ある日、宗二郎が突然大きな犬を二頭買ってきたが、それは妻・裕里への罰のつもりだった。
困った裕里は一頭を実家に連れていき、そこで鮎美が世話をすることになった。
事の顛末を懐かしい高校の写真とともに手紙で送った裕里に、乙坂は返事を書き実家の住所に送った。
ある日、滞在していた夫の母・昭子(水越けいこ)がいなくなってしまい、裕里が近所を探し回ると、ある老人の家でぎっくり腰になってしまったことがわかった。
その老人は昭子の高校時代の恩師波戸場(小室等)で、昭子は英文の添削を彼に頼んでいた。
裕里は手をケガしている波戸場の代わりに彼の家で、添削した英文を書く作業を始めた。
そしてその家の住所を借りて乙坂に手紙を出した。
一方、実家に届いた乙坂の手紙を読んだ鮎美と颯香は、こちらも未咲のフリをして返事を書き始めた。
書簡のやりとりの中で、かつて転校してきた乙坂(神木隆之介)が生物部に入部し、後輩である遠野裕里(森七菜)の姉未咲(広瀬すず)に一目惚れしたこと、裕里にラブレターを託していたことなどが明らかになる。


寸評
岩井俊二が中国を舞台に撮った「チィファの手紙」とまったく同じ内容で、舞台を日本に置き換えている。
従ってストーリー的な新鮮さはないが、舞台が日本だけに、僕は本作の方がしっくりきた。
同監督の「Love Letter」と同一線上にある作品として、僕は懐かしさを感じながら見ることができた作品である。
高校生の時代に乙坂鏡史郎に恋した裕里は岸辺野宗二郎と結婚し、颯香と瑛斗という一女一男がいる母親となり、今は幸せな生活を送っているようである。
作中における夫の影は薄いが、妻に焼きもちを焼く可愛げのある夫であるようだ。
夫に対する特別な不満もなさそうな平凡な主婦として松たか子の演技はこの作品を楽しいものにしている。
若い頃の未咲と裕里、現在の鮎美と颯香を演じる広瀬すずと森七菜もなかなかいい。
一方の主人公は乙坂鏡史郎で、現在を 福山雅治、高校時代を神木隆之介が演じているが、男性陣に比べれば女性陣の存在が輝いている。

「Love Letter」の豊川悦司と中山美穂がこんな形で登場してくるのかという感じなのだが、豊川演じる阿藤が乙坂鏡史郎に言う「結局お前は未咲の人生に何の影響も与えなかったのだ」は強烈だ。
松たか子が言う「誰かに思い続けられていれば、亡くなった人もずっと生き続けているんじゃないですか」に対抗する言葉だったと思う。
思い続けているだけではダメなんだなあ。
どんなに想いを募らせていても、何もできないんじゃ相手は誰かと結婚して、幸せだろうが不幸せだろうがその人はその人の人生を歩んでいくだけなのだ。
青春の恋の残酷さだ。

裕里の義理の母(水越けいこ)は学生時代の教師であった波止場正三(小室等)に英語の添削をしてもらっていて、ぎっくり腰になったことから手紙で英文の添削をしてもらうことになる。
これは裕里が鏡史郎と手紙のやり取りを行う裏返しでもある。
義母も学生時代に先生に恋心を抱いていたのかもしれない。
同窓会帰りの義母が「初恋の人に会ったのか」と息子に聞かれ、「そんな人はいないわよ」と照れ笑いをするのは、伏線だったように思う。
この老先生、裕里をかつて恋していた鏡史郎が訪ねてきた時に、「誰かに見られたらまずいだろ、私は散歩に出かけてくる」と言って我が家を二人に明け渡す。
なかなか気の利いた老人で、僕もそれぐらいの気持ちが持てる老人になりたいものだ。
物語は裕里と子供たちがが美咲に成り代わって手紙を書くことによって起きる、時代を超えた恋愛模様を描いたものなのだが、現在から過去の恋愛を掘り起こすのは「Love Letter」と同じ手法である。
岩井俊二は若い頃の恋を回想するのが好きなんだなあと思うけれど、初恋はその思いが強ければ強いほど思い出したくなるものだと思う。
ところで美咲が所有していた「美咲」という小説は、美咲も何度も読んだだろうし、鮎美もそらんじているぐらいだから何度も読んだに違いないと想像するのだが、だとすればカバーは傷んでいてもいいはずだし、手垢で黒くなっていてもいいはずなのに、出てくる本がすべてピカピカの新本だったことが何故だかすごく気になった。

楽園

2021-12-30 09:03:24 | 映画
「楽園」 2019年 日本


監督 瀬々敬久
出演 綾野剛 杉咲花 佐藤浩市 村上虹郎
片岡礼子 黒沢あすか 根岸季衣
石橋静河 柄本明 大西信満
   モロ師岡 嶋田久作 吉村実子

ストーリー
田園が広がるとある地方都市。
ある日、地域の顔役である藤木五郎(柄本明)の孫娘・愛華がY字路でこつ然と姿を消す事件が起きる。
必死の捜索もむなしく、愛華が発見されることはなかった。
それから12年後、愛華の親友でY字路で別れる直前まで一緒だった湯川紡(杉咲花)は、いまだに罪悪感を拭えずにいた。
紡と共に地元に残った同級生で幼馴染の野上広呂(村上虹郎)は紡に想いを寄せていたが、彼女はその気持ちに応えようとはしない。
祭りの日、紡は縁日で移動リサイクルショップを出すという豪士(綾野剛)を神楽に誘う。
ところがその時、愛華が行方不明になったあのY字路で学校帰りの女児小学生が行方不明になったとの知らせが入り、村人たちは豪士が女児を誘拐したのではと疑い、更には12年前の愛華の事件も豪士の仕業だと疑う。
村人たちは五郎を筆頭に豪士が暮らす町営住宅になだれ込み、その場に戻ってきた豪士は異様な光景に、かつて自分たち親子がいわれなき差別と迫害を受けていた過去がフラッシュバックしてこの場から逃げ出す。
その頃、神社では神楽が始まっていて、紡は広呂にキスを迫られたが、たまたま愛犬を連れて通りがかった養蜂家の田中善次郎(佐藤浩市)に助けられた。
その時、逃げ回っていた豪士は近くの飲食店に逃げ込み、身体に灯油を被ると自らの身体に火をつけた。
その翌年、紡は村を離れて東京に移り住み、青果市場で働いていた。
やがて広呂も村の閉塞感から逃れるように紡を追って上京、同じ青果市場で働き始めた。
紡はようやく広呂と腹を割って話し合えるようになったが、実は広呂の身体は病魔に蝕まれていた。
善次郎は妻・紀子(石橋静河)に先立たれてからは愛犬だけが心の支えになっていた。
ある日、善次郎は村の寄り合いの席で、世話役のひとりの娘・黒塚久子(片岡礼子)と出会う。


寸評
かつて北朝鮮が地上の楽園と喧伝されて多くの日本人が海を渡っていったが、現実の北朝鮮は食糧難にあえぐ独裁国家で、楽園とは程遠い国であることは承知の通りである。
日本は難民を多く受け入れている国ではないが、それでも日本を楽園と思ってやってきている外国人は多い。
彼らにとって思った通りの楽園になりえているかは疑問であるが、ここで描かれた元カンボジア難民の中村母子にとっては楽園ではなかったはずだ。
閉鎖的な村で彼らは部外者として差別を受け迫害されている。
映画は「罪」、「罰」、「人」のパートで描かれるが、内容的には2つの独立した話のような展開である。
先ず愛華という女児誘拐事件を通じて疑心暗鬼や集団心理の狂気が描かれる。
それが最も顕著になるのが2度目の事件の時だ。
村人の一人が、前回の捜索時に豪士によってランドセルが見つかった場所と反対側へ導かれたと言い、今回の犯人も前回同様に豪士に違いないと叫んだために、村人たちは豪士の家に押し掛ける。
その男は12年間、口には出していなかったが豪士のことを疑いの目で見ていたことになる。
一度疑いの目を向けられてしまうと、それが払拭されない怖さだ。
動き出した村人の行動を誰も止めることが出来ず、他人の家を破戒するがのごとくに滅茶苦茶にする。
追い詰められた豪士は焼身自殺するが、孫娘を誘拐されていた五郎は「誰かのせいにしないと割り切れない。誰かを犯人にすることでけじめがつけられる」との論理で、豪士を犯人と決めつける。
集団暴徒化した村人たちも同じような気持ちになってしまっている。
無意識のうちに村人たちが同化してしまうという集団心理の恐さでもある。

村と言う閉鎖社会で運命共同体の様に生活している村人たちの身勝手な行動が示されるのが善次郎にかかわる物語である。
善次郎はUターン組で、高齢者の多い村で村民の為に奉仕し、当初は村人から感謝されている。
彼のやっている養蜂業を村をあげてやることにも賛成していたのだが、村の長老たちは善次郎が自分達に報告せずに役場と交渉したことで不機嫌になってしまう。
会社に於いて、「俺は聞いていない」と古参幹部がむくれる構図と同じだ。
描かれるのは、閉鎖的な集落の陰湿さである。
誹謗中傷の類の噂話が飛び交い、嫌がらせがエスカレートしていき村八分となっていく。
村人たちは自分が村八分になることを恐れて、こちらにおいても村人全体が同化していくという怖さがある。

紡のパートになって、回想を挟みつつ事件の真相が明かされるのだが、真相と言っても明言されていない。
真相はあくまで紡の中での「真実」である。
紡は都会の雑踏の中で「アイカ」と呼ばれた女性と見つめ合う。
アイカは愛華なのか、愛華は殺されてなどいなかったのか。
紡が抱えた罪は最初から存在しなかったのか。
結局、12年前の事件の犯人は明言されないまま終わってしまうのだが、この観客の不完全燃焼感が五郎の抱える行き場のない怒りとリンクしているという描き方がバツグンだ。

ラウンド・ミッドナイト

2021-12-29 08:36:19 | 映画
「ラウンド・ミッドナイト」 1986年 アメリカ


監督 ベルトラン・タヴェルニエ
出演 デクスター・ゴードン
フランソワ・クリュゼ
マーティン・スコセッシ
ハービー・ハンコック
ロネット・マッキー
ボビー・ハッチャーソン

ストーリー
パリ、1959年。
アメリカのテナー・サックス奏者デイル・ターナーがクラブ、ブルーノートに出演するためにやって来た。
盛りを過ぎたとはいえ長年、サックスの巨人として君臨してきたデイルの来仏は、パリのジャズ・ファンの心をときめかし、デイルを迎えたのはクラブの音楽監督でピアニストのエディ・ウェインやヴァイブのエースといった気心の知れた仲間たち、それにクラブのオーナー、ベンらであった。
クラブは久々に大物の来場で湧き返り、その音をクラブの外で雨にうたれながらじっと聴いている若者がいた。
貧しいグラフィック・デザイナーのフランシス・ボリエで、彼はみすばらしいアパートで待っていた9歳の娘ベランジェールにその感激を語って聞かせた。「彼は神のように素晴らしかった!」
フランシスは妻と別れ、男手ひとつで娘を育てていたのだ。
やがてデイルとフランシスは意気投合--英語が分からないベランジェールもデイルに親しんだ。
フランシスはデイルを家に引き取り面倒を見ることにしたが、数ヵ月後、ついに別れの時がやって来た。


寸評
実在のサックス・プレイヤーであるデクスター・ゴードンが架空のプレイヤーを演じるジャズ映画であるが、ディル・ターナーが実在の人物で、彼の伝記映画かと思わせる雰囲気がある。
名前は聞いたことがあるクラブのブルーノートでの演奏シーンが何とも言えない。
たぶんセットだと思うが、ブルーノートの雰囲気はこんなだろうと思わせるような空気感と演奏者と客の表情がたまらなくいい。
造詣は深くはないがジャズ好きの僕としては、もっとじっくりブルーノートの演奏シーンを見たかった(いや、聞きたかった)。

フランシスの行為は親切とか友情とかのレベルを超えて献身と呼べるものである。
グラフィック・デザイナーのフランシスはサックスの巨人デイルを崇拝しているが、その入れ込みようは尋常ではなく、離婚原因はその事にあるのではないかと思わせる。
しかも、その事にフランシス自身は気がついていない。
別れた妻がレコーディング・スタジオを訪ねてきて、ちょっといい雰囲気になるのだが演奏が始まるや否やフランシスは彼女をそっちのけで演奏に聞き入ってしまう。
別れた妻は怒ったようにして出ていてしまうシーンがそう思わせる。
そこで打ち切って観客に想像させていると思うのだが、それはデイルの娘が川べりを歩くシーンでも同様だ。
デイルの死がフランシスに伝えられるのはその後だが、娘のチャオはその前に知らされていたのだろう。
デイルと娘の疎遠な関係が事前に描かれているので、印象的なシーンとなっている。
ほとんど夜か曇天の世界で描かれているが、日が射す海辺を少女と遊ぶシーンもまた印象的なシーンだ。

シングル・ファーザーのフランシスは一人娘のベランジェールと暮している。
裕福ではないがお互いの愛情で満たされた家庭だ。
ベランジェールの誕生日に祖父母の家をデイルを伴って訪問し誕生会を開く。
そこはデイルの住む世界とは違うごく普通の庶民の世界だ。
デイルの居る世界は芸術家の世界である。
庶民と芸術家の中間的なグラフィック・デザイナーのフランシスは献身的な態度で、芸術家であるデイルとの間に信頼関係を築いていく。
そのほのぼのとした雰囲気で映画は統一されている。
もしかするとジャズが好きでない人には耐えられない映画なのかもしれない。
デクスター・ゴードンがとてもいい雰囲気を出していて、動作はオランウータンの様にゆったりとしている。
表情はほとんど変化がなくゆっくりと歩く。
それでもアル中気味の彼が酒をやめると決意するあたりはジーンとしてしまう。
やめると何回も言っていたと言われ「約束していなかった」と返事する。
約束した今回もフランシスは信用せず、金を持って出たデイルの後をつけるのだが、そこでオレンジジュースを頼むなんて泣かせるじゃないか。
スコセッシが出てきたのには驚いたが、僕にはD・ゴードンとブルーノートの雰囲気が生み出した映画だった。

48時間

2021-12-28 09:08:27 | 映画
「48時間」 1982年 アメリカ


監督 ウォルター・ヒル
出演 ニック・ノルティ
エディ・マーフィ
アネット・オトゥール
ジェームズ・レマー
ソニー・ランダム
デニース・クロスビー

ストーリー
ある夏の暑い日、囚人のギャンズが看守のブラディを射殺し、先住民族のビリー・ベアと逃走する。
サンフランシスコでは、刑事のジャックが恋人のエレインと一緒の朝を迎えた。
ジャックは精神的に相当まいっている様子だ。
その頃、ギャンズとビリー・ベアはサンフランシスコに来ていた。
公園のベンチには昔の仲間ヘンリー・ウォンが死体となって横たわっていた。
ウォンは盗んだクレジット・カードを届けに来て殺されたのだ。
2人は昔のギャングの一味ルーサーを脅迫し、例の50万ドルを寄こせと要求。
月曜までに必ず手に入れるとルーサーが約束すると、2人は彼の恋人ロザリーを人質として連れ去る。
ジャックは盗まれたクレジット・カードを調べに来たアルグレンとヴァンザントを手伝うことにする。
2人がホテルの2階へ行くと、そこではギャンズが娼婦のリザと寝ていた。
ギャンスがヴァンザントを射殺、アルグレンにも重傷を負わす。
ギャンズとジャックはロビーで対決する。
ギャンズはジャックがピストルを捨てないとアルグレンを始末すると脅す。
アルグレンが制止したにもかかわらず、ジャックはピストルを放る。
ギャンズは即座にアルグレンを射殺して逃げ出し、呆然とするジャック。
ギャンズの捜査記録から、レジーという黒人の仲間がいたことが分るが、彼は今、刑務所で服役中だ。
ヘイドン署長に散々どなられたジャックは刑務所に行き、レジーから情報を得ようとする。
しかし、相手もさる者、ここから出してくれという。
ジャックは強引なやり方でレジーを48時間だけ仮釈放させることにした・・・。


寸評
エディ・マーフィの映画デビュー作で、主人公のニック・ノルティよりも目立つところがあり役得となっている。
ジャックはいわゆるハミ出し刑事だが、恋人のエレインには頭が上がらない人間臭いところがあるので魅力的なキャラクターとなっている。
彼の場合は捜査なのだが仕事に忙殺されて彼女にご機嫌取りの電話を入れても、仕事を優先させなければならないという悲哀を味わっているのは一般のサラリーマンと変わりはない。

刑事のジャックが刑務所にいるレジーという黒人の男を48時間だけ保釈し犯人逮捕に協力させるのだが、このレジーを演じているのがエディ・マーフィである。
ノルティのジャックがポンコツ車に乗り風采の上がらない格好をしているのに比べ、保釈されたマーフィのレジーは立派な服を着ていて態度もでかい。
犯罪者で服役中のレジーと保釈を認めてやった刑事と言う立場からすれば、圧倒的にジャックが上に立って当然で、実際高圧的な態度も取るのだが、事実上はレジーが仕切っているという関係が笑わせる。
この二人のやり取りがハードボイルド・アクション映画でありながら喜劇的要素を含んだ痛快娯楽作としている。
女を口説くのにもハッタリを利かすレジーが一番ハッタリをかますのが、ジャックから借りた刑事のバッジを見せて刑事になりすましてビリー・ベアの居場所を聞き出す酒場の場面だ。
ジャック以上に暴れまくり、店主や客を恐喝する。
おまけにチャッカリと客から拳銃とナイフを取り上げているという具合で、ことを成し遂げたあとのエディ・マーフィの飄々とした態度が何とも痛快だ。

尾行されているとも知らぬルーサーは、バスを盗んで運転してきたギャンズに会いに行き、金の入ったケースを渡すとギャンズはルーサーを即座に射殺。
ギャンズの非情と異常性を強調する場面で、そこからジャックとレジーがキャデラックで追跡するカーチェイスと銃撃戦が繰り広げられる。
前にもギャンズを取り逃がしていたジャックは、ここでもバスに乗った二人を取り逃がすことになるのだが、どうして銃撃戦の時にバスのタイヤを狙ってパンクさせなかったのかなあ。
しかし刑事らしくないジャックが警官によって犯人逮捕を阻止されるのは納得できるし、同じような状況を他でも描いていてジャックのはみ出し刑事ぶりを強調する演出としている。

レジーは刑務所に戻る前にキャンディと楽しみ、半年して出所したらまた来ると約束する。
女なら誰でも良かった筈だが、キャンディとはお互いに気に入った関係になったようである。
レジーに友情を感じ始めたジャックは「例の50万ドルはお前のものだ。だがまた悪事をはたらいたら、容赦しないぞ」と警告して映画は終わるのだが、レジーの女性関係をこ前述のように締めくくるのなら、ジャックとエレインの関係はどうなったのだろうと気がかりになった。
ストーリーとしては大雑把なところがあるように思うが、ニック・ノルティとエディ・マーフィのコンビが繰り広げる漫才のようなやり取りが楽しめる作品である。
エディ・マーフィがこの後ブレイクするが、それを納得させるだけの面白さが彼にはあった。

夜の河

2021-12-27 09:57:31 | 映画
「夜の河」 1956年 日本


監督 吉村公三郎
出演 山本富士子 小野道子 阿井美千子
市川和子 川崎敬三 上原謙 夏目俊二
舟木洋一 星ひかる 山茶花究 大美輝子
若杉曜子 萬代峰子 東野英治郎 小沢栄

ストーリー
京都、堀川の東一帯に立ち並ぶ京染の店の中で「丸由」と屋号を名乗る舟木由次郎(東野英治郎)。
由次郎は七十歳、後妻みつ(橘公子)とは三十も違い、今では長女きわ(山本富士子)が一家の中心、ろうけつ染に老父を凌ぐ腕を見せている。
新婚旅行の妹美代(小野道子)と清吉(夏目俊二)を京都駅で見送った帰途きわは、きわに好意を寄せている画学生岡本五郎(川崎敬三)が彼女を描いて出品している青樹社展覧会場に寄る。
きわはろうけつ染を、四条河原町の目抜きの店に進出させたいと思ったが、話は仲々に困難。
それを知った近江屋(小沢栄太郎)は彼女の美貌に惹かれ、取引先の店を展示場にと約束するが妻やす(万代峰子)の眼がうるさくてならない。
きわは唐招提寺を訪れた折、阪大教授竹村幸雄(上原謙)、娘あつ子(市川和子)と知り合う。
そして新緑五月、堀川の家を訪れた竹村との再会に喜ぶきわは彼と別れ難い気持になる。
競争相手の婦人服デザイナー大沢はつ子(大美輝子)と競って、きわは近江屋の紹介で東京進出にも成功。
きわの出品作は竹村が飼育していた燃えるような猩々蝿を一面に散らしたものだった。
加茂川の宴会で近江屋から逃れたきわは、友達せつ子(阿井美千子)の経営する旅館みよしで竹村と逢う。
彼は岡山の大学に変るといい、二人はその夜結ばれたが、岡本はきわに竹村との仲を忠告。
怒りを浮かべるきわに、僕は貴女を尊敬しているのだと岡本は叫ぶ。
数日後、竹村の娘あつ子の口から、竹村の妻が長い間病床に伏していると聞いたきわは驚く。
きわは竹村と白浜に行ったが、そこへ竹村の妻の病勢悪化の電話があり、彼女は死去。
告別式に出たきわは「もう少しだ。待ってくれ」と云った白浜での竹村の残酷な言葉を思い出す。
うちは違う、と、きわは泣きながら、心の中で叫び続けた。


寸評
僕が子供の頃の美人女優と言えば山本富士子が第一人者だった。
子供の僕がそう思っていたのだから、誰もが認める純日本的美人の代表格だったに違いない。
この作品における山本富士子は出演作品の中でも一番美しかった頃だろう。
上原謙と山本富士子が、今はなくなってしまった食堂車で向かい合って座っている。
山本富士子の顔が車窓に写ると、窓の外の夜景に赤いネオンの一点が車窓を横切っていく。
まるで女の情念が燃え出したような感じで、山本富士子の横顔と共に何とも美しいシーンとなっている。
山本富士子が演じる船木きわの美しい京都言葉と和服の着こなしに酔いしれ、華奢な感じがしない体躯から繰り出されるカラッとした明るさと、個人の意思をはっきりと述べる聡明さに大いに共感できる。

吉村孝三郎の演出と宮川一夫のカメラによって、直接的ではない匂うようなエロチシズムが添えられている。
上原謙と山本富士子が結ばれる場面のなんとしっとりとしたことか。
京の旅館の窓が開いていて電灯の光に誘われた蛾が入ってくる。
きわの友人の女将がそれを見て電気を消して出ていく。
薄明りの中でかすかに浮かび上がる二人の横顔が火照るように赤く染まる。
倒れ込む二人を捕らえたカメラがきわの足元へと流れていき、その後は観客の想像に任される。
そして、きわが入浴することで観客の想像通りであったことを知らしめるのだ。
想像すること、見えないことでエロチシズムは増幅されているが、それをもたらす宮川一夫のカメラは職人芸だ。
このようなエロチシズムを持った作品を見ることが出来なくなってしまった。

きわは強い女である。
あるいは京女はそもそも、きわの様な強さを秘めているのかもしれない。
竹村の妻は長い闘病生活を送っていて、竹村はその生活に疲れを覚えている。
自分に都合の良い勘違いだったのだろうが、きわは竹村は妻と死別していると思い込んでいたのだろう。
竹村はきわに「もう少しの辛抱だ」と漏らすが、きわはその言葉が許せない。
きわに、人の死を喜ぶような人間にはなりたくないという強い思いが湧き上がるのだ。
きわを慕う美大生の岡本が竹村の妻の死を知り、「これで二人は幸せになれる」と言うが、きわは「あなたは私が竹村先生の所へ行くと思ってはるの?」と自分の決意を告げる。
愛に溺れて人の道を外すようなことをする女ではないのだ。
岡本はきわを尊敬していると言っていたが、きわが竹村に寄せる思いと同様の気持ちを、きわに寄せていたのではないかと思う。
ラストシーンで唐突とも思えるメーデーのパレードが描かれるのだが、それは新しい時代における新しい価値観の女性の誕生を示していたのかもしれない。
しかし、きわはどうして思い立ったように駆け足で階段を駆け上がり、いつもの年より大規模となったメーデーのデモ行進を見る気になったのだろうとの疑問がわいた。
それでも、吉村公三郎にとって「夜の河」は最初のカラー作品でもあるし、僕は彼の作品の中では一番お気に入りの一遍である。

四谷怪談

2021-12-26 08:52:43 | 映画
「四谷怪談」 1965年 日本


監督 豊田四郎
出演 仲代達矢 岡田茉莉子 中村勘三郎
池内淳子 大空真弓 淡路恵子
小沢栄太郎 三島雅夫 平幹二朗
永田靖 滝田裕介 中野伸逸

ストーリー
民谷伊右衛門(仲代達矢)は主家没落後、傘張り職人に身を落していた。
妻のお岩(岡田茉莉子)は、彼と同藩の四谷左門(永田靖)の娘であったが、左門はお家断絶の時、御用金を盗んだ伊右衛門を嫌い、お岩を連れ戻し離縁を迫っていた。
お岩の妹おそで(池内淳子)は、そんな一家を淫売宿に出て支えていた。
おそでには許嫁の佐藤与茂七(平幹二朗)がいたが、もと四谷家の仲間直助(十七代目中村勘三郎)は、おそでに横恋慕し、おそでのもとに足しげく通っていた。
按摩の宅悦(三島雅夫)から、お岩が淫売宿に出ると聞いた伊右衛門は、左門と口論になり左門を殺害した。
時を同じくして、直助は、偶然与茂七と再会したおそでの様子から恋の叶わぬことを知って与茂七を暗殺。
事件を知ってかけつけたお岩、おそでの姉妹は、何者かに闇うちされたと言う二人に仇討ち助太刀を条件にお岩は伊右衛門のもとへ、おそでは直助と仮の世帯を持つことになった。
ある日、高師直の家中で、裕福な暮しをする伊藤喜兵衛(小沢栄太郎)の娘お梅(大空真弓)はふとしたことから伊右衛門を見染め、喜兵衛に伊右衛門をぜひ婿にとすがった。
結婚を条件に仕官を推挙するという喜兵衛の言葉は、伊右衛門を有頂天にした。
お岩が邪魔になった伊右衛門は、喜兵衛にそそのかされて、お岩に毒薬を与えたが、死にきれないお岩を見て、宅悦の紹介で雇った小仏小平(矢野宣)に、お岩と不義密通した罪を押しつけて、二人を斬り殺した。
目的を果し、武士への道が開けた伊右衛門とお梅との祝言の夜、お梅にのりうつったお岩の霊に、伊右衛門は苦しめられ、遂にお梅を斬殺した。
おそでは、宅悦から事の真相を聞き、直助に伊右衛門を斬ってくれるよう頼んだのだが・・・。


寸評
怪談話と言えばまず挙げられるのがこの「四谷怪談」だろう。
数ある怪談噺の中で、僕が民谷伊右衛門、お岩、按摩の宅悦、お梅などの登場人物をスラスラ言えるのも「四谷怪談」だけである。
三大怪談の内、残る二つの「番町皿屋敷」、「牡丹灯籠」に関しては辛うじて主人公たる女性の名前ぐらいなので、いかに「四谷怪談」がポピュラーかということだ。
しかしその僕も、鶴屋南北の「四谷怪談」を完璧に理解できているわけではない。
ほとんどが書物によるあらすじだったり、多く作られている映画を通じてのもであるから断片的だ。
本作はその中でも原作に近いものらしい。
民谷伊右衛門はスマートないい男というのが僕のイメージなのだが、仲代伊右衛門は優男と言う感じではない。
前半では仕官に飢えた悪人という感じで違和感を感じていたのだが、後半になってくると仲代のトレードマークともいうべき目ん玉をむいて狂っていく様が決まっていて、僕はその変化が面白かった。
演者は松竹から岡田茉莉子を迎えるなどしてスターが並んでおり、今となってはそれら往年のスターを見ることができるだけでも楽しい作品である。

大空真弓のお梅が伊右衛門を見染めるのだが、どのようなことを通じて伊右衛門に恋い焦がれるようになったのかがわからないので、娘可愛さのあまりお岩殺害の一翼を担う父親としての四谷左門の心の内もイマイチ感じ取れない部分がある。
そこにいくと直助の十七代目中村勘三郎はやはり上手いなあと感心した。
足先を使って屏風を開ける仕草とか、嫌われながらもお袖を愛し続ける姿などは、悪役にもかかわらず感情移入できるものとなっている。
伊右衛門に「女に惚れたことがあるのか」といったようなことを言い、惚れたお袖と一緒に死ねて本望だと言って息絶える姿などは、悪人にあるまじき純愛路線である。
調べてみると鶴屋南北の原作では、おそでは直吉の実の妹だと分かり、直吉は絶望のあまり自害するらしい。
むしろ原作の設定の方が劇的だと思うのだが、そうなればストーリーも若干変わっていただろう。

僕は会社勤めの晩年にM&Aの仕事にかかわったのだが、買い取ってくれる相手会社との交渉においては事業の継続と社員の雇用だけを要求した。
倒産していたら僕も含めて民谷伊右衛門のような悲哀を味わうことになった社員は大勢いただろう。
「人情紙風船」のような浪人の苦しい生活ぶりを描いた作品を見ると、いつもM&A案件の交渉時を思い出す。
年齢と能力によっては再就職が難しいと思われる人材がかなりいたのだ。
主家のお家断絶で左門の父娘たちも、伊右衛門も人生を狂わしている。
会社も突如の倒産という事態を引き起こしてはならないのだ。
幸いにしてあと数日と言うところで合意に至り、倒産の憂き目を逃れることができた。
自分としてはよく頑張れたと思う。
それにしても、伊右衛門ののし上がっていくことへの執念はスゴイ。
ラストシーンはその執念を見事に描いている。

横道世之介

2021-12-25 12:02:39 | 映画
「横道世之介」 2012年 日本


監督 沖田修一
出演 高良健吾 吉高由里子 池松壮亮 伊藤歩
綾野剛 朝倉あき 黒川芽以 柄本佑
佐津川愛美 大水洋介 田中こなつ
井浦新 國村隼 きたろう 余貴美子

ストーリー
1987年。長崎の港町生まれの18歳、横道世之介(高良健吾)は大学進学のために上京。
人の頼みを断れないお人好しな彼だったが、明るく素直な性格で周囲の人々を魅了していく。
嫌みのない図々しさが人を呼び、倉持一平(池松壮亮)や加藤雄介(綾野剛)らと友情を育む。
一方、年上の女性・片瀬千春(伊藤歩)に片思いをしたり、あるいはお嬢様の与謝野祥子(吉高由里子)との間に淡い恋が芽生えたりと大学ライフを謳歌していた。
やがて世之介に起こったある出来事から、その愛しい日々と優しい記憶の数々が呼び覚まされていく……。


寸評
横道世之介という風変わりな名前をした長崎から上京した青年の大学生活と、彼と関わった何人かの人たちのその後をスケッチ風に描いていく。
世之介を中心にして彼等の青春模様を描いていくが、同時に遠い青春の日々をも回想している。
過ぎ去った青春時代や大学生活、そしてかつて経験した友情と恋愛。
これらが描かれる時、その映画にのめり込めるかは、その描かれた事柄に同化出来るかどうかだと思っている。
その視点から言えば、どうも自分の学生時代とは時代が違うのか素直に同化はできなかった。
僕がいたサークルは女性がいなかったし、集まれば飲んだくれてやたら議論ばかりしていたクラブだった。
バブルの前だったし、キャンパスは学生運動の嵐が吹き荒れていたのだ。
これはやはり70年代と80年代の時代背景の違いなのだろう。

それでも、あの頃はちょっとばかしの純真さや純粋さも持ち合わせていた。
真剣に悩んだり苦しんだ苦い出来事も、そこを通り過ぎて何年もたてば懐かしい思い出となってしまう。
しかしそれらは今の自分を作りだした貴重な経験であり、今現実に生きている自分を生み出した大きな要因になっていると思うのだ。
だから、いくつになっても青春映画は楽しい。

さて、映画は世之介の不思議な性格を生かすように、人を喰ったような会話で笑いを誘う。
それを増長させるがごとき吉高由里子のお嬢様役は得な役回りで、彼女は翔子を見事に演じていた。
世之介がどうなったのかが意外に早く明かされてしまい、ちょっと早すぎるんじゃないかと思ったりしたのだが、その後に描かれる内容を切ないものにするための脚本の冴えと思い改めた。
これといった大きな事件もない学生生活が2時間40分も描かれるのに、まったく飽きることがないのがスゴイ。

カメラマンにしては素人的すぎる写真の数々。
茶色いシミの様なものが写された意味不明の写真もやがて感動をもたらす。
途中で何度か友人たちの現在の姿が挿入されて、彼らが世之介について語るシーンがあるが、そこでの友人たちの顔は一様に輝いていて、それが横道世之介の魅力を象徴していた。
世之介とお嬢様の祥子との恋愛は何とも初々しく、アパート前の雪の中でのキスシーンは美しい。
それが美しいだ けでなく切なく感じられるのは、その前に明かされた事実があるからだろう。
それが脚本の妙だ。

一方で、モノローグで語られる世之介の母が述べる世之介の魅力がイマイチ描き切れていなかったなと少し不満に思うのだが、それがこれまた劇中で語られる「普通の人よ」に対する意図されたものと判断するなら、また違った評価が有るのかもしれない。
僕自身はなにかちょっと物足りなさを感じたのだけれど、「キツツキと雨」などを思い浮かべると、これは沖田修一という監督の作風なのかも知れない。

よこがお

2021-12-24 11:49:11 | 映画
「よこがお」 2019年 日本


監督 深田晃司
出演 筒井真理子 市川実日子 池松壮亮
川隅奈保子 小川未祐 須藤蓮
大方斐紗子 吹越満

ストーリー
リサと名乗る女(筒井真理子)が初めて訪れた美容院で、米田(池松壮亮)という美容師を指名する。
数日後、米田は出勤途中に自宅近くでリサに再び出会う。
リサはご近所に知り合いがいるのは心強いと、米田の連絡先を教わる。
だが、リサが住んでいるのは、米田に示したマンションではなく、窓の向こうに米田の部屋が見える殺風景なアパートだった。
リサの本当の名前は白川市子と言い、この町で訪問看護師をしていた。
訪問先の大石塔子(大方斐紗子)の孫の姉妹、姉で介護福祉士をめざす基子(市川実日子)、妹のサキ(小川未祐)に慕われ、二人の勉強につきあうことがしばしばあった。
その日も、喫茶店で二人の勉強につきあい、塾に行くためにサキが先に店を出た。
そこに市子の甥の鈴木辰男(須藤蓮)が市子に頼まれていた本を持ってきた。
その晩からサキがいなくなる。
数日後、サキは無事に保護されるが、彼女を誘拐した犯人として大石家のテレビに映し出されたのは辰男に他ならなかった。
犯人の親戚であることを姉妹の母に市子は言おうとするが、基子がそれを止める。
秘密を共有した基子と市子は親しくし続ける。
二人で動物園へ行った後、医師の戸塚(吹越満)が、先妻の息子を乗せた自動車で市子を迎えに来る。
二人は結婚式場の下見に行くと言うことで、基子は市子と戸塚の婚約を知り、ショックを受ける。
やがて、市子が甥の辰男の誘拐を手引きしたのでは、ということが週刊誌に書かれ、それを読んだサキと基子の母は仕事に来ていた市子を、怒って追い出してしまうが、基子はそれでも市子と親しくし続ける。


寸評
人は正直そうでいても何処かしらにウソで固めた虚構を作り上げていたりする。
その場しのぎのウソをつくことだってある。
心優しく親しみやすい市子だが、彼女にも人には見せない一面がある。
タイトルは意味深である。
僕たちが見ているのはその人の一面、言い換えれば横顔の片側だけで反対側には見えないその人のもう一方の顔があるということだろう。
登場人物たちはそれぞれが表の顔と裏の顔を持っている。
どっちが表でどっちが裏なのかは分からないが、それぞれが秘めたものを持ちながら何もないふりをして付き合っているのである。
市子と基子の関係の描かれ方は実に生々しい。
介護士として素晴らしい人格を見せる市子だが、基子が訪れる美容師の米田のマンションを向かい側のアパートから眺めている。
米田に好意を抱いている市子は医師との結婚を決意しているにも関わらず基子に対する嫉妬が渦巻いている。
そして基子は恋人である米田よりも市子のことが好きで、市子を誰にも取られたくない気持ちを持っている。
それぞれの人生が狂っていく様が、映画と言う虚像の世界で描かれながらもありそうなこととして感じられる。

そもそもの発端が、甥の辰男が市子に本を届けに来た時にサキと出会ったことにある。
僕たちが生きている日常が本当にふとしたはずみで壊れていく恐さが描かれていく。
辰男の仕出かした事件で市子が巻き添えを喰らってしまうのは大いにあることで理解の範疇だ。
このドラマがドラマとして成り立っているのは、事実を知った市子が被害者宅に出入りしていて、犯人と市子の関係を家族に打ち明けようとした所、基子に口止めされてそれに従ってしまうことにある。
市子には世間や基子を除く大石家の人々に犯人の伯母と言う事実を知られたくないという引け目がある。
基子にはその事で市子と離れることを恐れる気持ちが湧く。
二人の屈折した感情を表すのが動物園のシーンだろう。
基子は自分よりも戸塚を選んだ市子に対して思いがけない行動に出る。
嫉妬からくる狂気じみた行動であるが、それに対して市子も復讐に燃える。
この時の市子はリサに戻っているのかもしれない。
市子は基子の恋人である米田をターゲットにするが、笑うしかない結末である。
辰男との関係を暴露された市子はマスコミに追いかけまわされる。
小さなミスが思わぬところで拡散され、情報の洪水が起きてしまうのが現代社会だ。
ネット社会もそんな世の中を後押ししていて、決して美しい世の中ではない。
この映画はそんな現代の社会に対するアンチテーゼにもなっている。
逆光のスポットによって表情が読み取れない市子のアップや、公園での基子との幻想に倒れる市子の姿、明るく振舞いながらも一瞬の内に暗い表情を浮かべるサキなど、印象深いシーンが随所にあって、その映像によっても感性をくすぐられる作品だ。
市川実日子も良かったが、筒井真理子が抜群の存在感を見せている。

夢二

2021-12-23 09:05:54 | 映画
「夢二」 1991年 日本


監督 鈴木清順
出演 沢田研二 毬谷友子 宮崎萬純
広田玲央名 原田芳雄 大楠道代
坂東玉三郎 長谷川和彦 麿赤児

ストーリー
悪夢にうなされながらも、恋人の彦乃(宮崎萬純)と駆け落ちするため、金沢近郊の湖畔へと向かう夢二(沢田研二)だったが彦乃は現れず、そこの小さな村では、不似合いな銃声が鳴り響いていた。
稀代の殺人鬼・鬼松(長谷川和彦)が妻と妻を寝取った男・脇屋(原田芳雄)を殺して山に逃げ込んだのだった。
一方、湖上に漂うボートには白い日傘をさした美しい女が乗っていた。
脇屋の妻・巴代(毬谷友子)と名乗るその女は、浮かび上がってくるはずの夫の死体を待っているのだ。
そんな巴代の美しさに引かれていく夢二。
そんなある日、東京からお葉(広田玲央名)が彦乃の手紙を携えて金沢へやって来る。
だが、夢二と巴代はもはや抜き差しならない仲になっていた。
そんな二人に忍び寄る脇屋の影とそれを追う大鎌を振りかざした鬼松。
そして、ついに夢二の前に脇屋が現れ、それを見て驚く夢二。
夢に見たフロックコートの男、彼こそ脇屋だったのだ。
悪夢が現実となって夢二に迫り、さらに夢二と脇屋の前に、天才画家・稲村御舟(坂東玉三郎_)が現れる。
その時突然、鬼松の大鎌が脇屋を襲う。
負傷した脇屋を巴代のもとへ連れていく夢二と稲村御舟だったが、脇屋の死を信じる巴代は、彼の存在を認めなかった。
失意に陥り去っていく脇屋は、金沢駅で病に苦しむ彦乃を助け、彼女と一時を過ごす。
一方、夢二は巴代の美しき裸体を描いていた。
そんな二人の前に再び現れる鬼松。
殺気立った彼を前に、命がけで脇屋を守ろうとする巴代・・・。


寸評
脈絡のない展開についていくのが大変だが、色彩感覚にあふれた映像が観客を圧倒する。
前作「陽炎座」に似た作品で、女の乗ったボートが池を高速で走ったり、宵待草というキャバレーが崩壊していったりと、前作同様の演出が見て取れる。
衣装も含めた色彩と映像処理に感心させられるが、こう何作も続くと二番煎じ、三番煎じの感は否めない。
主演を務めた沢田研二の持つ色香だけはこの作品にマッチしていた。

竹久夢二は現在では非常に知名度も高く人気がある作家だが、この作品に「夢二」というタイトルを付け、竹久夢二を主人公にしているものの、竹久夢二の伝記映画ではない。
竹久夢二を主人公にして、彼と女たちとの愛憎と悪夢を夢幻的に描いている作品だ。
多くの芸術家がそうであるように、竹久夢二も女性遍歴が激しい男だったようである。
ここに登場する彦乃やお葉などは実在の人物だったが、名前だけ拝借しているのかもしれない。
夢二は他万喜(たまき)という名の女性と結婚していたが、同棲、別居を繰り返し子供ももうけている。
彦乃はたまきと別れ京都に移り住んだ夢二と暫く同棲したが結核を発病し、若くして亡くなっている。
お葉はモデルとして通う内に同棲するようになったが、自殺未遂を起こして夢二とは離別した。
その他にも関係した女性はいたようだが、映画は夢二の女に対するだらしなさを描いているわけではない。
竹久夢二をモデルとしてはいるが、描かれている内容はあくまでもフィクションである。

後に「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」と合わせて大正浪漫三部作と称されるようになった作品だが、その演出処方には少々飽き飽きしたところがあって、回を重ねるごとに物珍しさがなくなりパワー不足を感じてしまった。
一番印象に残るのが最後に流れる淡谷のりこが歌う「宵待草」のメロディだった。
「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな」と唄われる。
作品の最後で登場する屏風には、「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も」と書き添えられていたが、なぜ「出ぬさうな」を割愛していたのだろう。
夢二の原詩は「遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき 想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな」というもので、待ってももう現れることのない女性を想い、悲しみにふけったといわれる夢二の失恋歌である。

この作品で、夢二が一番惹かれた女性は巴代だった。
最後になって駆け落ちを約束していた彦乃が現れ「あの人はもう来ませんよ」と夢二に告げる。
女の嫉妬深さと執念のようなものを感じる。
夢二は、ようやく夢から覚めたかのように彦乃と共にその場を去っていくのだが、女性の美を追求する夢二には何人もの女性を必要としたのだろうか。
そして通り過ぎていった女生との逢瀬の時間は、夢二にとっては夢の中の出来事に過ぎなかったのだろうか。
小説にしろ絵画にしろ、女性を描くためには女性との夢の世界を持つことが具現化への条件なのかもしれない。
随分と身勝手な条件ではあるのだが、同じ男としてはうらやましいものがある。

郵便配達は二度ベルを鳴らす

2021-12-22 09:11:45 | 映画
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」 1942年 イタリア


監督 ルキノ・ヴィスコンティ
出演 マッシモ・ジロッティ
クララ・カラマーイ
フアン・デ・ランダ
エリオ・マルクッツオ

ストーリー
ポー河沿いのレストラン・ドガナの経営者ブラガーナの妻ジョヴァンナは、一回りも年の違う夫との生活にへきえきし、退屈な毎日を送っていた。
そんなある日、一台のトラックから放り出されてドガナのカウンターを叩いた男、ジーノに魅せられ、激情がわくのを感じ、ジーノもジョヴァンナの官能的な眼差しに欲情をかきたてられていた。
ブラガーナが留守中のドガナの一室は、2人の愛欲の場となり、駆け落ちを決行するまでには時間はかからなかったが、売春婦まがいの生活をしてきていたジョヴァンナは経済的に安定した今の生活を捨ててまで愛を貫く気はなく、30分もいかないうちに後戻りしてしまった。
一人で汽車に乗ったジーノは、イスパと名乗るスペイン人の旅芸人と知り合い、気ままな旅を続けた。
何も知らないブラガーナは気嫌をとる為にジョヴァンナを連れて町に来たが、そこで偶然ジーノと会い、再び彼を雇うために一緒に連れ帰ることにした。
帰途、それはジーノとジョヴァンナにとって結ばれる最後のチャンスだった。
2人は泥酔する夫を事故死に見せかけて殺害した。
警察の取り調べをうまくかわし、店を改装してジーノと平穏な日々を送るジョヴァンナだったが、ジーノは不安と悔恨に苛まれる毎日を送っていた。
町に出たジーノは清冽な魅力に富む娘アニータと知り合い、アニータのアパートへと走った。
一方、警察はブラガーナの死を殺人と断定して二人を指名手配したところ、ジーノはジョヴァンナが売ったのだと思いドガナに行くが、ジョヴァンナのジーノに対する一途な思いを知り激しく心を揺り動かされる。


寸評
僕はこの4年後の1946年にテイ・ガーネット監督で撮られたアメリカ版も見たことがある。
夫人をラナ・ターナ、男をジョン・ガーフィールドが演じていたが、出来栄えは断然こちらの方が良い。
テイ・ガーネット監督作品の方は、サスペンスに重きを置いていて、女のラナ・ターナがほとんど白の服ばかりだったことが印象に残っている。
このヴィスコンティ版は夫を殺害するという犯罪をベースに置きながらも愛憎劇を主にした作品となっている。

屋外での撮影をふんだんに取り入れて、貧しい人々の生活が背景を彩る。
主人公のジーノは定職についていない風来坊で、着ているシャツは汚れ、履いているズボンも破れているし、おまけに金を全然持っていない男である。
職を探しながら旅している放浪者なのだが、一方のジョヴァンナも貧困からの脱出のために今の夫と結婚した女で、ひと回りも年上の太った夫を嫌悪している。
そんな二人が初めての出会いで、お互いに感じるものがあり不倫を重ねる。
二人は駆け落ちを決行するが、安定した生活を経験したジョヴァンナは再び放浪の生活に戻ることが出来ず、夫の元へ帰ることになる。
ジーノはジョバンナが忘れられないままに再び放浪の旅に出、金がなく切符も買えない所を旅芸人に助けられるのだが、ここまでは貧困が表に出て事件らしい事件は起こらない。
原作が持っている犯罪サスペンスの面白さを映画に期待していた向きには肩透かしを食ったような展開である。

町にやって来たブラガーナとジョヴァンナ夫妻がジーノと再会したことで話は急展開する。
ブラガーナに「椿姫」を歌わせ、ジーノの気持ちを代弁させる細かい演出もある。
再び燃え上がった二人がブラガーナを車の事故と見せかけ殺害した。
事故の不審な点があることはこの時点で示されていて、いつ事件の真相が発覚するのかという展開になるかと思っていると、そこからは事件追求よりも殺人を犯してしまったジーノの苦悩に重点が置かれる。
いざとなれば強いのが女ということなのか、あるいは夫をそれほどまでに嫌っていた事によるものなのか、ジーノに比べればジョヴァンナは覚悟した態度を見せる。
この時点ではジョヴァンナは悪女的であり、ジーノは弱虫で度胸が据わっていないように見える。
ジョバンナも知らなかったことなのだが、ブラガーナが高額の生命保険に入っていたことが分かって、勘違いを含めた言い争いが二人に起きるが、この展開は原作が持つ着想の良さだと思う。
二人の間に気まずさを感じるようになったジーノは町に出て、ジョバンナとは違った魅力を持ったアニータと出会い、そんなに簡単にくっつくのかと思えるぐらいの早さでアニータのアパートに入り込む。
それを見たジョバンナは嫉妬に狂うが、そのことでジーノはジョバンナが自分を密告したと勘違いしてしまう。
このあたりから物語は一気に走り出し、観客を力ずくで引き付けるようになる。
そしてラストだ。
今度の自動車事故は本当の自動車事故である。
そこからの展開を描かなかったことで、この映画は愛憎劇であり、犯罪による愛の破たんを描いた作品となった。
日本公開は1979年と遅れたが、なによりもルキノ・ヴィスコンティの処女作として記憶される作品である。

山の音

2021-12-21 09:30:59 | 映画
「山の音」 1954年 日本


監督 成瀬巳喜男
出演 原節子 上原謙 山村聡 長岡輝子
杉葉子 丹阿弥谷津子 中北千枝子
金子信雄 角梨枝子 十朱久雄 木暮実千代

ストーリー
62歳になった信吾は少年のころ、若くして死んだ妻保子の姉にあこがれて、成らなかった。
息子修一にむかえた嫁菊子に、かつての人の面影を見いだした彼が、やさしい舅だったのは当然である。
修一は信吾が専務をつとめる会社の社員、結婚生活わずか数年というのに、もう他に女をつくり、家をたびたび開けていて、社の女事務員谷崎からそれと聴いて、信吾はいっそう菊子への不憫さを加える。
ある日、修一の妹房子が夫といさかって二人の子供ともども家出してきた。
信吾はむかし修一を可愛がるように房子を可愛がらなかった。
それが今、菊子へのなにくれとない心遣いを見て、房子はいよいよひがみ、子供たちまで暗くいじけていた。
ひがみが増して房子は、またとびだし、信州の実家に帰ってしまった。
修一をその迎えにやった留守に、信吾は谷崎に案内させ、修一の女絹子の家を訪ねる。
谷崎の口から絹子が戦争未亡人で、同じ境遇の池田という三十女と一緒に自活していること、修一は酔うと「おれの女房は子供だ、だから親爺の気に入ってるんだ」などと放言し、女たちに狼籍をはたらくこと、などをきき、激しい憤りをおぼえるが、それもやがて寂しさみたいなものに変っていき、女の家は見ただけで素通りした。
帰ってきた房子の愚痴、修一の焦燥、家事に追われながらも夫の行跡をうすうすは感づいているらしい菊子の苦しみ・・・尾形家には鬱陶しい、気まずい空気が充ちる。
菊子は修一の子を身ごもったが、夫に女のあるかぎり産む気になれず、ひそかに医師を訪ねて流産した。
大人しい彼女の必死の抗議なのである。
それを知った信吾は、今は思いきって絹子の家をたずねるが、絹子はすでに修一と訣れたあとだった。
しかも彼女は修一の子を宿していた。
めずらしく相当に酔って帰った信吾は、菊子が実家にかえったことを聞く。


寸評
違和感を感じてしまうほどの滅茶苦茶な人間関係の中で、舅と嫁のお互いを思いやる心根が描かれている。
息子の修一(上原謙)は父親(山村聡)が重役である会社に勤めていて、両親と同居している。
妻の菊子(原節子)がいながら外に女を作っていて、そこでは粗暴な態度を見せている。
修一は父親の秘書のような女性の谷崎英子(杉葉子)とも親しくしていて、彼女はその浮気相手のことを知っていて顔見知りというから驚きだ。
修一の両親(母は長岡輝子)は彼の浮気を感じているが面と向かって注意をすることはなく、父親は妻の菊子には内緒にしておこうと言い出す始末なのだが、当の菊子も夫の浮気を感じ取っている。
当然のように修一夫婦の関係は冷え切っている。
父親が谷崎に詰問すると、彼女はすべてを打ち明けて浮気相手の家まで案内するのである。
両親、息子夫婦、谷崎という女子社員、浮気相手の女性たちの倫理観が僕には全く理解できない。
極端な人間関係を描いているとは言え、それはもう滅茶苦茶としか言いようがない。

両親や妻はなぜ修一の浮気を責めないのか。
谷崎は修一に好意を抱いているのかもしれないが、どうして修一の浮気相手などと会うのか。
修一は浮気相手の家では暴力をふるったりしているらしいが、浮気相手はなぜ切れないのか。
父親は息子の不貞と言う恥を、会社の女子社員に平然と聞けるものだろうか。
釈然としない人間関係で、見ていてその人間関係が一番違和感を感じた部分である。
そのもやもやした中だからこそ、父親の嫁である菊子に対する異常とも思える愛情が際立っていた。
菊子も父親を慕い懸命に尽くしている。
二人の関係を際立たせるために、異様な人間関係を描いていたのかもしれない。
それとも当時は男が外に女を作ることは珍しくなかったのだろうか。

やはり一番罪深いのは上原謙演じる修一で、外に女を作っているだけではなく、その女に歌を強要したり暴力をふるったりしていて、挙句の果てにはご近所にも迷惑をかけているようなのだが、それらは同居人の女性を通じて語られるだけである。
本当にひどい男で、描いていれば観客の一斉バッシングをうけたはずだが、二枚目俳優だった上原謙のイメージを守ったのかもしれないなと思う。
上原謙は同じく二枚目俳優だった加山雄三の父上である。
原節子は小津作品でもよく演じた役どころだ。
義父とはいえ父親に対して信頼と愛情を見せる。
それ以上なのが山村聡の父親で、彼の見せる菊子への思いやりはもはや義父と嫁の関係を超えたものがあるのだが、その感情こそがこの映画のメインテーマである。
修一の菊子への冷たい態度と冷えた関係に比べると、義父の山村聡と嫁の原節子の間には精神的な不義密通があるような感じを受けて、そのエロチシズムが何とも言えない。
僕は一人娘なので嫁と同居したことはないが、男親にとって美人の嫁は可愛いんだろうなと思う。
僕の後輩も息子の美人嫁を待ち受け画像にして随分と可愛がっている。

約束の旅路

2021-12-20 08:16:08 | 映画
「約束の旅路」 2005年 フランス


監督 ラデュ・ミヘイレアニュ
出演 ヤエル・アベカシス
ロシュディ・ゼム
モシェ・アガザイ
モシェ・アベベ
シラク・M・サバハ

ストーリー
エチオピアの山中にファラシャと呼ばれるユダヤの民が古代より暮していた。
彼らは太古の昔から、聖地エルサレムへの帰還を夢みていた。
そして1984年、イスラエル情報機関モサドによって、エチオピアのユダヤ人だけを救出しイスラエルへ移送するという「モーセ作戦」が実行される。
スーダンの難民キャンプにある母子がいて、キリスト教徒の母親はエチオピア系のユダヤ人だけがイスラエルに脱出できることを知り、9歳の息子をユダヤ人と偽り、イスラエルへの飛行機に乗せた。
イスラエルで少年は偽りの母ハナの助けで入国が許され、シュロモという名をもらう。
しかし、ハナは病に倒れシュロモを残して逝ってしまい、シュロモはヤエルとヨラム夫婦の養子となった。
差別に対するファラシャの抗議運動がテレビで報道された。
シュロモはそこで知った宗教指導者のケス・アムーラに会いに行く。
時は数年後、シュロモはテレビでアフリカの干ばつを知り、実の母を捜しにアフリカに行きたいとケスに訴える。
真実を隠して生きることに苛立ち、荒れるシュロモはケスに告白した。「僕はユダヤ人じゃない」。
ケスは言った。お前の母は、お前を愛すればこそ、ここへ送ったのだと。
やがて、シュロモはパリに行って勉強し、医師になることを決意した。
1993年、シュロモはパリで卒業証書を受け取り帰国しようとするが、ケスに止められる。
ユダヤ人と偽ったエチオピア人が訴えられ、大問題になっていると。
養母のヤエルはずっと彼を待っていたサラとの結婚をシュロモに勧める。
ケスは真実をサラに告げるよう促すが、シュロモはためらっていた……。


寸評
モーセ作戦なるものがなぜ行われたのかを語るには3000年を遡らねばならないだろう。
史実なのか伝承なのかは知らないが、紀元前10世紀ごろにユダヤを繁栄に導いたソロモン王のもとを、エチオピアのシバの女王が表敬訪問し、シバの女王はエチオピアへ帰国後にソロモン王の息子を出産したというのだ。
その伝承により、エチオピアには自分たちはソロモン王とシバの女王の間に出来た息子の子孫であり、正統なユダヤ人の血をひくものだと主張する人たちがいて、外見は他のエチオピア人と変わらないが自分たちはユダヤ人だという人たちが存在していたらしい。
イスラエルは、このエチオピアのユダヤ人にイスラエル国籍を与える政策を実施して実行されたのがモーセ作戦だったのだ。
エチオピアのユダヤ人であるファラシャをエチオピアから隣国のスーダンの難民キャンプへ脱出させ、そこからイスラエルへ移送するというもので、映画もそこを発端としている。
更に複雑なのは、少年の母親がユダヤ教信者ではなくキリスト教信者であったことだ。
僕はこのような映画を見ると、いつも日本人でよかったと思うのだ。
日本人である僕にここで描かれたようなことが起きることはないであろう。
この物語が国境を越えた人類愛と親子の絆を描いていることは理解できるのだが、、シュロモが体験する差別や苦悩を心底から分かち合えるかと問われれば、僕はやはり首をかしげてしまうだろう。
エチオピア人であることがなぜいけないのか、キリスト教徒であることがなぜいけないのか。
本当のことを言えないシュロモの苦悩を分からない僕は幸せな国に生まれたのだと思えるのだ。
大抵の日本人は生まれると神社神道の宮参りを行い、キリスト教で結婚式を挙げ、仏教で葬儀を行うような宗教観で、宗教紛争が存在しない中で生きている。
神も仏も姿を変えてそれぞれの国に現れているだけなのだと言う解釈を生み出した日本人の知恵である。
僕には理解できないことなのだが、民族と宗教の壁は厚いと感じる事は出来る。

シェロモには4人の母がいる。
一人は息子を救うために、「行け、生きて生まれ変われ、そして何かになれ」と息子を突き放つ実母である。
二人目は難民キャンプでシュロモを預かりイスラエルに送り届けて死んでしまうエチオピア系ユダヤ人ハナだ。
三人目は、白人家族でありながらシュロモを愛し育てる養母のヤエルで、四人目がシュロモとの子供の母となるサラである。
それぞれの母は慈愛に満ちている。
不幸に見えるシュロモは、実はサラが言うようにたくさんの母に愛されてきたのだ。
母はシュロモをユダ人と偽らせイスラエルへ脱出させ自分は難民キャンプに残る。
ハナは赤の他人の子供を自分の子供として預かり、ユダヤ人としての最低限の知識を与えて死んでいく。
シュロモを養子にしたヤエルがシュロモに寄せる愛情は実の母親以上だ。
それでもシュロモは感謝しながらもヤエルをママと呼ぶことはない。
シュロモにとっては母たった一人なのだが、頼る相手はヤエルしかいない。
サラは両親も兄弟も捨ててシュロモと一緒になった理解者だが、たった一つの約束を願い出る。
その願いとは、自分と生まれてくる子供を捨てないでほしいという事だっただろう。

約束

2021-12-19 10:51:00 | 映画
「約束」 1972年 日本


監督 斎藤耕一
出演 岸恵子 萩原健一 南美江 三國連太郎
中山仁 姫ゆり子 殿山泰司

ストーリー
「頂くわ、お弁当」「口をきいたな、あんた」二人が初めて言葉を交わしたのは、そんなやりとりだった。
日本海を左手に北上する長い旅の列車で、若い男(萩原健一)が前の座席の年上の女(岸恵子)にあれこれ喋りかけたあげく、口を開かせたのは、男が駅弁を進めたのがきっかけだった。
図々しいが奇妙に憎めぬところもあるこの男は、列車が終着駅に着くと、女を付け回した。
無表情でどこか影のある女も得体が知れなかった。
女は松宮螢子と名乗り、夫を殺害した罪で服役中の模範囚であり、女性看視官(南美江)に付き添われて仮出所中の身だった。
仮出所の目的は、母の墓参りと、同房の女囚から頼まれた手紙をその夫に届けるためであった。
螢子は村井晋吉(殿山泰司)を訪ね頼まれた手紙を届けたが、女(姫ゆり子)のできた晋吉は冷たかった。
男は螢子にしつこくつきまとい、待ち合わせの約束をさせる。
螢子は約束どおりに旅館で男を待つが、待ちぼうけをくわされてしまった。
しかし男は、刑務所に戻るために夜行列車に乗る螢子を追ってきた。
そんな折、列車が土砂崩れにあって停車した。
慌てる房江を尻目に、二人は示し合わせたように線路脇に飛びおり、言葉もなく抱き合った。
逃亡したと思われた二人が戻った列車はやがて動き始め、夜明けには刑務所のある街に着いた。
別れの時がやってきて、男は別れ際中原朗と名のった。
実は中原も、傷害現金強盗の罪を犯して警察に追われる身であったのだが、螢子はそれを知らなかった。
中原は螢子に差し入れる衣料品を夢中で買いあさるが、尾行していた刑事(三國連太郎)に逮捕される。


寸評
日本海の景色と風の音が雰囲気を盛り上げているのだが、映像と雰囲気が前面に出た作品だ。
岸恵子はさすがで、キリッとした顔立ちから繰り出される寡黙な表情が何とも言えない。
対照的にグループサウンドのスターだったショーケンこと萩原健一がみるからに軽薄な若者を好演している。
これが映画初出演だが、その後の活躍を予見させるものをすでに示していたと言える。
全力疾走するシーンが結構あるが、走る姿は若さと若者のエネルギーの象徴だったと思う。
ここでのショーケンが走る姿は、伝説的なテレビドラマ「太陽にほえろ!」のマカロニこと萩原健一が走る姿に引き継がれたのではないかと思う。

冬の日本海は絵になるが、田舎町の中のショットもなかなか印象的だ。
蛍子が旅館で男と待ち合わせの約束をする。
一度目の約束だが男は現れない。
当初入り口で待っていた蛍子は部屋を借りてそこで待つ。
諦めて去っていくシーンは余計なことを描かず、1ショットで描き切ったところなどはなかなかいい。
駅まで追いかけてきた男が秘密を打ち明けられ、呆然と白い壁を背景に立ちつくすシーンも印象的だ。

二人を取り巻くように二人の男が登場する。
一人は護送犯の中山仁である。
かれは手錠をはめられており、萩原健一からちょっかいをかけられるのだが、この男を登場させたのは二人の行く末を暗示させるためだったのではないかと思う。
二人目は殿山泰司の村井晋吉である。
何の罪か分からないが妻が服役していて、その妻からの手紙を拒否するだけでなく愛人がいる。
蛍子も夫殺しをやっているので、この男は蛍子が男への不信感を思い起こさせるために必要だったのだろう。
それは萩原健一の一途な愛を際立たせるための存在でもあった。
物足りない点があるとすれば、見ず知らずの若者が年上の女に魅かれていく過程が希薄なことがある。
それがこの映画を叙情的な雰囲気映画にしていると思う。
しかし、それが取り柄の作品でもあるのだが。

蛍子は監視官に信用されていると思っているが、監視官は仮釈放に反対したと言っているので蛍子が思っているほど彼女を信用してはいなかったのだろう。
その割には蛍子は、結構自由に行動させて貰っているし、模範囚であれば蛍子のように母親の墓参りをさせてもらえるものなのだろうか。
三国連太郎が刑事、裁判官、検事と三役をやっているが、この意図は何だったんだろう。
裁く側の人間をひとまとめにしたということなのだろうか。
まさか出演料をケチったわけでもあるまいに。
二度目の約束にも男は現れないというラストシーンの岸恵子のアップはいい。
この頃の斎藤耕一はいい映画を撮っていたがその後はイマイチだったなあ。

モダン・ミリー

2021-12-18 09:24:24 | 映画
「モダン・ミリー」 1966年 アメリカ


監督 ジョージ・ロイ・ヒル
出演 ジュリー・アンドリュース
メアリー・タイラー・ムーア
キャロル・チャニング
ジェームズ・フォックス
ジョン・ギャヴィン
アンソニー・デクスター

ストーリー
1922年、ミリー(ジュリー・アンドリュース)は、カンサス州の商業学校を卒業して、ニューヨークへやって来た。
元気いっぱいで恐いもの知らずの彼女のお目当ては粋な独身社長を射止めることである。
早速彼女は信託会社の社長トレバー・グレイドン(ジョン・ギャビン)に目をつけて就職した。
だが彼はミリーが彼に対して抱いている気持ちなど、一向に察してくれなかった。
これに反してダンス・パーティーで彼女に会った青年ジミー(ジェームズ・フォックス)が、さっそうたるミリーにすっかりいかれてしまった。
ある日、ミリーが泊まっている若い独身女性専用のホテルに、女優志願の金髪娘ドロシー(メアリー・T・ムーア)がカリフォルニアから到着し、ホテルは一段と活気をおびてきた。
ミリーは社長グレイドンの心を得られず、ジミーの誘いに応じてドロシーと共に週末のデートに出かけた。
その時ミリーはジミーに金満家の未亡人マジー(キャロル・チャニング)を紹介され、さらにマジー邸のパーティーに招待されて愉快な時を過ごした。
相変わらずミリーは社長トレバーに冷たくされ続けていたが、お目当てのトレバーはひと目ドロシーを見るに及んですっかり気に入ってしまったが、彼女にデートをすっぽかされ居酒屋でふさぎこむ始末。
一方ドロシーは突然、ホテルの経営者で、売春あっせんを内職とするミアーズ(ベアトリス・リリー)に連れ去られてしまった。
疑念を抱いて後を追ったジミーも、彼の女装が真に迫っていたため、売春グループに捕らえられてしまった。


寸評
僕の中ではミュージカル・スターと言えばジュリー・アンドリュースを置いて他にない。
ジュリー・アンドリュースはこの作品でゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門で主演女優賞に ノミネートされているのだが、まさに両方のテイストを持った作品となっている。
タイトルと共に描かれるのは、田舎から出てきたミリーがニューヨークの最新ファッションで変身していく様子で、先ず美容院で髪型をショートヘアにし、洋品店で服装を変えネックレスも流行のものにし、スタイルを矯正する下着も身に着けてすっかりニューヨーク子になる。
ミリーがどうしてそんなお金を持っているのかという疑問はさておき、ありきたりな描き方でありながらも映画のツカミとしては楽しい気分にさせるタイトルバックである。

そしてエーテルのようなもので眠らされる女性が描かれ、ミステリーの様相も呈してきて、導入部としては観客を引き付けるオープニングとなっている。
この誘拐を企てているのがホテルの受付をやっているミアーズというオバサンで、このオバサンと手下である頼りない中国人が繰り広げる騒動がこの作品をドタバタ劇にしている。
オバサンの風采と言い、中国人の描き方と言い、中国をバカにしているような描き方で、これが日本人でなくてよかったと思う。
手下と思われる中国人の男二人はいつもミアーズおばさんに怒られているし、ミアーズも殺虫剤の噴霧器のようなもので睡眠剤を撒いていて自分が倒れてしまうというドジをやらかしているのだ。
どうやら武器は睡眠剤だけらしく、吹き矢だったりインク壺だったりしているのも漫画的でドタバタを助長している。

ジュリー・アンドリュースは何オクターブもの音域をもっている歌手だが、彼女の声量を生かして歌い上げるシーンはなくて、ミュージカルとしてはすこし物足りないものを感じる。
ダンスシーンなどは楽しいものだが、やはり声高らかに歌い上げる感動シーンが欲しかった。
ミリーの気持ちを歌う静かなナンバーが多かったように思が、ミリーが心の中で思っていることを無声映画のような字幕挿入で処理するなどして、ファッションや車だけでなくノスタルジックな雰囲気を醸し出しているのは「スティング」同様、ジョージ・ロイ・ヒルの上手いところだ。
ミュージカル映画として序曲(5分)、休憩(3分)、追い出し(3分)を含んでいるのだが、最近のミュージカル映画ではこのような形態をとっている作品はないように思う。

犯罪組織の親分らしいミアーズは際立ったキャラだが、それ以上に際立っているのが金持ち未亡人マジーのキャラで、劇場でアクロバットを繰り広げてしまう姿に驚かされる。
驚くと言うよりも、そのような展開にあきれてしまうのだが、それを許すのもミュージカル映画ならではだろう。
独特な歌声とくねくねした身体の動きには大いに笑わせられるが、これだけ際立ったキャラの人物が登場すると、さすがのジュリー・アンドリュースもかすんでしまっている。
マジーのキャラクター設定はこれでよかったのかなあという思いは残るし、後半はちょっとドタバタが過ぎるかなぁという気がする。
最後にタネ明かしが一幕あってメデタシメデタシとなるのだがマジーの相手は一体誰だったのかなあ・・・。


モダンタイムス

2021-12-17 08:49:42 | 映画
「モダンタイムス」 1936年 アメリカ


監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン
ポーレット・ゴダード
チェスター・コンクリン
ヘンリー・バーグマン

ストーリー
工場で働くチャーリーは、ひたすらねじ回しを続ける単純作業の繰り返しの末に発狂し、トラブルを起こす(巨大歯車に巻き込まれる有名なシーンはここで観られる)。
最終的に病院送りになった彼は、退院した矢先にふとしたことがきっかけでデモ団体のリーダーと間違われ捕まってしまうが、脱獄囚を撃退した功績で模範囚として放免される。
仕事も紹介されたが上手くいかず辞めてしまい、街をうろつく生活に。
そんな中チャーリーは独りぼっちの浮浪少女と出会う。
意気投合したチャーリーは、2人のために家を建てるという夢を胸に一念発起とばかり働き出す。
デパートの夜回り、工場の技師の助手と仕事を獲得するが結局駄目になる。
やがて少女が勤め始めたキャバレーのウェイターの職を得るが、少女の微罪のため、そこも追われてしまい、最後に2人は、現代社会の冷たさと束縛に囚われない自由な生活を求め、旅立っていく。


寸評
機械化が進み労働者の尊厳が失われて、機械の一部分となったかのようにして会社に尽くす姿を描くことで資本主義社会の矛盾を笑いの中で批判している。
長い歴史の中で自由な民主主義と共に、土地に縛られた封建主義の身分制度から脱出して資本主義を勝ち取ったのだろうが、資本主義は経営者と労働者という新たな格差と支配構造を生んだ。
チャーリーは貧しくて虐げられる労働者の代表である。
労働者は搾取される貧しい存在という単純な描き方には抵抗もあるが、監督・製作・脚本・作曲を担当したチャーリー・チャップリンという映画人の才能には敬服するものがある。
わずかばかりの音声と効果音が入るだけで、あとは音楽に乗ってチャーリーが出会う不運な出来事が描かれているので、映画の作りとしてはまるで無声映画を見ているような感じである。
感嘆するのは機械化に飲み込まれる労働者を描くために組まれたセットの大掛かりなことだ。
デフォルメされた機械が目に飛び込んできて驚かされるのだが、チャップリンが歯車に巻き込まれるシーンはさらに驚かされるシーンで印象に残る。
「モダン・タイムス」という作品を思い浮かべた時、真っ先に脳裏によみがえるのがこのシーンだろうし、いつの時代になっても語り継がれるシーンでもあるような気がする。
自動給食マシーンの実験台にされるシーンも印象に残るが、いささかドタバタ過ぎて巻き込まれるシーンほどのインパクトはない。
百貨店のセットもリアル感はないがデフォルメされたものとして作り込んであり、チャップリンの映画にかける意気込みが感じられる。

僕はトヨタ自動車系列の会社の製造ラインを見学に行ったことがあるが、そこでは効率化を追求しトイレに行く道順までも決められていた。
無駄をなくして生産性を上げていたのだが、同時にベルトコンベアに支配されているような感じもうけたのだが、そんな甘いことを言っているから利益が得られず経営が危ぶまれることになるのかもしれない。
チャーリーは次々流れてくる部品のネジを締めているのだが、それが高じてネジと思えるものを見ると締め付けたくなり、夫人のスカートのボタンだったり、女性の胸に着いた飾りだったりも締め付けようとする。
喜劇映画としての小ネタの部類に入るギャグ映像だ。
そこからチャーリーの不遇な人生が始まるのだが、すべて笑いで覆いつくしていて悲壮感はない。
デモ団体のリーダーと間違われて投獄されるが、きっかけは工事車両が危険防止で取り付けていた赤旗を拾ったことにあって、偶然の被害者となってしまうというもの。
造船場でもクサビ型の木材を拾うように言われ、打ち込んであるクサビを抜いてしまうへまを仕出かし首になると言った具合で、ちょっとした手違いのようなことで定職に就けない。
チャーリーは、こんなことなら刑務所の方がよかったなどと考えるが、それは日本の犯罪常習者にもいるらしい。
チャーリーは同じく不遇な少女と出会いマイホームを夢見て再出発を誓う。
高度経済成長期の日本人がマイホームを夢見て滅私奉公していた姿と何ら変わらない。
二人がまっすぐな道を手をつないで歩いていくラストシーンは、社会の冷たい仕打ちにあいながらでも希望を持ち続け未来に向かって歩いていこうとのメッセージだろう。