おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

レイクサイド マーダーケース

2023-05-31 06:40:27 | 映画
「レイクサイド マーダーケース」 2004年 日本


監督 青山真治
出演 役所広司 薬師丸ひろ子 柄本明 鶴見辰吾 杉田かおる 黒田福美
   眞野裕子 豊川悦司 牧野有紗 村田将平 馬場誠

ストーリー
ある日、中学受験を控えた子どもを持つ3家族が塾の講師を招き、湖畔の別荘で一緒に勉強合宿を開くことになった。
アートディレクターの並木俊介(役所広司)は別居中の妻・美菜子(薬師丸ひろ子)と彼女の連れ子である舞華(牧野有紗)の為、お受験の意義に疑問を抱きつつも参加した。
他の2組はこの別荘の持ち主である藤間夫妻(柄本明、黒田福美)と、美菜子と友人の関谷靖子夫妻(鶴見辰吾、杉田かおる)で、カリスマ塾講師は津久見(豊川悦司)という男だった。
だが、そんな彼の前に愛人でカメラマンの英里子(眞野裕子)が現れ、その夜、死体となって発見された。
驚愕する俊介に、ふたりの関係を知った自分が殺したと告白する美菜子。
俊介は警察に連絡しようとするが、事件が露見すれば受験に影響があると判断した親達は、通報せず隠蔽することにした。
身元が判明しないように藤間は英里子を全裸にし、顔を潰して指紋を焼いた遺体を包んでボートに乗せ、並木と藤間で湖に沈めた。
ところが翌日、俊介は英里子のバッグからある写真を見つけてしまうのである。
そこには、親たちから裏金を受け取る津久見の姿が写っていた。
英里子は、俊介に会う為でなく、津久見の不正を知って彼を脅しに来たのだ。
それに気づいた俊介は津久見を問い質すが、更なる事実が発覚する・・・。
それを知った俊介は他の親たち同様、子供たちの未来を守ろうと口を閉ざすことを余儀なくされ、事件は完璧に隠蔽されたと思われたのだが・・・。


寸評
医者が所有する人里離れた湖畔の別荘で名門中学受験を目指す3名による合宿が行われているといった非現実的な設定ではあるが、登場人物が子供が3人にその両親の6名と塾の先生と殺されたカメラマンの女性いう11名に絞られていて、大人たちはそれぞれがひと癖もふた癖もありそうな怪しげな人物なので、ミステリーとして最後まで観客を引っ張る力強さを持っている作品である。
不気味さに不可解さを加味して緊張感を保ち続ける見事なドラマとなっている。

アートディレクターである役所広司とカメラマンである眞野裕子の不倫関係が描かれ、眞野裕子が役所と妻の薬師丸ひろ子もいる別荘に現れ、薬師丸ひろ子によって殺されるのは一般的なミステリーとしての導入部である。
そこからミステリーとして物語はヒートアップしていくのだが、やはりミステリー映画はストーリーが最も大事で、役者が揃っていれば申し分ないと思わせる展開が続いていく。
眞野裕子の死体を見た役所広司は動転するが他の者は案外と落ち着いている。
特に柄本明の冷静振りは異常なほどである。
警察に届けようと言う役所と、何もなかったことにして死体を処理しようとする他の5人の親たちのやり取りが緊迫感を生み出す。
親たちの言い分は、子供たちの面接を含む受験を考えるとセンセーショナルに伝えるであろうマスコミの前に晒し者とするわけにはいかないというもので、親ならどんなことをしても子供を守りたいというものだ。
たしかに名門中学の受験は想像を超える大変なものだと理解はできるが、はたしてその為にここまでやるものだろうかとの疑問を挟ませないスピーディな展開が素晴らしい。
登場人物の内面描写を極力控えてストーリーを追い続ける演出は心地よい。

眞野裕子が持ってきた仕事用の写真の中に薬師丸ひろ子の写真が混ざっていて、眞野の嫌がらせと思わせておいて、よく見るとかすかに豊川悦司が写り込んでいるミステリーが示されている。
伏線でも何でもなく明らかにこの二人は関係があると観客に知らせているが、その関係はなかなか明らかにならないので、観客に対して常に頭の片隅にある状況を生み出している。
身元がわからないようにするために指紋を焼き消し、歯形が分からないように打ち砕く。
そして顔が分からないようにつぶすのだが、このゾクッとするシーンをもう少し丁寧に描写していればよかったと思うのだが、そうだ余りにも怪奇的なものになってしまっていたのだろうか。
画面を見ると顔が判別できないようにはなっていなかったように思う。

この映画の最大の魅力はミステリーらしい衝撃の結末であろう。
結末であって結末でないような結末である。
全ての疑問を弾き飛ばしてしまっている。
犯人は誰なのか、死体は上がって来るのか、警察は捜査に踏み切ることができたのか、子供たちはその後どうなったのか、親子関係はどうなったのだろうか、等々思い起こせば色々あるのだが、そのような疑問を感ずることなく映画は結末を迎えた。
役所広司と薬師丸ひろ子の打ち解けたような会話で終わるのも思わせぶりであった。

Ray/レイ

2023-05-30 06:25:59 | 映画
「Ray/レイ」 2004年 アメリカ


監督 テイラー・ハックフォード
出演 ジェイミー・フォックス ケリー・ワシントン クリフトン・パウエル
   ハリー・レニックス リチャード・シフ アーンジャニュー・エリス
   シャロン・ウォーレン カーティス・アームストロング 

ストーリー
ジョージア州の貧しい家庭に生まれたレイ・チャールズ・ロビンソン。
彼は、病弱ながらもけなげな母アレサによって弟と仲良く育てられた。
だがある日、弟が溺死してしまい、そしてレイも7歳の時、視力を失った。
1948年、17歳のレイ・チャールズ・ロビンソン(ジェイミー・フォックス)は、故郷の南部ジョージア州からシアトルに出て、音楽の活動を始める。
やがて彼は盲目の天才と呼ばれ、やがてバンドの一員としてツアーに参加するが、その頃に麻薬を覚える。
1954年にはゴスペル・シンガーのデラ・ビー(ケリー・ワシントン)と結婚し、ソロのレコードでヒットを飛ばす。
やがて息子が生まれたが、レイはバック・ヴォーカルのメアリー・アン・フィッシャー(アーンジャニュー・エリス)と愛人関係にあり、さらに1957年、レイは契約したヴォーカル・トリオ、レイレッツのメンバーであるマージー(レジーナ・キング)を新しい愛人にする。
1959年、一家はロスに移り、2人目の息子も誕生。
レイはアトランティック・レコードからABCレコードに移籍し、60年に『我が心のジョージア』で初のグラミー賞を受賞したが、しかしレイは名声の裏でヘロイン浸りの生活を続けていた。
やがてマージーが麻薬で死亡。
1965年、レイはボストンの空港で麻薬の密輸で逮捕され、彼は更生クリニックに入り、麻薬から足を洗った。
そして1979年、ジョージア州は、かつてコンサートの契約違反で永久追放を宣告したレイの名誉を回復し、『我が心のジョージア』を州歌にするのだった。


寸評
レイ・チャールズと言えば、僕が知る外国ミュージシャンのなかでもその存在感は、ビートルズなどと同様に間違いなく上位に入るミュージシャンだ。
「ファッド・アイ・セイ」「愛さずにはいられない」「アンチェイン・マイ・ハート」「 ユー・アー・マイ・サンシャイン」などは深夜ラジオを聞いていると自然と耳に入ってきた曲だ。
伝記ものとしては親しみがあるだけに、最初から興味を持って見ることが出来た。
彼が麻薬の常習者で、しかも薬物使用の逮捕歴があることを知ったのは後年のことで、耳にしていた頃はそんな事実は知らなかった。

映画を見ているとお母さんが立派だったのだと思わされる。
視力を失った彼を厳しく育てる姿に感動する。
自分の手元ではもう教えることがないと盲学校に入れる。
レイにとっては悲しい別れだが、母にとっては自分の亡き後のレイの人生を考えてのことだ。
僕が在職中に身障者のお母さんと話す機会があったのだが、その方々もやはり自分の亡き後の子供たちの自立を真剣に考えておられた。
立派だった母親の教えをレイは時々思い起こす。
レイにとってはそんな母親だったことが幸いしたと思うし、ビーと出会ったことも幸いだったと思う。
それでも愛人を持ってしまうのは男の性なのかなあ。

レイは小さい頃に、不注意から仲の良かった弟のジョージを死なせてしまっていて、その時のトラウマに悩まされ時々幻覚を見る。
ジョージが洗濯用の桶で溺れ死んだために、自分が水たまりでもがき苦しむ姿だ。
水たまりはあちこちの場面で出現するが、この雰囲気が全編を覆えばもっと違った作品になっていただろう。
幻覚シーンと共に描かれるのが、少し色彩のトーンを変えた幼少期の出来事で、母親との触れ合いが描かれる場面を通じて、彼の精神的支柱が亡くなった母親であったことがうかがえる。

彼は盲目で黒人だし、田舎者なのでいろんな人から搾取されたり差別を受けたりする。
報酬をごまかされたり、人種差別を受けたりしているが、ジョージア州での公演時には人種差別の反対運動に同調するまでになっている。
ミュージシャンとして世間に受け入れられてはいたのだろうが、もう少し人種差別で受けた理不尽さを描いていれば、後日「わが心のジョージア」が州歌に採用された感動が得られたのではないか。
薬物依存から抜け出すシーンも、もっと過酷に描いていれば立ち直った時の感動をもう少し味わえたように思う。
全体的には大人しい映画だ。
主人公が盲目なので激しいシーンは少ないが、レイを演じたジェイミー・フォックスはそれらしかった。
何より、当時はこうであったろうと思われる演奏シーンでの観客の盛り上がりが伝わってくるのがいい。
映画を見終ると彼の音楽が聴きたくなってくるから不思議だ。
音楽の持つ魔力だ。

流浪の月

2023-05-29 07:38:46 | 映画
「る」と「れ」を続けます。
前回は「る」が2020/7/22の「ルーム」のみでした。
「れ」は2020/7/23の「レイジング・ブル」から「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」「レインマン」「レオン」「レスラー」「レ・ミゼラブル」と、
2022/1/6の「レッド・オクトーバーを追え!」から「レナードの朝」「恋愛小説家」でした。

「流浪の月」 2022年 日本


監督 李相日
出演 広瀬すず 松坂桃李 横浜流星 白鳥玉季 多部未華子 趣里
   三浦貴大 増田光桜 内田也哉子 柄本明

ストーリー
10歳の少女・更紗は、引き取られた伯母の家に帰ることを躊躇い、雨の公園で孤独に時間を持て余していた。
そこに現れた孤独な大学生の文は、少女の事情を察して彼女を自宅に招き入れる。
更紗は文の家でようやく心安らかな時を過ごし、初めて自分の居場所を手にした喜びを実感する。
しかし2ヵ月後、文は誘拐犯として逮捕され、2人の束の間の幸せは終わりをつげる。
15年後、恋人の亮と同棲生活を送っていた更紗は、カフェを営む文を偶然見かける。
事件のせいで辛い日々を送ってきたであろう文のことが、どうしても気になってしまう更紗だったが…。


寸評
マイノリティはなかなか理解してもらえない存在だと思うし、偏見や差別に苦しんでいるのだろうなと想像する。
そう思うこともマジョリティの偏見なのかもしれない。
一度押された烙印はなかなか消すことができない。
ましてや文の場合は間違った烙印なのだ。
LGBTを扱った作品が撮られるようになってきたが、本作はロリコンを取り上げている。
マイノリティである文は大人の女性を愛せないだけで、少女に悪戯をするような男ではない。
なんとか大人の女性を愛せるようにと、あゆみと付き合っているが性交渉はない。
あゆみが文の事実を知り問い詰める場面は辛いものがある。
文は「大人の女性を愛せるか試したかった、ゴメン」と告げるが、あゆみは「そのために私としなかったのね」と確認する。
そうだと答える文の元を去るあゆみは痛い気だ。
更紗が大人の女性と幸せになれてよかったと喜んで去っていった姿と対照的である。

週刊誌は今の二人をセンセーショナルに取り上げる。
ネットでは誹謗中傷する書き込みが行われる。
事実を告げようとする姿勢など微塵もない。
事件当時に更紗は可哀そうな少女として報じられたのだろう。
しかし実際の更紗は幸せな時間を過ごしていて、私は可哀そうではないと更紗は言う。
更紗の恋人である亮は逃げ場のない女性を選んで付き合っている男である。
幼児体験がある更紗は我慢して亮の求めに応じている。
亮から暴力を受けて更紗は彼と別れるが、そうでなくても我慢しての生活など長続きするはずがない。

文の母親は自分の子供をハズレと思っていて、文の存在を恥じているようだ。
文は寡黙で表情も暗い。
しかし、預かった梨花と戯れた時に唯一の笑顔を見せる。
この時の笑顔、少女だった更紗の唇に触れた時の親指、文の心の動きが感じ取れるシーンだ。
更紗は性行為をしたくない女性で、文は性行為が出来ない男性である。
二人は好奇の目がない土地へ二人して流れていくのだろう。
それもまた愛し合う男女の姿である。



リンカーン

2023-05-28 07:18:04 | 映画
「リンカーン」 2012年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 ダニエル・デイ=ルイス サリー・フィールド
   デヴィッド・ストラザーン ジョセフ・ゴードン=レヴィット
   ジェームズ・スペイダー ハル・ホルブルック
   トミー・リー・ジョーンズ ジョン・ホークス
   ジャッキー・アール・ヘイリー ブルース・マッギル

ストーリー
貧しい家に生まれ、学校にもろくに通えない中、苦学を重ねてアメリカ合衆国第16代大統領となったエイブラハム・リンカーン(ダニエル・デイ=ルイス)。
史上最も愛された大統領と言われ、常にユーモアを絶やさず、黒人を含めたすべてに人々にオープンに接する人物だった。
当時アメリカ南部ではまだ奴隷制が認められていたが、リンカーンはこれに反対していた。
リンカーンの大統領当選を受けて、奴隷制存続を訴える南部の複数の州が合衆国から離脱しアメリカは分裂、さらに南北戦争へと発展する。
国を二分した激しい戦いは既に4年目に入り、戦況は北軍に傾きつつあったが、いまだ多くの若者の血が流れ続けていたことで、リンカーンは毎晩1人で船に乗り、どこかへ向かっているという不思議な夢を見るようになる。
自らの理想のために戦火が広がり若い命が散っていくことに苦悩するリンカーン。
再選を果たし、任期2期目を迎えた大統領エイブラハム・リンカーンは、奴隷制度の撤廃を定めた合衆国憲法修正第13条の成立に向け、いよいよ本格的な多数派工作に乗り出す。
しかし修正案の成立にこだわれば、戦争の終結は先延ばししなければならなくなってしまう。
一方家庭でも、子どもの死などで心に傷を抱える妻メアリー(サリー・フィールド)との口論は絶えず、正義感あふれる長男ロバート(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)の北軍入隊を、自らの願いとは裏腹に黙って見届けることしかできない歯がゆさにも苦悩を深めていく。
そんな中、あらゆる手を尽くして反対派議員の切り崩しに奔走するリンカーンだったが…。


寸評
government of the people, by the people, for the people(人民の人民による人民のための政治)という演説中の言葉と共にエイブラハム・リンカーンという大統領の存在は知っている。
民主主義の教育過程の中で、おそらく中学生の時代に教えられたのではないかと思う。
奴隷解放を行ったとか、南北戦争を終結させたとかの断片的な知識はあるものの、リンカーンについてはその程度の知識しか持ち合わせておらずよく知らない。
米国民でない僕は奴隷制度の廃止状況も知らないし、南北戦争の背景も詳しいわけではない。
保護貿易と自由貿易という経済の対立、労働力の流動性と固定化の対立などが南北戦争の原因と聞いているが、もっと複雑な要因も絡んでいたのだろう。
各州の思惑の違いなども、地理的な把握も含めてピンとこない。
だからここで描かれている対立そのものがよくわかっていない。
映画はリンカーンの最後の4か月ほどを描いているが、どうも入り込めない。
どうやら僕にとっては、歴史的な背景も分かっていないよその国の出来事だったことが乗れない第一減だったような気がする。
更には修正13条を理解しないで見たものだから、その緊迫感にも乗り損ねた。
評決する場面での僅差の勝利などはもっとスリリングに感じても良かったと思うのだが、それも希薄だった。

面白いと思ったのは、新たな認識でもあるのだが、清廉潔白なイメージのあるリンカーンが、反対する議員を買収(議員失職後の役職提供)してでも法案を通していく実利的な面を見せることである。
南北戦争が終わってしまうと奴隷解放運動の熱も冷めてしまうので、和平交渉を長引かせ南部の代表団に足止めを指示するなどのしたたかさを持ち合わせていたことも新発見。
それが政治と言うものだと強く認識させられた。
リンカーンは息子を一人戦争で亡くしており、長男の入隊に対して妻とも口論し、父親としても苦悩する。
大統領としてのリンカーンと、家庭人としてのリンカーンの姿を対比するように描いていたが、僕にはその対比の面白さは伝わってこなかった。
どうもスピルバーグの大層な演出が鼻につくのだ。

リンカーンは南部連合総司令官のロバート・E・リー将軍が降伏した6日後の1865年4月15日、劇場で観劇中に凶弾に倒れた。
これにより、リンカーンはアメリカ史上最初の暗殺された大統領となったのだが、その劇的シーンはない。
別の劇場の幕間で「大統領が撃たれた」と叫ばれるだけだ。
これはリンカーンの伝記映画ではないので、そのシーンは必要ないとしたのだろう。
全体を通じて自然光の柔らかさと暗さが美しい印象的を持った。

ダニエル・デイ=ルイスがリンカーンになり切っていたので2時間半を見続けることが出来た。
奴隷解放の急進派でガチガチの人種差別反対議員であるトミー・リー・ジョーンズの熱演も目立った。
そして政治には強烈なリーダーシップが必要なことも感じさせられた。

旅情

2023-05-27 09:30:33 | 映画
「旅情」 1955年 イギリス


監督 デヴィッド・リーン
出演 キャサリン・ヘプバーン ロッサノ・ブラッツィ イザ・ミランダ
   ダーレン・マクギャヴィン マリ・アードン ジェーン・ローズ

ストーリー
アメリカの地方都市で秘書をしていた三十八歳のジェイン・ハドスンは、欧洲見物の夢を実現し、ヴェニスまでやって来た。
フィオリナ夫人の経営するホテルに落着いた彼女は、相手もなくたった一人で見物に出かけ、サン・マルコ広場に来て、喫茶店のテイブルに腰を下した。
しかし、背後からじっと彼女をみつめる中年の男に気づくと、あたふたとそこを去るのであった。
翌日、彼女は浮浪児マウロの案内で名所見物をして歩いた。
通りすがりの骨董店に入ると、そこの主人は昨日サン・マルコ広場で会った男だった。
その日の夕方、ジェインはまたサン・マルコ広場へ行った。
例の男も来たが、彼女に先約があると感ちがいし、会釈して去って行った。
翌日、彼女はまた骨董店へ行ったが、店員の青年から主人は留守だといわれた。
骨董店の主人レナートは、その彼女のホテルを訪れ、夜、広場で会おうと約束した。
その夜の広場でジェインは初めて幸福感に浸り、思い出にくちなしの花を買った。
別れるとき、レナートは彼女に接吻し、明夜八時に会う約束をした。
翌日、彼女は美しく装って広場へ出かけたが、彼の店にいた青年がやって来て、彼が用事でおそくなることを告げた。
青年がレナートの息子であることを聞いたジェインは、彼には妻もいると知って失望し、広場を去った。
ホテルへ追って来たレナートは妻とは別居しているといい、男女が愛し合うのに理屈はないと強くいった。
ジェインはその夜、レナートと夢のような夜を過し、それから数日間、二人は漁村で楽しい日を送った。
ヴェニスへ戻ったジェインは、このまま別れられなくなりそうな自分を恐れ、急に旅立つことに決めた。
発車のベルがなった時、かけつけたレナートの手にはくちなしの花が・・・。


寸評
フェリーニが「フェリーニのローマ」でローマを撮ったように、デヴィッド・リーン監督が「俺がベネチアを撮ったらこうなるんだ」と言っているような作品で、見方によればベネチアの観光映画の印象を抱く作品だ。
僕は普通の日本人にとって海外旅行は夢のまた夢という時代も過ごした世代だが、洋画を見る楽しみの一つとして行ったこともない外国の都市の異国情緒を味わえることもあった。
今では水の都ベネチアを訪問した日本人は数多くいるだろうが、ヨーロッパに行ったことがない僕はベネチア案内をしてもらっているような気持にもなれる作品でもある。
しかもツアーコンダクターはかのキャサリン・ヘプバーンだからこの上ない贅沢である。
キャサリン・ヘプバーンは決して美人ではないが知性と気品と可愛さを兼ね備えた魅力ある女性だ。
その彼女がベネチアの街を歩き回り、カメラはその街を点描していく。
時に街の雰囲気をロングショットで捕らえ、時に名所を写し撮り、時に街角の何気ない光景を写真家の作品よろしくフレーミングして映し出す。
物語にさして関係のない町の景色をかなりの時間をかけて描いているから、僕がこれは観光映画だと感じた理由はきっとそれに違いないと思う。
もう一つの理由は話がたわいないものである事にもある。
旅先の女性が現地の男性と恋に落ちるが結局は悲恋に終わるというだけのものであり、恋愛映画というには二人の気持ちに深く入り込んでいるとも言い難い軽い作品だ。
しかしそれを正々堂々と真正面から描き切っていて、さすがにデヴィッド・リーンと言いたくなる作品でもある。

ジェイン・ハドスンは一人旅を楽しんでいる女性だが、そうは言いながらもどこかで一人旅の淋しさを感じている。
ベネチアの街はカップルが満ち溢れていて、彼女はその姿をうらやんでいるような所がある。
しかし、ジェインは自分に臆病なところがあって特に男性を寄せ付けない。
三十八歳の女性という年齢設定にキャサリン・ヘプバーンが見事にハマっているし、その年齢の女心を流石と言わしめる表情で演じていて正に彼女の独断場といえるシーンが数多くある。
ところがイタリア男は積極的だ。
骨董屋の主人レナートは紳士だが、イタリア人の典型として積極的にジェイン・ハドスンに言い寄ってくる。
ジェイン・ハドスンが宿泊しているホテルを訪ね、自信満々に彼女の心を言い当てながら迫る様子は僕が抱くイタリア男性のイメージ通りだ。
そう言えば国の比較として、イタリアでは食べ物を食べるが、フランス人はソースを食べ、アメリカ人は胃薬を食べると言わせている。
お高く気取ったフランス人と、質より量でブクブク太ったアメリカ人を揶揄しているのだろう。
もしかするとそれはデヴィッド・リーンの三か国に対する印象なのかもしれないが・・・。

狂言回し的な少年が登場して話にアクセントをつけているが、その他にもベネチアガラスのエピソードを挿入したり、キャサリン・ヘプバーンを運河に落としたりしてリラックスできる時間を生み出している。
外国旅行をして、その国のとある街でこの様な恋を出来たら、このような思い出を作れたら、それはそれは楽しい旅だろうとロマンチックな想像をさせてくれる作品だ。

リチャード・ジュエル

2023-05-26 08:00:03 | 映画
「リチャード・ジュエル」 2019年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 サム・ロックウェル ポール・ウォルター・ハウザー
   キャシー・ベイツ オリビア・ワイルド ジョン・ハム
   ニナ・アリアンダ イアン・ゴメス ウェイン・デュヴァル
   ディラン・カスマン マイク・ニュースキー

ストーリー
1996年7月27日、警備員のリチャード・ジュエルはアトランタ五輪の会場近くの公園で爆発物を発見した。
リチャードの通報のお陰で、多くの人たちが爆発前に避難できたが、それでも2人の死者と100人以上の負傷者を出す大惨事となった。
マスメディアは爆発物の第一発見者であるリチャードを英雄として持ち上げたが、数日後、地元紙が「FBIはリチャードが爆弾を仕掛けた可能性を疑っている」と報じた。
それをきっかけに、マスメディアはリチャードを極悪人として糾弾するようになった。
また、FBIはリチャードの自宅に2回も家宅捜索に入り、彼の知人たちにも執拗な聞き込みをするなど常軌を逸した捜査を行った。
マスコミによる報道が過熱するなか、彼の無実を信じる弁護士ワトソン・ブライアンは、ジュエルを陥れようとするFBIの執拗な捜査に異を唱える。
数ヶ月後、リチャードが無実であると判明したが、その時点で彼は相当な精神的ダメージを負っていた。


寸評
アメリカ版の冤罪事件で、クリント・イーストウッド監督はFBI(国家)、マスメディアという巨大権力を痛烈に糾弾している。
その手際は手慣れたものでイーストウッドは今回も円熟した演出を見せている。
切れ味鋭いカミソリのような演出ではなく、じわじわと迫ってくる重さを感じさせる演出だ。
アトランタオリンピックの映像の挟み方も上手いと感じさせる。

冒頭から描かれるのは偶直ともいえるリチャードの仕事ぶりだ。
図体から受ける印象はマヌケな感じがするが、なかなかどうして目配りがあって、弁護士ワトソンの好物をそっと机に忍ばせておくような機転がきく。
法の執行人を自負しているリチャードは警備員となっても規則を忠実に守る。
寮で酒を飲んではいけない規則を破る学生にも容赦はないのだが、そんな堅物のリチャードを学生は良く思わない。
彼を守るべき学長も自分の発言を忠実に守りすぎるリチャードをクビにする。
原理原則を忠実に押し付けてくる人は、当然間違ってはいないのだけれど、どこか堅苦しい人物として敬遠されてしまうのかもしれない。

彼は警備担当となっても職務に忠実で、甘く見る警官に意見を言いながら爆破事件の被害拡大を防ぐ。
一躍ヒーローとなるがそこからの展開がおぞましい。
同じ会場で警備していたFBI捜査官が自分のメンツから犯人逮捕を目指し、自分勝手な推測からストーリーを組み立てリチャードを犯人に仕立て上げる。
構図が全く同じ、厚生省の村木さんの事件を思い起こさせた。
国家権力によって犯人に仕立て上げられてしまう怖さがアメリカでも日本でも起きていると言うことだ。
それに輪をかけるのが、スクープが欲しいマスメディア、面白い記事ネタが欲しいマスメディアの存在だ。
FBIのショウ捜査官を嫌悪するが、それ以上に嫌悪感を抱くのが地元新聞社のキャシーだ。
僕が抱く傲慢なマスコミの負のイメージを嫌というほど出している。
二つの大きな権力に責められた小市民の立場はモロイ。
世間の好奇心の目はもっと恐ろしい。
僕がリチャードの立場になったら、果たして耐えられただろうかと思ってしまう。
リチャードは言う。
「もしも警備員が不審物を発見したら、リチャードの荷の前は嫌だと通報せずに逃げ出すだろう」と。
触らぬ神に祟りなしの風潮がまかり通っている世の中だ。
リチャードの無実は証明されたが、彼の名誉はどのようにして回復されたのだろう。
その後、警官になっているようだから名誉は回復されたと思うが、彼を犯人扱いしたマスコミは弾劾されたのだろうか。
僕はここでもオウム真理教による松本サリン事件の河野義行氏を想起した。
誰が発信者で、誰が拡散者なのかもわからぬまま、SNSを通じてデマによる個人への誹謗中傷がまかり通っている。
この映画はクリント・イーストウッドによる、そのような社会への警鐘なのだろう。

リオ・ロボ

2023-05-25 07:47:52 | 映画
「リオ・ロボ」 1970年 アメリカ


監督 ハワード・ホークス
出演 ジョン・ウェイン ホルヘ・リヴェロ クリストファー・ミッチャム
   ジェニファー・オニール ジャック・イーラム ヴィクター・フレンチ
   スサーナ・ドサマンテス シェリー・ランシング
   デヴィッド・ハドルストン マイク・ヘンリー ビル・ウィリアムズ
   
ストーリー
南北戦争末期、北軍のマクナリー大佐の護衛する金塊輸送列車は南軍のコルドナ大尉の率いるゲリラに襲われ、マクナリーは捕えられたが巧みな手段で脱出し、逆にコルドナと部下のタスカロラを捕虜にし、事件の背後で操った北軍の裏切り者が2人いることを聞き出す。
戦争が終わり、故郷の町に帰ったマクナリーは、若い娘シャスタの危難を救ったことから、偶然、裏切り者の1人をしとめ、コルドナと再会をする。
一方、魔術芝居の巡業をして歩くシャスタは、リオ・ロボで悪徳保安官ヘンドリックス一味に相棒を殺され、彼女も追跡されていたのだった。
コルドナは、その保安官一味に裏切り者がいると教えた。
彼もリオ・ロボに牧場をもつ旧友タスカロラが、地元のボスのケッチャム一味に牧場を乗っ取られようとしているのを救援にいこうとしているところだった。
3人はリオ・ロボへ向かうこととなり、マクナリーはそのボスこそ、例のもう1人の裏切り者に違いないとにらんだ。
タスカロラが馬泥棒に仕立てられて逮捕され、彼の祖父フィリップスが監禁されていることを知った3人は老人を救出したが、リオ・ロボの留置所は砦のようで、まともな攻撃でタスカロラは助けられそうもなかった。
マクナリーは一計を案じ、ケッチャムの牧場を襲って彼を人質としたところ、やはり、彼は例の裏切り者だった。
マクナリーはコルドナを近くの騎兵体砦に通報にやり、敵とリオ・ロボでのタスカロラとケッチャムの人質交換をもくろんだが、コルドナはヘンドリックスに捕えられてしまった。
今度はリオ・ロボの町を流れる川の橋で、ケッチャムとコルドナの身柄交換となった。
多勢に無勢、マクナリーたちの形勢は不利となったが、タスカロラの作戦が功をそうした。
形勢は逆転して、ケッチャム一味は硝煙の藻屑と消えた。
コルドナとシャスタは結ばれて、リオ・ロボに平和が戻った。


寸評
痛快娯楽作品としてテンポよく進んでいき、特別な趣向を凝らすでもない語り口は新鮮さがないものの安心感があって、リラックスして見ることが出来る西部劇である。
北軍の運ぶ金貨を南軍が奪うディテールもてきぱきしており楽しめるものとなっている。
捕虜にしたりされたりのやり取りを見ていると、随分とのんびりしたものだなあと感じるが、その雰囲気は最後まで持続したままで、銃撃戦があるとはいえほのぼの西部劇と言ってもいい。
おまけに南北戦争がすぐに終わってしまうので南北の対決もない。
前二作の「リオ・ブラボー」「エル・ドラド」と同じく豪放な笑いを基盤に、老若男女入り乱れての戦う集団形成のディテールが大いに楽しめる。
マクナリーやコルドナに負けず、女性陣が活躍するのも楽しめるし、最後になってフィリップス爺さんが出てきて主演のジョン・ウェインを喰ってしまうような存在感を見せ楽しませる。
歯医者さんもそうだが、マクナリーに協力する人が次々と登場するのが特徴となっている。
こんなシチュエーションが必要なのかと思わせるセミヌード女性の登場などはサービス精神か。

マクナリーは南軍の金塊強奪に北軍を裏切った兵士がからんでいるとして、その裏切り者を追っているのだが、その裏切り者が誰であるかのスリルはない。
せめて二人の裏切り者を列車護送場面で登場させておいてほしかった。
さらにその裏切り者二人がいとも簡単に撃ち殺されたり、つかまったりしてしまうので、復讐劇の方は肩透かしを食ったような気がする。
相手方にマクナリーが追う裏切り者の一人がいるとは言え、マクナリーたちがリオ・ロボの保安官一味の悪事に立ち向かって行くことがメインになっている。
その間にコルドナがシャスタに恋する姿を面白おかしく挿入している。
このシャスタが時折男勝りの活躍を見せて、ほんわかムードをさらに高めている。
目新しさのない演出だが、そつのない演出でもある。
最後の決戦も極めて明るいもので、なんだかみんなして遊んでいるみたいな雰囲気だ。
これこそがハワード・ホークスという余裕が感じられるものとなっている。

決戦の場には土地の権利書を取り返してもらった連中が加勢に来るが、これだけ多数の若い元南軍兵士が加わればマクナリーは苦戦するはずがない。
ここは少人数で多数の敵を倒した方がスカッとしただろうと思う。
そしてボスが最初に殺されてしまっては盛り上がりにも欠けると言うものだ。
保安官のヘンドリックスはボスが無一文になったことを聞いても逃げ出すことはせず戦っていて、結局彼を倒すことが最終目的となっている。
そしてヘンドリックスを倒すのは予想通りの人物で、これも観客の期待を裏切らないものとなっている。
コルドナとシャスタは結ばれ、タスカロラも恋人と結ばれ、めでたしめでたしで終わるという安定感を見せる。
マクナリーがマリアにかける最後の言葉がユーモアたっぷりでいい。

リオ・ブラボー

2023-05-24 08:06:58 | 映画
「り」は
2020/7/12の「利休」から「陸軍」「リップヴァンウィンクルの花嫁」「リトル・ダンサー」「理由」「竜二」「理由なき反抗」「「竜馬暗殺」「リリイ・シュシュのすべて」「リンダ リンダ リンダ」
2022/1/1の「リアリズムの宿」から「リオ・グランデの砦」「リバー・ランズ・スルー・イット」「リボルバー」「猟奇的な彼女」でした。

今回は続きを少しばかり。

「リオ・ブラボー」 1959年 アメリカ


監督 ハワード・ホークス
出演 ジョン・ウェイン ディーン・マーティン リッキー・ネルソン
   アンジー・ディキンソン ウォルター・ブレナン ウォード・ボンド
   ジョン・ラッセル クロード・エイキンス ハリー・ケリー・Jr
   ペドロ・ゴンザレス=ゴンザレス

ストーリー
所はメキシコとの国境に近いテキサスの町リオ・ブラボー。
保安官のチャンス(ジョン・ウェイン)は、殺人犯ジョー(クロード・エイキンス)を捕えた。
しかし、ジョーの兄バーデット(ジョン・ラッセル)はこの地方の勢力家で、彼の部下に命じて町を封鎖したため、チャンスはジョーを町から連れ出すことも、応援を頼むことも出来なかった。
チャンスの味方は、身体の不自由なスタンピイ老人(ウォルター・ブレナン)と早射ちの名人デュード(ディーン・マーティン)の2人だった。
町を封鎖されたため、若い美人のフェザース(アンジー・ディッキンソン)や、チャンスの親友パット(ウォード・ボンド)も外へ出られなかった。
パットは燃料やダイナマイトを輸送する馬車隊を、護衛のコロラド(リッキー・ネルソン)と一緒に指揮していた。
チャンスはフェザースがホテル・カシノでイカサマ賭博をしていると知らされ、彼女を尋問したが、コロラドの証言でフェザースは無罪となった。
チャンスはフェザースの不幸な身の上を知り、なにかと世話をしてやったのを機会に、2人の仲は接近した。
パットはチャンスに協力した為に、パーデットの雇った殺し屋に射ち殺された。
ある日、デュードはバーデッドの配下に、不意をつかれて捕まってしまう。
バーデットはチャンスに、ジョーとデュードを交換しようと申し込んだ。
チャンスは周囲の状況から、それを承諾せねばならなかった。
翌朝、2人を交換することになったが、デュードはスキをみてジョーに飛びかかったのを機に両者の凄烈な射ち合いが始まった。


寸評
ジョン・ウェインの一人舞台といった作品ではなく、それぞれが持ち味を出して見せ場を盛り上げていく。
人物設定も面白くて、その中でもディーン・マーティンがアル中の保安官助手を好演している。
ひげは伸び放題、だらしなく着たシャツはよれよれという惨めな姿のディーン・マーティンが酒場に登場して映画は始まる。
そこでアル中のマーティンをからかうことから争いが起こり、丸腰の男がいとも簡単に射殺される。
この導入部などはテンポがよく、J・ウェインの登場からその身のこなしまでもが実に手際よく描かれる。
ライフルを振り回して相手を殴り倒すウェインは本当に西部劇スターだなあと感心させられる身のこなしだ。
立派な体格のJ・ウェインが体を揺らしながらのっしのっしと歩く姿が何とも言えず、決して身軽な動きをしないのだが、その一挙手一投足がJ・ウェインなのだ。
決して演技が上手いとは思えないが、誰よりも雰囲気を醸し出せた西部劇スターだと感じさせるものがある。

若いリッキー・ネルソンも得な役回りで、カードのいかさまを見抜く場面や、スゴ腕らしいのだがそのガンプレイを中々見せないでおきながら、ピンチの保安官を助けるシーンでやっと早や撃ちを披露するなど、おいしい所を頂いている。
ディーン・マーティンとリッキー・ネルソンが出ていて唄わないなどという手はなく、1時間45分ぐらいたったところで二つの歌が用意されている。
保安官事務所でリッキー・ネルソンがギターを弾きながらディーン・マーティンが歌い、やがて二人でデュエットした後にリッキー・ネルソンのソロがあるというファンサービスの一環としてのシーン。
殺伐とした話の中でホッコリするシーンとなっている。

そもそもこの作品は殺人犯のジョーを連邦保安官に引き渡すため、その到着を待ち続けているだけの話の中に、ディーン・マーティンのアル中の症状や、アル中から抜け出そうとする姿などが描かれ話を膨らませている。
スタンピーが自分の牧場をバーデットに乗っ取られていたことで、スタンピーが老人ながらも強硬路線をとることを納得させ、後にピンチながらも敵を倒す伏線になっていた。
この時のスタンピーはなかなか格好いい。
スタンピー役のウォルター・ブレナンも儲け役だった。

女賭博師のアンジー・ディキンスンのお色気と、J・ウェインの恋の色取りも物語りに花を添え、アンジー・ディキンスンのタイツ姿なども披露され、西部劇は男の映画だと思わされる。
スタンピー役のブレナンのかすれた怒鳴り声も印象的。
この映画を見直すまで、一番記憶に残っていたのは彼のそのしわがれた叫びだった。
見直すと、本当に盛りだくさんの見せ場で覆われている事に改めて感心させられた。

最後のガンファイトはダイナマイトで決着がつくが、しかし本当に当時はあんな銃の名手がいたのだろうか?
なにせ投げたダイナマイトを1発で命中させていってしまうのだ(マーティンが2発使いからかわれるオチがある)。
いまならオリンピックのライフル射撃競技で金メダル級だろう。

ランジェ公爵夫人

2023-05-23 06:36:21 | 映画
「ランジェ公爵夫人」 2007年 フランス / イタリア


監督 ジャック・リヴェット
出演 ジャンヌ・バリバール ギョーム・ドパルデュー ビュル・オジエ
   ミシェル・ピッコリ マルク・バルベ トマ・デュラン
   ニコラ・ブショー バーベット・シュローダー

ストーリー
1823年、ナポレオン軍の英雄アルマン・ド・モンリヴォー将軍はスペイン・マヨルカ島で、かつて愛したアントワネット・ド・ランジェ公爵夫人と再会するが、しかし現在の彼女は修道女だった。
5年前、パリのサンジェルマンでのある舞踏会でモンリヴォー将軍と出会ったランジェ公爵夫人は彼に興味を抱き、自分の家に来てアフリカでの冒険譚を語るように誘う。
一方、公爵夫人に恋心を抱いたモンリヴォー将軍は、彼女を自分の恋人にする事を決意。
翌日から、訪れてきたモンリヴォー将軍に対し、ランジェ公爵夫人は思わせぶりな態度を見せつつも自分には指一本触れさせず、彼の心を翻弄する。
焦らされることにしびれを切らしたモンリヴォー将軍は、遂に“誘拐”という行動に出る。
しかし、泣いて許しを請う彼女を目にして、結局そのまま解放するのだった。
この経験が公爵夫人の恋心を目覚めさせ、彼女はこれまでの態度を悔いて、熱烈な手紙をモンリヴォー将軍に送り始めたのだが、彼は彼女を徹底的に無視する。
公爵夫人は返事の来ない手紙を出すことに耐えきれなくなり、ついにモンリヴォー将軍の留守宅へ押しかけたのだが、そこで彼女が目にしたのは、封が切られていない手紙の束だった。
絶望した彼女は“この手紙を読んで3時間後に自分の屋敷へ来なければ、自分は姿を消す”としたためた最後の手紙を届ける。
モンリヴォー将軍は、来客に邪魔されて出かけることができず、ランジェ公爵夫人はパリを後にした。
再会から数ヵ月後、モンリヴォー将軍は修道院からランジェ公爵夫人を誘拐する計画を立て、武装した船でマヨルカ島へと向かう…。


寸評
惚れ合っているというのは下々の感情で、恋をするとは特権階級のゲームに似た行いだったのだと思えた。
少なくともヨーロッパ社会において、恋に関してはそのような時代があったのではないかと思う。
恋愛遊戯ゲームを繰り広げられるのは、地位があり、それに伴って、金があり、時間もありで、おまけに男女を問わず美貌を兼ね備えた者だけである。
そんな風に定義できてもよいような時代の話である。
フランスの文豪オノレ・ド・バルザックの作品が原作だけに、描かれている内容は面白いのに映画としてみると間延びしてしまっていて、おまけに作りも状況の説明文を入れて長編小説を読んでいるような気分にさせるもので、バルザックを読み込んでいることが鑑賞条件のような作品となっている。
条件の一つと思っている美貌に関しては、好みにもよるのだろうがモンリヴォー将軍にもランジェ公爵夫人にも、それらしいものを感じなかったことが間延び感を感じてしまった原因の一つかもしれない。
特にランジェ公爵夫人のジャンヌ・バリバールに魅力を全く感じなかった。

思いを寄せる女性の思わせぶりな態度は罪なものである。
男は女の気持ちを推し測ねて悶絶する。
それを楽しんでいるかのような女は、恋する男にとっては天使でもあり悪魔でもある。
モンリヴォー将軍は人妻と知りながら、一途な愛をランジェ公爵夫人に注ぐ。
元はと言えばランジェ公爵夫人が仕掛けたものだ。
ランジェ公爵夫人にとっては、夫が長期不在のための退屈しのぎだったのかもしれない。
しかしモンリヴォー将軍は本気になってしまう。
彼が何度も愛を打ち明けるが、そのたびにランジェ公爵夫人はあやふやな態度で拒絶する。
ついにモンリヴォー将軍がしびれを切らして公爵夫人から離れていくと、今度は公爵夫人の方がモンリヴォー将軍に愛を感じ始め出す。
追えば逃げ、逃げれば追うという、恋愛ゲームではよく見かける関係である。
しかし、男から女へのアプローチにおける格調をつけたいだけかと思われるくどい描き方に加え、女から男へのアプローチは逆に割愛しているような感じを受けて、僕は両方とも消火不足だった。
特に公爵夫人が一族の名誉を捨ててまでモンリヴォー将軍に言い寄る姿に物足りなさを感じる。
手紙が無視される状況などはもっと描かれていても良かったように思う。

モンリヴォー将軍が公爵夫人からの手紙を無視し続けることとか、指定された時間に行くのか行かないのかなどのドキドキ感は、ゆったりとした描き方によって生まれてこない。
時代を感じさせたいためなのか、この作品は最初から最後までそれぞれのシーンがゆったりとしている。
言い換えればじれったいのだ。
しかし、男と女の立場が逆転し、最後の悲劇を生み出していくストーリー立ては、バルザックならではと思わせる面白いものだ。
公爵夫人がモンリヴォー将軍を愛するようになってからは結構楽しめるものになっている。
もう少し描き方があったような気がする惜しい題材であり、バルザック作品を知ったという功績だけは残った。

ラブレター

2023-05-22 06:51:01 | 映画
「ラブレター」 1981年 日本


監督 東陽一
出演 関根恵子 中村嘉葎雄 加賀まり子 仲谷昇

ストーリー
詩人の小田都志春(中村嘉葎雄)が有子(高橋惠子)を愛人としてかこってから、もう六年がたっていた。
“トシ兄ちゃん”“ウサギ”と呼び合う二人が愛欲に耽けるのは長くて二日、短い時は数時間余りだ。
都市春が来る日は決っておらず、有子が待ちぼうけをくわされるのはしょっちゅう。
寂しさが極に達したころ、決って彼は姿を見せるが、生活費だけは定期的に届けられている。
奥さんの病気の看護に彼がつきっきりと聞いて、有子は寂しさで倒れてしまう。
駆けつけた都志春は、畳の上にビニールを敷きつめ、行水で有子を洗ってやった。
ある日、有子は隣のアパートの女主人タヨ(加賀まりこ)の別れた夫、村井(仲谷昇)と近くの公園で話していた。
都市春はそれを誤解して、「ウサギ、浮気したな!」と興奮し、彼女の内股に“とし”と刺青を彫ってしまう。
都志春は、突然、有子を入籍して正式な妻にしたかと思うと、すぐに籍を抜いたりもした。
有子はそんな彼の気紛れを全て許した。
彼女の願いは、いつも都志春がそばにいてくれること、それだけだった。
やがて有子は身篭るが、都市春の反対で堕ろしてしまった。
その頃から有子は妄想に取り憑かれ、精神が不安定になっていって、ついに有子は入院させられた。
経過は順調で、退院の日が迫った頃、都志春の急死を知らされ、有子の頭は一瞬、空白になった。
通夜の日、有子は小田家を訪れ、慌てる弟子たちを尻目に線香をあげたが、死に顔は最後まで見せてもらえなかった。
「どうしてこんなに早く、地獄へ行っちゃったの」とつぶやき、都志春の写真を見ると、有子はとめどなく涙をこぼすのだった。


寸評
関根恵子の脱ぎっぷりがいい。
東陽一作品だが、彼女の存在なくして、この作品の存在価値はないと言っても過言ではない。
スリップだかネグリジェだかわからないが、その姿の美しさに思わずウットリとしてしまう。
にっかつロマンポルノの10周年記念作品として製作された本作だが、その姿の美しさゆえにロマンポルノであることを忘れさせる。
映画の目的でもあるはずの欲情をもたらさない作品で、これじゃ文芸作品(?)と言ってもよい雰囲気だ。
ところが、作品全体から言えば何か食い足りず、そちらの作品としても物足りなさを感じてしまう。

都志春は身勝手で、そのくせ嫉妬深く、そして愛らしい。
モデルとなった詩人・金子光晴がそうであったかどうかは知らないが、映画的な性格を持った主人公なのに、そのキャラクターが描き切れていないような気がする。
のめり込むような愛欲シーンもなく、やけにさっぱりとした関係なのだ。
これはヒロインが "うさぎ" と呼ばれていることも影響しているのかもしれないが、言葉で愛し、態度で傷つけながら、一生思い続ける男が軽い。
したがって、それを受ける女も軽い存在になってしまっている。
個人的にはもっとドロドロした作品を期待したんだがなあ・・・。
ラブレターと言うタイトルが、太ももに掘った刺青から来ていることが分かれば尚更なのだがなあ・・・。

有子の隣のアパートにタヨという女が住んでいるのだが、この女性は夫が愛人を作ったことで離婚している。
そのことで愛人生活をおくる有子をよく思っていないようなのだが、この女性の存在も何か中途半端だった。
有子に対して厳しいのか優しいのかよく分からない女性である。
病院に入院している有子に都志春の死を伝えるのだが、はたして同情からだけだったのだろうか。
葬儀場面での修羅場を期待していたのではないかと思ったのだが、そうではなかったような気もする。
親族の人たちは有子を都志春の愛人と知っていたのだろうか。
修羅場が起きても良かったような気もするのだが・・・。

戸籍謄本一枚で愛人になったり本妻になったりし、最後には愛人として"置いてけぼりされた"とつぶやく女。
肉体的に結ばれても結局駄目だったと語る隣人の夫。
夫婦とは一体何なのかと考えさせられてしまうラストシーンだけは印象に残った。
と同時に、こんな関係を貫き通した金子光晴もスゴイと思わせた。

にっかつロマンポルノは僕の学生時代に登場したのだが、その頃は秀作が目白押しだった。
本作は、リアルでにっかつロマンポルノを見る機会がなくなっていた時期の作品なのだが、この後1985年に相米慎二が撮った「ラブホテル」を見る機会があり、比較すると相米の方が断然出来栄えが良かった。
ところで、原作・江森陽弘、脚本・田中陽造、監督・東陽一とみなさん名前に陽の字が付いているのだが、偶然の一致かな?

ラスト サムライ

2023-05-21 08:17:41 | 映画
「ラスト サムライ」 2003年 アメリカ


監督 エドワード・ズウィック
出演 トム・クルーズ ティモシー・スポール 渡辺謙
   ビリー・コノリー トニー・ゴールドウィン 真田広之 小雪
   小山田シン 池松壮亮 中村七之助 菅田俊 福本清三 原田眞人

ストーリー
明治維新直後の1870年代。
政府は軍事力の近代化を図ろうと西洋式の戦術を取り入れることを決断。
一方で前時代的な侍たちを根絶させようと企んでいた。
そんな中、政府は南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉を政府軍指導のため招聘する。
だが彼はアメリカ政府のやり方に失望し、また自分が果たしたインディアン討伐を悔いており、魂を失っていたのだった。
オールグレン大尉はさっそく西洋式の武器の使い方などを教え始めるが、勝元盛次率いる侍たちの不穏な動きに焦る政府は、オールグレンの忠告を無視し、急造軍隊を侍掃討に送り出す。
しかし、経験不足の兵士は侍たちの反撃になすすべなく後退、ただ一人最後まで闘い続けたオールグレンは侍たちに捕えられ、山深い彼らの村へと連れて行かれる
そこには旧士族の勝元盛次がいて、彼は近代化の波によって自分たちの信じる武士道が崩壊しかけていることを感じていた。
勝元や彼の妹たか等と共に武家で生活することになったオールグレンは、外国文化を嫌う武士の氏尾らと対立しつつも、武士道に惹かれ、やがて侍たちとの絆を深めていく。
そして侍たちが、政府軍を相手にした最後の戦いに臨む時、オールグレンもそこに参加。
侍たちの反乱軍は圧倒的な数の政府軍に対し善戦するものの、結局は壊滅させられる。
戦いの中で倒れた勝元は、名誉の死を望み、オールグレンに腹を刺してもらい息絶えた。
そして生き残ったオールグレンは、亡き勝元の刀を明治天皇の下に届けるのだった。


寸評
七騎兵隊全滅が1876年で西南の役が1877年なので本作品はこの頃を時代背景としている。したがって見ていて勝元は西郷隆盛で氏尾(真田広之)は桐野利明、大村は大村益次郎を連想させた。連想させると言えば、この映画は日本版「ラスト・オブ・モヒカン」だと思わせた。
だと思わせたと言う事は「ラスト・オブ・モヒカン」の方が映画的にはいいと言う事につながってしまう。
「ダンス・ウィズ・ウルブス」と対比している人もいるが、僕は単純に「ラスト・オブ・モヒカン」を連想した。

まさか長篠の合戦でもあるまいに、明治維新もなって10年にもなるのに鉄砲隊と騎馬武者の戦争はないだろうと野暮な疑問は持たないでおこう。
そんな見方をしたらいくらでもおかしな所はあるのだけれど、この映画が最高だと言えないのはそんな時代考証が問題ではなくて、なんとなくテーマが希薄なところにある。
そもそもオールグレン大尉とバグリー大佐(トニー・ゴールドウィン)の確執が説明不足だから、最後の決戦での両名の対決が盛り上がりにも掛けてしまっている。
そしてもう一方の主人公である勝元=渡辺謙が、一体何のために戦っているのかの説明が不足しているから、これまた政府軍と戦うときの意気込みの伝わり方が希薄になっているのではないかと思った。
古きよき時代の善玉と、近代化の中でその者たちを滅ぼしのし上がろうとする新しい階級=悪玉、と言う単純な図式はまるでかつての東映ヤクザ映画なのだけれど、政府軍(悪玉)の彼等村人(善玉)への虐待がないから憎しみも湧いてこない。
そしてオールグレンが名誉だとか誇り、そして死ぬために生きているサムライの世界に目覚めていくプロセスも描ききれていないので、僕としてはトム・クルーズ=オールグレンにどうしても同化できなかった。そんなわけで、勝元=渡辺謙の好演がとても惜しい気がした。

しかし、ハリウッドが日本の武士社会を描いた映画としては良く出来ていると思うし、決して駄作に入る作品ではない。よく見受けられる陳腐な描き方は無かったので十分堪能できた。
敵である政府軍の指揮官が大村の命令を無視して射撃を止めさせ、勝元の自決を見守り、その崇高な死に礼を尽くすシーンなどは涙物だった。
最後の突撃で成すすべも無く近代兵器の前に倒れる氏尾=真田の描き方なども、むしろ一連の流れの単なる一コマとして描かれ、かえって良かったと思う。

この映画は日本の武士社会に姿を借りているけれども、実は自然と神に感謝し、名誉と誇りを重んじ、勤勉で心身を鍛練し、死を恐れぬ勇気をもっていたインディアンを殺戮していった自らの歴史に対する懺悔なのかもしれない。信忠(小山田シン)が髷を切られるシーンとか、最後の決戦に向かう時の真田広之のメイクなどは多分にインディアンを連想させた。

前述の渡辺謙の好演にたいする褒賞なのか、最後のクレジットタイトルではトム・クルーズを差し置いて、KEN WATANABE が真っ先に流れていた

ライク・サムワン・イン・ラブ

2023-05-20 08:31:12 | 映画
「ら」は
2020/6/28の「ライトスタッフ」から「ライフ・イズ・ビューティフル」「ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日」「ライムライト」「羅生門」「ラストエンペラー」「ラスト・オブ・モヒカン」「ラスト、コーション」「ラスト・ショー」「ラヂオの時間」「ラブホテル」「Love Letter」「ラ・ラ・ランド」「乱」と続きました。
2回目は2021/12/29の「ラウンド・ミッドナイト」から「楽園」「ラストレター」の3作品だけでした。


「ライク・サムワン・イン・ラブ」 2012年 日本 / フランス


監督 アッバス・キアロスタミ        
出演 奥野匡 高梨臨 加瀬亮 でんでん    森レイ子
   大堀こういち 辰巳智秋 岸博之 春日井静奈 窪田かね子

ストーリー
大学で社会学の教授をしていたタカシは、現役を引退し、80歳を超えた今では孤独の中に生きていた。
ひとときでも家庭のぬくもりを味わいたいと考え、デートクラブを通して亡き妻にも似た女子大生の明子を家に呼ぶ。
タカシは食卓に桜エビのスープとシャンパングラスをしつらえるが、タカシが用意した食事に見向きもしない明子は彼女に会いに田舎から出てきた祖母と会わずに駅に置き去りにしてきたことが心に引っかかっていた。
翌日、タカシが明子を大学まで車で送ると、そこに明子の婚約者だというノリアキが現れる。
タカシを明子の祖父だと勘違いするノリアキ。
明子とノリアキが、タカシを激しく動揺させることになる…。


寸評
イランのアッバス・キアロスタミ監督が日本を舞台に日本人キャストとスタッフで撮った映画とあって何ともいえない独特の世界を持った映画だ。
映画は大した出来事も起きず、ちょっとした出来事を淡々と描いているだけなのに、自然と画面に吸い込まれていて、いつの間にか映画が終わったというような不思議な映画だ。

前半は老人のタカシとデリヘル嬢の明子との会話が中心で、後半部分はタカシと明子の婚約者だというノリアキの会話が中心となる。
その会話の中身はアジテーション的なものではなく、ごく普通の世代間のかみあわない会話で深く何かを追及しているわけではない。
その間に都会の情景が写し込まれ、明子の祖母の留守電の声が流れたりする。
祖母の話し方とか、タカシの隣人の話し方とかも相まって、どこかドキュメンタリー風でもある。
もしかすると、これはアッバス・キアロスタミが見た今の日本に対する社会、風俗を含めた印象の縮図なのかもしれない。

老人は優しさを持っているが、淋しさを金で買うという他人に迷惑をかけるわけではないがある種の身勝手さを持っている。
明子はバイト感覚なのだろうが、何をやっているんだこの娘(こ)はと思わせる。
その婚約者を自称するノリアキはストーカー的でありながら、案外といい奴じゃないかと思わせる。
反面、切れるところがあって大暴走を引き起こす。
断片の数々は都会の孤独、老人の寂しさ、恋愛における挫折、人と人とのつながりなどを考えさせるが、そのことを描こうとしているとは思えない。
それだけに最後のエピソードがインパクトを持った。
現実社会でもよくある話の様な気がしたし、予測不可能が人生だと言っているようでもあった。
CGを駆使したドンパチ作品も映画なら、こんな作品も映画なのだと思わせた一遍だった。

4ヶ月、3週と2日

2023-05-19 07:29:32 | 映画
「4ヶ月、3週と2日」 2007年 ルーマニア


監督 クリスティアン・ムンジウ
出演 アナマリア・マリンカ ローラ・ヴァシリウ ヴラド・イヴァノフ
   アレクサンドル・ポトチェアン ルミニツァ・ゲオルギウ
   アディ・カラウレアヌ

ストーリー
1987年。官僚主義がはびこり、人々の自由が極端に制限されていたチャウシェスク独裁政権末期のルーマニアで、女子大生オティリアは、ルームメイトのガビツァとともにキャンプにでも出かけるかのようにのんびりと身支度を整えると、ひとり寮を出る。
まず彼女が向かったのは大学で、恋人のアディと会い、頼んでおいたお金を受け取る。
アディは母親の誕生パーティに彼女を誘うが、オティリアはそれどころではなかった。
そして、彼女はガビツァから言われていたホテルに向かう。
取ってあるはずの予約を確認するためだったが、フロントで「予約は入っていない」と断られる。
別のホテルに予約を入れ、ガビツァに連絡を取ると、自分の代わりに男に会いに行くように頼まれる。
思い通りに事が運ばないことに不安を感じ始めるオティリア。
ガビツァに指示された通りにべべと会ったオティリアは、二人でホテルへ向かう。
しかし、ホテルが当初の約束と変更になったことを知ると、無愛想なべべの機嫌がさらに悪化。
ホテルも待ち合わせた女も違うと、べべは二人に怒りをぶちまける。
「これからやるのは違法行為だ!妊娠中絶はバレたら重い刑に問われる!分かっているのか?」詰め寄られた二人は、お金が足りないことを告白。
ベベはあきれ、話にならないと帰りかける。
二度とない中絶手術のチャンスを逃がすまいと必死にすがりつくガビツァ。
そのとき、オティリアは覚悟を決め、ある行動を取る……。 


寸評
予備知識を持って見ないと理解できない作品である。
まずこの作品のルーマニアにおける1987年と言う時代背景を理解しておく必要がある。
独裁者チャウシェスク大統領が失脚して1989年に処刑される政権末期である。
チャウシェスクは強権的な統治を行い、自分への個人崇拝を強い、国民生活の窮乏もいとわなかった。
チャウシェスク政権はルーマニアの人口を増やすため人工妊娠中絶を法律で禁止とし、離婚に大きな制約を設けて一部の例外を除いて禁止していた。
そうしたチャウシェスク政権が行った政策への批判がある。
第二は若干のストーリーを知っておかないと、前半部分では一体何をしているのかよく分からないことだ。
オティリアとガビツァは何か準備をしていて、大学に出かけたオティリアは恋人のアディから金を借りてホテルに向かうが予約したはずの部屋が取れておらず狼狽する。
体調不良のガビツァから会うことになっているベベを迎えにいってくれと頼まれる。
予備知識がないと彼女たちが何をしようとしているのか、オティリアが迎えに行った男は何者なのかがよく分からないので、事情が呑み込めるのに上映時間の半分くらいを要してしまう。
そこで中絶する本人ではなく、友達として彼女の世話をする女の子の物語だとやっと理解できる。

ガビツァが中絶しようとしていることは分かるのだが、オティリアが本人以上に苦しい思いをするのはなぜなのか、どうしてそこまで尽くすのか。
そもそも妊娠させた相手は誰なのか。
なぜ出産ではなく、怪しげなヤミ医者で中絶しなければならないのかという疑問に一切答えないで描かれていく。
少なくとも時代背景だけは理解しておかねばならない理由がそこにある。
当時のルーマニアは経済的にもボロボロで、映画の中でも街灯はほとんどついておらず、車もあまり走っていない様子が描かれている。
オティリアが無賃乗車したバスの中で車掌が切符を確認しにきたので、あわてて見ず知らずの人にチケットを分けてくれるよう頼むシーンには驚いてしまう。
オティリアがケントなる銘柄のタバコにこだわるのが興味を引いた。

オティリアは彼氏の母親の誕生日パーティに同席するのには乗り気ではなかったのだが、そこでは親族の間でまったく興味のない会話が延々と続けられる。
もちろん見ている僕も興味が持てない内容で、何か意味のあるシーンとは思えなかったが、このシーンがやたらと長いのはオティリアの気持ちを観客に伝えるためだったと思う。
オティリアのイライラは最高潮に達していたのだろう。
ガビツァは堕胎に成功するが、この女の子は自分本位で僕もイラッとするところがあり、それはオティリアも同じ気持ちだったと思う。
彼女の為にオティリアは自分の体まで提供しているのだ。
その事をどう思っているのか、平然と食事をしてメニューを見る彼女に飽きれてしまうのだ、それが当たり前のように描かれていることが怖い世の中を表している。

夜を楽しく

2023-05-18 06:56:18 | 映画
「夜を楽しく」 1959年 アメリカ


監督 マイケル・ゴードン
出演 ロック・ハドソン ドリス・デイ トニー・ランドール
   セルマ・リッター マルセル・ダリオ リー・パトリック
   ニック・アダムス アレン・ジェンキンス ジュリア・ミード

ストーリー
室内装飾家のジャン・モロー(ドリス・デイ)が電話をかけようとすると、男が女と話しているのが聞こえた。
この共同線の色男は恋歌まで歌い出すのだ。
相手は歌謡曲の作者のブラッド・アレン(ロック・ハドソン)で顔は知らないけどしょっちゅう電話で女をくどく大変な女タラシでいやなヤツだ。
ジャンが電話局に抗議したが、局の女の苦情係はブラッドに苦もなく丸めこまれ、甲斐もなかった。
やむなく協定を結び、1時間を半分ずつ使用することにした。
ブラッドの友達ジョナサン(トニー・ランドール)は金持ちで、彼の歌曲を使うショーの金主で恋をしていた。
相手はジャンらしく、美人と聞かされてブラッドは興味を持った。
ジャンは得意先の富豪の息子トニー(ニック・アダムス)に誘われナイトクラブへ行くが、隣席に女ときていたのがブラッドだった。
彼は西部の純真な田舎者のレックス・ステットソンと名乗り、ジャンは本気で彼を信じた。
夜中に翌日のデイトを申し込んできたのが、共同線の相手とは知らなかった。
ジャンはジョナサンに自分の恋を打ち明け、彼がその相手を探偵に調べさせるとブラッドではないか。
ジョナサンはブラッドに自分の山荘で作曲に専念しろと命じたところ、ブラッドは抜け目なく彼女を一緒に連れていったので、気づいたジョナサンは後を追った。
山荘での2人は恋を打ち明け合ったが、楽譜から例の電話で恋歌を歌ういやらしい男がブラッドであることがジャンにバレ、その時山荘に着いたジョナサンが彼女を連れ帰った。
ブラッドはジャンの大酒のみの女中アルマ(セルマ・リッター)に酒をのませ、一策をさずかった。 


寸評
僕の従兄の家は母子家庭にもかかわらず裕福な家庭で、テレビや車を持ったのは村でも早かった。
テレビを村で一番最初に買ったのは別の家で、そこでテレビを見せてもらう為にお金を払った。
従兄は好きな番組を見ることもできないし、何よりお金を払って見ることに抵抗があり、テレビを購入してもらった。
テレビのある家としては村で二番目だった。
近所の子供たちが夕食を終えて集まってきたが、もちろん無料鑑賞である。
かれこれ7,8人が常時いただろうか。
夜9時までの開放だったが、住まわせてもらっていた僕は夜遅くまで見ることができた。
「ローハイド」も人気番組で、子供の僕には少しばかり敷居が高かったが、若かりし頃のクリント・イーストウッドをテレビ画面を通じて見ていたのだ。
電話を引いたのも早かったが共同回線だった。
個人回線が当たり前になり、さらに携帯電話が主流となった今では想像もできないのだが、この作品で描かれたようなことが実際に起きていたのだ。
相手が話し中の時には、こちらが使用できないし、そんなことがよくも許されたものだと思うが、相手の会話が聞けてしまうのだ。
それを聞かずに受話器を置くと言うのがマナーとなっていたが、緊急時は大変だったろう。
従兄の家ではそのような目には合わなかったようだが、まもなく回線が増加されて個人回線に切り替えられた。

映画は共同回線によって生じるトラブルを発端としているが、双方の様子を画面分割して楽しく見せる。
ドリス・デイがハイミスの室内装飾家に扮し、ロック・ハドソンはモテモテの独身貴族の作曲家である。
二人の電話が混線し、モテモテ男の彼へのコールがしょっちゅう彼女の電話に割り込む。
そんな奇妙な縁が、考え方もライフ・スタイルも極端に違う彼らを、いつしか結びつけてゆく筋運びは巧みである。
スタイルとしてはロマンチック・コメディで郷愁をそそる作りである。
ドリス・デイの歌声から始まるので最初からウキウキした気分になれる。
ブラッドがジョナサンとジャンに鉢合わせしないために産婦人科の部屋に飛び込んで起きるドタバタは、コメディ・タッチを上手く演出している。
ブラッドが産婦人科と知らずに病状説明する内容が産婦人科とマッチしていて可笑しいし、その後の先生と看護婦のやり取りがもっと可笑しい。
いつも酔っぱらっているアロマがユニークなキャラクターだし、アロマとエレベーター係りの老人とのやり取りも愉快なものがあり、作品の軽妙感に寄与している。
ドリス・デイはチャーミングな女優さんで僕は好きなタイプなのだが、その彼女が一方的にブラッドに恋しているように思えるのは少々不満である。
ロック・ハドソンのブラッドが最初はからかい半分ながら徐々に彼女に魅かれていく様子がもっと描かれても良かったように思う。
最後には彼の方が彼女を恋うる気持ちが強くなっていたと言う雰囲気がもっと出ていた方が良かったように思う。
ラストシーンが二人が結ばれたところではないことがロマンチック・コメディとしては当然だっただろう。
これと言った内容を持った作品ではないが、歌声も随所にあってリラックスして見る分には十分な作品である。

ヨーク軍曹

2023-05-17 08:04:27 | 映画
「ヨーク軍曹」 1941年 アメリカ


監督 ハワード・ホークス
出演 ゲイリー・クーパー ウォルター・ブレナン ジョーン・レスリー
   ジョージ・トビアス スタンリー・リッジス
   マーガレット・ワイチャーリイ ウォード・ボンド
   ノア・ビアリー・Jr ジューン・ロックハート

ストーリー
1916年アメリカ、テネシー州の田舎に住むヨーク(ゲイリー・クーパー)は農業で一家を支えていた。
彼は独身で、弟・妹・母(マーガレット・ワイチャーリイ)と四人暮らしだが苦しい生活を強いられていた。
酒や射撃でうっぷんを晴らすヨークだったが、グレイシー(ジョーン・レスリー)に恋をして一変する。
彼女と結婚するために、低地を手に入れようとしゃかりきに働き出した。
しかし戦争が始まり、アメリカがドイツに宣戦布告した(第一次世界大戦)。
パイル牧師(ウォルター・ブレナン)はヨークのために奔走したがかなわず、ヨークも戦争に行くことになった。
射撃訓練で抜群の腕を見せたヨークは伍長に抜擢されるがこれを拒否。
ヨークはいったん故郷へ帰された。
そこで自分が取るべき道をじっくり考えた彼は、再び隊に戻ることを選んだ。
アメリカ軍はフランスに渡った。
後に「ムーズ・アルゴンヌ攻勢」と呼ばれる戦闘において、ヨークは鬼神のごとき活躍を見せた。
なんと8人で132人ものドイツ兵士を捕虜にしたのである。
ヨークをのぞく米兵は捕虜の見張りをしていたので、実際にはヨーク一人の手柄のようなものである。
ヨークは全米のヒーローとなった。
映画、講演会、コマーシャル出演など、ひっきりなしに依頼が舞いこんだ。
しかしヨークはこれをすべて断わり、故郷に帰ることを選んだ。
ヨークはテネシーに帰った。
盛大な歓迎を受けた後、ヨークが戦争前に耕作していた土地を見に行くと、そこには新しい家が建っていた。
家も土地もテネシーの人々からの贈り物だという。 


寸評
時代背景があるとはいえ非常にアメリカ的な映画だし、アメリカ人好みの作品のような気がする。
主人公は荒くれ者だったが、ある時急に改心し敬虔なキリスト教徒となる。
教義に従い人を殺す戦争に反対して志願兵を拒絶し、兵役招集も拒否しようとするが、兵役免除申請は受け付けられず入隊することになる。
信仰心と国家の大義の狭間で悩み、故郷の岩山で自分を見つめなおす。
まるでキリストかブッダの修行の様でもあるが、傍らには聖書とアメリカの歴史という本がある。
やがて彼は聖書の中に「皇帝の者は皇帝のもとへ、神の者は神のもとへ」との言葉を見つけ、軍隊に戻っていく。
フランスの物はフランスへとでも言いたいのか、対ドイツ戦に参加していく。
殺人を拒否していた彼も、仲間の死を目の前にしてドイツ兵に発砲、射殺する。
彼等を殺さなければ、さらに多くの人命が奪われてしまうからというのが彼の論理であった。
なんだ、まるで広島、長崎への原爆投下と同じ理屈ではないか。
この辺にはアメリカ人の自分たちにとってのご都合主義を感じる。

全体的には間延び感を感じるところもあるが、都会と田舎の格差や、ヨークの暮している地方の雰囲気などを丁寧に描いていたと思う。
ヨークは地下鉄を理解できないでいるが、狩猟を通じた銃の扱いには長けていて軍隊では一目置かれる。
牧師の言う「信仰心は静かにやってくる、あるいは突然やってくる」という言葉であるとか、射撃大会での七面鳥を撃つことであるとか、伏線も随所に張られていて映画らしい体裁を整えている。
CG(コンピュータグラフィックス)などはない時代なので、戦闘場面はエキストラによるものだと思うが、俯瞰シーンやアップを組み合わせて迫力を生み出している。
CG処理を見慣れてしまった今、再見するとノスタルジックでありながらも意外とリアリティを感じる。
戦闘シーンでヨーク以外の主だった仲間が戦死していくのは、映画的な盛り上げ方としてもオーソドックスだし、引く手あまたのヒーローとなってからの誘いに「戻ることが出来なかった仲間もいるから、戦争でのことを金儲けにはしたくない」と拒絶するのも、ヒーロー作品としては当然の脚本で、ここでもオーソドックスな処理を行っている。
実に安心して見ることが出来る作品になっている。

ヨークの活躍は人づてに伝わる内に、話がだんだんと大きくなっていく。
ヒーロー伝説はそのようなものなのだろうと思う。
ヨークはフランスのみならず米国からも戦争におけるヒーローとして勲章を授けられ、都会での大パレードで迎えられるが、戦争ではこのようなヒーローが、洋の東西を問わず生み出されることが不思議である。
大金を得るチャンスを捨ててヨークは田舎へ帰り、恋人のグレイシーに結婚式しかあげるものがないが、これから働かねばならないから何年か待ってもらわなければならないと告げる。
ところが第一次大戦における大ヒーローであるヨークにテネシー州が農地と新居を提供してくれていた。
誠にアメリカ的な結末で、観客のだれもがホッとする。
日本でいえば文部省推薦映画と呼べるような作品だ。
アカデミー賞への多部門ノミネートが納得できる作品でもある。