おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

歓待

2019-03-31 10:16:20 | 映画
「歓待」 2010年 日本


監督 深田晃司
出演 山内健司 杉野希妃 古舘寛治
   ブライアリー・ロング
   オノ・エリコ 兵藤公美

ストーリー
東京の下町。
夏の光に照り返る大きな河川を抱く工場地帯の一角で、小林印刷は今日も輪転機の音を響かせている。
小林幹夫(山内健司)は、若い妻・夏希(杉野希妃)と前妻の娘・エリコ(オノ・エリコ)、出戻りの妹・清子(兵藤清子)と暮らしながらこの印刷屋を営んでいる。
勤勉に働く家族の最近のもっぱらの事件は、エリコの飼っていたインコのピーちゃんが逃げてしまったことぐらいである。
そんなある日、かつて小林印刷に資金援助をしていた資産家の息子と名乗る男、加川花太郎(古舘寛治)が不意に訪れる。
加川は低姿勢で印刷の仕事を手伝いながら小林家に住み込みで居ついてしまう。
ある日、加川の結婚相手だというアナベル(ブライアリー・ロング)がやって来て、夫婦だということで彼女も小林家に同居することになってしまう。
やがてひょんなことから加川はある男を小林印刷で雇い入れようとする。
幹夫は拒絶するが、加川に後ろめたいことが発生していて断ることが出来ない。
不満がたまってきた夏希はある日、無断外泊をした。
そんなある日、アナベルの友人だと言う外国人が大挙してやって来て、観光客なのでしばらく泊めてやってほしいと言われるのだが、国籍はバラバラでご近所からは不審の目で見られる。
加川は小川家の内部へすっかり入り込み、夫妻のゆるやかな日常は加川とその招来客によってにわかに崩れ始めていく……。


寸評
住居の片隅で営まれている小林印刷は小さな印刷屋で、人間関係がよくわからないまま小林家の人間が登場してくる。
若い夏希が清子(せいこ)さんと呼んでいるので、清子は幹夫の奥さんで、夏希は幹夫の妹かと思っていた。
従って夏希が面倒みているエリコは夫婦の子供だと思って見ていたのだが、幹夫は前妻に逃げられており、若くて美人の夏希が後妻でエリコは幹夫と前妻との間に出来た子だということがわかる。
清子は結婚後すぐに別れて帰ってきていることも判明する。
前妻は近くに住んでいるらしく、幹夫とバッタリ会ったりするし、エリコも前妻のところでご飯を食べたりしている。
複雑な一家なのだが、それでもめ事が起こるでもなく、いたって平和な家庭だ。
それは幹夫のおっとりとした性格によるものでもあるだろうし、若いながらも心配りを見せる夏希の努力によって維持されていると言ってもいい。

幹夫が印刷屋を開業するときに資金提供してくれた人の息子と言う加川花太郎が現れてから、話が急展開し小林家がひどいことになっていく。
その様が大いに笑えるのだが、一歩引いてみると家族の在り方だとか不法移民問題なんかを投げかけているようにも思えてくる。
兎に角、加川というキャラクターがユニーク過ぎて笑いを誘う。
優しい物言いなのだが、やることはいい加減すぎるし、ずうずうしいし、押しが強い男だ。
物事の解決能力は備えているらしく、役所から印刷の仕事を随分と持ち帰ってくるし、夏希がかかえる問題も解決してやったりするのである。
それで終わればいいのだが、この男はそれに付け込んで迷惑することを持ち込んでくる。
妻だというアナベルも怪しげで、夫婦にはブラジル出身だと言うが、別の人間にはボスニアだと言ったりする。
英語が分からないと言っていた加川が実は流ちょうな英語が話せたりするから、観客である僕たちもますます不審な人物だと感じるようになる。
ハニートラップの様な出来事と、それを眺める加川とその解決策が笑わせる。

夏希は英語をエリコに教えていているのだが、アナベルがネイティブな発音で指導しだし、主客転倒してしまっているのは幹夫と加川だけではないと見せつける。
とんでもない事件が起こって、結局元の小林家に戻るのだが、迷惑すぎる大量の異邦人の“歓待”を経たことで2人の絆がより深まったという印象を残す。
幹夫が夏希にビンタをくらわし、夏希も幹夫にビンタをくらわすシーンがあるが、あれはお互いに相手の不義を分かっていたのだが、それでもこの家に居続けると言う証でもあったと思う。
何も起きない平穏な日常と言うのは退屈かもしれないが、一番幸せなことなのかもしれない。
最後はもっと滅茶苦茶になるのかと思ったけど、案外とまともだと感じたのは、小林家が壊れなかったためだろう。
小林家が破滅で終わるパターンも見てみたい気がしたエンディングだった。
幹夫と夏希、異邦人たち、清子やエリコ、相手の心のうちが読めない他人と一緒に生活の場を作っていくにはどうすればよいかという苦闘を描いた作品でもあった。

ガンジー

2019-03-30 10:44:10 | 映画
「ガンジー」 1982年 イギリス / インド


監督 リチャード・アッテンボロー
出演 ベン・キングズレー キャンディス・バーゲン
   ジョン・ギールグッド マーティン・シーン
   エドワード・フォックス トレヴァー・ハワード
   ジョン・ミルズ ダニエル・デイ=ルイス

ストーリー
南アフリカ、1893年。皮膚の浅黒い一人の青年紳士が列車の一等車に乗っていたため放り出された。
この人種差別に、青年は激しい怒りを覚えた。青年の名はモハンダス・K・ガンジー。
彼はインド人移民に呼びかけて、身分証明カードを焼き拾てることを提唱する。
ガンジーは暴力を用いずに闘うことを信条とし、“生涯禁欲”の誓いを立て、アシュラム(共同農園)を建設。
1915年ボンベイに戻ったガンジーはインド国民から英雄として迎えられた。
インドの指導的立場にある人々はイギリスからの独立を願っており、その中には後に首相となるネールもいた。
ガンジーはチャンパランという寒村で小作人の権利を守るため地主と闘い逮捕された。
ガンジーは逮捕されたが、今や“マハトマ(偉大なる魂)”と呼ばれ、全国民の精神的支柱となった彼を裁判にかけることは不可能だった。
やがて第二次大戦が勃発。戦争に反対するガンジーは、アガーカーン宮殿に収容された。
独立を目前にしたインドだったが、回教徒はヒンズー教徒と袂を分かち、1947年8月、アリ・ジンナーを指導者としてパキスタンを建国したが、そのため、国境を中心として両教徒の間で衝突が激化、内戦状態になった。
これを悲しんだガンジーは、カルカッタで断食を行ない、民衆に武器を捨てさせることに成功した。
1948年1月30日。マハトマ・ガンジーは、デリーで夕べの祈りをしている時、ヒンズー教極右派のヴィナヤク・N・ゴードセーによって暗殺された。
時にガンジー78歳。葬儀には250万を越える人々が集まり、遺灰は聖なるガンジス川に流された。


寸評
僕が小学生の頃には1週間に1度図書の時間というのがあり、学校の図書室での読書を義務付けられていた。
伝記物が人気の読み物で、ガンジーはその中の一冊として伝記物コーナーに並んでいた。
非暴力でインド独立を果たしたということで、学校での教材としても都合がよかったのかもしれない。
僕の脳裏にインド人として思い浮かぶのは、映画監督のサタジット・レイと、ここで描かれたマハトマ・ガンジー、盟友のネール首相ぐらいである。
教育の中でそうなったのかどうかわからないけれど、僕の少年時代にはガンジーとネール首相は思い浮かぶ外国人の名前で抜きん出ていた。
作品はそのマハトマ・ガンジーの伝記映画である。
伝記映画は見世物としてエピソードを紡いでいて、主人公のすべてを描いているわけではない。
しかし概ね事実と思われる主要な出来事を描いてくれているので、歴史上の人物を知るには都合がよい。
知らなかったことを知る機会も提供してくれている。
そうしたジャンルの作品として「ガンジー」は重厚にして見ごたえ十分な作品となっている。

ガンジーが南アフリカのアパルトヘイトと戦っていたことを初めて知った(お恥ずかしい)。
ガンジーはロンドンで学んだ弁護士として南アフリカのダーバンへ渡って来たのだが、そこでいつも乗っている一等への乗車を拒否されアパルトヘイトの現実を知る。
正義感に燃える彼はそこで抵抗運動に身を投じていくのだが、イギリス人牧師アンドリューズ(イアン・チャールソン)が彼に協力するのが歴史の引き合わせを思い起こされる。
当時の南アフリカはイギリスの統治下にあったのだが、支配するイギリス側にも開明的な人はいたということだ。
同様に、取材にあたるニューヨーク・タイムズの記者ウォーカー(マーティン・シーン)の存在もガンジーを救う。
二人の存在で、白人社会にもガンジーを支持する人々は居たのだとわかる。
南アフリカでの活躍を引っ提げてインドに戻ってきたガンジーなのだが、演じたベン・キングズレーが肖像写真で見るガンジーに瓜二つなことに驚かされる。
インドロケではガンジーが生き返って来たと思われて駆け寄る人がいたという話も聞いたのだが、さもありなんだ。
イギリス人俳優のベン・キングズレーはこの作品で、アカデミー主演男優賞を初め、数多くの映画賞を受賞したのだが、彼がガンジーの外見と仕草を完全なまでに模倣していることが大きな魅力となっていることは確かだ。
スクリーンに現れたガンジーは、役者が演じているガンジーではなく、正にガンジーその人だった。
ガンジーは非暴力、不服従で大英帝国に挑んでいく。
「塩の行進」と称されるイギリスの塩税に抗議した運動も描かれるが、僕が興味を持ったのは宗教問題である。
インドはイギリスからの独立を果たすが、イスラム教徒とヒンズー教徒の対立が勃発する。
民族に宗教が絡むと統治が難しいことがうかがえる。
インドとパキスタンに別れた経緯、パキスタンがインドの東西に分離している国家になった経緯も知る事となる。
両派の対立はガンジーの断食によって何とか終焉を迎えるが、現在のインドとパキスタンは犬猿の仲である。
ガンジーは現在の状況をどう見ているのだろう。
パキスタンに行こうとしたガンジーはヒンズー教の原理主義者によって暗殺されてしまう。
瀕死のガンジーが自らの額に手を当てた仕草はイスラム教で「あなたを許す」という意味だったと聞く。

川の底からこんにちは

2019-03-29 08:13:49 | 映画
「川の底からこんにちは」 2009年 日本


監督 石井裕也
出演 満島ひかり 遠藤雅 相原綺羅
   志賀廣太郎 岩松了 並樹史朗
   稲川実代子 菅間勇 猪股俊明

ストーリー
上京して5年目のOL・木村佐和子(満島ひかり)は、職場の上司・新井健一(遠藤雅)と付き合っている。
バツイチで娘・加代子(相原綺羅)がいる健一は頼りないが、いつも男に捨てられてきた佐和子は不満に感じることもなく、すべてに妥協の人生を歩んでいた。
ある休日、3人は動物園を訪れる。
そこで健一は佐和子にプロポーズするが、唐突なことで佐和子は戸惑う。
そのとき、佐和子の叔父・信夫(岩松了)から、佐和子の父・忠男(志賀廣太郎)が入院したと電話が入る。
一人娘の佐和子は実家のしじみ工場を継ぐよう求められるが、佐和子は決心がつかなかった。
しかし健一は会社を辞め、佐和子の故郷で工場を一緒に継ぎたいと言い出す。
そして、エコにかぶれた健一が田舎暮らしへの憧れを理由にはなしをどんどん進めてしまう。
佐和子は健一と加代子を連れ、実家に帰る。
しじみ工場の従業員のおばちゃんたちは、駆け落ちして父を捨てた佐和子を無視する。
経理の遠藤(菅間勇)以外やる気を感じられない工場の経営は、悪化の一途をたどっていた。
健一は佐和子の幼なじみの友美(鈴木なつみ)と浮気をして、家を出ていく。
ある朝、佐和子は工場に乗り込み、おばちゃんたちに胸の内をぶちまける。
するとおばちゃんたちも、男で失敗した経験を打ち明け始める。
意気投合した佐和子とおばちゃんたちは、工場の経営再建を目指す。
佐和子は新しい社歌を作り、毎朝全員で歌うようになる。
すると、次第にしじみの売り上げも上がっていく。


寸評
タイトルが出るまでに主人公佐和子の置かれている状況と性格が要領よく説明される。
冒頭のこのシーンが傑作で、この映画の雰囲気を上手く伝えている。
佐和子は東京に出てきて5年目で、5つ目の仕事についていて、5人目の彼氏と付き合っている。
勤務中の息抜きで湯沸し場やトイレで同僚の二人と何てことのない雑談をやっているのだが、そこでは「しょうがないですよね」を連発する。
景気が悪いと言っては「しょうがないですよね」、温暖化を嘆いてみせても「しょうがないですよね」と呟く無気力女である。
トイレでは付き合っている同じ会社の新井課長をけなされても「どうせ私は中の下ですから」「胸が小さいから、しょうがないです」と言い、同僚からは「何それ?」と呆れ返られる存在だ。
それでもストレスはあるらしく便秘の吸引治療を受けているのだが、この先生とのやりとりも漫才のかけ合いみたいで笑わせる。
いやあ~、この導入部は実に面白い。

「しょうがない」と共にもうひとつ盛んに登場するアジテーションが「どうせ中の下ですから」という開き直りの言葉。
中の上意識を持つ圧倒的多数の人々に対する投げつけだと思う。
自分自身が実績もないので、それを認めたくないばかりに”中の下”を標榜する者たちを一蹴している。
私の中にもそれに同調するような所がって、「どうせ私は中の下ですから。だから頑張るしかないっしょ!」と叫ぶヒロインを応援したくなってしまう。
佐和子は父親の病状を聞いてバスの中で涙をこぼすが、自分が泣いていることに気がつかないピュアな面を持ち合わせているのだが、それが上手く表現できないでいる。
連れ子のことを説明するのが面倒になって「説明が面倒だから私の子供でいいです」と言ってしまう投げやりなところもあるのだが、開き直った強さも持ち合わせている可愛げな女だ。
ダメ人間が会社を立て直すのはよくあるパターンの設定だけれど、それを大上段に構えて単なる感動編に仕上げていないところがいい。

登場する人物たちは端役に至るまで実に個性的でマンガチックですらある。
それなのに見ていくうちに出演者が漫画的でなく、生き生きとした存在感のある人々に思えてくる。
ギャグが満載なのも僕好みで大いに笑える。
ヒロインの佐和子を演じる満島ひかりさんは、「悪人」で超嫌味な女を演じていたが、久しぶりに見る性格俳優だ。
余談だが、撮影後にこの女優さんを嫁さんにした石井監督は大物になるかもしれない。
先輩には女優さんを嫁さんにした立派な監督さんが大勢おられますから・・・。
いや、余談、余談。
素人っぽい雰囲気を出すオバチャン役の人たちは皆劇団の役者さんらしいのだが、このガンコなおばちゃんたちが滅法面白い存在だった。 石井裕也の作詞になる木村水産社歌にも大爆笑。
お父さんも伯父さんも、おばちゃん達も、みんなみんないい人たちだったなあ。
最後に叫ぶ「おとうさーん!」に僕は泣いてしまいました。

カルメン純情す

2019-03-28 09:36:50 | 映画
「カルメン純情す」 1952年 日本


監督 木下恵介
出演 高峰秀子  若原雅夫 淡島千景
   小林トシ子 斎藤達雄 東山千栄子

ストーリー
浅草のストリッパー、カルメン(高峰秀子)のもとに男に捨てられた旧友朱実(小林トシ子)が赤ん坊を抱いて舞込んできたのだが、善処のめどもつかないまま、二人は泣きの涙で赤ん坊を捨てた。
ところが、折からの火事騒ぎで急に心配になり、引返してくる。
ちょうどパリ帰りの芸術家須藤(若原雅夫)が、家の前の捨て子を昔の情婦レイ子(北原三枝)の仕業と思いこみ、カンカンになって電話で相手を難詰している最中だった。
須藤と知合ったカルメンはその不可解な様式の作品に大感激し、やがて尊敬がほのかな慕情に変わる。
須藤にモデルを頼まれても裸になれない彼女だった。
須藤は代議士候補佐竹熊子女史の娘、アプレ派の千鳥(淡島千景)と、三百万円の持参金目当に婚約しているが、ある日下情視察と称する熊子女史(三好栄子)を案内してストリップ小屋に現れた。
客席に恋しい人を見出したカルメンは、どうしても裸になれず、ついにクビを言渡された。
朱実と共に日雇仕事を転々して今はラッキー食堂に勤めているカルメンの所へ、千鳥、須藤の結婚を呪う手紙の主と誤解した熊子女史が怒鳴りこんでくる。
あまりにも真剣なその様子を須藤が自分を愛しているためと勘ちがいした彼女は、千鳥に恋を譲り、幸福に微笑みながら迫る生活苦と闘うのだった。


寸評
驚かされるのは画面のほとんどが傾いていることである。
正位置の画面は全くと言っていいほどなくて、たまに傾いていない画面に出くわすと何故なんだと思ってしまう。
高峰秀子のリリー・カルメンと小林トシ子の朱実が登場するので前作の続編なのだろうが、話の内容も雰囲気も描き方も全く違っていて、別の一遍ととらえたほうが良いような作品である。

特徴づけているのは傾けた画面構成なのだが、さらに特異にしているのが三好栄子演じる佐竹熊子の登場だ。
熊子は陸軍中将の未亡人で、軍隊上がりの男が召使として居るし、胸に日の丸をつけている超右寄りの女だ。
日本が自立するためには再軍備が必要だと説いて議員を目指している。
戦後武力を放棄していた日本が、米国指導とは言いながらも警察予備隊が自衛隊へと移ろうとしていたし、戦犯たちも公職追放が解かれ復権を果たし始めていた時期での制作だから、この佐竹熊子は逆に再軍備への警鐘的存在となっている。
おそらく当時としてはかなり先走ったものだったのだろうが、今見るととてもタイムリーなものに思えてくる。
中国、北朝鮮の脅威に備えた軍備増強や、米国に対する集団的自衛権などと言うものが台頭し始めているし、何よりも自衛隊は世界有数の実質的軍隊だと自負できるまでになっているのだ。

一方で朱実に子供を産ませながら捨て去った、いい加減無責任なエセアカの男も登場させて政治不信をにおわせていて、非常にブラックユーモアの効いた作品となっている。
これらに対比する形で存在しているのがカルメンと朱見と言うストリッパーである。
彼女たちは自分たちは芸術家だと思っている少々バカな女なので、やることはすべて滑稽じみている。
しかし、根はお人好しで、気持ちは善意に満ち溢れている。
当然木下はこの二人を応援している。

カルメンは捨て子騒動で知り合った芸術家の須藤に恋をする。
捨て子が須藤の女であった北原三枝の子供と勘違いされたり、彼女の手紙も取り違えられたりして思いの行き違いが生じるがカルメンは精一杯の愛情表現を行う。
(日活時代しか知らない僕はこの頃の北原三枝を見ることが出来るのは嬉しい)
パリ帰りの須藤は金目当てに佐竹熊子の娘である千鳥と結婚しようとしているのだが、淡島千景演じるこの千鳥は男遊びが尽きない女で、自宅にも次々と男を招き入れているのだが、須藤はお互い様の事だと黙認している。
須藤と千鳥に比べればカルメンの愛も、朱実の愛も極めて純真なものである。
ストリップショーに出演しているカルメンは愛する須藤の前で裸になれずクビになってしまう。
それでも彼女たちはお互いを支え合って生きていこうとしている。
子供を協力し合って育てていこうとしている。
木下は須藤や千鳥のブルジョア階級よりも、右翼思想を振りまく佐竹熊子よりも、断然カルメン、朱実という最下層の庶民を応援して「がんばれカルメン」と声援を送っている。
彼女たちこそ戦後民主主義の申し子であり、働く女性の先駆者だったのだ。

僕は日本初の総天然色映画として映画史に残る前年度の「カルメン故郷に帰る」よりこちらの方が好きだ。

花様年華

2019-03-27 09:44:22 | 映画
「花様年華」 2000年 香港


監督 ウォン・カーウァイ
出演 トニー・レオン マギー・チャン スー・ピンラン
   レベッカ・パン ライ・チン

ストーリー
1962年、香港。
新聞記者のチャウ(トニー・レオン)と、商社でホウ社長(ライ・チン)の秘書として働くチャン(マギー・チャン)は、同じ日に同じアパートへと越してきて隣人となった。
ふたりとも忙しく、夫や妻とはすれ違いが多かった。
大家のスーエン夫人(レベッカ・パン)の仲立ちもあり親しくなる二人だが、ある日、一緒に昼食を取った際、お互いの伴侶が不倫関係にあることを知ってしまう。
それ以来、二人は頻繁に密会するようになり、やがて愛が芽生える。
しかしそれを禁じられた愛とする彼らの間には重苦しい空気が漂いはじめ、まもなくチャウはピン(スー・ピンラン)の仕事を手伝うためにシンガポールへと旅立つ。
1966年。
息子を連れたチャンがスーエン夫人に会いにくる。
同じ頃、チャウも香港を訪れるが、すれ違いに終わった。
そしてカンボジア。
仕事で当地を訪れていたチャウは、アンコールワットの壁の穴に自らの秘めた思いをつぶやいて去っていくのだった。


寸評
ノスタルジックな色調と、バイオリンで奏でられるマイケル・ガラッソの音楽が見事なアンサンブルを見せる。
ナット・キング・コールの名唱が効果的に挿入されて、本物の感情を呼び起こされる。
香港映画にしてこの雰囲気の作品が撮れることに驚愕した。
描かれるのは成熟した大人の禁断の愛で、主演のトニー・レオンとマギー・チャンが見事な演技を見せている。

トニー・レオンが感情を押さえながら煙草を喫う仕草に惚れ惚れするし、煙草は雰囲気を出すための重要な小道具であることを認識させられ、昨今の禁煙ムードによる煙草排斥を寂しく思う。
マギ-・チャンは飛び切りの美人とは思わないが、ほっそりとした肢体をチャイナドレスに包んで色香を漂わせるその姿はやはり魅力的だ。
二人が住むアパートはとても高級とは言えない。
そんなアパートに出入りするマギー・チャンのチャイナドレスは不似合いなほどきらびやかである。
麺を買いに出るだけなのにあの服装はおかしいと劇中でも語られるが、それほどの色香を醸し出している。
僕たちがチャイナドレスに抱くイメージがそう思わせるのかもしれない。

チャウの妻とチャンの夫の声は聞こえるが姿は写らない。
あくまでもチャウとチャンの関係に焦点を当て続ける。
二人はそれぞれの夫と妻が不倫関係にあることを知るが、それでも彼等の夫と妻の顔は僕らには分からない。
やがてお互いの伴侶に浮気されている二人が親密になっていくが、肉体的に結ばれることはない。
お互いの恋心を感じながらも「自分達にやましいことはない」と精神的なつながりを続けている。
しかし、一目会いたい、一言声を聞きたいと思いは募るばかりである。
節度ある大人の恋なのだが青春の恋に通じるものがある。

チャンが秘書を務めるホウ社長も浮気をしているようで、言って見ればこれは不倫物語である。
それをこの映画では抑制的に描き、ベッドシーンは登場しないし、二人をそのような関係にさせていない。
そうすることで燃え上がる情念をより一層情緒的に描き出すことに成功している。
「女は顔を伏せ 近づく機会を与えるが、 男には勇気がなく女は去る」とのテロップが入るが、まさにこれは狂おしいばかりの恋心を持ちながら、一歩踏み出せなかったばかりに得ることが出来なかった恋の成就を描いている。
この感覚、あるいはそんな思い出は誰しもが有しているものではなかろうか。
「男は過ぎ去った年月を思い起こす。 埃で汚れたガラス越しに見るかのように、 過去は見るだけで触ることはできない。 見える物はすべて幻のようにぼんやりと」とのテロップも入る。
あの時の出来事はすべてガラスの向こう側の出来事だったのだろうか。
そうだとすれば、あの時目の前のガラスを割ることをしていれば自分の人生は違っていただろうとの思いだ。
チャウは「誰もが人に語れない秘密を持っている。昔の人は森に行って木に穴をあけ、その穴に秘密を語り土でその穴をふさいだ。そうすれば誰にも聞かれることない」と友人のピンに語る。
そしてチャウは、アンコールワットの壁の穴に自らの秘めた思いをつぶやくが、伴侶を得た者にとって過去のそのような思いは穴に閉じ込めることはしなくても、自分の胸に押しとどめ墓場まで持っていくべきものなのだと思う。

かもめ食堂

2019-03-26 10:55:30 | 映画
「かもめ食堂」 2005年 日本


監督 荻上直子
出演 小林聡美 片桐はいり もたいまさこ
   ヤルッコ・ニエミ タリア・マルクス
   マルック・ペルトラ

ストーリー
夏のある日、ヘルシンキの街角に日本人女性のサチエ(小林聡美 )が店主の小さな食堂がオープンした。
献立はシンプルで美味しいものを、と考えるサチエは、メインメニューをおにぎりにした。
客はなかなかやってこないが、それでもサチエは毎日食器をぴかぴかに磨き、夕方になるとプールで泳ぎ、家に帰ると食事を作る。
そんなある日、ついに初めてのお客さんの青年トンミ(ヤルッコ・ニエミ)がやってきた。
その日の夕方、サチエは書店のカフェで、難しい顔をして『ムーミン谷の夏まつり』を読んでいる日本人女性ミドリ(片桐はいり )に声をかける。
フィンランドは初めてというミドリの話に何かを感じたサチエは、自分の家に泊まるようすすめる。
そして、ミドリはかもめ食堂を手伝い始める。
そんな頃、またひとり、訳ありげな女性、マサコ(もたいまさこ)がヘルシンキのヴァンター空港に降り立った。
スーツケースが運ばれてこないために、毎日空港へ確認に行かなければいけないマサコもまた、かもめ食堂を手伝うようになる。
サチエの「かもめ食堂」は次第に人気が出はじめ、日々は穏やかに過ぎてゆくのだった。


寸評
フィンランドの観光映画ではないけれど、それでもフィンランドを訪ねてみたくなるような映画だ。
フィンランドといえば、森と湖の国というイメージがあるが、その国を舞台設定に選んだのがいい。
森と湖という大自然を描いたシーンはほとんどないが、空気だけでいかにものんびりした感じがしてくる映画だ。
これが日本だとそうはいかなかったのではないかと思うくらい雰囲気作りに成功している。
公私において自分の周りに起きているわずらわしさと言うか、生きていく為の必要事項というのか、そんなものから開放された時間を感じさせてくれた。

それぞれにちょっとしたエピソードを持つ人々が登場するが、大きな事件を起こすわけでもなく、文字通りちょっとした出来事を起こす人々として通り過ぎていく。
その平々凡々な時間の中で凛として生きるサチエさんにすごく共感してしまう。
なくしてしまった大切なものを取り戻せるような生き方なのかもしれない。

島田珠代(吉本所属)と片岡鶴太郎を足して2で割ったような片桐はいりのキャスティングが絶妙だ。
「もしも明日から私がいなくなれば淋しいですか?やっぱり淋しくないんだ・・・」とか「最後の晩餐には必ず呼んでくださいよ・・・」などというセリフが彼女の持つ雰囲気にマッチしていて面白かった。
小林聡美、片桐はいり、もたいまさこという3人の個性が、スローで、コミカルで、飄々としていて絶妙のハーモニーを奏でていた。
三人の日本人女性には何か心に秘めたものがありそうなのだが、あえてそれを深く追求することはしていない。
「この町に来る人は、みんな癒されて元気になるんだヨ」というところに凝縮している。
このあたりの持っていき方が見事だ。
そのひとことで納得させられてしまうのだ。

前半は店がガラガラということで、料理もあまり登場せずにコーヒーばかりなのだが、後半になるにしたがって、美味しそうな料理がたくさん登場してくる。
スゴイと叫びたくなる食べたことのない豪華な料理ではなく、おにぎりに代表されるような手短な料理なので、余計にその味が想像できて美味しそうに見える。
おにぎりが繁盛メニューになって欲しかったけど、舞台がフィンランドだからチョット無理だったのかなあ・・・。

冗長なシーンが多く、何てことない映画なのに、映画館を出る時はすごく満足感と幸せ感をもたらせてくれた。
ある種の癒し系映画で、こじんまりとした映画だったけど、映画館で見てよかったと感じた映画だった。
僕はこのような雰囲気の映画は初めてで、その作風をとても新鮮に感じた。
その新鮮さも作品の評価をあげた作品だった。
この作品が持っていた独特の間と呼べるものは、この監督の作風なのかもしれないなと感じた。
ラストシーンの「いらっしゃいませ!」と叫ぶ小林聡美さんの声の張りと表情に「役者さんってすごいなー」と感心してしまった。

ガメラ2 レギオン襲来

2019-03-25 14:57:24 | 映画
「ガメラ2 レギオン襲来」 1996年 日本


監督 金子修介
出演 永島敏行 水野美紀 石橋保 吹越満
   藤谷文子 川津祐介 沖田浩之
   田口トモロヲ 大河内浩 梶原善
   養老孟司 徳間康快 福留功男
   螢雪次朗 長谷川初範 渡辺裕之
   ラサール石井 角替和枝 ベンガル

ストーリー
突如地球に降り注ぐ流星雨。
だが北海道支笏湖付近に墜落した隕石はクレーターだけを残しその形跡を消していた。
生物汚染を危惧する自衛隊化学学校の渡良瀬と花谷は追跡調査を続けるが、工場から大量の瓶が消失している事件に遭遇する。
何かが支笏湖から札幌に向かって移動しているらしい。
その時、地下鉄構内で巨大な昆虫によって乗客が襲われる事件が発生それが、隕石に付着していた宇宙からの生命体である事が判明し、時同じくして付近のビルの中から巨大な花が出現した。
群れ成すものを意味するレギオンと名付けられた昆虫を一掃する爆破作戦が開始されたのだが・・・。


寸評
今回ガメラと戦う新怪獣の名はレギオン。
シリコンを活力源に巨大草体と共生しながら爆発的に繁殖してゆく宇宙生物だ。
本作はガメラとレギオンの戦いを描いているが、レギオンとは何かを解明することに時間が費やされている。
レギオンは働きバチのような小型レギオンたちと女王バチのような巨大レギオンと彼らが共生関係にある草体をひとくくりにした生態系そのものと言える。
地球の生態系を壊そうとするレギオンを地球の守り神ともいえるガメラは許さない。
それは環境破壊を通じて地球の生態系を壊しているかもしれない我々への警告でもある。
ラストで穂波碧の水野美紀がそのことを指摘し、我々がガメラと戦うことになったら嫌ですねといったようなことを述べているのがその証だ。

本作が素晴らしいのは、絵空事ながらも理論理屈があって劇中できれいに説明されていくことだ。
あたかもジグソーパズルのピースがピタリとはまっていくような爽快感がある。
レギオンが北海道を飛び去った後、穂波(水野美紀)の部屋に渡良瀬(永島敏行)と帯津(吹越満)が集まって以下のような会話を繰り広げる。
「レギオンの体組織が半導体にそっくり」 → 「半導体はシリコンで出来ている」 → 「シリコンは土を分解して生成」 → 「その過程で酸素が発生する」 → 「レギオンは酸素を発生させることで草体を育て、同時に地球の生態系を狂わせるつもりか」 → 「シリコンをエサにしているからレギオンの体は半導体みたいな組織に進化したのだろう」 → 「この体の構造だと、レギオンは電磁波でコミュニケーションしているのかも」 → 「だから電磁波の強い場所を狙って攻撃してくるのか」 → 「もしそうなら、レギオンは大都市を目指す可能性が高い」
う~ん、なるほどと納得させられてしまうのだ。
冒頭でのキリンビールの倉庫でビール瓶が食べられ、地下鉄で襲われた人のメガネのレンズがない理由も説明されることとなる。

導入部で謎が示され、地下鉄で異変が起きる。
地下鉄での出来事は的確に描かれ、それからの展開は実にスピーディだ。
ストップモーションなども挟みながら話を進めていく。
そして今回も自衛隊の協力で本物の兵器が登場していて、レギオンを迎撃するための動きにリアリティがある。
自衛隊の基地内に電話ボックスや道路標識を設置して市街地を作り出し、戦車を走行させる凝りようだ。
輸送ヘリなども本物だけに状況が生々しく、臨場感バツグンである。

僕たちはガメラが人類を守る味方だと知っているが、自衛隊はそのことを信じていない。
やがて自衛隊の指揮官も、ガメラが自分たちと同じようにレギオンの進撃を食い止めていることに気付く。
そしてガメラ、自衛隊、穂波や帯津などの民間人が協力して、地球の生態系を守るための戦いをすることとなり、自分たちが阻止できなかったレギオンをガメラが退治し去っていくというヒーローものとなっている。
実に上手い組み立てだ。
特撮技術もパワーアップし、日本映画における怪獣映画の金字塔の一つだろう。

ガメラ 大怪獣空中決戦

2019-03-24 09:53:35 | 映画
「ガメラ 大怪獣空中決戦」 1995年 日本


監督 金子修介
出演 藤谷文子 小野寺昭 中山忍 伊原剛志
   本田博太郎 螢雪次朗 長谷川初範
   本郷功次郎 久保明 渡辺裕之
   松尾貴史 袴田吉彦 夏木ゆたか

ストーリー
プルトニウム輸送船「海竜丸」の警護にあたっていた海上保安庁の巡視船に、「海竜丸」が座礁したとの連絡が入ったが、環礁はまもなくまるで生き物のように「海竜丸」から離れて行った。
その頃、福岡市の動物園に勤める鳥類学者・真弓が五島列島の姫神島で見たものは、巨大な鳥によって破壊しつくされた島の変わり果てた姿だった。
その後の調査により、人を食糧としている巨大な謎の鳥型生物3匹が生息していることが判明。
事態を重く見た内閣は鳥を捕獲することを決定した。
一方、「海竜丸」の座礁事件の謎を追う保安庁の米森は、海上保険会社の草薙を頼って調査船に乗り込む。
太平洋上で環礁を発見し上陸した米森たちは、不思議な金属片と、碑文の書かれた大きな石碑を見つける。
その瞬間、環礁は再び生き物のように動き出し、海中に投げ出された米森は海中で環礁の正体が巨大な亀の形をした生物だと知った。
巨大鳥捕獲のためにかりだされた真弓は、福岡ドームに罠を仕掛け、鳥の飛来を待った。
3匹の鳥はドーム内の餌に食らいつき、まんまと作戦に嵌まったように見えたのだったが、狙撃隊の発砲が一瞬早かったために鳥が暴れ出し、ドーム内はパニックに陥る。
そこへ、あの環礁と思われていた生物が正体を現して飛来して来た。
亀の恰好をしたその巨大生物は、鳥の1匹を殺すと、逃げて行く他の2匹を追って、ジェット噴射を噴き出して空の彼方へ消えた・・・。


寸評
いわゆる怪獣映画だが、従来の子供向け怪獣バトルだけではない大人も楽しめる怪獣映画となっている。
自衛隊のバックアップは怪獣への攻撃にリアリティを生み出している。
ワイドショーの本物アナウンサーによるマスコミ報道などの対応描写も臨場感がある。
斬新なイメージとそれを映像化したハリウッドとは違う日本映画お得意の特撮も見応えがある。
東宝に「ゴジラ」があれば、大映には「ガメラ」があると言われていたガメラシリーズが大変身したという感じ。
僕は監督の金子修介、特撮監督の樋口真嗣、脚本の伊藤和典、音楽の大谷幸に拍手を贈る。

ゴジラが水爆実験の産物だったのに対し、ここでのガメラは古代文明人によって誕生させられたとなっている。
伝説の大陸アトランティスにいた古代文明人が、遺伝子の操作によって自らが誕生させたギャオスによって滅亡の危機に遭い、さらにその手から逃れるためにガメラを誕生させたというのだ。
「古代人も厄介なものを残してくれたもんだ」という会話があるが、冒頭で輸送船が運んでいたものはプルトニウムだったことは意図したものだろう。
放射性物質のプルトニウム239の半減期は24,000年で、この処理方法が確立されておらず密閉して地中深くに埋めると言う手立てが取られている。
それを発見した未来人から、古代人は厄介なものを残してくれたもんだと言われないか?
そんなものを生み出す原発は果たして存続していてよいのか?
そんなことを問われているような気がする。

「ガメラ 大怪獣空中決戦」は1995年の製作である。
ところが2011年3月11日に東日本大震災が発生し、津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、1-5号機で全交流電源を喪失し、原子炉を冷却できなくなり、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展し、この後始末には何十年も要することが判明。
今、再見すると、「ガメラ 大怪獣空中決戦」での会話には絵空事ではない現実のものとして切実なものを感じるようになったし、厄介なものとはギャオスではなく、プルトニウムなのだと思えてくる。
ガメラに攻撃命令を出していた本田博太郎の環境庁審議官が、ギャオスを制御できなくなってガメラに期待すると言い出し、それに対し中山忍の真弓が身勝手だと言い返すのだが、これなども官僚の横暴さを感じさせるシーンとなっていて、秘かに官僚に代表される権力批判もおこなっていたと思う。

草薙の娘・浅黄がガメラと心が通じてしまい、ガメラと同じような状態に陥るのは勾玉の力だとするのはも、ストーリー的には違和感がなく、脚本的にも怪獣物としてよくできている。
子供を助けるシーンもあって、ガメラは人類を守る正義の味方なのだ。
子供だましだった怪獣映画にとって「ガメラ 大怪獣空中決戦」は正に奇跡的作品である。
だが奇跡はこれだけでは終わらなかった。
その奇跡は続編「ガメラ2 レギオン襲来」でも起きることとなる。
藤谷文子の浅黄が言うように、人類が危機に陥った時にガメラはやって来るのである。
これを正義の味方と言わずして何というのだろう。 お見事!

髪結いの亭主

2019-03-23 11:13:37 | 映画
「髪結いの亭主」 1990年 フランス


監督 パトリス・ルコント
出演 ジャン・ロシュフォール アンナ・ガリエナ
   ロラン・ベルタン    フィリップ・クレヴノ
   ジャック・マトゥー   ヘンリー・ホッキング
   ティッキー・オルガド  アンヌ=マリー・ピザニ

ストーリー
ドーヴィルの海岸沿いの家に住む少年アントワーヌは床屋に行くのが大好きだった。
一人で店をやっている、ふっくらとした美人のシェーファー夫人の髪に触れる手触りや彼女の体臭にうっとりする時間は彼にとって至福のときだった。
ある暑い日、白衣のボタンを多めにあけたシェーファー夫人の胸に見入ったアントワーヌは、興奮して何も手につかず、夕飯の時に「女の床屋さんと結婚する!」と宣言してしまう。
突然のことに驚いた父は彼をブン殴ってしまうが、彼は心を固く決めたのだった。
それから10数年後、大人になったアントワーヌは、一軒の床屋で美しい女理髪師マチルドを見かける。
「自分の結婚相手はこの人しかいない」と心に決めたアントワーヌは店に入り、散髪の途中で唐突に求婚の言葉を咳くが、彼女は聞こえなかったようにそれを無視し、彼を外に送り出す。
彼女の気持ちを測りかねながらも、アントワーヌは、「強く念じれば必ず願いは叶う」という父の言葉を胸にひたすら念じる。
彼の夢は叶い、三週間後、店を訪れたアントワーヌにマチルドは「あなたの言葉に心を動かされました。あなたの妻になります」と告げた。
ささやかな結婚式をあげ、2人は一緒に暮し始める。
夢が叶ったアントワーヌは彼女以外何も要らなかった。
仕事も、友人も、子供さえも。
2人の店に様々な客がやって来ては帰って行き、幸福で静かな日々が続く。
昔のことはあまり語らず、アントワーヌを深く愛しいつも静かに微笑んでいるマチルドだったのだが・・・。


寸評
少年の変な踊りで始まるので、これはスラップスティックなのかと思いきや、いやいやなかなかどうして神秘的な官能作品となっている。
愛する妻を亡くした主人公の回想という形で進められているのだが、少年時代のアントワーヌは床屋ののシェーファー夫人に憧れている。
年齢的にも少年が憧れるような女性ではないが、彼の髪に触れる手触りや彼女の体臭に参っているというのだから、少年時代のアントワーヌはかなり変わった、それでいてませた少年だったと思われる。
そしてチラリと見えたふくよかな胸に心をときめかせてしまい、床屋の女性と結婚すると心に決めてしまう。
それは少年が描いた夢なのだが、夢がかなえられる少年は滅多にいないのに彼はその夢をかなえてしまう。
その夢の相手であるマチルドの登場シーンがよくて、この映画の雰囲気の総てを示している。
マチルドを演じるアンナ・ガリエナの綺麗な足がフレームインしてくる。
真っ赤なドレスが印象的で、そしてアンナ・ガリエナが画面いっぱいに現れる。
美しい・・・エレガントな美しさだ。

アントワーヌとマチルドのベッドシーンはなくて、お客がやって来る理髪店の中で二人は求め合うが、アンナ・ガリエナが裸身をさらすことはない。
しかしそのシーンはやけにエロチックで、見せないエロチシズムが漂う。
画面からにじみ出てくるエロチシズムはこの映画の特徴であり、作品の総てと言っても過言ではないものだ。
描かれる行為はおおよそ現実とは思われないシチュエーションで行われる。
マチルドがお客に散髪をしている時に事に及ぶ場面などは代表的なものだ。
「生」と「性」が同化していて、二人の幸せ感が伝わってくる。

僕はこの理髪店は宮殿であり、マチルドは女神だと思う。
アントワーヌの変な踊りは、女神に捧げる祈りのダンスに思えた。
男にとって恋い焦がれた美人の女性は女神だ。
マチルドは女神なので彼女の過去は謎のままで、かろうじて店主から店を譲ってもらう場面が描かれているだけ。後半でその店主と再会するが、ここで誰もが経験することになる「老い」というものを感じさせている。
「老い」は何をもたらすのか?
マチルドから若さを奪い、美を奪い、新鮮さを奪っていく。
結婚して間もない頃、マチルドは「愛しているふりをしないで」と言っている。
今は官能に溺れているが、やがてマンネリが訪れ、夫婦として愛し合っているふりをする欺瞞生活が待っている。
マチルドは今の幸せから、未来の不幸を予見する。
マチルドの選択はそんなことへの絶望だったのだろう。
そうでなければ前触れもなく行うことの説明がつかない。
アントワーヌは子供の頃を思い出してきたように、永遠の彼女を思い出しながらこれからを生きるだろう。
それを思わせるラストはなかなかの余韻を残した。
雰囲気の映画だが、その雰囲気は上質なものだ。

紙屋悦子の青春

2019-03-22 11:22:28 | 映画
「紙屋悦子の青春」 2006年 日本


監督 黒木和雄
出演 原田知世 永瀬正敏 松岡俊介
   本上まなみ 小林薫

ストーリー
敗戦の色濃い昭和二十年・春。
両親を失ったばかりの紙屋悦子(原田知世)は、鹿児島の田舎町で兄・安忠(小林薫)、その妻・ふさ(本上まなみ)と暮らしていた。
そんな彼女が秘かに想いを寄せていたのは、兄の後輩で海軍航空隊に所属する明石少尉(松岡俊介)だった。
ところがある日、兄は別の男性との見合いを悦子に勧めてきた。
相手は明石の親友・永与少尉(永瀬正敏)で、それは明石自身も望んでいることだと聞かされ、深く傷つく悦子だった。
当日、永与は、悦子に真摯な愛情を示し、永与の優しさに少しずつ悦子も心を開いていく。
必死で搾り出す永与の求婚の言葉に対し、「はい」と答える悦子。
だが、悦子は明石が特攻隊に志願し、間も無く出撃すると言う衝撃的な事実を知らされた。
死を目前にし、明石は最愛の人を親友に託そうとしたのだろう。
数日後、悲痛な面持ちで明石の死を告げに来た永与。
明石が書き残したという手紙を永与から受け取り、封を開けずに握り締める悦子。
そして、勤務地が変わる事になったという永与が去ろうとした時、彼女は今度こそ胸の中に秘めた想いを口に出した。
「ここで待っちょいますから……きっと迎えに来て下さい」
これから共に長い人生を生きる二人の、結婚を決意した最初の一歩がはじまるのだった。


寸評
オープニングは病院の屋上で老夫婦が会話しているシーン。
結構長いのだが話の内容はとりとめもないないことばかりで静かな会話だ。
夫の見舞いにやってきたらしいのだが、この夫婦が穏やかな生活を送ってきたことをうかがわせる会話だ。
やがて彼らが出会った頃の時代に話が及び、タイムスリップして場面は紙屋家へと変わるのだが、描かれるシーンはふたりが語らう病院の屋上と、紙屋家の食事をする土間と座敷だけだ。
紙屋の家とそこから見える景色はすべてセット撮影で、差し込む光が優しく、そこを舞台とした会話劇が繰り広げられていく。
この家族の話が兎に角面白い。
紙屋安忠とふさの夫婦は両親を旅先で出会った東京空襲で亡くしている。
いまは二人と妹の悦子との3人暮らしなのだが、ふさと悦子は女学校時代からの大の親友という関係だ。
ふさは悦子に姉さんと呼ぶのはやめてくれと言っているが、悦子は兄嫁だからと姉さんと呼ぶことをやめない。
しかしこの3人には、夫婦として、兄妹として、親友として絶大な信頼のあることが分かる。
安忠の小林薫がとぼけた味を出して笑いを誘い、若い原田知世と本上まなみを上手くリードしていた。
小林薫が登場すると場内では笑い声が起こる。
戦争時の映画だが、爆撃シーンはないし、人が死ぬシーンもない。
あすの命が分からない大変な時代における紙屋悦子の見合い話で、時代が終戦直前でなければ単なるホームドラマ、単なる恋愛話に終始していたと思うのだが、ここで描かれた時代ならではの切ない物語がユーモアを交えて語られていき、見るに従って胸に迫って来るものがあった。

快活な性格の明石は、悦子を大切に思っている。
彼とは反対に、女性の前では何も話せなくなるウブな永与も、心やさしい悦子に好意を寄せる。
悦子は明石に想いを寄せながらも、そんな永与を人間的に好いている。
3人の思いは、それぞれとても美しいもので、見ていて心洗われる思いである。
戦時下のつつましい暮らしの中、おはぎを作って二人をもてなす悦子に対し、節度ある紳士的な態度で振舞う男ふたりの姿は、忘れていたものを思い出したような気分にさせる。
節度ある態度は死語になりつつあるのではと思わされている今の時代にはない凛とした態度だ。
明石は特攻で死んでいく身なので、大好きな悦子を親友の永与に託そうとしている。
死を前にして人が人を信頼することの美しさ、尊さを、淡々とした演出で描いていた。
明石が勝手知ったる他人の家のはずなのに、トイレに行くときに逆方向だと悦子に指摘される。
明石が永与と二人きりにするために、二人には内緒で帰ろうとしていたことを描いてのだと分かり、細やかな演出に感心させられた。
出撃する明石が悦子への手紙を、信頼する永与だからといって預けている。
戦死した明石のその手紙は開かれないので、何が書いてあったかはわからないが、多分、抱いていた悦子への愛と、永与との幸せな生活を祈る言葉だったように思う。
黒木監督の遺作になってしまったが、こんなに素晴らしい映画を残してくれた。
感謝、合掌。

紙の月

2019-03-21 07:19:07 | 映画
「紙の月」 2014年 日本


監督 吉田大八
出演 宮沢りえ 池松壮亮 大島優子
   田辺誠一 近藤芳正 石橋蓮司
   小林聡美 中原ひとみ 佐々木勝彦

ストーリー
1994年。梅澤梨花(宮沢りえ)は、子どもには恵まれなかったもののエリート会社員の夫(田辺誠一)と穏やかな日々を送っている。
契約社員として勤務する「わかば銀行」でも、丁寧な仕事ぶりで上司の井上(近藤芳正)からも高評価。
支店では、厳格なベテラン事務員の隅より子(小林聡美)や、まだ若くちゃっかり者の窓口係・相川恵子(大島優子)ら、様々な女性たちが梨花と共に働いている。
だが一見、何不自由のない生活を送っている梨花であったが、自分への関心が薄く鈍感なところのある夫との間には空虚感が漂い始めていた。
ある夜、梨花の顧客で裕福な独居老人の平林(石橋蓮司)の家で一度顔を合わせたことのある孫の光太(池松壮亮)と再会した梨花は、何かに導かれるように大学生の彼との逢瀬を重ねるようになる。
そんな中、外回りの帰り道にふと立ち寄ったショッピングセンターの化粧品売り場。
支払い時に現金が足りないことに気づいた梨花が手を付けたのは、顧客からの預かり金の内の1万円だった。
銀行に戻る前にすぐに自分の銀行口座から1万円を引き出して袋に戻したが、これが全ての始まりであった。
学費のために借金をしているという光太に梨花は「顧客からの定期の申し込みがキャンセルになった」と200万を渡し、さらに顧客から預かった300万を自分の通帳に入れ、自宅で定期預金証書や支店印のコピーを偽造するなどして、横領する額は日増しにエスカレートしていくのだった。
上海に赴任するという夫には同行せず、梨花は光太と一緒に高級ホテルやマンションで贅沢な時間を過ごすが、光太の行動にも変化が現れ、ある日、光太が大学を辞めたことを告げられる。
そんな折、隅より子が銀行内で不自然な書類の不備が続いていることを不審に感じ始めていた……。


寸評
平凡な女性が若い男性に貢いだ挙句に堕ちていくという話は、劇中のセリフじゃないが「ありがち」なことだ。
横領事件と言えば、私が勤務していた会社のメインバンクだったこともあり、1973年の奥村彰子による滋賀銀行9億円横領事件を真っ先に思い浮かべる。
その後も1975年の大竹章子による足利銀行詐欺横領事件(被害額=2億1千万円)、1981年の伊藤素子による三和銀行詐欺横領事件(被害額=1億8千万円)などもあり、いづれも男に貢いでいた事件だ。
2005年に起きた川井田恵子による東京三菱10億円横領事件は借金返済と言うことだったらしいが、それぞれ億単位の横領事件で、お金が飛び交っている銀行とは言え、現実に起きていることはすごい。
劇中でも語られるが、横領した金を返済すれば内々に処理されていることも容易に想像でき、銀行における横領事件は想像以上に多発しているのではないかと思う。
始まりはわずかな金額で、宮沢りえの梨花も集金した1万円に手をつけたことが発端だ。
現実事件の奥村彰子も最初に貢いだ金額は5000円だったように記憶している。
ウソもギャンブルも覚せい剤も同様の構図で、徐々に深みにはまっていくのは怖い。

主人公の梅澤梨花は地味なのに妖艶、堅実なのにもろいという二面性をもった女性で、それを宮沢りえが見事に演じ、そして梨花の分身ともいえる女性が、要領がよく小悪魔的女子行員・相川を演じる大島優子と、お堅いベテラン行員・隅を演じる小林聡美だ。
三人の女優が一人の女性の内面にあるさまざまな感情を演じ分けているともいえ、大島優子、小林聡美がキャラの違う行員を上手く演じていた(AKB48の面々はアイドルグループとは言え案外と芸達者だ)。
分身なので光太と別れた後では相川は寿退社で突然梨花の前から姿を消し、不本意な異動に「行くべきところに行くだけよ」と言った隅と対峙し、そして梨花もいよいよとなった時に「行くべきところに行くだけよ」と声を発する。
この会議室で梨花と隅が対峙する場面は女の強さと開き直りが出ていて良かったなあ。
次長の井上の慌てぶりとは好対照だった。
梨花と夫は、仲が悪くはないがどこか隙間がある関係で、その微妙な関係を上手く表現していている。
契約社員になった記念の時計に対する反応とか、その時計を巡っての香港土産との対比などが象徴的。
その他にも、聞いているようで自分の世界に入ってしまう姿とか、ベッドに誘われることを感じた梨花が夜にもかかわらずお客のもとに出かけてしまうなど細やかだ。
現状に縛られない自分、やりたいことをやる自分、もっと自由な自分を求めた梨花だが、その開放感を求めて梨花はガラス窓を割り駆け出すが、このシーンに同化出来れば名作だと人に言えるのではないか。
観客の9割を占めた女性たちはどう感じたのだろう? 僕は共感できなかった。
記憶に残るのは宮沢りえが駅の階段から下りてくるシーンで、足だけがスーとフレームインしてくるのに映画を感じてときめいたし、セリフでは梨花から不正を聞かされ後で、不本意な異動を聞かれた隅が「行くべきところに行くだけよ」という言葉が記憶に残る。
梨花が大学生の光太に入れ込む心情が少し説明不足で、滋賀銀行の奥村彰子がタクシーの運転手に親切に話を聞いてもらったことが切っ掛けだったことの方がはるかに切ないものを感じる。
中学時代のエピソードがあまり効果的でないのでラストには疑問が残った。
横領サスペンスだとも思うのだが、不思議とそのドキドキ感はない作品だった。

神々の深き欲望

2019-03-20 11:47:16 | 映画
「神々の深き欲望」 1968年 日本


監督 今村昌平
出演 三国連太郎 河原崎長一郎 北村和夫
   沖山秀子 松井康子 加藤嘉 小松方正
   細川ちか子 扇千景 浜村純 嵐寛寿郎

ストーリー
今日も大樹の下で、足の不自由な里徳里(浜村純)が蛇皮線を弾きながら、クラゲ島の剣世記を語っていた。
この島は、今から二十余年前、四昼夜にわたる暴風に襲われ津波にみまわれた。
台風一過、島人たちは、太根吉(三国連太郎)の作っている神田に真赤な巨岩が屹立しているのを発見し、神への畏敬と深い信仰を持つ島人たちは、この凶事の原因を詮議した。
そして、兵隊から帰った根吉の乱行が、神の怒りに触れたということになった。
根吉と彼の妹ウマ(松井康子)の関係が怪しいとの噂が流布した。
区長の竜立元(加藤嘉)は、根吉を鎖でつなぎ、穴を掘って巨岩の始末をするよう命じた。
ウマは竜の囲い者になり、根吉の息子亀太郎(河原崎長一郎)は若者たちから疎外された。
そんなおり、東京から製糖会社の技師・刈谷(北村和夫)が、水利工事の下調査に訪れた。
文明に憧れる亀太郎は、叔母のウマから製糖工場長をつとめる竜に頼んでもらい、刈谷の助手になった。
二人は水源の調査をしたが、随所で島人たちの妨害を受けて、水源発見への情熱を喪失していった。
刈谷は、ある日亀太郎の妹で知的障害者の娘のトリ子(沖山秀子)を抱いた。
トリ子の魅力に懇かれた刈谷は、根吉の穴掘りを手伝い、クラゲ島に骨を埋めようと決意するのだった。
だが、会社からの帰京命令と竜の説得で島を去った。
一方、根吉は穴を掘り続け、巨岩を埋め終る日も間近にせまっていたのだが、そこへ竜が現われ仕事の中止を命じた。
根吉は、二十余年もうち込んできた仕事を徒労にしたくなかった。
根吉は頑として竜の立退き命令をきき入れなかった。


寸評
これは古事記の世界かと思わせる内容に圧倒され続ける。
南方の孤島、クラゲ島の神事を司る太(ふとり)家は一方で近親相姦の家系である。
父嵐寛寿郎の子供が三国連太郎の根吉と松井康子の妹ウマであるが、二人は愛し合っているという関係。
根吉の子供が河原崎長一郎の亀太郎と沖山秀子のトリ子で、トリ子は知恵遅れである。
村の青年たちの多くがトリ子と関係を持っているが、その最初の相手は亀太郎だと噂しているといった具合だ。
俳優陣が人間の本性をむき出しにする演技を見せて原始社会を髣髴させるのだが、とりわけトリ子役の沖山秀子が凄くて、今村昌平の他に、この女優を使いこなせる人はいないと思わせる。
嵐寛寿郎は本作を回想して、撮影期間中に沖山秀子は監督と毎日関係を持っていたが、かくし立てをせず堂々たるもので、天真らんまん、先天性の露出狂で目を疑ったと述べている。
嵐寛先生はこの映画における沖山秀子を評して、奄美大島の出身らしいが日本人離れというよりも人間離れがしていて、そこがまた、この映画では取柄だったと論じている。
実際、沖山秀子のトリ子には鬼気迫るものを感じた。

クラゲ島は押し寄せる近代化の波にさらされながらも、信仰や旧習をかたくなに守っている村である。
南方の離れ小島であることで村落共同体を形作っている。
彼等は道徳や理性を無視して男女の交わりを行っている血族である。
血族の団結を保証するのがノロと呼ばれる巫女を中心とした信仰である。
卑弥呼の時代を思わせる社会で、村人の無邪気な様子が生き生きと描かれ、時折挿入される野生動物の姿が原始社会を連想させる。
日本では家族主義に起因する家の思想が長く有り、そのまとまりとして主義が存在している。
それが具現化したものが村々で行われる祭りであり、僕の村でも祭りが最大のイベントとなっている。
五穀豊穣を感謝する秋祭りには地車(だんじり)が出るが、お囃子は各村々によって違う。
かつては曳航する道でぶつかって血を見ることもあったと聞く。
若者がイベントに出そうとしたが、「神様を迎えて五穀豊穣に感謝し神事として引っ張るのがだんじりで、見せるために出すものではない」と長老たちから諫められたということが僕の村でもあった。
旧習を破ると言うことにはエネルギーと年月がいるものなのだ。

映画は日本と日本人の深層にあるものを表しているともいえるし、女の性の力強さの表明とも見て取れる。
三国連太郎がラストで、松井康子をつれて赤い船で逃げていくシーンは、追いかけてくる船の不気味なスリルと相まって素晴らしくホロリとさせられる。
開発批判という文脈は今日の目からすると定型的ではあるが、押し寄せる近代化の波に飲み込まれていく孤島の姿を描きながら、古い因習に縛られた社会の残酷さをも描いている。
大海原にただよう赤い帆の船は古い因習が葬られて近代化に飲み込まれていく象徴に思えるが、しかし近代化がなくては島の発展もないのだ。
そして村の旧習に染まらないと生きていけないのも村落共同体がもつ宿命ともいえる。
日本映画がひとつの到達点に達した作品でもあると思う。

蒲田行進曲

2019-03-19 07:31:48 | 映画
「蒲田行進曲」 1982年 日本

監督 深作欣二
出演 松坂慶子 風間杜夫 平田満
   高見知佳 原田大二郎 蟹江敬三
   岡本麗 汐路章 榎木兵衛
   石丸謙二郎 萩原流行 酒井敏也
   清水昭博 佐藤晟也 清川虹子
   千葉真一 真田広之 志穂美悦子

ストーリー
時代劇のメッカ、京都撮影所では「新撰組」の撮影がたけなわである。
さっそうと土方歳三に扮して登場したのは、その名も高い“銀ちゃん”こと倉岡銀四郎である。
銀ちゃんに憧れているのが大部屋俳優のヤス。
ある日、ヤスのアパートに銀ちゃんが、女優の小夏を連れて来た。
彼女は銀ちゃんの子供を身ごもっていて、スターの銀ちゃんはスキャンダルになると困るので小夏と一緒になり、ヤスの子供として育ててくれと言うと、ヤスは承諾した。
やがて小夏が妊娠中毒症で入院するが、その間ヤスは、撮影所で金になる危険な役をすすんで引き受けた。
小夏が退院して、ヤスのアパートに戻ってみると、新品の家具と電化製品がズラリと揃っていた。
だが、それとひきかえにヤスのケガが目立つようになった。
それまで銀ちゃん、銀ちゃんと自主性のないヤスを腹立たしく思っていた小夏の心が、しだいに動き始めた。
小夏はヤスと結婚する決意をし、ヤスの郷里への挨拶もすませ、式を挙げて新居にマンションも買った。
そんなある日、銀ちゃんが二人の前に現われた。
小夏と別れたのも朋子という若い女に夢中になったためだが、彼女とも別れ、しかも仕事に行きづまっていて、かなり落ち込んでいるのだ。
そんな銀ちゃんをヤスは「“階段落ち”をやりますから」と励ました。
“階段落ち”とは、「新撰組」のクライマックスで、斬られた役者が数十メートルもの階段をころげ落ち、主役に花をもたす危険な撮影なのだ。
“階段落ち”撮影決行の日が近づいてくると、ヤスの心に徐々に不安が広がるとともに、その表情には鬼気さえ感じるようになってきた。


寸評
松竹の蒲田撮影所が題名になっているのに、舞台は東映京都撮影所と言う驚きの作品。
「銀ちゃん」は東映の「錦ちゃん」こと中村錦之助をイメージしているようだし、ヤスは大部屋俳優である汐路章がモデルとされているが、汐路章は任侠映画などでの悪役に欠かせぬ存在となっている。
かつて賑わいを見せた撮影所の雰囲気をノスタルジックに描いた作品というより、その雰囲気を垣間見せながら人気スターと大部屋俳優のやり取りを面白おかしく見せる人情喜劇の趣が強い。
銀四郎を演じた風間杜夫と、ヤスを演じた平田満の出世作ともなった。

オープニングと同時に流れてくるテーマソングの「蒲田行進曲」が、いきなりウキウキした気分に誘い込む。
テーマ曲が流れるのは3度、オープニングとエンディング、そしてヤスが故郷に凱旋してくるシーンで流されるこの曲のメロディがなぜか耳に残るのだ。
そこから繰り広げられるのは舞台演劇かと思わせる、オーバーアクション気味の大芝居とセリフ回しである。
銀四郎もヤスも小夏もリアリティのないオーバー演技なのに、そのテンポの良さでもって観客を映画「蒲田行進曲」の世界へと引きずり込んでいく。
そして時折しんみりとした情感あふれるシーンが挿入されてくるので、その変化に観客はたまらなくなる。
銀四郎との別れを決意した小夏が、乱雑に荒れ果てた銀四郎の部屋を片付けるシーンに続き、シャワールームで泣き崩れた後に去っていくシーンの寂しさ。
小夏のお腹の子がヤスの子ではないと見抜いた母親の清川虹子がヤスを見捨てないでくれと懇願するシーンでの、出来の悪い息子を持った母親の愛情吐露に涙してしまう。
ホロリとするこれらのシーンの入れ方が上手いし音楽も哀愁を帯びたもので好感が持てる。

風間杜夫の銀四郎と、原田大二郎の橘は主演を競っている間柄だが、どちらがカット数が多いか、どちらがセリフが多いか、どちらがアップが多いかなどとライバル心全開で競い合っている。
かつて東映の片岡千恵蔵と市川右太衛門の両大御所が同様の内容で争い、演出家と脚本家が苦労していたなどという話を聞き及んでいるので、まんざら映画上の作り話とも思えず僕には楽しめた。
千葉真一、志穂美悦子、真田広之などがヤスの活躍場面として劇中劇で登場し、激しいアクションを見せながら暴れまくるのも、彼等を知るものとしては楽しめるものとなっている。
小夏は不幸な女なのだが、不幸を不幸と思わずに進んでいこうとする明るさがある。
太陽のような天性の明るさを持った松坂慶子がちょっと抜けたようで居ながら、必死で夫を支えようとするけなげな女を好演していて主演女優としては絶妙のキャスティングだ。
役得なのはヤスを演じた平田満だ。
大部屋俳優の悲哀を体いっぱいで表現し、小指を立てながら「俺のコレがこれなんで」とお腹を大きくするポーズをみせて笑わせ、銀ちゃん一途で、日の目を見ることがない大部屋俳優だと自覚していながらも映画を愛してやまない男なのだと画面上を暴れまくる。
ラストシーンにおける最後の大芝居が違和感なく迫ってくるのだから、深作の演出はただものではないと思わずにはいられなかった。

彼女の人生は間違いじゃない

2019-03-18 15:38:12 | 映画
「彼女の人生は間違いじゃない」 2017年 日本


監督 廣木隆一
出演 瀧内公美 高良健吾 柄本時生
   光石研  戸田昌宏 安藤玉恵
   波岡一喜 麿赤兒  蓮佛美沙子
   小篠恵奈 篠原篤  毎熊克哉 趣里

ストーリー
東日本大震災から5年後の福島県、いわき市。
金沢みゆき(瀧内公美)は震災で母親を亡くし、今は父の修(光石研)と仮設住宅での二人暮らしで市役所に勤めている。
農家の父親は土壌汚染で仕事ができず、生きる目的を失ったまま、補償金をパチンコにつぎ込む日々を送っていた。
一方、みゆきの同僚・新田(柄本時生)は、被災地の現状を卒論にしたいという東京の女子大生(小篠恵奈)の取材を受け、当時の状況についての屈託ない質問に言葉を詰まらせてしまう。
震災があってからみゆきは恋人の健太(篠原篤)と上手く付き合えなくなっていた。
みゆきは言葉にできない衝動に突き動かされ、週末になると「東京の英会話教室に通っている」と父親に嘘をつき、高速バスに乗って渋谷に向かい、デリヘルのバイトをしている。
バイトをしてからちょうど2年がたつが、いつもみゆきは三浦(高良健吾)が運転する車に乗って客の待つラブホテルへと向かっていた。
バイト後に地元に戻ると、妻の死から立ち直れず自暴自棄になる父と衝突してしまう。
震災は、彼女や周囲の人にまだはっきりとした傷跡を残していた。
そんな日常の中、いつものように週末に渋谷に行くと、突然三浦が仕事を辞めていた。
驚いたみゆきは、彼の行方を探すと…。
そんな時、みゆきの地元では故郷を収めた山崎沙緒里(蓮佛美沙子)の写真展が開かれていた。


寸評
「彼女の人生は間違いじゃない」とは何ともベタなタイトルだが、内容は全くそのままで廣木監督の主張でもあり激励でもある。
2011年3月11日に起きた東日本大震災は未曽有の災害であった。
大都会を巻き込んだ阪神淡路大震災に比べると、復興は遅々としているように思うが、ましてや東日本大震災は福島の原発事故を併発しているので深刻である。
街の復興、人々の再生を僕も願っているが、当事者たちが抱えた現実的な問題は想像の域を出ていなかったのだと思い知る。
現実のひずみは細部まで及んでいるのだと見せつけられた思いだ。
壊れてしまった社会だがそれでも人は生きていかねばならない。
普通の生活の中で起きてくる問題が非常にリアルである。
誰かに肩入れするのではなく、そのひずみを切々と切り取っていくシーンに僕は身じろぎ出来なかった。

みゆきの父親は農業しかできないので就職する意欲がわかない。
前に進むためには、あるいは生活を維持していくためには行動を起こさないといけないが、そんなそぶりを見せない父親を娘のみゆきは非難する。
しかし、農業しかできない人間が土地を奪われ農業を否定されたら絶望するのが当然だ。
そこから立ち上がっていく人間を描くことは感動を呼ぶことが出来るかもしれないが、はたしてすべての人が取りえる行動だろうか。
人は強くもあるが弱くもある。
みゆきの父・修は補償金をパチンコにつぎ込むダメ親父なのだが、なぜか反感を抱かせない。
かなり強豪だった高校の球児であた修は、同じ仮設住宅に暮らす少年に野球を教えていて、その少年の祖母から感謝されている。
ダンナが原発の汚水処理に携わっている隣の家の奥さんの自殺を食い止め、旦那を叱責するような一面を見せる。
真面目に農業を営んでいたであろう修を想像させるが、修は何をするでもない一日を過ごすだけの生活に追い込まれている。
原発事故は平凡な男を、サボリ癖とも思えないのに働く意欲をなくしてしまう状況に追い込んだのだろう。

みゆきは生活費の為なのか、精神的に追い込まれたためなのか、東京でのアルバイトとしてデリヘルをやっている。
職業に卑賎はないとはいえ、普通に考えればまともな仕事とは思えない。
市役所勤めをしているのだから、そこそこの収入はあるはずだが、みゆきはデルヘリの仕事を続けている。
母親を失った喪失感をみゆきも持っていたのだろう。
まだまだ傷跡を残す故郷の景色を見ながら、そこから逃れていたのではないか。
母親が行方不明なのにデートなどしていていいのかと、かつて恋人から言われたみゆきは普通の生活が送れない現実を痛感したに違いない。
普通ではない生活の反動が風俗と言う仕事に走らせたのではないかと思う。

市役所職員の新田もいい男なのである。
墓を買おうとしている老人もいい人なのだ。
かつて故郷で笑顔を見せていた人たちは、皆いい人たちだったのだ。
通り一辺倒な質問しかできない女子学生は僕たちの代表でもある。
冷めた目で見ている自分を感じさせられたりした。
今の僕には政府支援を熱望する以外に取りえる行動はない。
頑張って下さいとしか言えないのだが、人々はすでに頑張っているのだ。
妻への思いを吹っ切ったような修、風俗から足を洗えとすすめた三浦のその後の姿に触発されて、平凡な生活に戻りそうなみゆき。
どうなるかわからない彼等だが、やり直しの効かない人生を歩みだしている。
沙緒里が写し撮った光こそ彼等の未来なのだと感じた。

カティンの森

2019-03-17 13:05:32 | 映画
「カティンの森」 2007年 ポーランド


監督 アンジェイ・ワイダ
出演 マヤ・オスタシェフスカ アルトゥル・ジミイェフスキ
   マヤ・コモロフスカ   ヴワディスワフ・コヴァルスキ
   アンジェイ・ヒラ    ダヌタ・ステンカ
   ヤン・エングレルト   アグニェシュカ・グリンスカ
   マグダレナ・チェレツカ パヴェウ・マワシンスキ

ストーリー
1939年9月、ポーランドは密約を結んだナチス・ドイツとソ連によって分割占領されてしまう。
ソ連側では多くのポーランド人将校が捕虜となり収容所へと送られた。
その中にはアンナの夫アンジェイやその友人イェジも含まれていた。
翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。
義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。
春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。
アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。
そんな中、1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。
アンナはその犠牲者リストにアンジェイの名前がなかったことに望みを託し、ひたすら帰りを待ちわびる。
1945年1月、クラクフはドイツから解放され、イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝えたが、“カティンの嘘”を聞き自殺してしまう。
国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが拒否した・・・。


寸評
カティンの森事件とは、第二次世界大戦開始と同時に始まったソ連軍のポーランド侵攻に際し、ソ連内務人民委員部(NKVD→KGBの前身)が、ポーランド将校数千名を虐殺してカティンの森に埋めたとされる事件である。
当初はドイツがソ連の実行と言い、ソ連はドイツが実行したと言い張っていた。
「カティンの森」は、特別に監督の情念に溢れた作品である。
なぜならアンジェイ・ワイダ監督の父親は、カティン虐殺事件の被害者の一人だったからだ。

独ソ不可侵条約が結ばれると、ナチスドイツとスターリンのソ連がポーランドに侵攻を開始した。
冒頭で橋の両方から逃げてくる人々がすれ違う場面がある。
一方はドイツの攻撃から逃げてきた人たちで、もう一方はソ連の攻撃から逃げてきた人たちである。
双方ともにそちらに行けば敵が攻めてきていて危険だと言っているのである。
ドイツとソ連に侵略されたポーランドの状況が一瞬にして分かる場面だ。
戦国時代の弱小国のように扱われるポーランドの立地に同情してしまう。
大国に囲まれ、分裂を繰り返してきた小国の国民の象徴的な姿でもあった。
幸か不幸か、当時の日本は曲がりなりにも軍事大国でそのような憂き目には会っていない。
ゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、事件を公表する動きがでてソ連はNKVDの関与を公表し、スターリンの犯罪の一つであることを認めたし、ロシアのプーチンも「正当化できない全体主義による残虐行為」とソ連の責任を認めているので、この虐殺はソ連軍によるものであることが判明している。
それを知ってこの作品を見ると、戦争がもたらす国家の指示による虐殺もひどいものだし、その虐殺をプロパガンダに利用しようとする敵対国家のエゴにも虫唾が走る。

被害者である大将の夫人が、ドイツ総督府からソ連軍の非道を聞かされ、自軍のプロパガンダに協力するよう求められる場面がある。
夫人はその協力要請を拒否するが、殺したソ連もその敵であるナチスもどうしようもない犯罪者だ。
この女性が総督府の建物から出てくるシーンを効果的なカメラワークで捕らえて、女性が感じた絶望感を我々に伝えてきた。
アンナは夫の帰りを信じているので、ドアをノックする音が聞こえると娘に「パパが帰ってきた」と告げる。
生死が分からぬ父や夫の帰還を待ちわびる家族の姿だと思う。
岸壁に母もそうだし、過酷な状況に耐えたシベリア抑留兵の家族も同じ思いだったのではないか。
スターリンのソ連もヒトラーのドイツもひどい国だったのだ。
ポーランドはソ連の傘下に入ったばかりに、カティンをソ連の仕業と言えなくなってくる。
ソ連のもとで編成されたポーランド軍でソ連化に同化してくる者も出てくる。
そんな中でカティンの嘘に苦しんだイェジは自殺してしまうという悲劇も起きる。
夫アンジェイの日記が遺品として秘密裏に妻のアンナに届けられる。
克明につづられた日記がある日を境に空白となっていて、夫の死を物語り、そしてカティンの虐殺が描かれる。
おぞましい、悲しくなる、怒りがこみ上げる、無音のエンドロールが死者とポーランド人の怒りを訴えていた。