おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

荒野のガンマン

2023-10-31 07:41:14 | 映画
「荒野のガンマン」 1961年 アメリカ


監督 サム・ペキンパー
出演 モーリン・オハラ ブライアン・キース
   スティーヴ・コクラン チル・ウィルス
   ストローザー・マーティン ウィル・ライト
   ジム・オハラ

ストーリー
南北戦争も終わった数年後北軍に従軍したイエローレッグは1人の南軍兵士を探し歩いていた。
戦場で負傷した時、この南軍兵は酔った勢いで彼の頭を剥ごうとしたのだ。
彼はある酒場で私刑にされようとしている男タークを救って愕然とした。
タークの手首には彼がつけた歯形がくっきり残っていた。
イエローレッグは自分の手でタークを殺そうとして彼を助けた。
タークにはガンマンの相棒ビリーがついていて、3人は早速、チームを組んだ。
そしてヒーラー町のある銀行を襲うことにした。
その町に着いた3人は、ダンスホールに働くキットと知り合いになった。
その晩、3人が襲おうとした銀行を他の無法者たちが襲撃した。
怒った3人は保安官側につき激しい撃ち合いが起こった。
その時、イエローレッグの弾丸はキットの息子ミードに命中してしまった。
キットは夫の墓があるというシリンゴ町にミードを埋めると言い張った。
しかしシリンゴ町は、今は廃墟と化し、途中の草原にはアパッチ族が群れをなしていた。
イエローレッグはせめてもの償いに護衛を申し出るが彼女はそれを許さず1人で出発していった。
アパッチに馬を持ち去られたイエローレッグとキットは、徒歩でようやくシリンゴへたどり着いた。
そこへ再びビリーとタークが銀行から金を奪いシリンゴへやって来た。
ビリーは、イエローレッグに拳銃を渡し、もはや無用となったタークを殺すよう言いつけた。
イエローレッグの殺人を止めるため、キットは愛を打ち明けたが、黙ってタークから受けた頭の傷を見せるだけだった。
タークに対する憎悪をこめてイエローレッグの拳銃が火を吹いた。
だが弾はそれ、見かねたビリーはタークを撃ち次にイエローレッグを狙った・・・。


寸評
ペキンパーが初めて監督した劇場映画がこの「荒野のガンマン」なのだが、バイオレンス映画、アクション映画の作品を数多く世に送り出し残酷な作風が特徴とも言われた彼にしては、この映画においてはその片鱗はうかがえず、むしろ大人しい作品となっている。
元北軍兵のイエローレッグは銃弾が肩に残っていて、その為に右腕が自由に上がらない。
そのことでキットの一人息子を誤射して死なせてしまうのだが、最後にあるであろう決闘においてそのハンデをどのようにして克服するのか楽しみにしていたのだが期待を裏切られる結末となっている。
もちろん、この結末が良いのだと言う人もいるだろうが、僕は消化不良を感じた。
イエローレッグは南北戦争で南軍の兵士によって、先住民がやるように頭の皮をはがされそうになった。
復讐に燃えるイエローレッグはその相手を見つけ出し同じ思いをさせることを生き甲斐にしている。
探している男タークがすぐに見つかるのはご都合主義と言えなくもないが、冒頭の場面で描いているので許されるだろう。
ただイエローレッグのタークに対する憎しみの度合いは余り伝わってこない。
イエローレッグはビリーとタークを銀行強盗に誘うが、そもそも彼は銀行強盗を持ちかけるようなならず者だったのかの疑問がついてまわる。
タークへの復讐の機会を得るためだったとは思うが、そのために銀行強盗と言う犯罪を犯すと言うのは間尺に合わないように思う。
腕っぷしは強そうなイエローレッグだが右腕のハンデがあり、拳銃勝負ならビリーにはとてもかないそうにない。
それでもこの一味のボスがイエローレッグのようであるのは不可解である。
ビリーが素直にイエローレッグに従っている理由が、単に気に入っているだけなのが不思議に思える。
タークは力がないのに銀行強盗で得た金で先住民を雇い、軍隊を作って自分はその指揮官になることを夢見ている無邪気な男で、この人物のキャラクターはビリーよりも面白い存在となっている。
力の差からイエローレッグはいつでもタークをやっつけることが出来そうなものだが、そうしないのはタークに復讐することを生きがいにしてきたが、復讐を終えてしまうと生き甲斐をなくしてしまうとキットに語る。
人間、やはり生きていくためには糧だけではなく生き甲斐が必要なのだ。
自分は一体何のために生きているのか、また生かされているのかの自問は齢を重ねてきた僕にも湧き上がってくる命題となっている。
ライフワークであるとか社会貢献であるとかを真面目に考えるようになってきた。

フェードアウトしたかに見えたビリーとタークだが、予想通りイエローレッグとキットの前に舞い戻ってくる。
そこで三人の争いとなり意外な結末を迎えるのだが、その意外性とは、言い換えればあっけなさでもある。
ビリーに対する決着は面白いとは思うが、やはりあっけなさ過ぎて西部劇で味わえる醍醐味はない。
先住民の攻撃などはあるが、全体的には地味な作品で後年のペキンパーを知ってからこの作品を見た僕は物足りなさを大いに感じた。
キットがシリンゴへ向かうのは彼女の妄想なのかもしれないと思わせるのは面白いと思うので、もっと全面に出しても良かったかもしれない。
兎に角、何もかもが中途半端な印象で、ペキンパーのデビュー作でなかったら見る機会はなかったと思う。

幸福なラザロ

2023-10-30 07:44:30 | 映画
「幸福なラザロ」 2018年 イタリア


監督 アリーチェ・ロルヴァケル
出演 アドリアーノ・タルディオーロ
   アニェーゼ・グラツィアーニ
   ルカ・チコヴァーニ  アルバ・ロルヴァケル
   トンマーゾ・ラーニョ セルジ・ロペス
   ナタリーノ・バラッソ ニコレッタ・ブラスキ

ストーリー
20世紀後半、イタリア中部の山間部にある、外界から隔絶された小さな村・インヴィオラータ。
そこではこの土地を牛耳る領主デ・ルーナ侯爵夫人の支配のもと、政府に廃止されたはずの小作制度によって村人たちはタバコ農園で過酷な労働を強いられていて、村人たちの中に純真無垢な青年ラザロがいた。
お人よしで働き者のラザロは何でも言うことを素直に聞いてしまうため、村人たちからバカにされて仕事を押し付けられていた。
そんなある日、村の若い恋人同士のジュゼッペとマリアグラツィアは結婚を決意、村を出ていこうとしたが、侯爵夫人や監督官のニコラがそれを許さなかった。
ニコラは村人が収穫したタバコの葉の量を偽装してあたかも負債が増えてしまったかのように装い、村人たちはそんなニコラのことを快く思ってはいなかった。
そんなある日、デ・ルーナ侯爵夫人が息子のタンクレディたちを連れて村を訪れた。
村人たちは誰一人として侯爵夫人一向に近づこうとしないなか、ラザロだけはタンクレディに近づき、村から離れた自分だけの秘密の隠れ家へと案内した。
村人たちから搾取する母のやり方に嫌気がさしていたタンクレディはある時、侯爵夫人を脅して身代金をせしめようと狂言誘拐の話をラザロに持ちかけ、人の話を断らないラザロも加担することになった。
ラザロは友情と協力の証として壊れた手作りの木製パチンコを受け取った。
ところが、狂言誘拐の一件は侯爵夫人に見抜かれてしまっており、村人たちも冷淡な反応を取るなか、ただ一人だけニコラの娘テレーザだけが真に受けてしまう。
ラザロと隠れ家のタンクレディは兄弟にも近い友情関係を深めていった。
しかしある夜、高熱を出してしまったラザロは体調が戻らぬままタンクレディの元に向かい、誤って足を滑らせて崖下に墜落してしまった。


寸評
「ラザロの生き返りの奇蹟」が聖書にあるらしく、ラザロはキリスト教徒にとっては馴染みのある名前なのだろう。
この作品は宗教色を帯びたものになっているが、寓話的な物語として見る分にも鑑賞に耐えうる。
煙草の葉や穀物を栽培している村人たちは侯爵夫人に搾取されている。
そしてラザロはそんな村人たちに搾取されている。
ラザロは純真無垢で人を疑うことを知らず誰からも搾取していないという人間関係だ。
何かにつけて用事を言いつけられるラザロは、自分を働き者だと思っていて反抗することはなく皆に従順である。
この村はかつて水害にあっていて、氾濫を起こした川を渡ると死んでしまうと思わされていたようだ。
たぶんデ・ルーナ侯爵夫人によって洗脳されていたのだろう。
小作人制度はとっくに廃止されているのに、村人たちはその事実を知らない無知な人々である。
日本でも1947年(昭和22年)にGHQの指揮の下で、日本政府によって農地の所有制度の改革が行われるまで小作人制度があった。
農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡されたのだが、当時の小作人たちは今や土地成金となっている。
デ・ルーナ侯爵夫人は詐欺的な行為を行っており、息子のタンクレディはその行為を良く思っていないから、タンクレディはまともな男である。
そのタンクレディが狂言誘拐を実行したことで物語は大きく変化する。
それまでは人の良いラザロが村人たちから便利使いされている姿が描き続けられているのだが、ラザロが誘拐されていることになっているタンクレディの隠れ家の所へ向かう途中で崖下に落下ししまうところから奇跡の世界が描かれていく。

ラザロが狼によって目覚めさせられた時は、落下してから数十年がたっていているがラザロは歳をとっていない。
聖書におけるラザロの話には犬が登場するようであるが、ここでは狼となっており、より神秘的だ。
狼は善人を嗅ぎ分ける能力を持っていたのだ。
公爵夫人の家が荒れており、盗賊が入り込んでいることで年数の経過を知らされる。
ここでもラザロは盗賊を疑うことを知らず、その行為は滑稽ですらある。
少女が見た赤い光は開発が押し寄せていた為であったことも分かってくる。
農奴生活から開放された村人たちは歳を取り、子どもは大人になっているが相変わらず貧しい。
食べるものにも困っているような生活ぶりだが、ラザロから見れば彼らの周りには食料となる植物が一杯ある。
贅沢な食材ではないが彼らは嬉々として食事をとる。
ラザロはまるでキリストのような存在である。
果たしてラザロは聖人だったのだろうか。
「幸せなラザロ」とは、ラザロ自身が幸せなのか、ラザロのようであることが幸せなのか。
あるいはラザロに助けられた人が幸せだったのか。
ラザロは善人と言う特別な存在であり、やはり聖人だ。
銀行にいた人たちは聖人イエス・キリストを迫害した古代ローマ時代の人々にオーバーラップする。
ラザロはキリストの生まれ変わりだったのだろうと思う。

好色一代男

2023-10-29 07:10:42 | 映画
「好色一代男」 1961年 日本


監督 増村保造
出演 市川雷蔵 若尾文子 中村玉緒 船越英二 水谷良重
   近藤美恵子 浦路洋子 阿井美千子 中村鴈治郎
   大辻伺郎 中村豊 藤原礼子 菅井一郎

ストーリー
但馬屋の伜世之介は父親夢介の心配をよそに、数々の女遊びに夢中だった。
特に遊女吉野太夫とは起請文を交すほどの深い仲。
あまりの伜の放蕩にたまりかねた夢介は、豪商春日屋の娘お園との縁組を進めるが、お園にも意中の男があるのを知った世之介はそれをぶちこわしてしまう。
ついに世之介は勘当代りに江戸の出店へ修業に出された。
だが彼は江戸に着くや支配人をだましてしたい放題。
月夜の利佐の手引で吉原一の高尾太夫に会うが、利佐と高尾の愛情を知って気前よく身請けしてやる。
ついに世之介は勘当を申し渡された。
申し訳にもと頭を丸めた世之介だったが、寺でも彼の浮気はおさまらず、寺を追放される破目となる。
その世之介を慰めるのは色比丘尼であった。
世の中のがめつさをいやというほど知らされた世之介は流れ流れて北国の漁師町へ。
網元の妾のお町に言い寄るとお町はころりと参ってしまう。
だが駆落ちをはかった二人は、たちまち追手に捕えられ、世之介は半殺しの目に会った。
それから数年、今は私娼のヒモになり下がった世之介は田舎大尽のお供で旅から旅へ。
今は姥桜の吉野太夫と再会したものの遊女のまことは金だとあしらわれ世之介は唖然とする。
久しぶりに両親に会おうと但馬屋の前に来ると、父親が臨終のまぎわ。
夢介から三つの遺言を申渡された世之介だったが、彼はニベもなくはねつける。
このショックで両親は相ついで死んでいった。
今や但馬屋の当主となった世之介は思うがままの女遊び。
評判の夕霧太夫を大金をつんで自分のものにしようとするのだが・・・。


寸評
市川雷蔵が世之介のあくなき女体遍歴を嫌みなく軽妙に演じていて、彼の持つ資質の一面を見せている。
世之介は財を成した商家の一人息子で放蕩三昧なのだが、父親の夢介は逆にケチで始末だけが生きがいのような堅物で、この夢介を演じた中村鴈治郎のケチぶりが何ともおかしい。
中村鴈治郎はこの様な役をやらせると天下一品だ。

西鶴の「好色一代男」では世之介は生涯に3000人以上の女性と関係を持ったらしいが、ここでは数人のエピソードが順次描かれていく。
先ずは阿井美千子の三十後家のお杉であるが、彼女は世之介の女狂いを表す入り口のような存在である。
縁組を進められた春日屋のお園(浦路洋子)には好いた男がいて、世之介は彼女のためにこの縁談をぶち壊すのだが、これは世之介が単なる放蕩息子ではなく、女性に滅法優しいフェミニストであることを示していた。
ぐっとくるお色気を示すのが吉野太夫の水谷良重。
世之介と身請けする起請文を交わすが、再会した時にはそれは誰にでも書いている空請文だと言ってのける根っからの遊女だ。
逆に遊女ながら純情なのが、落ちぶれた船越英二だけに愛情をささげる高尾太夫の近藤美恵子である。
二人をとりもつための五百両がもとで世之介は江戸へ奉公に出されるのだが、世之介がフェミニストぶりを見せた一番のエピソードとなっている。
もっともこの高尾太夫には後日談があって、吉原一と言われた吉野太夫が面影をなくしているのだが、ここでも世之介は女性の味方で、その理由は男の甲斐性のなさの為だと男を説教している。
仏門に入った世之介が言い寄るのが尼さんの中川弘子なのだが、実はこの尼さんが・・・というオチがあり、そのオチを寺の坊主が酒の肴に禁じられている動物料理を食して戒律やぶりをやっていることに繋げている。
哀れなのが漁師町で網元の妾となっているお町の中村玉緒で、唯一自殺している。
登場した女優の中では役柄的にも夕霧太夫になる若尾文子が妖艶で一番きれいだ。
雷蔵の飄々とした演技は、そんな女優陣との共演を心底楽しんでいるように見える。

何処までも女性に優しい世之介が女性の幸せを心から願っているのに反し、関係した女性は幸せになれず非業の死を迎えている。
世之介と共に網元から逃げ出したお町は浮浪者に犯され自殺してしまっている。
5000両もの大金で身請けされた夕霧太夫も追手の槍に突かれてあっけなく死んでしまう。
女性をさんざん持ち上げておきながら、これでは男性に都合の良い男の論理だけが生き延びている話となってしまっているではないかと、男女同権の今の世にあっては言いたくなってしまう。
とにかく雷蔵のあっけらかんとした放蕩ぶりと、女体まっしぐらぶりが見ていて楽しい作品だ。
僕は財産をバクチとそれに絡んだヤクザの脅しで失くした男を知っているが、そんなことで先祖が築いた財産をなくすぐらいなら、世之介のように女に貢いで失くす方がましだ。
それにしても、女遊びをするにも結局は金なのだと悟らされる作品でもある。
ラストシーンでユートピアを目指して国外脱出を図る世之介の船の吹き流しが、女たちの腰巻きでできているのが最高だが、僕にはイマイチ増村保造のキレを感じない作品でもあった。

ゲロッパ!

2023-10-28 08:00:23 | 映画
「ゲロッパ!」 2003年 日本


監督 井筒和幸
出演 西田敏行 常盤貴子 山本太郎 岸部一徳 桐谷健太
   吉田康平 長塚圭史 太田琴音 ラサール石井
   木下ほうか 田中哲司 塩見三省 根岸季衣 寺島しのぶ
   徳井優 トータス松本 岡村隆史 益岡徹 藤山直美

ストーリー
数日後に収監されることになったヤクザの組長・羽原には心残りなことが2つあった。
ひとつは、25年前に生き別れた娘・かおりとの再会を果たすこと。
そしてもう1つは大ファンであるキング・オブ・ソウル、ジェームス・ブラウンの名古屋公演に行くことだった。
しかし、それももはや叶わぬ夢。
羽原は身辺を整理しようと組員に組の解散を宣言する。
そして、そんな羽原の心中を察した弟分の金山組組長・金山は、子分たちにJBの誘拐を命令する。
しかしJBをよく知らない子分の太郎たちは、マリンリゾート“ラグーナ蒲郡”で行われるものまねショウに出演すべく来日していたJBのそっくりさん・ウィリーを誤って拉致してしまう。
ところが、そのショウを取り仕切るプロダクションの社長がかおりだったことから、羽原は図らずもかおりとの再会を果たす。
また、行方不明になっていたウィリーの穴を羽原がステージに立って埋め合わせたおかげで、かおりの羽原に対する長年のわだかまりも解ける。
そして、羽原収監の日。
偶然にも金山がウィリーの持ち込んだ時の総理の恥ずかしい写真をゲットしていたことから、超法規的措置が取られ羽原は無罪となる。
すべては大団円となり、かおりと一緒に孫娘・歩の学校の創立記念式典に出席した羽原は、みんなでダンスに興じるのだった。


寸評
僕はジェームス・ブラウンという歌手を知らないし、ましてや彼のヒット曲だという「SEX MACHINE」などは全く知らないので、金山がリスペクトしている気持ちを感じ取ることが出来なかった。
せめて冒頭で本物のジェームス・ブラウンを登場させてほしかった。
そうすればもう少し羽原が憧れのスターに会いたがっている気持ちが伝わってきたかもしれない。
はっきり言ってこの映画は井筒監督の失敗作だ。
一番の原因は羽原がジェームス・ブラウンをリスペクトしていることが伝わっていないことだ。
子分たちがジェームス・ブラウンの拉致を企むという筋書きにしているのに、作品全体からジェームス・ブラウンへのこだわりが全く感じられず、途中から本人じゃなく物まねタレントのウィリーを捕まえる方向へ話が進んでしまっては何なんだと思ってしまう。

ドタバタ喜劇の部類に入る映画だが、いくらドタバタとは言え一本筋が通っていないと映画としては物足りない。
西田敏行がコミカルな演技をしても、それは普段の彼のように見えるし、逆にヤクザっぽい演技をする部分では
喜劇性がヤクザの怖さを足りなくしている。
西田敏行はヤクザの役もできるし、ヤクザの怖さも出せる役者だと思うので、ヤクザに戻るときは怖さをみせることで普段とのギャップを見せることができたのにと思う。
ドタバタ喜劇としての色を強めてテンポ良く進めていくべき作品だったと思うが、内閣調査室の連中を登場させたりして余計なことを描きすぎているように思えた。

西田敏行、常盤貴子、岸部一徳、山本太郎などの主要人物の他に、藤山直美、寺島しのぶ、ラサール石井、益岡徹、根岸季衣、岡村隆史、トータス松本などのキャスティングを揃えながらそれぞれのキャラクターの面白さは引き出せていない。
ナイナイの岡村隆史などは一体何者だったのかも分からないし、寺島しのぶのタクシー運転手とのやりとりもすべっているような感じだ。
常盤貴子のかおりが娘を根岸季衣の佐藤さんに預けて出かける場面などは意味がなかった。
羽原は新幹線の車中でかおりと顔を合わせているが、親子の対面ドラマとして感動させようとしているのなら、当然ニアミスはするけど顔は合わさないという形が常道だろう。

この映画の圧巻シーンは、物真似タレントによるショーで羽原の西田敏行がジェームス・ブラウンになり切って「SEX MACHINE」を歌い踊る場面だ。
ステージ衣装を着てもっとなり切っていれば、このシーンは更に盛り上がっただろう。
ここからさらに話が続いていくので、せっかく盛り上がった気分が冷めてしまうことになった。
キャスティングは賑やかだったが、結局は西田敏行の独り舞台だったような気がするし、時間がたてば内容を忘れてしまうような作品となってしまっているのは残念だ。
井筒監督は「ガキ帝国」、「岸和田少年愚連隊」、「パッチギ!」などケンカのシーンを上手く撮る監督だったと思うのだが、冒頭の風呂場での襲撃シーンはいただけなかったなあ。
ボンヤリ見ている分にはそれなりに楽しめる作品にはなっているんだけど・・・。

ゲゲゲの女房

2023-10-27 07:52:05 | 映画
「ゲゲゲの女房」 2010年 日本


監督 鈴木卓爾
出演 吹石一恵 宮藤官九郎 村上淳 坂井真紀 宮崎将
   柄本佑 夏原遼 平岩紙 徳井優 南果歩 沼田爆
   天衣織女 佐藤瑠生亮 久保酎吉 金子清文

ストーリー
昭和36年。島根県安来に住む大家族の中で育った29歳の布枝(吹石一恵)にお見合いの話がくる。
相手は境港出身で10歳年上、戦争で左腕を失い、現在は東京で漫画を描いている水木しげる(宮藤官九郎)だった。
二人はお見合いからわずか5日で結婚するが、上京した布枝が見たのは、花の東京とは程遠い底なしの貧乏暮らしであった。
質屋通いも日常茶飯事、食パンの耳や道端の野草は二人にとって大切な食糧源。
そして、互いに目も合わせられず、言葉もほとんど交わさないぎこちない生活が続いた。
そんなある日、しげるの原稿を出版社に届けた布枝は、「暗い漫画は売れないから」と、約束の半分しか原稿料をもらうことができなかった。
漫画のことも、しげるのこともよくわからない。
戦争で左腕を失ったことと貸本漫画というものを描いているということ以外、しげるのことを何も知らず、最初は困惑ばかりが募っていく布枝だった。
そんな悔しさのこみ上げる布枝の前に、妖怪漫画をただひたすら毎晩遅くまで描き続けるしげるの姿があった。
これほど努力をしているのだから、世間に認められないまま終わるはずがない。
この努力がムダに終わるはずがない。
布枝の心の中で、ある強い感情が芽生え始めていた……。


寸評
僕たちは水木しげるが「ゲゲゲの鬼太郎」などの妖怪漫画で大成功をおさめ、「総員玉砕せよ!」などの力作もあることを知っている。
本作はそこに至る前の貧乏生活を描いているのだが、貧乏生活ぶりはかなりリアルである。
NHKの朝ドラで人気を博した作品の映画化で、朝ドラを見ない僕はその内容を知らないが、テレビ版はNHKでの早朝番組とあってほのぼのホームドラマの枠内に収まっていたことは推測できる。
映画版は夫唱婦随の夫婦物語としても、貧乏漫画家の成功物語としても何かモヤモヤ感が残る作品だ。
リアルな貧乏を見せられるというのも参るが、さらに本作は成功前までの話なので、いかにその後の現実の大躍進を知っていようと最後までこのモヤモヤは晴れない。

救いは布枝役の吹石一恵の好演が光っていることと、しげる役のクドカンこと宮藤官九郎の人を食った強烈キャラに引き付けられること。
吹石一恵は華のある女優ではないが、強さと優しさを同時に表現した幅のある演技が出来る人で、このような役をやらせると存在感を示す。
映画はやはりどこかにリアリティがないといけないのだが、母子家庭でさして裕福に育ってこなかった僕としては貧乏物語をこんな風に描かれては素直になれない。
くさりかけのバナナを買ってくるエピソードも笑えないものになってしまっている。

リアリティからはみ出しているのが現実の世界に妖怪が登場するところ。
目に見えないものしか信じなくなった今の世の中とは対極の、ノスタルジックでほのぼのとした世界が展開していて、彼ら夫婦が妖怪たちに守られていたような気がする。
時代背景からして違和感のある風景も修正することなくそのまま写し込んでいる。
二階から本が投げ捨てられるシーンの路地は一方通行の様で「止まれ」の文字が見える。
当時はそんな路地は存在していなかっただろうし、布枝たちがいたバス停の背景には立派なマンションが建っていて、彼らの服装との違和感があり、やはり時代考証としては不自然だ。
今の時代、CG処理で何とでもなりそうなものだろうが、これも監督の意図したものだったのだろうか?
意図があったとしたら、僕にはその意図がわからない。
挿入されたアニメシーンは水木ワールドを感じさせた。

物語には明確な起承転結がない。
万事おおらかなしげるが税務署職員に食って掛かる場面は唯一と言ってもいい世の中への反抗シーンで、安来節を歌うシーンが印象的だった。
漫画家志望の学生失踪のシュールなシーンもあるのだが、間借り人の描き方と同様に中途半端だった。
原作通りなのかもしれないが、脚色しても良かったのでないかと思う。
墓場に現れた火の玉は「ゲゲゲの鬼太郎」に結びついたものなのだろうか?
ラストもあっけない終わり方で、これで終わりなのかい?と言いたくなるのだが、同時に不思議な余韻も残る。
なつかしい感じのする夫婦物語だったなあというのが印象。

ケイコ目を澄ませて

2023-10-26 07:05:00 | 映画
「け」と「と」を続けます。

「ケイコ目を澄ませて」 2022年 日本


監督 三宅唱
出演 岸井ゆきの 三浦友和 三浦誠己 松浦慎一郎
   佐藤緋美 中原ナナ 足立智充 清水優
   丈太郎 安光隆 渡辺真起子 中村優子
   中島ひろ子 小河喜代実 仙道敦子

ストーリー
生まれつきの障害で両耳が聞こえない小河ケイコ(岸井ゆきの)。
下町でひっそりと経営しているボクシングジムでボクシングを始めたところ、日々の努力が実りプロ試験に合格し、ケイコはデビュー戦で勝利を飾った。
仕事もこなしながらジムで鍛えていき、彼女は二戦目も勝利した。
その日、応援に来ていた母(中島ひろ子)に帰り道、いつまでボクシングを続けるの?と問われ、明らかに止めてほしいと伺える母の言葉が引っかかった。
ある日、記者がケイコの取材にやってきた時、ケイコに才能はあるかの問いに、会長(三浦友和)が才能はないが目はいいと答えたのを見て、ケイコに迷いが生じる。
ケイコは一度休みたいと綴った会長宛の手紙をポストに入れようとしたが、どうしても出来なかった。
そうこうしている内に、会長が健康上の理由でジムを閉じることが発表される。
トレーナーの林(三浦誠己)と会長が動いてくれたこともあり、ケイコを受け入れてくれるジムが見つかったが、ケイコは家が遠いからという理由で断ってしまう。
次の試合のために練習をしていたケイコのもとに会長が倒れたという知らせが入る。
会長の命には別状はなかったが、脳に腫瘍が見つかり良い状態ではなかった。
会長の妻(仙道敦子)はいつかこんな日が来るのではと感じていたと話す。
会長の妻は見舞いに来ていたケイコが持っていた一冊のノートに気づき見せてもらう。
それはケイコが毎日綴った練習記録だった。
いよいよケイコの次の試合の日がやってきた。
試合が始まり順調に立ち上がったが、相手に足を踏まれて倒れたのをダウンととられてしまった。


寸評
冒頭でケイコがパンチングを繰り返すシーンが続くのだが、岸井ゆきのの動きはなかなかのものである。
彼女の所属するジムの会長を演じる三浦友和が、劇中で記者からインタビューを受けて、耳が聴こえないことは、ボクシングを行う上で致命的である事を述べる。
レフェリーの声も、セコンドからの指示も聞こえないので、セコンドからの指示はいくつかのサインを決めておき、それを瞬時に見ていると説明すると、記者はそんな余裕はあるんですかねと疑問を呈する。
確かにそうだし、ボクシングに疎い僕は、そんなハンデを想像すらできていなかった。
しかしこの映画では、そんなハンデゆえの苦戦状況や、見せ場で出てきそうなサインをめぐるやり取りなどは一切描いておらず、三宅唱監督が描いているのはケイコその人の生き様なのだ。
前述のインタビュー場面で三浦友和に「ケイコは人間としての器量がある」と言わせている。
そのケイコを演じた岸井ゆきのが凛々しい演技を見せ、観客をスクリーンに引き寄せている。
会長の三浦友和もいいが、この映画は圧倒的に岸井ゆきのの映画だ。

ケイコと同居する弟が負担する今月分の家賃が足りないことをケイコが詰め寄るシーンにおいて、2人は手話で会話をするが、黒い画面の中央に白文字が縦に配されるというサイレント映画と同じ手法が用いられている。
では全てがそうかと言うと、客室清掃員として働くケイコが勤務先の同僚と手話で会話を行う際は、映像と共に会話が字幕スーパーとして表示されるなど、手法は統一されているわけではない。
ホワイトボードやタブレットを、利用することもあるし、川沿いのカフェで友人たちと会話を愉しむ場面では字幕がまったく出ない演出もとられている。
手話を理解出来ない僕は、一体何を話しているか分からなまま見つめていなければならないのだが、全く退屈することがないシーンとなっている。
このことはケイコは聾唖者と言うハンデを負っているが、コミュニケーションツールを多岐に渡って持っていることを示していたのだと思う。
一方で会長はケイコの耳が聴こえないことなど気にすることもなく普通に語り掛けている。
会長とケイコの信頼関係を示しており、赤い帽子はその象徴であったと思うし、その時ケイコが屈託のない笑顔を見せるシーンに僕は感動した。

16ミリフィルムで撮られているというカメラが捕らえる自然光の映像が雰囲気を醸し出している。
しかし、ケイコが会長と訪れた新しいジムのシーンでは突如LEDの青味がかった昼光色が部屋一面をまんべんなく照らし出し、それまでの画調と極端な違いを見せる。
ケイコは家から遠いからという理由で、このジムへの移籍を拒否するのだが、ケイコがそう思うのも無理からぬことだと思わせる色調の違いは意図したものだろう。
ケイコを心配する母親は、胸が締め付けられるような思いでケイコの試合を見ている。
母親が撮った写真がどれもピンボケだったり、変なアングルだったりで、親の気持ちが十分すぎるほど伝わってくる上手い演出だ。
ケイコは会長から譲られた赤い帽子をかぶって土手を走っていく。
再びボクシングを始めたのだなと思わせ、会話の少ない映画なのに随分としみ込んでくる映画である。

クレオパトラ

2023-10-25 07:37:18 | 映画
「クレオパトラ」 1963年 アメリカ


監督 ジョセフ・L・マンキウィッツ
出演 エリザベス・テイラー レックス・ハリソン
   リチャード・バートン ケネス・ヘイグ
   パメラ・ブラウン フランチェスカ・アニス
   ジョン・カーニー ジョン・ドーセット

ストーリー
紀元前48年、ローマでは執政カエサルとポンペイウスの内戦が起こり、ポンペイウスを追ってカエサルはエジプトのアレクサンドリアに入城するが、エジプトではクレオパトラとその弟プトレマイオスとその取り巻きによる内乱が起きており、クレオパトラは城から追放されてしまっていた。
プトレマイオスはカエサルを迎え入れるも、ポンペイウスの首と指輪を差し出した。
その夜カエサルの元へ贈り物の絨毯が運び込まれるが、中身はなんとクレオパトラ本人だった。
クレオパトラはカエサルに私を王にしてほしいと言い寄る。
カエサルは妻がいるにもかかわらずクレオパトラと結婚し男児も生まれる。
クレオパトラの発言力が増すことに危機を感じたプトレマイオスはカエサルに戦いを挑むもののかなうはずもなく敗れてしまい、クレオパトラはエジプトの王に即位した。
やがてローマに堂々凱旋したカエサルは、独裁者としての勇威を高めていったが、クレオパトラはそのカエサルを追ってローマへ渡った。
ローマの議員の前でカエサルは自分を皇帝にせよと懇願したところ、議員は皆カエサルの元から離れていってしまい、カエサルはブルータス達の暗殺団の手にその短い生涯を閉じた。
クレオパトラは不穏なローマを逃れてエジプトに帰った。
そして3年の月日が流れ、ローマの権力者アントニウスは財政の窮乏をエジプトに活路を求めクレオパトラを迎えたが、たちまち2人の恋の焔が燃えた。
アントニウスがクレオパトラと結婚し、彼が死んだらエジプトの土になるという遺書にローマ元老議員は激昂。
そしてアントニウスはオクタビアヌスと闘い、海戦で敵の船に乗り込んだが、その船にオクタビアヌスはおらず敗戦を喫し、続いて行われたローマとエジプトの戦いでアントニウスは死にクレオパトラは捕虜にされた。
クレオパトラは「アントニウスの側に葬って」と遺書を書き、毒蛇のいる果物篭に自らの手を差し入れた。


寸評
クレオパトラと言えばクレオパトラ7世のことで、日本では小野小町、楊貴妃と並んで世界三大美人に数え上げられ、古代エジプトの女王としては最も著名な人物である。
一方のユリウス・カエサルはローマ帝国の歴史において最大の英雄であり、もっとも著名な人物である。
後半の重要人物であるアントニウスはカエサルの部下で、後に初代ローマ皇帝アウグストスとなるオクタビアヌスに破れ自刃している。
それらを総合すれば面白い作品になるはずだが、お世辞にも面白い作品とは言い難い。
それを救っているのは宮殿や宮殿内部のセットで、何人もいた美術監督は贅沢な仕事をしている。
しかしロケ地選択の失敗によるセットの造り直し、高額なギャラ、重要な配役の変更による撮り直しなどで制作費が空前の巨額に膨れ上がり、「クレオパトラ」は製作会社の20世紀フォックスを経営危機に陥らせたという曰く付きの作品である。
ちなみに、その経営危機を救ったのが2年後に公開された「サウンド・オブ・ミュージック」のヒットと言われている。

現在の日本では古典ラテン語で Iulius Caesar と表記されるのをユリウス・カエサルと言っているが、以前はえいご読みでジュリアス・シーザーと言っていて、この映画でもシーザーと発音している。
物語はそのカエサルが政敵のポンペイウスを追ってエジプトへ攻め入るところから始まる。
クレオパトラとカエサルの出会いの場面とか、クレオパトラの弟プトレマイオスとの争いとか、色々と見せ場があるにもかかわらず、映画的には一向に盛り上がらない。
描かれるのはクレオパトラとカエサルの会話ばかりで退屈この上ない。
征服者と被征服者の関係なのか、カエサルがクレオパトラの魅力のとりこになっているだけなのかも分からない。
母国を守らないといけない女王が自分の体を引き換えにしていると言った風でもない。
カエサル夫人の嫉妬とかも深く描かれていないので、一体このパートは何を描きたいのかが不明である。
カエサルの暗殺場面は劇的なシーンとなるはずだが、主人公がクレオパトラであることによるのか実に安易な処理法で描かれ、観客が期待するスリル感は全くと言ってよいほどない。

カエサル暗殺後の後半になって表に出てくるのが、カエサル腹心の部下アントニウスである。
常にカエサルの影に居て、クレオパトラがカエサルの子供を産んでも秘かに思いを寄せているという男である。
クレオパトラはこのアントニウスと恋に陥るのだが、その描き方も恋人なのか支配者と被支配者の関係なのかよく分からないようなもので相変わらず、クレオパトラとアントニウスの会話が繰り返されるだけで、このパートも退屈極まりないもとなってしまっている。
アントニウスはクレオパトラの家来よりクレオパトラは死んだという嘘の情報聞かされ絶望のあまり自害を試みる。
実はこの家来もクレオパトラをずっと想い続けていたのだが、女王と家来の関係で言い出せないでいた。
女王もその気持ちをj感じながらも応えられないできている。
ずっとクレオパトラを想い続けた二人の心情なども描き切っているとは言い難い。
それでも映画はそれなりにヒットしたのだが、それはエリザベス・テイラーが主演だったこと、そして一大絵巻としての歴史劇を期待してのものだったと思う。
その思いは裏切られているという出来栄えだが、映画史の中では記録されるべき作品の一つではある。

狂った野獣

2023-10-24 07:35:14 | 映画
「狂った野獣」 1976年 日本


監督 中島貞夫
出演 渡瀬恒彦 星野じゅん 川谷拓三 片桐竜次
   白川浩二郎 橘麻紀 荒木雅子 中川三穂子
   松本泰郎 野口貴史 志賀勝 三上寛 笑福亭鶴瓶

ストーリー
テストドライバーの速水(渡瀬恒彦)は、テスト中に目の病気で事故を起こし会社をクビになってしまう。
数日後、速水は友人の女性ドライバーの岩崎美代子(星野じゅん)を誘い、大阪の宝石店を襲い数千万円相当の宝石強奪に成功、警察の追手をくらますために別々に逃亡した。
速水は宝石をバイオリンケースに隠し持って京都府営の路線バスに乗り込み、逃走は完全に成功したかのように思われた……。
ところが、そのバスに、銀行強盗に失敗して警察に追われている谷村(川谷拓三)と桐野(片桐竜次)が乗り込み、バスを占拠してしまったのだ。
愕然とする速水、バスの運転手で心筋梗塞を患う宮本(白川浩二郎)、そして乗客たち--駆け出し女優の立花かおる(橘麻紀)、主婦の戸田政江(荒木雅子)、ホステスの小林ハルミ(中川三穂子)、大工の西勲(松本泰郎)、小学校教師の松原啓一(野口貴史)、その松原の教え子で彼と浮気を続ける河原文子(三浦徳子)、チンドン屋の極楽一郎(志賀勝)、良子(丸平峰子)、達(畑中怜一)たち、無職の老人・半田市次郎(野村鬼笑)、塾に通う小学生の加藤(細井伸悟)と田中(秋山克臣)、総勢13名である。
谷村、桐野は乗客を人質にしたため、恐怖を感じた乗客たちは徐々にエゴをむき出し、車内のパニック状態はエスカレートしていく。
やがて、速水は隙を見て脱出を試みるが、逆に宝石泥棒であることを見破られてしまう。
警察は各国道沿に非常線を張るが、バスは次々と非常線を突破し、その後をパトカー、白バイが追った。
一方、速水の乗ったバスがバス・ジャックされたと知った美代子も、オートバイでバスを追走した。
やがてバスの運転手の宮本は持病の心筋梗塞で倒れたため、速水が運転することになったが、緊張のために眼は徐々にかすんでいった……。


寸評
本作の筋はと言うと、銀行強盗に失敗して逃げ場を失った二人組が宝石泥棒が乗っていた路線バスをジャックして追っ手を振り切ろうとカー・チェイスを繰り広げるというシンプルなものである。
関係者のちょっとした過去が挿入されるが、大半がジャックされたバスの中の混乱と、バスとパトカーによるカー・チェイスである。
中島貞夫はハリウッド映画並みのカー・チェイス映画を撮りたかったのかもしれないが、アクション映画というよりも乗客が繰り広げる喜劇として見た方が楽しめる。
宝石店強盗の渡瀬恒彦が乗っているのは別として、その他の乗客と犯人や、乗客同士のやり取りが面白い。
乗客は犯人に降ろしてくれと迫るが、必死に命乞いをしているわけではなく、降りたい理由はまったくの個人的な事情、言い方を変えれば我儘な言い分なのだ。
オバサンは病院に行かねばならないと訴えているのだが、病院は本人ではなく動物病院にペットの犬を連れて行かねばならなかったと分かる。
駆け出し女優はやっと役がもらえて、集合時間に行かないと女優の道が閉ざされてしまうのが理由で必死なのは分かるが兎に角うるさくてひんしゅくを買い、犯人によって口をふさがれてしまう。
小学校の先生と不倫相手である教え子の母親はお互いの立場を気にしだして険悪状態になってしまう。
犯人の一人は、「ぶち殺しちゃるけぇ!! ぶち殺しちゃるけぇのぉ!!」とスパナを振り回してはみるが、肝の据わったオバチャンに怒鳴り返されるわ、渡瀬にはボコボコに殴られるわで、何だかんだ言っても自分の方が痛い目にばかりあっている気弱な男である。
警察は間抜けで、乗っ取られたバスの特定にやたらと時間がかかり、ちっとも事件は解決しそうにない。
全編に渡り笑いと血みどろのバイオレンスが交差されていき、冗談と本気の区別がつかない

事件が解決した後、記者会見に臨んだ乗客たちは自分たちのネコババが発覚するのを怖れ、すべての犯行は射殺された二人が行ったと口裏をあわせる。
渡瀬はヒーロー扱いされているが行方は分からない。
唯一まともな登場人物である正直な子供が「あのおじさんは宝石泥棒だろ」と指摘すると、乗客から「嘘は泥棒の始まりですよ」とたしなめられてしまう。
こうなってくると、悪人は犯人の二人組ではなく、善良な一般市民を装っている乗客たちではないかと思えてくる。
見方を変えるなら、小市民はしたたかで、どのように状況がパニックになっても自己防衛を果たす人種なのだ。
赤の他人であっても目的が一つになった時には素晴しい団結力を見せる。
災害時などにおける冷静さと規律の良さは日本人が誇れる美徳だが、それをブラックに描けば乗客がとった行動になるのだろう。
速水と美代子は単にお祭り騒ぎをしたかっただけなのだろうか。
二人が抱いていた不満のはけ口はどこに向かうのだろう。
渡瀬は野獣に違いないが、狂っていたのは乗客たちであり、心筋梗塞を患っている運転手を働かせているバス会社であり、無茶な命令に逆らえない官僚組織であろう。
この映画はバス・ジャックという事件を取り上げたサスペンス映画の体裁をとりつつ、スリルとサスペンスがまったく感じられないというお笑いアクション映画である。

狂った果実

2023-10-23 07:44:23 | 映画
「狂った果実」 1981年 日本


監督 根岸吉太郎
出演 本間優二 蜷川有紀 益富信孝 永島暎子
   岡田英次 小畠絹子 無双大介 鈴木秋夫
   高瀬将嗣 栩野幸知 アパッチけん 北見俊之

ストーリー
ガソリンスタンドで働く佐川哲夫(本間優二)と原宿で遊ぶ森千加(蜷川有紀)がはじめて出会ったのは、彼女がボーイフレンドとガソリンの補給にやってきたときだ。
哲夫は夜は暴力バー「パラダイス」で働いているが、生活は真面目だ。
数日して、ジョギング中の哲夫のわきを、千加が偶然に通りかかり二人はドライブをした。
彼女のドレッシーな姿に、哲夫は強引に犯してしまう。
翌日、千加はスタンドにやって来て、強姦魔と哲夫をからかい、彼は興奮して客の外車をブツけてしまい、店をクビになってしまう。
哲夫はその夜、「パラダイス」で、払いの悪い客を徹底的にブチのめす。
そこへ千加が現れ、二人は彼女のマンションで体を重ねた。
千加から義父の東野(岡田英次)の子を宿していると聞いた哲夫は、東野の会社に殴り込みに行った。
そんな哲夫の直線的な行動に、千加は馴染めないものを感じる。
数日後、千加の遊び仲間でアメラグのメンバーがパラダイスにやって来て、大騒ぎをした。
二十万円の請求にせせら笑う学生たち。
哲夫と学生たちの間で乱闘がはじまり、はずみで、店の先輩大沢(益富信孝)の妻でホステスの春恵(永島暎子)が流産してしまう。
事情を聞いた大沢は哲夫と一緒に学生たちの溜り場「ショットガン」に乗り込んだ。
入り乱れる双方、哲夫の持っていた出刀抱丁がひとりを刺し、修羅場と化した。
呆然と街を歩く千加。
翌日、いつものようにジョギングをする哲夫。
その後を、覆面パトカーがスーッと追って行った。


寸評
谷村新司が作詞したアリスの楽曲「狂った果実」をモチーフにしていて、出だしの歌詞は以下の通りである。
  ひとしきり肩濡らした冬の雨
  泥をはねて行きすぎる車
  おいかけて喧嘩でもしてみたら
  少しぐらい心もまぎれる
  狂った果実には青空は似合わない
  家を出たあの時の母のふるえる声は
  今でも耳に響いている低く高く
又こんな歌詞も含まれている。
  生まれてきたことを悔やんでないけれど
  幸せに暮らすには時代は冷たすぎた
  中途半端でなけりゃ生きられない
  それが今

根岸吉太郎監督が「遠雷」で名声を得る直前の作品である。
ロマポルノに名を借りているが、社会の底辺に位置しつつも必死に生きる若者が金持ちの令嬢と知り合い、愛しあいながらもサデステックな愛情表現に対し、最後に見せる暴力のエネルギーが見る者の心に迫ってくる作品だ。
踏みにじられた弱者の憎悪と愛と情熱があふれ出ている作品で、僕はそのラストシーンに固唾を飲んだ。
「強姦魔さーん」と自転車に乗って現れる、当時新人の蜷川有紀さんは、「魚影の群れ」の夏目雅子さんの自転車姿ほどではないにしても、なかなかはつらつとして、良家の不良お嬢様の雰囲気を出している。
すこし憂いを秘めた顔つきだけに、その登場シーンは効果的である。
好きだから意地悪したくなるのも一つの愛情表現なのだろうが、乱闘シーンでお互いに傷ついた顔で見詰め合う姿を切なく思う。
「興味があるから徹底的にからかいたくなるのよね」とつぶやいて、哲夫の店に行くあたりからの破滅への展開はスピーディで一気に見せる。
出産用のお金を持ち出された女が居たたまれなくなり、居合わせた哲夫を無理やり誘い、事が終って「有難うございました・・・」と言う、気のいいすこし抜けている女・春江を演じる永島暎子は存在感があり、彼女の流産で二人の男がキレるのを、登場シーンが少ないにもかかわらず納得させる。
「遠雷」が最大級の評価を受け、この「狂った果実」が評価されないのは、まさしくロマンポルノというジャンルへの差別だろう。
そもそもこれはポルノ映画ではない。
「遠雷」が一般映画で、これがポルノ映画だとすれば、一体その切り分けはどこにあるのだろう。
アリスの「狂った果実」をモチーフにしているこの映画のラストで流れる主題歌と、血みどろの哲夫が田舎の母に電話するシーンには涙が流れた。
蜷川有紀さんの事務所と接触する機会があり、どうも事務所及び彼女はロマンポルノに出演したことを後ろめたく思っているのではないかと感じたのだが、ロマンポルノは多くの名監督と立派な女優を生み出している。

谷村新司さんのご冥福をお祈りいたします。

グリーンブック

2023-10-22 07:11:35 | 映画
「グリーンブック」 2018年 アメリカ


監督 ピーター・ファレリー
出演 ヴィゴ・モーテンセン マハーシャラ・アリ
   リンダ・カーデリーニ ディミテル・D・マリノフ
   マイク・ハットン イクバル・テバ
   セバスティアン・マニスカルコ P・J・バーン

ストーリー
1962年ニューヨーク、高級クラブで用心棒として働くイタリア系白人のトニーはその口達者な性格からトニー・リップと呼ばれていた。
クラブが改装のため数ヶ月間閉鎖すると知らされたトニーは、妻ドローレスと2人の子供達を養うため、仕事を探して回る。
ある日、友人からあるドクターがドライバーを探していると仕事を紹介されたトニーは面接へ行くと、そこで黒人差別が色濃く残る南部へのコンサートツアーを計画している黒人のピアニスト、ドクター・シャーリーと出会う。
クリスマス前までの2ヶ月間のツアーに同行するドライバー兼ボディガードを探していたドクター・シャーリーに、それなりの金額を提示されたトニーは仕事を受けることにした。
コンサートツアーへ出発の日、トニーはレコード会社から“グリーンブック”という黒人でも宿泊可能な宿のガイドブックが渡された。
トニーは家族に別れを告げるとドクター・シャーリーと一緒に南部へ向かう。
コンサート会場の外からドクター・シャーリーがピアノを弾く姿を見たトニーは、彼のピアノの才能に圧倒された。
ある夜、ドクター・シャーリーが1人でバーに行くと、差別的な白人たちに暴力を振るわれた。
次のコンサートへ向かう2人は道中で白人警察に止められ職務質問を受け差別する様な事を言われた。
トニーは感情を抑えられずその警官を殴り、ドクター・シャーリーも一緒に拘置所へ入れられてしまった。
何もしていないにも関わらず捕まったドクター・シャーリーだが警官は黒人の彼の言う事に耳を傾けなかった。
すると警察署に州知事から2人を釈放するよう電話が来る。
なんと、ドクター・シャーリーは知人である司法長官のロバート・ケネディに電話をしていたのだ。


寸評
人種差別問題を描いた作品は重くなりがちだが、「グリーンブック」はユーモアのある場面もあって重くはなく肩の凝らない作品である。
黒人と白人の組み合わせとなると、よくあるパターンは主人である白人よりも使用人の黒人の方が優秀な描き方だと思うが、この作品のユニークなところは黒人のドクター・シャーリーが白人のトニーを雇っていることで、トニーにとってはとドクター・シャーリーがボスということである。
がさつだが世間慣れしているトニーと、教養と礼儀を持ち合わせているドクター・シャーリーの対比が面白い。
道中で見つけたケンタッキー・フライドチキンをめぐるやり取りは笑わせる。
ドクター・シャーリーが1度もこの庶民的ファストフードを食べたことがない事を知ると、トニーは面白がりながらドクター・シャーリーに無理やり食べさせる。
ドクター・シャーリーはフライドチキンを手で持って食べることに抵抗を感じながらも、思いのほか美味しいとわかり運転中のトニーと一緒に食べる。
トニーがソフトドリンクの紙コップを車の窓から道路に投げ捨てると、車をバックさせてそれを拾うように注意する。
ドクター・シャーリーは堅物と思えるくらい道徳的で、そのようなエピソードは随所で繰り広げられる。

コンサートの中休みでディナーパーティが開催される。
そこでトイレを使おうとしたドクター・シャーリーは、主催者から外にある黒人のスタッフ用トイレを指示される。
その貧弱なトイレを使う事に抵抗を感じたドクター・シャーリーはトイレに行くためだけにホテルへ戻る事にする。
ひどい仕打ちの筈だが、描き方が喜劇的で黒人差別のひどさをひしひしと感じるものではない。
職務質問をした警官の差別的な発言に暴力をふるったトニーがドクター・シャーリーと一緒に拘置所へ入れられるエピソードも面白い。
ドクター・シャーリーは弁護士に電話を掛けさせてほしいと願い出る。
若い警官は認められている権利だと申し出を擁護するが、この警官は職務質問の時にも真っ当な意見を言っていたので、ピーター・ファレリーはアメリカの良識を彼に託したのかもしれない。
その後の警察当局の慌てぶりが、これまた滑稽である。
白人のトニーと黒人のドクター・シャーリーのやり取りが軽妙なので、人種差別の重さを吹き飛ばしている。
当時としては逆転しているような関係は、南部に行けば行くほど奇妙にみられる。
黒人奴隷と思われる労働者が奇異な目で彼ら二人を見るシーンが象徴的だ。
ドクター・シャーリーは音楽家としてはもてはやされているが、一歩社会に出れば差別される被害者である。
成功者に入る彼は、黒人社会からも浮いた存在で、一人でカティーサークを飲んで孤独を味わっている存在だ。
感情を押し殺して生きている彼がトニーによって変質していくのは、分かっていても微笑ましく思える。
黒人である事を理由にレストランへの入店を拒否されたドクター・シャーリーはトニーと共に黒人専用のレストランへ行き、そこで突然ピアノを引き出す場面に感動したのだが、僕はラストシーンでトニーの奥さんがすべてを見通していて「手紙を有難う」という場面が一番好きだ。
黒人差別がはびこっていたトニー一家だったが、そのわだかまりが消えていたことを感じ取ることが出来た。
よくできた良心作だが、史上最低の作品賞と揶揄する人もいるというのも納得できる内容であるものの、最後までくつろいで見ることが出来る作品でもある。

グランド・ホテル

2023-10-21 08:36:18 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/4/21は「金環蝕」で、以下「金融腐蝕列島 〔呪縛〕」「空気人形」「空中庭園」「苦役列車」「グエムル -漢江の怪物-」「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」「グッバイ、レーニン!」「蜘蛛巣城」「クライマーズ・ハイ」と続きました。

「グランド・ホテル」 1932年 アメリカ


監督 エドマンド・グールディング
出演 グレタ・ガルボ ジョン・バリモア
   ジョーン・クロフォード ウォーレス・ビアリー
   ライオネル・バリモア

ストーリー
ホテルは人生の縮図、ベルリンのグランド・ホテルの1日、ここに登場する人々の生活を例にとってみよう。
企業界の大立物プレイジンクは自己の事業が危機に瀕したので他の会社との合同を企てていた。
エキゾチックな踊り子として艶名を謳われたグルシンスカヤは昨日の人気も失せ、明日にも自殺を決行するほど全く気力を失っていた。
フォン・ガイゲルン男爵は賭博に浮き身をやつした挙げ句、多大の借財を負って盗賊団に身を投じていた。
彼はグルシンスカヤの宝石を盗み出して債務を逃れんとしていた。
これに加わる新しい登場人物が女速記者のフレムヘンで、彼女にはすこぶる性的魅力があり、最近プレイジンクに雇われたのである。
その外かつてはプレイジングの会社の帳簿係をしていたクリンゲラインは健康を害して自暴自棄になり、せめてこの世の名残にもと、へそくり金でグランド・ホテルに投宿して豪勢なる雰囲気に浸っていた。
クリンゲラインはガイゲルン男爵と知己となり共にフレムヘンとも親しい仲になった。
プレイジングは自分の画策した合同運動が失敗に帰し、心ならずもついに不正手段で取引に成功した。
これが彼の道徳観念に動揺を与え、フレムヘンに金を与え商用を口実に彼女と共に旅行しないかと説くと、彼女は同意した。
グルシンスカヤは一夜自分の部屋に戻ってくると意外にも男爵が自分の部屋に隠れているのを発見した。
彼は彼女を愛してここまで追ってきたと弁解し人生の歓喜を讃える。


寸評
グランド・ホテル形式と言う呼び名の元になった作品であるが、今見るとストーリーを追うばかりでエピソードの深みを感じられないのだが、これも制作年度を考えると致し方のないところなのかもしれない。
群像劇の割には登場人物は少なく、主要人物は冒頭のキャスティング・クレジットで写真と共に示される。
筆頭はグルシンスカヤのグレタ・ガルボである。
彼女は踊る自信を無くし代役の若いダンサーにその地位を奪われそうになっている。
絶望して自殺まで考えるようになっているのだが、その絶望感はあまり感じ取れない。
彼女を立ち直らせるのがガイゲルン男爵なのだが、全体としては彼が物語の進行役を務めている。
今はギャンブラーに身を落とし、賭博の借金に追いまくられているが、元は貴族である。
彼がグルシンスカヤに語る言葉が面白くて印象に残る。
それは、「貴族の家に生まれて礼儀作法と乗馬を教えられ、教会に行くようになって信仰と嘘を教えられ、戦争に行って殺人と裏切りを教えられた」というものであった。
彼は借金返済の為にグルシンスカヤの真珠のネックレスを盗もうとしているのだが、登場人物の中では一番の善人なのが面白い設定となっている。
余命が残り少ないクリンゲラインにとても優しく接し思いやりを見せる。
金の為に身を売ろうとしたフレムヘンにも優しい言葉をかける。
その彼があっけない形で終わってしまうのは少し寂しい気がした。

クリンゲラインは余命がわずかなのだが残された時間がどれぐらいなのかが分からない。
加えてすこぶる元気なので、人生一度で最後の贅沢をしている悲壮感が伝わってこないのはマイナスだ。
彼は同じく宿泊者であるプレイジングの会社に務めていたのだが、社長のプレイジングは彼のことなど眼中になく、おまけに彼を見下した態度をとり続けている。
クリンゲラインはその鬱憤を、ダンス会場のバーカウンターで思いっきり社長のプレイジングにぶつける。
サラリーマンにとってはスカッとする場面なのだが、もっとやっつけても良かったように思う。
ブレイジングが噓の証言をクリンゲラインに懇願する惨めったらしさも、もっと強烈に描いても良かったように思う。
僕の想像として、ブレイジングは資産家の娘と結婚して義父には頭が上がらない男に思えたので、自分の実力ではなく政略によって社長の地位に就いた男の成り上がり根性を叩きのめして欲しかった。
プロレタリアートである僕のブルジョアジーに対するひがみである。

クリンゲラインはタイピストのフレムヘンとパリに行くことになるが、パリに行った彼らはその後どうなったのだろう。
フレムヘンはクリンゲラインの最後を看取ることになったのだろうか。
ホテルを後にしたグルシンスカヤも同様で、列車に乗った彼女は事実を知ってどうしたのだろう。
それらは明かされないままに映画は終わっているのだが、同じ入り口から入り別々の部屋での宿泊を終えた人たちはそれぞれの場所に帰っていき、ホテル側はホテルを出た人のその後には関知しないということを著しているのだろう。
ハッピーエンドと思えないエンディングだが、ホテルの従業員に子供が生まれたことが辛うじてハッピーな気分にさせてくれる。

クライ・マッチョ

2023-10-20 08:13:51 | 映画
「クライ・マッチョ」 2021年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド エドゥアルド・ミネット
   ナタリア・トラヴェン   ドワイト・ヨーカム
   フェルナンダ・ウレホラ  オラシオ・ガルシア=ロハス

ストーリー
テキサス州に暮らすマイクはロデオのスターだったが、怪我のために引退して老いぼれ扱いされる毎日。
そんな彼は勤め先の牧場の上司ハワードに呼び出され、メキシコに暮らす13歳の息子ラフォをテキサスまで連れてきてほしいという仕事を頼まれた。
マイクは、メキシコシティにいるハワードの元妻リタの家を目指したが、リタは豪邸に暮らし、酒浸りで男遊びの毎日を過ごしていた。
息子のラフォはストリートチルドレンとして盗みや闘鶏に明け暮れていた。
マイクは闘鶏場で彼の鶏『マッチョ』といたところ、警察が取締りに訪れたので逃げ出した。
その後マイクはラフォを見つけたが、彼はマイクのことを母から送られた男だと思っていた。
マイクのことを信用していなかったラフォだったが、カウボーイ生活に憧れてマイクのことを信用し、ハワードの家に帰ることにしアメリカを目指す。
ラフォは男遊びをする母を嫌悪し、彼女の手下のアウレリオは前科者で彼からいじめられたと話した。
マイクたちの前にリタの手下のアウレリオとルーカスが現れたが、ラフォはマイクとともに逃走した。
二人は小さなレストランを見つけ、そこのオーナーのマルタという女性と出会った。
翌朝、マイクとラフォは店を出発し、マルタは別れを惜しんだ。
マルタは二人の後を追って食事を運んできた。
二人は近くの牧場で馬を見つけて乗馬のトレーニングを開始し、その後にマルタのレストランを訪れた。
マルタは、そこにいる子どもたちは孫で、母親である自分の娘と夫は2年前に病気で死んだと話した。
二人は宗教施設で寝泊まりしながら、牧場で乗馬のトレーニングを続けた。
マイクは再度ハワードに電話したところ、ハワードはかつてレタの名義で投資した不動産が大金を生んだので、取り分を確保する交渉の為に、ラフォを手元に置く計画だったこと、それでも息子は愛していると話した。
ラフォは少女と仲良くなり、「アメリカに行けなければ、ここに残りたい」と言った。


寸評
クリント・イーストウッドの撮る映画は、彼が主演することも有って年齢と共にだんだんと枯れた内容になってきているように思う。
ところがその枯れ具合が良くて、作品が安定してアベレージを保つようになり彼の職人肌を感じさせる。
主演を兼ねる監督として次々とアベレージ作品を撮り続けているのはチャプリン依頼ではないか。
ここでのイーストウッドは銃をぶっ放すこともないし、追手と戦う時も派手なアクションもない。
しかし、悠然と馬に乗り、女性とダンスを踊るだけで、マイクという男の歴史が見てとれるものがあるのだ。
「マッチョ」はラフォが連れている雄鶏の名前なのだが、イーストウッドはその名前にマッチョな男であった自分を重ね合わせているのかもしれない。
イーストウッド演じるマイクは「マッチョは過大評価されすぎだ。人はすべての答えを知った気になるが、老いと共に、無知な自分を知る。気づいた時には手遅れなんだ」と言う。
彼に重ね合わせるとそれは謙遜なのだが、同時に年老いてきた自分に言い聞かせているように思えた。

1979年の話なのにイーストウッドがカ-ボーイハットをかぶって出てくると西部劇を感じさせてしまう。
これが西部劇とするなら、実におおらかな西部劇となっている。
マイクはラフォから「アメ公」と呼ばれているし、リタから息子を奪還するように命じられた手下が悪党面なのに全然マヌケで追跡劇の体をなしていないのだ。
追手の一人はラフォの機転でそこの居た人々から袋叩きにあって失敗してしまう。
もう一人は何とラフォの鶏によって撃退されてしまうなど、この映画において暴力性は排除されている。
また、二人が出会う危機をマイクによって脱していて世代交代を感じさせている。
前述の機転の場面もそうだが、パトカーで追ってきた警官への対応も彼の力によるものだ。
マイクが英語を話せないメキシコ人女性を愛する姿といい、彼女の子供たちと手話で話す姿など、マイクに関してはほのぼの場面も満載である。
僕はその雰囲気によって、車を盗む犯罪行為をも許してしまっていた。

内容的には少年の父親と再会を果たすためのロードムービーでもあるのだが、むしろマイクという老人の救いの為の旅でもあったように思う。
ラフォは父親との再会を果たすが、映画はその感動場面で終わっているわけではない。
描き方も感動を呼び起こすような演出は取られていない。
マイクはラフォに「困ったらやって来い。居場所は分かっているな」と言って父親の元へ送り出す。
当然ラフォはマイクの居場所は分かっているということである。
マイクが自分の居場所を見つけた場所はあそこしかない。
自分の救いの場所を見つけたということだ。
このラストシーンはこの映画の締めくくりにふさわしいものとなっている。
マッチョは鳴き声を上げる。
マイクが救いの場所を見つけたことへの祝福の鳴き声だ。
なるほど、だから「クライ・マッチョ」だったのだと僕は納得した。

雲の上団五郎一座

2023-10-19 08:02:44 | 映画
「雲の上団五郎一座」 1962年 日本


監督 青柳信雄
出演 フランキー堺 三木のり平 八波むと志
   水谷良重 高島忠夫 榎本健一

ストーリー
ドサ廻りの雲の上団五郎一座の座長、団五郎(榎本健一)は、大劇場で華々しく公演するのを夢みている男だが、現実はなかなか厳しく相変らずのドサ廻りを続けていた。
祭礼で賑うある田舎街。
さっそく一座は小屋を掛けたが、座員は座長をはじめ女形ののり蔵(三木のり平)、太蔵(八波むと志)、竜之助(丘寵児)、武雄(森川信)、菊之丞(沢村いき雄)など小人数なため一人一人が三役も四役もこなさなければならずてんやわんやで、出し物はのり蔵の「娘道成寺」と「母恋笠」。
この芝居を見に来た土地の親分(藤木悠)の妾お柳(北川町子)は、すっかりのり蔵に熱を上げ、二人は蓬びきの約束までした。
それを知った親分はカンカンになり、一座は親分の怒りをかって荷物と共に放り出され四国へ向かった。
途中一同は四国へ向かう船で酒井英吉(フランキー堺)という青年に声をかけられた。
とうとうと演劇論をまくし立てる酒井も実は胃の中がカラッポ。
酒井が四国の人間であることから、わらをもつかむ気持で、団五郎は彼に四国の万興行に一座の売込みを頼んだところ、万興行社長の娘はるみ(水谷良重)が酒井を迎えに来ていた。
英吉は、「東京大歌舞伎・雲の上団五郎一座」の売り込みに成功し、英吉は一座のために一大悲劇「ラブミー牧場」を書きおろした。
だが、悲劇も団五郎一座にかかってはたちまち喜劇に早替り。
おまけに国定忠治のセリフまで出てくるとあって万善五郎(花菱アチャコ)は気を失った。
ところが意外なことに小屋の前は連日長蛇の列。
今日は京阪神興行の社長(高島忠夫)が見物に来るという日、一座の珍芸珍演に観客は大よろこび、いよいよ大阪の大劇場の出演が決った・・・。


寸評
映画史を飾る作品と言うより芸能史を飾る一編と言ってよいだろう。
劇中劇で演じられている内容も当時は笑いを誘ったものだろうが、吉本新喜劇を見慣れてきた僕は舞台劇として笑える内容には思えなかった。
しかしながら、僕には出演する喜劇俳優は見慣れた人たちで、懐かしさもあって最後まで見ることができた。
今から思えば随分と名のある役者が出ている。
三木のり平、八波むと志、榎本健一、フランキー堺、花菱アチャコ、森川信、由利徹、佐山俊二、南利明、茶川一郎、清川虹子などキラ星の如くである。
途中からシリアスな役が多くなった藤田まことも元は喜劇からスタートしていた。
彼のテレビ番組「てなもんや三度笠」は人気番組で僕も随分と楽しみながら見た生番組だった。
その前に「番頭はんと丁稚どん」という生番組があって、始まる前に幕前でやっていた「あっ、効いてきた!」というコマーシャルのギャグや、「てなもんや三度笠」のスポンサーコマーシャルとして叫ぶ「当たり前田のクラッカー」も思い出したのだが、ここでは若い頃の藤田まことが医者役で出ている。

話はあってないようなものでドタバタの連続である。
男好きの北川町子によって言い寄られた三木のり平と八波むと志が親分の藤木悠達に追われて逃げ込んだところが墓場で、そこで追いつ追われつのドタバタが繰り広げられる。
お決まりのあっちへ行ったり、こっちへ行ったりの追いかけごっこを繰り広げ、彼らが役者なので小道具の火の玉を出したり、肩車してお化けになったりして撃退するのだが、今見ると笑える内容ではない。
四国に渡って「ラブミー牧場」を演じることになるが、「ラブミー牧場」は当時人気があった吹き替えのテレビ映画「ララミー牧場」をもじっているのだろう。
内容は「瞼の母」もどきとなっており、その他にも「勧進帳」や「国定忠治」、「金色夜叉」など皆が知っている話がギャグに使われている。
しかしそのギャグは可笑しさよりも懐かしさを感じさせるものであった。

どうせならフランキー堺のドラムを見せてほしかった。
ちょっと太り気味で「幕末太陽伝」の颯爽としたフランキー堺ではなかった。
人情もペーソスもないので、フランキー堺と水谷良重の恋も浮いたものなっている。
それなら二枚目的な高島忠夫と水谷良重が恋人同士であったほうがしっくりくる。
三木のり平の女形も中途半端で、どうせならもっと大暴れしてほしかった。
八波むと志はもっと面白い役者だったと思うが、役柄上しかたのないことだったのだろう。

最後は「カルメン」が演じられ、歌手でもある水谷良重が歌を披露し、宝塚歌劇よろしく大フィナーレを迎える。
水谷良重は初代水谷八重子の娘で新派のホープだった。
母親の死後、菅原謙二・安井昌二・波乃久里子とともに、「新派四本柱」と称され2代目水谷八重子を襲名した。
映画にも多く出演しているが、これはという作品に恵まれていないのは惜しい。
彼女を生かした作品は撮れたような気がする。

グッド・シェパード

2023-10-18 07:29:10 | 映画
「グッド・シェパード」    2006年 アメリカ

                        
監督 ロバート・デ・ニーロ                         
出演 マット・デイモン アンジェリーナ・ジョリー
   アレック・ボールドウィン タミー・ブランチャード
   ビリー・クラダップ ロバート・デ・ニーロ
   ケア・デュリア マイケル・ガンボン マルティナ・ゲデック
   ウィリアム・ハート ティモシー・ハットン リー・ペイス
   ジョー・ペシ ジョン・タートゥーロ ジョン・セッションズ
   
ストーリー
1961年4月17日、アメリカの支援を受けた亡命キューバ人の部隊が、カストロ政権の転覆をもくろみピッグス湾に上陸するが、CIA内部の情報漏れによって作戦は失敗し、CIAは窮地に追い込まれた。
3日後、作戦の指揮を執ったベテラン諜報員エドワード(マット・デイモン)のもとに1本のテープが送られてくる。
録音されていたのは同封の写真の男女がベッドで交わした会話だった。
エドワードは、部下のレイ・ブロッコ(ジョン・タートゥーロ)を通じて技術部にテープと写真の分析を依頼した。
その結果が、自分と家族にどれほどの衝撃をもたらすかも知らずに・・・。

エドワードが諜報の道に足を踏み入れたのはイエール大学在学中のことだった。
時代は第二次世界大戦前夜。
エドワードは、FBI捜査官のサム・ミュラッハ(アレック・ボールドウィン)の接触を受け、親独派のフレデリックス教授(マイケル・ガンボン)の身辺を探る任務を頼まれ、教授を辞職に追い込んだ。
さらに彼は、先輩の紹介でサリヴァン将軍(ロバート・デ・ニーロ)と対面し、戦時中の諜報活動に参加して欲しいと誘われる。
自殺によって人生の幕を閉じた海軍高官の父の汚名を晴らすことを願っていたエドワードは、サリヴァンの申し出を引き受けた。
その当時、エドワードには、ローラ(タミー・ブランチャード)という恋人がいた。
彼女は耳が不自由だったが、明るく優しい女性で、エドワードはローラと共に歩む人生に多くの夢を馳せていた。
しかし、ディア島の集会の夜、エドワードは上院議員の娘クローバー(アンジェリーナ・ジョリー)と弾みでベッドイン。
クローバーが妊娠したことから、彼女と結婚する道を選ばざるをえなくなる。
その挙式当日にサリヴァン将軍の使者が出現し、海外赴任命令を受けたエドワードは1週間後、戦略事務局(OSS)の一因としてロンドンへ旅立った。
ロンドンで情報操作のノウハウを学ぶエドワード。
1946年、帰国したエドワードは、これまで電話でしか話したことのなかった息子と初めて顔を合わせた。
クローバーは、エドワードが不在の間に、寂しさのあまり一度だけ別の男性と付き合ったことを自らエドワードに告白。
過去を忘れ、改めて幸せな家庭を築きなおそうとエドワードに申し出る。
しかし、OSSの流れを汲んで作られたCIAで働き始めたエドワードは、家庭を顧みる暇もなく仕事に没頭。
秘密主義を貫く彼のせいで友達付き合いもままならなくなったクローバーはストレスをつのらせ酒に溺れていく。

1960年。エドワードは、自分と同じくイエール大学に進み、大学生活を送った息子から、CIAに入るという話を聞かされる。
息子だけはCIAと無縁の生活を送って欲しいと願っていたクローバーは「不採用になるように計らってくれ」とエドワードに懇願する。
そんな彼女と口論になったあげく、「君と結婚したのは子供が出来たからだ」と口走ってしまうエドワード。
その瞬間、20年に渡る二人の偽りの結婚生活は完全に終わりを告げた。
クローバーは去り、諜報員となった息子は海外へ赴任。
いまや一人になったエドワードにとっては、CIAの仲間だけが家族と呼べる存在だった。
とはいえ、ヒックス湾の失敗が内部の情報漏れによって引き起こされた以上、仲間と言えども信用することは出来ない。
エドワードと腹の探り合いを演じてきたソ連の諜報員スタス・シャンコ(オレグ・ステファン)こそが、今回のCIAの情報漏洩を仕組んだ黒幕であることが明白になる。
写真とテープの分析結果にもとづいてコンゴへ出向いたエドワードは、待ち構えていたシャンコと顔を会わせることとなる。
そこで明らかになった驚くべき事実。
エドワードは協力を求めるシャンコから、国を守るか、家族を守るかの二者択一を迫られることになる・・・。


寸評
総製作指揮に名を連ねるフラシス・フォード・コッポラがどこまで影響を及ぼしたのかは不明だが、ロバート・デ・ニーロの監督としての手腕も中々のものがあった。
オープニングはバックボーンとなるビデオのシーンから始まり、その真相を解明しようとする現在と、今日に至るまでのエドワードの過去が交差する形で進展してゆく。
サスペンスとしてみると、真相解明においては送られてきたビデオと写真に写っていた人物は一体誰なのかという事。
一方では今日のエドワードが如何にして出来上がってきたのかという事。
そのミステリアスな構成が良い。
妹の妊娠を告げ責任を取るように迫る兄の唇を読み、ぼう然と去るローラの海辺のシーンは、耳が聞こえなくて唇を読んで会話するローラの特性が伏線になっていて秀逸だった。
エドワードに理想の夫像を見出し、肉体関係を迫って結婚にこぎつけるまでのアンジェリーナ・ジョリーは野心ある積極的な女としてはまり役だったと思うが、結婚生活に疲れ果てていく段になると、ひ弱さを感じない分だけ、彼女が取り乱すシーンに少し違和感があった。
クローバーと再会するエピソードは添え物かなと思ってみていたが、送りつけられる盗み撮り写真が冒頭のビデオと写真を送りつけた人物と同じではないかと感じさせるので、けっして添え物などではなく感心させられたし、CIAなどという諜報機関にいると、寡黙で陰気で少し前かがみに歩くマット・デイモンが演じたエドワードのような人格になってしまうことが現実的で、ジェームス・ボンドは当然とはいえ活劇映画の中だけの存在なのだと再認識させられた。
映画においては情報漏えいだけが作戦の失敗原因の如く描かれているが、通説によればCIAが亡命キューバ人部隊には米軍が援護するかの如くいい、大統領には米軍は関与しなくても成功するとの二枚舌を使ったせいだとか、攻撃の時差を間違えた作戦ミスなどの複合原因となっている。
そして、この失敗に激怒したケネディ大統領がCIAを解体しようとして暗殺されたのだとする説もある。
それからすると、正に事実は小説よりも奇なりで、映画よりも恐ろしい背景があることになる。
エドワードが女性スパイを抹殺するくだりにその片鱗が垣間見えたが、この映画のテーマとしてはそちらに重きを置いていなかったようだ。
アレン長官が作戦に乗じて私服を肥やしていることなどが淡々と描かれると、かえってCIAという巨大組織の中では自然発生的に存在する腐敗の奥深さを想像させた。
タイムリーな事に、公開示においては日本の防衛省相手(守屋前次官)の接待疑惑が報じられていたので、軍事とか諜報とかの国家機密が存在する部署には腐敗が存在するものとの確信を持った。
それは奇しくもエドワードに接触してきたソ連のスパイ容疑者が口にする「あなたたちにとってはソ連が脅威でないと困る」という言葉が国家組織の本質を言い当てている。
国家及び指導者は国民の不満を外に向けるために巨大な敵という幻想を国民に植え付け、税金を軍需産業に注ぎ込む。
中国にそれを感じるし、アメリカにとってはその事が顕著なのだろう。
そして、それはソ連にとっても同様で、冷戦という作られた緊張の上に政権基盤を築いて来た筈だ。
ラストにおけるエドワードの暗い後姿はCIAという組織が抱えている底なしの腐敗の存在を見るようだった。

空白

2023-10-17 08:17:43 | 映画
「空白」 2021年 日本


監督 吉田恵輔
出演 古田新太 松坂桃李 田畑智子 藤原季節 趣里
   伊東蒼 片岡礼子 寺島しのぶ 野村麻純 篠原篤
   和田聰宏 中村シユン 加藤満

ストーリー
添田充(古田新太)は、とある港町で漁師をしている中年男で、気性の激しい乱暴者の充は妻の翔子(田畑智子)とは離婚しており、今では中学生になる一人娘の花音(伊東蒼)と二人暮らしをしていた。
充の弟子である野木龍馬(藤原季節)は内心不満を抱いていたが、仕方なく充についていくしかなかった。
充は花音の学校に乗り込み、担任の今井若葉(趣里)に教育がなっていないと怒鳴り散らしたのだが、今井は優等生ながらも存在の薄い花音のことを快く思っていなかった。
そんなある日、花音は地元の小さなスーパーで万引きをし、店長の青柳直人(松坂桃李)に目撃され逃げ出したが、道路に飛び出した花音は自動車に撥ねられて即死してしまった。
充は花音の遺体と対面し、充の怒りの矛先は花音の万引きを咎めようとした青柳に向けられた。
マスコミは花音の一件を面白おかしく報じ、青柳は花音が万引き未遂をしたとはいえ執拗に追いかけ回したのではないかと責め立てた。
充が次に怒りの矛先としたのが学校側だった。
充は花音が化粧品を万引きしようとしたのはクラスの誰かから脅されていたのではないかと考えた。
充は学校に乗り込み、今井を始め学校側に執拗に噛みついた。
学校側は一応花音に関する調査を始めたが、それでも全く納得できない充は直接生徒たちから事情を聞くと言い出した。
困り果てた学校側は、青柳が過去に痴漢の疑いがある男だったと事実無根の嘘の情報を流した。
青柳は否定したが、マスコミ報道の加熱によりスーパーの客足も減り、従業員も次々と辞めていった。
ネットでも青柳に対する誹謗中傷が絶えず、青柳の家族にまで嫌がらせが相次ぐようになった。
青柳はとうとうスーパーを畳む決断をし、発作的に自殺未遂まで起こしてしまった。


寸評
人はどうしてこんなにも欠陥を持つ弱い存在で不寛容な生き物なのかと思ってしまう作品だ。
冒頭で充と花音の性格が描写される。
花音は意見されたり問い詰められても反論できない。
父親の傲慢な言動がトラウマになっていたのかもしれない。
花音は万引きの疑いで青柳に事務所に連れていかれるが、そこでのやりとりは描かれていない。
まさに空白の時間帯である。
花音は万引きをしたようでもあるが、レジを通さず外に出たとか、化粧品をカバンに入れ込んだシーンはない。
人身事故を起こした者たちへの取り調べの様子が描かれているのに、万引きをしたのかどうかの検証は描かれていないのは意図したものだろう。
もしかすると万引き犯にされそうになった事を恐れて、反論する事に不慣れな花音がとっさに逃げ出してしまったのかもしれないと思わせるのだ。
はっきりと万引き犯として描いていたなら作品としてこんなにもリアリティを感じさせなかっただろう。
充は利己的で傲慢な男で、学校におけるモンスターペアレントでもある。
娘の死を嘆き悲しんでいるが、母親と違って娘のことは何も知らない。
世の父親は程度の多少はあるだろうが、そのような存在だと思う。
青柳は実直な男だが自分の考えを押し通すタイプではなく、もめ事を避けるタイプでもある。
僕は青柳ほどではないが、どちらかと言えばそのようなタイプのような気がする。
青柳と違ってパートの草加(寺島しのぶ)は自己主張をする女性だが、それが高じて善意の押し付けをする。
活動への参加は自由としながらも不参加を陰で非難する人の存在も否定できない。
中山楓(野村麻純)も、トラックの運転手も速度を守って運転をしていたようだがこの様な事故を起こしてしまう。
車を長年運転していれば、自分にも同じような事が起きていても不思議ではない場面は経験したことがあるのではないだろうか。

後半に入ると登場人物たちの負の部分が描かれていく。
亡くなった被害者の父親とは言え、自己中心的な充の行動は異常だ。
ボランティア活動をする草加は気の弱そうな仲間に無理強いをしていないように見せながら活動を強要する。
テレビのワイドショー番組も視聴率確保が出来るような編集をして事件をあおる。
学校は未確認な情報を充に告げることで関わり合いから逃れようとする。
正体を現さず野次馬的に嫌がらせを始め出す人も登場してくる。
いつの間にか救いようのない世界が出現しているのだ。
気の弱そうな加害者の楓はついに自殺をしてしまうが、母親・緑(片岡礼子)が充に詫びる場面はせつない。
反省する気持ちが湧いてきた充は青柳に詫びようとするが、花音のアクセサリーをみた青柳は土下座して詫びる態度を見せ、終わりがないことを感じさせる。
救いがあるとすれば、青柳のスーパーへの感謝を述べる青年の登場と、充と花音が同じものを見て心に止めていたことで父と娘が繋がっていたことを示して二人の空白が埋められたと思わせるラストシーンであった。
花音の死でもって充は初めて家族と言うものを実感したのだろうが、それでも辛い内容で胸が締め付けられる。