おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ゴジラ

2019-05-31 10:00:54 | 映画
「ゴジラ」


監督 本多猪四郎
出演 志村喬 河内桃子 宝田明 平田昭彦
   堺左千夫 村上冬樹 山本廉 鈴木豊明
   馬野都留子 岡部正 小川虎之助
   手塚勝己 中島春雄 林幹 恩田清二郎
   菅井きん 榊田敬二 高堂國典 東静子

ストーリー
太平洋の北緯二十四度、東経百四十一度の地点で、次々と船舶が原因不明の沈没をした。
新聞記者萩原(堺左千夫)は遭難地点に近い大戸島へヘリコプターで飛んだ。
島では奇蹟的に一人だけ生残った政治(山本廉)が、海から出た巨大な怪物に火を吐きかけられて沈んだというが、誰一人信じない。
只一人、島の老漁夫だけは昔からの云い伝えを信じ、近頃の不漁もその怪物が魚類を食い荒すせいだという。
海中に食物がなくなれば、怪物は陸へ上って家畜や人間まで食べると伝えられている。
萩原は信じなかったが、暴風雨の夜、果して怪物は島を襲って人家を破壊した。
国会は大戸島の被害と原因を確かめる調査団を派遣した。
古生物学者山根博士(志村喬)を先頭に、その娘で助手の恵美子(河内桃子)、彼女の恋人でサルベージ会社の尾形(宝田明)、原子物理学の田辺博士(村上冬樹)に萩原と政治の弟新吉(鈴木豊明)も加った。
そして調査団は伝説の怪物が、悠々と巨大な姿を海中に没するのを見た。
帰国した山根博士は200万年前の海棲爬虫類から陸上獣類に進化する過程の生物ゴジラが、海底の洞窟にひそんで現代まで生存していたが、度々の水爆実験に生活環境を破壊されて移動し、而も水爆の放射能を蓄積して火を吐くのだと説明した。
フリゲート艦が出動して爆雷を投下したが何の効果もなく、ゴジラは復讐するかの如く海上遥かに浮上り、東京に向って進んだ。
直ちに対策本部が設けられたが一夜にして東京は惨澹たる街となった。


寸評
なかなか登場しないゴジラのシチュエーションなんか、スピルバーグの「ジョーズ」などよりもいい。
初めて登場するときの、目ん玉だけがギョロリとするところなんか最高だ。
白黒映画のせいか、前半部分なんかやけにリアリティがあって、ゴジラの存在が現実味を帯びていたように思う。
僕は、日本のSF映画でこの「ゴジラ」を追い抜く映画が、いまだ出現していないように思うのだが・・・。
「ゴジラ」はシリーズ化されて何本も作られたが、断然この第一作が光っている。
やはりゴジラは怖くなくてはならない。

1952年(昭和27年)11月1日、アメリカはマーシャル諸島エニウェトク環礁にあるエルゲラップ島で、史上初の水爆実験を行った。
実験でエルゲラップ島は粉塵となって海上から消滅し、海底には直径1600メートルで深さ70メートルの巨大なクレーターができあがったそうだ。
広島の原爆の700倍以上の威力を持つものだった。
そして1954年3月1日に再びビキニ環礁で実験が有り、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が被爆してしまう。
映画「ゴジラ」は偶然の産物か、まさに時を同じくして3月13日に封切られた。
核戦争への警鐘をテーマに据えながら、悲劇としか言いようのない出来事とともにゴジラが我々の目の前に登場したのだ。
水爆実験はたびたび行われていたので、先見性が有ったと言えるかどうかわからないが、その登場した時代背景を考え合わせると、娯楽性に富みながらも社会的テーマを持たせた正しく第一級の作品だ。

キャラクターで目立っているのが芹沢博士の平田昭彦で、彼が作り出したオキシジェン・デストロイヤーを通じて核に対するメッセージが直接的に語られる。
言い換えればオキシジェン・デストロイヤーは核兵器そのものである。
その芹沢博士と山根博士の娘の恵美子、そして彼女の恋人である尾形の微妙な関係が大人の鑑賞に耐えさせていたように思う。
ゴジラは人間によって生み出された悲劇と恐怖の象徴だが、生み出しておきながら滅ぼさざるを得ない人間の身勝手さも感じ取れる。
最後はついにやっつけたという感覚より、ゴジラに対して感情移入してしまっているのはそんな自責の念を感じ取ってしまっていたためだろう。

ゴジラと戦った怪獣たち
キングコング、モスラ、キングギドラ、ラドン、エビラ、カマキラス、クモンガ、ガバラ、ヘドラ、ガイガン、メカゴジラ、ビオランテなどだが、ともに戦ったミニラやアンギラスもいる。
1995年12月公開の「ゴジラVSデストロイア」で戦うデストロイアは、実に30年も前の第一作で使用されたオキシジェン・デストロイヤーの化身。
最大ヒットは、第三作の「キングコング対ゴジラ」。
この成功が以降のゴジラとの対戦カードの変化だけになってしまった原因と思う。

午後の遺言状

2019-05-30 09:53:49 | 映画
「午後の遺言状」 1995年 日本


監督 新藤兼人
出演 杉村春子 乙羽信子 朝霧鏡子 観世榮夫
   瀬尾智美 松重豊  上田耕一 永島敏行
   倍賞美津子 麿赤兒 津川雅彦

ストーリー
夏の蓼科高原に、女優・森本蓉子(杉村春子)が避暑にやって来た。
彼女を迎えるのは30年もの間、その別荘を管理している農婦の豊子(乙羽信子)だ。
言葉は乱暴だがきちんと仕事をこなす豊子から庭師の六兵衛が死んだことを知らされた蓉子は、六兵衛が棺桶に乗せたのと同じ石を川原から拾って棚に飾る。
豊子には22歳の娘・あけみ(瀬尾智美)がいて、蓉子はあけみを自分の子供のように可愛がっている。
翌日、別荘に古い友人の牛国夫妻がやって来たが、夫人の登美江(朝霧鏡子)は痴呆症にかかっていた。
過去と現実が混濁している登美江を元に戻したい一心で、夫の藤八郎(観世栄夫)は蓉子に会わせたのだが、一瞬チェーホフの『かもめ』の一節を蓉子と空で言えたかと思うと、元の状態にすぐに戻ってしまう。
と、そこへピストルを持った脱獄囚が別荘に押し入って来た。
恐怖におののく蓉子たちだが、男がひるんだ隙に警戒中の警官が難を救った。
そして、蓉子たちはこの逮捕劇に協力したとのことで、警察から感謝状と金一封を受け取る。
ご機嫌の蓉子たちは、その足で近くのホテルで祝杯を上げた。
翌日、牛国夫妻は故郷へ行くと言って別荘を後にする。
やっと落ち着ける蓉子だったが、近く嫁入りするあけみは実は豊子と蓉子の夫・三郎(津川雅彦)との子供だったという豊子の爆弾発言に、またもや心中を掻き乱されることになる。
動揺した蓉子は不倫だと言って豊子をなじるが、あけみには真実を隠したままにしておくことになった。
そして、結婚式を前にこの地方の風習である足入れの儀式が執り行われた。
生と性をうたうその儀式に次第に酔いしれていく蓉子は、早く帰郷して舞台に立ちたいと思うようになった。
ところが、そこへ一人の女性ルポライター・矢沢(倍賞美津子)が、牛国夫妻の訃報を持って現れた。


寸評
監督は新藤兼人で、主要な出演者が杉村春子、音羽信子、観世榮夫、朝霧鏡子と極めて高齢者である。
高齢者による高齢者のための映画でボケや死を直視し、時に老いることの楽しさを綴っていく。
音羽さんはすでに癌を患っていて先が長くないことが分かっていた。
長年、事実上の夫婦関係を続けてきた新藤監督にしては、いつ音羽さんの体調が悪化して撮影中止にどころか、制作中止に追い込まれるかもしれない状況下での撮影だったと聞く。
そのことを知ってこの作品を見ると、なおさら感慨深いものがある。

描いている内容が重いテーマであるのに少しも暗くない。
強盗事件や、女優森本蓉子と管理人豊子との間で、蓉子の亡き夫をめぐるやり取りなど滑稽なエピソードが盛り込まれているせいだろう。
登場しないが、冒頭で大工で庭師の六兵衛の死が語られる。
彼は2500万円の現金を残し自殺をしたのだが、「もうこれまで」との書置きと、棺桶の最後のくぎ打ちに使う石を残していた。
潔い死に方だが、子供と孫たちはその金で散財をしたらしい。
死は当人にとっては大きな出来事なのだろうが、残されたものにとっては一過性の出来事であることを伺わせる。

杉村春子が演じる森本蓉子は杉村春子そのものである。
演劇一筋に生きていて今は先生と呼ばれる立場で若手の男優を目にかけている。
夫の存命中も演劇が第一で、夫のことを十分に理解していたとは言えず、夫はそのことで別荘管理人の豊子と関係を持ってしまっている。
しかも二人の間には純粋な愛があったと豊子は思っていて、娘の結婚を機にそのことを蓉子に明かす。
蓉子にとっては青天の霹靂だが、今となってはそれも受け入れる。
杉村春子、音羽信子はそれぞれの役を飄々と演じていて流石だと思わせる。
彼女たちに負けず劣らずなのが登美江役の朝霧鏡子さんだ。
痴呆症なのでセリフは極端に少ないが、ボケていながらも何かを秘めているような愁いを見事に出していた。
観世榮夫と能の稽古をする姿に感動させられた。
牛国夫妻は正直な人たちである。
領収書を几帳面に残している真面目な人たちでもあった。
彼等もまた六兵衛同様の見事な死を迎える。
僕は自ら死を選ぶことはしないと思うが、しかし最後はかくありたいと思わせた。

音羽さんの病状もそうなのだが、やれるだけの仕事をすることこそが自分たちの生き方であるというのがこの映画のテーマであった。
森本はそうした気持ちをもって東京に帰っていったし、豊子もそうしろと森本を送り出している。
棺桶を打ち付ける石など必要ないと投げ捨てる気迫を見せつけてくれた。
この気迫だけは是非とも頂戴したいものである。

告白

2019-05-29 10:12:26 | 映画
「告白」 2010年 日本


監督 中島哲也
出演 松たか子 木村佳乃 岡田将生 西井幸人
   藤原薫  橋本愛  新井浩文 山口馬木也
   黒田育世 芦田愛菜 山田キヌヲ

ストーリー
とある中学校。
終業式後のホームルームで、1年B組の担任・森口悠子(松たか子)は、37人の生徒を前に語り出す。
数ヵ月前、シングルマザーの森口が学校に連れてきていた一人娘の愛美(芦田愛菜)がプールで死亡した事件は、警察が断定した事故などではなく、このクラスの生徒、犯人Aと犯人Bによる殺人だったと。
「警察は事故死と判断しましたが、娘は事故で死んだのではありません、このクラスの生徒に殺されたのです……。」
一瞬、静寂に包まれる教室。
森口は、娘の父親が熱血教師として知名な桜宮であることを語り、HIV感染者の桜宮は、子どもが差別を受けるからという理由で結婚しないことを望んで、森口も賛成したことを告げる。
そして、少年法に守られた彼らを警察に委ねるのではなく、自分の手で処罰すると宣言するのだった。
その後、森口は学校を辞め、事情を知らない熱血教師のウェルテルこと寺田良輝(岡田将生)が新担任としてクラスにやってくる。
そんな中、以前と変らぬ様子の犯人Aはクラスでイジメの標的となり、一方の犯人Bはひきこもりとなってしまうのだが…。
事件に関わった関係者たちの告白によって真相が明らかになっていく中、森口は、罪を犯して反省しない犯人に対し想像を絶する方法で罰を与える……。


寸評
誰がどんな告白をしようとも、最初から最後まで正義感ぶったり偽善者めいたりお利口ぶらないところがよい。
主演の松たか子が演じる森口悠子も最後まで復讐のための非情性を押し通す。
そこが良かったので、出来るならば「ここからが本当のあなたの更生」などと言わせて欲しくなかったけど・・・。
もっとも「…なぁ~んてね」だったけれど。

この映画は犯人をあぶりだしていく推理劇ではない。
犯人は誰であるのかは始まってすぐに判明するが、オープニングから犯人が明らかになるまでの松たか子の独白と、勝手気ままに振舞う生徒たちのシーンが非常にインパクトがある。
犯人Bの母親が言う「あなたはやれば出来る子なのよ」は出来の悪い子供に対する親の気持ちの代表例なのだが、そんな親の気持ちを子供がわずらわしく思っているのも又事実であると思う。
そんなうわべの気持ちのすれ違いの象徴が岡田将男が演じる熱血教師で、正義感あふれるいい人として浮き上がっているピエロとして描かれている。
そのピエロとしての決定打を浴びせられて彼は休職に向かう。
そして「あなたは殺っていないのだ」という母親に「母さん違うんだよ。僕が殺ったんだ」とつぶやく反抗心の表現もリアリティを感じて不気味感が増徴された。
そのあたりから、それぞれの劣等感や、欺瞞やらが暴かれていき、中々の心理劇であった。

元教師でありながら、自分を慕っているかのような少女に浴びせる冷たい言葉や、もしかするとこれが教師の本音かもしれないと思える独白もリアリティさを感じた。
犯人A、Bと少女、愛娘を殺された女教師と熱血教師、子供を盲愛する母親などそのキャラクターは誇張されているが、それぞれの身勝手さと、利己的な思想と行動への糾弾として描かれていたと思う。
脚本と演出は、殺人や暴力を止めることはしないのに更生を迫り命の尊さを訴える主人公の論理矛盾を覆い隠すだけの力強さがあった。
善意、良心、倫理…何者をも凌駕するわが子への愛だけを武器に、主人公は自らを奮い起こし悪へと立ち向かう。
キチガイを制するには、連中の領域に真正面から踏み込む覚悟がいるのだ。
少年法で守られたキチガイ共に対峙するにはそれぐらいの根性がいるのだ。
現実世界で悪と対峙する司法・警察は、この映画のヒロインに比べればなんと生ぬるいことかと思ってしまう。

「どっかーん!」とか「なぁ~んてね」が脳裏に残る。
この「なぁ~んてね」という言葉を、節目節目の言葉の後につけてみると不思議と収まってしまう。
妙な発見で、僕はそんな演出に心酔してしまうのだ。
松たか子と木村佳乃はいいわあ~!

「下妻物語」「嫌われ松子の一生」と来て、「パコと魔法の絵本」でちょっと中島哲也監督に戸惑い、本作をみてやはり次回作も見てみようと思ったのだが、ちょっと期待を裏切られている。

コキーユ-貝殻-

2019-05-28 11:14:44 | 映画
「コキーユ-貝殻-」 1998年 日本


監督 中原俊
出演 小林薫 風吹ジュン 益岡徹 吉村実子
   浜丘麻矢 植田真介 深水三章
   林泰文 山上賢治

ストーリー
広瀬山中学三年二組の同窓会に出席した浦山は、そこで結婚して東京に越して以来、クラスメイトともずっと疎遠だった直子に再会する。
クラスでも目立たなかった彼女は、今は離婚して中学生のひとり娘と帰郷し、「コキーユ」という名のスナックを経営しているらしい。
初めはなかなか彼女のことを想い出せない浦山であったが、その後、東京支社へ左遷になった上司・黒田と彼女の店を訪れたのをきっかけに、ちょくちょく通うようになる。
ところがある日、左遷を気に病んでいた黒田が自殺を図った。
黒田に請われて一緒に東京へ単身赴任することになっていた浦山は、崩壊していく黒田の家庭を目の当たりにして、家族と共に引っ越すことを決意。
更に、コキーユで鉢合わせした同級生の谷川が、かつて直子と肉体関係にあったことを知り、店からも足が遠のいていくのであった。
直子は中学の卒業式前日に自分の気持ちを浦山にささやいたが、浦山は幼い頃の病気が原因で右耳が利かなくなっていて、直子の言ったことが伝わっていなかったのである。
それからも、ずっと浦山のことを想い続けている直子のひたむきな想いを知って、浦山は出張と偽って直子と山へハイキングに出かける。
食事を終え、ふとんに入り結ばれるふたり。
数日後、浦山は家族と共に東京へ引っ越し、東京での暮らしが一段落したある日、彼は谷川から直子が雪でスリップしたトラックに轢かれて死んだことを聞かされる・・・。


寸評
直子は離婚しているのだが、彼女の結婚生活は幸せなものだったのだろうか。
お店の運営と子育てに翻ろうされて家庭に費やす時間がなく、結局旦那は女を作って出て行ってしまった。
一人娘がいるので、普通の結婚生活の時代もあったのだろう。
その間も直子は青春時代に思いを寄せた男性をずっと思い続けていたのだろうか。
伴侶に対してそんな気持ちを持ち合わせていることなど見せることはできないだろうが、結婚生活に不満はなくてもそんな相手がいても不思議ではない。
それは思いが思いを呼び、空想が空想を呼んで美しいものに見えてくるだろうし、思う相手を益々美化していって、なさぬ初恋を夢の中で実現させていく。
初恋とはそのような一面を持っているのかもしれない。
直子は中学生の頃の思い出を大切にしている。
親切にされたこと、励まされたことなどだが、彼女が意を決して告白しようとしたことは彼には伝わっていなかった。
彼女には振られた思いしか残っていなかったが、或る時そうではなかったことが判明する。
その時の彼女の悔しさをにじませたような微笑みが何とも言えない。

同窓会で始まり、同窓会で終わるが、同窓会は青春を呼び起こすもののようだ。
時にはその昔の恋を思い出すのかもしれない。
同窓会の始まりに際し直子への黙祷がささげられた時に浦山はすすり泣きを漏らすが、直子が浦山との別れで「同級生だもの、又、同窓会で会えるわよ」と言っていたことが思い出されジーンとくる。

直子は浦山との思い出にハイキングに誘う。
浦山は妻にあいさつ回りだと嘘を言って直子とのハイキングに出かける。
そこでの語らいをはじめ、旅館での出来事は直子にとってかけがえのないものだっただろう。
一生の思い出になったに違いない。
直子は「浦山君が大切にしてきたものを壊したくない」という。
「浦山君と恋が出来た」と満足そうにつぶやく。
それはこの思い出を大切にしまっておこうとの気持ちの表れでもあった。

浦山はスナック「コキーユ」から遠ざかり、直子も死んでしまう。
直子の死を知った浦山は、中学時代に出会うはずだった橋のたもとにある直子の墓参りに行く。
そこには直子の一人娘がやって来ていた。
娘は、直子が大切にしていた、その昔浦山からもらった貝殻を毎回持ってきて供えている。
そして死ぬ直前に「浦山君…」と言ったことを聞かされる。
死ぬ間際に家族の前で言ってはいけないことだと思うが、直子には夫がいない。
直子は最後に楽しい思い出を思い浮かべて、幸せな気持ちで死んでいったのではないだろうか。
さらに何か言おうとしたらしかったが、それは「本当に好きだった…」ではなかったか。
中年の蘇った恋だが、時代を超えた初恋物語でもあった。

荒野の用心棒

2019-05-27 09:07:15 | 映画
「荒野の用心棒」 1964年 イタリア / スペイン / 西ドイツ


監督 セルジオ・レオーネ
出演 クリント・イーストウッド ジャン・マリア・ヴォロンテ
   マリアンネ・コッホ    ヨゼフ・エッガー
   マルガリータ・ロサーノ

ストーリー
無法者の横行する1872年のニュー・メキシコ。
ある日ジョーという、腕利きの男が現われ、この町を二分するロホ兄弟の方に身を寄せることになった。
もう一方の旗頭モラレスの手下四人を鮮やかに片づけたからだ。
彼は酒場の亭主からニつの勢力が町の皆から煙たがられていることを聞き、厄病神どもを始末しようと考えた。
一計を案じて両派を反目させることに成功、ロホ兄弟はモラレス家に殴り込みの準備をした。
兄弟の弟ラモンがマリソルという子持ち女を自分のものにしようと監禁しているのを知ったジョーは、見張りの手下を始末し、母子を逃がした。
これをモラレスの仕業と見せかけたつもりだったが、ラモンに見破られ、マリソルの行方を自白させようと激しいリンチを加えられたが、口は割らなかった。
半死半生のジョーは、スキを見てロホ家をぬけ出し、棺桶屋のオヤジの手引で安全な隠れ家に身を寄せた。
その隠れ家に、棺桶屋のオヤジがロホ一家の手下をだまして手に入れた拳銃をもってきてくれた。
傷つけられた身体で、ジョーは拳銃の早射ちの業をみがいた。
彼の失踪にあわてたラモンたちは酒屋の亭主を捕えて居所を教えろと迫ったが果さず、ついにモラレス家に殴り込みをかけ、不意を襲われたモラレスは簡単にやられてしまった。
ラモンはジョーをおびきよせるため、通りの真中で酒屋の亭主にリンチを加えた。
静まりかえった町に姿を現したジョーは、待ちかまえたラモンから続けざまに銃弾を浴びた。


寸評
クリント・イーストウッドをスターダムに押し上げた作品でもあるが、僕には黒澤明の「用心棒」を盗作したと話題になったことが記憶に残っている。
著作権契約をしていなかったらしいが、これはどう見ても「用心棒」のパクリであることは疑いようがない。
敵対する二人のボス一家を争わせて共倒れを画策するというシチュエーションだけなら盗作騒ぎにはならなかったと思うが、棺桶屋の登場や棺桶を利用して脱出したり、棺桶の中から両者の争いを見物するなどがあっては言い逃れのしようがない。
捕らわれていた女を逃がしてやったりするのもオリジナル作品と同じ内容だ。
所々に西部劇らしいものを持ち込んでいるが、どうせなら丸っきりパクッてしまった方が良かったかも知れない。
しかしまあ、これがマカロニ・ウエスタンなのだと言われれば、それはそれでそのジャンルの中では面白く出来上がっている。
なによりもエンニオ・モリコーネのテーマ音楽だ。
オープニングと同時にテーマ曲のメロディが流れてきて出演者などのタイトルが表示されていくが、それだけでウキウキしてしまう。
途中で流れる口笛のメロディも郷愁を帯びて耳に残る。オリジナルに比べて優れているのはこのメロディだと思う。

途中でメキシコの兵隊が墓場で撃たれる場面があるが、死人なのだから動かないのは分かるけれど、あれだけの銃撃戦の中で全く動かないのに疑問を持たないのは違和感がありすぎる。
いくら事前にモラレスに「死んでいるんじゃないか」と言わせていたとしても、ラモンが全く気付かないでいるというのは不自然だ。
メキシコ軍が機関銃で撃たれて壊滅するシーンでも、あれだけ撃たれて軍服にあなが開くことも血が流れることもないのも迫力不足だ。
もっとも日本の時代劇でもバッタバッタと切り倒しても着物も破れないし、血も流れない時代が長かったけど…。

理屈抜き、人物への掘り下げもないが、その分ただただ娯楽性だけを追求して押し通しているのは評価できる。
残酷描写がマカロニ・ウエスタンの特徴とも言われたが、この作品においては極端な残酷描写はない。
最後の決闘はユニークな設定で、玉込めから始まるのが興味を抱かせた。
主人公が撃たれながらも何度も起き上がるのもオリジナルな脚色で、なーるほどとは思わせる。
二つの敵対組織の間に立って両成敗した主人公が最後に「メキシコにアメリカ、真ん中に俺か…」と言って去っていくのも気の利いたオリジナル処理ではあった。

封切られた頃は、クリント・イーストウッドと言えば僕らの時代の者にはテレビ番組「ローハイド」の若い牧童が印象深かったが、この作品でのスタイルは三船敏郎の素浪人に匹敵して、三船が似たような「椿三十郎」に出たのと同様、イーストウッドも「夕陽のガンマン」にでてイメージを形造った。
荒野の用心棒の原題が「For a Fistful Dollars」で、夕陽のガンマンの原題が「For a Few Dollars More」で、もう一人のスター、ジュリアーノ・ジェンマの「荒野の1ドル銀貨」の原題「One Silver Dollar」とダラーシリーズになってヒットしたのも興味深い。

荒野の七人

2019-05-26 10:20:01 | 映画
「荒野の七人」 1960年 アメリカ


監督 ジョン・スタージェス
出演 ユル・ブリンナー    スティーヴ・マックィーン
   チャールズ・ブロンソン ジェームズ・コバーン
   ロバート・ヴォーン   ホルスト・ブッフホルツ
   ブラッド・デクスター  イーライ・ウォラック
   ウラジミール・ソコロフ ロゼンダ・モンテロス
   ジョン・アロンゾ    ビング・ラッセル

ストーリー
メキシコの寒村イスカトランの村人達は毎年収穫期になると恐怖におののいていた。
カルヴェラが率いる野党がきまって掠奪にくるからだ。
ヒラリオと2人の農夫は皆を代表して戦うことを決議、銃を買いに国境のアメリカの町やって来た。
彼らが町に着いた時に騒ぎが起きていたが、ガンマンのクリスとヴィンは鮮やかにこの騒動を片づける。
ヒリイオ達はこの有様を見てクリスにわけを話して力になってもらうことにした。
同意したクリスは腕の立つガンマンを探し始めた。
最初に仲間に入ったのがクリスの古い友人ハリー・ラックだった。
ヴィンも仲間に入り、ナイフ使いの名人ブリットと早打ちのリーも加わり、それに西部で名高いオラリーも仲間に入れた。
そんな中にチコという男がいて、経験も浅く40人もの敵を相手に戦うには若過ぎたがチコは強引に仲間に入れてもらった。
7人のガンマンを迎えて村は一変した。
クリスは村人達に戦う準備をさせた。
そんな時に、カルヴェラ一味が村を襲って来て凄惨な拳銃戦が展開されたが野盗は撃退された。
村の雑貨商ソテロは臆病者で、彼が戦いにまき込まれるのを恐れて裏切ったことで、カルヴェラは7人の逆をついて村を占領した。
やがて掠奪に酔ったカルヴェラ一味の隙をついて逆襲が開始される…。


寸評
黒澤明の「七人の侍」をジョン・スタージェスが西部劇に置き換えた作品で、本家と比較するとその面白さは足元にも及ばないが、キャスティングも揃えてそれなりの水準を保った作品となっている。
この作品が本家と互角の出来栄えを誇っているのはエルマー・バーンスタインの音楽だ。
タイトルバックは平凡だが流れてくるテーマ曲は小気味よい。
この音楽がなかったら随分と評価は下がってしまう。

「七人の侍」は日本が誇る、あるいは世界の映画史においても燦然と輝く作品だと思うので、どうしてもオリジナル作品と比較して見てしまう。
7人のガンマンを探すシーンはある程度の時間を費やしているが、リーダーとなるクリスが候補者の心当たりをつけていて、探し出す苦労はあまり感じられない。
導入部に当たるこの人探しのエピソードは、やはりオリジナルの方が面白く出来ている。

七人のキャラクターは割り振られていて、ブラッド・デクスターのハリーが山師なのが面白い。
クリスが村の助っ人に行くのは、きっとお宝があるに違いないと最後まで信じていたことにホロリとさせられる。
ホロリとさせられる第一は チャールズ・ブロンソン のオライリーで、普段は600ドルから800ドルの仕事を引き受けているが、今は金がないというので20ドルのこの仕事に参加している。
彼は子供好きのようなところがあり、3人の男の子から慕われていて微笑ましいキャラクターだ。
彼の担当になったという男の子達との掛け合いが微笑ましく、緊張の中でほのぼのしたものを感じてしまう。
この掛け合いを見ていると彼の最後は全くの予想通りだった。
キャラクターとして、そのコスチュ-ムが際立っているのがロバート・ヴォーン扮するお尋ね者のリーなのだが、大した見せ場もないままに倒れてしまうのは少し肩透かし。
お尋ね者の末路だけを描いていた。
ジェームズ・コバーンのブリットは 宮口精二の久蔵だと思うのだが、彼のナイフの腕前の見せ場は・・・。
比較してみていると、オリジナルで描かれたキャラクターがそれぞれに分割して割り振られている。
ホルスト・ブッフホルツのチコは三船敏郎と木村功を合体させたようなキャラだ。
農民上がりで、後ろを何処までも付いて来て、川で魚を手づかみするところなどは三船の菊千代だが、若くて村娘と恋に落ちるところなどは木村の勝四郎だ。
スティーヴ・マックィーンのヴィンに「お姉さんはいるか?」と子供に尋ねさせているが、これは三船・菊千代のセリフだった。

戦いはオリジナルと違って、駆け引きなしのいきなりの戦闘で始まり、逆に彼らが村に攻め入ってくるが事前に作った堀や防御壁がどのように役に立ったのかわからない。
オリジナル脚本をここまで大幅に変更する必要があったのかどうか?
西部劇設定のために変更する必要があったとも思えないのだが、作品としてのオリジナリティを出したかったのかもしれない。

荒野の決闘

2019-05-25 11:31:18 | 映画
「荒野の決闘」 1946年 アメリカ


監督 ジョン・フォード
出演 ヘンリー・フォンダ  リンダ・ダーネル
   ヴィクター・マチュア キャシー・ダウンズ
   ウォルター・ブレナン ジョン・アイアランド
   ウォード・ボンド   ティム・ホルト

ストーリー
1882年のことである。カウボーイのワイヤット、ヴァジル、モー グ、ジェームスの四人兄弟は、メキシコで買った牛を数千頭追って、カリフォルニアへ向かっていた。
その途中、アリゾナのツームストン集落の近くで彼らはクラントン父子に会った。
クラントン親父は一頭5ドルで牛を全部買おうと申し出たが、それでは買値を割るのでワイヤットは断った。
あくる日兄弟が留守の時、末弟のジェームスが銃殺され、牛はことごとく盗まれてしまった。
ワイヤットはクラントンの仕業とにらんで、ツームストンの保安官となる。
ホリディとワイヤットは意気投合して親友となる。
ホリディは肺結核なので自爆自棄となって、西部の荒野を流れ歩いているが、もとは立派な紳士である。
その彼を訪ねてはるばるボストンから許婚のクレメンタインが訪ねて来る。
ホリディは自分の病身ゆえに彼女に会いたくないので、ツームストンを去ってしまう。
ホリディに気のあったチワアワはこのことを聞くと怒って、クレメンタインの部屋に押し入り喧嘩を始める。
そのとき彼女が落としたブローチは殺されたジェームスの持ち物である。
ワイヤットが詰問すると彼女はホリディにもらったと言ったので、ワイヤットはホリディを追って連れ帰る。


寸評
モニュメントバレーの奇岩を背景に移送中の牛の群れが現れるオープニングシーンから描かれる風景は詩情豊である。
ツームストンの街のかなたにもモニュメントバレーの景色が常にある。
フォード映画に度々登場したおなじみのロケ地である。
行ったことのない地であるが、フォード映画を通じてすっかりおなじみとなった景勝地だ。

邦題の通り最後には有名なOK牧場の決闘が描かれるが、決闘そのものは予想に反してあっさりと描かれていて決闘のだいご味は少ない。
むしろそこに至るまでに印象的なシーンが散りばめられていて、日常シーンの描き方は細やかで丁寧だ。
何気ないシーンにもうっとりしてしまう。
チワワの手術シーンのショットなどは薄暗い中に手術台にしつらえたテーブルを取り囲む人々を浮かび上がらせ、まるでレンブラントの絵画を見ているような美しい画面に仕上げている。
ドクが護衛を務める馬車の疾走シーンでは砂煙をあげながら走る様子を真横からとらえていて、手ぶれを抑えるカメラがない時代なのに画面のブレもなく見事だ。
ワイアットがクレメンタインに恋心を抱いていく様子も、雰囲気だけで描いていき情緒感を醸し出している。
教会建設の式典に出かけるまでの微妙な態度、そしてクレメンタインをダンスに誘うまでのじれったそうな様子など、可笑しくもあるけれど恋心とはかくありなんと思わせる丁寧な演出だ。

Oh my darling, oh my darling, Oh my darling Clementine
You are lost and gone forever, Dreadful sorry, Clementine

という歌詞と歌は小さいころから耳になじんでいた。
なぜこのような英語の歌を少年時代から知っていたのかは定かではない。
もしかすると「雪山賛歌」としてメロディを拝借して歌われていた事によるものなのかも知れない。
それでもはっきりとOh my darling, oh my darling, Oh my darling Clementineだけは耳に残っていた。
元歌は川に落ちたクレメンタインを助けることが出来ずに死なせてしまったというものらしいが、僕はずっとここに描かれたドクの恋人クレメンタインの歌だと思っていた。
なぜなら上記のリフレインの部分しか知らなかったからである。

ストーリーはあってないようなものである。
アープ兄弟はクラントン一家に牛を盗まれてしまうが、そのことでのいがみ合いはほとんど描かれていない。
ヴィクター・マチュアのドク・ホリディとヘンリー・フォンダのワイアット・アープとの絡みも、女優陣であるリンダ・ダーネルのチワワとキャシー・ダウンズのクレメンタインの恋のさや当ても通り一辺倒な描き方だ。
ドクがじぶんの病気のためにクレメンタインから逃れているのも、その心情に深く切り込んでいるわけではない。
しかしそれでもこれぞ西部劇といった雰囲気だけはプンプンするバイブル的な作品になっていると思う。
歴史的価値もある一遍だ。

幸福な食卓

2019-05-24 09:49:27 | 映画
「幸福な食卓」 2006年 日本


監督 小松隆志
出演 北乃きい 勝地涼 平岡祐太 さくら
   中村育二 久保京子 羽場裕一 石田ゆり子

ストーリー
「父さんは、今日で父さんを辞めようと思う」。
始業式の朝、家族の食卓で、突然「父さん」(羽場裕一)が口にした意外な一言。
佐和子(北乃きい)の中学校生活最後の1年は、こうして始まります。
中原家は、教師の「父さん」、専業主婦の「母さん」(石田ゆり子)、秀才の兄「直ちゃん」(平岡祐太)、中学3年生の佐和子という4人家族。
これといって深刻な問題はないけれど、お互いが何か“言いたいこと”を抱えたときは、必ず四人が顔を揃える毎朝の食卓の場で伝え合う……そんなささやかなルールを大切にしてきた家族だった。
だが3年前のある日、突然訪れた「父さん」の心の崩壊。
その日から、佐和子の家族の歯車が少しずつ狂い始めた。
きっかけは3年前の父の自殺未遂だった。
成績はいつも学校で一番だった「直ちゃん」は大学進学を辞めて農業をやり、「母さん」は家を出て一人暮らしを始めた。
それでも「父さん」と「母さん」は日々連絡を取り合っているし、毎朝の食卓は健在。
そんな危ういながらも淡々と続く家族の日常に、新たな波紋を投げかけた「父さん」の一言。
いったい、どうなってしまうんだろう? 
高校受験を前に小さな心を揺らすそんな佐和子の前に現れる転校生、「大浦くん」(勝地涼)。
彼の存在は佐和子にとって次第に大きなものになって行くのだが……。
崩壊した家族を健気に支えてきた佐和子の身に起こる突然の悲劇。
しかし皮肉にもその悲劇により、家族は再生への道を歩み始めるのだった……。


寸評
「父さんは、今日で父さんを辞めようと思う」という言葉から始まる。
父さんをやめるということは、父さんには父さんの役割があるということだ。
それは一体なんだろう?
生活費を運び家族を養っていくことだろうか。
自分を棄てて家族の為だけに生きるということの辛さで父さんは自殺未遂を引き起こしたのかもしれない。
父さんは真剣に生きることの辛さを遺書に綴っている。
ある程度いい加減な人間の方が長生きするのかもしれない。
天才と呼ばれた兄の直ちゃんは、意識的に真剣さを棄ていい加減さを身に着けたのだろう。
目下兄が付き合っている小林ヨシコという見た目に変な彼女は、直ちゃんは私以上にいい加減だといっている。
直は父の遺書を保管していて、真剣に生きれば自分も自殺してしまいそうな幻影を抱いているのだ。
同様に、何事にも真面目な佐和子の脆さを予感させる淡々とした語り口がいい。
丁寧な脚本とカメラが物語に対して想像の余地を残しながら、これから先の展開に期待をはらませるという堅実な作りで、当初傍観していた佐和子の挙動に段々と引き付けられていくことになる。

佐和子の中三の春、クラスに大浦勉学が転校してきて隣の席に座ると、お決まりのように二人は仲良くなる。
夏休みには一緒に夏期講習も受け、同じ高校に行こうと励むことになるのは青春ドラマだ。
微笑ましくもあり、規律正しく真面目な中学生の佐和子に共感も覚えて応援したくなるのは北乃の魅力だけが原因ではなかろう。
誰にも、こんな風だったら良かったろうなと思うクラスメイトはいたはずだ。
中学、高校と続く変わらぬ二人の交流が描かれるが、それは常に二人きりで、付き物の二人を取り巻く友人が全く登場しない違和感が残る描き方だ。
仲睦まじい二人の姿は、一方で描かれる奇妙な家族関係を際立たせるためのものだったのだろうか。

家族が全員集まったきっかけとしてはあまりに悲しいけれど、それでも久しぶりに4人が揃ったところで佐和子は「なんで死のうとした父さんが助かって死にたくない人が死んでしまうのか」と言ってしまう。
そう言いたいのはわかる、でも言っちゃいけない、思っても言っちゃいけないって兄も言う。
しかし佐和子は忘れているのだ。
大浦が言った 「凄いだろ、気付かないところで中原って、いろいろと守られてるってこと」という言葉を。
家庭崩壊しているように見えるが、そうなっても佐和子は家族に守られてきていたのだ。
兄も佐和子を気遣い小林ヨシコを遣わすが、彼女は「今言うのはどうかと思うが、友達も恋人も何とかなる」と言う。
家族に守られ佐和子はしっかりと生きていくだろう。
佐和子は何度か振り返りながらも前を向いて歩き続ける。
人は過去に起きたこと、起きてしまったことを後悔したり、あるいは振り返りながら生きているのかもしれないが、それでも前を向いて生きていかねばならない。
ラスト、横顔は確かに北乃きいなんだけど、ここでは佐和子として凛々しささえ感じさせ清々しい余韻が残る。
食卓に並べられた四つのお皿が家で待っている。

河内山宗俊

2019-05-23 08:55:15 | 映画
「河内山宗俊」 1936年 日本


監督 山中貞雄
出演 河原崎長十郎 中村翫右衛門 市川扇升
   山岸しづ江 助高屋助蔵 坂東調右衛門
   市川莚司 瀬川菊之丞 中村門三
   市川笑太郎 中村楽三郎 沢村幸次郎

ストーリー
浪人、金子市之丞(中村翫右衛門)は、森田屋の親分(坂東調右衛門)に使えている用心棒。
今日も、縄張り内で商売をしている者たちから「ショバ代」を集金している。
そんな金子が唯一、目こぼしをしてやるのが、若い女手一つで甘酒を売っているお浪(原節子)だった。
そのお浪にはヒロ太郎(市川扇升)という弟がいたが、このヒロ太郎、最近素行が宜しくない。
たまたま、甘酒屋にやって来た、家老北村大膳(清川荘司)の刀の小柄をこっそり抜き取って盗んでいたのだ。
ヒロ太郎は、インチキ賭将棋の丑松(助高屋助蔵)が、まんまと客に騙されて50両という大金を払うはめになった現場を見ていた。
ヒロ太郎は、賭場を兼ねた馴染みの酒屋で、先ほどの客を目撃、その人物こそが、この家の主人でもある河内山宗俊(河原崎長十郎)であると知り、姉が心配して探しに来たので直次郎と変名を使って挨拶をする。
挨拶の印にと宗俊に吉原に連れて行かれたヒロ太郎は、そこで、幼馴染みの三千歳(衣笠淳子)に出会う。
その後、弟を心配するお浪を気にかける金子と宗俊は、ひょんな事から顔を合わせ、最初は対立しそうになるが、すぐに仲直りし、すっかり意気投合してしまう。
やがて、三千歳と、成行き上、入水心中に付き合ったものの、自分だけ生き残ってしまったヒロ太郎は、死んだ三千歳の代金300両を払えと森田屋の親分に迫られ、自ら身を売る決意をした姉お浪の後を追う事に。
事の次第を知った金子と宗俊も、何とか、お浪を助けようと立ち上がるのだが…。


寸評
無頼の男たちが「この美しい瞳のためなら死んでもいい」と思うような清純で可憐な女優を捜し求めた結果、見出したのが原節子だったらしく、出演者のクレジットでは現代劇特別出演の肩書きが付いている。
そのような肩書きをわざわざ与えているということは、当時は時代劇俳優という枠があったのだろう。

インチキ将棋で大金をせしめた河内山宗俊が女房のお静(山岸しづ江)に物をねだられ「買っちゃえ、買っちゃえ」を連発したり、金子市之丞と北村大膳の掛け合いや、小柄のセリでの友人同士の(高勢実乗、鳥羽陽之助)やり取りなどは当時のユーモアだったのだろうと思わせる。
そのような軽妙なシーンが随所にあって、結構楽しめる作品だ。
お浪に好意を持っている金子市之丞と河内山宗俊が決闘を始めた場面では、金子市之丞が抜いた刀でお浪の指を傷つけてしまい、二人してそのケガを心配する場面なども滑稽だ。
これをきっかけに二人は親しくなり、最後は二人してヤクザに立ちに立ち向かう任侠の世界を作り出す。

ラストのこの二人の立ち回りに至るカット割りも冴えている。
ヒロ太郎と三千歳の心中場面では、ゴーンと金の音が鳴りこの画面に変わる。
柳に月で薄曇りの絵のような光景で、次のショットはうなだれた三千歳である。
切り替えされたキャメラにヒロ太郎が映される.
そして次は水に杭が出ている空ショットで、水に映る月影を映し哀れを誘う。
次はキャメラはロングになって二人が大川の橋の手前にいる全体が映される。
ヒロ太郎は女の覚悟を確かめ、俺も一緒に死ぬと言い出す。
キャメラはいきなり場面を変えて川辺を歩く通行人をロングで映しだし、ボチャンという水音が二度聞こえる。
そしてショットはいきなり水面に何かが落ちて沈んだ波紋だけを映し出し、これだけで男女が身投げしたことを表現している。
当時の映画としては非常にリズム感のある演出だと思う。
さらに場面は続いて、お浪が家に戻ってくるとヒロ太郎が縁側にたたずんでいるのだが、裏庭に干された着物もあり、それで彼だけが心中から助かったことが観客に解る。
余分なシーンを省いて状況を理解させる上手い演出が光る場面だった。

そして圧巻が前述の最後の立ち回りだ。
河内山宗俊、金子市之丞、ヒロ太郎の三人がどぶ川の中を通って逃げ、大勢の敵と狭いどぶ川で戦いは始まる。
当然画面のアングルは縦の構図で、手前や奥の敵に挟まれて凄まじい戦闘が繰り広げられるのだが、臨場感が溢れ出る見事なカメラワークだ。
そのアングルを補うように河内山宗俊とヒロ太郎が逃げる姿を横移動で捉えて盛り上げている。
この乱闘シーンだけでも語りあえることができる凝ったシーンだ。
宗俊と市之丞がお浪のために命を投げ出して戦ったり、 宗俊の危機には身を挺する女房と、それを心配する市之丞に「あいつは俺の女房だ」と言う宗俊。
任侠映画のようでもあり、「男意気とは何か」を堪能できる素晴らしく良くできた作品だ。

好奇心

2019-05-22 09:02:19 | 映画
「好奇心」 1971年 フランス / イタリア


監督 ルイ・マル
出演 ブルノワ・フェルレー レア・マッセリ
   ダニエル・ジェラン  マルク・ビノクール
   ミシェル・ロンズデール

ストーリー
三人兄弟の末子ローランは十四歳と六カ月、大人のような子供のような年頃である。
トーマとマルクの二人の兄はろくに勉強もしないで悪戯の限りをつくし、その余波はローランにまで及び、タバコやお酒まで覚えてしまった。
ある日、学校の帰りがげに、ローランは母クララが知らない男と車に乗っているのを見かけ不愉快だった。
父はあまり好きになれなかったが、若くて美しいママがしてくれるただいまやおやすみのキスはローランにとって何ものにも代えられない宝物だったのだ。
それから数日後、両親が学会に出かけた夜、二人の兄はここぞとばかり羽根を伸ばし、女の子を呼んでパーティーが開かれ、父の秘蔵のぶどう酒が持ちだされた。
兄たちはローランに初体験をさせるため、あやしげな娼婦の家に連れ出して、フレダという女と寝かせた。
そして、フレダの胸に顔をうずめているローランの足を引っぱってしまった。
翌日、ボーイスカウトのキャンプに行ったローランは熱をだし、医者は湯治場に療養に行くことを勧めた。
療養所ではみんながママに視線をあびせ、ローランは自分のことのように晴れがましかった。
ローランとママは恋人のように腕を組んで散歩し、テニスに興じた。
ある日ママは眠ったふりをするローランの許に、二、三日で帰る由の置手紙を残して姿を消した。
退屈をまぎらわすために同じ年頃のエレーヌやユベールと遊んだが、やはりママの魅力に比べれば、格段の違いなのだ・・・・。


寸評
主人公のローランはジャズ好きの15歳の男の子なので映画は軽快なジャズに乗って始まる。
友達と募金活動をしているがレコード店では万引きをやっていることを描き、この少年の一面をとても早い時期に観客に知らせている。
そこから描かれるのはローランを含めた兄弟三人の悪ガキ振りで、見ている僕は徐々に嫌悪感を抱いてくる。
ローランは裕福な婦人科医一家の末っ子で、食事は年配の家政婦がつききりで世話をやいてくれ、もうひとりの若いメイドは掃除やら洗濯やら家事いっさいをやってくれているという恵まれた家庭だ。
息子たちはタバコ、酒はとっくに覚え、無免許運転もへっちゃらで売春宿通いをやっているという体たらくだ。
メイドや家政婦に対する見下した態度や振る舞いは決して気分のいいものではない。
兄弟たちはパンツを脱いで長さを見せ合うという、ろくに勉強もしない不良どもで、勉強に集中できないとローランが神父に訴えると、神父は自慰行為のやり過ぎだと断定する。
兄たちはいい女をみつけてやると無理やり娼館に連れて行き、優しい女をあてがってやるが肝心のところで部屋に忍び込んだ二人がローランの足を引張って途中で終わらせてしまう。
後半でガールフレンドに自分は半分だけ経験があると告白する場面が可笑しいが、兄たちの悪ふざけと悪態が長々と続き、脆弱な金持ちの末っ子のわがままいっぱいの悪趣味にうんざりする。
母親が不倫しているらしいこともわかってくるが、だからといって映画はこれといった変化はみせない。
何のことはない、ブルジョワジーの退廃をを描いているだけではないかと思えてくる。

ローランはキャンプで猩紅熱にかかり医者から一ヶ月休養を命じられる。
医者が勧める保養地に行き、母親が付き添うことになるあたりから、やりたい放題やって病気になったら一ヶ月も休養するというバカバカしさは横に置いておいて映画は急展開を見せる。
ローランは保養所で同じ年頃の女の子に近づくが、お固いその子はキスもしない。
逆にきれいなママは注目され男たちが寄ってくるので、ローランは優越感に浸りながらも男たちに嫉妬するというマザコン息子の微妙な精神状態が思春期と言えば思春期を思わせる。
ママは浮気相手と外泊した挙句に破局を迎えて帰ってくる。
落ち込み泣くママをローランは慰めるのだが、母と息子が入れ替わってしまっている状況だ。
「お前、そんなに物分かりがいいのか」とツッコミを入れたくなるローランの慰めぶりが可笑しい。
よっぱらってベッドに倒れこむママを介抱し、ローランはブラウスを脱がせてあげ、ブラジャーを外してあげる。
失意のママによりそって「ママのよさがわからない男がバカだ」とささやき、ママを抱きしめるとママは抱きしめ返し、当然のようになるようになってしまったのだが、それが何もなかったかのように淡々と描かれる。
ルイ・マルが「なるようになってしまったのだからしょうがないだろ」と言っているような感じだ。
ローランがママとの関係を払拭するためか女の子の部屋で一夜を過ごし朝帰りをすると、そこには父と二人の兄がいるのだが、父親が以前に「あの悪ガキたちが納得すれば連れてくる」と言っていたのを思い出す。
起きてきたママも加わり、ローランが何をしてきたのかを悟った男たちが笑い出し、家族5人で大笑いする。
この一歩引いたような描き方はそれまでの映画にはなかった描き方で、そこが面白いと思わせる。
コローの絵をめぐって大人たちの権威主義と欺瞞も描かれるが、それらが素直に響いてこなかったのは前半で感じた嫌悪感のせいではなかったかと思う。

恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ

2019-05-21 09:55:36 | 映画
「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」 1989年 アメリカ


監督 スティーヴ・クローヴス
出演 ミシェル・ファイファー ジェフ・ブリッジス
   ボー・ブリッジス エリー・ラーブ
   ジェニファー・ティリー ザンダー・バークレイ
   デイキン・マシューズ ケン・ラーナー

ストーリー
ジャック(ジェフ・ブリッジス)とフランク(ボー・ブリッジス)のベイカー兄弟は“ザ・ファビュラス・ベイカー・ボーイズ”というデュオを組むジャズ・ピアニストである。
弟のジャックはかつての栄光が忘れられず酒びたりの日々。
そんな弟を心配した兄フランクは、女性ヴォーカリストを加え“ベイカー・ボーイズ”を立て直すことを提案、募集広告を出す。
オーディションの日、彼らの前に現れたのはスージー(ミシェル・ファイファー)である。
フランクは彼女のキザでハスッパな感じが気に入らず文句を言うが、ジャックは彼女の歌に魅かれ、ジャックのピアノとスージーの歌はやがて美しいハーモニーを奏で始める。
スージーを加えた“ベイカー・ボーイズ”の音楽は観客を魅了し、人気を取り戻す。
そしてジャックとスージーはやがて恋におちていくのだった。
だが、プライドの高いスージーには屈折したジャックの心情を理解することができず、「負け犬」とジャックを罵り、去ってしまう。
“ベイカー・ボーイズ”は解散に追い込まれ、兄弟さえもばらばらになってしまう。
失意のどん底の中、それでもジャックは音楽に対する情熱だけは失うことがなかった。


寸評
雰囲気を持った音楽映画の秀作だ。
フランクとジャックの兄弟対比も大げさでなく好感が持てる。
女性ボーカリストを取り合うのかと思ったら、兄のフランクは所帯持ちで子供までいる。
妻も子もあるフランクは生活維持のために演奏活動のマネジメントを引き受けているが、弟のジャックは天才肌でどこかスネたような雰囲気を持っている。
兄弟ながら性格の違いからいさかいが起きる描写は、滑稽さがリアリティを生み出している。
ジャックの性格は無口ながらいつもタバコを吸っている姿に凝縮されている。
上の階に住む孤独な女の子と交流している姿もジャックの性格を知る上で違和感を抱かせない。

フランクが極めて平凡で、かつ常識的な人物であるのに反し、ジャックとスージーは突っ張ったところがある。
素直になることが照れくさいのか、お互いの気持ちを伝えることが出来ない。
スージーはこっそりとジャックの化粧道具に触れて彼を感じる。
そんなすーじーを見たジャックは逆に、スージーに見つからないように彼女の香水に触れて彼女を感じる。
愉快なシーンだが、同時にロマンチックなシーンでもあり上手い演出だ。
好きな相手に上手く気持ちが伝えられない彼等の繊細ともいえる心の動きがヒシヒシと伝わってくる。
二人は結ばれるが、それでも素直になり切れず、特にジャックはスージーをあえて突き放してしまうのだが、男として自分たちを見捨てないでくれとは言えるはずがない。
さらにジャックには自分を偽りながら演奏活動を続けているというジレンマもある。
原点ともいうべきクラブでピアノ演奏に没頭する姿に切ないものを感じた。

ジャックは以前にオーディションを受けに来た音痴な女性歌手モニカ・モランと偶然レストランで再会し、誘えばついてきたであろう彼女を置いてアパートに帰り、少女のニーナに辛く当たってしまう。
自らの行いを反省したジャックはニーナに謝罪、自分が何をしたいのか、そして自分にとって本当に大切な人が誰なのかを考えたのだろう。
ジャックは兄の家を訪ね自立することを伝えると、二人で初めてステージに立った日に貰ったウィスキーを開ける。
このウィスキーの話は事前に伏線が張られているので、二人の再出発を応援したくなる。
その後、ジャックはCMソングの仕事をしているスージーと再会し、わだかまりの解けた二人はまたの再会を約束してその場を後にするのだが、そこでもやはり素直な表現が出来ないでいるので、もしかするとトリオは復活するのではないかと期待させる別れ方で余韻を残す。
表に出ない繊細な気持ちを非常に上手く描きだした大人の映画という感じ。

ミシェル・ファイファーの魅力が存分に発揮された作品で、特に彼女の歌が音楽映画としてのクオリティを高めていると思うし、赤いドレスを着た彼女がピアノの上で「メイキン・ウーピー」を歌うシーンは一番の見所で、この映画の白眉だった。
彼女の歌うシーンは魅力たっぷりで、ジャズ・シンガーかと思えるくらいの歌唱力をみせる。
キュートな容姿もあって、僕はこの映画で一番気に入ったキャラクターだった。

恋におちたシェイクスピア

2019-05-20 09:30:01 | 映画
「け」は余り思いつきませんでした。
それでは「こ」に入ります。


「恋におちたシェイクスピア」 1998年 アメリカ


監督 ジョン・マッデン
出演 グウィネス・パルトロー ジョセフ・ファインズ
   ジェフリー・ラッシュ  コリン・ファース
   ベン・アフレック    ジュディ・デンチ
   トム・ウィルキンソン  サイモン・キャロウ
   ジム・カーター     マーティン・クルーンズ

ストーリー
芝居熱が過熱するエリザベス朝のロンドン。
ローズ座は人気作家ウィリアム・シェイクスピアのコメディが頼みの綱だったが、彼はスランプだった。
なんとか書き出した新作コメディのオーディションにトマス・ケントと名乗る青年がやってくる。
実はトマスは裕福な商人の娘ヴァイオラの男装した姿だった。
商人の館にもぐり込んだシェイクスピアは、ヴァイオラと運命の恋に落ちるが、そこでトマスがヴァイオラの仮の姿だと知る。
心のままに結ばれたふたりはその後も忍び逢いを続け、この恋が次第に運命の悲恋物語「ロミオとジュリエット」を形づくっていく。
ヴァイオラは、トマスとして劇場の皆を欺き芝居の稽古を続けていた。
初演を待つばかりの日、トマスが実は女性であることがバレ、劇場の閉鎖が言い渡される。
女性が舞台に立つことが許されない時代だったのだ。
ライバル劇場のカーテン座の協力で初演を迎えたが、同じ日ヴァイオラはいやいや結婚式を挙げていた。
式の後劇場に駆けつけたヴァイオラは、突然声変わりが起こって出演できなくなった少年の代わりに、ジュリエット役を演じることになり、ロミオ役はシェイクスピアだ。
詩に溢れた悲恋劇は大喝采を呼ぶが、芝居好きのエリザベス女王の許しで劇場閉鎖は免れたものの、ヴァイオラの結婚は無効にはならず涙ながらにふたりは別れることに。
結婚して新天地アメリカに赴いたヴァイオラを思い、シェイクスピアは新たなコメディ「十二夜」を書き始める…。


寸評
シェイクスピアの秘めたる恋を劇中劇に絡めて描いていくところが面白い。
劇中劇はもちろん「ロミオとジュリエット」である。
例えば実在の著名な劇作家で居酒屋での喧嘩に巻き込まれて不慮の死を遂げたといわれるクリストファー・マーロウの死を、シェイクスピアが告げた嘘で引き起こされたと勘違いして悩むところなどは、「ロミオとジュリエット」にかぶせているなと感じた。
ヴァイオラとシェークスピアの恋は偶然の出会いから一気に燃え上がるが、その様子は舟で愛の言葉を交わすシーンで巧みに表現していた。
カメラは言葉を発するたびにふたりのアップで切り替わり、その間のカット数はやたらと多い。
しかしそのカットの多さでもって恋の盛り上がりを感じさせられた。
わずかの時間でそれを演出してみせたのは素晴らしいと思う。

「十二夜」と題する新作喜劇の構想を練るシェイクスピアは、アメリカに渡ったヴァイオラの新しい人生を夢想する。
難破した船から一人生き残ったヴァイオラが、アメリカ大陸に上陸するシーンで映画は幕を閉じるのだが、エンドクレジットと共に映される砂浜を歩き続ける長いそのシーンは余韻を残す。
豆粒のようなヴァイオラが歩き続けるのだが、その姿は凛としているようであり、彼女の生きる決意を暗示していたようでもあった。

ヴァイオラとしてシェークスピアと逢瀬を重ねている時と、男装してトマス・ケントとして芝居をやっている時と、行ったり来たりしながら物語が進行していくが、片や金髪のロングヘアで片や茶色のショートヘアなのが見ながらずっと気にかかっていた。
ヴァイオラのロングヘアはカツラなのかと思ったぐらいだ。
流石にそのままでは違和感がありすぎなので、ある時トマス・ケントがさっとカツラを脱ぎ捨てるとロングヘアが現れるシーンが用意されていた。
でもそれは映画的なトリックで、グウィネス・パルトローがトマス・ケントをやっているシーンは、髪を切ってまとめ撮りをしていたに違いないと思う。
トマス・ケントが女性であることを暴く陰気な少年ジョン・ウェブスターも実在の人物で、劇作家になったことを知ったが、時代を描く中でエリザベス1世は当然として実在の人物がいろいろ登場すると歴史映画らしさが増してくる。
それにしてもジュディ・デンチのエリザベス1世はその風貌とともに存在感があったなあ。
ヤケにあの顔を思い出してしまう。
最後の裁きも貫禄充分だったし、「遅すぎる」と言って水たまりの中を歩き馬車に乗り込むシーンなどは滑稽だった。

シェイクスピアが「彼女は僕の生涯のヒロインだった。名前は…」と独白するシーンがあるが、大抵の男はそんな独白をしたくなるような経験を有しているのではないかなと思ったりもした。
中世の雰囲気は出ていた映画で、女王は婚姻をも支配する絶対権力を持っていたんだなあということもわかった映画だった。

けんかえれじい

2019-05-19 10:07:53 | 映画
「けんかえれじい」 1966年 日本


監督 鈴木清順
出演 高橋英樹 浅野順子 川津祐介 片桐光雄
   恩田清二郎 宮城千賀子 田畑善彦
   夏山愛子 佐野浅夫 晴海勇三 長弘
   福原秀雄 横田陽子 加藤武 野呂圭介

ストーリー
岡山中学の名物男南部麒六(高橋英樹)は“喧嘩キロク”として有名だ。
キロクに喧嘩のコツを教えるのが、先輩のスッポン(川津祐介)。
そのスッポンのすすめでキロクは、OSMS団に入団した。
OSMS団とは岡山中学五年生タクアン(片岡光雄)を団長とするガリガリの硬派集団だ。
そのOSMS団と関中のカッパ団とが対決したがキロクの暴れぶりは凄まじくたちまち副団長となった。
だが、キロクにも悩みはあった。
下宿先の娘道子(浅野順子)が大好きで、硬派の手前道子とは口もきけないことだ。
反対に道子は一向に平気でキロクと口を聞き、野蛮人のケンカ・キロクには情操教育が必要とばかり、彼女の部屋にキロクを引き入れてピアノを練習させる始末だ。
この二人の道行きをタクアンが見つけたからおさまらない。
硬派にあるまじき振舞いとばかり、キロクを殴りつけようとした。
それと知ったスッポンがかけつけて、その場は何とか切り抜けたが、キロクの道子病は重くなるばかり。
その煩悩をたち切ろうと、学校では殊更暴れ廻り、配属将校と喧嘩したため、若松の喜多方中学校に追い出されてしまった。
しかし、転校一日目にして、喧嘩キロクの名前は全校にひろまってしまった。
会津中学の昭和白虎隊と名乗る三人組をやっつけたからだ。
この喧嘩は昭和白虎隊がキロクに宣戦布告をし大喧嘩に発展した。
キロクには喜多方中学の硬派が続々と集り、決戦の場会津鶴ケ城でしゆうを決することになった。
この大喧嘩は町中の評判となり、キロクは停学処分をうけてしまう・・・。


寸評
旧制中学と言えば今の中学から高校にかけての年代だから、キロクたちは正に思春期の真っただ中である。
思春期といえば自我意識が芽生える時期であり、したがって自己表現と異性への関心が重大な要素となる。
この映画で描かれる青春もそうしたもので、思春期の若者の生態を大らかに賛美したものとなっている。
主人公のキロクは下宿先の美少女道子に淡い恋心を抱いていて、その悶々とした気持ちの表現が面白い。
筋力たくましい高橋英樹が色気のついた少年を演じ、道子の弾くピアノをチンポコで弾く場面などに包括絶倒。
この頃に恋い焦がれる女性がいれば、頭の中はその子のことが半分を占めている。
異性に想いを伝えられないもどかしさ、有り余る身体に宿るエネルギーのはけ口が、キロクにとっては喧嘩だ。
僕も寝ても覚めても恋い焦がれた女の子を想い続けた時期があったが、キロクのように喧嘩には走らなかった。
運動クラブにも入っていなかったから、はけ口はもっぱら友達とのバカ騒ぎであり、映画だったのかもしれない。
映画を見ていても主人公の女性は彼女に見えてくるし、登場人物に自分を重ね合わせて思いをはせるのも、この時期の映画の味方だった。

前半の舞台は備前岡山で、後半が会津若松なのだが、そのどちらも少年たちが繰り広げる喧嘩のシーンからなっているといってよい。
描かれる喧嘩というのが、少年の喧嘩にしては大げさで、それこそ命にかかわるような派手な喧嘩をする。
今どきこんな喧嘩をするのは劇画の世界だけだと思うが、そこが見ているものにはスカッとする部分だ。
キロクの相手は同世代の男たちだけではない。
反抗精神は時に教師や軍人にも向けられ、権力に対する抵抗ともいえる姿を描いていると言えなくもない。

最後の場面でいきなりキロクの思い人である道子が出てきてキロクに別れを告げる。
不幸な結末となっているのだが、そこのところが錯綜していてよくわからない。
道子は自分は修道院に入ると告げ、将来の嫁にとせがむキロクに対し「自分は結婚できない体だからあなたの愛に応えられない」とわけのわからぬことを言って泣き崩れ画面から消えてゆく。
なぜこのタイミングで、こんなわけのわからぬことを言い出したのかわけがわからない。
雪道で軍人たちに跳ね飛ばされわき道で倒れ込んでいるが、このシーンは一体何を言っているのだろう。

面白いのは北一輝が登場することだ。
北はニヒルな男としてキロクの前に現われるが、そのまま何もしないでスクリーンから消える。
キロクと我々がこの男の正体が北一輝であると知るのは、2.26事件の報道をする新聞が映し出された時である。
キロクはこの騒動の思想的な立役者だと知るが、この映画に北一輝を登場させる必然性はない。
鈴木清順は旧制弘前高等学校(現弘前大学)に進んだ時、寮の同室の学生に北一輝の「支那革命外史」を読むように勧められたというから、そんなことが影響していたのだろうか。
映画はキロクが汽車に乗って東京に向かうところで終わっているから、あえて言えばキロクは子供の喧嘩から脱却し、もっと大きな喧嘩をすることに目覚めたということだと思うが、もしかすると道子と別れなければならなくなったつらさを忘れるために、もっと喧嘩しなければならないと思っただけかもしれない。
「けんかえれじい」は清順の代表作の一つとされているが僕はあまり評価していない。

激突!

2019-05-18 07:55:55 | 映画
「激突!」 1971年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 デニス・ウィーヴァー   キャリー・ロフティン
   エディ・ファイアストーン ルー・フリッゼル
   ルシル・ベンソン     ジャクリーン・スコット
   アレクサンダー・ロックウッド

ストーリー
この日、デヴィッドは貸した金を返してもらおうと、その知人のもとへ車を走らせていた。
その道中、前方を走るタンクローリーを追い抜いていく。
だがその直後、タンクローリーはデヴィッドに迫り、また前方をふさぐのだった。
デヴィッドは再び抜き返し、その距離を広げてガソリン・スタンドへ。
すると間もなく、タンクローリーがまたしても姿を現わし、デヴィッドをあおりにかかる。
デヴィッドは田舎道を走るスピードではないほど飛ばし必死で逃げた。
車は砂煙をあげ走ったが、木の柵に車の横腹をぶち当ててやっと止まった。
カフェでタンクローリーの運転手を探しているうちにタンクローリーは走り去った。
そうこうするうちにデヴィッドは前方のトンネルの向うにタンクローリーが待ち構えているのを見た。
奴は戻って来たのだ!
列車に車ごと衝突されそうになったり、警察に連絡をしようとした電話ボックは粉々に踏み潰されたり、デヴィッドは生死の境目に追いやられていった。
行く先は断崖絶壁という場所に追い詰められ、デヴィッドはタンクローリーと正面衝突しかないのだと覚悟する。


寸評
僕はあまりスピルバーグが好きではないのだが、この「激突!」は面白い。
ハイウェイで平凡なドライバーが理由もなく突然、大型タンクローリー車に追いまわされるだけの話なのだが、不気味さが見るものにも伝わってくる映画である。
映画といっても、TV用として作られたものを日本では劇場公開したものなのだが、並みの映画にない面白さがあり、スピルバーグの才気をいかんなく発揮した作品だ。
元はテレビ用とあって、製作日数の関係から撮り直しができなかった為なのだろうが、主人公の車や、電話ボックスのガラスにスピルバーグの姿が映ってしまっているのはご愛嬌。
今となっては、それを発見するのも楽しみの一つになっている。

終始一貫して追われるドライバーと、巨大なタンクローリーという機械だけが描写され、タンクローリーが生き物のように見えてくる。
消えたかと思うと突如現れ、あるときは真後ろに、あるときは先回りして待ち構えていたり・・・。
最後までその運転手が顔を出さないところなどが実にいい。
それでもたった一度だけ、その運転手が姿を見せるシーンがある。
姿を見せると言っても足もとだけなのだが、それがまた効果的でこの映画を評価する理由の一つになっている。
このシーンはスピルバーグが心酔する黒澤明が「野良犬」の中で駅の待合室にいるはずの犯人を探すシーンを引用しているのだが、スピルバーグはその足元の意味をさらに膨らませていたと思う。
どうやらタンクローリーの運転手は、そのブーツからして、大柄で野性的な男だと想像される。
反して、一方の 平凡なドライバーはビジネスシューズだから、ある意味で知性的な都会人の代表だと言える。
その彼が、ブーツを頼りに運転手を求めて入ったレストランでは、皆が同じようなブーツを履いていて誰だかわからない。
じろじろと見る粗野な男達のアップに続いて、カメラがブーツだけをなめながら移動していくこのシーンは結構長くて、理性を持った人間が野性的な人間に飲み込まれていく様を感じさせる出色のシーンになっていると思う。

ほとんどデニス・ウィーヴァーの一人芝居と言ってもいいが頑張っている。
タンクローリーは擬人化されているが、こんな奴に絡まれたらたまったものではない。
僕は学生時代のアルバイトで、ここまで執拗に追いかけることはなかったが、理不尽な行動を取る運転手の助手席に乗ったことがある。
世の中にはこんな運転手もいるのだと少し憂鬱になった。

そして主人公もタンクローリーの運転手も徐々に凶暴になっていく展開が面白く出来ている。
戦いが済んだ後の、今までの出来事は一体何だったんだろうという虚しさのようなものが漂っているのもいい。
わたしを慰めてくれるのは西の空を染めた夕焼けのみであったというエンディングだ。
善悪を突きつけていないエンタメ性がこの映画を支えていると思う。
この後「ジョーズ」で成功し、ファンタジーから社会性のある映画まで撮って、巨匠の仲間入りをした感のあるスピルバーグであるが、僕はこの「激突!」が一番好きだ。

刑務所の中

2019-05-17 09:59:08 | 映画
「刑務所の中」 2002年 日本


監督 崔洋一
出演 山崎努 香川照之 田口トモロヲ 松重豊
   村松利史 大杉漣 伊藤洋三郎 遠藤憲一
   浅見小四郎 粟田茂 恩田括 小木茂光
   椎名桔平 窪塚洋介 木下ほうか 長江英和

ストーリー
ガンマニアの趣味が高じ、拳銃の不法所持などで懲役3年の実刑判決を受けたハナワ(山崎努)。
北海道・日高刑務所に送られ、晩秋の刑務所で受刑者番号222番を与えられた刑務所生活が始まった。
ところが、彼を待っていたのは暗くてジメジメした刑務所のイメージを覆す獄中ライフだった。
ハナワはそれぞれひとクセもふたクセもある4人の受刑者たちと同房。
入った雑居房は一流ブランド好きのおぼっちゃま受刑者・伊笠(香川照之)、媚を売る受刑者に火花を散らす・田辺(田口トモロヲ)、腕に仁義、いや仁議と刺青してしまった・小屋(松重豊)、シャブに未練たっぷりの冴えない中年男・竹伏(村松利史)との案外と楽しい生活。
厳しく、一見風変わりな規律はたくさんあるが、暴力などは一切なく、テレビも見れて雑誌も読める。
3度の食事は”クサイめし”どころか、驚くほどうまい!
シャバとは一切無縁の退屈なようで楽しい毎日・・・。
お正月の豪華なおせち料理は楽しみだし、免業日の飲み物、お菓子付きの映画鑑賞などもある。
味気ない食事の美味しい食べ方研究や、電気カミソリの電池のもち比べなど毎日飽きもせず繰り返される同じ生活でも満足感を持つ。
ところがある日、捜索(抜き打ち検査)で出所後の互いの連絡先をメモした紙片を発見された5人は、不正連絡で懲罰房に入れられてしまう。
しかし、そこで黙々と薬袋を作ることになったハナワは、懲罰房のほうが生きやすく、受刑者生活の中で一番の思い出になるような気がすると思う始末。
今日も受刑者達の行進の足音が響き、普段通りの日常が始まっていく。


寸評
些細な事に生きる目的を見出していく数々のエピソードが非常に愉快。
人としての無意識な行動が面白おかしく凝縮されている。
人間の本能としては何が一番なんだろう?
とにかく食べる事に対するエピソードが多い。これが一番なのかな。
眠る事にかんして寝具がどうのこうのと思い巡らせてもその思考の広がりは高々知れている。
そこにいくと食べる事に関しては無限だ。
今日はおかずが良いだの、肉が多く入っているだの、去年の正月料理はあんなだった・・・などと話題にとどまる所がない。
ご飯に醤油をかけるとうまいとか、小豆あんとバターを混ぜてパンにつけると絶品だとか・・・。
田辺が北野武監督の「キッズ・リターン」を見ながらお菓子を食べるシーンなんて、お菓子が贅沢品だった小さい頃を思い出した。
あと三個残っていると手探りで数えて、今から食べる楽しみと、後わずかになった寂しさの微妙な感じ。
飽食といつでも手に入る生活レベルからなくしてしまった感覚だ。
刑務所の中ではそれが残っていて懐かしくさえある。
これじゃ刑務所に入ってみたくなる。

彼らは世の中から必要とされていない人間達だ。
それでもわずかな事に変化と生きがいを持って生きている。
懲罰房での封筒貼りの仕事でも何とか日産枚数を上げようとし、達成したときの充実感に酔いしれる。
クロスワードパズルに書き込んだばかりに、人のものを汚したとして懲罰行きになる規律などクソクラエなのだ。

野球なんかに興味がなくてもバッターボックスに立たなければならない奴もいれば、よしここは一発撃ってやろうと意気込んでも、時間が来て終了になりガッカリする奴もいる。
もちろん文句を言えない不自由さはあっても楽しく野球をやっている。
守れないライトはいつも凡フライなのに頭を越される。
ボールを追いかけ投げ返しても途中までしか届かない。
それでも笑顔でそれを拾いに走って行くけなげな生き方を見せる。
今日もそんな風に前向きに生きていく彼等を見守るようにタンポポが咲いていた。

正月前に出所する事を嫌がり、刑務所に居る事で安心感を得る岸田役の長江英和、チンポコの先にティッシュがついていたと告げ口されて孤独に落ちるティッシュマン高橋を演じた大杉蓮、「ハイ、体温計るぅ~。ハイ、風邪ぇ~。入浴禁止ぃ~」などと診察をこなす医官役の椎名桔平などの、脇役人も存在感を見せ付けていたが、ワンシーンだけ登場する浜村役の窪塚洋介がやはり良い。
この人本当にナイーブな存在感を持った子だ。

ハナワさんよ、もっとムショの話をきかせてよ! 「願いまぁ~す」という叫び声が耳に残る。