おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ヒーローショー

2023-01-31 09:10:28 | 映画
「ひ」は2回に分けて掲載しています。
1回目は2020/2/1の「ピアノレッスン」から「ヒア アフター」「ビートルズがやって来る/ヤァ!ヤァ!ヤァ!」「彼岸花」「羊たちの沈黙」「瞳の奥の秘密」「ひとり狼」「陽のあたる場所」「日の名残り」「火火(ひび)」「緋牡丹博徒 お竜参上」「ヒミズ」「ヒメアノ~ル」「百円の恋」「ヒューゴの不思議な発明」「昼顔」「ビルマの竪琴」「ピンポン」と続きました。

2回目は2021/9/22の「ヒート」から「光」「蜩ノ記」「ビジランテ」「左きゝの拳銃」「ビッグ・ウェンズデー」「ビッグ・ガン」「羊の木」「人斬り」「人のセックスを笑うな」「ヒトラー ~最期の12日間~」「ヒトラーの贋札」「陽のあたる坂道」「ヒポクラテスたち」「緋牡丹博徒 花札勝負」「火まつり」「ひまわり」「秘密」「百万円と苦虫女」「BIUTIFUL ビューティフル」「ビューティフル・デイ」「ビューティフル・マインド」「病院で死ぬということ」「病院へ行こう」「評決」「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」「ビルマの竪琴」と続きました。
今回は3回目です。

「ヒーローショー」 2010年 日本


監督 井筒和幸
出演 後藤淳平 福徳秀介 ちすん 米原幸佑 桜木涼介 林剛史 阿部亮平
   石井あみ 永田彬 結城しのぶ 大森博史 太田美恵

ストーリー
芸人を目指すユウキ(福徳秀介)はオーディションで失敗し、バイトもクビになってしまう。
暗い気分のところ、先輩で元相方の剛志(桜木涼介)と出会い、剛志はユウキに新しいバイトを紹介する。
翌日ユウキは、紹介されたバイト先である住宅展示場の中で行われる『電流戦士ギガチェンジャーショー』の会場に向かう。
剛志が演じる怪人バクゲルグが司会の美由紀(石井あみ)に襲いかかると、5人のギガチェンジャーが現われるというお決まりのショーで、ユウキは悪の手下の1人として参加することになる。
剛志は悪役の方が子供のウケがいいとうそぶくが、ギガレッドを演じる俳優志望のノボル(永田彬)とギガブルーのツトム(米原幸佑)は剛志をバカにしている。
ある日、剛志の恋人である美由紀をノボルが寝取ったことが発覚し、剛志とノボルは、ショーの最中に大乱闘。
怒りの収まらない剛志は、サーフショップの鬼丸(阿部亮平)を訪ね、ノボルたちを締めてほしいと頼む。
鬼丸は金をせしめようと、大学に乗りこんでノボルとツトムを痛めつける。
観念したノボルたちは、金を借りるためにツトムの兄・拓也(林剛史)のところに行く。
渋谷で出会い系サイトを運営している拓也は、剛志たちを返り討ちにしてやろうと、自衛隊時代の友人・勇気(後藤淳平)に相談を持ち掛ける。
勇気は今は配管工をしているが、年上の恋人あさみ(ちすん)とレストランを出すため、調理師免許を取ろうと考えている。
かつてその凶暴性で評判だった勇気は、拓也の頼みを引き受ける。
金を受け取るために勝浦に来た鬼丸たちは、勇気たちの壮絶なリンチに遭う。


寸評
前半は、ユウキがひょんなことから凄惨な事件に関わることになる経緯が、壮絶な暴力描写とともに描かれ、後半になると、ユウキと勇気という2人の男のロードムービー的な展開になるのだが、話としては勇気の彼女とその子供も加わって、奇妙な4人の旅が続く後半部分の方が断然面白い。
その旅を通して、ユウキと勇気の間には不思議な絆が生まれ、それぞれいろいろなものを背負った2人の心が共鳴していくところはなかなか面白い。
この話でもって全編を通したほうが面白い作品に仕上がったかもしれない。

前半は兎に角暴力シーンが多く、その描き方はグロテスクですらある。
若者というか不良グループの暴力行為とはこのようなものだと見せつけられているようだ。
仲間が集まると、その暴力行為がどんどんエスカレートしていってしまい止めようのないものになってしまう。
時たま新聞紙上をにぎわすリンチ事件などの背景もこのようなものなのかも知れない。
一度狂って回り始めた歯車の怖さを感じてしまった。

それに比べて後半は友情とか家族愛が前面に出てきてセンチメンタルである。
このギャップが大きすぎて、前半部分は何だったんだろうと思ってしまう。
勇気は、彼女と一緒になって石垣島でレストランを開くという夢を持っているのだが、その反面にある暴力性はどこからきているのかよくわからない。
自衛隊時代の友人への義理立てだけではあるまい。
また、ユウキがサラ金から金を借りようとするシーンに代表されるようなコミカルなシ-ンが時折挿入されるのだが、どうも笑えない。
なんとなく中途半端なイメージを作品に植え付けていた様な気がする。
これは主演の「ジャルジャル」の平凡になってしまった演技によるものなのか、演出の稚拙さによるものなのか判断に迷うところである。

殺人事件も未解決で、勇気と彼女の行く末も想像の域だし、ましてや勇気の生命さえ明らかでない。
故郷に帰ったユウキの今後も未定で、全てを観客の想像に任せきったのは井筒監督らしい。
監督はハッピーエンドを好ましく思っていないのだろう。
井筒監督は「岸和田少年愚連隊」とか「パッチギ」など、テーマを別にしても青春時代の暴力を描かせると中々いい感じを出す人だと思っているのだが、ここではちょっとそれが内容とかみ合っていなかったような気もする。
だからかもしれないが、見ていた時には結構のめり込んでいたのに、終わってみるとこれと言ったことが思い出せない作品だ。
僕の感受性と記憶力が悪いのかもしれない。

子供がいなくなって大騒ぎになっていないのもおかしいけれど、その母親で勇気の彼女役でもあった、ちすんが光っていて役者さんを感じさせた。
ちょっと変わった青春映画だ。

ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い

2023-01-30 09:44:12 | 映画
「ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」 2009年 アメリカ


監督 トッド・フィリップス
出演 ブラッドリー・クーパー エド・ヘルムズ ザック・ガリフィナーキス
   ヘザー・グレアム ジャスティン・バーサ ジェフリー・タンバー
   マイク・エップス マイク・タイソン ケン・チョン

ストーリー
2日後に結婚式を控えたダグは結婚前夜を祝う独身パーティのため、友人のフィルとステュ、婚約者の弟アランとともに、婚約者の父から借りたベンツでラスベガスに向かう。
高級ホテルのスイートを確保して酒を浴びるように飲み、バカ騒ぎする4人。
翌朝目覚めるとメチャクチャになった部屋の中には何故か赤ん坊と一頭の虎がいて、さらに歯科医のステュの前歯が1本なくなっていた。
それから3人は、花婿のダグがいないことに気づく。
ひどい二日酔いで昨夜の記憶が全くないために、自分たちの陥った状況が皆目理解できないフィルたち。
フィルは自分の手首に巻かれた病院の腕章を見つけ、ホテルマンが持ってきたパトカーで病院に行き、事情を聞くと、病院の前に教会にいたと言うことが判明。
教会に向かうとステュがジェイドというストリッパーと電撃結婚していたことがわかり、ホテルにいた赤ん坊は、ジェイドの子供だった。
3人はジェイドのアパートを訪ね赤ん坊を返すが、アパートに来た警官にパトカーを盗んだとして逮捕され、免罪の条件としてスタンガン講習に実験台にさせられる。
こうして3人は乗ってきたベンツを引き取るが、そのトランクから全裸の東洋人が飛び出してきて、3人はその男にめった打ちにされる。
3人がホテルに戻ると、部屋に元世界チャンピオンのマイク・タイソンがいた・・・。


寸評
ハングオーバーって何のことかと思ったら二日酔いのこと。
二日酔いになるほどの飲み過ぎで、前夜の出来事を覚えていないことから起きる騒動を描いている。
なんでこれがゴールデングローブの作品賞なのかとは思うが、ここまでハチャメチャにやれば、それはそれで評価の対象になるということか。
兎に角、何でもありのドタバタ劇で、次から次へとありえないようなエピソードを持ち出してくる。

車を要求したら持ってこられたのはパトカーで、結局パトカーを盗んだとして捕まり、留置場に入れられそうになりながら、フィルの機転でなんとか釈放してもらうことになるのだが、愉快なのはフィルの機転エピソードではなく、腹の虫がおさまらない警官たちがこのバカトリオにする仕返しの方。
小学生たちにスタンガンをガンガン撃たせたのには包括絶倒で、こんなバカげたシーンのオンパレードがこの映画の特徴だ。

そもそも、翌朝目覚めたらトラと赤ちゃんがいたシチュエーションなんて、どう想像したって思いつかない。
やがてその理由が解き明かされていくのだが、その過程でもすったもんだのドタバタ劇を繰り返す。
面白いのは本物のマイク・タイソンが出てくることで、これが単なるゲスト出演と言うわけではなく、重要な役割を演じていたことだ。
このマイク・タイソンの話は笑える。
絶賛するほどではないけれど、コメディとしてここまでやるっていう思い切りの良さは買える。
賭博場のエピソードや、車のトランクから飛び出す全裸の東洋人に係わるエピソードなどは、シリアスコメディのしても十分に成り立つ要素だと思うが、この作品は徹底的にドタバタにこだわって処理している。
ただし、このドタバタ喜劇は日本人の感覚には合わないだろうから評価を得るのは難しいだろうなあ・・・。

色々とすったもんだを繰り返すだけの話なのだが、見終わると「友達って、いいよなあ~」の気持ちが湧いてきたのは僕が男だから?
自分のために、あそこまでやらかしてくれる友人がいるという羨ましさがある。
そしてベンツを貸してくれた婚約者の父親はいい奴だよなあ。
あんな物分りのいい義父がいたらいいよな。

そして、これは男の世界の話なのだから、嫁は知らない方が幸せと言うこともあるんですよと言いたげでもあった。
愛嬌ということかな。
最後の写真も笑える。

阪急電車 片道15分の奇跡

2023-01-29 08:46:26 | 映画
「阪急電車 片道15分の奇跡」 2011年 日本


監督 三宅喜重
出演 中谷美紀 宮本信子 芦田愛菜 戸田恵梨香 南果歩
   勝地涼 谷村美月 有村架純 小柳友 玉山鉄二
   相武紗季 鈴木亮平 大杉漣 安めぐみ

ストーリー
宝塚から西宮北口までを約15分でつなぐレトロな雰囲気の阪急今津線。
そこには、様々な事情を抱えた男女が、束の間乗り合わせていた──。
純白のドレスに身を包んだOL翔子。
彼女は、婚約者を後輩に寝取られてしまって別れ話を切り出される。
そんな最悪の状況の中で、翔子は毅然とした態度で、ある条件を出した。
それは二人の結婚式への出席だったのだ・・・。
かわいい孫を連れた老婦人の時江は、息子夫婦との関係に悩む日々…。
曲がったことが何よりも嫌いな老婦人の時江は、息子夫婦の都合で預かることの多い孫の亜美と、いつものように電車に乗っていたところ、純白のドレスに引き出物という、チグハグないでたちの翔子が気になって、自然と声をかけていた・・・。
彼氏のDVに悩む女子大生のミサ。
ふとしたことから車内で口論となり、ブチ切れた彼氏が電車から降りてしまう。
「くだらない男ね」と時江が吐き捨てた言葉で、ミサは別れを決意するのだが・・・。
庶民的な主婦、康江は断ることが出来ない性格で、肌の合わないPTAの奥様グループの誘いに、胃痛を我慢して出かけて来ているが、傍若無人に振舞うグループに「オバチャンて最低」とミサから厳しい言葉を浴びせられて急激に体調が悪化してしまう・・・。
地方出身の大学生の権田原美帆と小坂圭一は、おしゃれな大学に馴染めずにいる。
ある日、偶然にも電車の中で出会うのだが、はたして、二人の距離は近づくのだろうか・・・。
年上の会社員と付き合う女子高生の悦子は大学受験を控え、成績が思うように上がらず…。
色んな人々が片道15分の今津線を通じて交差していく・・・。


寸評
冒頭で婚約者を寝取られた翔子と彼氏を交えた後輩の対決が有るが、この後輩がなかなかしたたかな女であることが暗示される。
妊娠してしまったのは、自分が大丈夫だと言った為だと言い訳をするが、翔子はそれは仕組んでいたのだと罵倒する。
後輩女のしたたかさは結婚式で曝露される。
純白のドレスの翔子に興味を持って近づく新婦の友人は自分達も何故呼ばれたのか分からないと言う。
新婦となったこの女性は、自分の打算によって上手く立ち回っているのだと暗示していた。
そんな女より、ずっと翔子の方が綺麗でいい女なのだが、それでも上手くいかないのが人生だと言いたげだ。
登場するミサや康江や美帆といった女性たちは、どうもどこか優柔不断な所があるのだが、それでも誰かの力を借りながら必死で生き抜いていくようで未来を感じさせる。
反面、康江はセレブ気取りのおばちゃん達の食事会を抜けて嬉々として家に帰る電話をするが、はたして反省のないあのおばちゃん達からの次回の誘いを拒否できるのだろうか?との疑問もわかせたりしてその未来への不安感も残したりしている。
そのあたりのポップさがこの映画の良さなのかもしれない。
それぞれのエピソードをオムニバス風に描きながら、今津線の駅を通じて交差させながら案外とあっさりと描いているが、見終わった後はなんとなくほんのりとさせる作品だった。
時江が再び犬を飼うことになるエピソードは面白い。
この思い出からの展開を含めて、時間の交差をもう少しうまく処理できていれば、内田けんじの「運命じゃない人」の様なもっと面白い作品になっていたのではないかと感じた。

時江が孫の亜美に「泣いてもいいけど、自分の涙は自分の責任で拭ける女になりなさい」と諭すシーンと、翔子がいじめられっ子の同じ名前の少女を勇気づけるシーンはピカイチ。
宮本信子の時江おばあちゃんは、辛辣とも思える言葉を浴びせながらも心温まる激励をする実にわきまえたおばあちゃんである。
そのおばあちゃんをもってすら解決できない嫁と姑の関係がさらりと描かれているのも、後になってみると奥深いものが有る。
度々持参する花器を迷惑がっている嫁と、それを承知で持参している姑と、それを伝える孫との関係が現実的でニヤリとする。
実に淡白に描かれているだけになおさら面白く感じてしまう。

何事もなかったかのような顔をして電車に乗り合わせている普通の人たちは、それぞれに何がしらの悩みや苦しみが有って、そして、それらを消化しながら普通の人として生き抜いているのだ。
辛いことが有っても必ず幸せはあるのだと言っているようでほっとする。
時江の存在はそんな人生にあって凛とした生き様こそ大切なのだと語っているようであった。
どうも凛としたところのない僕などは、時江のそうした姿に感銘を受け憧れを持った映画だった。

宮本信子のおばあさんは、我が家の周りにはいないが宝塚あたりだと居てそうなおばあさんだ。
中谷美紀の翔子は関西女としては少し抵抗があった。
芦田愛菜は女の子のおしゃまさも有るのだろうが中々の芸達者。
永井大、白石美帆主演のスピンオフドラマとして「征志とユキの物語」が有ることを知ったが、原作の冒頭にあるこのエピソードを本篇からなぜ外したのかなあ?
東日本大震災が起きたので、あればまた違った感傷も持てたかもしれない。
とにもかくにも、阪急電車の今津線を舞台とした映画とあっては、大阪在住の僕としてはそれだけで触手を動かされてしまった。

反逆児

2023-01-28 09:16:35 | 映画
「反逆児」 1961年 日本


監督 伊藤大輔
出演 中村錦之助 桜町弘子 岩崎加根子 杉村春子 佐野周二
   月形龍之介 東千代之介 北沢典子 安井昌二 河原崎長一郎

ストーリー
武田の大軍を迎えて鮮かに勝利を収めた家康の一子三郎信康は、一躍織田陣営に名をあげ岡崎の城に凱旋したが、次女を生んだ妻徳姫は気位高く信康が産室を見舞うことを許さなかった。
今川義元の血をつぐ築山御前を母に持ち、九歳で信長の娘徳姫を娶った信康は戦国時代とはいえ、血の相剋に生きる運命児だったのだ。
父母は身の立場から浜松と岡崎に居城を別にしている有様、築山御前の冷い仕打に妻としての態度も忘れかけた徳姫との溝が深まって行くのも仕方がなかった。
苦悶の続くある日、信康は野で菊を摘む花売のしのに一度だけの愛を与えたが、築山御前と情を通じる鍼医減敬の配下亀弥太に目撃されていた。
妻には心の隔りを感じる信康にも服部半蔵、天方、久米ら忠誠の部下があった。
信康だけを愛する母築山御前は、亀弥太の情報から一計を思いつき、しのに今川家を建てる男子を孕ますべく侍女小笹と名を変えさせて信康の身辺に置いた。
母の企みに気ずいた信康にも、まして徳姫の打撃は大きかった。
築山御前の謀略は意外に大きく、武田方に織田徳川の情報を売ろうとしていたことも明らかになった。
徳姫は十二カ条の訴状を父信長に屈けた。
夫婦の誤解もとけてひしと抱きあう二人だったが時は遅く、かねてから信康の抬頭を快く思っていなかった信長は、秀吉の入智恵をもって訴状をたてに、信康と築山御前の断罪始末を家康に命じてきたのだった。
母は既に浜松に護送され信康の死場所も二俣城に決ったが、介錯は事もあろうに服部、天方、久米。
三者三様の慟哭のうちに信康最期の時が訪れた。
時に天正七年九月、そして信長が本能寺の変に倒れたのは、信康自刃の二年八カ月後の事であった。

寸評
織田信長が徳川家康に正室築山御前と一子松平信康の処刑を命じ、家康はそれに従ったという史実は知識として持っている(諸説あるようだが)。
実際はどのような女性たちであったのかは知らないが、僕は築山御前と徳姫には良い印象を持っていない。
築山御前は出自を鼻にかける息子可愛さ一途のいやらしい姑の印象しかないし、徳姫は築山御前以上に信長の威光を笠に着るプライドだけが高い女のようなイメージを抱いているのだ。
松平信康はその器量の大きさから信長に疎まれ殺されたのだという説もあるようで、総じて好男子のイメージがあるようだが果たしてどうだったのか。
徳姫の信長への訴状では、信康が徳姫に暴力を用いたことや、僧侶を無為に殺害したことや、妊婦の腹を割いたことなどもしたためてあったようだから、夫婦仲は良くなかったのかもしれない。
築山御前が自分につらく当たる姑根性を見せていることも12か条の中に含まれていたようで、古今を」問わず嫁と姑の問題もあったようだ。
武田家との内通問題が一番大きな要因だったのだろうが、当然のごとく築山御前、信康の二人は罰せられた。
信長が家康の忠誠心を試そうとしたとの説もあるが、ここではその事には触れられずにこの一件が描かれている。

築山御前は僕の印象通りで、今川を滅ぼした織田信長の娘である徳姫を毛嫌いし、男児を生まぬように呪う築山御前を杉村春子が熱演している。
世継を産めぬ徳姫に変わって側室を信康にあてがおうとする姿などで嫁姑問題を浮かび上がらせる。
彼女は信長、徳姫と同様に家康をも藁人形にくぎを打ち付ける呪いをかけている。
実際の家康と築山御前の関係もそのようなものだったのかもしれない。
そのように築山御前の執念はすごいものがあるのだが、それにしても岩崎加根子の徳姫の描き方はちょっと中途半端なような気がした。
彼女を築山御前に拮抗する女性として描けば嫁姑問題がもっと前面に出ていただろう。

ひとり中村錦之助の三郎信康だけはいい男として描かれている。
桜町弘子演じる花売り娘・しのと河原で関係を結んだにもかかわらず冷たく捨て去っているにもかかわらず正当化されている。
悲劇の武将としての松平信康を描くという意図なのでそれも納得だ。
しかし「反逆児」というタイトルが示すものは一体何だったのだろう。
信康は一体何に反逆していたのだろう。
今川の人質となっていた父・家康が意に添わぬ今川義元の血縁者を押し付けられたっということ、あるいは信長という支配者に屈服させられて娘を押し付けられたという政略結婚に対する反抗だったのだろうか。
だとすれば本当に愛した女性が登場して、例えば、しのに対する秘かな慕情などを描いても良かったはずだ。
不本意ながらも切腹して果てた姿に反逆者の思いを込めたのだろうか。
切腹シーンにおける介錯者である服部半蔵の立ち回りは少々芝居じみていたけど・・・。
甘いと思うところもあるのだが、プログラムピクチャの中で撮った伊藤大輔らしい作品の一つではある。

ハワイ・マレー沖海戦

2023-01-27 08:09:36 | 映画
「ハワイ・マレー沖海戦」 1942年 日本


監督 山本嘉次郎
出演 伊藤薫 原節子 加藤照子 友田宇女子 英百合子 中村影
   汐見洋 藤田進 大河内伝次郎 井上千枝子 大崎時一郎
   音羽久米子 徳川文六 泉つね 豊原みのり

ストーリー
昭和十一年、海軍兵学校の生徒、立花忠明は休暇で帰省した。
忠明はその時、従弟の友田義一が海軍少年飛行兵を志願しているのを知り、義一の頼みで、志願を許してくれるよう義一の母を説得した。
翌年、義一は土浦海軍航空隊予科練習部に入隊、厳しい訓練を受け始めた。
昭和十四年、義一は予科練を卒業して海軍飛行隊の一員となり、一人前の操縦士となるための猛訓練が毎日の日課になった。
昭和十六年の秋、義一たちを乗せた空母がひそかに出航して行ったが行先は知らされていなかった。
数日後、乗組員が聞かされたのは、十二月八日未明にハワイ真珠湾を攻撃するという命令だった。
その日、空母を飛び立った大編隊は、見渡す限りの雲海の中を進んでいた。
突然、雲の小さな切れ目から真珠湾口が光り、そこには米太平洋艦隊の主力が静かに停泊していた。
やがて、義一たちの雷撃隊、急降下爆撃隊、水平爆撃隊の大編隊の奇襲攻撃が始った……。
一方、仏印飛行場では忠明らの中攻大編隊が、「英国艦隊主力二隻発見」の報に飛び立ったが敵艦を発見出来ないままに帰還しなければならなかった。
しかし、その後、潜水艦の情報で、再び忠明らは飛行場を飛び立った。
やがて、忠明らの編隊は眼下に敵艦を発見、たちまち、激しい戦いが始った。
不沈艦を誇ったプリンス・オブ・ウェールズは死闘をつづけながらも、何本もの魚雷攻撃を受けて、ついに艦首から海にのまれていった……。


寸評
海軍省後援で製作された国策映画で、冒頭「一億で背負へ譽の家と人」と映し出され、海軍省検閲済 海検第255号、後援 海軍省、企画 大本営海軍報道部のクレジットにこの映画を英霊に捧げる言葉が続く。今見ると歴史的な匂いを感じてしまうが、当時はプロパガンダの役割を果たして身震いしたのかもしれない。

映画の前半は予科練における訓練ぶりと、友田義一が落ちこぼれそうになりながらも成長していく様子が描かれる。戦後に撮られた作品と違い、またプロパガンダとしての役割上、作中には新兵をいたぶる古参兵のような者は登場しない。登場するのは厳しい中にも思いやりのある上官や、辛い中でも笑の絶えない仲間たちの姿だ。

今この映画を見て戦争を可とする者など皆無と思うが、どこかの党首ではないが、当時のふんわりとした民意はこの様なものだったのかもしれない。
母親は息子はすでに自分たちのものではないと言い切るし、予科練ではすでに精神論がぶたれているし、命令は天皇陛下の命令で絶対なのだと言い放っている。
訓示はアジ演説的に長々と映し出され、このようなシーンを見ると間違いなくこの時代に作られたプロパガンダ映画だと思わせる。
長い映画だが、ほとんどの部分は予科連と海軍兵学校で練習に励む主人公らの訓練風景が延々と描かれ、最後の十数分間のみが特撮スペクタクルを堪能できる構成で、ついにやっつけたかという気持ちの高ぶりがこの映画の持ち味となっていると思う。
もしかすると当時の映画はこの様な作りだったのかも知れない。

オープニングと同時に登場した姉役の原節子は綺麗すぎないかと感じた。
主人公は田舎の大きな家の長男らしいので、その家のお嬢様みたいな設定なのだろうけれど、これは彼女の持つ雰囲気の宿命みたいなもので、とても百姓家のよごれた娘役を出来る人ではないなと思った。
円谷英二による特撮シーンは、クライマックスにほんの少しあるだけだが、精緻なミニチュアセットが、まるで記録映画のような素晴らしい効果をあげていて、白黒映画のせいか、その後の東宝映画の特撮シーンよりも雰囲気がある。

山本嘉次郎は「加藤隼戦闘隊」なども撮り、プロパガンダ映画監督の立場を受け入れた監督だと思うのだが、戦後にGHQの指導で作られた東宝の労働組合委員長に就いているのは面白い。
常識的に考えればこの人事はないと思うが、GHQも何を考えていたのか…。
人がいなかったのか、誰でもよかったのか、変節は仕方のないことと思われたのか。
ハチャメチャ人事と言われても仕方がないのではないか。
僕は山本嘉次郎その人に対しては、NHKのクイズ番組に出ていた時に見た白髪の素敵なお爺さんという印象があり、エリア・カザンがレッド・パージへの対応で終生批判を受け続けたのとはえらい違いだ。

春の雪

2023-01-26 08:40:05 | 映画
「春の雪」 2005年 日本


監督 行定勲
出演 妻夫木聡 竹内結子 高岡蒼佑 スウィニット・パンジャマワット
   アヌチット・サパンポン 及川光博 田口トモロヲ 高畑淳子
   石丸謙二郎 宮崎美子 柄本佑 石橋蓮司 山本圭 真野響子
   榎木孝明 大楠道代 岸田今日子 若尾文子

ストーリー
大正初期。
松枝公爵家のひとり息子・清顕と、公家の家系である綾倉伯爵家の令嬢・聡子。
幼なじみのふたりは、互いを秘かに恋い慕っていた。
しかし、清顕は心の未熟さから聡子への気持ちを素直に認められない。
そんな中、聡子に宮家の王子・洞院宮治典王殿下との縁談が持ち上がる。
清顕への想いを断ち切れない聡子は、幾度となく手紙を認め彼からの求愛を待ち続けるが、清顕は冷たい態度を取るばかり。
困惑する聡子だったが、冷たい態度をとる清顕に失望し、ついに縁談を承諾するのだった。
やがて、聡子と宮家の縁談に勅許が下った。もう、引き返すことは出来ない。
ところが、清顕はその時になって初めて聡子への愛に気づくのであった。
堰を切ったように溢れ出ずる聡子への想い。ふたりは、人目を忍び逢瀬を重ねるようになる。
だが、そのようなことがいつまでも続く訳もなく、聡子の懐妊をきっかけに、ふたりの仲は引き離されてしまう。堕胎した聡子は出家を決意した。
それを知った清顕は、彼女を追って奈良の月修寺門跡のもとを訪れる。
しかし、遂に聡子に会うことは叶わない。
胸を患っていた彼は、次の世で聡子と巡り会うことを信じて、帰京の車中で息絶える。


寸評
この作品は純愛映画と言えなくもないが、どちらかと言えば屈折した愛の表現だ。
清顕は素直に愛の表現ができない。
小学生の男の子が好きな女の子に意地悪をしてしまうような行為が度々描かれる。
本当に好きになると失うことの恐ろしさが先に立って相手に何もできなくなってしまうような所がある。
清顕は聡子からそれを突きつけられる。
この恋は片思いの恋ではなく両想いの恋なのに、清顕は意地を張ってしまう。
その姿はあたかも恋する気持ちで女に支配されまいとしてもがいているようでもある。

聡子の綾倉家は父親が伯爵とはいえ落ち目の家柄で、父親はそのことにコンプレックスを抱いている。
父親は冒頭で「嫁ぐ前に好いた男と結ばせろ。生娘で嫁にやるな。それが復讐だ」と関係を持っている聡子の乳母に言って聞かせる。
この乳母に言った言葉が後々重みをもってくるようになるのだが、上流社会を強調するためか物語は実にゆっくりと進んでいく。
2時間半はあまりにも長い。この内容であればもう少しコンパクトにまとめられたはずだ。

百人一首が最初と最後に描かれる。
最初は子供の頃の清顕と聡子が百人一首遊びに興じているシーンで、ふたりが幼い頃から仲の良い幼馴染であることが表されている。
会話は聞こえずその姿を写し撮ることでそのことを表現している。
そして最後に百人一首の77番札である崇徳院の歌が披露される。
「瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ」というもので、歌の意味はと言えば、川瀬の流れが早いので、岩にせきとめられた滝川が二つに分かれてしまっても、のちには再び一つになるように、たとえ今あなたと別れたとしても将来は再び会いたいと思っています、ということになる。
恋の歌として有名なこの札は7枚ある1枚札のひとつで(上の句が「せ」で始まる歌は一首しかない)、その事もまた何か思わせぶりなことでもある。
この歌のエピソードがなかったら全くと言っていいぐらい平凡な作品になっていたのではないかと思う。

妻夫木聡の清顕と竹内結子の聡子が、乳母の蓼科の手引きで逢瀬を重ねるのだが、二人の雰囲気がそうなのか、演出が意図したものなのか、深みにはまっていく男と女という感じを受けなかった。
それが尾を引いていたのか、最後に見せる清顕の一途な愛も僕にはもう一つ響かなかった。
ちょっと綺麗すぎる結末で少し物足りなさを感じてしまった。
原作者である三島由紀夫の世界を描けばこうなるのかなあ…。

バルタザールどこへ行く

2023-01-25 07:51:41 | 映画
「バルタザールどこへ行く」 1964年 フランス / スウェーデン


監督 ロベール・ブレッソン
出演 アンヌ・ヴィアゼムスキー フィリップ・アスラン
   ナタリー・ショワイヤー ヴァルテル・グレーン

ストーリー
ピレネーのある農場の息子ジャックと教師の娘マリーは、ある日一匹の生れたばかりのロバを拾って来て、バルタザールと名付けた。
それから十年の歳月が流れ、いまや牧場をまかされている教師とマリーのもとへ、バルタザールがやって来た。
久しぶりの再会に喜んだマリーは、その日からバルタザールに夢中になってしまった。
これに嫉妬したパン屋の息子ジェラールを長とする不良グループは、ことあるごとに、バルタザールに残酷な仕打ちを加えるのだった。
その頃、マリーの父親と牧場主との間に訴訟問題がもち上り、十年ぶりにジャックが戻って来た。
ジャックは味方になってくれるが、マリーの心はジャックから離れていた。
訴訟はこじれ、バルタザールはジェラールの家へ譲渡された。
バルタザールの身を案じて訪れて来たマリーは、ジェラールに誘惑されてしまった。
その現場をバルタザールはじっとみつめていた。
その日から、マリーは彼等の仲間に入り、バルタザールから遠のいて行ってしまった。
もめていた訴訟にマリーの父親は敗れたが、ジャックは問題の善処を約束しマリーに求婚した。
心動かされたマリーは、すぐにジェラールたちに話をつけに行ったが、仲間四人に暴行されてしまった。
その日から、マリーの姿は村から消え、父親は落胆のあまり死んでしまった。
一方バルタザールは、ジェラールの密輸の手伝いをさせられていた。
しかし、ピレネー山中で税関員にみつかりバルタザールは逃げおくれ、数発の弾丸をうけてしまった。
ピレネーの山かげを朝日が染めるころ、バルタザールは静かに息をひきとるのだった。


寸評
僕がロベール・ブレッソンと出会ったのは1969年に北野シネマで公開された「ジャンヌダルク裁判」だった。
北野シネマは当時存在していたATGの専門館で、大衆向けではない作品をもっぱら上映していた。
後に1000万円映画と称される日本人監督が採算を度外視して撮った自由な作品が主になったが、当初は一般公開されない外国作品も数多く上映されていて、「ジャンヌダルク裁判」もそんな中の一本だった。
その一本でロベール・ブレッソンへのイメージが出来上がってしまったのだが、「バルタザールどこへ行く」もそのイメージから逸脱していない作品である。
そのイメージとは登場人物の感情表現を抑えた作風であり、宗教色をにじませる厳しい作風が見て取れることだ。
リアリズムを追及しているように見えるし、言い換えれば虚飾を排除しているので、僕のような凡人には退屈な映画と思えてしまう。
描かれている崇高な内容に入り込めないでいる僕にとっては忍耐を要する作品でもある。
「バルタザールどこへ行く」の中心にあるのはマリーとジャックの淡い恋物語なのだが、この作品はその恋の行方を追い続けているわけではない。
バルタザールと名付けられた一頭のロバを通して、彼らが住まいする村人々の生活を無垢な目で見続けている。
人々は皆何かしらの小さな歪みを持っていて、日常生活の中で些細な罪を重ねてゆく。
その姿を大胆に省略した映像で紡いでいく。
行為の入り口は映しだされるが、その後に起きること、起きたことを観客に想像させる。
そしてその想像は人によって違うものではなく、誰しもが思い描くものとなっている。
例えばジェラールが車の中でマリーを誘惑する場面だ。
ジェラールとマリーの顔を交互に映しながら、一カットだけマリーのミニスカートからあらわになっている足を写し、その後にジェラールがマリーの肩に手をかける。
それだけで、ジャックの心象風景を見事に映し出すという演出である。
ジェラールに憲兵隊からの呼び出し状が届く場面、マリーが辱めを受ける場面などにおいても同様の描き方だ。
この簡略化した描き方はロベール・ブレッソンの特徴でもあると思う。
出演者は誰もが芝居じみた演技をせず、うまい演技ではないがリアリズムを生み出すことには成功している。
これもまたロベール・ブレッソンの特徴でもあるように思う。

人々は自分たちの欲求を満たすために、他人への妬みのために、そのはけ口をバルタザールに対する哀しい仕打ちに求めている。
バルタザールはムチ打たれ、こき使われるが反抗することが出来ない。
ロバのバルタザールはそんな状況下にありながら、憐れむような眼で人々を見続けている。
その目は人間の行為を静かに批判しながら、すべてを受け止めているような優しさに満ちあふれている。
欧米人はバルタザールにキリストの姿をダブらせているのかもしれないなと思う。
バルタザールは人々の元を離れて歩き始め、羊に囲まれて静かに眠るように死んでゆく。
羊は優しさの象徴であり、天使の象徴でもあり、バルタザールは神に看取られて息絶えたように思えた。
「フランダースの犬」のパトラッシュを連想させる。
でも僕にはちょっとしんどい映画だ。

パリの恋人

2023-01-24 07:10:17 | 映画
「パリの恋人」 1957年 アメリカ


監督 スタンリー・ドーネン
出演 フレッド・アステア オードリー・ヘプバーン
   ケイ・トンプソン ミシェル・オークレール スージー・パーカー

ストーリー
ニュー・ヨークのファッション雑誌クォリティ・マガジンは新しいモデルを探し出してミス・クォリティと名づけ、その写真を独占して大いに雑誌を売ろうと計画した。
ミス・クォリティのモデルを探す役は、有名なファッション・カメラマンのディック・エヴリー。
苦労の末、ジョー・ストックトンという娘を見出した。
ジョーはもちろん、ファッション・モデルなどに興味はなかったが、パリに行けば崇拝するフロストル教授に会えるので、ミス・クォリティになるのを承諾した。
ミス・クォリティを紹介するパーティの夜、ジョーはフロストル教授が裏街のカフェーで講演することを知ると、パーティのはじまる前の寸暇をぬすんで出かけて行った。
ジョーははじめてフロストル教授に会って、教授がまだ30代の青年であるのに驚いた。
エヴリーは若い青年の教授が彼女に興味を抱いている様子が気に入らない。
翌日、エヴリーはジョーがフロストル教授の部屋にいるのをみつけると、ジョーを連れ帰ろうとした。
しかし、ジョーはエヴリーのそんな態度が気に入らず、絶対帰らぬといい張って喧嘩別れしてしまった。
エヴリーが帰ると教授は、エヴリーが見抜いたとおり、ジョーに愛を求めようとした。
彼女ははじめて教授の本心を悟り、部屋をとび出すと、デュヴァルのサロンへ急いだ・・・。


寸評
カラフルでファッショナブルなミュージカル映画で、冒頭のファッション雑誌社のシーンから雰囲気全開である。
オードリー・ヘプバーン初のミュージカル映画で、妖精オードリーを全面に出そうとしていることがわかる。
原題通り「ファニー・フェイス」という言葉がオードリーに対して使われ、この後ファニー・フェイスは女性への誉め言葉になった。
冒頭で披露されるミュージカル・ナンバー「Think Pink!」で編集長はピンクを売り出そうとするが、僕はむしろこの映画のカラーとしては赤と黒のイメージが強烈だった。
オードリーをソフト・フォーカスで捉えて、彼女のエレガンスさを出そうとしているが、白眉なのはジヴァンシーのドレスに身を包んだオードリーがパリの観光名所を背景にして様々な表情を見せるグラビア撮影シーンだ。
フランスが舞台なのでハリウッドのミュージカルにフランス映画のスピリットが加味されているような感じで、本格ミュージカルと言うよりはポップなミュージカル映画で気楽に楽しめる。
オード―リーのミュージカル映画と言えば「マイ・フェア・レディ」を真っ先に思い出すが、むしろこちらの方がオードリーの魅力を引き出しているかもしれない。

フレッド・アステアはミュージカルシーンになると安定感抜群だと思わせるが、安定感は逆にいうと印象に残るようなシーンを生み出せていないtことにつながる。
むしろ本作で目を引くのは編集長マギー役のケイ・トンプソンで、堂々たる歌とダンスはアステアにも全く引けを取らないカッコいいオバサマである。
オード―リーのダンスも予想以上に素晴らしかったが、最も印象に残ったのはこのケイ・トンプソンとアステアが歌って踊るシーンだった。

オードリーは本作以外にも「麗しのサブリナ」(1954)、「昼下がりの情事」(1957)、「シャレード」(1963)、「パリで一緒に」(1963)、「おしゃれ泥棒」(1966)など、作品歴を見るとパリを舞台にしたものにかなり出ているので、オードリーにはパリが似合うということだろうか。
それにしてもオードリーの相手役はどうしてこうも中年男性ばかりなのだろう。
「ローマの休日」のグレゴリー・ペック、「麗しのサブリナ」のハンフリー・ボガート、「昼下りの情事」のゲイリー・クーパー、「シャレード」のケイリー・グラントなどで、彼等から見れば子供の様なオードリーとの関係に見えるのだが・・・。
分別ありそうな年齢の彼らが、妖精のような汚れなきオードリーに恋する構図は、見ているオードリーファンにはリアリティがなく安心して見ることができたのかもしれない。
華奢な体型もあって、オードリーにはセクシャルな面を感じさせない雰囲気があり、その事も中年男性が相手となっている理由かもしれない。
本作におけるロマンスの相手役であるフレッド・アステアも、僕には違和感があるくらいのお爺さんに思えた。
しかしそれでも映画としては十分すぎるくらい成り立っていて、アステアはオード―リーの引き立て役を見事にこなしたと言う事だろう。
オードリーあっての「パリの恋人」だ。

巴里のアメリカ人

2023-01-23 06:35:54 | 映画
「巴里のアメリカ人」 1951年 アメリカ


監督 ヴィンセント・ミネリ
出演 ジーン・ケリー レスリー・キャロン オスカー・レヴァント
   ニナ・フォック ジョルジュ・ゲタリ

ストーリー
パリに住むアメリカ人ジェリー・ミュリガン(ジーン・ケリー)は、気ままな感じ易い青年だ。
パリに留まって一1人前の絵描きになることが宿望だが、絵の勉強は一向に進まない。
だが友達はたくさんできた。
米国人のピアニスト、アダム・クック(オスカー・レヴァント)やフランス人の歌手アンリ・ボウレル(ジョルジュ・ゲタリ)たちである。
ジェリーの絵はさっぱりパリジャンにうけなかったが、モンマルトルで開いた個展を訪れた金持ちの米国婦人ミロ・ロバーツ(ニナ・フォック)は、彼の才能を認めパトロンになってくれた。
どうやらミロは絵よりもジェリーに思し召しがあるようだ。
ミロと一緒にキャバレーにいったジェリーは、愛くるしい清楚なパリ娘リズ(レスリー・キャロン)を見染めて一目惚れ、強引に彼女の電話番号を聞き出した。
あくる日から、ジェリーとリズは逢いびきを重ね、お互いに愛し合う仲となった。
だがリズはアンリと内々に婚約していることをジェリーにかくしていた。
リズは戦争中両親を亡くしてからというもの、アンリの献身的な世話を受けてきたので、彼を愛してはいなかったが深く恩義を感じて婚約したのだった。
やがてアンリはアメリカへ演奏旅行に出発することになり、彼はリズに結婚して一緒に行こうと申し出た。
リズはこれを承諾し、ジェリーにすべてを打ち明けた。
ミロを連れて美術学生の舞踏会に出かけたジェリーは、そこでリズとアンリに会った。
人影ないバルコニーで、ジェリーとリズは最後の別れを惜しむのだった。
アンリは偶然、2人の話を立聞きし、、2人が愛し合っていることを知った。
彼は自ら身を引き、ジェリーとリズは晴れて結ばれたのだった。


寸評
主人公のジェリーは画家志望である。
物語の舞台はパリである必要はないが、やはり画家の卵となれば舞台は華のパリが似つかわしい。
多くの日本人画家もパリ留学を果たしているし、芸術の都としてのパリは世界中の人を引き付けるのだろう。
パリに行ったことがない僕でも、パリという街の漠然としたイメージは出来上がっている。
「巴里のアメリカ人」というタイトルを見ると、アメリカ人も同じような感覚を持っているのではないかと思う。

この古典的名作は他の映画作品の中でも引き合いに出されることがあるぐらいだから、古くからの映画ファンには忘れられない作品なのだろう。
見どころは堪能できるし、ミュージカルスターの力量も感じ取れるのだが、しかし古いタイプのミュージカル作品であることは否めない。
会話が弾み、それが歌になって、ダンスが加わり盛り上がっていくという王道パターンである。
それが舞台装置の様なセットの中で行われ、舞台と違う映画らしいカットのつなぎで見せていく。
この展開は非日常的であるが、この非現実的な運びこそがミュージカルで、それを楽しめないようではミュージカル映画は楽しめないだろう。
ジーン・ケリーはミュージカル・スターらしい。
歌って、踊って、タップを踏んで、少々のお芝居もやる。
性格俳優的な、人の内面を演じ切るという演技力を感じないが、タップダンスなどは上手いんだなあと思った。
カフェでのダンスシーン、花屋の前で子供たちを相手に披露するタップダンスなどは楽しい場面だ。
そこに居合わせた人たちも、ジーン・ケリーに見とれて拍手を送るという舞台の様な演出だ。
ヒロインのレスリー・キャロンはジーン・ケリーによって見出されたミュージカル・スターということだが、本作中においてもトゥシューズを履いてバレリーナのように踊る彼女の姿は魅力的だ。
コンサート・ピアニストのアダムが物語の接着剤的存在で、ジェリーと同じアパートに住んでいる。
彼の音楽仲間が歌手のアンリで、彼等は日焼けオイルで父が財を成したミロとも知り合いだ。
アンリは長年世話してきたリズを愛し始めていて、そのリズをジェリーが見染めるといった人間関係である。
アダムを通じてアンリとジェリーが同じ女性に恋してる恋の彩が描かれ、その究極としてアンリがジェリーに女性にはっきりと告白すべきだと恋の手ほどきをするシーンが用意されている。

圧巻はジーン・ケリーとレスリー・キャロンがジョージ・ガーシュウィンの楽曲「巴里のアメリカ人」をバックに踊る18分間のダンスシーンだ。
街角のセットで歌い踊り、それがやがて遊園地へと引き継がれていく。
ジーン・ケリーとそれを補佐するような男子ダンサーと色とりどりの衣装で飾られた女性たちが踊りまくる。
カットで繫ぎながら用意されたセットを背景に皆が歌い踊る最高の見せ場だ。
さらに美術学校での大騒ぎシーンとなり大団円となる。
先ほどと違ったモノトーンの衣装も、乱痴気騒ぎにマッチしてインパクトがある。
ジェリーとリズの恋が成就するということは、反対に失恋した二人の男女がいるわけだが、ハッピーエンドを演出するためかその悲しさは描かれていない。

パラサイト 半地下の家族

2023-01-22 11:17:39 | 映画
「パラサイト 半地下の家族」 2019年 韓国


監督 ポン・ジュノ
出演 ソン・ガンホ イ・ソンギュン チョ・ヨジョン チェ・ウシク
   パク・ソダム イ・ジョンウン チョン・ジソ チョン・ヒョンジュン
   チャン・ヘジン パク・ソジュン

ストーリー
日の光も電波も弱い、半地下住宅で暮らすキム一家。
父のキム・ギテク(ソン・ガンホ)はこれまでに度々事業に失敗しており、計画性も仕事もないが楽天的。
元ハンマー投げ選手の母チュンスク(チャン・ヘジン)は、そんな不甲斐ない夫に強く当たっている。
息子のギウ(チェ・ウシク)は大学受験に落ち続け、娘のギジョン(パク・ソダム)は美大を目指すが上手くいかず、予備校に通うお金もない。
しがない内職で日々を食いつないでいる貧しい彼らは、皆、普通の暮らしがしたいと願っていた。
ある日、ギウを訪ねて、受験を勝ち抜き今や名門大学生となった友人ミニョクがやってきて、留学する間、彼に代わって家庭教師をしないかと持ち掛ける。
受験経験は豊富だが学歴のないギウが向かったのは、IT企業の社長パク・ドンイク(イ・ソンギュン)の自宅である、高台に佇むモダンな建築の大豪邸だった。
偽造した大学在学証明書にさほど目を通す様子もなく、若く美しい妻ヨンギョ(チョ・ヨジョン)に娘ダへの部屋へと案内されるギウ。
受験のプロのギウは少し授業をしただけで母と娘の心をすっかり掴んでしまう。
帰り際、落ち着きのないパク家の末っ子ダソンに、紹介したい家庭教師がいると提案。
後日、ギウは妹のギジョンを連れて豪邸を訪れ、ギジョンはダソンの美術家庭教師となる。
どの家庭教師も1か月も続かなかったというダソンを恐るべき速さで手なずけ、二人はあっという間に一家の信用を得ていった。


寸評
世界的に格差社会が広がりつつあるが、その結果として下流になってしまった家族の悲哀を時にユーモアで包みながら描いている。
社会派作品的な内容だが堅苦しくはなく、むしろエンタメ性に富んだ作品である。
展開はスピーディだが内容は希薄ではなく、むしろ濃密だ。
チラチラと登場人物の本性を描きながら社会の縮図も感じさせる。
ギウは令嬢といい仲になるが、ブルジョアの振舞いを見て自分には似合わないと感じる。
文化、教養、振る舞いがブルジョアとプロレタリアートでは全く違うのだ。
ギウの父親ギテクはパク社長から嫌悪する匂いを指摘される。
衣服に染み付いた家庭の匂いなのだが、換言すれば貧乏くささなのだ。
母親のチュンスクはパク夫人のヨンギョが人をすぐ信じてしまう素直な性格を評して、お札にアイロンをかけたピンとしたお金を持っている人だからとたとえ話をする。
優しい人だと言われ、金持ちなのに優しいのではなく、金持ちだから優しいのだと言う。
そんなヨンギョと対極にいるのが詐欺師一家といってもいいようなキム一家である。
パラサイトと聞いて、親に寄生する子供を想像したが、ここで描かれるパラサイトは上流家庭に寄生する下流一家である。
下流一家を絵にかいたようなキム一家は次々と上流家庭のパク家に寄生していく。
キム一家は半地下に住む下層市民だが、それよりも下層の全地下に住む人間が登場する。
彼らもパク家に寄生していたのだが、それがまた意表を突く登場の仕方なのに違和感を感じさせない演出の力強さがある。
スマホの送信ボタンが核のボタンのような意味合いを持つようになり、前家政婦のおばさんが、北朝鮮のニュースキャスターのオバサンのような絶叫をするシーンは可笑し過ぎて大笑いだ。

最後になって格差社会の上下が激突する。
キム一家は雨の中を豪邸から脱出するが、雨は豪雨となって降り注ぎ濁流となって高台から低地へ押し寄せる。
上流で生まれた雨水の流れが下流に押し寄せる。
彼らの家はその下流の半地下で、床上浸水どころではない。
格差社会とはこういうことなのだと示しているようなシーンだ。
そして格差社会を破壊するような事件が起きるが、キム・ギテクの怒りはパク社長がとった貧乏人を見下す態度に向かう。
パク社長は自分のとった行為の意味を感じていない。
世の中の縮図だ。
最後に父子の情を見せるが、結局下層の人間は自らの力でのし上がるしかないのかという気がする結末で、考えてみればすごく現実的な結論だ。
人間社会において、パラサイトでは生き続けることはできないのだと思う。
人は生まれながらにして平等ではないが、生命力だけは万人に与えられている。
キム一家の生命力に感心したので、ギジョンは生きていて欲しかった。

パブリック・エネミーズ

2023-01-21 11:06:48 | 映画
「パブリック・エネミーズ」 2009年 アメリカ


監督 マイケル・マン
出演 ジョニー・デップ クリスチャン・ベイル マリオン・コティヤール
   ビリー・クラダップ スティーヴン・ドーフ スティーヴン・ラング
   ジェームズ・ルッソ デヴィッド・ウェンハム

ストーリー
その時代を支配していたのはジョン・デリンジャーという男だった。
銀行強盗という決して褒められる仕事をしているわけではないが、弱きからは盗まず金持ちだけをターゲットに絞った義賊的存在の彼は民衆からの支持も集めていた。
彼とその仲間は警察に捕まるものの見事脱獄に成功する。
地元警察は既に買収済みではあるものの、一部の警察内でジョンを逮捕するための捜査局が設立された。
その支局長にパーヴィスという捜査官が任命された。
一方その頃ジョンはビリーという美女と出会っていた。
かくしてパーヴィスとジョンの追いつ追われつが始まった。
パーヴィスはジョンを逮捕するため、経験豊富な捜査官達を呼び寄せた。
そしてビリーと競馬場で遊んでいたジョンをとうとう逮捕することに成功した。
しかしジョンは腕の良い弁護士を雇い、再び仲間と脱獄の計画を立てる。
無事に脱獄したジョンが暫くして仲間の元に戻ると、何故かジョンは一部の人間から邪魔者扱いを受け、そして隠れ家も使えなくなっていた。
不審に思いつつもジョンは新たな銀行強盗を実施する。
しかしその途中仲間の1人が捜査官に捕まり、強制的にジョンの居場所を吐かされてしまった。
そしてジョンのアジトに攻め入った捜査官達とジョン達の銃撃戦が勃発した。
その被害は甚大で、ジョンの仲間はジョンを残して全員殺されてしまった。
そしてジョンにとって最悪なことに、自分と付き合っていた恋人ビリーまでもが捜査官に逮捕されてしまった。


寸評
ジョン・デリンジャーは銀行強盗しかやらず、一般客の金は盗らない義賊的な一面を持つギャングである。
しかし、デリンジャーがどうして犯行を続けているのかといった背景を描くことはないし、義賊的な一面を強調的に描くこともない。
デリンジャーと恋人ビリーとのロマンスも描かれているのだが恋愛劇として成り立っているわけではない。
同じ銀行強盗を描いたアーサー・ペンの傑作「俺たちに明日はない」とは一線を画した作品である。
人間ドラマとして描くことを避け、目の前で起きていることをリアルに描くことに徹している。
見どころはやはりアクションシーンだろう。
冒頭は刑務所のシーンで、収監されているデリンジャーが仲間を脱獄させて銀行強盗を決行するまでが手持ちカメラを使ってテンポよく描かれていく。
その後も銀行強盗を繰り返すのだが、案外とあっさりと捜査当局に逮捕されてしまう。
ところがまたしても脱獄というわけで、一筋縄ではいかないデリンジャーと、彼を追うパーヴィス率いる捜査官との戦いを軸にして物語は進んでいく。

中途半端な恋愛劇になりそうだったビリーの存在が、本筋であるデリンジャーとFBIとの対決に大きく関わってきたので納得させられたし、ラストシーンにおける「バイバイ、ブラックバード」に繋がっていることに唸らされる。
クライマックスとなるのがラストシーンにつながる映画館のシーンだ。
映画館はそれまでにも登場していて、上手く使われているがラストの映画館の場面はシャレている。
なかなか現れないデリンジャーに捜査官がいらだち始めた時に彼が現れる。
捜査官たちは映画館に踏み込むことはなく、四方八方に配置されてデリンジャーが出てくるところを待ち伏せる。
上映されている映画の主人公はクラーク・ゲーブルだ。
クラーク・ゲーブルが演じる人物とデリンジャーをダブらせる憎い仕掛けで決着へと向かっていく。
決着がつき、虫の息のデリンジャーが何かつぶやく。
それをパーヴィスが呼び寄せたベテラン捜査官のウィンステッドが聞くが「聴こえなかった」と告げる。
それまでもウィンステッドがパーヴィスに指示していて、どちらが上司なのかわからない関係が伏線として有る。
ウィンステッドのスティーヴン・ラングも渋い。

ジョニー・デップのデリンジャーはハマリ役で、発するセリフに違和感を感じさせない。
一方のパーヴィス捜査官を演じるクリスチャン・ベールも良くて、緻密ながらも冷徹な面を見せてデリンジャーを追っていくのだが、ビリーに対して優しさを示すあたりの性格描写が決まっている。
見ていると犯罪者側にも捜査側にも時代の波が押し寄せていたのだと感じさせる。
銀行強盗は時代遅れの犯罪になりつつあり、デリンジャーが1っヶ月で稼ぐ金を1日で稼ぎ出すマフィアが登場しているし、捜査側は電話の盗聴でデリンジャーたちの動きを把握していて、捜査手法も発達している。
州警察では犯罪に追いつかないので連邦警察であるFBIの創設が論じられている。
やがてフーバーはその組織に君臨することになることを我々は知っている。
アクションに徹したところがあるが、やはり僕は人間ドラマを期待していたので少々不満が残る内容ではある。

パピヨン

2023-01-20 07:12:06 | 映画
「パピヨン」 1973年 フランス / アメリカ


監督 フランクリン・J・シャフナー
出演 スティーヴ・マックィーン ダスティン・ホフマン
   ヴィクター・ジョリイ アンソニー・ザーブ ドン・ゴードン
   ロバート・デマン ウッドロウ・パーフレイ ラトナ・アッサン

ストーリー
胸に彫られた蝶の刺青があるところから、パピヨンと呼ばれた男が、大勢の囚人と共にフランスの刑務所から、南米仏領ギアナの監獄に送られたのは肌寒い夜明けのことだった。
罪名は殺人だが、本当にやったのは金庫破りにすぎない。
海を渡る船中で、パピヨンはルイ・ドガを知ったが、彼の罪状はフランス中を混乱させた国防債券偽造。
パピヨンは、脱走に必要な金を工面するために、ドガの金を狙う囚人から彼の生命を守ることを約束する。
ギアナに到着して、サン・ローランの監獄に放り込まれた二人は、獄吏の買収に失敗し、ジャングルの奥の強制労働キャンプに送られる。
数日後、ヘマをして看守に殴られるドガをかばったパピヨンは、川へ飛び込んで逃亡を計る。
だが、無計画だったために捕まり、二年間の島送りとなった。
サン・ローラン西方の沖合いにあるサン・ジョセフ島の重禁固監獄は“人喰い牢”と呼ばれる恐ろしい独房だ。
ムカデ、ゴキブリをスープに入れて、餓死寸前のところでパピヨンは二年の刑を終えることができた。
サン・ローランに戻ったパピヨンは、ドガの助けを借りて、クルジオ、ホモのマチュレットと共に脱獄を試みた。
クルジオは捕えられたものの、三人は遂に自由の世界に降りたった。
ジャルグルでは、奇怪な刺青の男に救われ、さらに、ハンセン病患者の首領トゥーサンにヨットを与えてもらい、コロンビアとおぼしき海岸にヨットをつけることができた。
しかし、運悪くパトロール隊と遭遇し、パピヨンはジャングルに舞い込んだ。


寸評
脱獄物はドラマになりやすく度々描かれる作品群の一つである。
スティーヴ・マックイーンの脱獄物として先ず思い浮かぶのは「大脱走」だろう。
同類の作品としてビリー・ワイルダー監督の「第十七捕虜収容所」がある。
ジョン・ヒューストン監督による捕虜とドイツ代表のサッカー試合を描いた「勝利への脱出」もあった。
それぞれ戦争を背景にした大勢の捕虜が脱獄を試みると言う内容である。
個人が脱獄を試みる作品としては、ポール・ニューマン主演の「暴力脱獄」や、ティム・ロビンス主演の「ショーシャンクの空に」などが存在している。
「パピヨン」も脱獄物のジャンルに入る作品ではあるが、脱獄方法への興味であるとか、脱獄が成功するまでの過程におけるサスペンス性を追及している純粋な脱獄物とは一線を画している。
画面を通じて感じ取るのは生に対するすさまじいばかりの執着である。

パピヨンはドガと知り合い友情を結ぶが、囚人の中にあって二人の信頼関係は信じがたいほど固い。
先ずは過酷な労働状況が描かれ、同じ囚人のジュロを含めて脱獄計画を練り始める。
パピヨンとドガは囚人の死体を運ぶ仕事を命じられるが、その死体が処刑されたジュロであることを知ったドガが嘔吐したことで看守から暴行を受ける。
パピヨンはドガを庇って看守と揉み合い、そのまま脱走するのだが商人の裏切りもあり、ハンターに捕まって独房に収監されてしまう。
何年にも及ぶ独房生活なのでその描写は過酷を極め、見ていても気分の良いものではない。
年数を感じさせるためか独房シーンの時間は長く、その事がこの映画を暗くしている。
脱獄物に付き物の爽快感は全くないが、生きることに対するすさまじい戦いに圧倒される。
ドガはパピヨンが命を懸けて助けてくれたことに感謝し、看守を買収してココナツを内緒で差し入れする。
この映画における最大の疑問点は、彼らは看守たちを度々買収しているのだが、その大金をどのようにして手に入れていたのかということだが、詮索は二の次だ。
ドガの差し入れが発覚し、差し入れ者の名前を白状するように言われるがパピヨンは名前を明かさない。
そのことでパピヨンはより一層辛い目にあうことになり、再び延々と独房生活の描写が続く。

いろいろあって、パピヨンはただ一人ゴーギャンの描いたような集落の原住民に救われる。
それまでの世界とは全く違った明るい世界だ。
集落の女性と愛を育むようなシーンもありながら、突如として集落の住民は姿を消してしまう。
一体この集落のシーンは何だったのだろう。
そこへいくとハンセン病患者の島のエピソードが盛り込まれているのは理解が出来る。
修道院長を信用して罪を告白すると、修道院長はある意味の裏切りを見せ警察に通報してしまい、パピヨンは再び囚われの身となってしまう。
人は全く信用が置けないということなのだが、それだけにパピヨンとドガの信頼関係が際立ってくる。
二人は最後に袂を分かつが、二人とも生きるための選択を行ったと言うことだ。
それぞれの生き方が現れるラストシーンにふさわしい描き方となっている。

花嫁の父

2023-01-19 09:36:13 | 映画
「花嫁の父」 1950年 アメリカ


監督 ヴィンセント・ミネリ
出演 スペンサー・トレイシー エリザベス・テイラー
   ジョーン・ベネット ドン・テイラー ビリー・バーク
   レオ・G・キャロル ラスティ・タンブリン

ストーリー
娘のケイを新婚旅行に送り出して、弁護士のスタンリー・バンクスは披露宴後がっくり身を落とした。
ケイが、バクリー・ダンスタンという青年と結婚したいと両親を驚かしたのは、何ヵ月前のことだったか。
妻は落ち着き払っていたが、スタンリーはダンスタン家が立派な名門であり、バクリーがなかなかしっかりした青年であることを知るまでは、オチオチ眠れもしないのだった。
晴れて2人の婚約がすむと、スタンリーの頭痛の種は結婚費用だった。
彼の意志に反して、妻や娘は一生の願いとして教会で盛大な式を挙げたがった。
ようやく教会の式も決まり、披露宴招待の人数も折り合って、知人から続々と贈物が届くようになった頃、ケイは突然破談にしてくれと言い出した。
新婚旅行の行き先について、バクリーと他愛ない喧嘩を始めたのだが、親父が仲裁に乗り出す間もなく、若い2人はケロリと仲直りしてスタンリーに背負い投げを食わせる始末である。
式の予行練習も済み、スタンリーは眠られぬ結婚式前夜を過ごした。
知人たちがただのシャンパンを飲みに集まる披露宴の混雑で、スタンリーは遂に去り行く娘に言葉をかけてやる暇さえなかった。
もの想いに沈むそのスタンリーに、その時電話がかかってきた・・・。


寸評
この頃、美人女優と言えば日本では山本富士子、アメリカではエリザベス・テイラーだったように思う。
そのエリザベス・テイラーがケイを演じているのだが主演はスペンサー・トレイシーである。
何故なら彼は花嫁の父だからだ。
スタンリーには子供が三人いるがケイは唯一の娘で、その娘を嫁に出さねばならない父親の心情と振る舞いを面白おかしく描いている。
父親にとって娘は特別な存在で、ましてや一人娘となると格別だ。
異性としての特別な存在で、一言で言えば可愛くて仕方がないのだ。
それ故に娘の行く末を必要以上に心配してしまう。
強がりを見せて平静を装っているが、気になってしようがない。
スタンリーの家は中の上といった感じの家庭だが、中の中と思っている僕にも思い当たるふしがあり、アメリカ人であるスタンリーの気持ちを、日本人の僕も良くわかるのだ。
スタンリーは男の身上調査を試みるが、直接聞きだすことができない。
娘の自慢話はするが相手のことには興味がない。
結婚式に誰を呼ぶかを決めるのも大変だし、娘の苦労を思うと嫁入り道具もそろえてあげたいが、こちらにも金のなる木があるわけじゃなし予算とにらめっこだ。
妻のエリーは同性なだけに娘の気持ちや新生活に必要なものが分かるのだろう。
どんどん買い物を進め、一緒に楽しんでいるようである。
スタンリーは2回しか着ていないモーニングを引っ張り出すが、太った体系には合わなくなっている。
これも僕の場合と同じで笑ってしまうが、僕は結局自前を諦めて貸衣装を頼むことになった。
リズのような娘がいればスタンリーでなくてもかわいがるだろう。

結婚式の様子は古き良き時代の光景なのだろうか。
あちらの結婚式も大変なんだなあと思う。
日本の結婚式の様子も随分と様変わりである。
滋賀県の田舎に住んでいた僕の先輩などは、時代なのか結婚披露を三日三晩行っていた。
親戚、村人、友人と三日に渡って飲めや歌えの大宴会を繰り広げたと語っていた。
結婚式になれば花嫁が主役で、花婿は添え物に過ぎない。
娘のウエディング姿に満足した披露宴が終わり家路につく。
ああやっと終わったという安堵感と共に、いなくなった淋しさがこみあげてくる。
翌朝目覚めると娘の姿はなく、ああ居なくなったのだと自分に言い聞かせる。
映画でもスタンリーはケイと満足に話すことも出来ず、ハネムーンに出かける彼女の車を遠めに見送るだけだ。
何とも言えない淋しさがこみあげてくるシーンである。
スタンリーと妻のエリーがダンスを踊るところで終わっているが、パーティの後片付けが残っている。
僕も孫たちが長期滞在した後の掃除という大変な作業と共に、何よりも母親になった娘とその子供たちが居なくなった淋しさが父親の言いようもない感情として湧きおこる。
花嫁の母とは聞かないが、やはり花嫁の父は何処の国においても同じような気持ちになるものなのだろう。

花束みたいな恋をした

2023-01-18 08:06:54 | 映画
「花束みたいな恋をした」 2020年 日本


監督 土井裕泰
出演 菅田将暉 有村架純 清原果耶 細田佳央太 オダギリジョー
   戸田恵子 岩松了 小林薫 韓英恵

ストーリー
2020年。カフェで、1組のカップルがひとつのイヤフォンの左右を分け合って音楽を聴こうとしていたが、女と一緒にこのカフェに来ていた山音麦(菅田将輝)はこれでは“本当の音楽”を聴くことはできないと感じた。
一方、別のテーブルに男と共に座っていた八谷絹(有村架純)も麦と同じことを思っていた。
麦と絹はそれぞれ、このカップルに指摘すべく席を立った…。
2015年初旬。終電に乗り遅れた麦と絹はカフェで時間を潰すことになったところ、二人は意気投合する。
麦の家を訪れた絹は、麦の本棚がほぼ自分の本棚と同じであることに気付いた。
それから麦と絹は何度かデートを重ねたが、互いに自分の気持ちを打ち明けられずにいた。
三度目のデートの日、終電間際に麦は絹に告白をし、二人は初めて手をつないで歩き、キスをした。
麦は夢に向かってイラスト描きに情熱を注いでいたが、絹は就職活動で苦戦を強いられていた。
絹を励ました麦は一緒に暮らそうと提案し、二人は多摩川沿いのマンションを借りて同棲生活を始めた。
2016年。仕事しながらも絵を描けると考えた麦は絹との生活のために定職に就く決心を固めた。
やがて絹は歯科医院の受付の仕事が決まったが、麦は仕事が決まらないまま年末を迎えた。
2017年。麦はネット通販会社の物流関連の仕事に就いた。
営業担当になった麦は毎日夜遅くまで仕事に追われる日々が続き、いつしかイラストを描く時間も、そして絹と一緒に過ごす時間をも奪われていった。
2018年。絹は知り合ったイベント会社社長・加持航平(オダギリジョー)にスカウトされ、転職することにした。
その頃、麦はニュースで、配送会社の運転手が荷物を載せたトラックを東京湾に捨て、逃亡した故郷の新潟で逮捕されたという事件を知り、自分と重ね合わせた。
麦と絹は先輩の葬式に参列したが、もはや二人には話し合う気力も、喧嘩する気力すらも失われていた。
2019年。麦と絹はまだ同棲を続けていたが、二人の生活は完全にすれ違ったものとなっていた。


寸評
映画は2020年から始まり、スマホの音楽をイヤフォンの片方ずつを付けて聴くカップルに、それでは本当の音楽が聞けないと注意しようと思った麦と絹が出会うというオープニングで、僕は同じ思いの二人がこの様にして出会って、これから二人の恋が進んでいくのかと思っていたら、場面は変わって2015年となる。
なんだこれから過去をたどるのか、だとすればあのオープニングのシーンはなんだったんだろうと思いながら見続けたのだが、二人の会話はドラマチックなものではなく等身大の彼らを見る思いのもので、若い二人をのぞき見するような気分になった。
二人は趣味や好みが同じで意気投合する。
小説、音楽、演劇といった芸術分野だけでなく、履いている靴までブランドが同じといった具合だ。
二人が思っていることを日記風にナレーションで語るのも、映画の雰囲気にマッチしている。
僕からすればマニアックな好みに思えるのだが、そんな二人だからこそ引き合うものがあったのだろう。
お互いに気持ちが高ぶっているのに告白することができない。
そのもどかしさは、あの頃に帰れば誰もが心当たりがあるものだろう。
やっとの思いで告白し合うシーンは正に青春である。

二人は同棲生活を始めるが、この頃は何もかもが楽しい時期で、賃貸マンションは駅から30分も掛かる場所にあるが、待ち合わせをして帰る道のりも楽しい時間だったことは理解できる。
しかし雨の日はどうしていたのだろうと、ゲスな私はあらぬことを想像してしまった。
二人の生活をステップアップするために、親からの仕送りを打ち切られた麦は定職につかねばならなくなる。
決まった就職先は入社前の説明とは違って拘束時間も長い。
求人に際しては甘い言葉で誘うのが企業側の常套手段であろう。
特に仕事がきつい会社ほどその傾向がある。
入社すれば仕事に追われる毎日となるのは当然のことで、麦と絹が一緒に過ごす時間も奪われていく。
サラリーマンなら当たり前の生活で、家族との時間は週末しかないのが普通だ。
麦と絹は休みをどのように過ごしていたのだろう。

二人の間にすれ違いが起き、隙間風が吹き始める。
そうなると互いへの思いやりの気持ちが無くなってくるのも理解できる。
そして二人の将来像への思いにもすれ違いが生じてしまっている。
別れたくない麦は結婚しようと持ち掛けるが、麦が語る夫婦関係、家族関係は僕には納得できるものだった。
しかし絹は横に座った初々しいカップルを見て、もうかつての自分たちに戻ることができないことを痛感する。
別れ話がまとまった後の二人の様子は微笑ましいい。
それが出来るなら、なぜ最初からやらなかったのかとツッコミを入れたくなる。
ラストシーン、ここに戻って来るのかと納得。
面白い展開だったけど、二人はヨリを戻すことはないのだろうなと思った。
綺麗な花束もいつかは枯れるものだが、そのような恋が出来るのもまた青春ならではで、麦と絹にとっては今の私には望むことができない貴重な体験と時間だったと思う。

花咲ける騎士道

2023-01-17 08:24:02 | 映画
「花咲ける騎士道」 1952年 フランス / イタリア


監督 クリスチャン=ジャック
出演 ジェラール・フィリップ ジーナ・ロロブリジーダ
   ノエル・ロクヴェール オリヴィエ・ユスノー
   マルセル・エラン ジャン・パレデス
   ジャン=マルク・テンベール ジュヌヴィエーヴ・パージュ

ストーリー
18世紀、ルイ15世統治下のフランスでファンファンは“チューリップの騎士”の異名をとるプレイボーイとして、美女をもてあそんでは、結婚の危機を巧みにかわしながら自由な恋愛を楽しんでいた。
レエス戦争が続いていたころ、ジプシイ娘に「軍人になれば末は王女のお婿様」と予言されたファンファンは早速募兵官のところに行き契約書に署名したが、実ばジプシイ娘は募兵官の娘アドリーヌで彼女の予言は軍人集めのための手であった。
事情を知っても予言を信じこんだファンファンは連隊に向う途中で偶然王女の危難を救い、ますます自分の将来に自信をもってしまったのだが、入営して軍隊に厭気がさし演習を怠けて営倉に入れられ、すぐ脱獄して隊内に大騒ぎを起した。
しかしその時、膠着状態だった戦争が再開され彼の軍も前線に行くことになった。
連隊の駐屯地は王城の近くで、彼は王女に会おうと城に忍びこんだが忽ち捕って死刑の宣告をうけた。
彼に愛情を抱いていたアドリーヌは自分のインチキ予言にも責任を感じ、単身王の許に行き特赦を願った。
彼女の美貌に感じ入った王は特赦の勅命を出し、お礼に参上した彼女によからぬ振舞いに及ぼうとした。
彼女は夢中で王に平手打ちを喰わして逃げ出し、事情を知った侯爵夫人によって修道院に匿まわれた。
報せをうけたファンファンは早速修道院に向ったが、先廻りした王の部下とアドリーヌの奪い合いになり、力尽きたファンファンたちは地下道に落ちのびた。
地下道の終りは意外にも敵軍の司令部で、彼らは咄嗟の機転で敵の司令官を捕虜にし司令部にフランス国旗を立てた。
彼らの殊勲でさしも長かったレエス戦争も終り、ファンファンはめでたくアドリーヌと結婚することができた。


寸評
「戦争なんて後の教科書に載れば理由なんてどうでもいいのだ」という冒頭のナレーションは、単純活劇映画であるこの作品の中での皮肉なメッセージであり、尚且つこの作品の持つ雰囲気の全てでもある。
時代を考えるとさらわれたアドリーヌを追跡するシーンは良く撮れている。
カメラは並走しながら逃げる馬車と追う馬を捉え、時に馬車の下にカメラ位置を変えて迫力を生み出している。
この映画の最大の見せ場で、その為にこの追跡シーンは長いが十分に楽しめる。
随所に笑いの要素も挿入されているので気楽に楽しめる作品となっており、当時としては今以上に楽しめた作品だったと想像できる。
ファンファンはアドリーヌの占いを信じて王女と結婚することに突き進んでいくのだが、マクベスのような幻想的な占いでもない予言を単純に信じてしまっているので、かなりいい加減な滑稽さのある作品とのイメージを持ちながら見ていくことになる。
実際にコメディ的なシーンは随所にある。
ファンファンと恋敵の決闘の決着はコメディそのものだし、アドリーヌが王をひっぱたいたことを聞いてポンパドール夫人が喜ぶシーンは、思わず笑ってしまう愉快なシーンとなっている。
絞首刑を執行されるファンファンたちだったが、それもコメディ的に処理している。

国王の兵に追い詰められて煙突に逃げ込んだファンファンとホラ吹き男だが、出てきた時にホラ吹き男がススだらけなのにファンファンはまったく汚れていないという不思議さはあるが、それがジェラール・フィリップなので許されるのだろう。
ヒロインであるジーナ・ロロブリジーダが演じるアドリーヌのキャラはかすんでいるけれど、美形の女優で僕は好感を持っていた。
内容も描かれ方も、僕が子供の頃に見ていた東映時代劇を思わせたのだが、さすがに丁寧に撮られている。
馬に乗って疾走するシーンなんて時代劇でよくみたシーンで、観客席から応援の拍手が湧きおこったものだった。
もしかしたらこの映画でも同じようなことが起きていたかもしれないなと想像した。

ラストは気が利いている。
ファンファンが王女と結婚したがっていたので、国王は功績の褒美として娘との結婚を許し自分が義父となるとファンファンに告げる場面だ。
戸惑うファンファンの表情を見せたところで、「おっとそうきたか!」の展開に納得する。
ファンファンたちは敵の本部に潜り込み、大軍で占拠したように見せかけて勝利に導いた事に対する褒美だったのだが、閉じ込めていたはずの捕虜はどうなったのか気になるところである。

戦争前に死者は1万人程度と予想されていた。
大量の犠牲者を覚悟していたのに、大砲を撃つことなく勝利した国王は、「1万人の死者はどうした?」と死者数を予想していた参謀に聞くと、参謀は「それはまた次の機会に」と答える。
国家は国民の命など戦争のコマの一つにしか考えていないのだと訴えている。
冒頭のナレーションに続いて、最後に戦争を皮肉る最高の言葉となっている。