おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

赤ひげ

2017-12-28 13:58:58 | 映画
12/31 BSプレミアム 19;00放送

「赤ひげ」 1965年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 加山雄三 山崎努
   団令子 桑野みゆき 香川京子
   江原達怡 二木てるみ 根岸明美
   頭師佳孝 土屋嘉男 東野英治郎
   志村喬 笠智衆 杉村春子 田中絹代

ストーリー
医員見習として小石川養生所へ住み込んだ保本登(加山雄三)は、出世を夢みて、長崎に遊学したその志が、古びて、貧乏の匂いがたちこめるこの養生所で、ついえていくのを、不満やるかたない思いで、過していた。
赤っぽいひげが荒々しく生えているので赤ひげと呼ばれている所長の新出去定(三船敏郎)が精悍で厳しい面持で、「お前は今日からここに詰める」といった一言で、登の運命が決まった。
人の心を見抜くような赤ひげの目に反撥する登はこの養生所の禁をすべて破って、養生所を出されることを頼みとしていた。
薬草園の中にある座敷牢にいる美しい狂女(香川京子)は、赤ひげのみたてで先天性狂的躰質ということであったが、登は赤ひげのみたてが誤診であると指摘したが、禁を侵して足しげく通った結果登は、赤ひげのみたてが正しかったことを知った。
蒔絵師の六助(藤原釜足)が死んで、娘おくに(根岸明美)から六助の不幸な過去を聞いて登は、不幸を黙々と耐え抜いた人間の尊さを知る。
また登は、むじな長屋で死んだ車大工の佐八(山崎努)とおなか(桑野みゆき)の悲しい恋の物語を佐八の死の床で聴いて胸に迫るものを感じていた。
登が赤ひげに共鳴して初めてお仕着せを着た日、赤ひげは登を連れて岡場所に来た。
そして幼い身体で客商売を強いられるおとよ(二木てるみ)を助けた。
人を信じることを知らない薄幸なおとよが登の最初の患者であった・・・。

寸評
冒頭で着任した保本が先任の津川(江原達怡)から赤ひげ批判を聞かされながら療養所の中を案内してもらうシーンがあるのだが、この小石川養生所のセットはなかなか見事で、美術担当の村木与四郎の仕事は評価に値する。
見事なのは江戸時代の町並みなどもそうで、特に地震で家屋が倒壊する場面などは金が掛かっていることを感じ取れる見事なものだ。
保本と初めて対面するときの赤ひげの三船はさすがの貫禄で、振り返ったその所作と顔だけで画面を威圧し、赤ひげがどのような医者であるのかを無言のうちに語っていた。
「赤ひげ」のタイトルからして主演は三船敏郎なのだが、全体としては登場シーンは少なくセリフも少ない。
むしろ保本の加山雄三が狂言回し的に登場して物語に絡んでいて、不幸を背負った人々を描いたオムニバス映画とも見て取れる。
一つは蒔絵師の六助に関わる物語、一つは車大工の佐八(山崎努)の話、もう一つは身も心も病んでいるおとよに関わる話である。
それに座敷牢に隔離されている美しく若い女の話なども加わってくるし、保本と許嫁であったちぐさ(藤山陽子)との間にある個人的な問題も彩を添える。
盛り沢山なので185分の長尺となっており、途中では5分間の休憩が入る作品だ。

一つ一つの話は泣かせる。
六助の死ぬ様はさすがは藤原釜足と思わせ、危篤状態で一切セリフはないなかで見事な息の引き取り方を演じてみせていた。
娘のおくにが語る話は、彼女の家族間で起こった悲劇的な内容で唖然とさせるが、そんなおくにを赤ひげが救ってやる経緯は少し甘ったるいヒューマニズムと感じるが、それぐらいがないと救われないからなあ・・・。
車大工の佐八の話は妻おなかとの純愛物語なのだが、義理に翻弄されるおなかの行動が切ない。
事前の佐八の告白シーンでその伏線が張られていたが、おなかが行方不明となるきっかけの地震のシーンは前述の通りすごい迫力で、倒壊した街並みのセットも凝ったもので圧倒される。
香川京子、二木てるみの両女優の狂人ぶりも話を盛り上げている。
香川京子は、それまでの役柄のイメージを打ち破る熱演で、メイクで表情を一変させ保本に襲いかかる姿に驚かされた。
暗い小石川療養所が舞台だけにライティングが効果を上げていて、特におとよに当たるスポットライト的な使い方は目だけを光らせる素晴らしいものだ。
おとよの狂人性を表すためのものだが、おとよが飛び起きた時にピタリとそこに決まるのには、撮影時における苦心がうかがえて映画職人たちの技術に感心するシーンだった。
おとよが同情を寄せるコソ泥の長次(頭師佳孝)に関わるエピソードには泣いてしまった。
賄い婦たちにネズミとあだ名されている長次が一家心中に巻き込まれて瀕死の状態でいるときに「ネズミがネズミ取りを飲むなんて」という可笑しくなるセリフを持ち込みながら、最後の最後は大団円を迎える。
申し訳程度の乱闘シーンはあるものの、暴力を排除した黒澤明一世一代の泥臭いヒューマニズム作品とも言えるが、泥臭さもここまで徹底すると重厚な作品に仕上がっているし、黒澤の力量を感じ取れる作品になっている。

椿三十郎

2017-12-28 13:51:34 | 映画
12/31 BSプレミアム 17:21放送

「椿三十郎」 1962年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 仲代達矢 小林桂樹
   加山雄三 団令子 志村喬
   藤原釜足 入江たか子 清水将夫
   伊藤雄之助 久保明

ストーリー
薄暗い社殿で密議をこらしていた井坂伊織(加山雄三)をはじめとする9人の若侍。
それを図らずも聞いていた浪人は、権謀に疎い彼らに同情し一肌脱ぐことに……。
その浪人者・椿三十郎(三船敏郎 )は、城代家老(伊藤雄之助)が本物で、大目付の菊井(清水将夫 )が黒幕だといって皆を仰天させた。
その言葉の通り、社殿は大目付輩下の手の者によって取りまかれていた。
あおくなった一同を制してその浪人者は、九人を床下へかくし一人でこの急場を救った。
その時、敵方の用心棒室戸半兵衛(仲代達矢 )はその浪人者の腕に舌をまいた。
城代家老は屋敷からはすでにどこかへ連れていかれた後であり、夫人(入江たか子)と娘の千鳥(団令子)が監禁されていた。
浪人者はこの二人を救い出し、若侍の一人寺田(平田昭彦)の家にかくまった。
皆は、城代家老の居場所を探すに躍起だ。
黒藤(志村喬)か菊井か竹林(藤原釜足)の家のどこかに監禁されているはずだ。
三十郎は敵状を探るため、室戸を訪ねていった。
室戸は三十郎の腕を買っているので、即座に味方につけようと、菊井、黒藤の汚職のことを話し、自分の相棒になれとすすめた。
やがて家老は黒藤の家に監禁されていることが判明する。
三十郎は、黒藤の警固を解かせるため、一味が光明寺に集っていると知らせに行くが、嘘がばれてしまう。

寸評
前作「用心棒」の桑畑三十郎が椿三十郎と名前を変えて登場。
「もうすぐ四十郎だがな・・・」と前作同様の台詞を言っている。
この作品の歴史的功績は、リアル志向を追求した結果の立ち回りのシーンで、刀がぶつかり肉が切れる激しい効果音を入れたことと、飛び散る血しぶきが描かれたことだ。
それまでの時代劇にはなかった演出で殺陣のシーンが俄然迫力を帯び、これ以降の時代劇では用いられるのが当然のことになった。
三船演じる椿三十郎は前作の「用心棒」に比べると野性味にかける浪人振りだが、凄腕は相変わらずで、ラストシーンで仲代達矢さんの室戸半兵衛を一太刀で倒す所に凝縮されている。
「それはないだろう」と言いたくなるぐらい、ドバッと血が噴出する。
一瞬の低血圧で即死状態だ。
公開時は果たしてあれだけの血が噴き出すものだろうかと医者を交えた論争が起きたというから面白い。

しかし、この映画の面白い所は、登場人物がすべてどこか浮世離れしていてとってもおかしいところだと思う。
その筆頭は、入江たか子さんと団令子さんのコンビだ。
誘拐された城代家老の奥さんと、娘さんなのだが緊迫感がまるでない。
人の良さがにじみ出ている城代家老の伊藤雄之助さんがまったくの昼あんどんで・・・。
捕らえられた敵方の侍である小林桂樹さんも、時々押し込められている押入れから出てきては意見したり、かえって味方したりしてしまう。
三十郎は奥方を実の母親とでも思っているのだろうか、ふてくされながらも何かと親切にする。
そんなやさしさが今の世の中にも欲しいものだ。

さらにこの映画の構成として、自分は切れ者だと思っている人間がことごとくその皮をひんむかれる。
加山雄三の井坂伊織は一味のリーダーではあるが、最後に「お見事!」と大人びた掛け声をかけたことを三十郎に一括されている。
大目付の菊井は次席家老などを小馬鹿にしているような所があるが、自分の力を過信したプライドから切腹して果てる。
その菊井を手玉に取っていると思っている室戸半兵衛は、実はコケにされていたのだということに我慢がならず結末を迎える。
逆に全く頼りないと思われていた伊藤雄之助の城代家老が一番分別があり、素浪人の性格も扱いの難しさもお見通しだった。

兎に角、斬って斬って斬りまくる娯楽色の強い作品で、三船敏郎の体力もなかなかのものだ。
それまでが大乱闘の斬り合いが続いていただけに、ラストの一撃で決まる決闘は効果倍増の演出だった。
三船の素浪人はハマリ過ぎるくらいのハマリ役で、この後勝新太郎の「座頭市シリーズ」にも登場して勝新の座頭市と対決している。
結果は大スターの両雄だけに・・・。

用心棒

2017-12-27 11:31:31 | 映画
12/31 BSプレミアム 15:28放送

「用心棒」 1961年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 仲代達矢 司葉子 山田五十鈴
   加東大介 河津清三郎 志村喬 太刀川寛
   夏木陽介 東野英治郎 藤原釜足

ストーリー
馬目の宿は縄張りの跡目相続をめぐって一つの宿湯に二人の親分が対立、互いに用心棒、兇状特をかき集めてにらみ合っていた。
そこへ桑畑三十郎という得体の知れない浪人者がふらりとやって来た。
一方の親分馬目の清兵衛のところにやって来た三十郎は用心棒に俺を買わないかと持ちかけて、もう一方の親分丑寅の子分五、六人をあっという間に斬り捨ててしまった。
清兵衛は五十両で三十郎を傭った。
しかし女房のおりんは強つくばりで、半金だけ渡して後で三十郎を殺せと清兵衛をけしかけた。
これを知った三十郎はあっさり清兵衛の用心棒を断わり、居酒屋の権爺の店に居据った。
両方から、高い値で傭いにくるのを待つつもりだ。
名主の多左衛門は清兵衛に肩入れ、造酒屋の徳右衛門は丑寅について次の名主を狙っていた。
そんなところへ、短銃を持っており腕も相当な丑寅の弟・卯之助が帰って来た。
あることがきっかけで三十郎は捕えられて土蔵に放りこまれ地獄の責苦を受ける。
三十郎はかんぬきをだまして墓地に逃れた。
やがて丑寅と清兵衛の大喧嘩が始まり決着がつくと、三十郎と卯之助の最後の対決が待っていた・・・。

寸評
文句なく存分に楽しめる痛快娯楽時代劇。
しかし、雰囲気はまるで西部劇で、仲代達矢の卯之助などは首にマフラーを巻き、拳銃片手に登場してくる。
素浪人が宿場町に入ると犬が手首をくわえて走ってきてアップテンポな曲がかぶさる。ちょっとドキリとさせる出だしなどは西部劇もどきだし、途中でヤクザの切り落とされた片腕がゴロンと転がるなどの残酷描写も様式美を誇ってきた従来の時代劇とは様相が違う。仲代達也の最後なども、どこか時代劇離れしている。

東野英治郎の居酒屋のおやじによって、宿場が二人の親分により荒らされることになった経緯が要領よく語られ、争いごとの背景が理解でき、闘争が取って付けたようなものになっていないのがいい。
さらに絹問屋と造酒屋という名主を狙う二人の資本力がからむことで、縄張り争いの奥行を持たせていたのは黒澤、菊島隆三による脚本の力だと思う。
脚本の良さは、敵対する清兵衛と丑寅の両者が意気地がないことで、小さな宿場なのににらみ合いを続けているだけだという状況を不思議と思わせないようにしていることにも発揮されていた。

三船が痛めつけられた後の、苦しみにもだえているところなど、やけにリアリティな所ががあるかと思えば、藤原鎌足演じる棺桶屋の存在や、仲代のそのようなファッションなどお遊びも随所に感じられる。
清兵衛に雇われた本間先生と呼ばれている用心棒が、自分の値打ちが随分低いことにむくれたかと思えば、出入りの前に危険を察知して逃げ出すなどの滑稽場面も用意されていて娯楽性たっぷりだ。
何よりも、この映画を痛快にしているのは、およそ時代劇とは思えない佐藤勝さんの音楽だ。
テーマ曲に乗って三船の素浪人が登場しクレジットタイトルが表示されるオープニングから軽快に流れ続ける。
やっぱり、映画は総合芸術なんだと実感させられる。

宮川一夫のカメラは決まっている。
絵になる構図から映画らしいショットを度々映し出し、セットの立派さと相まって流石と思わせた。
宿場の通りの両端にお互いの助っ人連中がずらりと並んだショットなどはほれぼれする。
桑畑三十郎が火の見櫓に上がって、眼下で繰り広げられる喧嘩を見るシーンなどもいいショットだ。
パンフォーカス的な、手前の人物に焦点を当てながらも遠くの様子を映し出すカメラワークは度々登場し、上記の俯瞰シーンや、八州役人が接待されるシーンなどで使われていて、遠くで起きていることを面白おかしく伝える効果を生み出していたと思う。
火の見櫓の下では意気地のない喧嘩が行われ、掛け声だけで刀を突き出すだけの様子がおかしい。
役人の接待場面では、権力者である彼等が、更なる権力者の前では無力である滑稽さを描いていたと思う。
清兵衛と丑寅の両者がずらりと並んでにらみ合うシーンは何回か登場するが、同じようなアングルで最後の場面を1対10にしているのも憎い演出だ。

丑寅の用心棒かんぬきという役をやっているのは羅生門綱五郎という人で、角界から日本プロレス入りして巨人レスラーとして知られていたらしいのだが、僕はてっきりジャイアント馬場かと思った。
風貌も似ている為、ジャイアント馬場と思われている他の映画のほとんどが羅生門綱五郎らしい。

生きる

2017-12-27 11:15:54 | 映画
12/31 BSプレミアム 13:02より放送

「生きる」 1952年 日本


監督 黒澤明
出演 志村喬 日守新一 田中春男 千秋実
   小田切みき 左卜全 山田巳之助
   藤原釜足 小堀誠 金子信雄 中村伸郎

ストーリー
某市役所の市民課長渡邊勘治は三十年無欠勤という恐ろしく勤勉な経歴を持った男だったが、その日初めて欠勤をした。
彼は病院へ行って診察の結果、胃ガンを宣告されたのである。
夜、家へ帰って二階の息子たち夫婦の居間に電気もつけずに座っていた時、外出から帰ってきた二人の声が聞こえた。
父親の退職金や恩給を抵当に金を借りて家を建て、父とは別居をしようという相談である。
勘治は絶望した心がさらに暗くなり、そのまま街へさまよい出てしまった。
そしてその翌朝、買いたての真新しい帽子をかぶって街をふらついていた勘治は、彼の課の女事務員小田切とよとばったり出会った。
彼女は辞職願いに判をもらうため彼を探し歩いていたという。
なぜやめるのかという彼の問いに、彼に「ミイラ」というあだ名をつけたこの娘は、「あんな退屈なところでは死んでしまいそうで務まらない」という意味のことをはっきりと答えた。
そう言われて、彼は初めて三十年間の自分の勤務ぶりを反省した。
これでいいのかと思った時、彼は後いくばくもない生命の限りに生きたいという気持ちに燃え・・・。

寸評
渡邊(志村喬)は妻を早くに亡くしていて、一人息子の光男(金子信雄)を男手一つで育ててきた。
光男の応援に学生野球にも行ったし、兵隊として送り出したこともあったが、彼にとっては自慢の息子であった。
しかし息子の方は結婚し妻(関京子)を迎えたとなると、彼らは自分たちの生活を一番に考えてどこか冷ややかであり、父親の遺産を人生設計の中に入れ込んでいる。
一見平和そうに見える家庭に吹くすきま風のようなもが前半で描かれる。
渡邊の胃癌宣告とともに描かれる導入部の親子関係の描写は批判的だ。
渡邊は意を決して息子に病気のことを伝えようとするが、放蕩生活をなじられ切り出すことができない。
堅物生活からの脱却を試みてか、小説家(伊藤雄之助)と遊びまくるのは通り一遍の描き方だが、その満たされぬ思いは部下のる女子職員、小田切とよ(小田切みき)の前向きな明るさを引き立てる役割だったと思う。
と同時に小田切とよは、ただでさえネクラで、死の宣告を受けてさらに落ち込む陰気な渡邊とは好対照の存在で、物を作ることの素晴らしさを話して、物語に転機を与える重要なパートを担っていた。
彼女は一見軽薄そうに見えるが優しい娘で、その優しさで渡邊の若い彼女かと間違われる愉快なエピソードを受け持っている。
実に暗い映画における明るい部分だった。

一念発起して、陳情があった公園造りに意気込んだところで渡邊の葬儀が始まり、あとは渡邊の生前の様子が参列者から回想形式で語られていく。
しかしそこで描かれるのは役所の縄張り意識や、事勿れ主義、権威主義である。
助役(中村伸郎)の人の手柄を我が物にする横暴や、その助役に媚を売る取り巻き連中の醜さが描かれ続ける。
彼らと比較することで渡邊の立派さが浮き彫りになるのだが、単純に美化しているわけではないのがこの作品のいいところだ。
組織を飛び越えた行動が、かえって公園造成を遅らせたのだと通夜に参加している同僚たちに言わせている。
それを聞いている喪主である光男夫婦の様子はあまり映らない。
役所の人間たちの勝手な言い分に抗議する形で登場するのが、陳情に訪れていたオバサンたちだ。
彼女たちは焼香に訪れ、渡邊さんは立派だったとか、あの公園は渡辺さんが造ったものだなどとは言わない。
ただ故人を思いながら泣き、焼香をすませて帰っていくのだが、これが無言の抗議のようでいい描き方だった。
このオバサンたちが陳情に来た時に、各課をたらい回しされるエピソードが挿入されていて、お役所仕事に対する不満があっただけに、この無言の抵抗は効果があった。
渡邊を批判する同僚の中にあって、ひとり木村(日守新一)だけは彼を弁護し、その行いの立派さを訴える。
通夜の席で、ひとり涙をこぼしていた彼を描くことでバランスをとっていた。
人が生きるということは一体何なのかという一大命題を描いた作品ではあるのだが、僕にはお役所批判の意味合いの方が強く感じる作品だった。
この作品を生涯のベストワンに上げる方も大勢おられるが、僕はこの映画をあまり買わない。
テーマがあまりにもストレートすぎるように感じるのだ。
とは言え、志村喬は実年齢をはるかに超えた初老の男を好演し、一世一代の名演技を見せている。
俺たちもやるぞと叫んだ男たちが、次の日には事勿れ主義に戻っている皮肉も効いていた。


勝手にふるえてろ

2017-12-26 14:49:21 | 映画
今年最後の映画館での鑑賞です。

「勝手にふるえてろ」 2017年 日本


監督: 大九明子
出演: 松岡茉優(まつおかまゆ) 渡辺大知
    石橋杏奈 北村匠海 趣里 前野朋哉
    古舘寛治 片桐はいり 池田鉄洋

ストーリー
24歳のOLヨシカは博物館からアンモナイトを払い下げてもらうほど絶滅した動物が好きなオタク系女子。
恋愛経験はゼロで、中学の同級生“イチ”への片思いを10年間も脳内で育て続け、イチとの過去を思い出しては胸をときめかせていた。
これまでずっと彼氏がいなかった彼女は、突如会社の同期・ニから告白され、生まれて初めての経験に舞い上がる。
それなりにテンションは上がったものの、元々タイプでないニが相手ではどうしても気持ちが乗っていかないどころか、反対にイチへの想いが募っていく。
ある出来事をきっかけに現在のイチに会おうと思い立ち、同級生の名前を騙って同窓会を計画。
ついに憧れの人との再会の日が訪れるが・・・。

寸評
何よりも素晴らしいのが松岡茉優の演技で、二の渡辺大知や月島来留美の石橋杏奈も登場するのだが、作品の構成からもヨシカの松岡茉優の一人芝居と言ってよく、それを圧倒的な存在感で演じ切っている。
中学時代はちょっと変かなと思わせるが、社会人となった今は結構可愛い。
それなのに浮いた存在で男と上手く付き合えないのは、友人のマンションで皆が楽しんでいるのに洗い物をしだす付き合い下手なためなのだろう。
その性格の屈折は愛好するのが地球から絶滅した動物たちということに現れている。
ネット通販でアンモナイトの化石を購入するといった行為を通じて面白く描き、ヨシカという人物を的確に表現している。
彼女は同僚の月島来留美以外には本音を明かさないように見えるが、いつも町で出会う人たちに語り掛けている。
恋い焦がれていたイチと感激シーンを見せたかと思うと、それが見事にひっくり返り、そういえばあの町の人たちとも・・・となる劇的展開が面白い。
ピュアな青春恋愛映画とも言えるが、その描き方は新鮮味があって上手いと感じさせる。
用意されているラストとはいえ「勝手にふるえてろ」というタイトルにつながるホッとして心温まるエンディングも決まっていた。

七人の侍

2017-12-26 10:38:04 | 映画
12/31 BSプレミアム 9:33より放映

「七人の侍」1954年度 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 志村喬 津島恵子 藤原釜足
   加東大介 木村功 千秋実 宮口精二
   小杉義男 左卜全 稲葉義男 土屋嘉男

ストーリー
麦の刈入れが終る頃、野伏せりがやって来る。
闘っても勝目はないし、負ければ村中皆殺しだ。
村を守るには侍を傭うことだ、長老儀作(高堂国典)の決断によって茂助(小杉義男)、利吉(土屋嘉男)等は侍探しに出発した。
智勇を備えた歴戦の古豪勘兵衛(志村喬)の協力で五郎兵衛(稲葉義男)、久蔵(宮口精二)、平八(千秋実)、七郎次(加東大介)、勝四郎(木村功)が選ばれた。
もうひとりの菊千代(三船敏郎)は家族を野武士に皆殺しにされた百姓の孤児で野性そのままの男である。
村人は特に不安を感じていたが、菊千代の行動によってだんだん理解が生れていった。
刈入れが終ると野武士の襲撃が始り、戦いの火ぶたは切って落とされた。
利吉の案内で久蔵、菊千代、平八が夜討を決行し火をかけた。
山塞には野武士に奪われた利吉の恋女房(島崎雪子)が居て、彼女は利吉の顔を見ると泣声をあげて燃える火の中に身を投じた。
この夜敵十人を斬ったが、平八は鉄砲に倒れた。
美しい村の娘志乃(津島恵子)は男装をさせられていたが、勝四郎にその秘密を知られ二人の間には恋が芽生えた。
翌朝、十三騎に減った野武士の一団が雨の中を村になだれこんだ。
侍達と百姓達は死物狂いで最後の決戦に挑むが、そこは想像を絶する地獄絵の世界だった・・・。

寸評間違いなく日本映画が生み出した金字塔の一つで黒澤作品の最高峰に位置する作品だ。
黒澤明 、 橋本忍 、 小国英雄のトリオによる 脚本は申し分なく、撮影の中井朝一、美術の松山崇も力を発揮し、日本画家の前田青邨などが美術監修に加わり、早坂文雄の音楽が作品を盛り上げた。
映画は総合芸術なのだと実感させられる名作で、語り尽くされた内容を今更繰り返すまでもない感動作だ。

打楽器による音楽とともに、映像がかぶらない黒をバックに傾いた文字でスタッフ、キャストが表示される。
何度見ても、それだけでワクワクしてしまうのだからこの作品は力強い。
画面が映し出されると、シルエットで野武士が馬に乗って丘の向こうから現れ疾走する。
野武士が村を襲うことがわかり、村人は長老の意見を聞きに行くが、その時に流れる音楽は絶望的なものだ。
やがて侍が集まり始めたところでテーマ曲が流れるが、このテーマ曲はリズムを変えて度々流される。
このテーマ曲がまた絶妙の効果をもたらすのだから、早坂文雄の才能たるやすごいものがある。
七人の侍が決定するまでが全体の三分の一ぐらいを占めているのだが、それぞれのエピソードが面白い。
勘兵衛に腕は上の上という評価をえる宮口精二の久蔵などは、本当に剣豪のように見えてしまうのだが、当の宮口さんは剣道の心得などは全くなかったらしいので、やはり映画はすごいなあと感心してしまう。

ユーモアも含んだ作品だが、その役割は菊千代役の三船敏郎が一手に引き受けている。
刈り入れの時に隠れていた女たちが出てきた時のはしゃぎ様や、夜警で眠りこけて脅かされた時の慌てぶりもキャラクターを前面に出している。
乗馬シーンでは最初の時も、二度目の時も途中で落馬して笑いを誘う。
最初は作品から浮いたようなキャラクターなのだが、繰り返されているうちに親しみが持ててしまう。
彼を中心にして、野武士を迎え撃つ準備段階がやはり全体の三分の一程度描かれ、色々なエピソードが積み上げられていくが、そのテンポは小気味良く高揚感を醸し出していく。

森の中で野武士を発見して、いよいよ野武士との決戦となるのだが、この森の中のシーンは何回か出てくる。
大木だけでなく木々が入れ込んだ森の中をカメラはのぞき見るように人物を追いかける。
思わず、あの環境下でのカメラ位置を想像してしまうし、撮影の苦労も想像させるいづれもみごとなシーンだ。
そして、野武士の出現にオロオロする村人を鎮めるために菊千代が旗を屋根の上に立てると、先のテーマ曲が高らかに鳴り響く。否応なく拳に力が入る場面で、この盛り上げ方は脚本の妙だ。
さて、雨中の決戦。
もうここは色んなカメラを駆使したカットの積み重ねで、時代劇における集団活劇のひとつの到達点だ。
ローアングルで撮ったと思えば、望遠で捉えたアップのショットなどに加え、あちこちで繰り返される戦いの場面を全体で捉えるショットも展開される。
この戦いの場面だけでも語る価値のある名シーンだ。
勝ったのは百姓だと呟くラストシーンだが、勝四郎はこの村に残るのかもしれないと思わせる余韻を含ませたのも脚本の妙だと感心した。
語り尽くせない。



博士の愛した数式

2017-12-11 09:46:41 | 映画
数学の映画を邦画で思いつくのはこれかな。

「博士の愛した数式」 2005年 日本


監督 小泉堯史
出演 寺尾聰 深津絵里 齋藤隆成
   吉岡秀隆 浅丘ルリ子

ストーリー
新学期。生徒たちから“ルート”と呼ばれている若い数学教師(吉岡秀隆)は、最初の授業で何故自分にルートというあだ名がついたのか語り始めた。
それは、彼がまだ10歳の頃――。
彼の母親杏子(深津絵里)は、女手ひとつで彼を育てながら、家政婦として働いていた。
ある日、彼女は交通事故で記憶が80分しか保てなくなった元大学の数学博士(寺尾聰)の家に雇われる。
杏子は最初に博士の義姉(浅岡ルリ子)から説明を受け、博士が住む離れの問題を母屋に持ち込まないようクギを刺される。
80分で記憶の消えてしまう博士にとって、彼女は常に初対面の家政婦だった。
しかし、数学談義を通してのコミュニケーションは、彼女にとっても驚きと発見の連続。
やがて、博士の提案で家政婦の息子も博士の家を訪れるようになる。
頭のてっぺんが平らだったことから、ルートと名付けられた息子は、すぐに博士と打ち解けた。
ルートは、博士が大の阪神ファンで、高校時代には野球をしていたことを知って、自分の野球チームの試合に来て欲しいとお願いした。
炎天下での観戦がいけなかったのか、その夜、博士は熱を出して寝込んでしまった。
博士を心配し、泊り込んで看病する母子。
ところが、そのことで母屋に住む博士の後見人で、事故当時、不倫関係にあった未亡人の義姉からクレームがつき、彼女は解雇を申し渡され他の家へ転属になる。
だが数日後、誤解の解けた家政婦は復職が叶い、再び博士の家を訪れるようになったルートも、いつしか数学教師になることを夢見るようになるのであった。

寸評
28=1+2+4+7+14
1+2+3+4+5+6+7=28
28は30個ほどしか見つかっていない、自身の約数を全部足すと自身になる完全数の一つで、阪神タイガースのエース・江夏豊の背番号だと言うのがいい。
11は素数で美しい素数で村山の背番号だと言うのもいい。
野球の応援に行った博士が、16番の背番号を見て、岡田と言わずに三宅と言うのもいい。
博士とルートと同じ阪神タイガースのファンである僕は、そんなセリフがあるだけで満足してしまう。
素数、完全数、友愛数、階乗など、難しいことも博士がやさしく語ってくれる。
しかも、大人になって数学の教師になった少年が、生徒たちに語るという物語の設定なので、なおさらわかりやすくなっていた。
吉岡秀隆君は数学の先生らしくなかったけど、だけどハマリ役だった。
僕は数学は(も)苦手だったけど、こんな先生だったらもっと数学が好きになっていたかも知れない。

80分しか記憶がもたないことのトラブルが描かれていないから、その苦悩や苦労がイマイチ伝わってこなかった。
靴のサイズを毎回聞いたり、子供がいることを何度も知らされたりするけれど、それはトラブルのうちには入らない出来事だと思う。
記憶がなくなるだけなのだから、瞬間、瞬間においてはもっと鋭敏であってもおかしくないのにと思って見ていた。
過去の記憶をなくすということは、今をより以上に生き切っている筈だから、もう少しそんな場面があってもいいのにという感覚で、ちょっと戸惑う全体なのだけれど、しかしなぜなのかなあ・・・。
ラストシーンの博士とルートが海岸でキャッチボールをしていて、それを未亡人と家政婦の母親が眺めているシーンでとめどなく涙が流れ出した。
悲しいシーンでもなかったし、特別感動するシーンでもなかったと思うが、でもやはり全てを包み込んでしまった感動的シーンだったからなのかなあ・・・。
なぜだか僕の感性がピタリとはまってしまった。
だから映画館の場内灯が付き始めたときには、矛盾点というか省略されているというか、有っても良いシーンの欠如のことなんか吹っ飛んでいた。

すぐに記憶を失ってしまう博士、そして彼の奇行の数々に、観ていて自然に笑ってしまう。
感動、涙、悲しみ、ユーモアなどがバランスよく描かれていて、押し付けがましいところがないのは小泉監督の作風なのかもしれない。
寺尾聡はこんな役をやらせると天下一品の演技をする。
最も注目したのは深津絵里の内面からにじみ出るような自然な演技だ。
そんなに華のある女優さんではないだけに、よけいに演技の深みが感じられた。
彼女の明るさ、温かさがこの映画のポイントだったのかもしれない。
海辺のシーンの音楽も、満開の桜の下のシーンも印象的ですごくよかった。
兎に角、心癒される映画だったことだけは確かだ。

ギフテッド

2017-12-07 08:42:27 | 映画
「gifted/ギフテッド」 2017年 アメリカ


監督: マーク・ウェブ
出演: クリス・エヴァンス マッケナ・グレイス
    リンゼイ・ダンカン ジェニー・スレイト
    オクタヴィア・スペンサー

ストーリー
フロリダの小さな町。
叔父で独身のフランクと片目の猫フレッドと暮らす一見ごく普通の7歳の少女メアリー。
しかし彼女は数学の才能に著しく秀でた天才少女だった。
小学校に通い出すや、すぐにそのことが発覚し、学校側はフランクに天才児の英才教育で名高い私学への転校を勧める。
しかしフランクは“普通の子として育てたい”とこれを拒否する。
それは、メアリーをフランクに託して自殺してしまった姉の願いだった。
ところがある日、フランクの前に祖母のイエブリンが現れ、孫のメアリーに英才教育を施すため、フランクから引き離そうとする。
だが、フランクには亡き姉から託されたある秘密があった。
メアリーの幸せは、一体どこにあるのか…?
そして、フランクとメアリーはこのまま離れ離れになってしまうのか…?

寸評
7歳の女の子を育てているのが叔父だというのがミソだが、いわゆる子育て愛情物語のお涙頂戴物なのだが、それを臆面もなく正面から丁寧に描いているのがいい。
そしてこの女の子が数学の天才少女だという設定もユニークで、高校の数学授業についていけなかった僕には彼女の解いている問題が何なのかさっぱりわからなかった。
難しい本も理解しているし、大学教授が取り組むような問題にも挑んでいるから僕などが足元にも及ばないのは当然だ。
もしかすると本当に彼女のような天才少女は存在しているのかもしれない。
そのような人をギフテッドと呼ぶらしく、この映画のタイトルになっている。
確かに神がこの世に贈った存在なのだろう。
この少女メアリーのマッケナ・グレイスが繰り出す言葉がやけに面白い。
「大人を訂正してはいけない」などには包括絶倒だ。
それを指導した叔父フランクのクリス・エヴァンスが、メアリーと対をなすように抑えた演技でメアリーを心から愛していること表現し、二人に感情移入させる。
脇役の女教師ボニーのジェニー・スレイトも、となりの人のいい伯母さんロバータのオクタヴィア・スペンサーも必要以上に登場せず、母と子供、祖母と孫、叔父と姪の関係で火花を散らす三人の関係を浮き上がらせる演出は手堅い。

メインはフランクとメアリーの愛情物語なのだが、ぼくの興味は断然フランクの母であり、メアリーの祖母であるイブリンのリンゼイ・ダンカンに注がれた。
彼女は自分の夢を周りの人に求め、それを裏切られてきた挫折の人である。
夫には突然牧場を始められて別居状態だし、歴史に名前を残すかもしれなかった娘には自殺され、大学の准教授だった息子は挫折の人生を歩んでいる。
彼女は失われた自分の夢を孫に託そうとする。
孫を思ってのことなのか、自分の欲望追及のためなのか、メアリーの親権を争う裁判劇における彼女の主張は迫力を増す。
彼女の大演説が作品を盛り上げていた。
親子の確執は他人以上に根深い。
育てられ方に不満を持っていた死んだ姉の行為に背筋が凍る。
死ぬときに今までの不満を残して死ぬなんて・・・。
誰かに先を越されて名誉をなくすリスクを犠牲にしてるんだもんなあ・・・。
あったとしても、僕は妻にそんなこと出来ないなあ・・・。

片目の猫のフレッドはもちろんしゃべりはしないが重要な役割を担っている。
普通の猫ではなく片目というのも面白い。
猫は両眼ではなく、片目でこのゆがんだ家族を見ていたのだろうか。
「ナビエ・ストークス問題」って、ネットで検索してもさっぱり分からない。
僕は凡人である。
ラストでメアリーに理想的な形を与えて、誰もが納得できる温かな余韻を残す演出はご都合主義的だが、それを超えて、叔父と姪の親子を超えた絆にホッコリさせられる映画だ。