おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

反撥

2020-01-31 11:37:36 | 映画
「反撥」 1964年 イギリス


監督 ロマン・ポランスキー
出演 カトリーヌ・ドヌーヴ
   イヴォンヌ・フルノー
   ジョン・フレイザー
   イアン・ヘンドリー
   パトリック・ワイマーク

ストーリー
キャロルは姉のヘレンとロンドンのアパートで暮している。
姉のヘレンが活動的な性格なのに対し、妹のキャロルは内気な女性だった。
姉には妻子持ちの男マイケルという恋人があり、毎日のようにアパートに連れて来て泊め、神経質で潔癖なキャロルに嫌悪感を抱かせた。
毎晩のように姉の喘ぐ声が聞こえてくる。
神経質で潔癖性のキャロルは、男性恐怖症になると同時に男に犯される夢を見るようになり、徐々に精神的に壊れて行く。
キャロルにもコリンという恋人があったが、接吻されただけで身の毛がよだち、アパートに帰って口をすすがずにいられない。なぜだろう。
ある日姉たちは旅行に出かけた。
一人残されたキャロルはある晩、男に犯される夢を見たが、不思議にもそれを肌身に感じた。
店も休むようになり、ぼんやり部屋で過すようになった。
部屋の壁が大きく裂けたり、粘土のようにやわらかくなるのも彼女の幻覚なのか事実なのかわからない。
そんな時、会えないと苛立つコリンが訪ねてきて、ドアを無理に開けて入ってきた。
キャロルにとって男はただ嫌悪の対象でしかなく、すきを見て彼を殴り殺して浴槽に沈めた。
姉からピサの斜塔の写真が入った絵葉書がきて「家賃は払ったか」と書いてある。
その間も壁から男に掴まれる妄想に駆られ、姉の不倫相手の妻から電話もあった。
家主がやってきて、家賃を渡したら「精神病院さながらだ」と言われ、腐ったウサギを見つけられる。
家主はネグリジェ一枚で放心したようなキャロルに欲望を感じて迫る。
彼女を抱きしめたとき、キャロルはマイケルの残していた剃刀で滅茶苦茶に切りつけ、彼さえ殺した。
完全に狂ったキャロルはコンセントに挿してないアイロンをかけ、ベッドでまた襲われる夢を見た。


寸評
ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」のヒットで世界的スターの座をつかんだカトリーヌ・ドヌーヴだが、彼女のキャリアの中ではこれが最高の映画じゃないかと思う。
オープニングのクレジットタイトルの背景は監督が執拗につきつけてくるドヌーヴの右目の接写で、きれいな瞳がかすかにまばたきするのを映し続けている。
ミステリアスな雰囲気がその映像表現で伝わってくるオープニングである。
ドヌーヴはほとんどセリフを言わない。
言ったとしても二言か三言の非常に短い会話である。
大きな顔、ブロンドの髪のドヌーヴは肢体そのものが感情を持たない人形の様である。
動作はノロノロとグズそうだし、なにをやらしてもテキパキしない。
彼女の発するセリフは棒読みに近い。
彼女の周りの人々は気がついていないのだが、観客である僕たちはとっくに気がついている精神異常をきたした女性をドヌーヴは見事に表現している。

壁に入る大きなひび割れ、窓から見下ろす下界の様子、通りを歩く芸人、すさんだ室内の様子、それらの映像がサイレント映画のように写しこまれ、モノクロ作品であることでより一層の不気味感を醸し出す。
キャロルは男性への嫌悪感があるのに、どのようにして恋人らしいコリンと親しくなったのか不思議だ。
姉の不倫相手の男性が使うものが自分のコップに立てられているとそれを捨て去る。
男の残したシャツの匂いを嗅いではえずいてしまう。
コリンにキスされると急いで家に帰り口を洗うという具合だ。
キャロルはまた姉に依存している。
姉は滞納していた家賃をやりくりし、キャロルに払っておいてくれと頼んで男と旅行に出ると、キャロルは棄てられたような気がしてくるのだ。

だれもいない部屋にひとりいるうちに、キャロルの意識は日常から乖離していき、幻想と幻影に襲われる。
僕は徐々にドヌーヴが素晴らしいと感じてくる。
彼女は男に犯される夢を何度も見るようになる。
多分それは幻影なのだが、もしかすると本当に誰かが入って来て犯されていたのではないかとも思えてくる。
妄想はさらに強くなり、壁の両側からニョキニョキと腕や手首が出てキャロルをつかまえようとし、侵入者に何度も犯される。
彼女は妄想することで生じる幻影にずっと悩まされているが、それが現実のものとなって彼女を襲ってくる。
コリンもそうだし家主もそうで、彼等は妄想の産物ではない。
キャロルはなぜ男性恐怖症になったのかは最後まで不明のままである。
しかし彼女の姉依存は両親からの愛情不足にあったのではないかと僕は想像する。
少女時代の家族写真を見ると、反抗的な視線を送るキャロルの姿に彼女の犯行が見て取れる。
ポランスキーは連続殺人を犯したキャロルを生かしておいただけでなく罰するふうでもない。
楽しくはない映画だし、スッキリした気分になれない結末なのだが、脳裏に残る非常に印象深い作品だ。

晩春

2020-01-30 08:52:27 | 映画
「晩春」 1949年 日本


監督 小津安二郎
出演 笠智衆 原節子 月丘夢路
   杉村春子 青木放屁 宇佐美淳
   三宅邦子 三島雅夫 坪内美子

ストーリー
曽宮周吉(笠智衆)は大学教授をしながら鎌倉に娘の紀子(原節子)と二人で住んでいた。
周吉は早くから妻を亡くし、その上戦争中に無理した娘の紀子が身体を害したため長い間父と娘は、どうしても離れられなかった。
そのために二七歳の年を今でも父につくし、父は娘の面倒を何にくれとなくみてやっていた。
周吉の実妹、田口まさ(杉村春子)も曽宮家に出入りして彼等の不自由な生活の一部に気をくばっていた。
このごろでは紀子も元気になり、同級生であり友達でもある北川アヤ(月丘夢路)と行来していた。
アヤは一たん結婚したが、夫の悪どい仕打ちに会い今では出もどりという処。
また周吉の助手をしている服部昌一(宇佐美淳)も近々結婚するという。
気が気でないまさは、何んとかして紀子を結婚させようとするが、紀子は首を縦にふらなかった。
一方、周吉と昔から親友である小野寺(三島雅夫)は京都の大学教授をやっているが、たまたま上京した際に紀子から後妻をもらったことは不潔であると言われた。
叔母のまさは茶会で知った三輪秋子(三宅邦子)という美しい未亡人を心の中で兄の周吉にと考えていた。
それを紀子に、彼女の結婚を進めながら話してみたが、紀子は自分の結婚よりも父の再婚が気になった。
ある日紀子は父に再婚の意志を聞き正してみたら、父は再婚するという返事たっだ。
紀子はこのまま父と二人で暮したかったが、自分の気持がだんだん弱くなって行くのを知った。
叔母のまさに承諾を与えた紀子は、最後の旅行を父と共に京都に赴いた。
京都では小野寺一家の暖い家庭のフンイ気につつまれて、紀子がいつか小野寺に言った「不潔」と言う言葉を取り消し、京都から帰った紀子はすぐ結婚式をあげた。


寸評
1949年(昭和24年)の制作で、その年は僕が生まれた年である。
従って、当然ながら本作をリアルタイムでは見ていない。
小津監督+原節子作品はすべて後日に見ることになって、見た順序はバラバラで必ずしも制作順ではなかった。
後に紀子三部作と呼ばれるようになった作品もどんな順序で見たのか定かでない。
再見してみると、制作時にはそんな思いはなかっただろうが、本作は間違いなく次作の「麦秋」の序章となっていることに気がつく。
紀子はこの時は27歳で、生活は自活しているとは言い難い。
結婚も自ら選択していくような力強さはまだ備わっていない。
紀子の結婚話にやきもきするのは同じだが、ここでは父との二人の生活に浸りきっている娘として描かれている。

父親の学者仲間である小野寺は再婚したらしいのだが、紀子はそれを不潔だと言う。
この紀子の感情は大きな伏線となっているのだが、観客はこれが伏線となることはすぐに気がつく。
続いて父の助手である服部との睦まじい関係が描かれる。
気軽に声を掛け合う打ち解けた関係で、二人して海辺をサイクリングする姿はまるで恋人同士の様である。
雰囲気はこの二人がやがて結婚するのではないかと思わせるのだが、それだと当初からの様子からしてあまりにも単純すぎてしまうので、監督は当然次の手を用意している。
浜辺での彼らの会話で紀子が「私、こう見えても案外嫉妬深いんです」というのがあるが、この言葉が大きな伏線となっていた。
叔母も父もこの服部ならと思ったのだが、服部の結婚話であっけなく終わってしまう。
紀子の、服部は自分の知っている人と結婚するのだと言う一言だけでその話は立ち消えてしまうのだが、監督はここでも一ひねりしている。
それは婚約者がいながらも、服部が紀子を音楽界に誘うエピソードだ。
紀子は恨まれるからと断るが、結局服部は一人で音楽界に行く。
普通なら婚約者を誘うはずだから、このエピソードは服部が紀子に叶わぬ恋心を抱いていたのではないかと想像させるのだ。
離婚している友人のアヤの存在と共に、曾宮家だけの話を広げて微妙な人間関係を盛り込んでいたのだと思う。

二人が能を見物に出かけた場面では、叔母が父親の後妻にどうかと言っている三輪秋子と出会う。
そして父と三輪が能舞台に圧倒されて息遣いが激しくなるのに対して、紀子が父と三輪の関係を思って息が荒くなっていく様子をわずかにわかるように描いているのも、すごい演出だなあと思わせる。
紀子は父に関して不潔と思いながらも、結局は三輪に嫉妬しているのだ。
父の再婚に関して湧いてきた感情は嫉妬であることが、服部との会話から導かれていると思う。
そして小野寺の家族と会った紀子は、その後妻さんの人柄と家族関係に接して不潔という言葉を取り消す。
それはすなわち父の再婚を認めたということでもある。
嫁に行くことは父にも娘にも寂しいことで、紀子はファザコンかと思わせるぐらい父と離れることを惜しんでいる。
京都の旅を終えて、花嫁姿の紀子が父親に挨拶する場面はやはり泣けた。

春との旅

2020-01-29 08:49:19 | 映画
「春との旅」 2009年 日本


監督 小林政広
出演 仲代達矢 徳永えり 大滝秀治
   菅井きん 小林薫  田中裕子
   淡島千景 長尾奈奈 柄本明
   美保純  戸田菜穂 香川照之

ストーリー
4月の北海道・増毛で海辺のあばら家に暮らす老漁師・忠男(仲代達矢)と18歳の孫娘・春(徳永えり)。
若い頃から北海の漁師一筋に生きてきた忠男も今では妻を失い、財産もなく、足が不自由となり、独りでは生きていけない身となっていた。
一方、春は、数年前に母を亡くして以来、忠男を支えるため地元小学校の給食係として働きながら生計を立てている。
しかし、ある日小学校が廃校となって春が失職してしまい、彼らの生活もいよいよ行き詰まってしまう。
そこで2人は、忠男の受け入れ先を求めて、疎遠となって久しい忠男の姉兄弟たちを訪ね歩く宮城各地への旅に出ることになり、最初に二人が訪れたのは、忠男の兄・重男(大滝秀治)の家だった。
決して折り合いのよくなかった兄に、忠男は突然、自分を養ってくれと切り出す。
春が仕事を失い、これを機に東京に出ることを考えていると知り、忠男は最後の住まいを求めて重男に会いに来たのだ。
しかし、忠男は重男に同居を断られてしまうと同時に、重男と妻の恵子(菅井きん)が抱える事情を忠男は知ることになる。
そして忠男は、次に弟・道男(柄本明)のもとを訪ねようとする。
忠男の面倒を兄弟に見てもらうことを提案したのは春であった。
だが、過去から逃れることができず、避けてきた感情や事実と向き合わざるを得なくなった祖父の姿を見て、春は自分の言葉を後悔していた。
そんな祖父の姿を目の当たりにし、長く離別している父親(香川照之)に再会したい思いが芽生えた春。
そして彼女は忠男と共に、後妻(戸田菜穂)と暮らす父の牧場へと向かう…。


寸評
仲代達矢と徳永えりの主演二人に演技達者な俳優さん達がからむロードムービーだが、短編的に語られる兄弟、家族の肉親であるが故の確執とせつない思いが伝わってくる。
 兄とは昔から一番うまが合わない。兄は立派な家に住んでいて、その敷地内にある小屋にでも住まわせて欲しいと言うが、その物言いに兄は「それが人にものを頼む言い方か!」となじる。昔と変わらぬ言い争いが起こるが、実はその兄は弟を気遣いながらも置いてやることが出来ない事情がある。長男役の大滝秀治が別れ際にそのことを告げるシーンに涙。
 一番気が合った一番下の弟である行男を訪ねると、毎年届いていた年賀状はシャバに残された内縁の妻が「忠男兄さんにだけは年賀状を出すように」と言われて出していたことを知る。行男にはそういう律義なところがあると言っても「律義だけでは生きていけない」と内縁の妻に言われる。一人息子を東京の予備校に行かせ、一生懸命に一人生きる内縁の妻・愛子は未来の春の姿かもしれない。自転車に乗り食堂に勤めに出る田中裕子の小さな姿に涙。
 しっかり者の姉・茂子は現在では死んだ夫のあとを継いで旅館をきりもみし一番ゆとりある生活をしてそうである。しかし忠男を引き取ることはしない。茂子は姪の春に将来を諭し、じいちゃんの面倒を見ることはじいちゃんの為にならないと諭す。忠男には春の負担になってはいけないと意見をする。そんなことを言えるのは兄弟の中でたった一人の女で姉である茂子しかいない。それでも春はじいちゃんを選んでそこを去っていく。「もう会えないかもしれないけど、いつまでもしっかり者の姉ちゃんでいてくれ」と言って別れる。そのことも分かっている姉ちゃんの淡島千景の表情に涙。
 弟の道男を訪ねても大喧嘩をしてしまう。道男役の柄本明をぼかしながら手前において語らせる。その向こうにその罵りを聞き続ける忠男・仲代達矢と春・徳永りえの表情をとらえる。
そのショットは巧みであった。道男の妻・明子に「あの歳になってあんな喧嘩が出来るなんて羨ましいわね」と言わせる。金も持っていない忠男達にせめてもとホテルのよい部屋をとってやる。自分では出来なくて妻役の美保純に手続きをさせ、自分は遠く道端にたたずんで見守っている。不動産業で行き詰って土地も手放して援助が出来なくなり、喧嘩しながらも兄を気にかける弟役の柄本明の姿に涙。
 兄弟たちを訪ね歩き、置いてもらうことは出来なくても、言い争いをしても、どこかで肉親の情を感じ始めた春は別れた父に会いに行くことを決断する。母が自殺した理由もここで観客に知らされる。じいちゃんもお父さんは両親を捨ててお前のかあちゃんと一緒になってくれたんだから怨んではいけないと諭す。ここでみせる父親・香川照之はその関係と経緯上で台詞は少ないがどうしてよいかわからない気持ちを出しつくした演技は流石だと思わせる。兄弟たちに一緒には暮らせないと言われ続けた忠男が、ここで初めて他人である長女の元夫の後妻である戸田菜穂から一緒に暮らそうと言われる。その時「それは出来ない」と断る時の仲代達矢の表情はこの映画で一番の秀逸シーンだった。じーんときて涙。
 徐々に素直になっていくじいちゃんの姿と「俺たちウマが合うな」と語るふたりの姿に涙。
私も母一人、子一人で育ってきて、ある時実の父親を目にすることがあったが、声をかける気にもなれず、あれが貴方の父だといわれても、「ああ、そうですか」としかこたえられなかった。これからこの映画のじいちゃんの立場にだんだんとなっていくし、まわりにも似たような境遇の人もいる。そんな自分の体験がオーバーラップして、"肉親とは・・・"を考えさせる奥深い映画であった。
それぞれの田舎の風景と佐久間順平の音楽がこの映画をさらに彩っていた。

バリー・リンドン

2020-01-28 09:57:14 | 映画
「バリー・リンドン」 1975年 イギリス


監督 スタンリー・キューブリック
出演 ライアン・オニール
   マリサ・ベレンソン
   パトリック・マギー
   スティーヴン・バーコフ
   マーレイ・メルヴィン
   ハーディ・クリューガー
   レナード・ロシター
   アンドレ・モレル

ストーリー
《第1部 レイモンド・バリーが如何様にしてバリー・リンドンの暮しと称号をわがものとするに至ったか》。
レイモンド・バリーが幼い頃、父が決闘で死んだので一人息子の彼は母親の手で育てられた。
青年になったバリーは、親類に当るブラディ家の娘で従姉のノラに恋をしたが、事件を起こし年上の友人グローガンのすすめでダブリンに逃げた。
バリーは英国軍の兵隊募集に応じ、そこで友軍プロシア軍のポツドルフ大尉に巡り合う。
やがて戦争は終わり、バリーはポツドルフ大尉からオーストリア皇帝の息のかかった男シュバリエの動向をさぐるよう命令されたが、逆にバリーはシュバリエと職業賭博師としてコンビを組むことになった。
あるとき、ベルギーの豪華なホテルのテラスで、バリーは1人の美しい貴婦人レディ・リンドンを見そめた。
《第2部 バリー・リンドンの身にふりかかりし不幸と災難の数々》。
バリーの初めての息子は、ブライアン・パトリック・リンドンと名付けられたが、レディの前夫の子、ブリンドン卿は、新しい父親を憎悪した。
愛情を注いだブライアンは誕生日にプレゼントされた仔馬から落馬し、幼くして死んでしまう。
バリーの悲しみは癒しようもなく、またレディ・リンドンもふさぎこみ、二人は常軌を逸するようになる。
そんなある日、レディ・リンドンは服毒自殺を図ったが、命だけはどうにかとりとめた。
怒り狂ったブリンドンはバリーに決闘を申し込み、ブリンドンの放った銃弾はバリーの足に当った。
バリーは足を医師によって切断され、年400ギニーの終身年金とひきかえにイングランドから出て2度と戻らないというブリンドンの条件をのみ、レディ・リンドンの前から永遠に姿を消した。


寸評
作中で七年戦争が語られているから時代は18世紀後半だろう。
七年戦争はハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因だが、そこに英仏間の植民地競争が加わり、イギリス・プロイセン側とフランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデンに分かれて戦った戦争である。
その戦争の様子を初め全編にわたって時代の持つロマンチシズムが醸し出されているが、主人公バリー・リンドンの意識は現代に通じるものがある。
男の半生がナレーションと共に描かれていくが、ナレーションが多い割には場面を割愛しているような印象がなく、ナレーションそのものも物語に溶け込みながら進行していて、演出、撮影、編集の三位一体を感じる。

バリーはナイーヴな青年で、どこか人に好かれる素地があり、野望を持ちながら日和見主義で成り上がっていく。
第1部は「レイモンド・バリーが如何様にしてバリー・リンドンの暮しと称号をわがものとするに至ったか」と銘打たれ、バリーの初めての恋と挫折、戦争への参加、野望をかなえてくれる女性との出会いが描かれる。
彼が思いを寄せた従姉のノラは思わせぶりな女性である。
バリーの気持ちを感じて誘いをかけるが、同じような行為を資産家でもある英国軍の大尉ジョン・クインにも行っているしたたかな女性で、二股がばれた時にはバリーに対し「私のペットのようなものだ」と言ってのけている。
ノラの結婚は金目当ての結婚だが、バリーはここで女性不信と地位への執着を身に着けたのかもしれない。
恋する男にとって、思わせぶりな女性は厄介な存在で、言葉の一つ、仕草の一つが男を悩ませる。
カメラワークは実にゆったりとした動きを見せ、激しい動きをすることはない。
戦争場面も当時の戦争がそうだったのか知らないがまるで儀式の様で、銃撃で兵士が倒れていくシーンもどこか優雅さを感じさせ悲惨さはない。

第2部で「バリー・リンドンの身にふりかかりし不幸と災難の数々」が描かれる。
バリーは夫を亡くしたリンドン女伯爵と結婚し、一大資産に囲まれて暮らす身となる。
リンドン女伯爵は夫ある身でバリーに恋しているし、夫の心臓発作の原因を作ったのがバリーだから、この夫婦は打算と欲望に駆られた夫婦といえる。
バリーは資産を手に入れるのは上手だが、維持していくのは下手だったとは上手い表現だ。
貴族社会の人々が屋敷に集まってゲームに興じたり食事会を開いたりしているが、電灯はなく室内はローソクの明かりで保たれている。
ライティングではなく、本当にローソクの明かりだけで撮影されている室内の場面になると、言いようもない雰囲気が出てきて、そのぼんやりとした画面に食い入ってしまう。
このボンヤリ感は主人公のうすぼんやりした気性と巧妙にシンクロしている。
この気性は浮気をして妻を苦しめたかと思うと素直に詫びたりさせるし、確執があった前夫の子供を嫌っていたはずなのに助けたりさせる。
彼の晩年は、年金の給付を受け、時折り大陸を旅行することもあり、賭博師の仕事に戻ったこともあったが、以前のような成功は得られなかったとある。
なんだか僕の晩年とダブルところがあるなあ・・・、人の一生とはこのようなものか・・・。

バベットの晩餐会

2020-01-27 09:00:31 | 映画
「バベットの晩餐会」 1987年 デンマーク


監督 ガブリエル・アクセル
出演 ステファーヌ・オードラン
   ビルギッテ・フェダースピール
   ボディル・キュア
   ビビ・アンデショーン
   ヴィーベケ・ハストルプ

ストーリー
19世紀後半、デンマークの辺境の小さな漁村に、厳格なプロテスタント牧師(ポウエル・ケアン)の美しい娘、マーチーネ(ヴィーベケ・ハストルプ)とフィリパ(ハンネ・ステンスゴー)は住んでいた。
やがてマーチーネには謹慎中の若い士官ローレンス(グドマール・ヴィーヴェソン)が、フィリッパには休暇中の著名なオペラ歌手アシール・パパン(ジャン・フィリップ・ラフォン)がそれぞれ求愛するが、二人は父の仕事を生涯手伝ってゆく決心をし、歳月がたち父が亡くなった後も未婚のままその仕事を献身的に続けていた。
そんなある嵐の夜、マーチーネ(ビアギッテ・フェザースピール)とフィリパ(ボディル・キェア)のもとにパパンからの紹介状を持ったバベットという女性(ステファーヌ・オードラン)が、訪ねてきた。
パリ・コミューンで家族を失い亡命してきた彼女の、無給でよいから働かせてほしいという申し出に、二人は家政婦としてバベットを家におくことにした。
やがて彼女は謎を秘めつつも一家になくてはならない一員となり、祖国フランスとのつながりはパリの友人に買ってもらっている宝くじのみであった。
それから14年の月日が流れ父の弟子たちも年老いて、集会の昔からの不幸や嫉妬心によるいさかいの場となったことに心を痛めた姉妹は、父の生誕百周年の晩餐を行うことで皆の心を一つにしようと思いつく。
そんな時バベットの宝くじが一万フラン当たり、バベットは晩餐会でフランス料理を作らせてほしいと頼む。
姉妹は彼女の初めての頼みを聞いてやることにするが、数日後、彼女が運んできた料理の材料の贅沢さに、質素な生活を旨としてきた姉妹は天罰が下るのではと恐怖を抱くのだった。
さて晩餐会の夜、将軍となったローレンス(ヤール・キューレ)も席を連ね、バベットの料理は次第に村人たちの心を解きほぐしてゆく。
実はバベットは、コミューン以前「カフェ・アングレ」の女性シェフだったのである。


寸評
宗教映画の様相を呈していて、キリスト教に馴染んでいない僕はその信仰の奥にあるものがよくわからない。
信仰に根付いた精神文化が理解できれば、この映画から受ける印象はまた違ったものになっていただろう。
貧しそうな村に住んでいる姉妹が結婚もしないで奉仕活動を続けているが、その姉妹にも若い頃に恋愛経験の様なものがあったことが描かれる。
すごく抑えた色調と、二人の恋模様が表面的にしか描かれていないのでなおさら宗教的なものを感じてしまう。
若い士官ローレンスとの係わり合いの経緯、およびそのローレンスが姉妹の父親である牧師から受けた教示を役役立たせて出世していく経緯があっさりと描かれる。
歌唱指導したオペラ歌手のアシール・パパンとの交流はオペラもどきで描かれる。
突如その演出で恋心が歌いあげられ、二人の関係はいわゆる悲恋で終わるのだが、その経緯もそのことに主眼が置かれていないので手紙を預けるだけで終わってしまう。
パパンはまるでバベットを二人の家政婦として送り込むためだけに登場してきた人物の様な扱いである。

さてここからバベットの家政婦としての生活が始まる。
長い年月の間にバベットのやりくりで姉妹の生活が金銭的にも時間的にもゆとりあるものになってきたことが描かれ、バベットがこの村に溶け込んだことが分かる。
食べ物の施しを受けていた人たちがバベットの料理に慣れて、姉妹の味には戻れないことがチラリと示されるのもその事の一端だ。
バベットはフランスからデンマークに亡命してきた女性で、姉妹はバベットがいつの日かフランスに帰ってしまうのではないかと思っているので、バベットが宝くじに当たった時に「神は与え、そして奪っていく」とつぶやく。
姉妹の気持ちを表す、なかなか気のきいたセリフだ。

そしてここから題名になっているバベットによる晩餐会の準備が始まり見せ場に突入していく。
見せ場であることに違いはないが、その見せ場はドラマチックなものではなく、ここでも映画は静かだ。
バベットの用意する食材を見た姉妹を含む村の人々は恐れおののき、晩餐会では料理の話はしないでおこうと相談するが、そんな打ち合わせがされているとは知らない、今は将軍となって出席することになったローレンスが加わったことで、彼の料理に関するうんちくと村人のからみが愉快に繰り広げられる。
創作料理も含めて本物の食材を使った本格的な料理が提供され始めると、俄然参加者の顔が和んでくる。
美味しいものを食べると人の気持ちは自然と和やかなものになるものなのだろう。
大したものを食べているわけではないが、僕だっておいしい料理とワインがあれば幸せな気分になる。
バベットは十数年間披露することがなかった料理の腕を存分にふるう。
バベットは「芸術に貧しさはない」と言い切り、人にとって持てる才能を発揮する場所に出合うことが幸せなことなのだと告げる。
長い人生で選択を迫られることは数多くあるだろうが、どの選択をするかが重要なわけではない。
何を選択してもその前には無限の可能性が広がっているのだ。
僕は何がしたいとかで入った会社ではなかったが、与えられた場所で持てる力をすべて発揮出来たと思えていることに幸せを感じている。

母なる証明

2020-01-26 10:40:22 | 映画
「母なる証明」 2009年 韓国


監督 ポン・ジュノ
出演 キム・ヘジャ
 ウォンビン
   チン・グ
 ユン・ジェムン
   チョン・ミソン

ストーリー
とある静かな町。漢方薬店で働く母(キム・ヘジャ)は、一人息子のトジュン(ウォンビン)と2人暮らし。
ある日、トジュンが猛スピードの車にはねられる。
幸い軽傷で済んだトジュンは、友人のジンテとともに逃げた車を追いかけ、乗っていた男たちを襲う。
警察署ではトジュン、ジンテ、車の男たちが捕まり、絞られていた。
迎えに来た母は、息子を心配し、ジンテとは付き合わないように忠告する。
ある日、ジンテに待ち合わせをすっぽかされたトジュンが酔って歩いていると、1人の女子高生に出会う。
声を掛けるトジュンだったが、返事の代わりに石が飛んでくるのだった。
翌朝。ビルの屋上でその女子高生の無残な遺体が発見される。
数年ぶりの殺人事件にいきり立つ警察は、大規模な捜査を展開。
数日後、トジュンが名前を書いたゴルフボールが現場に落ちていたことから、容疑者として逮捕されてしまう。
母も息子の無実を警察に訴えるが、全く相手にされない。
やむなく母は、自分で真相を突き止めることを決意。
まず疑ったのは、事件当夜トジュンが会い損ね、ゴルフボールの件をしっているジンテ。
ジンテの留守宅あった怪しいゴルフクラブを警察に届けたところ、それは凶器ではなく却ってジンテとの関係を悪化させてしまうが、会話の中で事件についての疑問が生じる。
死体を隠すなら埋めるのが普通だが、女子高生の遺体は、これ見よがしに屋上に置かれていた。
しかも、彼女には以前から色々な噂があった。
彼女を調べる必要があるのではないか?土砂降りの雨の中、遺体発見現場へ走り出す母。
そこは町中が一望でき、遺体を隠すには目立ちすぎる場所だった。
息子を救うべく、母は1人で走り出す……。


寸評
「殺人の追憶」「グエムル -漢江の怪物-」のポン・ジュノ監督作品とあって変化に富んだ結末を迎え驚かされる。
最初はだれるところもあったが結末に向かってそれまで鬱積していたものが一気に吐き出されるように結末に向かって動き出す。
これでもか、これでもかの展開で唸らされ、流石にポン・ジュノ監督と思わせた。

プロローグで小高い丘の上で踊るキム・ヘジャの姿が映し出され、何がなにやらわからない不思議なシーンに引き込まれているうちに、場面が変わると漢方薬店で薬草を切る彼女の姿が映し出される。
映画の常套としては最後にオープニングのシーンが何であったのかが明かされるはずだからと記憶の隅にとどめて見始める。

トジュンは少し知恵遅れで記憶力も乏しい。
こめかみをグルグルと押しつけたりすると記憶力が戻ることがあるらしい。
ゴルフ場で拾ったゴルフボールや、ジンテが拾いに戻るゴルフクラブ、時間設定などが何気なく伏線としてまき散らされる。
トジュンは知恵おくれではあるが、バカと言われると怒りだし笑いを誘うが、それも重要な伏線となっている。
その伏線の多さが前半部分の展開の遅さになっていたと思うのだが、結末のためだったとわかるとその不満は一気に解消される。
特にトジュンが母との間にあったことを突如思い出すあたりから盛り上がりだす。
この盛り上がりがこの映画を単なる母ものにしていないし、単なる冤罪はらし映画にしていない点だった。
アジョン殺しの真犯人が判明するあたりは衝撃で、なぜ彼女が街のすべての人が目にすることができる屋上で殺されたのかも明らかになる。

なりふりかまわずに、息子の悪友や被害者の女子高生の周辺を追いかけ、執念で真相を探ろうとする母親。
二転三転する展開はまったく先が読めず、緊張感の途切れないスリリングな展開はサスペンスとしての面白さをどんどん増していった。
このあたりは韓国映画の特性なのか、ポン・ジュノ監督の力量なのか、エンタメ性にすごく飛んでいる。

そして息子を守るためにとる母親の狂気じみた捜査と行動。
それを知らないトジュンが無意識のうちに再び知る母親の秘密。
彼はあるときそのことを突如思い出すであろうことが暗示されているようでもあった。
バスの中で自身の太ももに針を打ち踊り狂う母の姿は衝撃的だった。
母親の愛は海より深いと言うが、その盲目的な愛は恐ろしいまでの愛であることも事実なのだと迫ってきた。
これはミステリー映画であるとともに哲学映画でもあったと思う。
まだまだスゴイぞ、韓国映画の秘めたるパワー。

HANA-BI

2020-01-25 10:59:48 | 映画
「HANA-BI」 1997年 日本


監督 北野武
出演 ビートたけし 岸本加世子
   大杉漣 寺島進 白竜
   薬師寺保栄 逸見太郎
   矢島健一 大家由祐子
   田村元治 渡辺哲

ストーリー
凶悪犯の張り込みの最中に親友で同僚の堀部(大杉漣)の好意に甘え、数カ月前に幼い子供を亡くし失意のまま体調を崩していた妻・美幸(岸本加世子)を病院に見舞った西(ビートたけし)は、そこで担当医(矢島健一)から妻が不治の病で助からないことを聞かされる。
ショックを受ける西だがそんな彼に、更に堀部が犯人(薬師寺保栄)の凶弾に倒れたとの連絡が入った。
その後、犯人は別の場所で発見されるも、逮捕へのあせりから西は失態を演じ、後輩の田中(芦川誠)が命を落としてしまい罪悪感にさいなまれた西は職を辞す。
彼は、下半身不随となり車椅子の生活を送る堀部に画材道具を贈る為、また田中の妻(大家由祐子)や余命幾ばくもない美幸との生活資金を工面する為、ヤクザから借金を重ねるようになる。
しかし、その返済に首が回らなくなり、思い余って銀行強盗を決行し、盗んだ金を堀部や田中の妻に送り、ヤクザに借金を返済すると、残った金を持って美幸と共に旅に出るのだった。
だが、そんな西をヤクザたちは利子が足りないと言って執拗に追いかけてきた。
妻との残り少ない時間を誰にも邪魔されたくない。
西は、追ってきたヤクザたちを次々に殺害していく。
やがて、後輩の刑事の中村(寺島進)が西の身を案じて駆けつけてきた。
しかし、西は彼にもう少し時間をくれと頼む。
静かな砂浜、妻をそっと抱き寄せた西は、自ら自分たちの人生に幕を引く。


寸評
病気で死んでいく妻がいるという設定により、西と妻の愛情物語を軸にプロットが成り立っているのだが、ビートたけし演じる主人公も、岸本加世子演じる妻も殆ど台詞を発しない。
西野の孤独な日常は殆ど全てといっていいほど、久石譲の手掛ける静かで優しいメロディによって表現され、相反するように、彼が狂気を表現するくシーンでは極力音楽を加えず、生々しいリアルな躍動感だけを伝えてくいる。
兎に角、セリフの少ない映画だ。
その分、映像によって訴えてくるシーンが多く、青いフィルムで覆われたキタノブルーと呼ばれる色彩が更なる物語の信憑性を色濃く反映している。

人物描写の説明は削ぎ落され極めてシンプルである。
西と堀部は、お互いにナンパした時の女性を妻にしているが、堀部の家庭は一切描かれていない。
堀部は銃弾に倒れ、半身不随となり警察を退職しているが、その経緯も家庭で起きたこともカットされている。
映画は直線的に、悲哀に満ちた男の歯車の狂っていく様子を淡々と描写し続けていく。
岸本加世子を象徴として、「HANA-BI」は死に向かう美学を描いた作品だ。
人は必ず死ぬのだから、人の一生は死ぬまでに何をするか、死ぬまでにどう生きるかが問われているのだ。
寺島進の演じる後輩刑事の中村は結婚を決意しているが、追い詰められた西夫婦を見て「俺はあんな風に生きられるかなあ」とつぶやく。
中村は西が取るであろう行動を予期していたのだろう。
西は余命いくばくもない妻と共に死のうと思っていたのだと思う。
妻の死とともに自分も死ぬと言う気持ちは誰でもが持てる感情ではない。
生前の夫婦関係から、肩の荷が下りたと言う気持ちが湧くこともあるだろうし、ストレスの原因が無くなったと感じることもあるだろう。
失くしていた自由と、伴侶からのこまごまとしたチェックから解放されたと言う安堵感が湧くかもしれない。
一時の悲しみがそれらの感情でかき消されていくことは珍しいことではない。
西はそのような気持ちとかけ離れた愛情で妻とつながっていたのだ。
中村が自分があんな風な生き方と言ったのは、西のように自分を滅ぼしても妻を愛するという感情を持ち続けられるかという疑問だったように思う。
美幸は最後に「ありがとう。ごめんね」と西に告げる。
言葉を発しなかった美幸のたった一度の言葉である。
美幸も自分たちの末路を感じ取っていたに違いない。
献身的に尽くしてくれた西に対する感謝のありがとうであり、自分と共に死なねばならない西に詫びるごめんねだったように思う。

「HANA-BI」は、修理工の親父とのエピソードや、ヤクザとのやりとりなど笑ってしまうシーンをはさみながら、桜、富士山、雪景色など、古典的ともいえる美しい映像を生かして、狂気と死が迫る刹那的な生きざまが淡々と描かれていく特異な映画でもある。

花とアリス

2020-01-24 11:23:43 | 映画
「花とアリス」 2004年 日本


監督 岩井俊二
出演 鈴木杏 蒼井優 郭智博
   相田翔子 阿部寛 平泉成
   木村多江 坂本真
   大沢たかお 広末涼子

ストーリー
おてんば娘アリス(蒼井優)と、一見おとなしい少女ハナ(鈴木杏)。
中学卒業を控えた2人は同じバレエ教室に通う親友。
ハナは高校生の宮本(郭智博)に秘かな想いを寄せていて、宮本を尾行しては隠れて写真を撮りまくっていた。
やがて彼女とアリスは宮本と同じ高校へ進学する。
一目惚れした先輩・宮本と同じ落語研究会に入部した高校生のハナ。
”寿限無”の完全制覇に余念がない宮本は、ある日いつものように歩きながら落語の本を読んでいて、シャッターに頭をぶつけ転倒してしまう。
後をつけていたハナは慌てて駆け寄るが、宮本が記憶喪失らしいと知ると、とっさに恋人のフリをしてしまう。
一方、アリスは街でタレント事務所にスカウトされたが、なかなかオーディションに受からない。
ハナは自分のついた嘘の為に、アリスを宮本の元彼女役=共犯者として巻き込んだ。
ところが、このことがきっかけで宮本はアリスに好意を寄せるようになり、アリスもまた宮本に心惹かれるようになっていく。
ハナに隠れてデートを重ねるアリスと宮本。
しかし、そんな関係がいつまでも続く筈がなく、アリスはハナの為に身を引くが、ハナの嘘も宮本にばれ、彼女は失恋するのであった・・・。
その後、オーディションでバレエを披露し合格したアリスがファッション誌の表紙を飾り、それを機にハナとアリスは仲直りする。


寸評
鈴木杏と蒼井優が等身大の女子高生を演じて瑞々しい。
時にコミカル、時にファンタジー、時にシリアスに青春を切り取っていく岩井俊二の演出が素晴らしい。
仲の良い女の子ってこんなだろうと思わせる。
オープニングは寒い朝だ。ふたりの吐く息が白く早朝と思われる。
中学生の彼女たちは電車通学をしているが、学校の最寄り駅を乗り過ごして、憧れる男子高校生と同じ電車に乗り換えて引き返してくる。
そのための乗越なのだが、冒頭のこの場面で女の子ワールドに一気に引き込まれてしまう微笑ましいシーンだ。
異性である岩井俊二がこのような雰囲気を描き出すことに感心してしまう。

ハナが宮本と雨の中を走るシーンで繋いだ手から泡が吹き出す場面があるが、その後に宮本はハナとの関係を疑い出していたから、あれは二人の仲がバブルで中身のないことを表していたのだろうか?でもこういうシーンは映画的だ。
アリスの両親は離婚していて、同居している母親(相田翔子)は片付けもできないし、新しい男(阿部寛)の前ではアリスを他人のように扱う。
アリスは父親(平泉成)と会って入学祝いに万根筆をもらうのだが、ここでの父が語る万年筆論は味がある。
父親はインクが切れたりすると面倒になって使わなくなるが、なかなか捨てきれないのが万年筆だと言うが、それはまるで娘と父との関係のようでもあった。
鎌倉で父親と過ごす時間に、上記の万年筆に始まり、うな重、ところてん、トランプマジック、携帯電話などの小道具が登場するが、それぞれが微妙に絡んでくるのもいいと思う。
アリスが別れ際に電車の中から「ウォーアイニー」と言うと、父親は「サイチェンだ」と返す。いい場面だ。

元カノとして宮本とデートを重ねるうちにアリスも初めてのデートの場所だとか、初めてキスをした場所だとか嘘をつき始める。
そのことでアリスの宮本に対する気持ちの変化を表していたが、あることで嘘をついていたことがバレてしまう。
その時の蒼井優はたまらなくいい。
たまらなくいいといえば、彼女のバレーを踊るシーンも素敵だ。
前半に同じ高校の女生徒がバレエ教室の生徒たちを写真に撮るシーンがあって、あどけなさの中でエロチックでもありちょっと幻想的とも言えるシーンがある。
その時の華やかさとは違って、この時は凛としたバレーだ。
ミニスカートで踊らされ、「中が・・・」と言われるが「減るもんじゃありませんから」と踊り続ける。
皆が見とれるが編集現場担当者(広末涼子)は私用電話で外にいる。
彼女が戻ってきたところで演技は終わり、ピタリとポーズが決まる。
このシーンのためにバレーができる蒼井優がキャスティングされたと聞く。
長いシーンだが最後の盛り上がりを見せた。
大森南朋、テリー伊藤、虻川美穂子、叶美香、アジャ・コング、ルー大柴、大沢たかお、木村多江などがちょっとした役で出るわ出るわで、これは岩井俊二監督の交遊録だったのだろうか。

華岡青洲の妻

2020-01-23 08:19:42 | 映画
「華岡青洲の妻」 1967年 日本


監督 増村保造
出演 市川雷蔵 若尾文子 高峰秀子
   伊藤雄之助 渡辺美佐子
   丹阿弥谷津子 浪花千栄子
   内藤武敏 原知佐子

ストーリー
父が大庄屋を勤め、禄高百五十石の家柄の娘加恵は、請われて華岡家に嫁いだ。
夫となる華岡雲平は医学の修業に京都へ遊学中で加恵はその三年間、夫のいない結婚生活を送らねばならなかったが、雲平の母於継はその気品のある美しさで、加恵にとっては幼い頃からの憧れの的であり、その於継との生活は楽しいものだった。
於継も彼女には優しく、雲平の学資を得るための機織り仕事も加恵には苦にならなかった。
やがて雲平が帰って来て、加恵は初めて見る夫に胸のときめきを覚えたが、その日から、於継の彼女に対する態度がガラリと変り、於継は妻の加恵を押しのけて、ひとり雲平の世話をやき、加恵を淋しがらせた。
加恵はそのときから於継に対して敵意に似たものを胸に抱くようになった。
まもなく雲平の父直道が老衰で亡くなると、雲平は青洲と名を改め、医学の研究に没頭していった。
彼の研究は、手術に際して麻酔薬を用いることで、何よりもまず完全な麻酔薬を作り出すことであった。
一方加恵は於継の冷淡さに、逆に夫に対する愛情を深めていたが、そんなうちに、彼女は身ごもり、実家に帰って娘の小弁を生んだが、間もなくして、於継の末娘の於勝が乳ガンで死んだ。
その頃、青洲の研究は動物実験の段階ではほとんど完成に近く、あとは人体実験によって、効果を試すだけだったが、容易に出来ることではなかった。
ある夜、於継は不意に自分をその実験に使ってほしいと青洲に申し出たところ、驚いた加恵はほとんど逆上して自分こそ妻として実験台になると夫に迫り、青洲は憮然と二人の争いを眺めるのだった。
意を決した青洲は二人に人体実験を施し、強い薬を与えられた加恵は副作用で失明した。
その加恵に長男が生れるころ、於継が亡くなった。
青洲はやがて、世界最初の全身麻酔によって、乳ガンの手術に成功したのだった。


寸評
江戸時代に、世界で最初の全身麻酔による外科手術に成功した紀州の医者華岡青洲(市川雷蔵)の麻酔薬開発物語であるが、ドラマの核心は、開発最終段階での人体実験に、彼の母於継(高峰秀子)と妻の加恵(若尾文子)が競って実験台になりあうという嫁と姑の確執にある。
夫である雲平は京都に勉強に出ていて不在の期間が3年に及ぶが、その間の姑と嫁の関係は良好である。
ところが母にとっては息子、嫁にとっては夫である雲平が帰って来てから、嫁と姑のバトルが始まる。
息子を可愛がり何かと世話をやく母親と、その関係に反感を覚える嫁の姿は古今変わることがない。
最初は遠慮していた嫁が徐々に存在感を高めていく描写も自然なエピソードで見せて嫌味がない。
ややもするとドロドロとした描写になりがちなテーマだが、極力そうならないようにしているのは賢明な選択である。
その描き方は適度の通俗性を持ちながら、同時に心を動かすものも持っているというものだ。

青洲は、老いた母には軽い麻酔薬を試みるが、母はそうとは知らず自分が役に立ったとおおいに満足し、自分の息子への愛情を誇るように世間に実験は成功したと言いふらす。
妻は本格的な麻酔薬を試めされるが、その事実を母親には告げない。
事実を知った母親は、目覚めた妻にいたわりの玉子とおかゆをふるまい、自分も同じメニューを要求し加恵をいたわる息子の姿を見て慟哭する。
弟子たちは、実験に成功し、嫁が無事に目覚めたことに対する喜びの涙だと言いあい、思いやりのある立派な母親だと褒めたたえるが、母親の流す涙は実は悔し涙なのだというこの場面の描写は見せるものがある。
妻は、そのために盲目になってしまうが、彼女は自分こそが本当に役に立ったのだと満足する。
太ももをつねったうっ血の痕が母親より多いことで加恵が微笑む場面なども恐ろしいと感じさせる。
すさまじいまでのライバル意識であり、青洲の妹で婚期を逃した小陸(渡辺美佐子)が「母と姉さんの確執をずっと見ていた。自分はそんな嫁にも姑にもなりたくなかったので、嫁に行かなかったのは幸せなことだった」と告白するのは、嫁姑問題に対する痛烈な批判である。
驚いたことに小陸は、「兄は母と妻の心の争いを知っていながら、知らぬふりでそれを利用した」というのである。
青洲は利用したのかどうか分からないが、男にとって嫁姑問題は厄介なもので、結論を言えば見て見ぬふりをするしかないというのが僕の経験則である。
小陸にそう言われると、青洲は本当に女たちを利用した相当に利己的な、目的のためには手段を選ばない男であったのではないかとも思えてくる。
そう思わせるのが青洲のメイクだ。
市川雷蔵は端正な顔立ちの俳優だが、本作では異様なまでの濃い眉がメイクされている。
この異様なまでの眉は、青洲の心底を表現していたのではないかと思う。
つまり、子陸の洞察は正しかったのではないかということである。
日本の映画スターのなかでも清々しさがきわだっている雷蔵なので、青洲はそんな利己的な人間には見えないのだが、利己的には見えない人間がじつは利己的であった、誠実で立派な男が後ろめたい気持ちもなしに母と妻の争いを利用することができたと考えると、なるほど小陸が言うように男というものは恐ろしいものだということになり、奥が深い映画だなあとも思えてくる。

波止場

2020-01-22 09:07:15 | 映画
「波止場」 1954年 アメリカ


監督 エリア・カザン
出演 マーロン・ブランド
   エヴァ・マリー・セイント
   リー・J・コッブ
   ロッド・スタイガー
   カール・マルデン
   パット・ヘニング

ストーリー
ニューヨークの波止場に働く沖仲士たちは、酒場を経営している悪らつなボス、ジョニー・フレンドリイ(リー・J・コッブ)の暴力によって支配されていた。
ある夜、沖仲士のひとりジョイが謀殺され、直接の犯人はジョニーの子分チャーリー(ロッド・スタイガー)であったが、チャーリーの弟でやはりジョニーの一味であるテリー(マーロン・ブランド)も片棒をかついでいた。
事件は波止場の正義派バリイ神父(カール・マルデン)やジョイの妹イディ(エヴァ・マリー・セイント)の痛憤をよそに闇から闇へ葬り去られようとしていた。
神父は犯人の発見に躍起となり、それを快く思わないジョニー一味は教会を襲った。
ちょうどその場に居合わせたイディは、危いところをテリーに救けられた。
彼女は、テリーが兄の謀殺に関係があるのではないかと疑ったが、彼の意外な純真さに惹かれ、2人の気持ちは次第に接近し、それとともにテリーの心はジョニー一味から離れて行った。
そこへまたまた、白昼、沖仲士のデューガン(パット・ヘニング)が事故に見せかけ殺される事件が起きた。
テリーはバリイ神父の忠告に従って、イディに事件の真実を告白した。
テリーはイディをアパートに訪れ、激しく愛を求めた。
しかしジョニイ一味に襲われて2人が危くのがれたとき、屍体となったチャーリーの姿を見つけた。
間もなくジョニー一味は、2つの殺人事件について法廷で尋問され、テリーはかれの犯罪事実を証言した。
翌朝波止場にあらわれたテリーは、沖仲士仲間から卑怯者としてボイコットされた。
テリーはジョニーの本拠にのりこみ、彼を打ちのめしたが、自らも子分たちの暴行をうけて半殺しにされた。
しかしテリーは渾身の力をふりしぼって立ち上がり、沖仲士たちの中へ歩いていった。
沖仲士たちはテリーの真の勇気を知った。


寸評
港湾労働者テリーを演じたマーロン・ブランドは本作でアカデミー賞主演男優賞を獲得し、名実共にトップスターになったのだが、僕がマーロン・ブランドと初めて出会ったのは1966年の「逃亡地帯」だった。
アーサー・ペンが監督したその作品で僕はすっかりマーロン・ブランドの虜になった。
この作品はそれより10年以上も前の作品で、さすがにマーロン・ブランドも若いし、僕は年齢的にもリアルタイムでこの作品を見ることは出来ずリバイバルでこの作品を見た。
改めて出演作品の履歴を見ると、1951年の「欲望という名の電車」を初め、この頃の作品の方が名作が多いようで、その後の存在感のある映画は1972年の「ゴッド・ファーザー」まで待たねばならなかったのは彼が高額ギャラを要求するトラブルメーカーだったことによるのかもしれない。

古い映画だが作品にテンポがあるし映像に迫力もあり今見ても十分に鑑賞に堪える映画だ。
冒頭でテリーが友人のジョイを呼び出す役を言いつけられ、それが元でジョイは殺されてしまう。
ドラマチックな展開で観客は自然と作品に引き込まれてしまう出だしがいい。
呼び出しに使われるのが鳩で、この頃はハトを飼っている人が多かったのかもしれない。
僕も子供の頃にハトを飼っていた時期があったが最近ではそのような人を見かけなくなった。
テリーはマフィアのボスであるジョニーに拾われた恩義を抱えていて、兄のチャーリーはそのボスの右腕となっているというのが背景にある。
テリーは元ボクサーで強かったが、兄を通じてジョニー一味から八百長を持ち掛けられボクサー家業を棒に振った過去も持っている。
兄のチャーリーはテリーに高圧的な態度で接しているが、実の弟を殺すことは出来ず自分の命を失うことになる。
この映画における人情部分だが、このチャーリーを演じているのが若き頃のロッド・スタイガーである。
古い作品を見ると彼等の若い頃の姿を見ることが出来るのも楽しみの一つだ。

ジョニー一味は自分達に都合の悪い証言をしようとする者を次々殺していくが、それならば批判の急先鋒であるバリイ神父を襲っても良さそうなものだと思うが彼は無傷である。
この神父は張り切り過ぎていて、僕にはちょっと違和感が生じたキャラクターだ。
僕はこの人物を演じているのは若い頃のジーン・ハックマンかと思っていたらカール・マルデンという俳優だった。
キャラクターでいえば、僕はイディという女性にも違和感があって、この二人のキャラクターは好きでない。

前述のように神父が大演説をぶち結構目立っているのだが、ラストシーンにおけるマーロン・ブランドが血にまみれながらも立ち上がり歩んでいく姿はまるでキリストではないかと思わせるので、エリア・カザンは宗教的な意味合いを持ち込んでいたのかもしれない。
この映画では裏切り者、チクリ屋というキーワードが度々出てくるのが興味深い。
なぜならエリア・カザン自身も1952年の赤狩りにおいて共産主義者の嫌疑がかけられ、カザンはこれを否定するために司法取引し、共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を同委員会に伝えた裏切り者であるからだ。
その事が影響しているのかなと思うのは勘繰りだろうか。


ハドソン川の奇跡

2020-01-21 08:44:51 | 映画
「ハドソン川の奇跡」 2016年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 トム・ハンクス
   アーロン・エッカート
   ローラ・リニー
   アンナ・ガン
   オータム・リーサー
   ホルト・マッキャラニー
   マイク・オマリー
   ジェイミー・シェリダン

ストーリー
2009年1月15日、USエアウェイズ1549便がニューヨーク・マンハッタンの上空850メートルを飛行中、バードストライクによって全エンジンが停止、コントロールを失う。
機長のチェスリー・サレンバーガー(サリー)は必死のコントロールと苦渋の決断の末、ハドソン川に機体を不時着させた結果1人の犠牲者も出さず、この奇跡的な生還劇は「ハドソン川の奇跡」として全世界に報道された。
乗務員たちが世間から国民的英雄として賞賛される一方で、国家運輸安全委員会 (NTSB) によって事故原因の調査が行なわれていた。
その過程でサリーの判断が適切であったかどうか、また、左エンジンは本当は動いていたのではないかという疑いを持たれ、彼は空港への着陸が可能だったとするNTSBから厳しい追及を受ける。
サリーは、しだいに自身の判断が正しかったのかという不安にさいなまれる。
検証の最終段階でもある公聴会の日が訪れ、コンピュータ上のシミュレーション、パイロットによるフライトシミュレーションの双方で、ラガーディア空港・テターボロ空港双方への着陸が可能だったことが示された。
しかし、サリーとスカイルズは、シミュレーションから155名の人命を背負ったパイロットが状況判断に要する人的要因(思考時間や心理状態)が排除されていると、冷静だが厳しい口調で抗議した。
その結果、人的要因の考慮を加味し、空港への方向転換を、思考時間の35秒分遅らせて再度実施すると、フライトシミュレーションはいずれへの空港への着陸も失敗、しかも市街地に墜落する大惨事となり得たことが示され、さらに引き続いて、実際の音声記録が再生されると、全ての謎が埋まる。


寸評
2009年の有名な航空機事故の映画化作品である。
このニュースは日本でも新聞、テレビを通じて詳細に報じられたので、僕もサリー機長を英雄視して見ていた一人だったのだが、その後に機長達が国家運輸安全委員会によって人為的な過失への疑惑を追求され、当時の状況下では全く問題なく空港に帰還することができたということで、おかしな判断で乗客の命を危険にさらした人物ではないかという嫌疑をかけられていたということは知らなかった。
映画はその調査の顛末を描いているので、ハドソン川への不時着や脱出劇のスペクタクルを主にはしていない。
むしろ映画的なスペクタクルを極力省いて騒動の深層に迫ろうとしている静かな映画だ。
最後には観客に判断をゆだねるということを除いている以外は近年のイーストウッドらしい作品だと言える。
最初は英雄ともてはやされたが、やがて乗客を危険に晒したとんでもない機長ではなかったかと報じられ始める。
サリーが事故の幻影に悩まされる姿は描かれているが、報道の変化に対する恐怖とかストレスの拡張によるサリー機長の精神的苦痛がたっぷりと描かれてはいない。
その分、深刻な内容ではあるが肩ぐるしくはないエンタメ性に優れた作品となっている。

乗客を脱出させた後にトム・ハンクスが演じるサリー機長に、アーロン・エッカートが演じるジェフ副機長がハドソン川とニューヨークの街並みをしみじみと眺めながら、「ニューヨークの景色に、こんなに感動するなんて」とつぶく。
生きていることを実感するシーンだが、そのさりげない描き方がいい。
また、国家運輸安全委員会での審問の最中に、サリー機長とジェフ副機長は廊下に出て、機長は「君を誇りに思う」と伝え副機長もそれに応える。
自分たちの行動に確信を深めるシーンだったと思うが、それとて感動を呼び込むような過剰演出をとっていない。
英雄と思われた人物が、もしかしてその逆であったのかもしれないという点においても同様のことがいえる。
僕たちは彼が英雄であたことを知っているが、作品はそれを大々的に報じてはいない。
むしろ機長を褒め称える人々を少しずつ見せていくような演出をとっている。
邦題は「ハドソン川の奇跡」となっているが、やはり原題の「サリー」の方がピッタリくる内容であり描き方だ。

しかし人命を預かってのとっさの判断は決断を要するし、その重圧はいかばかりかと思う。
僕は社会人時代に情報部門を預かっていたのだが、ときにコンピュータが異常をきたした。
それがグラムのバグによるソフト的なものなのか、ハード・トラブルなのかによって対応が違ってきたし、何よりも全ての作業がコンピュータ依存しているので、停止中は出荷業務が止まってしまうということで、完全復旧までの時間との勝負になる。
間に合わなければ1000万~3000万の出荷が出来ないので、納期の問題もあり担当営業や物流部門から引切り無しの電話が入る。
復旧よりもそちらへの対応の方が大変だという局面もあった。
ましてや人命がかかっているともなればなおさらだ。
やはりサリー機長は英雄だったのだと結論付けしているが、そのように描かれても当然の判断力だったと思う。
しかし、一歩間違えば大量殺人を犯しかけたと判断されたかもしれない恐怖は残る。
コンピュータを信じすぎてはいけない。

ハッピーアワー

2020-01-20 10:53:41 | 映画
「ハッピーアワー」 2015年 日本


監督 濱口竜介
出演 田中幸恵 菊池葉月 三原麻衣子
   川村りら 申芳夫 三浦博之
   謝花喜天 柴田修兵 出村弘美

ストーリー
神戸市で暮らす看護師のあかり(田中幸恵)、専業主婦の桜子(菊池葉月)、学芸員の芙美(三原麻衣子)、科学者の妻の純(川村りら)は、お互いに仲が良く、行動を共にすることが多い。
彼女たちは、鵜飼(柴田修兵)が開催したワークショップに参加する。
打ち上げの席上、純が離婚調停を進めていると知ったあかりは、なぜ今まで話してくれなかったのかと怒り、その場を立ち去る。
あかり、桜子、芙美、純は約束していたとおり温泉へ出かけた。
あかりと純のあいだにあったわだかまりは消えて、彼女たちは旅行を満喫するが、芙美は、夫で編集者の拓也(三浦博之)と小説家のこずえ(椎橋怜奈)が連れ立って歩いている場面を目撃してしまう。
後日、あかり、桜子、芙美は、純の夫の公平(謝花喜天)からの連絡を受けてカフェを訪れ、純の行方が分からなくなっていると聞かされ、さらに離婚を望んでいた純が裁判に敗れたこと、そして、純が公平との子を妊娠しているらしいことも、公平の口から語られる。
一方、桜子は、中学生の息子が恋人の女性を妊娠させてしまったと知らされる。
夫の良彦(申芳夫)と話し合ったのち、良彦の母のミツ(福永祥子)と共に女性の家を訪ねた桜子は、女性の両親に土下座した。
その帰り道で息子と出会った桜子は、良彦との仲を取り持ってくれたのが純であったと話す。
こずえの小説の朗読会が開催され、司会を務めていた鵜飼が途中で退席するが、純を探して朗読会に来ていた公平が司会を引き継いで、朗読会は無事に終わる。
打ち上げでは、公平、桜子、芙美、拓也、こずえのあいだで口論が起こってしまい、こずえと拓也が残された。


寸評
一つ一つのシーンが長いので上映時間317分と5時間を超える長編となっている。
冒頭でのワークショップにおける「重心を聞く」という催し物のシーンで、これがずっと続くのなら耐えれないなと思っていた僕は、そのシーンが実はじわじわと心に沁み込んでいたのだと体感することになる。
このシーンをはじめ、純が帰りのバスで旅行者と語り合うシーン、朗読会でこずえが自分の小説を朗読するシーンなど、場面場面が異様に長い。
一見無駄とも思える会話やシーンが続くのだが、知らず知らずのうちにその世界に引きずり込まれていて、映画を見ている自分ではなく、その会話の中に入っているような臨場感を覚えていく。
観客である僕が、出演者として映画に参加しているような感覚だ。
この感覚こそがこの映画の醍醐味である。

ワークショップの打ち上げ会で、あかりが述べる話は重かったし新鮮だったし考えさせられた。
「医療技術が進歩し寿命が延びて、今までだったら亡くなっていた人が生き延びている。その結果、病気を抱えて認知症になっている。その患者が徘徊、病院を脱走すれば看護師の責任になる。死亡でもすれば裁判に負けて慰謝料を要求される。そのための保険に自腹で加入している」と話すのである。
長生きするだけがいいのか、患者を看ている看護師だけが責任を負っていいのかと思う。
人は誰かと無意識のうちに触れ合っていたいものなのだろう。
子供の頃には意味もなく体を触り合っていたのにと語られる。
4人の交流は、まさにそのような本能とも思える欲求に支えられたもので憧れさえ持つ関係だ。
僕はこの打ち上げ会のシーンでも同席しているような錯覚を覚えた。

演技経験がないと言う4人の主演女性はスゴイ!
長回しもあるが、その中での自然体の演技は観客を引き付けるし、表情、会話にリアリティがあり、そのために静かな画面に迫力を感じる。
神戸が舞台とあって話される会話が関西弁であることが、関西人である僕により一層リアリティを感じさせて引き付けていたのかもしれない。
4人の性格描写が素晴らしい。
仲の良い4人の中にあるわずかな感情の違い、わだかまり、個々が抱える友人にも言えない別々の悩みなどが示され、誰か一人に感情移入してもよさそうなのだが、それぞれの立場や気持ちが伝わってきてしまい、一人に同調することはないし、挙句の果てには彼女たちを取り巻く男連中にも感情移入できてしまう。
問題が解決されたわけではなく、彼女たちに起きた変化の帰結は不明のままである。
それにも係わらず4人はまた旅行に行って、無意識に体を触れ合うことが出来る仲の良い友人として出発するのだろうと思わせるラストであった。
彼女たちの至福の時は家庭にあるのではなく、彼女たちの交流の場にあったのだと思う。
自分が生きている空間と、自分が存在している空間は違うのだと僕は感じた。
すごく新鮮な映画作りに衝撃を覚えるし、この内容で5時間を感じさせないのは驚異的だ。
まれにみる傑作である。

パットン大戦車軍団

2020-01-19 13:37:21 | 映画
「パットン大戦車軍団」 1970年 アメリカ


監督 フランクリン・J・シャフナー
出演 ジョージ・C・スコット
   カール・マルデン
   マイケル・ストロング
   カール・ミヒャエル・フォーグラー
   スティーヴン・ヤング
   フランク・ラティモア
   エド・ビンズ

ストーリー
1943年、アフリカ戦線。
初陣のアメリカ第2機甲兵団は、ドイツのロンメル将軍の指揮する戦車軍団によって苦戦を強いられていた。
そこへパットン将軍が着任し、兵団たて直しのためブラッドリー少将を副官に任じ、厳しい再訓練を開始。
そして、エルゲッターの戦闘で、彼の軍団はロンメルの機甲兵団をみごと粉砕した。
アフリカ方面の戦闘が終局を告げると、パットンはシチリア島侵攻の、第2兵団司令官となった。
この侵攻作戦をめぐり、速攻派のパットンと慎重派のモントゴメリーは対立したが、パットンは作戦を強行、パレルモを奪取した。
パットンはイタリア侵攻でイギリスのモントゴメリーと先陣争いを繰り広げることになる。
傷病兵には思いやりを見せるパットンだが臆病者には容赦ない言葉を浴びせる。
戦争ノイローゼの兵隊を殴ったことから、兵団司令官の任をはずされた彼は、欧州上陸作戦最高司令官の重任も、ブラッドリーにさらわれてしまった。
やがてノルマンディ上陸作戦が成功。
作戦に参加できなかったことを悔やむパットンに、名誉回復の日が到来した。
ブラッドリーが、第3兵団司令官として、彼をノルマンディに呼びよせたのである。
勇躍したパットンは、電撃的にドイツ軍を撃破、さらに有名なバルジの戦闘で、戦史に残る功績をあげた。
やがてドイツは降伏。
しかし、ソ連ぎらいのパットンは、そのためまたも物議をかもし出し、ついに失意のうちに軍隊を去る。


寸評
画面を圧倒する星条旗が映し出されパットンが登場してくる。
パットンの姿からしてこの星条旗の大きさが分かろうと言うものである。
スクリーンいっぱいの星条旗を背に、パットンは兵士たちに檄を飛ばすが聞き入る兵士の姿は映し出されない。
さながら個人演説会のようだが、この演説の中身がスゴイ。
全文は記憶にないが、要約すれば次のようなものである。
「アメリカ人は闘争を愛している。全てのアメリカ人は、戦いの痛みやぶつかり合いを愛している。アメリカ人は勝者を愛し、敗者を認めない。アメリカ人は、常に勝つためにプレイする。これこそ、アメリカがこれまでも、そしてこれからも負けを知らぬ理由だ。戦いとは、男が熱中できる最も重要な競技と言える。戦いは素晴らしいものすべてを発揮させ、それ以外のすべてを消し去るのだ。死守するなどと言うことを考えるな。前進あるのみでドイツ兵をやっつけろ!」
すさまじい演説だが、これは今もって続くアメリカの本音を代弁しているような気がする。
僕はこの映画を阪急電車のターミナル駅の下にあり、静かな場面では電車の走る音が聞こえた阪急プラザ劇場で見たのだが、当時のアメリカはベトナム戦争にあえいでいた。
これはもしかしたらアメリカ政府によるプロパガンダ映画ではないかと思わせる冒頭の演説である。
しかし、このような人物が強いアメリカを象徴しているとすれば、暗に反戦の意をこめているようにも思える。
オープニングが象徴するように、この映画はパットンを演じるジョージ・C・スコットの独り舞台の作品だ。
根っからの戦争好きともいえるパットンの多面的な人間性を見事に演じてアカデミー賞主演男優賞に選ばれながら受賞を拒否した。
見るからにタカ派的であるが、その行動を見ると彼自身はリベラルだったのかもしれない。

アフリカ戦線のチェニジアでドイツ軍に大敗を喫した米軍は戦車戦にたけているパットンを派遣する。
弛み切った軍の規律を正していき、やがてロンメルの戦車部隊に大勝するが、戦場にロンメルはいなかった。
がっかりするパットンだが、新任の部下におだてられ気分を良くする。
パットンは功名心にはやる男なのだが、同時にローマ帝国時代の戦争を夢見るロマンチストでもある。
しかし、時代はパットンとロンメルの一騎打ちなどと言う戦いを許さない。
犠牲になるのは名もない兵士たちである。
戦場で神経をやられた兵士を臆病者として平手打ちをくらわしたことでパットンは司令官を解任される。
しかしどうやらこれもアイゼンハワーによる作戦だったようで、パットンは自分の名誉の為の戦いを続け、犠牲をいとわないがその非情さは勝利を呼ぶ。
名誉欲にとらわれているのはパットンだけではない。
英軍のモントゴメリーも同様で、二人は先陣争いを繰り広げる。
連合国の一員であるソ連を無視したことで政治的配慮からパットンは軍隊を去るが、パットンは米ソ冷戦を予想していたのだろう。
ローマ帝国の戦史に精通し憧れるパットンだが、時代は彼の様な男を必要としなくなっていた。
軍人は戦争をしたがるし、軍需産業は危機感を生み出して巨利を得ようとしている。
戦争好きの存在は困ったものだ。
僕はジョージ・パットンを知らないが、パットン=ジョージ・C・スコットと思わせる快演がすべてという作品だ。

パッチギ!

2020-01-18 13:30:37 | 映画
「パッチギ!」 2004年 日本


監督 井筒和幸
出演 塩谷瞬 高岡蒼佑 沢尻エリカ
   楊原京子 尾上寛之 真木よう子
   小出恵介 波岡一喜 オダギリジョー
   光石研 加瀬亮 キムラ緑子
   余貴美子 大友康平 前田吟
   笑福亭松之助 ぼんちおさむ

ストーリー
1968年の京都、敵対する朝鮮高校に親善サッカー試合を申し込みに行くよう、担任の布川(光石研)に言われた府立東高校2年生の康介(塩谷瞬)は、そこでフルートを吹く女子高生・キョンジャ(沢尻エリカ)に出会い、一目惚れする。
ところが、彼女は朝高の番長・アンソン(高岡蒼佑)の妹だったのだ。
それでも諦め切れない彼は、彼女が演奏していた『イムジン河』をギターで練習し、帰国船で祖国に帰る決意をしたアンソンを祝う宴会の席で彼女と合奏し、見事、仲良くなることが叶うのであった。
しかしその一方で、アンソンたち朝高と東高空手部との争いは激化するばかり。
遂に、アンソンの後輩・チェドキ(尾上寛之)が命を落としてしまう。
悲しみの通夜に参列した康介は、遺族から日本に対する恨みをぶつけられ、未だ民族間に越えられない壁があることを痛感しショックを受ける。
だがその夜、ラジオの“勝ち抜きフォーク合戦”に出演した彼は、複雑な心境を放送禁止歌の『イムジン河』に託して熱唱。
果たして、それはキョンジャの胸に届き、同じ頃、東高空手部との戦争に臨んでいたアンソンもまた、恋人・桃子(楊原京子)の出産の報せに少年の季節が終わったことを自覚するのであった・・・。


寸評
70年代に青春を送った人間としては、冒頭のオックスのコンサート・シーンで引き込まれてしまうのだ。
彼等は演技でやっていたんだけれども、舞台で失神し、それに触発された観客の女の子達が相次いで失神するという事があり、そしてグループ・サウンズからフォークへと移り変わって行った時代だった。
ザ・フォーク・クルセダーズ(略してフォークル)の唄った「イムジン河」は発売中止、放送中止になったにもかかわらず非常に良く覚えている歌で、当時の自分の年齢や社会的状況が記憶させていると思う。

この映画における「イムジン河」が果たす役割は大きい。
南北統一の象徴でもあるが、日本と朝鮮との理解、引いては松山とキョンジャの恋の象徴でもある。
確かに日本人と朝鮮人との間には感情的な溝が厳然として存在しているのも事実で、その意味では松山とキョンジャの恋は、ロミオとジュリエットの悲恋に通じるものがあるし、ダンスナンバーを喧嘩に置き換えれば、キャッチコピー通りの日本版「ウエストサイドストーリー」なのかも知れない。
しかし、僕は複数のエピソードが密接に絡み合いながら進行して行く画面に引き寄せられた。
京都府立東高校と朝鮮高校の対立と喧嘩の数々、松山と坂崎との交流、朝鮮高校の番長・アンソンと恋人(楊原京子)の妊娠、そして松山とキョンジャの恋の行方などが途切れることなく展開される。

映画は在日のアボジ(笹野高史)が、「お前ら日本人は何も知らん」と叫ぶ辺りから抜群の盛り上がりを見せる。
この映画の中では、松山がキョンジャと丸山公園で「イムジン河」を演奏するシーンと共に非常に印象に残るシーンだ。
「生駒トンネルは誰が掘ったか知ってるか」「国会議事堂の石は何処から運ばれてきたか知ってるか」とたたみかけられ、松山が答えられずに茫然と去って行かざるを得ないシーンだ。

僕は生駒山の近くで育ったので生駒トンネルという単語が気になった。
僕の育った家は寝屋川の川べりにあって、当時は高い建物もなかったから、夜になると生駒山を近鉄電車の車内灯が一本の細い筋となって横切っていくのが見えた。
やがてそれは生駒トンネルに吸い込まれて消えていくが、夜目にはまるで空中を飛ぶ蛍のようだった。
1910年の「韓国併合」からわずか10ヶ月後に開始された旧生駒トンネルエ事の現場に朝鮮人労働者が従事し1913年1月26日午後、トンネル内部で大落盤事故が発生。労働者150人前後が閉じこめられ、20人が犠牲になったらしいのだが、祖母の話には朝鮮人労働者のことはなくて、トンネルに其の時の幽霊が出るらしいとの内容だったように記憶している。

いずれにしても、朝鮮人の日本人への感情を吐露したそのシーンが、そして鴨川を挟んでの大乱闘シーンが、ラストの微笑ましい光景を際立たせていたと思う。
乱闘は引き分けで終ったようだが、彼らにとって鴨川はイムジン河だったのかも知れない。
井筒監督作品としては喧嘩に明け暮れる、非常に元気の出る「岸和田少年愚連隊」が好きだけれど、その荒々しさが消えた分、より洗練された良質の青春ドラマを見せてもらったと思う。
KBSのディレクター役の大友康平など、出演シーンが少ない脇役陣がしっかりしていた印象がある。

ハッシュ!

2020-01-17 10:21:57 | 映画
「ハッシュ!」 2001年 日本


監督 橋口亮輔
出演 田辺誠一 高橋和也 片岡礼子
   秋野暢子 冨士眞奈美 光石研
   つぐみ 斉藤洋介 深浦加奈子
   沢木哲 岩松了 寺田農 加瀬亮

ストーリー
奔放なゲイライフを送るペットショップで働く直也ははっきりした性格だが少々怒りっぽい。
ゲイであることを周囲に悟られないように暮らしている土木研究所で働く勝裕。
良く言えば優しい性格だが実際には、日常の中で様々なことを感じていてもなかなかそれを表に出せない優柔不断な所がある。
偶然直也と勝裕は夜の街で出会い、一夜を共にしたことから付き合い始める。
ある日、二人の前に歯科技工士をしている朝子と言う女が現れる。
人と触れ合うことを諦め、愛の無いセックスを繰り返す日々を送っている彼女は、勝裕がゲイであることを知った上で、彼の子を妊娠したいと相談を持ちかけてきた。
幼くして父親を亡くしていた勝裕は、自分が父親になれるかもしれないことに興味津々。
一方、初めは激怒していた直也も彼女の真剣な態度に次第に理解を示し、やがて3人は子供を持つことに前向きに取り組んでいく。
ところが、勝裕に想いを寄せる同僚のエミの密告でそれを知った勝裕の実家の嫁が、精神科に通院歴のある朝子の血を栗田家に入れる訳にはいかない、彼女は家族を、そして子育てを軽く考えていると猛反対し大騒ぎとなってしまう。
しかし、その兄一家も兄の急死で敢えなく崩壊。
こうして従来の家族の在り方の儚さを目の当たりにした3人は、新しい家族の可能性を探って新たな一歩を踏み出していくのであった。


寸評
直也(高橋和也)と勝裕(田辺誠一)は「ゲイ」であり、朝子(片岡礼子)は結婚を望んでいないが子供だけは欲しいという女である。
特殊な人々を描いた作品のように思えるが、描かれている内容は普遍的なもので、特殊なだけにその問題が浮かび上がってくる文字通り”面白い”映画である。

前半は直也と勝裕のゲイライフが描かれる。
少しくどいと思われるが、ゲイの世界を知ってもらおうという意識が働いているのかもしれない。
橋口亮輔監督自身がゲイであることと無関係ではないような気がする。
彼らはゲイであること以外は全く普通の人間である。
直也の母(冨士眞奈美)はゲイとニュウハーフを混同していて笑わせる。
このことはゲイが普通の人間であることを示していた。
母親は離婚しているが直也がゲイであることを知っていて、息子の先々を心配している。
一方の勝裕の兄(光石研)は弟がゲイを秘密にしているのにそのことを感づいている。
「兄弟だから…」という肉親の感覚である。

血のつながっている彼等親子、兄弟の間に、赤の他人である勝裕の兄嫁(秋野暢子)が登場してくるとがぜん映画は輝きを増してくる。
兄嫁は姑にいびられた過去があり、兄との結婚生活も倦怠期を迎えているようだが、それは兄が自分たちが嫌っていた父親に似てきているせいでもある。
夫に召使のように扱われていた彼女が、勝裕の結婚をめぐって朝子に言い寄るシーンは一番盛り上がるシーンの一つとなっているのだが、それをワンカットで撮っている。
いわゆる長回しは随所で見られ、彼らが議論する場面ではその撮り方が多かったような気がする。
カットのつなぎで彼らの気持ち、ひいては作者の思いを我々に押し付けるような演出ではない。
長回しで撮ることで客観的な判断を我々自身にゆだねている。
上記の場面では亭主関白そうだった兄はオロオロするばかりで、勝子の剣幕に圧倒される。
兄嫁は朝子の過去の自殺未遂や二度の堕胎を非難して、あれほど嫌っていた栗田家に彼女の血を入れたくないという。
朝子は、手をつなぐ生活をしたい、明日への希望を持ちたいと言うのだが、彼らの家族観は全く違うのでかみ合わない。
一気の芝居で、出演者の奮闘に拍手を送りたいシーンで、特に秋野暢子の演技が素晴らしい。
家族は血のつながりによって維持されるものではない。
お互いに理解し合って触れ合うものである。
それがなかったから直也の母は離婚しており、勝裕の兄と兄嫁の間には隙間風が吹いているのだ。
特殊な関係である直也、勝裕、朝子にはそれがある。
鍋を突っつきながら、朝子がスポイトを直也と勝裕に渡すラストはその象徴なのだろうし、家族の在り方を問いかけるシーンでありながら、自分をノーマルと思っている僕には可笑しいシーンで、笑って映画を見終えた。