おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ウンタマギルー

2023-08-31 06:36:18 | 映画
「ウンタマギルー」 1989年 日本


監督 高嶺剛
出演 小林薫 青山知可子 平良進 戸川純 ジョン・セイルズ
   照屋林助 エディ

ストーリー
1969年、米軍統治下の沖縄では多数の日本復帰派と少数の現状維持派、沖縄独立派に分かれていた。
いずれにも属さないギルーは西原製糖所で働きながら、西原親方の養女で美人のマレーに思いを寄せていた。
ある晩ギルーはマレーを毛遊びに誘い出し、運玉森で情交にふけるが、他人の夢を見破るウトゥーバーサンに知られてしまった。
マレーが豚の化身であることを知ったギルーは親方の怒りを買い、槍で命を狙われることになった。
製糖所の放火魔の濡れ衣を着たギルーは娼婦で動物占い師の妹・チルーの手引きで、豚の種付け屋のアンダクェーと運玉森へ逃げ込んだ。
ギルーは妖精キジムナーの手で眉間に聖なる石を埋め込む心霊手術を受けて超能力をもらい、義賊となってウンタマギルーと名乗った。
ウンタマギルーは金縛りの術や液体浮遊の術で米軍倉庫や悪徳日本動物商会を襲い、沖縄独立派の喝采を浴びた。
散髪屋のテルリンはウンタマギルーの活躍を芝居にしようと考えた。
ウンマタギルーは親方に度々槍を投げられたが、うまくかわしていた。
ウンタマギルーは沖縄のヒーローとなり芝居にも出演するが、上演中客席にいた親方の槍が命中した。
月日は流れ、安里製糖所ではギルーと瓜二つのサンラーが働いており、マレーの姿もあった。
そんなある日、安里親方は作業員たちに沖縄の日本復帰を告げると、マレーを道連れにダイナマイトで無理心中したのだった。


寸評
沖縄の映画と聞くと沖縄戦を描いた作品だったり、沖縄返還後の基地問題を扱った作品を想像するが、「ウンタマギルー」は戦争が終わり沖縄が本土復帰を果たす直前の沖縄を描いた作品である。
しかも社会性を追求したものではなく、むしろ土着の風俗を前面に出したファンタジー作品である。
内容以上に土着と言う印象を強くするのは、話される言葉が聞きなれない沖縄の方言であり、意味は字幕によって我々に知らされるという形式をとっていることによる。

話は奇想天外なものだ。
ギルーは憧れていた美人のマレーと関係を持つが、マレーは西原親方が大事にしている豚の化身であったことを知ってしまう。
秘密を知られた西原親方はギルーの命を狙うが、ギルーは運玉の森へ逃げ込み木の精の妹を助けたことから、木の精である男から空中浮遊など"神の技"を伝授され、動物を操る能力も身につける。
義賊となったギルーは住民から慕われ自分をモデルとした芝居に出演するが、西原親方の投げた槍を頭に受けてしまうという訳の分からないものである。

おまけに彼を取り巻く人々も訳の分からない人ばかりだ。
ギルーにはチルーという霊感力の強い娼婦の妹がいるのだが、このチルーは米軍の高等弁務官に差し出されたところ彼に恋をしてしまうという変な女性である。
過食症の母親はサイのステーキ、バクの金玉スープ、アルマジロの甘酢がけが食べたいなどと意味不明なものを要求している(間違っているかもしれないし、他にもあったと思うが、あまりにも変なものなので記憶は不正確)。
極めつけは豚の化身であるマレーである。
豚の化身だけあって豊満な肉体である。
豚に戻った時は本当の豚が赤い毛氈の上に寝そべっているのだが、その姿を見るとマレーは本当に豚の化身に見えてしまうのだから、人の持つイメージとはおかしなものである。
そして盲目の西原親方は、ブタの精霊であるマレーの純潔を守ろうとして自らは去勢しているという男である。
ファンタジーには想像を膨らませた登場人物や動物が出てくるが、それにしても「ウンタマギルー」の登場人物は滅茶苦茶である。
これらの人々を受け入れられなければこの作品を見続けることはできないだろう。

印象に残るのは銃撃戦となった時にギルーが「アメリカでも日本でもない。琉球が故郷だ!」と叫んだシーンだ。
何だか中国が喜びそうな叫びだが、実際本土復帰に際して琉球として独立する案もあったようである。
僕は車がまだ右側通行だった頃に沖縄を訪れたことがあったが、幹線道路を外れた村での老人との会話や、目にする異文化でもって、沖縄はやはり本土とは全く別の土地なのだと思ったものだ。
琉球国は薩摩に支配され、中国にも貢物をする二重外交をやっていた国だと実感したのだ。
最後にマレーが吹っ飛んでしまうのは、沖縄が琉球国であった歴史をふっ飛ばした瞬間でもあったように思う。
本土に翻弄される沖縄というイメージがどうしても湧いてしまうのである。

麗しのサブリナ

2023-08-30 06:35:00 | 映画
「麗しのサブリナ」 1954年 アメリカ


監督 ビリー・ワイルダー
出演 オードリー・ヘプバーン ハンフリー・ボガート
   ウィリアム・ホールデン ジョン・ウィリアムズ
   フランシス・X・ブッシュマン マーサ・ハイヤー
   マルセル・ダリオ ウォルター・ハンプデン

ストーリー
富豪ララビー家のお抱え運転手の娘サブリナは、邸の次男坊デイヴィッドにほのかな思いを寄せていた。
しかし父は娘に叶わぬ恋を諦めさせようと、彼女をパリの料理学校へやる。
それから2年、サブリナは一分のすきのないパリ・スタイルを身につけて帰ってきた。
女好きのデイヴィッドは美しくなったサブリナにたちまち熱を上げ、自分と財閥タイスン家の令嬢エリザベスとの婚約披露パーティにサブリナを招待し、婚約者をそっちのけにサブリナとばかり踊った。
デイヴィッドの兄で謹厳な事業家ライナスは、このままではまずいとデイヴィッドをシャンペン・グラスの上に座らせて怪我をさせ、彼が動けぬうちにサブリナを再びパリに送ろうと企てる。
不粋のライナスにとって、サブリナとつきあうことは骨の折れる仕事だったが、計画はうまくいき、サブリナの心は徐々にライナスに傾く。
一緒にパリへ行くことになって喜ぶサブリナだが、ライナスは船室は2つとっておいて、いざとなって自分は乗船しないつもりだった。
サブリナはそのことを知って深く悲しみ、すべてを諦めてパリへ行く決心をする。
ライナスもまた自責の念にかられ、いつの間にか自分が本当にサブリナに恋していることに気づく。
サブリナ出帆の日、ララビー会社では重役会議が開かれていた。
ライナスはここでデイヴィッドとサブリナの結婚を発表するつもりだったが、怪我が治って現れたデイヴィッドは、ライナスとサブリナが結婚するという新聞記事を見せる。
そしてパトカーとタグボートを用意しているからサブリナの乗る船に急げ、と兄に言う。
すべてはサブリナとライナスの気持ちを察したデイヴィッドの計らいだった・・・。


寸評
「ローマの休日」に続いて可愛いオードリー・ヘップバーンが見られることが一番で、ビリー・ワイルダーがユーモアを交えて肩の凝らないおとぎ話に仕上げている。
折れてしまいそうな細身のヘップバーンが着こなすファッションが素晴らしく、オードリーが可愛さを振りまいていた絶頂期の作品だと思う。
スポーティなパンツ・ルックはこの作品以後サブリナ・パンツと呼ばれ、その呼び名は今になっても残っている。
当のサブリナ・パンツは、サブリナがライナスの居る社長室を訪れ、フランス仕込みの料理を作ろうとするシーンでわずかに披露されただけである。
それなのに細い体にぴったりとフィットしたパンツにその名を残したのだから、彼女のスタイルがいかに決まっていて恰好よかったかということだ。

サブリナは大富豪一家のお抱え運転手の娘なのだが、登場した時から一家との身分の違いを感じさせない優雅さを持っている。
渡仏前と帰国後のファッションとたたずまいの違いで、毛虫が蝶に変身していたことを表したかったのだろうが、オードリーが自然に発する天性の雰囲気はそんなことを表現することすら拒んでしまっている。
どんな格好をしていようがオードリーは可愛くてエレガンスなのだ。
彼女の可愛らしさを「ローマの休日」以上に前面に出そうとした作品なので、中身は濃くもなく深みもない。
サブリナがデイヴィッドからライナスに変身していく過程などは、はたして描かれていたのかと思うくらいのもので、サブリナのデイヴィッドへの気持ちってそんなに軽いものだったのかと思ってしまう。
せめて子供の頃にスケート場で後ろから支えてくれてキスをしてくれたのが、サブリナの記憶違いでライナスだったぐらいのエピソードは欲しかったところである。
女にだらしないけど陽気な弟のウィリアム・ホールデンから、実直で堅物そうなハンフリー・ボガートにサブリナの気持ちが移っていく様子が簡単に描かれていることが、この作品に明るさをもたらしているし、ロマンチックなショートストーリとして成功させているのだと思う。

サブリナは同じ使用人仲間から可愛がられている。
ララビー家の人々も良さそうな人たちで、こんな環境なら運転手の娘でもいいかなと思ってしまうし、僕が使用人の一員であってもサブリナを可愛がるだろう。
サブリナが帰ってきた時の出迎え方とか、パーティでサブリナを応援する様子などは実に微笑ましいものである。
おとぎ話的であり、貧しい育ちの娘の玉の輿物語としても十分に堪能できる。
そのあたりにおけるビリー・ワイルダーの演出は手慣れたものである。
そしてキャスティングであるが、オードリーの相手男性はなぜか相当年上である。
ライナスは「もしも10歳若ければ・・・」と言っているが、ハンフリーボガードはこの時、実年齢は50も半ばだ。
10歳若くったって年齢差はある。
若い男優を相手役に選ぶと現実過ぎて、おとぎ話でなくなってしまうためなのだろうか。
グレゴリー・ペック、ゲーリー・クーパー、フレッド・アステアなど、共演者は皆50代半ばの男優ばかりなのだ。
オードリーは若い女性のあこがれであり、おじ様たちのマスコットだったのかもしれない。

裏切りの街

2023-08-29 06:25:39 | 映画
「裏切りの街」 2016年 日本


監督 三浦大輔
出演 池松壮亮 寺島しのぶ 中村映里子 落合モトキ
   駒木根隆介 佐藤仁美 平田満

ストーリー
7月、フリーターの若者・菅原裕一(池松壮亮)は恋人・鈴木里美(中村映里子)と東京のアパートで同棲しながら“ヒモ男”として怠惰な生活を送っていた。
ある日他の女とエッチがしたくなった裕一はネットの出会い系サイトを通じて“トモ”と名乗る年上の女と会うため荻窪へと向かう。
お互いプロフィールを誤魔化して会った裕一と中年女性・橋本智子(寺島しのぶ)はしばらく会話をするが、それだけで満足した彼女は連絡先を教えて帰ってしまう。
智子には夫・浩二(落合モトキ)がおり、夫はいい人で夫婦生活に不満らしい不満もなく夜の営みもあったが、どこか物足りなさを感じていた。
1週間後、裕一は智子の携帯電話に連絡して再会すると、彼女は人妻であることを打ち明け裕一も恋人がいることを告げる。
3回目のデートで裕一と智子は男女の関係となり、時々里美と浩二に嘘をついて2人で会っては気軽に不倫を楽しむようになる。
9月、いつものように智子に会った裕一は、彼女から妊娠が発覚したが夫に内緒で堕ろすことにしたことを告げられて動揺する。
後日裕一は男のけじめとして智子の堕胎手術費用を出すと同時に不倫関係を終わらせることを告げ彼女もそれを受け入れる。
しかし帰宅後智子は、母子手帳を見つけた浩二に妊娠を知られて「俺の子生んでくれるよね?」と言われ、「堕ろす」とは言えずつい頷いてしまう。
実は数日前に智子のメールを覗いていた浩二は妻と裕一の浮気に気づいており、彼を街に呼び出すことに。


寸評
共同生活をしていても二人の間に秘密があることは当然である。
ホンネを語れば軋轢が生じることが分かっているので、取り繕いもするだろうし、黙っていることだってある。
それゆえに、そのことが判明した時には一悶着があるであろうことも想像できる。
どこかに不満を抱える二組の男女が繰り広げる秘密の行為が生々しく描かれていく。
始まりは里美と同棲している裕一の出会い系サイトへのアクセスである。
裕一は里美のヒモ的な生活を送っており、彼女から毎日2000円を貰っている。
里美はダメ男にそこまでするかと言いたくなるほど献身的である。
彼女の寛容さで維持されている関係のように見えるが、裕一は彼女とのセックスも煩わしく思うようになっているにもかかわらず都合よく関係を維持している。
見ているこちらがイライラしてくるほど里美は裕一への献身ぶりを見せているのだが、実のところ彼に対して不満を内在させていることが分かる。
その場面は強烈で、男性観客は女性の本心を知る思いがしてドキッとするであろう。

浩二と智子の夫婦間には隙間風が吹いていそうだが、二人は幸せを装っているように見える。
浩二は智子に自分に対して不満に思う事はないのかと聞くと、智子は不満などありませんと答えるのだが、二人の会話は白々しい。
智子は専業主婦としてテレビ番組を見て過ごしているようだが、どこかに満足できないものがあり、出会い系サイトを閲覧し投稿している。
浩二は智子に対しては優しいし、思いやりを持って接しているように見えるが、それもご機嫌取りであったことが判明してくる。
一方の智子も不倫を隠すために帰宅時には浩二の為に何かを買ってくる。
欺瞞に満ちた夫婦関係であるが、形の上で夫婦関係だけは維持している。
夫婦が円満に過ごすためには欺瞞とまではいかなくても、ある程度の装いは必要だと思うが、あまりにも希薄な夫婦関係である。
そのような関係が智子を不倫に走らせたのだろうが、出会い系サイトを通じて裕一と智子が関係を持つようになっていく過程がリアルに見える。

浩二と裕一が出会うシーンが面白い。
智子の妊娠を疑った浩二は裕一に智子とはいつからの関係だと問い詰める。
裕一は浩二の詰問に耐え切れず1ヶ月前からと嘘をつく。
浩二は安心して妊娠2ヶ月だから俺の子だと告げるが、裕一は自分の子供だと確信する。
そのやり取りも面白いが、浩二が裕一に語って聞かせる内容が予想を超える内容となっているのも面白い。
生まれてきた子供の血液型は整合性を持っていたのだろうか。
裕一と智子が再会するシーンは思わせぶりで上手い結末だ。
その後の四人の生活が目に浮かぶ。
この不倫騒動の一番の被害者は自ら招いたこととはいえ智子だったように思う。

海辺のリア

2023-08-28 06:27:18 | 映画
「海辺のリア」 2016年 日本

                 
監督 小林政広                 
出演 仲代達矢 黒木華 原田美枝子 阿部寛 小林薫

ストーリー
舞台に映画にと役者として半世紀以上活躍し俳優養成所を主宰する往年のスター、桑畑兆吉(仲代達矢)。
芝居をこよなく愛した彼も今や認知症の疑いがかかり、長女の由紀子(原田美枝子)とその夫であり兆吉の弟子だった行男(阿部寛)、さらに由紀子の愛人である運転手(小林薫)に遺書を書かされた挙句に高級老人ホームへ送られる。
しかし、ある日、兆吉は日施設を脱走する。
シルクのパジャマの上にコートを羽織った姿でスーツケースを引きずりながら、なにかに導かれるように海辺をあてもなくさまよい歩く。
すると、妻以外の女に産ませた娘・伸子(黒木華)と突然の再会を果たす。
兆吉に、は私生児を産んだ伸子を許せず、家から追い出した過去があった。
そんな伸子に、シェイクスピア作の悲劇「リア王」に登場するリアの末娘・コーディリアを重ねる兆吉。
兆吉の身にも「リア王」の狂気が乗り移る。
かつての記憶が溢れ出したとき、兆吉の心に人生最後の輝きが宿る・・・。


寸評
題名が示す通り、ウィリアム・シェイクスピアの「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」と並び四大悲劇と称させる「リア王」がモチーフとなっている。
作中でも語られるように、黒木華が演じる伸子は「リア王」における末娘のコーディリアが割り当てられている。
「リア王」における三女のコーディリアはリアに疎まれてフランス王妃に出されていたが、二人の娘に裏切られたリアを助けるため、フランス軍とともに英国に上陸するが、フランス軍は敗れ、コーディリアは捕虜となり獄中で殺されている。
一方の伸子は兆吉の正妻の子ではなく、さらに私生児をなしたことで兆吉と正妻の子である由紀子に家を追い出された過去を持つ境遇である。
娘に夫が絡んで父親をないがしろにするのは同じだが、ここではその娘は原田美枝子の由紀子だけである。
不倫相手の運転手・小林薫に悪女とつぶやかれるが、その悪女ぶりは極端なものではない。
やっていることは、遺書を書かせて老人ホームに放り込んで見捨てるというアクドイものなのだが、その経緯が描かれていないので僕は原田美枝子に悪い女としての感情移入が出来なかった。
その夫の阿部寛も結局は義父を裏切ることになるのだが、その苦悩もあまり伝わってこなかった。
義父の名は桑畑兆吉と言い、兆吉が「俺は黒澤さんの用心棒で三船さんが名乗る前から桑畑だったんだ」と叫んでいたのは楽屋オチ的で面白かった。
これは「用心棒」における主人公の三船が名前を尋ねられ、目の前に広がる桑の畑をみて「桑畑三十郎、もうすぐ四十郎だがな」とつぶやくことを指している。
もちろん「用心棒」における相手役は仲代達矢であった。
リア王の焼き直しなら、僕は同じ仲代達矢でも黒澤の「乱」の方がしっくりきた。

本作は中身がどうこう言うよりも、役者仲達矢の一人芝居的要素が強い。
黒木華、原田美枝子、小林薫、阿部寛といったビッグネームが果たして必要だったのかとさえ思ってしまう。
これは野外で行われた演劇なのだという印象を受けた作品だ。
とにかくカメラは動かない。
どっしりと正面に構え、パンすることはない。
役者はカメラに向かって走って来て、画面の左側へフレームアウトとしていくのだが、その間もカメラは正面に据えたまま動かない。
千里浜海岸で兆吉と伸子が語り合う場面なども、まるで舞台のセットを見るような構図で圧倒された。
その構図の中で二人が芝居を続ける。
この作品で一番存在感と雰囲気を出していたのは伸子の黒木華だったと思う。
動かぬカメラの前で認知症の兆吉を演じる仲代達矢が、フレームの端から端までを使って演技するのだが、フレームからはみ出すことはない。
その計算された動きに僕は感心した。
感心したもう一つは役者・仲代達矢の認知症によるボケ演技の滑稽さだ。
劇場を出る時にはその認知症としてのリアル感のない滑稽な演技しか印象に残っていなかった。

兆吉は最後で「私に、思い出などいらないのです。皆さんの中に、私の思いでさえあれば・・・」というが、いい作品を残せた俳優さんは幸せだ。
作品を見て皆がその人の生前をしのぶ。
限られた人たちだけでもいいから、自分もそんな人間でありたいと思う。
そして自分が認知症になっても、最後にあんな大芝居が打てたらいいなと、変な憧れを抱いた。

海辺の映画館―キネマの玉手箱

2023-08-27 06:49:51 | 映画
「海辺の映画館―キネマの玉手箱」 2019年 日本


監督 大林宣彦
出演 厚木拓郎 細山田隆人 細田善彦 吉田玲 成海璃子
   山崎紘菜 常盤貴子 小林稔侍 高橋幸宏 白石加代子
   尾美としのり 武田鉄矢 南原清隆 片岡鶴太郎
   柄本時生 村田雄浩 稲垣吾郎 蛭子能収 浅野忠信
   伊藤歩 品川徹 入江若葉 渡辺裕之 手塚眞 犬童一心
   根岸季衣 中江有里 笹野高史 本郷壮二郎 川上麻衣子
   満島真之介 大森嘉之 渡辺えり 窪塚俊介 長塚圭史
   寺島咲 犬塚弘 有坂来瞳 ミッキー・カーチス

ストーリー
尾道の海辺にある唯一の映画館「瀬戸内キネマ」が、閉館を迎えた。
嵐の夜となった最終日のプログラムは、「日本の戦争映画大特集」のオールナイト上映。
上映がはじまると、映画を観ていた青年の毬男(厚木拓郎)、鳳介(細山田隆人)、茂(細田善彦)は、突然劇場を襲った稲妻の閃光に包まれ、スクリーンの世界にタイムリープする。
江戸時代から、乱世の幕末、戊辰戦争、日中戦争、太平洋戦争の沖縄……3人は、次第に自分たちが上映中の「戦争映画」の世界を旅していることに気づく。
そして戦争の歴史の変遷に伴って、映画の技術もまた白黒サイレント、トーキーから総天然色へと進化し移り変わっていく。
3人は、映画の中で出会った、希子(吉田玲)、一美(成海璃子)、和子(山崎紘菜)ら無垢なヒロインたちが、戦争の犠牲となっていく姿を目の当たりにしていく。
3人にとって映画は「虚構(嘘)の世界」だが、彼女たちにとっては「現実(真)の世界」。
彼らにも「戦争」が、リアルなものとして迫ってくる。
そして、舞台は原爆投下前夜の広島へ――。
そこで出会ったのは看板女優の園井惠子(常盤貴子)が率いる移動劇団「桜隊」だった。
3人の青年は、「桜隊」を救うため運命を変えようと奔走するのだが……!?


寸評
大林宣彦監督の遺作として見ると感慨深いものがある。
大林監督らしい映像処理と途切れることないセリフが僕たちに襲い掛かる。
話はあってないようなもので、明治維新から太平洋戦争までの戦争体験がデフォルメされて描かれる。
まず感じ取れるのは大林監督の映画への愛である。
冒頭で「鴛鴦歌合戦」を髣髴させるシーンが展開される。
「鴛鴦(おしどり)歌合戦」は時代劇ながら、1939年制作の和製ミュージカルの傑作だ。
おやおやミュージカルかと思っていると、新選組を題材にチャンバラが始まる。
明治維新も国内戦争であり、近藤や土方、坂本龍馬や西郷隆盛もその犠牲者として描かれる。
狂言回しの三人は時に傍観者、時に当事者となって戊辰戦争、日中戦争、太平洋戦争、沖縄戦、原爆投下を目の当たりにしていく。
僕は戦後生まれで戦争を知らない。
彼ら三人と同じで、書物や映画でその実態を知っているだけだ。
映画館においては観客は傍観者なのだが、同時に映画は観客を描かれている内容に同化させ、自らを主人公になぞらえていく効果を有している。
映画を見ている僕たちは銃弾を受け血を流すことも、負傷してもがき苦しむこともないが、疑似体験を通じて平和への願望と実現に務めなければならない。
戦争を知らないと言うことはいいことなのだ。

作中で盛んに中原中也の詩が挿入される。
中原中也は30歳の若さで死去した詩人であるが、紹介される詩はどれもが心に響く。
また「無法松の一生」が語られ、松五郎を阪東妻三郎、三船敏郎、三国連太郎、              勝新太郎が演じ、高倉健もやりたがっていたと聞くだけで楽しくなってしまう。
そして阪東妻三郎版でよし子を演じたのが園井恵子で、映画では常盤貴子が演じている。
園井恵子は宝塚歌劇出身で退団の翌年に「無法松の一生」に出演したのだが、1945年8月6日に所属していた移動劇団「桜隊」が当時活動の拠点としていた広島市で原子爆弾投下に遭い21日に原爆症のため32歳で死去した。
そのことも描かれているのだが、日中戦争から太平洋戦争に至る戦争によってどれだけの才能が奪われたことかとの憤りが沸き起こる。
もちろん無名の一般国民はそれ以上の犠牲を強いられている。
それは望んだ死ではなく、強いられた死だったのだ。

ラストシーンで中江有里が未来を語る窓の向こうに宇宙が拡がり赤ん坊が漂ってくるのだが、僕はこのシーンに「2001年宇宙の旅」へのオマージュを感じたのだが、大林監督にはどのような意味を持っていたのだろう。
そしてエンドクレジットになるのだが、いやあ出てくる出てくる、一体どこに出ていたんだろうと思うくらい大林監督を敬愛する人たちが。
これが遺作で良かったと思った。

乳母車

2023-08-26 06:15:41 | 映画
「乳母車」 1956年 日本


監督 田坂具隆
出演 宇野重吉 山根寿子 芦川いづみ 新珠三千代 石原裕次郎
   森教子 杉幸彦 青山恭二 中原早苗 須藤孝 佐川明子

ストーリー
桑原ゆみ子(芦川いずみ)は父次郎(宇野重吉)に愛人のいることを友人から聞かされて愕然とし、翌日その愛人相沢とも子(新珠三千代)の家を訪ねた。
とも子は留守だったが、そこで弟の宗雄(石原裕次郎)に会い、父ととも子が互いに愛し合って現在の関係になったことを知る。
間もなくとも子は帰って来て、宗雄は寝ていた赤ん坊を乳母車に乗せて散歩へ。
ゆみ子と向い合ったとも子は「お母さまやあなたを愛していらっしゃるお父さまが好きだったんです。お父さまが家庭を壊すような方だったら、お父さまを好きになれなかったかもしれません」と述懐。
とも子の家を出たゆみ子は寺の境内で昼寝している宗雄のスキをうかがい不敵にも乳母車をさらってしまう。
その夜、ゆみ子は宗雄宛に「まりちゃんと私は血を分けあった姉妹であることをはっきり感じて、私は一生この子の味方になろうと、そのとき決心したのです」と謝り状を書いた。
母たま子(山根寿子)は、ゆみ子まで父の肩をもち、二号の家へ通っているのを知って、遂に実家へ帰る。
これを知ったとも子は次郎に二人の関係を解消しようと申出で、仕事を見つけて新生活へ。
ゆみ子と宗雄は、まり子を幸福にしてやるため次郎、たま子、とも子の三人を合せ、話し合いをさせることを企てるが、意外なところで三人が顔を合せたものの何ら解決を見せず、結局、とも子が会社に行っている間は、まり子を乳児院へ預けることになる。
夏休みの終りの日、ゆみ子は宗雄と乳児院へ行き、そして散歩に出た途中で「赤ちゃんコンクール」の立看板を見て応募し、まり子の両親になって審査にのぞんだところ見事三等入選となる。


寸評
原作者である石坂洋次郎の甘ったるい人間観が出ていたのだろうが、どうも都合よすぎる関係がしっくりこないが、健全な人たちによる明るい作品は石坂の目指したものでもあったような気がする。
石原裕次郎は前作の「狂った果実」で実質デビューを果たして強烈な印象を残しているが、本作はそれとはまったく異なる明るい好青年を演じている。
何本か主演した石坂洋次郎原作の映画化作品の最初の作品で、裕次郎に魅力の一面が出ているが、翌年公開された「嵐を呼ぶ男」によってそちらのイメージが強くなってしまった。
しかしそれまでの優男が主演する恋愛映画とは違う、等身大の若者を体で表現する新スターの登場をここでも印象付けている。

会社の重役である宇野重吉とその愛人の新珠三千代との間に生まれた子供をめぐって、愛人の弟である石原裕次郎と重役の娘の芦川いずみが奮闘する作品だが、見方を変えると女の自立物語でもある。
ゆみ子の母であるたま子は夫に愛人がいることを承知しているし、直接会ったことはないが何処に住んでいて、どのような人物であるのかも知っている。
彼女が見て見ぬふりをしているのは、今更家庭に波風を立てたくないことと、この家が居心地が良いからである。
金銭的にも恵まれた上流家庭に満足しているからであり、その地位を失いたくない打算的な気持ちがある。
愛人の相沢とも子は妻の座を取って代わろうとする気持ちなどはないが、欲した子供を産んで愛し愛されていればそれで十分だと思っている。
男の家には二人のお手伝いさんがいるし、愛人宅にもお手伝いさんがいる。
随分と恵まれた本宅と愛人宅である。
妻は夫の浮気、更に子供までいることで、愛人は男の家庭を壊してしまったことで、ついに男の呪縛から独立することを決意する。
それぞれが生活の糧として働かねばならなくなるが、それを享受しても自分の道を歩んでいこうとする。
男は女二人の意思をどうすることもできない。
関係者全員が集まって話し合う場面での男の言い分は、いくら謙虚に語ろうが余りにも都合よすぎるし、それを黙って聞いている女二人も物判りすぎないか。

ゆみ子の登場シーンは友人宅のプールで泳ぐ姿で、小さいながらも庭にプールがあるのだから裕福な家庭なのだろうし、彼等は当時としては超贅沢品である車を乗り回している。
ゆみ子の家は当然立派だし、愛人宅だって立派なもので、随分とブルジョア的な世界に住んでいる人たちだ。
男は女たち、子供たちに解決策を丸投げし、自分は淋しさをかみしめているとは言え自宅でクラシック音楽を聴いている。
帰ってきたゆみ子に「お前も行ってしまうのではないかと思った」とつぶやくが、どうも反感を覚える。
赤ちゃんコンクールでの入賞を祝って、関係者が一堂に会することをほのめかして映画は終わるが、何ともオメデタイ結末である。
皮肉れ者の僕としては、こんなハッピーエンドを見せられてもなあという気分なのだが、このような作品が世に送り出されていたころの世の中は、今の様な殺伐としたものではなかったのだと改めて思った。

美しき運命の傷痕

2023-08-25 07:27:31 | 映画
「美しき運命の傷痕」 2005年 フランス / イタリア / ベルギー / 日本


監督 ダニス・タノヴィッチ
出演 エマニュエル・ベアール カリン・ヴィアール マリー・ジラン
   キャロル・ブーケ ジャック・ペラン ジャック・ガンブラン
   ジャン・ロシュフォール ミキ・マノイロヴィッチ ギヨーム・カネ
   マリアム・ダボ ガエル・ボナ ドミニク・レイモン

ストーリー
夫の浮気に悩む長女ソフィ(エマニュエル・ベアール)。
身体の不自由な母の面倒をみて、孤独な日々を重ねる次女セリーヌ(カリン・ヴィアール)。
年の離れた大学教授フレデリックと不倫関係にある三女アンヌ(マリー・ジラン)。
彼女たちは、22年前に起きた悲劇によって父親を失った。
そしてその悲劇は、彼女たちの人生に強い影響を及ぼしていた。
ソフィは夫と愛人をホテルまで尾行して嫉妬に身もだえ、フレデリックから突然に別れを告げられたアンヌは、訪れた産婦人科で彼の急死を伝える新聞記事を読み、悲しみに震える。
ある朝、セリーヌは見ず知らずの男に通りで話しかけられるが、ふり切って家へと急ぐ。
22年前、教師をしていた父親と全裸の男子生徒が研究室で一緒にいるところを、母(キャロル・ブーケ)とセリーヌは目撃し、告発された父親は刑務所送りとなった。
出所して家へ戻って来た父を母は中に入れず、父は自殺したのだった。
そして、セリーヌに声をかけてきた男こそ、22年前にあの現場にいた男の子、セバスチャンだった。
その夜、家の向かいのカフェにセバスチャンの姿を見つけたセリーヌは、彼に話しかける。
彼は彼女に詩を詠む。
孤独だったセリーヌの心にかすかな変化が起こり、恋の兆しさえ感じ始める。
別の日、セバスチャンはセリーヌを訪ね、あの事件について告白をしようとする。
それは彼女たちにとって、思いもよらない真実だった。


寸評
タイトルバックから思わせぶりな映像が展開され、本編に入ると背景の赤茶色い映像が目を引く。
卵からかえったヒナが他の卵を巣の外に出そうとして自分が落ちてしまう。
可愛そうに思った男がヒナを巣に戻し立ち去ると、ヒナは他の卵を巣の外に押し出し、卵は落下して割れてしまうシーンが冒頭で描かれるのだが、それがこの映画を暗示しているのだと誰もが思うだろう。

三姉妹の物語ながら、三人が出会うことはラストまでないので、それぞれの独立した話となっているのだが、ベースには両親の離婚が横たわっている。
しかしそれが語られるのは最後の方なので、三姉妹が男に対していだく感情の出所が分かりにくく、僕はのめり込めないものがあった。

この映画は「愛」についての物語である。
長女ソフィは夫の浮気に悩んでいるのだが、浮気の夫を許すかどうか以前に、彼女が夫に対して愛情を抱いていたのか疑問がある。
夫の愛人ジュリーが「あなたは自分だけが大切なのよ」と言うが、ソフィも相手からだけ「愛」を求めている。
次女のセリーヌは老人ホームに入っている母親の面倒を見ているが、どうやら父親の事件で男性不振に陥っているようなのだが、同時に男性を求める気持ちもある複雑な女性だ。
訪ねてきたセバスチャンを避けながらも、やがて男女の関係を結ぼうと誘いをかける。
セリーヌのセバスチャンへの「愛」は独りよがりの一方的な「愛」である。
三女アンヌに至っては子供っぽい一方的に求めるだけの「愛」である。
親友の父であり師でもある男を愛し、結局親友も男も失ってしまう。

セバスチャンは重要なことを告白するが、許しを請う相手であるセリーヌには冷静なだけだ。
彼は「どうしてお母さんはお父さんを告発したの」などとセリーヌに問いかけるのだ。
セリーヌは「わからない、判断力がなかったのかもしれない」と答える。
僕は、母親はもともと父親を愛していなかったからだと思う。
妻は夫を嫌悪していて、関係を断ち切るきっかけを待っていたのではないかと思うのだ。
この映画で「愛」を感じさせる唯一の人物は、三姉妹の父親であるアントワーヌだ。
セバスチャンの告白から想像すると、父は事件に対して反論をしなかった。
公に自己弁護すればセバスチャンが傷つくことを憂慮したのだろう。
自己弁護すれば子供のセバスチャンに恥ずかしい告白を強要することをかばった優しさによる「愛」だ。
父の優しさは鳥のヒナを巣に戻す映像で映画冒頭に紹介されている。
アンヌは教授たちとの面接で王女メディアを語る。
僕は学生時代にパゾリーニ監督の「王女メディア」を見ていたので、彼女の語る王女メディア論は理解できた。
しかし、母の態度を王女メディアと同類に見ることなどできない。
後悔はないと言い切る母は、信仰もなく、愛する愛もない地獄の世界に居る。
その申し子が三姉妹なのだが、描き切れていたという満足感を感じられないフラストレーションが残る。

美しき諍い女(いさかいめ)

2023-08-24 07:14:51 | 映画
「美しき諍い女(いさかいめ)」 1991年 フランス


監督 ジャック・リヴェット
出演 ミシェル・ピッコリ ジェーン・バーキン エマニュエル・ベアール
   マリアンヌ・ドニクール ダヴィッド・バースタイン

ストーリー
画商ポルビュスは彼の旧友でかつての恋仇だったフレンフォーフェルの邸宅に新進画家ニコラとその恋人マリアンヌを招待した。
フレンフォーフェルは10年ほど前、妻のリズをモデルに描いた自らの最も野心的な未完の傑作「美しき諍い女」を中断して以来、絵を描いていなかった。
「美しき諍い女」とは17世紀に天外な人生を送った高級娼婦カトリーヌ・レスコーのことで、フレンフォーフェルは彼女のことを本で読み、彼女を描こうと試みたのであった。
ポルビュスの計らいでニコラとマリアンヌに出会ったフレンフォーフェルは、マリアンヌをモデルにその最高傑作を完成させる意欲を奮い起こした。
最初はモデルになることを嫌がったマリアンヌは、ニコラの薦めもあって5日間で完成させることを条件にしぶしぶ了承する。
だがフレンフォーフェルの要求は彼女の考える以上に苛酷なもので、肉体を過度に酷使する様々なポーズを要求され、さらには彼女の内面の感情そのものをさらけ出すことを求められる。
だが、フレンフォーフェルは描き続けるうちに自信をなくしはじめ、逆にマリアンヌが挑発して描かせるようにもなっていく。
画家とモデル、2人の緊張関係は妻のリズやニコラを含めた2組のカップル全体に微妙な緊張をもたらし、ニコラのもとにやって来た妹ジュリアンヌも加わりさらに拍車がかかる。
やがて長い闘いの果てにフレンフォーフェルはついに絵を完成させるが、誰の目にも触れさせないように壁の中に埋め込んでしまい、代わりの絵を一気に描き上げた。
真の「美しき諍い女」を見たのはフレンフォーフェル以外には、アトリエを覗いたリズだけであった。
次の日、代わりの「美しき諍い女」のお披露目が行われた。
緊張感も和らぎ、2組のカップルにポルビュス、ジュリアンヌも加わり祝いのワインが開けられた。
それぞれの思いを永遠に胸に秘めながら…… 。


寸評
この内容で4時間を引っ張るのがスゴイとしか言いようがない。
絵を描くとはこういうことなのかと知らしめてくれる。
特に前半はその世界を知らない僕に疑似体験を強いているような内容である。
延々とデッサンが続けられ、紙の上を走るペンの刻むようなガリガリという音や木炭を走らせるザッザッという音が繰り返される。
画家にとってモデルはかけがえのない存在なのだろう。
画家がモデルのポテンシャルを高めて内面を引き出そうとし、モデルが徐々にそれに同化していく過程を示すための時間として、延々と同じようなシーンが続く。
その間に何も起きないのだが、時間だけは過ぎていく。
退屈とも言えるこの時間を支えているのは、画家の前に立つマリアンヌを演じるエマニュエル・ベアールの美しいヌード姿である。
惜しげもなく裸身をさらす彼女の姿こそが芸術と言えそうだ。
画家とモデルの対決は「アマデウス」におけるモーツアルトとサリエリの如くである。
やがて支配者が画家からモデルへと逆転していく。
第一部の大半は、画家の狂気に近い絵画への思い入れによってマリアンヌが変貌していく過程が描かれているのだが、そのラストにおいてリードしていたはずの画家とそれに従っていたはずのモデルの到達地点が逆転してしまうのだ。

第二部に入り妻のリズが「彼があなたの顔を描きたいと言い始めたら、断わったほうがいい」とマリアンヌに忠告をする場面が出てくる。
マリアンヌはその忠告を拒否し、画家が妻をモデルにした未完の『美しき諍い女』のカンヴァスに描かれた妻の顔を塗り潰す場面へとつながっていくのだが、画家にとってモデルに適任と認めた女性の顔とは何であったのだろう。
画家は、マリアンヌをモデルにしながらも『美しき諍い女』のなかにずっとリズの幻影を観続けていたのだろう。
画家は完成した『美しき諍い女』を閉じ込めてしまうが、その前に秘かに絵を見ていたリズはサインをつけておく。
画家はそれを発見し、リズがその絵を見たことを知る。
リズは「すばらしい絵だったし、あなたのとった行動は正しかった」と告げる。
画家とリズの間にあった溝は絵の完成によって埋められたのだろう。
同時にマリアンヌは自己の内面にあった感情を取り戻し自らの道を歩むことが出来るようになったのだろう。
しかしそのことはニコラとの決別を意味していたのだと思う。
何が起きるでもなく、登場人物たちの内面を描き続けた4時間を飽きもせずに見続けた僕自身にも感心する。
ドラマを期待する者には拷問的な作品だ。

美しい夏キリシマ

2023-08-23 07:05:13 | 映画
「美しい夏キリシマ」 2003年 日本  

                   
監督 黒木和雄                 
出演 柄本佑 小田エリカ 原田芳雄 左時枝 石田えり 香川照之
   中島ひろこ 牧瀬里穂 平岩紙 倉貫匡弘 寺島進 山口このみ

ストーリー
舞台は1945年、終戦直前の夏の霧島。
中学三年の日高康夫(柄本佑)は、厳格な祖父・重徳(原田芳雄)と祖母・しげ(左時枝)の元で暮らしている。
15歳の日高康夫は、動員先の工場で空襲に遭い、親友を見殺しにしたという罪の意識から、毎日をうつうつと過ごしていた。
元陸軍参謀だった厳格な祖父は、そんな康夫を非国民とののしるが、大人たちの間にも混乱の空気は広がりつつあった。
戦争も末期を迎え、南九州の霧島地方では、敵機グラマンが田園を横切り悠々と飛んでいく。
そんな中で康夫の叔母の美也子(牧瀬里穂)は、特攻隊の愛人と最後の逢瀬を交わし、小作人のイネ(石田えり)は、村の駐屯兵(香川 照之)と死に物狂いの関係をもつ。
そんなある日、康夫は思い切って、死んだ友の妹・波(山口 このみ)に会いに行く。
一度は追い返された康夫だが、再び許しを乞いに訪れた時、波からある命題をつきつけられる・・・。


寸評
描かれているのは、15歳の少年と、彼を取り巻く人々の戦争中の日常生活である。
戦争末期の不安な世情の中で誰もが必死で生きている。
そんな混乱の空気の中、康夫は少年の持つ純粋さゆえに苦悩している。
冒頭で主人公に灸を据えている男に言わせているように、康夫の心と体がしっくりいっていない思春期の少年の姿を描いている。
何とかという蝶々が少年のふわふわとした心を象徴しているように登場する。

多分、その頃の日本は混乱を起こし始め殺伐たる雰囲気が出ていた時期だと思うのだが、この映画に描かれる地方はのどかな雰囲気を残し、戦争の緊迫感を感じさせずどこか牧歌的である。
沖縄が陥落し、九州地方には連日のように米軍機が飛来するが、工場もなければ対空攻撃の設備もないこの地域を米軍は完全に無視し、康夫が友人と「馬鹿にしている」と語り合うほど上空を編隊を組みながらゆっくりと飛行していくだけなのだ。

それでも戦前の封建的な制度は残っていて、地主と小作人の世界があり日高家とイネの関係が描かれ、周囲のすすめに逆らえず義足の帰還兵(寺島進)のもとに嫁ぐ奉公人のはる(中島ひろこ)などが描かれる。
それが康夫を取り巻く人間関係の中で、康夫に好意を寄せるイネの娘で奉公人のなつとの微妙な感情や、なつの弟・稔(倉貫匡弘)との屈折した関係として巧みに描かれている背景ともなっていて構成が巧みだ。
それに従姉の世津子(平岩紙)などが絡んだりして、色んな関係の人々が登場するけれど、描かれる内容はあくまでも終戦直前の日常なのだ。
戦争映画に付き物の悲惨な殺人もないし、銃撃戦もない。

その日常性は、戦争を知らない僕が母から聞いていた内容とダブル内容で、非情にリアリティを感じた。
大阪空襲は遠目に見ていたらしいが、田園地帯で百姓をしていた生家辺りは爆撃を受ける事はなく、遊び半分の米軍機の低空飛行に震えたことがあったという程度である。
追われて逃げ込んだ部落の端の米田さん宅には防空壕がなくて怖かったと話していた。
戦時中も終戦後も食べ物に困った事などなかったとも話していた。
工場地帯や都会は悲惨だったのかも知れないが、田舎は昔ながらの生活を続けていたのだと思う。
唯一、行軍訓練の兵隊が足を腫らして家の前を通るので、冷たい井戸水を足元に掛けてあげると喜んだなどという話に戦争を感じた記憶がある。

しかし、共に戦時中を生き、そばにいた人を助ける事が出来ず、結果的に見捨てたという自責の念には特別のものが有るのだろう。
その経験がない自分には正確に理解できない感情だが、特攻隊の生き残りとか、この康夫に見られる友を見捨てた気持ちなどは負の遺産として心に深く巣食うのかも知れない。
このモチーフは「父と暮せば」にも受け継がれていて、そちらでは父を見捨てた罪の意識に苦しむ娘の感情が描かれていた。
その気持ちの終焉として竹やりで米軍に突っ込ませたのだと思うし、今まで全く聞かなかった銃声を一発聞いた康夫が気絶するラストは現実の戦争と時代の終末と変化を康夫に認識させ、その後の康夫の変化と立ち直りを僕は感じ、小作人のイネが自分の家を燃やし、稔と意気揚揚と旅立つ姿と合わせて何だかほっとした。

家へ帰ろう

2023-08-22 06:13:39 | 映画
「家へ帰ろう」 2017年 スペイン / アルゼンチン


監督 パブロ・ソラルス
出演 ミゲル・アンヘル・ソラ アンヘラ・モリーナ
   オルガ・ボラズ ナタリア・ベルベケ
   マルティン・ピロヤンスキー ユリア・ベーアホルト

ストーリー
アルゼンチン、ブエノスアイレスで子どもたちや孫に囲まれ、家族全員の集合写真に収まる88歳のユダヤ人の仕立屋アブラハム。
翌日、彼は長年住んだ家を離れて老人施設に入ることになっていた。
しかしその夜、家族の誰にも告げずに家を出ていく。
向かう先は、ホロコーストの忌まわしい記憶から彼が決してその名を口にしようとしない母国ポーランド。
アブラハムは、第2次大戦中にユダヤ人である彼を匿ってくれた命の恩人である親友に、最後に仕立てたスーツを届けに行こうとしていたのだった。
しかしその親友とは70年以上も会っていなかった。
アブラハムはナチスドイツから受けた迫害を思い起こして絶対にドイツの地は踏むまいと心に決めていた。
しかし飛行機でマドリッドに降り立った彼は、そこから列車でポーランドに行くためには、あのドイツを通らなければならないと知る。
頑固一徹の彼にとって、ホロコーストを生き延びたユダヤ人の自分が、たとえ一瞬でもドイツの地を踏むなどということは、決して受け入れられることではなかった。
飛行機で乗り合わせた青年、マドリッドのホテルの女主人、パリからドイツを通らずポーランドへ列車で訪れることができないかと四苦八苦するアブラハムを助けるドイツ人の文化人類学者など、旅の途中で出会う人たちはアブラハムの力のなろうと自然体で受け入れ手助けする。
しかし、いたるところで難題に直面し、すっかり途方に暮れるアブラハムだった。
果たしてアブラハムは親友と再会できるのか?
人生最後の旅に奇跡は訪れるのか・・・?
 

寸評
ホロコーストを扱った作品は数多くあるが「家へ帰ろう」はちょっと違った視点から描かれている。
戦後70年も経っているが主人公には当時の迫害の記憶を消すことができない。
その象徴として主人公に迫害を受けた国であるポーランドという国名を決して口にしないことを課している。
ポーランドを相手に伝える時は国名が記載されたメモ用紙を見せる徹底ぶりである。
またホロコーストを行ったドイツの土地を決して踏まないという決意もさせている。
彼らユダヤ人はナチスドイツによって腕に刻印されており、その刺青は今も消すことができないでいる。
主人公には非常に重い背景があるのだが、描かれ方はむしろユーモアにあふれた軽妙感がある。
冒頭で老人施設に入る予定のアブラハムが家族全員の集合写真を撮ってもらおうとしているのだが、孫の一人が写真が嫌いだからと言って加わろうとしない。
なんとか説得して全員の集合写真を撮ろうとするアブラハムと孫娘のやり取りが笑わせる。
軽妙なやり取りは孫娘にとどまらず、旅の青年、宿屋の女主人たちとの会話においても発揮され、思わず笑みがこぼれてしまうシーンが多く用意されている。
しらじらしい挨拶などできないと言ったために疎遠となっていた娘とのやり取りも同様である。
華族に見放されたような感があるアブラハムは娘に、自分を疎遠にするから家を売った後の財産分けにありつけなかったのだと悪態をつくが、娘はしっかりと分配を受けていたという顛末である。
アブラハムは家族と別れて施設に入る淋しい境遇の老人だが、妻や子供たちはしっかりと交流しているということがうかがえる。
アブラハムは思いやりのある老人だが、彼の口から出る言葉は気持ちとはかけ離れた皮肉に満ちたものである。
その為に家族を初め多くの人から敬遠されているのではないかと想像できる。

彼の悪態はタクシーの運転手に始まり、チケット購入時やら、飛行機で乗り合わせた青年とのやり取りでも発揮されるのだが、その言っている内容は含蓄のあるもので唸らされる。
彼の態度はヨーロッパの玄関口の一つでもあるスペインのマドリッドの入国審査時にも変わることはない。
アブラハムは父と叔父を目の前で射殺され、妹は誕生日が1ヶ月ばかり早かったためにナチに連れ去られて虐殺されていると言う境遇である。
彼自身も拷問を受け死の行進から逃げ延びたのだが、その時の後遺症で今も足が不自由で足を切断しないといけないという肉体的ハンデを背負っている。
回想的にそれらのシーンが挿入されるが、主人公の軽妙な会話によって暗い作品とはなっていない。
彼はいろんな人の助けを受けながら旅を続けるが、キーとなるのはやはりドイツ人の文化人類学者だろう。
戦後生まれの彼女はドイツの過去を恥じているし、ホロコーストの事実を歴史の中で学んでいるが、その実態を目の当たりにしたわけではない。
彼女はアブラハムの語る事実に改めて驚愕する。
しかし、ユダヤ人がドイツ人をいつまでも恨んでいても未来はないのだ。
戦争がもたらした悪夢としてお互いに理解し合わないと再びの平和はない。
最後に抱擁して別れる姿にユダヤ人とドイツ人の和解を感じさせた。
そして最後はやはり泣けたし、泥棒以外に悪い人が出てこなかったのも良かったように思う。

失われた週末

2023-08-21 06:52:34 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/2/21は「男はつらいよ 望郷篇」で、以下「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」「大人は判ってくれない」「お引越し」「ALWAYS 三丁目の夕日」「俺たちに明日はない」と続きました。

「失われた週末」 1945年 アメリカ


監督 ビリー・ワイルダー
出演 レイ・ミランド ジェーン・ワイマン フィリップ・テリー
   ドリス・ダウリング ハワード・ダ・シルヴァ フランク・フェイレン

ストーリー
ドン・バーナムは33歳、大学時代から小説家になるつもりで、中途退学してニューヨークに飛び出してきたのだが、学窓の天才も世に出てはいっこうに小説が売れない。
焦慮をまぎらそうと一杯の酒を飲んだのが諸悪の始まりで、アルコール中毒になってしまったらしい。
弟思いの兄ウイックのアパートで兄弟は二人暮らしだが、十日ほどの酒びたりからやっと目覚めた弟を、ウイックは田舎へ連れて行って週末4日間なりとも健康生活をさせようと企画する。
出発の準備の最中、ドンの恋人ヘレンが訪ねて来る。
飲んだくれたドンは時間に遅れ、ヘレンに会わないようにしてアパートへ帰る。
兄は怒って、一人で田舎へ行ってしまった。
翌日、朝からナットの酒場へ行き、ドンはヘレンとの恋物語を始める。
そしてドンは、帰ってヘレンに贈る小説を書き始める。
タイトルは「酒びん」としたが、しかし後は一行も書けず、酒は飲みたし、金はなし… そしてドンは・・・。


寸評
僕もお酒は好きだがアルコール中毒ではない。
通称アル中と呼ばれるアルコール依存症の症状として、アルコールが抜けると神経のバランスが崩れて手の震えや幻覚などが出現する離脱症状などがあるらしく、本作でも小動物の幻覚症状が描かれている。
呑べえの主人公が活躍する作品は数多くあり、主人公は弁護士、保安官、刑事など社会的地位の高い人であることが多い。
しかしそんな映画の主人公は酒好きで、酒が手放せないがアル中ではない。
本作は珍しくアル中の作家が主人公である。
アル中を描いた作品として、日本映画では2010年東陽一監督の「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」などが思い浮かぶが、「失われた週末」は東作品ほどの壮絶さはないが、アル中患者のどうしようもない行動が巧みに描かれていて興味深い。

ドン・バーナムはアルコールが無くなると落ち着かなくなり、何とかして酒を手に入れようと、その事ばかりに神経が行ってしまう。
スタンド・バーに行く金がないので、ハウスキーパーをだまして金の在りかを聞き出してバーに行く。
持ち金が少ないことに気付いたドンは、隣の女性のバッグから金を盗もうとする。
挙句の果ては酒屋の親父を脅かして酒瓶を巻き上げる始末である。
これでよく警察沙汰にならないものだと思う。
女性は「バッグが戻ればいい」と言っているが、酒屋の親父は警察を呼んでもいいだろうにと思う。

ドンを支えるのは兄のウイックと恋人のヘレンなのだが、特にヘレンの献身ぶりが尋常ではない。
ヘレンの献身は壮絶なものではないが、彼を何とか立ち直らせようとする姿が一途である。
いい加減に彼を見限っても良いようなものだが、彼にひどい仕打ちを受けても彼を愛し続けている。
二人のなり染とその後の出来事が回想形式で描かれ挿入されるが、ドンが回想する形をとっており描き方は自然なもので取ってつけたようにはなっていない。
このあたりはビリー・ワイルダーの上手さもあると思う。

ついにドンは自ら命を絶つことを決断するが、自宅に戻って自殺を決行しようとするまでの描き方はサスペンス性もあって面白く仕上がっている。
その割にはドンがアル中から立ち直り、アル中の自分をモデルにした小説を書く意欲に目覚めるくだりは唐突過ぎて、僕は拍子抜けしてしまった。
上映時間の制約があったのなら、途中のエピソードを削ってでも、立ち直るきっかけと、立ち直る様子はじっくり描き込んでも良かったのではないか。
アル中から抜け出すのは大変なことだと思うのだが、ラストシーンを見ると随分と簡単に抜け出せてしまうのだなあと思ってしまう。
窓の外に吊り下げられたウィスキーの瓶から入る冒頭のシーンから始まり、ラストシーンも同じシーンで終わる描き方はビリー・ワイルダー演出を感じさせ小粋である。

浮草

2023-08-20 07:34:11 | 映画
「浮草」 1959年 日本


監督 小津安二郎
出演 中村鴈治郎 京マチ子 若尾文子 川口浩 杉村春子 野添ひとみ
   笠智衆 三井弘次 田中春男 入江洋吉 星ひかる 潮万太郎
   浦辺粂子 高橋とよ 桜むつ子

ストーリー
志摩半島の西南端にある小さな港町の相生座に何年ぶりかで嵐駒十郎一座がかかった。
座長の駒十郎(    中村鴈治郎)を筆頭に、すみ子(京マチ子)、加代(若尾文子)、吉之助(三井弘次)など総勢十五人、知多半島一帯を廻って来た一座だ。
駒十郎とすみ子の仲は一座の誰もが知っていた。
だがこの土地には、駒十郎が三十代の頃に子供まで生ませたお芳(杉村春子)が移り住んで、駒十郎を待っていて、その子・清(川口浩)は郵便局に勤めていたが、お芳は清に駒十郎は伯父だと言い聞かせていた。
駒十郎は、清を相手に釣に出たり将棋をさしたりしていたが、すみ子が感づいた。
妹分の加代をそそのかして清を誘惑させ、せめてもの腹いせにしようとした。
清はまんまとその手にのった。
やがて、加代と清の仲は、加代としても抜きさしならぬものになっていた。
客の不入りや、吉之助が一座の有金を持ってドロンしたりして、駒十郎は一座を解散するハメになった。
衣裳を売り小道具を手放して僅かな金を手に入れると、駒十郎はそれを皆の足代に渡して一座と別れ、お芳の店へ足を運んだ。
永年の役者稼業に見切りをつけ、お芳や清と地道に暮そうという気持があったのだが、事情は変った。
清が加代に誘われて家を出たまま、夜になりても帰って来ないというのだ。
駅前の安宿で、加代と清は一夜を明かし、仲を認めてもらおうとお芳の店へ帰って来た。
駒十郎は加代を殴り、清は加代をかばって駒十郎を突きとばした。
お芳はたまりかねて駒十郎との関係を清に告げたので、清は二階へ駆け上った。
駒十郎はこれを見、もう一度旅へ出る決心がついた。
夜もふけた駅の待合室、そこにはあてもなく取残されたすみ子がいた。


寸評
大衆演劇の小屋は大阪界隈でもあちこちに出来たが、当時は一座が地方の場末劇場を回っていて、チンドン屋よろしく演目ビラを配っていた。(チンドン屋=鐘と太鼓や三味線などでお囃子を入れて宣伝ビラをまく商売)
子供の頃に、その後ろをついて回りビラをもらった記憶がかすかに残っている。
駒十郎一座はそんな劇団で、郷愁をそそるような漁村の様子と、団員達の生活ぶりに昭和の中頃を思い出す。
小津のカメラはいつも通りのローアングルで人々を映し出し、ドサ回りの世界を丁寧に活写する。
部屋から見た庭の様子や、お芳がやっている一杯飲み屋の入口、劇場の入り口などの同じショットが、これまたローアングルで挿入されて作品に落ち着きを醸し出す。
全体的に落ち着いた雰囲気の映画なのだが、駒十郎が子供を産ませたお芳のもとを訪れた時の、お芳とその息子・清と交わす会話シーンにおけるカット割りはものすごく速い。
言葉を発する人の顔をアップで捉えて画面が次々と切り替わる。
このカット割りは、実は息子である清への照れ隠しの様なものを表していたのだろうか?
僕には小津安二郎はそんなカット割りをする人だというイメージは全然なかったので、始まってすぐのこのカット割りに面喰った。
小津の撮る構図はガチっと固まっていて小道具一つの配置場所まで計算されているような感じを受ける。
駒十郎とすみ子が激しい雨の中で言い争いを繰り広げる場面の赤い傘が画面を引き締めてしびれるショットだ。
使用したアグファカラーというフィルムは赤色の再現度が高いので、小津はこの赤を意識したと思う。

話はユーモアを交えながら進んでいくが、中村鴈治郎はこんな役をやらせると上手い。
上手いというか他の映画でも見せるハマリ役である。
劇団員のすみ子と出来ているが、それはお芳と別れた後のことだったようだ。
当然、すみ子はお芳と清の事を知らない。
駒十郎と夫婦同然のすみ子は漁村なんかにやってきた駒十郎の目的を知って怒る。
駒十郎はそのことを責められて「実の息子に会いに行って何が悪い」と開き直る。
ドサ回り役者の身勝手な振る舞いなのだが、中村鴈治郎の駒十郎は憎めない。
実に調子よく楽天的で、その笑顔でもって人々を魅了してしまうような所がある男だ。
実の父であることを隠した駒十郎と清の会話などは実に微笑ましいものがある。

駒十郎は劇団員の加代と出来てしまった清のことを、自分もお芳とそうなったことを指して「蛙の子は蛙や」と自嘲気味につぶやく。
役者稼業は女に目のないことを団員の男たちが幕間から観客の女性を物色するシーンで僕達に知らしている。
駒十郎がお芳にすみ子のことを「ちょっと出来てしもてん」と照れ笑いしながら告白する軽さなのだ。
それなのに駒十郎とすみ子は切っても切れない仲になっている。
すみ子はヤキモチから大喧嘩をしてしまったが、それも駒十郎に惚れこんでいたからで、この腐れ縁的な関係は「夫婦善哉」における柳吉と蝶子のようで、すみ子の京マチ子はいいわあ…。
鴈治郎 も京マチ子も役にはまった煙草の吸い方が上手い。
タバコが嫌われてきて、こんな吸い方が出来る人が少なくなってくるかもしれない。

ウォール街

2023-08-19 07:52:20 | 映画
「ウォール街」 1987年 アメリカ


監督 オリバー・ストーン
出演 マイケル・ダグラス チャーリー・シーン ダリル・ハンナ
   マーティン・シーン ハル・ホルブルック テレンス・スタンプ
   ショーン・ヤング シルヴィア・マイルズ ジェームズ・スペイダー

ストーリー
若き証券セールスマン、バド(チャーリー・シーン)は、貧乏人から巨万の富を築いた成功者ゲッコー(マイケル・ダグラス)をいつか追い抜こうという野望に燃えていたが、今はゲッコーと5分間の面会時間をとるのに数カ月もかかるほどの立場の違いが生じていた。
バドはブルースター航空に技師として働く労働者階級の父から会社の経営状況に関する情報を入手し、それをゲッコーに流した。
彼はバドをすっかり気に入り、バドの証券会社を通して取り引きするようになった。
バドが流したインサイダー情報を利用した取引は違法行為だが、莫大な報酬を手に入れたバドは成功の甘い香りに酔っていた。
ゲッコーの家で行なわれたパーティーで、バドはインテリア・デザイナーのダリアン(ダリル・ハンナ)と知り合い恋におちた。
実はゲッコーが彼女のパトロンだったが、彼は2人を結びつけ同棲させた。
ゲッコーはブルースター航空を乗っ取るべく組合員を懐柔しようとしたが、バドの父(マーティン・シーン)は拒否、父子で激しく喧嘩した。
ゲッコーの狙いは、バドを傀儡社長として送り込み、会社を解体し、合併会社に買いとらせようというもので、会社を再建するつもりなど毛頭なかった。
バドはやっと自分がゲッコーに利用されていることに気がついが、その時に父が心臓発作で倒れた。
労働の喜びとともに誠実に生きた父を見たバドは、自分のあさましさに気づき、ブルースター航空会社を組合つきでゲッコーのライバル、ワイルドマン(テレンス・スタンプ)に買い取ってもらう交渉を行うのだが・・・。


寸評
僕は株式投資を行っていないので株取引の実態が分かっていない。
しかしインターネットが普及し、証券会社を通じた売買からネット証券を利用した取引が増加しているのは分かる。
人を介在しないから手数料が安いし、何よりも秒単位での売買が可能だ。
パソコンソフトを利用し、何台ものパソコンで売り買いを行っている個人投資家もいるようである。
しかし株価を動かしているのはゲッコーのような莫大な資金を有した投資ファンドであったり投資家だろう。
資金があれば大量の空売り、空買いも仕掛けられるのは想像がつく。
安く買いあさって値を釣り上げ、高いところで売り抜けるのはマシなほうで、インサイダー取引で利益をむさぼる、あるいは株買い占めによる買収後に会社を解体売却するなどは、一般投資家や従業員を欺く行為だ。

ここでもバドは父親から得たインサイダー情報をゲッコーに漏らして利益を得ている。
情報こそが株式投資の命で、その情報を得るためにバドは清掃員になって事務所に忍び込んでいる。
金の為なら犯罪行為もいとわないというこの世界に巣くう異常な人間模様である。
描かれているのは法を破るウォールストリートの犯罪者達で、主人公は辛うじて踏みとどまったという内容だが、垣間見えるのは利益と富の追及は悪ではなく、問題はそれを分配する社会的仕組みと道徳なのだということ。
ゲッコーは会社乗っ取りを策して、株主総会で筆頭株主として演説し、「人間にはあらゆる欲があり、その欲を追及するという姿勢が活力を生み世の中を発展させる」と述べる。
そして、欲の追及で得た利益を皆さんに分配すると宣言し支持を受ける。
経営者は高給で副社長も大勢いるからゲッコーの指摘は間違いではないし、主張そのものも納得できる。
ここでは敵役であるはずのゲッコーに、もしかするとそれがオリバー・ストーンの主張かもしれないと思われるような内容を語らせているのが面白い。

会社は誰のものか?
一義的には出資者である株主のものであろう。
起業者の会社あるいは同族会社なら、会社は経営者のものという感覚があるかもしれない。
従業員にも自分たちの会社という意識があるだろう。
やはり会社は株主、経営者、従業員という三位一体なのだろう。
この三者の中では経営者(社長)の地位が一番不安定だ。
この映画でも社長として送り込まれたバドが一番在任期間が短かった社長として切り捨てられている。
最も弱いと思われる従業員がいなくては会社は運営できない。
経営者の代わりはいても従業員の代わりは居ないのである。
その代表として組合の委員長がいて、バドの父親はその一人で正義の代弁者である。
バドはインサイダー取引容疑で逮捕されるが、証券取引委員会の面々に密かに録音していたゲッコーとの会話テープを渡し「君は正しいことをした」と告げられる。
後日、退院した父の車で送られながら裁判所に向かうバドの姿は奈落の底へ落ちるのを踏みとどまったことを伺わせるが、どうもマイケル・ダグラスのゲッコーに金の亡者に対する憎しみが湧いてこない。
この感覚がこの作品を通俗作に甘んじさせているのだと思う。

ヴェラ・ドレイク

2023-08-18 06:33:08 | 映画
「ヴェラ・ドレイク」 2004年 イギリス / フランス / ニュージーランド


監督 マイク・リー           
出演 イメルダ・スタウントン フィル・デイヴィス ピーター・ワイト
   エイドリアン・スカーボロー ヘザー・クラニー ダニエル・メイズ
   アレックス・ケリー サリー・ホーキンス エディー・マーサン
   ルース・シーン ヘレン・コーカー レスリー・シャープ 

ストーリー
1950年、冬。凍てついたロンドンの朝の空気を暖めるかのようなヴェラ・ドレイク(イメルダ・スタウントン)の明るい笑顔が、今日も人々の心を和ませていた。
労働者階級の人たちが住むこの界隈に暮らすヴェラは、体の具合が悪い隣人たちを訪ねては、身の回りの世話をしているのだ。
裕福な家の家政婦の仕事を終え、一人暮らしの母親(サンドラ・ヴォー)の面倒を見ると、ヴェラが一日の中で一番大切にしている時間がおとずれる。
小さなテーブルを家族で囲む夕食のひと時だ。
夫のスタン(フィル・デイヴィス)は、弟のフランク(エイドリアン・スカーボロ)が経営する自動車修理工場で働いている。
フランクの妻、ジョイス(ヘザー・クラニー)は豊かな生活を望み、貧しい義兄一家との付き合いを避けていた。
しかしフランクは、早くに亡くなった両親の代わりに自分を育ててくれた兄夫婦を心から慕っていた。
活発で朗らかな息子のシド(ダニエル・メイズ)は、洋品屋に勤めている。
娘のエセル(アレックス・ケリー)は無口でおとなしく、職場の工場と家を往復するだけの毎日だったが、近所に住む一人暮らしの青年レジー(エディ・マーサン)がヴェラに誘われて夕食にくるようになってから、年頃の娘らしい愛らしさを見せるようになっていた。
レジーは、第二次大戦中に母親を空襲で亡くしていた。
スタンが出征した時に辛い思いを経験したドレイク一家は、そんなレジーに心から同情し、温かくもてなすのだった。
まっすぐ前を向いて、毎日を精一杯生きているヴェラだが、誰にも言えない秘密を抱えていた。
望まない妊娠をして困っている女たちに、堕胎の手助けをしていたのだ。
中絶手術は法律で禁じられていて、たとえ許可されても手術費は高額で、庶民にはとても支払えなかった。
非合法な堕胎を選ぶしかない女たちとヴェラを仲介するのは、ヴェラの子供の頃からの友人、リリー(ルース・シーン)だった。
実はリリーは、女たちから報酬をもらっていたが、ヴェラにはひた隠しにしていた。
二人で映画や散策に出かけるようになっていたレジーとエセルが婚約した。
スタンとヴェラは弟夫婦を自宅によんで、ささやかなお祝いの席を設ける。
招かれざる客が現れたのは、フランクがジョイスの妊娠を報告し、皆で倍になった喜びを分かち合っていた時だった。
ドアの前に立っていたのは、ウェブスター警部(ピーター・ワイト)。
ヴェラが“助けた”娘の体調が急変し、病院に運ばれた。
娘は命をとりとめたが、医師からの通報で駆けつけた警部に問い詰められた娘の母親が、渋々ながら事の次第を打ち明けたのだ。
自分だけ別室に呼ばれたヴェラは素直に事実を認め、ベスト婦警(ヘレン・コーカー)に支えられながら、何も知らない家族が見守る中、署に連行されていく。
すぐに保釈が認められたが、ヴェラは法律と闘うつもりなど毛頭なかった。
全面的に罪を認めたために、シドは怒ってヴェラを責め、エセルは悲しみに打ちひしがれ、家族の絆は初めての危機を迎える。
その試練を、家族の誰一人の手も決して離すことなく、力強く乗り越えたのは、夫のスタンだった。
戦争を命からがら生きのびたスタンは、家族さえいれば幸せをつかめるのだと信じていて、ヴェラへの愛が変わることはなかった。
「人を助けようとした。ママの心が優しいからこそだ」「確かに悪いことをした。だがもう十分に罰を受けた」スタンの揺るぎない愛に導かれ、シドも少しずつ母への愛を取り戻すのだった。
年が明けた1月10日、ヴェラの裁判が行われた。
弁護士はヴェラの動機が金銭ではなく、困っている人を助けたいという善意だと強調したが、裁判長(ジム・ブロードベント)は2年6ヶ月の禁固刑という厳しい判決を下した。
ドレイク家のテーブルに座って、スタンとシドとエセルと、そしてレジーが、いつまでもいつまでもヴェラの帰りを待っている。
厳しい冬の後の春は、きっと格別だと信じて……。


寸評
なんとも切ない物語だ。
登場人物はごく普通の人々である。特別の美男美女が出てくるわけではない。
おおよそ映画スターとは思えない、正直な感想を言えば、見栄えのしない容姿の役者を集めている。
だが、その役者の一人一人が中々の存在感で、さしたる盛り上がりのないストーリーにもかかわらず目を離させない。
それどころか2時間を画面に引き込んで一気に見せつける。

主人公のヴェラは、貧しい中でも笑顔を絶やさない親切な普通のおばさんである。
夫のスタンも優しい男で、弟の工場で働かせて貰っている事で卑屈にもなっていない良心的な人間である。
弟は、兄夫婦に育てて貰った事を感謝していて、彼らと仲良く付き合っている。
弟・フランクの妻であるジョイスが肉親の中では唯一、距離をおいた存在として描かれているが、全く彼らを拒否しているわけではなく、よくある親戚付き合いの関係として描かれている。
弟のフランクは兄に感謝し慕っているが、同時に妻と自分の気持ちの板ばさみになっている。
何とか妻の機嫌を取りながら、自分には捨て去る事が出来ない兄一家と付き合っている。そして時にはそんな妻を交えてちょっとした喜びごとを皆で祝う普通の関係を維持している。
僕の周りでも存在している、そんな現実を感じさせる光景が映画をリアリズムのあるものにしている。
詰まるところ、普通の人たちの普通の生活が、普通に描かれていくのだ。
その中でヴェラの行う堕胎処置も普通の出来事のごとく描かれていく。
だから、なおさら事件の切なさが胸に響いてくるのだ。

何よりも一家を支えている家族愛があって、その中心に夫のスタンがいる。すべてを許し、信頼し、愛を注ぐ彼の姿に心打たれる。
そして、娘の婚約者であるレジーの存在がこの映画を救っていると思う。
彼もまた新しい家族を見捨てたりしないのだ。彼らと共にヴェラの帰りを待つ事にした事を無口な彼の姿を通して語りかける。
すべてが言葉少なく、地味に、しかし力強く描かれていく。その演出力と、役者さんたちの演技力に感嘆した。

見終わったときに僕は信じていた。
ヴェラが2年半の刑期を短縮されて出所してくる事を、その時エセルとレジーの間には子供が誕生している事を・・・。

ウィンチェスター銃'73

2023-08-17 07:00:57 | 映画
「ウィンチェスター銃'73」 1950年 アメリカ


監督 アンソニー・マン
出演 ジェームズ・スチュワート シェリー・ウィンタース
   スティーヴン・マクナリー ダン・デュリエ チャールズ・ドレイク
   ミラード・ミッチェル ジョン・マッキンタイア ウィル・ギア
   ジェイ・C・フリッペン ロック・ハドソン トニー・カーティス

ストーリー
1876年の7月、リン・マカダムとハイ・スペードの2人はダッチ・ヘンリーを追ってワイアット・アープが保安官を務める町、カンサス州ドッジ・シティにやってくる。
酒場に入ったところ、その目当ての男と遭遇するが、拳銃をワイアットに預けているためにその場は治まった。
リンは独立記念日の射撃大会に出場し、最後にダッチに勝って賞品の名銃1873年製造のウィンチェスター銃を得て部屋に戻るが、そこにはダッチとその仲間たちが待ち構えていた。
ダッチたちはウィンチェスター銃を奪って逃走。
ダッチたちはアープに銃を預けていたために丸腰で、彼らは銃を手に入れるために銃商人とポーカーをし、ウィンチェスター銃を巻き上げられてしまう。
銃商人は名銃を手にしたものの、アメリカ原住民との取引がうまくいかず、銃を奪われた上で殺されてしまう。
アメリカ原住民たちは騎兵隊を見つけるとその周りを取り囲み、そこには旅の途中で彼らに襲われたローラとその婚約者のスティーヴも避難し、リンたちも襲撃を受けたためそこに逃げ込んできた。
翌朝になって原住民たちが攻撃をかけくるが、リンの奮闘もあって何とか撃退。
打ち捨てられていたウィンチェスター銃はスティーヴが手に入れることになった。
今度はスティーヴが知合いのワコ・キッドの撃ち合いに巻き込まれて死亡。
ローラはウィンチェスター銃とともに連れ去られ、行き着いた先はダッチの家だった。
ダッチたちはテスコサという町で強盗を働く計画を立てていた。


寸評
ウィンチェスターM1873は飛ぶように売れ、「西部を征服した銃」と呼ばれるライフル銃の歴史に残る大ヒット商品だったらしいのだが、ここではその中でも特別に出来の良い銃が持ち主を変えて転々としていくうちに、手にした人が非業の死を遂げていく話となっている。
ありそうな筋立てで、日本でも妖刀「村正」をめぐる話としてありそうなものだ。
「ウィンチェスター銃'73」はストーリーの引継ぎに無理がなく、楽しめる西部劇となっている。
リン・マカダムとハイ・スペードがドッジ・シティにやってくる。
ここでは僕たちになじみのある人物が登場してきてワクワクさせるものがある。
すなわち、保安官のワイアット・アープであり、弟のバージルである。
バット・マスターソンも登場する。
さすがにワイアットはそれなりの役割を担っているが、バージルやバット・マスターソンは顔見世程度にかかわらず、名前があるだけで何となく楽しくなってくる。
モノクロ作品なのでシルエット的に捕らえられる映像にも惹き付けられる。

町では独立記念日を祝って射撃大会が催され、優勝の景品がタイトルとなっているウィンチェスター銃である。
優勝争いはリン・マカダムと、彼が追っているらしいダッチの二人になる。
二人は甲乙つけがたい腕前で、銃の師匠が同じらしいことが語られる。
このことは大きな伏線となっていて、最後にリン・マカダムがダッチを追っている理由と、さらに大きな秘密が明かされることになる。
そのシーンになってはじめて、あそこで語られていたことはそう言うことだったのかと納得する。
ダッチたちはドッジ・シティから逃げる時に銃をアープに預けていたために銃も弾丸も持っていない。
そこで銃の売人の居る店に行ってポーカー勝負を挑む。
売人のラモントは大きな勝負は嫌だと言いながら、ダッチから持ち金をすべて巻き上げてしまう。
どう見てもイカサマをやっているように見えるのだが、その事は描かれていない。
ラモントは賭けに勝ってウィンチェスター銃'73を手に入れるが、先住民に殺され銃は先住民に渡ってしまうのだが、ここでもカスター将軍の名前が出てきて全滅したことが語られている。
インディアンの襲撃は西部劇の見せ場の一つで、この作品でも描かれているが、攻撃前に整列するインディアンのショットが壮観である。

ヒロインとしてローラという女性が登場するが、彼女の婚約者らしいスティーブは意気地のない男で、ローラの気持ちが離れつつあることを描いるのは、リンとの関係を考えると当然なのだが、意気地がない描き方はインディアンの襲撃を受けた時と合わせて上手い脚本だ。
しかしローラは席をはずせと言われてはいたが、銀行襲撃の話を聞いていなかったのだろうか。
酒場でピアノを弾いているが、酒場にいる人たちに銀行強盗のことをどうして知らせなかったのだろう。
本当に何も知らないでピアノを弾いていたのだろうか。
リンに左手に注意と警告しているが、ワコ・キッドの左手にどのような危険性があったのかよく分からなかったが、名銃をめぐる物語としてまとまっている西部劇の佳作といえる。