おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

猿の惑星:創世記(ジェネシス)

2019-06-30 08:38:42 | 映画
「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」 2011年 アメリカ


監督 ルパート・ワイアット
出演 ジェームズ・フランコ
   フリーダ・ピント
   ジョン・リスゴー
   ブライアン・コックス
   トム・フェルトン
   アンディ・サーキス
   デヴィッド・オイェロウォ
   デヴィン・ダルトン
   クリス・ゴードン

ストーリー
サンフランシスコの製薬会社ジェネシス社に勤める神経学者のウィルは、ウィルスを用いたアルツハイマー遺伝子治療薬ALZ112を開発し、実験台として雌チンパンジーのブライトアイズに投与する。
ブライトアイズは密かに身籠っていた子猿を守ろうとして凶暴化し射殺されてしまった。
進めていた研究が凍結され職場を自宅へと移したウィルは、ブライトアイズが遺した雄の子猿を引き取り、その子猿をシーザーと名付け育て始める。
ブライトアイズの遺伝子を受け継いだシーザーもまた成長するにつれて母猿のような高い知性を示すようになり、やがて人間に匹敵する複雑な情緒と、手話アメスランによる会話を成立させるほどになる。
そんなシーザーの様子を見たウィルは、アルツハイマー型認知症に冒されている父チャールズを見ていられず社に秘密裏にALZ112を投与、身勝手な人体実験ながらチャールズの認知症を見事回復させる事に成功する。
さらにシーザーの怪我がきっかけで知り合った獣医キャロラインとウィルは親しくなり、二人は相思相愛の仲となってゆく。
ある日、チャールズは再発したアルツハイマーの症状により隣人とトラブルを起こし、その光景を窓から眺めていたシーザーはチャールズを守ろうとして隣人に怪我を負わせてしまう。
シーザーはランドン親子が経営する霊長類保護施設に送られたが、当初施設の猿達と上手く馴染めず、しかも横暴なランドン親子の度重なる虐待を受け、人間に対して深い失望感と憎悪を抱くようになる。
やがて、同じ施設に収容されていた、とりわけ人間から虐待されて育ったゴリラのバックや手話を使えるサーカス出身のオランウータンのモーリスと親しくなったシーザーは、群れのボス猿ロケットとのリーダー争いに勝利し新たなボス猿の地位へと収まった。


寸評
モーションキャプチャー技術によって描かれる猿の動きに違和感がなく、映像化技術の進歩に目を見張る。
ウィルはアルツハイマーの特効薬を開発している。
新薬の頭文字であるALZはアルツハイマーを表しているのだろう。
当初は高慢な科学者に見えたウィルだが、父親がアルツハイマー病を発症していることで、新薬開発に執念を燃やしている理由が補足されて、それ以降の人物的印象は随分と変わっていく。
いい側の人間はウィルと恋人となる獣医のキャロラインで、悪い側の人間は霊長類保護施設のランドン親子、特に息子の方であり、さらにジェネシス社の社長ジェイコブスであると、いたって単純な構図である。
ランドンは動物虐待を行っているし、ジェイコブスは利益一辺倒である。
この単純さは、社長ジェイコブスが一度は中止されたALZ112の開発を、ウィルが父による人体実験の結果を明かしたことですぐさま治療薬の再開発を命じるという単純さにつながっている。
えっ、そんなに簡単に決まってしまうのといった具合なのだが、深く描いても意味のないとの判断だったのだろう。

ウィル、父のチャールズ、キャロラインとシーザーの交流はお決まりの様でもあるが、アルツハイマー症状を見せたチャールズを助けようとしてシーザーが隔離されてしまう。
保護施設では人間の傲慢さが描かれるのだが、同時にシーザーがリーダーになっていく様が描かれ面白い。
シーザーは手話が出来るようになっているのだが、知能指数が高いとされるオランウータンも手話ができていたという設定はいいし、腕力では一番のゴリラがシーザーの後ろ盾になるというのもいいし、「あいつらバカか」と他の猿をバカにするのも面白い。
従来のボスがシーザーに従うようになる経緯もちゃんと描かれていて、いつ猿たちが人類に取って代わるのかと思って見ていたので、物言わぬ猿が組織化されていく様子は随分と楽しめた。
猿たちが、やがてサンフランシスコの象徴ゴールデンゲイト・ブリッジを占拠する場面の迫力はすさまじく、虐げられたものたちの魂の叫びで、押さえつけられた者の怒りが爆発するときは怖い。
被抑圧者は抑圧者を倒せと言うポピュリズムに簡単に乗るし、場合によっては革命的な反乱をも起こす。
サルたちは反乱を起こす。
シーザーはウィルの誘いを二度拒否していて、一度目は霊長類保護施設にウィルが迎えに来た時で、この時はじめてウィルに反旗を翻すことになり、ひいては人類に対する反乱の強い意志の表れでもあった。
この頃になると完全にシーザーに感情移入してしまっている。
アメリカ杉の森へ逃げ込んだシーザーが、ウィルの家へ帰ろうという誘いに「ここがホーム」だと二度目の拒否をして仲間の猿達を率いて森の奥へと消えていく。
サンフランシスコの街を眺めるところで終わりかなという雰囲気がでてエンドクレジットに入るが、ウィルの隣人のパイロットが鼻血を出すショットがあってクレジットが引き続き表示されていく。
航空網で結ばれた世界に広がっていくようにクレジットが表示されていくのだが、その事によって人類が滅亡に向かう様子を暗示していた。
「猿の惑星」の第一作目で描かれた人類滅亡のストーリーとは違うが、こちらの方が現実味があるかもしれない。
人類の滅亡と猿の支配は、偶然でも突然変異でもない“必然”だったとする本作の衝撃は、傑作SF「猿の惑星」に勝るとも劣らない。

さよなら渓谷

2019-06-29 10:08:30 | 映画
「さよなら渓谷」 2013年 日本


監督 大森立嗣
出演 真木よう子 大西信満 鈴木杏
   井浦新 新井浩文 木下ほうか
   三浦誠己 薬袋いづみ 木野花
   池内万作 鶴田真由 大森南朋

ストーリー
美しい自然が残る渓谷の町でひっそりと暮らす尾崎俊介(大西信満)と妻のかなこ(真木よう子)。
ところがある日、都会の喧騒から離れた緑が覆う渓谷で、幼児が殺害され実母が犯人として逮捕されるショッキングな事件が起こる。
尾崎俊介夫妻の隣に住む女が幼い娘を殺害した実行犯として逮捕され、マスコミが大勢押し寄せる。
母親の逮捕により事件は解決したかに見えたが、一件の通報により、この渓谷に住む尾崎俊介がこの母親と不倫関係にあったことがわかり、俊介に共犯の疑いがかけられる。
しかも通報したのは俊介の妻・かなこであった。
取材に当たっていた週刊誌記者の渡辺(大森南朋)は、かなこが俊介を告発したこと、二人が必要最低限の物しか持たず、まるで何かから隠れているかのような生活をしていることにひっかかりを感じる。
調べていくうちに、渡辺は二人を結びつけている15年前の罪に行きつく……。

尾崎は大学時代、野球部のエースとして将来を嘱望されていたが、夏休みのある日仲間らと共に集団レイプ事件を起こす。
そんな過去を持つ尾崎に対し、なぜか完全に否定的な気持ちを持つことができない渡辺は、同僚の小林と共に事件の周辺を洗いなおす。
そこで明らかになったのは、事件の被害者である水谷夏美が自殺未遂のあと行方不明になっている、という残酷すぎる事実だった。
すでに死亡しているのではないかという予想とは裏腹に、男と歩いていたという目撃情報があがった。
湧き上がる胸騒ぎを抑えることができない渡辺が確認した事実はあまりにも衝撃的だった。


寸評
この映画における真木よう子はいい。
思い返せば西川美和監督の「ゆれる」で僕は初めて真木よう子を発見したのだが、その中でも印象的な演技を見せていたのでこの成長は当然のことだったのだろう。
たった1シーンだけでも、この人はスゴイと思わせることが出来る女優さんだ。
実際、この作品でも彼女は被害女性の持ついびつな感情を、言葉ではなく官能的な演技と表情の変化で表現していてなかなかの好演で期待を裏切らなかった。男を演じた大西信満と二人で醸し出す雰囲気がこの映画を支えていたと思う。
本来は大森南朋が演じる記者を通じて観客に知らしめる展開だと思うが、同じ記者でも女性記者を演じた鈴木杏の方が物語の核心部分を表現していて、そのキャラクターも合わせて存在感があった。

メインテーマが過去の事件の謎解きではないので、前宣伝段階からこの夫婦(内縁)の関係は明らかにされていた。
二人は過去のレイプ事件の加害者と被害者なのだが、冒頭での情交シーンから興味は自然と、なぜ二人はこの様な関係になったのかになる。
したがって、記者の二人がこの夫婦の関係を知る場面での盛り上がりはない。
二人の関係は異常なだけに、はなから設定そのもので作品的重みを持っていると思うのだが、この映画に弱さが有るとすれば、その答えをもう一方の主人公である週刊誌記者の同僚である女性記者に語らせていることだ。
このあたりはもっとグイグイ押しても良かったのではないか?
だから、すごく重い内容なのに作品全体としては案外とカラッとしているのだ。
反面、挿入される過去の出来事では、尾崎が婚約者を捨てることや、かなこの偽名の由来などがさりげなく描かれているのは、とりまく細い事項としてはいい演出だと思った。

事件を追いかけている週刊誌記者の渡辺も、自身も学生時代はラグビー選手で、社会人になっても選手を続けたのだが、怪我でもって引退して、選手を終えれば何も残っていなかった経験を有していて、それがもとで夫婦関係にもひびが入っている。
尾崎との対比としての存在だったが、その存在感は少し弱いように感じたし、彼等夫婦にも光明が見えるのは構成上、当然と言えば当然なのだが、その描き方は僕には少し唐突感が有った。

女は決断し、男は女を必要としていた。
男と女の関係は千差万別で、それぞれにそれぞれの愛のあり方が存在している。
一方は怨みながらも、一方は謝罪しながらも、究極とも言える精神関係と肉体関係を築くこともあるということだ。
レイプ事件の加害者と被害者がどちらも過去の出来事が付いて回り、世間の批判的視線を浴び安らぐ場所がない。
当事者同士はそのことを隠す必要がなく、安らぎの場所がそこにしかないという不条理。それもこれも人間の持つ業と性というものだろう。
そんな関係が存在しうるのだとばかりに、異常を異常と感じさせない演出と、主演二人の表現の積み重ねは大いに評価できた作品だった。

サムライ

2019-06-28 09:44:04 | 映画
「サムライ」 1967年 フランス


監督 ジャン=ピエール・メルヴィル
出演 アラン・ドロン
   ナタリー・ドロン
   フランソワ・ペリエ
   カティ・ロジェ
   カトリーヌ・ジュールダン
   ミシェル・ボワロン
   マルセル・ボズフィ

ストーリー
ソフト帽にトレンチ・コートのいでたちでジェフは仕事に出かけた。
駐車してある一台のシトロエンにのりこみ、合鍵でスタートさせ、郊外のガレージに乗り込んだ。
ガレージの親爺は、車のナンバー・プレートを取りかえ、拳銃を大金とひきかえにジェフに渡した。
その後、コールガールをしている恋人ジャーヌを訪ね、アリバイを頼むと仕事場のクラブへ向った。
ジェフの仕事は、クラブの経営者を殺すことだったが、仕事はいつものように、寸分の狂いもなく完了した。
だが、廊下へ出た時、黒人歌手のバレリーにはっきりと顔をみられてしまった。
警察は動き出し、クラブの客や目撃者の証言で、ジェフも署に連行され面通しが行なわれた。
目撃者の大半はジェフが犯人だと断定したが、バレリーだけはなぜかそれを否定し、それにジェフのアリバイは完全だった。
だが、主任警部は依然ジェフが怪しいとにらんで尾行をつけた。
そのことを知ったジェフは巧みに尾行をまくと、仕事の残金を受けとるために、殺しの依頼を取りついだ金髪の男と会ったが、男はいきなり巻銃を抜いて、ジェフは左手を傷つけられた。
残金をもらえぬどころか殺されそうにさえなったジェフは、殺しの依頼主をつきとめるべく、偽証をして彼をかばってくれたバレリーを訪れたが、バレリーの口は堅く、「二時間後に電話を」とだけ言った。
約束どおりジェフは電話したが、誰も出てこなかったので、やむなく帰ったジェフの部屋に金髪の男がいた。
男はうって変った態度で、殺しの残金を渡すと、さらに新しい仕事を依頼した。
ジェフは、男のスキをみると、いきなりとびかかり、拳銃をつきつけて依頼主の名を聞き出したのだが・・・。


寸評
アラン・ドロンがカッコいい!
スタイリッシュないでたちでセリフは少ないく、端正な顔立ちと視線がたまらない魅力を振りまく。
原題も「LE SAMOURAI」という作品なのだが、この作品はある意味でフランス人の持っている“サムライ”に対するイメージを、一人の孤独な殺し屋に投影した作品と言えるだろう。
決して派手な作品ではなくセリフも驚くほど少ないし、映画の展開は淡々としていて、ストーリーを追うとつまらない内容だと思う。
しかしこの映画の魅力は何といっても雰囲気が突出していることだ。
作品内容はきわめて説明不足なものである。
主人公である、アラン・ドロンのジェフ・コステロという男がいかなる人物であるのか、なぜ殺人を仕事としているのか、殺された男は一体何者なのかなどに対する具体的な説明は描かれていない。
組織間の抗争なのかどうかもわからないし、依頼者がいったい何のために殺人をジェフに依頼したのかもわからないままである。
この映画は主人公の行動を映画的なエッセンスである映像美でを抜き出し、独自の美的感性によって語られた犯罪という場を借りた“美と詩”の世界に僕たちを誘っている。

盗んだ車のカーナンバーを変えるシーンは二度出てくるが、やっていることの割にはセリフは少ない。
とくに1回目などは無言のうちに行われている。
車が到着し、ナンバーが付け替えられる、必要な書類をもらい拳銃を受け取り、修理工に金を渡す。
この間、修理工とジェフの間には一言も会話がない。
二度目には修理工が「これが最後だぞ」と言うと、ジェフが「分かった」とだけ答えるものだ。
このように無駄な会話を極力省いて雰囲気を醸し出していくのが一貫していていい。
ちなみに、修理工の役者は体調を崩しながら出演し、撮り終えると即入院となり息を引き取ったそうで、「これが最後だ」「分かった」が本当に最後の言葉となったようなのである(いいわあ・・・この話)。

ジェフは常に死と向かい合っていて、最後には自ら死地へと赴いてゆくストイックで孤独な男だ。
飼っている鳥かごの鳥は彼の孤独の象徴でもある。
ジェフは黒い帽子とトレンチ・コートに身を包み、地下鉄を乗り継いでチームで動いている尾行の警官を振り切る。
カメラはその様子を長々と追い続け、異様な緊張感が生み出されていく。
そしてラストシーンだ。
ピアニストがジェフに拳銃を突きつけられて「なぜ?」と聞く表情が印象的だ。
撮影時にはアラン・ドロンの奥さんであったナタリー・ドロンもジェフの恋人役で出ているのだが、本作での魅力はピアニスト役のカティ・ロジェに軍配が上がる。

冒頭で「武士道」から取ったような言葉が表示されるけれど、僕はむしろ「葉隠」を思い浮かべ、代表的な「武士道とは死ぬことと見つけたり」を反芻していた。
ジェフの行動は侍の意地を通した切腹の様な気がしたのだが・・・。

さびしんぼう

2019-06-27 09:09:43 | 映画
「さびしんぼう」 1985年 日本


監督 大林宣彦
出演 富田靖子 尾美としのり 藤田弓子
   小林稔侍 佐藤允 岸部一徳
   秋川リサ 入江若葉 大山大介
   明日香尚 峰岸徹 根岸季衣
   浦辺粂子 樹木希林 小林聡美

ストーリー
寺の住職の一人息子・井上ヒロキ(尾美としのり)は、カメラの好きな高校二年生。
母タツ子(藤田弓子)は、彼に勉強しろ、ピアノを練習しろといつも小言を言う。
ヒロキのマドンナは、放課後、隣の女子校で「別れの曲」をピアノで弾いている橘百合子(富田靖子)である。
彼は望遠レンズから、彼女を見つめ、さびしげな横顔から“さびしんぼう”と名付けていた。
寺の本堂の大掃除の日、ヒロキは手伝いに来た友人の田川マコト(砂川真吾)、久保カズオ(大山大介)と共にタツ子の少女時代の写真をばらまいてしまった。
その日から、ヒロキの前に、ダブダブの服にピエロのような顔をした女の子(富田靖子)が現われるようになる。
ヒロキ、マコト、カズオの三人は、校長室のオウムに悪い言葉を教え停学処分を受けた。
その際中、ヒロキは自転車に乗った百合子を追いかけ、彼女が船で尾道に通って来ていることを知る。
冬休みになり、クラスメイトの木鳥マスコ(林優枝)が訪ねて来た時、例のさびしんほうが現われ、タツ子に文句を言いだしたところ、タツ子が彼女を打つと何故かタツ子が痛がるのだった。
節分の日、ヒロキは自転車のチェーンをなおしている百合子を見かけ、彼女の住む町まで送って行った。
自分のことを知っていたと言われ、ヒロキは幸福な気分で帰宅した。
バレンタインデーの日、さびしんぼうが玄関に置いてあったとチョコレートを持って来た。
それは百合子からで、「この間は嬉しかった。でもこれきりにして下さい」と手紙が添えてあった。
さびしんぼうは、明日が自分の誕生日だからお別れだと告げる。
そして、この恰好は恋して失恋した女の子の創作劇だと答えた。
翌日、ヒロキは百合子の住んでる町を訪ね、彼女に別れの曲のオルゴールをプレゼントしたのだが・・・。


寸評
喜劇的でありながらファンタジー的要素を持った青春学園もの映画でもある。
常に友人たちといた高校生時代を思い起こさせるようなヒロキ、マコト、カズオの躍動が楽しくなってくる。
僕も高校3年間を通じて1年生のクラスメート5名と何かにつけ一緒だった。
中間、期末の試験が終わると我が家に集まって徹夜の麻雀大会をやっていた。
酒もタバコもやらない、ある意味で真面目な仲間だったが、学校の中でははみ出し者の集団だったと思う。
中身は違うが3人の触れ合いは僕の高校時代と大いにかぶさるものがある。
思いを寄せる人のことが頭から離れないのもこの頃には皆が経験していたのではないか。
そんな経験を有しているからこそ誰もがこの映画に入り込んでいける。

"さびしんぼう" は青春時代の思い出の化身でもある。
かつての自分であり、出来なかったことを行うための生まれ変わりでもある。
あることを通じて "さびしんぼう" の正体が判明するが、その伏線は冒頭でも張られていて、勘のいい観客はその時点で想像しながら見ることになったのではないか。
面白いのはヒロキがフィルムの入っていない望遠付きのカメラであこがれの橘百合子をファインダーで覗いていることである。
フィルムを買う金がなくてそうしているのだが、同時にそのことはプリントに焼き付けることが出来ず、ファインダー越しの彼女の姿はヒロキの頭の中にだけ残像として存在しているということだ。
この悶々とした気持ちは僕の経験からしても実によくわかるのだ。
ヒロキは自転車のチェーンを直してやることから親しくなれるのだが、自転車を押しながら会話を続ける道行シーンは情緒があって実にいい。
このあたりからそれまでのドタバタ劇が鳴りをひそめる。
佐藤允の校長先生が飼っているオウムの「狸のぶーらぶら」や、入江若葉のPTA会長の狂態、あるいは岸部一徳の吉田先生のひょうきんぶり、秋川リサの大村先生がみせる下着丸出しのお色気シーンは一体何だったのかと思わせるほどの変質ぶりなのである。
特に "さびしんぼう" が雨の階段でヒロキにもたれかかり、かつての思いを遂げるシーンはジーンときたなあ。
セリフのなかった小林稔侍の父親が狭い湯船の中でヒロキと語るシーンもグッときた。

僕は尾道を2度ほど訪れているが、残念なことに尾道水道を渡るフェリーに乗る機会を得ていない。
フェリーの上からヒロキと橘百合子が眺めた尾道水道の夕景を見たかったのだがなあ。
大林宣彦監督による尾道3部作の一遍であるが、僕はこの作品に登場する尾道の景色が3部作の中では一番好きだ。
そして、この作品の富田靖子はいいと思う。
若くて瑞々しい姿をこの作品でスクリーンに残せた富田靖子は幸せな女優だと思う。
"さびしんぼう" の富田靖子もいいが、橘百合子の富田靖子が女子高生の清廉さを見せて実にいい。
ヒロキは百合子に似た女性と結婚し、多分、娘に百合子と名付けていたのだと思う。

サニー 永遠の仲間たち

2019-06-26 09:12:28 | 映画
「サニー 永遠の仲間たち」 2011年 韓国


監督 カン・ヒョンチョル
出演 ユ・ホジョン シム・ウンギョン
   チン・ヒギョン カン・ソラ
   コ・スヒ キム・ミニョン
   ホン・ジニ パク・チンジュ
   イ・ヨンギョン ナム・ボラ
   キム・ソンギョン キム・ボミ
   ミン・ヒョリン

ストーリー
田舎者の転校生・ナミはソウルの流行に追いつこうと必死だった。
そんなナミも42歳になり、今は専業主婦。
素敵なマンションで優しい夫と高校生の娘に恵まれ、何不自由ない日々を送りながらも、どこか物足りなさも感じていた。
ある日、母の見舞いに行った病院で高校時代の親友チュナと再会する。
彼女は、田舎から転校してきたばかりでイジメられそうになっていたナミを助けてくれた恩人。
ナミはチュナがリーダーを務める仲良しグループ“サニー”の7人目のメンバーに迎えられ、永遠の友情を誓い合ったのだった。
美人で強くて、みんなの憧れだったリーダーのチュナは、今は事業家として成功したシングル女性だが、ガンで余命2ヵ月となっていた。
ナミは“死ぬ前にもう一度だけサニーの仲間たちと会いたい”というチュナの願いを聞き入れ、ある事件がきっかけで音信不通となっていた仲間たちの消息を調べるため、輝かしい青春時代を過ごした母校へと向かうのだった。
昔から美意識だけは高いぽっりゃりさん・チャンミと再会する。
今は保険の営業ウーマンで、成績はいまいちだが、夢の二重まぶたは手に入れていた。
チュナのためにナミとチャンミはほかのメンバー、「下品な言葉女王」のジニ、小説家が夢だったクムオク、ミスコリアを目指すポッキ、ティーン雑誌のモデルだったスジの消息を探すが・・・。


寸評
青春時代と現在を行き来しながら、現在の平凡な生活から再び輝きを取り戻すと言うよくあるベタなネタなのだが案外と感動させてくれる。
キラキラと輝いていた少女達は、成人してそれぞれに問題を抱えた生活を送っているのだが、それを暗く描くことはしない。
1980年代の世情や少女時代の出来事や悩みも深刻に描かれはしない。
むしろコミカルで、その明るさが良い。
病魔に苦しむチュナの壮絶なシーンが登場するが、くどい描写は避けられており、さらには昔の制服を着て女子高生をボコボコにする奇想天外なシーンを盛り込んだりしているところなどはその明るい演出に徹した象徴。
ナミが初恋の相手を訪ねるところでは両時代のナミが出会うファンタジックシーンも用意されているが、涙や感動を押し付けてくるような演出が避けられている。
全くイメージの違うメンバーを登場させ「整形のやりすぎ」と、韓国の美容整形世情をギャグするシーンもあって、あくまでも、明るく明るく描き切る演出で統一されている。

学園モノで物語を展開しやすいのは転校生キャラだ。
方言というコンプレックスを抱えていた主人公ナミが、クラスメイトのサンミに絡まれているところをチュナに救われるくだりは、ベタだけど胸がときめく。
しかもチュナが学園屈指の“正義の女番長”だったこともあって、ナミはある程度の安全が確保されたことになる。
チュナに気に入られて一気に友だちができたナミに、良かったなあと単純な僕はスンナリ感情移入できた。
ベタに徹している作品の力だ。

仲が良かったメンバーが全く連絡がとれなくなっているなどは不自然だし、チュナが病院の外で大立ち回りが出来るのも不自然なのだが、でも許せてしまう。
7人がバラバラになる場面は展開をはしょった都合のいい描き方だが、それすらも許せてしまう。
そんな理屈など問題としない映画だ。
高校時代のパートは衝撃的な事件によって幕を閉じて結末へ向かうのだが、それはかなり都合のいい展開だ。
驚きの遺言、楽しいダンスシーン、そして、ラストにはついにあの人物が…と目まぐるしい。
それでも許せてしまう。それが韓国映画だ。

僕の様な年代の者にとっては懐かしいヒット曲が流れるのも素直になれてしまった要因かもしれない。
タック&パティがカバーした「タイム・アフター・タイム」、シンディー・ローパーの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」、ボニーMの「サニー」、リチャード・サンダーソンの「愛のファンタジー」などが懐かしい。
エンディングで再びタック&パティの「タイム・アフター・タイム」をたっぷりと聴かせて幕を閉じ、一人ひとりがスケッチから消えていくのはそれぞれが今は別々の人生を歩んでいることを思わせてしんみりとした感動をもたらせてくれた。
僕には女学生時代のチュナを演じたカン・ソラが魅力的に感じられた。
そして、これは僕のあの頃を思い出させてくれる映画でもあって、ささやかな感動があった。

座頭市物語

2019-06-25 09:21:18 | 映画
「座頭市物語」 1962年 日本


監督 三隅研次
出演 勝新太郎 万里昌代 島田竜三
   三田村元 天知茂 真城千都世
   毛利郁子 南道郎 柳永二郎
   千葉敏郎 守田学 舟木洋一
   市川謹也 尾上栄五郎 山路義人

ストーリー
下総飯岡の貸元助五郎(柳永二郎)の所へ草鞋を脱いだ異風なやくざは、坊主で盲目で人呼んで座頭市(勝新太郎)。
市の腕を見込んだ助五郎は、彼を客分扱いにし乾分蓼吉(南道郎)を世話係につけた。
市は、釣で逢った病身の浪人平手造酒(天知茂)と心をふれ合う思いをしたが、その造酒は助五郎とは犬猿の仲の笹川繁造親分(島田竜三)の食客となった。
助五郎は新興勢力の笹川一家を叩き潰す機会を狙っている。
その頃、身投げしたか落されたか蓼吉の女お咲(淡波圭子)が水死体となって溜池に浮かんだ。
何気なくそこを訪れた市は再び造酒と逢い、その夜二人は酒をくみかわした。
お互いに相手の剣に興味を持ったが、やくざの喧嘩に巻込まれて斬り合うのは御免だと笑い合った。
この時造酒を訪れた笹川の繁造は、市が飯岡の客分と知り乾分に市を斬るよう命じた。
帰り途、市を襲った乾分は市の刀に一たまりもなかった。
市の腕前に驚いた繁造は、造酒に喧嘩の助勢を頼んだが造酒は頭から断った。
笹川は、喧嘩を売る決意をしたがそんな時、造酒が血を吐いて倒れてしまった。
それを知った助五郎は好機到来とばかり喧嘩支度にかかった。
笹川の繁造は、飯岡勢を笹川宿場の迷路へさそい込み座頭市を鉄砲でうちとる策略を立てた。
それを知った病床の造酒は鉄砲をうつことだけはやめてくれ、その代り自分が働くと繁造に頼むのだった。
そこへ造酒を訪ねた市は、彼が友情のため死を決して喧嘩に加わったことを知った。
笹川の作戦は功を奏し飯岡方は苦戦に陥った。
血をはきながら斬りまくる造酒。
その行手には座頭市が立っていた。
ついに二人の宿命的な対決の時が来たのであった。


寸評
座頭市という特異な時代劇キャラクターを生み出したシリーズの記念すべき第一作である。
あんまをする市の姿から始まった画面はハイキ―となってクレジットが流れ出し、この作品が異様な時代劇であることを感じさせる。
実際、カメラアングルや照明などが凝っていて、モノトーンの画面から無常感がひしひしと伝わってくるのだ。
主演の勝新太郎はこの作品の前に「不知火検校」という作品に主演していて、そこでも人を貶めながら検校に成り上がる盲目の悪人を演じていた。
座頭市の原型があったと思わせる作品だったが、まだまだ発展途上だったと思わせるほど本作は進歩している。
クレジットの背景で盲目の市がへっぴり腰で丸木橋を渡っていく姿が映される。
とてもスーパーヒーローと言える恰好ではない。
後にスパーすぎるヒーローになる座頭市だが、第一作ではまだまだ普通の人間らしい一面を残している。
この時点では座頭市にヤクザの抗争が絡んだというよりも、天保水滸伝の世界に座頭市を登場させたといたと言ったほうが的を得ているかもしれない。
浪曲や講談で有名な「天保水滸伝」は、江戸末期の利根川水系を舞台にした二人の侠客の勢力争いを描いた物語で、主人公の笹川繁蔵と飯岡助五郎は実在した博徒の親分である。
平手酒造も実在の人物で、大利根河原の決闘では笹川方の助っ人として参加して闘死したと伝えられている。
ここでは市によって最期を迎えることになるが、それまでの経緯も観客を魅了するものがある。

座頭市も魅力的な人物だが、シリーズを通じても市のライバルとしてはここでの平手酒造が一番ではないか。
天地茂がニヒルな剣客を演じて雰囲気を出していた。
三船敏郎の様なスゴ腕を感じさせる浪人ではないが、どこか影を持った浪人として描かれている。
結核を患っていることが一層虚無感を際立たせていた。
どれほど腕がたつのか、市は居合いの腕を披露しているが、平手酒造はそれを披露していない。
それでも大した腕の剣客なのだと思わせる雰囲気がある。
二人が竿を並べる釣りのシーンには異様な緊張感がみなぎっていて、カメラワークと共に見事な演出だった。

市は盲目なので普段は目を閉じているが、飯岡助五郎が子分の死体を目の前に置いて祝い酒をあおるのを見て堪忍袋の緒を切らせるシーンではカッと目を開く。
コンタクトを入れていたのか盲目らしい視線ではあったが、眼光鋭く「俺たちゃなあ、御法度の裏街道を歩く渡世なんだぞ。いわば天下の嫌われものだ」と一括する。
心を通わせた平手酒造を殺すしかなかった無念さがほとばしり出ていて見せどころの一つとなっている。
ラストシーンで市は平手酒造と釣りを楽しんだ池のほとりから林へ分け入り山越えをする。
真下に見える街道におたねの万里昌代が市を待っている姿が小さく見える。
おたねは市に心を通わせたのか、あるいは言い寄る元の亭主から逃げるためなのか、市と共にこの村を出ようとしているのだが、アウトローの市はそんな女を連れていくわけにはいかず捨て去っていく。
座頭市シリーズの原型がすっかり出来上がり、「座頭市物語」は時代劇の歴史に一ページを残した。

サッド ヴァケイション

2019-06-24 09:28:42 | 映画
「サッド ヴァケイション」 2007年 日本


監督 青山真治
出演 浅野忠信 石田えり 宮崎あおい
   板谷由夏 中村嘉葎雄 光石 研
   オダギリジョー 斉藤陽一郎
   川津祐介 辻香緒里 とよた真帆
   嶋田久作 高良健吾 畔上真次

ストーリー
北九州の港。
中国からの密航者を手引きしていた健次(浅野忠信)は、船内で父親が死んでしまった少年アチュン(畔上真次)を自分の家に連れ帰る。
そこには、かつて幼なじみの安男から世話を託された安男の妹で知的障害者のユリ(辻香緒里)も一緒に暮らしていた。
5歳の時に母に捨てられ、精神を病んだ父も自殺してしまった健次は、家族のような3人での生活に安らぎを感じ始める。
一方その頃、若戸大橋のたもとにある間宮運送には、かつてバスジャック事件の被害に遭った梢(宮崎あおい)が身を寄せていた。
社長の間宮(中村嘉葎雄)は、彼女以外にも、ヤクザに追われる者、資格を剥奪された医師ら、スネに傷を持つ流れ者たちに職と住み処を与えていた。
そんなある日、ひょんな偶然から、運転代行をやっている健次が間宮運送に姿を現わした。
そこで彼が目にしたのは、間宮の妻・千代子(石田えり)の姿。
彼女は、かつて健次を捨てていった彼の母親、その人だった。
再び母とひとつ屋根も下で暮らし始めた健次の彼女への復讐心は、日に日に大きくなる母親の存在に惑わされ翻弄される。
心を通わせる恋人の冴子(板谷由夏)に会ってもイライラの消えない健次は、ついにその復讐心を異父兄弟の勇介(高良健吾)にぶつけ、失踪へと追い込んでいく。
しかし、すべてを包み込みながら美しく生きる女たちは男たちを未来へと導く・・・。


寸評
悲劇は有るのだが、ずいぶんと優しい映画だ。
オープニングのキャスティングが流れる背景シーンからコマ落としのような画面が流れる。
それは劇中でも時々見られ、変化のない、それゆえ気の置けない長い時間の経過(例えば梢を探しに出てきた従兄が訪ねた同郷の男とのたわいのない会話が延々と続くのもその一端)を表現していたのだろうか?
それは健次と冴子がいる場面でも使われていた。
その間延びするような時間の経過が、信じて愛する人間が突然目の前からいなくなった時の絶望感を千代子に与えようとする健次の心の揺れを補完していて、気がついたら画面に引き釣り込まれていた。
石田えり演じる千代子はとてつもなく大きな人間に見えた。
母親が子供のすべてを包み込むような(事実、健次は子供なのだが)、大きな気持ちを持ち、まるで観音様か女神の生まれ変わりのような存在だった。
いつも微笑を絶やさないポジティブな姿勢を見せる千代子に圧倒される。
そのポジティブな生き方は、夫の間宮にぶたれても「男は勝手なんだから」と笑っていて、最後に間宮の口から「死んだ者より、去っていった者より、生まれてくる人のことを考えましょう」と千代子の言葉を代弁させていることでも証明されている。
温厚な間宮が劇中で2度相手を引っ叩くシーンがあって(それは間宮の家族への愛の証でもあったのだが)、一度目は息子の茂雄が万引きで補導されて帰宅した時で、二度目は千代子が冴子の子供が茂雄の生まれ変わりだとあっけらかんと言った時なのだが、間宮の代弁はその悲しみの表情を見せない千代子の心底が理解できていなかったことの表現でもあった。
千代子が暗闇の中で一人壁に向かってたたずむ姿は、悲しみを必死に飲み込んでいるようにも見えた。
凛とした姿勢で獄中の健次に面会に行き、「あんたは間宮の家に帰ってくるしかないのだ」と言い切る優しく自信に満ちた千代子の笑みをたたえた顔が印象的だった。
母親の蒸発の真相を聞き「何も知らんくせに」という父の言葉も重なり、健次は一人身勝手に苦悩していた自分を知ったのだろうか?
それとも母親の持つ途轍もない大きな愛を感じたのだろうか?
女はいざとなると男にとって大きな存在なのだ。
梢に対して横柄な態度を取っていた後藤が、借金取りに怯え、それを梢が平然といたわる姿が象徴的だった。
千代子も梢も冴子も、間宮運送に勤めている逃げる男たちに比べると、まるでエイリアンのような化け物的巨人に見えた。
「親子とは、家族とは一体何なのだろう?」と考えさせられる一篇だ。

細雪

2019-06-23 09:53:00 | 映画
「細雪」 1983年 日本


監督 市川崑
出演 岸恵子 佐久間良子 吉永小百合
   古手川祐子 伊丹十三 石坂浩二
   岸部一徳 桂小米朝 江本孟紀
   小林昭二 辻萬長 常田富士男
   浜村純 小坂一也 横山道代
   三宅邦子 細川俊之 上原ゆかり
   三條美紀 根岸明美 仙道敦子
   
ストーリー
昭和十三年の春、京都嵯峨の料亭、蒔岡家の四姉妹と幸子の夫貞之助が花見に来ている。
幸子は今度の雪子の縁談を本家の長姉鶴子から、家系に問題があるとの理由で断わるように言われ苛立っていた。
五年前末娘の妙子が、船場の貴金属商奥畑の息子啓ぼんと駆け落したことがあった。
その事件が新聞ダネになり、しかも雪子と間違って書かれてしまった。
本家の辰雄が奔走して取消し記事を出させたら、妙子の名をより大きく出す結果になってしまい、妙子も雪子も本家の不手際から分家の幸子の家に居つくようになってしまったのである。
人形作りに励む妙子は、啓ぼんとの仲も冷め、奥畑家にもと奉公していて、現在は写真家で立とうとしている板倉と親密な間柄になっていたが、板倉は中耳炎をこじらせて急逝してしまう。
雪子は、鶴子が夫の筋から持ってきた銀行員、幸子の女学校時代の友人、陣場夫人の紹介の水産技官野村、幸子の行きつけの美容院のマダム井谷が持ってきた製薬会社の副社長橋寺と見合いするが、いずれも雪子が気にいらなかったりとうまくいかなかった。
そんな折、本家では辰雄が会社からもって帰ってきた東京赴任の知らせに、鶴子が動転していた。
井谷がまた雪子に見合い話を持ってきた。相手は華族の東谷子爵の孫である。
板倉が死んでから酒場通いを続けていた妙子は、その酒場のバーテンダー・三好のところに押しかけ同棲してしまうが、貞之助が会いに行くと、三好はしっかりした青年で、妙子も地道な生活設計を立てているようで心配はなかった。
鶴子は悩んだ末東京へ行くことを決心し、雪子も東谷との縁談がまとまる。
そして、冬の大阪駅、雪子や貞之助らが見送るなか、鶴子たちを乗せた汽車は出発した。


寸評
あまりの優雅さに、王朝絵巻の時代から脈々と息づく日本人の美への憧憬を感じてしまう作品だ。
昭和13年と出るから、日本が戦争に突き進んでいく直前の上流階級の世界を写し撮っているいるのだが、この蒔岡家四姉妹を演じたキャスティングが素晴らしい。長女の鶴子を岸恵子、次女の幸子を佐久間良子、三女の雪子を吉永小百合、四女の妙子を古手川祐子が演じているのだが、姉妹でありながら全く違う性格の四人が微妙な絡み合いを繰り広げる。これに養子の伊丹十三と石坂浩二がからむのだが、このキャスティングも的を得ていて、映画の成功はそのキャスティングによるものだと思う。

物語の進行に応じて、四季折々の日本的風景がスクリーン一杯に映し出される。始まりは春、雨の嵐山渡月橋。
姉妹が料亭での食事会に集まる。遅れてきた鶴子が羽織を脱ぐと真っ赤な裏生地が見え、総絞りの見事な着物を着ている。彼女達が成り上がりの金持ち一家ではないことを無言の内に知らしめるシーンだった。
食事を終え、雨上がりの桜見物に出かけると色んな種類の桜が咲き誇っている。
桜が咲き始めて散るまでは早い。そのわずかな期間にロケをこなす苦労が見て取れる。あちこちの桜の名所で撮影しているが、出演者を初め満開時のスケジュール調整の苦労を想像してしまった。
会話は船場言葉で、佐久間はなかんちゃん、吉永はきあんちゃん、古手川はこいさんと呼ばれている。そこに本家と分家の意地の張り合いなどが盛り込まれると、ちょっと懐かしい雰囲気を感じる。
僕が同族会社に入社した頃には、長男の社長をおおぼん、次男をなかぼん、三男をこぼんと呼ぶ出入り業者がまだ居たのだ。
蒔岡家の四姉妹は四人ともにさしたる苦労を知らない、典型的なお嬢さんである。お嬢さん育ちゆえの鷹揚さや子供っぽさが笑いを誘ったりする。時に意地の張り合い、時に喧嘩しながらも、お腹をかかえて大笑いする仲の良さを見せる。それが姉妹なのかもしれない。四女の妙子は周囲を騒動に巻き込んでいく厄介な存在だが、三女の雪子は内面はかなり頑固で我がままながらも、滅多なことでは感情をあらわにしない。
その雪子を演じた吉永小百合さんは本当に久しぶりにいい!僕にはデビュー作の『キューポラのある街』以来の作品だと思える。僕はいわゆるサユリストではなかったが、それでも小百合さんの映画を随分と見てきた。しかし、どうも作品に恵まれていなくて、小百合さんのために企画された作品ですら、その魅力を引き出せなでいる。どうも小百合さんの整った美人顔、明るい性格、ちょっとオチャメなところなど、あまりにも素敵過ぎる印象がそうさせているのかもしれない。
しかしこの作品での彼女は、セリフを前面に出す出なく、秘めた芯の強さと色香を漂わせている。
雪子に想いがあるらしい義理の兄である貞之助との何気ない振る舞いの中や、妹の妙子に足のつめを切ってもらうシーン、あるいは二人の姉の切ないやり取りを見てそっと流す涙、東京へ行く姉を見送る涙のシーンなど、本当に良いシーンを独り占めしている感がある。
圧巻は雪子が東谷(江本孟紀)と見合いをするシーンあたりからエンディングにむかって、朽ちて落ちる前の柿の実の如く、やがて没落していくであろう旧家と、往年の繁栄を思わせる雰囲気が一気に描き出されるところだ。
雪子の婚礼衣装にと用意されていた着物を座敷一杯に広げたところ、長姉・鶴子を見送るシーン(雪子と婚約者の東谷を見つめる義兄貞之助の眼差しがいい)、密かに思いを寄せていた雪子の結婚に一人酒を飲む貞之助、雪の舞うシーンにかぶるかつての四姉妹の和やかな日々に胸が締め付けられる。
封切り時に「なぜ今ごろ細雪なの?」と思ったりしましたが、見終わるとなぜだか妙にホンワリした気分になった。

櫻の園

2019-06-22 11:54:00 | 映画
「櫻の園」 1990年 日本


監督 中原俊
出演 中島ひろ子 つみきみほ 白島靖代
   梶原阿貴 三野輪有紀 白石美樹
   後藤宙美 いせり恵 金剛寺美樹
   森沢なつ子 三上祐一 橘ゆかり
   上田耕一 岡本舞 南原宏治

ストーリー
郊外にある私立櫻華学園高校演劇部では毎春、創立記念日にチェーホフの舞台劇「櫻の園」を上演することが伝統となっていた。
そんな開幕2時間前の早朝、小間使いのドゥニャーシャ役の部長・志水由布子(中島ひろ子)がパーマをかけた髪でやって来た。
普段はまじめな由布子の変化に演劇部員たちは驚くが、そんな時、若い従僕ヤーシャ役の杉山紀子(つみきみほ)が他校の生徒とタバコを吸って補導されたというニュースが部員の間に駆けめぐる。
それによって上演中止にまで発展しかけたが、顧問の里美先生(岡本舞)のけんめいな説得によってなんとか丸く納まった。
男役として下級生にも人気の倉田知世子(白島靖代)は、今年は女主人ラネフスカヤを演じることになっていたが、初めての女役に自信を持てない知世子を、由布子は優しく励まし、そんな二人の間に友情をこえる感情が芽生えていた。
由布子は知世子に好きだったと告白し、二人で記念写真を撮る。
そして、二人の姿を偶然物かげから見てしまう紀子は由布子に好意を持っていた。
こうして開幕は近付いてきた。
舞台裏での緊張感の中で紀子がふっと「志水さん、今日は誕生日でしょう?」と由布子に言う。
やがて少女たちの間で小さな声で歌われるハッピーバースデーと共に、開幕のベルは鳴るのだった。


寸評
女子高生を主人公に据えた作品は、思春期の恋、スポ根もの、悩みや軋轢を描いた作品など多種多彩で存在しているが、その中でもこの「櫻の園」の瑞々しさは群を抜いている。
女子高の創立記念日に演劇部の3年生によってチェーホフの「櫻の園」が上演されるまでの数時間の彼女たちの様子を紡いでいるだけの作品で、部員の杉山が起こした補導事件があるとはいえ大したドラマがあるわけではないにもかかわらず最後まで釘付けにしてしまうのは、群像劇として登場人物が生き生きと描かれているからだ。
講堂でアイスクリームをしゃぶりながら彼女たちが話す場面では、全員をバランス良く配置し、カメラは1シーン1ショットの長回しでとらえ続ける。
僕は女子高の実態を知らないが、たぶん女子高の部活風景はこんなだろうと思わせる自然体の女子高生役がそこに存在している。
女子高生たちが交わす会話や行動がリアリティをもって共感を呼ぶ。
僕の行った高校は共学だったが、それでも高校時代だけにあった仲間との関係にノスタルジーを感じ、性別を超えて歳をとっても共感できたのだと思う。

部長の志水さんが登場し、持ってきたレースを衣装に合わせてみる。
自分の衣装に気に入った施しをしたよう見えたが実は・・・と言うような伏線が、見続けているうちにいたるところに張られていたことに気付く。
志水さんは2年生の舞台監督である城丸香織(宮澤美保)に今日が誕生日だと打ち明けているが、それを志水のことなら何でも知っていたとして最後に杉山に言わせている。
城丸香織はボーイフレンド(三上祐一)とキスを交わしているが、それは志水と倉田の関係への裏返しとして描かれていたのだと気づかされる。
女子高生がカッコイイ先輩に後輩が憧れると言うのは聞いたこのある話で、この作品でも倉田に憧れる後輩が登場し写真を一緒に撮ってもらえることになり感激している場面がある。
志水はそれ以上の感情を倉田に持っていて、それはプラトニックとは言え同性愛的な感情だ。
二人が一緒に記念写真を撮り、カメラに段々と近づいてくるシーンはなかなかよくて、そこに志水に思いを寄せる杉山が涙を浮かべながら見るというシーンが重なることで更にいいシーンとなっている。
その杉山は一緒に補導された別の女子高の友達と出会い笑顔を見せる。
この映画の中では数少ない笑顔のシーンだ。
杉山は志水と倉田を呼びに来た条丸を制して、扉のこちらから時間を告げるという優しさを見せ、悪そうに描かれていた杉山は本当はいい子なんだと思わせる。
上演が始まり誰もいない楽屋裏が映されて映画は終わるが公演はすでに終わっているのだ。
彼女たちは無事公演を終えて引揚げ、それぞれの思いの新しい世界に踏み出していったことを暗示している。
なぜなら、桜の花びらが舞う下で中村先生が里見先生に公演は良かったと言いながら歩いている姿が直前にあるのだから。
形式主義や権威主義に対する批判も盛り込まれていて、頼りないと思われていた里見先生が教育委員会の長いスピーチに「あんなバカバカしい話に付き合っていられないからバクレます」と去るところは痛快。
女子高生の世界を優しい目で眺めながら流れるピアノのメロディは作品にマッチしていた。

サウンド・オブ・ミュージック

2019-06-21 09:34:21 | 映画
「サウンド・オブ・ミュージック」 1965年 アメリカ


監督 ロバート・ワイズ
出演 ジュリー・アンドリュース
   クリストファー・プラマー
   エリノア・パーカー
   リチャード・ヘイドン
   ペギー・ウッド
   アンナ・リー
   チャーミアン・カー
   ニコラス・ハモンド
   ヘザー・メンジース
   デュエン・チェイス
   アンジェラ・カートライト
   デビー・ターナー
   キム・カラス

ストーリー
志願修道女のマリア(ジュリー・アンドリュース)は歌が大好きだった。
マリアはある日院長の命令で、7人の子供がいる、やもめの退役海軍大佐トラップ(クリストファー・プラマー)家の家庭教師となった。
トラップ家の古風で厳格な教育方法に対しマリアは彼女一流の音楽教育を始めた。
大佐が婚約者の男爵夫人(エレノア・パーカー)を迎えにウィーンに旅立った後、マリアは子供たちに音楽の楽しさ、歌うことのすばらしさを教えた。
帰宅した大佐は子供たちの変りように驚きマリアを責めたが、子供たちの美しいコーラスを聞いた時、心ならずも忘れていた音楽を愛した昔を思い出した。
数日後トラップ家のパーティで、マリアは大佐と踊った時、彼を愛しているのに気づき修道院に帰った。
しかし院長に励まされ、再びトラップ家に帰ったが、そこには大佐と男爵夫人の婚約発表が待っていた。
だが、子供たちはなつかず、大佐がマリアを愛しているこを知った夫人はひとりウィーンに旅立った。
大佐とマリアは結婚した。
大佐の友人マックスは彼らを音楽祭りに出場させることにした。
ハネムーンから帰った大佐を待っていたのはヒットラーからの召集令状だった。
祖国への愛を裏切れない彼に残された唯一の道は亡命で、音楽祭を利用して脱出を計画するが…。


寸評
雄大な自然の中でマリアと子供たちが繰り広げる物語は、幅広い年齢の者が理屈抜きの楽しめるミュージカルとなっていて、全16曲が歌われる。
冒頭は丘の上にいる豆粒ほどのマリアが空撮で写され、グーンと近づいていくとThe hills are alive with the sound of music とジュリー・アンドリュースが「サウンド・オブ・ミュージック」を歌い上げ、この時点で観客を引き付けてしまう力を持ったオープニングである。

マリアは修道女見習いでお転婆であることが、修道女たちの「マリア」によって紹介され、マリアは修道院長に勧められてトラップ邸へ向かう。 歌われるのは「自信を持って」だ。
トラップ家の子供たちは厳格に育てられているがいたずら好きだ。
長女リーズルは電報配達のロルフと密かな恋仲であり「もうすぐ17才」を歌って甘いひとときを過ごす。
ダンスナンバーと呼ばれる曲はないが、あえて挙げればこの曲だろう。
マリアが子供たちと打ち解けるのは雷鳴とどろく嵐の夜で、励ましの歌である「私のお気に入り」が盛り上げる。

マリアは仲良くなった子供たちと遠足に出かけ、皆が知っている歌がひとつもないと聞いて驚き、教える歌が「ドレミの歌」である。
日本ではドはドーナツのドと唄われるが、言語ではDoe, a deer, a female deer(ドゥは 鹿、雌鹿)と唄われる。
3オクターブともいわれるジュリー・アンドリュースの高音が響き渡る。
マリアが解雇されそうになるのをつなぎとめるのが、トラップ大佐が自らも長い間忘れていた歌「サウンド・オブ・ミュージック」だった。

トラップ大佐の婚約者歓迎会でマリアと子供達によって歌われるのが「ひとりぼっちの羊飼い」で、大佐は「エーデルワイス」を歌い、オーストラリアへの忠誠を示す。
舞踏会で子供たちが歌う「さようなら、ごきげんよう」は可愛らしく、一番下のブリギッタは愛嬌がある。
大佐への愛を感じたマリアが置き手紙をしてそっと修道院に戻るところで第一部は終わるが、この時点で全ての観客は大満足となっているはずだ。

第二部はマリアが院長から神の愛も男女の愛も同じだと諭されるところから始まるが、修道院長の歌う「すべての山に登れ」の歌声に驚かされ、「そうだ、これはミュージカル映画なのだ」と再確認させられる。
「私のお気に入り」を歌ってマリアが登場した時には、子供達だけではなく僕たちも嬉しくなってしまう。
トラップ大佐とマリアは「何かいいこと」で愛を確認し、「マリア」で結婚式をあげる。

ドイツの招集に不本意な一家が逃れるために利用するのが音楽会で、いよいよクライマックスとなる。
「ドレミの歌」に始まり、「エーデルワイス」で観客と共にナチスドイツに意思を示し、そして「さようなら、ごきげんよう」で一人ひとりが消えていくという盛り上がりを見せる。
修道女たちの助けも借りて、「すべての山に登れ」と共に逃亡先のスイスへと向かう山越えでエンディングとなる。
あらすじを示すだけですべてのシーンが蘇ってくる、ファミリー・ミュージカルの最高峰に位置する作品だ。

サウルの息子

2019-06-20 08:41:15 | 映画
「サウルの息子」 2015年 ハンガリー


監督 ネメシュ・ラースロー
出演 ルーリグ・ゲーザ
   モルナール・レヴェンテ
   ユルス・レチン
   トッド・シャルモン
   ジョーテール・シャーンドル

ストーリー
1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。
ハンガリー系のユダヤ人、サウル(ルーリグ・ゲーザ)は、同胞であるユダヤ人の屍体処理に従事する特殊部隊・ゾンダーコマンドとして働いている。
ある日、ガス室でまだ息のある少年を発見する。
結局亡くなってしまったその少年を、サウルは自分の息子と思い込む。
その少年はすぐさま殺されてしまうが、サウルはラビ(=ユダヤ教の聖職者)を捜し出し、ユダヤ教の教義に則って手厚く埋葬してやろうと収容所内を奔走する。
そんな中、ゾンダーコマンドの間では、収容所脱走計画が秘密裏に進んでいた…。


寸評
これはすさまじい映画である。
数あるナチスのホロコースト映画やアウシュビッツを舞台としたユダヤ人虐殺映画と一線を画している。
主人公が強制収容所に入れられたユダヤ人でありながら、ナチスに命じられて、同胞であるユダヤ人たちをガス室へ送り込み、死体処理も行う特殊部隊ゾンダーコマンドだというところが斬新であるとともに、その描写はドキュメンタリー以上の非道を描き出している。
収容所に送り込まれたユダヤ人たちは無残に処刑されたり、強制労働を強いられているのだが、それらを監督実行しているのが同胞であるユダヤ人たちだ。
ゾンダー・コマンダーである彼等も命は欲しい。
自分の命を守るためには同胞の命を犠牲にしなければならないというひどい状況下にある。
収容所内は常に処刑が行われていて、その始末と実行で混乱している。
カメラはその様子を手持ちカメラで生々しく写し撮る。
出来事は色々起きるが物語の進展に直接的な影響を及ぼすものではない。
ただただ延々と無慈悲な混乱が描かれ続けていく。
その中で主人公は、息子と思い込んだ少年をユダヤ教では許されない火葬から本来の教義である埋葬にするために奔走する。
しかもその奔走は処刑と過酷な強制労働の合間を縫って必死の形相で行われる。
そのために、必要以上なまでの収容所の卑劣な状況が描き続けられる。
サウルは自らの行っている行為がどんなに非人間的なものであるかを感じている。
おそらく少年の埋葬は、思わず出てしまった自分が人間でありたいと願う本能の行為だったのだろう。
祈りならやってやると言う仲間の声には耳を貸さず、正式な聖職者であるラビを探し続ける。
少年の遺体を隠し、聖職者を探し続ける必死な姿をカメラは追い続ける。
自らの命を危険にさらしながらも苦闘するサウルの姿を描き続けた映画は最後になってやっと大きく動く。
ゾンダーコマンド達が脱走を企て、サウルも少年の遺体と共に脱出する。
追手が迫る中で何とか埋葬を試みるが成功しない。
落胆しレジスタンスに合流しようとするサウルの前に、亡くなった少年と年恰好が同じような少年が現れる。
サウルの微笑みは自身が救われた思いに至った為だったのかもしれない。
サウルたちは結局射殺されたようで、全くもって救いようのない映画なのだが、最後にその少年が森の中に逃げ込む姿を捉えて映画は終わり、せめてもの救いとしている。
あの少年が生き延びたかどうかは不明で、一点の光明がわずかにそのことだとする辛い映画ではあった。
サウルは人間らしさを最後まで維持しようとしたが、人から人間らしさを奪ってしまうのも戦争のなせる業で、説教臭さはないものの、やはり戦争はいやだと思わせるに十分な内容の作品だ。

サイドカーに犬

2019-06-19 14:25:50 | 映画
「サイドカーに犬」 2007年 日本


監督 根岸吉太郎
出演 竹内結子 古田新太 松本花奈 谷山毅
   ミムラ 鈴木砂羽 トミーズ雅 山本浩司
   寺田農 伊勢谷友介 樹木希林 椎名桔平

ストーリー
不動産会社の営業として働く30歳の薫(ミムラ)は、久々に再会した弟(川村陽介)から結婚披露宴の招待状を受け取る。
それをきっかけに、薫は20年前にヨーコさんと過ごした刺激的な夏休みを回想する。
それは小学校四年生の頃だった。
薫(松本花奈)の父親(古田新太)は、ヤミ中古車販売をしているだらしなく、いいかげんな男だった。
母親(鈴木砂羽)はしっかり者で几帳面だったが、ある日、母親は家の大掃除をして出て行ってしまった。
母親が居ない家。父親が持って来たインベーダーゲームに熱中する弟(谷山毅)。
ぼんやりと過ごす薫。
その数日後に薫の家に突然やって来たヨーコさん(竹内結子)は、薫の父の愛人という。
ドロップハンドルの自転車に颯爽と乗るヨーコさんは、神経質な母とは対照的に大ざっぱな性格で気が強い人だった。
煙草を吸い、さっぱりとした性格で気が強く、自由な精神にあふれた女性だが繊細な優しさも併せ持っていて、薫に対しても子ども扱いすることなく対等に接してくれた。
長女らしい生真面目さを持つ薫には、ヨーコさんとの生活は驚きの連続だった。
だが、ヨーコさんは薫を子ども扱いすることなく、薫の長所を鋭く見抜く。
そんなヨーコさんに、甘え下手だった薫も知らず知らず影響され、ありのままの自分を解放させる楽しさを味わっていく。


寸評
主演の竹内結子が惚れ惚れするほどカッコいい。
白や赤や黒のパンツルックがやたらと決まっていて、自転車に乗る姿が颯爽としている。
なんでこんないい女が古田新太演じるさえないオッサンの愛人なんだ?
その辺りの説明は一切ないが、その分薫がヨーコさんから影響を受ける様がリアリティを持って描かれている。

薫にとって「忘れられない人」であるヨーコさんは、カレー皿に麦チョコを盛ってくれたり、ドロップハンドルの自転車をカッコよく乗りこなし、自転車の乗り方を教えてくれたし、禁止されていたコーラを買ってくれたりもした。
時代は1980年代初頭ということで、近所にあるらしい山口百恵の家を見物に行ったりもしている。
そんなヨーコさんを竹内結子が好演していて、まさしく竹内結子による竹内結子のための映画だ。

実はこのヨーコさんなる女性が、一体どういう人なのかが不明だ。
タバコを吸う姿には色気すら感じさせ、どこか水商売っぽいところがあるが、それにしては決して下品ではない色気なのだ。
チャキチャキした姉御肌だが、どこか寂しげなところもあり涙も見せる。
「嫌いな人を好きになるのは簡単だけれど、好きな人を嫌いになるのは難しい」とツラそうに言うシーンは、彼女の胸中を描写したシーンで印象に残る。
明るくキラキラした姿とのギャップによって余計に切なくなってきた。
髪型などをワルっぽくしても、とても悪女には見えない。
それは天性の整った顔によるものかもしれないが、本当は愛情深い人なのだろうと思わせる。
そんな女性を演じさせて、彼女の魅力を引き出したという点においては賞賛されるべき作品だ。

そしてその彼女の魅力を引き出しているのが少女時代の薫を演じた松本花奈ちゃん。
誰にでも影響を受けた人というのは居るもので、彼女が母とはまったく違うヨーコさんに触発される様をうまく表現している。
まったく別人になるでもなく、それでいて微妙に影響を受けていく様がうまく表現されている。
確かに母親が子供を置いて出て行く事実は大きな事件なのだろうが、その後の展開においては大した事件はおこらず、父親の警察沙汰もアッサリと流される。
したがって全体としての盛り上がり、高揚感といったものは少ないが、世の中の片隅で生きている人間をしみじみと描いていたと思う。
「飼われているのがいいか、自分が飼うほうがいいか」などと、男女の仲とも大人の縦社会ともとれる意味ありげな言葉も心に残る。
飼い犬として扱われることへの反発もなく、それでも幸せなひと時を感じられる子供時代。
そして、ヨーコさんの面影と決別することによって、まわりに流されてきた今までの自分から脱皮できた薫は幸せだった。
そんな人に出会えた幸運があったのだ。
夏休みのエピソードも、ヨーコさんの最後の去り方も良かったが、でもどうしてヨーコさんはあんなに薫をかわいがったのかなあ・・・。

最後の忠臣蔵

2019-06-18 09:24:11 | 映画
「最後の忠臣蔵」 2010年 日本


監督 杉田成道
出演 役所広司 佐藤浩市 桜庭ななみ
   山本耕史 風吹ジュン 田中邦衛
   伊武雅刀 笈田ヨシ 安田成美
   片岡仁左衛門 柴俊夫 佐川満男

ストーリー
赤穂浪士の中に、討入り後の使命を与えられた二人の生き残りがいた。
一人は討入り後、切腹の列に加わることを許されず、大石内蔵助(片岡仁左衛門)から「真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助せよ」との密命を受けた寺坂吉右衛門(佐藤浩市)。
そしてもう一人は、討入り前夜に忽然と姿を消した瀬尾孫左衛門(役所広司)である。
孫左衛門は、まもなく生まれてくる内蔵助の隠し子を守り抜くという極秘の使命を内蔵助本人から直々に受けていた…。
討入りから16年間、人はそれぞれの使命を果たすためだけに懸命に生きてきた。
吉右衛門は赤穂浪士の遺族を捜して全国を渡り歩き、遂に最後の一人にたどり着く。
孫左衛門は武士の身分までも捨て素性を隠し、可音(桜庭ななみ)と名付けた内蔵助の忘れ形見を密かに育てあげる。
やがて凛とした気品を備えた美しい娘に成長した可音は、天下の豪商・茶屋四郎次郎(笈田ヨシ)の嫡男・修一郎(山本耕史)に見初められる。
可音を名家に嫁がせれば、孫左衛門の使命もまた終わるのだった。
そんな中、かつては厚い友情で結ばれ、主君のために命を捧げようと誓い合った二人が再会する。
かたや命惜しさに逃げた裏切り者、かたや英雄になれなかった死に損ないとして。
だが、孫左衛門の口から真実が明かされることはなかった。
そしてとうとう可音の嫁ぐ日がやってくるが、今では内蔵助の名誉は回復していたとはいえ、その存在すら隠してきた可音のお供は、孫左衛門ただ一人。 
ところが・・・。


寸評
日本人は忠臣蔵が好きだ。
主君が死んでも忠義を尽くす大石をはじめとする赤穂浪士の姿に感動するのである。
赤穂浪士の討ち入り話の後日談を描いた、ユニークなフィクション作品であるけれど、忠臣蔵の持っているテーマの如き感性を持った作品となっている。

瀬尾孫左衛門(役所広司)は裏切り者のそしりを受けつつ、主君大石内蔵助の隠し子可音(桜庭ななみ)を守り続けてきたのだが、映画はこの二人の疑似父子関係に焦点を当てて感動ドラマに仕上げている。
可音は元夕霧太夫のゆう(安田成美)に礼儀作法を教わり、つつましやかな生活を送りながらも凛とした教養ある女性に成長していく。
孫左衛門は後見役として生活を支えるが、二人の関係は親子であり恋人のようでもある。
孫左衛門が可音に寄せる思いと、可音が孫左衛門に寄せる思いが交差して情感を盛り上げる。
薄っぺらい疑似親子の愛情物語になっていない所がいい。
娘と主人公の関係があまりに濃厚すぎて、その行く末が心配になってくるくらいの描き方で、耐えに耐えるといった感じも出ていた。
役所広司はどんな役でもこなすと思わされるし、桜庭ななみもなかなか好演である。

死んだ主君の娘を立派に育て上げ、嫁がせる。
それが主人公の目指す、死んだ仲間たちへのケジメである。
そのためだけに彼は、自分の人生をすべて犠牲にして生活の糧を稼ぎ、この娘に教養を与えてきた。
赤穂の浪士たちの主君は浅野内匠頭だが、彼等にとって大石も又主君なのだ。
すでに大石の名誉は回復されている。
だから天下の豪商茶屋四郎次郎もこの縁談を良縁と受け入れている。
とうとう可音の嫁ぐ日がやってくるが、ここからの盛り上がりはこの映画の見せ場となっている。
嫁ぐ娘が父に対して別れとお礼の言葉を述べるのは結婚式には付き物だが、その光景も泣かせるものだ。
身分を隠して過ごしてきた可音の婚礼に付き従うのは瀬尾孫左衛門ただ一人であった。
ここで忠臣蔵ファンを満足させる泣き所が用意されていて、僕もここではボロボロと涙を流してしまった。

忠臣蔵のテーマは忠義だ。
主君死すとも忠義を果たすという忠臣蔵のテーマを、ちゃんとこの作品は踏襲している。
武士道とは死ぬことと言うが、寺坂吉右衛門と瀬尾孫左衛門は浪士と共に死ぬことが出来なかった。
それも大石への忠義だったのだが、その忠義は彼ら自身しか知らない。
誤解を受けながらも貫き通してきた忠義を理解され、それが全員の忠義へと広がっていく。
この感動に酔いしれる。
そして孫左衛門は最後に四十七士への忠義を果たす。
う~ん、まさに忠臣蔵だ。

最強のふたり

2019-06-17 09:26:12 | 映画
「最強のふたり」 2011年 アメリカ


監督 エリック・トレダノ / オリヴィエ・ナカシュ
出演 フランソワ・クリュゼ
   オマール・シー
   アンヌ・ル・ニ
   オドレイ・フルーロ
   クロティルド・モレ

ストーリー
ひとりは、スラム街出身で無職の黒人青年ドリス(オマール・シー)。
もうひとりは、パリの邸に住む大富豪フィリップ(フランソワ・クリュゼ)。
何もかもが正反対のふたりが、パラグライダーの事故で首から下が麻痺したフィリップの男性介護者選びの面接で出会った。
周囲の憐れみの同情と腫れ物に触るような態度に辟易していたフィリップは、不採用の証明書でもらえる失業手当が目当てというふてぶてしい態度に興味を抱き、思いつきで採用してしまう。
ドリスには介護の経験がないばかりか、趣味や生活習慣にいたるまで互いが歩んできた世界はまるで水と油。
クラシックとソウル、高級スーツとスウェット、文学的な会話と下ネタ──だが、ふたりとも偽善を憎み本音で生きる姿勢は同じだった。
いつまで持つかと思われたが、障がい者相手にも遠慮することなく本音で接するドリスは、他の誰よりもフィリップの心を解きほぐし、いつしか2人は固い絆で結ばれていく。
そんなある日、心配してドリスの経歴を調べた親戚が、宝石強盗で半年服役した前科者だから気をつけるようにとフィリップに忠告する。
しかしフィリップは、「彼は私に同情していない。そこがいい。彼の素性や過去など、今の私にはどうでもいい事だ」と、毅然と答えるのだった。
フィリップを車の荷台に乗せるのを「馬みたいだ」と嫌がって助手席に座らせたり、早朝に発作を起こした彼を街へ連れ出して落ち着くまで何時間も付き合ったり、意外にもドリスには自然な思いやりや優しさがあった。
だが別れが突然やってきた・・・。


寸評
フィリップは首から下が麻痺している身障者である。
対照的に健常者の代表であるようなドリスがそのフィリップをからかい笑い飛ばすのだが、これほど身障者をコケにした作品は類を見ない。
それなのに爽やかさがあり、嫌な気分になるどころか微笑ましささえ感じてしまう稀有な作品である。

ドリスの不遇な家庭環境が冒頭で描かれるが、同時に一見不良のように見えながら根はいい男だと思わせる描写がなされ、その後の彼の言動を陰ながら支えることになるプロローグとなっている。
ドリスは悪態をつくが、自然体なので可笑しさだけが残りイヤミはない。
フィリップを車の荷台に乗せるのを「馬みたいだ」と助手席に座らせ健常者並みに扱うし、早朝に発作を起こした彼を車椅子で街へ連れ出し何時間も付き合ったりする。
ドリスには風貌や態度に似合わず思いやりや優しさがあるのだ。
手足が動かないのに、平気で携帯電話を差し出す無頓着ぶりなのだが、それはフィリップを身障者として同情していない証でもある。

イヴォンヌが企画した毎年恒例となっているフィリップの誕生日パーティアが開かれる。
フィリップによると、親戚の連中は彼が生きているかどうか確認のために集まってくるらしい。
富豪のパーティらしく楽団が呼ばれ、クラシック音楽が奏でられて、参加者はそれを静かに聞いている。
ドリスは演奏される曲を聞いて、コマーシャルに使われているものだとか、トムとジェリーの音楽だなどとはやし立てるのだが、それがフィリップには今までにない感想で笑ってしまうものだ。
ドリスは自分の音楽も聞いてくれと軽快な音楽を流し踊りだす。
歳を取り恰幅が良くなったご婦人ですら大きなお尻を振りながら踊りだすのだが、その様子をフィリップは幸せそうに眺めて、始めて誕生日パーティを楽しむことになる。
リズミカルな音楽に乗って皆が踊りだすとういうこの場面は愉快で楽しいシーンだ。
パラグライダーで大空を滑空するシーンも微笑ましい。

ヘマをして仲間にシメられたドリスの弟が、ドリスのもとに逃げ込んでフィリップ邸にやって来る。
家族のことを真剣に思うドリスを見たフィリップは、「やめにしよう。これは君の一生の仕事じゃない」と提案する。
ドリスは翌朝、名残を惜しむ邸の人々に陽気に別れを告げるのだが、この頃になると皆から信頼と愛情を得ているまでになっていたことが判り、このシーンではセンチメンタルな気分になる。
ドリスの代わりにやって来た介護者と上手くやっていけないのはお決まりの展開で、ドリスが再び戻ってくるのもストーリー的には予想されたものだ。
結末はある程度予測できるものだが、その直前にオープニングシーンを再度持ってきたのはグッドだった。
実話物としてよく用いられる手法だが、エンドロールで現在のフィリップとドリスの映像が挿入され、、ドリスは成功者になっていて、二人の信頼関係が続いていることが告げられる。
フィリップは結婚して子供も生まれているらしいことも明かされ、ハーピーエンドを締めくくる。
直前の広々とした海を眺めるシーンが平穏と幸せを象徴していたと思う。

サード

2019-06-16 09:44:45 | 映画
「サード」 1978年 日本


監督 東陽一
出演 永島敏行 吉田次昭 森下愛子 志方亜紀子
   内藤武敏 峰岸徹 片桐夕子 西塚肇
   若松武 小林悦子 大村温子 島倉千代子

ストーリー
関東朝日少年院は三方を沼で囲まれている。
鉄格子の中で、少年達は朝早くから点呼、掃除、食事、探索等の日課を黙々とこなす。
元高校野球の三塁手として活躍した通称サード(永島敏行)もその少年達の一人であった。
しかし、数日前、上級生のアキラ(池田史比古)がサードの優等生ぶりが気に入らずケンカをしかけたため、二人は単独室に入れられていた。
ある日、サードの母(島倉千代子)が面会にやってくる。
退院後の暮しをあれこれ心配する母に、サードは相変らず冷淡な態度を示すのだった。
少年達が待ちこがれる社会福祉団体SBCがやってくる。
三ヵ月に一度やって来るこの日だけが、若い女性に接する事ができるのである。
SBCとのソフトボールの試合中、一人の少年が院に送られてくる。
サードの仕事仲間で数学IIBだけが取得の、IIBと呼ばれている少年(吉田次昭)である。
ある日農場で、誰とも口をきかなかった、オシと呼ばれる少年(若松武)が逃走した。
その騒ぎにまぎれて院の生活に馴じめないIIBも逃走を図るが、やがて連れ戻される。
サードはそんなIIBを殴り倒す。
走っていくなら何処までも走れと、無言で語るサードの表情には、確固とした決意が読みとれた。
サードの頭の中に在るのは、ここへ護送される途中に垣間見た、祭りの町を走り抜ける夢であった。
彼が「九月の町」と名付けたその町は、彼が少年から大人へと成長する時に、彷徨しながら通りすぎる青春であった。


寸評
高校野球の3塁手として活躍していたサードと友人のIIBは新聞部と呼ばれる女子高生(森下愛子)とテニス部と呼ばれる女子高生(志方亜紀子)のふたりを巻き込んで売春を始めるが、売春の理由は”どこか大きな町へ行くにはお金が必要だ”というものだ。
ある日ヤクザ相手の売春で殺人事件を起こしてしまったサードは少年院へ入れられてしまう。
援助交際、女子高生売春の様子がかなりのウェイトで描かれるが、彼等の態度はアッケラカンとしたものだ。
悪びれた様子もないし、動機も子供じみたものだ。
初体験の様子は滑稽だが、その滑稽さが青春なのかもしれない。

冒頭から描かれるのは少年院での生活で、サードは単独室に入れられている。
監獄でいえば独居房である。
母親が面会に来るが、彼が少年院に入ることになったのは友達が悪かったのだと言う。
別の母親も同じことを言っているが、自分の子供が非行に走ったのは友達のせいだとするのは何度も耳にした言葉で、親たちが自分の逃げ場所として発する言い訳のような気がする。
サードは農作業も手伝ってくれるいい子なのだと少年院の係官に説明するが、実際のサードは採れた里芋を墓場に投げ込む少年だ。
母親は息子の将来を心配するが、息子は母親に対して反抗的である。
過度な期待を寄せ、息子を正当化させたがる母親への反抗で、思春期にはありそうな感情だ。
形は違うが、僕にもサードの頃には似たような感情があった。

社会福祉団体SBCがやってくると少年たちは妄想にふける。
赤いセーターの女(片桐夕子)、黄色いスカートの女(小林悦子)、ファーストの女(大村温子)を犯す場面を想像し自慰にふける。
これもまた青春の一ページを飾る姿ではあるのだが、「チリガミはかなしからずや若き日の、夢をつつんで捨てられるのみ」という短歌が可笑しい。
映画の中では短歌とあだ名される少年が読む短歌が何作か披露され、それは脚本を書いた寺山修司のものだと思われるがこれがまた面白い。
「今日もまた夢精のあとのかなしさよ、パンツのしみをじっと見ている」、「青春を青い春とは書くけれど、ただひたすらに揺れるものかな」、「春の夜の電柱に身を寄せて、思う人を殺したまごころ」、「いら立ちをひとに見せるはやすけれど、われはだまって短歌をつくる」などといったものであった。

オシは自由を求めて脱走するが、自由の後に訪れる倦怠によって自ら命を絶つ。
サードはオシとは反対の方向に走り続ける。
自分の持つエネルギーの発散場所は祭りのようなものであったならばとの思いがあったのかもしれない。
たしか二人共デビュー2作目だったと思うが、森下愛子と永島敏行は魅力的でこの後も活躍している。
サードはホームベースのないグランドを走り続ける。
人生にゴールはないのかもしれないし、それでも自分が選んだ道を走り続けるしかないということか。