おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ジョニーは戦場へ行った

2021-03-31 08:13:41 | 映画
「ジョニーは戦場へ行った」 1971年 アメリカ


監督 ダルトン・トランボ
出演 ティモシー・ボトムズ
   キャシー・フィールズ
   ジェイソン・ロバーズ
   マーシャ・ハント
   ドナルド・サザーランド
   ダイアン・ヴァーシ

ストーリー
第1次大戦にアメリカが参戦し、コロラド州の青年ジョー・ボナムは、ヨーロッパの戦場へと出征していった。
ジョーはいま、<姓名不詳重傷兵第407号>として、前線の手術室に横たわっている。
延髄と性器だけが助かり、心臓は動いていた。
軍医長テイラリーは「もう死者と同じように何も感じない、意識もない男を生かしておくのは、彼から我々が学ぶためだ」と説明した。
軍医長の命令で<407号>は人目につかない場所に移されることになり、倉庫に運び込まれた。
<407号>は新しいベッドに移し変えられ看護婦も変わった。
その看護婦はジョーのために涙を流し、小瓶に赤いバラを1輪、いけてくれた。
やがて雪が降り、看護婦は<407号>の胸に指で文字を書き始めた。
<407号>が頭を枕にたたきつけているのを見た看護婦は軍医を呼んだ。
頭を枕にうちつける<407号>を見た将校は「SOSのモールス信号です」といった。
将校は<407号>の額にモールス信号を送った。
「君は何を望むのか…」「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」に上官は愕然とした。
一同が去ったあと、1人残った看護婦は、殺してくれと訴えつづける<407号>の肺に空気を送り込む管を閉じたが、戻ってきた上官がこれを止め、看護婦を追いだしてしまった。


寸評
この映画が封切られた頃はベトナム戦争の真っ最中で、その為「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画として評判を呼んでいたのだが、僕は反戦映画というよりも”尊厳死”について語った作品との印象を持った。
ジョーは四肢を失い目も見えず言葉も発せない生ける屍だ。
最後の方で牧師は「彼を作ったのは神ではない。彼を作ったのは軍だ」と言い放って去っていく。
軍医は負傷兵の治療研究の為に彼を生かしている。
軍が負傷兵を治療するのは完治した彼らを再び戦場に送り出すためである。
言い換えれば殺すために生かしているとも言える。
そのような観点から「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画に属する作品と思われたのだろう。

しかし、モールス信号での会話を思いついたジョーは何を望むかと聞かれ、「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」と発進し、殺されることを切望する。
優しい看護婦は彼の望みをかなえようとするが、上官はこれを阻止する。
僕はこの最後の一連の場面で、人が生きている事の意味を否応なく考えていた。
後年、僕の母親は肝硬変を患った末期に意識朦朧となり腹水が溜まり苦しんでいた。
腹水を抜いて楽にしてやってほしいと懇願する僕に、担当医は「そんなことをすれば命を縮めますよ」と告げた。
僕が助かる見込みはあるのかと聞くと、それは絶対にないとの返答だった。
だったら少しでも楽にしてやってほしいと伝えると、「私の本意ではないが、家族のたっての頼みなので少し抜いてみましょう」と処置してくださった。
その時の母は苦しい表情を少し和らげたような気がした。
僕はこの時、延命治療とは何なのかと思った。
生きている時間と引き換えに、苦しむ時間を与える治療とは患者にとって有難いものなのだろうか。
僕はこの時、「ジョニーは戦場へ行った」を思い描いていたような気がする。

映画はモノトーンとカラー映像の組み合わせで描かれていく。
モノトーンのシーンはジョーの今を描いている。
カラー映像で描かれる場面は、ジョーの思い出の出来事であったり、ジョーが想像している内容である。
その対比は分かりやすいし、特にモノトーンの映像はジョーが現在置かれている立場の悲惨さがより強烈に観客に迫ってくる効果をもたらしている。
ジョーに関わる看護師は何人か出てくる。
上司に忠実な看護師も居れば、締めきった窓を開け放つように命じる婦長もいる。
最後の担当者は心優しい看護師で、ジョーをいたわり、普通の病人に対するようにバラの花を生けてくれる。
彼の胸にクリスマスと指で書く場面は感動的だ。
ここからこの地味な映画は一気にクライマックスへと駆け上がる。
そのクライマックスは感動を与えるものではない。
言いようのない絶望を感じさせるラストシーンとなっているが、その絶望はジョーと我々に残されたものだ。
僕たちは絶望するしかないのかと思うと悲しすぎる。

ショコラ

2021-03-30 07:17:43 | 映画
「ショコラ」 2000年 アメリカ


監督 ラッセ・ハルストレム
出演 ジュリエット・ビノシュ
   ヴィクトワール・ティヴィソル
   ジョニー・デップ
   アルフレッド・モリナ
   ヒュー・オコナー
   レナ・オリン

ストーリー
古くからの伝統が根付くフランスの小さな村。
レノ伯爵(アルフレッド・モリーナ)の猛威で因習に凝り固まったこの村に、ある日、不思議な女ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と娘アヌーク(ヴィクトワール・ティヴィソル)が越してきてチョコレート店を開く。
しかし今は断食の期間。
ミサにも参加しようとせず、私生児であるアヌークを連れたヴィアンヌの存在は、敬虔な信仰の体現者で村人にもそれを望む村長のレノ伯爵の反感を買ってしまう。
次々と村の掟を吹き飛ばす二人の美しい新参者に、訝しげな視線を注ぐ人々。
厳格なこの村に似つかわしくないチョコだったが、母ヴィアンヌの客の好みにあったチョコを見分ける魔法のような力で、村人たちはチョコの虜になってしまう。
チョコレートのおいしさに魅了された村人たちは、心を開き、それまで秘めていた情熱を目覚めさせていく。
そして、夫の暴力を恐れ店に逃げ込んだジョゼフィーヌ(レナ・オリン)がヴィアンヌ母娘の生活に加わってまもなく、河辺にジプシーの一団が停泊する。
ヴィアンヌは、そのリーダーであるルー(ジョニー・デップ)という美しい男性に心を奪われ、彼を店に招き入れる。
だがよそ者であるジプシーたちを快く思わない村人たちの、ヴィアンヌに対する風当たりは強くなった。
やがて老女アルマンド(ジュディ・デンチ)の誕生日パーティー中、ルーの船は放火され、ジプシーの一行は村を出ていく。
そして疲れて眠ったまま息を引き取ったアルマンドの葬式が続く中、ヴィアンヌは荷造りをして、次の土地に移るべく、嫌がる娘を引っ張って出ていこうとするのだった。

 
寸評
保守派VS進歩派というか、古い因習に縛られている人々を、迫害を受けながらもやがて人々封建的案を因習から解き放つという骨組みの映画はよくある。
でも、そこにファンタジーの要素を詰め込んだことで、とてもホノボノとした感じの映画になっている。
舞台はフランスの小さな村だが、冒頭のその村の俯瞰はその光景そのものが童話の世界の様で、ファンタジー作品の幕開けと言った感じだ。

古い因習を背負って立っているのがレノ伯爵だ。
親子が店を開いたのは断食の時期で、その時期にチョコレートのショップをオープンさせただけで反感を抱く。
彼は村長だが、教会の若い牧師に高圧的で、まるで宗教をも支配しているようでもある。
彼に対抗するのがチョコレート店をオープンしたヴィアンヌで、彼女は断食とは無縁だし教会にもいかない。
ヴィアンヌは特殊な能力を有していて、客の好みのチョコレートを当てることが出来る。
そしてそのチョコレートを食べた夫婦は、疎遠になっていたが再びラブラブになるし、同じく夫の暴力に悩んでいた妻は自立を決意したりするし、老人の恋も成就するようになる。
チョコレートは人生が良い方向に進み出す魔法の食べ物なのだ。
このあたりはファンタジーの世界なのだが、ヴィアンヌは超能力者のスーパーレディではない。
伯爵の冷酷な態度に怒ったヴィアンヌは、彼のところに怒鳴り込んで伯爵を非難しわめき散らす。
炎に包まれた娘を助けようと川に飛び込んで止められた時には、絶望のあまり錯乱する普通の母親なのである。
普通の母親としての姿を描くことで、単なる子供だましのファンタジー映画から脱却することに成功している。

娘のアヌークは寝物語として祖父の話を聞くのが好きだ。
祖父の妻、すなわちヴィアンヌの母は人々を助ける薬を売り歩くために旅を続ける宿命の女性で、少女であったヴィアンヌを連れて夫のもとを去った。
おそらくヴィアンヌも同様の行動を取ったのではないかと推測される。
その意味では彼女たちは神の系譜であり、神の象徴なのかもしれない。
しかしヴィアンヌは神というよりは、ちょっとした人々にチョコレートを通じて人生の「歓び」を分け与える特技を持っているだけなのである。
その経緯はジョゼフィーヌの夫からの自立を除いて何ともほほえましいものである。

役者はヴィアンヌのジュリエット・ビノシュと、糖尿病を患っている老女アルマンドを演じたジュディ・デンチが魅力的である。
店を引き継いだジョゼフィーヌが店に名前を「アルマンド」としたのも泣かせる。
ただラストはファンタジー映画の為か、チョコレート映画の為か、非常に甘いものとなっている。
ここまで徹底したハッピーエンドを描いたのは勿論作者の意図であろう。
しかし滅茶苦茶甘いなあ・・・。
もっとも、こういう作品を観ると何だかホッとした気持ちになれるのも映画の魔力だ。

情婦

2021-03-29 08:07:14 | 映画
「情婦」 1957年 アメリカ


監督 ビリー・ワイルダー
出演 タイロン・パワー
   マレーネ・ディートリッヒ
   チャールズ・ロートン
   エルザ・ランチェスター
   トリン・サッチャー
   ジョン・ウィリアムズ

ストーリー
病癒えたロンドン法曹界の長老ウィルフリッド卿は、看護婦に付き添われて事務所に帰る。
が、酒、煙草、そして得意の刑事事件もダメだといわれ、大いにクサっていた。
そこへ弁護士仲間が依頼人を伴って現われ、話を聞くうちに卿は俄然興味がわいてきた。
ヴォールという依頼人は、知り合いの富裕な未亡人が殺されたことから嫌疑が自分にかかっていることを説明し、自分の潔白は妻クリスチーネが保証すると述べて卿に弁護を頼んだ。
だが円満な夫婦の間の証言など、法廷で取り上げられるわけがない。
他にヴォールの無実を証す証人がないとすれば、殺す動機のない点を主張しなければならない。
その点についてヴォールは、自分の発明品に少し投資してもらいたいと思っていたのだと述べる。
ところが、新聞で未亡人の全財産がヴォールに遺されていたことが判り、ヴォールの立場は不利になる。
やがて事務所にスコットランド・ヤードの車が停まり、ヴォールは逮捕される。
その後ヴォールの妻クリスチーネが来訪しヴォールのアリバイを証言するが、その言葉はなぜか曖昧だった。
この2人は、ヴォールが戦時中ドイツに進駐していた頃、彼女を助けことから結ばれた仲である。
ウィルフリッド卿は看護婦や周囲の心配をよそに、弁護に立つことになった。
検事の証人喚問、ウィルフリッドの反対訊問など、事態は黒白いずれとも定めかねる展開になる。
その時検事側証人として、クリスチーネが出廷。
自分には前夫があり、ヴォールとの結婚は正式のものではないと証言、しかも未亡人殺しを告白したという、驚くべき証言をする。


寸評
実に面白い法廷劇であるが、ワイルダーらしいユーモアを随所に盛り込んだ極上のエンタメ作品となっている。
特に付き添い看護婦のミス・プリムソルとウィルフリッドのやり取りは愉快で、絶妙な息抜きとなっている。
葉巻やウィスキーの話も本筋に関係ないが随分と楽しめる。
ウィルフリッド役のチャールズ・ロートンがイギリスの弁護士は多分たぶんこんなだろうと思わせる頑固おやじ的な弁護士を好演していて重厚な裁判劇を支えている。
検事側の証人に対して新事実を加えながら反論を加えていく様は中々堂に入っている。
未亡人宅の家政婦ジャネットが被告人のヴォールを嫌っているので彼に不利な証言をするのかと思っていたら、実はその他にも原因があったなどは裁判劇として楽しめる。

観客はタイロン・パワーのヴォールが殺人など侵していないと思っているので、どのようにして無実が証明されるのかと固唾をのんで見守ることになる。
逆に疑問を持って見守るのがマレーネ・ディートリヒが演じるヴォールの妻であるクリスチーネだ。
もともと退廃的な雰囲気を持っている女優さんなので、登場シーンから怪しげである。
彼女の態度は夫を信じていないような不審なもので、しかも母国ドイツに正式な夫がおり、ヴォールとは正式な夫婦ではないと言うのだから、怪しい存在と感じるのは当然だ。
彼女のどこか冷めたようなルックスが効果的である。
マレーネ・ディートリヒは1970年の大阪万博にやってきてコンサートを開いたので歌手としての記憶も残っているのだが、彼女の歌う「リリー・マルレーン」はよかった。
一方で「100万ドルの脚線美」と称えられていたから、本作でもその脚線美を見せるシーンが用意されている。

映画的にも当然なのだが、裁判は終盤になって大きく動く。
ある女性が重要な証拠品をウィルフリッドに渡すのだが、僕はこの場面で大きな疑問が残った。
彼女が証拠品を提供した理由は納得できたが、彼女はそれをどのようにして手に入れたのだろうという疑問だ。
その疑問は裁判が終わってから明らかにされるのだが、ラストのこのシーンは脚本にもう少し工夫が欲しかった。
ここをもっと上手く処理していたら大傑作の作品になっていただろう。
ウィルフリッドは長年の経験で判決に何かしっくりこないものを感じているのだが、それが一気に解き明かされる描き方があまりにも安直すぎると思う。
もちろんアッと驚く大ドンデン返しなのだが、ドンデン返しを描く方法がこれしかないのかという描き方に肩透かしをくった感じがしないでもない。
しかし、ドンデン返しに次ぐドンデン返しで、とても予想できる内容ではない。
それまでも軽妙な語り口によって随分と楽しませてもらった観客は、最後になって「ええ、そうなの!」と叫ばずにはいられない驚きを与えられるのである。
最後に、まだ見ていない観客の為に結末を話さないでほしいと言うナレーションが入るが、納得である。
アガサ・クリスティ原作の「XXXX殺人事件」などに比べると、謎解きの面白さも勝っている。
軽妙なラストシーンが上質のエンタテインメント作品であったことを知らせてくれている。
ビリー・ワイルダーらしいと感じるラストシーンだ。

衝動殺人 息子よ

2021-03-28 10:16:06 | 映画
「衝動殺人 息子よ」 1979年 日本


監督 木下恵介
出演 若山富三郎 高峰秀子 田中健 大竹しのぶ
   近藤正臣 尾藤イサオ 藤田まこと 加藤剛
   高岡健二 吉永小百合 田村高廣 中村玉緒

ストーリー
京浜工業地帯の一角で鉄工所を経営している川瀬周三は、昭和41年になって、めっきり身体のおとろえを覚え、工場の実務を26歳になる一人息子の武志に譲った。
そして、秋には、妻・雪枝の郷里から田切杏子を迎え、結婚式をひかえていた。
昭和41年5月、武志は、友人吉川と近くの釣り堀に出かけた帰り道、ある若者に、すれ違った瞬間に腹部を刃物で刺され、周三の腕の中で息たえた。
犯人は事件から三日後に自首してきたが、ヤクザに「お前には蠅の一匹も殺せないだろう」と言われ、カッとなって、“誰でもいい、最初に行きちがった奴を殺そうと思っていた”と話す。
武志の葬儀を境に、周三の生活は一変し、工場を放り出し、墓地通いが続く。
昭和42年2月、事件から十ヵ月近くして判決が下った。
被告が未成年であり前途あることから、5年から10年の不定期刑で、軽すぎる刑に周三は怒った。
周三は法律相談の窓口を訪ねるが、こうした故なき災害に対する被害者遺族の補償は全く無いに等しかった。
周三は法律の勉強を始め、そして、事件発生以来熱心な取材にあたっている新聞記者、松崎から紹介された娘を殺された中沢や、全国の同様の境遇の人たちと被害者遺族を保護する法律を作ってもらうよう国会に働きかけることを誓う。


寸評
映画的に優れているとは思わないが、非常に重いテーマの作品で若山富三郎と高峰秀子の好演が光る。
通り魔殺人等の犯罪被害者の救済運動にかかわった人の話だが、被害者の無念さがひしひしと伝わってきた。
「こんなことは自分の子供を最後に…」との被害者遺族の会見を時々目にするが、子供を通り魔殺人で亡くした親の無念さは想像に難くない。
そして精神異常者で判断能力がなかったから無罪であるとか、加害者の人権に配慮しなどという、およそ残された家族には承服できないようなことが議論される。
法律によって守られているのは一体誰なのだと、殺された被害者の無念は一体誰が晴らすのかと、僕は通り魔殺人のニュースを見るたびに憤りを覚える。
現在では犯罪被害者給付金制度が施行されていているが、本作の公開時では法案が国会に上程さえされていなかった。
この映画が世論を動かし、犯罪被害者給付金制度の成立に貢献したとも言われているが、この制度は昭和49年8月30日に発生した三菱重工ビル爆破事件(死者8人、負傷者380人)などを契機としていることは確かだ。
このことは映画の中でも語られている。
事件が大企業で起きたこと、死者及び負傷者が多数いたことが議論を推し進めたのだろう。
逆に言えば一個人の力ではなかなか進展が難しかった案件でもあったのだろう。
主人公は会社を手放し、10年にわたって被害者を訪ね歩き被害者の会を組織していく。
それでも会長と個人の関係にとどまり横の連絡などの組織化にはなかなか成功しない。
全国を自費で飛び回り、被害者を訪ねる姿が胸を打つ。

主人公の川瀬周三は奥さんに恵まれている。
息子の葬儀の時には心労のあまり寝込んでしまっていて、葬儀は奥さんが仕切っている。
奥さんが「お父さんは泣きたいときに思いっきり泣けてよかった。私は泣きたいときにも泣けず・・・」と号泣する場面があるが、僕はこのシーンに号泣してしまった。
家族の無念さは甥の三郎(尾藤イサオ)が新聞記者の松崎(近藤正臣)に詰め寄るシーンに凝縮されている。
叔父は10年間苦しい思いをして運動を続けてきたが、犯人は10年以下の懲役刑だから今は刑務所から出てきて大手を振って生きているのだろう。
叔父、叔母の気持ちは、被害者の気持ちはどうなるのだと詰問する。
僕は、本当にそうなのだと再び憤りを覚える。

主人公川瀬周三と妻雪枝の活動を見ていると、拉致被害者家族の活動が重なってきた。
家族を突然失ったら、主人公の様な活動をせざるを得ないような気持にさせるのだろう。
理不尽な事件が多すぎるのだ。
命が軽んじられてきているのだ。
犯罪被害者給付金をもらっても亡くなった家族は帰ってくることはない。
藤田まことの言葉は切実なものがあったなあ。
「犯罪被害者等給付金支給法」は昭和55年5月1日に制定され、昭和56年1月1日から施行された。

シュリ

2021-03-27 17:36:36 | 映画
「シュリ」 1999年 韓国


監督 カン・ジェギュ
出演 ハン・ソッキュ
   キム・ユンジン
   チェ・ミンシク
   ソン・ガンホ
   ユン・ジュサン
   パク・ヨンウ

ストーリー
1998年9月、ソウル。
2002年のワールドッカップのため南北朝鮮統一チームが結成され、南北交流試合開催のニュースに国内は沸いていた。
韓国の情報部員ユ・ジョンウォン(ハン・ソッキュ)はアクアショップを経営する恋人イ・ミョンヒョン(キム・ユンジン)との結婚を1カ月後に控えていた。
ユ・ジョンウォンと相棒のイ・ジャンキル(ソン・ガンホ)は最近相次ぐ要員暗殺事件の捜査中で、北朝鮮の女工作員イ・バンヒを追っていた。
彼らに情報を提供する予定であった武器密売商が射殺されることによって、ユ・ジョンウォンはこの事件に北朝鮮の特殊8軍団が巻き込んでいることを知る。
ユ・ジョンウォンとイ・ジャンキルは暗殺犯の行跡を追跡する中で、特殊8軍団が国防科学技術研究所の開発した新素材液体爆弾CTXを奪取しようと計画していることを突き止める。
しかし、彼らがCTX奪取情報を聞いて現場に着いたときには既にCTXを盗難された後であった。
ユ・ジョンウォンはその奪取犯がリビア大使館鎮圧作戦の際、擦れ違ったことのあるバク・ムヨン(チェ・ミンシク)の特殊8軍団の要員たちであることに気がつく。
バク・ムヨンの行跡を追っていたユ・ジョンウォンとイ・ジャンキルは何回も目の前で敵を逃してしまい、情報機関内部から情報が漏れていることに気がつく。
爆破目標が要人も集う交流試合が開催されるスタジアムと突き止めるが、ここで衝撃の事実が発覚。
一体誰が裏切り者であるのか・・・。


寸評
僕は韓国映画はベッドシーンがない代わりに暴力描写はすさまじいというのが特徴だと感じている。
その韓国映画の面白さが前面に出た作品だ。
まず女性工作員イ・バンヒの訓練場面と特殊第8軍団の実戦シーンが描かれるが、その映像はすさまじい。
訓練の過酷さは当然としても、人を殺す訓練では血しぶきが飛び交い、そのむごすぎる状況に耐えられない者は特殊工作員に向かない者として味方によって射殺されてしまう。
こういう訓練を施された北朝鮮の工作員と我が自衛隊員は戦えるのだろうかと不安に思ってしまう。
訓練を終えたイ・バンヒは敬意をもって送り出されるが、潜入先は韓国であることは明白だ。
迎え撃つのは韓国の情報部員たちである。
情報部員ユ・ジョンウォンは自分の身分を恋人にも打ち明けることが出来ない。
韓国側に情報を提供する予定であった武器密売商がイ・バンヒによって射殺されるが、観客はイ・バンヒの姿を見るだけでその容姿は伏せられている。
そうなるとイ・バンヒとは・・・という興味が湧いてくるが、勘のいい観客ならその正体は早い段階で推測がつく。
しかし韓国情報部員と北朝鮮の特殊部隊の銃撃戦はなかなか迫力があって、邪推を飛び越えて観客をラブロマンスとスパイアクションの世界へと誘っていく。

内部から情報が洩れていることが分かって来て、一体誰が裏切り者かということに興味が行くが、それに主人公のユ・ジョンウォンが絡んでいそうなことは雰囲気からわかる。
しかしどのような絡み方をしているのかが分からないので観客の興味は尽きない。
まさかその手があったかという種明かしは面白い着想だ。

題名のシュリは朝鮮半島に生息する川魚で、 海と川を行き来する地味な魚らしいが、北朝鮮と韓国を自由に行き来できるようになりたいという、朝鮮の南北問題を象徴させているタイトルとなっている。
しかし、劇中のストーリー展開の中で重要な魚は、シュリではなくキッシンググラミーだ。
キッシンググラミーはペアの片方が死ぬともう一方も死んでしまうと説明されている。
まさに悲恋を象徴する魚だ。

北と南の緊張関係と南北統一問題が背景にあるのだが、南北統一を実現するための方策がアンチ・テーゼとなっているのだが、その叫びは一理あるもので興味深い。
50年間も南北統一がなされないのは両国の指導者にその意思がないからだと言うのだ。
実際、金王朝と呼ばれる一族の独裁支配が続く北朝鮮と、曲がりなりにも民主主義を標榜する韓国が話し合いで統一されるはずがない。
南が北の政治体制に同調するわけはなく、北の指導者たちも今享受している既得権を手放すはずがない。
さすればバク・ムヨンの言うような方法も考えられるのだが、それなら北に革命を起こした方が早いような気もする。
政治がらみのサスペンス映画でありながら痛快なアクション映画でもあり、悲恋も際立つラブロマンス映画でもあり、十分すぎるくらい韓国映画を堪能できる作品である。
その後の韓国映画に僕を引き付けた作品でもある。

JUNO/ジュノ

2021-03-26 08:09:44 | 映画
「JUNO/ジュノ」 2007年 アメリカ


監督 ジェイソン・ライトマン
出演 エレン・ペイジ
   マイケル・セラ
   ジェニファー・ガーナー
   ジェイソン・ベイトマン
   オリヴィア・サールビー
   J・K・シモンズ

ストーリー
アメリカ中西部のとある平凡な街に住むジュノは、1977年のパンクロックとB級映画が大好きという、ちょっと変わった16歳の女子高生。
ある秋の日、彼女の妊娠が判明する。
原因は、同級生のポーリーとの興味本位のセックス。
ジュノは中絶するつもりで病院に行くが、中絶反対運動に参加している同級生に出会い、考えを変える。
ジュノは早速、親友のリアとともに里親探しを開始。
フリーペーパーで郊外の高級住宅街に住むヴァネッサとマークの夫婦を見つける。
準備万端整ったところでジュノは両親に妊娠の事実を報告。
ショックを受けながらも二人は彼女を受け入れ、全面的なバックアップを約束するのだった。
週末、父のマックとともに養子縁組契約のために里親希望の二人の家に向かうジュノ。
弁護士とともに待っていたマーク、ヴァネッサと、ぎこちない会話を続けながらもなんとか契約手続きは無事完了し、ホッと一息ついたところで、ジュノがマークのギターを発見。
二人はお互いが共通の趣味を持っている事を知り、意気投合する。
これをきっかけに、紙切れだけの関係が大きく変わってゆく。
小さな命を授かったことがきっかけとなり、ジュノは、気づかなかった様々なことを知り、成長してゆく。
窮屈そうに生きる大人たちの姿、両親の深くて大きな愛、かけがえのない友情。
そして、長い冬が過ぎ、春から初夏に変わる頃、ジュノはいよいよ出産予定日を迎える……。


寸評
16才で妊娠した女子高生の話だけにキワモノ的な要素を含んでいそうな予感がする作品だったが、10代の妊娠というショッキングなネタを扱っているものの、とてもまともでハートフルな青春映画だ。

主人公のジュノは少々生意気で、皮肉ばかり言う小憎らしい娘なのだが、どこか心底憎めない。
きわどい会話も平気でするし、一見あばずれの不良娘とも思えるのだが、いつの間にか温かな視線で見守ってしまう不思議な魅力を持っている。
ジュノの妊娠は彼女の初体験に対する好奇心から発生したもので、妊娠の相手であるポーリーを誘い込んだのも彼女である。
彼女はその事実を先ずは親友のリアに告げる。
実にアッケラカンとした告白であるし、受けたリアのリアクションも軽いもので、彼女たちには深刻感が全く感じられない。
彼女の立場と年齢を考えると中絶が選択肢の一つとなるはずだし、両親への相談も当然しなくてはならない。
ところがジュノは色々あって生む決意をし、そして生まれたばかりの赤ちゃんを里親に委ねる選択をする。
アメリカ社会の体制がどのようなものかは知らないが、とても事務的に事が運んでいる。
すべてが整ったところで両親への報告となるが、本来から言えば順序が逆だ。
それを聞いた父親も後妻である母も非常に寛容で彼女を受け止める。
ちょっとちゃらんぽらんに見える父と義理の母であるが、ジュノに対してとても愛情を注いでいるjことが映画を見ているうちに感じてくる。

里親となるヴァネッサとマークの夫婦はとてもいい感じの夫婦に見える。
妻のヴァネッサは子供が産めないようで、心から子供を欲しがり母親になる願望を持っている。
里親になりたい希望をタウン紙に掲載してからトントン拍子に話が進んだことから、夫のマークに疑問の気持ちが湧いてくる。
それは微妙に違う夫婦間の思いの違いだ。
里親になることもそうだし、室内の装飾もそう、趣味の世界も、これから目指すことも違っていることを感じる。
理想と思えた夫婦の姿を見てジュノは、二人の間の友情や愛は続かないものかと疑問を父親にぶつける。
父はジュノに「愛してる」という。
ジュノの家庭には愛が満ち溢れていたのだ。

この両家庭の人物描写と性格設定はなかなか上手い。
ジュノの相手であるポーリーとその母親、親友のリアなどの描写も巧みだ。
彼等が交わす会話も含めて脚本の巧みさが光る。
ラストで安易なご都合主義に走っていないのもいい。
ジュノがヴァネッサに託した手紙と、義母のブレンがヴァネッサにかける言葉と、ヴァネッサの返答がホッコリさせるし、ジュノとポーリーの結末もしっくりくる。
描かれる内容の割にはとてもポップな作品だった。

ジャズ大名

2021-03-25 07:50:08 | 映画
「ジャズ大名」 1986年 日本


監督 岡本喜八
出演 古谷一行 財津一郎 神崎愛 岡本真実
   殿山泰司 本田博太郎 今福将雄
   ロナルド・ネルソン
   ファーレズ・ウィッテッド
   小川真由美 唐十郎
   ミッキー・カーチス

ストーリー
南北戦争が終り、解放された黒人奴隷のジョーは、バーモント近くの激戦地跡で弟サム、従兄ルイ、叔父ボブの3人に出会った。
彼らは故郷のアフリカへ帰るため楽隊でもやって船賃を稼ごうと、ジョーが中心になって演奏を始めた。
ボブのクラリネット、ルイのコルネット、サムの太鼓、ジョーのトロンボーンと、繰り返し演奏するうち、曲は軽快にジャズらしくなり、4人は夢中になって来た。
4カ月たち、メキシコ商人にだまされた4人は、香港行の船の中だった。
ある日、ボブが鳴らなくなったクラリネットを前に、病気で死んだ。
ある大嵐のなか、三人はボートで船から逃げ出したところ、彼らのボートは駿河湾の庵原藩に打ち上げられた。
庵原藩の藩主、海郷亮勝は大の音楽好きで、家老の目を盗んではふところからヒチリキを出して吹いている。
彼には女らしい文子と、少年のように勇しい松枝という二人の妹がいた。
ジョーたち三人は医師、玄斉のところに運び込まれる。
亮勝は彼らたちにひとめ会いたいと願うが、家老の石出九郎左衛門は許してくれない。
江戸幕府からは、黒人の処分は亮勝に任せるとの命令が入った。
亮勝は城の地下座敷牢にジョーたちを入れる。
江戸から世継ぎ誕生の知らせが来たので亮勝は喜ぶが、松枝のひと言でそれが不義の子だとわかる。
監督不行届を恥じた九郎左衛門は、切腹をすると騒ぎだす。
亮勝は切腹と交換にジョーたちと会うことにしたところ、サムが桶をひっくり返して、火鉢の火箸で叩き始め、ルイがコルネット、ジョーがトロンボーンとジャズ演奏を始める。
亮勝はボブのクラリネットを直し、吹き始めた。


寸評
筒井康隆の不条理と岡本喜八監督のポップな娯楽志向が合体した怪作である。
ラスト20分の狂乱のジャズセッションのシーンは強烈で印象に残る。
兎に角ハチャメチャで、よくもまあこれだけ無茶苦茶が出来たものだと感心してしまう。
僕の中ではコメディ映画と喜劇映画は微妙に違っているのだが、正しくこれはコメディである。
時代考証を含めて設定は無茶苦茶である。
岡本喜八監督ファンはこのとんでもない映画に付いていけるだろうが、はたして一般客にはどうだろうか。
僕はかろうじて踏みとどまった。

どんちゃん騒ぎの舞台は1万石という小藩のオンボロな城内である。
街道や城下町はどうなっているのか分からないけれど、このお城はウナギの寝床の様な作りになっている。
街道を通ると遠回りで不便らしく、どうやらお城の中を通り抜けると近道になるらしいのである。
城内は奥行きがなく細長いので部屋は一列に並んでいる。
その前の廊下を妹の松枝姫がソロバンをスケボー代わりにして滑っているといった具合である。
その廊下を尊王派も佐幕派も行き来していて、両派がぶつからないように松枝姫は奔走する。
最後には逃げる幕府軍を追って官軍が行進していくといった有様だ。
したがってストーリーなどはあってないようなものとなっている。
早い話が、アメリカから出身地のアフリカに帰ろうとした黒人が流れ着いて、彼等の奏でるジャズに皆が狂乱するだけのものである。
それも徐々に習得していって、ついに名演奏にたどり着くといったような感激ものでもないのだ。
兎に角ノー天気にジャズに熱狂していくだけなのだ。

始まりは無声映画のような字幕を入れた安物喜劇映画の雰囲気だし、脱走黒人たちの珍道中パートはちょっとモタモタしていて冗長だ。
スタンダードナンバーが次から次へと出てくるわけでもないし、小ネタがあるものの城の住人がジャズバンドとして成長していく感動物語もないので間延びする。
その鬱積したものがラストで爆発する。
明治維新のための戊辰戦争が続く中にあって、「俺たちはそんなこと関係ないよ」とばかりに狂乱のセッションが延々と続けられるのである。
トロンボーンや殿様が吹くクラリネットに合わせて、鐘や太鼓、琴に三味線、琵琶などが加わり、鍋、釜、そろばん、桶など、音の出る物なら何でもござれで、狂ったようなセッションとなる。
そこに官軍、幕府軍がなだれ込み、ええじゃないかの連中も押しかけ、演奏している人間は汗だくで半狂乱。
「独立愚連隊」や「肉弾」でもそうなのだが、岡本喜八の反骨精神は戦争なんてクソクラエと弾き飛ばしている。
殿様はどちらに味方するでもなく、争っている連中を素通りさせる。
男も女も、老いも若きも、坊さん医者など身分も関係なく、皆が楽し気に演奏する様は、戦に明け暮れる者たちへのブラックジョークだ。
題名と共に特異な一遍である。

忍ぶ川

2021-03-24 07:31:34 | 映画
「忍ぶ川」 1972 日本


監督 熊井啓
出演 栗原小巻 加藤剛 永田靖 滝花久子
   可知靖之 井川比佐志 山口果林
   岩崎加根子 信欣三 阿部百合子
   木村俊恵 滝田裕介

ストーリー
哲郎と志乃は料亭“忍ぶ川”で知りあった。志乃は“忍ぶ川”の看板娘だった。
哲郎は初めての出合いから、彼女にひかれて、“忍ぶ川”に通った。
ある夜、話が深川のことに及んだ時、志乃は、私の生まれた土地で、もう8年も行っていないと言う。
哲郎は志乃を誘い、薮入りの日に深川を案内することになった。
志乃は洲崎パラダイスにある射的屋の娘で、父はくるわでは“当り矢のせんせ”と呼ばれていた。
志乃が12歳の時、戦争で一家は栃木へ移住、弟や妹達をおいて、志乃は東京に働きに出たのである。
深川から帰った夜、哲郎は志乃に手紙を書いた。
〈今日、深川で言いそびれた私の兄弟のことを、ここにしるします。私は六人兄弟の末っ子です。兄が二人、姉が三人いて、上の姉二人が自殺、長兄が失踪、次兄はしっかりものだったが、私を大学へ入れてくれたのも、深川にいたのもこの兄なのだが、3年前に自分で木材会社を設立するという名目で逐電し、そのショックで父は脳溢血で倒れた。一番最初に次姉が自殺した日が、よりによって私の6才の誕生日のときでそれ以来誕生日を祝ったことがない)という内容である。
あくる日、志乃から返事がもどって来た。
〈来月の誕生日には私にお祝いさせて下さい。〉
7月末、志乃に婚約者がいることを知らされた。
志乃に問いただすと、婚約はしたけれど、気はすすまず、栃木の父も反対しているという。
哲郎は志乃に、その人のことは破談にしてくれ、そして、お父さんにあんたの好みにあいそうな結婚の相手ができたと言ってやってくれと言うのだった。


寸評
僕はこの映画を学生時代に見た。
哲郎は大学生で、とっくに卒業しているはずだったと語っているから留年しているのだろう。
兄に経済援助をしてもらっていたのだから、普段はそんなに金回りが良いようには思えない。
それなのに仲居さんが多くいる小料理屋の「忍ぶ川」に通って、志乃といういい女といい仲になっている。
アルバイトに明け暮れて質屋通いもしていた僕にはとても羨ましい存在で、こんな学生っているんだろうかと半ばやっかみ気分を持ったことを思い出す。
哲郎の家は呪われた家で兄弟は不幸な結末を迎えており、志乃の家庭も没落家庭なのだが、そのことを全面に押し出すような描き方はしていない。
三浦哲郎の原作を朗読するような加藤剛のナレーションが二人の境遇を感じさせる。

哲郎は志乃を連れて雪が積る故郷に帰ってくる場面からは一気に盛り上がり、いい場面が続く。
雪が降りしきる田舎の駅で母親が一人で哲郎と志乃を迎えに来ている。
そこから走行も無理かと思われる雪道を三人を乗せたタクシーが、途中で止まっては縁起が悪いと走っていく。
封切当時の何かの記事で「雪の白さを表すためにモノクロで撮った」という熊井啓監督の言葉を読んだ記憶があるのだが、確かに雪景色は二人の境遇と、哲郎一家にある呪いの歴史の上に降り積もっているようだ。
そればかりでなく、あらゆるシーンにおいてモノクロであることが一層の雰囲気を生み出している。
呪われた一家は近所付き合いも少なく、家族だけの結婚式をあげる。
そして哲郎と志乃は新婚初夜を迎え、この映画のクライマックスが始まる。
襖を開けて入ってくる哲郎が羽織を脱ぎながら「雪国ではね、寝るとき、なんにも着ないんだよ。生まれたときのまんまで寝るんだ。その方が寝巻きなんか着るよりずっと暖かいんだよ」と語る。
志乃は頭上にある部屋の電気を消して枕元にたたずみ「あたしも、寝間着を着ちゃ、いけません?」と言うと、哲郎は「ああ、いけないさ。もう雪国の人なんだから」と言うやり取りがある。
鼻にかかったような栗原小巻の声が艶っぽい。
全裸で加藤に身を寄せる栗原小巻はかつての”にっぽんの女”という感じだ。
遠くから聞こえる馬ゾリの鈴の音が効果的だ。

「忍ぶ川」が封切られた頃は日活ロマンポルノが喝采をもって迎えられていて、僕も随分と見ていたのだが日活ロマンポルノがあったからこそ「忍ぶ川」のエロチシズムを新鮮に感じとれたし、これこそ日本映画的表現だと思ったのだった。
日活ロマンポルノがドロドロとした男女関係をこれでもかと深く入り込んで描いているのに対して、こちらは文学的な表現で、当初は不自然とも思われる二人の会話が徐々に違和感をなくしていく静かな語り口が心地よい。
志乃役は当初「サユリスト」という熱狂的なファンを持つ吉永小百合が想定されていたが、一悶着があって志乃は栗原小巻になり、栗原小巻は「コマキスト」というファンを生み出した。
僕は志乃役は栗原小巻でよかったと思っている。
ハイキ―気味な画面は小巻の美貌を浮かび上がらせていたし、彼女の代表作を上げるとすれば間違いなくこの「忍ぶ川」だろう。

しとやかな獣

2021-03-23 10:47:14 | 映画
「しとやかな獣」 1962年 日本


監督 川島雄三
出演 若尾文子 川畑愛光 伊藤雄之助
   山岡久乃 浜田ゆう子 山茶花究
   小沢昭一 高松英郎 船越英二
   ミヤコ蝶々

ストーリー
アパートが立ち並ぶ郊外の団地、前田家はその四階の一角を占めている。
前田時造は元海軍中佐、戦後どん底の生活を経験した彼は自分の殻にとじこもり、子供たちを踊らせるあやつり師になった。
息子の実には芸能プロの使い込みをやらせ、娘の友子は小説家吉沢の二号である。
友子が別れ話をもって帰って来たが、吉沢には極力恐縮したふりをする時造夫婦だった。
実の方は会社の会計係三谷幸枝と関係があった。
その幸枝が、念願の旅館が開業の運びになったからこの辺で別れたいと言うのである。
子供を抱え夫に死なれた彼女にとって唯一の道は思いきり体を使って生きるほかなかった。
男の誘惑に巧みに乗り、大いに貢がせる役目は既に終っていると幸枝は言い放つのであった。
幸枝が辞表を出すと、社長の香取は恩を仇で返したと怒ったが、幸枝は香取の尻っぽを握っている。
彼は幸枝のために使い込んだ金のことで税務署の神谷を抱き込んでいるのだ。
神谷に払われた金がそっくり幸枝に戻ってくるのは、ホテルへ行って愛情の代償として貰うものであるから関係ないとうそぶく幸枝の見事さに、さすがの時造一家も感嘆するばかりだった。
しかし幸枝にはまり込んでいた実は嫉妬に歯をくいしばるのだ。
税金未納の責任で神谷がクビになったと聞いて、幸枝は一瞬驚いたが私は傷つくことはない…と思う。
幸枝はキッパリと実たちに絶縁の言葉を残して去って行った。
前田家の団らんの中に神谷が幸枝を探しに来て空しく帰った。
友子と実がステレオで踊り時造とよしのがビールを飲んでいる頃、アパートの屋上から神谷の体が落下して行った。


寸評
出てくる人間は悪人ばかりで、それも小悪人といった部類の人種である。
彼等の自分本位な理屈のやり取りが何ともおかしい。
目に付くのは独特ともいえるカメラアングルだ。
舞台は一家が住むアパートの一室のみで、そこで繰り広げられる滑稽なやり取りを狭い部屋のあちこちから描き続けていて、姑息な人間たちが狭い空間でうごめいているという状況を切り取っている。
家具越しであったり、天井からの俯瞰であったり、床下や階段下からの見上げたようなアングルであったりする。
狭いアパートのセットで撮影されているから、そのカメラポジションは苦労を重ねたに違いないと想像される。
おそらくセットのあちこちをくり抜いてカメラを据えて撮影が行われただろうことは間違いない。
この異様なカメラワークが異様な人物を浮かび上がらせていく。
そのアングルは川島雄三の指示なのだろうが、撮影の宗川信夫の努力も見逃せない。

主演は若尾文子となっていて、実際彼女はその色香と体でもって男を翻弄し金を召し上げている女性だ。
「お前の為、お前の為とおっしゃるけれど、実際はご自分の為だったのでしょ・・・」と開き直る姿は、まさに”しとやかな獣”にふさわしい。
しかし一番したたかなのは伊藤雄之助と山岡久乃の夫婦で、とくに山岡久乃のしたたかさが際立っている。
作品自体は伊藤雄之助と若尾文子の存在感が引っ張ているが、ラストシーンにみられるように一番”しとやかな獣”だったのは山岡久乃だったと思う。
なにせ彼女はどうやら警察をも丸め込んでいて、警察なんか怖くもなんともないと思っているようなのである。

高度成長期の団地の雰囲気をだすリアルな部屋の様子だが、抽象的なシーンとして団地の階段シーンがある。
3度描かれるが、おそらくこのシーンは若尾文子の人生そのものの象徴と感じ取れる。
最初は一人で登っていくから、旅館を開業するという目標に向かってわき目もふらず歩んでいる象徴だ。
高松英郎とすれ違う二度目のシーンは、主客が入れ替わった象徴だったと思う。
社長の高松英郎は金を横領され、脱税のしっぽも握られ転落の一途なのに、彼を出し抜いた若尾文子は意気揚々で、まもなく自分の夢が叶いそうな立場となっている。
最後は気弱な税務署員の船越英二が自殺して、それに驚いて団地の住人が階段を駆け下りるシーンだ。
その中にどうしたわけか若尾文子がいるので、彼の自殺によって彼女の目論見が外れて、彼女に法の網がかけられることを暗示していたと思う。
この集団に前田夫婦はいない。
前田夫婦は、特に母親の山岡久乃は警察の力が自分たちに及ばないことを知っているのだ。

銀座を飲み歩く売れっ子作家、いかがわしいミュージシャンなどは高度経済成長期に大勢いた人種の象徴で、中身が軽薄な人間の代表として描かれている。
伊藤雄之助、船越英二、若尾文子などは金、金、金だけの人間で、まさに人よりも少しでも裕福になろうとした当時の人間たちの姿でもある。
真面目なサラリーマンである船越英二は自殺するしかないという悲劇性に川島雄三の皮肉が込められていた。

シテール島への船出

2021-03-22 08:46:00 | 映画
「シテール島への船出」 1963年 ギリシャ / イタリア


監督 テオ・アンゲロプロス
出演 ジュリオ・ブロージ
   ヨルゴス・ネゾス
   マノス・カトラキス
   ドーラ・バラナキ

ストーリー
映画監督のアレクサンドロスは彼の作品の主役になる俳優のオーディションが行なわれている撮影所に向かったが、アレクサンドロスの気に入る者はいない。
女優のヴーラは彼の愛人で、最近冷たいと彼にグチを言う。
そんな矢先、ラヴェンダーの花を売る老人が入ってくる。
その老人こそイメージに描く老俳優だと、アレクサンドロスは直感した。
老人を追って地下鉄に乗り港へ行ったが、埠頭まで追ったところで彼は花売り老人を見失う。
同じ場面のまま映画中映画になって彼は妹のヴーラ(先出の女優のヴーラ)と二人で、32年前にロシアに亡命した父の帰国を待っている。
ウクライナ号から降りたった父スピロ(ラヴェンダー売りの老人)を出迎え、母カテリーナの待つ家に案内する。
スピロはカテリーナに再会したが、しかしスピロが何を言ったのか、カテリーナは怒って台所に閉じこもり、スピロは家を去って町の安ホテルに泊った。
翌日、親友のパナヨティスらの歓迎を受けるスピロ。
山にあるその村にスキー・リゾートを造る計画があり、村人は署名をするがスピロは猛反対し、カテリーナに署名するのをやめさせる。
そんな父を非難するヴーラ。今さら母に命令などできるはずはないと……。
夜中、スピロはロシアでの生活をカテリーナに語り、あちらにも妻子ができたと告白する。
朝、村人たちはみな帰ってゆくがスピロは一人残り、山では憲兵隊がスピロの行方を探していた。
国籍のないままのスピロがこれ以上面倒を起こすと滞在許可まで取り消されるとアレクサンドロスに警告して去る彼らだったが、スピロはカテリーナと二人で山の家に残ると言いはる。


寸評
僕にとってはイタリアにフェデリコ・フェリーニが居るようにギリシャにはテオ・アンゲロプロスが居ると思わせた作品で、その後に彼の作品を何本か見ることになった。
「シテール島への船出」とは、かつて北朝鮮がこの世の楽園とばかりに渡っていった日本人と同じように、老人による至福の島への旅を著していると思う。
老人は32年の時を経てロシアから帰国してくるが、彼には母国の国籍はなくなっている。
アレクサンドロスは彼の作品に登場する老人役のオーディションを行っているが、そこにイメージに合う花売りの老人が登場し、その老人はそれ以後アレクサンドロスの父親として描かれていく。
アレクサンドロスが撮ろうとしている作品は父親をイメージした作品だったのだろう。
したがって描かれている父親は多分、彼のイマジネーションによる父親像が多分に反映されているのだと思う。
父親はかつて社会主義革命の闘士として戦っていたが、戦いに敗れてソ連に国外追放となっていたようだ。
革命戦士として命を投げ出すような所はなくて、老母に寄れば「恐くなるといつも隠れてしまう」男なのだ。
社会主義の理想のもとに戦った老父は、帰国しても何処にも居場所がない。
当時は支援してくれたかもしれない住民は、今では資本主義の下で金銭欲に縛られている。
自分の土地を売ってスキー場にしようとしている彼らにとって、突然帰国してきて土地を手放そうとしないスピロは厄介者でしかない。
現在の母国に同化できず、再び追放されてしまう彼の孤独は深い。

老父は再び国外追放の憂き目にあっても毅然としている。
その意味では強い男だ。
夫がソ連で現地の女性と一家を構えたことがあるのを知ってからでも、「そばに行きたい」と呼びかけて再び国外追放になる夫と運命を共にしようとする老母は更に強い。
それに比べれば息子の方は、老父の再度の国外追放に対して何もできない無力さを見せる。
そんな彼をあざ笑うかのように、妹は「この体だけが生きている証なのだ」と言って目の前で行きずりのセックスをしていて、同世代と思われる兄と妹の態度はどこか刹那的である。
内容を後押しするかのように、この映画の色調は冷たく覚めている。
僕は年老いた父親や息子のアレクサンドロスを見ていると、学生時代に経験した学生運動に対する自身の関わり方を思い浮かべてしまっていた。
僕は学生運動の闘士ではなかったし、どのセクトにも所属していなかった。
それでも大学の自治は守ろうとしたし、少しでも世の中をよくしたいと思う気持ちは多分にあった。
デモにも参加したことはあったが、どこか日和見的で時代の流れに身を任せる結果となった。
団塊の世代が卒業すると消えてしまったあの時の学生運動はファッションではなかったのかとさえ思えてくる。
僕は恐くなったら隠れてしまう老父と変わりはないし、そんな老父に何も助力が出来ず呆然と見つめるだけのアレクサンドロスと違いはなかったのだと自己嫌悪に陥った。
とりあえずは国際領域の海に放り出して責任逃れする警察に代表されるような、現日本における国家権力もどこか事なかれ主義に陥っているのには憤りを感じる。
「シテール島への船出」は映画館の暗い客席でじっくり見る映画だ。

シックス・センス

2021-03-21 10:01:03 | 映画
「シックス・センス」 1999年 アメリカ


監督 M・ナイト・シャマラン
出演 ブルース・ウィリス
   ハーレイ・ジョエル・オスメント
   トニ・コレット
   オリヴィア・ウィリアムズ
   トレヴァー・モーガン
   ドニー・ウォールバーグ

ストーリー
小児精神科医の第一人者マルコムはある晩、妻アンナと自宅にいたところを押し入ってきた10年前に治療した患者のヴィンセントに撃たれた。
ヴィンセントは彼を撃つと自殺し、この事件は彼の魂に拭いがたい傷を残した……。
1年後。フィラデルフィア。
妻アンナと言葉を交わすこともできず悶々とする日々を送るマルコムは、他人に言えない秘密を隠して生きるあまり心を閉ざした8歳の少年コールに出会った。
彼の秘密とはなんと死者が見えること。
彼はこの秘密を母リンにも話せず、友達からも異常者扱いされて苦しんでいた。
やがて、ふたりは心を通わせるようになり、コールはついに秘密を打ち明けた。
死者は彼にいつも何かをさせたがっているというのだ。
吐瀉物で汚れた少女の霊に会ったコールはマルコムに連れられてその少女の葬儀が行われている家へ行く。
霊となった少女はコールに箱を手渡す。
箱の中にはビデオがあり、そこには彼女の母親が少女を毒殺する姿が映っていた。
少女の父親はそれで真実を知った。
死者は彼に自分の望みを叶えてもらうことで癒されるのが望みだったのだ。
ついにコールは悩みを克服し、母リンにも秘密を打ち明けた。
一方、マルコムは妻アンナのことでまだ悩んでいた。
コールはマルコムに彼女が眠っている時に話しかけてと助言した。


寸評
これをホラー映画と呼ぶには抵抗がある。
マルコムの物静かな態度と話しぶりによって、ホラーというよりはむしろ心理映画のような感じの作品である。
一般的なホラー作品のように、観客をドキリとさせることを目的としたシーンは登場しない。
したがって、見方によっては退屈な作品と感じる。
セリフの一言一言、場面場面の登場人物の態度と風景がわずかな疑問を呈するのだが、それが何なのかがはっきりしないのでもどかしさを覚える。
ここで我慢できなかった観客は、そのひとつひとつの意味合いを知ることが出来ないだろう。
全てはラストシーンによって紐解かれる。
「ああ…そうだったのね…」となって、今までのシーンが解き明かされていくのである。
それが分かると、あのシーンもそうなら、あのセリフもそうだったのだと悟るのである。
結末を知ってこの作品を見ると、全く違う作品に見えてしまうのではないかと思う。

マルコムは小児精神科医の第一人者として多忙である。
妻のアンナは、「子供たちが第一で、自分は二の次だと」夫を責めるが、それは欲張りすぎるグチだと分かっていて、市民栄誉賞をもらった夫を尊敬し、二人は今も愛し合っていることが感じ取れる出だしだ。
そこでマルコムはかつての患者に撃たれ、彼を救えなかったことで悩むようになる。
そんなことがあって、二人の間に微妙な隙間風が吹き始めた様で、事件から1年後の結婚記念日にマルコムは約束のレストランを間違えて遅れてしまい、怒ったアンナは「よい結婚記念日を」と言って席を立ってしまう。
どうやらアンナには別の男性が近づいているようなのである。
心変わりを描くでもないアンナの描写は、終わってみれば随分と計算されたものであったことが分かる。
マルコムが取ろうとした伝票をさっと横取りしサインする姿。
言い訳するマルコムに一度も目を合わせないアンナの姿。
再見してみると、マルコムの座り方まで計算されていたことが判る。

コールは死者が見えてしまう霊感を持っている。
それが単なる「第六感」でなく本当に見えていて、死者がコールに思いを託していることが少女の葬式で父親に渡されたビデオテープによって判明する。
ここからの展開は静かだった映画が、謎解きを一気に進めるように迫力を生み出してくる。
しかも、それはあくまでも静かになのだ。
コールは母親に自分の超能力の存在を告げる。
母親が祖母に抱いていた気持ちを語り、親子の関係に光が差す。
そしてコールがマルコムにアドバイスした内容と、実践した時の妻の反応がすべてを明らかにする。
それで映画が始まって以来ずっと抱いてた不快感が取り払われた。
それはコールとマルコムの交流が、医者と患者という割には何か違和感のあるものであったことだ。
度々ドアを開けようとするシーンの意味もやっと分かった。
随所に使われていた赤い色が印象を残す。

十戒

2021-03-20 11:03:20 | 映画
「十戒」 1956年 アメリカ


監督 セシル・B・デミル
出演 チャールトン・ヘストン
   ユル・ブリンナー
   アン・バクスター
   エドワード・G・ロビンソン
   イヴォンヌ・デ・カーロ
   デブラ・パジェット

ストーリー
エジプト王ラメシス一世は、新しく生まれるヘブライの男子をことごとく殺すという命を発した。
生まれたモーゼも母親の手でナイルの大河へゆりかごに隠されて流された。
だが幸運にも小さな箱船は王女の足もとへただよい着いた。
王女はその赤児をあわれに思い、引きとって立派に育てた。
成長したモーゼ(チャールトン・へストン)がエジプト王子として勢力を得て来た頃、宮廷には彼のほかに実の王子ラメシス(ユル・ブリンナー)が権力をふるっていた。
2人は王位と王女ネフレテリ(アン・バクスター)の争奪を始める。
ネフレテリは“世襲王女”であったから、王座を継ぐものは彼女と結婚しなければならないからだ。
ある日、モーゼは奴隷であるヘブライ人が重労働を課せられているのを見、そして1人のエジプト人が、ヘブライ人を打ちすえたところを目撃した。
だが、この現場を同胞を食いものにしている奴隷頭デイサン(エドワート・G・ロビンソン)が見ていた。
これがラメシスの耳に入り、ヘブライ人であることが暴露されたモーゼは砂漠に追放された。
荒野をさまようモーゼを救ったのは、ジェスロー(エドワード・フランツ)だった。
やがてモーゼはジェスローの長女セフォラ(イヴォンヌ・デ・カーロ)と結婚した。
彼はここで平和な生活を送っていたが、ある日シナイ山で神の声を聞いた。
ここにモーゼとラメシスの争闘が始まった。
数千の奴隷は脱出して紅海の畔までたどり着いた。
モーゼがひとたび叫ぶと、焔が立ちラメシスの軍勢を防いだ。
海は陸地となり、水は2つにわれるという奇跡が起こったのだ。


寸評
宗教的に深い知識を持っているわけではないが、モーゼの名前とモーゼの十戒のことぐらいは知っている。
十戒とは
 1.主が唯一の神であること
 2.偶像を作ってはならないこと
 3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
 4.安息日を守ること
 5.父母を敬うこと
 6.殺人をしてはいけないこと
 7.姦淫をしてはいけないこと
 8.盗んではいけないこと
 9.隣人について偽証してはいけないこと
10.隣人の財産をむさぼってはいけないこと
という10の戒律を言うらしいのだが、「汝、殺す無かれ」という文言は何処で得たのか知らないが記憶の中にある。
宗派によって違いがあるらしく、1を除いて隣人の妻を欲してはならないを加える場合もあるとか。
そのモーゼの生涯を描いた作品で、やや散漫な気もするが当時の特撮を駆使し、エキストラを動員した映像は楽しませてくれて伝記物としては及第点の出来栄えだと思う。
モーゼ伝説を知らない僕にも要領よく教えてくれる教材としての価値ある作品だ。

特撮スペクタルの極め付けがモーゼの神通力によって紅海が真っ二つに割れるシーンだろう。
現在のコンピューターグラフィックスからすれば稚拙な映像処理なのだろうが、当時としてはかなりのグレードだっただろう。
映画好きの従兄も公開時にこの映画を見て「航海が割れるんや」と興奮して語っていたことを思い出す。
モーゼは旧約聖書の「出エジプト記」などに現れる紀元前13世紀ごろに活躍したとされる人物で実在は疑問視されているが、描かれているのは正にそのモーゼであり、時代背景もその時代ということになる。
若い女性が色彩豊かな衣服をまとって躍ったりするのは、中国を舞台にした作品などでも見られる演出だが、衣服は時代考証がなされているのかどうかは別として映画的には華やいだものとなっている。

王室の子として育てられたモーゼが、実はヘブライ人の奴隷の子であったことが判明してモーゼの苦難の道が始まるのだが、それを証明するのが産着の布切れ一枚というのが説得力に欠ける。
それがどうしてモーゼの産着だったと言い切れるのか。
疑問に思うことは一杯あるし、愛し合っていたと思われるネフレテリの心の動きなどはとても切り込んでいるとは言えない。
可愛さ余って憎さ百倍なのか、夫となったラメシスにモーゼの殺害を迫るのだが、その変化の描き方は通り一辺倒なもので、あらゆる登場人物の心の内は伝説の映像化とスペクタクルの影に隠れてしまっている印象である。
古代イスラエルの話とはいえ、僕にとっては何だかイスラエル支持者によるイスラエル賛歌のような印象をもってしまう作品だ。

7月4日に生まれて

2021-03-19 09:22:22 | 映画
「7月4日に生まれて」 1989年 アメリカ


監督 オリヴァー・ストーン
出演 トム・クルーズ
   レイモンド・J・バリー
   キャロライン・カヴァ
   キーラ・セジウィック
   フランク・ホエーリー
   ジェリー・レヴィン

ストーリー
1946年7月4日、アメリカの独立記念日に生をうけたロン・コーヴィックは、ロングアイランド州マサピークアでその少年時代を送っていた。
すっかりスポーツマンに成長した高校時代のロンは、ある日学校にやってきた海兵隊の特務曹長の言葉に感銘をうけ、憧れていたドナとのダンスの思い出を胸に、64年9月、子供の頃からの夢であった海兵隊に入隊した。
そして13週間の訓練を経て、ロンはベトナムの戦場に身を投じるのだった。
67年10月、軍曹になったロンは、激しい銃撃戦の後、部下を率いて偵察に出かけ、誤まってベトナムの農民を惨殺してしまいショックをうける。
そしてこの混乱に乗じて襲いかかかってきたベトコンの姿にパニック状態に陥ったロンは、部下のウィルソン伍長を射殺してしまい、罪の意識にさいなまされるロンに、上官は口外を禁じるのだった。
そして68年1月、激しい攻防のさ中、ロンはベトコンの銃弾の前に倒れ、下半身不随の重傷を負ってしまう。
69年、故郷のマサピークアに戻って来たロンは家族に温かく迎えられるが、ベトナム戦争を批判し、反戦デモを繰り広げている世間の様相に大きなショックをうけるのだった。
この年の独立記念日に、在郷軍人会主催の集会の壇上に立ったロンは、戦場のトラウマが蘇りスピーチを続けることができなかった。
世間の冷たい風当たりに、ロンは次第に酒に溺れ、両親の前でも乱れ続けるのだった。
苦しみから逃れるように、70年にメキシコに渡ったロンは酒と女で孤独を紛らわせる。
しかしここで知りあったチャーリーの厳しい言葉に目が覚めたロンは、自堕落な生活と訣別し、ウィルソンの両親を訪ね罪を詫びるが、返ってきたのは優しい慰めの言葉だった。


寸評
ベトナム戦争とはアメリカにとって意味のある戦争だったのだろうか。
世界中で、アメリカ国内で戦争反対の平和運動が巻き起こり、日本でも反戦団体のべ平蓮なども誕生した。
僕の高校時代にベトナム戦争反対運動の機運が盛り上がってきたので、描かれた世代の人間である。
冷戦下にあったソ連とアメリカの代理戦争だったのだろうが、アメリカの介入はケネディからジョンソンへと政権ごとに拡大していった。
大国に翻ろうされたベトナムこそいい迷惑だったろうが、ベトナムのゲリラ兵は中国にも勝ったし強い。
結局アメリカは負けたのだ。
戦場における米軍、ベトコン軍の悲惨さは度々映画化されている。
反戦映画の舞台としても、ベトナム戦争は格好の題材だった時期があって、この作品もその一つだ。
内容的には戦闘場面は少なく、帰還兵の苦悩を描いている。
きれいごとを言ってはいるが負傷兵に対する国家の扱いは冷たく、若者は消耗品であったかのようで、政府のごまかしには憤りを覚えるけれど、僕はイマイチ共感する部分が少なかった。
なぜかフラストレーションがたまる作品でもあった。

共産主義への嫌悪感、両親の期待などによる自分の甘い考えで、英雄気取りになってベトナム戦争に行って、農民をそして赤ん坊を殺してしまったことにショックを受けてパニックを起こし、誤射によって同僚を殺してしまい、さらに自分も敵に撃たれて脊髄損傷で下半身不随になり、帰国したら誰も尊敬してくれなくて非難され逆切れし、すさんだ生活に堕ちていく。
主人公がそんな風なわがまま坊やに見えてしまって冷めた気分になってしまったのだ。
誤射を懺悔して、優しい言葉をかけられ、まともな生活に戻ったと言われてもなあという気分なのだ。
オリバー・ストーンとしては反戦映画というよりも、この作品を若者の再生映画として描いたのだろうか。

しかし、病院の様子などは実際もそうだったのだろうなと思わせるし、負傷して帰ってきたら周りは反戦運動が高まっていて、自分はまったく尊敬の対象ではなくなっていたという悲劇性は感じ取れた。
さらに主人公は半身不随で一生車椅子から逃れられない体になっているし、生殖機能も断たれている。
主人公は国家によって尊厳を奪われた人間の代表でもある。
7月4日はアメリカの独立記念日で、主人公はその記念すべき日が誕生日である。
彼の誕生日を祝うかのように、独立記念日のパレードが行われ、毎年の様子が幾度か描かれる。
国家の誕生を祝う日であるが、同じ日に誕生した主人公に国家は何もしてくれない。
ニクソン大統領は彼等に賛辞を贈るが、主人公にとってはたわごとであり、何のサポートも受けていない。
ケネディの演説が写され、「国家が何をしてくれるかではなく、国家に何が出来るかだ」という有名な一節を語っていて、それを子供も交えた家族全員で見ているシーンがある。
その時、彼等は「そうだ!」と思ったに違いない。
しかし政府を代表とする国家のために戦場に行ったのに、帰還してみたら国家は何もしてくれなかった。
見事なまでの逆説である。

時代屋の女房

2021-03-18 08:33:40 | 映画
「時代屋の女房」 1983年 日本


監督 森崎東
出演 夏目雅子 渡瀬恒彦 大坂志郎 初井言榮
   津川雅彦 藤木悠 藤田弓子

ストーリー
東京の大井で、三十五歳でまだ独り者の安さんと呼ばれている男が「時代屋」という骨董屋を営んでいる。
夏のある日、野良猫をかかえ、銀色の日傘をさした、真弓という、なかなかいい女がやって来ると、そのまま店に居ついてしまう。
一緒に暮すようになっても、安さんは、真弓がどういう過去を持っているか訊こうともしない。
そんな真弓がひょいと家を出ていくと、暫く戻ってこない。
喫茶店サンライズの独りもんのマスターやクリニーング屋の今井さん夫婦、飲み屋とん吉の夫婦などが親身になって心配していると、真弓は何事もなかったかのように帰って来る。
闇屋育ちのマスターは、カレーライス屋、洋品店、レコード屋などをやったあげく、今の店を開き、別れた女房と年頃の娘に毎月仕送りをしながらも、店の女の子に次次と手をつけ、今はユキちゃんとデキているが、その彼女は、同じ店のバーテン、渡辺と愛し合っている。
今井さんの奥さんが売りにきた古いトランクから昭和11年2月26日の上野-東京間の古切符が出てきた。
47年前、ニキビ面だった今井さんが近所の人妻と駆け落ちしようとして連れ戻され、使わなかった切符で、青春の思い出を蘇らせる今井さん。
真弓がいない間に、安さんは、どこか真弓に似ている美郷という女と知り合い、関係を結ぶ。
東京の孤独で華やいだ暮しを畳んで、彼女は東北の郷里に戻って結婚しようとしており、その寂しさの中で、安さんと出会ったのだ。
マスターは遊びが過ぎて店を閉める羽目となり、ユキちゃんと渡辺クンに店を引き取ってもらい、小樽の旧い友人を訪ねて旅に出ることにする。
安さんも、岩手でのぞきからくりの売り物があると聞き、一緒に車で旅に出る。


寸評
夏目雅子は惜しまれながら若くして亡くなった惜しい女優である。
早世した為に半ば伝説化して、出演作の評価以上にその死を惜しまれている。
僕は彼女の出演作の中でこの「時代屋の女房」の夏目雅子が一番気に入っている。

オープニングがいい。
白いパラソルが揺らめいて陸橋の上をやってきて、そしていい女としか言いようのない夏目雅子が現れ、安さんの店にやってくるのである。
いいんだなあ、このオープニング。
また、ちあきなおみの歌う「Again」の哀愁を帯びたメロディが流れると、一度聞いただけでそのメロディが脳裏に残ってしまうのだから、このテーマ曲の選定と使い方は的を得ていたという事だろう。
映画の内容は不思議に思うことの連続で、その疑問は最後まで解消されないのに、見終ってしまうと不思議と納得してしまう。
夏目雅子演じる真弓はぶらりと渡瀬恒彦がやっている骨董屋にやってきて、二人はできてしまい居ついてしまう。
氏素性が分からないままに同棲を始めるのだが、そんなに簡単に・・・と思う。
おまけに、この真弓は度々「しばらく留守にします」と言い残して出ていき、数日間返ってこない。
その間に何をしているのかは分からないし、渡瀬恒彦のやっさんは何も聞かないから全く不明である。
真弓は安さんを気に入っているのか、出ていっては何事もなかったように戻ってくる。
なぜ消え去らないで戻ってくるのかは分からない。
それでも、そんな真弓に惹かれていく安さんの切ない思いがよくわかり、僕は彼と一体化していくのである。

本筋とは離れて付随的にいくつかのエピソードが描かれているが、そのどれもが僕には思い当たるふしはある。
クリーニング屋の大坂志郎は法事にことよせて、昔駆け落ちを約束した女性がまだ住んでいると聞いて遠い故郷に出かけていくが、ホームで待っていた彼女は昔とは違う見栄えのしない老人だったのでそのまま引き返してきてしょげかえっている。
憧れた女性の姿は歳を取っても昔のままで残っているが、会えばその変わりように愕然とすることは想像出来る。
別れた女性に会ってみたい気もするが、彼女も今の僕を見ればきっと幻滅するに違いない。
美しくて懐かしい思い出と、心にとどめておくのが無難なようである。
夏目雅子が二役をやる美郷という女性も、不本意な自分の人生に不満を持ちながらも結局運命に従っていく。
一方の真弓とは対極にある女性である。
彼女も一夜を安さんと過ごすが、そんな美郷にもフェミニストの安さんは精一杯の態度を見せる。
安さんはいい男なのだ。
安さんがたむろしているのは津川雅彦の喫茶店であったり、もと女子プロレスラーの藤田弓子夫婦がやっている居酒屋だったりするのだが、そんな店が近くにある町なら僕も住んでみたいと思ったりするいい関係だ。
喫茶店の渡辺クン役で趙方豪が出ているが、いい俳優だったのに彼も若くして亡くなっており残念なことだ。
真弓は帰ってくるが、安さんは多分何も聞かないのだろうな。
そう思わせるエンディングもよかった。

シシリーの黒い霧

2021-03-17 09:48:42 | 映画
「シシリーの黒い霧」 1962年


監督 フランチェスコ・ロージ
出演 フランク・ウォルフ
   サルヴォ・ランドーネ

ストーリー
1950年7月5日。 シシリー島(シチリア島)のある民家の中庭でサルバトーレ・ジュリアーノという三十歳の男の、射殺死体が発見された。
話は五年前にさかのぼるが、当時シシリー島には独立運動が渦まき、独立義勇軍がマフィアや地主勢力と結んでファシスト政府と戦っていたのだが、義勇軍は匪賊サルバトーレ・ジュリアーノ一味を味方にし、独立達成の時は彼らを特赦することを約束していた。
ところが、連合軍上陸と同時にイタリア解放委員会第一次政府は、義勇軍を弾圧した。
そして五年後の今、中庭ではジュリアーノの検死がつづく。 彼は誰に殺されたのか?
再び話は1946年。 政府軍はシシリー独立義勇軍を攻撃したがジュリアーノは最後まで戦った。
そしてシシリーには自治が認められたが、しかしジュリアーノ一味は匪賊とみなされ、特赦されなかった。
そして現在、ジュリアーノの母は息子の死体にとりすがって泣く。 「彼を誰が殺したか!」と。
再び1949年。 第一回シシリー自治政府の選挙は人民連合派の勝利に帰した。
共産党はメーデーを祝っていたが、その時、ジュリアーノ一味が集会を銃撃した。
そして今。
ジュリアーノの死をめぐる裁判では彼の片腕ピショッタが出廷し、奇々怪々な当時の情勢が明るみに出る。
誰が彼にメーデーを襲撃させたか? そして誰が、彼を殺したのか?
話はもう一度1950年に。 マフィアは憲兵隊と組んでジュリアーノ一味を追いつめた。
そして憲兵隊はかくれ家を襲いジュリアーノを殺し、死体は中庭に引出された。
そして現在。 法廷で終身刑をいい渡されたピショッタは無実を叫ぶ。
だが、ジュリアーノ殺しは一体、何のために、誰の手引きでなされたのか。
十年後の1960年に、当時を知るマフィア一味の一人が群衆の中で殺された。
そして未だに、ジュリアーノ殺しの真相は解っていない。


寸評
分かりにくい映画ではある。
誰が山賊で、誰が憲兵で、誰が警察で、誰がマフィアなのかがどうも分かりにくい。
さらに過去と現在が頻繁に交錯する演出方法が分かりにくさを助長している。
シチリアの歴史に詳しくない僕には当時の複雑な歴史的事情も説明してほしかった。
さらに度々会話の中で登場するサルヴァトーレ・ジュリアーノ本人がいかなる人物なのかがさっぱり描かれていなくて、死体を除けば時々遠景の中に登場するだけというのも、主人公の存在を消し去っているような演出だ。
むしろ彼が主役というより、彼を媒介に、警察、憲兵、マフィア、地元住民など、いろんな人々がうごめいている不穏なシチリアの数年間が描かれていると言ってよい。

この映画においては黒の印象が強い。
モノトーン作品のせいでもあるが、室内では細くあけた窓のほかを全部黒が埋めてる感じがする。
正義の背後にある黒を感じさせるためなのかもしれない。
ドキュメンタリータッチのカメラが生きていて、軍隊が入って来て市民が連行される場面における、兵隊が一列にずらっと並んでいるシーンなどはゾクッとした。
またメーデーの虐殺シーンにおいては、カメラは逃げ惑う市民を遠景で捕らえながらパンして死体や馬の影が長く伸びている映像を見せつける。
手持ちカメラが混乱する群衆の中に入り込んで臨場感を生み出すような演出を排除している。
あたかも出来事を客観的に見ているようなカメラワークで、それがドキュメンタリータッチを増長させている。

本来なら英雄として描かれるはずのジュリアーノを義賊としては描いていない。
これは意図的なものだろう。
つまり、この映画はサルヴァトーレ・ジュリアーノ個人に焦点を当てるのではなく、誰が彼を操り、利用し、邪魔になったところで抹殺したのかという背後の黒い動きをあぶり出そうとしている。
犯罪者であるはずの山賊たちと警察や憲兵隊が関係を持って世の中を動かしていた。
誰がそう仕向けていたのかと追求しているように見える。
裁判劇において、誰がジュリアーノを殺したのかという論点から、山賊たちにメーデーの虐殺をさせたのは誰かという論点に移っていることがその証である。
ジュリアーノ一味を直接追いつめたのはマフィアと組んだ憲兵隊で、ジュリアーノを殺したのも憲兵隊らしいことは映画の中で暗示されているが、メーデーの虐殺を指示したのが誰だったのかは分からずじまいである。
感じるのは国家という魔物の存在であり、国家権力という目に見えない力である。
一人の人間を操り、抹殺することなど簡単なことなのかもしれない。
真相を知っている人物が殺されるという展開によって、実はさらに深い闇があると暗示されているようにも思えるラストシーンがそれを物語っていたように思う。

この映画を見るにはシチリアの歴史も頭に入れておいた方がよいかもしれない。
兎に角、映画の予備知識を持ってみた方が良いと感じられる作品だった。