おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

お嬢さん乾杯

2020-11-30 07:08:36 | 映画
「お嬢さん乾杯」 1949年 日本


監督 木下恵介
出演 原節子 佐野周二 青山杉作
   東山千栄子 佐田啓二 村瀬幸子

ストーリー
自動車の修理業をやっている圭三(佐野周二)の所へ得意先の佐藤専務(坂本武)が縁談を持ち込んだ。
相手は池田泰子(原節子)という華族の令嬢で、提灯に釣り鐘だと圭三は問題にしないが、熱心な佐藤に口説かれてとにかく見合いという事になった。
さて見合いをしてみると泰子は予想した高慢なお嬢さんでなく圭三はすっかり好きになった。
佐藤から結婚承諾の返事を聞いた圭三はものすごい上機嫌。
圭三は泰子の家族の人達に紹介されたが、皆善い人達ばかりである。
だが家族の中で一人だけ欠けているのは泰子の父の浩平(永田靖)である。
浩平は詐欺事件の巻き添えで刑務所に送られていた。
そして池田邸も五十万の抵当に入っていて、その期間はあと三月だと佐藤から聞いた圭三は金の為の結婚であったかと失望するが、泰子に対する愛情は深まった。
圭三は泰子と帝劇へバレエ見物に出かけるが興味がなく、その帰りに見た拳闘試合の方が楽しめた。
泰子は趣味の相違を見てとった。
圭三と泰子は刑務所に父を尋ねたが、父から「金の為の結婚はするな」と忠告されて泰子の心は重い。
そぐわない雰囲気のまま別れた圭三は、自分と泰子は違う世界の人らしいと感じた。
圭三はその翌日泰子に心の中を打ち明けてくれと頼むと、その返事は愛情のない結婚に悩む泰子の姿だったが、泰子は結婚すれば愛することも出来ようと考え、圭三に自分のわがままをわびた。
披露宴の日、圭三は泰子の祖父達(青山杉作、藤間房子)の口から恭子の愛人であった戦死した芳彦の話を聞いて何か惨めな気持ちがわいてきて、圭三は泰子に手紙を残して帰ってしまう・・・。


寸評
僕が生まれた年に撮られた作品だが、敗戦後の復興もかなり進んでいたのかもしれないと感じさせる。
この作品が公開されていたこと思うと闇市の混乱は想像できず、ユーモアを交えた軽妙な内容は肩がこらない。
それでも敗戦後の社会を感じさせる設定がなされていて興味深い。
池田家は随分と裕福な家柄だったようだが、敗戦ですべてを失い借金によって邸宅も担保に入っている。
一方の圭三は時代を先取りした自動車関係の仕事をしていて羽振りがいい。
見合い相手の泰子は都会育ちのお嬢様育ちだが、圭三は田舎育ちの成金である。
嫌な関係の間柄だが、圭三の人の好さを描くことで落ちぶれた華族の令嬢を金にものを言わせて手に入れようとするいやらしい感じはまったくない。
小津安二郎とはまた違った木下恵介が持つ軽妙な味が持ち込まれていて楽しめる作品となっている。

原節子は僕よりも年齢が上の人たちによって日本映画の歴代ナンバーワン女優に押されることが多いのだが、この作品を初め彼女が演じることが多い心がきれいな令嬢役を見ていると、永遠の処女として男性ファンのあこがれの女優であったろう事が想像できる。
清楚で美しいお嬢さんなら圭三でなくても好きになると言うものだ。
反面、バーのマダムが言うような、惚れ抜いて狂わんばかりの恋に溺れる女性と言うイメージには程遠い女優さんでもあると思うし、この映画でもそんな様子は見せない。
だからラストで原節子に戻ってこさせて「惚れてます」と言わせた木下演出は冴えていたと思う。

高根の花に一途な恋心を持つ圭三の気持ちはよくわかる。
気を引こうとしてあれこれやるのだが、それがどうも空回りしてしまってどうすればいいのか分からなくなって悶絶すよるような気分は惚れた弱みなのだが、相手が高根の花であればあるほど苦しくなってくるものだと思う。
佐野周二の兄、佐田啓二の弟の恋を対比的に描き、敗戦による地位の入れ替わりを背景にしながらも、軽妙なシーンを挿入して明るく描いている。
圭三が泰子を送っていくために、会社に連絡して車を持ってこさせるが、用意された車はマイクロバスだったり、その後で圭三と泰子が見つめ合い、やっとキスするのかと思ったら手袋をした圭三の手にちょっとキスして走り出してしまうシーンなどはその典型である。
さらに勝手口から入ろうとしたときに泰子がこけてしまい、それを原節子が演じているのも予想外で面白い。
成り上がりの圭三が良かれと思って、泰子の誕生日にピアノを贈ったり、自分は金もうけだけは得意なのだと豪語し、池田家の借金を清算してやるなど嫌味な行動をとっているのだが、それでも彼の人の好さが嫌味な行動をカモフラージュしている。
しかし一方で木下恵介は泰子の祖父に「施されているようで嫌だ」と語らせている。
戦争をしたことで、敗戦をしたことで、全財産をなくしてしまった人々への同情を示していたのかもしれない。
ブルジョアに同情する気持ちはなかったとしても、それでもすべてをなくしてしまった人は大勢いたと思う。
いわゆる社会派映画ではないのであまり理屈をこねても仕方がない。
駅に駆けつけた泰子が圭三と抱き合あうといったお決まりのエンディングではなく、原節子の一言に続いて佐田啓二の運転する車を映して終わるラストシーンには感心した。

幼な子われらに生まれ

2020-11-29 07:38:55 | 映画
「幼な子われらに生まれ」 2017年 日本


監督 三島有紀子
出演 浅野忠信 田中麗奈 鎌田らい樹
   新井美羽 南沙良 水澤紳吾
   池田成志 宮藤官九郎 寺島しのぶ

ストーリー
互いに再婚同士の田中信(浅野忠信)と妻の奈苗(田中麗奈)。
彼女の二人の連れ子にも父親として誠心誠意を尽くし、ささやかな幸せを感じながら暮らしていた。
しかし妻の妊娠により2人の連れ子とはうまく関係を築けず悩みを募らせ始める。
長女・薫(南沙良)は義父への嫌悪をむき出しにし、「本当のパパに会いたい」と洩らして接触を絶とうとした。
信も前妻・友佳(寺島しのぶ)との娘である沙織(鎌田らい樹)との三か月毎の接触を拒めず、彼女と比較することで薫への絶望を隠せなくなっていた。
一方、友佳の再婚相手は末期ガンで余命わずか。
友佳と暮らす実の娘の沙織から、血のつながらない義父の死を前にしても悲しめず、見舞いに行っても「ごめんなさい」と言っていると打ち明けられてしまう。
そんな中、なついてくれる次女・恵理子(新井美羽)と違い義父を拒む薫に怒った信は、苛立ちのままに奈苗の元夫・沢田(宮藤官九郎)を捜し出す。
家族に暴力を振るい続け父の立場を放棄した沢田に、求められた金を払ってまで薫との接触を求める信。
奈苗は沢田とDVが原因で離婚しており、彼との面会に反対だった。
面会に指定された日、沢田の前に薫は現われなかった。
他方、信のもとを訪れた沙織は、癌にむしばまれた義父の死の床へ向かうことに躊躇し、信の同行を望んだ。
そして、義父を前に彼への隠していた愛情を明らかにする沙織を前に、信は密かに義父への感謝を捧げた。
色んな問題に直面し、これから生まれてくる命を否定したくなるほど今の家庭を維持することに疲れる信だったが、後日、子を出産する奈苗の病室に家族は集い、新たな一員を迎えるのだった。。


寸評
家族とは、夫婦とは、親子とはと問いかけ、その間に沸き起こる微妙な感情を繊細に描き出している。
それぞれは世に存在する最小の関係であり、家族は最小の社会である。
それぞれにとっては絶対的なものであるはずだが、だからと言ってすべてを理解しあっているわけではない。
血の繋がらない家族と血の繋がった他人という形で子供たちが登場するが、その子供たちの心象風景もリアルに感じることが出来る。
再婚は本人たちの理解で解決できるが、連れ子問題は大変だなあと感じさせる。

奈苗の態度は一見、能天気にも見えるが、前の結婚がいまだに手ひどい痛手となっていて、娘が前夫に会うことなど想像できない。
お互いに再婚同士である信と奈苗の家庭は、記念写真を見る限り幸せな家庭を再構築できていたはずだ。
しかし奈苗の妊娠で長女の薫は自分が疎外されるのではないかとの思いを抱くようになる。
可愛がってもらって新しい父として受け入れていたはずだが、生まれてくる子供と自分の立場の違いを感じ取る。
彼女の不安を際立させていくのが、幼さのために理解能力を持たない妹の恵理子の存在だ。
年齢による感受性の違いが上手く描かれている。
薫より少し大人びた存在が真の実子である沙織だ。
彼女の発する二つの言葉が胸に突き刺さる。
彼女は血のつながらない義父の死を前にしても悲しめないと実父の信に打ち明ける。
そして恵理子から信との関係を聞かれた沙織は友達だと答える。
実は僕も長い間、叔父を「おとうちゃん」と信じていた時期があった。
そうではないと理解していった頃、あれは従妹のお父ちゃんやでとからかわれたりすると、そんな時、子供ながらの処世術で「仲間やねん」と答えて大人達を喜ばせていたので、僕は沙織の気持ちがよくわかった。

大人たちも微妙な心情を見せ、演じた役者の上手さを感じる。
奈苗は、信が薫を実の父親に合わせようかと持ち掛けた時に、そんな気を使ってくれるより実子の沙織と会ってくれない方が嬉しいと漏らす。
奈苗が別れた沢田はどうしようもないぐうたら男だが、薫と会うとなった時にはたたずまいを一変させている。
信は妻の連れ子である長女に接する時の態度と、実の娘と接する時の態度に明らかな違いを見せる。
信の前妻は結婚時の信の態度への思いを吐露し、死期が近づいている現夫への微妙な感情を垣間見せる。
三島有紀子監督の演出の冴えを感じた。
単純なハッピーエンドとしていない結末にも好感が持てるし余韻を残した。
沙織が現在の父親の死を悲しむシーンに加え、未だに新しい子供の誕生を喜べない薫が病院に駆けつけるシーンを用意している。
それらのシーンをかすかな光として描き、決して問題が全部解決して万歳と思わせないところがいい。
最後にタイトルが出るが、さてこれからどうなるのかと思わせる。
もがき苦しみ、自分をさらけ出して、互いにぶつかり合った現家族と元家族たちであったが、それがけっして無駄ではなかったことだけは示唆していた。

おかあさん

2020-11-28 12:17:34 | 映画
「おかあさん」 1952年 日本


監督 成瀬巳喜男
出演 田中絹代 香川京子 三島雅夫 加東大介
   中北千枝子 榎並啓子 片山明彦 岡田英次
   鳥羽陽之助 三好栄子 一の宮あつ子
   中村是好 本間文子 沢村貞子

ストーリー
戦災で焼け出された洗濯屋の福原一家は、父の良作(三島雅夫)が工場の守衛、母の正子(田中絹代)は露店の飴売り、娘の年子(香川京子)はキャンディ売りに精を出したおかげで、やっと元のクリーニング屋を開くことができた。
長男の進(片山明彦)は母に会いたい一心から病気の身で療養所を逃げ出してきたために死んでしまったが、店は父の弟子であるシベリアの捕虜帰りの木村のおじさん(加東大介)が手伝ってくれることになり、順調なスタートを切った。
年子が近所のパン屋の息子信二郎(岡田英次)と仲良しになった頃、病気で寝ていた父が死んだ。
母は娘二人と引き揚げ者の甥哲夫(伊東隆)を抱え、木村の手ほどきを受けながら女手一つで馴れない店を切り回すことになった。
木村と母の間についてあらぬ噂が立っていることを信二郎から聞いた年子は、娘心に思い悩んだが、妹の久子(榎並啓子)を他家に養子にやる話が出るようになると、女の腕のかよわさをしみじみと悟らざるを得なかった。
事実久子はもらわれていき、哲夫もやっと一人前の美容師になった母親の元に戻されることに決まって、一家は最後の楽しいピクニックに出かけた。
やっと母も一人立ちできるようになり、木村は自分で店を出すために去っていった。
母一人、娘一人だけが残った福原家では、新しい小僧も迎え、ようやく将来への安定した希望も湧いてきたのだったが・・・。
年子の心には、母は本当に幸せなのだろうか、とかすかな憂いが残って消えないのだった。


寸評
香川京子のナレーションの入れ方や描かれている内容は時代を感じさせるが、細やかな人物描写は時を経ても魅せるものがある。
描かれている時代は戦後間もない頃の様で、町には夫を戦場で亡くしたリ空襲で焼死させた戦争未亡人が大勢いて、お母さんの妹も夫が戦死している。
一家は夫婦に子供が三人の五人家族だが、妹の子供・哲夫を預かっている。
哲夫にとっては伯母さんの家だから、まるでその家の子の様に振舞っている。
僕も幼稚園に通うために叔母の家でお世話になっていたのだが、気持ちは哲夫と変わらなかったと思う。
長男が病死し、父親も亡くなってしまう辛い話だが、母親が悲しみや辛さを顔に出さず明るく生きているのでお涙頂戴物語にはならず、むしろ励まされる内容となっている。
庶民生活の中で起きる出来事を描いているが、小津が中流家庭をベースに描いているのに対し、成瀬が描く家庭はそれよりも下層の家庭である。

人物描写は巧みでユーモアもある。
長女の年子には兄がいるが、妹の久子との年齢差を考えると長男長女は戦前の生まれで、久子は戦後生まれなのかもしれない。
ところが長女の年子に比べれば、幼い妹の方がしっかり者である。
長女は、父親が健在で家業が上手くいっていた頃に幼少期を過ごしたのだろうと想像させる性格で、どこか呑気で無邪気なところがある。
妹は「生まれ変われば、私、お刺身になりたい」と言い、その理由も子供じみたものなのだが、母親がお米よりうどんの方が安いからと、うどんばかり食べているのを心配し、母親が金策の為に自分の着物を売りに行くのを見て心を痛める感受性を持っている。
妹の久子は養子に出されるのだが、その決断を自分の意志に於いて行う。
本当は養子になど行きたくはないのだけれど、家が助かるならと涙をのんでの決意なのだ。

伯母が美容師の資格を取るために年子がモデルになり、その事でひと騒動が起きるが、愉快な出来事ながら描かれ方は奥深いものがある。
年子が花嫁姿をしていることでの騒動なのだが、お祝いに来た岡田英次の母親が勘違いを詫びて去るときに「嫁に行くなら是非うちに」と言って去っていき、信ちゃん年ちゃんの行く末を感じさせる。
そしてまだ18歳の娘の花嫁姿を見て、淋しそうな表情を浮かべる田中絹代の表情が何とも言えない。
息子も夫も死に、預かっていた哲夫も母親の元へ戻っていき、頼りにしていた木村も去っていく。
やがて年子も家を出ていくかもしれない淋しさをかみしめながら生きていく母親を演じた田中絹代は上手い女優だったのだと思わせる。
面白いのは、おかあさんは家業であったクリーニング屋を再建し、妹は美容師として開業しそうだし、年子は夜間の洋裁学校へ通う予定で、ボーイフレンドは親のパン屋で修行中ということで、皆が就職口を見つけようとしていないことである。
この頃は自分の力で生活を切り開いていこうとする強い力が皆にあったのだと思わせた。

オーメン

2020-11-27 07:52:53 | 映画
「オーメン」 1976年 アメリカ


監督 リチャード・ドナー
出演 グレゴリー・ペック
   リー・レミック
   デヴィッド・ワーナー
   ハーヴェイ・スティーヴンス
   ビリー・ホワイトロー
   ホリー・パランス

ストーリー
6月6日、午前6時、ローマの産院で、アメリカの外交官ロバート・ソーンの夫人キャサリンは、男の子を出産したが、その子は生まれるとすぐ死んだ。
ロバートは、産院で知り合った神父から、同じ日、同じ時間に生まれた男の子を、母は産後すぐに死んだので、死んだ子の身がわりにもらってほしいと頼まれた。
ロバートは、妻にそのいきさつを話さず、その赤ん坊をもらいダミアンと名づけた。
キャサリンはダミアンを自分の子と信じていた。
やがて、ロバートは駐英大使としてロンドンに栄転しダミアンはすくすくと育った。
ダミアンの5歳の誕生日のガーデン・パーティの時、ダミアンの若い乳母が出席者の目前で屋上から「ダミアン見て!」と叫び、首を吊って死んだ……。
翌日、ブレナンという神父がロバートを訪ねてきて、神父は"自分はダミアンの出産に立ちあったが、ダミアンは悪魔の子であるので悪魔払いをするように"と言うのだが、ロバートは一笑してとりあわない。
大使館の護衛に連れ出される時、神父は「母親は山犬だったんです!」と叫んだ。
まもなくロバートの家に周旋所から紹介されたというベイロック夫人が、半ば強引に家政婦として住み込みで働くことになった。
一方、ロバートはブレナン神父と再び会った。
神父はキャサリンが妊娠していることを告げ、ダミアンが死産させ、キャサリンの命ばかりかやがてはロバートをも殺すと警告した。
神父の予言通りキャサリンは妊娠していた・・・。


寸評
僕にはこの手の作品に系譜があって、始まりは1968年ロマン・ポランスキー監督作品「ローズマリーの赤ちゃん」で、次が1973年ウィリアム・フリードキン監督作品「エクソシスト」、そしてこの「オーメンである」。
いずれも悪魔が子供なのは偶然の一致か?
きわもの的な内容であるがしっかりと作り込まれている所が良い。
子供だましではなく、十分に大人の鑑賞に堪えうる内容となっている。

アメリカの外交官ロバート・ソーンは、待ちわびていた出産が死産だったため、妻を落胆させたくない為に病院付きの神父からの「養子をもらっては?」という誘いに応じてしまう。
ちょうど同時刻に男の子を産んだ身寄りのない女性が死に、その子は孤児となっていたため、双方に好都合だったからなのだが、その事実をロバートは妻のキャサリンに告げていない。
キャサリンは自分の子供と信じて育てるのだが、ロバートは最後まで秘密にしておくつもりだったのだろうか。
妻を欺きとおす行為で、その為に報いを受ける結果を引き起こしたのだと思わぬでもないが、やっと子供を得て幸せそうな夫婦のカットが何カットか描かれることで、僕の疑念は忘れ去られる。

予期した通り彼らの周りで奇妙なことが起こり始めるが、十分に鑑賞に堪えられる内容となっている。
黒い犬が屋敷のそばに現れるようになる。
黒い犬と言うだけで不気味な感じがする。
ダミアンのシッターがパーティの最中にダミアンに呼びかけ首を吊って死亡する。
ダミアンが動物園に行くとキリンは逃げ出し、マントヒヒが騒ぎ出し襲ってくる。
怪しそうなメイドがやって来て、ダミアンに関して口出しをしてくるようになる。
メイドの目つきは明らかに異常なのだが、口出しをするだけで当面は何もしないのも不気味感を出す。
ブレナンという神父がロバートに会いに来て、「ダミアンは悪魔の子で、母親はジャッカルだ」と告げるあたりから、ホラーとしてボルテージが上がってくる。
ブレナンが写真に写った予告通りに落下した避雷針によって非業の死を遂げるのも雰囲気アップとなっている。

ダミアンがロバートの養子になるように仕組まれていたことも判明するが、普通の作品なら夫妻が悪魔に打ち勝つ描き方になると思うのだが、そうはならない所がこの映画のいいところだ。
キャサリンも犠牲になるが、その場面はよくできていて迫力十分な描き方である。
カメラマンも予告通りの死を迎えるが、なかなか見せるものがある。
ロバートは重大決心をするが、その結果も工夫されていて満足感がある。
そうか、そういう結果だったのかと想像させるのだが、この結果が人類がアメリカを中心にして滅亡までの戦いを始めていると言うことなのだろう。
キャサリンは自分の事を未来の大統領夫人だと言っていたが、息子が大統領になるのかもしれない。
大統領になった息子は・・・と思わせるラストも決まっている。
駐英大使となるロバートを演じているのがグレゴリー・ペックというキャスティングも的を得ていたように思う。

狼は天使の匂い

2020-11-26 08:01:52 | 映画
「狼は天使の匂い」 1972年 フランス / アメリカ


監督 ルネ・クレマン
出演 ロバート・ライアン
   ジャン=ルイ・トランティニャン
   レア・マッセリ
   アルド・レイ
   ティサ・ファロー
   ジャン・ガヴァン

ストーリー
トニーの逃亡生活は、操縦していたヘリコプターがジプシーの群れの中に墜落し、大勢のジプシーの子供を死なせてしまったことから始まる。
ジプシーのかしらは復讐を誓った。
そのためにトニーはパリにいられなくなり、ニューヨーク、さらにカナダのモントリオールに逃げた。
執拗なジプシーの追跡のために逃げ場を失い、折から開催中の万国博覧会のアメリカ館に身を潜めた。
そこで2人組による殺人事件を目撃したことから一味に捕らえられ、ある島に連れ去られた。
島に着くとトニーは、一味のボス、チャーリーに引き合わされた。
彼の他にも、その情婦シュガー、マットン、リッツィオ、パウルその妹ペッパーがいた。
チャーリーは、殺されたレナが持っていた1万5千ドルの行方を教えろと迫ったが、トニーは口を割らなかった。
この島から逃げるためには橋を渡らなければならず、その橋は1つしかない。
うまく渡ったとしても、そこにはジプシーたちが彼を待ち構えているに違いない。
翌日、チャーリーたちは泥棒を働きに出かけた。
一方、トニーは月日がたつに従ってチャーリーに親しみを感じ始め、シュガーとも親しくなった。
やがてチャーリーが計画している大仕事に誘われ、仲間になることを承知した。
一味の大仕事とは、マッカーシーというギャングの大親分が近く法廷で裁かれることになっているが、彼を有罪にする唯1人の証人は頭の弱い女の子で、目下モントリオールの病院に厳重な警備つきでかくまわれているので、この証人を誘拐してマッカーシーに引き渡し、礼金100万ドルをせしめようというものだった。
病院の隣のコンサート・ホールを足がかりにして病院に入るという計画は完璧のように思われた。
決行の日の夜、一味はタキシードに身をつつみ、コンサート・ホールに現われた。


寸評
トニーが何者かの集団に命を狙われ逃亡するが、途中でマフィアらしき組織の殺人事件を目撃したことで、犯人グループに拉致されるという出だしに反して、作品はムードたっぷりの静かな作品である。
作品の雰囲気を形作っているのが犯罪集団のリーダーであるチャーリーを演じるロバート・ライアンだ。
仲間からの信頼も厚く、時折子供のような屈託のない笑顔を見せる。
マフィア映画で描かれるボスの姿からは程遠い人物像だ。
チャーリーはパウルとその妹のペッパーを施設から引き取ってやっているので、ペッパーはチャーリーを父親の様に慕っている。
医者を呼ぶことが出来ず、パウルが死にそうになっていく時には心底心配してやる優しさを持っている。
沈着冷静、時には非情な態度を見せるが、ロマンチストかもしれないと思うような言動を見せる男だ。
そんな彼を仲間は絶対に裏切らない。
子分たちは彼の言いつけに逆らうことはない絶対君主なのだが、そんな風には見えないリーダーである。
このチャーリーと言う男を演じたロバート・ライアンがすこぶるいい。
トニーと煙草積み上げの賭けに夢中になる彼の表情は、強盗団のリーダーのものとはとても思えないし、ふともらす微笑みが魅力的だ。
賭けに夢中になるチャーリーの影響なのか、一味は何かにつけて賭けをやっている。
その賭け事はそれぞれが意味を持ってくる、いわゆる伏線となっている。
トニーがリッツィオに時計を売って金を作り賭けに挑むのもそうで、この時の時計が後半で意味を持つことになるなど、細かい伏線がいくつも張り巡らされている。

一味がどのような犯罪を企んでいるのかは最後になるまで明らかにされない。
そんなもどかしさも手伝ってソフトな犯罪映画になっているのだが、トニーが追われている理由も予備知識を持っていなければ前半では明らかでない。
追手が何者なのかよく分からないのはルネ・クレマンの意図したものだと思うが、やはり描いておいた方が良かったように思う。
追手はトニーの命を狙っているはずだが、それなら対岸に潜んでトニーを待ち伏せすればよいものを、笛など吹いて存在を知らせていると言うノンビリ感がある。
彼らはトニーの命を狙っている一団と言う位置づけに過ぎない。
そこにいくとチャーリー一味のキャラクターは多彩である。
リッツィオは冷静でチャーリーに命を預けている男だが、絵をかいたりチェスの駒を作ったりもする芸術はで、ビリヤードの球が武器となる特技の持ち主。
マットンは女好きで頭は少し弱そうな元ボクサーで、彼の女好きが破たんの原因となる。
一味には大人の魅力があるシュガーと、若く可憐なペッパーという女性がいて、この二人がトニーとの三角関係を見せる。
そんな彼らがアジトで見せるやり取りは楽しめるもので、肝心の犯罪の内容が全く描かれないのに十分楽しめるものとなっていて、ラストは男ならグッとくる。
それにしても、あの消防車をどうやってビルの高層階に持ってこられたのだろう?

狼たちの午後

2020-11-25 08:38:30 | 映画
「狼たちの午後」 1975年 アメリカ


監督 シドニー・ルメット
出演 アル・パチーノ
   ジョン・カザール
   チャールズ・ダーニング
   ジェームズ・ブロデリック
   クリス・サランドン
   ペニー・アレン

ストーリー
1972年8月22日。ニューヨークは36度といううだるような暑さだった。
その日の2時57分、ブルックリン三番街のチェイス・マンハッタン銀行支店に3人の強盗が押し入った。
強盗は10分もあれば済むはずだったが3人の1人、ロビーがおじけづき、仲間をぬけた。
しかし、ソニーとサルにとってそれ以上に予想外だったのは、銀行の収入金が既に本社に送られた後だったことだ。
残された1100ドルの金を前に途方に暮れるソニーのもとに突然、警察から電話が入った。
銀行は完全に包囲されているから、武器を捨てて出てこいというのだ。
警官とFBI捜査官250人を超す大包囲網の中で、追いつめられた平凡な2人の男は牙をむいた。
銀行員9人を人質としたのだ。3時10分を少し廻ったところだ。
つめかけるヤジ馬、報道陣の中でモレッティ刑事の説得が行われたが時間は無駄に流れていった。
ソニーたちの説得に昇進をかけるモレッティの心をよそに、すべて2人の言いなりになければならない警察側とTV報道のインタビューに応える狂人側という状態で、次第にソニーとサルは群衆たちから英雄視され始め、銀行内では犯人と人質たちとの間に奇妙な連帯感のようなものが芽ばえてきた。
ついに今まで静観していたFBIのシェルドンが動き出した。
犯罪者の心理を見すかしたように優しく、そして時には力強い口調でソニーに投降を勧めてきた。
ソニーとしてもこの説得に心が動かなかったわけではなかったが、一途に成功か死かのいずれかしかないと信じ込んでいるサルを裏切ることは出来ず、、息づまるような緊張はなおも続く・・・。


寸評
シドニー・ルメットはこういう映画を撮らせると上手い。
実際の事件に基づいた映画だそうで、最後にこの事件のその後の顛末がテロップされる。
結局は銀行強盗の話なのだけれど、銀行強盗の話はありすぎていてどうにでも料理できてしまう題材だと思う。
しかしこれが実話に基づいているということは、単なる銀行強盗ではない何かをシドニー・ルメットが感じ取り、それを醸し出す必要があったはずだ。
強烈なメッセージではないが、いつの間にかその何かに誘われていったような作品だ。

主人公のソニーは根っからの悪人ではないし、相棒のサルもまた然りなのがいい。
特にサルが少し頭が悪そうで無口なのに、人の体には神が宿るのようなことを行ったりする不思議な人物だ。
反対に主犯のソニーは苛立ちを見せながらしゃべりまくる。
計画も立てていなかったのかとなじられるくらいに稚拙な強盗なので、所々で善人ぶりを見せる。
サルは本当に一人づつ殺すのかと不安を見せる。
ソニーは体調を崩した人質の面倒を真剣にみる。
要求したピザの配達人に料金を払おうとするのだが、新券で払うところなどがソニーの善人ぶりを表していた。

地元警察のモレッティ刑事とFBIのシェルドンの対比も面白い。
人情で説得を試みるモレッティに対して、交代して陣頭指揮をとったシェルドンは事務的な逮捕劇を試みる。
はなから犯人の射殺などを視野に入れている冷徹なところがある。
真夏の暑さの中でイライラがつのるような環境下での犯罪だが、特に激しい場面があるわけではない。
銀行内での発砲は1回だけだから、犯罪映画としては静かな展開だ。
その静けさを破るのが最後の逮捕劇で、それまでのゆったりとした運びから一転するのがいい。
ソニーの何でこんなことになってしまったのかというような表情がいい。

これが実話だから尚更スゴイのだが、ソニーが妻との面会を求めたので警官が妻の元を訪ねて面会要請をしてひと悶着やって、やっと妻が到着したらやって来たのは妻は妻でも・・・という驚くべき展開。
なんだ、それは?と思わず唸ってしまう場面だが、それも実話だということに驚く。
ソニーがアッティカ刑務所暴動に言及して、群衆の前で官憲の横暴を批判するシーンがある。
その時「アッティカ! アッティカ!」と叫び、群衆がそれに呼応する場面はロックコンサートのようである。
群衆たちには何故かヒーローのように祭り上げられていくのは、鬱積した官憲への反発だったのだろう。
ピザ屋の配達人さえ群衆の間で俺はヒーローだと叫ぶ。
野次馬の支持を受ける彼らはまるでボニーとクライドだが、彼らほどの壮絶な最後を迎えないのもサエない彼らを象徴していた。いつも金をせびられる環境に居るソニーの切ない叫びが痛々しかった。

この映画の配給収入の一部が犯人に渡され、その金で彼の妻(?)は手術を受けたらしいことを知ると、アメリカ社会の不思議さを感じてしまう。
ソニーが銀行内で見るテレビがSONYだったのはシャレ?

大いなる西部

2020-11-24 08:22:17 | 映画
「大いなる西部」 1958年 アメリカ


監督 ウィリアム・ワイラー
出演 グレゴリー・ペック
   チャールトン・ヘストン
   ジーン・シモンズ
   キャロル・ベイカー
   チャールズ・ビックフォード
   バール・アイヴス

ストーリー
1870年代のテキサス州サンラファエルに、東部から1人の紳士ジェームズ・マッケイ(グレゴリー・ペック)が、有力者テリル少佐(チャールス・ビックフォード)の1人娘パット(キャロル・ベイカー)と結婚するためにやってきた。
出迎えた牧童頭のスチーヴ・リーチ(チャールトン・ヘストン)は彼に何となく敵意を示した。
スチーヴは主人の娘に恋していたのだ。
途中まで許婚者を迎えたパットは、スチーヴを先に帰してジェームズと父の牧場に向かったが、途中で酒に酔ったハナシー家の息子パック(チャック・コナーズ)たちに悪戯をうけたが、ジェームズは彼らを相手にしなかった。
パットの父テリル少佐は大地主ルファス・ハナシー(バール・アイヴス)とこの地の勢力を二分し、争っていた。
2人が共に目をつけている水源のある土地ビッグ・マディを、町の学校教師でパットの親友ジュリー・マラゴン(ジーン・シモンズ)が所有していた。
彼女は一方が水源を独占すれば必ず争いが起こるところから、どちらにも土地を売ろうとしなかった。
少佐は娘の婿にされた乱暴に対して、ハナシーの集落を襲い、息子たちにリンチを加えて復讐した。
そんな少佐の態度にジェームズは相いれないものを感じた。
彼は争いの元になっている土地ビッグ・マディを見て、女主人ジュリーに会い、中立の立場で誰にでも水を与え、自分でこの地に牧場を経営したいと申し出て彼女と売約契約をかわした。
一方血気にはやるパットと父の大佐は、慎重なジェームズの態度が不満だった。
水源地ビッグ・マディを手に入れて大佐に対抗するため、ハナシーはジュリーを監禁する挙に出た。
ジェームズは単身本拠にのりこみ、水源は自由にすると明言してジュリーを助け出そうとする。


寸評
西部を背景に織り成す長編ドラマで、激しい銃撃戦や喉かな牧場のシーンは少なく、平和的な解決を望む主人公は常に丸腰なので、イメージする西部劇らしくない作品となっているが、そこが魅力的ともいえる。
導入部は先進的と言える東部から主人公のマッケイが開拓途上らしき西部の町にやって来る所から始まるのだが、続いて描かれるマッケイと婚約者のパットが襲われるシーンでこの映画の背景がすべて描かれる。
マッケイが無抵抗なのに対して、パットは銃を手に取り攻撃しようとする。
ここでマッケイは争いを好まない紳士的なキャラクターで、パットは西部の女そのものというキャラクターであることがわかるし、テリル家とヘネシー家が対立しているという構造を端的に見せている。
またここでバックがマッケイの帽子を撃つが命中していないということも描かれて、バックの銃の腕前が大したことはないと暗示されていて、ラストシーンのバックの姿を暗示している。
マッケイとパックの違い、マッケイとパットの相違などをチラリと描き、後半の展開に説得力を持たせる導入部としているのだが、わずかの時間でそれだけの内容を描き切っているのは流石にウィリアム・ワイラーと思わせる。

この作品における善者はマッケイと教師のジュリーだと思うが、反面、反目し合うどちらか一方が善という図式が多い中にあって、敵対するテリルーとハナシー両者ともに善玉と言う感じではない。
特に、一応の悪役であるヘネシーがただの悪人ではなく、マッケイとパットとの婚約披露パーティに現れて行う演説とか、ジュリーを襲おうとした息子のバックを殴って叱りつけたり、事件のけじめを昔ながらの決闘でつけようとしたりするなど、彼には彼なりの正義があるというキャラクターで描いているのが面白い。
この作品で一番面白いキャラクターがバール・アイヴス演じるハナシー親父で、テリル少佐の影は薄い。
そこにいくと僕たちの世代には「ライフルマン」というテレビドラマを思い出す息子役のチャック・コナーズが卑怯者の代表のような描かれ方で、一番の嫌われ役となっている。

映像的にはカメラが引いた遠景のシーンに風情を感じる。
建物が密集していない建設途中とでもいうべき町の姿にはじまり、広大な土地の映像はビッグ・カントリーという呼び名ににふさわしと思わせるし、マッケイとリーチの格闘場面などはロング・ショットに無音のタイミングを入れることで雰囲気を出し、印象に残る中々いいシーンとなっている。
テリル一家とハナシー一家が戦う銃撃戦の場面でもロング・ショットが効果的に用いられている。
特に二人が決闘に向かうシーンはなかなかいいアングルで二人をとらえている。
とは言いながら、全体的には盛り上がりに欠けるところがあり、この内容にして3時間近い上映時間は少々長すぎるのではないかと感じるのだが・・・。
もう少し要領よくまとめられたのではないかと思うのだが、もしかするとウィリアム・ワイラーは開拓時代の西部を感じ取る雰囲気映画を目指したのかもしれない。
あるいは制作された時代を考えると、無抵抗、非暴力を訴えたかったのかもしれない。
マッケイはジュリーと牧場を再建するのだろうが、そうなればパットは二人の姿をどんな思いで見るのだろう。
あるいはパットはリーチと結ばれることになるのだろうか。
そんな後日談を想像してしまう。

黄金の七人

2020-11-23 07:59:04 | 映画
「黄金の七人」 1965年 イタリア


監督 マルコ・ヴィカリオ
出演 フィリップ・ルロワ
   ロッサナ・ポデスタ
   ガストーネ・モスキン
   ガブリエル・ティンティ
   モーリス・ポリ
   マヌエル・ザルゾ

ストーリー
ジュネーブにあるスイス銀行の大金庫は万全の備えをもつ最新式のものだ。
扉は電子装置で開閉、地下には坑道をめぐらし電気写真装置、侵水装置などその防御設備には近代化学の粋がもりこまれていて、中に眠っているのは時価数百億円の金塊である。
となればこれを狙う連中の心は常にもましてハッスルしようというもの。
ある冬の日、真黄色に塗った道路工事の車と、オレンジ色の服を着た六人の男が、道路に穴をあけ地下にもぐっていったが、誰も彼らがヨーロッパよりぬきの泥ちゃんとは気がつかない。
しかも向いのホテルの一室では、リーダーの“教授”とよばれる男アルべールが、情婦のジョルジアを傍わらに無線通話機、レーダーで総指揮をとっているという念の入り方。
特製ドリルで大金庫の底に穴をあげた男たちは午後一時、計画通りに仕事を完了。
七トン、時価五億円の金ののべ樺は“銅”という名目でイタリアへ発送されてしまった。
「教授」とジョルジアは夜行列車で、あとの六人は車で出発し、落合うところはローマ。
ところがジョルジアはスイス銀行の支配人としめし合せて、「教授」を眠らせて横取りを計った。
しかし役者は「教授」の方が一枚上で計画は見事に失敗。
彼は金を独占--と思ったが、愛する女は憎めないし、六人も黙ってはいない。


寸評
チームを組んで大金を強奪する話として、僕はテレビ放映されたフランク・シナトラ、ディーン・マーティン、 ピーター・ローフォード、サミー・デイヴィス・Jrなどが出演する「オーシャンと十一人の仲間」という作品を見ていたのだが、劇場でこの映画を見た時にはそれに匹敵する興奮を感じたことを思い出す。
「オーシャンと十一人の仲間」はリメイクされシリーズ化もされて、映像技術が進んだこともあってよりエンタテインメントとして洗練されたものが生み出されているが、本作は当時としては新鮮な犯罪映画だった。
軽快なメロディがスキャットと共に流れて映画冒頭から自然と楽しくさせてくれる。

用意周到な準備段階は描かれずいきなり金庫破りが開始される。
登場人物たちがそれぞれの役割をこなしていくが、使用される小道具は子供だましのようなもので笑わせる。
貸金庫に預ける発信機だったり、教授が操作するモニターなども陳腐なものに感じるが、それもおとぎ話としてこの作品を支えているのかもしれない。
コメディ的要素もふんだんに盛り込まれていて、そんな必要があるのかと言いたいぐらいに衣装を変えてロッサナ・ポデスタがお色気を振りまき、それをのぞき込む司祭や注意するために訪れる警官などはその部類に入る。

前半では厳重な金庫に保管されている金塊を盗み出すための手口が描かれていくが、その中で予期せぬ出来事が起きるのは物語として当然なのだが、それほどハラハラさせるものではない。
全体的には軽いタッチで描かれているので、手に汗握り息をひそめて見入った結果、山を越した時にホッと一息つくようなことはなく、何処までもお気軽に見ることができる内容となっている。
また徹底してそのスタイルを貫いている所が良い。

強奪が成功すると裏切りエピソードのオンパレードとなる。
独り占めするための仲間割れとか裏切りは犯罪ものには付き物のような所があるが、予想される以上の展開に引き込まれていくので、これは脚本の妙にあったと思う。
教授とジョルジアが結託して仲間を出し抜くのは想像の範囲内なのだが、教授を尊敬し信頼する実行犯6人の馬鹿さ加減にはあきれる。
前半で銀行の頭取が旅行を計画している場面が用意されているが、後半で頭取は辞表が受理されて今日が最後の務めであることがジョルジアに語られる。
この頭取が裏切り行為に絡んでくるのは予想外だ。
ジョルジアの裏切りと、それを読んでいた教授の対策、次にやって来る展開と、後半の物語は目まぐるしい。
この手の犯罪が成功裏に終わることはないので、どこで破たんするのかと思っていたら騒々しいものとなっていて、「オーシャンと十一人の仲間」のような小粋さはない。
犯人たちは金塊を何個か持ち去っても良かったのにと思うが、それでは映画にならない。
裏切り合った仲間が再結集しているラストも楽しいものとなっている。
タイトルは「黄金の七人」となっているが、実行犯は教授を含めて8人いるのだが、教授は人数に入っていないのだろうか、それとも7人と言う人数が映画的におさまりがいいのだろうか。
7人と名のついた映画が結構存在している。

黄金

2020-11-22 07:16:07 | 映画
「黄金」 1948年 アメリカ


監督 ジョン・ヒューストン
出演 ハンフリー・ボガート
   ウォルター・ヒューストン
   ティム・ホルト
   ブルース・ベネット
   バートン・マクレーン
   アルフォンソ・ベドヤ

ストーリー
1920年のことである。シエラ・マドレの山脈を西北に望むメキシコのタムピコの港で、運に見放されたアブレ者のアメリカ人二人が落ちあった。
一人はダッブス(ハンフリー・ボガート)という男ざかり、一人はやや若いカーチン(ティム・ホルト)だ。
そしてハワード(ウォルター・ヒューストン)という老人の山師が山の中に金があると話しているのを聞いた。
ダッブスが宝くじで少しばかり当てたので、それで必要な道具と食糧を買い、山が当たれば三人山分けと決めてハワードに道案内をさせ山に分け入った。
不思議な運のよさで、三人は金を掘り当てたが、それからというもの、ダッブスは他の二人を疑いの眼で見て夜もおちおち眠れない。
そこへ得体の知れないコディ(ブルース・ベネット)と名乗る男が、ひょう然と風の如くに訪れて来て、仲間に入れてくれと資本金を出し、テコでも動かない。
ところが、突如ゴールド・ハット(アルフォンソ・ベドーヤ)を頭目とする23名の山賊が襲って来た。
その戦いで三人はからくも命は助かったが、不意打ちを食ったコディは殺されてしまった。
この事件でダッブスの神経はいよいよとがって来たし、その気持はカーチンにもうつって、三人の仲間は猜疑の眼でにらみ合いを続けるばかりだ。
その間にも砂金は袋に一杯となったので、ともかくも山を去ろうということになる。
帰りの山路は難渋を極め、そのうえ途中で現地人の群に少年の急病を治してくれと頼まれる。
ハワードの処置で少年は助かり、彼は集落の信任を得るが、ダッブスの仲間に対する猜疑は強まるばかりで、ダッブスとカーチンはついに射ち合った。


寸評
ジョン・ヒューストンらしい男性的な作品で、女性はほとんど出てこないといっても過言でない。
落ちぶれ男たちの物語だが、時にユーモアを盛り込んで話を二転三転させながら進めていくので楽しめる。
主人公のダッブスはメキシコに来たもののうだつが上がらず無一文生活で、まともなアメリカ人を見ると「同じアメリカ人として食事代を恵んでほしい」とたかっている情けない男である。
これと見込んだ男にたかるのだが、時と場所を変えても相手が同じ男だという滑稽なシーンを描きながら、ダッブスの落ちぶれた状況を上手く表現している。

主人公のハンフリー・ボガートは猜疑心が強いダッブスを好演しているが、存在感を発揮するのがハワード老人のウォルター・ヒューストンで、歳に似合わずタフで物知りで善良な老人をハンフリー・ボガート以上に好演している。
当初、彼ら三人はお互いに思いやり、仲良くやっていけそうな仲間として出発するが、金鉱を見つけてから徐々にその関係がおかしくなっていく。
人間の持っている欲が出てくる様をオーバーでなく、心の動きを行ったり来たりしながら描いているのが人間らしくていい。
事故にあったダッブスを見捨てようとしながら、後戻りしてカーチンは助けてやる。
ダッブスも出発時には出資金に応じた配分ではなく、三等分でいいなどと言っているのである。
ところが、実際に金を手に入れるようになってくると、とたんにそれぞれに欲が芽生えてくる。
現金化した後に三等分しようとしていたものを、それぞれの金の取り分を現地で配分し、掘り出すごとに自分の秘密の場所に隠し持つようになる。
一人が抜け出すと、その行動に疑いの目を向けだすようになる。
ここから三人のすさまじい金の争奪戦が始まるのかと言えばそうではなく、時として争いながら和解を繰り返す。
そのやり取りが何とも人間らしくて笑わせる。

銃撃戦はあるが残酷なシーンはない。
コディの死も撃たれるシーンはなくて、死んでいるのが発見されるという描き方である。
彼が妻帯者であることが分かり、見ず知らずの遺族に分け前を届けてやろうとする善人ぶりも見せる。
ダッブスとカーチンの争いも銃声だけで、直接的なシーンは割愛しているし、山賊たちが銃殺されるシーンも銃声だけで処理している。
残虐シーンを描いていないことによって、ダッブスの悪魔と天使の間を行き来する葛藤が、人間の持つ弱さとして一層際立つように描かれていたのだと思う。

冒頭で描かれた砂嵐が伏線となっていて、小気味の良い結末を迎えることになる。
ウォルター・ヒューストンの笑い声が、人間まだまだ捨てたものではないと言っているようで、ハッピーな気持ちにさせてくれる。
もちろん彼がカーチンに提案した内容もそうさせてくれた。
僕が生まれた年の製作だが、十分に鑑賞に堪えうる内容となっている。

お熱いのがお好き

2020-11-21 11:13:21 | 映画
2019年2月10日から「お」の作品を19本程掲載しましたが、
今日から間口を広げ追加で掲載していきます。

「お熱いのがお好き」 1959年 アメリカ


監督 ビリー・ワイルダー
出演 ジャック・レモン
   トニー・カーティス
   マリリン・モンロー
   ジョージ・ラフト
   ジョー・E・ブラウン
   パット・オブライエン

ストーリー
禁酒時代のシカゴのもぐり酒場でサキソフォンを吹いていたジョー(トニー・カーティス)と、バス・ヴァイオルを弾いていたジェリー(ジャック・レモン)は、酒場に警察の手入れが入って失職した。
困った2人は新しい仕事場へ都落ちするため、ガレージに自動車を借りに出かけたところ、そのガレージで彼らは酒場の持ち主スパッツ・コロンボ(ジョージ・ラフト)が、もぐり営業を密告した男に機関銃弾をぶちこんだ殺人を目撃する。
逃げ出した2人はコロンボ一味に狙われる身の上となった。
生命の危険を感じた2人は、ジョーがジョセフィン、ジェリーがダフニと名を変えて、女装して女性オーケストラ一行にまぎれこみ、マイアミ演奏旅行に出発する。
オーケストラの一員に、ウクレレ奏者の金髪娘シュガー(マリリン・モンロー)がいた。
ジョーは一目でシュガーに惹かれたが、彼女は過去に6回もサキソフォン吹きとの恋愛に失敗し、今度は成金と結婚しようと狙っている娘だった。
それに女を装う身の上では、求愛もできない。
一方ジェリーのダフニは、マイアミで年輩の大金持の御曹子オスグッド3世(ジョー・E・ブラウン)に一目惚れされてしまう。
そこで一計を案じ、ジョーは男の姿に戻って石油成金と偽り、シュガーをつれ出す。
そしてジェリーの誘いで外出したオスグッド3世のヨットを使い、彼女と愛をささやくことに成功。
2人の二重生活が進行中のそんなある日、ギャング達の集会がマイアミで開かれ、スパッツ・コロンボが一味をつれてオーケストラ一行と同じホテルにやってきた。
びっくりした2人は、正体を見破られかけて逃げ出す仕度をする。


寸評
ビリー・ワイルダーはこのような作品を撮らせると上手い。
大した中身はないのに最後まで見させるものがある。
とは言うものの1959年という時代を考えると背徳映画と見えなくもないし、当時の風潮に対するビリー・ワイルダーの挑戦とも思えてくる内容ではある。
深読みすれば、現在では認知されているが当時は嫌悪されていたトランスジェンダーや同性愛を盛り込んでいるような気がするのだ。
トニー・カーティスとジャック・レモンが女性楽団に入る為に女装するのだが、ジャック・レモンの女装はグロテスクで、それだけで可笑しい。
二人の女装はカラー作品だったら目を覆うようなものになっただろうから、この映画がモノクロで撮られた理由はそこにあるのではないかと思う。
女装してダフニとなったジャック・レモンはジョー・E・ブラウンのオスグッドに言い寄られる。
オスグッドがダフニを女と思って好意を寄せたことになっているのだが、オスグッドは同性愛者のような雰囲気を持った男だ。
オスグッドの表情もそうなのだが、何度も結婚しているが母親によって離婚させられているとか、男であることを明かしたジャック・レモンに「完全な人間なんいない」と言うあたりに僕は同性愛者を感じ取った。

キャスティングは実にユニークで名前を見ただけで興味津々となる。
日活の人気俳優で若くしてゴーカートの事故で亡くなった赤木圭一郎がトニーと呼ばれていたのは、ジョーを演じたトニー・カーティスに似ていたからである。
トニー・カーティスは二枚目俳優らしい雰囲気があるのだが、本領発揮するのは本作のようなコメディ作品だったように思う。
断然面白いのはジャック・レモンだ。
身振り手振りがコメディアンそのもので、後年アメリカ映画界最高の喜劇俳優と言われたのも納得だ。
「アパートの鍵貸します」のようなシリアスな演技も見せる俳優だったが、コメディ映画で魅せる生き生きとした表情と動きは何とも言いようがない。

そして今一人は言うまでもなく伝説の女優マリリン・モンローである。
セックス・シンボルとして、少し頭が弱いが色気たっぷりという役をやらされることが多かったが、ここでもそんな役を見事に演じている。
僕はマリリン・モンローという女優は単なるセックス・シンボルとしてではなく、演技派としても十分にやっていけた女優さんだったと思っている。
たしかに本作でもグラマラスなボディを強調するような衣装で男性客の目を楽しませているが、想像以上にコメディもこなせていて彼女の本質を見る思いがする。
彼女の歌声も聞けてすごく楽しめる映画で、これがマリリン・モンローの最高作かもしれない。
添え物ではない存在感もあり、マリリンはやはり魅力的な女性だったのだ。

遠雷

2020-11-20 07:17:07 | 映画
「遠雷」 1981年 日本


監督 根岸吉太郎
出演 永島敏行 ジョニー大倉 石田えり 横山リエ
   ケーシー高峰 七尾伶子 原泉 藤田弓子
   蟹江敬三 高橋明 坂巻祥子 吉原正皓 江藤潤
   根岸明美 森本レオ 鹿沼えり 立松和平

ストーリー
満夫(永島敏行)は僅かな土地にしがみついてトマトを栽培している。
父親(ケーシー高峰)は先祖代々の土地を売って豪華な家を建てたが、今は家を出てバーの女、チイ(藤田弓子)と同棲している。
兄(森本レオ)も百姓を嫌って、東京でサラリーマンをしている。
家に残っているのは満夫と母(七尾伶子)と祖母(原泉)の三人だけだ。
日々のいらだちをトマト栽培にまぎらわす満夫にお見合の話がきた。
あや子(石田えり)という相手は、まんざらでもない女で、二人はその日にモーテルで抱き合った。
世話になった人が立候補するので、選挙の手伝いをするといって父が帰って来た。
母も父の浮気のことなど忘れて、調子に乗っている。
その頃、子供の時からの友人・広次(ジョニー大倉)がスナックの人妻カエデ(横山リエ)と駆け落ちした。
カエデは満夫のビニールハウスにトマトを買いに来たこともあり、関係を結んだこともある。
いらだつ満夫に、追いうちをかけるような事件が続いた。
トマトが大量発生したアブラムシで全滅し、そして父も選挙違反で警察にあげられてしまった。
あや子の父の希望で、村一番の盛大な結婚式をあげている晩、広次が帰ってきた。
ハウスの中でカエデを殺してきたと広次は告白しながら泣いた。
そして「稲刈り、頼んだぜや」と言い残して自首した。
警察を出た父はそのままチイとどこかへ行ってしまった。
残された満夫とあや子が腐ったトマトを燃していると不動産屋がやってきて土地を売ってくれと言う。


寸評
東京近郊だが農地はまだ残っていて、満男のビニールハウスもかなり広い。
宅地開発が進んでいて、ビニールハウスのすぐ向こうには公団住宅が立ち並んでいる。
トマトの枯葉を燃やした煙が団地のベランダに流れていく程に隣接していて、ベランダに干した洗濯物も見えるからよくこれで問題が起きないものだと思ってしまう。
満男は23歳の若者だが、他にやることがないからと言いながらも必死でこの農地を守っている。
父親は土地の一部を売り家を出て行ってしまっているが、百姓が土地を手放せばやることがない。
父親のいなかった僕の母親はコメ作りをする百姓で、土地を売却し家を建てたが、その後は生活の糧を得るために内職をすることしかできなかった。
満男は少なくとも土地を守って百姓を続けていく意思を持っているようであるが、かなりいい加減な男でもある。
スナックを営むカエデに誘われ、いとも簡単に関係を結んだかと思うと、見合いの相手の女性を当日にモーテルに連れ込んだりする男だ。
それに応じる女も女なのだが、娯楽の少ない田舎では、えてして取られる行動パターンのような気もする。
口うるさい田舎の筈なのに、案外とゴシップになるような男と女の事件を耳にするのだ。

都市化がすぐ近くまで迫っているのに、満男の家は時代に乗り遅れたような家庭である。
年老いた祖母と、亭主に出ていかれた母親がおり、二人は嫁と姑の争いを未だにやっている。
満男との結婚を考えているあや子はその様子を見て自信がなくなってしまうと言う。
あや子でなくてもそうだ。
僕も目にした嫁と姑、嫁と小姑の争いに子供心に嫌気がさしていたものだった。
結婚して母親と同居して、再び自らがその体験もしたから、あや子の気持ちは大いに理解できる。
それでもあや子はやって来るのだから、案外とあや子はしたたか女で、しっかり者なのかもしれない。

根岸吉太郎は日活ロマンポルノを10本程撮っているが、僕は1981年の「狂った果実」しか見ていない。
「狂った果実」はロマンポルノという気がしない作品で、むしろATGで撮ったこちらの方がロマンポルノっぽい。
たぶん満男がカエデやあや子と関係を結ぶシーンが多いせいだろう。
しかし内容的には田舎の男と女に漂う性と生を描いていて濃さがある。
満男を演じた永島敏行、あや子を演じた石田えりがなかなかいい。
特に石田えりの存在感は際立っている。
満男の友人である広次のジョニー大倉が殺人を告白するシーンは目を釘付けにさせるものがある。
ワンカットによる長回しでセリフも長い。
満男はいい女と出会えたが、広次はとんでもない女に引っかかったものだと同情してしまう。
間違えば自分がそうなっていたかもしれないと満男は言うが、男も女も一緒になった相手が悪ければ、不幸な道を歩むことになる。
事件を起こすか、別れるか、それとも別れることも出来ず嫌いながら一生を送るかだ。
この三人の役者はいい。
そしてこの映画、最後には満男とあや子夫婦に拍手と激励を送っている自分を感じさせてくれる。

L.A.大捜査線/狼たちの街

2020-11-19 07:29:52 | 映画
「L.A.大捜査線/狼たちの街」 1985年 アメリカ


監督 ウィリアム・フリードキン
出演 ウィリアム・L・ピーターセン
   ウィレム・デフォー
   ジョン・パンコウ
   デブラ・フューアー
   ジョン・タートゥーロ
   ダーラン・フリューゲル

ストーリー
アメリカ合衆国秘密捜査官のチャンスとその相棒ジミーはよく息が合うコンビだったが、定年退職を2日後に控えたある冬の日、ジミーは射殺死体で発見された。
長年追い続けた偽札犯人エリックを追いつめた結果の惨劇だった。
命がけの仕事の上では最高の相棒、そして私的にも親友であったジミーの死体を前に、チャンスはエリックへの復讐を誓った。
新しく相棒になったジョンと行動を再開したチャンスは、手始めに空港で偽札を使用した男を捕まえたところ、名をカールといい、偽札の運び屋でアタッシュケースには1000万ドルの現金が詰まっていた。
刑務所に収容されたカールを訪ねたエリックはいつ自白するとも知れぬカールの様子に不安を抱き、弁護士のマックス・ワックスマンにカール保釈の相談にいく。
同じ頃チャンスは仮釈中の女情報屋から、ワックスマンが偽札をさばいていることを聞きだし、彼を追いはじめた頃、エリックの愛人のビアンカが弁護士事務所を訪ねてきてワックスマンを誘惑していた。
その時、突然、エリックが現われ、金庫から金を奪うとワックスマンを殺して逃げた。
事情を察知したチャンスは事務所に飛び込み、偽札の取り引きの暗号が記されているメモを入手した。
再び女情報屋から、盗品のダイヤを買うために5万ドルを持ってバイヤーがロスに来ると聞いたチャンスは、エリックに依頼した偽札の前金3万ドルをそれに当てようとバイヤーを襲撃したが、実は彼はFBIの囮捜査員で、追跡してきた謎の取り引き相手に殺されてしまう。
相棒のジョンはチャンスの強引なやり方を強く責めるが、エリック逮捕に燃えるチャンスは聞く耳をもたなかった・・・。


寸評
はみ出し刑事のはみ出し捜査を描いた作品は数多くあり名作も多いが、「L.A.大捜査線/狼たちの街」はそれらの系譜に入りながらも一風変わったストーリーを持つ刑事ものである。
チャンスとジミーは長年のコンビで偽札犯のエリックを追っていて、ジミーが殺されたことでチャンスはエリック逮捕に執念を燃やすが、復讐とでもいうべき犯人追跡がすさまじい。
犯人逮捕のために違法捜査がエスカレートしていく展開が息をも飲ませない。
脚本に粗さが目立つもののチャンスの執念がほとばしり出る。

ジミーはエリックのアジトを捜査に行きそこで殺されてしまうのだが、チャンスが言うようになぜ一人で行ったのかの疑問は最後まで解けない。
チャンスが情報を得ている女性は、弁護士のマックス・ワックスマンが偽札をさばいていること、盗品のダイヤを買うために5万ドルを持ってバイヤーがロスに来ることを知りえる立場にいたと思うが、一体彼女はその情報をどのようにして入手したのかの疑問は残る。
また5万ドルを持ってダイヤを買い付けに来たバイヤーもチャンスの目の前で射殺されるが、チャンスが叩き壊したアタッシュケースは現場に捨て去ったままである。
当然指紋などが残っていたはずだが、犯人像は二人の白人であることと髪の毛ぐらいの情報しか捜査官たちに知らされていないのは捜査不足ではないかと感じるが、それらの疑問をふっ飛ばしてしまう後半の追い込みが素晴らしく、僕は二人の捜査官の処置におもわず唸ってしまった。

ジミーが殺されたことで新たに相棒となったジョンとのコンビがやはりこの映画のバックボーンを構成している。
ジョンは保身的であり、チャンスの違法捜査を咎めながらも相棒として引きずられていく。
チャンスはワックスマンが殺された現場から取引メモを警察に渡さず持ち去っているのにも目をつむる。
一人で暴走したことだとジョンをかばう態度はみせるものの、チャンスの行為はエスカレートしていく。
現行犯逮捕するためにエリックから偽札を買い付けようとするのだが、その為の手付金が3万ドル必要となる。
捜査当局からは1万ドルしか出ないため、チャンスは盗品ダイヤを買い付けるバイヤーから5万ドルを強奪することにするのだが、これは捜査官が強盗をするということで、チャンスのやることは一線を超えてしまって犯人逮捕の為なら何でもやるという状態となる。
このバイヤーは取引相手によって射殺されてしまうのだが、実はこのバイヤーは・・・となってから映画は俄然面白くなる。
そしてついにエリック逮捕のために偽札購入取引に向かうのだが、ここでのアクションがど肝を抜く。
アクションもそうだし、起きることも意表を突くもので、それを一気に片付けているのが素晴らしい。

軟弱そうだったジョンが変身するのはよくあるパターンで驚きはしないが、うまくまとめている。
この映画、もう少し大物俳優を使って撮っていればもっと楽しめる作品になっていたような気がする。
チャンスのキャラクターにもう少しアクの強さがあっても良かったし、ジョンはもっとリベラルな雰囲気があっても良かったように思う。

エリン・ブロコビッチ

2020-11-18 08:03:48 | 映画
「エリン・ブロコビッチ」 2000年 アメリカ


監督 スティーヴン・ソダーバーグ
出演 ジュリア・ロバーツ
   アルバート・フィニー
   アーロン・エッカート
   マージ・ヘルゲンバーガー
   チェリー・ジョーンズ
   ピーター・コヨーテ

ストーリー
カリフォルニア州モハベ砂漠の小さな町。
エリン(ジュリア・ロバーツ)は元ミス・ウィチタの美貌ながら、離婚歴2回、3人の子持ちながら無職。
職探しに出て採用面接の帰り、追突事故に巻き込まれた彼女は、引退を控えた弁護士エド(アルバート・フィニー)に裁判の弁護を依頼するも和解金を取り損ねた。
職もなく貯金も尽きかけた彼女はエドの法律事務所へ押しかけ、強引に彼のアシスタントとして働き始める。
書類整理中、彼女は不審なファイルを見つける。
不動産売却の書類になぜか血液検査の結果が添付されていたのだ。
孤軍奮闘して調査した結果、大企業の工場が有害物質を垂れ流しにしている事実を突き止める。
病に苦しむ住民たちを目の当たりにしたエリンは、気乗りしない住民たちを訴訟に持ち込むよう説得に回る。
その後及び腰だったエドも本格的にその問題を担当。
また彼女の隣りに住むバイク野郎ジョージ(アーロン・エッカート)が3人の子供の面倒を見てくれる主夫として私生活面をサポート。
地道な活動が住民たちの共感を呼び、大企業と交渉の場を持つまでになった。
ついには執念で600人以上もの署名を集め、全米史上最高の和解金350億円を勝ち取った。
大きくなった法律事務所で窓際の個室を与えられたエリンはエドから破格のボーナスを受け取るのだった。


寸評
ジュリア・ロバーツの魅力が炸裂している作品だ。
エリンはミスコンテストで優勝した経験を持つが負け組の人生を送っている。
2度の離婚を経験したシングルマザーで三人の幼い子供を抱えている。
おまけに無職で職探しをしており貯金も底をついているが、バイタリティと行動力だけは抜きん出ている女性だ。
半ば押し売り的に採用させたのは、エリントはまったく違う文化圏と言える弁護士事務所である。
事務所で働き始めたが、事務所の女性たちとは交わるところがない。
エリンは過激でセクシーなファッションを好み、最後までそのファッションスタイルは変わらない。
彼女から見れば法曹の世界に生きる人たちは型にはまったスタイルと行動しか出来ない人種と思えるのだろう。
「太い足とダサイ靴!」と痛烈に提携事務所の女性をけなしたり、膨大な人の署名を取付け、決定的な証拠を示した時のエリンの放つ言葉は我々から見れば小気味よい。
3児の母であっても、どんなに仕事が忙しくても、溌溂とした女性でありたいと思っているようだし、他人の目は気にせず言いたいことはハッキリと言う。
僕たちがこうでありたいと思う姿をエリンが見せてくれる。
礼儀をわきまえるように注意されたりもするが、シングルマザーとして一生懸命な姿に胸打たれる。
一方できちんと話し合えば理解してもらえるという自信もあるのか、マニュアル通りの行動ではなく誠意でもって人々と接していくという彼女のキャラクターがあって物語は成立している。
提携弁護士事務所の女性が住民を訪ねると、無視されたり拒絶されたりするのとは対照的である。

集団訴訟を扱った裁判劇でもあるのだが、法廷シーンはほんの少ししか登場しない。
大半は素人であるはずのエリンが被害者から状況を聞いたり、証拠を集めて回る場面の連続である。
脅迫めいた電話が有ったり、彼女の存在をバラした男の存在などサスペンス的な部分もあるが、サスペンスを前面に出すことはせず、ひたすらエリンという女性のキャラクターを描き続けている。
その事がかえって観客を引き付けて画面に釘付け状態にさせている。
したがって裁判物に付き物の法廷で原告側が勝利を得る劇的な場面がなくても納得してしまう。
エリンのジュリア・ロバーツを引き立てているのが、事務所の社長でもある弁護士のエドで、演じているアルバート・フィニーがとぼけた味を上手く出している。
エドはいい加減かと思えばまともな行動をとる不思議なキャラで、エリンに冷たくしたかと思うと、車を提供するなど優しい面を持っているし、軟弱かと思えばエリンの痛烈な言葉を受け止める度量のある男でもある。
二人の掛け合いの面白さもこの作品の見どころとなっている。
見ているうちにこれはエリンの成長物語でもあることが分かってくる。
映画の冒頭では、彼女にとって仕事とはお金を稼ぐ手段にすぎないことが描かれ続ける。
しかし、公害訴訟に関わったことで、人から尊敬され感謝されるという経験をすることで、最後には自分の仕事を正当に評価してほしいと主張できるようになっている。
エリンは弁護士資格を持っていないが、エドのアシスタントとして辣腕を振るうようになるようだし、自分を助けてくれた男性への感謝も忘れておらず、二人して被害者を訪ねて賠償額を伝える場面は感動的だ。
「仕事、頑張るぞ!」と思わせてくれる映画である。

エッセンシャル・キリング

2020-11-17 07:02:36 | 映画
「エッセンシャル・キリング」

     
監督 イェジー・スコリモフスキー      
出演 ヴィンセント・ギャロ
   エマニュエル・セニエ
   ザック・コーエン
   イフタック・オフィア
   ニコライ・クレーヴェ・ブロック
   スティッグ・フローデ・ヘンリクセン

ストーリー    
上空をアメリカ軍のヘリコプターが飛行し、地上ではアメリカ兵が偵察活動を行っているアフガニスタンの荒涼とした大地。
ひとり洞窟に潜んでいたムハンマドは、手に持ったバズーカでアメリカ兵を吹き飛ばして逃走する。
ヘリコプターはムハンマドを追い、攻撃し、倒れたムハンマドはアメリカ軍の捕虜となる。
収容所に連行されたムハンマドは、激しい拷問を受ける。
さらに軍用機で別の場所に移送され、護送車で移動していたとき、深夜の山道で動物を避けそこなった車が、崖から転落するという事故に巻き込まれる。
ムハンマドは、事故の混乱に乗じて逃亡を計る。
民間人を殺して車を奪い、手錠を外したムハンマドは、雪に閉ざされた深い森に逃げ込む。
どこまでも続く森を逃走する間も、上空にはヘリコプターが旋回し、追っ手がムハンマドを追っていた。
深夜、故郷にいる妻と子供の姿を夢に見たムハンマドは、蟻や木の幹を食べ、製材業者のトラックにただ乗りし、木の実を食べ、襲った女の母乳を吸って、やみくもに逃げ続ける。
やがて、森の中の1軒の家に辿りつき、入口で倒れてしまう。
その家でひとり暮らしている女マーガレットは、彼を家に入れて介抱するのだが・・・。


寸評
映画は、アフガンで米兵を殺害して拘束されたアラブ人の男が、護送中の車の事故に乗じて脱走し、そのまま雪山の中を逃げ回るというサバイバル劇だ。
たったそれだけの話なのに、見応えは十分といった内容になっている。
主人公は言葉を一言も発することなく、ただただ逃走するだけ。
彼を突き動かすのはむき出しの生存本能で、倫理観を超越して本能のままに生きようとする。
アリ塚を壊してアリを食い、木の皮をかじり、木の実を食べる。
人の釣った魚を横取りして生のまま食いつく。
揚句には、赤ん坊に与えていた女の乳房にむしゃぶりつき、その乳を横取りしてしまう…。
逃走劇の合間に何度もアッラーに関する言葉が出てくるが、それは反米として男の背負ったものを示すと同時に、彼が宗教からも飛び出して本能の世界に来てしまったことを示唆しているようにも見える。
彼は自分が生きるためには、情け容赦なく関係ない人をも殺してしまう。
ラスト近くで耳の不自由な女性を登場させ、獣のように生存本能だけで逃走してきた男の心に、わずかながら人間の心が戻ったかのような感じを抱かせるが、それでも彼は何も言わず立ち去るので、それもどうかと疑わせもする。

目を引くのが映像の見事さで、この映像美が観客を引き込んでいく。
冒頭のグランドキャニオンのような岩だらけの土地の空撮に始まり、雪山の空撮、手持ちカメラで追う男の姿など、凄まじい力技とも言える映像が続く。
その一方で、川に流れる青い布や白い雪に映える赤い木の実、そして白をバックにした鮮血など色彩感覚にあふれた詩的な映像も飛び出す。

白馬が登場する結末はこれまた美しく、余韻の残るラストシーンになっている。
それにしても、一言も発せず主人公を演じ切ったヴィンセント・ギャロはズゴイ!
米軍、アラブ人捕虜という舞台設定だが、政治的・社会的メッセージはなく、人間の生きる本能という根源に迫った壮絶だが美しい映画だった。

エディット・ピアフ~愛の讃歌~

2020-11-16 07:34:02 | 映画
「エディット・ピアフ~愛の讃歌~」 2007年 フランス / イギリス / チェコ


監督 オリヴィエ・ダアン
出演 マリオン・コティヤール
   シルヴィー・テステュー
   パスカル・グレゴリー
   エマニュエル・セニエ
   ジャン=ポール・ルーヴ
   ジェラール・ドパルデュー

ストーリー
1915年、フランス・パリの貧しい家庭に生まれたエディット・ジョヴァンナ・ガション。
母は路上で歌を歌い、日銭を稼ぐ毎日だった。
その後、祖母が経営する娼館に預けられた彼女は、娼婦ティティーヌたちに可愛がられ束の間の安らぎを得る。
やがて兵役から戻った父に引き取られると、路上で大道芸をする父の手伝いをする中で、自らも人前で歌うことを覚えるのだった。
そして1935年、路上で歌を歌い日銭を稼いでいた彼女は、パリ市内の名門クラブのオーナー、ルイ・ルプレにスカウトされ大きな転機を迎えた。
ルプレによってピアフと名付けられた彼女は、歌手としてデビューするや、瞬く間にスターダムへと駆け上っていくのだったが…。


寸評
映画は幼年期のピアフと、スターダムを駆け上がるピアフを交差させながら進んでいく。
悲惨とも思える幼年期の宿命を、名声を得ていく過程でも背負いつづけている事を暗示するような構成だ。

ピアフの伝記映画なのだろうけれど、忠実な伝記映画ではない。
交友のあったマレーネ・デートリッヒはほんの少しだけ登場するが、彼女と同日になくなったジャン・コクトーは会話の中でだけ登場し、彼女が世に送り出したイブ・モンタンやシャルル・アズナブールなども同様の扱い。
年数がたてば、誰、それ?となるのだろうが、かろうじて僕はマレーネ・デートリッヒを映画で見、イブ・モンタンも映画で見てその歌声も聞いたことがある。
シャンソンと言えばシャルル・アズナブールの名前が真っ先に思い浮かぶので、彼女、彼等の名前が出ただけで郷愁にかられてしまう。

1度目の結婚はさらりと描かれるが、2度目の結婚は描かれていない。
4度あったという交通事故もあまり重要視されていない。
もっともその事故がもとでモルヒネ中毒にかかった様子は描かれていたので、監督のオリヴィエ・ダアンは、ピアフの波乱に満ちた人生より、ピアフという人間そのものに興味を抱いたのかも知れない。

主演のマリオン・コティヤールはその期待に応える熱演、好演でピアフそのものだった。
ピアフの原音からとられた歌声は彼女が発しているようだった。
僕はそんなにシャンソンに造詣が深いわけではないのだが、この映画を見た後はシャンソン、特にエデット・ピアフの歌声を聴きたくなり急遽音楽CDを入手した。
そうせずにはいられないほど、この映画におけるピアフその人の歌声はハマっていたと思う。
故人は142センチの実に小柄な人だったようだが、そんなイメージもマリオン・コティヤールによって出されていたと思う。

神は歌う事以外の全てを奪い去ったかのようなピアフの人生なのだが、その神=聖テレーズも彼女を救い、クロスを最後まで手放さなかったのは、酒に溺れ、薬に犯され我儘な彼女の人間らしさを感じさせ切なくさえあった。
飛行機事故自体が極めて稀な出来事なのに、真に愛し合えたミドル・ウェイト級の世界チャンピオンのマルセル・セルダンがその飛行機事故で急逝する事実。
親交のあったコクトーが同日に亡くなる偶然。
4度までも自動車事故に出会う悲運など、彼女の一生は正しく事実は小説よりも奇なりの人生だった。
しかしそれでも、良い事もあれば悪い事あった。自分の人生に悔いはないと歌い上げる彼女の姿は万感迫るものがありスケールの大きな映画になっていた。

越路吹雪さんの功績もあって、日本では「愛の賛歌」が著名なので、邦題は「エディット・ピアフ 愛の賛歌」となったのだろうが、原題の「LA VIE EN ROSE」(バラ色の人生)の方が深みがあったのではないか。