おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ふるさと

2023-02-28 08:03:06 | 映画
「ふるさと」 1983年 日本


監督 神山征二郎
出演 加藤嘉 長門裕之 樫山文枝 浅井晋 前田吟 樹木希林 花澤徳衛
   草薙幸二郎 鈴木ヒロミツ 岡田奈々 篠田三郎

ストーリー
山狭の徳山村ではダム工事が行なわれていた。
静かだった村の道をトラックが砂ぼこりをあげて走りぬけて行く。
徳山村に住む伝三(加藤嘉)は、妻を亡くしてボケ症状が現れはじめていた。
離村を余儀なくされている息子の伝六(長門裕之)と嫁の花(樫山文枝)は、ダム工事の手伝いに出かけており、昼の間は伝三は一人で、それがいっそうボケを進めていた。
隣人も忘れてしまい、伝六と同きんする花をふしだらな女とののしる伝三を、伝六は離れを建てて隔離する。
夏が来て、川で水遊びをする子供たちを見て表情をなごます伝三に、隣家の少年・千太郎(浅井晋)はあまご釣りの伝授を頼む。
かつて伝三はあまご釣りの名人と言われていた。
早起きして出かける二人。
伝三のボケは回復に向かう。
夏休みも終りの頃、雨の日が続き、再び孤独となった伝三のボケは狂気に近いまでになり、やむなく伝六は、離れに鍵をかけて伝三を監禁した。
真夜中に離れで暴れる伝三。
千太郎は、伝三に秘境・長者ヶ淵にあまご釣りに連れて行ってくれるようせがんだ。
歩き詰めで二時間、たどりついた二人は秘境の美しさに目をうばわれる。
そして、伝三に教えられた通りに降ろした千太郎の竿に大ものがかかった。
千太郎は伝三に助けを求めるが、伝三は胸をおさえてうずくまっていた。
あわてる千太郎を落着かせ、伝三は人を呼びにやらせる。
村へと一目散に走る千太郎。
その頃、伝三は岩場に横たわり、若き日の美しい出来事を夢見ていた。
数日後、小雪の降り散る峠に、村に別れを告げる伝六や千太郎たちの姿があり、花の胸には伝三の遺骨がしっかりと抱かれていた。


寸評
やがてダムに沈んでいく村に暮らす家族を描いているが、同時にどこにでもある老人介護の問題も描かれている。
特に伝三は認知症が現れており、家族としてどう支えるのか考えさせられる。
日照りが続き渇水状態になり、貯水ダムの水位が下がるとダムの底からかつての村が現れる映像を何年かに一度の割合で見てきている。
ここで絵がから得ているような村は、ある時期にはたくさん存在していたような気がする。
村人たちはダム建設の仕事に従事しているが、その為に立ち退かねばならない立場にいることに矛盾を感じるが、伝六が言うように新しい生活を始めるにも金が必要なのだ。
彼らは生まれ育った村を出て都会に移住するが、新しい場所はきっと生活環境も文化も全く違うところであろうことは想像できる。
彼らのその後は描かれてはいないが、転居した後の苦労が想像されて胸が熱くなる。

伝三達が住んでいる所は世帯数も人口も少ない山村であるが、そのような場所だから美しい自然環境が壊されることなく存在している。
当初は伝三じいさんのボケぶりが描かれるが、途中から千太郎少年との交流物語に変わっていく。
伝三は時々認知症を発症するが、千太郎に名人と言われたれたアマゴ釣りを教えることで認知症が影をひそめる。
老人となっても必要とされれば生き甲斐が出てくるのだろう。
釣りの極意を教える伝三は頼もしい。
僕は香川県の流通センターに出張した時に、そこのセンター長の息のかかった店でアマゴ料理をご馳走になったことがある。
仕事が深夜に及び店は終了していたが、ひとつだけテーブルのライトをつけて特別に料理を出してくれた。
未だかつてあの時のアマゴの塩焼き程美味い魚を食べたことがなかった。
頭まで骨ごと食べることが出来て、あまりの美味さに僕はお代わりでもう一匹を所望した。
千太郎は清流にしか棲まないアマゴを釣り上げる。
僕はもっぱら寝屋川でのフナ釣りだったが、子供の頃の楽しかった釣りを思い起こした。

伝六の友人は別れを惜しんで名古屋に行き、バスの運転手として再出発する。
別れのシーンは感動的だが悲しみも同時に沸き起こる。
伝六も同じように峠を越えて村を出ていく。
最後に育った村を見下ろすシーンに思わず涙してしまう。
それにしても樫山文枝の奥さんはいい奥さんだった。
あの村だからこそ、樫山文枝のような奥さんになれたのだろうか。
都会のご婦人方は殺伐としたところがあり、それは殿方についても同様である。
不便な土地柄だと思うが、住めば都で彼らにとってはかけがえのない場所だったと思う。
彼らの犠牲に感謝し、出来上がった施設は大事にしなければならない。
そして僕たちはそのような人たちがいたことに想いを馳せねばならないだろう。
感謝と言う言葉を忘れがちな昨今である。

プリンス/パープル・レイン

2023-02-27 09:44:33 | 映画
「プリンス/パープル・レイン」 1984年 アメリカ


監督 アルバート・マグノーリ
出演 プリンス アポロニア・コテロ モリス・デイ オルガ・カルラトス
   クラレンス・ウィリアムズ三世 ジェローム・ベントン
   ビリー・スパークス ウェンディ・メルヴォワン リサ・コールマン 

ストーリー
アメリカ北部ミネソタ州の工業都市ミネアポリス。
絶大な人気を持つライブスポット<ファースト・アベニュー>では、紫色のジャケットに身を包んだ黒い肌の若者ギッドが、自分のバンド<ザ・レボリューション>をひきいて、ダイナミックなパフォーマンスを展開している。
強烈なロックのサウンドに熱狂する満員の客たちの人ごみの中、美しい女性が楽屋に向かっていた。
ロック・スターを夢みるアポロニアだ。
キッドの人気をねたんでいるライバルのモリスをリーダーとする<ザ・タイム>のステージに見入っているアポロニアに、楽屋から出て来たキッドが一目見るなり心ひかれたが、アポロニアの態度はそっけなかった。
その夜、キッドが愛用のパープル・メタリックのオートバイで家に帰ると、両親が喧嘩しており、自分の部屋にとじこもってやりきれない気分になった。
両親の不和からくるキッドの落ちこみに女性メンバーのリサとウェンディは、彼に対し不満を訴えた。
やがてキッドはアポロニアとのデートに成功し、2人はたちまち愛し合うようになった。
モリスもアポロニアに目をつけ、スターにすることを約束に自分のグループに加わることを承諾させた。
そんなある日、アポロニアが、キッドの欲しがっていた純白のギターをプレゼントしに彼を訪ねた。
そのギターをモリスから受け取った契約金で買ったことを聞くと、キッドは彼女を殴りつけてしまう。
やがて、モリスはアポロニアをリーダーとする美人トリオ・グループ<アポロニア6>を結成した。
<アポロニア6>が近くのクラブで成功を収めた夜、上機嫌のモリスがアポロニアを誘惑しようとするが、そこに現われたキッドが彼女をバイクに乗せて去ったが、またしても2人は喧嘩別れをするはめになった。
深夜、キッドが家に戻ると、父がピストル自殺をはかり、一命をとりとめたものの悲しみにくれていたキッドは、父の戸棚から古い楽譜を見つけ出した。


寸評
残念ながら僕はプリンスを全く知らない。
音楽を除けば、この映画は家族物語なのだが、その中身は薄いドラマである。
音楽ドラマとしてはほとんどの作品がそうであるように、最初は苦しんで最後はハッピー・エンドと言った単純明快なストーリーである。
家族問題を盛り込んでいることで物語に広がりを与えようとしている所が一線を画しているのだろうが、描かれている内容の割には感動に寄与していない。
プリンスのプロモーション・フィルムという感じで、プリンス・ファンにとってはたまらない映画だろう。
プリンスの演奏シーンはよく撮れていて、この様な表現は日本映画ではなかなかお目にかかれない。
音楽の持つ魔力なのか、プリンスを知らなくても、彼の歌う曲を知らなくても、体が自然と反応してしまう。
反面、セリフが少ない上に、出演者にそれを補うだけの演技力があるはずもないので、登場人物の心情が全くと言っていいほど伝わってこない。

キッドとアポロニアは愛し合うようになるが、アポロニアはキッドではなくモリスと一緒にやるようになるのだが、その事へのアポロニアの悩み、葛藤、苦悩が全く描かれないので、彼ら二人がお互いにどう評価したのかよく分からず、恋愛映画としての深みはまったくない。
父親は母親に暴力をふるっているが、何が原因で暴力をふるっているのか不明である。
意識不明の父親に母親が付き添っているが、どのような思いが二人の間にあってそうなったのか分からないので、彼ら家族の普段の生活が見えず家族物語としても成り立っていない。
キッドとアポロニアの関係もハッピーエンドハッピー・エンドハッピーエンドハッピーエンドで終わるが、この映画における女性の描き方は女性蔑視的だ。
冒頭でモリスが付き合っていた女性をゴミ箱に捨てる。
父親は母親にDVを働いている。
キッドにもアポロニアを殴り飛ばすシーンがある。
僕はプリンス・ファンではないので、この映画におけるプリンスは好きになれなかった。
父親はキッドに結婚をするなと言っているが、結婚生活はミュージシャンにとって無意味なものなのだろうか。

結局これは、プリンスの自伝的な物語でありスパースタースーパースタースパースタースパースターであるプリンスを賛美した作品なのである。
彼は偉大なるスーパースターであり、人々の手の届かない場所にいる人物なのだ。
その彼を“人間”プリンスとして描きたかったのだろう。
何処までが本当なのか知らないが、これが自伝だとすれば主演しているプリンスは、自分は家族や恋人や仲間のことで色々と悩んだり傷付いたりしながら、それでも頑張って来たんだと言いたかったのかもしれない。
彼のそうした隠れた部分を理解してくれたファンの為に、最後に十分すぎるプリンスの演奏シーンが用意されていて、途中でカットしたりせず、フルコーラスを流している。
その彼をカッコいいと思えたらこの映画は楽しい。
僕がもう少しプリンスのことを知っていたら、この映画にまた違った印象を持っただろう。
僕はタイトルになっている「パープル・レイン」すら知らなかったのだ。
プリンスと対局のキャラを演じているモリス・デイはいい味を出している。

不良少年

2023-02-26 09:38:11 | 映画
「不良少年」 1961年 日本


監督 羽仁進
出演 山田幸男 吉武広和 山崎耕一郎 黒川靖男 伊藤正幸

ストーリー
銀座を走る一台の護送車。東京地検の一室。浅井の二週間にわたるネリカン生活が始まった。
思いはシャバに帰る。浅草は生きやすかった。安い飯や遊び、からかう女にもこと欠かない。
彼は親分や兄貴分の下につけない性分だった。
ある日の夕方、不良仲間と三人で真珠店を襲い20万円の強盗を働いた。
上品なウインドーとお高い店員が虫がすかなかったからだ。
浅井は明治少年院に収容された。海に近い男性的な風物にとり囲まれた岬の一角にある。
やがてクリーニング科に編入された。
ここにはやくざ的組織ができており、空手をやる班長江上と下に中幹部がいる。
浅井にみせしめの私刑が加えられたが、浅井は仕返ししてやると心に誓った。
数日後、班長等が反則のパンを自分たちだけで喰っているのを種に、浅井は喧嘩を売って出た。
まもなく、浅井は教官会議で木工科に編入された。
班長の藤川、副リーダー格の木下はともに不良の苦労が身にしみて温かささえあった。
出張と語りあった。彼はシャバ時代藤川の仲間で、四人組で恐喝行脚を続けていた。
毎日善良なサラリーマンやアルバイト学生を襲った。
回想する出張は、後味の悪さのためか被害者のことをくわしく話した。
浅井の耳にこびりついた。
運動会は楽しい思い出となった。
浅井に退院の日がきた。
一年働いた金320円を受取って門を出た。


寸評
ドキュメンタリーではなくドキュメンタリ・タッチで描いていることは冒頭で断られているが、映像はあたかもドキュメンタリーそのものである。
セリフが後から入れられているので、映像と完全一致していないことで、純粋のドキュメンタリーでないことがわかるが、少年たちの会話は本物を感じさせる。
非行少年の姿を描いているが、彼らがどうしてこのような不良少年になったのかは全く描いていない。
虐待されていたとか、社会が悪いとか、愛情に飢えていたとかの理由付けなどを一切排除している。
また彼らが教官たちの指導の下に心を入れ替えて社会に復帰していく姿も描いていない。
ただ単に彼らの普段の喜怒哀楽を描いているだけである。
俳優が演じていないので演技はぎこちないが、それがかえってリアリティを感じさせる。
セリフも彼らの普段の言葉使いだと思われるから、一層かれらの心情が感じ取れる。
時々彼らがシャバでやっていた悪事が描かれるが、それはサラリーマンや学生へのたかりだったり、この店が気に食わないからと宝飾店強盗を白昼堂々とやらかす無軌道ぶりである。
街を肩を怒らせ闊歩する姿も、その通りなのだろう。
決して心情移入できる若者たちではないが、時に人懐っこかったり、ひ弱そうに見えたりするので、嫌悪感だけが湧いてくる連中ではない。
演じているのは元不良だった素人ということだが、俳優では出せないような苛立ち感や、投げやりな表情を見せるので、自己表現できずにふてくされる表情が彼らの心の内を映し出していたように思う。
この独特な手法が評価されて、公開当時に評論家たちに絶賛されたのだと思うが、僕は独特な手法に興味を持ちながらもこの映画が自分の中に残ることはなかった。
自然体で演じた少年たちは評価できても、だけどそれがどうしたという気分の方が強かったのだ。

少年たちは本音で生きているが、大人たちはありきたりの正論を述べているだけで、少年たちに寄り添っている風には感じられない。
親はお前がこうなったのは友達が悪かったのだと責任転嫁する。
この大人たちでは少年たちを更生させることは無理なのではないかと思ってしまう。
浅井が最初に編入されたのはクリーニング科で、そこは仕切っている仲間がいて浅井には居ずらい場所だった。
次に編入された木工科とのギャップは一体なぜ起きていたのだろう。
教官は模範的だし、属している少年たちもクリーニング科とはまったく違う。
出張少年は浅井と語り合い、彼に諭すようなことを述べ、浅井は素直に聞いている。
やがて浅井は木工作業での賃金として320円を貰って出所していく。
しかし彼の働き口や行き場所はあるのだろうか、当面の生活資金だってないに等しい。
途中で再収監された少年が描かれていたが、浅井もその道をたどるのではないか。
実際の浅井は更生して「とべない翼」を著したのだろうが、映画を見る限りにおいて僕は浅井が更生してまともな生活を送る姿を想像できなかった。
この様な映画には希望の光を残して欲しいのだが、あったとすれば浅井少年と出張少年の会話の内容だけだったように思えて、僕はあまりこの映画が好きではない。

ブラック・クランズマン

2023-02-25 10:29:01 | 映画
「ブラック・クランズマン」 2018年 アメリカ


監督 スパイク・リー
出演 ジョン・デヴィッド・ワシントン アダム・ドライバー
   トファー・グレイス コーリー・ホーキンズ
   ライアン・エッゴールド ローラ・ハリアー
   ヤスペル・ペーコネン アシュリー・アトキンソン
   ポール・ウォルター・ハウザー アレック・ボールドウィン

ストーリー
1970年代半ばのアメリカ。
ロン・ストールワース(ジョン・デヴィッド・ワシントン)は、コロラド州コロラドスプリングスの警察署で初の黒人刑事として採用される。
ロンの最初の仕事は資料室勤務だったが、そこで他の白人警官から嫌がらせを受け、嫌気がさしたロンは配置換えを希望する。
情報部に配属されたロンに対し、上司は歌劇とされる黒人活動家化―マイケル(コーリー・ホーキンズ)のイベントに潜入させることを計画する。
イベント会場に到着したロンは黒人学生グループのリーダーのパトリス・ダマス(ローラ・ハリアー)と出会う。
カーマイケルはクワメ・トゥーレとアフリカ系に名前を変え、黒人であることの誇りと白人との戦いを訴える。
イベント後に再び会った二人は気が合い、パトリスから白人警官による人種差別を打ち明けられたロンは警官であることを言えない。
ロンは新聞広告に掲載されていた過激な白人至上主義団体KKKのメンバー募集の新聞広告を見つけるや自ら電話を掛け、支部代表相手にまんまと黒人差別主義者の白人男性と思い込ませることに成功する。
徹底的に黒人差別発言を繰り返すロンは、やがて入会の面接まで進んでしまうのだった。
騒然とする所内の一同。
だが、どうやって黒人がKKKに会うのか。
そこで、ロンの同僚の白人刑事フリップ・ジマーマン(アダム・ドライバー)に白羽の矢が立つ。
電話はロン、KKKとの直接対面はフリップが担当し、二人で一人の人物を演じることになる。
任務は過激派団体KKKの内部調査と行動を見張ること。
こうして黒人のロンと白人のフリップがコンビを組み、前代未聞の潜入捜査が開始される。
署ではデビッド・デューク(トファー・グレイス)というKKKの大物の動向が話し合われる。
フリップはKKK会員のフェリックス(アシュリー・アトキンソン)の家に行くが、疑い深いフェリックスはフリップがユダ人かどうか確かめようとする。
またフェリックスの妻コニー(アシュリー・アトキンソン)は黒人の危険性を訴える白人至上主義に凝り固まっていた。
果たして、型破りな刑事コンビは大胆不敵な潜入捜査を成し遂げることができるのか・・・。


寸評
アメリカの人種差別問題を扱った作品は手を変え品を変えて描かれてきたが、アカデミー賞の作品賞を取った「グリーン・ブック」と同様にこの作品も逆転の発想によって描かれている。
「ブラック・クランズマン」はサスペンスとしての緊張度も高いし、クライマックスの展開にも驚かされる。
高い物語性が作品のテーマと表裏一体なのが新鮮な描き方で、出来栄えとしては「グリーン・ブック」よりも高い。
差別を受けている黒人のロンがKKKに電話をかけるのだが、白人を装っているために黒人のアイデンティティを否定するかの如き言葉を浴びせ続ける。
同じく差別を受けているユダヤ人のフリップもKKKに潜入するためにユダヤ人をバカにする言葉を発し続ける。
黒人であるロン、ユダヤ人であるフリップの二人が黒人やユダヤ人を誹謗中傷する言葉は、すなわち現在受けている黒人やユダヤ人への差別なのだと思う。

この映画の魅力は差別する側を悪、被差別側を正として単純に描いていない点にある。
KKKの加入式典後に、メンバーやその家族が和気あいあいと見ている映画はグリフィスの「国民の創生」である。
1915年に制作されたこの作品は映画手法に優れ映画表現を基礎づけた作品とされているが、同時に人種差別を推奨する作品でもある。
参加者は娯楽大作でも観るかのように、ポップコーンを食べながら歓声を上げて観ているという体たらくを見せる。
一方で、白人警官にセクハラされたパトリスは、すべての警官を人種差別主義者・権力の手先と見なし”ピッグ(豚野郎)”と呼び続ける。
ロンが「警官みんなが人種差別主義者だと思うのか」とたしなめても、パトリスは「1人でもいれば十分よ!」と取り合おうとしないし、敵であるロンとは寝ることが出来ないと言う偏狭さを持っている。
パトリスに代表される黒人解放運動に取り組む人々を単純に英雄視していないのが新鮮だ。

KKKのメンバーであるフェリックスの妻コニーは人種差別主義に染まっている。
普通の主婦が白人至上主義をあそこまで唱えていることに僕は驚きを隠せない。
彼女はベッドの中で「ありがとう。私をあなたの人生に連れてきてくれて。私に生きる目的と方向を与えてくれて」と人種差別がひどい夫に囁くのである。
彼女は黒人やユダヤ人を見下すことで、取り柄がない自分の活躍場所を見出しているような感じがする。
彼らを敵視し排除することに自らの生きる意味を見いだしているというモンスターでもある。
夫のフェリックスも恐ろしいが、僕は妻のコニーの軽薄さの方が恐ろしかった。

KKKは今も活動を続けていて、覆面の中から鋭い眼光を放っている。
黒人解放運動のクワメは武器を取れと扇動している。
その間に暴力が存在していることは紛れもなく、今の世の中にあっては正体不明のテロリストが身の回りに平然と存在していることを感じさせられた。
エンタメ性にも富んだ作品だが、描かれている内容は恐ろしいものである。

プライド 運命の瞬間

2023-02-24 07:50:49 | 映画
「プライド 運命の瞬間」 1998年 日本


監督 伊藤俊也
出演 津川雅彦 スコット・ウィルソン ロニー・コックス 大鶴義丹
   戸田菜穂 奥田瑛二 いしだあゆみ 寺田農 前田吟 村田雄浩

ストーリー
1941年、内閣総理大臣兼陸軍大将として米英に開戦宣言した東條英機は、敗戦後の9月11日、GHQに逮捕され、連合国による極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判にかけられることになった。
逮捕当日、自決を図りながら未遂に終わっていた彼は、逮捕後、収容された巣鴨プリンスで極刑を覚悟し、裁判を闘うことを無意味と思ったが、弁護士・清瀬に戦争の原因の全てを敗戦国に負わせ、ナチス・ドイツと同じように日本を裁こうとしている連合国側の裁判意図を聞かされたことから、日本が最悪の国家・民族にされないよう、日本の名誉と真実をかけた”闘い”に臨むことを決意する。
1946年5月3日、裁判が開廷されたが、この裁判の判事団はウェップ卿を中心とした戦勝11ヶ国で構成されており、勝者が敗者を裁くという始めから被告たちに不利なものだった。
しかも、キーナン主席検事を筆頭とした検事団は、元満州国皇帝であった溥儀など様々な証人たちを召喚し、時にその証言を捏造してまで東條たちを追い込もうとしてきた。
A級戦犯として告発された東條を含む28人は起訴状の全てに無罪を主張し、弁護団は原爆の罪や戦勝国の殺人を棚に上げ、敗戦国の殺人のみを非合法とする原告側の論調を崩そうとした。
一方で、判事団の内部に戦犯全員の無実を主張するインド代表のパール判事が現れた。
彼は、戦勝国が一方的に裁く裁判のあり方に異議を唱え、その矛盾を指摘すべく訴えを起こそうとする。
裁判は3年の長きにわたって展開され、やがて東條自身が証言台に立つ日がやってくるが、東條は清瀬と元総理秘書官の赤松に、自分が天皇に逆らって戦争を始めたのだと証言して欲しいと頭を下げられてしまう。
人間の尊厳と誇りを胸に証言台に立った東條は、キーナン検事との闘いに真っ向から挑んでいった。
1948年11月12日、東條に死刑の判決が下り、12月23日に東條以下7名のA級戦犯の絞首刑が執行された。


寸評
東京裁判が不当な裁判であったことは間違いないと思うが、不幸だったことは不当な裁判によって戦争時のA級戦犯が裁かれたことではなく、日本人が自分たちで戦争指導者を裁くことが出来なかったことである。
日本人として東條に対し問うべき戦争責任は、東京裁判で追求されたそれとはちがう。
問われるべきは、勝てるはずのない戦争を始め、多くの国民を死地に追いやり無残な敗戦を迎えたことについての戦争指導者としての責任である。
東京裁判が戦勝国によって行われた結果、東條を初めとする指導者の責任と満州事変から太平洋戦争での敗戦に至る戦争への総括なしに現在に至っているのは日本の不幸である。
この映画においても、戦争指導者の責任追及とか太平洋戦争への総括が試みられているわけではない。
東京裁判の矛盾と人間東條を描いているのだが、東條が英雄的に見えてしまうのは描かれている内容からして仕方のないことなのだろうか。
戦勝国が敗戦国を裁くという東京裁判の在り方を糾弾するするのはいいが、最低の作戦行動とされるインパール作戦をインド開放の為の聖戦とするなど疑問の余地がある。
右翼的と批判を受けても仕方がないような描き方である。
しかしながら東京裁判の矛盾を知る上では一応の及第点は与えられる内容となっている。

東條は日本は三国同盟を結んでいたナチス・ドイツとは違うと主張する。
実際そうで、曲がりなりにも日本政府は存在し内閣は組織されていたのだ。
軍部の暴走はあったにせよ、閣議決定されて実行されるという手順は踏まれていたと思う。
しかし誰かが戦争責任を取らねばならないし、自らの責任を回避することなくその責任は取ったと思う。
問題が起きてもトップが責任を取らない今の政治の方がおかしい。
タイトルのプライドとは日本国としてのプライドだと思う。
そう思うと今の日本はアメリカに対して少々卑屈になってはいないか。

津川雅彦が東條英機を熱演し光っているが、何だこの演技はと思わせるのが戸田菜穂である。
僕は彼女が登場するとシラケてしまった。
そもそもこの映画のインドに関するパートはテーマをぼやかしてしまっているから省いた方が良かったと思うし、能舞台を挟むなどの演出も技巧に走り過ぎている。
誰も引き受けなかった東條の弁護を引き受けた清瀬弁護士の反論や、東條を弁護する米国弁護士やパール判事の存在など見るべき点が多かったにもかかわらず描かれたのは少なく盛り上がりに欠ける。
盛り上がりを見せるのは、やはり東條の反論場面で東京裁判において一番東條が頑張ったのだと思わせる。
人間東條に的を絞っているので、東條が裁判の不条理を清瀬弁護士にぶつけたときに「負けたからそうされるのだ」と言われて、東條が「それを言われるとつらい」と漏らすなど笑ってしまう場面もある。
結局A級戦犯7人が絞首刑に処せられるが、執行日が当時皇太子であった平成天皇の誕生日である12月23日であったなど、東京裁判を初め戦勝国の復讐はすさまじいものだったのだと感じる。
歴史は勝者によって書かれるということだ。

ふたりのイーダ

2023-02-23 07:48:11 | 映画
「ふたりのイーダ」 1976年 日本


監督 松山善三
出演 上屋健一 原口祐子 倍賞千恵子 山口崇 高峰秀子 森繁久弥
声の出演 宇野重吉

ストーリー
直樹は小学四年、妹のゆう子は三歳。
二人は雑誌記者の母親相沢美智と一緒に、夏休みを利用し、広島の祖母の家へいくことになった。
東京駅へ見送りにきた美智の同僚カメラマンにゆう子は「イーだ!」をした。
それはゆう子の可愛いあいさつであった。
都会をはなれ、田舎で大はしゃぎの二人。
久しぶりに会う祖父母にゆう子は例の可愛いあいさつ「イーだ!」を繰り返した。
直樹は、カラスアゲハ蝶を見つけ、それに誘導されるかのように後を追いかけていった。
すると、「イナイ、イナイ」とつぶやき声がきこえた。
そして、おどろくことに椅子が歩いて来るではないか。
そして彼が不思議に思っている間に椅子は雑木林へと入っていく。
彼は一瞬ためらったが、決心して雑木林の中へ入っていくと、そこには古びた洋館があった。
直樹は館へ入り、中を見ると椅子がしゃべりながら歩いていた。
そして、直樹は恐しさのあまり急いでとんで帰って行った。
翌日、昼寝をしているはずのゆう子の姿が見えないので直樹はもしやと思い雑木林の洋館へ行ってみた。
そこでは、ゆう子と例のしゃべる椅子が仲良く話をしていた。
直樹は椅子からゆう子を離し、椅子を二度ばかり蹴倒した。
その夜、直樹は熱を出し、取材に出ている美智に早く帰ってきてほしいと椅子の話をしようとするが美智はとり合わなかった。
そして、その美智に、同僚の広岡が愛をうちあけた・・・。


寸評
松山善三は人間の持つ優しさを描き続けた監督である。
ここでも原爆問題を優しいまなざしで描いているのだが、ちょっと中途半端になってしまった。
子供たちに見せたい映画であるが、そうするには大人の話も入り込んできていて余計なお世話的だ。
大人たちのために美智と広岡の恋を入れ込んだのだろうが、どうもそれが浮いてしまっている。
森繁久弥、高峰秀子、倍賞千恵子とネームバリューのある俳優が出ているにもかかわらず、たいした宣伝もされずひっそりと公開されたのもうなずける内容である。
子供向けの教育映画のような内容でありながら、大人の恋を絡ませた一般映画の様でもあり、その立ち位置を中途半端なものにしている。

椅子が話すのだからファンタジー作品なのだが、テーマとして原爆による被害者を取り上げているので心ウキウキするようなおとぎ話的ファンタジーではない。
直樹とゆう子は幼い兄妹で、三歳のゆう子は親愛の証として、相手に「あっかんべー」ならぬ「いーだ!」をする。
一方、椅子が待ちわびている持ち主は「イーダちゃん」と呼ばれていた少女である。
イーダちゃんはおじいさんと暮していたようだが、原爆にあって亡くなってしまっているようである。
以来、屋敷は住む人がいなくなって荒れるに任せているが、そのなかで少女の愛用の椅子は主人の帰宅を待ちわび探し回っている。
イーダちゃんと思われたゆう子は椅子と戯れ、それを見た直樹と椅子の交流が始まる。
椅子の背もたれは人の顔のようなデザインである。
直樹は戦争の事、原爆のことを知らない。
廃墟となった屋敷で直樹は8月6日のカレンダーを発見する。
我々日本人にとって8月6日と言えば、広島に人類初の原爆が投下された日を置いて他にない。
直樹はじいちゃんから原爆の話を聞くが、それが直樹に与えた衝撃はあまり伝わってこない。
一家は8月6日に広島での慰霊祭に参加し精霊流しを行う。
原爆で亡くなった数多の人々の墓碑を映されても何か迫ってくるものがない。
その原因は墓参の場に広岡がいることである。
広岡は美智にプロポーズしている。
美智は被爆者で、自らの発病を恐れているし、子供たちへの遺伝的影響を懸念している。
そんな美智を理解する広岡ではあるが、子供と椅子によるファンタジー作品の中にあっては異質な物語だ。
美智はジャーナリストで原爆の取材をしているが、インタビューを試みた僧侶から拒絶される。
僧侶はマッチに火をつけ自分の指をかざす。
美智にも同じ行為を迫るが、美智にはできない。
被爆者はもっと熱い思いをして死んでいったのだと告げるのだが、僕が一番感銘を受けたシーンだった。
年月は過ぎ去り、戦争はこんなだった、原爆はこんなだったと語る人が減り、次には戦争や原爆はこんなだったらしいと語る人が増え、やがて戦争自体が忘れ去れてしまうかもしれない。
これは戦争の、原爆のむなしさを受け継ぐために子供たちに見せたい映画である。
その思いは消え去るものではないが、子供たちは美智と広岡の話を消化できるのだろうか。

ふたり

2023-02-22 08:10:38 | 映画
「ふたり」 1991年 日本


監督 大林宣彦
出演 石田ひかり 中嶋朋子 富司純子 岸部一徳 尾美としのり
   増田恵子 柴山智加 中江有里 島崎和歌子 入江若葉
   吉行和子 竹中直人 奈美悦子 ベンガル 大前均 藤田弓子

ストーリー
ドジでのろまな夢見る14歳の実加(石田ひかり)は、優しい両親と自分とは正反対のしっかり者の姉・千津子(中嶋朋子)に囲まれて幸せな日々を送っていた。
ところがある朝、学校へ行く途中、忘れ物を取りに戻ろうとした千津子は、突然動き出したトラックの下敷きになって死んでしまい、その事故のショックで母・治子(富司純子)はノイローゼ気味になってしまう。
実加はけなげにも姉の代わりを演じようと、ひとり明るく振る舞うが、ある日、変質者(佳孝頭師)に襲われかけた実加は、死んだ千津子(中嶋朋子)の幽霊に助けられる。
その日以来、実加が難関にぶつかると千津子が現れ、“ふたり”で次々と難関を突破してゆく。
そして千津子に見守られながら、日に日に美しく素敵な少女に成長していく実加は、第九のコンサート会場で、姉の知り合いだったという青年・智也(尾美としのり)に出会い、ほのかな想いを抱くようになる。
そんな実加をからかう為に、実加のノートのコピーが智也の従妹でもある前野万里子(中江有里)によってばらまかれる。
落ち込む実加を勇気づけてくれたのは親友の真子(柴山智加)だった。
やがて16歳になった実加は、千津子と同じ高校へ進学。
演劇部へ入部し、千津子が生前演じたミュージカルの主役に抜てきされるが、そんな実加をやっかむ中西敬子(島崎和歌子)のいたずら電話により、治子は倒れて再び入院する。
それと同時に北海道へ単身赴任していた父・雄一(岸部一徳)の浮気が発覚する。
崩れかける家族の絆を必死に守ろうとする実加と、それを見守る千津子。
そして、実加がそんな事態を乗り越えた時、それは千津子との別れの時でもあった。
こうして自立していく実加は、この出来事を本に書き残そうと心に決めるのだった。


寸評
尾道三部作と言われた「転校生」、「時をかける少女」、「さびしんぼう」に続く新・尾道三部作の第一作目で、この後「あした」、「あの、夏の日 とんでろ じいちゃん」と続く。
亡くなった人が愛する人の為に亡霊となって助ける話は映画の一つのモチーフとなっていて、形を変えて何作も撮られている。
愛する相手は恋人だったりすることが多いが、ここではしっかり者だった姉が、ちょっと頼りない妹を助けるという関係となっている。
姉妹を演じる中嶋朋子とこれが主演第一作という石田ひかりは瑞々しい感じを出していると思う。
姉の千津子は秀才のしっかり者だが、皆から過度の期待をされていることにプレッシャーを感じていて逃げ出したい気持ちを持っていたのかもしれない。
それを匂わすシーンもあるのだがそれ以上は描かれていない。
亡霊となった姉が妹を守るのは暴漢に襲われた時ぐらいで、励ましたり相談相手になったりする事の方が多い。
ピアノの演奏会やマラソン大会、高校に行ってからの演劇部でのことなどもそちらの方である。
妹の実加は甘えん坊で、姉の千津子を頼ってばかりなのだが、二人の姉妹愛は見ていても微笑ましい。
しかし、実加が危険にさらされるような出来事が起き、亡霊の姉によって助けられる場面は用意されていない。
少し物足りなさを感じる要因だろう。

僕が一番緊張して、一番見所があったと感じているのは、父親である岸部一徳の愛人として増田恵子が訪ねてきているシーンだ。
母親の富司純子は夫の浮気をすでに感づいている。
妻は、二人が愛し合っているなら別れてもいいのだが、病弱な自分は夫の助けが必要なのだと訴えて、相手を責めることをせず逆に詫びる。
当事者の岸部一徳の方は終始無言のままである。
修羅場のシーンだが、どうも緊張感に欠ける演出になってしまっている。
夫と愛人の生活ぶりが全く描かれていないので、二人の愛の度合いが伝わってこない為だと思うが、大林はファンタジーの世界を壊したくなかったのかもしれない。
描けばドロドロの、夫を巡る妻と愛人によるきわめて現実的な世界が展開されてしまうだろう。
この映画はあくまでもファンタジー映画なのだ。
富司純子の母親は面白い設定だったが、もう少し描き込んでも良かったような気がする。

尾美としのりをめぐる中江有里の嫉妬とか、演劇の主演をめぐる島崎和歌子の嫉妬など、思春期の女生徒にはありそうな女の子の嫉妬が描かれている。
中江有里には家業の倒産や、自殺未遂事件まで用意されている。
中学生から高校生のころの話だが、時として思春期を感じさせ、時として大人びた世界を感じさせる。
家業を継ぐ覚悟を決めている真子の喪服姿などはすっかり大人だ。
成長する主人公を描いて終わるのは予定通りだが、実加が何事もなかったように事故現場を通り過ぎて、映像がモノトーンに変わっていくラストはよかった。

不信のとき

2023-02-21 08:46:43 | 映画
「不信のとき」 1968年 日本


監督 今井正
出演 田宮二郎 若尾文子 加賀まり子 岸田今日子 岡田茉莉子
   三島雅夫 永井智雄 長谷川待子 笠原玲子 水木正子
   菅井きん 原泉 柳渉

ストーリー
結婚十年目の浅井(田宮二郎)は、妻で書家の道子(岡田茉莉子)と二人で暮らしていた。
子供はおらず、商事会社の宣伝部で働いている。
そんなある日浅井は、取引先の印刷会社の小柳社長(三島雅夫)に誘われて行ったバーでマチ子(若尾文子)と出会い、その日のうちに関係を持ってしまう。
一方、小柳老人もヌードスタジオの少女マユミ(加賀まり子)に惹かれ、老いらくの恋を楽しんでいた。
やがて、浅井は宣伝部長に昇格し、日頃「あなたの子供を産みたい」と言っていたマチ子は、清水市の病院で女児を出産し、浅井は子供が生まれた文化の日にちなんで文子と命名した。
喜ぶ浅井だったが、今度は妻の道子から妊娠したと告げられる。
妻には子供ができないと信じていた浅井にはショックだった。
同じ頃、小柳はマユミが自分の子供を出産してくれたと有頂天になっていた。
初夏になり、弟の義道(柳渉)に伴われたマチ子が文子を連れだって上京した。
だが、二人の関係は以前のようにしっくり行かなかった。
やがて、道子も予定通り出産し、マチ子はそれを知ると子供を預け、再び働きに出るようになった。
それから一年半が過ぎた。
道子の書が日展に入選したという喜びの直後、浅井はマチ子の家で急性盲腸炎で倒れた。
マチ子は機転を利かせ浅井をタクシーに乗せ自宅へ送り届けさせる。
病院に入院した浅井は道子とマチ子が鉢合わせしないように取り繕っていた。
そんなある日、美千子が文子を連れて見舞に訪れたマチ子を待ち受ける事態が発生する。


寸評
今ならDNA鑑定によって問題解決が図られそうなものだが、制作当時においてはこのような状況だった。
僕はベストセラーとなった有吉佐和子の原作を読んでいないが「不信のとき」とはよく付けた題名だ。
観客が抱く不信感は最後まで拭い去られることはなかった。
それは三人の女性が産んだ子供は本当は誰の子供だったのかと言うことだ。
三人の女性が子供を産んでいるが、浅井の妻道子の告白によって浅井は勿論、観客も不信感を抱くようになる。
マチ子は浅井を愛していたのかどうか、文子は浅井の子供なのかどうか?
過去に関係のあった人妻の千鶴子(岸田今日子)の連れていた子供は誰の子か?
人物的には自分勝手な行動のために身動きが取れなくなっていく浅井も面白い存在だが、何といっても若尾文子のマチ子がしたたか女で映画を圧倒する。
時にしおらしく、時に打算的な女、時に荒々しい女として魅力的に描かれている。
妻の道子はプライドが高く古風な女で世間知らずなところがあるのに、こちらもいざとなれば豹変する。
若尾文子、岡田茉莉子の対決は見ものである。
デパートの屋上で遊ぶ楽しそうな家族ずれを眺め、自分のふがいなさに沈んでいるように見える浅井が最後に見せるラストシーンの笑いは何だったのか。
千鶴子から、今連れている子供が浅井の子供だと言われて浮かべた自嘲的な笑いだったのか、幸せそうな家族の連れている子供も誰の子か分かったものではないと言う開き直りの笑みだったのか。
僕は今井正に社会派の左翼的監督のイメージを持っている。
青春映画の「青い山脈」でも戦後民主主義を高らかに謳い上げているし、冤罪事件の恐ろしさをリアルに描いてずさんな警察の捜査を告発し、社会派映画の代表的傑作となった「真昼の暗黒」や大手製作会社に断られるなどの苦労の末に完成にこぎつけた「橋のない川」などもある。
反面、娯楽色豊かなヒット作も数多く撮っており、この映画もその中に入ると作品である。
キネマ旬報ベストテンの常連監督だったが、晩年は不遇だったように思う。

「不信のとき」はポスターの序列問題で、田宮二郎が大映を退社し五社協定により干されたことでも記憶される。
宣伝ポスターの原案において、田宮の名が4番手扱いになっていた。
その序列は、大映の看板女優若尾文子がアタマ、2番目が松竹専属の女優加賀まりこ、トメ(最後)が岡田茉莉子(東宝や松竹で活躍後、当時は独立系の映画を中心に出演)で、田宮はトメ前となっていた。
田宮は誰が見ても大映現代劇のトップ男優であり、彼にとってこの序列は譲れない大問題であった為、撮影所長に抗議したが、「私の首にかけてもこの序列を変えることはない」と断られた。
田宮は大映社長の永田雅一と直談判し、「主役のお前がアタマに書かれるのが当たり前や」となった。
しかし「首をかけてもと撮影所長に言われたのだから、俳優の私が辞めるか所長が辞めるかしかない」と田宮が言うに及び、永田雅一は「おい、お前は横綱・大関クラスの役者だと思っているんだろうが、まだ三役クラスの役者だ。人事に口を出すな」と憤慨し、結果的に刷り直したポスターの序列は希望通り田宮がトップとなったが、永田は田宮を解雇し五社協定を持ち出して田宮を使わないように通達した。
田宮はその後、精神的に変調をきたしながら「白い巨塔」という傑作テレビドラマを残すが、結局猟銃自殺を引き起こしてしまった。

武士の家計簿

2023-02-20 06:58:49 | 映画
「武士の家計簿」 2010年 日本


監督 森田芳光
出演 堺雅人 仲間由紀恵 松坂慶子 中村雅俊 草笛光子 西村雅彦
   伊藤祐輝 藤井美菜 桂木ゆき 大八木凱斗 嶋田久作 宮川一朗太

ストーリー
江戸時代後半。
御算用者(会計処理の専門家)として、代々加賀藩の財政に関わってきた猪山家。
八代目の直之は、生来の天才的な数学感覚もあって働きを認められ、めきめきと頭角をあらわす。
直之にある日、町同心・西永与三八を父に持つお駒との縁談が持ち込まれる。
自らの家庭を築いた直之は、御蔵米の勘定役に任命されるが、農民たちへのお救い米の量と、定められていた供出量との数字が合わないことを不審に思い、独自に調べ始める。
やがて役人たちによる米の横流しを知った直之は左遷を言い渡されるが、一派の悪事が白日の下にさらされ、人事が一新、左遷の取り止めに加え、異例の昇進を果たす。
だが、身分が高くなると出費が増えるという武家社会特有の構造から、猪山家は出費がかさんでいく。
すでに父・信行が江戸詰で重ねた膨大な借金もあり、直之は“家計立て直し計画”を宣言。
それは家財一式を処分、質素倹約をし、借金の返済に充てるという苦渋の決断だった。
こうして猪山家の家計簿が直之の手で細かく付けられることになった。
倹約生活が続く中、直之は息子・直吉にも御算用者としての道を歩ませるべく、4歳にして家計簿をつけるよう命じ、徹底的にそろばんを叩き込んでいく…。
時は幕末。父よりも早く11歳で算用場に見習いとして入り、元服を済ませた直吉、改め成之は、時代に取り残されまいと自らの進むべき道を模索していた。
やがて京都へ向った成之は、新政府軍の大村益次郎にそろばんの腕を見込まれ、軍の会計職に就くが、大村が刺客の手により暗殺されてしまう…。


寸評
原作は、偶然発見された古文書「金沢藩士猪山家文書」の中に残っていた家計簿を、綿密に分析してまとめあげた歴史学者の磯田道史のベストセラーだが、学術書とも言えるその中からハートウォーミングなストーリーをつむいでみせたアイデアと力量が全てだ。
監督森田芳光と脚本柏田道夫の功績だろう。
これが時代劇でなかったらなんてことのない映画だと思うのだが、武士社会を背景に描かれると妙な雰囲気が出てくる。
私も在職中は総務、経理、情報と事務肌を歩いたので、いわば経理担当の事務職である主人公直之には心象移入できるようなところがあって、それが映画を楽しめた一因であるのかもしれない。
世間一般の考える営業の華々しさはないが、自分の仕事と能力に確固たるプライドだけは持っていたので、その点は主人公の姿とダブル。 (ちょと自己を過大評価しすぎかな?)

映画は主人公の長男である直吉が成人し、猪山成之となって海軍主計局の主計大監と出世した彼の回想で始まるのはよくあるパターン。
中村雅俊の当主は婿養子で、松坂慶子の常がなにかと取り仕切っているが、当の松坂慶子は今やふっくらした体から出る貫禄を備えながら、ひょうきんさをもにじませていて微笑ましい。
猪山家は極めてポジティブな一家だ。
節約をしなければならない直之は息子の着袴の祝いに、高価な祝い鯛が買えず“絵鯛”で代用する場面があるが、幼い息子は絵鯛を「鯛じゃ、鯛じゃ」と無邪気に喜び、それを見守る一家には不思議な幸福感が感じられる秀逸なシーンだった。
それから直之が妻のお駒にプレゼントした櫛のエピソードも忘れ難いし、直之の母である常の愛着ある友禅のエピソードも涙を誘う。
家計を立て直すために先ずは家財道具を売り払うことから始めるのだが、この処分をめぐるやり取りが面白い。
中村雅俊の父信之と、松坂慶子の母常が繰り広げる様子には抱腹絶倒。

猪山家の困窮状態を弁当で表したり、父信之の死を満月から新月の説明で描くなどベタな演出も見受けられるが、ラストはソロバンによるご破算で終わるというように割と型にはまった演出で、森田監督が時々見せる奇をてらったものはない。
したがって、テレビのホームドラマを見るような感覚でのんびりと見ることができる作品だ。
その分、これといった印象にかける作品でもある。

直之は息子に、確かな芸があればどんな時代も家族を守って生き抜くことができると教えていたと思うが、このことは現代にも通じることで同時代性を狙った主張なのだろうが、この一芸に秀でるということが現実社会ではなかなかできない。
当人の自覚と根性が必要なのだろうが、直之の息子・直吉が新時代の明治をどう生きたかを知れば、しっかりと現実を見据えることの大切さが思い知らされて、私の努力不足を恥じ入る次第だ。

武士の一分

2023-02-19 09:49:48 | 映画
「武士の一分」 2006年 日本


監督 山田洋次
出演 木村拓哉 檀れい 坂東三津五郎 笹野高史 岡本信人 左時枝
   綾田俊樹 桃井かおり 緒形拳 赤塚真人 大地康雄 小林稔侍

ストーリー
東北の小藩、海坂藩に仕える三十石の下級武士・三村新之丞は、城下の木部道場で剣術を極め藩校では秀才と言われながらも、その務めは藩主の毒見役。
不本意な仕事ではあったが、美しく気立てのいい妻の加世と慎ましくも幸せに暮らしていた。
ある日、新之丞は藩主の昼食に供されたつぶ貝の毒にあたって倒れる。
激しい痛みに意識を失い高熱にうなされ続け、からくも一命はとりとめたものの新之丞は失明してしまう。
一時は絶望し、死すら考える新之丞だが、加世の献身的な支えもあり、死ぬのを思いとどまる。
しかし、武士としての勤めを果たせなくなったため、今後の暮らし向きについては不安が募る一方だった。
そんな時、加世とは嫁入り前から顔見知りだった上級武士の島田藤弥が、力になると加世に声をかける。
やがて城から、三村家の家名は存続し三十石の家禄もそのまま、という寛大な沙汰が下される。
暗闇の世界にも慣れてきたある日、新之丞は加世と島田の不貞を知る。
島田は家禄を口実にして加世の身体をもてあそび、その後も脅迫めいた言辞を使って肉体関係を強要していたのだ。
自らの不甲斐なさのために妻を辱められ、怒りに震える新之丞は、加世に離縁を言いわたす。
かつての同僚から、島田が家禄の口添えなどまったくしていなかったことを告げられ、怒りが頂点に達した新之丞は島田に果し合いを申し込む。
死闘の末に新之丞は島田を倒し、戻ってきた加世と抱き合うのだった。


寸評
山田洋次監督はいい人なんだと思う。
極悪人の姿などは描きたくはないのだろう。
彼の映画でそのような人物を見たことがない。
三部作の前二作でも憎たらしいほどの悪人は登場しなかった。
さらに本作は前2作に比べて深みに欠けるのは確かだ。
特に主人公と妻との愛は、切なくて、苦しくて、たまらないはずなのに、そういう感じがまったく伝わってこない。

阪東三津五郎の島田籐弥がもっと悪人として描かれていれば、仇を討った時には爽快感を持つことが出来、「ザマー見ろ!」という気分になれたと思う。
前2作には藩のお家騒動が絡んでいたが、今回はそれがないために焦点は夫婦愛に集中しているのだが、壇れいの加世が苦悩する様がそれほど描かれていないので、離縁する時の非業さがイマイチ力強くなかった。

そもそも本当の悪人が登場しないというか、悪人振りを描いていないのだ。
加世が島田に手ごめにされるようなシーンはないし、その後の肉体関係の継続におけるドロドロ感もない。
それは宝塚スターであった檀れいのイメージ維持のためだったのか、あるいはそれが山田ワールドなのかは分からないが、一連の描き方からは島田のいやらしさがまったく感じられない。
敵役である島田も最後は武士の一分で切腹するし、その前に果し合いで腕を切られて瀕死の島田に徳平が羽織を掛けてやったりしているからなおさらだ。
加世の苦悩も感じられなかったなあ。

徳平の笹野高史さんは頑固者の中元でもなく、滅私奉公の中元でもなく、それでいて昔から仕える好々爺としていい味を出していて功績大だ。
新之丞の子供の頃から仕え、加世の生い立ちも知る三村家の要で、この物語のキーマンだった。
口うるさい伯母が軽妙さを出し、若い夫婦と対極の夫婦を感じさせて、桃井かおりの面目躍如といった感がある。
木村拓哉よりも適役はいたのではないかと思ったが結構頑張っていた。
目を開けながら盲目の演技をするのは大変だったと思う。
テレビの「あすなろ物語」で彼を始めてみた時は、ナイーブな感じをもったいい子だなと思い映画出演を期待していたが、少し遅すぎてテレビスターの匂いを持ちすぎてしまっているように思う。
これからも良い作品に出て、役者としての感性を磨いて欲しいと思う。

部屋を掃除する加世の素足の片方をくるぶしくらいから写す導入部とか、立ち話をする塀の向こうの通行人をぼかしながら写し込んだりしていたり、作品は山田作品だけあって何気ないシーンも丁寧に作られているなと感じたので、理屈を言わずに自然体で観ればけっこう楽しめる映画ではある。
これは夫婦愛の物語だと思うので、加世が飯炊き女として帰ってくるのは予想されたが、それでも泣けた。
三部作の中では劇場で一番笑い声が漏れた。

ふくろう

2023-02-18 15:42:31 | 映画
「ふくろう」 2003年 日本


監督 新藤兼人
出演 大竹しのぶ 伊藤歩 木場勝己 柄本明 原田大二郎 六平直政
   魁三太郎 田口トモロヲ 池内万作 蟹江一平 大地泰仁

ストーリー
ある山間部の開拓村に住む母娘ユミエ(大竹しのぶ)とエミコ(伊藤歩)は飢えに苦しんでいた。
ユミエが満州から引き上げた後入植した開拓村の土地が不毛のため、他の住民はすべて村を出て残っているのは二人だけで、ユミエの夫は蒸発し金もない。
近くのダム建設現場で働く男(木場勝己)が二人の家を訪ねてきた。
男から金を受け取るとユミエは男と別室に消えて行った。
事が終わった後、二人は男に特別サービスと称して焼酎をふるまうと、男は口から泡を吹き死んだ。
二人は男の死体を始末すると巻き上げた金で久しぶりのまともな食事にありついた。
その後二人は電灯を取りつけに来た電気屋(六平直政)、ダムの作業員(柄本明)、水道屋(田口トモロヲ)などを次々と同様の手口で殺して金を奪った。
そしてある日、二人の元に巡回中の警官(    池内万作)が訪ねてきた。
ユミエと警官が別室に消えた時、県福祉課の水口(蟹江一平)が訪ねてきたので警官は仕方なく帰った。
開拓村の失敗について謝罪にきたという水口を娘のエミコが別室に連れて行く。
事を終えた後、水口は二人に五十万円を渡し、これから自殺すると言い残して立ち去った。
その後訪れたダム工事の現場監督(原田大二郎)を二人が同様の手口で殺した後、死にきれなかった水口が戻ってきて、エミコに結婚を申し込んだ。
困った二人が結婚の杯と称して水口に毒入り焼酎を飲ませようとしたところで警官がやって来たのでエミコは水口を別室に隠す。
警官とユミエが事に及ぼうとした時、また誰かが訪ねてきたのでユミエは警官を水口とは別の部屋に隠す。
訪ねてきたのはかつて村に住んでいたエミコの恋人の浩二(大地泰仁)だった。


寸評
母と娘が殺人を繰り返す内容で、とても青少年に見せられる作品ではない。
同じことの繰り返しで、しかも一貫して家の居間だけで話が進むので、下手をすると単調すぎて展開に飽きる内容なのだが全くそんなことはなかった。
古びた家の居間だけで展開されるので、それはまるで演劇舞台の喜劇を観ているかのような雰囲気である。
やってくる男たちを演じた役者たちが死に方を競っている。

ユミエの口から語られるのは国策の失敗を国民い押し付けた政府への批判である。
満洲への進出の為に土地をタダでやるから移住しろという国策に基づいて多くの日本人が満洲へ渡った。
ところが戦争に巻き込まれ、満州に渡った人たちはお国の事情で帰国することになった。
国は救済策を打ち出すがそれは名ばかりで、ユミエの親たちが与えられた希望ヶ丘開拓村は出来損ないの引揚者村だったとして、国とはそのような無責任さを持っているのだと糾弾する。

最初に来たダム工事現場の作業員は、公共事業のいい加減さを暴露する。
政府は国民のことなど考えておらず金をばらまきたいだけなのだと言う。
母ユミエとの売春行為に満足した作業員は娘のエミコがすすめる特製焼酎を上機嫌でグイッと飲み干したところ、口から泡を吹いて昇天してしまう。
喜劇の始まりを予感させる木場勝己の昇天ぶりである。
電気屋と水道屋は同じことを言っている。
山奥の一軒家の為に何本も電柱を建てて電線を引っ張り、この一軒家の為に水道管を引いて水を供給しているのだから、早くこの土地から立ち去れと言いたげなのだ。
二人の男たちは彼女たちの餌食となってしまう。
すると作業員の同僚や上司、電気屋の上司もやって来てユミエの売春行為に嬉々として乗っかる。
えらぶっていても結局は同じ下心を持った連中なのだ。
「泣きなさぁい~笑いなさぁ~い」と唄いながら死体を運ぶ母娘の姿には後ろめたさが感じられない。
フクロウは夜中に出てきて虫などを捕らえて食べているらしいのだが、男たちはまるでフクロウのような母娘に食べられる虫ケラである。

権力側の人間でもある警官も同様で、権威ぶっているが要はただのエロ巡査である。
引揚援護課の男は責任感が強そうだが自殺願望がある。
自殺する動機はまともなようでまともではない。
開拓村から出て行った青年が帰って来て、不幸な経緯を語る。
貧困層がたどる悲惨な生活で、貧困は新たな犯罪を引き起こしている。
この3人の関係と顛末は面白い。
しかしこの映画の面白さを支えているのはユミエの大竹しのぶとエミコの伊藤歩の現実離れした怪演だ。
希望ヶ丘開拓村の歌を熱唱する姿に大笑いしてしまった。
ブラックユーモアに包まれた喜劇であるが少々アクが強い。

復讐するは我にあり

2023-02-17 07:21:07 | 映画
「復讐するは我にあり」 1979年 日本


監督 今村昌平
出演 緒形拳 三國連太郎 ミヤコ蝶々 倍賞美津子 小川真由美
   清川虹子 殿山泰司 垂水悟郎 絵沢萠子 白川和子 フランキー堺
   北村和夫 菅井きん 河原崎長一郎 加藤嘉 石堂淑朗

ストーリー
日豊本線築橋駅近くで専売公社のタバコ集金に回っていた柴田種次郎(殿山泰司)、馬場大八(垂水悟郎)の惨殺死体が発見され、現金四十一万円余が奪われていた。
かつてタバコ配給に従事した運転手榎津厳(緒形拳)が容疑者として浮かんだ。
榎津は駅裏のバー「麻里」のママ千代子(絵沢萠子)を強姦、アパートに連れこんで関係を強要し続けるなど、捜査員の聞き込んだ評判も悪い。
二ヵ月前までは、ヌードダンサー上りで「金比羅食堂」をやっていた吉里幸子(白川和子)と同棲、母子家庭をガタガタにもした。
数日後、宇高連絡船甲板に幸子と両親宛ての榎津の遺書と、一足のクツが見つかり、投身自殺の形跡があった。
偽装と疑った警官が別府市・鉄論で旅館を営む榎津の実家を訪れると、老父鎮雄(三國連太郎)、病身の母かよ(ミヤコ蝶々)、妻加津子(倍賞美津子)は泣きながら捜査の協力を誓う。
一家は熱心なカトリック信者だが、戦争中、厳は網元をしていた父が軍人に殴られ、無理矢理舟を軍に供出させられた屈辱の現場を目撃して、神と父への信仰を失い、預けられた神学校で盗みを働き、少年刑務所へ送られた。
その後も犯罪と服役を繰り返し、その間に加津子と結婚した。
結婚後、加津子も入信したが、榎津に愛想をつかし離婚、その後、尊敬する義父の懇望に従い再入籍。
榎津は出所する度に父と加津子との仲を疑い、父に斧を振り上げるなど、一家の地獄は続いた。
浜松に現われた榎津は貸席「あさの」に腰をすえ、大学教授と称して静岡大などに出没、警察をあざ笑うような行為を重ねる。
千葉に飛んだ榎津は裁判所、弁護士会館を舞台に老婆(菅井きん)から息子の保釈金をだまし取り、知り合った河島老弁護士(加藤嘉)を殺して金品を奪った。
この頃になると警察史上、最大といわれる捜査網が張り張り巡らされていた。
浜松に戻った榎津の素姓に「あさの」の女主人ハル(小川真由美)やその母、ひさ乃(清川虹子)も気づき始めた。
しかし、榎津に抱かれるハルは「あんたの子を生みたい!」とその関係に溺れ、元殺人犯で競艇狂いのひさ乃も榎津を逃そうとする。
だが、そんな母娘を榎津は絞め殺し、「あさの」の家財を売り飛ばし、電話まで入質して逃亡資金を貯え、七十八日後、九州で捕まるまで詐欺と女関係を繰り返した。
絞首台に上がる直前、最後の面会に来た父に榎津は「おやじ……加津子を抱いてやれ……。人殺しをするならあんたを殺すべきだった」と毒づく。
残された一家にも重い葛藤があった。
死の床にある母は「私も女じゃけえ、お父さんを加津子に渡しとうなか」と言い続けた。
父も地獄のような家を守ってきた嫁が心底かわいく、信仰とのはざまに悩みぬく。
そんな義父を加津子は無性に好きだった。
榎津の処刑後、別府湾を望む丘に、骨壷から、榎津の骨片を空に向って投げる、鎮雄と加津子の姿があった。


寸評
榎津は少年の頃に父親が軍人に逆らえず船を提供したことで弱虫だと嫌悪するようになる。
少年らしい正義感からなのだが、男の理想像を父親に描いているので裏切られた気になったのだろう。
私もちょっとしたことからそのような感情が湧いてしまった苦い経験を有している。
もっとも、だからと言って榎津のような悪事に走るようなことはなかったのだが、榎津は理性も欠如していたのではないだろうか。
大人になった榎津は性欲も強くて、バーのママ千代子やヌードダンサーの幸子と強引に関係を結び、浜松の旅館「あさの」に呼んだ女生とは夜も朝もしつこく関係を迫っている。
榎津は進駐軍から救ってやった加津子と関係を持ち、子供が出来た彼女と結婚するが夫婦関係は破たんする。
ところが老父鎮雄夫の榎津よりも義父に信頼を寄せ、それはやがて愛情に変わっていく。
どうやら肉体関係にまではいっていないようだが、精神的には深く結びついているようで、二人のそのような関係を義母も感じていて、老婆となった義母が「私も女だからお父さんを加津子に渡したくない」とつぶやく場面は変質的な三角関係を示していてゾッとする。

榎津は殺人や詐欺の犯罪を繰り返すが、自分でも言っているように浜松での殺人はよく分からない犯行である。
ひさ乃とハルの親子は、母は元殺人犯で娘は男の二号として体を提供して生活を維持している。
ハルは榎津に初めて男の優しさを感じて関係を深めていく。
榎津の正体を知っても、尚もついていこうとする姿は哀れでさえある。
元殺人犯の母親は「憎い相手を殺したのでスカッとしたが、あんたはスカッとしたか」と問い詰めるが、金銭欲だけで人を殺している榎津には当然そのような感情はない。
榎津はどうしてハルを殺そうと思ったのだろう。
衝動殺人だったのだろうか、榎津にもよくわからない犯行だったようである。
ひどい犯行だったが映画的にはこの浜松での出来事の描き方が非常に面白かった。

タイトルの「復讐するは我にあり」とは榎津のことを言っているようにも思えたが、彼らがクリスチャンであることから、それは「相手から傷つけられても、報復せずに穏やかな心で過ごせ」という教えによるものだろう。
愛する人たちに自分で復讐せず神の怒りに任せ、復讐や報復は神のみが行う行為なのだということであろう。
この作品は肉体と精神、どちらも異常な家族の物語である。
老父鎮雄と加津子は死刑となった榎津の遺灰を高台から撒くが、遺骨は空中に止まったままである。
二人は榎津の存在を消し去ろうとするが、その亡霊は二人から消え去ることはないだろうとの暗示であったと思う。
緒形拳、三國連太郎、倍賞美津子、小川真由美、清川虹子、役者達の演技合戦を見ているようで、出演者も映画の出来栄えにおける重要なファクターであることを痛感させた。


フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白

2023-02-16 07:53:34 | 映画
「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」 2003年 アメリカ


監督 エロール・モリス
出演 ロバート・マクナマラ

ストーリー
1962年10月、マクナマラ国防長官はキューバ・ミサイル危機に直面する。
そのとき、ソ連問題顧問の一言で、ケネディ大統領はソ連の提案受け入れを決断、核戦争は回避された。
30年後、マクナマラはキューバ首相から、「当時ソ連に核攻撃を進言した」と知らされる。
マクナマラは大学に進学後に頭角を現し、当時最年少でハーバード大学経営学大学院助教授になる。
結婚、第一子誕生…その未来は順風満帆に見えたが、そこに第二次世界大戦が始まった。
マクナマラは経営管理の理論を戦争に応用、攻撃効率を高めるため統計を取り分析する。
だが彼の報告書を元に、指揮官のカカーティス・E・ルメイ少将は日本に無差別絨毯爆撃を行った。
戦後マクナマラはフォード自動車会社に入社し、会社の業績を上げ社長にまで昇りつめた。
その頃、最年少の米国大統領が誕生した。ジョン・F・ケネディ。
マクナマラは国防長官に就任したが、ケネディ大統領はベトナム戦争への対応に苦慮していた。
攻撃拡大を主張する軍部を抑え、大統領とマクナマラは、ベトナムから米軍を完全撤兵する決断を下す。
しかし1963年11月ケネディ大統領暗殺、昇格したジョンソン新大統領は、逆に戦争拡大を決意する。
31年後、マクナマラはベトナムを訪れ、トンキン湾事件の真実を知り、唖然とする。
1967年11月、マクナマラは国防長官を辞任した。
マクナマラは「11の教訓」とともに、新世紀へのメッセージを発する。
その教訓とは、教訓1:敵の身になって考えよ。 教訓2:理性は助けにならない。 教訓3:自己を越えた何かのために。 教訓4:効率を最大限に高めよ。 教訓5:戦争にも釣り合いが必要だ。 教訓6:データを集めろ。 教訓7:目に見えた事実が正しいとは限らない。 教訓8:理由付けを再検証せよ。 教訓9:人は善をなさんとして悪をなす。 教訓10: “決して”とは決して言うな。 教訓11:人間の本質は変えられない。


寸評
米国の国防長官としてその名が僕の記憶の中にある第一人者はロバート・マクナマラだ。
多分ベトナム戦争時にしきりと彼の名前を新聞紙上で目にしたり、ニュースを通じて聞いていたからだろう。
名前が記憶の中にあるだけで彼の経歴などはまったく知らないでいた。
冒頭で彼の経歴が簡単に紹介される。
軍歴はともかくとして、フォードの社長に就任していたとは知らなかった。
就任後わずか5ヶ月でジョン・F・ケネディに請われて国防長官に就任する。
マクナマラは妻の賛同を得た「ワシントンの社交界に出入りしなくてよいこと、自分の部下は自分で選ぶ」ということを条件として国防長官就任を受諾したようである。
直面したのが1962年10月に起きたキューバ危機である。
後年マクナマラがキューバのカストロに直接聞いたところによると、「ソ連がミサイルを持ち込んでいたことを知っていたか」については「知っていた」との答え。
それどころか、カストロはソ連側に核攻撃を進言していたということである。
マクナマラが「そうするとキューバはどうなっていたと思うか」の問いに、カストロは「壊滅していた」と答えたらしい。
実に恐ろしいことである。
国家指導者が、自国が壊滅状態になることを予期しながらも核戦争に踏み切ったかもしれないと言うことだ。
ひとたび開戦という方向に動き出してしまうと、最高指導者ですら止めることができないという証言だ。

次にマクナマラが対応を迫られるのがベトナム戦争である。
超強硬派のカーチス・ルメイ空軍参謀総長がいたとはいえ、ケネディ、ジョンソン政権の国防長官としての彼の責任は大きい。
ケネディ政権期にマクナマラが南ベトナムに派遣する軍事顧問団の規模を1万7千人に増加させたことにより、米国の実質的な軍事介入が開始されたと言ってよい。
北爆を開始してからは兵力増員が続き、ベトナム戦争は泥沼化していったのだから、やはりマクナマラは責任を逃れることはできないだろう。
インタビューに応じてマクナマラが告白している形態をとっているが、告白とは言え告白者はやはり自己弁護している部分があるなと感じるところもある。
自らの責任を認めながらも、ルメイの名前やジョンソンの名前を盛んにあげている。
マクナマラはケネディが暗殺されていなければ、ベトナムへの兵力増員は行われなかっただろうと述べている。
余談だが、ケネディ暗殺には軍部が関係していたのかもしれないと思ってしまう。

フォッグ・オブ・ウォー(霧の中の戦争)は先が見えない。
一旦始まってしまえば、この先どのような展開が起きるのか誰にも分からないのだ。
ルメイですら、戦争に負ければ我々は戦争犯罪者だと言っているのである。
マクナマラは、自分が発言すれば物議をかもすだろうし、言っても言わなくても批判を受けると言っている。
そして、自分は言わない方を選択すると述べる。
しかし、その時何があり、何が議論されて、どのような結論に至ったのかを指導者は示す責任はあると思う。

笛吹川

2023-02-15 08:35:02 | 映画
「笛吹川」 1960年 日本


監督 木下恵介
出演 田村高広 高峰秀子 市川染五郎 岩下志麻 川津祐介 中村万之助
   渡辺文雄 中村勘三郎 加藤嘉 織田政雄 松本幸四郎 山岡久乃

ストーリー
戦国時代。甲斐国の笛吹橋の袂に一軒の貧しい家があった。
この百姓家には、おじいと婿の半平、孫のタケ、ヒサ、半蔵が住んでいた。
もう一人の孫は竹野原に嫁いでいた。
おじいは、半蔵がお屋形様(武田信虎)の戦についていき、飯田河原の合戦で手柄をたてたのに大喜びである。
お屋形様に生れた男の坊子(ボコ)の後産を埋める大役を半平が申しつかった。
おじいがその役をひったくったが、御胞衣を地面に埋める時血で汚し、家来に斬られた。
やがて、半蔵もおじいと同じ左足に傷を受け、遂には討死してしまった。
年は移り、ミツの子・定平がおけいを嫁にし、おけいはビッコだったが、よく働いた。
そのうち半平は病死し、歳月は流れた。
定平とおけいの間には長い間ボコが生れなかったが、双子嫁の万丈さんが死んだ日、惣蔵が生れた。
一年を経て、次男の安蔵が生れた。
タケとヒサが死んで惣蔵が三つになった時、ミツが後妻に行った山口屋が大金特になりすぎたためにお屋形に嫉まれて焼打をくった。
ミツは殺され、子供タツは娘のノブを連れて甲府を逃げ出し、定平の世話でかくまわれた。
タツはお屋形様に恨みを抱き、武田家を呪った。
ノブは男に捨てられ、男のボコを生み落したが寺の門前に捨て、死んだ。
やがて、定平とおけいの間には三男平吉が生れ、三人の男の子と末娘ウメを抱え、夫婦はオヤテット(手伝いに行くこと)に出て働いた。


寸評
モノクロフィルムに部分的に色を焼き付ける手法が用いられており、それが僕にとっての「笛吹川」の全てである。
高峰秀子はこの作品で18歳の少女から85歳の老婆までを一人で演じている。
そのために”重ちゃん”と高峰が親しみを込めて呼ぶ小林繁雄を東宝から借り受けることが出演条件だった。
高峰は彼女のエッセイである「わたしの渡世日記」の中でそのことに触れている。

「重の奴、いったいどうやって私の顔を八十五歳の老婆に仕立てるつもりなんだろう?」
私の胸は期待でワクワクしていた。(中略)
「これなァ、プラスチックや」重ちゃんはそう言いながら、ネットリとしたそのプラスチックなるものを私の顔一面に五ミリほどの厚さに盛り上げた。(中略)
出来上がった八十五歳の私の顔を見た木下恵介と楠田キャメラマンが、一瞬ギョッとなって棒立ちになった姿が、私は今も忘れられない。
その後にこんなエピソードも書かれている。
「笛吹川」が封切されたとき、ある人が、私に向かって言った。
「『笛吹川』、観たんですけど、高峰さん出ていませんでしたよ」
「あらやだ、お婆さんが出ていたでしょう? あれ、私です」
「ええっ? あのお婆さんが? ヒェーッ・・・」
そのくらい、重ちゃんのメークアップは巧妙だった、ということである。

若い時を演じる高峰さんのシーンもあったのだが、この映画では主演女優である高峰さんのアップは少ない。
この映画は人気女優を見せる映画ではないのだ。
映画はこの一家の者たちが、武田信虎、武田信玄、武田勝頼という三代の領主が引き起こした戦いによって死に追いやられた物語である。
木下恵介にとっては戦時中に撮った「陸軍」と相通ずる気持ちがあったのだろう。
老婆となったおけいが武田軍に従う息子や娘を見つけ出しては家に帰れと言い寄る姿は、「陸軍」における息子を見送る母親像と重なる。
深読みかもしれないが、武田家は日本国であり、ラストで流されれる旗の武田菱は日の丸なのだろう。
武田信虎の有無を言わせぬ命令によって一家のおじいは殺される。
ある者は手柄を立てて出世することを夢見て足軽となって出ていく。
又ある者は徴兵されるような形で戦地に赴く。
勝っている時は立身出世もあるだろうが、負けが込んでくると悲惨な結末が待っているだけである。
敗軍の兵の一員となって武田家と共に死んでいく。
結局生き残ったのは年老いた定平だけだ。
その姿は日本軍に翻弄されて死んでいった多くの一般庶民に通じるものである。
その意味でこの映画は反戦映画なのかもしれない。
そう思わないと、物珍しさだけで終わってしまう映画だったと言うことになってしまう。
でもあのカラー処理は何の意味があったのだろう?

フェーム

2023-02-14 09:54:15 | 映画
「フェーム」 1980年 アメリカ


監督 アラン・パーカー
出演 アイリーン・キャラ バリー・ミラー リー・キュレーリ
   ローラ・ディーン ポール・マクレーン エディ・バース
   ジーン・アンソニー・レイ ボイド・ゲインズ
   アントニア・フランチェスキ アルバート・ヘイグ

ストーリー
音楽、ダンス、演劇の3つのカリキュラムを主体とするニューヨークにある芸能専門学校で、その秋、新学期を控えて、連日、入学試験が行なわれていた。
そんな中には母に伴われた内気な少女や、ガールフレンドを連れだってくる青年など、さまざまな若者たちが希望と不安をみなぎらせていた。
厳しいオーデションに合格した者たちが登校する。
スラム街育ちのココ(アイリーン・キャラ)は美声の持ち主だ。
おしゃベりのリサ(ローラ・ディーン)はダンス科である。
音楽に才能を見せるブルーノ(リー・キュレーリ)は音楽科へ入学した。
それぞれが、自分の志に従い励んでいる中、ココは、ダンス科のリロイに惹かれた。
しかし2年生になったリロイは、ヒラリー(アントニア・フランチェスキ)という新入生の金持ち娘に恋をする。
一方、ダンス科のリサは、主任から才能がないからやめるように言われ、ショックのあまり自殺まで考える程悩むが、演劇科に移ることで再出発をめざした。
第4学年を迎えたココは、外国の映画製作者だと名のる男にスクリーン・テストを申し込まれ、その気で出かけるが、それは罠で彼女はポルノ雑誌のモデルをやらされる羽目になってしまう。
また、プエルトリコ人で演劇科の青年ラルフ(バリー・ミラー)はナイト・クラブで注目されるようになってから、いい役者になるという志を捨てはじめていた。
ラルフは、同じ科のモンゴメリー(ポール・マックレーン)の忠告ではじめて自分の愚かさを知る。


寸評
芸能学校に通う若者たちの姿を描いた青春群像劇だが、芸能学校という設定も珍しいし、それぞれのカリキュラムで学ぶ彼らの様子が新鮮な題材だ。
それぞれが抱えるエピソードがユニークで興味深く描かれているが、登場人物の多様性によって焦点が薄らいでいるので間延び感が生じてしまっている。
それでも感動を呼び起こされるのは彼らの姿を丁寧に描いているためだと思う。

ダンス科のリロイは黒人の最下層出身で英語が読めない。
卒業して成功をおさめないといけないが、与えられた課題の読書が出来ず苦労する。
焦りからか自分の事しか考えられず、ご主人の病気に悲しむ先生から叱責を受ける。
ラストでの様子を見ると、そのことで彼は目覚めて頑張ったのだろうが、彼の変化は描かれていない。
ブルーノは音楽科に入学したが、古典的な楽器ではなく現代音楽の楽器を操っている。
作曲の才能もあるようだが、なかなか彼の才能を理解してもらえない。
スラム育ちのココは秀でた歌唱力を有しているが、ブルーノの父親に送ってもらった時にはスラム出身を隠して、高級アパートに住んでいるふりをする。
カメラテストの話に飛びつくが、それは彼女に悲しみをもたらすものだった。
その後、どのように立ち直ったのかは分からないが、彼女もラストシーンでの姿を見ると挫折を立派に克服していったのだろう。
ちょっと注目されたラルフは初心を忘れそうになるが、友人の助言で踏みとどまることが出来る。
その友人はゲイであることを悩んでいるが、それでも前には進み始めているし、才能がないと宣告された少女も別の科で頑張るようになる。
それらの話が、断片のように同時進行で進んでいく。
その後の顛末を省略して観客に想像させるという演出が希薄感をもたらしていたのかもしれない。

彼らの持てあますようなエネルギーは、ブルーノの父がブルーノの作品を通りでスピーカーから流した時に、学内にいた学生たちが一斉に飛び出し踊り狂うシーンに表現されていた。
前半では一番盛り上がるし、感動する場面だった。
僕が一番感動したのはやはりラストシーンだ。
苦労していた彼らが卒業を迎え、卒業公演を行っている。
それぞれの学科で学んだ彼らがその成長を見せる。
楽器専攻の学生は見事な演奏し、ダンス専攻の学生は見事なダンスを披露する。
ココの美声が会場に響き渡り、彼等若者に輝く未来が訪れると歌い上げる。
若者の未来に賭ける情熱と姿は美しく感動的である。
たまらず彼等を応援したくなる。
卒業生の誰もが成功するわけではないだろうが、彼らの未来に拍手を送りたくなった。
授業風景は知らない世界だけに興味が湧いてきたし、芸能人がこのようにして生み出されてくるアメリカのシステムとその世界の厚みの様なものを感じた映画だった。