おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

忍者武芸帳

2021-08-22 07:51:44 | 映画
「忍者武芸帳」 1967年 日本


監督 大島渚
声の出演 山本圭 戸浦六宏 小山明子
     佐藤慶 松本典子 福田善之
     観世栄夫 田中信夫 早野寿郎
     露口茂 渡辺文雄 林光 小松方正

ストーリー
時は室町幕府十三代将軍足利義輝の治世、各地に群雄が割拠し、日本中が戦いに明けくれていた永禄三年、奥州出羽の最上伏影城城主結城光春は家老坂上主膳の謀略のため非業の最期をとげ、結城光春の一子重太郎は辛うじて逃げのびた。
数年後、父の恨みを晴らそうとして坂上主膳をねらう重太郎の姿が城下にみられた。
しかし主膳の妹の忍者、螢火によって重太郎は重傷を負わせられたが、伏影城に恨みを抱く影丸と名のる黒装束の忍者に救われた。
折りから大飢饉が各地を襲い、その上重税にあえぐ百姓たちの怒りは頂点に達していた。
謎の人物影丸はこの状況を利用して、重太郎を擁し不満を持つ野武士と百姓たちを巧みに操り、伏影城陥落に成功した。
だが主膳を追いつめた重太郎の前に螢火が再び現われ、彼は父の仇をうちそこねた。
そして影丸の姿はもうそこにはなかった。
一方重太郎は逃げた主膳を求めながら剣修業の旅に出、大和の柳生宗厳の道場に身を寄せた。
偶然道場を訪ねてきた者から、重太郎は坂上主膳が尾張清洲城にいることをきき直ちに尾張に向った。
時あたかも信長が突如、美濃の稲葉城攻略を開始した。
そしてこの信長の天下統一の大事業の前に各地で百姓一揆が勃発した。
そして信長の軍勢と衝突する一揆軍のいる所、必ず影丸の暗躍があった。
かくして忍者、剣客、武将、美少女入り乱れるなかで、戦国を生きるすべての人々が歴史を担いつつ、日本の中世は近世へと胎動を続けていったのであった。


寸評
あれは僕が高校生だったころだろうか白戸三平を読み漁っていた時期があった。
「サスケ」、「カムイ伝」、「カムイ外伝」などだったが、中でも「忍者武芸帳 影丸伝」はお気に入りで単行本が本棚に並んでいたのだが、どうなったのか今は消え失せている。
白戸の作品は僕がそれまで接してきた漫画とは一線を画しており、忍者漫画では登場する忍術に科学的な説明と図解が付くという独特のスタイルを保っており、描かれている内容は社会性を持っていた。
白戸の作品では登場人物はたくましく生きているが、はかなく命を落としていく。
主人公はいるが真の主役は百姓に代表される名もなき大衆である。
白戸の描く漫画は、ある意味でプロレタリア文学だったし、それに当時の大島渚も共感したのかもしれない。

作品は劇画だが、絵はアニメ映画の様に動くことのない静止画である。
カメラは原画をなめるように動くだけで、それに音声が入るという実験的な作品となっている。
再見時には影丸、重太郎、蛍火、明美や影一族の面々などが登場すると、その顔立ちを思い出して懐かしい人に出会ったような気になった。
登場人物は劇画だけに多彩である。
主人公の影丸は影一族を使い農民による一揆を指導して支配者打倒のために戦い続けていて、湖に沈められたり首を斬られたりしても甦る不死身の男である。
重太郎は家老・坂上主膳の謀反により城主だった父を殺されたため主膳を仇と狙っているが、主膳の妹である蛍火によって片腕を切り落とされている。
やがて重太郎は影丸の妹の明美と恋に落ちる。
蛍火は主膳の妹で伊賀出身の忍者だが、影丸によって彼女も片腕を切り落とされている。
重太郎とは宿敵の間柄だが、やがて重太郎に思慕の念を抱くようになるという存在である。
影一族はユニークな者たちの集団である。
蔵六は頭がカメのように胴体に引っ込む特異な身体を持っており、その為首を切り落とされても「首はどこへ行った?」と言って首を探し回るというような面白い忍者である。
その他、穴熊の様に地中に潜る「くされ」、半人魚のようになって水中で生き続けることができる「岩魚」、電気ナマズや電気ウナギのように電流を発することができる「しびれ」、分身の術を使う三つ子の「みつ」などである。
そして原作がそうであるように、本筋とは関係がない説明が「忍者武芸帳 番外編」として影一族の紹介がそれぞれの得意技と共に紹介されたりもする。

史実に忠実なわけではないが、長島の一向一揆、加賀の一向一揆、雑賀孫一との抗争、そして石山本願寺との争いなどが描かれ、織田信長、明智光秀、森蘭丸、羽柴秀吉、顕如などおなじみの人物が登場するので歴史物語としても面白い側面を持っている。
そして影一族も明智十人衆も命を落としていくのは白戸らしい。
大島は最後に「皆が平等な世の中になればよい」との影丸の言葉で締めくくっているが、それが大島の主張だったのだろうか。
それはそうとして、特異な映画的表現を持った作品であることは間違いない。