おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

恋愛小説家

2024-03-31 08:11:05 | 映画
「恋愛小説家」 1997年 アメリカ


監督 ジェームズ・L・ブルックス
出演 ジャック・ニコルソン ヘレン・ハント
   グレッグ・キニア キューバ・グッディング・Jr
   スキート・ウールリッチ シャーリー・ナイト
   イヤードリー・スミス レスリー・ステファンソン

ストーリー
メルヴィン・ユドールは人気恋愛小説家だが、実生活の彼は中年を過ぎていまだ独身で、潔癖症の毒舌家として嫌われ者の変人だったが、ある日隣人でゲイの画家サイモンの愛犬ヴァーデルをあずかる羽目に。
サイモンのパートナーの黒人の画商フランクはなかば脅してユドールに犬を押しつけるが、なぜかユドールはヴァーデルに心の安らぎを見いだす。
それを契機に、毎日ランチに通うカフェのなじみのウェイトレス、キャロルとまともに話を交わすようになった。
彼女が病弱な息子を抱えたシングルマザーだと知った彼は、彼女にひとかたならない興味を持ち出した。
ユドールは、彼女が息子の介護で店での給仕を辞めないようにするためと称して自費で彼女に名医を世話。
思いがけない親切にとまどいを隠せないキャロル。
だが、息子が日に日に元気になって彼女の人生は一変、キャロルはユドールに感謝するが、そんな彼女の真情あふれる態度にも毒舌で応えたりするユドールの相変わらずの変人ぶりに彼女は呆れるばかり。
そんな折り、サイモンは退院するが、高額の治療費と展覧会の失敗のためついに破産して絶望の淵に。
サイモンは長年絶縁状態にあった彼の両親に頼るべきだと判断したフランクは、郷里ニュー・オーリンズへの旅の同行をユドールに頼む。
ユドールはゲイとの旅行だからひとりでは不安という口実でキャロルを誘う。
ところがキャロルとサイモンは初対面から意気投合、思惑が外れてユドールは腐る。
気持ちが晴れやかなキャロルは夕食にユドールを誘う。
ユドールは「君が僕の人生を変えてくれた」と初めてキャロルにロマンチックな告白をするが、ムード最高潮のところでつい要らない毒舌が出る。


寸評
ジャック・ニコルソンは性格俳優の本領を発揮したきわどい役が多いように思うが、このようなくすぐったくなるようなユーモアを振りまく役によるロマンチック・コメディにもいい味を出す。
同じような題名の「恋愛適齢期」でも似たような役どころをこなしていて、軽妙な演技も彼の魅力の一面になっているのかもしれない。
ユドールは自分が書く小説の中では女心を十分すぎるぐらい理解しているのだが、実社会ではうまく自分の感情を表現できない変人である。
小説の世界で女心を描けるのは、男から理性と責任を除けばいいだけだからだとユドールは言い放っているのだが、相手のキャロルも中々の強者である。
この二人のやり取りが抜群に面白い。
若い観客にはまどろっこしいやり取りに感じるかもしれないが、中年以降の観客には受け入れられるだろう。

ユドールは極度の潔癖症で、レストランでもプラスチックのナイフとフォークを持ち込んでいるし、手洗いの石鹸も少し使っては捨ててしまうほど徹底している。
おまけに小説家の習性なのか理屈が先に立ち、素直な表現が出来ないので誰にでも突っかかる。
根は人に対して優しい人物なのだが、それをうまく表現できない不器用な男でもある。
その不器用さがキャロル相手に披露され、観客もクスクス笑いを浮かべながらもイライラしてくる。
それがこの映画の面白さでもある。
ユドールがキャロルに魅かれ始めてからの態度は、年齢の壁を飛び越えた恋をする男の行動として納得するものがある。
気のある女性を目の前にすると、どうも素直になれず思ってもいない会話をしてしまう。
相手の気を引こうとしても、その時の言動はどこかよそよそしくなってしまうのは思い当たるふしがある。
キャロルはキャロルで、病弱な息子の看病で手一杯で余裕がない。
ユドールの好意で息子の看病から解放されると、自分の人生の空白を感じ始めて動揺する。
キャロルが母親に泣きながら心情を吐露するシーンは伝わってきたなあ・・・。

ユドールの隣の部屋に住んでいるのがゲイの画家サイモンなのだが、ユドールはサイモンにゲイをバカにしたような言葉を浴びせている。
LGBTに対する差別用語と思われるようなものだが問題にならなかったのだろうか。
もっとも最後の方でサイモンがユドールに感謝を込めて「アイ・ラブ・ユー」と言うと、ユドールは「自分がゲイだったら一番うれしい言葉だ」とユーモアで返すところなどはゲイに対する言葉として首尾一貫している。
いいシーンだったと思う。

最後までぶつかり合う二人だが、最後のユドールのキャロルへの誉め言葉はいいね。
サイモンと両親の和解は気になったが、キャロルの母親はなかなかできた母親で羨ましく思う。
ロマンチック・コメディとしてはよくできている作品だ。
がっぷり四つの二人の演技を見ているだけでも楽しく、二人が主演男優賞、主演女優賞に輝いたのも納得だ。

レナードの朝

2024-03-30 09:13:02 | 映画
「レナードの朝」 1990年 アメリカ


監督 ペニー・マーシャル
出演 ロバート・デ・ニーロ ロビン・ウィリアムズ
   ジュリー・カヴナー ルース・ネルソン
   ジョン・ハード ペネロープ・アン・ミラー

ストーリー
1969年、ブロンクスにある慢性神経病患者専門のベインブリッジ病院に赴任してきたマルコム・セイヤーは無口で風変わりな男だったが、患者に対する態度は真剣で、彼らが話すことも動くこともできないものの、まだ反射神経だけは残っていることを発見すると、訓練によって患者たちに生気を取り戻すことに成功し、その熱意は治療をあきらめかけていた看護婦のエレノアの心をさえ動かしていった。
そんなセイヤーの患者の中でも最も重症なのがレナード・ロウだった。
彼は11歳の時発病し、30年前にこの病院に入院して以来、意識だけはあるものの半昏睡状態で寝たきりの生活なのである。
何とか彼を救おうとしたセイヤーはまだ公式に認められていないパーキンソン氏病患者用のLドーパを使ってレナードの機能回復を試みたところ、ある朝ついにレナードはめざめを迎えた。
ベッドから起き上がり、セイヤーに連れられて30年ぶりに街に出たレナードには見るものすべてが驚きだった。
その効果に意を強くしたセイヤーは上司に他の患者にも新薬を使うことを申し出て、病院のスタッフの協力によって投薬が始まった。
そしてある夜のこと、セイヤーはベッドから次々と起き上がる患者たちの姿を見るのだった。
一方、完全に機能を回復したレナードだったが、彼が病院に見舞いにきたポーラに生まれて初めての恋をしたことから問題が起こる。
1人だけで外出したいというレナードに医師団は反対し、それに反発したレナードは怒りからか、再び病状の悪化が始まってしまい、しだいに狂暴になるレナードをセイヤーですら押さえ切れなくなる。
そして、ついにレナードを始め、目覚めた患者たちは、すべて元の状態に戻ってしまう。
自分のしたことは間違いだったのだろうかと悩むセイヤーにエレノアは優しい言葉を投げかけるのだった。


寸評
友情、遊び、家族といったものの大切さを常に実感しているわけではないが、世界中の皆がそれを実感したならば戦争もテロも起きないだろう。
レナードは30年間も無表情で固まっていた人間だが、意識が戻った時にその素晴らしさを体感する。
体は大人だが時間は30年間も止まったままだったという彼はポーラと言う女性に恋をする。
レナードと同じように時間が止まってしまっていたような母親はレナードが心の成長を遂げていたことに気がつかずレナードの恋に戸惑ってしまうのだが、長い年月を思わせるいいシーンだった。
感動するのはそのポーラとレナードがダンスをするシーン。
病気が再発しポーラに別れの挨拶をするために会ったのだが、ポーラとダンスをすることで心が落ち着いたのか、それまでの発作が和らぎ、レナードは実に幸せそうな笑顔を見せ、反してポーラは一筋の涙を流す。
僕が泣いてしまったシーンだ。

患者たちはパーキンソン病の重症患者なのだろうか、無表情で石のように固まったままである。
ルーシーと言う老婆の表情に驚かされ、俳優と言う職業はすごいと思わされる。
もちろん主演のロバート・デ・ニーロは期待を裏切らない演技である。
デ・ニーロは非情に難しい役柄ながらも、彼にしかできないであろう見事な演技を見せている。
当初は言葉を発せず固まったままの姿である。
やがて目覚めて行き、そして再び発病した時の様子などは、これぞデ・ニーロと呼ばしめるものである。
こうなってくると、観客である僕はレナードという人物よりも、デ・ニーロの演技に注目してしまっていた。
デ・ニーロの怪演に押され気味だが、ウィリアムズは自らのキャラクターを存分に生かして、患者に寄り添う優しい医者を好演している。
彼はもともと研究者で臨床医ではないのだが、ミミズ相手に何年も研究を続け、そこからの薬品抽出は不可能であるとの結論を導き出したという変わった男である。
地道な彼は病気に対する過去の発表を発見し、その教授の絶望的な意見を聞くが諦めない。
パーキンソン病患者用で効くかどうかわからないLドーパミンの投与を試してみる。
その効果がレナードに現れたので他の患者にも試すことになる。
資金のない病院に看護師たちが小切手を差し出す場面も感動を呼ぶ。
そして、寝たきりだった患者たちが次々に起き上がる場面には否応なしに感動を覚える。
このシーンが事実であったとは思えないが、患者たちが次々と回復を見せたのは事実なのだろう。

レナードは普通の人間として蘇りポーラに恋をしたのだが、そのことで普通の人間のように自らだけでの自由を欲するようになり、一人での散歩を要求するが拒絶される。
それを契機としてレナードは症状が悪化してしまう。
「無意識の様でも意識の中ではわかっているのだ」とポーラに語っていたレナードなので、セイヤー医師が落としていったメガネを修理するのは、彼の中に信頼を寄せる気持ちが健在だったということだろう。
それでも最後は切なくて、その切なさを補うようにラストを締めくくっているが、何かを訴えられたというよりデ・ニーロの演技が印象深い作品だ。

レッド・オクトーバーを追え!

2024-03-29 07:05:43 | 映画
「レッド・オクトーバーを追え!」 1990年 アメリカ


監督 ジョン・マクティアナン
出演 ショーン・コネリー アレック・ボールドウィン
   スコット・グレン  サム・ニール
   ジェームズ・アール・ジョーンズ
   ピーター・ファース ティム・カリー

ストーリー
ソビエトのムルマンスク沿岸、副長ボロディンから出発の時を告げられたソ連最新鋭原子力潜水艦レッド・オクトーバーの艦長ラミウスは、秘かな決意を胸に、艦の前進を命令する。
その頃、CIAのアナリスト、ジャック・ライアンは、英国情報局から入手したレッド・オクトーバーの写真を片手に、その謎の解明に奔走していた。
レッド・オクトーバーの不審な行動が次々と米国に報告される中、ライアンは、ラミウスが亡命するつもりなのかもしれない、と直感する。
国家安全対策顧問ジェフリー・ペルトから、3日以内にラミウスの真意を証明するよう命じられたライアンは、直ちに北大西洋沖の米空母エンタープライズに向かった。
一方モスクワから、レッド・オクトーバー撃沈の命をうけたソビエト海軍の潜水艦コノヴァロフのツポレフ艦長は、血眼になってレッド・オクトーバーを追っていた。
そんな折、レッド・オクトーバーの動きを察知したダラスの艦長バート・マンキューソは、ソナー員のロナルド・ジョーンズからその行動を聞き、レッド・オクトーバーを待ち伏せしようとする。
しかし同じ頃レッド・オクトーバーでは、乗組員の中に破壊工作員がいることが判明し、艦内は緊迫していた。
嵐という最悪の天候の中、命からがらダラスに着いたライアンは、駐米ソビエト大使リセンコの連絡をうけ、レッド・オクトーバーを攻撃するよう命令があったことを知る。
ライアンはマンキューソを説得し、ラミウスとの接触を試み、そして彼の真意が亡命にあることを確認する。
レッド・オクトーバーが沈没したと見せかけるラミウスの機転で、ライアンたちは無事レッド・オクトーバーに乗り移るが、その時破壊工作員の襲撃をうけ、ボロディンが命を落とした。


寸評
潜水艦を使った軍事スリラーとして手堅い演出が見て取れるが、人物や背景が説明不足になっていたのは見終ると惜しかったなあという印象を持つ。
レッド・オクトーバーの艦長ラミウスがなぜ亡命を希望しているのか?
ラミウスの部下たちも彼に従って亡命を希望しているようなのだが、ラミウスと部下たちの結びつきはなぜ出来上がっていたのか?
ソ連側の彼等の背景が描かれていないので、原子力潜水艦レッド・オクトーバー内部の緊迫感、ソ連がレッド・オクトーバーを沈めようとする緊張感が少々かけていたような気がする。

映画冒頭ではラミウスを初め、ボロディンらのソ連人役のキャストがロシア語を話していて、政治士官プーチンが艦長室でラミウスの私物の聖書の黙示録を読むシーンから英語にスイッチしているのだが、最後までロシア語で通した方がリアル感があったと思う。
どのみち字幕を読む我々とは違って、アメリカ映画なのに字幕を読まされる米国の観客に配慮したのだろう。
ラミウスは出航前にソ連首脳部へ自分の意図をしたためた手紙を出していたのだが、その目的をもう少し描き込んでいたらもっと盛り上がったかもしれない。

レッド・オクトーバーの推進システムが「キャタピラー・ドライブ」と呼ばれる無音の推進システムであることで、ソナーを使った海底での敵潜水艦の動向を見失うくだりなどは、潜水艦の検知能力とシステムを教えてくれるトリビアとなっていて興味を沸かせる。
レッド・オクトーバー撃沈を目指すソ連の潜水艦が航行ルートを先読みして待ち伏せし、レッド・オクトーバーに攻撃を仕掛けてくるが、この時レッド・オクトーバーに乗り込んでいた米兵と協力しながら対決する様子も痛快で、娯楽作としての盛り上がりを見せている。
潜水艦という密閉された狭い空間でのドラマが展開されるが、ドラマとしてはうまくまとめられている。

子飼いの士官達は亡命に同意しているようなのだが、それ以外の士官たちはラミウスの目的を知らない。
彼等を初めとする乗組員をレッド・オクトーバーから退艦させる必要が有るのだが、そのプロセスは観客を納得させるものである。
とくにラミウスが艦長として艦と共に運命を共にする決意を伝えた時の士官の態度が笑わせる。
情報分析官のジャック・ライアンも非常に重要な登場人物だが、作品中ではラミウス大佐のショーン・コネリーがやたら目立っていてカッコイイ。
ショーン・コネリー単独作品と言ってもいいぐらいの存在感だ。

米ソ冷戦末期の時代に製作された作品だけに、露骨なまでの反共プロパガンダ振りで、共産主義イコール悪という単純図式が強烈だ。
ヴァシリー・ボロディン中佐がモンタナを夢見て死んでいくなどはその最たるものだった。
潜水艦の追いかけっこが楽しいし、意表を突いた仕掛けもあって、潜水艦物としては水準を保った作品だ。

猟奇的な彼女

2024-03-28 07:29:59 | 映画
「猟奇的な彼女」 2001年 韓国


監督 クァク・ジェヨン
出演 チョン・ジヒョン チャ・テヒョン キム・インムン
   ソン・オクスク ハン・ジンヒ キム・イル

ストーリー
性格の優しい大学生のキョヌは夜の地下鉄ホームで美しい“彼女”と出会う。
でもその時“彼女”は泥酔状態。
酔っぱらい女は嫌いだったが、車中で倒れている“彼女”を放っておけず仕方なく介抱してホテルへ運ぶ。
ところがそこに警官がやってきてキョヌは留置場で一晩を過ごすハメに。
翌朝、昨夜の記憶のない“彼女”は怒ってキョヌを電話で呼び出した上、詰問するのだった。
これがきっかけで、キョヌはルックスとは裏腹にワイルドでしかも凶暴な“彼女”に振り回されることとなる。              
しかし翻弄されながら、キョヌは彼女に惹かれていった。
一方、彼女はいつもあいまいな態度を見せる。
そんな彼女が、両親の命令でお見合いをした夜、キョヌは急に見合いの現場に呼び出される。
キョヌは複雑な思いを隠し、お見合いの相手に彼女と付き合う心得を教えた。
キョヌの温かさに心動かされる彼女。
2人は、お互いにあてた手紙をタイムカプセルに入れて丘の木の下に埋め、2年後に会おうという約束を交わして別れた。
そして2年後、タイムカプセルを開けたキョヌは、彼女が恋人を亡くし、その面影をキョヌに見ていたことを知ったのだが・・・。


寸評
「猟奇的な」なんてタイトルを見るとホラー映画かサイコ映画を想像してしまうが、どうやら猟奇的な彼女とは変わった女の子とか、素敵な女の子ということらしい。
青春恋愛作品には違いはないのだが、実態はむしろラブ・コメディと言ったほうがいい作品だ。
実際、彼女の登場シーンは酔っぱらって乗り合わせた電車で、座席に座るオジサンさんの頭の上にゲロするというものだから、ヒロインとしてはちょっと変わったものだ。
オマケにそのオジサンがカツラだったときては、これはもう喜劇映画だ。
その後の彼女は男顔負けの迫力で、援助交際をやっている男と女の子を指導したり、煙草の吸殻をポイ捨てした男にも臆することなく注意したりする。
正義感にあふれているよう見も思えるのだが、その言葉使いは乱暴である。

彼女と知り合ったキョヌは箱入り息子で、彼女の言いなりになっている。
彼女のわがままな要求は無茶なものだが、キョヌはそれに文句を言いながら応えていく。
その間の出来事もドタバタ喜劇に入るような描き方で、ロマンチックな恋愛映画とは程遠い。
彼女のせいで留置場に入れられても、その様子は深刻なものではなくて漫画的だ。
やっとロマンチックなシーンに出合えるかと思えば、脱走兵が現れて軍隊との銃撃戦が起きるという展開になるから荒唐無稽も甚だしい。
彼女はシナリオライターを目指しているので、シナリオに沿った想像シーンとして、ターミネーターまがいの銃撃戦があったかと思うと、時代劇の決闘シーンがあったりして、荒唐無稽さが強調されている。

「前半戦」として、出会って交際を始めるまでが描かれ、「後半戦」として、その後に二人の関係が親密さを増していく様子が描かれる。
その間に描かれるのが前述のドタバタ劇なのだが、「延長戦」として描かれるパートは一転して純愛路線になって、驚くような展開を見せる。
韓国のテレビドラマではよくあるような意表を突いた展開で、観客を驚かせ楽しませてくれる。
何十年後かの話になったかなと思わせたところで、実はそうではなかったというあたりから感動的になってくる。
彼女の過去と、キョヌと別れた理由が明らかになり、さらには思わぬことを通じてキョヌの優しさも描かれる。
老人が語る「運命は努力したものに偶然という橋を架けてくれる」という言葉通り、偶然が二人を結びつけるかと思わせながら期待を裏切る。
この場面は、最後に彼女とキョヌが別れ別れになってしまったシーンと対になっているような描き方をしている。
そして、ラストシーン。
伏線が張られていたとは思うけど、最後にこの展開を見せるか・・・と思わずつぶやいてしまう。
う~ん、韓国の恋愛ドラマだなあ。
しかし思い返してみれば、これを普通に描けばベタな恋愛ものになっていたかもしれないから、この描き方は新鮮さもあって良かったかもしれない。
タイトルが特異なことで記憶に残る作品ともなっている。

リボルバー

2024-03-27 07:01:30 | 映画
「リボルバー」 1988年 日本


監督 藤田敏八
出演 沢田研二 村上雅俊 佐倉しおり 柄本明
   尾美としのり 手塚理美 南條玲子 小林克也
   山田辰夫 村田雄浩 長門裕之 高部知子

ストーリー
巡査部長の清水信彦(沢田研二)は見合いの相手・亜代(南條玲子)と付き合っていたが、あまり結婚したいとは思っていなかった。
ある日清水は公園で阿久根(小林克也)に背後から頭を打ちつけられ、拳銃を奪われた。
阿久根は部長昇進目前の会社員であったが、6年も前から不倫関係にある同じ課のOL・有村美里(吉田美希)が阿久根との関係を清算し、営業課の男との結婚を決意したことに耐えられず、家族も地位も自らの命さえも捨ててこの結婚を阻止するつもりだった。
しかし、二人を殺すことはできず、拳銃を動物園のゴミ箱に捨てた。
それを拾ったのは高校生の進(村上雅俊)。
彼はある晩レイプの現場を目撃したが何もできず、犯人に殴られてしまった。
進はその男・石森(山田辰夫)を殺したくて鹿児島から札幌へ追った。
清水は拳銃を奪われた責任をとって警察署を退職。
ふと知り合ったホステスの節子(手塚理美)のヒモのような生活を送っていた。
だが、自分の拳銃のありかを知って少年に殺人を犯させまいと、進のガールフレンド、佐伯直子(佐倉しおり)と共に札幌へ旅立った。
進は石森の居場所をつきとめたが、いざ命乞いされると撃てなかった。
しかし、その時進の落とした拳銃を亜代が拾い、自分をふった清水に向けて撃った。
だが、その弾ははずれて、競輪狂・蜂矢(柄本明)の体に当たった。
それまでツキに見放されていた蜂矢は痛みをこらえながら相棒の永井(尾美としのり)と共に「これでツキが戻ってくる」と喜んだ。


寸評
警官が拳銃を奪われる映画は度々描かれてきており、その多くはサスペンス劇だが、本作はサスペンスの要素は少なく男女を絡ませた群像劇となっている。
冒頭で登場人物の簡単なエピソードが次々と描かれていく。
その一見関係なさそうな連中が磁石に引き付けられるように集められていくのがこの映画の醍醐味となっている。
サスペンスの重厚感はなく、むしろ青春物語のような軽さがあるのだが、そうでありながら主人公を演じているのが中年にさしかかった元アイドルの沢田研二なのが面白い。
沢田研二が演じるのは冴えない警官だが、もっと冴えないのが小林克也のもうすぐ部長になる会社員の阿久根
である。
阿久根は美里と不倫関係だったが、美里が結婚することになり別れを切り出される。
上司としてその結婚式に出席していて、そこで挨拶でも頼まれていればシリアスだと思うが、顛末は滑稽なものとなっている。
阿久根はみじめったらしく美里にすがるが、清水と高校生の進に対しては女性の方が積極的だ。
亜代は清水が上司の勧めで見合いした相手で、清水が指摘したように結婚することと、その後の安定した生活を目的としている女性だ。
それが清水のストーカーのように変節する。
清水をめぐって繰り広げられるホステスの節子とのバトルも面白いのだが、愛憎劇ではないので二人の確執をそれ以上は描かれていない。
描いても面白かったと思う。

競輪仲間として柄本明と尾美としのりが狂言回し的に登場してくるが、僕は登場人物の中でこの二人の存在が一番面白かった。
二人が行きつけのスナックでホステスさんたちと会話する。
「金を持てば使いたくなる、酒があれば飲みたくなる、タバコがあれば吸いたくなる」と言う蜂矢に、ホステスの一人がすかさず「マッチがあればつけたくなる」と答える場面だ。
拳銃を持てば撃ちたくなるということで、進は暴行を受けた石森を撃ちに行く。
撃つつもりはなかったかもしれないが、拳銃に力を得て仕返しをするために札幌に向かう。
誰だって屈辱を受ければ「今に見ていろ」とかの気分になるから、進の気持ちは分らぬでもない。
僕も長い人生の中で何度もそんな気分になったことはあるが、幸いにして暴力による屈辱は受けたことがない。
ばらばらだった人々が拳銃に引き寄せられるようにして事件現場に登場する。
蜂矢は流れ弾で足を撃たれてタンカで運ばれながら、いい加減だが根がポジティブな彼は「弾に当たったからついている。しかもお足(お金の呼び名)だ」と狂喜する。
蜂矢と永井のデコボココンビはこの映画をポップにしている立役者だ。
清水はホステスの節子と別れる決心をするが、部屋の鍵を受け取った節子が清水の後姿に拳銃を撃つ真似をして「バン!」と言う。
店を出た清水は背中を撃たれた恰好をしてニコリとし、やがて物悲し気な顔で去っていく。
ここで終わっても良かったように思うが、その後のシーンはこの映画らしい。
藤田敏八の遺作だが、往年の彼なら進の屈折した気持ちをもっと描き込んだのではないかと想像した。

リバー・ランズ・スルー・イット

2024-03-26 08:09:55 | 映画
「リバー・ランズ・スルー・イット」 1992年 アメリカ


監督 ロバート・レッドフォード
出演 ブラッド・ピット クレイグ・シェイファー
   トム・スケリット ブレンダ・ブレシン
   エミリー・ロイド スティーヴン・シェレン

ストーリー
年老いたノーマン・マクリーンは、故郷の川でフライフィッシングをしながら、若き日を回想していた。
1912年、10歳のノーマンと8歳のポールは、父親のマクリーン牧師にフライフィッシングと勉強を教わっていた。
ノーマンの夢は牧師かプロボクサーになること、ポールの夢はプロのフライフィッシャーである。
1919年、ノーマンは東部のダートマス大学に進学し、7年後、ノーマンがやっとミーズラに戻った時、父は歓迎の言葉のかわりに将来の進路を決めかねているノーマンを批判する。
一方ポールは地元の大学を卒業し、地方新聞の記者をしている。
ノーマンは、弟が酒と賭けポーカーにのめり込んでいるのを知る。
兄弟は早速川に入り釣りをしたが、ノーマンは、弟のほとんど芸術と化したフライフィッシングを見つめていた。
独立記念日のダンス・パーティで、ノーマンはジェシーと出逢い、恋に落ちる。
ある日ノーマンが家に帰ると警察から電話が入り、ポールが留置所に保護されているというのだ。
ポールはどうやらポーカーで莫大な借金を背負っているらしい。
ジェシーの兄ニールがハリウッドから帰ってくる。
キザな彼をノーマンはひと目で嫌いになるが、釣りに誘う破目になる。
そんなある日、ノーマンはシカゴ大学から教授職のオファーを受け取り、彼はジェシーにプロポーズする。
ノーマンは酒場でポールに会い、ジェシーのことを話すが、ポールは素直に喜んでくれない。
ある日ノーマンは、警察に再び呼び出された。


寸評
モンタナ州はアメリカ北西部の州で自然豊かな州のイメージがある。
ロバート・レッドフォードは後年、監督・製作・主演を兼任した「モンタナの風に抱かれて」という作品を撮っているから、この作品を通じてモンタナ州が気に入ったのかもしれない。
実際、親子、兄弟が釣りをする川の情景は憧れさえ抱かせるような豊かな自然に囲まれた場所だ。
僕は子供の頃に家の前の川で鮒釣りを楽しんだくらいで本格的な釣りをやったことがない。
ましてやフライフィッシングという高度な技術を要しそうな釣りは経験ない。
したがって釣りの醍醐味を語れないし、描かれたような大きなマスが釣れた時の手ごたえと感動は想像の域だ。
もしも僕がフライフィッシングに精通していたらこの作品をもっと楽しめただろう。
僕は俳優ロバート・レッドフォードが監督を務めた作品には静かだが丁寧に撮られているというイメージを持つ。
この作品も、あまりに美しい情景に救われた感があるけれど、映画としては平凡なドラマを中だるみさせず、青年が大人になる一過程のはかなくも愛しい青春をノスタルジックな雰囲気を出しながら再現している。

兄弟の父は厳格な牧師だが強権をふるって子供を支配するような人ではない。
僕は兄弟がいないし、父親も知らないで育ったので、マクリーン家の親子の姿に羨ましいものを感じた。
父親と兄弟が喜び勇んで釣りに行く姿は、僕にとっては半ばあこがれの世界だ。
性格の違いはどこから来るのだろう。
同じように育てられても兄弟は全く違う性格に育つ。
僕の双子の孫でさえ全く違う道を歩む予感を抱かせるが、それは至極当然のことなのだろう。
ノーマンとポールの兄弟も、まじめな兄ノーマンと、自由闊達な弟ポールと対照的な兄弟である。
兄弟としての確執もあるが、本質的には仲の良い兄弟である。
二人は別々の青春を送り、そして大学を卒業し青年へと育っていく。
兄はごく普通にジェシーという普通の女性に恋をし、弟は先住民の女性とあけっぴろげな交友をする。
目立たない兄に対し、弟は町では新聞記者として有名だし、釣りの腕も知れ渡っている。
仲はよいが何もかもが違う兄弟で、それもまた兄弟なのだと、一人っ子の僕は思う。

息子を亡くした父親は語る。
愛する者の本当に助けとなることは難しい。
自分の何を差し出すべきか、あるいは差し出しても相手が拒否してしまう。
身近にいながら腕の間をすり抜けてしまい、できるのは愛することだ。
完全に理解する事はできなくても、完全に愛することはできるのだと。
ノーマンの黙秘によって、父親は本当のポールの姿を知らなかったが、自分の知らないポールがいたことを感じ取っていたのかもしれない。
そしてポールの釣りは美しかったと、いいイメージだけを脳裏に残している。
そんな父も妻のジェシーも亡くなり、一人残った年老いたノーマンは川で釣りをする。
ちょっと寂しさを感じるラストだ。

リオ・グランデの砦

2024-03-25 06:32:54 | 映画
「リオ・グランデの砦」 1950年 アメリカ


監督 ジョン・フォード
出演 ジョン・ウェイン  モーリン・オハラ
   ベン・ジョンソン  クロード・ジャーマン・Jr
   チル・ウィルス  ハリー・ケリー・Jr
   J・キャロル・ネイシュ  ヴィクター・マクラグレン

ストーリー
カービー・ヨーク中佐は、南北戦争でシェリダン将軍の率いる北軍に参加し、シェナンド谷の妻の親族の所有地を焼いたので、怒った妻のキャサリーンは1人息子ジェフを連れて別居してしまった。
1880年、ヨーク中佐はメキシコ国境近くにあるリオ・グランデ河のスターク砦で横暴なアパッチ族の討伐にあたっていた。
横暴なアパッチ族は西部を荒らしてはメキシコへ逃れるので、米軍は国境を越えて追うこともならず苦虫を噛む思いをしていた。
シェリダン将軍は彼の砦へ視察に来たが、その部下に一兵卒として息子のジェフが居り、更にそれを追って妻もついて来た。
妻は息子の除隊を願ったがそれは許されず、彼女も砦に居すわることになってしまった。
ヨークは息子のジェフに対し、あくまで上司と部下の関係を貫いていく。
この時アパッチ族の大挙襲撃がありついにシェリダン将軍はヨークに越境の内諾を与えた。
彼を待つものが軍法会議であることを知りつつ、彼は敢然部下を指揮して長駆メキシコへ突入、アパッチの本拠を覆滅した。
砦に戻り、キャサリーンに迎えられたヨークは、自分達の息子ジェフが立派に務めを果たしたことを伝える。
家族の愛を取り戻したヨークとキャサリーンは、今回の作戦の武勲を称える式典で、名前を呼ばれたジェフを誇らしげに見つめるのであった。


寸評
騎兵隊物としては上手くまとまっており、父親と母親が息子に寄せる愛情も丁寧に描き込まれているおおらかな西部劇である。
殺伐とした感じよりものどかな感じがするのは、騎兵隊付きの音楽隊によるコーラスが度々入るからだろう。
キャサリーン夫人を歓迎するときだけでなく、シェリダン将軍に対しても披露されるし、騎兵隊の行軍の時にもコーラスが流れて、よく歌声が流れる西部劇だなあとの印象を持つ。

クライマックスはインデアン(現在は先住民と呼ぶ)との攻防戦だが、メインとなるのはヨーク一家の再生物語だ。
カービーは騎兵隊任務に忠実なあまり15年間も家族と離れている。
おまけに南北戦争時代に、命令によりキャサリーンの農場を焼き払ったことも夫婦間に溝を作っている。
息子は父親の顔も覚えていない。
それでも父はどこまでも父で、入隊してきた息子を特別扱いできないが、陰ながら気にかけている様子が微笑ましくて、騎兵隊に場所を借りたホームドラマのようなシーンが随所にある。
母親は母親で、気が強い側面を見せながらも息子を危険な騎兵隊勤務から連れ帰りたい。
息子は成績不足で仕官になる道を閉ざされているが、新兵として騎兵隊勤務を全うしたいと考えている。
三者の思惑と行動が人情劇として要領よく描かれている。
若い新兵たちは全くの役立たずと言うのが通り相場なのだが、彼らは結構できる者たちだというのが新鮮だ。
彼らの実力は早い段階での乗馬訓練で示されるが、実際彼等の乗馬技術はスゴイ。
彼らの指導教官でもあるヴィクター・マクラグレンのクインキャノン軍曹が狂言回し役として面白い。
かつてキャサリーンの農場を焼き払ったことから”放火犯”とキャサリーンに呼ばれていて可愛げがある。
軍医の所で酒を飲んでいたり、逮捕されそうな新兵に脱走をそそのかすなど愉快な人物である。
教会に閉じ込められた子供たちの中に、「あの子は味方なのか敵なのかわからない」と言うおませな女の子がいたりと、ユーモアにあふれたシーンも散りばめられていて楽しい。

平原を騎兵隊が行進してくるだけで絵になってしまうが、馬車の疾走シーンや襲撃してくるインデアンのシーンなど、臨場感があってさすがにジョン・フォードは上手いなあと感心するが、それは撮影のバート・グレノンやアーチー・J・スタウトによって提供されたものかもしれない。
さすがに子供を虐殺する事を避けているが、騎兵隊員の妻をむごたらしく殺しているなど、インデアンは全くの悪役として描かれている。
ジョン・フォードの初期作品において、インデアンアは悪の象徴的存在である。
騎兵隊は正義、インデアンは悪という単純な構図だ。
悪かったのは、むしろ白人側だったように思うのだが、どうなのだろう?
罪滅ぼしの為か、「シャイアン」では彼らに同情を寄せている。
ラストシーンにおけるヨーク一家の和解という観点に対してはもう少し描いても良かったと思うが、殺人容疑で追われている新兵がカービー中佐によって突如7日間の休暇を与えられ逃亡するなど、ユーモアのあるシーンは最後まで保たれている。
ところで、カービー・ヨーク中佐は国境を超えて追撃した罪をかぶったのだろうか?

リアリズムの宿

2024-03-24 08:04:28 | 映画
「リアリズムの宿」 2003年 日本


監督 山下敦弘
出演 長塚圭史 山本浩司 尾野真千子 多賀勝一
   サニー・フランシス 天野公深子 瀬川浩司
   川元将平 康すおん 石川真希 山本剛史

ストーリー
冬のある日、駆け出しの映画監督・木下俊弘(山本浩司)と脚本家・坪井小助(長塚圭史)は、共通の友人である俳優の船木テツヲに誘われ、東京を離れて旅に出ることに。
ところが肝心の船木が寝坊で国英駅に現れない。
坪井と木下は、顔見知りではあるが友だちではない微妙な間柄なのだが、仕方なく温泉街を旅することになった彼らだった。
やって来たのは鳥取のとある温泉街だったが、あてをつけていた旅館は潰れているは、新たに見つけた宿では風変わりな外国人主人(サニー・フランシス)に金や酒をふんだくられるはと散々。
意味もなく日本海を眺めていた2人は目の前を流れていく女性の下着を目にする。
不思議に思っていたところ、若い女性が裸同然の格好で走ってきた。
この寒い中、海で泳いでいたところ荷物を全部波にさらわれ、着替えもお金もなくなってしまったという。
その女性は東京から来た21歳の敦子(尾野真千子)と名乗り、服を買ってあげたり、食事や宿を共にする。
バスを待っているうちに突然、別のバスで女の子はどこかへ行ってしまう。
その後は船木と連絡がつかないまま持ち金も底を尽き、親切な中年男(康すおん)のすすめで家に泊めてもらうことにするが、家族が多くて別の宿をさがす。
漸く辿り着いた商人宿は部屋も風呂も料理も最悪だった。
情けなくて、惨めで、笑うしかないふたり。
しかし、いつしか彼らの間には絆が芽生え、東京へ戻ったら一緒にホンを書こうと約束するのであった。
翌朝、宿を後にしたふたりは、登校する女子高生の中に敦子の姿を見つける。
小さく手を振ってくれた彼女に、ふたりも小さく微笑みを返した……。


寸評
友達の友達同志が旅する一種のロードムービーだが、落語や漫才にみられる微妙な間がくすぐったい。
大笑いしてしまう場面をニンマリ笑いに替えている。
3人旅の予定だったが、共通の友人である肝心の船木が来ない。
お互いに顔は知っているが話したことはない間柄であり、船木に連絡を取った木下が相手が自分より年下と知って安心する場面などはツカミとしては最高だ。
しかし二人の関係を見ていると年下である坪井の方が世間慣れしていてしっかりしてそうだ。
年上の木下はまだ童貞だが、それを恥じている様子もない。
じゃあ女性のアソコを見たことがないのかと聞かれた木下は「あるよ」「姉ちゃんの」と恥じらいもなく答える。
わるんだなあ・・・こういうバカ話。
最初はぎこちない二人で、会話も弾まないし気だるい時間だけが流れていく。
そんな二人は何もない温泉街なので釣りに出かけ、とりとめもない話をしている所へ変な外人が出てくる。
気の弱そうな二人はその外人からヤマメを売りつけられてしまう。
おまけにその外人は自分たちが泊まっている宿屋の主人だったというのだから、これは青春に名を借りた喜劇映画なのかと思えてくる。
その後も描かれる笑いを誘うシーンはいずれもオフビートなもので、思わず笑いがこぼれてしまうという物である。
おそらく男の観客が自分の青春時代を思い出せば、一つや二つは思い当たるふしがあるのではないかと思う。
宿の外人オヤジには持ち込んだウィスキーを飲まれてしまい、露天風呂というのも粗末な風呂で、屋外にあるから露天だと言われてしまうなどの小ネタが次々披露されていく。
彼らは映画製作の志を持っているのだが、僕も映画研究部に在籍していたので彼等の議論の雰囲気に懐かしさを感じて木下、坪井の二人には親近感を持った。
旅館のバーで木下が敦子に語る理屈っぽい言い方などは映画に拘わる若者らしくってくすぐったい。

二人は貧乏旅行で、おまけに気も弱そうで、見ず知らずの人の申し出をいぶかりながらも拒否できない。
喫茶店で居合わせた中年オヤジに誘われるままに家に行き二人きりになってしまう。
時間が過ぎると子供たちが帰宅してきて気まずい雰囲気になる。
その様子がおかしいのだが、どこかにリアリティを感じてしまうので「リアリズムの宿」というタイトルに納得だ。
金も尽きてきて彼らが泊まる最後の宿はひどくて、部屋は汚いし、浴室はもっと汚い。
会社勤めの頃に東京支店にあった独身寮の風呂を思い出した。
出張の仕事が長引き、宿となる寮に引き上げた時には寮の連中は全員が夜の街へ繰出していたので、仕方なく風呂に入ったらゴミが湧き出てきた。
翌朝にひどい風呂だったと告げたら、「お湯を張って入ったんですか?入っちゃダメですよ、シャワーにしとかなきゃ」と言い返されたことを思い出したのだった。
彼らは惨めったらしい宿屋のことを寝床で笑い転げるしかなかったのだが、大家族の家庭の大変さや病人を抱えた苦しい庶民の姿を見たことになる。
彼らは脚本を書き、映画を撮るのだろうが、経験や体験から湧き出てくる発想がいい作品の礎になると思う。
最後に敦子と再会するが、これがなかなかいいシーンで、エンディングも気に入った。

嵐電

2024-03-23 11:43:20 | 映画
「嵐電」 2019年 日本


監督 鈴木卓爾
出演 井浦新 大西礼芳 安部聡子 金井浩人
   窪瀬環 石田健太 福本純里 水上竜士

ストーリー
京都の嵐電の街。
鎌倉からやって来たノンフィクション作家・平岡衛星(井浦新)は、嵐電が走る線路の近くに部屋を借り、嵐電にまつわる不思議な話を集める取材を開始する。
そこには、衛星と妻・斗麻子(安部聡子)が、かつて嵐電の街で経験した出来事を呼び覚ます目的があった。
修学旅行で京都にやって来た青森の女子学生・北門南天(窪瀬環)は、8ミリカメラで嵐電を撮影する地元の少年・有村子午線(石田健太)の姿を目にする。
京菓子のマスコットキャラクターをラッピングした“夕子さん電車”を目撃したカップルは幸せになれる、という都市伝説に導かれるように子午線に恋する南天。
だが、子午線は「俺は“電車”だけや。“電車とか”いう中途半端なものやないねん」と言って南天に目もくれない。
それでも南天は、自身の運命を信じるように、修学旅行の仲間を振り切って、子午線に向かって突き進んでいく。
太秦撮影所近くのカフェで働く小倉嘉子(大西礼芳)は、撮影所にランチを届けた際、俳優に京都弁の指導をする事となる。
その相手は、東京から来た無名の俳優・吉田譜雨(金井浩人)。
台詞の読み合わせを通して初めての演技を経験した嘉子は、譜雨と擬似的な男女関係を演じる中で、自分でも気づかないうちに譜雨に魅かれていく。
“一緒に嵐電に乗って嵐山の河原で台詞の指導をして欲しい”との名目で譜雨が申し出たデートを受け入れる嘉子。
嵐電の街に紛れ込み、出られなくなったかのような三組の男女の恋と愛。
それぞれの運命が、互いに共振するかのように進んで行く……。


寸評
沿線をモチーフにした映画は、阪急電車の今津線を舞台にした「阪急電車」などがあるが、「嵐電」は京福電気鉄道嵐山本線、通称嵐電を舞台としている。
僕は嵐電に乗ったことがあり、その時は嵐山から乗って分岐駅の帷子ノ辻で乗り換えて一方の終点である北野白梅町まで行ったことがある。
目的は学問の神様を祭る北野天満宮への参詣であった。
再び帷子ノ辻まで帰って来て太秦の街を散策したのだが、駅前から続く大映通り商店街には映画でも登場した「キネマ・キッチン」があり僕はそこで「カツライス」を注文した。
大映の看板スターであった勝新太郎と市川雷蔵をもじったメニューである。
大映が健在だったころは俳優さん達でにぎわっていたと思う。

映画は現実と、そうではない幻想であるとか、想像であるとか、思い出であるとかの非現実の世界を行き来しながら三組の物語を描いていく。
一組目は平岡衛星と妻の物語である。
昔二人で訪れた嵐電の思い出を重ねながら、再び昔の感情を取り戻そうという物語で、喫茶店のマスターに語る内容からは二人の間に隙間風が吹いていそうである。
取材旅行でアパートに住み込むような生活で、再会した時にはどこから始めていいか分からなくなるとか言っているが、最後で描かれる姿は仲良く生活しているから、衛星は嵐電取材を通じて吹っ切れるものがあったのだろうか。
ふたりの関係に変化があったのかどうかはわからないので、三つの物語の中では一番あいまいであった[砂本正次1]。
都市伝説を持ち出すための存在であったような気がする。

二組目は、地元の鉄オタの子午線と地方から修学旅行でやってきた南天の物語である。
南天は「夕子さん電車という京菓子のマスコットキャラクターをラッピングした電車を見たカップルは幸せになれる」という都市伝説に従って、子午線にストーカーまがいの積極アタックをかける。
子午線は迷惑とばかりにかたくなに拒絶する。
ところが子午線は8ミリカメラをかざしながら「これで好きなものが撮れると思っていたのに、撮ったものを好きになっていたんです」と衛星に語る。
好きになったものは電車だったと思ったのだが、子午線が撮ったフィルムには南天が写っていて、拒絶していたのに実は子午線も南天が気になっていたと言うことだ。
男の子が好きな女の子にイジワルをすることに通じる感情だろう。
南天が家出して子午線の学校にやってくる展開は突拍子過ぎるが気持ちはわかる。

三組目がメインで他のふたつとは異質な感じがする描き方である。
嘉子と譜雨が出会い、好意を持ちながらも気持ちがすり合わないのは現実味を感じる。
特に嘉子の断り方にはリアリティを感じる。
ひょんなことから嘉子は譜雨と共演することになるのだが、嘉子が嘉子であることと、その嘉子が台本内の女性を演じることの微妙な切り替えがいい。
嘉子は父親が病弱で自分が不在の時間は叔母さんに面倒を見てもらっているようで、叔母と交代して父親の面倒を見る生活を送っている。
自分のことも大事にしなければいけないと言われていて、その事が嘉子と譜雨の物語を膨らませている。
連絡を取ろうとしても携帯番号が途中で終わっているところなど、細かい演出は他のエピソードとは密度が違う。
前の二組は小倉嘉子という女性を描くための存在だったのかもしれない。

キツネとタヌキの都市伝説を絡ませるのが映画的で面白い。
あらゆる場面に嵐電が出てくるので、乗車経験のある僕は駅の風景を見るだけでも楽しくなる。
東映撮影所、映画村も出てきたけれど、松竹京都撮影所は出てこなかった。
[砂本正次1]

ラッシュ/プライドと友情

2024-03-22 07:07:02 | 映画
「ラッシュ/プライドと友情」 2013年 アメリカ / ドイツ / イギリス


監督 ロン・ハワード
出演 クリス・ヘムズワース  ダニエル・ブリュール
   オリヴィア・ワイルド  アレクサンドラ・マリア・ララ
   ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ
   クリスチャン・マッケイ

ストーリー
ジェームズ・ハントとニキ・ラウダは二人ともライバルとしてレースを競っていた。
彼らが所属するのはF3と呼ばれる場所で、F1に昇格するために努力を積み重ねていた。
ニキは裕福な家庭に生まれながらも計算高い性格をしていた。
対するジェームズは豪快な性格で、ライバルの二人はすべてが異なっていた。
ジェームズは持ち前のドライビングテクニックにより、どんどん昇格していき、ついにF1デビューを飾る。
それに対してニキはお金の力で車両をチューンナップし、最高性能で勝負を重ね、彼もF1へと昇進した。
ついにF1で彼らのマッチが開かれ、ニキは圧倒的な技術力の差でジェームズを負かした。
ニキは大会で優勝という成績をもらい、反対にジェームズは傲慢な性格が災いし、オーナーの破産宣告ですべてを失ってしまい大会出場ができなくなってしまう。
しかし、ジェームズはすぐさま新しいオーナーを見つけて復帰を果たした。
ドイツでのF1では、雨の降るなかとても危険と言われるコースでレースが行われようとしていた。
危険を予測したニキは中止を訴えたが、採決の結果はジェームズの主張通り開催となり、それによりニキの車はスリップして大炎上を起こした。
ニキは重傷を負い、レースを諦めた。
その間好敵手がいないジェームズにとってF1は彼の夢実現の場所であり、次々と1位をとっていった。
それを見たニキは、まだ完治していない体を押して日本でのレースに出場する。
日本でもドイツのときと同じ大雨で、ニキは妻の顔を思い浮かべ、レースをリタイアした。
そしてジェームズはまたもや優勝した。
その後ニキはレースから遠ざかり、静かに療養を重ね、ゆったりと過ごしていた。
対してジェームズは豪遊をするばかりで、レーサー引退後は解説者となっていたが、急な心臓発作のために死亡してしまう。
ニキは彼の死を悼みながらも、残りの人生を全うした。


寸評
僕は車がそんなに好きでなく興味もないのだが、レース映画だけは別物だ。
「グランプリ」「「レーサー」「栄光のルマン」などの名作を見てきたが、今回の「ラッシュ/プライドと友情」も中々見応えがあった。
レースの臨場感や迫力は勿論だが、ジェームズ・ハントとニキ・ラウダという宿命のライバルの濃厚なドラマがたまらなくいい。
女好きで明るく天才レーサータイプのジェームズに対し、ニキは真面目タイプのマシーンを熟知して走る頭脳派である。
二人の性格対比が面白い。
伝記映画でもあるから実際の二人も描かれたような性格だったのだろう。
男と男の闘いとして二人の関係は単純で分かりやすい。
ライバル同士の熱いバトルを盛り上げるレースシーンは臨場感たっぷりで迫力満点。
やはりレース映画はレースシーンに迫力がないと興味半減となってしまう。
その点、この映画は上手いカットのつなぎを見せている。
映像処理技術が年々進んでいて、年数を経るたびにレースシーンの迫力は増している。

女好きの派手好きで、アグレッシブな走りを見せるレーサーのジェームズ・ハントが主人公ではあるが、ライバルの冷静で合理主義者のニキ・ラウダも魅力的だ。
ジェームズはレースの重圧で嘔吐しながらも大口をたたく見栄っ張りだ。
結婚相手とは上手くいかず、リチャード・バートンに取られているのだが、失った女への愛と未練を平気な顔をして見せつけない。
ジェームズはそんな男っぷりが格好良く魅力的な人物である。
男の人生はつねに虚勢を張らねばならないものなのだと言われているようである。
一方のニキはよき妻に恵まれ、事故にも負けぬ強靱な精神を持ち、才能も圧倒的でその後も勝ち続け、引退後は事業にも成功したようである。
破滅的なジェームズは魅力的だが、僕のような平凡な男はニキの生き方を選んでしまうだろう。
もっとも、僕にはニキのような才能も才覚もない。

この映画、どっちが勝ったのか、負けたのかをみる作品ではない。
男の生きざまを感じ取る映画だと思う。
その観点から言えば二人ともかっこいいナイス・ガイだった。
1976年の最終戦が富士スピードウェイの日本グランプリなのも親近感が持てたのだが、F1ファンでもなかった僕は当時の興奮を全く知らない。
その世界では凄い年だったことは、遅ればせながら感じ取れた。

ラストレター

2024-03-21 07:38:57 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/9/21は「曽根崎心中」で、以下「その男、凶暴につき」「その土曜日、7時58分」「それでもボクはやってない」「それでも夜は明ける」「ソロモンの偽証 前編・事件」「ソロモンの偽証 後篇・裁判」「ダーティハリー」「ターミネーター」「第三の男」と続きました。

「ラストレター」 2019年 日本


監督 岩井俊二
出演 松たか子 広瀬すず 庵野秀明 森七菜
   小室等 水越けいこ 木内みどり 鈴木慶一
   豊川悦司 中山美穂 神木隆之介 福山雅治

ストーリー
遠野未咲の葬儀の日、娘の鮎美(広瀬すず)は母からの遺書を開封できずにいた。
いとこの颯香(森七菜)は夏休みの間、鮎美の住む祖父母の家で鮎美と一緒に過ごすと言う。
颯香の母・裕里(松たか子)は姉・未咲の高校時代の同窓会に出向く。
マドンナ的存在だった姉に間違われ、その死を言い出せず姉のフリをしたまま会場を後にした裕里に声を掛けてきたのは、かつて憧れていた乙坂鏡史郎(福山雅治)だった。
乙坂の誘いを断り、連絡先だけ交換して帰宅した裕里は、メッセージのやりとりを夫の宗二郎(庵野秀明)に見られ、スマホを壊されてしまう。
その事実を知らせるため、姉のフリをしたまま裕里は乙坂に自分の住所は書かず手紙を送り始めた。
ある日、宗二郎が突然大きな犬を二頭買ってきたが、それは妻・裕里への罰のつもりだった。
困った裕里は一頭を実家に連れていき、そこで鮎美が世話をすることになった。
事の顛末を懐かしい高校の写真とともに手紙で送った裕里に、乙坂は返事を書き実家の住所に送った。
ある日、滞在していた夫の母・昭子(水越けいこ)がいなくなってしまい、裕里が近所を探し回ると、ある老人の家でぎっくり腰になってしまったことがわかった。
その老人は昭子の高校時代の恩師波戸場(小室等)で、昭子は英文の添削を彼に頼んでいた。
裕里は手をケガしている波戸場の代わりに彼の家で、添削した英文を書く作業を始めた。
そしてその家の住所を借りて乙坂に手紙を出した。
一方、実家に届いた乙坂の手紙を読んだ鮎美と颯香は、こちらも未咲のフリをして返事を書き始めた。
書簡のやりとりの中で、かつて転校してきた乙坂(神木隆之介)が生物部に入部し、後輩である遠野裕里(森七菜)の姉未咲(広瀬すず)に一目惚れしたこと、裕里にラブレターを託していたことなどが明らかになる。


寸評
岩井俊二が中国を舞台に撮った「チィファの手紙」とまったく同じ内容で、舞台を日本に置き換えている。
従ってストーリー的な新鮮さはないが、舞台が日本だけに、僕は本作の方がしっくりきた。
同監督の「Love Letter」と同一線上にある作品として、僕は懐かしさを感じながら見ることができた作品である。
高校生の時代に乙坂鏡史郎に恋した裕里は岸辺野宗二郎と結婚し、颯香と瑛斗という一女一男がいる母親となり、今は幸せな生活を送っているようである。
作中における夫の影は薄いが、妻に焼きもちを焼く可愛げのある夫であるようだ。
夫に対する特別な不満もなさそうな平凡な主婦として松たか子の演技はこの作品を楽しいものにしている。
若い頃の未咲と裕里、現在の鮎美と颯香を演じる広瀬すずと森七菜もなかなかいい。
一方の主人公は乙坂鏡史郎で、現在を 福山雅治、高校時代を神木隆之介が演じているが、男性陣に比べれば女性陣の存在が輝いている。

「Love Letter」の豊川悦司と中山美穂がこんな形で登場してくるのかという感じなのだが、豊川演じる阿藤が乙坂鏡史郎に言う「結局お前は未咲の人生に何の影響も与えなかったのだ」は強烈だ。
松たか子が言う「誰かに思い続けられていれば、亡くなった人もずっと生き続けているんじゃないですか」に対抗する言葉だったと思う。
思い続けているだけではダメなんだなあ。
どんなに想いを募らせていても、何もできないんじゃ相手は誰かと結婚して、幸せだろうが不幸せだろうがその人はその人の人生を歩んでいくだけなのだ。
青春の恋の残酷さだ。

裕里の義理の母(水越けいこ)は学生時代の教師であった波止場正三(小室等)に英語の添削をしてもらっていて、ぎっくり腰になったことから手紙で英文の添削をしてもらうことになる。
これは裕里が鏡史郎と手紙のやり取りを行う裏返しでもある。
義母も学生時代に先生に恋心を抱いていたのかもしれない。
同窓会帰りの義母が「初恋の人に会ったのか」と息子に聞かれ、「そんな人はいないわよ」と照れ笑いをするのは、伏線だったように思う。
この老先生、裕里をかつて恋していた鏡史郎が訪ねてきた時に、「誰かに見られたらまずいだろ、私は散歩に出かけてくる」と言って我が家を二人に明け渡す。
なかなか気の利いた老人で、僕もそれぐらいの気持ちが持てる老人になりたいものだ。
物語は裕里と子供たちが美咲に成り代わって手紙を書くことによって起きる、時代を超えた恋愛模様を描いたものなのだが、現在から過去の恋愛を掘り起こすのは「Love Letter」と同じ手法である。
岩井俊二は若い頃の恋を回想するのが好きなのだなあと思うけれど、初恋はその思いが強ければ強いほど思い出したくなるものだと思う。
ところで美咲が所有していた「美咲」という小説は、美咲も何度も読んだだろうし、鮎美もそらんじているぐらいだから何度も読んだに違いないと想像するのだが、だとすればカバーは傷んでいてもいいはずだし、手垢で黒くなっていてもいいはずなのに、出てくる本がすべてピカピカの新本だったことが何故だかすごく気になった。

楽園

2024-03-20 07:18:23 | 映画
「楽園」 2019年 日本


監督 瀬々敬久
出演 綾野剛 杉咲花 佐藤浩市 村上虹郎
   片岡礼子 黒沢あすか 根岸季衣 石橋静河
   柄本明 大西信満 大島葉子

ストーリー
田園が広がるとある地方都市。
ある日、地域の顔役である藤木五郎(柄本明)の孫娘・愛華がY字路でこつ然と姿を消す事件が起きる。
必死の捜索もむなしく、愛華が発見されることはなかった。
それから12年後、愛華の親友でY字路で別れる直前まで一緒だった湯川紡(杉咲花)は、いまだに罪悪感を拭えずにいた。
紡と共に地元に残った同級生で幼馴染の野上広呂(村上虹郎)は紡に想いを寄せていたが、彼女はその気持ちに応えようとはしない。
祭りの日、紡は縁日で移動リサイクルショップを出すという豪士(綾野剛)を神楽に誘う。
ところがその時、愛華が行方不明になったあのY字路で学校帰りの女児小学生が行方不明になったとの知らせが入り、村人たちは豪士が女児を誘拐したのではと疑い、更には12年前の愛華の事件も豪士の仕業だと疑う。
村人たちは五郎を筆頭に豪士が暮らす町営住宅になだれ込み、その場に戻ってきた豪士は異様な光景に、かつて自分たち親子がいわれなき差別と迫害を受けていた過去がフラッシュバックしてこの場から逃げ出す。
その頃、神社では神楽が始まっていて、紡は広呂にキスを迫られたが、たまたま愛犬を連れて通りがかった養蜂家の田中善次郎(佐藤浩市)に助けられた。
その時、逃げ回っていた豪士は近くの飲食店に逃げ込み、身体に灯油を被ると自らの身体に火をつけた。
その翌年、紡は村を離れて東京に移り住み、青果市場で働いていた。
やがて広呂も村の閉塞感から逃れるように紡を追って上京、同じ青果市場で働き始めた。
紡はようやく広呂と腹を割って話し合えるようになったが、実は広呂の身体は病魔に蝕まれていた。
善次郎は妻・紀子(石橋静河)に先立たれてからは愛犬だけが心の支えになっていた。
ある日、善次郎は村の寄り合いの席で、世話役のひとりの娘・黒塚久子(片岡礼子)と出会う。


寸評
かつて北朝鮮が地上の楽園と喧伝されて多くの日本人が海を渡っていったが、現実の北朝鮮は食糧難にあえぐ独裁国家で、楽園とは程遠い国であることは承知の通りである。
日本は難民を多く受け入れている国ではないが、それでも日本を楽園と思ってやってきている外国人は多い。
彼らにとって思った通りの楽園になりえているかは疑問であるが、ここで描かれた元カンボジア難民の中村母子にとっては楽園ではなかったはずだ。
閉鎖的な村で彼らは部外者として差別を受け迫害されている。
映画は「罪」、「罰」、「人」のパートで描かれるが、内容的には2つの独立した話のような展開である。
先ず愛華という女児誘拐事件を通じて疑心暗鬼や集団心理の狂気が描かれる。
それが最も顕著になるのが2度目の事件の時だ。
村人の一人が、前回の捜索時に豪士によってランドセルが見つかった場所と反対側へ導かれたと言い、今回の犯人も前回同様に豪士に違いないと叫んだために、村人たちは豪士の家に押し掛ける。
その男は12年間、口には出していなかったが豪士のことを疑いの目で見ていたことになる。
一度疑いの目を向けられてしまうと、それが払拭されない怖さだ。
動き出した村人の行動を誰も止めることが出来ず、他人の家を破戒するがのごとくに滅茶苦茶にする。
追い詰められた豪士は焼身自殺するが、孫娘を誘拐されていた五郎は「誰かのせいにしないと割り切れない。誰かを犯人にすることでけじめがつけられる」との論理で、豪士を犯人と決めつける。
集団暴徒化した村人たちも同じような気持ちになってしまっている。
無意識のうちに村人たちが同化してしまうという集団心理の恐さでもある。

村と言う閉鎖社会で運命共同体の様に生活している村人たちの身勝手な行動が示されるのが善次郎にかかわる物語である。
善次郎はUターン組で、高齢者の多い村で村民の為に奉仕し、当初は村人から感謝されている。
彼のやっている養蜂業を村をあげてやることにも賛成していたのだが、村の長老たちは善次郎が自分達に報告せずに役場と交渉したことで不機嫌になってしまう。
会社に於いて、「俺は聞いていない」と古参幹部がむくれる構図と同じだ。
描かれるのは、閉鎖的な集落の陰湿さである。
誹謗中傷の類の噂話が飛び交い、嫌がらせがエスカレートしていき村八分となっていく。
村人たちは自分が村八分になることを恐れて、こちらにおいても村人全体が同化していくという怖さがある。

紡のパートになって、回想を挟みつつ事件の真相が明かされるのだが、真相と言っても明言されていない。
真相はあくまで紡の中での「真実」である。
紡は都会の雑踏の中で「アイカ」と呼ばれた女性と見つめ合う。
アイカは愛華なのか、愛華は殺されてなどいなかったのか。
紡が抱えた罪は最初から存在しなかったのか。
結局、12年前の事件の犯人は明言されないまま終わってしまうのだが、この観客の不完全燃焼感が五郎の抱える行き場のない怒りとリンクしているという描き方がバツグンだ。

ラウンド・ミッドナイト

2024-03-19 06:45:23 | 映画
「ら」行です。

「ラウンド・ミッドナイト」 1986年 アメリカ


監督 ベルトラン・タヴェルニエ
出演 デクスター・ゴードン  フランソワ・クリュゼ
   マーティン・スコセッシ ハービー・ハンコック
   ロネット・マッキー   ボビー・ハッチャーソン
   ビリー・ヒギンズ    ウェイン・ショーター

ストーリー
パリ、1959年。
アメリカのテナー・サックス奏者デイル・ターナーがクラブ、ブルーノートに出演するためにやって来た。
盛りを過ぎたとはいえ長年、サックスの巨人として君臨してきたデイルの来仏は、パリのジャズ・ファンの心をときめかし、デイルを迎えたのはクラブの音楽監督でピアニストのエディ・ウェインやヴァイブのエースといった気心の知れた仲間たち、それにクラブのオーナー、ベンらであった。
クラブは久々に大物の来場で湧き返り、その音をクラブの外で雨にうたれながらじっと聴いている若者がいた。
貧しいグラフィック・デザイナーのフランシス・ボリエで、彼はみすばらしいアパートで待っていた9歳の娘ベランジェールにその感激を語って聞かせた。「彼は神のように素晴らしかった!」
フランシスは妻と別れ、男手ひとつで娘を育てていたのだ。
やがてデイルとフランシスは意気投合--英語が分からないベランジェールもデイルに親しんだ。
フランシスはデイルを家に引き取り面倒を見ることにしたが、数ヵ月後、ついに別れの時がやって来た。


寸評
実在のサックス・プレイヤーであるデクスター・ゴードンが架空のプレイヤーを演じるジャズ映画であるが、デイル・ターナーが実在の人物で、彼の伝記映画かと思わせる雰囲気がある。
名前は聞いたことがあるクラブのブルーノートでの演奏シーンが何とも言えない。
たぶんセットだと思うが、ブルーノートの雰囲気はこんなだろうと思わせるような空気感と演奏者と客の表情がたまらなくいい。
造詣は深くはないがジャズ好きの僕としては、もっとじっくりブルーノートの演奏シーンを見たかった(いや、聞きたかった)。

フランシスの行為は親切とか友情とかのレベルを超えて献身と呼べるものである。
グラフィック・デザイナーのフランシスはサックスの巨人デイルを崇拝しているが、その入れ込みようは尋常ではなく、離婚原因はその事にあるのではないかと思わせる。
しかも、その事にフランシス自身は気がついていない。
別れた妻がレコーディング・スタジオを訪ねてきて、ちょっといい雰囲気になるのだが演奏が始まるや否やフランシスは彼女をそっちのけで演奏に聞き入ってしまう。
別れた妻は怒ったようにして出ていてしまうシーンがそう思わせる。
そこで打ち切って観客に想像させていると思うのだが、それはデイルの娘が川べりを歩くシーンでも同様だ。
デイルの死がフランシスに伝えられるのはその後だが、娘のチャオはその前に知らされていたのだろう。
デイルと娘の疎遠な関係が事前に描かれているので、印象的なシーンとなっている。
ほとんど夜か曇天の世界で描かれているが、日が射す海辺を少女と遊ぶシーンもまた印象的なシーンだ。

シングル・ファーザーのフランシスは一人娘のベランジェールと暮している。
裕福ではないがお互いの愛情で満たされた家庭だ。
ベランジェールの誕生日に祖父母の家をデイルを伴って訪問し誕生会を開く。
そこはデイルの住む世界とは違うごく普通の庶民の世界だ。
デイルの居る世界は芸術家の世界である。
庶民と芸術家の中間的なグラフィック・デザイナーのフランシスは献身的な態度で、芸術家であるデイルとの間に信頼関係を築いていく。
そのほのぼのとした雰囲気で映画は統一されている。
もしかするとジャズが好きでない人には耐えられない映画なのかもしれない。
デクスター・ゴードンがとてもいい雰囲気を出していて、動作はオランウータンの様にゆったりとしている。
表情はほとんど変化がなくゆっくりと歩く。
それでもアル中気味の彼が酒をやめると決意するあたりはジーンとしてしまう。
やめると何回も言っていたと言われ「約束していなかった」と返事する。
約束した今回もフランシスは信用せず、金を持って出たデイルの後をつけるのだが、そこでオレンジジュースを頼むなんて泣かせるじゃないか。
スコセッシが出てきたのには驚いたが、僕にはD・ゴードンとブルーノートの雰囲気が生み出した映画だった。


四畳半襖の裏張り

2024-03-18 07:37:50 | 映画
「四畳半襖の裏張り」 1973年 日本


監督 神代辰巳
出演 宮下順子 江角英明 山谷初男 丘奈保美
   絵沢萠子 芹明香 東まみ 粟津號 吉野あい

ストーリー
日本全国で米騒動が頻発する大正中期、東京・山の手の花街の夏。
料亭“梅ヶ枝”では、おかみが芸者・袖子を待ちかねていた。
客の信介は、三十歳半ばのちょっとした役者風のいい男で、世の中は米騒動で騒々しい最中なのに遊びに興じようという根っからの遊び人である。
座敷に通された信介は、袖子の恥かしそうな仕草がもどかしい。
信介が上になって布団をはがそうとすると「初めてですもの、恥かしい」と電気スタンドの明りを暗くする袖子……。
外では号外の音が鳴り、騒がしい。
置家、“花の家”では、芸者の花枝と花丸がすっかり仕度を整え、あてのない客を待っていた。
一方、信介の動きがだんだん激しくなるが、袖子は半分お義理である。
そのうち信介が横になると袖子も仕方なしに横になる。
やがて、袖子の鼻息も次第に荒くなり、夜具は乱れ、枕はきしみ、伊達巻も徐々に乱れてくる。
そして、信介の動きにつれて、袖子はもう気が遠くなりかけていた。
袖子は初めの様子とはうって変り、次第に激しさも加わり、枕がはずれても直そうとせず身悶えるのだった。
そんな袖子の乱れる反応を、信介は反り身になって見つめていた。
やがて、信介は袖子の様子を見ながら、じっと辛棒していたが、袖子が「あれ! どうぞ」と髪が乱れるのにもかまわず泣きじゃくるのにとうとう我慢ができなくなり、袖子におおいかぶさっていった……。
そして、二人は一息入れた後、二度、三度と頂点を極めるのだった。


寸評
宮下順子はロマンポルノ女優の代表格の一人であり、彼女の出演作の中ではこの「四畳半襖の裏張り」と1979年の「赫い髪の女」は傑作である。
随分と長い間ロマンポルノを支え続け、ロマンポルノが終了してからは一般映画にも随分出演している女優だが、僕は日活ロマンポルノにおける彼女のイメージが強く残っている。
「四畳半襖の裏張り」は大正時代の置屋で働く芸者たちを描いているが、中でも芸者・袖子の宮下順子と遊び人・信介の江角英明が濃厚な絡みを見せる。
ロシア十一月革命(大正6年)、富山の米騒動(大正7年)、大日本帝国からの独立運動である万歳事件(大正8年3月1日)などが号外などを通じて登場させ、大正時代の雰囲気を生み出している
画面に「初回の客に気をやるな」の文字が出て、それにかぶさるように女将が「初回の客に気をやるなんて恥もいいとこだよ」と言う。
画面に「男は顔じゃない。男の顔はお金」の文字が出ると、それにかぶさるように女将が「男の顔のいいのって誠がない。そんなものにだまされるのは下の下だよ。お金だよ」という。
しかしちょっといい男の信介と初めて床を共にした袖子はセックスに溺れていく。
馴染み客で通うよりと結婚してしまう仲である。
結婚してもそっちの遊び心は衰えを見せず、林の中でもやるし、真昼間でもお構いなしで、信介と袖子はセックスに関しては息が合う二人なのだ。

置屋には花枝というベテラン芸者が17歳の芸者を指導する場面も面白い。
お座敷芸としてストリップをやりコインを吸い込んで吐き出す場面も滑稽だ。
僕は芸者遊びをしたことがないのだが、今でもこのようなお座敷芸をやっているのだろうか。
大正時代の置屋ではそのような遊びがあったのかもしれない。
粟津號の兵隊が幼なじみの芸者といつも短時間でことを済ませて兵舎に戻っていく。
世の中は物騒な様相を呈しているが、遊び人たちはそんなことを気にせず色ごとに熱心である。
それが人間の本能であるかのごとしである。
これだけの作品を撮られるとピンク映画は歯が立たない。
神代辰巳と宮下順子のコンビではこれが一番であろう。

夢売るふたり

2024-03-17 07:57:45 | 映画
「夢売るふたり」 2012年 日本


監督 西川美和
出演 松たか子 阿部サダヲ 田中麗奈 鈴木砂羽 安藤玉恵
   江原由夏 木村多江 やべきょうすけ 伊勢谷友介
   古舘寛治 小林勝也 香川照之 笑福亭鶴瓶

ストーリー
東京の片隅にある小料理屋。
この店を営むのは、愛嬌たっぷりな人柄に加え、確かな腕を持つ料理人の貫也(阿部サダヲ)と、彼を支えながら店を切り盛りする妻の里子(松たか子)。
2人の店は小さいながらも、いつも常連客で賑わっていた。
ところが5周年を迎えた日、調理場からの失火が原因で店は全焼。
夫婦はすべてを失ってしまう。
もう一度やり直せばいいと前向きな里子とは対照的に、やる気を無くした貫也は働きもせず酒に溺れる日々。
そんなある日、貫也は駅のホームで店の常連客だった玲子(鈴木砂羽)に再会する。
酔っ払った勢いに任せて、玲子と一夜を共にした貫也。
翌朝、浮気はすぐに里子にバレてしまうが、里子はその出来事をキッカケに、夫を女たちの心の隙間に忍び込ませて金を騙し取る結婚詐欺を思いつく。
自分たちの店を持つという夢を目指し、夫婦は共謀して次々と女たちを騙し始める。
実家暮らしで結婚願望を持つOLの咲月(田中麗奈)、男運が悪い風俗嬢の紀代(安藤玉恵)、孤独なウエイトリフティング選手のひとみ(江原由夏)、幼い息子を抱えたシングルマザーの滝子(木村多江)……。
計画は順調に進み、徐々に金は貯まっていく。
しかし、嘘の繰り返しはやがて、女たちとの間に、そして夫婦の間にさえも、さざ波を立て始めていく……。


寸評
結婚詐欺の被害者となるのは、いずれも心に空洞を抱えた女たちで、描き方に濃淡はあるものの、彼女たちの寂しさ、悲しさ、つらさなどが伝わってくるが、見終わった素直な感想は「女はこわい」という思いだった。
誰がコワイのかと言えば、言うまでもなく松たか子が演じる里子だ。
この映画で見せる松たか子の瞬時に見せる微妙な表情の変化はこわい。
献身的な妻から悪女へと変貌した妻の怨念映画とも見て取れる。
僕は、いざとなったら女の方が度胸がすわるのを、身の回りで起きたさる出来ごとの中で見てとったことがある。

最初はひとつの目的に向かって突き進んでいたものの、やがて2人の間にすきま風が吹き始める描き方も、夫婦間に微妙な距離感を維持しながら描いていて、僕はこのあたりの演出に好感を持つのだ。
妻の指導のもとに女をものにしていく夫は人がよい。
人が良いだけに多分、それぞれの女に性的にも誠心誠意尽くしているのだと想像させる。
その結果として夫婦はセックスレスに陥っていくが、その表現として里子に自慰行為をさせ、妊娠がないこととして里子に生理パンツを履かせている。
松たか子にこれをさせているのもスゴイし、松たか子も一瞬ヘアを見せる体当たり演技だ。

夫である貫也は妻の復讐の様なものを感じて逃げ出そうとしていると思われる。
「妻から逃げ出すには強盗でもするしかない」と途中でつぶやかせているのはその伏線だったと思う。
そして最後に見上げた貫也の目に映ったカモメは不自由な身になりながらも精神的自由になった貫也自身の姿でもあったと思うのだ。
その実、妻に牛耳られている亭主が、底知れず再び自由を取り戻す願望を実は持っているのだ。
気をつけなされよ世の奥様方・・・といった危ない主張を感じ取ったのは男目線のためか、うがった見方のためだったのだろうか?
もっとも妻は浮気した夫への復讐の念を執念深く持ち続けているのですよ。
気をつけなされよ世の殿方・・・とも感じ取れはするのだが。

挿入される地下鉄のトンネルのライトや、エスカレータに反射する青い光などのシュールな映像が映画に冷たさを感じさせ、この意味のないワンカットの映像はカメラマンというより西川監督の感性かと思わせる。
お風呂は体の汚れを落とし、何も考えないホッとする場所だが、作品中に度々登場するお風呂のシーンは転機になる場面だったり、何かを決意する場面だったりして大きな転換点のモチーフになっていたように思う。
ラストはかなり粗っぽいとは思うけれど、それでも人間模様の悲喜こもごもが面白く描かれている。
西川監督の人間観察の執拗さがうかがわれた。
西川監督って生きていく中で発生するウソが引き起こす人間関係の綾のようなものに興味を持たれているのだろうか?  「ゆれる」にも「ディア・ドクター」にもそのようなものを感じたのだが・・・
西川監督がテレビのインタビュー番組で「監督は誰だか知らないけれど、この映画は知っているという作品を撮りたい」とおっしゃっていたのを見たことがあるが、この作品は間違いなく西川美和監督作品の「夢売るふたり」であった(「夢見るふたり」であったかもしれないが)。