おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

裏窓

2019-01-31 07:12:26 | 映画
「裏窓」 1954年 アメリカ


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 ジェームズ・スチュワート
   グレイス・ケリー
   レイモンド・バー
   セルマ・リッター
   ウェンデル・コーリイ

ストーリー
ニューヨークのダウン・タウン、グリニッチ・ヴィレッジのあるアパートの一室、雑誌社のカメラマン、ジェフは足を骨折して椅子にかけたまま療養中なので、つれづれなるままに窓から中庭の向こうのアパートの様子を望遠鏡で眺めて退屈をしのいでいた。
胸が自慢の女、新婚の男女、ピアノに向かって苦吟している作曲家、犬を飼っている夫婦者などが見える。
そのうち病気で寝たきりの妻と2人暮らしのセールスマン、ラース・ソーウォルドが荷物を送り出した翌日から、妻の姿が見えなくなった。
ジェフは注意して彼の動静を観察し、妻を殺して死体をトランクに詰め、どこかへ送ったものと確信した。
この調査には恋人のリザや看護婦のステラにも一役買ってもらった。
リザは早速調査を始めたが確証がつかめないので、ジェフがいい加減のことを言っているのではないかと思うようになった。
やがてソーウォルドは自分が疑われていることに気づき、ジェフが警察に密告したことを知って殺意を抱いた。
ジェフが1人で部屋にいるとき、ソーウォルドが襲ってきて体の自由のきかぬジェフを窓からつき落とそうとした。
こうして意外なクライマックスが展開、事件の謎がとけるのである。

寸評
カメラアングルはジェフの部屋の様子を除いて、ジェフの部屋から見える景色がほとんどで、退屈しのぎにジェフが窓の外を眺めていることがよくわかる。
建物はセットなのだが凝っているのは、わずかに見える通りの様子が細やかに描かれていることである。
走る車、遊ぶ子供、通り過ぎる人々が一瞬の点描として写し込まれている。
向かいのアパートの窓を通して見える部屋で生活する人たちの姿も描かれるが、時としてパントマイム的で観客は住人たちの様子を想像することになる。
観客がジェフと同じ立場になって想像するという作り方がこの映画の最大の魅力となっている。
したがってアパートの住人たちの様子は上手く描かれているし、演じた俳優たちの演技も評価される。
ジェフの目線なので大抵が遠景での演技だ。
複数の部屋が同時に写るシーンもあって、それぞれをシンクロさせる苦労があったのではないかと想像できる。

それぞれの部屋の住人のキャラクターも、寸描しているだけなのに想像できるような描き方をしていて上手い。
作曲家は新曲に苦しんでいたようだが、やがていい曲を完成させたことが判る。
ミセス・ロンリーと名付けた夫人は孤独に耐えかねて一人芝居をしている。
ミス・グラマーは男性を次々引っ張り込んでいるが、案外と身持ちは固くフィットネスに余念がない。
新婚夫婦は新婦の方が積極的な様で、新郎は彼女の呼び声に辟易してきている模様。
老夫婦はベランダで寝そべっている呑気な人たちだが、彼らが可愛がっていた犬が事件を進展させる。
やがて病気の妻を看病している男が殺人事件を引き起こしたらしいことが推測されるようになる。
その間に、ジェフとリザの煮え切らない関係が甘ったるく描かれ、ラブロマンスの雰囲気も出てくる。
ジェフ達に新婚夫婦をだぶらせ、自殺を試みたミセス・ロンリーが作曲家の奏でるピアノを聞いて思いとどまるなど副次的な物語も散りばめていて楽しめる。

楽しめるのは物語だけでなく、グレース・ケリーその人の美貌と彼女のファッションだ。
ジェフはそんなに裕福ではなさそうだが、リザはかなり裕福そうなことが分かる。
運び込んだ料理の豪華さで彼等の所得格差を面白おかしく表していた。
グレース・ケリーの様なエレガンスさを持った女優は今はいなくなってしまった。

主人公のジェフはカメラマンなのでカメラを効果的に使っている。
先ずは双眼鏡と共に使用される望遠レンズだ。
極めつけは暗闇の中で使用されるストロボだ。
住人たちが見ているの目の前でジェフを突き落とそうとするのは簡単過ぎると思うけれど、全体的にはよくできた脚本だと思う。
ジェームズ・スチュアート、グレース・ケリーという見るからに善良そうな二人が主人公だけに、非常に健康的なサスペンス劇となっていた。
ヒッチコックの作品群の中でも上位にあげて良い作品だ。

裏切りのサーカス

2019-01-30 10:02:04 | 映画
「裏切りのサーカス」 2011年 イギリス/フランス/ドイツ


監督 トーマス・アルフレッドソン
出演 ゲイリー・オールドマン コリン・ファース
   トム・ハーディ トビー・ジョーンズ
   マーク・ストロング ベネディクト・カンバーバッチ
   キアラン・ハインズ キャシー・バーク
   デヴィッド・デンシック スティーヴン・グレアム
   ジョン・ハート サイモン・マクバーニー

ストーリー
東西冷戦下、英国情報局秘密情報部MI6とソ連国家保安委員会KGBは熾烈な情報戦を繰り広げていた。
そんな中、英国諜報部<サーカス>のリーダー、コントロール(ジョン・ハート)は、組織幹部の中に長年にわたり潜り込んでいるソ連の二重スパイ<もぐら>の存在の情報を掴む。
ハンガリーの将軍が<もぐら>の名前と引き換えに亡命を要求。
コントロールは独断で、工作員ジム・プリドー(マーク・ストロング)をブダペストに送り込むが、ジムが撃たれて作戦は失敗に終わる。
責任を問われたコントロールは長年の右腕だった老スパイ、ジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)と共に組織を去ることとなる。
直後にコントロールは謎の死を遂げ、レイコン次官(サイモン・マクバーニー)から引退したスマイリーのもとに<もぐら>を捜し出せという新たな命が下る。
標的は組織幹部である“ティンカー”ことパーシー・アレリン(トビ―・ジョーンズ)、“テイラー”ことビル・ヘイドン(コリン・ファース)、“ソルジャー”ことロイ・ブランド(キアラン・ハインズ)、“プアマン”ことトビー・エスタヘイス(デヴィッド・デンシック)の4人。
過去の記憶を遡り、証言を集め、容疑者を洗いあげていくスマイリー。
浮かび上がるソ連の深部情報ソース<ウィッチクラフト>、そしてかつての宿敵・ソ連のスパイ、カーラの影。
やがてスマイリーが見い出す意外な裏切り者の正体とは……。

寸評
制作国はイギリス、フランス、ドイツなのだが舞台が英国情報局秘密情報部MI6なのでイギリス色が強い。
イギリス発のスパイ映画と言えば007シリーズを思い浮かべてしまい、派手な銃撃戦に、最新鋭の武器、華麗な立ち回りと美女たちがイメージとして浮かんでくる。
だが、実際のスパイというのは、予想はしていたがずいぶんと地味で勤勉な人たちなのだだと思い知らされる。
神経をすり減らす情報戦の中、登場人物の誰もが疲労感たっぷりなのが雰囲気を出していた。
同じイギリス諜報部のドラマでも「007」とは対極にあり、派手なアクションも銃撃戦もないにも関わらず息詰まるようなスリリングなドラマが展開される。
特にスパイ同士の虚々実々の心理戦が、リアルに描かれて見応え十分
キーとなる登場人物は大勢いるので、彼等の相関関係を理解するのに一苦労するのだが、そのこともまた雰囲気作りに一役買っていて最後まで飽きずに観られた。

ハンガリーのブタペストに秘密裏に派遣されたジム・プリドーが、敵の謀略により射殺される冒頭シーンの緊張感などにはしびれてしまう。
ブリドーはカフェのアウトドアテーブルで男と向き合っている。
乳飲み子を抱いた女性がいて静かな雰囲気だが、ウェイターの流した冷や汗がテーブルに滴る。
そのことで観客はブリドーが敵の情報部員に取り囲まれていることを知る。
偶然2階の窓を開けて通りを覗きこんだ老婆がただならぬ表情をしていることで普段とは違うことが暗示される。
ブリドーは危険を察知しその場を去ろうとしたところ、ウェイターが飛び出し発砲第一射で乳飲み子を抱えた女性の頭部に誤射してしまい、その後にブリドーは撃たれ石畳に血が流れだす。
一気に描くこの場面はタイトルバックが出る前の名シーンだ。

主人公スマイリーを演じたゲイリー・オールドマンがすこぶるいい。
スマイリーは冷静な洞察力と静かな行動力で二重スパイを洗い出す内向的な老スパイで、見る者を魅了する。
妻の浮気により別居しているのだが、回想シーンで妻がほかの男と抱き合っているのを目撃し動揺する姿を見せるシーンがくどくないのがいい。
スマイリーのメガネは黒縁だが、回想シーンではべっ甲柄となっていて、過去と現在が入り組んだ映像に僕たちが戸惑わない配慮としている。
コントロールとスマイリーはサーカスを追われるが、その後ろ姿にトビー・エスタヘイスが「バイバイ」とやり、ビル・ヘイドンが「ひどいやつだ」と諌めるのは、”もぐら”の存在を含めサーカス内部のゆがんだ人間関係を暗示していたと思う(エスタヘイスの二重人格は予想通り公判で暴かれる)。

スパイ同士の虚々実々の心理戦がリアルに描かれて見応え十分で、途中でスマイリーに命じられてピーターが資料を盗み出すあたりのスリリングさも特筆ものだ。
後半に進むにつれてスリリングさはさらに加速し、ある事実が明らかになると、また新たな疑惑が浮上し、誰が犯人なのかまったくわからなくなり、凍てつくような映像によって全体を異様な緊迫感が包む。
二重スパイを描いただけにかなり入り組んでいるのだが、雰囲気で押しまくる演出が素晴らしい。

海を飛ぶ夢

2019-01-29 09:15:05 | 映画
「海を飛ぶ夢」 2004年 スペイン


監督 アレハンドロ・アメナーバル
出演 ハビエル・バルデム ベレン・ルエダ
   ロラ・ドゥエニャス クララ・セグラ
   マベル・リベラ セルソ・ブガーリョ
   タマル・ノバス ジョアン・ダルマウ
   フランセスク・ガリード

ストーリー
ノルウェー船のクルーとして、世界中を旅して回ったラモン・サンペドロは25歳の夏、岩場から海へのダイブに失敗して頭を強打し、首から下が不随の身となってしまい、それ以来、実家のベッドで寝たきりの生活に。
農場で懸命に働く兄のホセ、母親のような愛情でラモンに接するホセの妻マヌエラなど、家族は献身的にラモンの世話をしている。
だが事故から26年目を迎えた時、ラモンは自らの選択で人生に終止符を打ちたいという希望を出した。
最初にラモンが接触したのは、尊厳死を法的に支援する団体のジュネという女性。
ラモンの決断を重く受け止めた彼女は、彼の死を合法化するために女性弁護士フリアの援助を仰ぐ。
実はフリアは2年前に不治の病を宣告されており、ラモンの人柄と明晰さに感銘を受ける。
またもう一人、テレビのドキュメンタリーを観てラモンに会いにやってきた子持ちの女性、ロサも、最初はラモンと揉めたが、やがて彼の元をたびたび訪れるようになった。
そうして尊厳死を求める闘いの準備を進める中、フリアが発作で倒れてしまう。
やがてフリアが回復し、ラモンの家に戻ってきた時、深い絆を感じた2人は口づけを交わし、フリアは自分が植物状態になる前に一緒に命を絶とうという提案をする。
約束の日はラモンの著作の初版が出版される日と決めていたが、フリアは夫の説得によって死の決意を翻してしまった。
そしてラモンは、結局ロサの助けを借りて、海の見える彼女の部屋で尊厳死を選ぶ。
一方フリアは、痴呆症の進行によって、ラモンの記憶を失くしてしまうのだった。

寸評
尊厳死という重いテーマをメインに据えているが、尊厳死は是か非かといった迫り方ではなく、一人の男の人生を切り取った人間ドラマとして描いている。
したがって、安易な感傷に流されることなく、また安易な結論に流されることなく描ききっている。
主人公が次第に生きる希望を見出していくといったストーリーが予想される内容だが、そうは単純に結論付けていなくて、尊厳死というテーマを真正面に据えた撮り方はしていない。
そうなっているのは、彼に共感していく担当弁護士のフリアと、テレビで彼を見て死を思いとどまらせようとするロサという2人の女性との関係が有ったからだと思う。
時に嫉妬を感じさせ、時にユーモラスなシーンを描きながら二人の女性との関係も丁寧に描いていく。
その丁寧さが、ともすると重くなってしまいがちな内容を明るく感じさせていた。
特に主人公ラモンのキャラクターが独特で、明るく元気なのがいい。
これで、どうして尊厳死を考えているのかと思わせる設定で、首から上しか演技しないハビエル・バルデムの熱演が光る。

同じように下半身不随の神父が出てきて生きることの重要性を説教するが、ラモンは受け入れない。
見ている僕はこの神父に宗教家のうさん臭さを感じ取ってしまった。
ラモンが死を選択している精神は宗教家をも超えているのだ。
当事者ラモンの気持ちがどうであれ、四肢を麻痺している肉親を抱えた家族は大変だ。
テレビでラモンが死を望むのは家族の愛情がないからだと報道され憤慨する。
しかし、精一杯の面倒を見ているが、どこかに自分たちはラモンの奴隷だという気持ちもある。
と言いながらも、肉親として自殺をほう助する気持ちにはとてもなれない。
病気の重さに関係なく、病人を抱えた家族は大変なのだと思わされる。

ラモンはじぶんを愛する人とは、自分を助けてくれる人だという。
自分を助ける人というのは、自分の死を手助けしてくれる人のことで、この逆説的な思いがロサにのしかかり面白い展開を見せる。
雰囲気、教養、美貌、ラモンへの理解のどれをとってもフリアの方に肩入れしてしまうが、最後にロサが選ばれる展開は唐突のようでありながら納得させられる。
弁護士のフリアがやはり尊厳死を望むような状態になってしまうが、一方は死を、一方は生を選択する構成も巧みだし、生を選んだフリアのその後の姿をみせて尊厳死の是非を観客の選択に任せている。
尊厳死を支援する団体のメンバーであるジュネの出産シーンを挟むことで生の素晴らしさを訴え、さらにジュネは決断したラモンに「流れで死を選んではいけない」というような主張と矛盾する意見を述べている。
監督のアレハンドロ・アメナーバルは尊厳死に対して賛成とも反対とも態度を表明しない撮り方を徹底している。
主人公の意識の高さを感じさせるとともに、生きることの素晴らしさを訴えているようにも思える映像が続き、一貫して続く静かな進行はまるで文学作品を読んでいるように感じさせる映画で、劇場を出るときはちょっとした充実感があった。

海よりもまだ深く

2019-01-28 09:15:33 | 映画
「海よりもまだ深く」 2016年 日本


監督 是枝裕和
出演 阿部寛 真木よう子 小林聡美
   リリー・フランキー 池松壮亮
   吉澤太陽 中村ゆり 高橋和也
   小澤征悦 峯村リエ 松岡依都美
   古舘寛治 橋爪功  樹木希林

ストーリー
母・淑子(樹木希林)は苦労させられた夫を突然の病で亡くしてからは、団地で気楽な独り暮らしをしている。
15年前に文学賞を一度獲ったきりで売れない自称作家となっている長男の良多(阿部寛)は小説のリサーチと称して今は山辺(リリー・フランキー)の興信所に勤めて生計を立てている。
出版社からは漫画の原作をやらないかと勧められてはいたが、純文学作家のプライドから二の足を踏んでいたのだった。
そのくせギャンブルには目がなく、少し稼ぎがあればそこにつぎ込むばかりでいつも金欠状態であり、母親の淑子や姉の千奈津(小林聡美)に金をせびる毎日を送っていた。
当然のように妻の響子(真木よう子)には愛想を尽かされ、一人息子の真悟(吉澤太陽)を連れて家を出て行かれてしまった。
響子は離婚して久しく、月に一度、一人息子の真吾と会わせることと引き換えに養育費5万円を求めるほかは、一緒に食事することすら拒んでいた。
だがそんな良多にも父親としての意地があり、真吾に会う時、養育費は用意できなくても金を都合してプレゼントは用意していた。
良多は11歳の息子・真悟の養育費も満足に払えないくせに未練たらたらで、探偵の技術で同僚の健斗(池松壮亮)と響子を張り込みし、彼女に新しい恋人ができたことを知ってショックを受ける。
淑子の懐を当てにしているのは姉の千奈津も同様。
ある日、たまたま良多と響子と真悟が母・淑子の家に集まる。
やがて真悟を迎えに響子もやって来るが、折からの台風で3人とも足止めを食らう。
こうして図らずも一つ屋根の下で、一晩を過ごすハメになる“元家族”だったが…。

寸評
出来の悪い子ほどかわいいと聞くが、実際世間の親子を見ているとそれは誠だと思うことがよくある。
親にとっては可愛いとは心配と同義語で、行く末の定まらない子供のことは気がかりになってしまうものだと思う。
特にお腹を痛めた母親にとっては尚更で、子供に対する愛情は母親が圧倒していると思われる。
海よりも深いと称されるのが母の愛情で、ここでは三人の母親が登場する。
一人は貧しいながらも娘にバレエを習わせる良多の姉千奈津、一人は息子の真吾を抱える良多の元妻響子、そしてもう一人は良多の母淑子である。

良多は母親の懐を当てにしているが、姉の千奈津も娘の夢のために母親に泣きついている。
ちゃっかりと良多の先を越して金をせしめているのだが、母親の年金を当てにしてでも我が子に夢を託すのも親の性なのかもしれず、はたしてそれが愛情と言えるのかわからないが、母としての愛の表現の一つなのだろう。
響子は新しい恋人が出来て再婚を考えているようだが、気になるのは息子の真吾のことだ。
真吾は父親である良多が一番だし、祖母である淑子にもなついている。
通常だと離婚が成立すれば夫の実家になど寄り付かないものだと思うが、響子はやむを得ぬという態度をとりながらも淑子の団地に出入りしている。

良多はなけなしの金で精一杯のサービスを真吾に行うが、真吾は父親のそんな行為が嬉しい。
同僚の健斗が「父親からもらったものが捨てられない」と良多に語ることで、真吾の気持ちを代弁させている。
そんな真吾の気持ちを感じて、響子は自分の幸せ求める姿と子供を思う母の姿を見せて悩む。
比べれば父親は情けなくて、過去の栄光にすがっているだけだ。
大したことはないのだが、家族の前では自分はスゴイのだと粋がっている父親サラリーマンの姿がダブル。
呑んだくれではないが、一攫千金を夢見るギャンブル依存症ときてはどうしようもない。
それでも母親は、この子は才能が有ったのだ、やれば出来るのだとかばってしまう。
才能もたかだか知れたものである事、やらないことも分かっているのにである。

すっかりおばあちゃんとなってしまった淑子は、押し付けでない愛情を二人の子供に注ぐ。
淑子は人生は単純なのだと言いながら、非常に自然体で生きているように見える。
すっかり大人となった二人の子供と交わす会話が楽しい。
誰もが思い当たるふしがあるような、ごくごく普通の会話で往年の小津映画を思わせる。
台風は人生に吹き荒れる出来事の象徴だ。
子供には台風の日に滑り台の下で過ごした記憶は鮮明なものになるだろう。
そこに響子もやってきて家族の再生を感じさせるが、なかなかそうはならない。
あるのは宝くじの様なちょっとした夢である。
真吾は父親に買ってもらったスパイクが宝物で手放せない。
良多は亡き父の愛情を知って、高額の値が付いた硯を手放すことを諦める。

良多たち元家族は又の再会を約束するが、お互いに振り返ることはしない。
台風のせいで折れて壊れてしまった傘が3本見えて彼等の過去を象徴しながら、良多も響子も未来に向かって歩いていくようにも見えるラストシーンだが、3か月間滞った養育費の15万円を良多が持ってくるとは思えず、わずかな不安を残しながら家族を見守る是枝の視線は暖かかった。
近所のどこかの家庭の姿を切り取ったような平凡な世界を、上手い脚本で映画の世界に昇華させていた。


うなぎ

2019-01-27 10:30:22 | 映画
「うなぎ」 1997年 日本


監督 今村昌平
出演 役所広司 清水美砂 柄本明 田口トモロヲ
   常田富士男 倍賞美津子 市原悦子 佐藤允
   哀川翔 小沢昭一 寺田千穂 上田耕一
   光石研 小西博之

ストーリー
1988年夏、サラリーマンの山下拓郎(役所広司)は妻の浮気を告発する差出人不明の手紙を受け取った。
不倫の現場を目の当たりにした彼は、激しい怒りに駆られて妻(寺田千穂)を刺殺してしまう。
それから8年、刑務所を仮出所した山下は、千葉県佐倉市の住職・中島(常田富士男)の世話で、利根川の河辺に小さな理髪店を開業した。
人間不信に陥っていた彼は、仮釈放中にトラブルを起こしてはならないこともあって近所づきあいもせず、飼っているうなぎを唯一の話し相手に、静かな自戒の日々を送っている。
ある日、うなぎの餌を採りに行った河原で、山下は多量の睡眠薬を飲んで倒れている女性を発見した。
服部桂子(清水美砂)というその女性は、山下によって命を救われるが、山下は「東京に帰りたくない」と言う彼女を店で使うよう、中島の妻・美佐子(倍賞美津子)に押し切られてしまう。
金融会社の共同経営者で愛人でもある堂島(田口トモロヲ)との関係や、精神病の母・フミエ(市原悦子)との血のつながりから逃がれたいと思って自殺を図った桂子と関わりを持つことは、彼にとって迷惑でしかなかった。
しかし、明るい彼女のお陰で店は繁盛するようになり、また山下の気持ちも次第に解きほぐされていく。
ある日、堂島の子を身ごもっていることが判明した桂子が、山下の前から姿を消した。
過去を清算するために上京した彼女は、母を秋田の病院に帰し、堂島の会社から預金通帳を取り戻すと再び山下の元へ戻ってくる。
しかし、堂島はそれを許さなかった。
山下の店へ先回りした彼は、帰ってきた桂子から金を奪い返し、彼女を連れ戻そうとするのだが・・・。

寸評
山下は妻の浮気が許せず殺害するのだが、それは浮気を告発する手紙を受け取ったからである。
この差出人は誰だかわからないが、当初は浮気相手の男の妻なのかもしれないなという感じである。
しかし後半になってくると、刑務所仲間で同じように仮出所している高崎(柄本明)が言うように、嫉妬からくる山下の妄想でそんな手紙などなかったのかもしれないという雰囲気が出てくる。
結構重要なファクターであるように思うのだが、その結末は明らかにはされていない。
隣家の船大工(佐藤允)はまともな人間だが、チンピラ風な哀川翔や、UFOを呼ぶことを夢見ている小林健など何をして生計を立てているのか分からない連中が、山下の周りを取り巻いていく。
その意味では随分と大雑把な脚本だと思う。
重そうな内容を持ちながらも滑稽なシーンを挟んで軽妙化している。
山下は保護司の住職と並んで歩けないや、風呂に入るときに両手をあげて入るポーズなど刑務所暮らしの癖が出てしまうシーンや、住職の妻の美佐子が山下を説得に来たシーンでは、土足厳禁と言われ着物の裾をまくりあげたら運動靴を履いていたなどである。

ウナギの生態が時々語られる。
2000キロも南下していき、塩の濃度が代わったあたりでメスのウナギは卵を放出し、オスがそれに精子を振りかけるとのことである。
したがって生まれたウナギはどのオスの子か分からない。
それでも親が育った日本を目指して帰ってくるという。
その話は桂子が身ごもった堂島の子供を自分の子として育てる決心をした山下とリンクするのだが、そもそもウナギは山下の化身でもある。
水槽で飼われたうなぎは当然話すことはしないし、世間から隔離された存在である。
うなぎは最後に川に戻されるが、それは山下が過去の呪縛から逃れ自由を得た象徴でもあった。
山下は仮釈放中の身であるので問題に巻き込まれたくない。
そのために人との交わりを避けているのだが、彼の意思を無視して人々は彼の周りに集まってくる。
その交流がほのぼのとしていて心地よい。

それとは逆に堂島と桂子の以前の関係は母親も含めてすっきりしたものではない。
単にセックスで結びついていたのか、なぜ別れる決心をしたのかも明確ではない。
堂島が母親の金目当てと悟った為なのかもしれないが、少なくとも彼女は堂島の会社の副社長なのである。
行動動機とかが明らかでないのに、なぜか雰囲気で人間社会の一面へ自然と引き入れられていく。
今村昌平は以前はもっとドロドロとした人間関係を描いていたと思うが、ここでは随分とあけっぴろげだ。
山下は再び刑務所に収監され、その山下を待つという桂子はどうしようもない男である堂島の子を宿している。
果たして、山下と桂子に幸せは訪れたのであろうか。
そう考えると同コンビで撮った遺作の「赤い橋の下のぬるい水」はこの作品の後日談のような気がする。
不幸な子を宿した桂子にカンヌは同情したのだろうか。
そうでなければ、僕はこの作品がカンヌでパルム・ドールを取った理由が分からない。

WOOD JOB!~神去なあなあ日常~

2019-01-26 10:44:26 | 映画
「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」 2014年 日本


監督 矢口史靖
出演 染谷将太 長澤まさみ 伊藤英明 優香
   西田尚美 マキタスポーツ 有福正志
   田中要次 近藤芳正 光石研 柄本明

ストーリー
勇気(染谷将太)はチャランポランな性格で毎日能天気な高校生活を送ったばかりに大学受験に失敗。
彼女にもフラれ、進路も決まらないという散々な状態で高校の卒業式を迎える。
そんな時、ふと目にしたパンフレットの表紙で微笑む美女に釣られ、彼女に会いたいがために、勇気は街から逃げ出すように1年間の林業研修プログラムに参加することを決意。
だが、ローカル線を乗り継いで降り立った神去(=かむさり)村は、携帯電話の電波も届かない“超”が付くほどの田舎の村だった。
そこに待っていたのは表紙の美女ではなく、鹿やら蛇やら虫だらけの山、同じ人間とは思えないほど凶暴で野生的な先輩のヨキ(伊藤英明)、命がいくつあっても足りない過酷な林業の現場……。
耐えきれずに逃げ出そうとしていたところ、例の表紙の美女・直紀(長澤まさみ)が村に住んでいることが判明。
留まる事を決意するが……。
休む間もなく訪れる新体験、野趣溢れる田舎暮らし、底なしに魅力的な村人に囲まれ、勇気は少しずつ変化してゆく。
仕事にも環境にも慣れて来た頃、主人公の元カノが所属する大学生サークルが訪ねてくる。
騒がしくチャラチャラしている学生達に勇気は檄を飛ばし、元カノは困惑しつつもその場を後にする。
この頃になると勇気はすっかり林業研修に馴染み始めていた。
村では数十年ぶりに行われる大きな祭りが行われることになった。
果たして、勇気と直紀の恋の行方は?
そして、勇気は無事に生きて帰れるのか!?

寸評
都市生活者にとってはまったくなじみのない林業という職業をディテール豊かに、しかも魅力たっぷりに描いたなかなかの佳作である。
へえそうなのかといったトリビア的な興味を引く細部を描くのではなく、真正面から都会から来た青年と山村の人々の交流を捕らえている。
もちろん矢口監督作品なので、所々に笑いを誘う場面を挿入しているのだが奇をてらったものではない。
林業をほとんどと言っていいぐらい知らない僕たちに、林業の厳しさと神と共にある生活を描きながら、林業は僕たちの生活に密接に関わっているんだと訴えることに成功している。
勇気は研修を終えて自宅に帰ってくるが、建築途中の日本家屋から木の香りを嗅いで山を思い出す場面にそのことが集約されている。
勇気が鼻をクンクンさせた時には僕たちも木の香りを感じるような錯覚に陥る。
この映画には木の香りがする。

日本人は有史以来自然をあがめ山や岩や大木を神としてきた。
林業にたずさわる人々は正にそうしてあがめてきた神と共に生きている。
山に入るときに手を合わせ祈りをささげ、神様が木の数を数える日には人を木と間違えるからと山に入らない。
神と共に生きている人々だと分かる。
神とのかかわりの集大成として48年ぶりの大祭が行われる。
チェーンソーという文明の力を使わず、皆が古来はやっていたであろうように斧で大木を切り倒す。
枝を打ちはらい整えられた巨木は男性のシンボルだ。
山の頂から滑り台の様にしつらえられた木造のスロープを滑り落とされる。
待ち受けるのは藁で編み上げられた女性のシンボルである。
女たちは激突した巨木に駆け寄り子孫繁栄を願う。
僕が訪ねた奈良の飛鳥川には藁で編んだ男女のシンボルが掛けられていた。
そのような子孫繁栄の願いは古来よりどの地方でも祈られていたのだろう。
松明を掲げたふんどし姿の男たちが山の頂を目指す姿は荘厳で感動的だ。

ヨキ役の伊藤英明が野生児キャラクターを好演し、オーバーではあるものの現実感を失わない役作りが絶妙で、山の男を颯爽と演じていた。
ヒロインの長澤は山の男に囲まれて男が乗り移っているような女性である。
過去に林業研修にやって来た男と恋愛関係にあったが、その恋は破綻している。
そのトラウマを抱えているが、やはりヒロインなのでどこかでチャーミングな部分を観客に見せねばならない。
それがあの手ぬぐいだけではちょっと物足りないような気がする。
相手の勇気が高校を卒業したばかりの未成年と言うのも気になった。
当然と言えば当然なのだが、勇気が徐々に山の男に目覚めていく姿に共感するし、手に就いたご飯粒のシーンも神の存在を暗示していい処理だった。
あの人との抱擁シーンに僕はグッときたし、最後のワンショット、余韻を残すための上手いショットだった。

雨月物語

2019-01-25 17:10:58 | 映画
「雨月物語」 1953年 日本


監督 溝口健二
出演 京マチ子 水戸光子 田中絹代 森雅之
   小沢栄太郎 青山杉作 羅門光三郎
   香川良介 上田吉二郎 毛利菊枝
   南部彰三 光岡龍三郎 天野一郎
   尾上栄五郎 伊達三郎 沢村市三郎

ストーリー
天正十一年春。琵琶湖周辺に荒れくるう羽柴、柴田間の戦火をぬって、北近江の陶工源十郎(森雅之 )はつくりためた焼物を売りに旅に出た。
従う者のうち妻宮木(田中絹代)と子の源市は戦火を怖れて引返し、義弟の藤兵衛(小沢栄太郎)は侍への出世を夢みて女房の阿浜(水戸光子)をすてて、通りかかった羽柴勢にまぎれ入った。
合戦間近の大溝城下で、源十郎はその陶器を数多注文した上臈風の美女にひかれる。
彼女は朽木屋敷の若狭(京マチ子)と名乗った。
注文品を携えて屋敷を訪れた彼は、若狭と付添の老女(毛利菊枝)から思いがけぬ饗応をうける。
若狭のふと示す情熱に源十郎はこの屋敷からのがれられなかった。
一方、戦場のどさくさまぎれに兜首を拾った藤兵衛は、馬と家来持ちの侍に立身する。
しかし街道の遊女宿で白首姿におちぶれた阿浜とめぐりあい、涙ながらに痛罵される。
日夜の悦楽から暫時足をぬいて町に出た源十郎は、一人の老僧(青山杉作)に面ての死相を指摘される。
若狭たちは織田信長に滅された朽木一族の死霊だったのである。
別れを切り出す源十郎を、怒りの中引き留めようとする若狭たちだが、彼に触れることが出来ない。
源十郎の背中には呪符が書かれていたためであった。
源十郎はとぼとぼと妻子のまつ郷里へ歩をかえした。
かたぶいた草屋根の下に、彼は久方ぶりでやせおとろえた宮木と向いあう。
しかし一夜が明けて、彼女も幻と消えうせた。
宮木は源十郎と訣別後、落ち武者の槍に刺され、すでにこの世を去っていたのである。

寸評
幽玄の世界とはこういうものなのだと教えてくれたたぐいまれなる作品で、溝口健二は傑作をたくさん撮っているが私はこの「雨月物語」を彼の最高傑作だと思っている。
こういう作品に出会うと、映画の世界に自らの技能を表現しようとした執念を持った職人たちが、この時代には数多くいたのだと痛感させられる。
それは脚本の川口松太郎 、依田義賢や撮影の宮川一夫、音楽の早坂文雄、美術の伊藤熹朔、そして全てを取り仕切る監督の溝口健二といった名のある人たちだけでなく、大道具、小道具、衣装、結髪、照明などに至る全スタッフの息吹を感じるのだ。
それは、いい映画を作るのだという情熱であり、誰よりも優れたものを残そうという揺るぎない執念のようなものだ。

ソフト・フォーカスを基調とした宮川一夫のカメラワークが素晴らしく、見事なまでに幽玄の世界を映し出していて、
琵琶湖を漂う小舟の場面でのモヤが、朽木屋敷のシーンでは深い霧がモノトーンのスクリーン上で絶大な効果を上げている。
小舟のシーンはプールでの撮影だと思われるが、小舟がモヤの中に浮かび上がりモヤの中に消えていくのを水面上のアングルから捉えていて、その雰囲気だけで一気にこの映画の持つ雰囲気世界に引き込まれる。
藪の中の温泉で混浴している源十郎と若狭の姿からカメラが移動していくと、いつの間にか次のシーンにかぶさって、琵琶湖畔で戯れている二人の姿になるあたりは白黒映画の白眉だ。
温泉はセットで、源十郎の入っている岩風呂からは湯気が立ち登っているのだが、そこか袈裟が木立の中に消え去るとやがて袈裟が入浴してくる声だけが聞こえ湯船に波が立つ(京マチ子の裸身は想像の世界だ)。
カメラがパンしていくと琵琶湖畔で戯れる二人の様子に変わるが、それはロケ地における実写だ。
雪舟の水墨画でもこうはいくまいと思う。

この作品は怪奇映画であり、言い方を変えればロマンチックな怪談映画でもあるのだが、外国映画の幽霊ものとは全く違う雰囲気をもっている。
それは、これこそが日本なのだという様式である。
それを支えているのが、京マチ子の若狭の情熱と妖艶さと、田中絹代の宮木のエレガンスな気高さだ。
ふたりの死霊はそれぞれ違った魅力を醸し出す。
若狭はというより、京マチ子は朽木屋敷という幽霊の館が放つ怪しい光の中で輝きを見せ、田中絹代は朽木屋敷とは真逆の簡素な田舎のあばら家の夜の灯火の中で不思議な世界に導く。
その身のこなしこそは能の世界であり、演技の世界であり、ふたりの技量が輝いていた。

阿浜は雑兵に強姦され、宮木も落ち武者の槍に刺されこの世を去る。
戦争の犠牲になるのは弱い女の方なのだと言っているようでもある。
しかし、藤兵衛と阿浜の行く末を見るに付け、源十郎がふたりの女性の亡霊に翻弄される姿といい、女は男を凌駕する存在なのだとも見て取れる。
金に目がくらんではいけない、出世にうつつを抜かしていけない、女に狂ってはいけない。
どれもこれも男にとっては辛い拘束だなあ・・・。

浮雲

2019-01-24 10:48:01 | 映画
「浮雲」 1955年 日本


監督 成瀬巳喜男
出演 高峰秀子 森雅之 中北千枝子
   岡田茉莉子 山形勲 加東大介
   木匠マユリ 千石規子 村上冬樹
   大川平八郎 金子信雄
   ロイ・H・ジェームス

ストーリー
幸田ゆき子(高峰秀子)は昭和十八年農林省のタイピストとして仏印へ渡った。
そこで農林省技師の富岡(森雅之)に会い、愛し合ったがやがて終戦となった。
妻と別れて君を待っていると約束した富岡の言葉を頼りに、おくれて引揚げたゆき子は富岡を訪ねたが、彼の態度は煮え切らなかった。
途方にくれたゆき子は或る外国人の囲い者になったが、そこへ富岡が訪ねて来ると、ゆき子の心はまた富岡へ戻って行った。
外国人とは手を切り、二人は伊香保温泉へ出掛けた。
「ボルネオ」という飲み屋の清吉(加東大介)の好意で泊めてもらったが、富岡はそこで清吉の女房おせい(岡田茉莉子)の若い野性的な魅力に惹かれた。
ゆき子は直感でそれを悟り、帰京後二人の間は気まずいものになった。
妊娠したゆき子は富岡の引越先を訪ねたが、彼はおせいと同棲していた。
失望したゆき子は、以前肉体関係のあった伊庭杉夫(山形勲)に金を借りて入院し、妊娠を中絶した。
嫉妬に狂った清吉が、富岡の家を探しあて、おせいを絞殺したのはゆき子の入院中であった。
退院後ゆき子はまた伊庭の囲い者となったが、或日落ちぶれた姿で富岡が現れ、妻邦子(中北千枝子)が病死したと告げるのを聞くと、またこの男から離れられない自分を感じた。
数週後、屋久島の新任地へ行く富岡にゆき子はついて行った。
孤島の堀立小屋の官舎に着いた時、ゆき子は病気になっていた。
沛然と雨の降る日、ゆき子が血を吐いて死んだのは、富岡が山に入っている留守の間であった。

寸評
伊庭によって半ば犯されたことで仏印へ渡ったゆき子は、どうやらそこで内地の悲惨な戦争の状況から逃れて結構いい暮らしをしたようである。
もちろんその相手である富岡もそれなりの恵まれた生活を送っていて、どうやら現地の女にも手を出しているように思われる。
その現地女の嫉妬心が、やがてゆき子にも投影されることになるのをさりげなく描いている。
この作品では残酷とも思えるような、女たちの嫉妬心が非情なくらいあっさりと描かれ、かえって女の弱さと不幸が強調されるような演出になっている。

富岡は実に女にだらしない男なのだが、一方のゆき子も切っても切れない腐れ縁から逃れられない女である。
芯の強そうなしたたかな女であるようなのだが、どうしても富岡という男から逃げられない弱い女でもある。
その変わり身のあわれさが切々と描かれる。
男の小ずるさと、ずるずると追い続ける女の哀れさが幾度も描かれ、それは抜き差しならない男と女の関係だ。
これもまた人生、これもまた真実の愛なのだ、しかもひにくれた愛のあり方なのだと言われているようだ。
ゆき子の高峰秀子も富岡の森雅之も絶妙の演技で、節操のない男と、時代と環境に翻弄される女を見事に演じている。
岡田茉莉子のおせいもあふれんばかりの若さを表現していた。

それまで会えば愚痴と嫌味ばかりを言い続けていたゆき子は、最後にどこまでも連れて行ってと泣きじゃくる。
屋久島に向かう船では、彼らは雨の甲板でレインコートを頭からかぶって抱き合う。
どこまでも一緒に行こうとする切なさがあふれ出すとてつもなく秀逸なシーンだ。
屋久島でゆき子は亡くなってしまうが、その前に二人を世話する女が登場していて、たぶん富岡はやがてこの女に手を出すに違いないと想像させる。
最後に富岡が泣き崩れるラストシーンは男の贖罪ともとれるが、僕には前述のことを想像させたエンディングだった。

高峰秀子さんは僕の印象と違って姉御肌の女優さんだったようである。
テレビで高峰さんがゲストの対談番組を拝見して、その気風の良さと勝気な性格を垣間見て随分と魅了された。
僕は高峰秀子さんと同時代の人間ではないので、彼女の映画は名画座のリバイバル上映だったり、テレビ放映された映画によるものだったりで時系列はバラバラだ。
しかし、前年に「二十四の瞳」の大石先生をやった同じ女優が、翌年にはこの「浮雲」のゆき子をやっていることに女優としてのすごさを感じる。
エッセイスト・クラブ賞を受賞した彼女の「私の渡世日記」を読むとなおさらその魅力の虜になった。
それを読むとキッパリと女優引退を表明したわけも分からぬではないが、田中絹代さんが晩年まで映画出演されていたのを思うと、ずっと続けて欲しかった女優さんだ。
原節子さんや田中絹代さんなどが歴代No1女優にあげられたりするが、僕は日本映画のNo1女優は高峰秀子さんだと思っているし、その中でもこの一遍は第一の作品だ。

ウエスト・サイド物語

2019-01-23 11:57:26 | 映画
「う」で始まる映画に突入。
最初はミュージカル映画の傑作から。

「ウエスト・サイド物語」 1961年 アメリカ


監督 ロバート・ワイズ  ジェローム・ロビンス
出演 ナタリー・ウッド リチャード・ベイマー
   ジョージ・チャキリス リタ・モレノ
   ラス・タンブリン タッカー・スミス
   デヴィッド・ウィンターズ トニー・モルデンテ
   サイモン・オークランド ジョン・アスティン
   ネッド・グラス

ストーリー
ジェット団とシャーク団はニューヨークのウェスト・サイドに巣くう対立する不良少年のグループである。
ダンスパーティーそこで一目で愛し合うようになった二人、マリア(ナタリー・ウッド)はシャーク団の首領ベルナルド(ジョージ・チャキリス)の妹であり、トニー(リチャード・ベイマー)はジェット団の首領リフ(ラス・タンブリン)の親友だった。
しかし、ジェット団とシャーク団はついにぶつかってしまった。
マリアの必死の願いにトニーは両者の間に飛びこんで行ったが、彼らはトニーの言葉に耳をかそうとしない。
そしてリフがベルナルドに刺されて殺されると、リフの死に我を忘れたトニーはベルナルドを殺してしまった。
ベルナルドの恋人アニタ(リタ・モレノ)に責められてもマリアはトニーを忘れられない。
シャーク団のひとりチノ(ホセ・デ・ヴェガ)はベルナルドの仇を打とうとトニーをつけ狙い、警察の手ものびてくる。
アニタはマリアの愛の深さを知り、トニーと連絡をとるために街へ出ていくがジェット団に侮辱された怒りから、マリアはチノに殺されたと言ってしまう。
絶望して夜の町へ飛び出したトニーの前へ拳銃を構えたチノが現れた。

寸評
ミュージカル映画の最高峰だ。
日本映画が総力を結集しても決して作ることができないジャンルの作品だと思う。
原色を背景にしてマンハッタンを思わせるイラストが出て、序章ともいえる軽快な音楽が流れだし背景の原色が次々と色を変える。
そして「WEST SIDE STORY」のタイトルが出ると、マンハッタンを望む遠景が実写で映し出される。
マンハッタンのビル群にズームインするように、ニューヨークのビル群を上空から静かにとらえていくと、パチッ、パチッと指の音が鳴り初め、若者たちがビルの谷間の道路でダンスを披露し、やがてバスケットボールを仲立ちとした喧嘩シーンに入るというオープニングはまさに映画。
何度見てもこのオープニングに感動してしまう。

次の見せ場はダンス・ホールで繰り広げられるダンスナンバー「マンボ」で、ジョージ・チャキリス、リタ・モレノ、ラス・タンブリングなどが軽快に踊りまくる。
ジェット団とシャーク団の対立を滑稽にはさみながら描いたダンスシーンは、若者たちのエネルギーの発散を感じさせる素晴らしいダンスナンバーとなっている。
その中でマリアとトニーが出会い、ダンスを続ける若者たちの背景をぼかしながら二人を浮かび上がらせて愛の芽生えを感じさせる演出もいい。
僕は、もうこの時点で完全にこの映画のとりこになってしまっている。
ジョージ・チャキリスのベルナルド、リタ・モレノのアニタ ―― 紫の服がカッコいいんだよなあ。
ミュージカル・ナンバーはどれもが耳に残る名曲で、僕はサントラ盤のCDも持っているが映像と合体するとアップテンポな激しい曲とシーンが素晴らしいと感じる。
若者たちが主人公だけに、その躍動感あふれるダンスとマッチして、僕は初めて「ウエストサイド物語」を見た時には「これこそ真のミュージカル映画だ!」と心の中で叫んだぐらいだ。
その観点から言えば「クール」もいい。
殺人が起きてしまい、ガレージに追い詰められたジェット団の面々が「クール」の曲に乗って群舞を繰り広げる。
指を鳴らし、手を打ち、飛び跳ね、「冷静になれ」と言葉を発するように歌う。
どうしようもなくなってきた彼等のイライラ感が湧き出てくる曲の導入部から、やがてアップテンポになっていく展開に、自然と体が反応してしまう感動場面になっていたと思う。

ニューヨークの通りに飛び出したダンスと言い、セットすら屋外ロケを思わせる美術も素晴らしく、繰り広げられるダンスナンバーの躍動感は最高だ。
ジョージ・チャキリスのかっこよかったこと・・・。
その細身を称して、当時ジョージ・キリギリスと揶揄されていたが、彼のかっこよさをその後見ることはなかったような気がする(「ロシュフォールの恋人たち」ですら、ベルナルドのカッコ良さには及ばない)。
ロメオとジュリエットが原作だけに悲劇的な結末を迎えるが、その後に示されるエンドクレジットがこれまたイキだ。
路地のブロックや壁の落書きがクレジットとなっていて、最後の最後までウエスト・サイドを感じさせてくれる。
文句なしの名作。

インファナル・アフェア 無間序曲

2019-01-23 11:49:59 | 映画
「インファナル・アフェア 無間序曲」 2003年 香港


監督 アンドリュー・ラウ アラン・マック
出演 エディソン・チャン ショーン・ユー
   アンソニー・ウォン エリック・ツァン
   カリーナ・ラウ   フランシス・ン
   チャップマン・トー フー・ジュン
   ロイ・チョン    リウ・カイチー

ストーリー
1991年。尖沙咀(チムサアチョイ)に君臨する香港マフィアの大ボス、クワンが暗殺された。
混乱に乗じて離反をもくろむ配下のボス4人。
組織犯罪課のウォン警部(アンソニー・ウォン)と相棒のルク警部(フー・ジュン)は、抗争勃発に備えて厳戒体制を敷くが、新参の5人目のボス、サム(エリック・ツァン)だけは静観を決め込む。
そのためにサムはラウ(エディソン・チャン)を警察に潜入させようと考えていた。
サムの妻マリー(カリーナ・ラウ)にひそかに想いを寄せていたラウは、危険を覚悟で引き受ける。
クワンの跡を継いだ次男ハウ(フランシス・ン)は、知的で物静かな外見の下に野心家の顔を隠していた。
4人のボスそれぞれの弱みを握った彼は、一夜にして新たな大ボスとしての地位を固めてしまう。
一方ウォン警部は、警察学校の優等生でありながら、クワンの私生児であることが発覚して退学処分になったヤン(ショーン・ユー)の存在を知り、その血筋を利用してヤンをハウの組織に潜入させる秘策を思いつく。
無謀とも言える作戦だが、ヤンにとっては警官になれる唯一のチャンスだった。
こうして1992年、ラウとヤンは警察学校で一瞬すれ違う。
1995年。潜入捜査のための厳しい訓練中に、刑務所での喧嘩を機にサムの子分キョン(チャップマン・トウ)と親しくなり、黒社会に溶け込み始めたヤン。
ウォン警部は、警視に昇進したルクの反対を押し切ってヤンをハウのもとに送り込む。
一方、組織犯罪課の警官となって2年目のラウは、サムからの情報によって手柄を重ねながらも、マリーへの恋心は募るばかりだった。
ハウは事業を拡大して一家の安泰をはかるとともに、4年前に父を殺した犯人探しに執念を燃やしていたが、ついに証拠を掴み、クワンが殺された4月11日の命日にすべてのドラマが動きだそうとする……。

寸評
前作ですっぽりと抜け落ちていた潜入捜査官ヤンと、逆に警察に潜入したマフィア、ラウの若き日の2人が描かれるが、実は2人よりも目立っているのが脇役陣だ。
ヤンの上司で警察の組織犯罪課のウォン警部、彼の警察仲間のルク、ラウのボスであるサム、サムの女マリー、父の跡を継いだマフィアのドン・ハウといった人々のドラマがこの映画の中心となっている。
特にウォン警部のドラマは見応えタップリで、演じるアンソニー・ウォンの苦悩漂う表情がたまらない。
昇進を果たしたルクとの関係も味わいがあり、二人して指揮を執ることになるエピソードも雰囲気がある。

話はマフィアのボスであるクワンが暗殺されたところから始まるのだが、それを引き継いだ後継者のハウの策士家ぶりも堂に入っていた。
一見頼りなさそうなハウが4人のボスを粛正していく手際もくどくなくてスピーディだ。
殺し殺され、裏切り裏切られ、陰謀渦巻く黒社会を定番的に描いていくが、密度濃く一気に見せる。
その間に、映画「ゴッド・ファーザー」をイメージさせるシーンも登場し、ハウをはじめとするマフィア一家の物語としての側面をチャッカリ頂いているのは香港映画らしい。
家族大事の気持ちがヤンをその世界で重用し、潜入捜査を可能ならしめるていくという描き方も無理がない。

ただし前作の補助説明作品なので、いきなりこの映画に入ったのでは興味が半減してしまう構成になっているのは否めない。
したがって、本作を見る前には一作目を見ておいたほうが良い。
なによりも少し入り組んでいる人物関係が理解しやすいと思う。
一作目で無線機を出されたヤンが「またこれか」と言っていたのも分かるし、ラウの恋人がどんな人だったのかも知らされる。
二人が組織に潜入していく過程がほとんど描かれなかった前作だが、ラウが警察に潜入する決心をする原因がボスの女に対する思いからだったことなども明らかにされる。
サムがボスになったいきさつも描かれ、前作の登場人物がいかに重たいものを背負っていたかがよくわかって、前作のスゴさを再認識させる映画となっているのだが、やはり前作を補完する作品だけに、前作に比べるとその緊張感はやや劣っていたように思う。

若き日のヤンを演じるショーン・ユーとラウを演じるエディソン・チャンの2人は、前作のトニー・レオンとアンディ・ラウに比べると影が薄い。
その影の薄さは、この映画が脇役たちのドラマに主眼を置いたことにもよるが、彼らの役者としての雰囲気によるところが大きかったような気がする。
ずっとトニー・レオンとアンディ・ラウの二人でいけばいいのにと思ったりしたのだが、やはり若返らせる必要があったのだろうか?
ところが、エンドタイトルのあとに、次回最終章の『インファナル・アフェア 終極無間』の予告が流れ、トニー・レオンとアンディ・ラウが帰ってくることが示される。
すさまじい商魂ながら、二人が帰ってくる次回作も見たくなってしまう2作目の出来栄えではあった。

インファナル・アフェア

2019-01-22 11:45:13 | 映画
「インファナル・アフェア」 2002年 香港


監督 アンドリュー・ラウ アラン・マック
出演 アンディ・ラウ   トニー・レオン
   アンソニー・ウォン エリック・ツァン
   エディソン・チャン ショーン・ユー
   サミー・チェン   ケリー・チャン
   チャップマン・トー

ストーリー
1991年、ストリート育ちの青年ラウ(アンディ・ラウ)は香港マフィアに入ってすぐ、その優秀さに目を付けたボスであるサム(エリック・ツァン)によって警察学校に送り込まれる。
一方、警察学校で優秀な成績を収めていた青年ヤン(トニー・レオン)は突然退学となる。
彼は組織犯罪課のウォン警視(アンソニー・ウォン)に能力を見込まれマフィアへの潜入を命じられたのだった。
ラウは香港警察に潜り込み、10年で内部調査課の課長に昇進、ベストセラー作家メリー(サミー・チェン)との結婚も内定していた。
一方、ヤンはサム率いるマフィアに潜入し、今では麻薬取引を任されるまでになっていた。
しかしヤンは長年に渡る内通捜査で自分を見失い、精神科医リー(ケリー・チャン)のもとに通院。
いつしかヤンはリーを愛し始めていた。
ある夜、ヤンから大きな麻薬取引を行うとの情報を得たウォン警視は、水面下で調査を始めるが、同時に警察の動きがラウからサムに伝わり、検挙も取引も失敗に終わる。
双方にスパイがいることが明らかになった。
ラウとヤンは、それぞれ裏切り者を探すよう命じられる。
やがて争いの中で、サムの手下にウォン警視が殺される。
サムの残忍さに嫌気がさしたラウは、サムを射殺。
そしてヤンは、ラウがマフィアのスパイであることに気づくが、やはりサムの手下にヤンも殺される。
残されたラウは、ヤンの分まで警官として生きていくことを決意するのだった。

寸評
組織への潜入物はよく映画化される題材だが、この作品の特異なところははマフィアと警察にそれぞれスパイを送り込んでいることで、それも10年という長い年月をかけたスパイであることだ。
その二人をトニー・レオンとアンディ・ラウが演じていて、二人が対照的な人物を渾身の演技で熱演しているのがこの映画の魅力となっている。
ヤンの上司であるウォン警視役のアンソニー・ウォンもなかなかいい。
潜入者は一体誰なのかを伏せておいて、そのなぞ解きをメインに据える手もあったと思うが、この映画ではそれをせずに当初から潜入者を明らかにしている。
あくまでもお互いの潜入者を介在させたマフィアと警察の攻防に重点を置き、その中で二人の人物像を浮かび上がらせていく演出の巧みさは、本作を香港映画界が生み出した超一級品の香港ノワール作品に仕上げている。

まずはオープニングがいい。
究極の地獄を示す仏教用語(無間道)が語られ、この物語の全体像が暗示される。
続いて、仏の前でマフィアのボス・サムが、これから警察学校に潜入しようというラウたちに語りかける「自分の道は自分で決めろ!」というこの言葉があとあとの展開を左右する重要なキーワードになる。
その後は、潜入捜査官ヤンと警察に潜入したラウの姿が並行して描かれるのだが、その緊張感がたまらない。
前半の麻薬取引の場面は手に汗握るシーンとなっていて、パソコン、携帯電話、無線機などのアイテムを効果的に使用しながら一気に映画世界に観客を引きずり込む。
はでなドンパチがあるわけではなく、雰囲気でもってスリル感を盛り上げていくのがいい。

そして映画はサスペンス劇だけではなく、好対照な二人の人物像をじわじわと描いていく。
ヤンはマフィアに潜入した警察官だが、どこかワイルドな風貌で10年間の潜入生活に疲れ始めている。
ラウは警察に潜入したマフィアの一員なのだが、エリート然としていてスマートで幸せな新婚生活を控えている。
それに反して、ヤンは恋人とも別れてボロボロの生活の様だ。
元恋人が連れていた子供はたぶんヤンとの間に出来た子供の様なのだが、ヤンはそれも知らない。
もちろんラウの恋人のメリーはラウの素性を知る由もない。
しかしどちらもそんな中にあって、悪の中の正義、正義の中の悪という矛盾に苦しみ始めている設定が重厚感を出していた。

クライマックスも、ありがちな展開とはいえ少しも陳腐な感じを抱かせない。
善と悪が交差する微妙なエリアで、情感漂うドラマを展開している。
勧善懲悪の世界が描かれるのではなく、善人だけど悪人、悪人だけど善人という複雑な設定が、ここで一挙にはじけ散る。
無間地獄とは絶え間ない責め苦を受け続けるjことであり、他人と自分自身を一生あざむいて生きることの苦しみは、どこにも属さない地獄の苦しみなのだ。
ラウはその無限道を歩いていくことになるのだろう。
香港映画、恐るべし!

インセプション

2019-01-21 11:38:38 | 映画
「インセプション」 2010年 アメリカ


監督 クリストファー・ノーラン
出演 レオナルド・ディカプリオ 渡辺謙
   ジョセフ・ゴードン=レヴィット
   マリオン・コティヤール エレン・ペイジ
   トム・ハーディ ディリープ・ラオ
   キリアン・マーフィ トム・ベレンジャー
   マイケル・ケイン ピート・ポスルスウェイト
   ルーカス・ハース クレア・ギア

ストーリー
他人の夢の中に潜入してカタチになる前のアイデアを盗み出す企業スパイが活躍する時代。
ドム・コブは人がいちばん無防備になる夢の中にいる状態のときに、その潜在意識の奥底に潜り込み、他人のアイデアを盗み出すという犯罪のスペシャリストである。
危険極まりないこの分野で最高の技術を持つコブは、企業スパイの世界で引っ張りだこの存在だった。
しかしそのために、コブは最愛のものを失い、国際指名手配犯となっていた。
そんな彼に、幸せな人生を取り戻せるかもしれない絶好のチャンスが訪れる。
強大な権力を持つ大企業のトップの斉藤が仕事を依頼してきたのだ。
依頼内容はライバル会社の解体と、それを社長の息子ロバートにさせるようアイディアを“植え付ける”こと(インセプション)だった。
それは彼の得意とするアイデアを盗むミッションではなく、他人の潜在意識に別の考えを植え付けるという難度の高いミッションで、ほぼ不可能だと言われていた。
極めて困難かつ危険な内容に一度は断るものの、妻モル殺害の容疑をかけられ子供に会えずにいるコブは、犯罪歴の抹消を条件に仕事を引き受けた。
古くからコブと共に仕事をしてきた相棒のアーサー、夢の世界を構築する「設計士」のアリアドネ、他人になりすましターゲットの思考を誘導する「偽装師」のイームス、夢の世界を安定させる鎮静剤を作る「調合師」のユスフ、そしてサイトーを加えた6人で作戦を決行したのだが、予測していなかった展開が彼を襲う。

寸評
身体を動かさずに物語を見る映画は、夢を見る行為によく似ている。
スクリーンの仮想空間の中、僕たちは監督の指示に従う俳優たちによって与えられた物語で、笑い、泣き、悩み、興奮し、スリルを味わい、感動する。
ここで描かれた世界は、まさにそのような空間であるのだが、しかし劇場の中での僕たちは映画の世界と現実を混同することはなく、常に映画の世界の出来事を認識している。
「インセプション」は映画なので、描かれている内容は夢の世界と現実が交差している。
その複雑さのために、当初は僕たちの頭の中も混乱していて難解なものを感じるのだが、夢の中で描かれるのが派手な銃撃戦だったり、街全体がゆがんでくるなどのスペクタクルだったりするので、難解さにギブアップすることなく、何とか映画世界に留まることが出来、そのうちに主人公たちが活躍する世界に僕たちも慣れてくる。
難解だと思わせるもう一つの理由が、なぜそうなのかという説明が省略されていることで、理屈抜きで兎に角そうなのだと押し付ける設定だ。
サイトーはライバル会社の崩壊を画策しているのだが、一体何を争っているライバルなのかは明らかでない。
若いアリアドネがどのような能力を持っているから教授に推薦されたのかもよくわからないのだ。
アリアドネは「観客目線」で物語をナビゲートしてくれる便利なキャラクターという役割だと思うのだが、彼女は最初こそ親切にナビゲートしてくれるものの、途中からだんだん他の登場人物と同様に観客を置き去りにし出して、建築学を専攻している女子学生がなぜ人の潜在意識へ入り込み夢を設計できるのか等の説明は一切ない。
サイトーがどのような立場の人間で、なぜコブの履歴を消し去ることが出来るのかも説明がない。
兎に角そういうことなのだとなって物語が進行していくので、「そういう世界だから」と無理矢理にでも納得するしかないのである。

何しろ夢の中の世界だから何でもありで、突然逆さまの街が出現したり、無重力状態のようになってしまったりし、
摩訶不思議な世界がCG全開の迫力ある映像で次々に登場してくる。
単なる夢の中の世界ではなく、それを三層にしたのがユニークだし複雑にしている。
夢の第1階層は架空のロサンゼルスで、「ロバートが父親との関係を見つめ直すよう誘導し、遺言の存在を意識させる」ということを目的とした内容。
夢の第2階層のホテルでの目的は「法律顧問のブラウニングが遺言を狙っているとロバートに思わせ、更に深く潜在意識へ侵入する」というもの。
夢の第3階層の雪山の要塞での目的は「”父の後を継ぐのではなく自分の道を進む”というアイデアを深層心理に定着させる」というものである。
ただでさえ複雑な時空で展開されているのに、そこにコブの自殺した妻がトラウマとなって度々登場し、コブの行動を邪魔するのだが、なぜ妻のモルがそこに登場するかはずっと後でしか判明しないので話がややこしい。
夢という無形で無限の素材を使い、犯罪、アクション、ラブストーリーまで組み合わせた前代未聞の映画ではあるが、今ひとつスリリングさに欠けているのは、目の前の出来事が、夢の中の世界だとわかってしまっているからだと思うし、話がスケールの大きさとかみ合っていないように思える。
コブが子供たちのいるところへ戻りたいと願っている気持ちは切ないものがあるが、はたしてハッピーエンドだったのかどうかは分からなくて、ラストシーンではその判断を観客にゆだねている。

インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌

2019-01-20 11:32:22 | 映画
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」 2013年 アメリカ


監督 ジョエル・コーエン / イーサン・コーエン
出演 オスカー・アイザック キャリー・マリガン
   ジョン・グッドマン  ギャレット・ヘドランド
   F・マーレイ・エイブラハム
   ジャスティン・ティンバーレイク
   スターク・サンズ   アダム・ドライヴァー

ストーリー
物語の舞台はまだマスコミやレコード会社などが発達していなかった1961年、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジのミュージック・シーンは活気に満ちていた。
フォークシンガーのルーウィン・デイヴィスはここのライブハウスで歌い続けているがなかなか売れず、音楽で食べていくことを諦めようかとの思いが頭に浮かぶこともある。
ルーウィン・デイヴィスは、最近何をやっても裏目に出てばかり。
レコードはなかなか売れず、文無しで知り合いの家を泊まり歩く日々だし、つい手を出した女友達からは妊娠したことを告げられ、おまけに仕方なく預かるはめになった猫にも逃げられ振り回される始末。
山積みになったトラブルから逃げ出すようにルーウィンはギターと猫を抱えて人生を見つめ直す旅に出る。
ジャズ・ミュージシャン、ローランドとの悪夢のようなドライブ。
歌への信念を曲げれば成功するかもしれなかった有名プロデューサーのオーディション。
年老いた父との再会の末、とうとう歌をやめて父と同じ船員に戻ろうと決意するが、それさえもうまくいかない。
旅から戻りあらゆることに苦しめられ打ち拉がれたルーウィンはまたNYのライブハウスにいた。
歌い終えたルーウィンがふとステージに目をやると、そこにはやがてフォークの世界を大きく変えることになる無造作な身なりの若者、ボブ・ディランらしきシンガーの姿が。
同じような日々がまた回り始めたかのようにみえるルーウィンの人生。
しかしその外側で、彼の想いを受け継いだかのように、新しい時代がすぐそこまでやってきていた……。

寸評
僕はフォークソングブームの世代でもあるので、この様な作品はピタリとはまる。
主人公のルーウィンはシカゴで有名ライブハウスのオーナーから、「お前の歌は下手じゃないが、金の匂いがしない」といわれているのだが、主演のオスカー・アイザックが歌う歌声には共感した。
なかなかいいじゃないかと感じたのだが、プロが聞くとパンチがないんだろうな。
僕はピーター・ポール&マリーやブラザース・フォアのLPレコードを持っていた。
日本のガロが歌った「学生街の喫茶店」では「片隅で聞いていたボブ・ディラン・・・」という歌詞が出てくるが、なぜか僕はボブ・ディランは聞かなかった。
レコードは持っていなかったが、ジョーン・バエズは反戦歌の女王として君臨していて、彼女の歌声も盛んにラジオから流れていた。

描かれているのはそれよりも10年くらい前の時代である。
主人公ルーウィン・デイヴィスの一週間ほどの日々を淡々と描いているのだが、コーエン兄弟らしくシニカルだったり、時としてユーモラスなところがあったりする。
主人公が預かっている猫のエピソードが結構描かれていて笑いを誘う。
預かっていたオス猫に逃げられ、やっと見つけて飼い主に届けたら、同じようなトラ猫だがそれはメス猫だったという具合に可笑しい。
しかたなく引き取ったメス猫を放てばいいようなものの、ルーウィンは相変わらず連れ歩いている。
彼の人柄の一面を表していたと思うのだが、猫との最後の別れに僕はちょっとセンチになった。

そのようにルーウィンは人はいいので憎めない。
ところが性格が悪くてすぐにケンカするし、まったく人の意見を聞こうとしない。
文無し生活を続けている彼は姉からも疎まれている。
売れないミュージシャンがそうなのか、あるいはどこにでもいる人物の代表なのかもしれない。
どうしようもないように見えるルーウィンだが、仲間には恵まれている。
宿なしの彼は友人宅を転々としているし、妊娠させてしまった女友達も、彼をののしりながらも絶縁状態には出来ないでいる。
そんな友人関係はうらやましくもある。
ルーウィンに同情や感動を覚えないが、人間臭すぎるルーウィンに哀愁を感じてしまうのだ。

デイヴ・ヴァン・ロンクをモデルにしているらしいが、僕はデイヴ・ヴァン・ロンクを知らないけれど、ここで描かれたルーウィンの様な存在があのフォークソング・ブームを導いたのだろう。
どこの世界にも日の目を見ない先駆者はいるものだ。
ラストにボブ・ディランを連想させる若者が歌うシーンがあるが、ボブ・ディランは2016年にノーベル賞の文学賞を受賞してしまう(なぜ文学賞なのかは疑問に残る)。
ボブ・ディランとルーウィンを比較すると余りにも残酷な違いであり、見方によれば軽妙な喜劇映画とも感じられたのに最後になってそんな悲劇性を感じ取ってしまった。

いのちぼうにふろう

2019-01-19 11:24:41 | 映画
「いのちぼうにふろう」 1971年 日本


監督 小林正樹
出演 仲代達矢 勝新太郎 中村翫右衛門
   酒井和歌子 栗原小巻 山本圭
   佐藤慶 近藤洋介

ストーリー
その千坪ばかりの荒れ地は「島」と呼ばれ、島と街を結ぶ唯一の道は深川吉永町にかかる橋だけである。
安楽亭は、その島にぽつんと建っていて、ここには一膳飯屋をしている幾造、おみつ父娘に定七、与兵衛、政次、文太、由之助、仙吉、源三が抜荷の仕事をしながら住んでいた。
安楽亭は悪の吹き留りであり、彼らは世間ではまともに生きることのできない無頼漢だ。
一つ屋根の下に寄り集りながら他人には無関心であり、愛情に飢えながらその情さえ信じない。
ある日、男たちに灘屋の小平から抜荷の仕事が持ち込まれた。
定七らが小舟で抜荷した品物は安楽亭に隠匿し灘屋が客に応じて運びだす。
前回の仕事で小平が手引した時、仲間が二人殺されているので、定七は小平に疑惑を抱いていた。
しかも、新任の八丁堀同心岡島と金子が安楽亭探索に血眼だ。
そんな時、定七と与兵衛は街で無銭飲食の果て袋叩きにあっていた質屋の奉公人富次郎を助けてきた。
富次郎は幼馴染みのおきわと夫婦になろうとしていた。
ところが、おきわの母親が急死すると、怠け者の父親は娘を十二両で売りとばしてしまった。
思いあまった富次郎は店の金を盗み、おきわを捜したが目的の果たさぬうち持ち金を使ってしまった。
数日後、与兵衛がおきわの無事を知らせてきたが、身代金として二十両いる。
富次郎は、命を捨てても自分の力でおきわを助け出そうとした。
安楽亭の荒らくれたちは自分たちにはなかった夢を若者に託し、灘屋小平からの危険な話を引受けた。
しかし、彼らの行動を知っていたかのように、十三夜の月が川面を照らす中を抜荷を積んで安楽亭を目指す二艘の小舟を、捕手の群れが待ち受けていた。

寸評
安楽亭は悪の巣窟の様な飲み屋で、まともな人間は寄り付かない。
抜け荷犯罪の拠点となっており、これだけ怪しければ強制捜査をやればいいのにと思うのだが、将軍家の御紋で覆われた品があることや、役人をワイロで懐柔していることなどもあってならず者たちがたむろしている。
彼等を束ねるのが幾造と言う親分で、演じた中村翫右衛門がさすがの貫録を見せる。
小賢しい親分ではない腹の座った親分らしい役柄をこなしている。
殺伐とした居酒屋の中で、掃き溜めに鶴といった存在が幾蔵の娘おみつだ。
おみつを演じるのは若者の人気を得てコマキストと称されるファン層を獲得した栗原小巻である。
おみつは荒くれ者の中にあって人間らしい思いやりを見せるヒロインなのだが、栗原小巻の演技はどこか白々しいものを感じさせ浮いたものとなってしまっていたと思う。
熊井啓の「忍ぶ川」ではその浮いたような演技を昇華させた栗原小巻だが、僕はこの作品以外で彼女が存在感を見せた作品を知らない。
芸能史に名を遺す女優だっただけに作品に恵まれなかったのは惜しい気がする。
映像的に夜のシーンが結構あるのだが、これがなかなかいい。
ライトを浴びて浮かび上がる河原の景色が絵になっている。
ライトが河原に生えたヨシに部分的に当たり、えも言われない情緒を醸し出す。
特に唸らせるのが闇夜に迫りくる御用提灯の集団である。
水路を使って抜けにを運ぶ定七たちの船を待ち伏せしていた役人の船が御用提灯を掲げて何艘も迫ってくる。
暗闇に浮かび上がる提灯の明かりと御用の文字。
美しいシルエットだ。
無頼の者たちを召し取るために川向うに押し寄せた捕り方たちの持つ御用提灯のシルエットも美しい。
照明の下村一夫、撮影の岡崎宏三の功績だと思う。

安楽亭には無法者たちが集っているが彼らがどうした境遇のものかは定七の過去以外には語られない。
無銭飲食でひどい目にあっていた富次郎を与兵衛が助けてくる。
一元客お断りの安楽亭で富次郎は介抱されるのだが、助けた与兵衛の心根は不明である。
富次郎が心を寄せるおきわが遊郭に売り飛ばされたのだが、与兵衛はどうしたわけかその娘を買い戻し、富次郎と一緒にさせてやろうと奔走する。
一体、何が与兵衛にそのような思いを起こさせたのだろう。
自分勝手なならず者たちだが、このことをきっかけに他人のために一肌脱ぐという慈善行為の快感に目覚め、意地もあって危険な抜け荷運搬の仕事に取り掛かる。
悪事を働く者たちが正義に目覚めて破滅に向かっていってしまうという逆説の構図である。
これに大映からの助っ人出演の勝新太郎が絡むのだが、これがいつも酔いつぶれて秘密がありそうな男である。
あれこれと想像させる男なのだが、なんだそういう事だったのねとなるが、富次郎とおきわ問題の解決にはもってこいの役回りである。
一度は逃げ延びた仲間たちが再び参集するのは任侠的でスカッとする。
この時点では彼等は正義の側に立っているのだが、悪は栄えたためしがないという結末は予想通り。

いつか読書する日

2019-01-18 11:17:57 | 映画
「いつか読書する日」 2004年 日本


監督 緒方明
出演 田中裕子 岸部一徳 仁科亜季子
   渡辺美佐子 上田耕一 香川照之
   杉本哲太 鈴木砂羽 左右田一平

ストーリー
幼い頃に父と死別し青春時代に母も失った大場美奈子(田中裕子)は、未婚のまま故郷の町で50歳を迎え早朝は牛乳配達、昼間はスーパーのレジ係をしている。
彼女には親の友人皆川敏子(渡辺美佐子)がいるが、彼女の夫(上田耕一)は認知症の初期にあった。
一方、彼女と交際していた同級生の高梨槐多(岸部一徳)は、役所の児童課に勤務し親の虐待を受けている児童の保護にあたっている。
彼には余命いくばくもない病床の妻の高梨容子(仁科亜季子)がおり献身的に介護をしている。
二人にはかつて中学時代、親同士の不倫が発覚し疎遠になってしまったが暗い過去があった。
美奈子の母親(鈴木砂羽)と高梨の父親(杉本哲太)が不慮の事故死をとげ不倫関係が世間の明るみとなり、以降は互いの恋愛感情を封印するのが最善と考え相手を無視しつつ別々の人生を歩んで来たのだが、美奈子はその想いをラジオへ密かに投稿してしまう。
それを偶然耳にした槐多の妻で末期癌に侵された容子に全てを悟られてしまう。
ある日、高梨宅への配達時に牛乳箱で自分宛の容子からの至急会いたいというメモを見つける。
不信に思いつつ訪問する美奈子へ、「夫は今でもあなたを慕っているので私が死んだら夫と一緒になってほしい。それが最期の願い」と告げられ、唐突な内容と頼みに激しく動転する美奈子。
だが、容子は死期を迎えることになった。
葬儀も終え一段落し高梨を誘い、お互いの親の事故現場を訪れた二人は今までの積年の想いを伝える。
そして初めて結ばれた…。
彼女を心配する亡母の友人の敏子に今後のことを問われ、「これから本でも読みます」と答えた。

寸評
若い人がこの映画を見ると、何故と疑問を呈することが多くて、登場する人々の気持ちがわからないのではないか?
提起される問題はどれもこれも深刻だ。
幸いにして、私の子供は児童虐待などをしていないが、いつ自分が認知症に襲われるかもしれないし、いづれは妻かあるいは私がそれぞれの伴侶の介護をする日がやってくる。
そのような状況が身に迫っているだけに、それらを背景に起きる出来事は、私にはさして違和感のないもので理解出来てしまうのだ。

岸部一徳の槐多は劇的な死を遂げた父のせいで「絶対に平凡に生きてやる、必死になってそうしてきた」と言う。
必死に平凡たろうとしてきたのは、平凡ではない思いを抱いているからだが、そこから踏み出すことはできない。
平穏そうに見える生活を維持しようとひたすら生きてきたように見える。
その平穏と対極にあるのが、児童虐待や認知症といった問題で、槐多と美奈子の平凡さを浮き立たせるためにそれらのエピソードが挿入される。
彼らの長年にわたる平凡さで、後半の感情の爆発を誘引させる描きかたに感動する。

槐多が美奈子の配達した牛乳を一口飲んで捨てるというシーンなどは、美奈子とつながっていたいという口には出せない感情による行為として実によくわかるのだ。
わけあって別れた女性を、普通の結婚生活を送りながら何十年も思い続けている気持ちも理解できる。
それは健全な家庭生活を築き上げることと矛盾しないのではないか。
この思い続けることをモチーフにした映画として篠原哲雄監督の「はつ恋」を思い出すが、あちらは再会した二人は結ばれなかったが、こちらの二人は結ばれる。
どちらもいいんだなあ…。どちらも好きな映画だなあ…。

自分が容子の立場だったらどうしただろう?
精神的浮気をし続けた裏切り者として弾劾するだろうか、それとも病身の自分を献身的に看病してくれた夫として感謝するだろうか。
おそらく自分は後者で、それが自分のプライドでもあるとして、「世話になった、有難う、好きな人と一緒になって欲しい」と言うのではないかと思うのだ。
美奈子と槐多が結ばれるシーンはリアリティがあり、この場面の田中裕子は色っぽさと、堰が切って落とされたような感情を見事なまでに表現していた。
ついに美奈子が「カイタ!」と名前で呼びかける瞬間のスリルは思わずゾクッとしてしまう瞬間だ。

もしも妻が先立ち自分ひとりになった時、話相手のいない私は収集したDVDを見て過ごすか、蔵書を再び読み返すかするのではないか。
取り残された寂しさを乗り越えて、いつか映画を見る日、いつか読書する日がやってくるのだと思う。
でも、やはり、自分が先だろうな…。
渋い、大人の純愛映画だった。