おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

2017-11-28 09:51:06 | 映画
「光」 2017年 日本


監督: 大森立嗣
出演: 井浦新 瑛太 長谷川京子 橋本マナミ 梅沢昌代
    福崎那由他 紅甘  岡田篤哉 早坂ひらら
    南果歩 平田満

ストーリー
東京の離島、美浜島。記録的な暑さが続くなか、中学生の信之は閉塞感を抱きながら日々を過ごしている。
信之は同級生の美花と付き合っていた。
父親から激しい虐待を受けていた小学生の輔(たすく)は信之を慕い、いつも彼の後をついていた。
ある夜、信之は神社の境内で美花が男に犯されている姿を目撃する。
激高し、美花を救うために男を殺してしまう信之。
次の日、理不尽で容赦ない自然の圧倒的な力、津波が島に襲いかかり、全てが消滅。
生き残ったのは、信之のほかには美花と輔とろくでもない大人たちだけだった。
25年後、信之は結婚し、一人娘にも恵まれ、穏やかな生活を送っていた。
一方、美花は過去を捨て、華やかな芸能界で活躍していた。
そんなある日、25年前の秘密を知る輔が信之の前に現われる。
封じ込めていた過去の真相が明らかになっていくなか、信之は、一切の過去を捨ててきらびやかな芸能界で貪欲に生き続ける美花を守ろうとするのだが・・・。

寸評
一つの犯罪がさらなる罪を生んでいく悲劇なのだが、その悲劇は極めて暴力的だ。
東日本大震災を思わせるような大災害で信之の犯罪は闇に葬られるが、生き残った信之と輔のその後がどうだったのかは不明である。
しかし信之はエリートコースを歩んだようだし、輔は下層の生活になっているらしきことは分かる。
二人の格差が確執となったのかもしれないが、直接的要因はよくわからない。
それでいながら信之、輔、美花に潜む暴力は、原生林の中から生まれてきたような神秘性を感じさせる。
ジェフ・ミルズによる大音量のサウンドと、原生林の巨木が彼等の心証を象徴するように流れ描かれる。
男優たちは静かで冷酷な信之を演じる井浦新、狂気を発散する輔役の瑛太は抜群に良い。
比べると信之の妻を演じた橋本マナミの浮いた演技はいただけない。
亀裂の入った夫婦関係を表現するには物足りない。
美花が篠浦未喜となった長谷川京子にも小悪魔的雰囲気が欲しかったところで、女優がよくないと映画は面白くない。
暴力と欺瞞を描く情け容赦ない映画だが、原始の世界から生み出される生命賛歌のようなものを感じたかったなあ。




ブレードランナー 2049

2017-11-27 16:16:22 | 映画
伝説の映画「ブレードランナー」の続編を見る。

「ブレードランナー 2049」 2017年 アメリカ


監督: ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演: ライアン・ゴズリング ハリソン・フォード アナ・デ・アルマス
    マッケンジー・デイヴィス シルヴィア・フークス レニー・ジェームズ
    カルラ・ユーリ ロビン・ライト ショーン・ヤング

ストーリー
荒廃が進む2049年の地球。
カリフォルニアは貧困と病気が蔓延していた。
労働力として人間と見分けのつかないレプリカントが製造され、人間社会と危うい共存関係にあった。
しかし、人類への反乱を目論み社会に紛れ込んでいる違法な旧レプリカントは、ブレードランナーと呼ばれる捜査官が取り締まり、2つの社会の均衡と秩序を守っていた。
LA市警のブレードランナー“K”は、ある捜査の過程でレプリカントを巡る重大な秘密を知ってしまう。
一方、レプリカント開発に力を注ぐウォレス社もその秘密に関心を持ち、Kの行動を監視する。
捜査を進める中で次第に自らの記憶の謎と向き合っていくK。
やがてKはかつて優秀なブレードランナーとして活躍し、ある女性レプリカントと共に忽然と姿を消し30年間行方不明になっていたデッガードにたどり着く。
デッガードが命を懸けて守り続けてきた秘密とは? 
二つの社会の秩序を崩壊させ、人類の存亡に関わる真実が明かされる……。

寸評
評判の良かった作品の続編が作られることはよくあることだが、大抵の場合続編は前作を上回ることが出来ないばかりか凡作に終わってしまっていることが少なくない。
しかし本作は前作以上の出来で続編と呼ぶのをはばかられる作品に仕上がっている。
抑圧された職場で働き、貧困地区に住み、人間もどきと蔑まれながら生きているKというキャラクターの描かれ方は前作のハリソン・フォード以上だ。
レプリカントに起こったある奇跡の存在が時として切なさを、時として悲しみを伴って迫ってくる。
レプリカントは作り物なのだが、心や記憶が人間よりも人間らしい。
本物であるはずの登場してくる人間に人間にらしさを感じないので、レプリカントが際立ってくる。
欠如しているものは愛だ。
Kと共にいるジョイは感情を持ったAIを有したホノグラムのような存在だ。
ジョイほどのバーチャル女性でなくても、それに似たものは存在してそうな現実世界ではある。
そのジョイがジョイが生身の女性とシンクロしながらKと愛を交わすシーンは、愛と言うものの素晴らしさと切なさを描きだしたすこぶるいいシーンだ。
SF作品ではあるが、このような作品を撮られると日本映画は太刀打ちできない。
ミュージカルやスポーツ映画でも感じてしまう。
資本力か、あるいは才能の集積なのか、ハリウッドはスゴイと思わせる。
哲学的で深淵なメッセージ、圧倒的といえる映像美に酔いしれる。
僕はシニア料金1100円で見ることが出来た。

ブレードランナー

2017-11-21 16:19:59 | 映画
「ブレードランナー 2049」が公開されている。
1982年公開の「ブレードランナー」の続編である。
そんなわけで見たのは前作。

「ブレードランナー」 1982年 アメリカ


監督: リドリー・スコット
出演: ハリソン・フォード  ルトガー・ハウアー  ショーン・ヤング
    エドワード・ジェームズ・オルモス  ダリル・ハンナ

ストーリー
2019年。この頃、地球人は宇宙へ進出し、残された人々は高層ビルの林立する都市に住んでいた。
宇宙開拓の前線では遺伝子工学により開発されたレプリカントと呼ばれる人造人間が、過酷な奴隷労働に従事していたが、製造から数年経つと感情が芽生え、人間に反旗を翻すような事件が多発するようになった。
レプリカントを開発したタイレル社によって安全装置として4年の寿命が与えられたが、後を絶たず人間社会に紛れ込もうとするレプリカントを「殺害=解任」する任務を負うのが、専任捜査官ブレードランナーであった。
タイレル社が開発した最新レプリカント「ネクサス6型」の一団が人間を殺害し脱走、シャトルを奪い、密かに地球に帰還した。
タイレル社に押し入って身分を書き換え、ブレードランナーを殺害して潜伏したレプリカント男女4名(バッティ、リオン、ゾーラ、プリス)を見つけ出すため、ブレードランナーを退職していたリック・デッカードが呼び戻される。
デッカードは情報を得るためレプリカントの開発者であるタイレル博士と面会し、彼の秘書レイチェルもまたレプリカントであることを見抜く。
人間としての自己認識が揺さぶられ、戸惑うレイチェルにデッカードは惹かれていく。
レプリカントのリーダーであるバッティはタイレル社長を惨殺し、デッカードとバッティが対決する…。

寸評
熱狂的なファンもいる「ブレードランナー」だが、あまりにも前半部分が長すぎる。
酸性雨が降り注ぐ環境破壊された地球をイメージ的に描くシーンが延々と続くという感じから抜けきれない。
退廃的な街の雰囲気があり、時々日本人や日本の看板が出てくるので我々日本人は興味を持ってみることが出来るが、町の看板はゴルフ用品と読み取れるような物もあるが、その文字は違っていたりして、それが意図したものなのかどうかは分からない。
なんでも、この町の美術はリドリー・スコットが日本を訪れた際に得た新宿歌舞伎町のイメージから得たものと聞き及ぶが、確かに歌舞伎町は退廃的なムードのある街なのかもしれない。
ここで描かれる地球上の街は環境汚染がありスラム化している。
近未来的な高層ビルがあり、空飛ぶ自動車が飛び交っているが、どうやら金持ち階級は宇宙へ避難しているようで、まるでどこかの国で起きているような状態である。
そんな雰囲気を醸し出しているセットはなかなか素晴らしい。

レプリカントたちの命は4年と限られているので、その寿命を延ばしてもらおうと製造元へ忍び込もうとしているのだが、とは言うものの彼等は人間を殺してやって来たいわば人間に対する反逆者だ。
その反逆者的な行為が描かれないので、彼らがどんなに恐ろしい敵対者なのかが感じ取れない。
いやむしろ、人間に抵抗する敵対者というイメージをわざと避けていたのかもしれない。
脚本的に面白いと感じたのはレイチェルの存在だ。
彼女もレプリカントなのだが、タイレル博士の死んだ姪の記憶を埋め込まれているために、自分がレプリカントだと気づいていないという設定が、物語を膨らませていた。
レプリカントは製造から数年経つと感情が芽生えて人間に反旗を翻すようになった存在なのだが、彼女に関しては感情の芽生えが逆に作用してデッカードとの関係を意味深にしている。

僕は今のところ健康体で余命を宣告されているわけではないが、死の時間を決められていたとしたらその恐怖はどのようなものだろう?
ある時間がきたら突然死が訪れ、その時を本人も知っていたとしたらという状況は想像できない。
命とは何なのかを考えさせられる内容で、その意味では哲学的な命題を抱えた作品でもある。
人は自分の寿命を知らないから、明日を信じて頑張れるような所がある。
僕にはブレードランナーとして活躍するデッカードのヒーロー性よりも、命を制限されたレプリカントの苦悩の方が伝わってきた。
その代表は言うまでもなくバッティだ。
彼が最後にとる態度と言葉には胸が詰まるものがある。
彼の手から飛び立つ白いハトのシーンはシュールでバッティの哀しみを表す何とも美しいシーンだ。
このシーンを撮りたいがための「ブレードランナー」だったとさえ思えてくる。
レプリカントが感情を持てば、結局人間に近づき、人間は本来善なのだと言っているようでもある。
オタクファンの支持を集めそうな内容だが、それだけに僕は手放しでこの作品を評価できないでいる。

かもめ食堂

2017-11-18 17:05:45 | 映画
「ラストレシピ ~麒麟の舌の記憶~」を見たので、しばらくは食べ物映画を見ることに。
邦画の中からもう一作。

「かもめ食堂」 2005年 日本

監督: 荻上直子
出演: 小林聡美 片桐はいり もたいまさこ
    ヤルッコ・ニエミ タリア・マルクス マルック・ペルトラ

ストーリー
夏のある日、ヘルシンキの街角に日本人女性のサチエ(小林聡美 )が店主の小さな食堂がオープンした。
献立はシンプルで美味しいものを、と考えるサチエは、メインメニューをおにぎりにした。
客はなかなかやってこないが、それでもサチエは毎日食器をぴかぴかに磨き、夕方になるとプールで泳ぎ、家に帰ると食事を作る。
そんなある日、ついに初めてのお客さんの青年トンミ(ヤルッコ・ニエミ)がやってきた。
その日の夕方、サチエは書店のカフェで、難しい顔をして『ムーミン谷の夏まつり』を読んでいる日本人女性ミドリ(片桐はいり )に声をかける。
フィンランドは初めてというミドリの話に何かを感じたサチエは、自分の家に泊まるようすすめる。
そして、ミドリはかもめ食堂を手伝い始める。
そんな頃、またひとり、訳ありげな女性、マサコ(もたいまさこ)がヘルシンキのヴァンター空港に降り立った。
スーツケースが運ばれてこないために、毎日空港へ確認に行かなければいけないマサコもまた、かもめ食堂を手伝うようになる。
サチエの「かもめ食堂」は次第に人気が出はじめ、日々は穏やかに過ぎてゆくのだった。

寸評
フィンランドの観光映画ではないけれど、それでもフィンランドを訪ねてみたくなるような映画だ。
フィンランドといえば、森と湖の国というイメージがあるが、その国を舞台設定に選んだのがいい。
森と湖という大自然を描いたシーンはほとんどないが、空気だけでいかにものんびりした感じがしてくる映画だ。
これが日本だとそうはいかなかったのではないかと思うくらい雰囲気作りに成功している。
公私において自分の周りに起きているわずらわしさと言うか、生きていく為の必要事項というのか、そんなものから開放された時間を感じさせてくれた。

それぞれにちょっとしたエピソードを持つ人々が登場するが、大きな事件を起こすわけでもなく、文字通りちょっとした出来事を起こす人々として通り過ぎていく。
その平々凡々な時間の中で凛として生きるサチエさんにすごく共感してしまう。
なくしてしまった大切なものを取り戻せるような生き方なのかもしれない。

島田珠代(吉本所属)と片岡鶴太郎を足して2で割ったような片桐はいりのキャスティングが絶妙だ。
「もしも明日から私がいなくなれば淋しいですか?やっぱり淋しくないんだ・・・」とか「最後の晩餐には必ず呼んでくださいよ・・・」などというセリフが彼女の持つ雰囲気にマッチしていて面白かった。
小林聡美、片桐はいり、もたいまさこという3人の個性が、スローで、コミカルで、飄々としていて絶妙のハーモニーを奏でていた。
三人の日本人女性には何か心に秘めたものがありそうなのだが、あえてそれを深く追求することはしていない。
「この町に来る人は、みんな癒されて元気になるんだヨ」というところに凝縮している。
このあたりの持っていき方が見事だ。
そのひとことで納得させられてしまうのだ。

前半は店がガラガラということで、料理もあまり登場せずにコーヒーばかりなのだが、後半になるにしたがって、美味しそうな料理がたくさん登場してくる。
スゴイと叫びたくなる食べたことのない豪華な料理ではなく、おにぎりに代表されるような手短な料理なので、余計にその味が想像できて美味しそうに見える。
おにぎりが繁盛メニューになって欲しかったけど、舞台がフィンランドだからチョット無理だったのかなあ・・・。

冗長なシーンが多く、何てことない映画なのに、映画館を出る時はすごく満足感と幸せ感をもたらせてくれた。
ある種の癒し系映画で、こじんまりとした映画だったけど、映画館で見てよかったと感じた映画だった。
僕はこのような雰囲気の映画は初めてで、その作風をとても新鮮に感じた。
その新鮮さも作品の評価をあげた作品だった。
この作品が持っていた独特の間と呼べるものは、この監督の作風なのかもしれないなと感じた。
ラストシーンの「いらっしゃいませ!」と叫ぶ小林聡美さんの声の張りと表情に「役者さんってすごいなー」と感心してしまった。

タンポポ

2017-11-17 09:02:02 | 映画
「ラストレシピ ~麒麟の舌の記憶~」を見たので、しばらくは食べ物映画を見ることに。
邦画の中で思い浮かぶのはこれかな。役所広司のヤクザのシーンは艶めかしかったなあ。

「タンポポ」 1985年 日本


監督: 伊丹十三
出演: 山崎努 宮本信子 役所広司 渡辺謙 安岡力也 桜金造
    池内万平 加藤嘉 大滝秀治 大友柳太朗 岡田茉莉子

ストーリー
雨の降る夜、タンクローリーの運転手、ゴローとガンは、ふらりとさびれたラーメン屋に入った。
店内には、ピスケンという図体の大きい男とその子分達がいてゴローと乱闘になる。
ケガをしたゴローは、店の女主人タンポポに介抱された。
彼女は夫亡き後、ターボーというひとり息子を抱えて店を切盛りしている。
ゴローとガンのラーメンの味が今一つの言葉に、タンポポは二人の弟子にしてくれと頼み込む。
タンポポは他の店のスープの味を盗んだりするが、なかなかうまくいかない。
ゴローはそんな彼女を、食通の乞食集団と一緒にいるセンセイという人物に会わせた。
それを近くのホテルの窓から、白服の男が情婦と共に見ている。
“来々軒”はゴローの提案で、“タンポポ”と名を替えることになった。
ある日、ゴロー、タンポポ、ガン、センセイの四人は、そば屋で餅を喉につまらせた老人を救けた。
老人は富豪で、彼らは御礼にとスッポン料理と老人の運転手、ショーヘイが作ったラーメンをごちそうになる。
ラーメンの味は抜群で、ショーヘイも“タンポポ”を町一番の店にする協力者となった。
ある日、ゴローはピスケンに声をかけられ、一対一で勝負した後、ピスケンも彼らの仲間に加わり、店の内装を担当することになった。
ゴローとタンポポは互いに魅かれあうものを感じていた。
一方、白服の男が何者かに撃たれる。
血だらけになって倒れた彼のもとに情婦が駆けつけるが、男は息をひきとった。
--やがて、タンポポの努力が実り、ゴロー達が彼女の作ったラーメンを「この味だ」という日が来た・・・。

寸評
食べ物、あるいは食べることを題材とした映画は少なからず撮られているのだが、その中でも「タンポポ」は間違いなく上位にランクされると思うし、思わずラーメンが食べたくなり、食欲を起こされる作品だ。
オープニングと同時に白服で決めたヤクザの幹部らしい男が映画館に入ってくる。
一番前の席に座るが、子分と思われる男たちがテーブルと共に、シャンパン、フランスパンなどを持ってきて彼の前に並べる。
観覧中のマナーを客の一人に恫喝し、そちらも映画館なのねと観客に話しかける。
映画のための映画であり、これは食べ物の映画なのだと冒頭で示していた思う。
次のシーンはタンポポの小学生の息子であるターボーがイジメにあっていて、それをゴローが助けるシーン。
人は誰かに助けてもらって生きているのだと言うテーマも象徴していたシーンだ。
本線として、未亡人のタンポポ(宮本信子)がやっている流行っていないラーメン店を、流れ者のゴロー(山崎努)らにる行列ができる美味い店にするという奮闘ぶりが描かれるのだが、食べ物に関するおびただしいと言ってもいいぐらいの話が挿入される。
その脇道が結構楽しめて、上手く本線のシーンと切り替えれていた。
白服の男(役所広司)と情婦(黒田福美)の絡みはエロティックである。
情婦はボウルに入った生きた車海老を腹に乗せられるなど、白服の男の食道楽に付き合っているのだが、卵黄を口移しでやり取りするシーンなどはヌードシーンを必要としない艶めかしさがある。
海辺で少女(洞口依子)から牡蠣をもらって食べるシーンもゾクッとさせられた。

ゴローはガン(渡辺謙)と長距離トラックの運転手をしているのだが、どうやらガンはラーメンに関する本を読んでいるようで、その中に登場する男(大友柳太朗)が具現化して登場し、ラーメンの正しい食べ方を講釈する。
本当かどうか分からないけれど、通はそうして食べるのかと思わせるし、チャーシューに向かって「あとでね」と語りかける場面などにはクスリと笑みをこぼしてしまう。
思わず微笑んでしまうシーンが多いし、皮肉を込めたユーモアも散りばめられている。
ゴローとタンポポがトレーニングしている時に会社員らしい一行とすれ違う。
カメラは二人からその一行に切り替わり、話が本線からわき道にそれていく。
高級レストランらしい店に入った専務(野口元夫)を初めとする一行はメニューがよくわからない。
一人が注文すると皆が知ったかぶりしてそれと同じものを注文する。
カバン持ちの下っ端(加藤賢崇)が専門的な注文をして、重役たちが真っ赤な顔になるのだが、そのメイクが実にオーバーで権威者を笑い飛ばしていた。
聞くのがはばかられるときに、周りの人を見て同じようにする経験は僕にもある。
スイートポテトの糸を容器に入れた水で切るのも分からなくて、僕は指先を洗うものかと思っていた。
マナーを知っていた人の行為を見て、同席していた人が次々とスイートポテトを食べ始めたことを思い出した。

マナー教室の話、母親から健康志向の食事を強要されている子供の話、詐欺師の話、家族の食事を作って死ぬ主婦の話、ホームレスの面々のグルメぶりなど、まるでオムニバス映画を見ているようだった。
伊丹十三は短期間で数多くの作品を撮った監督だが、その中でもいちばん彼らしい作品ではないかと思う。

バベットの晩餐会

2017-11-16 07:11:17 | 映画
「ラストレシピ ~麒麟の舌の記憶~」を見たので、しばらくは食べ物映画を見ることに。
思いつくのは洋画の中ではまずこれだ。

「バベットの晩餐会」 1987年 デンマーク


監督: ガブリエル・アクセル
出演: ステファーヌ・オードラン ビルギッテ・フェダースピール
    ボディル・キュア ビビ・アンデショーン ヴィーベケ・ハストルプ

ストーリー
19世紀後半、デンマークの辺境の小さな漁村に、厳格なプロテスタント牧師(ポウエル・ケアン)の美しい娘、マーチーネ(ヴィーベケ・ハストルプ)とフィリパ(ハンネ・ステンスゴー)は住んでいた。
やがてマーチーネには謹慎中の若い士官ローレンス(グドマール・ヴィーヴェソン)が、フィリッパには休暇中の著名なオペラ歌手アシール・パパン(ジャン・フィリップ・ラフォン)がそれぞれ求愛するが、二人は父の仕事を生涯手伝ってゆく決心をし、歳月がたち父が亡くなった後も未婚のままその仕事を献身的に続けていた。
そんなある嵐の夜、マーチーネ(ビアギッテ・フェザースピール)とフィリパ(ボディル・キェア)のもとにパパンからの紹介状を持ったバベットという女性(ステファーヌ・オードラン)が、訪ねてきた。
パリ・コミューンで家族を失い亡命してきた彼女の、無給でよいから働かせてほしいという申し出に、二人は家政婦としてバベットを家におくことにした。
やがて彼女は謎を秘めつつも一家になくてはならない一員となり、祖国フランスとのつながりはパリの友人に買ってもらっている宝くじのみであった。
それから14年の月日が流れ父の弟子たちも年老いて、集会の昔からの不幸や嫉妬心によるいさかいの場となったことに心を痛めた姉妹は、父の生誕百周年の晩餐を行うことで皆の心を一つにしようと思いつく。
そんな時バベットの宝くじが一万フラン当たり、バベットは晩餐会でフランス料理を作らせてほしいと頼む。
姉妹は彼女の初めての頼みを聞いてやることにするが、数日後、彼女が運んできた料理の材料の贅沢さに、質素な生活を旨としてきた姉妹は天罰が下るのではと恐怖を抱くのだった。
さて晩餐会の夜、将軍となったローレンス(ヤール・キューレ)も席を連ね、バベットの料理は次第に村人たちの心を解きほぐしてゆく。
実はバベットは、コミューン以前「カフェ・アングレ」の女性シェフだったのである。

寸評
宗教映画の様相を呈していて、キリスト教に馴染んでいない僕はその信仰の奥にあるものがよくわからない。
信仰に根付いた精神文化が理解できれば、この映画から受ける印象はまた違ったものになっていただろう。
貧しそうな村に住んでいる姉妹が結婚もしないで奉仕活動を続けているが、その姉妹にも若い頃に恋愛経験の様なものがあったことが描かれる。
すごく抑えた色調と、二人の恋模様が表面的にしか描かれていないのでなおさら宗教的なものを感じてしまう。
若い士官ローレンスとの係わり合いの経緯、およびそのローレンスが姉妹の父親である牧師から受けた教示を役役立たせて出世していく経緯があっさりと描かれる。
歌唱指導したオペラ歌手のアシール・パパンとの交流はオペラもどきで描かれる。
突如その演出で恋心が歌いあげられ、二人の関係はいわゆる悲恋で終わるのだが、その経緯もそのことに主眼が置かれていないので手紙を預けるだけで終わってしまう。
パパンはまるでバベットを二人の家政婦として送り込むためだけに登場してきた人物の様な扱いである。

さてここからバベットの家政婦としての生活が始まる。
長い年月の間にバベットのやりくりで姉妹の生活が金銭的にも時間的にもゆとりあるものになってきたことが描かれ、バベットがこの村に溶け込んだことが分かる。
食べ物の施しを受けていた人たちがバベットの料理に慣れて、姉妹の味には戻れないことがチラリと示されるのもその事の一端だ。
バベットはフランスからデンマークに亡命してきた女性で、姉妹はバベットがいつの日かフランスに帰ってしまうのではないかと思っているので、バベットが宝くじに当たった時に「神は与え、そして奪っていく」とつぶやく。
姉妹の気持ちを表す、なかなか気のきいたセリフだ。

そしてここから題名になっているバベットによる晩餐会の準備が始まり見せ場に突入していく。
見せ場であることに違いはないが、その見せ場はドラマチックなものではなく、ここでも映画は静かだ。
バベットの用意する食材を見た姉妹を含む村の人々は恐れおののき、晩餐会では料理の話はしないでおこうと相談するが、そんな打ち合わせがされているとは知らない、今は将軍となって出席することになったローレンスが加わったことで、彼の料理に関するうんちくと村人のからみが愉快に繰り広げられる。
創作料理も含めて本物の食材を使った本格的な料理が提供され始めると、俄然参加者の顔が和んでくる。
美味しいものを食べると人の気持ちは自然と和やかなものになるものなのだろう。
大したものを食べているわけではないが、僕だっておいしい料理とワインがあれば幸せな気分になる。
バベットは十数年間披露することがなかった料理の腕を存分にふるう。
バベットは「芸術に貧しさはない」と言い切り、人にとって持てる才能を発揮する場所に出合うことが幸せなことなのだと告げる。
長い人生で選択を迫られることは数多くあるだろうが、どの選択をするかが重要なわけではない。
何を選択してもその前には無限の可能性が広がっているのだ。
僕は何がしたいとかで入った会社ではなかったが、与えられた場所で持てる力をすべて発揮出来たと思えていることに幸せを感じている。

ラストレシピ ~麒麟の舌の記憶~

2017-11-15 15:00:23 | 映画
「ラストレシピ ~麒麟の舌の記憶~」 2017年 日本


監督: 滝田洋二郎
出演: 二宮和也 西島秀俊 綾野剛 宮崎あおい 鎌田正太郎
    竹野内豊 笈田ヨシ 大地康雄 兼松若人 竹嶋康成

ストーリー
絶対味覚=“麒麟の舌”を持つ佐々木充は、依頼人が人生最後に食べたい料理の再現を請け負う“最期の料理人”として知られる男。
ある日、中国料理界の重鎮・楊晴明から破格の依頼が舞い込む。
それは、かつて満州国で天才料理人・山形直太朗が考案したという伝説のフルコース“大日本帝国食菜全席”のレシピを再現してほしいというものだった。
楊は1930年代、満州で山形直太朗の調理助手としてメニュー作成に協力したが、消息を絶った直太朗とともにレシピ集も散逸されたという。
そしてその直太朗もまた“麒麟の舌”を持つ料理人であった。
元・天皇の料理番として宮内省に勤めていたが、「大日本帝国食菜全席」作成のため、満州に渡る。
やがて、メニュー開発をすすめるうちに、日本と他国の料理を融合して新たなレシピを生み出すことが、民族間の相互理解の助けとなり「料理をもって和を成せる」という考えに至る。
その理想に人生すべてを捧げることとなるが、太平洋戦争開戦直前にレシピ集とともに消息を絶ったのであった…。
充は、関係者たちの証言を集めながら山形を巡る謎を解き明かし幻のレシピの再現に挑むむが、やがて70年の時をつなぐ壮大な愛の物語を知る…。

寸評
現代と1930年代を行き来しながら、天才料理人・山形直太朗の人生と消えた幻のレシピの行方を追う充の旅を平行して描きながら、なぜレシピは消えたのか、山形が料理に込めた思いをミステリー風に描き、歴史に翻弄された人々の姿を描いていく手法は手堅いものの、どこか物足りなさを感じてしまうので残念に思う。
一番の原因は現代パートを受け持つ二宮和也の高額な報酬でしか仕事を受けないというキャラクターが描き切れていないことだ。
絶対味覚を持つ天才料理人だということも、現代と過去のパートをつなぐ要因の一つでもあるのに描き切れていたとは言い難い。
山形の過去のパートが歴史的背景もあってドラマチックだから、ダブル主演のはずが西島秀俊の単独主演みたいになってしまっていて、二宮和也の良さが出ていなくて物足りなさを感じさせる。
佐々木充という青年の自分探しと成長の物語でもあるはずなのだが、どうもその部分が欠落していたように思うのだ。

満州における関東軍の陰謀やら、人々のつながりが解き明かされていく後半は盛り上がる展開なのだが、しかしそれは余りにも駆け足すぎたように思う。
日本統治下の満州で、料理によって民族間の相互理解を目指した山形の尊い志を通じて、平和を願う崇高なテーマがもっと前面に出て来るべきだったように思う。
しかし、食べ物がメインとなっている映画に共通の食欲をそそるようなシーンは健在だった。
満漢全席を超える、「大日本帝国食菜全席」という究極のフルコースの美しい料理や、それに使用する食材とレシピの成り立ちなどに興味を沸かせる。
美味そうだなあ~と、ついよだれをこぼしそうになる。
食べ物映画の醍醐味である。

滝田洋二郎監督がロマンポルノから飛び出して1986年に「コミック雑誌なんかいらない!」で登場した時には、その新鮮さに驚愕したものだが、その後は時折僕の感性に合う作品を提供しながら、半分は興味をそそらなかったり期待を裏切る作品を提供する監督でもある。
今回はちょっと期待を裏切られたかなあ・・・。

息もできない

2017-11-04 10:33:25 | 映画
「あゝ、荒野」のヤン・イクチュン監督、主演作品。

「息もできない」 2008年 韓国


監督: ヤン・イクチュン
出演: ヤン・イクチュン キム・コッピ イ・ファン チョン・マンシク
    ユン・スンフン キム・ヒス パク・チョンスン チェ・ヨンミン

ストーリー
手加減のない仕事振りで恐れられている取立て屋のサンフンは、借金回収だけではなくストライキの妨害や屋台の強制撤去などでも容赦のない男だったが、甥のヒョンインをかわいがる一面も持っていた。
ある日、サンフンは偶然、女子高生のヨニと出会い、二人はお互いに通じるものを感じる。
彼らはそれぞれ、親との関係に問題を抱えていた。
幼い頃、暴力的な父に母と妹を殺された過去を持つサンフン。
刑務所から出所した父のもとを訪れると、一言もなく殴りつける。
一方のヨニは、精神を病み、働けない父を抱えていた。
父の代わりに働いていた母は、屋台の強制撤去に遭い、その最中に死亡。
弟のヨンジェは高校にも行かず、荒れた生活を送っていた。
粗野なサンフンと、それに臆することなく彼をからかうヨニ。
相反する2人を似た境遇が結び付ける。
しばらくして、ヨンジェがサンフンのもとで仕事をすることになる。
だが、ヨニの弟だと知らないサンフンは、おどおどしたヨンジェを “腰抜け”と罵倒する。
仕事振りはより激しくなり、ヨンジェへの態度も一層厳しくなる。
それにより、ヨンジェの家庭内暴力がエスカレートしていく。
一方、憎しみを募らせたサンフンだったが、自殺を図った父を発見、病院に担ぎ込む。

寸評
言って見れば家庭内暴力映画なのだが、持って行き様のないエネルギーを家族にまき散らすという、よく目にする家庭内暴力ではない。
肉体の底から噴き出してくるような怒りのはけ口として暴力をふるうヤン・イクチュンの存在感がすごい。
サンフンの父は妻と娘を死なせて服役し出所してきているが、サンフンはその父を許すことが出来ない。
そのはけ口を父がふるった暴力を駆使して借金の取り立てに求めている。
かつて自分が体験した光景を子供の目の前で繰り広げてもたじろぐことはない。
彼は取り立て屋の仲間とも打ち解けることがない言わば一匹狼だ。
わずかに通じ合っていると思わせるのは、幼なじみであり取り立て屋の社長のマンシクだと思わせるが、二人の会話は口汚くののしり合うようなやり取りで、サンフンの屈折した心をあぶりだしている。
ヤン・イクチュンはそんなサンフンを、まるでドキュメンタリーから抜け出てきたような本物性を感じさせながら演じていて、彼の存在なくしてこの映画はない。

サンフンが路上で知り合った女子高生のヨニも同じような体験を持ち、今も兄の横暴に手を焼いている。
その兄もヨニと共に味わった幼児体験から父親を憎んでいる。
ヨニの家族は家賃の支払いにも難儀している最下層の一家だ。
サンフンの家庭も貧しそうだったし、共通するのは貧困からくる家庭の崩壊を経験していることだろう。
ヨニは高校生だがちょっとした不良女子高生で、サンフンが彼女と心を通わせていく経緯に心が和む。
口実を設けてはヨニを呼び出すサンフンを見ることで、彼に抱いていた嫌悪感が和らいでいった。
この男も本当は打ち解けることが出来る相手が欲しかった淋しがり屋なのだと感じてくる。
サンフンは自分の輸血で父が一命を取り留めると、ヨニを呼び出し言葉もなく一緒に涙を流すし、甥である幼いヒョンインの言葉で、父親を殴る自分の姿が自分が嫌った父と同じであることに気付くのだが、時すでに遅しという展開が悲しいしドラマチックだ。

二つの家族が微妙に絡み合いながらも、救いようのない家族として父が振るった暴力を、その暴力を憎むあまり逆にその息子たちがその嫌っていたはずの暴力を引き継いでいく負の連鎖の悲しさが力強く描かれている。
主演のサンフンも演じるヤン・イクチュンの初長編らしいが、この徹底した描きぶりを演出できる感性は恐ろしくもあり、韓国映画のエネルギーが未だに巨大化していることを感じさせた。
重いなあ~、暗いなあ~と感じながら見ていたが、取立て屋のマンシクが堅気に戻り、サンフンの姉さんといい関係になりそうな雰囲気があり、そんな彼らと新たな交流を持ったヨニも明るくなって、救われたような気持ちになっていたのだけれど、それだけに結末は一層悲劇的となった。
ヨニはつかの間の平和を味わうが、それは登場人物の全てが有していなかった家庭の温か味だ。
しかし、最後になってヨニは母親が出会った暴力と死を再び目の当たりにすることになり呆然と立ち尽くす。
意気地なしだったヨニの弟ヨンジェが凶暴性を目覚めさせてしまい、暴力の連鎖が起きたことを我々も知る。
その痛々しい救いようのない世界がことさらこの映画を重くしていたが、ここまで徹底的に描き切られると、救いようのない世界もあるのだと言われているようで、その主張が妙に説得力を持っていたように感じた。
何度見ても気分が重くなる映画なのだが、なぜか引き込まれてしまう。