おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

サラの鍵

2022-07-31 08:16:13 | 映画
「サラの鍵」 2010年 フランス


監督 ジル・パケ=ブランネール    
出演 クリスティン・スコット・トーマス
   メリュジーヌ・マヤンス
   ニエル・アレストリュプ
   エイダン・クイン フレデリック・ピエロ
   ミシェル・デュショーソワ
   ドミニク・フロ

ストーリー
夫と娘とパリで暮らすアメリカ人女性記者ジュリアは、45歳で待望の妊娠をはたす。
が、報告した夫から返って来たのは、思いもよらぬ反対だった。
そんな人生の岐路に立った彼女は、ある取材で衝撃的な事実に出会う。
夫の祖父母から譲り受けて住んでいるアパートは、かつて1942年のパリのユダヤ人迫害事件でアウシュビッツに送られたユダヤ人家族が住んでいたというのだ。
さらに、その一家の長女で10歳の少女サラが収容所から逃亡したことを知る。
一斉検挙の朝、サラは弟を納戸に隠して鍵をかけた。
すぐに戻れると思っていたサラだったが、他の多数のユダヤ人たちと共にすし詰めの競輪場に隔離された末、収容所へと送られてしまう。
弟のことが心配でならないサラは、ついに収容所からの脱走を決意するが…。
果たして、サラは弟を助けることができたのか?
2人は今も生きているのか?
事件を紐解き、サラの足跡を辿る中、次々と明かされてゆく秘密。
そこに隠された事実がジュリアを揺さぶり、人生さえも変えていく。
すべてが明かされた時、サラの痛切な悲しみを全身で受け止めた彼女が見出した一筋の光とは…?


寸評
劇中で若い編集者がヴェルディブ事件を知らないのかと言われる場面が有るが、僕自身もパリ警察による大規模なユダヤ人狩りといわれるこの事件を知らなかったばかりか、1995年にフランスのシラク大統領がその事実を認め謝罪する演説を行ったことも知らなかった。
ドイツ占領下とはいえフランスもナチスのユダヤ人迫害に手を貸していた事実を知ったのだが、この映画はホロコーストをメインテーマとしているわけではない。
時代や環境といった大きな要因の中では小さな人間はそれに抗することは容易いことではないが、それでも人として存在していかねばならない苦悩と希望をこの映画は描いている。
サラは自責の念を負って生きているが、弟への対応を両親から責められたこともそれを増幅させていると思う。
愛に満ちた家族で有った筈なのに、極限時において発せられる言葉に観客である僕は慄いた。

冒頭の子供たちがじゃれあうシーンで猫が登場するが、この猫の取り扱いが巧い。
大した小道具ではないが、猫の動きが平和な時間からこれから起こる事態を暗示する役目を表していた。
僕はこの様なさりげないシーンにセンスを感じる。
それに続くヴェルディブ(競輪場)の映像は、脱出する女性も含めて観客に迫ってきた。
その後展開される過去と現在を頻繁にカットバックで行き来する手法は、特に外国映画においては頭の回転が鈍ってきた僕は苦手としているのだが、この作品では画面のタッチの違いでも判断できるような演出がされていて、実にスムーズな切り替えで息をつかせない。
このために余計な神経を使うことなく作品に没頭することが出来て、2時間程があっという間に過ぎ去った。

あの時代にそこにいれば何をしたと聞かれ、何もしないで湾岸戦争と同じように出来事をテレビで見ていたと答える場面があるが、時代の流れの中に身を置いた時の無力感を言いえていた。
ナチスに加担せざるを得なかったフランスもドイツに占領された流れの中で無謀な行為に突き進んでしまったのだろう。
いい人が周りに結構いても、世の中の雰囲気や時代の流れにのみ込まれて悲劇が引き起こされる恐ろしさを感じた。
それでも、脱出を助ける兵士や、サラを育てる老夫婦、亡くなった義父が秘かに行っていた行為など、救われるエピソードがちりばめていて、人間の弱さと共に、失うことのない人間らしさもあって救われる気分にさせてくれた。
そしてラストでは未来への希望を与えてくれる。
この組み立てが見終わった後の感動と感激をもたらしていたと思う。
ラストシーンではいきなりサラの名前を告げずにワンクッション置いているところが良い。
予想される事柄だけに、この演出の工夫が最後の最後に感動を増幅させていたと思う。

サラ役のメリュジーヌ・マヤンスちゃんがこの作品の成功に一役買っているのは言うまでもないが、その演技は芦田愛菜ちゃん以上で、一役どころか、二役も三役も買っていた。

サラエボの花

2022-07-30 08:32:16 | 映画
「サラエボの花」 2006年 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ / オーストリア / ドイツ / クロアチア


監督 ヤスミラ・ジュバニッチ
出演 ミリャナ・カラノヴィッチ
   ルナ・ミヨヴィッチ
   レオン・ルチェフ
   ケナン・チャティチ

ストーリー
エスマは12歳の娘サラと二人暮らしで、生活は厳しく、ナイトクラブでウェイトレスとして深夜まで働く日々。
多感な年代のサラは寂しさからしばしばエスマと衝突する。
ある日、活発なサラは男子生徒に混じってのサッカーで、クラスメイトの少年サミルとケンカになる。
先生に「両親に来てもらう」と言われ、「パパはいないわ。シャヒード(殉教者)よ」と、胸を張るサラ。
サミルもまた紛争で父親を亡くしており、その共通の喪失感から二人は次第に近づいていく。
一方、過去の辛い記憶から男性恐怖症となっているエスマにナイトクラブは耐えがたい仕事であったが、同じく紛争の中で家族を亡くした同僚ペルダのやさしさに、心を開いていく。
やがて、サラの学校の修学旅行が近づき、父親の戦死の証明書があれば旅費は免除されるのだが、エスマは「父親の死体が発見されなかったので難しい」と、苦しい言い訳を続ける。
不信感を募らせるサラに追い討ちをかけるように、クラスメイト達がサラの父親が戦死者リストに載っていないとからかい始め、さらに娘サラのために旅費を全額工面したことを知ると、友達サミルの父親の形見の拳銃を母エスマに突きつけ、真実を教えて欲しいと本気で迫る。
つかみ合いになりながら、エスマは長い間隠し続けてきた秘密をついに口にしてしまう。
いつもはただ参加している集団セラピーの場で、泣きながら語るエスマ。
収容所で敵の兵士にレイプされて身ごもったこと、その子供の存在が許せず流産させようとおなかを叩き続けたこと、そして生まれた赤ん坊を見て、“これほど美しいものがこの世の中にあるだろうか”と思ったということを。
修学旅行出発の朝、頭を丸刈りにしたサラを見送るエスマ。
言葉は交わさなかったが、出発直前に窓から微笑み小さく手を振るサラ、それに笑顔で大きく手を振るエスマ。


寸評
作品を見る前にサラエボを取り巻く状況を把握しておかなければならない。
ユーゴスラビアの都市であった頃のサラエボで、1984年2月に冬季オリンピックが開催されたのだが、そのわずか7年後の1991年にユーゴスラビア紛争にともなうユーゴ解体の動きが表面化した。
1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言したが、セルビア人はこれに反対し分離を目指したため、両者間の対立はしだいに深刻化し、独立宣言の翌月には軍事衝突に発展した。
1995年8月、非戦闘地域に指定されていたサラエボ中央市場にセルビア人勢力が砲撃を行い、市民37人が死亡する事件が発生し、これを受けてNATO軍がこれまでにない大規模空爆を行った。
この結果、セルビア人勢力は敗退し、和平交渉と停戦が実現して戦闘が終結した。
一方でセルビア人勢力はムスリムの男性を絶滅の対象とし8,000人以上を組織的に殺害していた。
また、女性を強姦して強制的に妊娠させ支配地域外に解放するという「民族浄化」も行われたと聞く。
連日伝わるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のニュースは、平和の祭典が開かれた地が短期間のうちに戦場と化した現実を示し、僕に民族紛争の根深さを再確認させるものだった。

エスマは深夜勤務の面接を受けているが子供はいないとウソをついている。
娘のサラと戯れていた時に抑え込まれ、エスマはそれまでの戯れの態度を一変させるし、バスに乗っていても胸毛の濃い男を目の前にして逃れるようにバスを降りる。
どうやらエスマには言えない過去があることが短時間でほのめかされる。
サラは多感な年ごろの女の子である。
母親が男といるのを目撃しただけで「私を棄てないで」とエスマに絡む。
目を離せば非行に走ってしまいそうな所もあり、その関係は普通のシングルマザーと一人娘の関係のようにも見えるのだが、根底にあるわだかまりは拭い去れない。
修学旅行を楽しみにしているが、エスマには旅行費用の200ユーロが払えない。
シャヒード(殉教者)は旅費が免除されるので、証明書を母にせがむがなかなか手に入らない。
もともと母は手に入れる気はないし、夫はシャヒード(殉教者)などではないので証明書が発行されるわけはないのである。
前半の描かれ方や、エスマがナイトクラブで働いている時の様子などから、サラの出生の秘密は早い段階で想像がついてしまう。
もちろん最後に出生の秘密がサラに打ち明けられるのだが、衝撃的な事実はさて置いて、そこに至るまでの描き方に間延び感を感じる。
映画としてはもう少し描き方に工夫が出来なかったものかと思わせ残念だ。
エスマが告白シーンで語る母親としての悲しい性、サラの衝撃的な行動、母と娘の間に通うわずかな信頼がインパクトのあるものだっただけに惜しい気がする。

作中でチトーを讃えるような会話があったが、ユーゴスラビアの解体後の国家乱立を見ると大変な紛争があったことが判るのだが、日本に住んでいる僕は民族紛争の実態を体感的に理解できないでいる。
それは幸せなことでもあると思う。

さよならをもう一度

2022-07-29 06:49:10 | 映画
「さよならをもう一度」 1961年 アメリカ


監督 アナトール・リトヴァク
出演 イングリッド・バーグマン
   イヴ・モンタン
   アンソニー・パーキンス
   ジェシー・ロイス・ランディス
   ダイアン・キャロル
   ジャッキー・レイン

ストーリー
トラック販売会社の重役ロジェ・デマレ(イヴ・モンタン)と室内装飾家のポーラ(イングリッド・バーグマン)は5年来の恋仲で、2人とも中年だがまだ十分に魅力がある。
ところがロジェは最近、仕事が忙しくパリに住むアメリカ人の富豪バンデルベッシュ夫人(ジェシー・ロイス・ランディス)邸の室内装飾にポーラを推薦すると彼女を同行しながら自分は先に帰ってしまった。
1人で夫人を待つポーラの前に夫人の1人息子フィリップ(アンソニー・パーキンス)が現れた。
以来、25歳の熱い思いをささげるようになった。
フィリップはポーラとロジェの仲が単なる恋愛関係で結婚していないことを探り出した。
一方ロジェは、ポーラとの約束を取り消して他の女と旅行に出たが、それをフィリップが目撃した。
やがてフィリップはポーラのアパートで暮らすようになり、ロジェは2人の情事を知った。
彼女を愛していながら彼には腹立たしさが先に立った。
鋭くポーラを問い詰め、たまたま彼女の年のことに言い及んだ。
心を傷つけられたポーラはフィリップのもとへ戻っていった。
ロジェは酒と女におぼれたが、2ヵ月後、ナイトクラブで他の女を連れたフィリップを見て心が痛んだロジェはポーラと会い改めて自分の愛を告白した。
その夜、ポーラはフィリップにあまりにも2人の年が違いすぎると別れ話を持ち出した。
ポーラとロジェは正式に結婚したがロジェは相変わらずポーラとの会食をすっぽかす。
でも、これでいいのだ、とポーラは安らかに微笑む。


寸評
僕の中ではイングリッド・バーグマンは歴代外国人女優の中で一番好きな部類に入る女優で、その為に最初は年齢相応のしおらしい女性を演じる彼女に魅せられて好感を持って見ていたのだが、徐々にこの映画に対する嫌悪感が湧いてきた。
きっかけはアンソニー・パーキンスが演じるフィリップのストーカーまがいの行動だった。
15歳ほど年上のポーラに一目ぼれしたフィリップが強引とも思えるぐらい彼女に付きまとう態度に嫌味を感じた。
これぐらい強引でないと見初めた女性を手に入れることはできないのかもしれないが、僕のお気に入りのイングリッド・バーグマンに言い寄る彼の強引さには腹立ちさえ起きたのだ。
おまけに彼が母親の資産を笠に着て真面目に仕事をしない放蕩息子のような生活態度なのも気に入らない。
務めてい弁護士事務所では遅刻の常習犯だし、ロンドンでの裁判では途中で退場してしまうし、ポーラの家では仕事に行かず酒浸りなのだ。
こんな男をなぜポーラは受け入れたのか。
自分の年齢、ロジェに対する不満や不安がそうさせたのだろうが、中年女性の揺れ動く女心の描写としては物足りなさを感じる。

男は結婚することで金と自由を失うが、結婚生活にはそれを補うものがあるはずなのだが、ロジェは今の自由を選びポーラもそれを良しとしている。
お互いはそれぞれが心地よい存在なのだろう。
ロジェにとってポーラは一番心が安らぐ存在なのだが、彼の遊び心は若い女性を求める。
しかし年齢は男よりも女を襲ってくる。
ロジェは自分の浮気は遊びで相手は若い女性だと言うが、それはポーラにとっては一番傷つく言葉なのだ。
「愛している相手もあなたを愛しているのか」と言うフィリップの言葉もポーラに迫ってくる。
この様な状況になれば、ポーラの中に不安と葛藤が生じて大いに苦しむことになっても不思議ではないが、彼女は一気にフィリップに向かう。
ロジェとポーラの関係がしっくりきていたので、ポーラとフィリップの関係は素直に受け入れられなかったし、ポーラの気持ちも僕には理解できなかった。
ロジェが若い女性と関係を結んでいるのだから、ポーラだってそんなことがあっても責められるものではないと思うのだが、フィリップを自宅に招き入れていることには違和感があった。
その思いは男である僕の身勝手なのかもしれない。

冷却期間を経て二人はついに結婚する。
しかし結婚したからと言ってロジェの性格は変わるものではない。
二人で出かける約束をドタキャンするのも今迄と同じだ。
しかし結婚生活とはそのようなものなのだと思う。
お互いに、あるいはどちらかが我慢して全てを受け入れていかないと維持できないものなのだと思う。
ポーラは仕方がないと諦めたのだろうか。
結局、結婚前と何ら変わらない関係が続くという事なのかもしれない。

さよならくちびる

2022-07-28 08:15:32 | 映画
「さよならくちびる」 2019年 日本


監督 塩田明彦
出演 小松菜奈 門脇麦 成田凌 篠山輝信
   松本まりか 新谷ゆづみ 日高麻鈴
   青柳尊哉 松浦祐也 篠原ゆき子

ストーリー
2018年7月14日。ツアー車の助手席に座ったハル(門脇麦)は、先に後部座席にいたレオ(小松菜奈)が食事をしているのを見て、ローディー兼マネージャーのシマ(成田凌)に、「バカ女に車内は食事禁止だと言え」と言う。
「バカで何が悪い」が口癖のレオも、車内禁煙のはずなのにタバコを吸い始めたハルをとがめる。
デュオ〈ハルレオ〉の全国7都市を回るツアーの出発の朝は荒れ気味に始まった。
レオはガソリンスタンドでトイレに入ったついでに、見ず知らずの男の自動車に乗り込んでしまった。
浜松のライブハウスにレオがやっと到着するが、男と喧嘩して目にあざをつけていた。
しばらくして、何ごともなかったかのようにハルレオはステージに上がり、アコースティックギターを弾きながら歌い、シマもステージ上で二人をサポートする。
四日市へ向けて出発した車の中、ライブ前にレオから押しつけられた封筒をハルは開けると、ビーズを糸で結んだブレスレットが入っていた。
7月14日はハルが初めてレオに声をかけた日だった。
それからハルはレオにギターの弾き方を教え、二人は食事や寝起きを共にするようになった。
ある日、なぜ私に声をかけたのと尋ねるレオに、ハルは、歌いたそうな目をしていたからと答え、〈ハルレオ〉は路上で歌い始める。
人気が出始め、ライブツアーに出ることにしたハルレオは、ローディーを探す。
ハルは元ホストというふれこみのシマを面接し採用した。
ただしユニット内の恋愛は厳禁とハルは言い渡す。
レオは「目指せ武道館」と、ハルは「いつまでもハルレオが続くように」とそれぞれの夢を叫んだ。
だが、今やハルとレオは口もきかない関係になっていた。
四日市でのライブの後シマは彼がかつてバンドに所属していたことを初めて明かす。
シマはライブハウスのトイレで男たちに、殴るけるの暴力を受けたが、襲った男は、かつてシマがいたバンドのライバルで、彼の彼女とシマが寝てしまったことが原因だった。
森の中でシマはレオに、ハルの父親の法事に付き合わされた時の話をする。
ハルの母親からNASAで研究しているハルの幼馴染の女性から届いたハガキを見せられた。
その幼馴染がハルの初恋の相手だった。
レオはシマに「ハルレオが解散したらハルと活動するのか」と聞く。
レオは自分の居場所がないように感じていた。
そしてシマがハルを好きなのをレオは知っていた。
解散は公表していなかったが、ハルレオ解散必至という情報が、どこかのライブハウスから流されたのに違いない。
ライブはいっそう盛り上がり、自主製作のCDもどんどん売れていった。
解散後の計画を話す三人だが、食事の最中にシマに昔の音楽仲間が死んだという知らせが届いた。
シマが葬儀に出るために、ハルが函館までツアー車を運転することになる。
7月24日。函館のライブ会場。ハルが最後のライブだからと言うので、レオは外でファンたちにサインをする。
ハルの腕には浜松でレオが贈った腕輪がはめられていた。
開演時間頃にシマがやっと到着する。
死んだ親友は子供に「音楽はするな」と言っていたが、シマは自分は音楽をして後悔をしたことはないと言いきる。
ライブが始まり、最後の曲の前にハルは、自分たちはこの曲を手放すと言って、ハルレオの解散を明らかにする。
ハルレオと共に、自分たちの曲は消えるのか、それとも新しい生を得るのか。


寸評
音楽映画と言えば、グループの結成や成長などが描かれることが多いのだが、この作品はグループの解散を控えた時間にスポットを当てている珍しい映画である。
ハルレオはギターデュオでハル役を門脇麦、レオ役を小松菜奈が演じている。
二人は数ヶ月にわたり基礎からギターを学び、歌もギターも吹き替えなしなのだが、なんのなんの二人がライブハウスで行う演奏も唄う歌声もたまらなくいい。
そこいらの歌い手が足元にも及ばないようなデュエットを聞かせてくれる。
解散ツアーという設定で、初めから二人の険悪なムードで映画が始まるのだが、ステージに立つとそれまでの険悪ムードが何だったのかと思われるくらい見事なハーモニーを披露するハルとレオなのである。
激しい演出やはっきりと自分の気持ちを伝えるセリフは少なく、ストーリーはシマを交えて淡々と進んでいく。
カリスマ性のある歌で周囲を惹き付けるレオだが、ハルの才能の前では自分の居場所がないと感じていて、そのはけ口を見ず知らずの男に求めてしまう。
相手は暴力をふるうような男ばかりで、顔にアザを作ることも度々である。
お互いを非難し合うが激しいものではない。
しかし、その静けさこそが二人の人間関係を如実に表している。
ツアーの移動中はシマを通してでしか話そうとしないのに、ステージで歌い出せば息がぴったりと合う二人の関係がミュージシャンを感じさせる。
現実に音楽的な対立からメンバーが抜けたり、あるいは解散するグループがあるから、二人が見せる姿はそうなんだろうなと思わせる。
想いが伝わらないもどかしさやすれ違いに悩むのは青春時代にはあることだ。
打ち込んできたもの、務めてきたものが終わりを迎えるとしても、それまで得た楽しさや充実感や絆がすべて失われるわけではない。
一緒にやってきた仲間だが、もうこの唇からこの歌を発することはないだろうと「さよならくちびる」を解散ソングとして唄うが、予想した通り最後に三人は今を後悔しないぞという決意と、青春はまだまだ続くぞという姿を見せる。
シマの嬉しそうな姿を見ると応援したくなるラストシーンであった。

さようなら

2022-07-27 08:06:23 | 映画
「さようなら」 2015年 日本


監督 深田晃司
出演 ブライアリー・ロング 新井浩文
   村田牧子 村上虹郎 木引優子
   ジェローム・キルシャー
   イレーヌ・ジャコブ

ストーリー
近未来の日本。
稼働する原子力発電施設が、同時多発テロによって一晩のうちに爆破され、放射能が大量に流失した。
日本の国土のおよそ8割が深刻な放射能汚染に晒されることになる。
その日からの混乱は凄まじかった。
1億人の人間が一斉に放射能の少しでも薄い地域へと遁走を始めた。
本土はもうどこも汚染されていたので、皆は沖縄か海外を目指したが、諸外国は放射能に汚染された日本人の受け入れには慎重な態度を示した。
テロから2ヶ月後、ついに政府は「棄国」宣言をし、各国と連携して計画的避難体制が敷かれることになった。
つまり、国民に優先順位をつけて、順番に避難を進めていくことになったのだ。
半年後。ターニャは眠っていた。
ターニャの傍には、彼女の友人であるジェミノイドFが座っている。
生前の両親が、病弱で学校にも満足に通えなかった幼いターニャのために買い与えたものだ。
国民番号から「ランダム」に選ばれた人間から順番に避難することになった。
しかし、在日外国人であるターニャの避難順位は下位に設定され、その抽選にあたることもない。
それに、病弱のターニャは、どうせ逃げられないのだ。
ターニャの家を訪ねてくる恋人の聡史や友人たちは皆、マスクをしている。
その友人たちもまたひとりひとりと、避難の順番が来て姿を消していく。
ターニャの恋人も、ある朝、彼女に別れを告げにくる。


寸評
日本全土が放射能にさらされ、全国民が国外退去を余儀なくされるという設定は、少し前なら荒唐無稽な絵空事と片付けられただろうが、福島原発事故を経験し、隣国に核開発とミサイル発射を続ける北朝鮮があり、世界では場所を選ばずテロが多発している現状を思うと、全くの架空物語と言えないものを感じる。
僕はターニャが出会っている現実に違和感を感じない不思議な感覚で見続けた。

ターニャとアンドロイドが暮らす家の外は、国民の避難が進んでいるので殺伐とした風景ばかりだ。
静岡もだめだとの会話があるので、全国で原発事故が起きているらしいことが想像されるが、原発の事故状況とか、テロを描くことなどは排除しているので、起きていることの悲惨な状況に比べて映画は非常に静かだ。
その中で、原発問題、移民問題、家族の意味、生と死についてなどを考えさせていく。
声高に訴えているわけではないのに、自然とそのようなことを考えてしまう余地がある静かな進行だ。
各国に日本の避難民を受け入れてもらうのだが、それは言い換えれば日本人が原発難民となるということだ。
現在の日本は先進国の中では極端に難民を受け入れていない国である。
理由の如何を問わず他国の難民は受け入れないで、自分たちが難民となった時は受け入れてほしいと思うであろうわがままが見え隠れする。
日本人から難民が発生するなどと言うことは想像できないが、しかしもしもそうなったらやはり受け入れてほしいと願うだろうと思う。
文化、治安、環境を考えると難民政策は難しい。

ターニャが父に買ってもらったというアンドロイドは人工知能を持った機械なので感情はない。
感情はターニャから学び取って自分のものにしている。
アンドロイドは足が故障していて、車いすの生活である。
病気のターニャと相互補助の様な関係で生活しているようだ。
人間は忘れることができるが、アンドロイドは一度得た記憶は失うことがない。
辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったことなど嫌な思い出を忘れ去ることが出来るのは、弱い人間が獲得した生きるための能力なのかもしれないが、人は同時に忘れてはならないことも時間の経過とともに忘れ去ってしまう厄介な生き物である。
災害も原発事故も、あるいは戦争の記憶もともすれば忘れ去られてしまう。
原発事故による避難者が増えて、自分の周りからは友人たちが消えていく。
しかし人が死を迎えるころになると、大なり小なり似たような状況になるのではないか。
長年の友人も先に亡くなっているかもしれないし、住む場所も違ってきて疎遠になっているかもしれない。
結局一人でこの世におさらばするのかもしれない。
ターニャは一人淋しく死んでいき、朽ち果てた体も風に吹かれて無くなってしまう。
残されたアンドロイドもみすぼらしい姿になっていき、車いすから投げ出され這っていくと目の前に100年ぐらいに一度咲くという竹の花を目にする。
ターニャの父が見て感動したと言う光景を目にしたのだが、そこにはもう日本人は一人もいなかった。
谷川俊太郎や若山牧水の詩も淋しいものだったが、映画そのものも最後まで淋しいものだった。

寒い国から帰ったスパイ

2022-07-26 06:51:06 | 映画
「寒い国から帰ったスパイ」 1965年 アメリカ


監督 マーティン・リット
出演 リチャード・バートン
   クレア・ブルーム
   オスカー・ウェルナー
   ペーター・ヴァン・アイク
   シリル・キューザック
   ウォルター・ゴテル

ストーリー
イギリス諜報部の連絡員の1人が“ベルリンの壁”のイギリスの検問所のすぐ近くで射殺された。
おりしも、東ドイツの諜報機関の主任で、かつてのナチ党員ムントの残忍な行動がますます激しくなっていたときだった。
イギリス諜報部のベルリン主任リーマスはただちにロンドンに呼びもどされた。
そこでリーマスはある目的のために、イギリス諜報部を馘になった野良犬になることをいいわたされた。
やがて、リーマスは酒びたりの日々を送るようになった。
やがてリーマスは彼が勤めた小さな図書館に働く娘ナンと愛し合うようになった。
そして、ある日リーマスは下宿屋の主人と小さなトラブルを起こして、傷害罪で投獄された。
イギリス諜報部では、出獄してきたリーマスを再び呼びよせ、東ドイツへの潜入を命じた。
目的は、ムントがイギリスの諜報部員であるという証明をつくりあげ、ムントに疑惑の眼を向けるユダヤ人の部下フィドラーにそれを告発させるというものだ――むろん、それには裏があるのだが……。
やがて、東ドイツ人アッシェがリーマスに近づき、リーマスは逆スパイとして東ドイツのフィドラーのもとに送られたが、思惑どおりフィドラーは、リーマスの証言を得て、ムントが敵のスパイであることを最高議会で告白した。
だがムント側の弁護士は証人としてナンを呼び、ナンの口からリーマスが東ドイツへ潜入する直前イギリス諜報部と連絡をとっていたことを聞き出した。
事態は逆転しリーマスと、フィドラーは逮捕された。
が、その夜リーマスは、ムントに導かれて、ベルリンの壁に向かっていた。
ナンに聞かれるままリーマスはことの真相を告げた。
実はムントは、もともとイギリス諜報部のスパイだったのだ・・・。


寸評
スパイものとしては追いつ追われつの逃走劇もカーチェイスもアクションも無い。
演出や音楽も地味な作品である。
したがって痛快娯楽作品とはなっていない。
反面、そのことによって東西冷戦下の最前線の緊張感が伝わってくる作品となっている。
名優リチャード・バートンの重厚で陰鬱な演技がリアル感を醸し出している。
東西冷戦下のベルリンは自由主義圏と共産主義圏によって分断され、ベルリンの壁によって分離統治されていた特殊都市で、そこでの両陣営の諜報活動が描かれているのだが、人間関係とか目的とかが分かりづらい。
僕の理解力とか想像力とかが不足しているためなのかもしれないがスパイ物としての緊張感に欠けているような気がする。
リーマスは図書館に働く娘ナンと愛し合うようになるが、恋愛物ではないのでその経緯は深く描かれていない。
やがてナンは重要な役割を担うようになるが、彼女の立場も消化不良を起こすような描き方に感じた。

ムントの抹殺を目的としていながら、対象のムントは終盤まで登場しない。
そのせいもあって、東側の裁判という場でムントが登場してからの急展開は観客を引き付ける。
ムントと権力争いをしているフィドラーがリーマスの送金に関する証言をもとにムントを告発する。
ムントを葬り去ることに成功するかと思われたところでナンが呼ばれ形勢は逆転するのだが、ナンの戸惑う様子が生々しい。
フィドラーが出世欲に駆られていたということで逮捕され、リーマスもイギリスのスパイであるとして逮捕されてしまうとい逆転劇が起こる。
そしてそこから更なる大逆転劇が起きて、ムントによりリーマスは救出されることで事の全体像が浮かび上がるという仕掛けである。
リーマスは逃亡のための車中でスパイという仕事の暗部をナンに語る。
その上で二人は西側への逃亡を図るのだがナンに悲劇が起きる。

壁の向こうではリーマスに乗り越えてこいと待ち構えている西側の諜報部員が待ち構えているが、リーマスはナンのもとに向かい射殺されてしまう。
結局、リーマスはタイトルとは違って寒い国(東ドイツ)から帰れなかったのだ。
最後は純愛物のような結末となっているのだが、ナンを撃ったのは脱出を手伝った男だから、秘密がバレルのを防ぐためにナンは殺されたのではないかと思う。
国家という組織の中にあっては、大勢の国民の安全を図るために、一人の命など見捨てられてしまうという非情を感じさせた。
管理官が、時として東側よりも冷酷なことをしなくてはならないと語っていた通りのことが起きたと言うことだ。
ナンが撃たれ、リーマスも共に射殺されるという悲劇の結末のためには、もう一工夫欲しかったところだ。
ドラマ的に盛り上げる演出を排除している所がこの映画の魅力になっていることは理解できるのだが、でもやはり見終った後の喪失感の様なものは感じたかったなあ・・・。

サマーウォーズ

2022-07-25 07:02:12 | 映画
「サマーウォーズ」 2009年 日本


監 督  細田守
声の出演 神木隆之介 桜庭ななみ 谷村美月 斎藤歩
     横川貴大 信澤三恵子 谷川清美 桐本琢也
     田中要次 仲里依紗 皆川陽菜乃 富司純子

ストーリー
現実と同様の仮想都市OZが作られ、世界の隅々まで行きわたるようになった現代。
東京・久遠寺高校2年生、物理部所属の小磯健二(声: 神木隆之介)は、天才的な数学力を持ちながらも数学学生チャンピオンの座を取りそこない、自信をなくしかけていた。
夏休みには友人と共にOZの保守点検のアルバイトをする予定だったが、ふとしたきっかけから憧れの先輩、篠原夏希(声: 桜庭ななみ)に誘われて長野県の高原・上田市を訪ねることになった。
そこは室町時代から続く戦国一家・陣内家で、夏希の曾祖母・栄(声: 富司純子)の90歳の誕生日を祝うため、各地から医者や漁師、消防士、水道局員、電気店経営、警官や自衛隊の将校、小学生や赤ん坊まで、多彩な親戚が集まっていて、そこで健二は突然、夏希からフィアンセを装うよう頼まれる。
健二は困惑しながらも栄のために数日間の滞在をすることになった。
仮想都市OZに出現した謎のアバター“ラブマシーン”は、完全無欠と思われていたOZ管理棟のパスワードを入手する。
OZの心臓部に侵入したラブマシーンは4億人以上のアカウントを奪取、現実の世界を一変させてしまう。
緊急通報システムと交通管理システムを麻痺させ、警察や消防署、病院は機能しなくなり、大渋滞によって流通はストップ、世界中が大混乱に陥っていった。
そんな騒ぎを目の当たりにした栄はうろたえる人々を前に持ち前の度量を発揮、長年の人望を武器に陣頭指揮を開始し、事態は収束に向かうが、栄は翌朝、心臓発作(狭心症)で死去してしまう。
陣内家の女性が葬儀の準備を進める中、健二と陣内家の男性有志はラブマシーンを倒す準備を進めていた。


寸評
僕はアニメ作品はあまり好きではないのだが、このアニメは面白いと思った。
デジタルとアナログが巧みに交差している描き方がしっくり来たのだと思う。
デジタルはOZという仮想空間で世界中が繋がっているネット社会である。
アナログを感じさせるのは陣内家がある田舎の様子である。
バーチャルな世界ではない、現実社会である陣内家の描き方がノスタルジーを感じさせる。
陣内家はどうやら真田の家臣であったようで、その事が誇りでもあるようだ。
むしろ陣内家は真田家そのものであるようだ。
陣内万助が徳川による上田戦争を熱く語っている。

おばあちゃんの90歳の誕生日に一族が集まってくる。
振り返れば僕がまだ幼かった頃、何かといえば一族が集まっていた。
一体この人がどのような関係の人なのかは分からないままなのに親しさだけはあり、土地の名前を付けてXXのおっちゃんとか、○○のおばちゃんとかで呼んでいた。
人数が集まればそれに準じた食べ物が必要で、女性陣が総出で食材を用意していた光景が目に浮かぶ。
最近は親戚と言うコミュニティが失われてきているように感じる。
陣内家の人々はごく普通の人々ではあるが、サラリーマンから見れば特殊な人たちであるのが面白い。
自衛隊員、消防士、警察官、水道局員といった公務員や、漁港で働いている人、医者、格闘ゲームのチャンピオンなど多士済々である。
嫁に行った娘も帰って来て賑やかなことこの上ないが、頼まれたとはいえこの様な集まりに加わった健二の疎外感はよくわかる。
食事のシーンなどは懐かしさもあって、上手く描いているなあと感心した。
僕はOZの場面より、断然陣内家の場面が気に入っている。

OZの世界では、アカウントの乗っ取り、なりすまし、パスワードの取得などが描かれ、対戦ゲームが繰り広げられ、システムダウンによる世界的な混乱も描かれている。
それらはネット社会の危うさでもある。
デジタルとアナログが融合するのが、ラブマシーンと夏希のアバターが対決するゲームである。
ゲームがおばあちゃんが得意としていた花札というのが面白い。
”こいこい”での勝負が面白いと思うが、描き方は単純で盛り上がりには駆けている。
手札と場札を見極めてより点数の高い役を狙えるかどうかを判断するのが”こいこい”の醍醐味で、いけると判断すれば「こい!」と掛け声をかけるのだが、相手に低い点数でも先に役を作られて逆転されるケースもある。
そのケースが描かれて夏希が苦戦することになる。
陣内家の面々は身内が仕出かしたことは自分たちで片付けると宣言する。
侘助も帰って来てラブマシーンと対決するのだが、この作品のテーマは起きたことに対して「責任をとる」ということではなかったかと思う。
実社会では、あまりにも言い訳ばかりで責任を取らない人が多すぎるように思うのだ。

ザ・プレイヤー

2022-07-24 07:48:13 | 映画
「ザ・プレイヤー」 1992年 アメリカ


監督 ロバート・アルトマン
出演 ティム・ロビンス
   グレタ・スカッキ
   フレッド・ウォード
   ウーピー・ゴールドバーグ
   ピーター・ギャラガー
   ブライオン・ジェームズ

ストーリー
グリフィン・ミルは大手映画スタジオのエグゼクティヴだ。
最近、彼を悩ます出来事が2つあった。
ひとつは20世紀フォックスからやり手プロデューサー、リーヴィーが引き抜かれてくるという。
もうひとつは、企画をボツにされた脚本家から頻繁に脅迫状が届けられることだ。
売れないライターのデイヴィッド・ケヘインをその送り主とみたグリフィンは、彼と会ったのだが、口論の末に勢い余ってケヘインを殺してしまう。
だが翌日、死んだはずの男からファックスの脅迫状がグリフィンのもとに送られてくる。
しかも、ライバルのリーヴィーは予定より早く会社を移って来ることになり、グリフィンの焦りは増していく。
そんな折、「ライターなんか、いなくていいだろ。」「俺たちで話考えて、客にモニタリングさせて、気に入るようにつくり変えていけばいい」は葬式で知り合ったケヘインの恋人で画家のジューンのもとを訪れる。
彼女との会話に安らぎを覚えたグリフィンは、彼女をスタジオのパーティに招待し、2人はやがて恋人同士となった。
続いてグリフィンは、ヒットの見込みのない脚本をリーヴィーにつかませて罠に陥れることに成功する。
全てがうまくいこうかという時、事件の夜の目撃者が現れた。


寸評
この映画はハリウッドの映画製作の内幕をからませながら殺人事件を描くサスペンスと言えるのだが、最後になってこれは風刺劇なのだと悟る小気味よい作品である。
主人公は映画会社の重役で、「シナリオの大筋をきいたり脚本を読んだりして、映画化にGOサインを出すかどうかを決定すること」を仕事としている。
彼によると1日に125本の電話がかかってきて、年間5万本の企画のうち映画化できるのはたったの12本らしい。
逆に言えば脚本家にNOというのが彼の仕事でもあり、描かれているように脚本家から恨みを買いやすい職種でもある。

ハリウッドの内幕ものだけに実際の作品名やら俳優名がばんばん飛び出す。
脅迫者が「サンセット大通り」の登場人物で殺される脚本家の名前を名乗るなどのも散りばめられている。
おまけに本人役でスターが一瞬ながら大挙出演しているのにも驚かされる。
ハリー・ベラフォンテ、ロッド・スタイガー、ジャック・レモンをはじめ20人は出ていただろう。
ヒッチコックやエリザベス・テイラーの写真も出てくる。
極めつけは試写上映されている作品のラストシーンで登場するジュリア・ロバーツとブルース・ウィリスだ。
映画界を茶化すような会話が随所で語られる。
マルコム・マクダウェル本人が出てきて「悪口を言うときは面と向かって言え、君たちは汚い」と言い放つ。
制作者は陰で俳優の悪口を言っているのは日常茶飯事なのだろう。
役員会議では「ライターなんか、いなくていいだろ。俺たちで話を考えて、客にモニタリングさせて、客が気に入るようにつくり変えていけばいい」と発言するものがおり、ウケさえすればそれでいいという姿勢を皮肉っている。

途中から全くの喜劇に代わっていくのだが、その転換ぶりが見事と言える。
グロフィンが殺したのは脅迫者ではなく、真の脅迫者らしい男が出てくる。
その男の正体が判明する頃迄はサスペンスの雰囲気があるが、そこから後は一転する。
グリフィンの取り調べをおこなう女性刑事の生理用品を巡るバカ騒ぎに端を発し、
殺人容疑の結末が出る描き方、グリフィンの元恋人のボニーの顛末は普通の作品ではありえない描き方だし、ラストシーンに僕は思わず苦笑いを浮かべるしかなかった。
スターを見つける楽しみだけでは終わらない極上のエンタメ作品となっている。

座頭市(勝新太郎版)

2022-07-23 07:55:40 | 映画
「座頭市」 1989年 日本


監督 勝新太郎
出演 勝新太郎 樋口可南子 陣内孝則
   内田裕也 奥村雄大 緒形拳
   草野とよ実 片岡鶴太郎 安岡力也
   三木のり平 川谷拓三 蟹江敬三

ストーリー
役人をからかって3日間の牢入りと百叩きの刑を受けた後、牢を出たばかりの座頭市(勝新太郎)は、漁師・儀肋(三木のり平)の家にやっかいになった。
その小さな漁村では五右衛門一家が賭場を開き、市もつきに任せて遊んでいた。
跡目を継いだばかりの若き五右衛門(奥村雄大)は宿場一体を仕切るために八州取締役(陣内孝則)に取り入ろうとしていた。
大勝ちした市を撫然とした五右衛門一家が取り囲むが、女親分のおはん(樋口可南子)が取りなした。
帰り道で市は刺客に襲われるが、得意な居合い斬りで片づけた。
市は旅先で絵を描く浪人(緒形拳)と知り合い、色を教えてもらった。
その間も五右衛門一家の刺客が襲いかかるが、市の居合い斬りの前には歯が立たない。
八州取締役は赤兵衛(内田裕也)に五右衛門と対抗するために銃を買うことを勧めた。
しかし、赤兵衛は五右衛門と八州が通じていることを知っており、市を用心棒に顧った。
一方五右衛門は浪人を新しい用心棒に顧っていた。
やがて市は孤児を集め育てる少女おうめ(草野とよ実)と知り合い、この少女に母の面影をみて、心を通わせるのだった。
赤兵衛の宿場で八州は薄幸の少女おうめを手込めにしようとするが、市に斬られた。
浪人は湯治場で一度市を見逃すが、五右衛門一家はついに赤兵衛一家を襲う。
壮絶な斬り合いの末、赤兵衛は五右衛門の前に倒れた。
その時坂の上から早桶が転ってきて、中から現われたのは八州の首を持った市だった。
そして市は数十人の五右衛門一家の子分を絶滅させ、最後に五右衛門と浪人も倒すのだった。


寸評
撮影担当も殺陣師もいただろうが、どちらも勝の意向が反映されていたような気がする。
セットは贅沢なもので、賭場や居酒屋も手抜きが見られない。
柱組も細部にわたっており、俯瞰からの撮影で写り込む柱の立派のことに驚く。
宿場町でヤクザの五右衛門一家と赤兵衛一家が覇権争いを行っており、市が両方を退治してしまうのは黒澤明の「用心棒」と同じ構図だが、脚本は「用心棒」ほど練り込まれていなくて、それぞれのエピソードが大根を輪切りにしたような印象を受ける。
座頭市の立ち回りはこのシリーズの集大成としてすさまじいものとなっている。
五右衛門が放つ刺客の集団に何度か襲われるが、そのたびに得意の居合いを披露し、一瞬のうちに10人近くの刺客団を倒してしまう。
鼻をそぎ落とし、腕を叩き切り、斬りまくる。
血しぶきが飛び散る斬り合いシーンはこの映画の唯一の見どころと言っても良いのではないか。
その斬り合いを集約したのがヤクザの大掃除となる五右衛門一家せん滅場面だ。
五右衛門一家の代貸ともいうべき蟹江敬三の仁が殺されるシーンは、こんなことがあってもいいのじゃないかとアイデアを出し合った結果のような気がする。
そのシーンを除けば大樽を切り裂いて出てきたかと思いきや、格子戸を切り裂き、柱を叩き切りと言った具合で、現実味はないがこれぞ時代劇という立ち回りが延々と続き、勝新・座頭市の独り舞台である。
集団対決ではなく市と1対1で対決するのは関八州見回り役の陣内孝則と緒形拳の浪人だけで、どちらも市の敵ではないような結末を迎える。
特に緒形拳の浪人は市と対抗することが出来る唯一の登場人物に思えたから、その決着は期待の大きさのために少し物足りなさを感じてしまう。

この作品ではシリーズの第一作である「座頭市物語」へのオマージュが感じ取れる。
飯岡助五郎の食客となって笹川繁造との出入りに臨んだことが度々語られる。
そして樋口可南子のおはんという女親分がその時の口上が良かったと語るのだが、その口上は僕たちもよく覚えている「俺たちゃ御法度の裏街道を歩く身分なんだぞ。いわば天下の嫌われ者だ」というものである。
宿場町の人々の嫌われ者は五右衛門と赤兵衛というヤクザ者なのだが、そのヤクザ者にいい顔を見せながら適当に排除しようとするずる賢い村役もヤクザ者から「お前たちは信用がならねえ」と一掃されてしまう。
もちろん権力をかさに着た関八州見回り役も嫌われ者で、嫌われ者は世の中から取り除かれるということだ。
嫌われ者と対極にあるのが「母」で、市は珍しく母親の記憶を語り、知り合ったおうめに母親をダブらせる。
女親分のおはんにも母親のことを語って聞かせるなど、市の母親への思慕をことさら描いている。
しかし、それを語って聞かせた樋口可南子のおはんはその登場意図がよくわからん人物だった。
最初に思いっきり絡ませておいて、最後に再登場させるのだが、途中では全く消え去っていた。
兎に角、脚本が荒っぽい。
そのかわり印象的なショットが場面場面で登場し、そのとらえ方も勝新太郎によるものとの印象を受けた。
それだけでなく、勝新太郎が好き勝手した映画という印象が強い作品で、勝新太郎の才能の一端をうかがわせるものの、十分に開花させているまでには至っていないと思う。

座頭市(北野武版)

2022-07-22 07:10:49 | 映画
「座頭市」 2003年 日本


監督 北野武
出演 ビートたけし 浅野忠信 夏川結衣
   大楠道代 橘大五郎 大家由祐子
   ガダルカナル・タカ 岸部一徳
   石倉三郎 柄本明 樋浦勉 三浦浩一

ストーリー
その日、訳ありの三組が同じ宿場町にやってきた。
一人は金髪で朱塗りの杖を持ち、盲目の居合いの達人・座頭市。
もう一組は浪人の服部源之助とその妻おしの。
殿様の師範代という身分を捨てた服部は、病気を患う妻のために用心棒の職を探していた。
さらにもう一組、旅芸者のおきぬとおせいの姉妹。
彼女たちの三味線には人を殺めるための仕掛けが施されていた。
座頭市は、宿場町で知り合った博打好きの新吉やその叔母で野菜売りのおうめから、町民を苦しめるヤクザ・銀蔵一家の悪行の数々を聞かされる。
更に、流しの芸者に身をやつし、両親の命と財産を奪った“くちなわの親分”を探す旅を続ける姉弟・おきぬとおせいの仇が銀蔵たちであると知った市は、彼らの為に一肌脱ぐことを決意。
銀蔵とともに暴利を貪る扇屋、そして病身の妻の薬代を稼ぐ為に用心棒として雇われた浪人・服部源之助と戦い、一家を壊滅させる。
こうして、平和が戻ったかに見えた宿場町。
だが、市はくちなわの親分が飲み屋の雇われ爺さんを装っていたことを、見抜いていたのである。
町民が祭りで盛り上がる中、飲み屋に押し入った市は、実は市が盲目ではないことを見破っていたくちなわの親分の目を斬ると、「一生盲で暮らせ」と言い残し、町を後にするのだった。


寸評
ベネチア国際映画祭の監督賞を受賞した作品だけれど、どのあたりが評価されて受けたのかなというのが第一印象。この作品自体が駄作というわけではなく、勝新の「座頭市シリーズ」あっての本作「座頭市」と思うので、シリーズを知らないあちらの方にどう写ったのかと・・・。
もっともこの作品を支持している若い世代も知らないだろうから、1本の新しい映画としての評価なのだろうけれど、どうしても比較してしまう僕としては勝新の第一作「座頭市物語」の方が数段面白かった。
一番は、市と浅野忠信演じる服部源之助と天知茂演じる平手酒造との関係の描き方。
本作品では剣術の腕の優劣に対する関わりが描かれ、どっちが強いのかに焦点が当てられて二人の心の交流はない。前作で可笑しく描かれた盲目のハンデは描かれず、そのかわりコント的なシーンが何シーンか挿入されている。そんな風に観てくると、なんとなく「座頭市」比較をやってしまっている自分に気がつき、あらためて「座頭市シリーズ」はプログラム・ピクチャの中から生まれた映画史に残るシリーズだったんだなと思う。

全体的にはそれぞれにもう一歩の突っ込みが欲しかったと感じた。
ワルがすごいワルとして描かれていないので「テメエが一番のワルだな」と言われてもその実感が乏しい。
扇屋も銀蔵もやさしさやひょうきんさの裏に潜むあくどさを見せきっていない。
服部源之助の妻おしのが自害するのは解るけれど、其処に至る心情の悲しさはあまり描かれていない。
おきぬ姉妹の恨みの深さも少しばかり浅いような気がする。
しかしそれらは、おしのの悲しみ表現として一滴の涙を見せることで表現した北野流の演出なのかもしれない。
ベネチア国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞したりしたものだから、へんに入れ込んでしまうけれども、もともと「プログラム・ピクチャ映画の座頭市を俺ならこう撮るよ」といった作品なのだから、そう見れば面白く出来ている。
その意味でも、「座頭市シリーズ」あっての「座頭市」だと思う。

殺陣のシーンはさすがにCG技術が進歩してより迫力を増している。血しぶき、斬られた後の刀傷などが迫力を増していた。刃物を振り回せばこんな事もあったろう的な北野流発想も盛り込まれていて面白い。
この映画における市は寡黙である。余計な会話がない分、殺陣の面白さが際立っていた。
盗賊の親分が誰であるかは、姿は見せないが声で判別がついてしまうのだが、流石にそこはそんなに単純じゃない筈だと見ていると、それもおおよその察しがつく。その部分での驚きは半減といったところかな。

最後のタップダンスのシーンだけはこの映画の中で感心させられた。
それぞれの人々が、縛られていたもの全てから解放された喜びの表現としてのタップダンスは、事前に挿入されていた野良仕事のシーンと重なり合って映画的だ。
前述の突っ込みがもっとあれば、より感動的なシーンになったのではないか。
おきぬ姉妹の子供の頃の姿をダブらせる、踊りとタップダンスのシーンの画面的ずれのなさもコンピュータのなせるワザか非常に素晴らしいと感じた。
大楠道代さんも皆に混ざってタップを踊っていたが、全然息切れせずに若い人たちについて行ってた。
女優魂の様なものを見せてもらってスゴイなあという気になったラストだった。
ラストのラストは北野監督らしいオチだ。

サウダーヂ

2022-07-21 07:53:46 | 映画
「サウダーヂ」 2011年 日本


監督 富田克也
出演 鷹野毅 伊藤仁 田我流
   ディーチャイ・パウイーナ
   尾崎愛 工藤千枝 野口雄介
   中島朋人 亜矢乃 宮台真司

ストーリー
山梨県甲府市。何の変哲もなく、人通りもまばらな中心街はシャッター通りと化していた。
不況の土木建築業には、日系ブラジル人やタイ人を始めとする様々な外国人労働者たちがいた。
HIPHOPグループ“アーミービレッジ”の猛(田我流)は派遣の土方として働き始める。
猛の働く建設現場にも、多くの移民たちがいた。
そこで、土方一筋に生きて来た精司(鷹野毅)や、タイ帰りの保坂(伊藤仁)と出会う。
猛は彼らと共に仕事帰りにタイパブに繰り出したが、タイ人ホステスのミャオ(ディーチャイ・パウイーナ)に会って楽しそうな精司や、盛り上がる保坂に違和感を覚え、外国人を敵視する。
精司は、妻の恵子(工藤千枝)が怪しげな商売に手を出し始めたことで、ますますミャオにのめりこみ、全てを捨てて彼女とタイで暮らす事を夢想しはじめる。
しかしミャオはタイの家族を支えるために日本で働き続けなければならない。
保坂はこの街に見切りをつけようとする。
不況はますます深刻化し、かろうじて持ちこたえていた建設業にもリストラの波が押し寄せる。
真っ先に切られる外国人労働者たちは、住み慣れた日本を離れ、遠い故国に帰るしかないのか?
苦難を忘れる束の間の喜びのとき、彼らは集い、歌い踊る。
移民たちに動揺が拡がる中、猛はかつての恋人まひる(尾崎愛)が彼らと交流を深めていることを知る。
そして日系ブラジル人デニス(デニス・オリヴェイラ・デ・ハマツ)率いるHIPHOPグループ“スモールパーク”と出会い、日本人と日系ブラジル人二つのHIPHOPグループが競い合うパーティーの夜が始まる……。


寸評
「サウダーヂ」とは変なタイトルだがポルトガル語で、”過去”という意味らしい。
富田監督によれば、舞台となった実在の団地・山王団地(サンノーダンチ)がブラジル人の発音ではサウダーヂに近かったこともタイトルを決める要因になったということである。

山王団地と言えば住民の半分以上が外国人ということを何かの記事で見たことがある。
日本での稼ぎを夢見てやってきた人たちだと思うが、現実はそう甘くはない。
母国に居る家族への仕送りと自分の生活で精一杯である。
閉塞感を感じながら夢見た生活が得られず日本を去っていく者も出てくる。
閉塞感にあえいでいるのは外国人だけではない。
土方の精司や保坂、HIPHOPグループの猛も同様である。
彼らを初め登場人物たちの振る舞いや会話が演じている風ではなく素のままのリアル感があって、時には過剰な演技と思われるところもあるのだが、それが地元の一般人の演技と違和感を生じさせているのも逆にいい味になっている。
彼らが住んでいる地方都市そのものがシャッター通りを抱えて閉塞感にあえいでいるのだから、住民の彼らが閉塞感を感じるのも自然の成り行きなのかもしれない。
日本における建築現場の厳しい仕事は外国人労働者に頼らねばならないのが現実なのだろう。

男たちはもがいているが女たちはポジティブで行動力がある。
まひるは東京帰りでブラジル人たちと交流を深めイベントを企画し、将来的には東京へ進出しようとしている。
精司の妻の恵子はバカみたいな話し方でいい加減な女に見えるが、エステで稼ぎ怪しげな水販売にも手を出し、挙句の果てには選挙に立候補を予定している男の後援会でかなりの顔役となっている。
女たちに比べれば男たちはだらしない。
土方仕事は減少するばかりで、重機は動かず人力で土を掘り返さねばならないし、仕事がなくなれば同じ土方仕事として墓じまいの仕事で食いつなぐ。
親方を初め現場でビールを飲んだくれるなど仕事ぶりはかなりいい加減である。
精司は生き生きしている恵子にイライラしてタイ人ホステスのミャオに入れあげる。
保坂から聞いたタイの暮らしに憧れて、ミャオと一緒に行こうと夢のようなことを思い始める。
猛はミュージシャンとしてブラジル人の持つパワーに負けそうになり、彼らに反感を持つようになる。

今の暮らしを打破しようとする精司と猛の末路が、けっしてバラ色でないのはこの手の映画にはよくあるパターンではあるが、地に足の着いた描写のおかげでその末路が陳腐に感じられない。
母国時代や自分の辛い過去を背負いながら今を生きているが、反する未来は明るいものではないという結末を描いていて辛いが、今日の日本の縮図の一端を描く確かな描写力は評価できる。
ただし上映時間は予想以上に長い。
果たしてこれだけの長さが必要だったのだろうか。
ヤクザが登場するシーンなど、無くても良いようなシーンが所々見受けられた。

サウスバウンド

2022-07-20 06:52:29 | 映画
「サウスバウンド」 2007年 日本


監督 森田芳光
出演 豊川悦司 天海祐希 北川景子 田辺修斗
   松本梨菜 松山ケンイチ 平田満
   吉田日出子 加藤治子 村井美樹

ストーリー
学生運動ばかりしていた上原一郎(豊川悦司)は、さくら(天海祐希)と駆け落ちして3人の子供がいた。
長男の二郎(田辺修斗)は小学校6年生で、仲の良い黒木は先輩の中学生・カツのグループに引き込まれて毎日金をせびられていて、その金を同級生からまかなっていた。
一郎に出筆の仕事が舞い込み、一郎の故郷・沖縄の西表島へ家族で行って暮らそうと言いはじめたが、長女の洋子(北川景子)は一人暮らしするから行かないと言う。
金をせびられ友達も無くす毎日が嫌になった黒木は、二郎と二人でカツの所へ行った。
そして二人はカツに殴られるが、カツが二郎に「お前の母親は若い頃、人を刺して刑務所に入っていた」と言われたことに腹を立ててカツに突進し殴りかかり、黒木も加勢しカツを滅多打ちにした。
死んだように動かなくなったカツを見て怖くなった二人は、港の船で一夜を明かすが、二郎が家に帰ると学校の校長やカツの父親が押しかけていて警察沙汰にするとまくしたてた。
一郎が独自の理屈で追い返すが、二郎はその後校長に呼ばれ、私立への転校話などを持ちかけられた。
自宅では家族会議が始まり、母のさくらが西表島に行って家族で暮らすことにしたと宣言した。
洋子を東京に残し、4人は西表島に引っ越した。
一郎の出身地の島民が世話をしてくれた一軒家に住むようになり、大歓迎を受けた。
二郎と桃子(松本梨菜)は学校へも行かず、毎日周辺で遊んでいた。
家族の家に東京のKD開発の社員がやって来て、この土地をリゾート開発をするため立ち退けと言われるが、一郎は自論を持ちだし追い返す。
その後、稲垣巡査(松山ケンイチ)もやって来て、移住用の住宅を勧めたがそれも断った。
小学校の校長もやって来て、二人を転入させてくれと言うが、これも同様断った。
それでも二郎と桃子は学校へ行きたいと言って、母のさくらにOKをもらった。


寸評
僕はハネムーンで沖縄へ行き、そこから石垣島へ、更にそこから西表島へと島から島へ旅した。
石垣島迄は飛行機だったが、西表島へは高速艇だった。
暖流が近くを流れていて一年中泳ぐことができたが、僕たちは日帰りのオプションツアーで泳ぐことはなかった。
のどかな島でのんびりとした時間が流れていて、地元のガイドさんも実に親切だった。
帰りの船が出発すると、丘の上では人影が豆粒くらいになるまで手を振って見送ってくれた。
上原一家がその西表島に移住するストーリーなので、懐かしさもあって興味を持って見た。
僕の西表島への興味が過ぎたのか、前半の東京編は父親の変人ぶりが描かれているものの退屈感があった。
年金問題、学校の腐敗なども問題提起されるが中心は子供のイジメ問題である。
イジメる側の中学生、イジメにあい金をせびられている小学生、その小学生に金を援助する仲間の小学生など、子供たちの関係は面白いものがあったが、イジメ問題に真正面から向き合っているわけではない。
二郎と黒木は中学生のカツをボコボコにし、その抗議に教師たちやカツの父親がやって来るが、どう見ても道理は二郎たちにあるのに、調べもせずに被害にあったカツ側に立って押し寄せる大人たちはおかしい。
事件が起きると被害者の人権よりも加害者の人権が守られるような理不尽さに通じるような状況である。
「大人には悪い面もあるのよ」では済まされないのだ。
その事が原因で厄介者となった二郎は転校を勧められる。
その問題が上原一家の西表島への移住というかたちであっけなく終わってしまうのは短絡的過ぎる。

前半の東京編に比べれば、後半の西表島編は見るべきところがある。
一番は上原一家と西表島の純朴な人たちとの交流だ。
西表島の住民は、島の仲間となる上原一家に無償の協力を行ってくれる。
何かといえば、ちょっと上がって一杯やっていけの世界がある。
隣近所のコミニティが希薄になりつつある都会とは違う世界が和ませてくれる。
西表島での一番の出来事は開発による立ち退き問題だ。
開発に対して反対運動をする人たちはいるが、それは現地の住民ではなく東京の運動家たちだ。
それはまるで沖縄本島の基地問題に対する運動を髣髴させる図式である。
米軍基地への反対運動をしているメインは本土の活動家たちだと聞くし、土地提供している地主たちは賃貸収入で東京の一等地に住んでいるとも聞く。
開発に加担して土地を買い占めた後に開発会社に転売して利益を得た現地の住民も出てきて、結局「大人たちには悪い面もあるのよ」となる。
他人名義の土地に居座り続ける一郎たちに道理があるとは思えないが、西表は西表であってほしいと思う。
住民たちは一郎達に肩入れをして彼らを助ける。
一郎とさくらは彼らにとってのユートピアを求めて八重山の海に漕ぎ出して行ったのだろうが、小学四年生の桃子などを洋子に押し付けて行ってしまうのは育児放棄ではないか。
この映画の特徴かもしれないが、物事の解決策がすべて短絡的である。
ラストシーンなどは小説の方が想像豊かにできてよかったのではないかと推測する。
元学生運動の闘士だった一郎とさくらだが、さくらの天海祐希は映画向きではないなと感じた。

彩恋 SAI-REN

2022-07-19 05:49:30 | 映画
「彩恋 SAI-REN」 2007年 日本


監督 飯塚 健    
出演 貫地谷しほり 関めぐみ 徳永えり 細山田隆人
   松川尚瑠輝 奥貫薫 高杉亘 温水洋一 きたろう

ストーリー
ナツ、ココ、マリネは高校3年生の仲良し3人組。
3人とも一人親という共通点以外、性格や男のタイプなどまるでバラバラ。
小説家の父と弟との3人暮らしのナツは、一番大人っぽく恋愛経験も豊富で、家族を愛して友情にも厚い。
シングルマザーで未婚の母と暮すココは、小さい頃から男嫌いで姉御タイプ。
母の死依頼、父親に男手ひとつで育てられたマリネは、おっとりタイプの純情派。
ある日ナツは、遠距離恋愛中の大学生の恋人から一方的にフラれ、その直後に妊娠に気づく。
一方、ココの母とマリネの父がひょんなことから急接近し、ココは母に裏切られたような気持ちに揺れる。
そしてマリネはチャーミングだが性格的におとなしめで、電車でいつも見かける男の子に恋心を抱くが声も掛けられず悶々とする日々…。
18歳の彼女たちの乙女心はさまざまに揺れ動くのだった。


寸評
GOING UNDER GROUNDの「サンキュー」、くるりの「ばらの花」、SINGER SONGERの「home」と「初花凛々」、ohanaの「ヒライテル」、スキップカウズの「赤い手」、フラワーカンパニーズの「青い春」、髭(HIGE)の「Acoustic」と、ポップな音楽と共にスクーター(?)や自転車、飲食店のコップなど小粋なアクセサリーが画面を飾り、洒落た住居が映し出される。
シングルマザーのアッコちゃんも、二人の子どもを育てる冬樹もすこぶる立派な家に住んでいる。
そんなに稼ぎがあるの?とか、そんなに未成年にアルコールを飲ませて良いのか?などと、突っ込みを入れてはこの映画は楽しめない。
とにかくすべてが明るく、悩んでいる割には前向きで、青春かくあるべしだった。
年寄りの部類に入りかけている私には、今時の女子高生の会話はこんな風なのだと、カルチャーショックと共に、心地よい響きをもたらせてくれた。

女子高生の割には学校のシーンは屋上で将来を話し合いながら弁当を食べるシーンぐらいでほとんど登場しない。
彼女達にとっては学外の経験の方が彼女達のこれからの人生にとって大事な時間だった事を物語っていた。
実際、制服シーンはほとんど登下校の時だけなのだ。

母子家庭で育った自分としては、この映画に登場する母子家庭や父子家庭は羨ましいものがあった。
特に母親をアッコちゃんと呼ぶココと母親亜子の関係はまるで年違いの姉妹のようで微笑ましかった。
もちろん父親を冬樹、信一と呼び捨てにしている親子関係も。
ただこんなに甘やかして育ててよいものなのだろうか、この風潮が今の混乱をもたらしているのではないかと老婆心が沸いたのもまた事実。
少女漫画の空想世界のような気がするが、貫地屋しほりのスカートからはみ出した太い足が高校生としてのリアリティをもたらしていた。

SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者

2022-07-18 07:11:33 | 映画
「さ」になります。
2019/6/15 の「13デイズ」出始まり、以下「サード」「最強のふたり」「最後の忠臣蔵」「サイドカーに犬」「サウルの息子」「サウンド・オブ・ミュージック」「櫻の園」「細雪」「サッド ヴァケイション」「座頭市物語」「サニー 永遠の仲間たち」「さびしんぼう」「サムライ」「さよなら渓谷」「猿の惑星:創世記(ジェネシス)」「39 刑法第三十九条」「山椒大夫」「三度目の殺人」「秋刀魚の味」でした。
2回目は2021/2/24の「サイコ」から「ザ・シークレット・サービス」「殺人の追憶」「聖の青春」「砂漠の流れ者」「ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK」「ザ・ファイター」「侍」「さよなら歌舞伎町」「さよならコロンバス」「サンシャイン・クリーニング」「サン・ジャックへの道」「三人の名付親」「サン★ロレンツォの夜」と続きました。

興味のある方はバックナンバーからご覧ください。
今回は3巡目になります。

「SR サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者」 2012年 日本


監督 入江悠
出演 奥野瑛太 駒木根隆介 水澤紳吾 斉藤めぐみ
   北村昭博 永澤俊矢 ガンビーノ小林
   美保純 橘輝 板橋駿谷 中村織央 配島徹也

ストーリー
元“SHO-GUNG”メンバーのマイティは、イックとトムと別れ、東京に出て行った。
しかしラップを諦めきれず、恋愛系右翼ヒップホップクルー“極悪鳥”のメンバー入りのチャンスを狙って、パシリのような扱いに甘んじていた。
ある日、マイティが1人で参加するバトルで優勝すればメンバーになれると約束される。
しかし、マイティの対戦相手が、極悪鳥が世話になるヒップホップクルーのメンバーだったため、決勝直前にわざと負けるよう電話が入り、マイティは指示通り負けるが、メンバー入りの約束を反古にされる。
怒りを爆発させたマイティは、極悪鳥のメンバーの1人に大怪我を負わせてしまう。
マイティは栃木に逃げ、違法行為で商売する大人たちの一員として働き始める。
金儲けのため、栃木で音楽イベントを行うことになる。
素人の大人と少年たちの仕切りで、有料の詐欺まがいの出演者オーディションが行われ、マイティの知らないところでイックとトムが参加していた。
そこでTKDタケダ先輩のトラックを通じて意気投合した、日光のヒップホップクルー“征夷大将軍”と一緒にイベントに参加することになる。
イベント当日、栃木に逃げてきてから暴力と盗みを重ねたマイティは、胴元の大人たち、警察、ゲストとして来ていた極悪鳥から追われる。
イックとトムは征夷大将軍と共にステージに立ち、思いがけない悲痛な再会を果たした3人は……。


寸評
この作品はシリーズの第3弾で最終章とのことであるが、僕は前2作を見ていないので予備知識もなく単独作品として見たことになるのだが、単独作品として十分に鑑賞に堪えるものとなっている。
主人公のマイティは“SHO-GUNG”というラップグループから抜けて東京に出ていくのだが、マイティの実家は埼玉でブロッコリーを生産する農家ということなので、同時にこれは地方都市、農村地方の空虚感と閉塞感を示しているとも言える。
そして東京に出て行ったマイティは挫折を味わうことになるのだが、埼玉を去っていくマイティが運転する車に音楽ポスターではなく東京デズニーランドのポスターがあることで早くも暗示されていたと思う。
夢見て東京に出てきたマイティだが2年経ってもラップグループ”極悪鳥”の使い走りをやっている。
扱いはひどいものだが、コンテストで決勝に残ればステージに立たせてもらう約束を得る。
マイティは決勝に残るが”極楽鳥”からわざと負けるように指示されて、優勝を目指していた彼は不本意ながら承諾したのだが約束は破られてしまう。
コンテストで優勝するほどラップの腕を上げているマイティの努力の様子が描かれていたら、彼の悔しさはもっと伝わっただろう。
優勝を諦め、今またステージに立つ約束を反故にされてマイティの怒りが爆発し、”極楽鳥”の一人を半殺しの目に合わせてしまい、彼らから追われる身となってしまう。
栃木に逃げたマイティは違法行為で商売をするヤクザ組織のようなところで働き始めるが、チンピラのような若者の上にたっているものの、ここでもやはり使い走りのような立場である。
音楽を目指していたはずだが、夢は破れて現実はまったくの半グレと化している。

”極楽鳥”に暴力をふるったことで追われる身となったマイティは、栃木でも同棲している女の子に売春をさせたとして美保純に暴力をふるい再び逃げる羽目になる。
負の連鎖で暴力をふるうたびにマイティの状況が悪化していく。
反対に田舎での音楽活動を諦めなかったかつての仲間の二人は”栃木祭”のステージに立っている。
主催者から金を奪ったマイティは、金を奪われた大人たち、違法営業を追う警察、仕返しをしようとする”極楽鳥”のメンバーから追われ、イベント会場を逃げ回る。
手持ちのカメラは逃げるマイティを追い続ける長回しで、カメラは逃亡する車の後部座席に乗り込んでフロントウィンドウから見える暗い夜道を映し続けるというこの長回しは見ものである。

逮捕されたマイティの面会にかつての仲間二人がやってくる。
そこで窓越しに衝突が起き、ついにはラップで言い合いとなる。
他の管理官がやって来てもよさそうなものだが、両方の管理官がそれぞれ一人で制止するのを払いのけて三人はラップでののしり合う。
この場面も長回しで1カットで撮られている。
ラップというリズミカルな音楽があって見ておれるが、若者の挫折を描いた救われない作品で切なさが残る。
ラストシーンにも僕は未来を感じることが出来なかった。
僕には一風変わったヤクザ映画を見ているようだった。

コンフィデンスマンJP プリンセス編

2022-07-17 08:02:45 | 映画
「コンフィデンスマンJP プリンセス編」 2020年 日本


監督 田中亮
出演 長澤まさみ 東出昌大 小手伸也 小日向文世
織田梨沙 関水渚 瀧川英次 前田敦子
ビビアン・スー 滝藤賢一 濱田岳 濱田マリ
デヴィ・スカルノ 石黒賢 生瀬勝久 柴田恭兵
北大路欣也 竹内結子 三浦春馬 広末涼子 江口洋介

ストーリー
何か獲物はいないかと街を歩くダー子(長澤まさみ)が、敬愛するスタア(竹内結子)と出会い意気投合し、仕事を仕掛けるが失敗し喧嘩別れしてしまう。
そんなダー子が街でスリに失敗し困っている少女(関水渚)を見つけて助けた。
首を振ってうなずくだけの姿から彼女は「コックリ」と呼ばれていた。
マレーシアのウンカウイ島で、大富豪であるフウ家の当主レイモンド・フウ(北大路欣也)が亡くなった。
フウには三人の子供がいたが、執事のトニー(柴田恭兵)によって発表されたレイモンドの遺言書には、10兆円とされるばく大な遺産の相続人として「ミシェル・フウ」という誰も知らない隠し子の名前が書かれていた。
ダー子はコックリをミシェルに仕立て、自らは母親となって乗り込もうと作戦を立てる。
嫌がるボクちゃん(東出昌大)やリチャード(小日向文世)らと共に屋敷へ乗り込んだ。
レイモンドと写っている写真を合成で作成し、レイモンドの実子であるブリジット(ビビアン・スー)からこっそり拝借した口腔粘膜でDNA対策もバッチリで、コックリを本物のミシェルと信じさせることに成功する。
しかし、ブリジット、クリストファー(古川雄大)、アンドリュー(白濱亜嵐)の三兄妹からは、よそ者は出て行けと言わんばかりの嫌がらせを受け始める。
嫌がらせはエスカレートし、手切れ金を狙っていたダー子とコックリの身に危険が及ぶようになる。
ダー子は、ある日フウ家に伝わる金印の存在を知り、それならばそれを奪ってしまおうと考えを変えた。
金印が披露されるのは4ヵ月後に迫るミシェルのお披露目パーティーのみ、その一瞬にかけてダー子は本物と偽物を摩り替えようと、コックリに作戦を言い渡す。
そして四ヶ月が経ち、お披露目パーティーの日となった。
そこにはフウ家の財産を狙う詐欺師達、ジェシー(三浦春馬)や赤星(江口洋介)、ハニートラッパーの波子(広末涼子)ら豪華な顔ぶれが勢揃いした。


寸評
コンフィデンスマンJPの2作目だが、1作目と比較すると断然こちらの方の出来が良い。
余計なものを盛り込まず、「コックリ」をミシェルに仕立てて遺産相続ではなく、手切れ金として50億ほどいただくことに集中しているのが作品を締まりあるものとしている。
前作よりも鍵となる人物の登場の仕方も凝っている。
ダー子は遺産相続を放棄する代わりに50億円ほどの手切れ金を得ようとしていたのだが、コックリが良家にふさわしい教育を受けることになってしまい、その間に脅迫を受けるようになる。
その手口は、コックリが持っていたぬいぐるみが吊るされて、そこから眠っているコックリの上に血が滴り落ちてくるというものである。
これは「ゴッド・ファーザー」における馬の首のシーンを髣髴させるものだ。
そう言えば前作でも、江口洋介の赤星が「アンタッチャブル」におけるロバート・デ・ニーロが子分をバットで殴り殺すシーンを連想させる演技をしていた。
コックリは度重なる脅迫にもめげずにお姫様修行を続ける中で人柄の良さを見せていく。
ダー子達とは違う彼女の純真な姿が僕たちを和ませる。
ブリジット、クリストファー、アンドリューそれぞれにコックリとの接触エピソードを描き、コックリがフウ家の三兄妹に受け入れられるであろうことを暗示する。
単純な描き方ではあるがコックリの人柄を示すためには必要な事であったろう。
極めつけはマンゴーのオジサンであった。

ゲスト出演は前作に続き今回も多彩である。
ホテルの支配人に滝藤賢一、ビビアン・スーの ブリジットに思いを寄せる画家に濱田岳、コックリをイジメるヤマンバに濱田マリ、なんと元某国大統領夫人にデヴィ・スカルノが扮し珍演技を見せている。
ハニートラッパーの広末涼子はそれなりの役どころだが、前田敦子がここに出てくるかといった具合で楽しめる。
冒頭で長澤まさみと言い合いをした竹内結子がその後全く登場してこなくて、一体どうしたのかなと思っていたら、アッと驚く登場であった。
レイモンド・フウの北大路欣也がセリフのない死人役で登場し、その後は肖像画だけなのかと思っていたら、最後に登場してきて遺言書の秘密が明かされるのは意表を突いていた。
このまとめ方はハマっていて物語を締めている。
時空を超えてその時の出来事を復元する演出は前作同様だが、今回の方がまとまっていたように思う。
例によってエンドロールの後にもう一幕用意されているが、これは深作欣二の「蒲田行進曲」へのオマージュとなっている。

誰が赤星と結びついているのかのミステリー性もあったのだが、一番のミステリーはこの映画において主要な登場人物であった竹内結子と三浦春馬が相次いで自殺したことである。
この映画に原因があったわけではないが、いったい二人に何があったのだろう。
特に竹内結子という美人女優が居なくなってしまったのは残念に思う。