おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

君よ憤怒の河を渉れ

2022-05-31 08:26:56 | 映画
「君よ憤怒の河を渉れ」 1976年 日本


監督 佐藤純弥
出演 高倉健 原田芳雄 池部良 中野良子
   大滝秀治 西村晃 岡田英次 倍賞美津子
   伊佐山ひろ子 田中邦衛 内藤武敏

ストーリー
東京地検検事・杜丘冬人は、ある日、新宿の雑踏の中で、見知らぬ女から「強盗殺人犯」と騒がれた。
その場で緊急逮捕された杜丘を、別の男寺田俊明が「この男にカメラを盗まれた」と供述した。
杜丘は、家宅捜査の隙をみて逃亡し、新聞は“現職検事が凶悪犯”“社丘検事即日免職”と書きたてた。
杜丘は女の郷里、能登へ向かい、女は本名を横路加代といい、寺田は彼女の夫の横路敬二と知る。
だが、その時にはすでに加代は殺されていた。
杜丘は、加代あての手紙から、横路敬二が、北海道の様似に居ることを知り、北海道に飛んだ。
北海道で杜丘は横路の家を見つけたが、そこには刑事が待ちうけており、杜丘は警察の手を逃れて、日高山中の林の中に逃げ込んだが、その杜丘を散弾銃を待った二人の男が追って来た。
逃げる杜丘は、朝倉代議士がホテルのレストランから飛び降りし即死した事件を回想した。
証人である政界の黒幕・長岡了介は飛び降り自殺だと言い、矢村警部は自殺説を主張したが、杜丘は他殺説をとり、あの日、杜丘は朝倉の妾が経営している新宿の小料理屋に聞き込みに行っていたのだ。
その時、あの横路加代が現れたのだった――。
非常線を突破して、深い森の中に入り込んだ杜丘は、巨大な熊が若く美しい女にいましも襲いかかろうとしているのを助けたが、杜丘は激流に落ち、逆にその牧場の娘真由美に救われる。
真由美の父、遠波善紀は北海道知事選に立候補中だったので、一人娘が杜丘に好意をよせているのに困惑していていたところ、彼の秘書の中山が警察に通報した。
遠波は、娘のために知事選をあきらめ、杜丘を逃がす決心をし、自家用セスナ機を杜丘に提供した。
杜丘は警察の裏をかいて東京に潜入し、横路が何者かに強制収容された精神病院に患者を偽って潜入したのだが・・・。


寸評
荒唐無稽なサスペンスアクション映画であるが、田坂啓と佐藤純弥の脚本、青山八郎の音楽は頂けない。
高倉健が演じる東京地検検事の杜丘が誤認逮捕されてしまう。
杜丘の身分を隠して取り調べが行われるが、無実を訴える杜丘を信じる者が一人もいないし、上司である池部良も彼を信じているような所がなく、最初からワナに掛けられていることを捜査当局は無視している。
そして思い当たるフシが朝倉代議士の自殺事件であると示された時点で、黒幕は西村晃の長岡であることがはっきりと推測されてしまう。
西村晃はその後登場しないが、どのようにして彼にたどり着くかが興味の一つの筈だが、映画はもっぱら高倉の逃避行を描き続ける。
高倉が中野良子を助けたことから親密になり、中野良子は高倉が警察に追われている男と知りながら愛してしまい、彼の逃亡を手助けすることになる。
しかしクマに襲われている所を助けてもらったとは言え、意識不明状態になっている高倉をどのような事で愛するようになってしまったのかよく分からない。
兎に角、突然彼に好意を寄せているのである。
真犯人側はでっちあげ証言をした 伊佐山ひろ子を殺しているが、なぜ同じくでっちあげ証言をした田中邦衛を生かしていたのかも不明である。
実験台として彼がどうしても必要だったとも思えない。

西村晃よりも黒幕としてなら存在感がありそうな大滝秀治が、ここでは良い父親振りを見せている。
高倉に自首を進める場面などは立派な紳士を思わせる。
娘と対立するような所があるが、結局は娘可愛さで高倉の逃亡を手助けする。
セスナで逃亡するなどスケールはどんどんヒートアップし、ついには新宿の街を多数の馬が疾走すると言うとんでもないシーンまであり、中野良子が馬に乗って高倉を救い出す。
そして高倉が偽名を使って敵地に乗り込んでいくが、そこがとんでもない事をやっている場所というのも現実離れしたもので、リアル感はまったくない。
高倉をワナにはめてまでして抹殺しなければならない緊迫感が出せていなかったように思う。
僕が唯一興味を持ったのは、検事正の池部良と矢村警部の原田芳雄の関係であった。
検事は警察官より上席という意識があるから、刑事たちの検事に対する反撥はあったはずだ。
会議で決まったことが原田たちに伝えられるが、それは検察組織、警察組織を護る為だけのもので、現場の刑事たちの憤りがあっても良かったように思う。
部下の一人は重要参考人であるはずの中野良子を捜査当局でなく謹慎中の原田の所へ連れていく。
中野良子はそこで高倉から渡された錠剤を調べてくれるように頼むのだが、その錠剤の分析結果が判明する場面はないので、西村晃や岡田英二がとんでもないことをやっているという緊迫感も生み出せていない。
緊迫感を生み出す場面でやけに明るい軽快なメロディが流れ出すので、見ているこちらは拍子抜けしてしまう。
逃亡劇としては面白いと思うが、ラブロマンスとサスペンスに関しては工夫が足りなかったように思う。
もっと面白い作品に出来たはずだし、「新幹線大爆破」という一級のサスペンス映画を生み出した監督だけに少し淋しい気がする。

キッド

2022-05-30 07:30:21 | 映画
「キッド」 1921年 アメリカ


監督 チャールズ・チャップリン
出演 チャールズ・チャップリン
   ジャッキー・クーガン
   エドナ・パーヴィアンス
   カール・ミラー
   チャック・ライスナー
   トム・ウィルソン

ストーリー
未婚の母となった若い女性は、ためらいながらも子供の幸福(の可能性)を願って大邸宅の前に止めてあった車に書き置きとともに生まれて間も ない赤ん坊を捨てる。
車上ねらいのこそ泥たちが赤ん坊の存在に気付かぬまま車を盗み貧民街近くまで運んだが、赤ん坊は道端に置き去りにされた。
たまたま通りかかった浮浪者が結局この赤ん坊を引き取り、父親代わりとなって育てる羽目になる。
5年の月日が経つ間、2人の間には実の親子以上の愛情と職業上の連帯感がはぐくまれる。
ある時この子供が病気になり、診察に訪れた医者が義務感から子供を孤児院へ引き取る手続きをする。
「父子」双方が引き離されることに強く抵抗を示し、子供を役人から 取り戻すものの家には帰れなくなる。
この間、家を訪れた今では有名なオペラ歌手となった実の母は偶然医者と出会い、かつて数語言葉を交わしたこともある子供が5年前に捨てた我が子であることを知る。
多額の礼金をつけた捜索願を警察に届け 、それを新聞で見た木賃宿の主人が通報し、理由も分からぬま ま浮浪者と子供が連れて行かれた先は、子供の実の母が住む大邸宅であった。
二人がこの女性により暖かく家の中に招じ入れられるところで映画は幕となる。


寸評
無声映画で音楽が流れる中に短い字幕が挿入されるだけだがストーリーは分かりやすい。
ギャグがあちこちに散りばめられたドタバタ喜劇であるとともに、捨て子を育てる疑似親子の愛情物語でもあり、無声にもかかわらず親子の哀しい叫びが聞こえてくるような場面も用意されている。
少年が芸達者で、その演技はチャップリンを凌駕するものがある。
チャップリンがコミカルな動きを見せるのに対し、少年の演技にリアリティを持たせていることが尚更少年の演技を引き立てている。
少年は別れを悲しむ場面で迫真の演技を見せている。
チャップリンは窓ガラスを修理する仕事を手がけていて、仕事を依頼されるために少年が石を投げて家の窓を割っていくエピソードは有りがちなものだが警官を絡ませ痛快に描けている。

両親の離婚を示すシーン、生みの母親が捨てた息子を発見するシーンなども無声ならではの処理で上手い。
僕はチャップリン映画はあまり好きではないのだが、この作品はその中でも好きな部類に入る。
ドラマがコンパクトにまとめられており無駄がないのがいい。
ただ一点、僕が気乗りしなかったのは夢のシーンだ。
途方に暮れたチャップリンが元の家にやって来るが部屋に入れずドアの前で眠ってしまう。
そこで見る夢がチャップリンを交えて悪魔と天使によって演じられるのだが、これは当時におけるは映画的なサービスシーンに思えた。
天使やチャップリンが空中を飛ぶシーンは上手く撮影されており、当時は驚きをもって迎えられたのではないかと想像する。
ごく普通のドラマが展開されてきただけに、僕はこのシーンに違和感を感じてしまったのだ。
夢から覚めたチャップリンは夫人宅に招かれ子供と再会できるが、この三人はこの後どうなったのだろう。
夫人は子供を引き取るのだろうか。
そうだとすれば、チャップリンは子供と別れなければならない。
たぶん子供はチャップリンを選ぶだろうなと思う。
子供にとっては物質や金銭は意味のないものだ。

僕の両親は離婚していて、ある時期に僕の消息を知った伯母が帰って来て家督を継がないかという話を持ってきたことがあったのだが、僕はそんな気にはなれなかった。
結構な料亭を経営していたようで、暮らしは楽になったのだろうが何を今更という気持ちだった。
その後の連絡も断っていたのだが、何年もしてから実父が亡くなり相続権者は僕だけと言うことでの相続問題が起きた。
血のつながりとは厄介なもので、切っても切れないものなのだろう。
「キッド」は実の父親でなくても愛情は芽生えるものだとしている。
生活は苦しいが幸せな親子なのである。
制作前にチャップリンの第一子が亡くなっていたことを知ると、この映画に対する思い入れも違ってきた。
彼のなくなった子供へ捧げる一編であったのかもしれない。

キッチン

2022-05-29 08:16:30 | 映画
「キッチン」 1989年 日本


監督 森田芳光
出演 川原亜矢子 桜井みかげ 松田ケイジ 田辺雄一
   橋爪功 田辺絵理子 浜美枝 中島陽典
   四谷シモン 浦江アキコ

ストーリー
一人っ子のみかげは、幼い頃両親を亡くしてから祖母と二人暮らしだった。
その祖母も他界してしまい、ついには天涯孤独の身となってしまう。
台所が好きな彼女は、いつしか孤独を紛らわすかのように冷蔵庫の脇で寝るようになっていた。
台所の好きなみかげにとって、そこが一番落ち着ける場所だった。
一人ぼっちになったみかげは友人の雄一の厚意で、彼のマンションに引っ越すことになった。
ある晩みかげは雄一の母・絵理子を紹介されるが、それは女装した父親の姿だった。
こうしてみかげと雄一、絵理子の同居生活が始まった。
絵理子はゲイバーのママで夜は遅く、雄一も昼夜が逆の生活だったが、みかげには居心地がよかった。
そしてなによりみかげはここの台所が気に入っていた。
ある日料理教室のアシスタントとして働くみかげの元へ、雄一の恋人・真美が怒鳴り込んできた。
みかげと雄一が同棲していると勘違いしたのだった。
みかげは雄一の家を出、同僚の多美恵とアパート暮らしを始めた。
ある晩ゲイのちかがみかげを訪ね、絵理子が店を辞めて精神病院に入院したことを教えてくれた。
みかげと雄一は絵理子を見舞うが、彼女は意識で女になっているので神経が混線してしまったのだった。
雄一の誕生日にみかげがマンションを訪ねたところ、絵理子も麦原医師を伴って帰ってきた。
しかも麦原は病院を辞めてプラネタリウムの仕事につき、絵理子と暮らす決心をしていた。
みかげと雄一の関係も友人から恋人へと変わり、四人はマンションで同居することになった。


寸評
なんか現実離れした映画だなあ・・・。
登場人物の会話が浮世離れしていて、全体的にノンビリした映画だ。
主人公みかげの川原亜矢子、雄一の松田ケイジも、もちろんオカマの母親絵理子の橋爪功も、変な雰囲気の登場人物で満ち溢れている。
意図したものなのだろうけれど、セリフ回しが青春映画の若者言葉ではない。
その世界になれるのに少しばかり時間がかかった。

絵理子の職業もあってか、みかげが転がり込む雄一のマンションも豪華なマンションで夢の世界だ。
そこに置かれている調度品もインテリアショップのショールームみたいで庶民離れしている。
立派なキッチンで美味そうな料理が作られ、こんなところに一度は住んでみたいという思いにはさせられた。
みかげと雄一の同居生活にヤキモチを焼く雄一の女友達が登場して、若い男女が同居していて何もないのはおかしいと詰め寄る。
そうなのだ。
当然そうなるであろう状況が全くなくて、お互いが癒されるだけの存在として同居しているのだ。
そんな男女関係があってもいいだろうと言わんばかりにである。
それは狙ったものなのだろうが、そもそも川原亜矢子に女を感じさせるものがないのだ。
三人の同居は、変な関係の三人なのだが、それゆえに気が休まる空間を生み出していたのだろう。
雄一とみかげが二人を邪魔する存在としての視線を見せたことを絵理子は喜ぶ。
二人は友達から恋人になったのだろう。

そこで映画は終わるが、見終わって、それではこの映画に何があったのだろうと振り返ったときに、別段これといったものがないので少し消化不良の気分になってしまう。
変な雰囲気と、幻想的なシーンによる異次元の空間だけが残る。
雄一はお金を貯めるためにクラブのホステスと客相手の白タクの仕事をしていているのだが、みかげにお金を必要としているためだと話す。
しかし、一体何のために金を必要としているのかは不明のままである。
そんなことも消化不良を引き起こした原因の一つだ。
森田芳光監督は時々すごい感性の映画を撮ったりするけれど、反面時々その感性が空回りしてしまったような映画も撮る。
今回は後者だったなあ・・・。
路面電車の走るシーンとか、ミックスジュースを作るシーンとか、印象に残るシーンは結構あるんだけどなあ・・・。
始まりのシーンなんかは映画らしくって随分と期待を抱かせたんだけどなあ・・・。
僕にとっては、・・・なんだけどなあと言いたくなる映画だった。

キック・アス

2022-05-28 09:27:48 | 映画
「キック・アス」 2010年 イギリス / アメリカ


監督 マシュー・ヴォーン
出演 アーロン・ジョンソン
   クリストファー・ミンツ=プラッセ
   マーク・ストロング
   クロエ・グレース・モレッツ
   ニコラス・ケイジ
   ギャレット・M・ブラウン

ストーリー
アメコミ好きでスーパーヒーローに憧れるニューヨークの高校生デイヴは、一年半前に母親を亡くし父親と二人で暮らしているが、ガールフレンドもおらず、放課後は男友達とオタク話に花を咲かせる毎日を送っていた。。
ある日彼は、インターネットで手に入れたコスチュームを身に纏い、勧善懲悪のヒーロー“キック・アス”として街に繰り出す。
しかし、何の能力も持たない彼は最初のパトロールでチンピラにボコボコにされ重傷を負ってしまう。
ところが、その治療で背中に金属板を埋め込み、神経の損傷で痛みにも鈍感になったデイヴは無類の打たれ強さを身につけていた。
そして、退院したディヴは危険を承知で再びパトロールを再開する。
その戦いぶりはヒーローとはほど遠いものだったが、その様子を野次馬が動画サイトにアップしたことからキック・アスの名はたちまち知れ渡り一躍時の人に。
だが、そんなキック・アスの活躍ぶりを知った地元マフィアのボス、ダミコは最近起きた組織のトラブルを彼の仕業と勘違いし、キック・アスの抹殺へと乗り出す。
ところが、実際はキック・アスの影で別のヒーローが暗躍していた。
その正体は、超本格的な訓練を受けたダミコへの復讐に燃える元警官の“ビッグ・ダディ”と、彼が手塩に掛け恐るべき殺人マシーンへと鍛え上げた娘“ヒット・ガール”だった。
やがてキック・アスは、この親子とダミコの血で血を洗う戦いの渦に巻き込まれていくのだが…。


寸評
基本的にはよくあるアクションヒーロー映画なのだが、設定のユニークさに加えて笑いどころが満載されている。
「スーパーマン」の語りを借りてスタートしたかと思えば、キック・アスの姿をめぐって、スーパーマンかバットマンかで言い合うなどギャグのオンパレードで、そもそもスーパーパワーもない主人公自体がダメダメでギャグになっている。
お笑い担当のキック・アスとは対照的なのがビッグ・ダディとヒット・ガールという親子コンビ。
二人は過去の復讐に燃えるわけありの父と娘で、武装し防具で身を固め、悪を成敗する姿が痛快だ。
中盤以降はキレのいいアクションシーンの連続で、銃を乱射し、刃物を突き刺し、情け容赦なく人が殺されていく凄惨なシーンが続き「キル・ビル」や「シン・シティ」を凌ぐ痛快作品である。
クライマックスは壮絶な決戦で、あの手この手の痛快アクションで凄惨シーンの連続なのに、それが悪趣味になっていないのは髪の毛、マスク、コスチュームを紫で固めた美少女戦士だからなのだろう。
キュートな顔とは正反対なクロエ・グレース・モレッツ演じるヒット・ガールの残虐プレイに目が釘付けになってしまう。
この子が言う「パパに撃たれたより痛かった」にはホロリとさせられた。
ギャグともユーモアともいえるような会話を連発しながら、時折シリアスな場面を挿入していく手腕に敬服する。

コスチュームもスパイダーマンやバットマン、スーパーマンを連想させるが、キック・アスのデイブが彼女に「レッド・ミストの方が格好が良い」と言われるように、キック・アスをやぼったくして喜劇性を出していた。
主人公にも見せ場が用意されていて、バカバカしいのに爽快感が残るエンディングだったし、真面目さと不真面目のバランスを取りながら、残虐なシーンと可愛らしさのミックス具合も程よく、なかなか姿を見せなかった30万ドルもした武器がこれだったのかと納得し思わず拍手したくなる。
アメリカン・コミックを知らなくても楽しめるし、何より理屈抜きの娯楽性が有り肩の凝らない映画となっている。
ここまで徹底すると納得してしまう秀作の一つだった。

北村透谷 わが冬の歌

2022-05-27 07:39:37 | 映画
「北村透谷 わが冬の歌」 1977年 日本


監督 山口清一郎 
出演 みなみらんぼう 田中真理 鈴木恵 石橋蓮司
   河原崎次郎 西塚肇 大谷朗 簗正明
   堀内正美 松田修 なぎらけんいち 久米明
   藤真利子 沖雅也

ストーリー
欠勤中の透谷(みなみらんぼう)にかわって、妻・美那(田中真理)は明治女学校を訪れた。
校門で美那は透谷の教え子、斉藤冬子(鳥居恵子)と出会うが、冬子の美しさが妙に心に残るのであった。
美那は事務官(殿山泰司)から、透谷が既に退職届を出しているのを知らされ、悪い予感に家路を急いだ。
透谷は咽喉に刃物を突きたて自殺を図っていたが、駆けつけた美那に発見され、事は未遂に終わった。
透谷の自殺未遂を伝え聞いた友人たちが北村家を訪れる。
星野天知(簗正昭)が、透谷と斉藤冬子が恋愛関係にあり、それが自殺の原因ではないかという。
樋口一葉(藤真利子)が訪れ末座に加わり、一方、新聞紙上で透谷と激しい文学論争を続けていた山路愛山(堀内正美)は、自分が透谷を自殺に追いやったのではないかと悩んでいた。
また、大矢蒼海(石橋蓮司)は政治から去った透谷を裏切者として、今でもこだわっていることなどを話す。
そこへ、かつて美那の婚約者であった平野友輔(河原崎次郎)と透谷が合流する。
静寂が続く中で、透谷が語り始めた。
透谷が参加していた民権運動が圧殺されていたころ、政府の討代隊に追われた透谷は、遊廓に逃げこみ、一人の女郎(田中真理、二役)に助けられ、はじめての性の体験で、ざくろの刺青がある“蝶”という名の、その女を抱き、彼女と結ばれたいと思った透谷は女がとめるのも聞かずに刺青を刻み込んだ。
その後、蝶は強盗に絞殺されてしまった。
刺青を見せてくれるように一葉に言われ透谷が着衣をめくり上げると、腕、胸、背に浮かぶざくろの刺青。
それを見て美那の弟の公歴(沖雅也)が富井松子(萩尾みどり)と透谷の関係を問いつめる。
宴は終わり、傍若無人に周囲を傷つけてみたものの、透谷は空しかった。
その日から透谷は、死への道をまっしぐらに疾走する。


寸評
田中真理はすでに映画デビューを果たしておりテレビ出演もしていたが、日活がロマンポルノへと路線を転向した1971年に蔵原惟二監督の「セックス・ライダー 濡れたハイウェイ」で主役を務めるようになった。
ロマンポルノ出演2作目が山口清一郎監督の「ラブ・ハンター 恋の狩人」で、これが猥褻図画として警視庁に摘発され、その後出演作がたて続けに摘発されたことから「警視庁のアイドル」と呼ばれるようになり、「日活ロマンポルノ裁判」の過程で、田中真里は「エロスの女闘士」として反体制の象徴のような存在となった。
確かに同じく初期のスターであった白川和子、片桐夕子、小川節子たちとは少し違った雰囲気を持っていた。
山口清一郎は「恋の狩人シリーズ」と田中真理にこだわり続けて日活と対立し解雇され、田中真理は日活を退社したので、いわば二人は同志であったのだろう。
日活を離れた二人がタッグを組んだのがこの「北村透谷 わが冬の歌」である。

僕は北村透谷をまったく知らないので、伝記映画としてなら当初から興味を削いでいる。
文士仲間として島崎藤村や樋口一葉、山路愛山など知った名前が登場した時だけは興味を持った。
僕にはそれ以外はよく分からない議論が続いているだけの作品に思え、自ら自由恋愛主義者と称している透谷の女性遍歴もよく分からないうちに終わっていたように思えた。
透谷は友人の平野友輔と婚約が成立していた美那を奪った形になっているが、どのような経緯で二人は結婚することになったのだろう。
教え子の斉藤冬子との関係もよく分からなかったし、富井松子との関係もよく分からない。
ロマンポルノなら濃厚な関係が描かれただろうと思う。
日清戦争前夜の時代で、彼らは自由民権運動にかかわっているが、僕は当時の政治状況も知らないし、それが今の世の中に反映するようにも描かれてもいないので、運動をやっている壮士たちのエピソードもどこか中途半端に映る。

透谷が自分をとりまいていた絆が幻にすぎなかったことを悟り、暴走していくところからは見応えがある。
透谷は一緒に死んでくれと美那に迫るが、美那は幼い子供を抱きしめ「この子がいるから嫌です」とキッパリ答え、透谷をすでに見放していることを感じさせる。
透谷は民権運動の梁山泊と呼んでいた川口村に行くが、そこで無残に殺された女郎・蝶の幻想を見る。
彷徨う草むらの向こうに数名の黒子が見え、一人は十字架から吊るされているがそれは透谷自身であろう。
透谷は仲間たちに向かって「俺は生きるぞ」と叫んでいるが、それは逆に死へ向かう叫びだったのだろう。
文学で出世しようとは思っていないと透谷は言っているが、30歳を前にして自殺したのは文学に挫折したからではないかと僕は思った。

透谷は梁山泊と称していた川口村に向かっていくが、山口清一郎にとっての梁山泊はロマンポルノで自由な映画を撮っている日活だったのではないか。
また北村透谷に山口清一郎自身を投影していたのではないかと思う。
透谷自身は脚色されているのだろうが、登場人物になじみがなく革命計画や強盗計画などの事件のことも知らないので、伝記としてみると、描かれた人物が北村透谷であったことが僕には荷が重すぎた。

北のカナリアたち

2022-05-26 09:28:25 | 映画
「北のカナリアたち」 2012年 日本


監督 阪本順治
出演 吉永小百合 柴田恭兵 仲村トオル 森山未來
   満島ひかり 勝地涼 宮崎あおい 小池栄子
   松田龍平 里見浩太朗 小笠原弘晃 高橋かおり
   駿河太郎 福本清三 塩見三省 石橋蓮司

ストーリー
夫・川島行夫(柴田恭兵)と共に北海道の離島にやってきた小学校教師、はる(吉永小百合)が受け持つことになったのは6人の生徒たち。
鈴木信人(小笠原弘晃)、戸田真奈美(渡辺真帆)、生島直樹(相良飛鷹)、安藤結花(飯田汐音)、藤本七重(佐藤純美音)、松田勇(菊池銀河)だった。
彼らの歌の才能に気付いたはるは、合唱を通してその心を明るく照らしていく。
「先生が来るまで学校がつまらなかった」とこぼしていた子供たちの顔にも笑顔が溢れるようになり、大自然に響き渡るその歌声は島の人々の心も優しく包み込んでいった。
そんな時、担当した事件が原因で心に傷を抱えた警察官・阿部(仲村トオル)が島へやってくる。
人知れず悩みを持っていたはるは、陰のある阿部と自分を重ねるかのように心動かされていく。
ある夏の日、海辺でバーベキューを楽しんでいたはると生徒たちを思わぬ悲劇が襲う。
子供たちは心に深い傷を負い、はるは心配する父(里見浩太朗)を一人置いて、追われるように島を出ることになったが、島を離れた後も心に残るのは6人の生徒たちのことだった…。
20年後、東京で図書館司書として暮らすはるに生徒の一人が起こした事件の知らせが届く。
その真相を知るため、はるは6人の生徒たち(森山未來、満島ひかり、勝地涼、宮崎あおい、小池栄子、松田龍平)との再会を心に決め、北へ向かう。
久しぶりに再会した彼らの口から語られるのは、20年間言えずにいた想いだった。
それぞれが抱えていた後悔が大きな傷となり、今も心に残っていることを知ったはる。
そして自身もまた、心に閉じ込めていた想いを6人に明かすのだった……。


寸評
教え子の一人が殺人犯として追われているのだが、その男が先生の住所と電話番号を残していたことで警察が元分校の先生だった吉永小百合を訪ねてくる。
吉永小百合のはる先生は教え子の誰が住所を教えたのかを確かめるために故郷に帰ってくる。
その昔、海に飛び込んだ安藤結花を助けようとしたはるの夫行夫によって結花は助けられたが、助けに行った行夫は死んでしまった事故でそれぞれの贖罪の気持ちが語られていく。
皆が苦しい思いの過去を秘めながら生きてきていたのだが、それでも今できることを精一杯行い生きている姿、人は生まれてきた以上、生きなければならないという思いが綴られていく。
事故に関するミステリーが順次明らかにされていくが、それを通じたスリル感には乏しい描き方ではある。
事故の真相が明らかになっていく展開だと分かるし、それぞれが事故は自分の責任だと言うので、興味は自然とそれぞれの事情に移っていく。

一つの事故をめぐるそれぞれの秘密は納得できるものであるが、事故の原因探しがメインではないのでサスペンス的な盛り上がりには欠けているし、どうもそれぞれが小学生時代の苦い思いを抱え続けながら成人している辛さが伝わってこない。
生島直樹(勝地涼)と安藤結花(宮崎あおい)の関係などは、非常にドラマチックなものだが先生の仲立ちによって綺麗すぎる結末となっている。
ずっと謝れなかったという深い気持ちが、単なる純愛ドラマのラストシーンみたいに処理されている。
成長した彼等の中で面白い存在が小池栄子の藤本七重なのだが、彼女の行為がはるの行為とリンクするはずなのに、肝心の吉永小百合と仲村トオルの関係が濃密に描かれていないので、そちらの盛り上がりにも欠けてしまっている。
吉永小百合の不倫と言うのはキャラクター的にしっくりこない。
それでも警官となっている松田勇(松田龍平)の努力によって、かつての分校で彼らが出会う場面からは泣けた。
逮捕された鈴木信人(森山未来)が泣き叫ぶ場面からは感動を呼ぶ。

分からないのは先生はるの行動だ。
石橋蓮司の刑事によって重大な事実が明らかにされるが、もしそうだとしたなら先生は何のためにかつての教え子を訪ね歩いたのだろう。
誰が鈴木信人に自分の居所を教えたのかではなく、真っ先に鈴木信人がどこにいるのか探さねばならなかったのではないか。
それとも鈴木信人がかつての仲間の元を訪ねると思っていたのだろうか。

島を追われるように去ったはるだったが、戻ってきた自分を父は優しく迎えてくれた。
僕は里見浩太朗の姿を見ていて、父親はどんなことがあっても娘を許してしまうものだと思った。
短編を綴っていくオムニバス的なこの作品を大きく見せているのは、利尻島を望む冬の北海道を切り取った映像で、木村大作は冬景色を撮らせると上手い。
この冬景色あっての「北のカナリアたち」だった。

奇跡の丘

2022-05-25 09:00:33 | 映画
「奇跡の丘」 1964年 イタリア / フランス


監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ
出演 エンリケ・イラゾクイ
   マルゲリータ・カルーゾ
   スザンナ・パゾリーニ
   マルチェロ・モランテ
   マリオ・ソクラテ
   パオラ・テディスコ

ストーリー
予言者の言葉通り、ヘロデ王の代にべツレヘムの大工ヨゼフの婚約者マリアは、聖霊によって懐妊し、生まれた子はイエスと名づけられた。
迫害を逃れるため行っていたエジプトからイスラエルにもどり、ガラリヤで成人したイエスは、ヨハネのもとで洗礼を受けたのだが、その時天から声かひびきわたり、イエスが神の子であることを告げた。
彼はただひとり、荒野で四十日間の断食、さらに悪魔と対決し、退けた。
その後イエスはガラリヤ全地を巡り歩き、教えを広め始めた。
群衆を伴って山にのぼっては、神の国の福音を説ききかせ、そしてイエスは数々の奇跡をも行なった。
しかし、悔い改めるものばかりではなかった。
イエスは、自分が長老や司祭たち、律法学者たちから苦しみを受け、殺されることを知っていたが、それでも怖れずエルサレムめざして布教の旅を続けた。
エルサレムについたイエスは、長老や司祭たちの偽善を責め、最後の審判の日の近いことを説くのだった。
やがて過ぎ越しの祭りの日、十二人の弟子とともに晩さんの席についた。
そして「この中の一人が私を裏切るであろう」といった。
預言通り、イエスは弟子の一人ユダに売られ、ゴルゴタの丘で十字架にはりつけになった。
それから三日目、イエスは復活し、十一人の弟子の前に姿を現わした。


寸評
僕はキリスト教徒ではないし、檀家に入って仏事を務めているとはいえ無神論者に近い。
従って人間キリストが迫害にもめげず神となっていく過程に特別な思いを持たないのだが、キリストの教えに共感し喜びの表情を浮かべる民衆の姿にある種の感動を覚えた。
宗教とは人々にそのような表情をもたらすものなのだろうなと思う。
僕は1970年公開の「アポロンの地獄」でもってピエロ・パウロ・パゾリーニを知った。
その後も上記作品の評価を経て公開された「テオレマ」も観たが、当時の僕の印象は難解で面白くない映画を撮る監督だというものであったように記憶する。
制作年度がそれ以前であるこの映画は難解ではないが少々退屈なものだ。
その印象は僕がキリスト教徒でないことによるものかもしれない。

映画は「マタイによる福音書」に基づいて聖母マリアの処女受胎とイエスの誕生、イエスの洗礼、悪魔の誘惑、イエスの奇跡、最後の晩餐、ゴルゴダの丘、復活のエピソードなどが描かれている。
違和感なく入り込んでくるエンリケ・イラソキのイエスが神の国の福音を人々に説ききかせ、またイエス自身の言葉を語る姿が度々登場する。
それは、キリスト教徒でもない僕が知る「右の頬を打たれれば左の頬を出しなさい」とか、「汝の隣人を愛せよ」という言葉だったり、「この中の一人が私を裏切るであろう」とユダの裏切りを予言したり、「明日の朝、鶏が泣くまでに私を知らないと三度言うだろう」と予言することなどである。
若干の知識が興味を引き止めるが、よくよくみると細かい演出が施されている。
冒頭の処女懐妊では当初夫ヨゼフの戸惑いが描かれている。
そりゃそうだろう、自分に覚えがないのに婚約者が懐妊しているのだ。
ヨゼフもマリアもこの時点では苦しげな表情を浮かべている。
この間の二人をとらえるシーンはかなり長く、やがて現れた天使によりマリアを妻に迎えよと告げられて戻ってきたヨゼフとマリアが微笑みを交わし合うという丁寧な描き方である。
その後に見せるヨゼフの表情の変化なども興味深い。

イエスは使徒を集め「私は平和のために来たのではない。剣を投じるためだ」と宣言する。
そして、「息子が父に娘が母に反抗するように来たのであって、自分より親を敬うものには用はない」とまで言い放つから、それは革命家の言葉の様でもある。
あるいは何処かの新興宗教と同じかもしれないと思うのだが、考えてみれば当時にあってイエスは新興宗教の教祖と言えるかもしれない。
弟子が母上とご兄弟がいらしていますと告げた時、イエスは母マリアの方をじっと見詰めるのだが、その母は老いさらばえていて、僕たちが絵画で見るマリアの姿ではない。
なぜかドキリとしたのはどうした感情によるものだったのだろうか。
イエスの復活よりも驚いたのは、磔になったイエスが叫ぶとエルサレムの街が崩壊する場面だ。
その出来事にも驚いたが、一体あれは何だったのだろうと疑念がわいた。

義兄弟

2022-05-24 07:30:21 | 映画
「義兄弟」 2010年 韓国


監督 チャン・フン    
出演 ソン・ガンホ
   カン・ドンウォン
   チョン・グクァン

ストーリー
国家情報員のイ・ハンギュは、北朝鮮が送り込んだ工作員の大物“影”の行方を追っていた。
ソウル市内の団地で起きた北朝鮮工作員との銃撃事件でハンギュは多くの死傷者と工作員を取り逃がした責任を問われ組織をクビとなった。
それから6年、イ・ハンギュは、逃げた妻や外国人花嫁などを捜す探偵まがいの稼業で糊口をしのいでいる。
ある日、ハンギュは銃撃事件で目撃した北朝鮮工作員のソン・ジウォンに偶然出くわす。
ジウォンはパク・ギジュンという偽名を用い潜伏生活を続けていたのだった。
彼を見張っていれば“影”に繋がると考えたハンギュは、自分の仕事の相棒にとジウォンを誘う。
ハンギュの熱心な誘いでジウォンは一緒に働くようになったが、彼もまたハンギュが6年前の国家情報員であることに気付いていた。
二人は、それぞれの目的を胸の内に秘めながらも、寝食を共にするうちに次第に心を通わせていく。
だが、それでも対立する立場にある二人はお互いの動向を探り続けていた。
そんな頃、彼らの運命を左右する事件が起こる…。


寸評
韓国と北朝鮮というそれぞれの祖国の宿命を背負う二人が繰り広げるサスペンスドラマであるが、時折ユーモアもちりばめて笑いを誘うエンタテイメント性も持ち合わせていて飽きさせない。
民族の分断、それによる家族の離散などは日本人が経験していない環境だ。
家族を思い国家に忠節をつくす二人の男を見て、朝鮮半島のおかれた計り知れない状況を垣間見た気がした。

ハンギュは離婚していているが、母親の元にいる子供のことがかわいくて仕方がないようで時折電話を入れている。
同じようにジウォンも妻子とその役目のため離れている。
その二人の家族が置かれている状況の対比も全体構成を深みのあるものにしていた。
北の者からすれば南は素晴らしい世界だが、それでも金正日将軍様と国家に忠節をつくす"影"のような男もいて、脱北者を裏切り者として決して許そうとしない。
そのためにふとした事がきっかけで自分も裏切り者のレッテルを張られてしまい苦悩するジウォンのカン・ドンウォンが繊細な表情を見せてなかなか良い。

ソン・ガンホはいつもながらの体当たり演技で相変わらずの硬軟併せての好演だ。
音楽に乗って繰り広げられるエピローグからテンポは全開で一気に観客を引き込む。
この辺りの息をもつかせない展開は韓国映画の得意とするところで全体的なレベルの高さを感じる。
イギリスを目指すラストは最後のオチとして愉快な気分で映画館を出させてくれた。
やっぱり北朝鮮はおかしい!

菊とギロチン

2022-05-23 08:25:53 | 映画
「菊とギロチン」 2018年 日本


監督 瀬々敬久
出演 木竜麻生 東出昌大 寛一郎 韓英恵
   渋川清彦 山中崇 井浦新 大西信満
   嘉門洋子 大西礼芳 山田真歩 嶋田久作
   小木戸利光 渡辺謙作 大森立嗣

ストーリー
大正末期。関東大震災直後の日本には、不穏な空気が漂っていた。
台頭する軍部の影響で、それまでの自由で華やかな雰囲気は徐々に失われ、人々は貧困と出口の見えない閉塞感にあえいでいた。
そんなある日、東京近郊に女相撲一座“玉岩興行”がやって来る。
力自慢の女力士たちに加え、元遊女の十勝川(韓英恵)や家出娘など、この一座にはワケあり娘ばかりが集まっていた。
新人力士の花菊(木竜麻生)もまた、夫の暴力に耐えかねて家出した貧しい農家の嫁だった。
貧しい農家の嫁だった花菊は、夫の暴力に耐えかねて家出し、女相撲に加わったのだ。
“強くなりたい。自分の力で生きてみたい”と願う花菊は、周囲の人々から奇異の目で見られながらも、厳しい練習を積んでいく。
そして訪れた興行の日。
彼女たちの興行を観戦に来ていた中に中濱鐵(東出昌大)や古田大次郎(寛一郎)たちの姿があった。
彼等は“格差のない平等な社会”を標榜するアナキスト・グループ“ギロチン社”の中心メンバーである。
師と仰ぐ思想家の大杉栄が殺されたことに憤慨し、復讐を画策すべく、この土地に流れ着いたのだ。
そして、女力士たちの戦い魅せられた中濱鐵と古田大次郎は、女力士たちの自由を追い求める姿に共鳴し、彼女たちと行動を共にするようになる。
“差別のない世界で自由に生きたい”。
その純粋な願いは、性別や年齢を越え、彼らを強く結びつけていく。
次第に惹かれあっていく中濱と十勝川、古田と花菊。
だが、彼らの前には、厳しい現実が容赦なく立ちはだかる……。


寸評
「菊と刀」はルース・ベネディクトが著した日本文化固有の価値を分析した名著であるあるが、「菊とギロチン」は瀬々敬久が描いた女相撲の力士花菊とテロ集団だったギロチン社の若者たちの物語である。
映画は1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災直後から始まるが、関東大震災は阪神・淡路大震災、東日本大震災以上の大災害だったと思われる。
当時は情報伝達手段も未熟で、更なる悲劇を生んでいる。
陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義や自由主義の指導者を殺害しようとする動きも見られた。
甘粕事件(大杉事件)では、大杉栄・伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊に殺害され、亀戸事件では労働運動の指導者平澤計七ら13人が亀戸警察署で、近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤が斬首された。
一方で混乱に乗じて朝鮮人が毒を井戸に投げ入れたとか、暴動を起こそうとしているというデマが飛んで、大勢の朝鮮人が殺戮されたとも聞く。
甘粕大尉は大杉事件の後、満州国建国で暗躍し、終戦を知って自決した人物だ。
大正ロマンの時代だったのかもしれないが、大正時代は昭和初期の軍部独裁を迎える前の不穏な時代だったのかもしれない。

女性たちに土俵で相撲を取らせた記録は古くは奈良時代、雄略天皇の在世にまで遡るらしい。
平成も終わるころ、大相撲春巡業で救命措置のために土俵に上がった女性医師が土俵から下りるよう場内アナウンスで注意されたという一幕があり、「人道か、伝統か」の二者択一的議論が起きたことがあった。
女相撲が存在していたのだし、女性は土俵に上がれないのが伝統だとはいったい誰の入れ知恵なのか。
震災翌年の日照りで困窮した地主(嶋田久作)が、神の怒りを買って雨を降らせてもらおうと、女相撲の興行を招聘するというシーンがある。
そしてめでたく雨となり、嶋田久作の微笑と「神様が怒って下さったな」のつぶやきは可笑しいが、それを聞くと女性はやはり土俵に上がるものではないということになる。

ここでの女性力士たちは精神的、肉体的に虐げられてきた女たちだが、相撲を取ることで自立の意思に目覚めていく。
映画の序盤で、「ギロチン社」メンバーによって決行されたテロの数々が描かれるが、それらはまるで子どもの遊びの様で、女たちに比べて男たちは徹底して幼稚に、そして未熟に描かれている。
大杉栄暗殺に対する報復計画は遅々として進まないし、リーダーの中濱鐵などは「俺はもっと大物を殺るのだ」と言って一向に実行犯になっていない。
花菊の「おら、強くなりてえ」「弱い奴はいつまでたっても何もできねえ」は、弱い奴はいつまでたっても何もできないという少女の叫びだ。
彼女に恋する古田大次郎は正力松太郎の暗殺も直前で失敗してしまい逃亡する羽目になってしまう。
弱い男の古田大次郎と強くなっていく花菊、平等社会を夢るだけの中濱鐵と忌まわしい記憶を持つ十勝川。
彼等にあるのは先の見えない青春だ。
怒りは青春のはけ口だ。
何を言っているのか分からないこともある彼等の叫び声と、手持ちカメラで揺れ続ける画面は怒りの表現だ。
何があったというわけではないが、3時間に及ぶこの作品、なんか迫力あったなあ~!

菊次郎の夏

2022-05-22 08:10:51 | 映画
「菊次郎の夏」 1999年 日本


監督 北野武
出演 ビートたけし 関口雄介 岸本加世子 吉行和子
   細川ふみえ 大家由祐子 麿赤兒 グレート義太夫
   井手らっきょ THE CONVOY

ストーリー
幼い頃に父親を亡くし、今はおばあちゃんとふたりで浅草に暮らしている小学校3年生の正男にとって、夏休みはそんなに楽しいものではなかった。
学校の友達はみんな家族で旅行に出かけてしまうし、サッカークラブもお休み、おばあちゃんも仕事で昼間は家にいないのだ。
そんな時、彼は遠くの町にいるお母さんに会いに行く決心をする。
絵日記と宿題と僅かな小遣いをリュックに詰めて、家を飛び出した正男。
そんな彼の気持ちを知った近所のおばさんが、遊び人の菊次郎を同行させることにした。
ところが、根っからの遊び人の菊次郎は競輪場に寄り道したり、タクシーを盗んだり、トラックの運ちゃんとトラブルを起こしたり、ホテルの人たちに迷惑をかけたりと、行き当たりばったりの旅を展開。
それでも、ふたりは漸く正男の母親の住む家を見つけだすのだった。
しかし、正男の母親は既にそこで違う家庭を築いていた。
菊次郎は幸せそうな母親一家を見て落ち込む正男を精一杯慰めるのであった。
さて、東京へ帰ることになった菊次郎と正男。
ふたりはその道々、知り合ったバイカーたちや作家志望の青年とキャンプをして、楽しい時間を過ごすことにした。
大人であることを忘れてはしゃぎ回る菊次郎だが、そんな彼にもひとつ気になることがあった。
それは、近くの老人ホームに入院している母親のことだった。
ホームをこっそり訪ねた菊次郎だったが、彼は老いた母親に声をかけられなかった・・・。


寸評
母親を訪ねるロードムービーだがいたるところにギャグが散りばめられた喜劇でもある。
ビートたけしと岸本加世子の夫婦が正男少年と出会った時に交わす会話によって映画の全てが語られていて大いなる伏線となっている。
ふとしたきっかけで菊次郎は正男少年の母親を訪ねる旅に同行することになる。
ところが菊次郎はいい加減な男で行く先々で問題を起こすことになるのだが、その様子がまるでコントを見ているような内容で噴き出してしまう。
ペーソスを期待する観客には到底受け入れられない内容で、北野武流のギャグを受け入れられるかどうかがこの映画を評価するかの分かれ目となるであろう。
競輪場での正男とのやり取りを手始めに、ホテルでの騒動、トラック運転手とのもめ事、仲良くなった若いカップルとのやり取りなどで軽妙なコントが繰り広げられる。
正男はカップルから天使の羽を生やしたリュックを貰うが、天使は正男にとっての希望であることがやがて判明することになる。
その後も知り合った自由人と畑のトウモロコシを盗んで売ったり、バイクに乗った二人組と騒動を起こしたりと相変わらずのギャグ連発旅である。
菊次郎はバイクの二人組からお守りの天使の鈴を無理やり取り上げて正男に与える。
天使は二度目の登場である。
ついに正男はメモしてきた母親がいる住所にたどり着くが、冒頭での伏線が生きてくる展開でしんみりさせる。
帰途についた途中で夏祭りに立ち寄った二人は的屋や金魚すくいで遊ぶが、菊次郎の無茶ぶりに怒ったヤクザたちが菊次郎を痛い目にあわす。
心配させまいと「階段から落ちた」と嘘をつく菊次郎に正男は薬局で救急グッズを買ってきて彼の手当てをするのだが、ここで菊次郎は初めて正男に「ありがとう」と言う。
この頃になると菊次郎と正男は疑似親子の関係となっている。
砂浜を手をつないで歩くようになっており、そうすることで菊次郎が歩いた後に足跡がつくという気が付かないようなな細やかな演出が見て取れる。

自由人の兄ちゃんと再会した二人は数日の間キャンプをすることになり、そこにオートバイの二人組が合流して正男の遊び相手として楽しいひと時を過ごすことになるのだが、ここでの遊びはハチャメチャで井手らっきょのハゲのおじちゃんの全裸をいとわぬ姿には思わず吹き出してしまう。
正男に触発された菊次郎は母親のいる老人ホームに行くが、やはりここでも冒頭の伏線が効いてくる。
二人は東京に戻ってくるが、そこで正男は初めて「おじちゃんの名前は何・」と聞き、「菊次郎だよ、馬鹿野郎!」と菊次郎は答える。
当初は正男の成長物語だと思っていたものが、ここにきてこれは菊次郎の成長物語だったのだと気付かされる。
菊次郎は子供が大人になったような男だったが、同じ境遇の正男の姿を見て彼も成長したのだ。
正男はおばあちゃんを大事にするように言われて天使の羽のリュックを揺らしながら駆けていく。
ラストシーンはグッと来るものがある。
しかし僕には、このギャグ映画はどうもなあという気持ちがある。

黄色い涙

2022-05-21 10:20:12 | 映画
「き」で始まる映画の3回目です。

1回目は2019年4月3日の「黄色いリボン」からでした。
以下、「祇園の姉妹」「飢餓海峡」「キサラギ」「岸辺の旅」「岸和田少年愚連隊」「傷だらけの栄光」「Kids Return キッズ・リターン」「紀ノ川」「CURE キュア」「吸血鬼」「キューポラのある街」「凶悪」「恐怖の報酬」「嫌われ松子の一生」「桐島、部活やめるってよ」「キリング・フィールド」「キル・ビル」「金環蝕」「金融腐蝕列島 〔呪縛〕」と続きました。

2回目は2020年12月25日の「喜劇 にっぽんのお婆あちゃん」からでした。
以下、「絆 -きずな-」「北国の帝王」「キツツキと雨」「狐の呉れた赤ん坊」「キネマの天地」「きみの鳥はうたえる」と続き、
2021年1月1日の「逆噴射家族」から「Q&A」「教誨師」「魚影の群れ」「斬る」「斬る」「ギルバート・グレイプ」「疑惑の影」「キング・コング」「銀座の恋の物語」へと続いていきました。

バックナンバーから参照してください。
それでは3回目を始めます。

「黄色い涙」


監督 犬童一心
出演 二宮和也 相葉雅紀 大野智 櫻井翔 松本潤
   香椎由宇 松原智恵子 韓英恵 志賀廣太郎
   本田博太郎 田畑智子 菅井きん

ストーリー
東京オリンピックを翌年に控えた1963年の東京。
日本は高度成長期の真っ只中にあった。
東京は阿佐ヶ谷で暮らす漫画家の村岡栄介、歌手の井上章一、画家の下川圭、小説家の向井竜三の4人は、それぞれが夢見る卵たちだった。
彼等はひょんなことから知り合い、栄介の母親を入院させるために一芝居を打つことになる。
その後一度は離れ離れになった彼らだったが、やがて栄介のアパートで共同生活を送ることになる。
夢を熱く語り合う4人だったが、まともな稼ぎもなく、創作活動すらままならない日々が続く。
彼らを心配げに見守る近所の米屋の勤労青年・勝間田祐二と、章一に思いを寄せる食堂の娘・時江。
そんな彼らのひと夏の物語。


寸評
ジャニーズ事務所の人気グループ"嵐"のメンバーになる映画だが、かつてのアイドル映画と違ってしっかり作られているし、アイドル達に演技力もある。
特に二宮和也は稀に見る雰囲気を持っていて役者としてもすこぶるいい。
木村拓哉がテレビデビューをした時にも同じような印象を持ったのだが、その後彼はテレビタレント化してしまって、その雰囲気をなくしてしまったので、是非とも二宮君には今のままで映画の世界に浸って欲しいものだ。

作品としては松原智恵子が病人らしくないのと、香椎由宇がなぜ実家の店を飛び出し水商売で働くようになったのかの説明不足を除けば、青春の群像劇としては及第点の出来だったと思う。
時代的には彼等より10年ぐらい後に、彼等と同じような思いを持ち、酒を飲み、仲間と語らう生活を送った当時を思い出し懐かしかった。
そして彼等と同じように自らの才能の限界を悟り、現実を直視して社会に出た数十年前の自分がよみがえってきた。
そう思うと、彼等が過ごした1960年代と、僕が過ごした1970年代の若者世界の雰囲気は変わっていなかったのかも知れない。

昭和という時代は戦争、正確には敗戦を経験し、復興を遂げた時代だと思うが、60年代からはその敗戦を過去のものとしていく時代の始まりだったのではないか。
そして70年代に入ると「戦争を知らない子供たち」の時代へと代わっていったと思う。
盛んに作られる昭和ノスタルジック映画は、どこか曖昧な希望にもかかわらず、霞の向こうへ向かって行こうとする夢を抱いていた時代への郷愁なのかも知れない。
逆説的に見れば、今はそんな希望や夢を無くしているのかもしれないなあ・・・。

ラストにおける香椎由宇演じる時江の身の処し方もよかったが、二宮の栄介が田畑の西垣かおるに「自分の世界を失くしたくないんだ!」と叫んだ時のキリリとした表情が僕の背筋を伸ばさせた。
こういう表情の変化を出せる二宮がすこぶるいいと思ってしまう。

雁の寺

2022-05-20 07:11:51 | 映画
「雁の寺」 1962年 日本


監督 川島雄三
出演 若尾文子 木村功 高見国一 三島雅夫
   山茶花究 中村鴈治郎 万代峰子 菅井きん
   金剛麗子 荒木忍 寺島雄作 藤川準

ストーリー
洛北は衣笠山の麓、灯全寺派の孤峯庵は京都画壇の重鎮岸本南嶽(中村鴈治郎)の雁の襖絵で名高く、雁の寺ともよばれていた。
南嶽の愛人であった桐原里子(若尾文子)だが、南嶽の急死で里子の生活は一変する。
ある日、喪服姿の里子が山門を潜った。
南嶽の妾だったが、彼の死後、遺言により孤峯庵の住職慈海(三島雅夫)を訪れたのである。
慈海は里子のやわ肌に戒律を忘れた。
小坊主の慈念(高見国一)は若狭の貧しい寺大工の倅として育ち、口べらしのためこの寺に預けられ、宗門の中学校へ通っていたのだが、同じく貧しい家庭に生れた里子は、慈念に同情をよせるようになった。
ある夜、狂おしげにいどみかかる慈海との情事に耽溺していた里子は、障子に人影の走るのを見た。
慈念に覗かれていると知って、里子は愕然とした。
勉強がきらいな慈念の無断欠席をする日が多くなり、宇田先生(木村功)からそれを聞いた慈海は慈念を叱り、里子が庇うと、慈海は同情は禁物だといった。
若狭西安寺の住職(西村晃)から慈念の生い立ちを聞いた里子は、身をもって慰めようと彼の部屋に忍び入り、惜しげもなく体を与えたのだが、翌朝、慟哭する慈念の瞳が何事かを決するように妖しく光った。
夜更けに酩酊して帰った慈海は、何者かに襲われてばったり倒れた。
その夜明け壇家の平吉(伊達三郎)が兄の葬式を頼みに駆け込んだ。
里子は慈念を碁仇の源光寺に走らせたが、慈海はいない。
源光寺の雪州(山茶花究)は慈念の宰配で葬儀を出してやった。
棺桶の重さに不審を抱いた人々も、慈念の態度に気圧されたかたちで葬式は終ったのだが・・・。


寸評
モノクロ作品だが、タイトルが出る場面と最後だけはカラーとなる。
導入部がモノクロで描かれ、タイトルが表示されるときにパッとカラーになるときは衝撃が走る。
クレジットタイトルが終わると再びモノクロ画面となるのだが、この導入部で僕は作品に引き込まれた。
里子の女としての生きざま、住職と里子の愛欲生活、住職と小僧の慈念との葛藤、慈念の青春などを映画は描いていくが、どれも中途半端な感じを受けるものの住職役の三島雅夫のねっとりとした生臭坊主ぶりがいい。
キャスティングからして若尾文子の映画なのだろうが、彼女にこれと言った場面はないのだが、時々着物の裾が乱れてふとももがチラリと見えるシーンだけはエロチシズムがほとばしり官能的である。
この頃の映画には若尾が示したようなエロチシズムが画面上で展開されることが珍しくなかった。
直接的なシーンよりも遥かに想像を掻き立てる素晴らしい演出だと思うのだが、昨今はとんと見なくなった。

慈念を演じた高見国一のするどい眼光は印象深い。
彼は捨て子で両親の顔を知らない。
善良な寺大工の夫婦に育てられたが、貧しい家で子供も多かったことから口減らしのために寺に出された。
自分の過去を決して語らず、出自を知る若狭の寺の住職にも決して語ってくれるなと頼み込む。
その事が彼の青春にどのような影を落としたのかは分からないが、母親に対する慕情は人一倍強かったようであり、乞食村と称される貧しい村で育てられたことも彼には負い目となっている。
屈折した慈念の心の内を描いているとは言い難いが、無口だが鋭い眼光を持つ彼の表情でその事を表していて、時折彼が発する言葉が鋭く聞こえる。

里子の家も貧しく、彼女も実家に居ることはできず愛人とでしか生きていくことができない。
南嶽の愛人であったが、南嶽が寺にこもって鴈を題材にした襖絵を描いているのに付き添っているうちに、住職の慈海が彼女を見初めている。
南嶽が息を引き取るときに、あろうことか慈海に里子のことを頼んで死んでいく。
そこから慈海と里子の愛欲生活が始まる。
慈念はその様子を盗み見していたように思うが、彼が盗み見しているシーンはない。
里子はどのような気持ちからか慈念を可愛がるが、彼の若さに魅かれたのだろうか。
ある日、里子は慈念との関係で一線を越えるが、住職と慈念の間で苦しんでいる風でもない。
生きていくとに貪欲な女なのだろう。

慈念の決心は里子の愛欲に負けた為なのか、住職の厳しい仕打ちを恨んでのものか、それとも住職の俗人ぶりに愛想をつかしたことから来たものか。
慈念は自分の迷いを新しく住職としてやってきた宇田先生にぶつけるが明快な答えはない。
住職たちは厳しい戒律世界にいるが、一般人よりも俗人的である。

殺人と死体の処分だけは緊迫感が出ていた。
本作の出来を語るうえで村井博の絵画的な構図を意識した斬新なカメラワークは見逃せない。

間諜X27

2022-05-19 07:49:23 | 映画
「間諜X27」 1931年 アメリカ


監督 ジョセフ・フォン・スタンバーグ
出演 マレーネ・ディートリッヒ
   グスタフ・フォン・セイファーティッツ
   バリー・ノートン
   ヴィクター・マクラグレン
   ワーナー・オーランド

ストーリー
映画は第一次大戦さ中のウィーンに始まる。
愛国心を讃えられた女は殉職した軍人の妻であり、X-27号のコードネームを与えられ、反逆者と目されるフォン・ヒンダウ大佐の身辺を洗う任務を負う。
仮装舞踏会の一夜、X-27は大佐に近づき、そのまま大佐の家へついて行く。
執事が大佐はタバコを吸わないと言っていたのに、道化の仮装をした友人が大佐にタバコを渡した。
X-27はタバコを大佐のコートから探り出し、敵国からの通信を取り出してそのタバコを吸う。
X-27はマリーと名のって、フォン・ヒンダウ大佐にタバコを渡したロシアのスパイを捜し出し、その男が軍服でカジノに遊びに来ているのにめぐり会い接触する。
互いに相手がスパイと知る二人だが、男の方が一枚上で、隣の部屋の隠し扉から逃げてしまう。
男は大胆にもX-27の屋敷に忍び込み、彼女の次の任務を記した文書を読んだ。
部屋に入ってきたX-27に自分がロシア陸軍の大佐であると正体を明かし、X-27が誘惑すると「もう1分ここにいたら恋に落ちかねない」と言って窓から出ていった。
ポーランド領内のロシア軍本部になっているホテルにX-27はメイドとして入り込んだ。
X-27は機密情報を暗号楽譜にして記録したが、例の陸軍大佐はウィーンのX-27の部屋にいたのと同じネコを発見したことでX-27は逮捕され楽譜もみつけられる。
翌朝処刑されるまでの最後の時間をあなたと過ごしたいというX-27についに男は恋に落ちてしまう。
ところが、乾杯して飲んだ酒に眠り薬が入れられており、愛猫と逃亡したX-27は本国で自分の「作曲」した曲をピアノで弾いて暗号楽譜を復元する。
多くの将校が捕虜になり、その中に例の陸軍大佐もいた。


寸評
マレーネ・ディートリヒは僕の中では伝説の女優で、リアルタイムで見たことがないグレース・ケリーやイングリッド・バーグマンも同様なのだが、貴婦人、淑女といった感じがする美形の二人に比べれば、ディートリヒは怪しげだし存在にリアル感がある女優である。
ジョセフ・フォン・スタンバーグは彼女を見出し、1930年「嘆きの天使」、1930年「モロッコ」、1931年「間諜X27」、1932年「上海特急」、1932年「ブロンド・ヴィナス」、1934年「恋のページェント」、1935年「西班牙狂想曲」と立て続けに彼女を撮り続けている。
こうなってくるとジョセフ・フォン・スタンバーグはマレーネ・ディートリヒの信者ではないかと思えてくるぐらいだ。
僕はリバイバルでデビュー後の3本と後半の何本かを見ているが、何れも秀作揃いである。
マレーネ・ディートリヒの魅力に負うところが大きい作品群である。

退廃的な美貌を持つ彼女は「100万ドルの脚線美」と称えられていたようだが、ここでも冒頭でさり気なくストッキングをずり上げ、その脚線美を見せつけている。
そう思ってみると、彼女の脚線美を見せるがためのショットが目に付いた。
X-27は軍人の妻だったが、今は娼婦に身を落としている。
なぜ娼婦にならなければならなかったのか、彼女はその身に満足しているのかなどは分からないが、娼婦と言う役柄が雰囲気からしてピタリと治まっている。
彼女はスパイになることを了承し、フォン・ヒンダウ大佐から証拠の品を見つけ出し盗み取る。
見つけ出すヒントとなる執事との会話は上手く出来ていると思うが、疑惑の行動がオーバーラップして描かれるのは余計なテクニックだったように思う。
前の出来事は伏線としておき、改めて説明する必要はなかったように思うし、この作品においてはやたらとオーバーラップで描かれるシーンが出てきて少しばかりクドイと感じたのだが、撮影年度を考えるとこれもありと理解するしかない。

ディートリッヒはほぼノー・メイクですっかり別人のメイドとなってドイツ将校の屋敷に入り込む。
猫を使って正体がばれるのは良かったのだが、ここでは二人の間に湧き上がった感情をはっきりと見せてくれないと、スパイとしてのお互いを尊敬しあったのか、国を超えた恋が芽生えていたのかよく分からなかった。
戦争中の悲恋の一ページとしての印象をもっと醸し出しても良かったような気がする。
X-27が作曲した曲をピアノで弾いて暗号を再現するが、自分が暗号化したのならピアノで弾かなくても知り得た情報を直接伝えられるはずで、おかしなシーンだった。

彼女に憧れる若い中尉が目隠ししようとするのを断って、その布で彼の瞳に溢れる涙を拭ってやる際のマレーネ・ディートリヒには女性の持つ魅力の総てが噴き出していた。
わずかに微笑みを浮かべる表情には、覚悟を決めた女の強さ冴え感じさせた。
中尉の行動は突然すぎるけれどエンディングはいい。
デートリヒはやはり僕の中で伝説の女優として生きている。
耳に残っている「リリーマルレーン」の歌声が聞こえてくるようだ。

華麗なるヒコーキ野郎

2022-05-18 08:35:08 | 映画
「華麗なるヒコーキ野郎」 1975年 アメリカ


監督 ジョージ・ロイ・ヒル
出演 ロバート・レッドフォード
   ボー・スヴェンソン
   スーザン・サランドン
   ジェフリー・ルイス
   マーゴット・キダー
   ボー・ブルンディン

ストーリー
第一次大戦がやっと終結した1920年代。
ここアメリカには『バーンストーミング』と呼ばれる職業があった。
単発のプロペラ機で、田舎町を飛びまわり、金をとって人々を飛行機に乗せたり、曲乗り飛行をして見せる商売で、バーンストーマーたちの多くは第一次大戦中に飛行機で戦って、その魅力にとりつかれた者たちで、ウオルド・ペッパーもそんな男の1人だった。
ある日、ペッパーが中西部の田舎町にやって来ると、そこでは既にアクセル・オルソンという元空軍大尉が彼の市場を荒らしていたが、二人はチームを組んでサーカスに参加することになった。
ペッパーは飛行中、翼の上を歩く曲芸を思いつくが、過当競争が激しくなり始め、並の曲芸ではお客は集まらなくなっていた。
そこで曲芸に色気を加え、薄い服地をまとったメアリー・ベスが翼の上に立つことになったが、その練習中、不幸にも墜死してしまう。
一方、スタイルズは新型飛行機の組立てを完成し、翼をもぎとられたペッパーに替って試行飛行に飛びたったが、機はバランスを失って地面に激突した。
ペッパーは狂ったように飛行機に乗り込むと、機首を地面すれすれにさげ、見物人たちをけちらした。
その混乱で何人かが怪我をして、ペッパーは永久に飛行免許証を失った。
数カ月程たって、ペッパーはオルソンがハリウッドの映画会社で飛行スタントマンとして働いていることを聞くと、矢も盾もたまらず、ピータースドルフという偽名を使ってハリウッドに乗り込んでいった・・・。


寸評
原題は「Great Waldo Pepper」となっており、ウオルド・ペッパーとは主人公の名前で第一次世界大戦における空軍兵士の生き残りである。
戦後の彼は複葉機に乗って曲芸飛行を行うパイロットとして金を稼いでいる。
彼のあこがれのパイロットは敵国ドイツ軍のケスラーだ。
彼ら二人が見せるラストの空中戦が見せ場となっている。
大きなドラマはなく、僕はノスタルジーをそそりながら飛行機が飛び回っているだけという印象を受けた。
陸上の闘いと違って空の闘いは一騎打ちの要素がある。
ケスラーが言うように、パイロットは騎士のようであり、威厳を持ってお互いを尊敬し合う騎士道の精神を持ち合わせていたのだろう。
ペッパーは、機銃が故障してしまった敵機を相手の技量を認めて撃墜せずに敬礼をして飛び去ったケスラーを尊敬しているのだが、その相手は自分だったとホラを吹く調子のよい男でもある。
空を飛ぶことが唯一の生きがいとしている男で、複葉機で飛び回るシーンはノスタルジーを超えた爽快感がある。
第一次世界大戦は1914年から1918年にかけて行われた戦争で、当時は登場したような複葉機で空中戦が行われていたのだろう。
何とものどかな飛行機で、女性のメアリー・ベスが飛んでいる飛行機の座席から外に出て翼の上に立つ事ができるような代物なのだ。
操縦席にはフードもないし、機体は時代を感じさせるに十分なものがあった。
僕は高所恐怖症の気があるので、見ているとゾクゾクしてくるシーンもあり、僕には臨場感たっぷりに思えた。
敵機を何機も撃ち落とした撃墜王なるパイロットもいたのだろう。
彼らは空中戦を自分達の技術を競う場と考えていたのかもしれない。
ペッパーもケスラーもまるでスポーツで競うように空中戦を繰り広げる。
失くしてしまった命を懸けた緊張感に比べれば、スタントに生きる今の生活は堕落にしか思えないのだろう。
それほど空の男には誇りがあったのだと思う。

太平洋戦争における日本海軍のパイロットも優秀だったと聞く。
パイロットだけでなく照準士も優秀で、真珠湾攻撃では高空から落とさねば威力を発揮しなかった爆弾をアリゾナに命中させているのである。
一方のアメリカの爆弾投下はなかなか目的物に命中しなかったらしい。
大金をつぎ込んだB29の成果が上がらず、焼夷弾による無差別爆撃に踏み切ったとも聞く。
アメリカの技術不足と陸海空の覇権争いによって、日本の民間人がどれほど命を失ったことか。
日本のパイロットは本当に優秀で、終戦間際には精鋭を再編成した航空隊が松山上空での空中戦で完勝しているのである。
撃墜王だれそれと呼ばれる人もいたようで、ケスラーもそのような人物である。
その尊敬するケスラーと戦ってペッパーは雲間に飛んでいく。
その機影は忘れ去ることができない記憶との決別を行ったようにも見えた。
陳腐な邦題ではあるが、ペッパーは間違いなく飛行機野郎である。

華麗なるギャツビー

2022-05-17 08:14:07 | 映画
「華麗なるギャツビー」 1974 アメリカ


監督 ジャック・クレイトン
出演 ロバート・レッドフォード
   ミア・ファロー
   ブルース・ダーン
   カレン・ブラック
   スコット・ウィルソン
   サム・ウォーターストン

ストーリー
1920年代のニューヨーク郊外のロングアイランドに豪華な邸宅を構えるジェイ・ギャツビーは夜毎のようにパーティーを催していた。
彼の身分は謎に包まれていたが、招待客は密輸やスパイ、殺人など法に背く行為の末に大金持ちになったのだと噂し合っていた。
そんなギャツビーの隣に住むニック・キャラウェイは、数回パーティに招待され、徐々に彼の秘密を知るようになった。
ギャツビーはダコタの農家に生まれ、17歳のとき鉱山成金に拾われた。
そして第1次大戦に参加し、陸軍少尉となった彼はルイビルのキャンプにいるときデイジーと知りあった。
2人は互いに心ひかれ激しい恋におちたが、ギャツビーは軍の命令でフランス戦線へ派遣されてしまったのだ。
ニックはその頃のことを知らなかったが、デイジーとニックは従弟同志だった。
ギャツビーがフランスへ発ったあと、デイジーはシカゴの富豪トム・ブキャナンと結婚した。
トムとニックはエール大学での級友だった。
今、ギャツビーはロングアイランドに大邸宅を構え、デイジーの邸と湾をへだてて向かい合っていた。
ギャツビーは夜毎豪華なパーティを開いた。
ギャツビーとデイジーはニックの仲介を得て再会し、デイジーはギャツビーの変わらぬ愛を知り感激した。
夫にはマートルという情婦があり夫婦生活がうまくいっていなかったのだ。
ある日、ギャツビー、デイジー、ニック、トムが顔を揃え、ギャツビーとトムがデイジーをめぐって対立した。
その帰り道、興奮するデイジーが運転するギャツビーの車がマートルを轢き殺してしまった。


寸評
ブルジョワジーのたわごとと言ってしまえばそれまでという映画なのだが、1920年代のファッションとチャールストンを踊りまくるパーティシーンがきらびやかである。
メロドラマと言えば単純なメロドラマなのだが、ひねりを利かせているとすればミア・ファローのデイジーが微妙な女心を見せるところかな・・・。

ギャツビーの気持ちは分からぬでもない。
ギャツビーはずっとデイジーに恋し彼女を思い続けている。
彼女は結婚してしまったがギャツビーの気持ちは変わっていない。
デイジーは富豪と結婚して子供ももうけているが幸せと言えない生活を送っている。
一方のギャツビーも成功していて、湾を挟んで彼女の対岸に豪邸を購入している。
遠く離れた彼女の家の桟橋に灯るランプの灯を眺めて過ごす毎日だ。
彼は頻繁にパーティを開いているが、参加者を一瞥しただけで自分はパーティには出ない。
そのパーティはいつの日かディジーが出席してくれるかもしれないとの思いからのものである。
膨大な浪費と一縷の望み。
本当に恋い焦がれると、やってしまうであろう切ない行為がとてもよく理解できるのだ。
かれは富豪なのでその行為のスケールが違うだけだ。

デイジーは夫のトムが浮気していることもあって一気にギャツビーとの仲が燃え上がる。
トムの浮気あいてはガソリンスタンドを併設したドラッグストアを営むジョージの奥さんのマートルである。
マートルはトムとの派手な生活に入り浸っているが、夫のトムもそのことを気づいている。
このトムの屈折した心情が映画に変化をつけていて、彼の店の前にある大きなメガネの看板が冷たくそれぞれの男女を見つめている。
この看板の冷たい視線は印象的だ。
ギャツビーはいつか自分も富豪になってデイジーの前に現れるのだと思って成功したのだろうが、どのようにして成り上がったのかは不明のままである。
本当に遺産を継いだのかもしれないし、トムが言うように不正なことをして稼ぎ出した金なのかもしれない。
しかしそれでもギャツビーは純情だ。
反対にデイジーは意識したものでないが、結果的にはイヤ味のある女である。
ギャツビーになびいたかと思うと、二人とも愛していたのだと漏らす。
確かに結婚して子供ももうけたのだからトムとの間に愛情もあったのだろうが、今それを言い出すかといった具合なのだ。
事件を起こしながら知らぬ風でトムと新生活に出かける姿を見ると、この女に嫌悪感を抱いてしまう。
ミア・ファローはこのような役をやらせると雰囲気を出す女優だ。
ギャツビーの死は彼の友人にも知らされるが、生前に言っていたように「生きていれば友人だが、死んでしまえばただの人だ」の通り無視する。
その言葉はデイジーにも覆いかぶさる実にむごたらしい結末だった。