おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

続・忍びの者

2024-05-31 07:09:02 | 映画
第一作「忍びの者」はバックナンバーから2022-08-19をご覧ください。

「続・忍びの者」 1963年 日本


監督 山本薩夫
出演 市川雷蔵 藤村志保 城健三朗 山村聰
   東野英治郎 坪内ミキ子 永井智雄 石黒達也
   須賀不二男 松本錦四郎 山本圭 伊達三郎

ストーリー
一時は平和な生活を得た五右衛門(市川雷蔵)とマキ(藤村志保)も、信長(城健三朗)の執拗な忍者狩りに追いつめられ愛児を火中に失った。
かくて復讐の鬼と化した五右衛門は信長暗殺の期をうかがうべく、マキと共に彼女の兄・勘助(浜田雄史)のいる紀州の雑賀に身をかくし、土地の郷士鈴木孫一(石黒達也)を頭とする反信長の雑賀党に参加し忍者復活を宣言した。
そこに服部半蔵(伊達三郎)が家康(永井智雄)の使者として来て、信長を倒すには秀吉(東野英治郎)に追い越されて焦っている明智光秀(山村聡)を利用することを教えた。
忍者五右衛門はただちに光秀に近づき、裏面工作に力を尽して光秀を家康饗応の役目から失脚させ、ついにその怒を爆発させた。
かくて光秀は信長を本能寺に襲撃し、五右衛門は信長を燃えさかる火中に虐殺した。
信長の死により天下の形勢は一変、中国地方より取って返した秀吉は、またたく間に光秀を攻略、ついで長い間の禍のもとである雑賀党を全滅すべく兵をさしむけた。
さすがの雑賀党も授軍を求めに出た五右衛門一人を残して全員討死、妻マキも銃をにぎって息絶えていた。
やり場のない怒りをかかえた五右衛門の所にまたも半蔵が現われ、家康からの引出物と称して秀吉の住む聚楽第の見取図を置いて行った。
これを手にした忍者五右衛門は、巧みに聚楽第に忍び込んだが、さすがの五右衛門も廊下の鴬張りには気が付かず秀吉暗殺の目的をはたさずに捕えられてしまった。
秀吉は彼を見せしめのためと称して、三条川原において釜煎りの極刑に処した。
一人の忍者が天下を動かす時代はすぎた。
陰で笑うのは家康であった。


寸評
百地三太夫が死んだ前作のラストシーンを引き継ぐような形で物語が描かれ始めるし、スタッフが前作と同様だからさしずめ石川五右衛門を主人公とする「忍びの者」後編といった内容である。
前作を引き継いでいるが娯楽性は数段と高まっている。
主な配役は市川雷蔵の五右衛門、藤村志保の妻マキ、城健三朗の信長は前作通りで、新しく登場するのが伊達三郎の服部半蔵、山村聡の明智光秀、東野英治郎の羽柴秀吉、永井智雄の徳川家康、山本圭の森蘭丸、石黒達也の鈴木孫一など歴史ファンでなくても名前ぐらいは知っている人物が登場し、恵林寺において焼死した快川紹喜和尚が描かれたり、光秀の八上城攻防戦における母親の処刑が語られるなど、史実の一部が真偽はともかくとして描かれていて興味を引くことなどがそう感じさせているのだろう。
もっとも松山城攻め場面では重要人物の黒田官兵衛は登場していないし、光秀の側近として登場しているのは島左近ではなかった。

坪内ミキ子の女間者タマメを森蘭丸に絡ませ、服部半蔵から明智光秀が信長に反感を抱いていることを知らされた五右衛門が、光秀の敵対感情を煽り立てて本能寺の変を起させ、五右衛門が信長を虐殺したという新解釈を施している。
しかも五右衛門が信長を虐げる場面では腕を切り落とし、足を切り落とすという残酷さである。
五右衛門の無念さ、復讐心を掻き立てるためのものなのだろうが、いささかグロテスクである。
前作が忍者の人間的苦悩と過酷な世界を映像化していたが、この続編は戦国武将たちの権謀術策の一面を描いた戦国裏面史を描いている。
その筆頭は徳川家康で、自分では手を下さず目的を達成していく。
服部半蔵が言っているように、それこそが忍者にとっての最高の技で、家康こそが真の忍者であるという構図を生み出している。
家康は「一人の忍者が天下を動かす時代はもう過ぎた。信長公がふかし、秀吉殿がついた天下餅が余の前に並べられる日を待つんだ」とうそぶいている。

服部半蔵から「女忍者は女であることを武器にして戦い、決して相手に惚れてはいけない」と諭されていたタマメが森蘭丸を色仕掛けで手中に入れながら、本能寺の変では蘭丸を慕っていたような描き方である。
タマメは使命との間で苦しんだはずだが、変節が突然すぎて浮いたような描き方だ。
妻マキとの平穏な生活を望んでいた五右衛門だが、結局彼は権力者のかけひきに翻弄されていく。
その悲劇性がもっと前面出ていたら違った作品になっていたと思うが、前作同様そのようなメッセージ性を描くことをむしろ意図的に排除していたように感じる。
山本薩夫監督としては完全娯楽作に挑戦していたのかもしれない。
スタッフ表示で「監督 山本薩夫」と出るのは当然ながら、横に小さく鍋井敏宏と出たのはどういうわけだろう。
助監督として表示しても良さそうなものだが、鍋井敏宏氏がどのような役割を担っていたのか気になった。
前作は嬉々としてマキのもとへ帰る五右衛門の姿で終わったが、本作では釜ゆでの刑に向かう五右衛門の姿で終わっているのもラストとして対をなしているのだと思う。

続・座頭市物語

2024-05-30 07:03:35 | 映画
第一作「座頭市物語」はバックナンバーから2019-06-25をご覧ください。

「続・座頭市物語」 1962年 日本


監督 森一生
出演 勝新太郎 水谷良重 万里昌代 城健三朗
   中村豊 澤村宗之助 柳永二郎 伊達三郎

ストーリー
下総、取手川の渡しでやくざ達があんまの市(勝新太郎)を川へ突き落そうとした。
瞬間、勘造(水原浩一)が顔を斬られ、向こう岸に着くと仲間たちに介抱される羽目に。
驚愕した仲間の森助(伊達三郎)らは市を探し回り、裸で寝ていた彼を見つけ彼を取り囲んだ。
が、突然、片腕の浪人与四郎(城健三朗)が邪魔に入り、あっという間に彼らを切り伏せ、やがて現れた弟分の男(中村豊)と一緒に渡世人たちの財布を奪うとその場を去っていった。
二人の間には何か曰くがありそうだ。
座頭市は大名黒田越前守(春本富士夫)のもみ治療の帰途、家中の侍に襲われた。
狂っている殿様の秘密を封ずるためだったが、居合斬りの名人座頭市は一瞬三人を斬り捨てた。
市はある飯屋でお節(水谷良重)という遊女と知り合った。
黒田藩に市の始末を頼まれた関の勘兵衛(沢村宗之助)はその子分たちを走らせ、お節の家を襲わせたが市の敵ではなかった。
そしてお節の世話で舟をやとい水路笹川へ向った。
飯岡助五郎(柳永二郎)の鉄火場で、かつて座頭市と相思相愛だったおたね(万里昌代)が、飯岡一家がお尋ね者の与四郎召捕りと市を斬る策略を知った。
彼女は市が来ているという浄勝寺へ駈けつけた。
そこには以前笹川と飯岡の喧嘩で平手造酒を斬った市が回向をつとめていた。
勘兵衛一家は市を取り巻き斬りかかったが、ついに勘兵衛一人になってしまった。
それを見た与四郎は市に向かって抜刀した。
彼は市の実兄であり、市の女お千代を奪ったことがあった。


寸評
続編らしく前作からの登場人物として万里昌代のおたね、柳永二郎の飯岡助五郎が登場するが、前作では登場していないながらも本作では重要な人物であるはずのお千代は姿を現さない。
お千代は市が惚れていた女性だったようだが、市が盲目となったことで市の兄である与四郎へ心変わりをしたらしく、それを知った市が怒りのあまり与四郎の片腕を切り落としたことが判明する。
そのお千代は与四郎が片腕となったことで彼を見捨てたようで、市が惚れたにしては随分と薄情な女だ。
お千代は会話に出てくるだけで姿を表さないし、兄弟の確執が描かれていないので与四郎の市に対する恨みの感情もイマイチ伝わってこないものがある。
与四郎と市は兄弟なのだが、演じている城健三朗と勝新太郎も実の兄弟であることが興味の一つとなっている。

前半は片腕の浪人与四郎が登場し、黒田藩とのいざこざが描かれる中で遊女お節との絡みが描かれる。
このお節は市と与四郎に関係のあるお千代にそっくりの顔立ちということだが、肝心のお千代が登場していないので、二人が彼女の面影をお節に見出す感情は伝わってこない。
このことを含めて、与四郎と市の確執を上手く描けていないことが本作の欠点だったと思う。
お節の水谷良重をもう少し上手く使えたような気がする。

後半では、前作で市が斬った平手造酒の供養に向かった笹川での騒動が描かれる。
前作で市は寺小姓に平手造酒の供養を頼み1年後に帰ってくることを告げていたので、それを受け継いでいる。
市は前作のことも有って飯岡助五郎の家に立ち寄ると、そこには与四郎がいて彼が極悪非道のお尋ね者であることがわかったことで飯岡助五郎から追い出され、ここに市と与四郎に飯岡助五郎と勘兵衛連合軍の三つ巴の構図が完成する。

勘兵衛とその子分は市を狙って浄勝寺へ向かうが、市の方では彼を慕うおたねが勘兵衛たちの到着を知らせたこともあって、迎え撃つ準備は出来ていた。
子分たちは全員がやられてしまい勘兵衛だけが残ったところで与四郎がやってきて市と対決となる。
市が与四郎に深手を負わせたが、そこへ助五郎の手勢と役人たちがやってくると、市は与四郎を助けて一緒に川に飛び込み逃亡する。
このシーンは冒頭でやくざ達ともめた時に市が川に飛び込んで逃げた場面が伏線となっている。
二人は浄勝寺の小坊主とおたねにかくまわれるが、与四郎は手当の甲斐なく死んでしまう。
確執を超えた兄弟の愛情がほとばしる場面だが、もう一押し欲しかったような気がする。
例によって飯岡助五郎が市への悪態をつきながら勘兵衛とやってくるところへ市が待ち受けている。
「天保水滸伝」では悪役にされている飯岡助五郎だが、実際の彼は評価される部分もあって、何よりも侠客の一人でありながら天寿を全うし病没しているとのことであるが、ここでは市によって斬り殺されている。
このラストシーンは本作を語るうえで外せない。
市は与四郎が兄であることを語り、助五郎、勘兵衛と対峙する。
一撃で飯岡助五郎を斬るストップモーションで終わるラストはこの作品の評価を上げている。
シリーズはこの後カラー作品となっていき、大映のドル箱シリーズとなった。

蝉しぐれ

2024-05-29 06:48:30 | 映画
「蝉しぐれ」 2005年 日本


監督 黒土三男
出演 市川染五郎 木村佳乃 ふかわりょう 今田耕司
   原田美枝子 緒形拳 小倉久寛 根本りつ子
   山下徹大 利重剛 矢島健一 渡辺えり子
   原沙知絵 麿赤兒 田村亮 三谷昇 大滝秀治
   大地康雄 緒形幹太 柄本明 加藤武

ストーリー
“海坂藩”の下級武士・牧助左衛門(緒形拳)の15歳になる剣術に長けた息子・文四郎(石田卓也)と、隣家に住む幼なじみのふく(佐津川愛美)は、秘かな相思の仲。
だがある日、城内の世継ぎ問題に巻き込まれた助左衛門が、対立する側の家老・里村左内(加藤武)に切腹を命じられたことから文四郎の境遇は一変し、罪人の子として、母・登世(原田美枝子)と共に辛い日々を送る破目になってしまう。
そんな中、今度はふく(木村佳乃)が殿の江戸屋敷の奥に勤めることになった。
それから数年、父の仇である筈の里村によって名誉回復が言い渡され、村回りの職に就いていた文四郎(市川染五郎)は、学問の修行を終え江戸から帰って来た友人・与之助(今田耕司)に、殿の側室となったふくが子を身籠ったものの、世継ぎ問題に巻き込まれ流産したことや、その後、再び殿の子を懐妊・出産し、今は別邸“欅御殿”に身を隠しているらしいことを聞かされる。
そんな文四郎に、こともあろうに里村からふくの子をさらって来いとの命令が下った。
罠だと知りつつも、承諾せざるを得ない立場の文四郎は、ふくの子を預かった後、里村の反対勢力で父が仕えていた家老・横山又助(中村又蔵)の所に駆け込む策を秘密裡に講じる。
そして、友人の逸平(ふかわりょう)や与之助らの力を借り、欅御殿に向かうと、ふくに事情を説明。
押し入って来た里村派の刺客たちを倒し、ふくとその子を無事、横山の屋敷に送り届けることに成功する。
数年後、殿の他界によりふくが出家を決意した。
ふたりは、今生の未練として一度だけの再会を果たし、そこで初めて自らの気持ちを伝え合うも、最早結ばれる筈なく再び別れ行くのだった。


寸評
藤沢周平らしい秘めた恋を描いているが、話のテンポがあまりにも遅すぎて情感が伝わってこない。
近所に住む二人は秘かに想いあっているようだが、その描き方はまどろっこしい。
図らずも二人が別れ別れになっていく時の切なさのようなものがにじみ出てこなかったのは淋しい。
牧助左衛門は水害の時にも率直な意見を言う男で、村人の信頼も得ているのだが、それも十分に描かれているとは言い難い。
この時に村を救ったことで、脱出劇の時に助けてくれる村人が出てくる伏線となっているのだが、伏線としては弱いと思う。
ふくの家は貧しくて助左衛門の家に米を借りに来ている。
登世も米だけではないし、返したためしがないと愚痴をこぼしているのだが、ふくが殿様の側室になってから、ふくの父親はとんとん拍子の出世を遂げている。
一方で文四郎の家は父が切腹したことで没落し、立場は逆転してしまっているのだが、その間の両家の関係はどうなっていたのか。
相変わらず拘わらぬように無視していたのだろうか。
そうだとすれば、ふくの両親は出世しておきながら過去の恩を忘れた無慈悲な親と言うことになる。

成人した文四郎は父親と同じように世継問題に巻き込まれてしまう。
欅御殿で襲撃にあったとき、ライバルともいうべき剣客と再び戦うことになるが、ふたりのライバル関係は御前試合だけで描かれており、この二人の対決は重きに置かれていない。
だから対決の盛り上がりには欠けている。
世継問題に乗じて首席家老になっている里村の屋敷に文四郎が乗り込むが、里村の部屋に入った文四郎を里村の家来たちが追いかけてこないのはどう考えても不自然だ。
そこで文四郎は里村を殺すことなく意見する。
ではその後、里村はどうなったのか。
先の首席家老・横山又助が復権し、里村は失脚したのか。
そもそも世継問題と言う政争から出発している話なのだから、政争の結末は描く必要があったのではないか。
どうもこの作品においてはすべての描き方が中途半端な気がする。
それが間延び感の原因だろう。

文四郎はふくに呼び出され別れの対面をする。
この頃には文四郎も結婚し、子供も生まれていることが文四郎の口から語られる。
幸せな家庭を築いているということなのだが、それでも初恋の人を忘れられず、ひそかに心の中で思い続けているという心情は分らぬでもない。
ラストシーンはそんな文四郎の心の内を示すものだと思うが、それも希薄なもので、思いのたけは籠の中のふくの表情と見送る文四郎の姿を比較すると、ふくの方が思いは強かったのだと思う。
藤沢周平の世界を描いてはいるが、どうも上辺だけを描いたような作品と感じてしまって、時代劇ファンとしてはちょっと残念な気持ち。

聖地には蜘蛛が巣を張る

2024-05-28 05:44:31 | 映画
「聖地には蜘蛛が巣を張る」 2022年 デンマーク / ドイツ / スウェーデン / フランス


監督 アリ・アッバシ
出演 メフディ・バジェスタニ ザール・アミール=エブラヒミ
   アラシュ・アシュティアニ  フォルザン・ジャムシドネジャド

ストーリー
イランの聖地マシュハドで娼婦ばかりを狙った連続殺人事件が発生する。
犯人は娼婦を汚らわしい存在として、街を浄化するために行っていると宣言する。
女性ジャーナリストのラヒミが取材を開始するが、市民の中には公然と犯人を英雄視する者も少なくなかった。
そんな中、同じ犯行が続いているにも関わらず、警察の動きが鈍いことに苛立ちを募らせていくラヒミだったが…。


寸評
中東イランで女性に義務づけられている髪の毛を覆う布「ヘジャブ」の着用をめぐり、22歳のマフサ・アミニさんが2022年9月1日当局に逮捕された後に死亡し、警察官による暴行が疑われてイラン国内が騒然としたニュースを思い浮かべる。
この映画でもラヒミが髪の毛が見えているとへジャブ着用をめぐり注意されるシーンがある。
さらにラミヒが予約したホテルを訪れると、宿泊客が独身の女性一人という理由だけで宿泊拒否にあうシーンも描かれている。
ラミヒは自分がジャーナリストであることを示し泊まることが出来たが、「女性に対する嫌悪や蔑視」を意味するミソジニーの世界に、これから彼女がひとり乗り込んでいくことを示し緊迫感を一気に高める。
舞台はイランの聖地マシャドであるが、聖地と呼ぶのをはばかられる、売春や麻薬の売買が横行している暗黒街のようなところだ。
マシャドは宗教都市として聖地であることは間違いないのだろうが、作品から受ける街のイメージは全く違う。
貧困が根底にあるのだろうが売春が横行していて、女性は夜になると通りで客引きを行う。
ミソジニーストのサイードはそのような女性が許せず、街の浄化のために売春を行う女性を次々殺していく。
映画は先ず売春の様子が描かれ、続いてラミヒとサイードの行動が交差するように描かれていく。
サイードは殺人鬼だが、殺人の動機を浄化としていて普段は普通の男だ。
家庭では良き夫であり、良き父親でもある。
さらには良きイスラム教信者でもあるのだろう。
サイードに関してカメラはごく普通な家庭人としての彼の日常と、異様な犯行を淡々と描いていく。
彼の犯行は家族が留守の間に自宅に連れ込んで殺すぞんざいなやり口なのだが、そのぞんざいさがミソジニーを浮かび上がらせていく。
女性が落としたリンゴの存在などはサスペンスフルだが、この作品はそこを追及しているわけではない。
街の浄化を行っている人間を警察は捕まえる気はないとの街の声もあるし、当の警察官もラミヒに言い寄るミソジニーの世界に居る。
屈辱的な仕打ちを受けたラミヒは自らが囮となって犯人に近づくことになる。
サスペンス性が高まる場面だが、真の問題はその後に描かれていく。

犯人は逮捕されるが、その後に起きることの方がおぞましい。
しかし、それが現実でもあるのだろう。
街ではサイードを英雄視する人々が出現するし、サイードの妻も夫が犯罪をおかしたとは思っていない。
更には警察内部でもサイードに協力する者が出てきて、ムチ打ちの刑では芝居を演じ、逃亡を手助けするようなことも言う。
サイードという小さな蜘蛛は、より大きな蜘蛛すなわち国家の都合によって抹殺される。
もっとも恐ろしいことは、サイードの子供たちによって殺人が再現されることであり、息子のアリが2代目サイードになれと言われていて、彼がそのようになりそうなことだ。
日本でも初めて女性参政権が行使されたのは昭和21年4月10日のことだったことを思えば、ミソジニーという蜘蛛はイスラム社会だけではなく、文化に根付いて世界各国で巣を張っているのだろう。
我々も心しなくてはならないと思う。

すばらしき世界

2024-05-27 05:47:38 | 映画
「すばらしき世界」 2020年 日本


監督 西川美和
出演 役所広司 仲野太賀 橋爪功 梶芽衣子 六角精児
   北村有起哉 長澤まさみ 安田成美 白竜 キムラ緑子 

ストーリー
殺人を犯し13年の刑期を終えた三上は、目まぐるしく変化する社会からすっかり取り残され、保護司・庄司夫妻の助けを借りながら自立を目指していた。
下町の片隅で暮らす元殺人犯の三上のもとに、テレビマンの津乃田と吉澤が現れる。
生き別れた母を探すという企画で近づいてきたのだが、彼らの狙いは一度は社会のレールを外れたが再生したいと悪戦苦闘する三上の姿を面白おかしくテレビ番組にしようというものだった。
そのまっすぐすぎる性格がゆえに三上はトラブルばかり引き起こすが、いつしかそんな三上との交流が津乃田と吉澤をはじめとする周囲の人々に影響を与えていく。
彼の周囲にはその無垢な心に感化された人々が集まってくる。


寸評
三上と言う男は人生の大半を刑務所で過ごしてきた男である。
すぐに凶暴化する男だが生き方が不器用なところがあり、場面に応じて複雑に変わる男の性格を役所広司が演じ分けていてさすがと思わせる。
三上は検事の挑発に乗って過失致死で済みそうな犯罪を殺人罪とされて13年の刑を受けている。
出所してからも夜中に騒ぐ若者を注意しに行くが、「ヤクザに脅かされている」と叫ばれ、近所から非難を受ける。
ヤクザに絡まれているサラリーマンを助けた時も、相手を半殺しにあわせてしまい過剰防衛気味である。
辛らつな言葉をだれかれ構わず浴びせ、その相手は刑務所の看守であろうが、生活保護担当の公務員であろうが相手を選ばない。
それなのに彼の周りには、彼を理解しまっとうな生活をさせようという人たちが集まってくる。
両親の愛に恵まれなかった三上に、母に代わって愛を注ぐ人々だ。
橋爪功と梶芽衣子の身元保証人夫婦は献身的だが、たんなる聖人としてではなく、孫の相手をしている時はそっけない態度もみせるし、世間い巻かれろと諭す言葉は現実過ぎて偽善者を感じさせる。
六角精児のスーパー経営者は、三上の前歴を知っており万引きを疑うってしまうのだが、生まれが隣村だったこともあり、親身になって三上を心配してやるようになる。
生活保護を担当する北村有起哉は役所のお堅い決まりに縛られながらも、彼も親身になってアドバイスを与えてやるようになる。
三上はそんな彼らに対しても時々キレる時がある。
素直に感謝を述べ、子供のような笑顔を見せる一方で、元ヤクザの凶暴さを突如表す。
しかし彼の行動の動機は彼の正義感からくるものだったりするし、必死に堅気として生きようとしていることからくるものなので観客の僕は彼に同情を寄せてしまう。
哀しいことに、彼の正義感はいつも空回りだ。

仲野太賀のテレビマン津乃田が風呂場で三上の背中を流してやり、まっとうに生きることを諭すシーンには涙が出そうになった。
そう言えば兄弟分の妻であるキムラ緑子が巻き添えを恐れて逃がしてやる場面も親身な部分を感じてしまい、ヤクザ同士の固い契りを称賛してしまいそうになった。
そんな哀れな男を役所が切ないまでに演じ分け、役所は上手いなあと感心してしまう。

刑期を終えた三上が社会の中でまともに生きていくことの大変さが描かれる。
世の中の仕組みから見れば当然の対応なのだが、三上から見れば自分を冷たく扱う世の中なのだ。
長澤まさみのテレビプロデューサーは、三上を利用して面白い番組を作ろうとしている。
面白ければいいというマスメディアへの批判でもある。
しかし三上の暴力現場から逃げ出したカメラマンの津乃田に彼女が言う「カメラを回さないんだったら割って入れ、割って入らないのならカメラを回して伝えろ」にはプロデューサーの根性のようなものを感じた。
豊田商事事件でも殺人現場をカメラは追い続けていたことを思い出す。
彼女のその後は追ってほしかったがなあ。

三上はやっと介護の仕事に就くが、そこでもしかしたらという出来事に出会う。
必死でこらえる姿、迎合する姿が悲しく見える。
残された者たちの上には青空が広がっていたが、ここにきて「すばらしき世界」というタイトルが逆説的に見えた。
13年の刑期を終えてシャバに出てきた男にとって、シャバは素晴らしい世界だったのだろうか。
やはり警察のお世話になるようなことはやってはならないのだ。
オリジナル脚本で撮ってきた西川美和監督だが、今回は原作の時代を変えて撮っている。
原作を読んでいない僕は、彼女のオリジナリティがどこにあったのかは分からないが、相変わらず映像は美しい。
時々可笑しくなるような場面を挿入しながら描いていく西川演出は相変わらず冴えている。
介護施設での描き方は上手い!
僕は西川美和作品と言うだけで映画館へ足を運んでしまう。

姿三四郎

2024-05-26 09:06:32 | 映画
「姿三四郎」 1943年 日本


監督 黒澤明
出演 藤田進 大河内伝次郎 轟夕起子 月形龍之介
   志村喬 花井蘭子 青山杉作 菅井一郎
   小杉義男 高堂国典 瀬川路三郎 河野秋武

ストーリー
明治15年、会津から柔術家を目指し上京してきた青年、姿三四郎は門馬三郎率いる神明活殺流に入門。
門馬らは修道館柔道の矢野正五郎を闇討ちするが、矢野たった一人に神明活殺流は全滅。
その様に驚愕した三四郎はすぐさま矢野に弟子入りを志願した。
やがて月日は流れ、三四郎は手の付けられない暴れん坊になり、そんな三四郎を師匠の矢野は一喝。
意地を張っていた三四郎だが、凍える池の中から見た満月と泥池に咲いた蓮の花の美しさを目の当たりにした時、柔道家として、人間として本当の強さとは何かを悟ったのであった。
ある日、良移心当流柔術の達人、檜垣源之助が道場を訪ねてきて、双方いずれ雌雄を決する日が来るであろう予感を抱く。
やがて門馬との他流試合が行われるが、門馬は既に三四郎の敵ではなく、三四郎の必殺投げ技「山嵐」が決まった時、門馬は壁に頭をぶつけ死んでしまった。
他人を死なせてしまったことで、三四郎は柔道を続ける意義を見失ってしまう。
師匠の矢野の猛特訓によりやっと戦う気力を取り戻した三四郎は、神社でひたすらに祈る一人の美しい娘と出会うが、この娘こそ良移心当流師範、村井半助の娘の小夜であった。
大勢の人々が見守る中開催された警視庁武術大会が開催され、三四郎は村井と戦うことになった・・・。


寸評
この作品は当初、全長97分の作品として公開されたが、公開翌年の1944年(昭和19年)、電力節約のため1作品の上映時間が80分以下に制限され、関係者の知らないところでフィルムがカットされたとのこと。
このカットされた部分には、檜垣源之助にまつわるシーンや、三四郎が師の特訓を受けるシーンなどが含まれ、そのほかにもシーンやセリフの脱落箇所があるらしいのだが、僕たちの年代のものはそのシーンを想像するしかない。

今見るとカット割りなどに未熟なところも見られるが、戦争真っ最中の中でもこのような作品を新人監督に撮らせていたことに驚く。
時代背景、黒澤明のデビュー作であることなど、歴史的価値を加味して見ることも必要な作品だ。
東京大空襲などはまだ起きていないこともあるし、戦意高揚のこともあって背景になっている町並みは整然としているし、轟夕起子の小夜などは立派な日本髪を結っている。
僕は立派な恰幅をした轟夕起子さんしか知らないが、このころはまだうら若いお嬢さんで、昔の映画を見るとそんな点も楽しくなる事柄の一つだ。

僕は富田常雄の原作を読んではいないが、三四郎が凍える池の中から見た満月と泥池に咲いた蓮の花の美しさを目の当たりにした時、柔道家として、人間として本当の強さとは何かを悟る場面は知っていた。
なぜその場面を知ることになったのかの記憶はない。
当時の撮影技術がどの程度であったのかも知らないが、モノクロ画面でありながらも蓮の花はまるでカラー映画のような美しさが表現されていた。
また門馬三郎の娘、お澄が三四郎への恨みを捨てて神社で無心に祈る姿に心打たれる場面など、柔道映画のせいか時代のせいか分からないが、精神的な悟りを描くシーンが随所にある。
随所にあるといえば、矢野正五郎と出会って車を弾く場面では下駄を脱ぎ捨て、その下駄が所を変えることで時間の経緯を表現していたが、村井半助の娘小夜と出会う場面でも下駄が有効に使われていた。
その後の恋のやりとりは今の時代にあっては滑稽だが、思わず微笑んでしまうほのぼのとしたシーンで、まだ日本にはゆとりが残っていたのだろう。
その後のフィルムのカット事件などを知ると、戦争による逼迫状況も推測されて、その点からも興味深い作品だ。

試合は投げが決まれば勝者が決まるというものではなく、柔術の試合らしく敗者が命を落とすこともある。
門馬三郎は三四郎の投げた技で壁板に激突し命を落とす。
投げが決まる瞬間などには工夫の跡がうかがえるが、呆気なく死んでしまっているのは仕方のないことだなと思う。
村井半助との試合では、三四郎は投げられても投げられても一回転して無事に立っている。
かたや村井半助の方は、何回も投げられてついに力尽きる。
このあたりは劇画的で痛快娯楽作品の面目躍如だ。
当時の作品としては抜きん出た娯楽作品だったのではないかと推測することができる内容になっているのは流石と思わせる。

新・喜びも悲しみも幾歳月

2024-05-25 08:41:08 | 映画
「喜びも悲しみも幾歳月」はバックナンバーから2020-06-26をご覧ください。

「新・喜びも悲しみも幾歳月」 1986年 日本


監督 木下恵介
出演 加藤剛 大原麗子 田中健 中井貴一
   紺野美沙子 植木等 篠山葉子 岡本早生

ストーリー
昭和48年春、丹後半島の若狭湾口にある経ケ岬灯台では、石廓崎灯台への転勤を控えた杉本芳明(加藤剛)の送別会が行なわれていた。
妻、朝子(大原麗子)、子供たち、部下の長尾猛(田中健)、海上保安学校を卒業したばかりの大門敬二郎(中井貴一)も揃い、和やかな集いだった。
引越を教日後に控え慌しい一家のもとに、芳明の父、邦夫(植木等)が山梨から訪ねて来た。
邦夫が伊豆まで同行したいと言いだし、このため朝子と子供たちは新幹線を利用し、芳明は邦夫と見物かたがた車で行くことになった。
二人は小浜の明通寺で一人旅の若い娘、北見由起子(紺野美沙子)と知り合い、彼女も伊豆まで同行したいと告げた。
2年後、石廓崎を邦夫と共に再訪した由起子は、一人旅の時、失恋し、両親にも裏切られ自殺を考えていたが、邦夫と芳明に出会い思いとどまったと告白し、灯台で働く人と結婚したいと言いだした。
四国と九州を分ける豊後水道の水ノ子島灯台で働く長尾を由起子が突然訪ねた。
長尾は一目逢って由起子の美しさに魅かれるが、自分には不釣合いだと結婚は躊躇した。
その秋、水ノ子島灯台は強烈な台風の直撃を受けた。
生死を賭けた台風との闘の中で長尾は由起子との結婚を決意する。
55年夏、芳明は八丈島灯台に勤務。
子供たちも成長し、長女、雅子(篠山葉子)は東京の短大に入学、二人の息子も英輔(岡本早生)16歳、健三(小西健三)11歳になっていた。


寸評
今では有人灯台はすべて無人化されているので灯台守という職業はなくなっている。
灯台の維持管理は海上保安庁が行っているので描かれたような仕事は保安庁職員が行っているのだろう。
描かれている時代では灯台守が存在していて、家族と共に全国を点々としていたのだろう。
制作された年代も、描かれている時代も違うので、監督は同じでも前作の「喜びも悲しみも幾歳月」とは随分雰囲気が違う。
ただ前作へのオマージュとして植木等が年配の所長に「仕事は大変だったでしょう」と尋ねると、所長は「喜びも悲しみも幾年月でしたわ」と応じるシーンが用意されている。
そして所長が「あの映画は良かったですね」と言うと、植木等も「私も見ました」と言い、二人で主題歌の「喜びも悲しみも幾年月を唄う」。
僕はなぜか感動した。
作中で何度かこの主題歌が流れるのだが、その度に僕は泣いてしまった。
この主題歌あって、この映画である。

加藤剛は全国の灯台に勤務しているので転勤の連続である。
転勤先は灯台のある所だから大抵は海岸沿いのへんぴなところだ。
特に家庭を守っている大原麗子は後始末に新居の整理と大変な苦労だ。
その中で、加藤剛と大原麗子の夫婦愛、家族愛が描かれているのだが、前作の「喜びも悲しみも幾歳月」と大きく違うのは加藤剛の父親である植木等の存在だ。
僕には主演は植木等ではないかと思えるくらい大きな存在となっている。
植木等は後妻との離婚を決意していて、行きがかりから夫婦と同居することになる。
迷惑がられることも有るが、総じて息子の嫁や孫からは大事にしてもらっている。
嫁は元看護師で、「寝込んだって私が世話をします、それが私の仕事だったのです」と明るく答える。
全ての人がそのような気持ちで接してくれるわけではない。
邦夫は田中健長尾から「こんな幸せな老人はいませんよ」と言われているが、本当にこのような老後を送れる人はどれくらいいるのだろう。
邦夫自身も自分は幸せだと言っているのだが、それでも自らの死を考えないわけにはいかない。
邦夫はいい息子、いい嫁、いい孫、長尾や大門といういい息子の後輩たちに取り囲まれていて、老後としては理想とさえ思えてくる。
僕は家族の映画というより、老人問題を先取りしたような印象を受けたのだが、邦夫の言動が喜劇的なところあり、周りの人たちがあまりにも善人過ぎて、どこか現実離れしていると感じた。
一人残った老人の扱いに関してはもっと深刻なものだと想像する。
この映画を再見した時の、僕の年齢がそう思わせるのかもしれない。

東京湾で海上保安庁の観閲式が行なわれ、バンクーバーに出発する英輔の門出を見送る芳明と朝子の姿が描かれるが、僕は親の気持ちに同化して最後の涙を流した。
子供はいつかは巣立っていくことは分かっているのだが、子供を育ててきた親には辛いものがある。

信さん・炭坑町のセレナーデ

2024-05-24 07:07:25 | 映画
「信さん・炭坑町のセレナーデ」 2010年 日本


監督 平山秀幸                                
出演 小雪 池松壮亮 石田卓也 小林廉 中村大地
   村上淳 中尾ミエ 岸部一徳 大竹しのぶ 柄本時生
   金澤美穂 光石研

ストーリー
昭和38年、小学生の守は、都会での結婚生活に失敗した母・美智代と共に、彼女の故郷・福岡の炭鉱町に引っ越してくる。
そこは、炭坑によって支えられ、男も女も子供たちも貧しくとも明るく肩を寄せ合って暮らす町。
ある日、悪ガキたちにいじめられていた守は、あざやかに相手を打ち負かした札付きの悪童、信さんに助けられる。
親を早くに亡くし、親戚に引き取られ厄介者扱いされて育った信さん。
美智代は、悪い評判ばかりの信さんに対して、含むところなく素直に感謝し、以来、優しく接し何かと面倒を見るようになる。
誰も自分のことなどわかってくれない、そう思ってきた信さんにとって、息子を守ってくれたこの事件を期にやさしく接してくれる美智代は特別な存在になる。
それは母への愛情とも恋心ともつかない感情だった。
けれど、信さんにもこの炭坑町にも、受け止め乗り越えなければいけない厳しい現実がすぐそばまで忍び寄っていた…。


寸評
郷愁をそそる映画として「ALWAYS 三丁目の夕日」などがヒットしたが、この映画もそれに劣らずノスタルジックでリアルである。
私は炭鉱町に住んだことも見たこともないが、それでもこの映画の炭鉱住宅のセットと様子などは、さもありなんと納得してしまうし、三角ベースの野球などは「そうだったよなあ…」と懐かしく見ることが出来た。
野球はやりたいが人数はいないので、どうしてもエリアを狭くした三角ベースになってしまっていたのだ。
私が三角ベースに興じた頃はこの映画の設定よりも少しばかり前だが、当時の大人や子供は生き生きと動き回っていて、おじさん、おばさんも含めて賑やかな声があちこちから聞こえていた。
子供だってこの映画の様にガキ大将の元で結構小遣い稼ぎをやっていて、私なども電線修理で捨てられた銅線を拾い集めて小銭に変えていた経験を有している。
この映画はそんな活気ある時代の一つの切ない物語だ。

今年はチリ鉱山の落盤事故が大きなニュースになったが、当時の日本でも時々落盤事故による生き埋めのニュースが報じられていて、子供心ながら鮮明な記憶として目に耳に残っている。
やがて迎えた閉山とそれに伴う解雇と労働争議もまた記憶に残っている。
この映画の背景にある石炭産業の斜陽化がこの時代の子供たちにも少なからず影響を及ぼす様が観客である現代の我々に迫ってくる。
大上段に構えず切々と描くスタイルは効果的だった。
全くの子供なのに、綺麗で若い守の母である美智子に、母への慕情を通り過ごした「淡い恋心」を抱く信さんの心情も実によくわかるのは抑制的な演出によるところも大きいと思う。
府として目にした胸元(乳房をみたわけではない)や盆踊りでみた襟足の汗に心ときめかすシーンなどはナイーブな少年の気持ちを見事に表現していたと思う。

信さんをやさしく包む母を、母に特別な感情を抱く信さんを守はどんな気持ちで眺めていたのだろう。
時折挿入されるじっと見つめる守の姿が想像を掻き立て深みを持たせる。
悲しい出来事もあるけれど、信さんの妹になる美代や朝鮮人の李英夫などの青春もみずみずしく描かれ、ラストの船上シーンを余韻あるものにしていた。
美智子の信さんに対する想いは一体ぜんたいどのようなものだったのだろうと思わないではいられない。
大竹しのぶや岸辺一徳の脇役陣も良かったが、とりわけ中尾ミエが好演であった。



新源氏物語

2024-05-23 06:51:52 | 映画
「新源氏物語」 1961年 日本


監督 森一生
出演 市川雷蔵 中村玉緒 若尾文子 水谷良重
   高野通子 寿美花代 市川寿海 水戸光子
   中田康子 川崎敬三 千田是也

ストーリー
桐壷(寿美花代)は、出身身分は低いのに帝(市川寿海)の寵愛を一身に集めたせいで、弘徽殿女御(水戸光子)を始めとする後宮の女たちの嫉妬の的となる。
桐壷は男の子を生み落して間もなく亡くなるが、光源氏(市川雷蔵)と名付けられた男の子は美しい若者に成長し、父である帝の強い後ろ盾を得て時の権力者左大臣の娘葵の上(若尾文子)を正妻に迎えることが決まり前途を嘱望されていた。
源氏と葵の上の婚儀の日、源氏は藤壷(寿美花代)の姿を遠目に見て心がさわぐ。
藤壷は、桐壺を忘れられない帝が、桐壺にそっくりという理由で新たに女御に迎えた女性であった。
一方、政略結婚と割り切っているつもりの葵の上は結婚早々夫に冷たい態度を取る。
夫の愛人、六条御息所(中田康子)の名を出して夫を困らせる。
その六条御息所は、自分は源氏の結婚を祝福していると娘には言いながら、心は嫉妬にもだえていた。
源氏は結婚を失敗だと悔やむ一方、藤壷への思いを募らせる。
従者惟光(大辻伺郎)は源氏を諫めるが、源氏が道ならぬ恋に暴走するのを恐れ、藤壷付きの王命婦(倉田マユミ)に話をつけて源氏を藤壷の眠る几帖の中に忍びこませる。
源氏に抱かれてしまった藤壷は良心の呵責に苦しむ。
その後、屋敷に引きこもった源氏が藤壺との再会を夢見る一方、藤壺の方も源氏への思いを募らせて帝のお召しを断り続ける。
弘徽殿女御は、藤壷を追い落とすために源氏との醜聞を利用しようと企んだ。
だが右大臣(千田是也)の娘で弘徽殿の女御の姪でもあり、東宮妃となる予定の六の君(中村玉緒)は叔母の悪企みを嫌って出し抜き、別れぎわに名を知ろうとする源氏に「朧月夜」とだけ覚えておくように言った。


寸評
紫式部の「源氏物語」は明治以降にその時代にフィットするかたちで、それぞれの作者によりなんども現代語で訳されているが、僕はそのどれをも未読である。
それでも54帖の中のエピソードを断片的にではあるが知っているのは、源氏物語の普遍性のなせる業であろう。
本作は直木賞作家でもある川口松太郎の同名小説を原作としているのだが、川口源氏を読んでいない僕はどこまで原作に忠実なのかを知る由もなく、未熟を恥じ入るしかない。

映画では光源氏が誕生する第一帖の桐壺から、朧月夜との事件で流罪になるかもしれないと察した光源氏が、自ら須磨で謹慎する決意をする第十二帖の須磨あたりまでが描かれている。
光源氏は女性との色恋沙汰を繰り返す男としての印象が強いが、ここではその中の空蝉(うつせみ)や夕顔(ゆうがお)は登場しない。
逐一それらを詳しく描いていたら何時間あっても足りなくなってしまうのだろうが、この作品においてもダイジェスト的に描かれていて、それぞれのエピソードに深みはない。
葵の上は政略結婚であることを自覚しているのだが、光源氏から「憎むのはいいが嫌わないでほしい。憎しみは消し去れるが嫌われると取り返せない」と言われ、夫婦関係に修復が見られる。
しかし、夫婦間の憎しみや嫌悪は夫婦関係を修復させるとは思えない。
それを確かめることもなく葵の上は死んでしまう。

六条御息所は歳上の女性である。
光源氏との関係が切れていたが、再び彼によって女の性を呼び起こされる。
普通の女性として嫉妬心も湧きおこるが、ついには宗教の道へ向かう。
女性たちが被る悲劇の全ては、光源氏が義母に当たる藤壺によせる恋心から生じている。
この時代は通い婚で一夫多妻が普通だったのかもしれないが、光源氏が愛した女性は藤壺だけだったのだろう。
藤壺は光源氏の子供を産むが、帝は生まれた子供を我が子と信じて抱き上げる。
帝はそうするしか自分の権威を維持できなかったのだろう。
物語は六の君との関係を知らされた新帝の怒りを察知した光源氏が須磨へ蟄居するところで終わっているが、源氏物語の後日談では、同じ思いを光源氏が味わう事となっている。
私の認識では確か、妻の産んだ子供が親友の子供であることを知りながら、光源氏は抱き上げるしかないというものだったように思う。
源氏物語は多分に紫式部の思いも反映された物語だと思う。
桐壺がイジワルをされる場面などは中流貴族の出だった紫式部が宮中に上がって受けたイジメを連想させる。
光源氏を中心とした男尊女卑の世界が描かれているが、出世の道具にされる葵の上や六の宮など女性の人格は無きに等しいもので、そんな世の中の犠牲になっている女性の悲哀を訴えているとも受け取れる。
そうだとすれば、源氏物語は紫式部の女性代表としての訴えを描いている物語なのかもしれない。
もちろん紫式部の保護者であった藤原道長の意向が盛り込まれていることは承知の上なのだが・・・。
平安絵巻としては衣笠貞之助の「地獄門」などは見るべき点も多かったが、本作はエピソードを紡ぐような演出で、映像的にも少々深みにかけていたように思う。

シルミド

2024-05-22 07:07:36 | 映画
「シルミド」 2004年 韓国


監督 カン・ウソク           
出演 ソル・ギョング アン・ソンギ ホ・ジュノ    チョン・ジェヨン

ストーリー
1968年4月、北朝鮮の特殊部隊による、ソウルの大統領府襲撃があと一歩の所で失敗したのをきっかけに、”極秘”の特殊部隊が、シルミドという無人島で結成された。
彼らに課せられた任務はただ一つ、北朝鮮の最高指導者、キム・イルソン暗殺!
厳しい3年間の訓練を経て、彼らが北朝鮮への潜入を目指してシルミドを出発した直後、南北の対立が緩和、作戦が中止されるばかりか、一転、彼らは抹殺の対象になる。
誰にも知られず、名前すら叫べず、国に捨てられた男たちはシルミドを脱出、韓国正規軍と警察の向ける無数の銃口が待ち構えているのを承知で、ジャックしたバスに乗り込みソウルへ向かった・・・


寸評
そんなに古くはないベールに包まれていた歴史的事実の映画化としてはまとまっていると思う。
僕が知らなかった1971年8月23日に発生したシルミド事件の背景などがコンパクトに説明されていて、理解するのに苦労しなかった。
でもこれがフィクションによる映画だとすれば少し物足りない感じがした。
教官及び指導兵と、元囚人達であった訓練兵との心の交流が、何でもって出来上がっていったのかが解らない。
つらい訓練をする側と、される側の信頼がどうして出来上がって行ったのかの説明は希薄だったと思う。
死刑囚を含む囚人達が善人面している人が多いのはちょっと不自然だ。

韓国の朴大統領暗殺計画や、その報復としての金日成暗殺計画などは、最近の北朝鮮による拉致家族の実態や、金正日暗殺目的説もある列車爆発事故が、やけに現実味を感じさせて、歴史的事実を描いているとはいえ、この映画により一層のリアリティを感じさせる。
朝鮮半島で起きている事、あるいは起きていたかもしれない事や起き様としていることに対する恐怖を考えさせる。
と同時にわが国はそのようなことに対して、あまりにも無関心で無警戒でお人好し国民ばかりなのではと感じさせた。
やはり拉致事件は許してはいけないし、政治の道具に使われてもいけないのだ。

映画としては、事実もそうだったのだろうけれど、彼等の抹殺のされ方(共産ゲリラとして国家に殺される)が悲惨さを物語っていて盛り上がる。
下士官に渡される拳銃は自決用だと前半部で語られるが、その通り教官は自決し、彼らもまた手榴弾で自決する。
そのことで彼らが下っ端兵士ではなく、崇高な気持ちを持った軍人になっていたことを語っていたと思う。
だからこの映画は指導兵と訓練兵のシルミド事件の当事者に捧げられたのだと思う。

昭和残侠伝 血染の唐獅子

2024-05-21 06:53:05 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/11/21は「デトロイト」で、以下「天使のはらわた 赤い教室」「転校生」「天国と地獄」「天然コケッコー」「ナイル殺人事件」「永い言い訳」「中山七里」「嘆きのピエタ」「ナチュラル」と続きました。

シリーズの最高傑作「「昭和残侠伝 死んで貰います」はバックナンバーから19-08-05をご覧ください。

「昭和残侠伝 血染の唐獅子」 1967年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 高倉健 藤純子 池部良 津川雅彦 曽根晴美
   山城新伍 牧紀子 萩玲子 宮城千賀子 清川虹子
   天津敏 加藤嘉 水島道太郎 金子信雄 河津清三郎

ストーリー
昭和初期。浅草界隈の左官、大工をまとめ信望を一身に集める鳶政(加藤嘉)は、今は病身で、小頭の秀次郎(高倉健)が兵役から帰還してくるのを待っていた。
そうした時、東京で博覧会が開かれることになり、会場が上野に決った。
上野は鳶政の縄張りだったが、博徒の阿久津(河津清三郎)が子分の三日仏(天津敏)と共に札束をつんで工事の利権を譲れと言ってきた。
これを断った鳶政だったが病に倒れてしまう。
阿久津は、市の土木局長高見沢(金子信雄)と結託し、鳶政傘下の業者を買収してしまった。
そんなやり方に、阿久津組の代貸し重吉(池部良)とその妹文代(藤純子)は心を痛めていた。
重吉は秀次郎とは親友だった。
やがて秀次郎が帰ってきた。
そして入札は無事に鳶政一家に落ち、会場建設の大工事が始まった。
そんな時、音吉(山城新伍)が芸者染次(牧紀子)を身請けするため大切な纒を質屋の岩源(沢彰謙)に渡し、それが阿久津の手に渡るという事件が起った。
音吉は責任を感じそれを取り返しに行って殺され、染次も阿久津に身を売る約束で纒を取返したが、音吉の後を追って死んだ。
秀次郎たちは阿久津への激しい怒りを抑え、今は工事の方が大切と会場建設に全力を注ぐのだった。
しかし阿久津たちはそんな鳶政一家に次々と工事の妨害を仕かけてきた。
一方、度重なる阿久津の悪どいやり方に重吉は盃を叩き返し、秀次郎の許に駆けつけた。
ちょうど秀次郎は、鳶政のひとり息子明夫(小林勝彦)や組員たちを制し、自分で行こうとしていた。
秀次郎と重吉にお坊主竹(津川雅彦)が加わり阿久津一家に殴り込んだ。
三人は思う存分暴れ回り、たちまち修羅場と化したが、その中で重吉が三日仏に殺された。


寸評
昭和残侠伝シリーズは、1965年から1972年にかけて制作されたヤクザ映画シリーズだ。
第1作の「昭和残侠伝」から、「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」、「昭和残侠伝 一匹狼」、「昭和残侠伝 血染の唐獅子」、「昭和残侠伝 唐獅子仁義」、「昭和残侠伝 人斬り唐獅子」、「昭和残侠伝 死んで貰います」、「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子」、「昭和残侠伝 破れ傘」と9作品が撮られたのだが、シリーズの中では第7作の「昭和残侠伝 死んで貰います」が出色の出来栄えであったが、4作目となる本作もマキノ雅弘が手堅くまとめていると思う。

秀次郎は兵役から帰ってくるが、その前はどのような状態だったのかはわからず、人間関係は想像するしかない部分があって描き方は少し弱く、       鈴木則文と鳥居元宏の脚本に工夫があっても良かったように思う。
芸者の染次は秀次郎に想いを寄せているようだが、文代を含めた三角関係のなりたちがよくわからない。
吃音症の竹は秀次郎を心酔していて、秀次郎も竹をことさら目にかけている。
鳶政一家には水島道太郎の聖天の五郎もいるのだが、彼を差し置いてなぜ竹なのかも不明である。
秀次郎と重吉は幼なじみであることもあって、重吉は阿久津から破門されてしまう。
阿久津が重吉を殺そうとしたことで、重吉は元の親分に殴り込みをかけることになるのだが、彼はヤクザ世界の義理に悩むことはない。
脇を固めるストーリーの薄弱なことが、最後の道行の盛り上がりを欠く原因になっていたように思う。

博覧会の土木工事が入札によって決められることになり官製談合が描かれるのだが、手口は無茶苦茶である。
悪役の常連である金子信雄が糾弾されないのは政治家の逃げ切り上手を描いていたのかな。
染次の顛末はグッとくる。
染次は秀次郎を想いながらも最後には音吉の情にほだされたのだろう。
音吉の気持ちを知りながら、自分の本当の気持ちを伝えようとしているうちに音吉は死んでしまう。
染次は阿久津に身を売り纏を取り返すが、彼女は音吉への義理と人情から入水したのだろう。
染次の遺体を阿久津の元へ運んでいき、秀次郎が「奥さんをお返しします」と言い、運んできた組員たちが遺体に向かって「有難うございました」と礼を言う場面に感動する。
もちろん見せ場は最後の殴り込みだ。
秀次郎と重吉の道行は最初から二人連れである。
そこに事情を察した竹が加わり、秀次郎と重吉はそれを咎めず三人での殴り込みとなる。
盛り上がりには欠けるが、竹が吃音にならずに切るタンカが小気味よい。
文代が直前に涙ながらに引き留め、そして送り出した経緯があるので、最後に秀次郎へかける文代の無言の様子が決まっている。
マキノはシリーズで3作を担当したが、昭和残侠伝のスピリットを自身として最後の1本に集約したのだろう。
僕がこの映画を評価する点は河津清三郎が演じる阿久津のキャラクター設定だ。
善玉ヤクザである池部良の風間重吉が手ほどきを受けた親分だから、かつては立派な親分だったに違いない。
ところが阿久津は時代の流れで金に目がくらむ強欲な親分になり下がってしまっている。
それはまるでバブルに踊って分不相応な借金を重ね身動きが取れなくなったどこかの会社の姿そのもので、改めて見返すと時代を予見していたように思えることである。

15時17分、パリ行き

2024-05-20 08:25:56 | 映画
「15時17分、パリ行き」 2018年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 アンソニー・サドラー  アレク・スカラトス スペンサー・ストーン
   ジェナ・フィッシャー ジュディ・グリア レイ・コラサーニ
   P・J・バーン トニー・ヘイル

ストーリー
2015年8月21日。アムステルダムからパリに向けて幼なじみの若者アンソニー、アレク、スペンサーの3人が乗った高速列車タリスが発車。
列車は順調に走行を続け、やがてフランス国内へ。
ところが、そこで事件が発生する。
乗客に紛れ込んでいたイスラム過激派の男が、自動小銃を発砲したのだ。
突然の事態に怯え、混乱をきたす500名以上の乗客たち。
その時、米空軍兵のスペンサー・ストーンとオレゴン州兵のアレク・スカラトス、そして2人の友人のアンソニー・サドラーは男を取り押さえ、大惨事を防ぐことに成功する。
なぜ彼らは、死の恐怖に直面しながらも、困難な事態に立ち向かうことができたのか……?


寸評
予告編では、列車でテロ事件が発生し、乗り合わせた若者3人がそれに立ち向かう姿が描かれていた。
列車テロを描いたサスペンス映画かと想像していたら全く違った内容だ。
テロをネタにした作品としては全くの異色作品である。
サスペンス映画というより青春ロードムービー、あるいは清酒グラフィティの感じがする内容なのだ。
前半はアンソニー、アレク、スペンサーという3人の成長ドラマが描かれる。
少年時代の三人は落ちこぼれの問題児だ。
授業に集中しないし、問題を起こしては母親と共に校長室に呼ばれ注意を受けている。
おもちゃの銃器に夢中になってサバイバルゲームに興じながらも友情だけははぐくんでいる。
イタズラもやるし、落ちこぼれとはいえ何処にでもいる普通の子供と言える。

成人したスペンサーは戦争で人を救いたいとレスキュー部隊を志願するが、必死で努力したのに検査ではねられ違うところに配属されてしまうから、そこでも彼は落ちこぼれということになる。
オレゴン州兵のアレクはアフガンに派遣されたものの、すでにそこは戦場ではなくなっていて、華々しい活躍などできるわけがない。
つまり彼等は子どもの頃から挫折だらけの人生を送ってきたのだが、それでも非行に走ることなく真面目な思いだけは持ち続けて生きてきたごく普通の青年たちなのだ。
実はこの普通の青年たちということが大きなファクターであったことがラストで証明される。
彼らが普通の若者であることを強調するかのように、3人のヨーロッパ旅行が描かれる。
旅を楽しみ、旅行先で出会った人々と交流する姿は、僕が旅行に興じていた頃の姿と何ら変わらない。
出会った女性とロマンスが芽生えるようなことも起きない、ごく普通といえる親友との旅行を楽しんでいる。

そこで彼等は事件に遭遇し活躍するが、彼等をそうさせたのは「困っている人を助けたい」「誰かの役に立ちたい」という気持ちを持ち続けていたからだ。
これこそがイーストウッドが訴えたかったことだろう。
政治家でもビジネスの成功者でもない、圧倒的に大多数である普通の人々がその気持ちを持てば悪いことなど起きないということで、それこそが一番大事なことなのではないかと訴えてくる。
彼等は落ちこぼれだったが、軍で習った人命救助の方法や柔術の腕前が役立てることが出来たから、落ちこぼれが行ってきた努力も無駄ではなかったという教訓も感じ取れる。
全体から見ればほんの少ししか描かれないテロの顛末だが、訴えたいテーマのための何も起きない長い長いモノローグであったような気がする。

この映画の特異性の最大なことは、3人の若者たちを本人が演じていたことだろう。
聞けば実際に列車に乗り合わせていたその他の人たちも出演しているらしい。
つまり、どこにでもいる普通の人がテロに遭遇することは珍しいことではなくなったのだということで、イーストウッド演出は俳優も特別な存在であるプロの俳優を除いてしまっている。
では普通の人である僕はテロに遭遇したらどうするか?
なんだか逃げ惑うだけになってしまいそうな気がするが、震災とか福知山線の列車事故などで助け合う人の姿を目の当たりに模したから、人間本来の中に「困っている人を助けたい」という気持ちはあるのかもしれないなとも思う。
そうであってほしい。

山河あり

2024-05-19 07:05:47 | 映画
「山河あり」 1962年 日本


監督 松山善三
出演 田村高廣 高峰秀子 早川保 ミッキー・カーティス
   加藤嘉 三井弘次 清水将夫 河野秋武 小林桂樹
   久我美子 石浜朗 桑野みゆき

ストーリー
大正七年。日本人移民の一団がハワイへやって来た。
その中には、井上義雄(田村高廣)ときしの(高峰秀子)夫婦やこれから嫁入りしようとする少女すみ(久我美子)がいた。
そして十年、人々の努力は報いられ、井上は日本語学校の教師に、妻は小さな食料店主になっていた。
またすみは郷田(小林桂樹)と結婚しクリーニング店を経営。
今では、井上家には春男(早川保)と明(ミッキー・カーティス)、郷田家には一郎(石浜朗)とさくら(桑野みゆき)とそれぞれ子供があった。
そしてまた七年--。さくらと明はハイスクールを卒業した。
一方故国日本は、満州事変、日中戦争、国際連盟脱退と次第に戦争への道を歩いていた。
この雲行きを心配する一世たちに対して、二世の子供たちは一向に無関心だった。
そんな時、井上は心臓麻痺であっけなく死んだ。
きしのは、次男の明を伴って夫の遺骨と共に日本へ向った。
世界情勢はますます悪化し、昭和十六年、ついに日本海軍の真珠湾奇襲が行なわれた。
同じ頃ハワイでは、二世たちが、二世部隊として出陣した。
母を日本軍に射殺された一郎、そしてさくらの恋人春男も志願し、442部隊として出動した。
砲火のイタリア戦線で戦う春男と一郎。
やがて戦争は末期症状をみせ、一方日本では、明がアメリカ人として収容所にとらわれていた。
冷たい壁の中の生活に胸をやられた明は、物置の隅に住むきしののもとへ帰された。
母子の寒さにふるえる生活は続き、やがて明はボロ切れのように死んでいった。
そして戦争は終ったのだが・・・。


寸評
大正時代にハワイへ移民として渡った人々の苦難の人生を描いているが、中でも太平洋戦争時に日本とアメリカの板挟みに苦しむ姿が痛ましい。
しかし彼らの苦労や痛ましさがストレートに伝わってこないのはなぜだろう。
移民として外国に渡った人々の苦労は想像するに難くないし、彼らが過酷な農作業に従事する姿も描かれているのだが、その底辺の生活から抜け出す過程が全く描かれていないので彼らの苦難も中途半端な印象になってしまっている。
移民として渡る大正時代から、満州事変、三国同盟、太平洋戦争、終戦と続く時代の中での彼らに起きる出来事をダイジェスト的に描いていくので、それぞれが希薄なものになってしまっている。
映画は総合芸術として色々な要素があるが、何よりも重要なのはその特徴である映像表現であろう。
この映画ではその部分を会話と文字に置き換えてしまっていることが致命傷となっている気がしてならない。
深読みすると、松山善三は脚本家であって名監督ではないということだったのかもしれない。
制作された1962年と言えば、まだまだ海外旅行は庶民にとって高根の花だった時代で、どこか海外ロケを通じて夢のハワイを描いているようにも感じてしまう。
何よりも内容にそぐわないハワイアン音楽がそう思わせてミスマッチを引き起こしている。

メインは真珠湾攻撃によって日本とアメリカの板挟みになるハワイ移民たちの苦悩である。
田村高廣や小林桂樹は日本人意識が抜けきらない移民一世だ。
それ以前にハワイに渡っていた三井弘次のような移民一世もいただろうが、彼らがハワイにおける日本人社会を築いていったのだろう。
彼らの子供であり移民二世である早川保、石浜朗、桑野みゆき、ミッキー・カーティスたちはアメリカ国籍を取得しているアメリカ人で日本を知らない。
故国を思う親たちとの意識ギャップが描かれるけれど、ミスキャストなのは田村高廣と高峰秀子の子供であるミッキー・カーティスだ。
田村高廣、高峰秀子夫婦からミッキー・カーティスが生まれるのはどう考えても違和感がある。
子供たちはアメリカ人であることを意識させるためのキャスティングだったのだろうか。
日系人部隊が編成されて彼らが一番奮戦したとも聞くが、それはアメリカで自分たちが認めてもらうためには戦場で活躍しないといけないという使命感があったのだろう。
そういった二世たちの感情も中途半端な描き方となってしまっている。

高峰秀子はミッキー・カーティスと日本に帰り親戚の家に世話になるが、戦争が始まれば厄介者である。
迷惑がる一家の中で桂小金治だけが親切にしてくれる。
彼の行動は正義感から来たものなのか、あるいは高峰秀子への思慕の気持ちから来たものだったのだろうか。
後者であった方が面白かったのにと思ったりする。
いづれにしてもすべてが中途半端で、内容の割には物足りなさを感じてしまう作品となっている。
松山、高峰のおしどり夫婦による作品だが、松山善三としては失敗作に入るのではなかろうか。

最後のブルース・リー/ドラゴンへの道

2024-05-18 08:08:03 | 映画
「最後のブルース・リー/ドラゴンへの道」 1972年 香港


監督 ブルース・リー
出演 ブルース・リー ノラ・ミヤオ チャック・ノリス
   ロバート・ウォール ジョン・T・ベン ウォン・インシク

ストーリー
イタリア・ローマの中華レストラン「上海」は、その土地を狙う地元のギャング(地上げ屋)に毎日の様に執拗な嫌がらせを受け、客も恐がって殆ど来なくなり閑古鳥の鳴く状態が続いていた。
亡き父の後を継いだ女店主のチェン(ノラ・ミャオ)は、故郷・香港の弁護士に相談すると、急病で来られなくなった弁護士の代わりに従兄のタン・ロン(ブルース・リー)がやって来る。
弁護士を頼んだはずが、やってきたのはいかにも香港の田舎から出てきたばかりの風貌の青年。
おまけに異国の地の言語・習慣の違いに戸惑いドジをふむタン・ロンに、初めのうちはチェンは呆れ、空手を嗜むジミー(ユニコーン・チャン)やトニー(トニー・リュウ)らレストランの従業員達は馬鹿にする。
しかしある夜ギャングの送り込んだチンピラ集団をタン・ロンは鮮やかな中国拳法でいとも簡単に倒すと一転従業員から尊敬されるようになり、タン・ロンの飾らない性格にチェンは淡い気持ちを抱くようになる。
タン・ロンが加わった事でチェンと従業員達はギャングに立ち向かう決意を固めるが、叔父で調理担当のワン(ウォン・チュンスン)だけは頑なに反対。
そのうちレストランの包囲、タン・ロンの暗殺計画、チェンの誘拐等、ギャングの手口はエスカレートしていくが、タン・ロンの拳法と機転によりことごとく失敗。
引き下がれなくなったギャングのボスは最終手段として、アメリカ人の屈強な空手の達人・ゴードン(チャック・ノリス)を呼び寄せ、タン・ロンは、ゴードンと一対一の決闘をすることになる。


寸評
安っぽい作りだし、話は単純で変化にも乏しくて、これでブルース・リーが出ていなければ世に出ることもなかったのではないかと思う作品だ。
カンフー・ブームにのってブルース・リーが超人的な大活躍をする。
これも大ブームになったヌンチャクを駆使する場面も用意されていて、ブルース・リーが発する鳥声の甲高い掛け声も、今となっては懐かしい。
目を見張るのはブルース・リーの鍛え上げられた人間離れした体である。
上半身は見事なまでの逆三角形で、気合を入れて構えた時には脇あたりにビックリするような筋肉が現れる。
戦う前に準備運動をする場面では、異常とも思えるような肩甲骨が盛り上がる。
見どころの一番は彼の体型であった。
カンフー・アクションは言うまでもない。

格闘場面以外はまるで喜劇のコミカルなシーンの連続で、それが安っぽさを助長している。
ここまでくると、その安っぽさもこの映画の魅力なのかもしれない。
舞台はローマの中華レストランになっているが、イタリアである必要が何処にあったのかわからず、ローマの観光名所が紹介されるシーンがなければ香港としてもおかしくはない。
セットは費用を惜しんだのかと思うぐらい安っぽいものである。
いっそ、舞台を香港とした方がしっくりきたと思う。
何よりもブルース・リーが強すぎてピンチになる場面が全くないので、少しはハラハラさせてくれよと思ったりする。
我慢を重ねた挙句、ついに堪忍袋の緒が切れてといった風でもない。
兎に角、強いのだ。
アメリカからやってきたゴードンとの一対一の対決では互角の勝負かと思われるような格闘場面ではあるが、それでもブルース・リーの圧勝である。
最後にドンデン返し的な事が用意されているが、イマイチ盛り上がりに欠けている。
そもそもギャングの親分はあのレストランを正規の値段で買おうとしていたのだろうか。
タダ同然で手に入れようとしていたはずで、売却後に大金が手に入るなどとは絵空事だったと思うのだが、そのことはどうなっていたのかよくわからなかった。
日本のつまらないヤクザ映画でも、もう少し上手く描いたような気がする。

タン・ロンがチェンに連れられて銀行に金を預けに行くが、あまり意味のないシーンだった。
二人がローマ市内を歩くシーンは何回か出てくるが、ローマ・ロケによる観光名所めぐりだったのだろう。
僕が子供の頃に見た海外ロケ作品でも、旅行会社のコマーシャルかと思えるような名所旧跡が紹介され、それが海外への憧れとなっていた。
香港の人たちのローマへの憧れに対するサービスだったのかもしれない。
クレジットは香港映画らしい。
横書きだと日本では左から右に流れるが、あちらは右から左に流れる表記だ。
それにしても随分と弱いギャングだったなあ。

ザ・ホエール

2024-05-17 07:24:59 | 映画
「さ」行です。

「ザ・ホエール」 2022年 アメリカ


監督 ダーレン・アロノフスキー
出演 ブレンダン・フレイザー セイディー・シンク ホン・チャウ
   タイ・シンプキンス サマンサ・モートン

ストーリー
恋人を亡くした悲しみから立ち直れずに過食症に陥ってしまった同性愛者のチャーリー。
歩行器なしでは移動すらできないほどの肥満となった今も入院を頑なに拒み続けていた。
大学で教える英作文の授業はオンラインでのみ行っていたが、自らの容姿を恥じてウェブカメラのスイッチを切っていた。
チャーリーは唯一の友人である看護師のリズに何かと世話をしてもらっていた。
ある日ニューライフ教会の宣教師トーマスがチャーリーを訪ねて来て、それからはトーマスもチャーリーの状況を心配して訪ねてくるようになった。
チャーリーは頻繁にピザを注文していたが、受け取りは対面で行われず、注文のピザはドアの外に置かれ、料金は郵便箱から持っていくという形式をとっていたが、ある日宅配ドライバーはダンと名乗り会話を交わすようになる。
チャーリーは、ずっと会っていない娘のエリーとの再会を願っていて、思い悩んだ末、エリーと再会することにした。
そして、母親に内緒で定期的に会ってくれれば12万ドルの預金を譲ると提案した。
エリーはその申し出を受け、彼女が学校の単位を取得するために提出しなくてないけないエッセイを手伝うことを条件に加えた。
チャーリーは、エリーに何か文章を書くことを条件に付けた。
リズはトーマスが頻繁にチャーリーを訪問することに不満を持っていた。
リズはニューライフの主任牧師の養女であることを明かし、チャーリーが心を病んでしまった出来事を話した。
自殺したリズの兄アランはチャーリーのボーイフレンドだったのだ。
ボーイフレンドの自殺が原因で、チャーリーは制御不能の過食症になってしまっていたのだ。
過去の出来事を話したリズのはトーマスにチャーリーへの救いはいらないと念を押す。
しかし、トーマスは自分の使命はチャーリーを助けることだとより強く信じ込む。
リズはチャーリーのために車いすを手配した。
病状は急速に悪化し死期が近いことを悟ったチャーリーは、17歳の娘エリーとの関係を修復したいと願うのだったが…。


寸評
過食と引きこもりで極度の肥満症となってしまった男が疎遠だった娘と関係を修復する話だと思っていたが、見終ると色々なテーマが盛り込まれている哲学的な作品だったとの感情が湧いてきた。
最初は肥満症となったチャーリーが、歩行器がないと歩けず床に落とした物も拾えないなど彼の身体的特徴による不自由な生活が描かれていく。
キリスト教系のニューライフからやってきた宣教師トーマスが出現してからストーリーは複雑化していく。
チャーリーは同性愛者で、生徒だったアランと関係を持っていて、そのアランは自殺しているという事実が示される。
リズはアランの妹で、家族が新興宗教であるニューライフに入信していて、リズが早々に宗教への信仰心を捨てたが、アランは親の期待に応えるように真面目に取り組んでいたことも明かされる。
なんだか統一教会の宗教二世を連想させる家族関係だ。
トーマスは、アランは祈りを神に捧げなかったから死んでしまったと言っているが、僕はそうは思わない。
アランは登場しないので彼の苦悩は想像するしかないのだが、同性愛を良しとしていないキリスト教徒の信者であるアランは、信仰とチャーリーとの同棲生活の板挟みになった結果だったのではないかと僕は思った。
チャーリーは妻と娘を捨てて1人の男性を選んだことを悔いているし、アランを救えなかったことも悔いている。
その結果として、自分のしてきたことが全て間違っていたのではないかと考えるようになってしまっている。
人には誰にだって長い人生の中では公開することの一つや二つはあるものだ。
僕にだって、あの時ああすればよかったとか、あの時もう少し手助けしてやればよかったと思うようなことはある。
それは僕の人生の中における後悔でもあるのだが、チャーリーのように自分の人生を全否定しようとは思っていない。

トーマスはエリーによって救われるが、エリーは本当にトーマスを救おうとしていたのだろうか。
僕にはたまたまそうなっただけのように感じられた。
僕にはエリーの不遇の境遇からくる悪意の方を強く感じ取られたのだ。
大麻を吸って盗撮するし睡眠薬を飲ませたりもし、点数不足のエッセイをチャーリーに書かせようとする。
そんなエリーでも、チャーリーにとっては彼女が自己肯定できる唯一の存在であることが強調されていたのだと思う。
換言すれば、チャーリーは自分の存在意義をエリーに求めたのだと思う。
その気持ちがエリーがトーマスを救った事実を聞いて、エリーは正しいと信じさせたのだろう。
それはチャーリーの希望でもあったのだと思う。
己の存在を皆から否定され続け、メアリーとの関係もうまくいかず、アランにも先立たれた彼にとって、エリーがまっとうに生きられることが自分の生きた証だと思ったことを僕は切なく思う。
自分の子供だけは真っ当に育て上げたと思って死にたいのだろう。
親にとって子供は唯一無二の存在なのだ。
小説「白鯨」が度々登場するが、僕はグレゴリー・ペックの船長を思い浮かべていた。
あの片足の船長は自分の未来を信じて白鯨を追い求めていたのだろうか。
映画を見る限り、そんな風には思えなかったけどなあ・・・。
死ぬ前にエリーに白鯨を読ませたのは、エリーに自信を持って欲しいという想いと共に、自身にも救いを求めた結果であろう。
家族で行った海辺のシーンを見た彼は死ぬ直前に救われたのだと思う。
そう思うと実に宗教的な映画であった。