おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

廃市

2021-08-31 06:32:05 | 映画
「廃市」 1984年 日本


監督 大林宣彦
出演 小林聡美 山下規介 根岸季衣
   峰岸徹 入江若葉 尾美としのり
   林成年 入江たか子

ストーリー
江口(山下規介)は大学生の頃、卒論を書くために、一夏をある古びた運河の町で過ごした。
そして、月日が流れ、歴史のある運河の町が火事で焼けたことをニュースで知った江口は、10数年前に大学の卒論執筆のためにこの町を訪れたときのことを回想をしはじめる。
江口が親戚から紹介された宿泊先、貝原家を訪れると出迎えたのはまだ少女の面影を残す娘・安子(小林聡美)だった。
その夜、寝つかれぬまま彼は、波の音、櫓の音、そして女のすすり泣きを耳にする。
次の日、江口は安子の祖母・志乃(入江たか子)に紹介されるが、一緒に暮らしているはずの安子の姉・郁代(根岸季衣)は姿を見せない。
ある日、貝原家から農業学校に通っている青年・三郎(尾美としのり)の漕ぐ舟で江口は安子と出かけた時、町がすっかり気に入ったという江口に、「この町はもう死んでいるのよ」と言って、いつも快活な安子が暗い微笑を浮かべるのだった。
その帰り、江口は郁代の夫・直之(峰岸徹)を紹介された。
安子の母の十三回忌が行なわれ、江口はその席で、直之からもこの町が死んでいるという言葉を聞く。
その夜、彼は直之と安子がひっそりと話しているのを見た。
次の日、母親の墓参りに出かけるという安子に付き合った江口は、その寺で郁代に出会う。
安子の話だと、郁代が寺に移ってから直之も他に家を持ち、秀(入江若葉)という女と暮らしているとのことだったが、なぜ郁代が家を出たのかは安子は話したがらない。


寸評
僕は学生時代に仲間たちと16ミリで撮影を行っていた。
映画の撮影は35ミリで行われていて、とてもそれに及ばない画質であったが、当時において個人が趣味で撮影していた8ミリに比べれば機材も立派で段違いの映像を得ることが出来た。
僕たちは個人の趣味を超えた撮影機材と映写機でクラブ活動に名を借りた贅沢な遊びをしていたのだ。
この作品も16ミリで撮影されているのだが、さすがにプロは上手い。
画質の粗さを逆手に取って、ミステリアスで幻想的な雰囲気を上手く引き出している。

大林監督のもとに掛け参じた役者たちの出演料はなかったと聞き及んだが、仲間意識が高じたためなのだろうけど、招集した小林聡美、山下規介、根岸季衣はミスキャストだったと思う。
失礼を承知で言えば小林聡美と根岸季衣を美人姉妹と呼ぶには抵抗がある。
もちろん名優の彼女たちは目いっぱいの演技を披露しているのだが、この作品においては違和感があった。
山下規介は新人でやむを得ないけれど、心の中を表現する領域に達していない。
それに比べれば尾美としのりは手慣れたもので、セリフを全く発しないのに気持ちを表現していた。
三郎青年は安子を慕っていたのではないかと思う。
当然、遠縁の仲とはいえ親しくする江口に嫉妬したはずだし、そのようなそぶりは随所にみられる。
恋のライバルに対する気持ちは複雑だ。
何もかもを独占したい気持ちが存在しているので、自分の知らないことを知られていたり、目の前で必要以上の親しさを見せつけられると狂おしい気持ちになってしまう。
三郎青年は正にそんな気持ちで二人を見ていたのではないか。

いわゆる三角関係なのだが、その対象者が姉妹である事、そして土地柄から自分の気持ちをはっきりと表明しないことから生じる悲劇を描いている。
直之は口では姉の郁代を愛していると言っているが、本当は安子が好きだったのだ。
その反動で都合よく秀に走っているのだが、郁代にとって相手が秀だったら全く違った内容になる。
秀は直之の本心を知りながらも、今の自分に満足しているし、そして直之もそんな秀に付け込んで過ごしている。
郁代も問い詰めるようなことはしないが、想像が想像を生んで猜疑心は募るばかりなのだ。
それぞれが自分の本心を伝えないので誤解を生むということなのだろうが、恋愛に関して言えば当の本人達には言わなくっても感じるだろうの気持ちが生じるものだ。
しかし、言いそびれたばかりに別の人と歩き出すことになるのも世の常なのだ。
三郎が最後に江口に叫ぶのは、ずっとそばで見つめ続けていた彼ならではの確信だし、的を得ている。
しかし時すでに遅く、人生は後戻りをすることが出来ない。
江口にとっても青春の苦い思い出だったのだろう。

当時、市の観光課は「廃市」というタイトルを嫌がったらしいが、今ではそれも売りとしているようだ。
そうしても良いぐらい、日本のベニス・柳川の魅力が描かれている映画でもある。
柳川をこれほどまでに撮り込んだ作品は他にはないだろう。

バーバー吉野

2021-08-30 07:17:47 | 映画
「バーバー吉野」 2003年 日本


監督 荻上直子
出演 もたいまさこ 米田良 大川翔太
   村松諒 宮尾真之介 石田法嗣
   岡本奈月 森下能幸 たくませいこ
   三浦誠己 浅野和之 桜井センリ

ストーリー
ある山あいの田舎町には「バーバー吉野」という散髪屋が一軒あるだけで、子供たちはみんな前髪を短く切り揃えた「吉野ガリ」と呼ばれる同じ髪型にする慣わしがあった。
その散髪屋の子に吉野慶太(米田良)という少年がいて、彼の同級生のヤジ(大川翔太)、カワチン(村松諒)、グッチ(宮尾真之介)の三人は店に遊びに来るのが常だった。
ある日、彼らの小学校に東京から坂上君(石田法嗣)という転校生がやって来る。
彼の髪型は茶髪の横分けでかっこよかった。
授業が終わると、散髪屋の息子の慶太は先生(三浦誠己)から坂上君のために町を案内するように頼まれる。
慶太の母(もたいまさこ)が店から出てきて坂上君に「君が転校生の坂上君だね、うちで散髪して早くみんなと同じ髪型にしないとだめだよ」と言うが、坂上君は強く反発心を持つのだった。
その後、坂上君は学校で先生にも「みんなと同じ髪型にして、早くみんなと仲良くなりなさい。」と言われ、とうとう病気を理由に学校に来なくなってしまう。
学校のプリントを坂上君に渡すために、慶太たち四人は坂上君の家を訪ねたところ、坂上君の部屋で彼が引越しの時に持ってきたという数冊のエロ雑誌があるのを発見し恐るおそる眺める。
グッチだけは小学生はこんなの見ちゃいけないんだと、エロ雑誌を見ようとしなかった。
カワチンが「よし!坂上君は髪型を変えないでいいことにしよう。俺たちの仲間にする。この雑誌は俺たちの秘密基地に隠しておこう」と言ったので、坂上君は慶太たちの仲間となった。
グッチは親に見つからないように、エロ本をかばんの中に入れたまま学校に登校していたが、とうとう先生に見つかってしまう。
そのことを知った吉野のおばちゃんは、転校生の坂上君が原因で町の風紀を乱していると言い張り、そして坂上君の髪型を変えることに執念を燃やしはじめる。


寸評
僕は田舎町の育ちで、子供の頃には秘密基地を造れるような場所があちこちにあった。
藪の中に空間を作り、そこにゴザなどを敷き詰めて潜んでいたし、滅多に人が来ない荒れた農機具小屋なども隠れ家となっていたのだが、そんな田舎町もすっかり様子が変わりそのような場所はなくなっている。
描かれている場所は僕の田舎町よりももっと寂れた山間の村である。
そこを舞台に荻上監督はエロ本を読みふけり、好きな女の子の胸のふくらみや下ネタで異様に盛り上がる男の子のアホな生態を活写していく。
見ながら僕は少女だった荻上直子さんが男の子たちの生活にあこがれを抱いていて、その思いを処女作に繁栄させたのではないかと想像した。
慶太たちは仲良し四人組だが、それぞれがクラスの上杉真央の事が好きで、彼らは恋のライバルでもある。
経験からすれば、この頃の男の子には少し大柄で大人びた感じのする可愛い女の子が人気だったように思う。
小学校時代の同級生の間では、一人の女の子をめぐってお互いに嫉妬めいたものが漂っていた(子供だけにそれは微笑ましいものではあったのだが)。
慶太たちの上杉真央を巡るやり取りは、懐かしくもあり忘れていた感情をくすぐられるものがあった。

荻上監督は、村の融和のシンボル的存在でありながら、同時に子供たちの自由意思を抑圧する最高権力者として 吉野のおばちゃんを登場させ、このユニークなキャラクターを、もたいまさこが熱演している。
少年たちは敢然とおばちゃんに反旗を翻すのだが、時としてそれは現在の政治的権力者への闘争として感じられるような描き方がなされる作品も見受けられるが、この作品ではそのような雰囲気は全くない。
あくまでも、やんちゃな男の子たちを描いた少年映画なのだ。
荻上監督は脚本も担当していて、鉄棒を滑り降りてきた男の子に「ちんちんを擦りつけると気持ちがいいんだぜ」などという言葉をはかせているのである。
女性監督なのにそれを言わせるかと、僕は笑ってしまった。

坂上君を加えた五人は「吉野ガリ」に抵抗する。
村の伝統だと思われている「吉野ガリ」を変更するのは大変だ。
町内でも、長年行われていたやり方を皆がやめればいいと思いながらも実行できない事がある。
誰かが思い切って口火を切らないと変わることはないのである。
しきたりを変えるのはそれほど大変なのだが、ましてや伝統と呼ばれるようなことを変えるのは至難の業である。
村人の大半が入れ替わらないと変えることは出来ないだろう。
それだからこそ伝統なのだ。
慶太の父親は奥さんを諭すが、逆に「あんた、何言ってんのよ」と反撃されてしまう。
結局夫の意見を聞き入れたのだろうが、退職した慶太の父親と吉野のおばちゃんの夫婦関係はその後どうなったのだろう。
おばちゃんには理髪店経営で一家を支えていくバイタリティを感じる。
吉野のおばちゃんも時代の流れに逆らえず自分の思いを断ち切るが、桜井センリ演じる三河のおじちゃんが言う「これも時代の流れで、伝統は伝説となるんだよ」は名言だ。

ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌

2021-08-29 07:17:42 | 映画
「ハード・ボイルド/新・男たちの挽歌」 1992年 香港


監督 ジョン・ウー
出演 チョウ・ユンファ
   トニー・レオン
   テレサ・モウ
   ウォン・チョーサン
   フィリップ・チャン
   ボウイー・ラム

ストーリー
ユン警部補(チョウ・ユンファ)=通称テキーラは腕利きの警官だが、その強引なやり方から拳銃取り引きの現場で乱闘となり、相棒のア・ロン(ボウイ・ラム)が殺されてしまう。
上司のチャン警視(フィリップ・チャン)が秘密捜査官として送り込んだ部下も命を落としてしまった。
数日後、図書館でひとりの男が殺された。
武器輸出を扱うマフィアのボス、ホイ(クワン・ホイサン)の右腕であるトニー(トニー・レオン)の仕事だったが、彼はその腕前ゆえ対立組織のボス、ジョニー(ウォン・チョウサン)からも誘いがかかる。
ジョニーはホイの武器庫を襲撃し、トニーはホイを裏切って彼を殺した。
その銃撃戦の現場に駆けつけたユンはトニーと激しく撃ち合うが、最後のところで何故かトニーはユンを殺さなかった。
トニーは実はチャンに送り込まれた裏刑事であり、より大きなジョニーの組織を壊滅するのが目的だった。
事情を知ったユンはトニーと反目し合いながらも、協力して秘密武器庫がある病院に侵入。
チャンや彼の秘書でユンの恋人でもあるテレサ(テレサ・モー)をはじめ警官隊も駆けつけ、大銃撃戦となる。
大勢の患者を人質に取られ、敵の凄腕の殺し屋(國村隼)によりボロボロになりながらも2人はジョニーを追い詰めていく。
トニーはジョニーの人質となってしまうが、トニーは自ら死を選ぶ。
彼の犠牲によりジョニーはユンによって射殺され、長い戦いは漸く終わるのだった。


寸評
潜入捜査官を描いた作品に「インファナル・アフェア」という作品があるが、同じ潜入捜査官を描いていてもこちらはすさまじいまでの銃撃戦がメインとなっている。
冒頭で描かれる飲食店での拳銃取引場面から銃撃戦全開である。
警察とマフィアの対決だが民間人も一杯犠牲になっていて、この映画のスタイルが明示された場面となっている。
その前のタイトルバックにもなっているユンによるジャズ演奏が曲もマッチしていて雰囲気が出ていたのだが、ユンがジャズ演奏するのがその後出てこなかったのは演出モレと思える。
冒頭で雰囲気を出していたのだから、エンディングでもそうして余韻を残して欲しかった。

香港の拳銃密売組織グループの対立が発端だが、一方のホイがジョニー側にいとも簡単に殺されてしまうのは拍子抜け感がある。
トニーは凄腕の殺し屋のような雰囲気で登場するのだが、彼がホイを裏切ってジョニーに加担する動機なりジレンマなりを全くと言っていいほど省略しているので、トニーがジョニーの組織に食い込んでいく過程がいとも簡単そうに見えてしまう。
この手の作品の常なのだが、トニーやユンは撃たれても死なないが、相手側の人間は銃撃戦で次々死んでいく。
そんなに弾が入っているのかと思ってしまうほど拳銃でも乱射しまくる。
ガラスが割れ、器物がどんどん破壊されていく。
物陰から飛び出したり、横っ飛びしながら撃ちまくるガン・ファイトは見ていて気持ちがいい。

銃撃戦に比べると人物描写は省略気味となっている。
チャン警視の人物像はトニーと語らう場面でのみ示されている風で、非情な警視なのか温情ある警視なのか、実力はどの程度なのかなど最後までよくわからなかった。
婦人警官と思われるテレサも結構重要な役だと思うが、彼女の存在が生かされていたとは言い難い。
ユンの恋人らしいが、二人の関係の深さはどの程度なのかは想像の範囲に収まっている。
病院での赤ちゃんの救出劇では、前半で例えば赤ちゃんを欲しがっている二人を描き込んで置くなど、二人の関係をもう少し生かした演出が出来たはずだ。
赤ちゃんの救出劇は作品中では唯一ヒューマニティに飛んだシーンとなっている。
テレサは白い花が届けられるたびにカードをチャン警視に届けているから、潜入捜査官の存在、カードが連絡暗号になっていることなどを知っていたと思うのだが、そのミステリー性はなかった。
その為に僕はテレサの存在を中途半端と感じてしまったのかもしれない。

病院での銃撃戦の迫力は特筆もので、これぞ香港映画と言った感じで、この作品における一番の見せ場だ。
しかしマフィア側が逃げる患者たちを上から狙い撃ちするのは何故なんだと思う。
大勢の患者たちが巻き添えを食うが、狙い打たれる理由はなかったのに見せ場の巻き添えを食った感じだ。
混乱の中でトニーは誤って仲間であるはずの刑事を撃ってしまう。
もう少し劇的に描いても良かったと思うが、銃撃戦の中の変化としては的確な演出となっている。
香港ノワールというより「ダイハード」の香港版と言った方がいい作品だ。

バーディ

2021-08-28 07:54:47 | 映画
「な」行が終わり「は」行になります。
前回の「は」は2019/12/27の「ハート・ロッカー」からでした。
今回は少し多めに紹介します。

「バーディ」 1984年 アメリカ


監督 アラン・パーカー
出演 マシュー・モディーン
   ニコラス・ケイジ
   ジョン・ハーキンス
   サンディ・バロン
   カレン・ヤング
   ブルーノ・カービイ

ストーリー
泥沼のベトナム戦線から帰還したアル・コランバトは地獄の戦火の中で顔面に重傷を負っている。
彼は一路、故郷フィラデルフィアに近い海軍病院へ向かい、子供の頃からの親友バーディと再会した。
だが、バーディは檻のような精神病棟の中で、鳥のように身をすくませていた。
前線で精神錯乱を起こした彼を、友の呼びかけで正気に立ち戻らせられないかという、担当医師ワイス博士の考えだった。
2人が初めて出逢った時から、アルにとってバーディは世話の焼けるヤツだった。
バーディはひたすら鳥になりたいと考えている少年だったが、度が過ぎて工場の屋根から落下。
しかし、落下しながらバーディは初めて「飛ぶ」という感覚に目覚めた。
2人は何から何まで対照的な親友だった。
スポーツマンで女のコに積極的なアルに対し、バーディは付き合い下手で、自分の世界に閉じ込もりがち。
そんなある日、バーディはペット屋で可愛いカナリヤを買いパータと名付けた。
鳥小屋に裸のままで入ったバーディは、パータを肩に乗せ横になる。
いつしか夢と現実の境界がバーディの感覚から消えていき、彼は鳥になって空を、自由に飛翔した。
「飛んだんだ、本当に飛んだんだ!」と言うバーディの言葉に、アルは首を横に振るばかりだった。
やがて、アルがベトナム戦争へ出征する日がやって来た。
そして、バーディもベトナムヘ。
錯綜する回想の中で、友を想うアルの必死の呼びかけが続いた。


寸評
僕は少年時代にハトを買っていたことがある。
帰巣本能が強いハトは暫く飼っていると放しても巣箱に戻ってきた。
数羽で飛ばしたハトが別のハトを連れ帰ったこともあった。
あの頃はここで登場するバーディ同様にハトが友達だったのかもしれない。
もっとも僕はバーディのように鳥になりたいとは思わなかった。
バーディは鳥に夢中で、自分も鳥のように飛びたいと思っている。
そんな風に思った者はバーディが最初ではない。
いつか鳥のように大空を飛びたいと思い続けた人たちが飛行機を開発したのだ。
鳥を愛し、鳥のように飛びたいと願う若者の話なら童話的だが、戦争の被害者でもある二人の話は明るくはない。

アルは病院にバーディを訪ねるが、バーディは精神病棟の中で鳥のように身をすくませ動かない。
言葉も発せず親友のアルすら分からない。
アルを演じたマシュー・モディーンの精神病棟での表情はすごい。
本当に精神病を患っている患者の様だ。
一言も言葉を発せず、身動きもしないで表情だけを演じきったことに感心する。
必死に語り掛けるニコラス・ケイジに対すように、マシュー・モディーンのバーディは無表情である。
その対極が痛々しさを倍増させ、ベトナム戦争の悲惨さをも訴える。

絶望的とも思える病院内の様子に反して、二人が心を通わせていくハイスクール時代の姿は微笑ましい。
人付き合いの苦手なバーディだったが、アルには心許すようになり二人はいつも一緒にいるようになる。
正反対な性格だから女の子に対する接し方も違う。
アルは積極的だが、バーディは関心を示さない。
バーディの関心は鳥にしかないことを強調するようなエピソードが続く。
バカげたことを夢中になってやれる年代の二人の楽しげな姿も描かれ、今の状況との違いが強調される。

バーディはダンスパーティで女の子から誘われても興味を示さず、喧騒から帰って服を脱ぎ捨て素っ裸になる。
バーディは人間世界から抜け出し鳥と同化する。
鳥は自由の象徴だ。 彼は自由になり、鳥になり、空を飛ぶ。
バーディもアルもベトナム戦争で地獄を見てきている。
戦場は自由と対極にある世界だ。
彼等は戦争の犠牲者でもあり、入隊前の自由を奪われた人間だ。
病院の二人の姿は痛々しいが、バーディはアルの愛情によって目覚め言葉を発する。
しかしワイス博士がやって来た時には再び無言になってしまうのだが、「彼には話すことがない」というバーディの言い分が痛快に感じて完全復活を印象付ける。
再び鳥になるラストはそうなんだろうけれど、流石にもしやと思い驚かされた。

の・ようなもの

2021-08-27 08:00:56 | 映画
「の」は2019/12/20から「野いちご」「野良犬」など7本を紹介しましたが、更に思いついたのは「の・ようなもの」だけでした。

「の・ようなもの」 1981年 日本


監督 森田芳光
出演 伊藤克信 秋吉久美子 尾藤イサオ
   麻生えりか でんでん 小林まさひろ
   大野貴保 内海好江 五十嵐知子

ストーリー
23歳の誕生日を迎えた落語家の志ん魚(伊藤克信)は仲間達にカンパしてもらい、初めてソープランドに行く。
相手をしてくれたソープ嬢のエリザベス(秋吉久美子)はどこかあどけなさの残る志ん魚を可愛いと気に入り、自宅の電話番号まで教えてくれた。
志ん魚はエリザベスに高級フレンチをご馳走してもらったりと分不相応なデートを楽しむようになる。
ある日志ん魚は落語研究会に所属する女子高生達のコーチを頼まれ、弟弟子の志ん菜(大野貴保)とともに高校を訪ねた。
部員の由美(麻生えりか)に一目ぼれした志ん魚が口説くと、由美も嬉しそうに応じた。
その後志ん魚は志ん水(でんでん)らの兄弟子達や落語研究会の女子高生らとともに番組制作会社と協力して団地住まいの主婦向けに天気予想クイズを企画し大成功、その後も青空寄席と称して志ん米(尾藤イサオ)が団地の中で寄席を行って大盛況となる。
志ん魚はエリザベスに由美と付き合うことになったことを告白し、別れを告げようとする。
しかし元々私達は友達なのだから別れる必要もないというエリザベスの甘い言葉に乗せられ、志ん魚はずるずると二股交際を始めるようになってしまう。
由美の自宅に招かれた志ん魚は「二十四孝」という古典落語を披露したところ、由美の父から古今亭志ん朝や立川談志に比べると下手だと辛口で斬り捨てられ、さらに由美も父の意見に同調し始め、すっかり自信をなくした志ん魚は終電も逃してしまい、夜の街を彷徨い始めた。
ひたすら夜の街を歩き続け、浅草へ着くと由美が先回りして待っていてくれた。
兄弟子の志ん米が真打に昇進することが決まり、仲間達は自分のことのように喜ぶ。
一方エリザベスは友人に誘われ滋賀の雄琴に引っ越すことになった。

寸評
何があると言う映画ではない。
恋愛劇でもないし事件が起きるわけでもない。
ただ若手落語家の日常が描かれているだけで、それが本当の落語家の日常であるかどうかも分からない。
伊藤克信が話す独特のイントネーションの喋りが印象に残る。
しんととが23歳の誕生日に皆からカンパをしてもらってソープランドに行き、そこでソープ嬢の秋吉久美子と知り合い、恋人のような関係になる。
恋人のようにも見えるが友達のような関係でもある。
この頃の秋吉久美子ファンだった僕には、凄く羨ましい関係であった。

しんととたちは少し歳を食っているが青春時代を謳歌しているのかもしれない。
僕たちもその時代には随分とバカをやったものだ。
ラブホテルや銭湯で繰り広げるバカには笑ってしまうが、でも思い当たるフシがあるバカ騒ぎなのだ。
彼らは落語家で根っから面白い男たちなのだが、しかし誰もが形を変えた面白さを持っているから人間は面白い存在なのだと思う。
そして彼らはいい加減な男たちだが、非常に優しさを携えた男達でもある。
しんととの誕生祝をしてやり、志ん米の真打昇進を心底から喜び祝ってやる。
人にはこの優しさが必要だ。

しんととは由美の父親から演じた落語を酷評される。
志ん朝や談志と比較され、彼らは真打だが自分はまだ二つ目だと言い訳し、打ちひしがれた彼は、深夜から明け方にかけて東京の街を「しんとと・・・しんとと・・・」とつぶやきながら、歩いている場所を点描するように口ずさんでいく彷徨シーンがとてもいい。
このシーンがあるからこの映画は成り立っていると思う。
志ん米の昇進祝伊おパーティがビヤガーデンを借り切って行われる。
そこで弟弟子と「早く真打になりたいな」と語り合うが、やがて無音となりしんととの明るい笑顔出話す姿などが捕らえられ、かすかに尾藤イサオの歌う主題歌が聞こえてくる。
一抹の淋しさを感じさせるこのラストは余韻を残した。

僕は、古典落語が好きなしんととは最後まで真打になれなず、売れない落語家で終わったと思う。
落語が好きなここと上手いことは別次元で、しんととは由美親子から下手だと酷評された落語が最後までうまくならなかっと思うのだ。
しかし、たとえ真打になれなくても、しんととは好きな古典落語を続けたと思う。
そういう人生もありかなと思うのだ。
青春時代は楽しいもので、ずっと続けていたいと思うものだが、そうはいかない。
どこかで踏ん切りをつけて新たに歩き出さねばならないのだが、出来るならいつまでもバカをやっていたい。
僕の思い込みかもしれないが、落語家ってそれが出来る人たちのような気がして、羨ましくもある。

寝盗られ宗介

2021-08-26 07:29:34 | 映画
「寝盗られ宗介」 1992年 日本


監督 若松孝二
出演 原田芳雄 藤谷美和子 久我陽子
   筧利夫 山谷初男 岡本信人
   佐野史郎 玉川良一 吉行和子

ストーリー
富士山をのぞむのどかな町で、客のざわめきをよそに北村宗介一座の宗介は、妻子もちの謙二郎と駆け落ちした一座の看板スターで女房のレイ子を待っていた。
レイ子の父親の留造や音痴の歌手ジミーらを前に、自ら駆け落ちを画策した宗介は「帰って来る!」というばかりなので、一座はやむなく幕をあけるが、イカサマ歌謡ショーに客は騒ぎはじめる。
高校生のあゆみが代役として間をつないでいるうちにレイ子が帰って来た。
そしてレイ子が舞台に立つや客は彼女に見とれ、ため息と涙の大合唱となった。
宗介は間男の謙二郎に田舎へ帰って運送屋をやるようトラックを買って送り出す。
続いてジミーが倒れ病院へかつぎ込まれた。
腎臓移植手術しか助かる見込みがないと聞かされた宗介は、一座を離れジミーの弟ユタカに腎臓を提供するよう頼み、その足で青森の実家を訪ね手術費用を工面してもらった。
建設会社をやっていて女グセが悪かった父親の大造は、病院で寝たきりでもう長くない。
会社をきりもりする弟の信二に、新しく建つ公民館のこけら落しを頼まれ、宗介は思わず「ついでに俺の結婚式でもやるか」と口走ってしまったが、照れからレイ子の前で断ってしまう。
やるせないレイ子の前に以前駆け落ちをし、今度は国へ帰るというマックが現れた。
宗介は小遣いをわたし、2人を温泉旅行に行かせた。
ついであゆみが一座を出て東京へ行くと言い出した。
ジミーの腎臓の一件もユタカが拒否したため、宗介が提供することになったが、それをきっかけにレイ子が荒れるようになっていった。
宗介は結婚を決意して打ち明けるが、うまくいかない・・・。


寸評
藤谷美和子はミスキャストだったと思う。
とてもじゃないがドサ回りの女優には見えず、ドサ回りの役者をイメージさせる安っぽさが無い。
一方で舞台での芝居は安っぽく、はっきり言って芝居が下手だ。
ドサ回りの役者はもっと芝居が上手いと思うし、「色気がある」と劇中で言われているが、そんな感じはしない。

レイ子はしょっちゅう男を作っては逃げ出している女であるが、宗介の父親である大造の後妻・志乃が言うように、強い力で奪われることを待ち望んでいるのだ。
宗介はそうすることにテレがあるのか、あるいはレイ子が寝取られても自分のもとに帰ってくることで、俺は争奪戦に勝ったのだという優越感を味わっているのか、惚れた女の浮気に寛容である。
宗介は自殺した亡き母を愛しており、そうさせた父親を憎んでいる。
異腹の兄弟が何人もいるようで、屈折した心の持ち主にも見えるが、実際は優しすぎる男である。
レイ子と駆け落ちしていた謙二郎に故郷で運送業が開業できるようにトラックを与え、嫁と復縁させるのを手始めに、以前駆け落ちしたマックと温泉旅行に行かせたり、一座の若手女優に金を握らせ東京へ送り出し、一座のジミーに自分の腎臓を提供し、そしてその男とレイ子の駆け落ちを認めてやるような男である。
このキャラクターは面白いと思うのだが、若松孝二演出は描き切れているとは言い難い。
一応は宗介とレイ子の恋愛が軸なんだろうけど、2人の複雑な心情が全くと言っていいほど伝わってこない。
男は妻の浮気を平然と許し、浮気男のセックスを応援したりする。
女は色んな男と浮気する一方で、夫の腎臓提供に大反対するなど男の独占欲を見せる。
風変わりな男女の形なのだが、それが不可解なままで終わってしまったのは残念だ。

つかこうへいの舞台劇として、こちらはドサ回りの世界を描いているが、映画界を描いたものとして名作の「蒲田行進曲」がある。
宗介のどれだけ相手に裏切られても信じ続ける態度は、「蒲田行進曲」のヤスを連想させ、一方で、父親や団員に悪態をつき、弟の会社でコーヒーをぶちまける姿には「蒲田行進曲」の銀ちゃんを連想させる。
一芝居打った父親の謀略で宗介はレイ子と結婚することになるが、最後に観客に深々とお辞儀するのは「蒲田行進曲」へのオマージュだろう。
若松孝二の作品としては特異な作品に入るのかもしれない。

北村宗介一座はデマカセ一座で、美空ひばりの隠し子だとか、越路吹雪の替え玉だとかを正々堂々と述べているのだが、コマドリ姉妹として柴田理恵が出てきたり、松島アキラの「湖愁」が歌われたりと、往年の歌謡曲ファンなら楽しめるエピソードも盛り込まれている。
最後で原田芳雄の宗介が「愛の賛歌」を歌うシーンがあるのだが、いいんだわあ~、原田芳雄の歌。
僕は歌手としての原田芳雄も大好きで、カセットテープ時代にはよく聞いていた。
独特の歌い方をする人で、このシーンでも女装した彼がしわがれ声で、それこそリサイタルにおける熱唱の感を与え、僕はこの歌を聞くだけでもこの映画を見る価値があると思う。
ユニークな役者さんが大勢出ているが、結局は原田芳雄の一人芝居だった。

寝ても覚めても

2021-08-25 07:31:43 | 映画
「寝ても覚めても」 2018年 日本


監督 濱口竜介
出演 東出昌大 唐田えりか 瀬戸康史
   山下リオ 伊藤沙莉 渡辺大知
   仲本工事 田中美佐子 長内映里香

ストーリー
大阪で社会人になったばかりの朝子は偶然出会った同い年の青年、麦(ばく)に恋に落ちる。
2人で遊ぶようになり、次第に付き合うようになる。
しかし、フワッとしている麦は、突然、フワッと姿を消したりする。
朝子は突然いなくなったことを、とがめることもなく、ただ目の前に麦がいることに幸せを感じていた。
そしてある日、麦は上海に旅立ったまま朝子のもとに帰って来なくなった。
三年後、朝子は東京に引っ越しカフェで働き始める。
ある日、朝子の働くカフェのビルにある会社にコーヒーを届けるとそこには麦にそっくりの男性、亮平がいた。
名前も年齢も性格もぬくもりも違う麦と亮平だが、その顔を見て朝子は胸は高まるばかり。
雪の降った日、朝子が貧血を起こし公園のベンチで休んでいると亮平が通りかかり自宅まで送り届けてくれた。
それをきっかけに2人は親しくなり、朝子は優しい青年、亮平と付き合うようになる。
朝子は、亮平と付き合いが続いても、顔が麦そのものに見えて仕方がない。
しかし、朝子の友だち春代は、「雰囲気が麦に似ている」という程度で、朝子がいうほど麦と亮平が似ているようには感じてはいなかった。
そんな時、テレビで鳥居麦として超売れっ子俳優になっている麦を見る。
これはまぎれもなく麦だと確信する朝子。
そしてある日、朝子がいる場所のすぐ近くで、麦が出演している番組の撮影が行われていることを知る。
朝子は春代と共に、大急ぎで麦がいるであろう場所へと向うが麦とは出会えなかった。
するとある日、朝子の自宅前で「さあちゃん」という声が聞こえた。


寸評
映画が始まると朝子と麦の出会いが描かれ、突然麦が子供たちが遊んでいた川べりの通りで朝子にキスをする。
すごく唐突なシーンに感じたのだが、すぐに場面が切り替わり岡崎が麦と朝子に「そんな事があるわけないだろ!」と叫ぶシーンとなる。
そのことで今まで描かれてきたことは、麦が朝子との出会いを岡崎に語っていたのだと判る。
この描き方は僕の感性と一致するのでスムーズに映画の世界に入っていくことが出る納得の演出である。
ドラマは3年後に飛んで、朝子は東京のカフェで働いていて、そこで麦とそっくりな丸子亮平と出会うのだが、双子ならいざ知らずあんなに似た男が現実にいるはずもなくリアルさには欠けているはずなのに、ファンタジーという感じではない現実と非現実の間を浮遊しているような不思議な雰囲気を出して行くという一貫した描き方がいい。
朝子、亮平、友人たちとの何気ない会話から、彼らの微妙な心理状態が見えてくるのだが、大阪人の僕は彼等の話す関西言葉に親和感を感じ、特に朝子の親友という伊藤沙莉演じる春子が面白い存在に見えた。
春子もマヤも必死で朝子を諭すのだが、朝子はその忠告を無視するように麦と亮平の間を揺れ動く。
なんて浮気性な女だと思えるのだが、しかしじっくり考えてみると突拍子もない行動とも思えなくなってくる。
過去に愛した相手を一生忘れないで新しい相手と過ごしていることは誰にでもあるのではないかと思う。
それは岡崎の母である田中美佐子が昔の恋を2度も語りながら、その相手は結婚相手ではなかっと明かすことで示されている。
朝子役の唐田えりかは、表情もセリフも平板に見えるが、濱口監督はあえてそうさせているのだと思う。
定まらない目線やふらふらとした行動、居心地の悪そうな表情、謎めいた態度がこの映画には合ってる。

朝子にとって衝撃的な恋は、彼女に寝ても覚めても麦のことを想わせ続ける。
唐突と感じるシーンは所々にあり、朝子が「東日本大震災」のボランティアに行ってるのもその一つだ。
なぜここで「東日本大震災」が出てきたのだろう。
どことなく気だるそうな麦と朝子なのだが、東北の被災者と違い地震にあっても生き残ったのに所在のなさそうな生き方をしていることへの批判があったのかもしれない。
泉谷朝子は現実に身を置くことができず、鳥居麦の帰還を「寝ても覚めても」待ち続けていた。
その思いを捨てきれることは出来るのだろうか。
亮平が「お前のことはずっと信用せえへんからな」という気持ちはよくわかる。

本作の最もスリリングな場面は東出昌大が演じる亮平と麦が同席するシーンである。
彼が二役をやっているというだけではなく、そこから30分以上にわたって描かれる物語はエンドに向かうための展開と、めくるめく奇跡的なショットの連続で見せるものがある。
朝子が大阪に引き返す夜行バスがトンネルに入り、朝子の顔が点滅するようにトンネルの壁面に取り付けられたライトによって浮かび上がるショットなどは朝子の心情を写して実に美しい。
大阪に借りた家の前を淀川の支流である天の川(枚方市)が流れている。
亮平は「汚い川だ」と言うが、朝子は「綺麗やん」と言う。
彼らの人生が汚いものになるのか綺麗なものになるのかは分からないが、川の流れの様に人生も留まることはなく流れていく。

ネットワーク

2021-08-24 07:05:21 | 映画
「ネットワーク」 1976年 アメリカ


監督 シドニー・ルメット
出演 ウィリアム・ホールデン
   フェイ・ダナウェイ
   ピーター・フィンチ
   ロバート・デュヴァル
   ネッド・ビーティ
   ウェズリー・アディ

ストーリー
最盛期に28%の視聴率を誇ったUBSのハワード・ビールのイブニング・ニュースも今や12%という低落。
これが直接の引金となり、ジェンセン率いるCCAがUBS乗取りを果たし、創立者は会長に追いやられ、CCAより新しい社長が就任した。
報道部長マックスはそんなビールに番組解任を通告するが、翌日、ビールは自分が辞めさせられる事、さらに自殺予告までを本番中にしゃべり、八方破れの暴言に視聴率は27%と上がった。
野心家で報道部大改革以来クローズアップされているダイアナは反応し、ビールを現代の偽善と戦う予言者として、再び売り出しを図ろうとした。
ある雨の日、突然生本番中に入りこんだビールの社会不満の言動が大ヒット。
次々にかかってくる問い合せの電話に金脈を掘り当てた喜びのダイアナ。
新しい『ビール・ショー』は人気を博し48%の大台へ達し、真に史上画期的な報道番組となった。
ダイアナのアイデアはエスカレートし、次は過激派グループと、ビールをからませた衝撃シリーズとなる。
ダイアナの狙いはズバリ当たり、UBS年次総会で認められる彼女だったが成功もつかの間、現代の予言者として過激化するビールが、UBSの親会社CCAを非難し始める。
ジェンセンは、ビールの言動変更を迫り、翌週、ビールはジェンセンの理論をとうとうとぶつ。
だが低下する視聴率にダイアナと社長は、なんとかジェンセンのお気に入りロボットとなったビールを番組から降ろさなくてはと、切羽詰まった彼女らが最後にとった手段は、想像を絶する凄まじいものだった。


寸評
日本のテレビ界も視聴率を追うあまり、やらせ番組などが出現し番組作りの姿勢と内容低下が顕著になってきた。
本作はアメリカのテレビ業界を描いているが、視聴率に翻ろうされる姿は日本と同様で、視聴率の為なら何でもありの世界を痛烈に批判した風刺劇となっている。
ピーター・フィンチのビール、フェイ・ダナウェイのダイアナの2名のキャラクターは強烈で、その人物キャラクターを演じきった二人がそれぞれアカデミー賞の主演男優賞、主演女優賞に輝いたのも納得である。

ビールはかつては人気のあったキャスターだったが、今は落ち目で番組降板が決まっている。
やけっぱちになったビールは番組放送中に次回の放送中に自殺することを表明し話題騒然となる。
それに目を付けたのがエンタメ部門のダイアナである。
彼女はビールをエンタメ番組に転出させ、預言者なども登場する番組を人気番組に仕立て上げ、ビールが番組中で発する「俺はとんでもなく怒っている。もうこれ以上耐えられない!」が大衆の支持を受ける。
世の中に何らかの不満を持っているのが大半で、所得格差はその最たるものだろう。
ビールが電報をホワイトハウスに送り付けろと煽り立てると、本当に大量の電報が届くというすさまじさである。
不満が溜まっていることへの観客の共感もあったと思うが、裏にはテレビから発せられることを疑いもなく信じて従ってしまう大衆の無知も告発しているように感じる。
ダイアナの視聴率至上主義はエスカレートしていき、テロの実行犯が自らの犯行を撮った映像を流すという過激なものとなっていく。
FBIが犯人逮捕につながるその映像提供を申し出ても、報道の自由と取材源の秘匿を盾に要求を拒否する。
過激であればあるほど人々の関心が高まり、大衆と番組はより過激な映像を求めるようになっていく。
日本もアメリカもテレビ局は同じなんだなあとの感想は自然に湧いてくる。
番組は益々過激になり、それがマンネリとなって飽きられていく運命にある。

更にテレビ局の会長が登場して独自の論理を展開し、ビールは洗脳されたようにその理論を訴える。
会長の論理は、世界は国家とか思想とかに支配されているのではなく、巨大企業を中心とした金が世界を支配していくと言うものである。
現実にも経済援助の名を借りて後進国を支配していく中国のような国家もあるのだ。
1977年の時点で40年後の世界を予見していたことになる。
テレビ局から干され、家庭を捨ててアマンダと不倫関係に陥るビールの元上司のマックスという男がいる。
彼はアマンダに精神構造の異常さを指摘するが、家庭を捨てた男が正常に見えてしまうくらいアマンダの行動は異常を来たしてくる。
それが最終的に彼女が選んだ行為なのだが、こうなってくると法律も道徳もあったものではない。
視聴率さえ取れれば何をやっても良いと言うゆがんだ精神で、日本のテレビ局の現状にも思い当たるフシがあるから、テレビマンの職業病的精神構造なのかもしれない。
マックスの奥さん役の、ベアトリス・ストレイトがわずか5~6分の登場にもかかわらず助演女優賞を受賞しているのは驚きで、ウィリアム・ホールデン演じるマックスの不倫も物語に変化を付け加えている。
主演級4人の演技合戦が見ごたえのある作品である。

寝ずの番

2021-08-23 07:45:15 | 映画
「に」から「ぬ」に移るのですが2019/12/16、17で紹介した
「ヌードの夜」と「ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う」
以外に思い浮かぶ作品がなく「ね」に入ることと致します。
前回は2019/12/18からの「眠らない街 新宿鮫」と「眠狂四郎 勝負」でした。
今回も本数は少なくなりそうです。

「寝ずの番」 2006年 日本


監督 マキノ雅彦
出演 中井貴一 木村佳乃 木下ほうか 田中章
   土屋久美子 真由子 石田太郎 蛭子能収
   桂三枝 笑福亭鶴瓶 浅丘ルリ子 米倉涼子
   中村勘三郎 高岡早紀 堺正章 笹野高史
   岸部一徳 長門裕之 富司純子

ストーリー
上方落語界の重鎮・笑満亭橋鶴(長門裕之)が亡くなった。
今わの際、「外が見たい」と言ったのを、一番弟子の橋次(笹野高史)が「そそが見たい」と勘違いした為に、橋太(中井貴一)の妻・茂子(木村佳乃)が恥を忍んで自分のおそそ=女性器を見せた、3分後のことだった。
そんなそそっかしい一門であるから、通夜の晩は無礼講。
生前の師匠の様々な逸話で盛り上がり、遂には亡き骸を引っ張り上げて落語『らくだ』の“カンカン踊り”まで出る始末であった。
それから暫くして、橋次が亡くなった。
通夜の晩、想い出話に花が咲く。
ゲンの悪さと言ったら群を抜いていた橋次。
お寺さんを借りての独演会では、行く先々で、本堂が火事になったり、住職が亡くなったり……とついてない。
だが、たった一度だけ、艶っぽいお姉さんとの一夜も、あることにはあった。
一年後、今度は橋鶴師匠の妻・志津子ねえさんが亡くなった。
通夜の晩、かつて今里新地の一番人気の芸妓だった志津子ねえさんの弔問に、鉄工所の元社長だと言う初老の男(堺正章)がやって来た。
この男は、師匠とねえさんを争った恋敵で、霊前にねえさんから教わった座敷歌を捧げたいと言い出した。
ところが、その歌がエッチで洒落ていたことから、そのうち橋太が負けじと歌い出し、終いにゃみんなで歌合戦、となるのであった。


寸評
下ネタをここまで散りばめた作品は今までにはなかったであろう。断言できる。
なぜなら最初から最後まで下ネタばかりなのだ。
それを嫌味なく描き続けた努力が評価される作品だ。

三人のお通夜で繰り広げられる騒動がなんとも可笑しい。
その可笑しさは絵空事の様子ではなく、自分も出くわしたことがあったような様子を描いているからなお更なのだ。
大体が、年寄りの通夜や葬式はどこか祭り気分のようなところがって、昔話に花が咲き宴会気分になってしまうようなところがある。
そこで語られることは善行などよりも失敗談や武勇伝などの笑える話題が多いのが常だと思う。
僕が出席したお通夜なども、どちらかというとそんな雰囲気のお通夜が多かった。

スタッフのクレジットが終わると笑満亭橋鶴(長門裕之)の手術シーンで、やがて橋鶴の余命が幾ばくもないことが告げられる。
橋鶴は反対から読めば大阪人には馴染みのある鶴橋でふざけた名前だ(実際、鶴橋で焼肉を食べるシーンがある)。
さてそこで橋鶴の「そとが見たい」を兄弟子の橋次(笹野高史)が聞き取れず「そそが見たい」と聞き違えたことで騒動が起こる。
そそとは京都言葉で女性器のことなのだが、「京都ではそそくさと出て行くなんて言えまへんな」みたいな会話が連発されて笑ってしまう。
その前に「そそって何でんねん?」と聞いた橋七(田中章)が「なんやオメコのことか」なんていう会話もあるから、見る人にとっては下品な映画だと思うかもしれないが、しかし下ネタは元来面白いものなのだと思う。
主人公橋太(中井貴一)の嫁である茂子(木村佳乃)が見せ役となってそのエピソードが終わったところでタイトルの「寝ずの番」が出る。
まるで落語のマクラのような扱いだ。

やがて師匠である橋鶴の通夜が始まり思い出話に花が咲くのも通夜の見慣れた様子だ。
淡路島の公演で手伝いを申し出てきた女の子に「お茶子やってもらおうか」と言ったら、淡路島では「おちょこ言うたら女のあそこのことで大騒ぎやった」と、ここでもまたまた下ネタ。
もっとも”おちょこ”は淡路島だけではなく僕が育った大阪周辺でも言っていたと思う。
そして師匠の最後の落語やと、演題「らくだ」に出てくる死者のかんかん踊りをやらかす。
それを見守る橋鶴の妻である志津子(富司純子)の表情などもあって、唯一泣ける場面だった。
このカンカン踊りでは橋鶴の長門裕之が立たされて、皆が服を脱ぐために手を離したので一人で立っているように見え志津子が驚き気絶してしまう愉快なシーンがある。
そして生き返ったかのような立ち姿の橋鶴が踊らされると、やがて一瞬目が開きステップを踏んで皆と踊る。
幻想シーンとしては亡くなった志津子が舞いそれを弟子たちが固まって見る場面や、最後の連なっての大はしゃぎでは同じく亡くなった橋鶴や橋次も一瞬登場する。
映画における演出の妙だ。

元鉄工所の社長(堺正章)が登場してからは、学生時代を思い出す懐かしい艶歌合戦となる。
いわゆる春歌で「チンポ、チンポといばるなチンポ、チンポオメコの爪楊枝」「オメコ、オメコと威張るなオメコ、おめこチンポの植木鉢」などとやり合う。
それに女優陣も加わり大はしゃぎで、昔はこんな宴会をやったもんだと懐かしくなった。
橋次の葬式に弔問客としてセリフなしで桂三枝(現文枝)、笑福亭鶴瓶、浅丘ルリ子、米倉涼子、中村勘三郎が実名で登場するのはお愛嬌。

忍者武芸帳

2021-08-22 07:51:44 | 映画
「忍者武芸帳」 1967年 日本


監督 大島渚
声の出演 山本圭 戸浦六宏 小山明子
     佐藤慶 松本典子 福田善之
     観世栄夫 田中信夫 早野寿郎
     露口茂 渡辺文雄 林光 小松方正

ストーリー
時は室町幕府十三代将軍足利義輝の治世、各地に群雄が割拠し、日本中が戦いに明けくれていた永禄三年、奥州出羽の最上伏影城城主結城光春は家老坂上主膳の謀略のため非業の最期をとげ、結城光春の一子重太郎は辛うじて逃げのびた。
数年後、父の恨みを晴らそうとして坂上主膳をねらう重太郎の姿が城下にみられた。
しかし主膳の妹の忍者、螢火によって重太郎は重傷を負わせられたが、伏影城に恨みを抱く影丸と名のる黒装束の忍者に救われた。
折りから大飢饉が各地を襲い、その上重税にあえぐ百姓たちの怒りは頂点に達していた。
謎の人物影丸はこの状況を利用して、重太郎を擁し不満を持つ野武士と百姓たちを巧みに操り、伏影城陥落に成功した。
だが主膳を追いつめた重太郎の前に螢火が再び現われ、彼は父の仇をうちそこねた。
そして影丸の姿はもうそこにはなかった。
一方重太郎は逃げた主膳を求めながら剣修業の旅に出、大和の柳生宗厳の道場に身を寄せた。
偶然道場を訪ねてきた者から、重太郎は坂上主膳が尾張清洲城にいることをきき直ちに尾張に向った。
時あたかも信長が突如、美濃の稲葉城攻略を開始した。
そしてこの信長の天下統一の大事業の前に各地で百姓一揆が勃発した。
そして信長の軍勢と衝突する一揆軍のいる所、必ず影丸の暗躍があった。
かくして忍者、剣客、武将、美少女入り乱れるなかで、戦国を生きるすべての人々が歴史を担いつつ、日本の中世は近世へと胎動を続けていったのであった。


寸評
あれは僕が高校生だったころだろうか白戸三平を読み漁っていた時期があった。
「サスケ」、「カムイ伝」、「カムイ外伝」などだったが、中でも「忍者武芸帳 影丸伝」はお気に入りで単行本が本棚に並んでいたのだが、どうなったのか今は消え失せている。
白戸の作品は僕がそれまで接してきた漫画とは一線を画しており、忍者漫画では登場する忍術に科学的な説明と図解が付くという独特のスタイルを保っており、描かれている内容は社会性を持っていた。
白戸の作品では登場人物はたくましく生きているが、はかなく命を落としていく。
主人公はいるが真の主役は百姓に代表される名もなき大衆である。
白戸の描く漫画は、ある意味でプロレタリア文学だったし、それに当時の大島渚も共感したのかもしれない。

作品は劇画だが、絵はアニメ映画の様に動くことのない静止画である。
カメラは原画をなめるように動くだけで、それに音声が入るという実験的な作品となっている。
再見時には影丸、重太郎、蛍火、明美や影一族の面々などが登場すると、その顔立ちを思い出して懐かしい人に出会ったような気になった。
登場人物は劇画だけに多彩である。
主人公の影丸は影一族を使い農民による一揆を指導して支配者打倒のために戦い続けていて、湖に沈められたり首を斬られたりしても甦る不死身の男である。
重太郎は家老・坂上主膳の謀反により城主だった父を殺されたため主膳を仇と狙っているが、主膳の妹である蛍火によって片腕を切り落とされている。
やがて重太郎は影丸の妹の明美と恋に落ちる。
蛍火は主膳の妹で伊賀出身の忍者だが、影丸によって彼女も片腕を切り落とされている。
重太郎とは宿敵の間柄だが、やがて重太郎に思慕の念を抱くようになるという存在である。
影一族はユニークな者たちの集団である。
蔵六は頭がカメのように胴体に引っ込む特異な身体を持っており、その為首を切り落とされても「首はどこへ行った?」と言って首を探し回るというような面白い忍者である。
その他、穴熊の様に地中に潜る「くされ」、半人魚のようになって水中で生き続けることができる「岩魚」、電気ナマズや電気ウナギのように電流を発することができる「しびれ」、分身の術を使う三つ子の「みつ」などである。
そして原作がそうであるように、本筋とは関係がない説明が「忍者武芸帳 番外編」として影一族の紹介がそれぞれの得意技と共に紹介されたりもする。

史実に忠実なわけではないが、長島の一向一揆、加賀の一向一揆、雑賀孫一との抗争、そして石山本願寺との争いなどが描かれ、織田信長、明智光秀、森蘭丸、羽柴秀吉、顕如などおなじみの人物が登場するので歴史物語としても面白い側面を持っている。
そして影一族も明智十人衆も命を落としていくのは白戸らしい。
大島は最後に「皆が平等な世の中になればよい」との影丸の言葉で締めくくっているが、それが大島の主張だったのだろうか。
それはそうとして、特異な映画的表現を持った作品であることは間違いない。

人間蒸発

2021-08-21 07:46:24 | 映画
「人間蒸発」 1967年 日本


監督 今村昌平
出演 露口茂 早川佳江

ストーリー
早川佳江さんは、幼いころに両親を亡くし、早くから自立した生活を送っていた。
彼女が病院勤めをやめてある会社の事務員になった時、すでに婚期は過ぎていたが、その彼女に社長夫婦が縁談を持ち込んできた。
相手は大島裁氏といい、プラスチック問屋のセールスマンで実直な好青年ということだった。
二人の仲はそれから急速に進み、婚約を交したあと、昭和40年10月に結婚式を挙げるまでになっていた。
その年の4月15日、大島氏が突然失踪し、それから一年半を経ても行方はわからなかった。
映画監督今村昌平氏が早川さんのことを知ったのはこの頃のことである。
早川さんの身辺の事情をくまなく調査した今村監督は、大島氏の失踪以来自分の殻に閉じこもってしまった早川さんを説き、大島氏の消息を彼女と一緒に尋ねるとともにその過程を映画にすることになった。
明らかになっていった事実は、彼女が聞かされていた大島氏の人柄とは異るものであった。
大島氏の14年間の会社での生活は、使いこみ、秘かに妊娠させていた女の出現と、早川さんを驚かすことが多く、彼の周囲に渦巻く人間社会の網の目は、想像以上に複雑なものだったのだ。
こうして半年あまり、早川さんは大島氏を取り巻くいろいろな人たちに会い、その話を聞いて歩くうちに、戸惑い、衝撃を受け、大島氏との溝を感じざるを得なくなっていた。
彼女はいま何も分らなくなっていた。
真実を知ろうとすればするほど、複雑に入りくんだ関係の中に、正体を見失っていく人間の社会……。
早川さんは、心身ともに疲れはて、すでに大島氏のことは、どうでもいい事柄のひとつになっていった。


寸評
大島裁(ただし)という男がある日、突然姿を消した。
婚約者である早川佳江という女性が今村昌平監督の要請を受け、俳優の露口茂と共に大島を捜すドキュメンタリー風の映画なのだが、今村監督が言うようにこれはフィクションで、あくまでもドキュメンタリー風の作品なのだ。
そう思って見ないと頭がこんがらがってくる。
ある時期、蒸発という行為が社会現象化したことがあった。
それを映画化した、いかにもATGらしい作品である。

当初はいろんな人の証言があって大島という男の実像が明らかになっていくのだが、人間関係もテロップされてドキュメンタリーらしい演出が続く。
大島は大人しい男であったとか、気が弱い男であったとかの証言があり、またある者からは仕事の出来ない男であったとの証言もでてくる。
大島が会社の金を使い込んでいたとか、女絡みの問題が明らかになりはじめるに従って、話はどんどん面白くなっていくが、最後まで大島という男の蒸発の動機は解らない。
蒸発した男を捜すドキュメンタリーの旅は、作品半ばで完全にどこかに追いやられてしまう。
大島の婚約相手である早川佳江が次第に婚約相手の大島よりも露口茂を好きになっている事が描かれる。
それを察知した今村は、そのことを作品に取り入れたいと熱望し、露口はその片棒を担ぐ。
この頃になると素人でドキュメンタリーの主人公であった早川佳江がどんどん女優化していく。
そしていつのまにやら大島を探すことから、早川姉妹のバトルになっていってしまう。
妹の佳江は姉を嫌う神経質で怒りっぽいヒステリー女で、姉が嘘をついていると責めまくる。
姉の方の話しっぷりは自然で嘘をついているように見えないのだが、彼女の証言が虚偽であることを匂わせる証言者が複数出てきて、姉は嘘をついているのかもしれないと思えてくる。
2年も前の記憶をそんなに鮮明に覚えているのかと思うと、もしかすると男の証言は思い込みかもしれない。
しかし、思い込みであったとしても、内容を否定されれば主張がますます強くなっていくのは分かる。
もちろん男の記憶は確かなものかもしれない、
最後にはこの証言者と姉が事実の言い争いを始めてしまう。
路地裏での言い争いの場面では、頭上からマイクが垂らされ、助監督がカチンコを持って走り回っている。
ドラマの撮影現場そのもので、子供は「もう終わったの?」と聞く。
姉妹のバトルはどこかの料亭の部屋のようなところで繰り広げられる。
大島と会っていたのではないかと問い詰める妹に、姉は知らないを繰り返す。
今村も同席する言い争いは不毛の争いに思えてくる。
そして「セットをはずせ!」の掛け声とともに襖が取り払われると、そこはスタジオでセット撮影だったのだとわかるところはスゴイ演出で、映画はフィクションの要素も含んでいるのだと知らされる。
そして今村監督自身が「結局、何が真実かなんて誰にもわかりゃしない」と言うのだから、一体、今迄は何だったんだと言いたくなる。
高尚な感じで始まった映画は、まるでテレビのワイドショーで取り上げるネタのような感じになっている。
セットを壊し、ストップモーションで終わるしか仕方のない、終わりのない話だったように思う。

ニンゲン合格

2021-08-20 06:49:42 | 映画
「ニンゲン合格」 1999年 日本


監督 黒沢清
出演 西島秀俊 役所広司 菅田俊 りりィ
   麻生久美子 哀川翔 大杉漣
   洞口依子 鈴木ヒロミツ 豊原功補

ストーリー
14歳の時に交通事故に遭い、昏睡状態が続いていた豊が10年の眠りから突然覚めた。
しかし、彼を出迎えたのは懐かしい家族ではなく、藤森という風変わりな中年男だった。
産廃処理業を営む藤森は豊の父・真一郎の友人で、離散した豊の家族に代わって数年前から東京郊外にある豊の家の一部を釣り堀に改造して暮らしているらしい。
藤森に連れられて、すっかり変わり果てた家に帰る豊。
彼は心のリハビリを兼ねて、かつての友人たちに会って失われた時間を取り戻そうとするが、既に成人している友人たちとの溝は埋められる筈もなく、ひとりやりきれなさに苛まれるばかりであった。
そんなある日、一頭の馬が豊の家に迷い込んできたので、豊は藤森に頼んでその馬を買い取り、かつて豊の家が経営していたポニー牧場を作り始める。
暫くすると、今は宗教活動をしている父やアメリカへ留学している筈の妹・千鶴が恋人の加崎と共に帰ってきた。
しかし、10年ぶりの家族の再会はどこかぎこちなく、数日後、彼らは再び家を出ていってしまう。
また、千鶴から母・幸子の住所を聞いた豊は、父と離婚し自立している母に会いに行くも、どうやら彼女には一緒に生活している誰かがいるようだった。
豊の努力が実りポニー牧場が完成し、それに合わせるかのように千鶴や幸子が戻ってきた。
父はアフリカに行ってしまったが、再び家族がひとつ屋根の下で生活を始められたことに豊は満足であった。
ある晩、家族でテレビを囲んでいると、アフリカへ向かう船の沈没を伝えるニュースの中に父親の名前が流れ、
心配する豊たちだったが、暫くして父の無事が確認されホッと胸を撫で下ろす豊たち。
しかし翌日、千鶴も幸子も再び家を出ていってしまう。
その上、豊を事故に遭わせた室田という男が、豊の幸せをやっかみ牧場を滅茶苦茶にしてしまった。
全てを破壊された豊は、10年間のブランクを埋めることばかりを考えて現実を見なかったと気付く。


寸評
14年間のj空白から帰ってきた豊は家族がバラバラになっていたことを知るのだが、彼が登場したことで再び家族が平和を取り戻すというような構成の作品は容易に想像できる。
それなら彼を行方不明にしておいて、何かの原因で帰宅させれば事済むわけだが、ここではあえて14年の昏睡状態から目覚めるという突飛な設定を講じている。
この設定の特異なことは彼の中で時間が欠落していることで、その事による世の中の変化を知らないでいること以上に彼の精神的成長を止めてしまっていたことだ。
豊は24歳という立派な青年のはずだが、留まっていた彼の幼児性は時に訳のない喧嘩を仕掛けたと思えば、道端に置かれた段ボールの山を踏みつぶす行為をしたり、衝動的に万引きを引き起こす。
生きる目的や希望は漠然としたもので、どこか無気力に見える時間を過ごさせているのも幼児性だ。
およそお目にかかれないような状況で登場した主人公を描いていく話はえてして重くなりがちだが、時にシュールなギャグを交えながら紡いでいく黒沢清の演出によって作品は肩の凝らないエンタメ性を生み出している。

豊の家族は消滅していたが、彼に深くかかわる他人が存在している。
一人は交通事故によって豊を昏睡状態にさせた加害者の室田で、彼は昏睡から覚めた豊に対して加害者と言う関係を断ち切ろうとするのだが、豊は14年の空白のせいか室田ほど事件に執着していない。
もう一人は父親の大学時代の友人という藤森という男で、父が所有する土地を借りていて釣り堀を経営している。
不法投棄という違法行為を行っているのだが、厳しいことを言いながらも豊の面倒を見る不思議な人物である。
この男は何者なのかという疑問を抱かせる登場の仕方だが、やがて父の友人だと判明するから父親とは相当親しい関係だったのだろうし、実際それを物語るような大喧嘩を釣り堀で展開している。
昏睡中に病院で家族がかりそめのパーティを開きながらも、やがて距離を置いていった中にあって、彼は他人とは関係を維持していたことになる。
父親の無事にホッとする家族の姿を見て、妹の彼氏は疎外感を感じるのだが、豊は今一度皆が一堂に会する機会を持ちたいとの願を抱くようになる。
ところが、妹はテレビに映る無事だった父親の音声を消してしまうという父の除外行動を起こし、もう一度集まりそうだった家族は再びバラバラとなって去って行ってしまう。
この家族の不安定さは一体どこからきているのか、家族の幸せとは何なのか。
家庭に存在している平穏は家族が自分勝手に描いている幻想に過ぎないのか。
豊の描く幸せという幻を壊し、現実社会を示すのが交通事故によって豊を昏睡状態にした加害者だ。
「お前も不幸になったが、俺も不幸になった。お互い様なのだ」と加害者の室田は叫ぶ。
確かにその言葉は交通事故を起こせば起きる現実を述べているものだ。
もう一度皆が集まることを夢見ていた豊はあっけなく死んでしまう。
皮肉なことに彼の葬式において家族は揃うことになるが、それでも葬儀が終わればそれぞれが思い思いの方向に帰っていってしまうのだから、家族とは何とも危うい存在なのかもしれない。
そして凡人の僕と同じような者が、この世の中での自分の存在を自ら証明するのは難しい。
普通の家庭なら、存在を証明してくれるのは家族なのだが・・・。
それを証明した藤森は豊にとって家族以上の存在だったのかもしれない。

日本の夜と霧

2021-08-19 06:55:55 | 映画
「日本の夜と霧」 1960年 日本


監督 大島渚
出演 桑野みゆき 津川雅彦 小山明子
   渡辺文雄 芥川比呂志

ストーリー
霧の深い夜、新安保闘争で結ばれた野沢晴明(渡辺文雄)と原田玲子(桑野みゆき)の結婚式が行われた。
野沢はかつて破防法時代には学生運動の指導をし、今は新聞記者をしている。
式場には仲人の宇田川夫妻(芥川比呂志、氏家慎子)、破防法では共に火焔ビン闘争に参加した友人の中山・美佐子夫妻(吉沢京夫、小山明子)らが出席したが、突然現れた太田(津川雅彦)が同志である北見(味岡亨)の失踪をよそに、幸せな生活に入ろうとする玲子をなじった。
ハンガリー民謡を歌う色眼鏡の青年が入って来た時、式場からは結婚の幸せな空気は消えた。
かつてハンガリー民謡を口ずさんでいた高尾(左近允宏)がスパイとして党の査問委員会にかけられ、中山と美佐子の結婚式の夜、自殺していたのだ。
これらをきっかけにして、約10年前の破防法反対闘争前後の学生運動のあり様を語り始め、玲子の友人らも同様に安保闘争を語り始める。
野沢と中山は暴力革命に疑問を持つ東浦(戸浦六宏)と坂巻(佐藤慶)を「日和見」と決めつけていたが、二人は武装闘争を全面的に見直した日本共産党との関係や「歌と踊り」による運動を展開した中山に「これが革命か」と批判し、会場は世代や政治的立場を超えた討論の場となる。
式場では運動の犠牲者高尾の死の真相が明るみに出るにつれ、野沢と美佐子の過去の関係まで暴露された。
破防法阻止運動の失敗、今度の新安保闘争では北見が行先不明となって戦列を離れてしまった。
何の進歩もなかった、このことは玲子を責めることでもあった。
北見を求めて外に出た玲子を追った太田は刑事に取り囲まれ、玲子は再び花嫁になった。


寸評
製作された1960年、公開四日目で上映中止になった問題作であり、公開後すぐに社会党委員長の浅沼稲次郎が3党首立会演説会の演説中に刺殺された。
撮影に際し大島は松竹からいつ打ち切りを言われるかもしれないとの気持ちを持っていて、短期間での完成を目指していたようである。
その為に長回しが多用され、出演者が少々口ごもっても撮り直しを行わずに流しているとのことである。
しかし、そのことで演説にリアリティを生み出し緊迫感も生み出しているから、何が幸いするかわからない。
メッセージ性が強い作品だが、映像作品としても見応えがある処理がなされている。
逮捕状がでている太田が結婚式会場に登場して、かつての安保闘争時代に起こった同士たちの出来事を糾弾し始め、出席者を取り巻いた当時の様々な出来事をサスペンスフルに時間を交錯しながら描いていく描き方が、時に演劇的で目を離させない。
時折、舞台演出のようにスポットライトで人物をとらえたかと思うと、舞台が暗転するように画面が真っ暗になる。
彼らが激論を交わす外は霧深い闇が広がっており、物事の本質がかすんでいることを示している。
この演出効果はバツグンだと思う。

大島さんたちは60年安保闘争世代なのだろうが、僕は70年安保闘争世代である。
デモにも参加したことはあるが、僕はノンポリで日和っていたような気もする。
それから何十年も経っているが、この映画を見ると何年たっても何も変わっていないのだなと思う。
僕の学生時代には安保闘争、佐世保闘争、成田闘争、学園紛争と学生運動の嵐が吹き荒れていたのだが、卒業すると火が消えたように学生運動が下火になっていき、あの学生運動は何だったのかの疑問がわく。
大学の自治を守り、なんとか世の中を少しでも良くしようと思っていたことだけは確かなのだが、結局は安定的な生活を目指し家庭の平穏が一番の自分がいる。
但し、僕はその事を恥じているわけではない。

この映画の最後で当時委員長だった中山が延々とスピーチを行うが、内容は学生時代とは全く違うものだ。
中山は、武力闘争から話し合いによる解決に闘争の形が変わったとはいえ、闘争は本来労働者が臨むべき運動であり、学生たちは世の中の流れに盛り上がっていただけで、彼らは親の庇護を受けているプチブル的存在でしかなかったのだと述べる。
そして、本当に目指す信念もなく、社会の盛り上がりに乗じただけだったのだと続けるのである。
これは大島の学生運動に対する批判でもあるのだろう。

ドラマの面から見ると、彼らの運動の背後に起こるほんの些細な矛盾が生み出す悲劇の構成がいい。
中山たちの闘争当時のスパイ事件を時間を前後に組み合わせて真相らしきものを語り、中山の妻となった美佐子と野沢の関係を描きつつ、真実と思われていたことの裏に存在する本当の真実とはこういうものだと暗に語る組み立てもいい。
組織が出来ると主流派と反主流派が生じるのは宿命のようなものだし、思想を横に置いた勢力拡大のための離合集散も見飽きたもので、そのことも何年たっても変わらないのだなあと思ってしまう。

日本の黒い夏 冤罪

2021-08-18 05:59:22 | 映画
「日本の黒い夏 冤罪」 2000年 日本


監督 熊井啓
出演 中井貴一 細川直美 遠野凪子
   北村有起哉 加藤隆之 藤村俊二
   梅野泰靖 平田満 岩崎加根子
   二木てるみ 根岸季衣 石橋蓮司
   北村和夫 寺尾聰

ストーリー
1995年初夏、松本市。
高校の放送部に所属するエミとヒロは、一年前に起きた“松本サリン事件”での一連の冤罪報道を検証するドキュメンタリー・ビデオを制作していた。
ふたりが訪れたのは地元のローカル・テレビ局。
この放送局以外、どこも協力的ではなかったのだ。
さて、局では報道部長の笹野と彼の部下で記者の花沢、浅川、野田がふたりのインタビューに答えてくれた。
彼らは、事件当時の取材の様子を回想する。
それは、閑静な住宅街で突然起こった死傷者を多数出した有毒ガス事件だった。
翌日、警察は事件の被害者であり、第一通報者でもある神戸俊夫の自宅を容疑者不詳のまま殺人容疑で家宅捜査して数種類の薬品を押収し、その中から青酸カリが見つかったことから、神戸が薬品の調合ミスを犯して有毒ガスを発生させたとのではないか、という見解を示した。
一方、スクープが欲しいマスコミ各社は、裏が取れていないにもかかわらず、警察情報として神戸が犯人であるかのように受け取れる報道を開始し、更に、それを鵜呑みにした視聴者は神戸一家を迫害し始めた。
事件で意識不明となった妻を抱え、自らも幻覚幻聴に悩む神戸は戸惑いを隠せない。
ただ、笹野だけはあくまで裏が取れていないという理由から、神戸容疑者報道を控えていたが、彼にも視聴率を取りたい上司から圧力がかかり、視聴者や番組のスポンサーからもクレームが寄せられていた。
やがて、有毒ガスはサリンであることが判明し、サラリーマンの家庭で作れるようなものではないことも分かる。
そんな中、あるカルト集団の影が捜査線上に浮上してくる。
しかし、警察上層部は捜査結果を無視して、見込み捜査と情報操作を押し進めようとするばかり。
そして3月、東京で地下鉄サリン事件が発生してしまうのである。


寸評
オウム真理教による松本サリン事件によって、あたかも犯人であるがごとく扱われた河野義行氏に対する冤罪報道を通じたマスコミのあり方を描いている。
これが万人承知の事件でありながら実名が全く登場しないもどかしさを覚えてしまう。
アメリカ映画なら間違いなく実名で描いただろう。
高校生のドキュメンタリー作成を通じて、報道のあり方とは、あるいは冤罪はどのようにして生じてしまうのかを描いていくが、これだけのテーマを描くのならもう少し切り込んで欲しかった。
取り調べに当たった吉田警部は神部が限りなく白に近い印象を持ち、新たな事実が判明しても県警の上層部がそれを秘匿して神部逮捕で凝り固まっていることを報道部長の笹野に打ち明けるが、その上層部は捜査方法の手法の一つだと、2時間の参考人取り調べを7時間に延長させるぐらいにしか登場しない。
捜査当局の非道性が全く見えないし、前線の吉田警部も下っ端の悲哀を味わっていて実はいい人だったんだよになってしまって、権力側の腐敗は全く描かれていない。
地方テレビ局の報道に対する悶着を通じて、マスコミの警察発表を鵜呑みにしてしまって裏付け取材を怠ってしまったいきさつも描いているが、どうも追求不足だなあ。
これだと、なぜ冤罪事件は起きてしまうのか、誤った報道はなぜなされてしまったのかという検証としては不十分に感じた。
神部が黒という報道を続けることで視聴率が取れるという部下に対し、報道部長は特番での神部白説で視聴率が取れると考え、他社とは違う方向の特番制作に走った経緯を語るが、これとて視聴率、スポンサーに影響を受けるテレビ局の問題を提起しているとは言い難い。
それを告白している報道部長がまるで正義の代弁者のように描かれているからだ。

しかし、それでもこの作品を作った意義は大きい。
1994年6月27日、死者8人、重軽傷者660人に及ぶ事件が発生した。
発生直後は死因となった物質が判明せず、また発生原因が事故か犯罪か自然災害なのかも判別できず、新聞紙上には「松本でナゾの毒ガス7人死亡」という見出しが躍った。
翌日、警察は第一通報者であった河野義行宅を家宅捜索し薬品類など数点を押収した。
さらに河野氏には重要参考人としてその後連日にわたる取り調べが行われた為に、河野氏を容疑者扱いするマスコミによる報道が過熱の一途をたどった。
マスコミを通じて我々は河野氏を犯人と信じてしまい、続いて起こる地下鉄サリン事件を防ぐことができなかった。
この教訓が残したものは大きいし、我々は忘れてはならない。
その意味でこの事件の経緯を描いた作品を後世に残しておく必要性は多いにある。
冒頭とラストで移される美しい松本でこの凄惨な事件が繰り広げられたのだ。
人間長い一生の間には思いもよらぬことに出会うものだが、冤罪はその中でも当事者にとっては一番思いもよらぬことであろう。
僕のこれから先にどのような思いもよらぬことが待ち受けているのかは不明なのだが、この映画の中で純真無垢な女子高生を演じた東野なぎこさんも、この後結婚を通じた波乱万丈を繰り広げることになるとは、この時はよもや思ってもいなかっただろうに…。

日本のいちばん長い日

2021-08-17 07:00:50 | 映画
「日本のいちばん長い日」 2015年 日本


監督 原田眞人      
出演 役所広司 本木雅弘 松坂桃李 堤真一
   山崎努 キムラ緑子 神野三鈴 渡辺大
   蓮佛美沙子 戸田恵梨香 松山ケンイチ
       
ストーリー    
1945年4月。戦況が悪化の一途を辿る中、次期首相に任命された77歳の鈴木貫太郎は、組閣の肝となる陸軍大臣に阿南惟幾を指名する。
2人はかつて、侍従長、侍従武官として共に昭和天皇に仕えた関係でもあった。
1945年7月、戦局が厳しさを増す中、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表された。
連日閣議が開かれ議論に議論が重ねられるが、降伏かそれとも本土決戦か結論が出ないまま8月に突入。
広島、そして長崎に原爆が投下され『一億玉砕論』の声も上がる。
陸軍の若手将校たちは本土決戦を訴え、阿南に戦争継続を強く迫る。
阿南はそんな将校たちの暴発を押さえようと対応に苦慮する。
一方、戦争の終結か継続か、議論がまとまらない御前会議では、鈴木首相が天皇に聖断を仰ぐのだった。
降伏に反対する若手将校らは玉音放送を流させまいとクーデターを企て皇居やラジオ局占拠に向け動きはじめる…。


寸評
「日本のいちばん長い日」と聞くと、僕たちの世代はどうしても1967年に岡本喜八監督によって映画化された作品を思い浮かべてしまい、見ていると知らず知らずそちらと比較してしまっていた。
今回の作品では、前作で全くと言っていいほど描かれなかった昭和天皇が正面から描かれている。
昭和天皇を演じた本木雅弘が昭和天皇に風貌も含めて似せようとする演技でなく、静かに昭和天皇を演じていて好感が持てた。
ここまで昭和天皇を描くことができたのは、前作時にはご健在であった昭和天皇が、今は身罷っておられることが一因であるような気がする。
阿南陸相の娘さんの結婚式を気づかわれるシーンなど、人間天皇の一面を表していて本木雅弘は好演であった。
天皇は憲法をわきまえておられて、政治に直接関与されたことはない。
例外的に2.26事件の時と、この終戦の時にだけ意思を表明されたと聞く。
日本は天皇を中心とした国体であったが、君臨すれども統治せずを貫いたなればこそ永続したわけで、当時中枢の人々もその国体だけは維持しようとした気持ちを持っていたことが分かる。
そして、その時の日本はナチスドイツと違って、曲りなりにも立憲主義の議会制民主主義が存在していたのだ。
鈴木貫太郎は軍部に支配されたか弱い総理のイメージがあったが、この映画を見るとなかなかどうしてタヌキおやじ的な側面を見せた気骨のある人だったことがうかがえる。

一方、前作では暴走する若手将校たちの狂気が前面に出ていて、特に畑中少佐を演じた黒沢年男の狂人ぶりが強調されていたが、本作での松坂桃李・畑中に対しては案外と抑えた演出になっている。
青年将校たちの血気にはやる様子は両作とも描かれているが、はたして彼らは本当に本土決戦が可能だと信じていたのだろうか。
国民の犠牲などおかまいなしの参謀本部の意地だけの思考が必要以上の犠牲を生み出したような気がしてならない。
2000の特攻があれば勝てるなどという意見が、本当にあったのだろうかと思うと不思議でならない。
そんな飛行機がどこにあったというのだろう。
海軍、陸軍がこの期に及んで主従の争いをしていたことが信じられない。
建前とメンツばかりの堂々巡りの議論を繰り返す面々の姿を見れば、死んでいった英霊は何と思うのかと悲しくなってしまう。
比べて、天皇の立派さは少し綺麗に描きすぎているような気もするが、戦争遂行者を狂人にしてしまう戦争の愚かさは伝わってくる。
責任を取って割腹自殺を遂げる阿南陸軍大臣は立派だが、当時の軍人の奥さんも立派だったんだなあと思わされた。

いきなり8月15日を描いたのでは経緯が分からないということで数カ月前の鈴木貫太郎首相の就任から話を始めているのだが、その分、日本の一番長い日となった8月14日から8月15日にかけての混乱ぶりの演出が少し弱かったような気がする。
阿南惟幾は三船敏郎の方が貫録があったが、僕は実際の阿南がどのような人であったのかは知らない。
余談ではあるが、前作では大宅壮一が原作者となっていたが、本作では実際の執筆者である半藤一利が原作者となっていた。