おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

刑事

2021-01-31 11:28:35 | 映画
「刑事」 1959年 イタリア


監督 ピエトロ・ジェルミ
出演 ピエトロ・ジェルミ
   クラウディア・カルディナーレ
   ニーノ・カステルヌオーヴォ
   エレオノラ・ロッシ=ドラゴ
   フランコ・ファブリッツィ

ストーリー
ローマの古いアパートに雨の午後、強盗が入った。
機動隊警部イングラバロは部長刑事サーロやオレステ刑事とともに乗りこんだ。
被害者は一人で住むアンザローニだったが、新聞に出さないでくれと非協力的だ。
女中のアッスンタは隣室のバンドゥッチ家の女中で、事件の時、バンドゥッチ家にいたという。
警部は女中の許婚者の電気屋・ディオメデを捕えて取調べた。
アリバイはなかったが、追いつめられてアリバイを出した。
その時間にアメリカ女のガイドとして遊びたわむれていたのだが、アッスンタに聞かれたくなかったのだ。
一週間たった時、バンドゥッチ夫人のリリアーナが惨殺され、遠縁の医者バルダレーナが発見者だった。
リリアーナには子供がなく、、二度流産してバルダレーナに世話になっていた。
毎月彼に金を援助していたのだが、その金をとりにきて発見したのだ。
リリアーナの夫は旅行中だった。
誰かに殺させたのか・・・警部は医者と夫の二人に目をつけたが、何もきめ手はなかった。
リリアーナの遺言状が開かれ、前の女中二人と、アッスンタ、バルダレーナの四人と孤児院に巨額の遺産が贈られ、夫には一銭も残されなかった。
夫のろうばいぶりが警部らの尾行・張込みを強めさせた。
一方、前の強盗事件は聞き込みで解決した。
レッタリという前科者を捕え、主犯がパタータだと白状させた。
テヴェーレ河畔の小屋から、真珠やダイヤの盗品が出てきたのだ。


寸評
僕はこの映画をリアルタイムで見たわけではない。
しかし冒頭で流れる”アモーレ・アモーレ・アモーレ・アモーレ・ミオ”の印象的なフレーズは忘れることができない。
たぶんラジオから随分と流れていたのだと思う。
和訳すれば、”愛しい人、愛しい人、愛しい人、私の愛しい人”となる情熱的な歌詞だが、切なくなるメロディーだ。

刑事ドラマとしても、ピエトロ・ジェルミが自ら渋い刑事を好演しており、推理劇としてもなかなかよくできた脚本だ。
いきなり強盗事件が発生する。
強盗犯を追っているうちに、同じアパートで殺人事件が起きる。
イングラバロ警部は「爆弾は同じところに落ちないが、今回は落ちた」と発言し、観客である僕たちも当然二つの事件に関連性を疑う。
強盗犯の容疑者としてディオメデが取り調べを受けていたが、強盗犯が捕まったことで彼は関係なかったことが判明し解放される。
関係あると思わせておいて、実は二つの事件に関係はなく、強盗犯も彼ではなかったという結末に、観客は自分たちは騙されていてとんでもない想像をさせられていたのだと悟る。

強盗事件が解決したので、次は殺人事件のほうに移っていくのだが、ここから怪しい人物が登場してくる。
先ずは発見者の医者バルダレーナで、彼は通報する前に、暖炉に置かれた封筒をポケットに入れている。
この時点で何かある人物だと分かる。
そして旅行先から殺された夫人の夫であるバンドゥッチが帰ってくるが、どうも挙動が怪しい。
警察も彼を尾行しだす。
そして夫人の遺言書が出てくるが、夫には遺産として一銭も残されなかった。
バンドゥッチ夫婦は上手くいっていなかったのだと、警察も僕たちも知ることになる。
そして前の女中ビルジニアが登場し、滅茶苦茶な夫婦生活が明らかになる。
劇的な展開に思えるが、その間の描き方は強引なものではない。
尾行、張り込み、聞き込みという捜査の基本を忠実に描いていることで、ドラマはリアリティを持ってくる。
イングラバロ警部の渋さがモノトーンの画面に見事なまでにハマッていることもリアリティを生み出している。
そして鍵の新しさに気が付く描き方もドンピシャの上手い脚本だ。

二人はささやかな幸せを願っていたはずだが、しかし貧困ゆえに二人は罪を犯す。
二人の愛は深かったが、犯した罪は哀れだ。
この映画が製作されたのは1959年で、和暦でいえば昭和34年、僕はまだ10歳だ。
日本もまだ戦後復興の途上だったのだから、同じく敗戦国のイタリアも同じような社会状況だったと思われる。
男が警察に車で連行されて行き、女はその車を追いかけるというドラマチックなシーンに再び冒頭のメロディがかぶさってくる。
歴代の映画作品の中でもテーマ曲として「死ぬほど愛して」は十指に入る名曲だと思う。

警察日記

2021-01-30 11:58:51 | 映画
「警察日記」 1955年 日本


監督 久松静児
出演 森繁久弥 三島雅夫 三國連太郎
   十朱久雄 小田切みき 伊藤雄之助
   宍戸錠 二木てるみ 杉村春子
   東野英治郎 飯田蝶子

ストーリー
東北地方の田舎町の警察署には頑固な石割署長(三島雅夫)、金子主任(織田政雄)、赤沼主任(十朱久雄)、人情家の吉井巡査(森繁久彌)、純情な花川巡査(三國連太郎)、剣道自慢の署長の相手役藪田巡査(宍戸錠)、倉持巡査(殿山泰司)等がいる。
刑事部屋は毎日様々の人で大にぎわいで、今も窃盗容疑の桃代(小田切みき)、神社荒しの容疑者としてお人好の岩太(伊藤雄之助)が取調べを受けている。
駅前では戦争で子供達を失くしてから頭が変な元校長の村田老人(東野英治郎)が交通整理中である。
ある日、中年のお人よしの吉井巡査は六つ位のユキコ(二木てるみ)と赤ん坊の姉弟の捨子を発見した。
預ける所もないので、赤ん坊は料亭の内儀ヒデ(沢村貞子)が、ユキコは自分が引きとった。
若い花川巡査がもぐりの周旋屋に引っかけられた娘(岩崎加根子)を出発寸前に押さえ、その娘から家の苦境を聞き同情を寄せる。
またこの周旋屋の女(杉村春子)を巡って所長が職安の紅林(多々良純)とやりあうことに。
万引きを行った女(千石規子)は子供の空腹を満たすために無銭飲食で再び警察の厄介になる。
好いた女に振られた気のいい馬車屋は自衛隊に入隊し、村人に見送られて旅立っていく。
捨て子が料理屋の女将に引き取られた後、実の母(坪内美子)が現れたが、子供を引き取って三人で心中しようと思っていたと語り、吉井巡査は子供に会わさず女を連れて警察署に向かう。
料理屋の女将に可愛がってもらっている我が子のことを知り、母親は自分が育てるより料理屋で育ててもらった方が子供たちの幸せにつながると別れを決意する。
様々な人の思いを乗せ、村田老人の「バンザイ!」の声に送られ汽車は駅を出発していった。


寸評
会津磐梯山を望む福島県下の田舎町の警察署を中心に様々に繰り広げられる人間模様が描かれる。
ある時は滑稽に、ある時は風刺的に、ある時は哀しく描かれるのでエピソードごとに楽しめる。
当時の世情と風景が描かれ、同時に当時は存在したであろう人情も描かれて感動する。
始まるとすぐに岩田が恋していた女性が花嫁姿でバスに乗り嫁いでいく。
父親は車内で乗客に祝いの酒を振る舞い、バスの運転手も一杯飲んでいる。
完全な飲酒運転なのだが、当時はその程度は許されていたのかもしれない。
三國連太郎の若い巡査は借金に苦しむ娘にポケットマネーから3000円を渡してやり、警察署長は無銭飲食の女性一家に出前の丼ぶりを食べさせ、生活の足しにしろと金を渡しているのだが、今のご時世ではそんな警官はいないだろうと思ってしまう。
沢村貞子の女将は捨て子を引き取って育てるのだが、確かに僕の子供の頃には捨て子が少ないとはいえ珍しくはなかったし、女将のような人もいたのだろう。
僕も幼稚園の時は昼食を自分の家でとるよりも、可愛がってもらっていた3歳上の兄貴分の家で頂く方が多かったことを思うと、そんな人間関係、人情が普通に存在していたのだと思う。

岩田が愛する女性の嫁入り道具を馬車で運んでいく話は滑稽な場面も用意されているが切ないものがある。
闇で人材派遣をやっている杉村春子をめぐって、警察、監督署、職安が縄張り争いを行うのも滑稽に描かれ、最後は職安の多々良純が自らの不始末からスゴスゴと引き上げていくという顛末で締めくくっている。
大臣のお国帰りでは、お偉いさん方が大層なお出迎えをしているのに対し、村の老人たちが「なんだ、どこそこの三男坊じゃないか」と見下していて権威に媚びていない。
滑稽さを描きながらも人生における悲哀であるとか、官僚組織の縦割り行政に対する皮肉、権力批判などを描き込んでいるのが単純なドタバタ喜劇とはせず、どこか文芸作品のような雰囲気を出している原因のように思う。
三國が援助した娘から3000円の郵便為替が届き、モミジが同封されていたシーンにはホロっとさせられた。

市井の様子や人々を描いているので、この年代の映画になってくると風俗史的な趣もある。
バスには車掌がいるし、村の一番高い建物として火の見櫓があってそこには半鐘が吊り下げられている。
巡査とすべての村人は顔見知りで、村の娘の結婚相手も皆が知っている村の者だ。
凄く狭い社会を形作っているが、それだけに人情も安全も確保されていた。
僕には記憶の片隅にある光景であるのだが、それにしてはこの村には大事件ではないが、警察沙汰となる事件が多すぎると思うのだが、まあそれは映画の世界だからだろう。
森繁久彌や三國連太郎を除いて警官は狂言回し的な存在で、彼らを中心に巻き起こる騒動がメインの作品だが、中でも捨て子の話は涙を誘う。
特に当時6歳だったと言う二木てるみの演技には目を見張るものがある。
幼い姉が赤ん坊の弟を思う気持ちが十分すぎるほど伝わってくる名演技であった。
後年の活躍は約束されていたと言える。
署長から何かにつけて呼びつけられる警官の藪田を演じているのが若き宍戸錠なのだが、まだ整形手術を受ける前で、日活のアクションスターとしての宍戸錠を見てきた者には彼が宍戸錠だとは気が付かないだろう。

敬愛なるベートーヴェン

2021-01-29 08:03:57 | 映画
「け」の第1弾は2019年5月14日から19日までの6作品でした。
追加で拾い上げた第2弾は間口を広げて8作品ぐらいになりそうです。


「敬愛なるベートーヴェン」 2006年 イギリス / ハンガリー


監督 アニエスカ・ホランド
出演 エド・ハリス
   ダイアン・クルーガー
   マシュー・グード
   ジョー・アンダーソン
   ビル・スチュワート
   ニコラス・ジョーンズ

ストーリー
1824年のウィーン、『第九』の初演4日前、ベートーヴェンは、まだ合唱パートを完成させていなかった。
途方に暮れていたベートーヴェンの音楽出版社シュレンマーは、音楽学校にベートーヴェンのコピスト(写譜師:作曲家が書いた楽譜を清書する職業)として一番優秀な生徒を依頼していた。
そこに現れたのは作曲家を志す若き女性アンナだった。
期待に反し、女性のコピストが来たことに激怒するベートーヴェンだが、彼女の才能や自分の音楽への深い理解が分かると、仕事を任せることにする。
ついに迎えた”第九”初演の日、劇場へやって来たアンナはシュレンマーに、指揮棒を振るベートーヴェンにテンポの合図を送る役目を代わってほしいと懇願される。
そのアンナが舞台裏で見たのは、耳の不自由さで満足に指揮棒を触れない不安と恐怖に駆られたベートーヴェンの姿だったが、アンナは、そっと手を取って励ます。
こうして二人三脚の指揮による歴史に残る『第九』の演奏が始まった。
第4楽章『歓喜の歌』の演奏終了と共に大歓声があがる。
翌日、署名入りの『第九』の譜面を贈られ、感激するアンナ。
そこで作曲した曲をベートーヴェンに見せるが、彼の無神経な反応に心を傷めアパートを飛び出してしまう。
自分の過ちに気づいたベートーヴェンは、アンナの下宿先を訪ね、この曲を一緒に完成させようと許しを請うた。
それ以来、アンナはベートーヴェンの指導のもとで曲作りに没頭する。
そんな中完成した”大フーガ”の演奏会は、散々な結果に終わってしまう。
そのショックは思いのほか大きく、ベートーヴェンは無人の客席に倒れる。
アンナは彼を献身的に看病し、二人の間には師弟を超えた危うい感情と、互いへの尊敬の思いがあふれるのだった。


寸評
クラシック音楽に造詣の深くない僕の作曲家入門はベートーヴェンだった。
普通の人にとってはもっともポピュラーな作曲家なので当然の選択である。
レコードプレーヤーを持った時期と、クラシック音楽に目覚めた時期が同時期で、僕は交響曲の1番から9番までのレコード収集を目指していたが、残念ながらすべてを買い求めることは叶わなかった。
指揮者はブルーノ・ワルターやレナード・バーンスタインなどだったと思うが、そのレコードは残っていない。
岩波新書から出ていた長谷川千秋氏が著された「ベートーヴェン」という本を150円で買った。
本作は第九交響曲の初演をまじかに控えた頃の写譜師の女性との交流を描いているが、写譜師のアンナは架空の人物で、ベートーヴェンの人物像を浮かび上がらせるために登場している。
聴覚障害は知られたことだが、音楽家にはありそうな相反する激しい性格は描かれた通りだったのかもしれない。
描かれているベートーヴェンは親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどの気分屋である。
度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せる自分本位な男として描かれている。
実際のベートーヴェンも当たらずとも遠からずだったのではないかと思う。

ベートーヴェンは音楽的才能を評価し、はっきりとものを言ってくれるアンナを気に入る。
作曲者は初演では自分の曲を指揮したい願望を持つようだが、聴覚障害のあるベートーヴェンはオーケーストラの演奏するテンポを上手く聞き取れないので、テンポの合図を送る役目をアンナが行う。
この場面はなかなか感動的で、第九の音楽に乗せて描かれるアンナとベートーヴェンが指揮するシーンはこの映画の見せ場となっている。
アンナは楽団の中に立ち、ベートヴェンが見える位置にいる。
ベートヴェンは彼女の指揮を見ながら指揮棒を振る。
やがて曲のハイライトである合唱の部分になり、聴衆は皆驚きと感動の表情を見せる。

長谷川千秋氏の「ベートーヴェン」によればオーケストラの前には二人の指揮者が立ったと記されている。
一人はもちろんベートーヴェンであるが、もう一人は平時指揮者のウムラウフであったらしい。
楽団員はほとんどウムラウフを当てにしていたが、ベートーヴェンの指揮は猛烈で激しい身振りで行われた。
各楽章ごとに破れるような喝采が起こったが、特に第二楽章と、合唱の最終楽章の終わった時は、聴衆の熱狂と喝采は、劇場も揺らぐばかりに沸き起こったとのことである。
アルトの独唱をした歌手が歩み寄り、手を取り後ろを向けてやると、ベートーヴェンは聴衆の嵐が分かったとのことであるが、この映画ではアンナがその役を買って出ている。
甥のカールという男が登場するが、これは実在の人物である。
ベートヴェンはカスパールとヨハンという二人の弟の面倒を見てきたが、カスパールを愛しヨハンを嫌った。
カールはそのカスパールの子供であり、描かれた通りベートヴェンはカールを溺愛していたらしい。
カールは自殺未遂を起こし、その後作中でも述べられていたように軍隊に入り本領を発揮しりっぱな下士官になったようで、そのあたりを描けば、もっとベートーヴェンの人となりが分かったかもしれない。
大作曲家を描いた作品として、楽聖・ベートヴェンを描いた本作より、神童・モーツァルトを描いた「アマデウス」の方が大分出来がいい。

グロリア

2021-01-28 10:52:06 | 映画
「グロリア」 1980年 アメリカ


監督 ジョン・カサヴェテス
出演 ジーナ・ローランズ
   ジョン・アダムス
   バック・ヘンリー
   ジュリー・カーメン
   トム・ヌーナン
   ゲイリー・ハワード・クラー

ストーリー
サウス・ブロンクスのあるアパートに、数人のライフルを持った男たちが、取り囲んでいた。
彼らが狙うのは、そのアパートに住むジャックを主人とするプエルトリコの一家だった。
実はジャックはある組織の会計係を担当しており、その組織の大金のありかをFBIに洩らしたことから、彼らに命を狙われるはめになったのだった。
6歳のフィルら一家が恐怖に襲われている時、同じフロアに住むグロリアという女性がドアをノックした。
彼女は、コーヒーを借りにジャックの家を訪ねて来たのだが、その異様な空気を敏感に感じ取り、ジャックのフィルを預かってくれという突然の願いを聞き入れた。
そしてさらにジャックは詳細の秘密を記したノートをフィルに託した。
子供嫌いのグロリアが、いやがるフィルをつれて部屋に戻った瞬間、ジャックの部屋では大爆発が起き、グロリアは一家が惨殺されたことを知った。
翌日の新聞では、グロリアが一家を殺し、フィルを誘拐したと報じた。
やがて、アパートを脱出した2人は、組織から追われる身になった。
グロリアと名のるこの女は、実は、例の組織のボス、トニー・タンジーニの情婦だった女なのである。
思わぬことから昔の仲間を敵にまわすはめになった彼女は、しかし、この6歳の少年を守ることに全てを賭ける気持ちになっていた。


寸評
ひょんなことから子供を守って戦うと言う映画は趣を変えて色々撮られているのだが、本作の主人公が女性でしかも若い美人でアクションに優れている女性ではない普通のオバサンぽい女性であるのがいい。
マフィアの一員であり、かなり歳を取っているグロリアと言う女性をジーナ・ローランズがカッコよく演じている。
グロリアとフィルの逃亡劇だが、その様子を写し撮った雑多な街の様子が雰囲気を醸し出し、 ビル・コンティのスコアがかぶさることで哀愁を帯びたものになって画面に飲み込まれていく。
アクション映画の様に派手な立ち回りがあるわけではないが、とっさの判断を見せる動き、タフな姿の裏で見せる表情と少年に対する情愛、どれもリアリティがあってグロリアのジーナ・ローランズが生き生きとした存在として輝きを見せてこの映画を独り占めしている。
一瞬みせる不安とか厄介な少年を背負い込んだ泣きたい気持がちらっと表現される。
しかしそこから何度もくぐってきた修羅場から得たしたたかな強さをみせるギャップに引き付けられる。
単身、ボスの家に乗りこんだ彼女の見せる凄みのある笑顔などはシビレてしまう。
愛人でもあったボスのトニーと差しで話をする時の彼女の表情は見事としか言いようがない。

行く先々に現れる追手たちによってピンチに襲われるグロリアたちだが、単純なストーリーの中に守ってくれる男たちをそれとなく登場させるのが面白い脚本となっている。
拳銃をかざして逃げてくるグロリアを助けるタクシーの運転手などは、そんな運転手などいるのかと思わせるが、タクシーから降りた時の行動がそれを納得させてしまう。
また電車の中でマフィアに取り囲まれるが、乗客たちが追手の男たちを取り押さえて彼女を助ける。
女性を守ると言う意識が強い国ならではのことで、これも違和感なく納得させられるシーンとなっている。
どちらもご都合主義的な場面なのだが、妙なリアリティを感じさせるシーンで面白く処理されている。

一方の軸は逃亡劇なのだが、もう一方の軸はグロリアと少年フィルの交流である。
グロリアがもともと子供は嫌いで、特に友達のジェリにたいして「特にあんたの子供は嫌いだ」と言っているのは考えられる設定で、当然フィルも最初はグロリアになついていない。
フィルが言うのには「ママはもっと美人だった」というもので、実際そうだったのだから笑ってしまう理由である。
この子供がそれだけではなく、グロリアが「あんたの子供は嫌いだ」と言うのもわかる生意気なことを言うのも、この手の物語には付き物だが、それでも上手くハマっている。
グロリアとフィルが言い合いとなって別れ、向かいのバーでビールを飲んでいるグロリアがバーテンにフィルがやって来るかどうかを尋ねるシーンなどは、グロリアの勝気な性格が出ていて面白シーンとなっている。
家族をすべて亡くしたフィルに、家族への思いを断ち切らせるために連れていく墓地のシーンもいい。
他人の墓を家族の墓とみ立てて別れを告げさせるが、その時グロリアは背中を見せながらたたずんでいる。
しんみりとさせるシーンで、このシーンは重要なのだが扱い方は上手いと思う。

トニーとの対決シーンはなかなか迫力のあるものとなっているが、その後の展開も心得たものでグロリアの運命は生死どちらも考えられる描き方をしていて最後まで観客を引き付ける。
中年女性が主人公にもかかわらず、すごくスタイリッシュな作品で間延びするところがない秀作だ。

黒部の太陽

2021-01-27 07:54:56 | 映画
「黒部の太陽」 1968年 日本


監督 熊井啓
出演 石原裕次郎 三船敏郎 滝沢修
   志村喬 佐野周二 辰巳柳太郎
   下川辰平 加藤武 柳永二郎
   宇野重吉 寺尾聡 二谷英明
   樫山文枝 日色ともゑ 川口晶
   高峰三枝子 芦田伸介 岡田英次

ストーリー
関西電力は黒部川上流に第四発電所を建設するため、太田垣社長(滝沢修)総指揮のもとに社運をかけて黒四ダム工事に当たることになった。
間組の国木田(加藤武)と熊谷組の下請会社の岩岡源三(辰巳柳太郎)は、ともに現場責任者の北川(三船敏郎)を訪れ、ダム工事の難しさを知らされた。
源三の息子剛(石原裕次郎)は、トンネル掘りのためにどんな犠牲も省りみない源三に反抗し、家を出て設計技師として図面をひいていた。
国木田はそんな剛と、北川の長女由紀(樫山文枝)と見合いさせようと提案して、源三を驚かした。
昭和三十一年八月、世紀の大工事といわれた黒四工事は、大自然との闘いの火蓋を切った。
こうして工事が始って半年、犠牲者はすでに十六人を数え、難工事であることが現場の人たちに不安を抱かせ始めた。
翌年の四月、北川たちが恐れていた事態が起った。
軟弱な花岡岩帯にぶつかり、五月に入ってすぐ、山崩れと大量の水がトンネルを襲った。
この危機を切り抜けるため、色々な技術プランが検討されたが、工事は一向に進まなかった。
そんな折りも折り、北川は次女の牧子(日色ともゑ)が白血病にかかって入院し、生命はあと一年と知らされたが、大仕事をかかえているので、娘のそばについているわけにはいかなかった。
現場は労務者が一人、二人と去っていく状態で、彼らの士気は上らなかった。
一方、太田垣はあらゆる手を尽して危機を乗り切るため莫大な金を投入、技術陣の科学的な処置と、北川や源三たちの努力が実を結び、その年の十二月、ついに難所を突破する・・・。


寸評
僕は公開時に映画館で鑑賞したが大いに満足した記憶がある。
ドラマとしての必要性からフィクション部分と思わる箇所も存在しているが概ね事実に即しているのだろう。
黒四ダム建設のための資材運搬道路の建設を描いたものだが、三船プロダクションと石原プロモーションの共同制作で関西電力や熊谷組などの関連企業に大量のチケットを買ってもらったタイアップ映画である。
石原プロはこの作品の成功に味を占めて、翌年には日産自動車とタイアップして「栄光への5000キロ」でも成功を収めたが、その後の富士山頂の観測レーダー建設を描いた「富士山頂」、世界最高峰のエベレストの大斜面から直滑降するプロ・スキーヤー、三浦雄一郎の勇気と彼を支えた三十三名のスキー隊員の決死行を記録したドキュメンタリー・ドラマ「エベレスト大滑降」、国境をのりこえた人間愛と戦争の罪悪をみつめた「ある兵士の賭け」とこけ続けついに倒産に追い込まれたのだから映画製作は怖い。
また鹿島建設が制作した、当時日本最高層のビルであった霞が関ビルディングの建設を描いた「超高層のあけぼの」もヒットせず、タイアップ映画は下火となっていった。
しかし、いつの時代においても流行のきっかけとなった作品は面白い。

この映画は、関西電力の黒部第四発電所建設の中で、最大の難工事と言われた大町ルートのトンネル掘削で、漸く突破出来た「破砕帯」との戦いを中心に据えて成功している。
自然は大きく人間はその中に包み込まれる。
映画は破砕帯という厳しい自然の克服を描いていると言っても良い。
三船敏郎が工事責任者を引き受けるまでの描き方、フォッサマグナの的確な説明による破砕帯の脅威なども手際よく描かれて行き、観客にとっては素早く映画の世界に入り込めるのがいい。
さらに当時は映画業界は大手5社が「俳優、監督を貸さない借りない引き抜かない」という5社協定を結んでおり、これに背いた者は、暗黙の了解で干されるというルールが存在していたので、「黒部の太陽」はこの破砕帯も突破したことになり、スタープロ制作の作品が数多く生み出されたことも映画史にとどめ置かれるだろう。

この時代になってはトンネルの掘削競争などと言うことは行われていなかったと思うし、石原裕次郎演じる熊谷組の岩岡と辰巳柳太郎演じる父親源三との確執などは脚色ぽいが、ドラマ的には効果を生み出している。
岩岡は笹島信義氏というトンネルマンがモデルらしいが、裕次郎演じる岩岡はオリジナルのキャラクターだろう。
三船が演じた北川次長は関西電力ダム建設担当の芳賀公介氏がモデルとされている。
映画では北川の長女と岩岡のラブロマンスも織り込まれているが、これは映画上でのフィクションで僕はこのエピソードは余計だと思っている。
作品の性格上、女性があまり登場しないので、このような女性も色付けとして必要だったのかもしれない。
トンネルのセットも本物らしい迫力があるし、見せ場の出水シーンは迫力がある。
意図したものだが想像以上の出水となり、電源も切れたため最後はストップモーションで処理されている。
けが人も続出した撮影現場の緊張感が伝わってくるし、CGなどない時代の本物の迫力を感じる。
掘削技術と機械が進歩した現在のトンネル工事とは手法が違うのだろうが、慰霊碑に見る死者の数が難工事だったことを物語っていると思う。
大工事には死者がつきものだがご冥福を祈るしかない。

グローリー

2021-01-26 08:18:05 | 映画
「グローリー」 1989年 アメリカ


監督 エドワード・ズウィック
出演 マシュー・ブロデリック
   デンゼル・ワシントン
   モーガン・フリーマン
   ケイリー・エルウィズ
   ジミー・ケネディ
   アンドレ・ブラウアー

ストーリー
1860年代初頭、ボストンの実家に戻ってきた北軍指揮官ロバート・グールド・ショーは、パーティの席上で知事から、黒人だけで組織される第54連隊の指揮官を勧められ、それを引き受ける。
ショーの友人で白人士官のキャボット・フォーブスと幼なじみの黒人シアーレスも、それに志願した。
やがて多くの黒人たちが入隊を志願するが、その大半は南部から逃れてきた奴隷で、食事と軍服目当ての者も少なくなかった。
訓練は苛酷を極め、兵士は白人部隊をしのぐ成長ぶりをみせた。
ところが、北軍内部でさえ人種差別は根強く、必要物資もなかなか支給されない上、リンカーン大統領の命令で、黒人兵は戦闘に加わることができないでいた。
厳しい訓練が続く中、ショーは、リーダー格のローリングや白人を憎むトリップ、射撃の名手シャーツたち兵士との交流を通して、厚い信頼関係を築いてゆくのだった。
間もなく第54連隊は、サウスカロライナに移動し、ローリングも黒人初の上級曹長になるが、略奪や肉体労働ばかりの黒人兵士の仕事に業を煮やしたショーは、総司令官にそれを訴えて脅かしたことで、連隊はようやく実際の戦闘に加わることができ、そしてめざましい戦果をあげた。
さらにショーは、難攻不落の南軍の砦フォート・ワグナーの攻撃を、部隊の全滅を覚悟で志願する。
ローリングは、今まで家畜同様に扱われてきた、これは自分たちの誇り高い栄光なのだ、と語る。
そして南北戦争の雌雄を決するこの壮絶な死闘の中で、第54連隊は壊滅した。
しかし彼らの勇敢な戦いは、その後北軍に多くの黒人部隊を誕生させるきっかけとなり、その勝利に大きく貢献することになるのである。


寸評
アメリカの南北戦争は日本における明治維新と同様に、歴史上エポックメーキングとなる大きな出来事で、そこではありとあらゆる物語が生まれている。
南北戦争は1861年~1865年と時代的にも近く、明治維新の少し前に終結している内戦である。
当時の銃撃戦が描かれたようなものであったのかどうか知らないが、横一列になって進んでいく隊形は「どうぞ撃ってください」と言わんばかりに思えて、随分と悠長な戦いをやっていたんだなと思ってしまう。
アメリカ史に詳しくない僕は、リンカーンは奴隷解放を行た大統領との認識だけで、彼が当初黒人兵の戦闘参加を認めていなかったことなど知らなかった。
また南北戦争において第54連隊と言う黒人部隊が存在していたことは新たな知識となった。

多くの黒人兵たちは南部からの逃亡奴隷で、自分たちの自由のために立ち上がった北部の黒人たちは白人と共存していたという単純図式で描かれているが、北部にだって黒人奴隷はいたはずだ。
ここでは指揮官となるショーや仕官のフォーブスと黒人志願兵のシアーレスを友達として描いている。
軍隊組織は友人の関係に溝を作ってしまうのだが、一度できた溝がどのように埋まっていったのかの描写は少なく、特にショーとフォーブスの確執が解消される経緯が分かりづらい。
人種差別は奴隷解放を掲げる北軍の中にもあって、物資供給も差別を受けており、トリップの脱走原因もそれにあるのだが、彼はそれに対する処罰としてむち打ちの刑を受ける。
シャツを脱ぎ捨てた背中に奴隷時代に受けた無数のムチ打ち傷が残っていることが判明するシーンはゾッとするが、映画の流れはこの一件から一変する。
それまで紋切り型だったショーが、俄然積極的に黒人兵の中に入り込んでいく。
資材供給仕官を脅かして靴を調達するなど、ショーの行動を通じて感動シーンが増産されてくるから、映画は山場を迎えていくことになる。

54連隊が規律ある部隊として描かれる一方で、それを際立たせるために他の部隊の黒人兵に略奪暴行をさせて、必ずしも北軍=正義ではなかった点も描いているのは、単純ヒーロー物としないための配慮だろう。
差別的だった白人仕官が、出撃していく54連隊に「頑張れ!」と声をかけるのは感動したけど・・・。
54連隊は南軍の要塞への突撃の一番手に志願する。
それは黒人たちの名誉を得てやろうとするショーの思いやりなのだろうが、ショーもこの時点では戦うことに対して高揚していたのではないかと思う。
フォート・ワグナー要塞の結末を知らないから、54連隊がどのようにして攻略するかと興味を持って見ていたら予想外の展開だ。
後続部隊が戦闘にどう絡んでいたのかは分からないし、第二次世界大戦におけるノルマンデー上陸作戦のような状況になかなかならない。
そしてフォーブスが土塁を乗り越えたところで出会う状況がさらに期待を裏切る。
「なるほど、ここで終わるか」と唸らせるラストシーンだった。
最後に流れる説明文で僕はやっと歴史的背景を理解することが出来た。
僕はアメリカ史をほとんど知らないのだとも悟った。


黒い罠

2021-01-25 08:38:45 | 映画
「黒い罠」 1958年 アメリカ


監督 オーソン・ウェルズ
出演 オーソン・ウェルズ
   チャールトン・ヘストン
   ジャネット・リー
   ジョセフ・カレイア
   エイキム・タミロフ
   マレーネ・ディートリッヒ

ストーリー
新妻スーザンと新婚旅行へ出発のため、国境の町にやってきたメキシコ政府特別犯罪調査官マイク・ヴァルガスは、アメリカ領へ入った時、2人を追い抜いた豪華な乗用車が突如爆発したのを目撃した。
ヴァルガスは職業がら、妻をホテルに帰して、休暇中にもかかわらず調査をはじめた。
間もなくアメリカ側の警官がやってきた。
捜査担当のハンク・クィンラン警部は、足が不自由で、どう猛な性格の巨躯の持ち主で、自分の担当した事件でかならず犯人を挙げる男として知られていた。
爆発した車中の2死体は、若いストリップ・ガールと町の富豪リネカーのものと判明した。
クィンラン警部はヴァルガスの介入を嫌ったが、上司の命令で協力を余儀なくされた。
スーザンは現場からホテルに帰る途中見知らぬメキシコ人に情報提供をタネに誘われ、安ホテルでメキシコとアメリカをまたにかける暗黒街の顔役アンクル・ジョー・グランディから、麻薬密売容疑で捕われている彼の兄の調査から夫の手を引かせるよう脅迫された。
妻を別ホテルに移したヴァルガスは、クィンランと共にリネカーの娘マーシァと、若い夫サンチェスを尋問した。
しかしアパートの洗面所の靴箱からクィンランが爆発の時のものと同型のダイナマイト発見した時、ヴァルガスは先刻洗面所に入った時、箱は空だったことから疑問を生じさせる。
念のためクィンランの扱った事件の記録を調べた彼は、このアメリカ警察の英雄の数々の功績が、無実の罪を強引に作り上げる虚偽の工作から成立しているのを発見した。
弱味を探られたのを知ったクィンランは顔役グランディと図ってスーザンを誘拐した。


寸評
冒頭のスタッフ、キャストのクレジットが出る背景シーンは細工された車と交差するように歩くバルガス夫妻なのだが、それをカメラは移動しながらカットなしのいわゆる長回しで追い続けていく。
長回しは、クレジットタイトルが終わり、細工された車が爆破されるまで続くので、その時間は随分と長い。
始まってすぐの流れるようなカメラワークにうっとりしてしまうオープニングとなっている。
カメラブレを防ぐステディカムが存在していなかっただろうから、このカメラワークはスゴイと思う。
ローアングルからの広角レンズによるショット、カメラを斜めに構えた構図、夜のシーンが多いので暗い画面から生み出される緊迫感、どれをとっても素晴らしい。
惜しいのは詰めに至る所で解決を端折ったような所がある点だ。

事件の発生場所がメキシコとアメリカの国境あたりというのが物語を面白くしている。
チャールトン・ヘストンのヴァルガスはメキシコ政府の麻薬捜査官だが、アメリカ側の犯罪には手が出せない。
一方、オーソン・ウェルズのクィンラン警部はアメリカの警部で、犯罪組織のあるメキシコでの捜査には制約を受けているという、国境ならではの事情があるのだ。

爆死したのが町の有力者のリネカーで、犯人はリネカーの娘との結婚を反対されていたサンチェスとされた。
そこに至るまでのクィンラン警部の辣腕ぶりは体格もあってなかなか迫力と存在感がある。
しかしサンチェスが逮捕された時点で、どうも彼は犯人ではなさそうなことが感じとれる。
そうであるならば、なぜリネカーが殺されたのかを事前に描いておいた方が濡れ衣感がもっと出たように思う。
実際に、この時点で犯人のでっちあげがはっきりと描かれるのだから、ますますリネカー殺害の原因が置いてけぼりとなってしまっている。
あとはヴァルガスとクィンランの対決に興味が移っていくのだが、事件に絡んでくるメキシコとアメリカをまたにかける暗黒街の顔役グランディに大物感がないのもどうなのかなと思う。
グランディは本当のドンである兄が服役しているために代理を務めている男なので、この程度なのかもしれない。

このグランディの入れ知恵でスーザンを麻薬常習者に仕立て上げようとするのだが、この描写は大人しいもので物足りなさを感じる。
スーザンは睡眠薬を打たれ、滞在していたモーテルの部屋や衣類にはマリワナの匂いをしみ込ませ、吸い殻を捨てておくというものだが、さすがにスーザンに麻薬を打つことは物語的に無理だったのだろう。
誘拐された人物が麻薬患者に仕立て上げられる話は結構描かれてはいるのだが、ここでのスーザンは守られている。
会話を録音するという展開にも僕は違和感を持ち、違った形で不正が暴露された方が良かったような気がする。
マレーネ・ディートリッヒが酒場の女主人ターニャを演じていて、彼女はクインランと愛し合っていたこともあったようだが、本当に彼を愛していたのは部下のメンジスだったのだと語り、「アディオス」と去っていくラストはいい。
メンジスのクインランへの尊敬と信頼が裏切られる場面はもっと劇的でも良かったとは思うが、しかしフィルム・ノワールとしては存分に雰囲気を出していて、オーソン・ウェルズの画面を圧倒する存在感が際立っている作品で、彼の演技を見ているだけでも満足できる内容となっている。

黒い十人の女

2021-01-24 09:15:45 | 映画
「黒い十人の女」 1961年 日本


監督 市川崑
出演 船越英二 岸恵子 山本富士子
   宮城まり子 中村玉緒 岸田今日子
   宇野良子 村井千恵子 有明マスミ
   紺野ユカ 倉田マユミ 森山加代子
   永井智雄 大辻伺郎 伊丹一三
   ハナ肇とクレージーキャッツ

ストーリー
現代の煩雑な社会の一分子テレピプロデューサー風松吉(船越英二)。
メカニズムに押し流されている彼には近づく女も多く、関係した女は十指に余る。
妻の双葉(山本富士子)はそんな夫をあきらめて淋しい毎日をレストラン経営にまぎらわしていた。
責任のない関係のつもりだったが、女の方では奇妙に風を忘れられない。
行きづまりを感じている女優石ノ下市子(岸恵子)もそんな一人だった。
女たちは風のことが気になるあまり、二言目には「風がポックリ死ねばよい」「風を誰か殺してくれないかしら」と言うのだった。
女たちのそんな話を耳にした風本人は、十人の女が自分を謀殺しようとしていると思い込む。
根は気の弱い男の風は、どうして自分が殺されようとしているのか訳がわからない。
思い悩んだ彼の相談相手は、妻の双葉だった。
或る雨の夜、双葉のレストランに集まった十人の女たち。
彼女らの目の前で双葉の拳銃が火を吹き、ばったり倒れた風松吉。驚く女たち。
果して真実の殺人か狂言か?しかし風は生きていた。冷静な双葉の芝居であった。
だがこの一幕は女達にさまざまな反応を起した。
気の弱い未亡人の 三輪子(宮城まり子)は風を追って自殺し、新しい結婚に踏み切る女もいた。
そして双葉は風と離婚し、それを風は市子の家で知った。
市子は風を双葉からゆずり受けた形になって同棲していたのだ。
そして市子も、マスコミに追いまわされる自分を嫌って女優を止すと言う。
市子の女優サヨナラー・パーティは盛大に行われ、楽しく談笑する双葉と市子。
パーティが終ると、市子は沢山の花束をかかえ冷い表情で自動車を夜の闇に走らせるのだった。


寸評
男冥利に尽きるような話で、風というテレビのプロデューサーは妻がいながら9人の女性と関係を持っている。
しかもそのことを妻は黙認していて、関係した女性たちも痴話げんかを始めるような所がない。
本心では風を独占したいのだろうが、それぞれを認め合っているような所がある。
風の優しさが女性を引き付けているようなのだが、誰にでも優しいということは誰かに優しいということではない。
つまり特定の女性がいるわけではないのだが、頼りになるのは結局は妻ということになる。
この妻を演じる山本富士子と、一番古くからの愛人であるという岸恵子の二人が際立っている作品だ。

山本富士子は美人女優の誉れが高かった女優さんだが、ここでもその美貌と貫録でもって堂々とした妻を演じている。
彼女はレストランを経営していて生活力があり夫の収入に頼っていない。
夫婦のすれ違いも多いらしいが、夫と顔なじみのお客から「ご主人にもよろしく」と言われ、「お客様の方が主人とよく顔を合わせていらっしゃると思いますので、お会いになった時には私がよろしく言っていたと申し上げて下さい」などと言って笑っているような女傑である。
岸恵子はその顔立ちもあって、知性のある凛とした女性役がよく似合う。
本作でも劇団女優でありながらも自分の進路を見極めている愛人を溌溂と演じている。
二人が風の殺害を語り合う場面はなかなか見応えがある。
山本富士子の和装に対比するように、洋服姿の岸恵子が絡むシーンである。
名女優二人の共演を見るだけでも本作の価値があるというものだ。

風は他の女と親しくしていると焼きもちを焼かれる存在なのだが、女たちが取っ組み合いの喧嘩をやらかすようなことを起こされていない。
それが風の優しさからくるものだとなっているが、そうだとすれば屋上で森山加代子の新人女優百瀬桃子をいきなり抱きしめるというのはどうなのだろう。
それだと風は単なる女たらしということになってしまうのではないか。
風はあくまでも親切にしてやることで女が自ら近寄ってくるという存在である必要が有ったのではないか。
その代表が宮城まり子の三輪子である。
彼女は未亡人だが風によって会社を助けてもらい、そのことを通じて風と関係を持ったようなのだが、結局風に殉死(?)してしまうという女性である。
会社もあり、息子もいるのに、その選択をする思いはどこにあったのだろう。
本当に風を愛していたのは三輪子だったのかもしれない。
対照的なのが中村玉緒の四村塩で、彼女は風がいなくなるとすぐに結婚相手を見つけるような女性で、以後皆とは縁切り状態とし一切関知しないとタンカを切るドライナ女性である。
彼女たちの間に入ると後藤五夜子の岸田今日子もかすんでしまっている。
話も面白いが、何よりも女優陣の共演が一番の見どころとなっている。
さすがに10人も登場すると個々人の個性を描き分けるには時間が足りなかったような感じではある。
それにしても女は強い、女は怖い。

グリーン・デスティニー

2021-01-23 06:50:04 | 映画
「グリーン・デスティニー」 2000年 アメリカ / 中国


監督 アン・リー
出演 チョウ・ユンファ
   ミシェル・ヨー
   チャン・ツィイー
   チャン・チェン
   チェン・ペイペイ
   ラン・シャン

ストーリー
中国全土にその名を知られる剣の名手リー・ムーバイ(チョウ・ユンファ)。
彼は血で血を洗う江湖の争いに悩み剣を置く決意をし、瞑想修行を途中で切り上げて、女弟子ユー・シューリン(ミシェル・ヨー)の元へやってきた。
二人は密かに惹かれ合っていたが、師弟に愛の関係は許されなかった。
彼はユー・シューリンに伝説の名剣“グリーン・デスティニー”を北京のティエ氏(ラン・シャン)に届けるよう頼む。
そんなある日、ユーは届け先のティエ氏の屋敷で隣に住む貴族の娘イェン(チャン・ツィイー)に出会う。
イェンは両親に名家に嫁ぐことを決められていたが、本当はユーのような剣士になりたがっていた。
二人は打ち解け合うが、その夜“グリーン・デスティニー”が何者かに盗まれてしまう。
ユーはイェンを疑うのだったが……。
やがてイェンは、盗賊の青年ロー(チャン・チェン)と砂漠で恋に落ちる。
しかし政略結婚が決まっているイェンは、彼に別れを告げた。
イェンを諦めきれないロー。
彼への想いに揺れるイェン。
そんな時、イェンに正しい剣の道を教えようとしていたリーが、長年の敵に毒針で殺されてしまう。
死の直前で、初めて愛の告白をするリーとロー。
イェンはその姿に接し、家が決めた結婚を捨ててローとの愛を選ぶのだった。


寸評
ワイヤーアクションとカンフーによる立ち回りのオンパレードで、その滑稽さに笑ってしまうシーンもあるが、リー・ムーバイとイェンが竹林で対決する場面などはファンタスティックである。
壁を駆け上がり屋根へと飛び移りながら繰り広げられるアクションを受け入れることが出来なければ、この作品はまるで漫画でとても評価対象にはならないだろう。
それを理解したとしても、僕はこの作品を一般に評価されているほど手放しで好評価することはできない。
理由はアクションはともかくとして、登場人物が秘めている心の奥底が描き切れていたとは言い難いからだ。

リー・ムーバイは高名な剣の達人であるが、戦いに明け暮れる世界に疑問を覚え、修行をやめて愛剣グリーン・デスティニーを手放す決意をする。
シューリンとの静かな生活を望んでいるむが、名剣を巡る因縁で再び戦いの世界に戻っていく。
師匠を殺されてその敵討ちを志しているが、一方でシューリンとの平和な生活も望んでいる男である。
そのシューリンは恋人を殺した仇敵を、ムーバイと共に捜している。
武術の師でもあるムーバイに心惹かれているが、ムーバイの為に命を落としたかつての恋人を思い、自分の心に素直になれずにいるし、ムーバイもそれを感じているようである。
イェンはユイ長官の娘で好きな男がいるのだが政略結婚を強いられている。
そのイェンの教育係がジェイド・フォックスで、ムーバイの師匠のほか多くの人間を殺してきた謎の武芸者だ。
イェンの技量が自分を上回ったことを知り殺意を抱くようになったこの物語の悪役である。
ローはイェンをさらった盗賊だが、剣士になって冒険することを夢見ている彼女と愛し合うようになる。
政略結婚をする貴族の娘と盗賊と言う身分を超えた悲恋の関係である。
この様に人間模様は複雑に絡んでいるのだが、その人間模様は濃いようでいてその実、薄いと感じる。
ムーバイとシューリンの秘めたる恋心がアクションに隠れてしまっていて、もう一つ情感に欠けるものがある。
ムーバイはシューリンに気持ちを伝えて最後を迎えるが、僕はそこに二人の間の悲劇性を感じられなかった。

そして僕が盛り上がりを感じられなかった理由として、一体誰が強いのか明確でない所にもあったように思う。
リー・ムーバイが一番強そうなのは分かるが、ジェイド・フォックスが悪役の割には圧倒的な強さを感じさせない。
イェンも相当使い手で、シューリンとは互角のようだ。
イェンは武芸を申し込んだ男たちを手玉に取るが、ローには敗れて介抱されている。
そのローは追われる身になって霊峰の山に逃れてしまう。
ジェイド・フォックスは力量的にイェンに追い越されているはずだが、最後にはリー・ムーバイと相打ちするといった具合で、それぞれが圧倒的強さを示さず、どこか弱点を抱えているようなところがある。
僕の感受性が低いのか、イェンの描き方はこの女性を消化するには不十分に感じた。
彼女は最後に霊峰の山頂から飛び降りる。
かつてローが話してくれた霊峰の山頂から飛び降りると願いが叶うという伝説に乗っかった形だ。
鳥のように空を舞うイェン。
伝説によれば2人の願いは叶ったはずだが、はたして二人の願いとは何だったのか。
二人が一緒になることなら飛び降りることもなかったろうに。

クリード チャンプを継ぐ男

2021-01-22 06:22:38 | 映画
「クリード チャンプを継ぐ男」 2015年 アメリカ


監督 ライアン・クーグラー
出演 シルヴェスター・スタローン
   マイケル・B・ジョーダン
   テッサ・トンプソン
   フィリシア・ラシャド
   アンソニー・ベリュー
   グレアム・マクタヴィッシュ

ストーリー
アドニス・ジョンソン(マイケル・B・ジョーダン)の父親は世界的に有名なボクシングのヘビー級チャンピオンだったアポロ・クリードだが、彼が生まれる前に死んでしまったため、父のことを何も知らない。
彼は、かつてロッキーと死闘を繰り広げた永遠のライバルにして無二の親友アポロ・クリードと愛人の間に出来た隠し子だったのだ。
それでも、明らかにアドニスにはボクシングの才能が受け継がれていた。
アポロの妻メアリー・アン・クリード(フィリシア・ラシャド)に引き取られ、立派に育てられたアドニスだったが、ボクシングへの情熱を断ち切ることができず、ついに会社も辞めてしまう。
しかしアドニスは地元のジムでは相手にされず、父がタフな無名のボクサー、ロッキー・バルボア(シルヴェスター・スタローン)と死闘を繰り広げた伝説の戦いの地フィラデルフィアへ向かう。
妻に先立たれ、レストラン「エイドリアンズ」を細々と経営し孤独に暮らすロッキー。
ある日、彼の前にアドニスが現われる。
アドニスはロッキーにトレーナーになってほしいとフィラデルフィアまで直談判にやって来たのだ。
すでにボクシングの世界から足を洗っていたロッキーは一度はこれを断るも、アドニスの情熱に突き動かされ、ついにトレーナーを引き受ける。
アドニスはアパートの下の部屋に住む進行性難聴を抱える歌手のビアンカ(テッサ・トンプソン)と親しくなった。
それでもさらに練習を積むためアパートを離れロッキーの家に移り住む。
若いボクサーを鍛え始めるロッキーを味方につけたアドニスは、タイトル戦への切符を手に入れるが……。


寸評
あの伝説的ボクシング映画「ロッキー」のスピンアウト作品であるが、「ロッキー」へのオマージュ作品、単なるレプリカではない骨太な作品となっていて、ロッキー・シリーズの魂がこもった映画である。
「ロッキー」の魅力は圧倒的迫力で描かれたボクシングのファイト・シーンにあったことは間違いないが、同時に不完全な人生を送る孤独な人間たちが寄り添って生きている姿にもあった。
トレーナーのミッキーしかり、エイドリアンの兄ポーリーもそうだし、何よりもロッキーとエイドリアンがそうだった。
彼等のもがき苦しむ姿は社会のどの世界にいても同じなのだと僕たちを勇気づけてくれた。
ロッキー・バルボアは歳を取ってしまって主人公は若いアドニスに代わっている。
しかし多くのロッキー・ファンがこの作品を「ロッキー」新章として受け入れた。
その理由はロッキーという主人公よりもロッキー・シリーズが持っていた作品の魂を受け継いでいるからだと思う。
ミッキーはいないがトレーナーとして年老いてつつましやかに生きているロッキーがいる。
ポーリーもいないがアドニスはポーリーが使っていた部屋に移り住む。
画面上にミッキーもポーリーもエイドリアンも登場しないが、彼等は僕と共に生きていたのだ。

アドニスは不良少年だったがアポロの未亡人に引き取られる。
愛人の子でありながらも夫であったアポロの血を引くアドニスを未亡人メアリーは愛情をもって育てたのだろう。
会社でも出世が約束されていたから高等教育も身に着けていたに違いない。
メアリーにはアポロの遺産があり、アドニスは金には困ることはない環境下にあったはずだ。
それでもアドニスは満たされた気持ちのない不完全な人生を送っている孤独な人間だ。
愛人の子という生い立ち、偉大なチャンピオンであった父の幻影を背負っている。
顔も知らない父だが、アドニスは父を敬愛している。
YouTubeにアーカイブされた父親アポロの試合を見るアドニスに心情移入できる。
父の偉大な名前に支配されながらも、生まれる前に死んでしまった父親を慕う子供の気持ちが分かるのだ。
惜しむらくはこのアドニスの苦悩と心情がもう少し描かれていたならと残念に思う。

ロッキーが薄幸なエイドリアンと愛し合ったように、アドニスは進行性難聴をかかえるビアンカと愛し合う。
進行性ということでビアンカはやがて聴力を失うことが予測される。
歌手であり音の世界に生きるビアンカにとっては致命的な病気でもある。
補聴器で補っているが、聴力を失った時のために手話を学んでいる彼女の姿はエイドリアンに重なる。
一本の独立した作品として「クリード チャンプを継ぐ男」は評価できるが、やはり「ロッキー」の遺産あっての作品であることは疑いがない。
エイドリアンの面影がそうでもあるのだが、やはりこの作品ではアポロの存在が大きく、ロッキー・シリーズの1~4を見ておかないとこの作品の存在はないと思われる。
アドニスはアポロと初対戦したロッキーと同様、チャンピオンのリッキー・コンランに敗れる。
しかし勝負に勝ったのはコンランだったが、試合に勝ったのはアドニスであり、コンランは「次のチャンピオンはお前だ」と賛辞を贈る。
そのことを通じて、「クリード」は新しいシリーズとして制作されていくことが宣言されたのだろう。

グラン・ブルー - 完全版 -

2021-01-21 07:49:42 | 映画
「グラン・ブルー - 完全版 -」 1988年 フランス / イタリア


監督 リュック・ベッソン
出演 ロザンナ・アークエット
   ジャン=マルク・バール
   ジャン・レノ
   ポール・シェナー
   グリフィン・ダン
   セルジオ・カステリット

ストーリー
スキューバの道具を一切使わないで、素潜りで深海100メートル近くまで潜水する“フリー・ダイビング”。
そのフリーダイビング記録を競うジャックとエンゾの2人の青年を通して、海に対する熱い思いを映像化。
ジョアンナとジャックの愛に関するエピソードなど、カットされた未公開場面を加え、よりロマンス面が強調されているのが本作『グラン・ブルー完全版』である。
50分近く尺の伸びたこの版については、解り易くなっているとか、無駄なシーンが増えているとか、細部に関してはいくらでも言及できるが、バージョンの差異を説く事にあまり意味はない。


寸評
ジャックとエンゾはギリシャにあるキクラーデス諸島の幼馴染で、子供の頃から潜ることが得意だった2人だが、心優しいジャックはガキ大将のエンゾと競争をしようとはしない。
子供の頃がモノトーンで描かれ二人の性格付けがなされる。
父の仕事の手伝いをしていたジャックと海岸で釣りをしていたエンゾはジャックの父が溺死する様子を目撃するという重大事故に遭遇するが、僕はもっと重要な出来事だったと思ったのは、両親が離婚した理由が父の潜水漁にあり、母はギリシャでの生活を捨てアメリカに戻ったことを聞かされる場面だ。
なぜなら、その事がジャックとジョアンナの関係に対する伏線となっていたからだ。
12年後、世界でトップクラスのダイバーとなったエンゾが、真の世界一のダイバーとなるためにジャックを探し出すところから映画はカラーとなるのだが、エンゾを演じたちょい悪親父のジャン・レノが面白おかしく物語を引っ張る。
エリック・セラの音楽に、ジャン・レノとリュックベンソン映画の魅力が加わった1本という感じの作品だが、果たしてこれほどの長さが必要だったのか。
アンデスの話やニューヨークの話とか、潜水大会で漫画的な日本チームが出てきて繰り広げるバカバカしい話とか、無駄なシーンが多く作品をぼかしてしまっているのが残念だ。

「グラン・ブルー」は輝く海の景色や美しい海中の映像に加え、物語的には自分のスタイルを貫ける世界の中でしか生きることのできないジャックと、その姿に惹かれつつもやがて家や自動車や子供やペットといった普通の生活の中で生きたいと思うジョアンナの出会いと別れを描いていたと思う。
ラストシーンはジャックとジョアンナの別れを描いていたように感じた。
そこではエンゾが話した人魚のことがよみがえってくる。
ジャックがジョアンナの制止を振り切り暗く冷たい海に独り潜ると、そこに一匹のイルカが現れる。
ジャックを照らす光の中で、彼がいくら手を伸ばそうとしてもそのイルカは寄ってはこない。
その行動はまるで人魚に恋する男性の愛情を確かめるかのようである。
それに呼応するかのように直前でジョアンナは「私の愛を確かめてきて」と言って送り出している。
やがてジャックはジョアンナの待つボートとつながったロープから手を離しイルカとともに泳ぎだす。
ジャックは結局は"自分の生きるべき場所"に帰っていったのだろう。
ジャックにとってはそれは男の身勝手でも、ジョアンナへの裏切りでもなく、そこが"自分のいるべき場所だと悟ったに違いないのだ。

ジャックは度々イルカと戯れる。
人との付き合いが苦手な自然児である。
あるがままの生き方をするジャックをジョアンナは愛したのだろう。
ジョアンナの一途な愛が切ない。
ジャックとジョアンナは海と陸、自然と文明、田舎と都会という関係を突き破ることが出来なかったのではないか。
もしかするとジャックはエンゾの後を追ったのかもしれない。
そうだとすれば、シングルマザーとなったジョアンナは果たして新しい彼氏を見つけることは可能だったのだろうかとあらぬ想像をしてしまう。

グラン・プリ

2021-01-20 09:41:29 | 映画
「グラン・プリ」 1966年 アメリカ


監督 ジョン・フランケンハイマー
出演 ジェームズ・ガーナー
   イヴ・モンタン
   三船敏郎
   エヴァ・マリー・セイント
   ブライアン・ベッドフォード
   アントニオ・サバト

ストーリー
国際オートレースのトップをきって行われたモンテ・カルロのグラン・プリ・レースで惨事が突発した。
アメリカ人ピートは地中海に投げ出され、幸にも軽傷ですんだが、イギリス人ストッダードは壁に激突して重傷を負ってしまい、優勝したのはサルティだった。
レーシング・ドライバーの生活は女性の憧れの的だが、彼らの家庭生活は必ずしも平穏ではなかった。
ストッダードの妻パットは離婚を決意し、サルティはフェラーリ創立者の娘モニークと結婚していたが、生活は暗礁にのりあげ、雑誌記者のルイーズを愛し始めていたし、ピートの妻も彼のもとを去っていった。
傷心のピートに救いの手をさしのべたのは、ホンダの矢村で、日本チームへの参加を勧めた。
矢村のおかげでピートはよみがえり、つぎつぎとレースに優勝していった。
傷のいえたストッダードも第一線に復帰し、モンテ・カルロで2位に入賞したニーノ、それにピートとサルティを加えた4人が各地のレースでしのぎを削りあった。
そしてフォーミュラー・ワンの最後のレースであるモンツアのイタリア・グラン・プリを迎えることになった。
レースは白熱化し、異常な興奮をまき起こし、特にサルティの運転ぶりに大歓声が起こり、その歓声にホテルにこもっていたルイーズも思わず飛び出した。
だがその時、サルティの車はコントロールを失い、壁にあたって爆発してしまった。
レースはピートとストッダードの争いとなり、少しの差でゴールを奪ったのはピートの白いホンダだった。
新しいチャンピオンの誕生に観衆は熱狂するのだが・・・。


寸評
手元に残っているパンフレットの日付を見ると1967年3月12日となっている。
僕が高校3年生になったばかりにこの映画を見ていたことになるが、シネラマ方式で撮られた作品を専門的に上映する歪曲したスクリーンを持つOS劇場で見た時の驚きと感動は今でも蘇ってくる。
自動車のシーンと言えば、後ろのスクリーンに背景を投射し、その前に運転席のセットを置いて撮る手法に慣れっこになっていたのだが、今では当たり前となっている車載カメラによる臨場感あふれるシーンが目の前で展開され、あたかも自分が運転しているような錯覚に陥る衝撃を初めて味わったのである。
「みんな、あなたと一緒にクルマに乗っているのよ。彼らにはできない夢を叶えているの」 と言うエヴァ・マリー・セイントのセリフがそっくりそのままあてはまるのだ。
ジョン・フランケンハイマーがF1レースを撮って撮って撮りまくった映像が、オーバーラップ、画面分割により小気味よく流される。
オープニングではGRAND PRIXのタイトルが出たと同時に、ヴオン、ヴオンとエンジン音が轟き、白い排ガスが吹き出ると、画面はどんどん分割されていきF1レースの場面があれこれ出てくる。
タイヤ、プラグ、工具、観客の顔、顔、顔を映し出し、音楽はなしで心臓の鼓動、現場の雰囲気を伝える臨場感のある音、走行する車の爆音が鳴り響くというドキュメンタリー・タッチな描き方に思わず身を乗り出してしまう。
モナコ・グラン・プリの空撮にも酔いしれた。
結構長く感じる冒頭のレースシーンに釘付けになってしまう映像処理に酔いしれたのが昨日のことのようである。
自動車のレース映画といえば、かならず名前が出てくるのがこの「グラン・プリ」である。

普通の映画館よりも一格高かった料金にもかかわらず見に行ったのは日本人の三船敏郎が本格的にハリウッドデビューしていたからでもあった。
三船が演じる矢村のモデルは1964年からF1への挑戦をはじめたホンダの本田宗一郎だ。
三船敏郎は、スランプに陥ってフェラーリを首になったジェームズ・ガーナーにシートを用意し、「きみは勝てるドライバーだ」と励ます美味しい役どころだ。
これに絡むのが2度チャンピオンになったベテランのイヴ・モンタンと、怖いもの知らずの若きイタリア人ドライのバーアントニオ・サバト、大けがから復活を遂げるブライアン・ベッドフォード である。
映画はそれぞれが演じるアロン、サルティ、ニーノ、ストッダードの4人による群像劇だ。
レーサーには女がつきものといた具合で、女たちの物語も挿入される。
ストッダードの妻パットは元モデル時代の生活が忘れられず、夫を捨ててアロンに接近する。
サルティは大手自動車会社を経営する妻モニークとの関係が冷え切り、パーティーで知り合ったファッション雑誌編集者のルイーズと愛し合うようになる。
ニーノの恋人リーザはレーサーの地に足がつかない生活を察して去っていく。
しかし、それらの物語に軸足を移すことはなく、サルティを巡る二人の女の結末も想像に任されている。
1967年、映画そのままに、白いホンダのF1カーはモンツァで優勝する。
映画「グラン・プリ」のイタリアGPのゴール・シーンが、その1年後に現実世界で起きたのだ。
その後、ホンダがマクラーレンにエンジンを供給して連戦連勝という時代を迎えることになる。
事実は映画よりも奇なりである。

グランド・マスター

2021-01-19 07:46:54 | 映画
「グランド・マスター」 2013年 香港


監督 ウォン・カーウァイ
出演 トニー・レオン
   チャン・ツィイー
   チャン・チェン
   マックス・チャン
   ワン・チンシアン
   ソン・ヘギョ

ストーリー
1936年、中国。北の八卦掌の宗師《グランド・マスター》、ゴン・パオセンは引退を決意、跡継ぎに一番弟子のマーサンを指名する。
パオセンは南の佛山で引退試合を開き、自分に勝った“真のグランド・マスター”に、自分がやり残した南北統一の使命を任せようとするが、野望を抱くマーサンは南の各流派を潰しにかかり、怒ったパオセンに佛山から追い払われる。
パオセンの娘で、奥義六十四手をただ一人受け継ぐゴン・ルオメイも、父の反対を押して名乗りを上げ試合に勝つことしか頭になかった。
一方、南の武術界からは詠春拳の宗師・イップ・マンが送りこまれる。
佛山で最も有名な娼館“金楼”が闘いの舞台となり、イップ・マンはまずここで働く様々な流派の武術家たちと闘うことになり、八掛掌、形意拳、洪家拳の使い手である武術家たちを倒したイップ・マンに、パオセンは「あなたに後を託そう」と高らかに宣言した。
だが、ルオメイは父に黙ってイップ・マンを金楼に呼び出し、奥義六十四手を見事に決めて勝利する。
しかしその時、同じ高みを目指す二人の間に何かが芽生える。
1937年、日中戦争勃発し、1938年10月には日本軍が佛山に侵攻、イップ・マン邸は憲兵隊に奪われる。
日本軍への協力を拒否したイップ・マンは貧窮に苦しみ、さらには幼い娘の餓死という最大の悲劇が彼を襲う。
一方、ルオメイは列車の中で、日本軍に追われる八極拳の宗師・カミソリを助ける。
そんな中、マーサンは日本側につき、1940年に満洲国奉天の協和会長に就任した。


寸評
トニー・レオン演じるイップ・マンはアクションスターとして人気を博したブルース・リーの師匠ということである。
ブルース・リーはイップ・マンに弟子入りして才能を花開かせ、カンフー・スターとしての座を射止めたが早世した。
映画はこのイップ・マンの一代宗師と呼ばれた全盛期から抗日戦の時代を経て、香港でブルース・リーを弟子とするまでが描かれている。
トニー・レオンのイップ・マンは細かな手技で接近戦を得意とする詠春拳、チャン・ツィイーのルオメイは円の動きで正面を避け側面から攻撃する八卦掌、チャン・チェンのカミソリは一撃の強さに特徴があり接近戦を得意とする八極拳、マックス・チャンのマーサンは正面からの突進を得意とする形意拳ということで、それぞれの武術をよい動きで見せてくれているが、これらの流派が十分に描き切れているとは言えず、流派の特徴を生かした死闘という感じが出ていなかったのは惜しい。

曰くありげに登場したカミソリが本題に一切かかわらず、イップ・マンとも対決しないのでは何のために登場してきたのか分からない。
ルオメイと劇的な出会いをするが、数年後にカミソリがルオメイを発見した時には、カミソリもイップ・マン同様ルオメイに秘めた恋心を持っていたことが描かれると思いきや、ただ見送るだけで何も起きなかった。

ルオメイはイップ・マンと再会し、思いを打ち明ける。
それまで強気な女拳士だった彼女が、叶わぬ思いを胸に生きてきた女として描かれ、実際このシーンの彼女が一番きれいなのだが、それならイップ・マンとルオメイのラブ・ストーリーとして、もっと重点的に描いても良さそうだが、意外とあっさりしていて映画全体をラブ・ストーリーという風には感じない。

冒頭でのイップ・マンが大勢と対決するシーンを初め、カンフー対決は度々描かれるが、それは雨を効果的に使ったり、スローモーションや香港映画お得意のワイヤー吊りによるアクションを交えて心得たものである。
猿を連れたルオメイを守る老人が相手の衣服を切り裂き、中の綿を血しぶきのようにまき散らす演出効果もあって、狙い通りカンフーシーンは見所になっている。
しかし一方で、ルオメイとマーサンの対決シーンでは列車の長さは一体何メートルあるんだというようで不自然。
さらにアクション映画として見るなら、最後にイップ・マンと誰か大物とが対決して終わりを迎えるとはなっていないので、カンフー映画の活劇への期待は裏切っているといえる。

希望を失ったかに見えたイップ・マンだったが、彼の武術館に才能ある少年が入門してくる。
それが後のブルース・リーであったという終わり方だが、予備知識として前述のイップ・マンとブルース・リーの関係を理解していること、またブルース・リーが「燃えよドラゴン」でカンフー・ブームを巻き起こしたスターであったことを知っている人でなければ、少年のエピソードがピンとこないのではないかと思う。
カンフーは横か縦、負けたものは横たわり、勝ったものは立っているということで、イップ・マンは最後までたち続けていたということなのだろうが、何かもう一つ盛り上がりに欠ける作品だ。
原因はカンフーシーンと本筋のエピソードのバランスの悪さにあり、アクションシーンが少々くどかったように思う。

2021-01-18 07:37:01 | 映画
「首」 1968年 日本


監督 森谷司郎
出演 小林桂樹 古山桂治 鈴木良俊 南風洋子
   下川辰平 宇留木康二 鈴木治夫
   小川安三 加藤茂雄 佐々木孝丸
   三津田健 大久保正信 清水将夫

ストーリー
戦時下の昭和18年の冬、一人の鉱夫が警察で死んだ。
死因は脳溢血ということだったが、鉱夫の遺族はそれを不満とし、正木に調査を依頼してきた。
正木は死亡診断書に脳溢血とあるのを怪しんだが、警察や検事は死体を見せようともしなかった。
正木は、そこに拷問死のにおいをかぎ、いかに戦時下とはいえ、官憲の横暴、残虐さに激しい怒りを覚え、この事件を徹底的に調査しようと決心したのである。
調査するうちに、脳溢血という診断が、明らかに偽証であることがはっきりした。
しかし、死体はすでに埋葬され、いかに弁護士とはいえ、警察の許可なくしてそれを掘り返すことは出来なかったし、警察が自らの不正を暴露するようなことを許すはずもなかった。
正木は東大教授福畑に相談すると、福畑はただ一言、遺体はいらない、死因を調べるには首だけあれば十分だと言う。
一瞬、驚いた正木だったが、首切り作業の適任者として紹介された中原とともに、死体が埋葬されている茨城県蒼竜寺に向った。
極秘裏に死体から首を切り離し、それを医学部教授の福畑に見せて死因を調べて貰おうというのだ。
粉雪の舞う墓地で中原は首を切り落し、正木はその首を隠し持って東京行きの列車に乗り込んだ。
しかし、正木たちの動きを察していた警察は正木と中原のあとをつけ、列車内で所持品検査をやったのだが、中原の機転のお蔭で危険を脱することが出来た。
やがて、研究室に持ち込まれた首は福畑によって綿密に調べられ、死因が脳溢血ではなく、激しい殴打によるものと断定されたのだった。
昭和19年2月から、30年末まで、前後12年間にわたって裁判を重ねた「首なし事件」の最終的なきめては、正木弁護士が持ち帰った首の診断書だったのである。


寸評
冤罪事件は多く存在してきたが、ここで描かれたことは冤罪よりもひどい、警察が自らのミスを覆い隠すために死因をでっちあげて事件を闇に葬ろうとしたものである。
警察、検察といった国家権力がその気になればなんだってできてしまう恐ろしさだ。
「首」では正木弁護士が国家権力に対抗して孤軍奮闘しているが、彼の行動エネルギーは一体どこから生まれていたのだろうと不思議にさえ思う。
田代検事に対する挑戦だったのだろうか。
正樹弁護士の申し出に対して、田代検事は当初から非協力的だった。
そもそも田代検事は一体何を守ろうとしていたのだろう。
この事件に関する警察と検事の関係が描かれていても良かったような気がする。
正木は戦争がこのような犯罪を生んだのだと言っているが、時間がたつにつれて正木はまるで狂人の様に「首」に執着を見せ始める。
被害者側の人間に対しても、極めて高圧的である。
正義感にあふれた人物なのだが、僕には嫌悪感めいたものも感じさせる人物に思えた。
小林桂樹の正木弁護士の狂気が、首切り役を担う医学部の使用人・中原によって強調され、中原という人物の登場は作品のアクセントとなっている。
事をなした後で黙々と料理を食べる姿とか車の中の態度とか、なかなか面白い存在であった。

いざとなれば女は強い。
南風洋子の静江は鉱山を捨てても良いと腹をくくり、正樹に対して「先生が焦ってはいけません」と諭すようになっているのである。
滝田静江が自分の経営する鉱山を捨てても良いと思うに至る動機も想像するしかない。
ライバル会社の乗っ取り工作への怒りだったのか、警察による自社の鉱夫に対するむごい仕打ちに対する憤りだったのだろうか、鉱夫達に比べればはるかに凛としている静江なのである。
ライバル会社が警察と結託して静江の鉱山をつぶしにかかっていることが描かれていないが、描いていた方が国家権力の腐敗がもっと表に出せたのではないかと思う。

再検死によって警察の不正が判明するが、正木が法を犯して入手した「首」は証拠品たりえたのだろうか。
実話に基づいているというから、多分ここで描かれた通りなのだろうが、現在の法律ではどうなんだろう。
日本は軍部の暴走によって誤った戦争に突入していったが、しかし戦争中でもこのような弁護士が存在していて、再審によって警察犯罪が明らかにされる正義は存在していたことになる。
一人の権力者の意のままになる独裁国家ではなく、日本では少なくとも戦時中においても社会の秩序は維持されていたのだろう。
戦後生まれの僕には当時の状況を想像するしかないのだが、この作品を見るとテーマとは別次元で日本人の誇りのようなものを感じた。
正木弁護士は戦後も以前と変わらず弁護活動を続けているようだが、変わらなかったのは正木弁護士だけでなく冤罪事件が戦中と同様に発生し続けている事実である。

グッドモーニング,ベトナム

2021-01-17 11:25:37 | 映画
「グッドモーニング,ベトナム」 1987年 アメリカ


監督 バリー・レヴィンソン
出演 ロビン・ウィリアムズ
   フォレスト・ウィテカー
   チンタラー・スカパット
   ブルーノ・カービイ
   ロバート・ウール
   J・T・ウォルシュ

ストーリー
1965年、北爆を開始した米軍は一層深い“ベトナム戦争”の泥沼にふみ込んでしまった。
米軍将兵たちのなかにこの目的なき戦いに対しての厭戦気分が蔓延し始めていた。
彼らの士気を高めようと、テイラー将軍は、本国から米軍放送の人気ディスクジョッキー、エイドリアン・クロンナウアーを呼び寄せた。
酷暑のサイゴン空港に降り立ったクロンナウアーは武器を持たず、いたってラフな格好であった。
軍服も敬礼さえも好きでないというこの一等兵DJに、迎えに来たガーリック一等兵はびっくりさせられた。
更に驚いたことに、サイゴンの街に出るや通りがかりのベトナムの美少女トリンを追いかけ始めた。
しかし何よりも驚いたのは「グッドモーニング・ベトナム!」の叫び声で始まる放送であった。
従来の、軍の検閲をパスした気抜けしたニュースとパーシー・フェイスやマントバーニといった、ただ甘いだけの音楽とは打って変わり、ロックンロールと機関銃のようなしゃべりでニクソンまでもまな板に乗せてしまった。
軍の上層部は動転したが100万のベトナム米軍は絶大な拍手をもって彼を迎えた。
直属の上司であるディカーソン軍曹とホーク少尉には睨まれ通し。
そんななかでも、ガーリックを連れてトリンを追いかけ、彼女の通う英語学校で妙な英語を教えて人気者になり、いつしかトリンの兄ツアンと親しくなった。
ベトコンのテロ事件は軍のチェックで放送禁止であったが、ある日目の前で起こった爆弾テロ事件をしゃべってしまい、軍規によって彼は降ろされた。
後を継いだホーク少尉のDJは最低で、津波のような投書が寄せられた。
再びマイクに向かった彼を許せぬディカーソンは彼とガーリックをベトコン地区に派遣して殺させようとした。


寸評
ベトナム戦争の米軍基地で軍の検閲を無視したハイテンションDJを繰り広げるエイドリアン・クロンナウアの役どころを演じたロビン・ウィリアムズの存在がこの映画の全てだ。
アメリカン・ジョークが肌に合わないのか、クロンナウアのDJは勢いの面白さは伝わって来るのだが、僕の英語力のなさの為、字幕を読むのが精一杯で、米兵に大うけする真の面白さを感じ取れなかったのが残念。

相棒ともいえるガーリックに基地に連れ戻されるクロンナウアは、泥沼となっていくベトナム戦争の前線に向かう兵士たちを乗せたトラックとすれ違い、人気DJその人と知った兵士の求めに応じてその場で即興のDJを行い、そこにいる兵士の何人かをネタに笑いをふりまく。
ほんのひと時の安らぎを得て戦場にむかっていく兵士を見送るクロンナウア。
マシンガントークが続く中にあってシンミリとさせる感動的シーンで、僕は泣けた。

戦争映画に付きものの大量火薬を使ったシーンはわずかにレストランの爆破テロぐらいで、爆撃シーンは登場しないのだが、それでもサッチモことルイ・アームストロングの唄う“what a wonderful world”を背景に挿入されるベトナム戦争の風景はあまりにも悲しい。
悲惨なシーンに正反対の音楽をつける事で複雑な感情を生み出す演出技法だ。
声高に戦争反対を叫んでいる作品ではないが、アメリカによる他国への一方的な価値観の押し売りをゆるやかに批判している部分がある。
ベトコンと友達だったことが理由で名誉除隊扱いで本国に送還されることになったクロンナウアは、ツアンがベトコンだったことが信じらず、ベトナムの美人少女のトリンを通じてツアンと会い真相を知ろうとする。
そしてベトナム人のもつ反米感情も知ることになる。
アメリカの正義は、正義を押し付けられる側から見れば侵略に他ならないのだ。
戦時中には正しい情報は提供されず、戦争を遂行する者にとって都合の良い情報のみが提供される欺瞞も描かれている。
声高ではないが権力批判の反戦映画には違いない。

それでもわずかな希望を描くのがラストシーンだ。
送還されるクロンナウアは空港まで送ってくれる相棒ともいえるガーリック達を交え、英語学校のベトナム人とソフトボールに興じる。
果物をボールに見立てたものだが、そこはアメリカ人もベトナム人もない平和な世界だ。
そこにはクロンナウアを受け入れてくれる人々の笑顔があったという、ちょっとアメリカよりな描き方だが、心温まるシーンとなっている。
クロンナウアはサイゴンを去って行き、翌日の放送室のマイクの前にはガーリック一等兵が座っている。
放送開始と同時に彼は叫ぶ。
「グウウウウウッド、モオオオオオオニング、ヴィイエットナムウウウ!」
ノリはクロンナウアほどではないが、クロンナウアの魂を引き継いだ一声だったと思う。