おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

十二人の怒れる男

2019-07-31 10:15:05 | 映画
「十二人の怒れる男」 1957年 アメリカ


監督 シドニー・ルメット
出演 ヘンリー・フォンダ
   リー・J・コッブ
   エド・ベグリー
   マーティン・バルサム
   E・G・マーシャル
   ジャック・クラグマン
   ジョン・フィードラー
   ジョージ・ヴォスコヴェック
   ロバート・ウェッバー

ストーリー
ニューヨークの法廷で殺人事件の審理が終わった。
被告は17歳の少年で、日頃から不良といわれ、飛び出しナイフで実父を殺した容疑だった。
12人の陪審員が評決のため陪審室に引きあげてきた。
第1回の評決は11対1で無罪は第8番ただ1人だったが、判決は全員一致でなければならなかった。
彼は不幸な少年の身の上に同情し、犯人かもしれないが有罪の証拠がないといった。
第3番が、殺人の行われた部屋の真下に住む老人が、当日の夜、少年が“殺してやる!”と叫んだのを聞き、その直後、老人は少年を廊下でみかけたという証拠を読みあげた。
第10番は殺人現場の向う側に、高架鉄道をはさんで住んでいる老婦人が、折から通過した回送電車の窓越しに、犯行を目撃した事実を指摘した。
第6番は親子の仲が日頃から悪いことを重要視した。
陪審員たちは被告はナイフを買ったことは認めたが、落としてなくしたという凶器のナイフの再検討をした。
警察は形が特別なもので、被告のものが凶器だと主張している。
2度目の評決で第9番目が無罪に変わった。
第11番は少年が犯人なら、なぜ捕まるとわかっている自宅に帰ったのかと疑った。
3回目の評決がとられた。無罪が4人に増えた。
第2番が傷口のことにふれ、第5番は飛び出しナイフなら傷口の角度が逆だと言った。
第7番、第1番と第12番が無罪の側についた。
いまだに有罪を主張するのは頑固な第3番と、第4番と狂信的な第10番だけとなった。


寸評
17歳の少年が起こした殺人事件に関する陪審員の討論が始まったが、誰が見ても有罪と思えたその状況下で、ひとりの陪審員が無罪を主張した事から物語は動き始めるという内容で陪審員裁判の最高作だろう。
裁判の内容は描かれておらず、したがって証人の様子や証言内容も陪審員の会話によって知らされる。
裁判の中で伏線をいくつも張っておいて、後半で証言の矛盾を次々明らかにしていくという描き方をしたくなるものだが、ここでの伏線はリー・J・コッブが初めに示す息子との写真ぐらいで、あくまでも陪審員たちのディスカッションだけで押してくる。
もちろんヘンリー・フォンダの孤軍奮闘である。
少年が“殺してやる!”と叫んだのを聞いた老人が少年を廊下でみかけたという証言の矛盾が検証され、疑問が浮かび上がってくる。
そして別の展開があった後で、少年の“殺してやる!”という叫びが殺意を含んだものではなかっという可能性があることが、有罪を主張しているリー・J・コッブの叫びで証明される。
ヘンリー・フォンダが仕組んだものだが、このあたりの盛り上げ方は上手い。
ナイフの一件は少し出来過ぎの感じがしないでもないが、法廷劇としてはよくできた脚本だ。

時には感情的に、時には論理的に展開される討論が、次第に無罪判決への流れに変わっていくスリルが、12人の点描と共に丹念に描かれていく。
言葉だけに走らず、人物描写が丁寧に描かれているので正義感が前面に出ているという嫌味がない。
陪審員の一人に老人がいるが、この老人は観察力が鋭く、証人の服の袖が痛んでいたとか、足が悪く歩くのが遅かったとか、証人の女性は眼鏡をかけていたに違いないとかを思い出す。
老人はえてして頼りないもので社会から無視されがちだが、「老人に敬意を払え」と言わせたりして、敬老の精神も見せている。
ヘンリー・フォンダをはじめ役者陣の充実ぶりも良く、特に最後まで有罪を主張するリー・J・コッブが強い印象を残し、今までの密室から一転、裁判所前で皆が別れていくラスト・シーンの解放感が心地よい。
密室劇を見せ続けられてきたので、この解放感は出演者だけでなく観客であった僕も解放感を感じたのである。
主人公のヘンリー・フォンダを追うのではなく、最後に名のりあった老人の後姿を捉え、疲れ切ったリー・J・コッブの姿をはめ込んだラストシーンは秀逸である。

公開当時の日本では裁判員裁判は行われておらず、僕は陪審員による裁判の実態をこの映画で知った。
中学生の頃、テレビで法律事務所を舞台にした「判決」というドラマが放送されていて人気を博していた。
裁判劇だが、そこでの日本における裁判の様子の印象が強かったのだと思う。
今思い出しても、当時は問題提起する良質なテレビドラマが作られていたんだなあと懐かしくなる。
名画座で見たのか、テレビ放映されたのを見たのか記憶は定かではないが、「判決」を思い起こさせたという記憶だけは残っている。
そんなこともあって、僕にとって「十二人の怒れる男」は裁判映画への入門となった記念碑的作品である。
裁判の映画と言えば、まずこの作品が思い浮かぶ。

十三人の刺客 2010年版

2019-07-30 09:24:28 | 映画
「十三人の刺客」 2010年 日本


監督 三池崇史
出演 役所広司 山田孝之 伊勢谷友介
   沢村一樹 古田新太 高岡蒼甫
   窪田正孝 伊原剛志 松方弘樹
   吹石一恵 谷村美月 斎藤工
   内野聖陽 岸部一徳 平幹二朗
   松本幸四郎 稲垣吾郎 市村正親

ストーリー
江戸時代末期。明石藩江戸家老・間宮が、老中・土井家の門前で切腹自害した。
間宮の死は、生来の残虐な性質で罪なき民衆に不条理な殺戮を繰り返す、明石藩主・松平斉韶の暴君ぶりを訴えるものだった。
斉韶は将軍の弟で、明年には老中への就任が決まっているが、この事件は時の幕閣を動揺させる。
このままでは幕府、ひいては国の存亡に関わると判断した土井は斉韶暗殺を決断、御目付役・島田新左衛門にその命を下した。
大事決行を控え、新左衛門は刺客集めに奔走。
御徒目付組頭・倉永、剣豪浪人・平山、酒と女と博打に溺れる新左衛門の甥・新六郎など十一人の強者たちが新左衛門の元に集う。
暗殺計画は極秘裏に進められていたが、斉韶の腹心・鬼頭半兵衛はその情報を掴む。
かつて新左衛門と剣の同門でありながらも道を違え、御用人千石の身分を自分で掴んだ傑物である。
新左衛門は、斉韶を襲うのは、江戸から明石への参勤交代の帰国の道中しかないと判断。
襲撃場所を交通の要所の落合宿に決める。
斉韶を落合宿に誘い込むため新左衛門は事の詳細を、かつて自分の息子と嫁を斉韶に殺された尾張藩の木曽上松御陣屋詰・牧野靭負に打ち明け協力を求めた。
刺客たちは現地へ急行し、明石藩を迎え撃つ要塞へと落合宿を改造する。
道中、山の民・木賀小弥太がこの計画に加わり、落合宿にて総勢十三人の刺客が揃う。
しかし、明石藩の一行は待てども待てども落合宿にやって来ない・・・。


寸評
1963年の工藤栄一監督作品のリメイクだが、旧作は白塗りのチャンバラ映画から任侠映画や実録路線に移行する過程で生まれた集団抗争時代劇として登場した。
特に工藤栄一の活躍は素晴らしく1964年にはこれまた傑作の「大殺陣」を撮り、1967年には「十一人の侍」を撮っている。
これらが登場した背景には60年安保闘争の影響が有るのかもしれないが、まだガキだった私はそのテーマ性よりもラストの死闘シーンの迫力に手に汗を握り息を止めて見入った記憶が有る。

今回はカラー化されていることもあってその効果は倍増している。
ただし全体的な構成は旧作品の方が優れていると思うし、政治に翻弄されて殺人鬼と化していく侍たちの悲哀が出ていたと思う。
冒頭に「原爆が投下される100年前……」というようなテロップが出るが特別な意味はなく、何のためのテロップだったのかと思ってしまう。
武士という階級の虚しさや、民衆をないがしろにする暴君への批判などもあるが、メッセージ性は少なく、その分エンターティメントとしては見応え十分としている。
ラストの刺し違える相手が前作と違っているが、この相手は旧作通りにしておいた方が良かったのではないか?
明石藩主松平斉韶の非道ぶりは本作品の方が徹底して描かれており、特に斉韶の食事シーンなどを見せられると、これは発狂しているのではないかとさえ思わされる。
その松平斉韶を稲垣吾郎が怪演(熱演)していてジャニーズ事務所がよくOKしたものだと思う。
観客を刺客たちに感情移入させる功労者として立派だった。

島田新左衛門の慎重さと鬼頭半兵衛の知恵比べを描く渡しの場面が無く、代わりに待ち伏せで浪人に襲わせるシーンが挿入されているが、これもエンタテインメントとしての見ごたえをアップする為だったのかもしれない。
その意味では落合宿庄屋の三州屋徳兵衛や木賀小弥太などが狂言回し的に使われていて、笑わせるシーンなどもいれてサービス精神旺盛である。
平幹二郎、松方弘樹などの大芝居的な演技も彩りを添える。
吹石一恵をどうして二役で使ったのかなあ?
身分と育ちの違う新六郎と小弥太の女性に対する想いを関連付けたかったのかなあ?
それにしても「本当の戦いはこんなだったのか?面白いのお~」は、うがった見方かもしれないが昨今の中国との緊張に右往左往して、平和ボケしていた現在の私たちとリンクして何だかアジテーションの様な気がした。
少々長すぎるラストの戦闘シーンも、斬っても斬っても現れる敵を実感させて、久しぶりにセットの見事さを体感させてもらった。
なにせこの乱闘シーンは50分にわたるもので、主君側の300人近くを島田たちがわずか13人でやっつける。
劣勢をひっくり返すために、あっ と驚く奇襲作戦が次々に登場する。
奮闘むなしく死んでいく刺客たち一人ひとりに見せ場を用意しているのでその長さになっているのだが、ここまで長いとちょっと間延び感が出てくる。
しかしまあエンタテインメントだけを追求した作品としては十分に面白い映画になっていた。

十三人の刺客 1963年版

2019-07-29 08:31:49 | 映画
「十三人の刺客」 1963年 日本


監督 工藤栄一
出演 片岡千恵蔵 里見浩太郎
   内田良平 丹波哲郎
   嵐寛寿郎 西村晃
   月形龍之介 丘さとみ
   三島ゆり子 藤純子
   河原崎長一郎 水島道太郎
   加賀邦男 山城新伍

ストーリー
弘化元年九月明石藩江戸家老間宮図書(高松錦之助)が老中土井大炊頭(丹波哲郎)の門前で割腹し果てた。
間宮の死は藩主松平左兵衛斉韶(菅貫太郎)の暴君ぶりを訴えていた。
これに対し老中土井は、非常手段として御目付役島田新左衛門(片岡千恵蔵)に斉韶暗殺を命じた。
大事決行をひかえ新左衛門は十一人の協力者を集めた。
暗殺計画は極秘裡に進められたが、この暗殺計画を事前にキャッチした人物がいた。
鬼頭半兵衛(内田良平)、明石藩側用人千石の身分を自分で掴んだ傑物である。
不詳事発生以来一ヵ月余、明石藩が突如参勤交代の途についた。
行列を追う刺客団は、中仙道で奇襲作戦を練ったが、半兵衛の奇計にあい失敗に終った。
新左衛門の計略は、斉韶が尾張を通る時、その尾張藩の通行を阻止すれば、勢力を削られた行列は襲撃には絶好の落合宿に出るので、そこを狙うと言うものであった。
尾張藩通行を阻止する方法は、尾張藩木曽上松陣屋にかつて息子夫婦(河原崎長一郎、三島ゆり子)を斉韶に惨殺され、深い恨みを抱く牧野靭負(月形龍之介)に依頼された。
長老の倉永(嵐寛寿郎)が早速上松陣屋に飛び、他の刺客は落合宿へ急行した。
郷士の倅・木賀小弥太(山城新伍)がこの計画に加わり、今はただ時を待つだけとなった。
運命の朝、深いもやの中を落合宿に乗り込んだ斉韶公以下53騎は、先ず真新しい高塀にさえぎられた。
混乱の中、退路の橋が大音響と共にくずれ落ちた。
五十三騎は、半兵衛の意志とは逆に障害物にはばまれて、刺客の誘導に乗っていった。
十三人と五十三騎の死闘は続いた。
虚しい死体の群の中に新左衛門、半兵衛の死体もあった。
弘化元年、斉韶は参勤交代の途中発病、帰城と同時に死去と届けられた。


寸評
宮本武蔵を初め、主人公とライバルが決闘をするものが多い中にあって、本作は「七人の侍」と同様に集団対集団の対決を描いている。
討たれる者は将軍の弟という出自をかさに着た暴君である。
権力をかさに着て我儘が過ぎ、色欲に溺れ残虐非道を繰り返すどうしようもない殿様である。
幕府の中枢もこの殿様の始末に困っているが、将軍の弟とあって手をこまねいている。
おまけにもうすぐ老中という幕府の要職に就くことになっているので、体よく隠居させるわけにもいかない。
今の世で言い換えるならば、社長の息子が無能のくせに肩で風を切り、社員からは嫌われていながらも、まもなく取締役に就任するといった状況だ。
困り果てた現職の老中は幕府の威厳を守るため、暴君斉韶を暗殺することにしたというのが発端である。
これは独裁者がクーデターによって処刑されるという、どこかの国で起こっていそうな図式だ。

暗殺実行者の島田新左衛門は仲間を集めるが、「七人の侍」のように人材に困るようなこともなく11人を集める。
わずかに新左衛門の甥である島田新六郎(里見浩太郎)が参加するくだりだけが描かれている。
芸者おえん(丘さとみ)に養ってもらっているような風来坊だが、参加するにあたって「しばらく留守にする」とおえんに言うと、おえんは「いつ頃のお帰りですか」と尋ねる。
新六郎は「早ければひと月、遅くても来年のお盆には帰ってくる」と伝える。
死を覚悟した言葉だが、なかなか粋なセリフだ。

暴君には切れ者の側近がいることは忠臣蔵の例を見るまでもなく当然の設定だ。
先ずはその鬼頭半兵衛との駆け引きが描かれ、途中で行方が不明となるなどしてサスペンス性を出していく。
新左衛門たちは暴君の性格を見越して落合宿をまるまる要塞のように作り変えて一行を待ち受ける。
その為に住民の立ち退き料として3500両もの大金を投じているのだが、それだけの大金をつぎ込むのなら爆薬でも仕掛けてふっ飛ばせばいいようなものだが、それでは映画にならない。
せめて鉄砲で銃撃するとかがあってもいいと思うのだが、飛び道具は弓だけで、刀による乱闘シーンが続く。
13対53という集団戦であるが、なぜか侍の集団戦の人数は奇数である。
「七人の侍」「三匹の侍」「十一人の侍」などが思いつく。

死闘の中で新左衛門一派の中からも死んでいく者が出てくるが、その死に際が劇的に描かれているのは、剣客平山九十郎(西村晃)と島田新左衛門ぐらいで、生き残った者の余韻はあまり感じない。
幕府の面目のために老中土井大炊頭は明石藩の藩主松平斉韶暗殺を決断し、武士の面目のために島田新左衛門は斉韶を暗殺し、同じく武士の面目のために鬼頭半兵衛は新左衛門を刺し、新左衛門は鬼頭半兵衛にさされてやる。
新六郎とおえんはどうなったのか、小弥太といい仲だった加代(藤純子)はどうしたのかは不明のままで、その辺の事情を余韻的に描いても良かったような気がする。
本作は集団抗争時代劇というジャンルを生み出した作品で、工藤栄一としても代表作になったのではないか。

シャレード

2019-07-28 13:26:43 | 映画
「シャレード」 1963年 アメリカ


監督 スタンリー・ドーネン
出演 オードリー・ヘプバーン
   ケイリー・グラント
   ウォルター・マッソー
   ジェームズ・コバーン
   ジョージ・ケネディ
   ネッド・グラス
   ドミニク・ミノット
   ジャック・マラン

ストーリー
スキー旅行先で、富豪の夫・チャールズとの離婚を決意したレジーナ・ランパート。
旅行からパリの自宅に戻ると、家財道具一切が部屋から持ち出されており、夫の姿も見えない。
そこへ、司法警察のグランピエール警部が現れ、チャールズの死を告げる。
警察署で、夫の遺品を受け取ったレジーナだが、小さなバッグに手帳、櫛、万年筆、レジーナに宛てた未投函の手紙などのほか、パスポートが4通もあったことが不信感を呼んだ。
家具を売り払われ、電気も止められて途方にくれるレジーナのところへ、スキー旅行先で知り合ったピーター・ジョシュアが現れ、「何か協力できることはないか」と申し出る。
チャールズの葬儀は寂しいもので、出席者はレジーナと、レジーナの親友でスキー旅行に同行したシルヴィ、そしてグランピエール警部だけであった。
途中でギデオン、テックス、スコビーという男たちが次々と現れて、チャールズの死亡を確認していく。
レジーナはアメリカ大使館のバーソロミューに呼び出され、チャールズの素性を知らされた。
証拠写真には、若い頃の夫・チャールズと、葬儀に現れた3人が一緒に写っていた。
一味は第二次世界大戦中に25万ドル相当の金塊輸送任務に当たっていたが、それを隠して終戦を迎え、チャールズが金塊をこっそり掘り返し、独り占めにして持ち去ったのだという。
チャールズが持ち去った25万ドルのありかは妻のレジーナが知っているに違いないと信じたギデオン、テックス、スコビーの3人がレジーナの前に現れ、「金をよこせ」と脅迫する。
3人の脅迫からレジーナを守ろうとするピーターに、レジーナは好意を持ち惹かれ始める。
しかしスコビーからの電話忠告により、レジーナの中には、ピーターも実は3人の仲間ではないかとの疑いが芽生え始めた。


寸評
始まってすぐに列車から死体が転げ落ちてサスペンスムードをだす。
そこからアナログ的ではあるがポップなタイトルバックとなり、ヘンリー・マンシー二の美しいテーマ曲が流れ出すと、サスペンスだけれどロマンチックな作品なんだろうなという気分になる。
作品全体の雰囲気を知らせるこのオープニングタイトルはいい。

ファーストシーンで雪山を背景にリゾートホテルのベランダでくつろいでいるレジーナ・ランパートのオードリー・ヘプバーンが登場する。
ジバンシーの衣装に身を包んだ彼女はたまらなくエレガンスである。
彼女を狙ってピストルが突き出て、早くも事件発生かと思わせるが、実はレジ-ナの友人シルヴィの息子の水鉄砲によるイタズラだったというコミカルな出来事だった。
この一件でこの作品のもう一つの特徴であるコミックのイメージが湧き上がる。
同時にこの少年を通じて重要な伏線が張られる。

この後はドンデン返しに次ぐドンデン返しで、ストーリ展開の妙がうかがえる。
家具も売り払われ電気も止められてしまった自宅で途方にくれるレジーナのもとへ、スキー旅行先で知り合ったピーターが現れ、更にもう一つの特徴のロマンチック・ムードが匂いだす。
一転するのがその後に行われた葬儀の場面で、そこではギデオン、テックス、スコビーという謎の男たちが突然現れチャールズの死亡を確認し去っていく。
そのミステリーシーンでもグランピエール警部に爪を切らせて笑いを取り、コミカルさを忘れていない。

持っている自身のキャラクターからも、それまでの様子からも明らかに健全な紳士に見える ケイリー・グラントが実はという展開がドンデン返しの始まり。
そこからは犯人たちと亡夫との関係や、ピーターは一体何者なのかという疑問を投げかけながら、話がテンポよく進んでいく。
緊迫したムードを出していってもいいはずなのに、グランピエール警部ののんびりとした対応や、オードリー・ヘプバーンとケ―リー・グラントが繰り広げる恋模様が、サスペンスよりもロマンチック・ムードを出していって、観客をうっとりさせるので、ハラハラドキドキするよりも、ホンワカした雰囲気に浸れるのがこの作品のいいところだ。

三人組がものすごい凶悪犯という風には見えないし、子供を人質にとっても危害を加えるわけでもなく優しいものなことも犯罪ドラマの要素を薄めている。
しかし三人組の一人が殺される辺りからサスペンスムードが一気に走り出す。
観客にとっても抱き続けた疑問と同時に、「もしかしたら犯人は…」の気持ちが湧いてきて、物語が終盤に差し掛かっていることを実感する。
追い込みも一気で、あることが判明して観客はすべてを理解する。
そしてラストシーンのコミカルさとホンワカムードにとどめを刺される。
スタンリー・ドーネンが、洒落たセンスを活かして作り上げたミステリー・コメディの傑作と言える。

Shall We ダンス?

2019-07-27 07:54:49 | 映画
「Shall We ダンス?」 1996年 日本


監督 周防正行
出演 役所広司 草刈民代 竹中直人
   渡辺えり子 柄本明 徳井優
   田口浩正 草村礼子 原日出子
   森山周一郎 香川京子 上田耕一
   大杉漣 本木雅弘 本木弘雅
   清水美砂 本田博太郎

ストーリー
真面目でこれといった趣味も持たないサラリーマンの杉山正平は、ある日の会社の帰り、電車の中から見えるダンス教室の窓に、物憂げに佇むひとりの女性を見つけた。
その美しい姿に目を奪われた彼は、数日後、その“岸川ダンス教室”を訪れる。
杉山が見かけた女性はこのダンス教室の娘・舞で、ダンス・コンテストでアクシデントに見舞われてから、パートナーに対する信頼感を持てなくなり、父親から半ば強制的にダンス教室の先生をさせられていた。
そんなある日、教室に杉山の会社の同僚である青木が姿をみせた。
別人のようにいきいきと踊る青木の姿に驚いた杉山は、同じ教室に通う主婦・豊子のダンスにかける情熱にも心を動かされ、不純な動機もすっかり消えて、ダンスそのものに純粋にのめり込んでいった。
杉山は、たま子先生の提案で豊子とペアを組んで大会に出場することになり、舞のコーチのもと、さらなる特訓の日々を過ごすことになった。
杉山は豊子とワルツをうまくこなして見事二次審査を通過したが、三次のクイックステップで大失敗する。
自分のダンスが終わったと感じた杉山は、それからダンス教室へ行くのをやめてしまった。
しばらくして、杉山は舞がイギリスへ行くと知らされる。
舞は杉山たちとの特訓を通じてパートナーへの信頼感の大切さを痛感し、ダンスへの純粋な気持ちを取り戻して、再びブラックプールに挑戦することにしたのだった。
青木と豊子は舞のためのサヨナラ・パーティに杉山を誘うが、彼は行こうとしない。
パーティーの夜、いつもの電車の中からダンス教室の窓を見上げた杉山は、そこに“Shall we ダンス?”と書かれた自分宛てのメッセージを見つけた・・・。


寸評
社交ダンスを習ってみたいと思わせる楽しい映画で、単純な話をここまでエンタメ性を持たせて消化した周防正行に並々ならぬものを感じる。
岸川舞を演じた草刈民代はバレエダンサーらしいので、ダンスシーンはお手の物だったろうが、すらりとした長身と背筋の伸びた姿勢から発せられる素人っぽい演技と話し方が、この作品においてはプライドだけが先行しているお高い女性にぴったりでキャスティングの妙がうかがえる。

出演者は皆、社交ダンスの素養があったのかもしれないが、役者魂を見せつけられるような社交ダンスを見せてくれる。
役所広司、渡辺えり、竹中直人などが達者なダンスを披露していて感心させられる。
たま子先生の草村礼子さんなどは本当にダンス教室の先生の様で、こんな優しい先生なら社交ダンスを習ってみようかという思いになる。

主人公の杉山は平均的なサラリーマンで、会社での地位もまずまずだし、優しい奥さんと子供にも恵まれ、念願のマイホームを手に入れて幸せな生活を送っている。
しかしどこか物足りないものを感じていて、生き生きとしたところがない。
部下たちと飲みに行っても、郊外の家のために時間がかかるのか、二次会などにはいかずに帰ってしまう真面目人間だ。
その杉山が、動機が不純だとしても社交ダンスに目覚めて生き生きしていく姿に、観客である僕もなんだか嬉しくなってくるのだ。
情熱を傾けるものが出来て生気を取り戻して行く姿が微笑ましい。
彼の周りを取り巻く教室の仲間のキャラクターは極端だが、杉山だけは静かに描いていて全くの喜劇性を排除してい田と思う。
主人公の一人である岸川舞の再生物語でもあるのだが、彼女の再生よりも杉山と妻の昌子の愛情の確認エピソードが胸を打つ。

ラストシーンは映画的で素敵だ。
舞先生の送別会のダンスパーティが開かれていて、参加者が踊っている。
カメラが俯瞰的に引いていくと、それがスクリーンの様になってロンドンにあるホールの舞台に消えていく。
そこでは世界最高峰のダンスが披露されているのだが、先ほどのスクリーンもどきのフレームにエンドマークが出るという粋な演出だ。
最後まで映画の世界に浸ることが出来たいいエンディングだった。
聞きなれた音楽が適度に流れるストーリー展開で、見ていて知らず知らずウキウキしてくる構成が上手い。
社交ダンスは愛好者はともかくとして、やはりマイナーな文化だと思う。
喜劇的な軽さを持ちながらも、マイナーをメジャーにするだけの力を持った秀作だ。
本作で意気投合した監督の周防正行と草刈民代は、実社会において結婚するというオマケがついているというハッピーエンド作品である。

ジャッカルの日

2019-07-26 08:25:35 | 映画
「ジャッカルの日」 1973年 イギリス / フランス


監督 フレッド・ジンネマン
出演 エドワード・フォックス
   ミシェル・ロンズデール
   アラン・バデル
   トニー・ブリットン
   シリル・キューザック
   エリック・ポーター
   オルガ・ジョルジュ=ピコ
   デルフィーヌ・セイリグ
   ミシェル・オークレール

ストーリー
1962年8月26日ペティ・クラマール郊外で、エリゼ宮殿からパリ近くの空港へ向かうドゴール大統領を乗せた車が、待ち伏せていた軽機銃で武装した1隊の襲撃をうけたが、奇跡的に大統領は無事だった。
すでに大統領暗殺は6回も計画されており、首謀者ジャン・マリエ・タリー中佐が銃殺刑に処せられた。
全てが、アルジェリアからのフランス撤退政策をとったドゴールに反対する秘密組織OASの仕業だったが、63年に入ると政府側のしめつけが激しくなり、OASは動きが取れなくなった。
国外に難をさけたOASの指導者ロダン大佐は最後の残された手段として、外国人でしかも当局には顔も名前も知られていない殺し屋を雇う事にした。
その男の暗号名はジャッカルと言い、契約金は50万ドル。
その金を用意するためにOASはフランス各地で銀行強盗を決行した。
しかしその突然のテロ行為はフランス当局を警戒させるもととなった。
やがてロダン大佐の護衛の1人ウォレンスキーがフランス側につかまり、拷問にかけられた。
彼はしゃべらずに死んだがその断片的な言葉からフランス警察が動きだした。
その頃、ジャッカルの準備も着々進み、精巧な狙撃銃を作らせフランス国内に潜入した。
ウォレンスキーの断片的な自白は、大統領を守る立場にある大臣を緊張させ、早速政府首脳陣の主だった連中が召集された。
会議の結果、警察のルベル警視と補佐のキャロンに全権が委任され、捜査が開始された・・・。


寸評
フレッド・ジンネマン監督らしい、派手なアクションなどないにもかかわらず手に汗を握らせ、ドキドキするような緊迫感を生み出している社会派サスペンスの一級品だ。
イギリスやフランスの当局が特定し見つけ出すことが出来なかったジャッカルを、OASの連中がなぜ簡単に連絡が取れたのかなどという疑問はさておいて、前半のジャッカルが身分を偽る準備段階からスリルたっぷりで引き込まれる。

先ずは身分証などを偽造するが、その相手から取引を持ち掛けられると、ためらいもなく一撃のもとに倒す。
おそらくジャッカルの元の身分証などはどうせ作ったもので、それが戻ってこなくても大したことはなかったのではないかと思った。
鍵を手に入れた彼は、預けたものを取り返したかもしれないが、取り返さなくても問題はなかったように思う。
それほどジャッカルは謎の人物で、正体が判明していない本当は誰なのかが分からない人物なのだ。
特注のライフル銃の調整場面などもスピーディで一気に見せる。
それは車の手配やら、ボディのカラー変更、ナンバープレートの付け替えなどでも同様で、その手際の良さが心地よい。
自分に似た風貌の旅行者を見つけ出し、パスポートをすり取ってその人物になりきるくだりも面白い。
目的達成の為には平気で人を殺す残忍さも持ち合わせているが、その処置も素早い決行なので残忍さよりも手際の良さが目立つ演出だ。

後半はジャッカルの存在を知ったフランス当局との駆け引き合戦に入っていくが、常に先手を行くジャッカルを追うフランス当局の動きが面白い。
担当するのが凄腕の諜報員ではなく、どこか風采の上がらない中年敏腕刑事のルベル警視というのが雰囲気を作り出していく。
その捜査方法は人海戦術を用いた地道なもので、それがかえってスリリング感をだすから不思議だ。
パスポート申請者、ホテルの滞在者名簿の収集、入国者の洗い出しなど、対象件数が多い案件ばかりだ。
会議メンバーの中から情報が洩れていると悟ったルベル警視は盗聴を駆使しててその人物を割り当て、スパイを逮捕するが、会議メンバーの一人から「なぜ分かったのか?」と尋ねられ、「みなさん全員を盗聴させてもらった」とボソリというあたりは、その滑稽さに思わず笑みが漏れた。
面白いのは、そのルベル警視が犯人が分かったから後は我々でやると解任されることである。
簡単に発見されると思われたジャッカルが、あることで思惑通りに発見されなくなってしまうと、再びルベル警視が呼び出される。
権力機構の身勝手さがにじみ出てくる、面白い描き方だった。
ルベル警視は勘が鋭い。
警備の警官と話をするが、会話の内容は聞こえてこない。
しかし、話の内容は容易に想像がつく。
この演出も最後のスピード感と雰囲気をだして上手いと唸らせる。
結末もくどくなく、そのテンポを最後まで維持した作品だ。

社葬

2019-07-25 11:31:10 | 映画
「社葬」 1989年 日本


監督 舛田利雄
出演 緒形拳 十朱幸代 江守徹
   佐藤浩市 高松英郎 加藤武 
   藤真利子 吉田日出子 根上淳
   井森美幸 小松方正 加藤和夫
   中丸忠雄 芦田伸介 小林昭二
   イッセー尾形 船越栄一郎 
   北村和夫 野際陽子 若山富三郎

ストーリー
日本有数の大新聞「太陽新聞」のトップでは、会長派と社長派の間で権力争いが起こっていた。
関東の地方紙だったのを全国紙にまで発展させたのは現社長・岡部憲介(高松英郎)の父の大介(故人)と現会長・太田垣一男(若山富三郎)だった。
その会長派は太田垣の娘婿で専務取締役の添島(中丸忠雄)ほか松崎(根上淳)、栗山(小林昭二)、寺内(小松方正)、原口(加藤和夫)の各取締役で、一方の社長派は岡部憲介ほか息子の恭介(佐藤浩市)、谷(加藤武)、徳永(江守徹)、深町(菅貫太郎)、三宅(有川正治)の各取締役だった。
取締役販売局長として腕をふるう鷲尾平吉(緒形拳)は恭介の部下だったが、太田垣にも恩があり、派閥を嫌って中立的立場をとっていた。
ある日、定例役員会で谷から緊急議題として太田垣の代表権と名誉会長職の解任が提出され、鷲尾が棄権したために一票差で可決されてしまい、太田垣はショックで倒れ、病院にかつぎ込まれた。
社長派は皆勝ち誇った様子だったが、その晩岡部憲介が料亭で芸者(井森美幸)相手に腹上死してしまう。
通夜の臨時役員会では葬儀委員長と社長人事をめぐって紛糾、翌日、太田垣が代表取締役名誉会長に復帰し、社葬の葬儀委員長に就任したが、病気療養中のため実行委員長は鷲尾が務めることになった。
社長選出は無記名投票の結果、岡部恭介4票、添島隆治4票、白票3票で物別れとなった。
鷲尾は以前に穂積で飲んでから女将の吉乃(十朱幸代)と男と女のつき合いをしていた。
しかし、不倫旅行から帰ると、突然北陸の販売店が添島の差し金で納金拒否の態度をとった。
徳永の命令で鷲尾が何とか事態を収拾したが、添島は株の失敗で大穴を空けて自殺未遂。
憲介の死で社長派は劣勢、太田垣は病室に徳永を呼んで密約を交わした。
鷲尾は徳永からの辞表提出要求を拒否し、穂積で恭介と会った・・・。


寸評
監督の舛田利雄という名前は随分前から馴染みがある。
というのは「錆びたナイフ」や「赤い波止場」などの石原裕次郎主演作を何本も撮っていたからだ。
その頃はキャストだけが興味の対象だったが、監督舛田利雄の名はその登場回数の多さから自然と記憶した。
大作と呼ばれる作品も多く監督し、興行的にも成功する娯楽作品を安定的に手掛けていたと思うが、作品内容的にはいわゆるB級作品と呼ばれるもので通俗作ばかりだったような印象を持つ。
その中ではこの「社葬」が飛びぬけて面白く、彼の作品歴の中から一本をあげろと言われれば本作だろう。
「新聞はインテリがつくり、ヤクザが売る」と最初に出るが、いい得て妙なところがある。
僕は新聞配達のアルバイトをしていた時期があったが、確かに配達所の仕事はヤクザなものだった。
僕は4:00~6:00、15:00~17:00の2時間ぐらいで150軒から200軒を配達すればよかったが、所員の人は2:00ぐらいから織り込み広告のチラシを新聞に挟む作業をやっていて、すべて人力だった。
配り終わって睡眠をとった午後からは、持ち込まれたチラシをセット組し翌朝の折込に備えるという生活だ。
オマケに購読者の獲得競争もあり、さすがに映画で描かれたような掃除機や洗濯機の景品はなかったが、いろんな景品や無料購読期間などのサービス合戦があり、まさに仁義なき戦いが行われていた。

映画は販売担当重役の緒形拳の剛腕ぶりを描くとともに、新聞社における人事抗争を描いていく。
新聞社はその性質上、株式を公開しておらず役員会が事実上の株主総会を兼ねており、その場で会長派と社長派の抗争が勃発する。
虚々実々の駆け引きがあり社長派が勝利するが、オバカ役員が多数登場して喜劇映画の様相を呈してくる。
弁当の食あたりのエピソードなどは、果たして必要だったのかどうか。
社葬の会場で、課長が略式礼服なのに平社員がモーニングを着てきて一悶着あるなど滑稽な場面も多い。

鷲尾は社葬の実行委員長を命じられるが、僕も会長の死去に伴う社葬の実行委員長を仰せつかったことがある。
葬儀社との打ち合わせも大変だったし、予算との折り合いもあり社長の了解も得なければならないし、席順や焼香順も決めねばならない。
おまけにお通夜の読経時間にお坊さんが間に合わず、無音で焼香をしてもらうというハプニングも起きた。
伊丹十三の「お葬式」という傑作でも葬儀における滑稽な出来事を活写していたのに対し、この作品は社葬に伴う人事抗争をメインにしているが、それをお堅いものにしていないのは女優陣の踏ん張りだ。
十朱幸代の存在は勿論だが、鷲尾の秘書を務める藤真利子と、鷲尾の奥さんである吉田日出子が面白い。
藤真利子は鷲尾に思いを寄せているが、鷲尾の浮気のアリバイ作りに協力させられる。
それでも忠実な部下であり、鷲尾とは実に気安い関係だ。
吉田日出子は夫の浮気を疑っているのか知らぬふりをしているのか、ネアカでとぼけた奥さんである。
この二人の存在は作品のエンタメ性を高めている。
「社葬」というタイトルなのだから、社葬場面はもう少しリアリティがあっても良かったと感じる。
大新聞社の社葬なのだから、政財界からの参列者も多かったはずで、言っていたようにその席順の割り当ては大変だったと思うが、どうもそのような人は登場しなくて、社内の人たちだけだった。
参列者は多いように描かれていたが、すごい葬儀と感じさせなかったのは減点だ。

灼熱の魂

2019-07-24 06:55:50 | 映画
「灼熱の魂」 2010年 カナダ / フランス


監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ
出演 ルブナ・アザバル
   メリッサ・デゾルモー=プーラン
   マキシム・ゴーデット
   レミー・ジラール

ストーリー
初老の中東系カナダ人女性ナワル・マルワンは、ずっと世間に背を向けるようにして生き、実の子である双子の姉弟ジャンヌとシモンにも心を開くことがなかった。
そんなどこか普通とは違う母親がこの世を去った。
公証人から遺されたジャンヌとシモンに遺言が伝えられ、二通の手紙がわたされた。
その二通の手紙は、ジャンヌとシモンが存在すら知らされていなかった兄と父親に宛てられていた。
遺言は父親と兄を見つけ出し、それぞれに宛てた母からの手紙を渡してほしいというもの。
死んだと思い込んでいた父ばかりか、存在すら知らなかった兄がいることに当惑するジャンヌとシモン。
遺言に導かれ、初めて中東にある母の祖国の地を踏んだ姉弟は、母の数奇な人生と家族の宿命を探り当てていくのだった……。


寸評
かつてのレバノン内戦にヒントを得ているらしいが、舞台となる中東の国名は登場しないので、どこかの国の特殊事情を描いているわけではない。
物語は二つの時代のドラマが並行して描かれる構成になっていて、一つは母ナワルの身に起きた過去の出来事で、もう一つは公証人がリード役となって、ナワルの子供たち(特に姉のジャンヌ)が真実に迫って行く姿を追う。
両方のバランスがうまく保たれていて、見ていてもその切り替えに全く違和感がない。
社会派映画の要素はあるが、それを正面に据えることはなく、上質のミステリーに仕上げている。
国は特定されていないが、内戦状態で破壊された町や建物、荒涼とした砂漠地帯などの映像がリアリティをもたらしていた。
物語は章立てになっていて9章からなる。
  1.双子(ジャンヌとシモンの姉弟)  2.ナワル(母の名前)  3.ダレシュ(母が身を寄せた街)
  4.南部(母の故郷)  5.デレッサ(母が捕らわれた街)  6.クファリアット(監獄)
  7.歌う女(母が呼ばれた名前)  8.サルワン ジャーナン(子供の名前)  9.ニハド(兄の名前)
各章で壮絶な母の人生が描かれ、衝撃の事実が明かされていく。
姉のジャンヌは数学授業の助手を務めていることが冒頭で描かれるが、その時点ではそのことは単なる立場の照会程度だったが、後半で1+1=2の話が出てきて、なるほどそれで数学だったのかと納得する。
宗教対立はすさまじく、ダレスの章で襲われたナワルが十字架をかざし「キリスト教徒だ!」と叫ぶ。
異教徒は子供といえども射殺されてしまうという酷いものである。
ところがデレッサの章でナワルは急転換しているのだが、なぜ急転換したのかが描かれていない。
しかし最終章で狙撃手だったニハドが洗脳を受けて拷問人となったことが語られることで、おそらくナワルも洗脳を受けたのだろうと想像させる。
かかとにつけたタトーや、冒頭で見せたナワルの呆然とした表情がラストで結びついてくる。
そのように前後して伏線が張り巡らされている構成が素晴らしい。

彼等は追い求めた人物と出会い、衝撃の事実が伝えられるが、同時に更なるおぞましい事実も知ることになる。
伝えられた男は墓前に立ちつくす。
母が残した手紙は報復の連鎖を諫めるもので、愛の連鎖こそが素晴らしいのだと示していたのだろう。
テロを含めた憎しみへの警鐘だろうと思う。
それを理解した上でも、僕は見ている途中で何か喉に引っかかるような物を感じていた。
ラストに至ってそれが母ナワルが人を殺めた贖罪を全くしていないことと、何のために子供達に事実を明らかにしようとしているのかが不明なことだったと思い至った。
おそらくそれは、怒りや暴力の連鎖を断ち切らねばならないという思いなのだろうが、その為に子供たちにその事実を明らかにするものなのだろうか。
あの3人は事実を知ってなにか思い至るものがあったのだろうか、あるいはなにか得るものがあったのだろうか。
男が墓前に立ちつくすラストシーンに、イマイチ感動を覚えなかったのはその辺りに有ったのかも知れない。
しかしその感情はこの作品から傑作の称号を奪い取るものではない。
音楽、特に流れる歌声は、何を歌っているのか歌詞の内容は分からなかったけれど、ものすごく心に響いた。

シャイン

2019-07-23 09:00:56 | 映画
「シャイン」 1995年 オーストラリア


監督 スコット・ヒックス
出演 ジェフリー・ラッシュ
   ノア・テイラー
   アレックス・ラファロウィッツ
   アーミン・ミューラー=スタール
   リン・レッドグレーヴ
   ジョン・ギールグッド
   グーギー・ウィザース

ストーリー
激しい雨の晩、ワイン・バーで働くシルヴィアはびしょ濡れで店のドアを叩いたデヴィッド・ヘルフゴッドを家まで送ってやった。
デヴィッドは幼少の頃から音楽狂の父ピーターにピアノを仕込まれ、天才少年として評判になった。
だがアメリカ、ついで英国の王立音楽院に留学の話が出ると、最初は息子の才能に鼻高々だった父は、突然彼が家族から離れることを暴力的に拒否する。
デヴィッドは著名な作家で、年齢を越えて友情を結んだキャサリン・プリチャードの励ましで家を出る。
ロンドンで彼はセシル・パーカーに師事、パーカーは彼をわが子のように愛し、鍛える。
彼はコンクールでの演奏曲に、幼年時代から父にいつか弾きこなすよう言われていたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を選ぶ。
猛特訓でこの難曲を完璧に演奏したデヴィッド、だがその直後、あまりのストレスに彼は発狂した。
それから10数年を精神病院で過ごしたデイヴィッドはかつて自分のファンだったという女性に引き取られるが、その後引取り先を転々とし、そしてある晩、あのバーのドアを叩いたのだ。
シルヴィアはやがてデヴィッドがピアノを弾くことを知り、彼は店の専属ピアニストとして大人気になる。
新聞にも記事が出て、父も訪ねてくるが、彼は父を許せなかった。
シルヴィアが星占い師のギリアンを紹介し、二人はやがて愛し合い、結婚する。
デヴィッドはついにコンサート・ピアニストとして復帰する。
だがその席に、父の姿はなかった。
彼は妻とともに父の墓に参る。
彼の前には新しい人生が広がっていた。


寸評
フラッシュバックを用いながらデヴィッド・ヘルフゴットの半生が描かれていくが、フラッシュバック多用による観客の混乱もないし効果的な使い方で好感が持てる演出に思えた。
オープニングで精神異常をきたしているデヴィッド・ヘルフゴットが登場し、そして彼の少年時代が描かれていくから、僕は冒頭のデヴィッド・ヘルフゴットは現在の彼かと思って見ていたが、そうではないことがやがて分かる。
しかしそのことは映画にとって大した問題ではない。
少年時代のデヴィッドは父親によってピアノの英才教育を受けており才能が開花しようとしているのだが、父親は専制君主的で家族を支配しデヴィッドを従わせている。
父親には家族への愛情は人並み以上の強いものがありそうだが、その表現方法を知らない、あるいは間違っている父親である。
デヴィッドは父親に支配されているが、父親も息子のデヴィッドに依存しているように思える。
父親は息子を決して手放そうとせず、常に自分のもとに置こうとし、自分の意思を押し付ける。
子供への過度な期待と溺愛は時として子供の進路を誤らせる。
デヴィッドもアメリカ留学の機会を父親によって奪われてしまっている。
父親には「かわいい子には旅をさせろ」という気持ちがない。
強権をふるって子供をねじ伏せたかと思うと、自分程愛している者はいないのだと抱きしめたりする。
その姿は二重人格者的であり病的でもある。
デヴィッドの子供時代を描いた前半では、デヴィッドの天才性よりも父親の性格描写に興味が行ったのだが、その興味は父親に対する嫌悪感へと変わっていく。

そして、ついに父親の元を飛び出し英国の王立音楽院に入学するが、ここからの展開は俄然面白くなってきて映画的な盛り上がりが出てくる。
それは演出的なものではなく、デヴィッドの変化によるもので、先ずは王立音楽院での生き生きとした生活と、教授に見いだされ上達していく姿は青春映画のようでもある。
コンクールで彼はラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を完璧に弾きこなすが、そこで倒れてしまう劇的展開で、しかも精神異常をきたしてしまっていて、以後は精神病院での生活となる。
これ以降のデヴィッドをジェフリー・ラッシュが演じているのだが、ピアノ演奏シーンもなかなかのもので楽しめる。
ピアノを弾く手のアップはデヴィッド・ヘルフゴット自身が演奏しているものを撮影しているらしいが、カットの繋ぎに違和感はない。
デヴィッドは父親の束縛から逃れるのに苦労しているが、サポートしてくれる人には恵まれている。
年齢を越えて友情を結んだ著名な作家のキャサリン・プリチャード。
ロンドンの王立音楽院では師事したセシル・パーカーが彼をわが子のように愛し、鍛えてくれた。
精神病院で過ごしたデイヴィッドはかつて自分のファンだったという女性に引き取られ、ワイン・バーで働くシルヴィアがデヴィッドをピアニストに引き戻し、星占い師のギリアンと引き合わせている。
天才には神の加護があるのかもしれない。
僕はラフマニノフを、ましてやデヴィッド・ヘルフゴットを知らないできたが、この映画を見るとラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が聴きたくなった。

シャイニング

2019-07-22 08:14:28 | 映画
「シャイニング」 1980年 アメリカ


監督 スタンリー・キューブリック
出演 ジャック・ニコルソン
   シェリー・デュヴァル
   ダニー・ロイド
   スキャットマン・クローザース
   バリー・ネルソン
   フィリップ・ストーン

ストーリー
ジャックは、オーバー・ルック・ホテルで支配人と会い、そこに管理人として住み込む話を進めていた。
その頃、ジャックの家では、息子ダニーが母親ウェンディと食事をしながら浮かない顔をしていた。
友だちのいない彼は、自分の中にトニーというもう一人の人間を育てており、そのトニーがホテルに行く事に賛成していないのであった。
その時、ダニーの目の前で幻想ともつかぬ恐ろしい光景がよぎる。
それはエレベーターの扉から滝のように流れ出るおびただしい量の血と、その前に立ちつくす双児の少女の不気味な姿だった。
やがて、一家三人は大自然の中に建てられたオーバー・ルック・ホテルに到着し、一家三人だけの孤独な生活がはじまった。
ジャックの頭の中には、支配人が語ったある惨劇のことがちらついていた。
それは、ジャックの前任者の管理人グレイディという男のことで、彼は、この生活のあまりの孤独のために気が狂い、妻と二人の娘を斧で殺し、自分も自殺したということだった。
ホテルが閉鎖される日、黒人の料理人ハロランと二人になった時、ダニーは“シャイニング”という、幻視超能力の話をハロランから聞き、何げなく237号室のことを訊くが、彼は驚きの表情を見せるだけだった。
一方、ジャックは、作家という仕事柄、静かなホテルの一室で書けることはこの上なく好都合だったが、いざ始めてみると苛立つばかりで進まない。
妻のウェンディは、そんなジャックの様子を見て不安になった。
そして、三人の緊張に満ちた不安定な生活が遂に惨事を生むまでにいたる。


寸評
僕は原作を知らない。
謎めいたホラー映画で時々難解な場面もあるが、僕はラストシーンの写真を見て「ジャックは生まれ変わりだったのだ」と自分なりの理解を得ることが出来た。
では一体誰の生まれ変わりだったのか。
それはジャック自身の生まれ変わりであり、グイレディの生まれ変わりでもあったのだ。
もっと言えば、ジャックはグレイディその人でもあったのだと思う。
ジャックはかつて家族を惨殺し自殺したグレイディと出会うが、グレイディはジャックに「あなたこそ、このホテルの管理人です。ずっと昔から」と語っている。
個々でのショットが独特なもので、僕にはジャック=グレイディを想像させるものだった。
一方で、グレイディ自身もホテルの支配人からはチャールズ・グレイディと説明されていたのに、ジャックと会話するときにはデルバート・グレイディと名前を変えている。
ジャック≠グレイディだったとしても、グレイディも輪廻を繰り返しているのかもしれない。
支配人によって、管理人だったグレイディという男は、ここでの生活があまりにも孤独なために気が狂い、妻と二人の娘を斧で殺し自分も自殺したと語られている。
その呪いがこのホテルに取り付いていると思われるし、実はむごたらしい惨殺事件はずっと繰り返されてきたのだと想像させる。

ジャックの息子である幼いダニーは超能力を有していて、言葉を発せずに会話できるし、未来を予見する能力があり、トニーというもう一人の人間を自分の中に育てているのだが、このトニーが未来を予見していると思われる。
ダニーはトニーの声でホテルに行きたくないと言い、「パパはママや僕にひどいことをしないよね」と未来を予見したようなことを言っている。
ダニーと同じような超能力を得ているのが料理人のハロランだが、このハロランの存在はいささか影が薄い。
237号室のことを伝えたり、ダニーたちを救出に向かうがあっけない結末を迎える。
シャイニングを得ているハロランならば、もっと活躍する場面があっても良さそうだし、あるいは呪いの力をもっと示す存在になっても良かったと思うのだが・・・。

今では当たり前になっている手振れのないカメラ=ステディカムだが、普及させたのはこの作品からといわれていて、そのステディカムが効果的に使われている。
ダニーが三輪車でホテルの廊下を走り回っている姿を追うカメラは、従来だとレールの上の台車に乗って移動していたが、ここではステディカムがダニーの全身を捉えながらブレることなく追いかけている。
同じことが雪の迷路でジャックがダニーを追いかける場面でも行われている。
当時は実に新鮮に感じたシーンだった。
その迷路をジャックは抜け出すことが出来ず凍死してしまっているが、おそらくジャックは再び蘇ってくるのではないかと思うし、それを思わせるラストシーンである。
そしてジャックを閉じ込めた迷路を象徴として、冬の間だけ管理人だけを住まわせるこのホテルそのものが人々を喰いつくしているようにも思えてくる奥深い作品だ。

シャイアン

2019-07-21 04:43:26 | 映画
「シャイアン」 1964年 アメリカ


監督 ジョン・フォード
出演 リチャード・ウィドマーク
   キャロル・ベイカー
   ジェームズ・スチュワート
   アーサー・ケネディ
   エドワード・G・ロビンソン
   カール・マルデン
   ドロレス・デル・リオ

ストーリー
故郷イエローストーンから、荒涼たるインディアン居留地に移されたシャイアン族は、病気と飢えのため約3分の2が死んでいった。
酋長達は相談の上、生き残った同胞をつれて故郷に帰ることにした。
一行の中には、子供達に読み書きを教えているデボラという白人の娘が加わっていた。
脱出の報に合衆国警備隊は追跡を開始。
その中には、デボラを妻にと望んでいるアーチャー大尉がいた。
酋長達の努力にもかかわらず、仲間割れが原因でついに戦いは始められた。
ニュースは誇大宣伝され内務長官は鎮圧しなければ、自分の政治的生命も危ないと悟った。
ダッジ・シティでは市民軍が結成され、隊長には名保安官ワイアット・アープが選出された。
アープの努力にもかかわらず、両軍は大混乱をおこす始末。
やがて冬になり、寒さと飢えがシャイアンを苦しめた。
大尉とデボラの説得で、酋長の1人は降伏したが、白人達の苛酷な態度に再び戦う決心をした。
洞窟に身を隠したシャイアン達に、合衆国陸軍は大砲で攻撃した。
もはや時間の問題と思われた時に騎馬隊が現れた。
その先頭にいたのはシャイアンの生命を救うため、政治的生命を捨ててやってきた内務長官とアーチャー大尉であった。
うららかな春の日、シャイアン達がアーチャー大尉の部隊に護られてイエローストーンに到着した。
愛しながらも、シャイアンを苦しめた大尉を許す事ができなかったデボラは、初めて彼と喜こびを分ちあう。


寸評
この「シャイアン」は僕が映画館で最初に見た西部劇であり字幕映画なので、その為に作品内容以上に思い入れのある映画となっている。
それまでテレビドラマで見ていたものでは騎兵隊は善で先住民は悪という描き方が圧倒的だったが、ここではアメリカ政府によって翻弄されるシャイアン族の苦難の逃避行が描かれ、先住民に同情的である。
西部劇の神様と称されるジョン・フォードが、それまで手がけてきた西部劇の中で敵として描いてきた先住民への贖罪の気持ちがあったのかもしれない。
騎兵隊の中には命令こそ絶対唯一のものとする者や、感情を無視して職務を忠実に遂行しようとする者、あるいは父を殺されたことで先住民への復讐心に燃える者などがいる。
それでもアメリカ人の中にもいい人もいたのだというスタンスはなくしていない。
その代表がキャロル・ベイカー演じるデボラ・ライトだ。
彼女は先住民の子供たちに英語を教えていて慕われている。
最初から最後まで先住民と共にあり、先住民の信頼を得ている女性で、アメリカの良心の象徴だ。
リチャード・ウィドマークのアーチャー大尉も先住民に対して同情的で、無謀な攻撃を加えようとしない。
先住民側から描きながら白人側の善も描いているので告発映画という感じはしない。

ジョン・フォードとしては初のスーパーパナビジョンによる70mm作品だが、それを生かした騎兵隊と先住民の壮絶な戦いが描かれることはなく、戦いは局地戦の域から出ていない。
むしろ画面を圧倒するのは逃避行を続ける彼等の背景にある西部の風景だ。
追跡する騎兵隊の描写も含めて画面は詩情にあふれている。
その詩情を壊すのがダッジ・シティにおけるワイアット・アープの登場である。
ここでなぜワイアット・アープとドグ・ホリディが登場する必要があったのか。
なくても良いようなエピソードが挟まれ、僕は大いに違和感を持った。
ワイアット・アープを演じているのがジェームズ・スチュアートなのだが、まるで道化役者のような存在で、急に出てきて急に消えていった感じだ。
お腹を減らして食べ物をねだりに来たシャイアンを楽しみながら撃ち殺し、頭の皮をはいだ4人組の男たちの顛末も描かれておらず、どうもこのシークエンスには納得がいかない。
どこが「ダッジ・シティの戦い」なんだ。
この時間をもっとほかのエピソードでつないでいたら、更に詩情豊かな作品になっていたのではないかと思う。
ジョン・フォード晩年の作品で、ワイアット・アープへと西部劇への惜別の意味合いでもあったのだろうか。

ダル・ナイフとリトル・ウルフは実在の酋長で、ここで描かれた逃避行も実話だ。
映画と違って実際は、彼らに続く者たちが本来のワイオミングに保留地を認めさせたようだ。
最後にダル・ナイフの息子の赤シャツを殺し、去っていったリトル・ウルフ夫婦を浮かばせる夕陽は美しく悲しい。
彼等の崇高な精神が描かれている。
最後にシャイアン族は故郷であるイエロー・ストーンへ戻ることができたのだが、その決断をするエドワード・G・ロビンソンが渋い演技で締めくくっている。

ジャージー・ボーイズ

2019-07-20 10:14:32 | 映画
「ジャージー・ボーイズ」 2014年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 ジョン・ロイド・ヤング
   エリック・バーゲン
   マイケル・ロメンダ
   ヴィンセント・ピアッツァ
   クリストファー・ウォーケン
   マイク・ドイル
   レネー・マリーノ
   エリカ・ピッチニーニ

ストーリー
ベルヴィル。そこは犯罪が日常茶飯事というニュージャージーの最貧地区。
フランキー・ヴァリ(ジョン・ロイド・ヤング)、ボブ・ゴーディオ(エリック・バーゲン)、ニック・マッシ(マイケル・ロメンダ)、トミー・デヴィート(ビンセント・ピアッツァ)の4人はそこで生まれた。
1951年、イタリア系移民が多く住むこの街で、しがないチンピラ暮らしをしているバンドマンのトミー・デヴィートは、美しいファルセットを響かせる少年フランキー・カステルチオ(のちのヴァリ)を自分のバンドに迎え入れる。
フランキーの歌声は地元マフィアのボス、ジップ・デカルロ(クリストファー・ウォーケン)をも魅了し、彼はサポートを約束する。
最初は鳴かず飛ばずの彼らだったが、才能豊かなソングライター、ボブ・ゴーディオとの出会いによって大きな転機を迎える。
ヴォーカルのフランキー、ギターのトミー、ベースのニックに、キーボードと作曲を担当する最年少のボブが加わり、バンド名を“フォー・シーズンズ”と改め、希望のない町に生まれた4人は、『シェリー』、『恋はヤセがまん』、『恋のハリキリ・ボーイ』、『悲しき朝焼け』、『悲しきラグ・ドール』、『バイ・バイ・ベイビー』、『愛はまぼろし』、『君の瞳に恋してる』といった数々の名曲をヒットさせ、音楽界に不滅の伝説を打ち立てていく。
しかし、そのまばゆいばかりの栄光ゆえに、裏切りと挫折、別離、家族との軋轢といった不幸が彼らを襲う…。


寸評
イーストウッドは音楽に造詣が深い監督だが、80歳の半ばになって瑞々しいミュージカルと言ってもいいような作品を撮りあげたことに感嘆の声をあげずにはいられない。
物語進行もよどむことなく的確で間延び感がないし、何よりもドラマから音楽シーンへの移行がなめらかだ。
メンバーの一人が観客席のこちらに話しかけてくる演出も、目にしたことはあるのに新鮮にさえ感じてしまう。
金庫を盗もうとした車で宝石店に突っ込んでしまうコメディ調のようなシーンもありながら、一転したシリアスなシーンも当然見せ場として描き込んでいる。
家庭不和を初め、悲しい場面もあるが、それを次のシーンへとだらだら引っ張っていないことがテンポを生み出していたのだろうと思うと、舌を巻くのはイーストウッドの円熟した演出だ。

60年代は僕が洋楽に目覚めた時代で、フォー・シーズンズの「シェリー」は自然と耳に入ってきた。
フランキー・ヴァリの甲高い声が今でも耳に残っているし、ニック・マッシの低音も魅力的だった。
主演のジョン・ロイド・ヤングの歌声は、フランキー・ヴァリを知る人にとっても違和感のないものだったと思う。
この作品のすべてにおいて違和感を感じさせなかったことが、日本人の僕に心地よさをもたらした原因だろう。
ジョン・ロイド・ヤングを初めとするキャストが、フォー・シーズンズを感じさせたこと。
よくあるミュージカル映画のように、突然歌いだしたり、ありえない場所で歌い踊ることがなかったこと。
ストーリを彩る出来事が変化に富んでいたことなどで、音楽映画ファンでない人も楽しめる内容になっていた。
この映画自体が優れたライブショーのようになっていると言っても過言でない。

メンバーたちはいつも誰かが刑務所に入っていて、その間の出来事が面白おかしく描かれる。
ジャズメンだけでなくニュージャージーの不良少年たちだからジャージー・ボーイズでもある。
フランク・シナトラがマフィアと関係があったと噂されているが、かれらも同様にデカルロと言うマフィアの庇護を受けることになり、その経緯も青春映画そのものだ。
シナトラの名前も随所で使われ、フランク・シナトラとの対比が匂わされる。
しかし、ビーチ・ボーイズやビートルズの名前は出てこなかった。
フランキーは知り合った美人のメアリーと結婚するが、メアリの提言によりヴァリの綴りをイタリア系らしいという理由でVallyからValliに代える場面は、メアリーの性格を表すエピソードとして僕は面白く感じた。
子供も生まれ幸せな結婚生活だと思われたが、公演旅行などによる長期不在で軋轢が生じてくる。
その間の深刻な家庭崩壊を描かずに、それを感じさせる上手い演出が見て取れる。
末娘を可愛がっていることも描かれ、それがラストの「君の瞳に恋してる」の熱唱につながる。
フランキー・ヴァリはここで彼の特徴ともいえる高音に対応するために作り出す裏声としてのファルセットを使わないで歌い上げている。
ラブソングとしてヒットしたこの曲なら、本来はファルセットを駆使したはずである。
あえてファルセットを使わないで歌った姿と、君の瞳によせるフランキー・ヴァリの心痛が伝わってきた。
彼の思いとは別に、ラブソングとして絶大な拍手を受ける姿にほっとする。
それにしても「Can't Take My Eyes Off You」という原題を「君の瞳に恋してる」とは名訳だ。
ラストはものの見事に締めくくっている。 お見事!

市民ケーン

2019-07-19 07:03:44 | 映画
「市民ケーン」 1941 アメリカ


監督 オーソン・ウェルズ
出演 オーソン・ウェルズ
   ジョセフ・コットン
   ドロシー・カミンゴア
   エヴェレット・スローン
   アグネス・ムーアヘッド
   ルース・ウォリック
   レイ・コリンズ
   アースキン・サンフォード

ストーリー
荒廃した壮大な邸宅の内で、片手に雪景色の一軒家のあるガラス玉を握り、“バラのつぼみ”という最後の言葉を残し新聞王ケーンは死んだ。
死後のケーンに与えられた賛否の声は数多かったが、ニュース記者トムスンは“バラのつぼみ”の中にケーンの真の人間性を解く鍵があると信じ彼の生涯に関係のある人々に会うことになった。
ケーンが幼少の頃、宿泊代のかたにとった金鉱の権利書から母親が思わぬ金持ちになった。
そのために彼は財産管理と教育のため、片田舎の両親の愛の中から無理矢理にニューヨークに押し出された。
青年になったケーンは、友人のバーンステインとリーランドの協力を得て、新聞経営に乗り出す。
センセーショナリズムによってケーンの新聞は売上を伸ばすが、友人たちはケーンの手法を批判する。
世界第6位という財産をバックに報道機関をことごとく掌中にし、彼の権力はもはや絶対的なものになった。
一方大統領の姪エミリーをしとめるに至り知事から大統領への座は目前のものとなった。
しかし圧勝を予想された知事選挙の数日前に、オペラ歌手スーザンとの情事をライバルに新聞紙上で暴露され形勢を逆転された。
それと同時に妻エミリーはケーンのエゴイズムに耐え切れず去っていった。
離婚、落選という初めての挫折にケーンは狂ったようにスーザンに全てを集中した。
彼女の素質も考えず巨大なオペラ劇場を建て自分の新聞で大々的に宣伝をしたが、それはかえって彼女を重圧から自殺未遂へと追いやってしまい、遂には彼女も去っていった。
そして1941年孤独のうちにケーンは死んだのだった。
トムスンの努力にもかかわらず“バラのつぼみ”の意味はわからなかった。
彼の死後身辺が整理され、おびただしいがらくたが暖炉に投げこまれた。
そのなかの1つ幼少の頃に遊んだソリが燃えあがる瞬間、ソリの腹に“バラのつぼみ”の文字が現れた。


寸評
僕はこの映画を学生時代に建て替えられたフェスティバルホールの地下にあったSABホールでの名画鑑賞会で見た。
学生時代のことで何十年も前の話とあって細部の記憶はなくなっている。
その頃の「市民ケーン」の評価は高くて歴代映画のベストワンに挙げられていた。
(2012年、英国映画協会の「映画監督が選ぶベスト映画」の1位に、小津安二郎監督の「東京物語」が選出されている)
期待が過ぎたのかそれほど評価される映画なのかという印象を持ったことが記憶として残っている。
画面の手前も奥も同時にはっきり写るというパン・フォーカスの技術にも、ニュース映画を挟み込んで真実らしくみせる手法も、内幕物として主人公が批判的に浮き彫りになっていくことにも、さして驚くこともなく感銘を受けることもなかった。
当時でもそうだったのだから、今見るとさすがに新鮮な衝撃を受けることはない。
傍若無人に生きて地位を上り詰めたこの資本家も、私生活は空虚なもので誰からも愛されず孤独だったと言うこの映画の内容も目新しいものではない。

しかしこの映画における俳優オーソン・ウェルズは魅力的だ。
批判的に描かれているケーンだが、この主人公が実に生き生きとした魅力を持っており、ケーンはまるでオーソン・ウェルズの自画像ではないかと思わせる。
スーザンを分不相応なオペラ劇場に立たせ、見事に失敗した事実を突きつけられ彼女を見つめるケーンの姿は人間的であり、映画の中では魅力を放つ。
妻エミリーとの食事シーンでの新聞の使い方など印象的なシーンを数多く有している作品である。
オーソン・ウェルズは「市民ケーン」によって監督としての名をとどめ、その功績も大きいものがあると思うが、僕はその後に見たキャロル・リード監督の「第三の男」とで、俳優オーソン・ウェルズの印象が強烈である。

僕がこの映画を思い出すとき、浮かぶシーンはやはりラストシーンである。
カメラは取り散らかした倉庫を横切るが。それは家具や調度品という物への崇拝と、社会における人間的価値の疎外を訴えるという映画的表現だ。
暖炉で燃えるソリ、立ち入り禁止の看板が主人公の孤独と終焉を如実に表している。
「バラのつぼみ」は僕の映画鑑賞の歴史においても消え去ることのない言葉となっている。

下妻物語

2019-07-18 09:24:19 | 映画
「下妻物語」 2004年 日本


監督 中島哲也
出演 深田恭子 土屋アンナ
   宮迫博之 篠原涼子
   小池栄子 阿部サダヲ
   岡田義徳 矢沢心
   荒川良々 生瀬勝久
   樹木希林 本田博太郎

ストーリー
茨城県下妻。フリル全開、ロリータ・ファッションだけが生き甲斐の高校生・桃子は、お洋服を買う資金集めの為にブランド品のバッタもの販売を開始するが、やって来たのは価値観もキャラも全く逆のヤンキー娘・イチゴだった。
本来なら相容れない二人の筈が、たったひとりで我が道を爆走する桃子に"根性“を見出したイチゴは、以来、桃子の迷惑顧みず頻繁に彼女のもとを訪れるようになり、やがてふたりは奇妙な絆で結ばれていく。
ある日、敬愛するレディース・チーム“舗爾威帝劉(ポニーテール)"の総長・亜樹美の引退パレードの為、イチゴが代官山にあると言う伝説の刺繍屋“閻魔"で特効服に刺繍を入れたいと言い出した。
しかし店は見つからず、代わりに桃子が刺繍を入れることになったのだが、その腕前にイチゴは大感動の大感激。
そんなイチゴの姿を見て、それまで友だちなんかいらないと言っていた桃子も、彼女に友情を感じるようになるのであった。
ある日、群れることに違和感を感じていたイチゴがチーム脱退を巡ってケジメを取らされることになった。
それを知り、元ヤンキーの祖母が乗っていた原付で救出に向かう桃子。
そして、卑怯な新総長・ミコたちを相手にブチ切れた彼女は、みごとイチゴを助け出す。


寸評
深田恭子の魅力というか、持ち味爆発の痛快娯楽作品だ。
ロココ調のロリータファッションに身を包む彼女の姿と、ナレーションを入れる彼女の声色がドンピシャだ。
これは僕が深キョン・ファンだから感じたことではないような気がする。
冒頭の「アッ!ウンコ踏んだ・・・」から包括絶倒。
映画と言えばシリアスなドラマがほとんどだが、時々このようなポップアート的作品が撮られる。
しかしそれはどこか自己満足的で、なんだこれはという作品が多いのだが、この作品ではそのポップな感じが適度な快感となって伝わってくる。
中島哲也監督の力量によるものなのか、それとも滅多に見ることができないジャンルの作品に出合った感激によるものなのかは、僕には不明で特定できない。

関西人の僕にとっては導入部で桃子の生地がアマ(尼崎)であることが語られるだけで親近感が持て、しかもそこにまつわるエピソードが漫才のツカミのような効果をもたらし、シネマワールドに何の抵抗もなく入っていけた。
関東の地理が想像できなかったけれど、下妻とか取手とか代官山とかの位置関係が理解できていたらまた違った感覚を感じ取ることができたかもしれない。

ヤンキーと優等生の友情話は、シチュエーションとしては定番的なものだとは思うが、この二人のキャラはそんな単純な構図を飛び越えていた。
イチゴ役の土屋アンナは流石はモデル!のカッコ良さだ。
田んぼの真ん中を貫く農道を、ヤンキースタイルの暴走族ファッションで走る姿はチャーミングで、桃子役の深田恭子に負けていない。
篠原、宮迫の脇役も健闘していたと思う。
樹木希林は、この手の役柄としては流石の存在感で、コミカルな動きにくすぐられた。
僕は伝説の暴走族は彼女だと思っていた。

桃子は優等生じゃなくて、どちらかと言えば成績は良くなさそうだし、クラスで思いっきり孤立していてそうだし、友達もいてなさそうなんだけど、なんだか強い女の子なんだと感じたのは、きっと彼女が一人で自分の思うように生きていたからなんだろうな、見終ったときにそう思った。
もちろん最後の桃子のタンカには拍手喝采!
深田恭子にとっては代表作の一つになるのだろうが、ここでのキャラは強烈で、もしかするとこのキャラクターイメージから脱却するのに苦労するかもしれない。
是非ともシリアスな役にも挑んでほしいものだ。

シベールの日曜日

2019-07-17 06:44:38 | 映画
「シベールの日曜日」 1962年 フランス


監督 セルジュ・ブールギニョン
出演 ハーディ・クリューガー
   パトリシア・ゴッジ
   ニコール・クールセル
   ダニエル・イヴェルネル
   アンドレ・オウマンスキー

ストーリー
戦争中パイロットだったピエールは戦線で少女を射殺したと思いこみ、それ以来、みずからインドシナ戦争での激しい戦に加わり、墜落のショックで彼は記憶喪失性となった。
同棲しているパリの病院に勤める看護婦マドレーヌの愛情も、友人である芸術家カルロスの友情もピエールの孤独な心を救えなかった。
あるたそがれ時、ピエールは町で一人の少女に会った。
少女の名はフランソワズといい、父親から見捨てられて寄宿学校に入れられていた。
二人は日曜日ごとに会い、互に孤独な二人の間には汚れのない愛情が生れていった。
ピエールはマドレーヌがいない日曜日毎にその少女--フランソワーズを外出に連れ出して森の中で一緒に遊んでいたのだが、この日曜日を守るために、彼等は周囲に嘘をいわねばならなかった。
だが周囲の人々はそんな二人の姿に不信感を抱き始めていた。
クリスマスがやってきて、いつものように二人は池の畔で楽しいクリスマスイブを過ごしていた。
いまはピエールを唯一の友人と思っている彼女は、はじめて本当の名前はシベールだと告げるのだった。
一方、マドレーヌはピエールの不在に気づき相談相手の医師ベルナールに助けを求めた。
ピエールを頭から変質者扱いにしている彼は早速警察に連絡した。
警察もベルナールと同じく父親でもない男が少女と恋人同士のようにしている姿に少女の危険を感じた。
警官達は二人の楽しいクリスマスの現場に踏み込んできた。
彼等はピエールにピストルを向けた・・・。


寸評
学生時代のことである。
映画仲間の友人がこの作品を激賞していたので名画座か何かでこの映画を見たという記憶がある。
丁度1970年の万博が開かれていた時期で、僕がフランス館でフランソワ・トリュフォの「大人は判ってくれない」を見て間もない頃だったと思う。
少年が海辺を走り続けストップモーションになる「大人は判ってくれない」のラストシーンに感動したのだが、この「シベールの日曜日」のラストシーンも相手が少女になっているが同様の衝撃を受けたのだった。
後年になってスタッフの名前を確認したら、両作品とも撮影はアンリ・ドカエだった。
不明の致すところだったが納得である。
戦争被害者でもある純真無垢なピエールがあてもなく街を歩く。
彼の心中を描写するかのようなカメラアングルが次から次へと続き見事だ。

物語は子供の心を持った青年ピエールと、大人の心を持った少女フランソワーズの交流を描いている。
ピエールのジェット戦闘機のコックピットからこの映画は始まるのだが、オープニングのハイキーな白黒映像のタイトルから息をのみ、ただ事ではない雰囲気が最初から漂う。
少女を撃ち殺したトラウマにより記憶喪失となり、恋人の看護師マドレーヌと田舎町で生活しているのだが、そのトラウマがピエールに重くのしかかっていることが物語の背景にある。
記憶を蘇らせるわけではないが、湖で荒れ果てた小屋を発見し戦争時の爆撃を感じる場面が生きている。
少年のようなピエールと、彼に父親や恋人を重ねていく少女なのだが、清廉潔白な二人というわけではない。
思春期の少女の小悪魔的な要素なのか、フランソワーズの言動はきわめて大人びていて嫌味すら感じる。
ピエールは純真だがカルロスの家からクリスマスツリーを盗み出すし、教会の風見鶏を取り外して持ってくるような無軌道な行為を行っている。
むしろ温かい心を見せるのはピエールの恋人マドレーヌの方だ。
カルロスに言わせればピエールがマドレーヌを必要としているよりも、マドレーヌがピエールを必要としているのだろうが、彼女のピエールへの愛は献身的である。
マドレーヌはピエールを疑い後をつけて湖までやって来るが、そこで繰り広げられているピエールと少女の戯れを見て、まるで子供同士だと微笑む。
マドレーヌの一瞬の微笑みが彼女を聖母マリアの如くに思わせた。

水墨画を見るような湖の景色は水面に映る二人の姿を含め美しい。
モノトーンの作品がその美しさを引き出している。
風見鶏をくれたら教えると言っていた本名がクリスマス・プレゼントとしてマッチ箱に入れられてピエールに贈られ、フランソワーズの名前が「シベール」だと分かる。
ラストで名前を聞かれ、シベールは名乗らず「名前なんてずっと前からない」と泣きじゃくる。
マドレーヌはベルナールに「あなたは賢いが自分の基準以外の者を異常者と見る」と責めていた。
他者から見ればおかしいと思われた二人の清い心は報われることがなく悲劇を生んだという切ない物語だ。
マドレーヌとカルロス、カルロスの妻とベルナール、ちょっと単純すぎる性格付けだったけど・・・。