おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

恋人たちの予感

2022-06-30 06:42:23 | 映画
「恋人たちの予感」 1989年 アメリカ


監督 ロブ・ライナー
出演 ビリー・クリスタル
   メグ・ライアン
   キャリー・フィッシャー
   ブルーノ・カービイ
   スティーヴン・フォード
   リサ・ジェーン・パースキー

ストーリー
77年のシカゴ、大学を卒業したばかりのハリー・バーンズとサリー・オルブライトは、ハリーの恋人がサリーの親友であったことから経費節約のために同じ車でニューヨークに出ることになるが、事あるごとに2人は意見を衝突させ、初めての出会いは最悪のものとなった。
それから5年後、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港。
出張の見送りに来てくれた恋人ジョンと長いキスを交わしているサリーのもとにハリーが姿を現わした。
2人はお互いが相手の名前を覚えていた事に驚くが、飛行機の中で隣り合わせになったハリーとサリーはまたしても口論、しかしもうすぐ結婚するというハリーの様子は以前とは違ってみえた。
さらに5年後、離婚直前のハリーと、ジョンとの別れから何とか立ち直ろうとしているサリーが再会した。
これを機に2人は友達同士になり、デートを重ねるようになるが、2人の会話はお互いの恋の悩みばかり。
ジョンとの恋にケリをつけたと思い込みたいサリーと、妻と離婚した現実を受け入れられないハリーの関係は、しかし時として互いに振りかかってくる相手へのロマンティックな思いを振り払おうとしている。
ある日2人はお互いの親友を紹介しあおうとするが、逆にハリーの親友ジェスとサリーの親友マリーが意気投合し、2人を残してどこかへ消えてしまう。
ある夜サリーの泣きじゃくる電話をうけたハリーは、彼女のアパートヘ駆けつける。
独身主義者のジョンが自分以外の女と結婚すると聞きショックをうけたサリーを慰めるうちに、どちらともなく2人は互いを求め、ついに一夜を共にしてしまう。
それ以来2人の関係は、変に相手を意識しすぎてぎくしゃくしてしまい、ハリーの言い訳が逆に混乱を招いたりもするのだった・・・。


寸評
メグ・ライアンは性格俳優というよりも、キュートでチャーミングな女優さんというのが僕の印象で、なぜか1966年から日本語吹替版が放映されたアメリカのテレビドラマ「奥様は魔女」で魔女のサマンサ役だったエリザベス・モンゴメリーとダブってしまう。
むさくるしいビリー・クリスタルのハリーに比べて、サリーのメグ・ライアンはチャーミングさを振りまいていて、二人の掛け合いは字幕を追うのが煩わしくなるくらい激しく滑稽なものとなっている。
それがこの映画の総てなのだが、彼らが言い合うテーマは「男と女の間に友情は成立するか?」、「セックスは友情の妨げになるか?」という解答のない問題である。
どちらかが感情を押さえて友人ぶっているケースもあるだろうし、どこかで相手を求めてしまう感情が湧いてくることもあるだろうし、あるいはお互いにどう考えても恋愛関係に進みそうにない関係もあるだろうから、答えはいつもながらYesであったりNoであったりする。

物語はハリーとサリーの男女関係を彼らが出会う人々を含めて描いていくが、時系列は5年ごとに進み二人の状況が変化に富んでいることで、同じことをいつも言い合っているのに飽きさせないものとなっている。
始まりはシカゴ大学を卒業したサリーが親友の彼氏を車に同乗させニューヨークまで行く車中での、例の問題に対する考えの違いが表面化したことだった。
5年後に空港で再会するが、この時サリーには恋人がいる。
サリーはハリーを親友の恋人だった人と紹介するが、親友の名前を思い出せないでいる。
本当に親友だったのかと言いたくなるが、サリーにとっては親友よりもハリーの方が印象深かったのだろう。
飛行機で隣同士になるが、ここでも意見は会わない。
さらに5年後、サリーは31歳になっていて彼と別れたばかりだ。
ハリーも離婚が決まって落ち込んでいる。
そんな二人が慰め合う内に友情関係を深めていくが、やっていることはレストランで食事したり、公園を散歩したり美術館を訪れたり、クリスマスツリーの大きなモミの木を運んだりと、まるで恋人の様で微笑ましい。
大晦日の夜のパーティでダンスを踊っていい雰囲気になるが、素直になれない二人は笑ってごまかしてしまう。

その後、紹介し合った友達同士が結婚してしまうハプニングが起き、ハリーは別れた妻と出会って落ち込み、サリーも元カレからの結婚報告にショックを受ける。
慰め合う二人はベッドを共にするが、お互いにあれは間違いだったと自分に言い聞かせる。
前半では考えの違いでぶつかり合っていた二人だが、この頃になると好きなのに素直になれない青春ドラマになっている。
青春ドラマと言っても二人はすでに若者の部類に入る年齢ではない。
そして再び大晦日のクライマックスとなる。
途中で、年齢を重ねた何組もの老夫婦が結婚に至ったきっかけと、相手がどんなに素晴らしかったかを語るシーンが挿入されている。
それを思い起こすとこの映画は、男と女が歩み寄って成長することで幸せな結婚生活を送れるようになるのだよと言いたかったのかもしれない。

ゴーン・ガール

2022-06-29 06:56:19 | 映画
「こ」に入ります。
過去2回は以下の作品でした。

2019/5/20から 「恋におちたシェイクスピア」「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」「好奇心」「河内山宗俊」「幸福な食卓」「荒野の決闘」「荒野の七人」「荒野の用心棒」「コキーユ-貝殻-」「告白」「午後の遺言状」「ゴジラ」「ゴッドファーザー」「ゴッドファーザーPART II」「ゴッドファーザーPART Ⅲ」「GONIN」「この愛のために撃て」「この国の空」「この世界の片隅に」「ゴーストライター」「恋の罪」「絞首刑」「この空の花 長岡花火物語」「御法度」「小早川家の秋」「コレクター」

2021/2/6から 「恋するシャンソン」「恋するトマト」「恋におちて」「恋人たち」「恍惚の人」「好人好日」「幸福」「コーラス」「コールガール」「コールド マウンテン」「故郷」「哭声/コクソン」「告発のとき」「告発の行方」「孤高のメス」「コミック雑誌なんかいらない!」「孤狼の血」「コンタクト」


「ゴーン・ガール」

     
監督 デヴィッド・フィンチャー      
出演 ベン・アフレック
   ロザムンド・パイク
   キム・ディケンズ
   キャリー・クーン
   ニール・パトリック・ハリス
   タイラー・ペリー

ストーリー
ミズーリ州の田舎町。
結婚して5年目になるニック(ベン・アフレック)とエイミー(ロザムンド・パイク)は、誰もが羨む理想のカップルだった。
ところが結婚5周年を迎えたその日にエイミーの姿が忽然と消える。
家には争った形跡があり、さらにキッチンからエイミーの大量の血液が拭き取られていることも判明する。
警察は他殺と失踪の両面から捜査を開始する。
美しい人妻の謎めいた失踪事件は茶の間の注目を集め、小さな町に全米中からマスコミが殺到する。
警察は捜査を進めるうちに、アリバイがあいまいなニックを疑う。
美しい若妻が失踪したこの事件は注目され報道は過熱、ニックは全米から疑いの目を向けられカップルの知られざる秘密が明るみになる……。


寸評
全体としてはサスペンスの形を取っているが、単にミステリーにとどまらない夫婦の深層心理にまで斬り込んだ秀作だ。
夫目線で妻の行方を探す前半から妻目線の後半へ進んで行くと衝撃的な展開を見せる。
その切り替わりを見事に描いて見せる。
人は自分に都合のいいことは言うが、都合の悪いことは信頼する人にも言わないものだと言うことがよくわかる。
ニックは異常に思えるくらい仲の良い妹にも、言えた内容でないことでもあるのだが隠し事をしているのだ。
そんな人間の持つ身勝手さの様なものを夫の側、妻の側、警察側とそれぞれの視点から描く語り口が巧みだ。
ニック夫妻は満たされた生活をしている上流階級に属する成功者と見える。
どこから見てもセレブ側の世界に生きている人々たちの世界での話と思わされていたストーリーが、結末を迎えるころには実は我々が内在している夫婦関係でもあるのだと入り込んでくる。
その演出はダイナミックで鮮やかというほかない。

アメリカ社会を写しとったような場面も出てくるが、日本社会も同様の状況下にあるので、その社会性の怖さも体感できる。
何か事があると一斉に取り上げるワイドショーによるリンチの構図だ。
覘き趣味的なゴシップ報道はエンタテイメント性を競いながら追い続ける。
それに正義ぶった偽善者達も群がり、真実よりも利益を追求する者たちが登場してくる。
虚構の世界に住む偽善者は、事件を面白おかしく見つめる者たちだけではない。
当事者である夫婦もその内の一人なのだと言いたげだが、それは我々自身でもある。
現実世界を見渡せば、親の介護で田舎に引っこんだことで結婚生活のほころびを経験するなんてありそうな話だ。
浮気は当然夫婦間の秘め事だし、こんなはずではなかったの思いは口には出せない。
支配する側と、支配される側の関係は微妙に揺らぎ、お互いに我慢することが円満の秘訣の様になっていく。
本音を言い合えば夫婦関係は壊れてしまう。
一体、夫は、妻は何を考えているのか、本当のところは明かされないで維持されているのが夫婦関係なのかも知れない。
だから大抵はニックの様にならないし、エイミーにもならないのだが、その要素だけは持っているのかもしれない。
ラストの結末は気持ちとしてはモヤモヤとしたものを感じてしまったのだが、これが結婚なんだと言われているようでもあった。
2時間29分と長尺だが、まったく退屈しない。
男は弱い…女は怖い…。

源氏物語

2022-06-28 06:28:49 | 映画
「源氏物語」 1951年 日本


監督 吉村公三郎
出演 長谷川一夫 大河内伝次郎 木暮実千代 水戸光子
   京マチ子 乙羽信子 堀雄二 本間謙太郎 菅井一郎
   進藤英太郎 小沢栄 長谷川裕見子 相馬千恵子
   東山千栄子 加東大介 殿山泰司

ストーリー
時の御門(滝沢修)の寵愛を一身にあつめた桐壷更衣(相馬千恵子)は、弘徽殿の女御(東山千栄子)をはじめ、御門を取巻く女性たちの嫉視のなかに、御子を身ごもり玉のような男児を生み「光君」と呼んだ。
しかし、桐壷はそのまま病床にふし、光君五歳のときにみまかった。
光君(長谷川一夫)は美しく成年し、源氏の姓を賜わり、御門の寵愛めでたく立身出世も早かった。
そのまれに見る美貌は、街でも御所内でも、女たちの讃美の的となった。
そして成年の日左大臣(菅井一郎)の娘葵の上(水戸光子)を妻に迎えたが、葵は生来冷たい女であった。
源氏の胸に秘められた女性は、死に別れた母桐壷のおもかげによく似た藤壷の君(木暮実千代)であった。
しかし、藤壷は御門に愛される女性であって、源氏も思うままに近づくことは出来なかった。
その上何かにつけて例の意地の悪い弘徽殿の女御が眼を光らせて邪魔だてすると知ると、彼女の姪で、源氏にはぞっこんの朧月夜の君(長谷川裕見子)を、ちょっとからかって見る気にもなるのだった。
唯一度の逢う瀬のあと、藤壷は罪を重ねることの恐ろしさに源氏を避けて逢おうとはしない。
そのうち源氏は病にかかり山篭りをするが、全快しての帰路、ふと山に隠棲する尼君と共に住む美しい幼女紫の上(乙羽信子)を見て、無理やり我が家へ連れ帰る。
葵の上は源氏の子供夕霧の君を生むが、死んでしまう。
藤壷の懐妊にからんで弘徽殿の悪質の策謀がはげしくなり、頭中将(坂東好太郎)のすすめで源氏は暫く須磨へ隠栖することにして、明石に住む播磨入道(大河内伝次郎)の家に招かれ厄介になる。
入道の娘淡路(京マチ子)には、良成(堀雄二)という恋人がいたが、父は淡路を源氏の君にと思っていた。
折しも京から源氏の家来の惟光(加藤大介)が便りを持参し、藤壷が無事男の御子を生んだあと直ちに尼になったと知らせてきた。


寸評
紫式部の源氏物語の世界を丁寧に描いていると思うが、逆に言えば映画として衝撃的な描き方ではない。
僕のような源氏物語に精通していない者にとっては恰好のダイジェスト版だったような気がする。
描かれているのは源氏物語の中でも前半に当たる部分である。
この作品で源氏に係わる女性として、正妻である葵の上、母の面影を残し源氏の最愛の人である藤壷の君、源氏にぞっこん惚れこんでいる朧月夜の君、後に紫の上となる若紫、不義の子を宿すことになる淡路が登場するが、光源氏にはその他にもまだまだ関係した女性がいたのだから、光源氏は稀代のプレイボーイということになる。
平安時代は通い婚で、男は女性の実家に好きな時に訪ねていき、女性はただ待つだけで自分からは訪ねていけないのだから随分と男勝手な社会だったのだと思う。
葵の上でなくても夫に他に女性が居てそちらに通っていると分かれば文句の一つも言いたくなるというものだ。
しかし源氏にしてみれば、久しぶりに訪ねてみれば嫌味ばかり言われるのなら足が遠のくのも無理はない。

女の嫉妬はいつの時代にもあるもので、御門の寵愛が桐壺に注がれていることに弘徽殿の女御は面白くない。
その為に桐壺の子供である光源氏も気に入らない。
光源氏は曲がりなりにも御門の血を引いているから、出世も早いし宮廷の女性にも人気がある。
源氏は母の面影を思い起こさせる藤壷の君に思いを寄せるが、言ってみれば藤壺は父親の愛人である。
ということは、桐壺も藤壺も御門のタイプだったのだと思う。
源氏は多くの女性と関係しながら、結局母の桐壺、母とよく似た藤壺が脳裏から離れない。
結婚してもずっと初恋の人を想っているようなものだ。
朧月夜の君はプレイガールといった感じの女性で、源氏との現場を押さえられても父を煙に巻く。
平安時代にもそんな女性がいたということだから、源氏物語は面白い。

この映画での劇的な場面の一つは、光源氏が藤壺が産んだ子供と対面するシーンだ。
その子が御門の子ではなく自分の子供であることを感づいている。
おそらく御門もその事を感じていたのだろうが、権威と名誉のために藤壺が産んだ子供は自分の子供として認めないわけにはいかない。
父の御門と子供である光源氏が藤壺が産んだ子供の出自をめぐって対峙するというすごい場面なのだが少々盛り上がりに欠ける。
それ以上に劇的なのが、淡路が身ごもった子供が源氏の子ではなく良成の子供だと判明する場面だ。
源氏は不義密通に激怒するが、紫の上が言うように源氏が藤壺にしたのと同様のことなのだ。
僕は源氏物語の詳細を知らないが、ここは淡路に出産させて良成の子と知りながら、御門と同じ理由で苦渋に満ちながらも新生児を抱く源氏を描いた方が、自分のやったことが回りまわって自分に降りかかってきたと言う悲劇性が出ていたように思う。
それが紫の上のとりなしで「良いことをした」となると、悲劇は何処にいってしまったのだと言いたくなる。
源氏物語は知らないが、僕は映画としてはそう描いた方が良かったのではないかと思う。
どうも僕はドロドロした映画の方が好きなのかもしれない。
カメラワークも衣装やセットもいいのだが、全般的に平板な内容に感じて少々物足りなさを感じた。時代かな?

県警対組織暴力

2022-06-27 07:42:25 | 映画
「県警対組織暴力」 1975年 日本


監督 深作欣二
出演 菅原文太 梅宮辰夫 松方弘樹 金子信雄
   山城新伍 池玲子 成田三樹夫 佐野浅夫
   汐路章 藤岡重慶 鈴木瑞穂 室田日出男
   曽根晴美 田中邦衛 川谷拓三 小松方正
   安部徹 弓恵子 中原早苗

ストーリー
和32年。大原組内紛による倉島市のやくざ抗争は、反主流派・三宅組長の射殺と、大原組長の逮捕で一応終止符を打った。
三宅派の友安(金子信雄)が組を解散後市会議員となってから市政の腐敗が目立ち、友安の可愛がる大阪の流れ者・川手(成田三樹夫)が組を結成して以来、大原組の留守を預る若衆頭・広谷(松方弘樹)との小競合が頻繁に起こるようになった。
昭和38年。倉島署の部長刑事・久能(菅原文太)は、暴力班のベテラン刑事として腕をふるっていたが、現在の警察機構では久能がどんなに実績をあげても、昇進試験にパスしない限り、警部補にはなれない。
彼の10年先輩の吉浦部長刑事(佐野浅夫)がそのいい見本であった。
二人はそれぞれ、やくざを取締るにはやくざの分際まで落ちなければ職務を全うできないと心得ていた。
久能が6年前、三宅組長を射殺した広谷の犯行を見逃してやって以来、二人は固い絆で結ばれている。
今度も久能は友安が川手組の縄張り拡張のために職権乱用した事をつきとめ叩きつぶした。
倉島地区の暴力取締り本部が再編成され、県警本部から若手エリート警部補・海田(梅宮辰夫)が赴任した。
海田は、法に厳正、組織に忠実、やくざとの私的関係を断つと、三点をモットーに本部風を吹かせた。
海田のやり方に反撥した吉浦は退職し、時同じくして久能は妻の玲子(中原早苗)に離縁状を叩きつけられた。
数日後、吉浦は川手組の顧問となり、久能は捜査班から遠ざけられた。
翌日、大原組長出所祝いの花会で大原(遠藤太津朗)は再び逮捕され、組の解散を迫られた。
これらは友安に買収された海田の描いた絵図だったが、追いつめられた広谷は久能を責めた。
そして海田に反抗した久能は自宅待機を命ぜられた。
一方、窮地に立たされた広谷は吉浦をホテルに監禁し海田と取引きしたが、これを無視した海田は久能に広谷説得を要請した。


寸評
松方弘樹の広谷と菅原文太の久能は、「仁義なき戦い」の主人公だった広能昌三からとっているのは実録路線ファンなら容易に推測できる。
深作には後年に撮った「蒲田行進曲」があるけれど、何といっても「仁義なき戦い」シリーズが代表作だろう。
東映実録路線の先鞭をつけたのが「仁義なき戦い」で、深作の実録路線は75年の「仁義の墓場」に続き、本作「県警対組織暴力」などを経て、76年の「やくざの墓場 くちなしの花」へと続いていく。
「仁義なき戦い」がヤクザ同士の抗争を描いていたのに対し、こちらは警察側からヤクザの抗争を描いている。

久能はある事件で広谷を見逃してやったことから、彼と親しくなりヤクザ組織に入り込んで暴力事件を抑え込んでいる、いわゆるはみ出し刑事である。
広谷を見逃した一件と言い、庄司というチンピラを見逃した一件と言い、態度と違って人情味を持ち合わせていそうだが、大原組とつるんでいて接待を受けているという汚職刑事でもある。
警察側を描いているのでこちらの人物は多士済々である。
吉浦という老刑事は息巻いているが、いくら頑張っても部長どまりというノンキャリアの悲哀を感じている。
キャリアに盾を突き警察を辞めざるを得なくなるみじめな刑事だ。
塩田(汐路章)という刑事はヤクザよりも共産主義者を嫌っていて、何かといえばアカのほうがタチが悪いというような偏見の持ち主である。
佐山(笹木俊志)という巡査は相手にした女から手切れ金を要求されて困っている警官で、その解決を久能を通じてヤクザにしてもらっている。
河本(山城新伍)という刑事は、幼馴染の柄原(室田日出男)がヤクザの幹部になっていたことから一緒に飲み歩き、その席には久能も同席しているという癒着ぶりを見せる。
しかし、そんな彼等より悪どいのが、ヤクザあがりの友安という市会議員であり、うまい汁を吸っている市長(志摩靖彦)や、日光石油倉島製油所長(小松方正)たちである。
ヤクザも市長も市会議員も企業の幹部も同じ穴のムジナと言うことだ。
そんな悪の巣のような町に乗り込んできたのが海田という30過ぎのキャリアで、県警本部捜査第二課長(鈴木瑞穂)から「私が一番頼りとしている頑張り屋だ」と紹介される男だ。
久能の捜査方法には疑問を持っており、遥かに年上の吉浦を「吉浦君」と呼び雑用を言いつける。
吉浦は反抗態度を見せ、キャリアとノンキャリアの火花が散る。
警察内部の人間関係が描かれているのだが、キャリアとノンキャリアの対立はよく描かれる題材でもある。

僕が一番面白いと思ったのは川谷拓三の松井というチンピラが取り調べを受ける場面で、久能と吉浦は暴力で締め上げ、組員や弁護士との接触をごまかしてさせず追い詰めていく。
奥さんに合わせてやりついに企みを白状させる経緯はこの映画の見どころの一つだと思う。
刑事である久能とヤクザである広谷の、立場の違いがありながらも芽生えた友情と信頼が、どのように完結するのかと思っていたら意外な結末を迎える。
正義の味方であった海田警部補の変身ぶりもあっけにとられるものだ。
もちろんラストシーンも意外といえば意外な結末である。

月曜日のユカ

2022-06-26 08:08:07 | 映画
「月曜日のユカ」1964年 日本


監督 中平康
出演 加賀まりこ 北林谷栄 中尾彬
   加藤武 波多野憲 
   ウィリアム・バッソン
   ハロルド・S・コンウェイ

ストーリー
横浜の外国人客が多い上流ナイトクラブ“サンフランシスコ”では、今日もユカ(加賀まりこ)と呼ばれる十八歳の女の子が人気を集めていた。
さまざまな伝説を身のまわりに撒きちらす女で、平気で男と寝て教会にもかよう。
彼女にとっては当り前の生活も、人からみれば異様にうつった。
横浜のユカのアパートでパパと呼んでいる船荷会社の社長(加藤武)は初老の男だが、ユカはパパを幸福にしてあげたいという気持でいっぱいだ。
ある日曜日、ユカはボーイフレンドの修(中尾彬)と街を歩いていた時、元町商店街でパパが奥さんと娘と買い物をしているの見てしまう
ショウウィンドウをのぞいて素晴しい人形を、その娘に買ってやっている嬉しそうなパパをみた時から、ユカもそんな風にパパを喜ばせたいと思った。
ユカの目的は男をよろこばすだけだったから。
だが、日曜はパパが家庭ですごす日だった。
そこでユカはパパに月曜日に人形を買ってほしいとねだり、月曜日がやって来た。
着飾ったユカは母(北林谷栄)とともにパパに会いにホテルのロビーに出た。
今日こそパパに人形を買ってもらおうと幸福に充ちていた。
だが、ユカがパパから聞されたのは、取り引きのため「外人船長と寝て欲しい」という願いだった。
ユカはパパを喜ばすために船長(ウィリアム・バッソン)と寝る決心をし、パパとの約束通り抱かれた。
うつむいて埠頭を歩くユカを追ったパパは誤って海に落ちたが、ユカは、無関心に去って行った。


寸評
ユカは「愛することは男に尽くすことで、尽くすことは男を喜ばせることであり、男を喜ばせることは女にとって最大の生きがいなんだ」と考えている男にとっては申し分のない女である。
その為に男と寝ることを何とも思っていないがキスだけは許さない。
マリア像を映すことで彼女が持っている道徳観は普通の人とは違っていることを強調している。
誰にもキスをさせないところが貞淑のシンボルになっているが、何を考えているのかよく分からない天然娘といった雰囲気もだしている。
ユカは人との正常な関わり方を知らない女性で、男の言いなりになることが愛情だと錯覚している。
彼女は、男と体では繋がることができても心で繋がることが出来ていない。
彼女の錯覚は、修という恋人がいながらパパとの関係を正常と思わせていることだ。
修の寛容と愛情はユカと違って本物だから悲劇が起きた。

パパは娘に人形を買ってやり、喜ぶ娘の姿を見て笑顔を見せる。
その笑顔はユカが見たこともないもので、ユカも同じような笑顔をパパに与えようとして人形が欲しいとねだる。
パパは人形を買ってくるが、ユカが欲しいのは人形ではなくパパの笑顔だ。
本来ならユカの目的を知っている観客はユカの気持ちに同化するのだが、同時に観客はユカの無知さも知っているから素直にユカに同情を寄せることはない。
修が言うようにパパの笑顔は娘だからで、そのことは観客も心得ている。
父親にとって娘への愛は特別なもので、ユカが思い描く愛とはまったく異質なものなのだ。
ここからユカの回りで起きることがドラマチックに展開していき、スピード感をもってラストへなだれ込む描き方はシャープであった。

画面の隅に人物を配したショットも印象的で、ストップモーションや早回しもあり、映像的なお遊びが見られる。
ユカがカメラに向かって語りかけているシーンがあるのだが、実は公然わいせつ物陳列罪で取り調べをしていた警官への懺悔だったというものである。
そして、そこからぐるぐると追いかけっこをするドタバタになり、最終的にはそれが夢だったことが明かされる。
また、タクシーで母親と出かける場面にコミカルな演出が見られるが、作品の中では取調室の演出と共に突拍子もないもので何のための演出かと思ってしまう。
中平の遊び以外の何物でもない。
終盤で船長にキスされて嫌悪感を抱いたユカがパパに抱きかかえられて埠頭迄やってくる場面がある。
そこでユカとパパが踊るのだが、このシーンもなかなか粋なものだが直後に意外な展開が待っている。

加賀まりこのアップが多いが、その度に彼女の大きな瞳が魅力を放ち引き込まれるような表情を見せた。
最初から最後まで加賀まりこが輝いていて、彼女にとってはこれが代表作と言えるのではないか。
精巧な人形のようなルックスと妖精っぽさが共存して彼女の為の映画であると感じさせる。
加賀まりこを得てスタイリッシュに描いているが、ユカを軽薄に描いていることで女という生き物の危うさを浮かび上がらせると同時に、そのような女に翻弄される男の危うさも同時に描き出していた。

決闘高田の馬場

2022-06-25 08:36:30 | 映画
「決闘高田の馬場」 1937年 日本


監督 マキノ正博 稲垣浩
出演 阪東妻三郎 市川百々之助 原駒子
   伊庭駿三郎 志村喬 大倉千代子
   香川良介 小松みどり 滝沢静子

ストーリー
舞台は元禄7年春、江戸・八丁堀。長屋の住人・中山安兵衛(阪東妻三郎)は、いつでも飲んだくれ、喧嘩に明け暮れる毎日だが、腕がめっぽう強く、長屋では「先生」と呼ばれて人気者である。
安兵衛の苦手とするものは、牛込の住人・菅野六郎左衛門(香川良介)という叔父である。
村上庄左衛門(尾上華丈)との剣道におけるトラブルから、江戸郊外・戸塚村の高田の馬場で、叔父は果し合いをすることになってしまう。
叔父はそのことを告げに、天涯二人きりの肉親である安兵衛の長屋の部屋で待つ。
安兵衛は仲間と飲んだくれ、喧嘩をしては飲み、他人の喧嘩に割り込んでは飲み、夜が明けてしまう。
果し合いの刻限が迫り、叔父は安兵衛に書き置きを残し、長屋を去る。
しばらくして帰ってきた安兵衛は、長屋の者たちに書き置きを読むように言われるが、乗り気がしない。
それでもなお長屋の者たちが家に入り込んでまで、読めと勧めるので嫌々読み始める。
読み進めるに連れて、様子ただならなかったという叔父の事情をすべて知るに至り、二日酔いで疲れ果てた身体を奮い立たせ、高田の馬場めがけて全速力で走り出す。
安兵衛が高田の馬場に到着すると、村上兄弟とその一味の中津川祐範(瀬川路三郎)らの多勢に無勢で闘った叔父は、すでに瀕死である。
自らへの悔恨と村上らの卑怯さに怒り狂った安兵衛は、踊るように跳ねるように斬って斬って斬りまくる。
18人斬りの末に叔父に駆け寄ればすでに叔父に息はない。
果し合いの野次馬たちは安兵衛の快挙に沸きあがるが、立ち尽くす安兵衛の胸には悔恨と空虚さが残った。


寸評
戦前の作品を見る機会は滅多にないが、僕が見た数少ない伝説の阪東妻三郎、通称"阪妻"作品のひとつ。
石原裕次郎がデビュー作となる「太陽の季節」のチョイ役で出たときに、カメラマンがカメラを覗きながらプロデューサーの水江滝子を呼んで「カメラの向こうに阪妻がいるよ…」と囁いたと言われている、あの阪妻の主演映画ということで、作品内容よりもその歴史的価値に興味が湧いてしまう。
阪東妻三郎を知る者にとっては、彼は映画界にあって光り輝く大スターだったのだろう。

さすがに戦前とあっては、当時の俳優さんがどのような人たちだったのかは知らない。
知らないがこの作品を見ていると、阪妻はきっとその動きのスピーディさが抜きん出ていた役者だったのではないかと想像できる。
立ち回りがいい。芝居じみた立ち回りだが、動きに艶がある、色気がある。

酔った阪妻の中山安兵衛が大勢の相手に取り囲まれて、「あのキラキラ光るのは流れ星かい?」とつぶやいて、一人斬っては「一番星消えたあ」と言って身構える。
そして、よろけながらも二人斬っては「二番星消えたあ」と言っては身構える。
この時の阪妻はカッコいいね!
血は争えないもので、息子さんの田村高廣さんとよく似てるわ。
いや、田村高廣さんが阪妻さんに似ているんだな。

同じシーンをつなぎ合わせ、なおかつコマ落としと見受けられる安兵衛が決闘場へ駆けつける韋駄天走りのシーンは時代劇の見せ場の一つで、子供のころに見た劇場ではこんな場面になると必ず「早よ、早よ…」と掛け声がかかり大拍手が起きたものだ。
そんな客席とスクリーンの一体感はいつの間にか消え失せていて、任侠映画の登場を待たねばならなかった。
その任侠映画も終焉を迎え、客席からスクリーンに向かって掛け声が飛ぶことは無くなってしまった。
残しておきたい雰囲気だったのだがなあ…。

高田の馬場に駆けつけた安兵衛は、娘から授けられた緋襷を身にまとい、鉢巻には同じく娘のかんざしを刺して、斬って斬って斬りまくる。
その立ち回りはリアリズムなどクソクラエとばかりの大立ち回りで、片足ケンケンしながらの芝居じみたものだった。
それなのに何だがワクワクしてしまうのは、やはりこれが映画の持つ魅力なんだろうな。

娘の恋心などもあって、作品はアッケラカンとしたほのぼの作品だ。
(作中では描かれていないが、この恋が実り中山安兵衛が婿入りして堀部安兵衛となり、四十七士の一人となることを僕たちは知っている)
悲壮感のないのは意図したことか、菅野六郎左衛門の使用人が「是非ともお供に加えて下さい」と言って、一人助太刀を買って出て討ち死にしてしまう武士道の非常な部分は全くと言っていいほど描かれていない。
何を訴えるような作品ではないが、戦前の娯楽作を見るという点においては、随分と好都合な作品だと思う。

月光の夏

2022-06-24 08:07:09 | 映画
「月光の夏」 1993年 日本


監督 神山征二郎
出演 渡辺美佐子 滝田裕介 田中実 永野典勝
   仲代達矢 小林哲子 若村麻由美 内藤武敏
   田村高廣 山本圭 石野真子 高野長英

ストーリー
吉岡公子(渡辺美佐子)はかつて教師として勤めた鳥栖小学校の古いグランドピアノについて忘れられない思い出を持っていた。
太平洋戦争末期の夏、九州の鳥栖国民学校(現・鳥栖市立鳥栖小学校)に、出撃を明日に控えた2人の陸軍特攻隊員(特別操縦見習士官)が訪れる。
生きては帰れぬ出撃を前にどうしてもピアノが弾きたいと、一人の青年海野光彦(永野典勝)はベートーヴェンのピアノソナタ『月光』を、もう一方の青年風間森介(田中実) は『海ゆかば』を弾いて基地に帰っていった。
二か月後に戦争は終わった。
戦後、演奏に立ち会った当時の教師・吉岡公子(若村麻由美)が、ピアノの保存のため小学校でその思い出を語り、それが大きな反響を呼んだことで、次第にその特攻隊員たちについて明らかになってゆく。
公子が語るその思い出は新聞やラジオで報道され、平和の記念碑としてピアノは保存されることになった。
地元ラジオ局の石田りえ(石野真子)はドキュメンタリー作家の三池安文(山本圭)と共にピアノを弾いたと思われる元少尉風間森介(仲代達矢)を訪ねるが、風間は何も語ろうとしない。
石田たちは生き残った特攻隊員に取材を重ね、特攻出撃を途中で放棄した隊員を幽閉していた“振武寮”の存在を知り、特攻平和記念館で『月光』を弾いた海野光彦少尉(永野典勝)の遺影を発見する。
それをきっかけに風間の閉ざされた心は徐々に開き、エンジンの不調で特攻から引き返したこと、“振武寮”に入れられた屈辱と絶望の日々のことを語り始めた。
半世紀を経て思い出のピアノと再会した風間は、当時を振り返りながら『月光』を奏でるのだった。


寸評
後世の我々から見れば、特攻作戦とは人命を人命とも思わない、およそ戦術と呼べるものではない非人間的な作戦であったことは明白だ。
しかし当時存在していたと思われる大きな力は、それらの疑問を押しのけて多くの若者たちの命を奪っていった。
特攻隊員たちには僕たちには想像することすらできない複雑な思いが生じていたに違いない。
海野と風間は最後に思い切りピアノが弾きたいとの思いで、鳥栖国民学校を兵舎から線路を走って訪れる。
今生の別れとばかりに海野がピアノ曲「月光」を弾く姿に、いったい彼はこの時どのような気持ちでピアノに向かっていたのだろうと思うだけで涙があふれ出る。
明日は死ぬと分かった時に、当時の僕ならば一体何をしただろう。
多くの者がとったように遺書をしたためるだろうか、仲間と最後の酒を酌み交わしただろうか。
海野と風間は純真だ。
彼等の様な若者が6000人も散っていったのだ。
僕は行ったことがないのだが、初めて見る知覧の灯篭の数に唖然とさせられた。

一人はピアニストを目指し、一人は音楽教師を夢見ていたが特攻として援護機なしで飛び立っていく。
六機のうち風間機だけがエンジン不調で知覧の基地に引き返す。
それを臆病風のせいだとして、風間は福岡の振武寮に入れられる。
そこには特攻出撃から帰ってきた者たちが集められている。
特攻隊員たちは無駄死にしたくないとの思いで帰還したのであって、決して命を惜しんだ卑怯者ではないのだが、矢ヶ島参謀は卑怯者と決め込んでいる。
明日に特攻として再出撃を命じられた少年兵に、参謀の兵舎に突撃してくれと言う者まで出てくる始末だから、振武寮での扱いは彼等の名誉と自尊心を傷つけるものだったのだろう。
ピアノに係わる話なので、ここでのことは詳しく描かれていないが、特攻の生き残りには語りたくないことが多いのかもしれない。
共に死のうと約束した仲間が死に、自分が生きている後ろめたさと罪の意識がそうさせるのだろう。
風間も特攻の事、振武寮の事は語ろうとしない。
彼の苦悩がもう少し描かれても良かったと感じる。

これが実話だとしたら、救いは風間と海野の妹が結婚していたことだ。
生きていてよかったと思わせるし、学校を訪ねた風間に吉岡先生が「生きていてよかったです」という言葉も白々しく思わせなかった。
むごたらしい戦争の出来事を描いているわけではないし、そのようなシーンもないが、このような些細な出来事を通じてでも戦争は悲惨なものをもたらしていたのだと分かる。

昭和20年時の吉岡公子を演じた若村麻由美の化粧には違和感があった。
はたして当時の世情として、国民学校の音楽の先生にあのような化粧が許されていたのだろうかと感じた。
ちょっと気になる若村麻由美であった。

ケープ・フィアー

2022-06-23 07:45:31 | 映画
「け」の三回目になります。
1回目は2019/5/14の「刑事ジョン・ブック/目撃者」からでした。
その後、「KT」「軽蔑」「刑務所の中」「激突!」「けんかえれじい」と数本の紹介でした。
2回目は2021/1/29の「敬愛なるベートーヴェン」から「警察日記」「刑事」「競輪上人行状記」「汚れなき悪戯」「ゲッタウェイ」「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」「原爆の子」を紹介しています。
興味のある方はバックナンバーからご覧ください。

3回目になりますが、紹介本数は5~6本になりそうです。

「ケープ・フィアー」 1991年 アメリカ


監督 マーティン・スコセッシ
出演 ロバート・デ・ニーロ
   ニック・ノルティ
   ジェシカ・ラング
   ジュリエット・ルイス
   ジョー・ドン・ベイカー
   マーティン・バルサム

ストーリー
レイプ罪により14年間の獄中生活を終えたばかりのマックス・ケイディ(ロバート・デ・ニーロ)は、自分を敗訴に導いた弁護士サム・ボーデン(ニック・ノルティ)に対する復讐を誓い、サムばかりか妻のレイ(ジェシカ・ラング)や娘ダニエル(ジュリエット・ルイス)の前にも姿を現すようになった。
愛犬が殺され、サムの愛人ローリー(イレーナ・ダグラス)が襲われるが、マックスの犯行とは認められない。
ダニエルにマックスが接近したことを知ったサムは私立探偵カーセク(ジョー・ドン・ベイカー)を雇い、力づくでマックスを町から追い出そうとするが、鍛え抜かれた肉体を持つマックスには通用せず、逆に暴行罪で告訴されてしまう。
焦るサムは自宅にマックスをおびき寄せるが、またもや逆襲にあい、せっぱつまった一家は、夜、密かに町を離れハウスボートのあるケープ・フィアーへ向かった。
しかしマックスは、執拗に追い続け、岸を離れた一家を襲撃。
嵐の中、悪夢のような復讐劇が繰り広げられるが、一家は命からがら脱出に成功。


寸評
僕は1962年に公開された「恐怖の岬」を見ていないので、前作出演者が登場しているという面白さの一つを味わうことはできず、彼等は単なる出演者の一人にすぎなかった。
彼等の変化とは、オリジナル版で主人公の弁護士役だったグレゴリー・ペックが犯人の弁護士を演じ、犯人役だったロバート・ミッチャムが主人公の友人の警部また、主人公の友人の警察署長役だったマーティン・バルサムが犯人に有利な採決を下す裁判官役というひねりの効いた役で出演していることであるが、僕には特別出演しているとしか思えなくて、知ってみるとちょっと損した気持ちになる。

兎に角、ロバート・デ・ニーロが際立っている。
彼が演じるマックス・ケイディはこの手の作品の常識と言える異常性格者だ。
凶悪な暴行魔で、鍛え上げられた体中に意味ありげな言葉を含めたタトゥを入れている。
14年間服役したことで妻からは縁を切られ、娘には死んだことにされている。
元は無学文盲だったようだが、服役中にそれを克服し教養を身に着けている。
彼は残忍な殺人を繰り返す連続犯ではなく、心理的に復讐の相手であるサムを追い詰めていく。
サムや家族の前への登場の仕方が不気味だ。
妻のリーが可愛がっている犬を毒殺するシーンはないが、娘のダニエルに近づく様は異常性格者そのもの。
恐怖で追い込まれるサム一家だが、逆恨みする異常犯罪者と善良なか弱き弁護士一家という単純図式でない所が、この映画を成り立たせている。
サムは被告から弁護を引き受けながら、レイプ犯罪を憎むあまり、被害者にも問題があった事をもみ消している。
おまけに同僚のローリーと不倫をしているという影の部分を持っている。
家庭は平穏ように見えるが欺瞞に満ちている。
特に娘のダニエルは両親の不仲に辟易しており、情緒不安定になっている。
演劇に興味があり、読書家でもあるようなのだが退学寸前にまで追い込まれている問題児でもある。
そんなことから、サムの一家は一歩間違えば家庭崩壊が起きる危険性が潜んでいる家族だ。
そのダニエルを演じたジュリエット・ルイスが不思議な雰囲気を出している。
15歳の高校生という設定なのだが、家庭に対する不満を秘めているという姿、またマックスに言い寄られて彼の指をなめるエロチックな表情が、大人なのか子供なのか分からない思春期の女の子を怪しく表現できている。

サムはマックスの見張りを依頼した私立探偵のカーセクからマックスの襲撃を持ちかけられるが、当初はそれは犯罪で法を守る側の自分は承知できないと拒否している。
しかし徐々に追い込まれて行き、ついには襲撃を承認し、その現場を見届けようとしている。
本来なら嫌悪されるべき立場のマックスが一方的に悪という側でなく、善であるべきはずのサムにも嫌悪すべきところがあり、この二重構造をいかに処理するかが演出家としての腕の見せ所だったと思うのだが、完全に成功したとは言い難いものを感じる。
こんな単純な形で家族がまとまるなんて都合がよすぎるし、異常犯罪者としてマックスは「羊たちの沈黙」のレクター博士ほどの強烈な印象を残せなかったと思う。
それは監督であるマーティン・スコセッシの責任だと思う(期待していたんだけどなあ)。

クワイエットルームにようこそ

2022-06-22 11:11:56 | 映画
「クワイエットルームにようこそ」 2007年 日本


監督 松尾スズキ
出演 内田有紀 宮藤官九郎 蒼井優 りょう
   大竹しのぶ 中村優子 高橋真唯 馬渕英俚可
   筒井真理子 宍戸美和公 平岩紙 塚本晋也
   平田満 徳井優 峯村リエ 箕輪はるか
   近藤春菜 庵野秀明 俵万智 妻夫木聡

ストーリー
28歳のライター佐倉明日香(内田有紀)は見知らぬ白い部屋で、拘束された状態で目を覚ます。
ナースの江口(りょう)から「アルコールと睡眠薬の過剰摂取で運ばれ、2日間昏睡していた」と聞かされる。
仕事があることもあり退院したいと訴えるが、担当医と保護者の同意がなければ許されないと冷たく返されてしまう。
同棲相手で放送作家の鉄雄(宮藤官九郎)が見舞いに来て「胃洗浄をしたら薬の量が多すぎたせいで、内科から精神科に運ばれた」と告げる。
こうして明日香の女性だけの閉鎖病棟生活が幕を開ける。
「食べたくても食べられない」入院患者のミキ(蒼井優)、元AV女優で過食症の西野(大竹しのぶ)など、個性的過ぎる患者たちに戸惑う明日香だったが、少しずつ馴染みはじめていく。
患者たちは、何かと規則で縛ろうとする冷酷ナースの江口たちに不満を募らせていた。
そんな折、鉄雄の子分のコモノ(妻夫木聡)が面会にやってくる。
明日香が開けた原稿の穴はコモノが埋めたらしいが、その出来は最悪で、明日香は持病のジンマシンを発症させてしまう。
江口たちは閉鎖病室<クワイエットルーム>の手配をはじめるが、毅然と江口たちのルール至上主義を論破し、明日香はこの一件で人気者となった。
しかし、明日香は信頼していたミキの悲しい秘密を知ってしまい、ショックを受け病室に戻ると、西野が来ていて鉄雄から明日香に宛てられた真剣な手紙を勝手に朗読し始める。
その手紙で全ての記憶が蘇り、明日香がここにきた本当の理由が明らかになる……。


寸評
現代病とでも言うのか、主人公の佐倉明日香は日常生活の中でストレスなどの精神疲労に加えて肉体疲労も重なり、一体自分が今どのような状態にあるのかの自己判断が出来なくなってきている女性である。
記憶もあやふやでなぜ自分がクワイエットルーム(保護室)にいるのかが解らない状態にいる。
ところが見ているうちに登場人物の誰が正常で、誰が異常なのか解らなくなってくる。
ややもすると正常者の中にも異常者がいるような展開で、ステンレスの心を持った看護婦の江口などはその代表格だ。

全快して退院して行ったと思われる女性もどんでん返し的に舞い戻ってくる。
その女性が誰であるかを想像させる伏線も、ドタバタ劇の中に於いて細かい配慮を見せてうまく張られていた。
着物姿の金原さんが自転車でタクシーを追い抜いていったのは、彼女も元気でやっている表現だったと思うし、寄せ書きを捨てた後で渡されたメモを捨て去るのは、佐倉が完全に自分を取り戻した証明に思えて、なぜだかホッとした気分になれた。
同じような状況下で社会に生きる同じ人間として、どこかで彼女には完全に復活して欲しい気持ちを芽生えさせていたのかもしれない。

ラストは一つの旅立ちを静かに描いている。
前半が軽いノリで展開していただけに、ラストは対照的に苦味のあるシーンとなっていた。
最後の最後にある小ネタはオマケだったのかも…。

この映画の最大の魅力は、登場人物のキャラが際立っていることだ。
特に、病院の患者たちが強烈だ。
患者は大竹しのぶ演じる過食症の元AV女優、蒼井優演じる拒食症の女など、いずれも狂人的な振る舞いを見せる面々ばかりなのだ。
りょう、平岩紙などが扮する看護師もユニークだ。
内田有紀演じる主人公に、宮藤官九郎演じるそのダンナや、塚本晋也の元夫なども個性的で楽しい笑いを生み出している。
特に、蒼井優のミキがなかなか良い。
変人の様でもあり正常者の様でもある、食べたくても食べれない拒食症の女性を好演していた。
蒼井優ってなんか怪しい雰囲気を持っているんだよなあ~。
女子病棟なので彼女に代表されるように女性患者しか登場しなかったが、それぞれの女性が一癖も二癖もある怖い女性として描かれていた。
内田有紀はしばらく映画に専念すればいい女優さんになるのではないかと期待を抱かせた。
宮藤官九郎の鉄雄を、最後にもっと正常化すれば強烈なメッセージになったのではないかなと、ふと思った。
徳井優演じる白井医師がどうして女性である必要があったのか?
松尾監督の遊び心だったのだろうか?

黒木太郎の愛と冒険

2022-06-21 07:44:05 | 映画
「黒木太郎の愛と冒険」 1977年 日本


監督 森崎東
出演 田中邦衛 財津一郎 倍賞美津子 伴淳三郎
   清川虹子 沖山秀子 小沢昭一 三国連太郎
   緑魔子 杉本美樹 岡本喜八 火野正平
   殿山泰司 井川比佐志 太田聖規 赤木春恵

ストーリー
かつては優等生であった定時制高校五年生の伊藤銃一は、他人の足をひっぱることしか考えていないクラスメートと学校を腹の底から軽蔑し呪っている。
銃一には二人の親友がいて、小学校からの友人の公一と、もう一人は大学生の勉であった。
銃一は学校をサボり、バキュームの仕事をしていた時、ゴメさんと知りあう。
そして、ゴメさんの世話で大人のオモチャ屋をしている菊松の家に下宿させてもらっていた。
ゴメさんは、黒木太郎の世話でバクチの負け金の取り立てをやっていた。
モンキーに似ていることから文句さんと銃一たちが呼んでる黒木太郎は、勉の叔父にあたり、映画のスタントマンをしており、多趣味でたいへんな凝りしょうであった。
文句さんの奥さんは、元女優でたいへんな美人であり、また、勉の母親はたいへんな肝ッ玉お母さんで、勉との仲もたいへん良かった。
銃一の夢は、文句さんの奥さんのカムバック映画を作ることであったが、仲々実現できなかった。
そんなある時、ゴメさんが死亡し、文句さんと銃一の二人は、遺骨を娘さんの吹雪にとどけるのであった。
吹雪の家はひどい貧乏で、やっかいな女教師が下宿していた。
この下宿人を追い出すのにひと役かった銃一は、その間に彼をたずねて来た父親に会えなかった。
そして父親は、手配師や労務者たちにバカにされ、墓地で切腹する。
そんな父に別れをつげた銃一は、勉の従妹・和美が不良グループと遊びまわっている間にヤクザにひっかかり、ソープランドに売られようとしているという事件が起きていることを知り、文句さんと共に、銃一、公一、勉がヤクザの所にのりこむのであった。


寸評
自主製作映画のような作品だが出演陣は個性派俳優が一杯出ていて豪華である。
真っ先に印象深くさせるのが伊藤銃一 を演じる伊藤裕一の異常とも思える低い話声である。
統一が友人と映画作りについて話し合っているので、そちらに向かう内容かと思っていたら、田中邦衛の文句さんがジープを飛ばして警官をからかっている場面となる。
そこから始まって内容的には”ごった煮”の様相を呈してくる。
森崎東の作品は”ごった煮”感のある作品が多いように思うし、描かれ方はテーマの如何に問わず破戒的である。
登場してくる人物は強烈なキャラクターで、演じている姿はヒドイとしか言いようがない。
ゴメさんという男が登場してくるのだが、演じているのは 伴淳三郎だ。
生活は破滅的で人がゲロしたものを素手でつかんだりする。
森崎東にはこういう不潔な場面を平気で描く習性があるように思う。
それは喜劇の中に怒りを盛り込む森崎流の演出手法だったと思う。
ゴメさんと文句さんの共通の知り合いが、大人のオモチャ屋をしている財津一郎の菊松である。
元刑事らしいが、この財津一郎が中々いい雰囲気で、彼の様な役者は少なくなったと思う。
文句さんの奥さんが倍賞美津子で、森崎作品には必要不可欠な女優さんだ。
森崎監督の松竹時代から彼の作品に出続けている。
この夫婦の家に出入りしているオバサンが 清川虹子と沖山秀子で、清川虹子のボーイフレンドが 小沢昭一というキャスティングで、俳優さんを見ているだけでゾッとしてしまう布陣である。
チョイ役で火野正平、 殿山泰司、井川比佐志なども登場し、森崎東のフリー第一作を祝福しているようだ。

ゴメさんの遺骨を娘さんに届けに行くが、娘夫婦は聾唖者同志の貧しい家庭で、二人はセリフを発しない。
演じているのが 杉本美樹と映画監督の岡本喜八である。
岡本喜八が映画監督と知っているので、その怪演を見ているだけで笑ってしまう。
この家の二階に猫好きの厄介な女教師が居座っている。
文句さんがこの女を追い出しにかかる。
文句さんの前に菊松が追いだしを試みているのだが、その方法というのが部屋に自分のウンチを置いておくと言うもので、さらに猫がそのウンチを食べてしまったので失敗していたと言うものだから、相変わらずだなあと思わずにはいられない。
この女教師を演じているのが緑魔子で、文句さんによってねじ曲がった性格を直される話が、可笑しいながらもしんみりさせるものがある。
映画としては和美がヤクザにひっかかりソープランドに売られようとしているのを助けに行くあたりから面白くなる。
文句さんがヤクザの所に押し掛ける場面は文句さんの態度が一変して迫力があるし、助け出した和美がヤクザの所へ戻りたいと言い出し、なぜヤクザといっしょにいて売春をすることが悪いのかと持論を展開するが、それに対する菊松の説教と文句さんの対応も見せ場となっている。
菊松は「ニワトリはハダシだ」を口癖としているが、それは森崎自身の感情でもあったのだろう。
9年間のブランク後に最終作「ペコロスの母に会いに行く」を撮るが、9年前に撮ったのが「ニワトリはハダシだ」だった。

黒いオルフェ

2022-06-20 07:40:12 | 映画
「黒いオルフェ」 1959年 フランス


監督 マルセル・カミュ
出演 ブレノ・メロ
   マルペッサ・ドーン
   ルールデス・デ・オリヴェイラ
   レア・ガルシア
   ファウスト・ゲルゾーニ
   マルセル・カミュ

ストーリー
黒人女性のユリディスは、カーニバルを翌日に控えるリオデジャネイロの街をふらふらと彷徨い歩いていた。
そんなユリディスに市電の運転手の黒人男性オルフェが声をかけ、これから従姉の家に向かうと言うユリディスに、オルフェは「上司のエルネストならこの街について何でも知っている」と道案内してもらうことにした。
ユリディスが去った後、オルフェの元に婚約者のミラが現れて婚約指輪を買ってほしいとねだったが、オルフェはもらったばかりの給料を持って質屋に行き、預けていたギターを取り出した。
ユリディスは丘にある従姉のセラフィナの家に迎え入れられた。
ユリディスはセラフィナに、自分は故郷の村で謎の男に追われていると打ち明け、相手は自分を殺すつもりであり、既に自分がリオに来ていることも知られたのではないかとの不安を口にする。
セラフィナの家の隣には、あのオルフェが住んでいた。
オルフェはユリディスや子供たちと共にカーニバルの前夜祭で踊り明かした。
その後、ユリディスは死神の仮面を被った謎の男に襲われ、セラフィナの家に逃げ込んだ。
オルフェとユリディスとの関係を疑うミラは「あの娘がつきまとったら殺してやる」とオルフェに忠告した。
やがてカーニバルが始まり、街中が熱狂するなか、ユリディスはセラフィナから借りた衣装に身を包み、ベールで顔を隠してオルフェと踊ったが、ユリディスはお守りを落とした際にミラに顔を見られてしまい、激昂したミラはユリディスに掴みかかってきた。
ユリディスは雑踏の中を逃げ惑う内に例の仮面男に見つかってしまい、市電の車庫に逃げ込んで架線を伝って逃げようとしたところへオルフェが駆け付けてきた。
オルフェはユリディスの名を呼びながら電気のスイッチを入れたところ、架線に触れていたユリディスは高圧電流を浴びてショック死してしまった。


寸評
僕はオルフェ神話について全く知識がないので、この話にどのようにして神話が繁栄されているのか分からないのだが、いつまでたっても目に焼き付き耳に残るのがカーニバルの熱気とサンバのリズムである。
カ―ニバルに沸くリオデジャネイロの様子を踊り手たちの視点からいきいきと描いて、その地をその時に旅した気分にさせ、彼らと共に唄い踊る夢み心地を体感させてくれる。
僕はかつて大学で所属していた芸術会本部のOB会で阿波踊りに行ったことがある。
徳島在住の先輩が桟敷席を用意してくれたいたが、桟敷席は年配のOBにまかせ、当時はまだ若かった私は仲間の何人かと踊りに加わった。
旅館の浴衣に買ったばかりの足袋をはいて踊りの会場に行き、鳴り物がない我々は和歌山大学の後ろで彼らの囃子に合わせて踊った。
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々、という掛け声があるが正にその通りであった。
〇〇連というグループが何個もあって、早いグループが朝の7時くらいから街角の広い場所を見つけては踊っている姿を見て、彼らの熱気を感じたし、阿波の人たちはこの祭りの為に一年を過ごしているのだと思った。

この映画でもリオデジャネイロのカーニバルの様子が描かれており、祭り前夜からの熱気が伝わってくる。
その様子は阿波踊りに興じる人たちと通じるものがあり、祭りの持つ魔力である。
描かれている中身は大したものではないのだが、繰り返される市井の人たちの踊りを楽しむ姿の描写が楽しい映画である。
オルフェにはミラという婚約者がいるのだが、結婚を届けに行った先の老担当者がでオルフェが名乗ると相手はユリディスではないのかと聞き返す。
僕はこの時点で神話におけるオルフェの相手はユリディスなのだと知ったのだが、オルフェ神話には色々な解釈があるらしい。
出会ったオルフェとユリディスはたちまち恋に落ちるが、ラブ・ストーリーとしての二人の描写はカーニバルの描写に押されて希薄である。
さらにユリディスには死神が付きまとっていることで怪奇的要素とサスペンス的要素も加わわってくる。
死神はユリディスを死へと導くが、死神によって命を奪われるのではなく、オルフェの行為によってユリディスが命を落とすのが衝撃的である。
オルフェはユリディスを求めて彷徨い、死者の霊を呼び出す施設に行く。
行われているのは恐山のイタコによる口寄せと同じもので、この様な宗教儀式はどの国にも存在すると思われる。
そこでオルフェはユリディスの声を聴くが、振り返ってはいけないと言われているのに振り返ってしまい、声の主が老婆であることを知り騙されたと怒り狂う。
鶴の恩返しでもそうなのだが、見てはいけないと言われれば見たくなり、振り返るなと言われれば振り返りたくなるのが人間の性(さが)である。
死神に付きまとわれるのも怖いが、もっと恐ろしいのは女の嫉妬である。
ミラの嫉妬がユリディスの死を招き、そしてついには愛するオルフェの命すら奪ってしまう。
男と女の愛憎劇は時代が変わってもいつまでも存在し続ける。
次の時代のオルフェが早くも誕生しているのは、やがてまた男と女の悲劇が生まれることを暗示していた。


グレートレース

2022-06-19 07:40:37 | 映画
「グレートレース」 1965年 アメリカ


監督 ブレイク・エドワーズ
出演 ナタリー・ウッド
   トニー・カーティス
   ジャック・レモン
   ピーター・フォーク
   ドロシー・プロヴァイン
   キーナン・ウィン

ストーリー
20世紀初頭。ニューヨーク・パリ間の自動車大レースを思いたった男たちがいた。
対抗意識の強いレスレー とフェイトで、いつもみじめな思いをするフェイトは、こんどこそ、と悪知恵をかけて大ハリキリ。
マギ という、ある新聞の取材記者を買って出た男まさりの女性が参加者に加わった。
抜け目のないフェイトがレスリー以外の参加者を原因不明の爆発事故でフッ飛ばした。
マギは同僚のヘゼカイア とレスリーの車に同乗することになった。
レースはスタートし、一行が着いた西部のある町では、フェイトのヤリ口も悪辣になり、レスリーをリリー とその恋人との三角関係にまき込ませ、ひと思いに放火した。
その後もガソリンをなくして馬に引かせるレスリー、河を渡ろうと、水浸しになるフェイト、……
坂の多いサンフランシスコ、零下40度の猛吹雪の中で珍レースを展開しロシアに着いた。
キュスター将軍に迎えられたレスリーとフェイトとヘゼガイアは皇太子を紹介されたが、皇太子がフェイトと瓜二つなのに驚いた。
フェイトは国を乗っとろうという悪男爵のために偽皇太子にされそうになるが、マギらの助力で事件を解決し、2台の車はパリへ向かってフランスを走る。
しかし、恋仲になったレスリーとマギが痴話ゲンカを始め、ゴール寸前で仲直りしたものの、フェイトの車が追い抜いた。
ワザと勝たせたんだ、インチキだと今度はフェイトが承知しない・・・。


寸評
他愛のないドタバタ喜劇で、人情喜劇が好きな者にとってはこのドタバタは受け入れられないかもしれない。
しかし僕にとっては忘れることが出来ない映画の一つである。
それはこの映画を封切時にさる女性と見に行ったからだ。
Ⅰさんというその女性は小学校の同級生で、勉強が出来てスポーツも万能、おまけに美人と来ていたから当時の少年たちのマドンナ的存在だった。
僕も例外でなく、思えば彼女へのあこがれが初恋だったのかもしれない。
僕が引っ越したこともあって文通が始まり、その後何回かデートもしたこともあったのだがお互いの結婚を機に音信不通となってしまった。
「グレートレース」が封切られた頃はまだ交際が続いていて、今はなくなってしまったシネラマ専門館のOS劇場で見た記憶は鮮明だ。
「グレートレース」というタイトルから、カーレース映画と思っていた彼女が、「こんなに面白い映画と思っていなかった」と言ったのを思い出すが、僕も面白いと思った本作を再見するとこのドタバタ劇は僕の感性に合わない。
思い返せば、彼女が横にいたことがこの作品の価値を高めていたことが判りホロ苦い。

さて、映画は見事なドタバタ劇の連続で、古いサイレント映画を見ているような展開である。
説明などいらない馬鹿げた話の連続で、単純なストーリーと描き方で分かりやすいのはこの手の作品の特徴。
善玉のトニー・カーチスは白の衣装で車も白、敵役のジャック・レモンが黒い衣装に黒い車と明確化されている。
ヒロインのナタリー・ウッドはおおむねピンクの衣装である。
トニー・カーチスは歯がピカッと光ったり、瞳がピカッと光ったりして二枚目主人公を強調している。
ジャック・レモンは何かというと「マックス!」と助手の名を叫ぶオーバーアクションを繰り返す。
気球を落とす対空砲「マストドン」とか、レーダー装置を付けた魚雷の「死神エイト号」とか怪しげな武器でトニー・カーチスをやっつけようとするが、逆に自分が痛い目に合うというギャグが繰り返される。
その他にも空中飛行自転車「ダブル・スチール号」、特殊潜航艇「ドクロ号」、超高速ロケット「火の玉号」など訳の分からない大道具が登場する。
ジャック・レモンが乗るスーパーカー「ハンニバル8号」は、上に2.5m盛り上がる六輪車で、前方の敵を撃つ大砲を内蔵しており、後ろからは真っ黒な煙を吐き出して敵を惑わす仕掛けがある。
バカバカしい装置でバカバカしい出来事を真面目に撮っていく根性に感服してしまう。
女性人権運動が盛んになった頃の作品で、その雰囲気もチャッカリとコメディーのなかに織り交ぜている。
圧巻はカルパニア王国で繰り広げられるパイ投げシーンだ。
パイ投げもサイレント映画の定番的シーンの一つだが、ここでのパイ投げは半端でない。
何より、ヒロインのナタリー・ウッドがピンクのコルセットを見せながらパイだらけになってしまうのである。
巨大なケーキや、投げつけられるパイの数も半端な数ではなく、出演者も誰が誰だか分からなくなってしまう。
シーン撮影が終了した時に、もう一度出演者がパイ投げをやって、今度は仕返しに監督に皆でパイを投げつけたというエピソードが残っている。
ナタリー・ウッドが「The Sweetheart Tree」を歌うシーンでは、画面の下に歌詞の英語字幕が現れて、今歌っている個所が分かるようになっているが、カラオケの原型のような気もする。


クリムゾン・タイド

2022-06-18 09:09:18 | 映画
「クリムゾン・タイド」 1995年 アメリカ


監督 トニー・スコット
出演 デンゼル・ワシントン
   ジーン・ハックマン
   ジョージ・ズンザ
   ヴィゴ・モーテンセン
   ジェームズ・ガンドルフィーニ
   マット・クレイヴン

ストーリー
ロシアで超国家主義者のウラジーミル・ラドチェンコが率いる反乱が勃発した。
ラドチェンコの反乱軍は大陸間弾道ミサイルの基地を占拠し、ロシア正規軍に包囲されながらも、アメリカと日本に対して自らの要求が認められなければ核攻撃を行うと脅迫する。
アメリカ海軍のエリート黒人士官ハンター少佐は軍に召集され、オハイオ級原子力潜水艦「アラバマ」に副長として乗艦することを命じられる。
アラバマの艦長で、たたき上げのベテラン士官のラムジー大佐は、ハンターがアフリカ系でありながらハーバード大学卒であること揶揄しつつも彼を歓迎した。
アラバマ乗艦を前に、ラムジーは整列した部下たちを前に、自分たちの任務の重大さについて語り、最善の努力をするよう要求し、さらにラムジーはこの艦に乗る者は自分の指示に従うよう改めて言い聞かせる。
航海3日後、厨房で火災が発生し、ハンターたちが必死に対応している中で兵器システムの演習指令が行われたが、火災で負傷した乗組員が心停止したことでラムジーは演習の中止を命令。
その乗組員は死亡し、ハンターはラムジーに対してあの演習は誤りだったと告げたが、ラムジーはそういう時こそ演習をするべきだと言い返す。
歴戦の叩き上げのラムジー艦長と、ハンター副官は、核に対する思想でも真っ向から対立する。
目的海域に達し、敵潜水艦の影を捉えたアラバマは臨戦体制に突入。
ペンタゴン(米国防総省)からの通信が入ったその時、敵の魚雷攻撃が艦をかすめて爆発した。
通信は途中で途切れ、ミサイルの発射か中止か、はっきりしない。
即時攻撃を主張するラムジーに対し、ハンターは命令の再確認を強く求める。
艦内に異常な緊張がみなぎり、艦長への忠誠心か副官のモラルに与するか、乗組員たちも激しく揺れる。
ハンターはラムジーの命令を服務違反として指揮権を剥奪、彼とその一派の将校たちを監禁した。


寸評
絵空事のような話だが、実際にキューバ危機の時にソ連の原潜で同じことが起きていたのだ。
その事が明るみに出たのはこの映画が撮られてからのことだから、本作はそのようなことが起きる可能性があることを予見していたことになる。
キューバ危機の時も、米軍の攻撃を受け深く潜航したソ連の原潜が通信不可となり、地上での米ソ戦が開始されているかどうかわからなくなった。
二人が命令を受けていた核攻撃を主張したが、人望ある一人がクレムリンへの確認を主張し開戦が回避されたことを知ったということである。
状況は本作で描かれた内容と同じことだったのだ。

アメリカ映画らしい。
ラムジー大佐が出撃前に雨の中で乗組員に檄を飛ばす内容などは正にアメリカと感じさせる。
ラストシーンに至る描き方なども正にアメリカ映画だ。
ちょっとした手違いで核戦争が勃発してしまう怖さを描いてはいるが、一触即発の緊迫感には乏しい。
原因はラムジー艦長の主張の弱さにある。
本国からの第一報は核攻撃の指示であったが、第二報が途中で切れてしまい指示内容が不明となってしまう。
ラムジー艦長は第二報が不明の為、第一報を正式命令とし核攻撃を開始しようとする。
核戦争を開始するなどという重大局面では当然内容確認するものであろう。
一般社会人であっても上層部からの指示通信が途中で切れたら、確認の電話を必ずするものだと思う。
ラムジー艦長の正当性を高めるために、脚本的に二つのことを用意している。
一つは広島、長崎への原爆投下を正当化していることだ。
戦争を早く終わらせるための投下だったと言うのがアメリカの言い分となっている。
ここでも核を積んだミサイルの発射を正当化するためのシーンとしているのだろう。
日本人の僕はこのシーンには不快感を持った、
今一つは、反乱軍のミサイル発射までの時間が切られていて、相手が発射する前に先制攻撃をしなけれがならないと言う状況を設定していることである。
しかしながら、先制攻撃をしなければならないことへの説明不足と、タイムリミットの緊迫感に乏しいのは脚本不足ではなかったかと感じる。
そもそも1分違いで先に撃つことにどのような意味があるのだろう。
映画の中でも敵の原潜に魚雷を命中させて喜んだのもつかの間、命中する前に発射された敵の魚雷攻撃を受け被害を出していたではないか。
燃料注入している事が分かっているなら、核攻撃などせずにミサイル基地を攻撃できるはずだ。
それではロシアとの全面戦争が起きてしまうということなのか。
デンゼル・ワシントンはシドニー・ポアチエ以来の理知的で美形の黒人俳優でこの役にはうってつけだったが、如何せんそのキャラクターは生かし切れていないように感じる。
潜水艦を描いた作品として、作中で「眼下の敵」が語られたりしていて面白いのだが、今一歩踏み込み不足感があるように感じるところがあり惜しい。

クリスタル殺人事件

2022-06-17 08:11:09 | 映画
「クリスタル殺人事件」 1980年 イギリス


監督 ガイ・ハミルトン
出演 アンジェラ・ランズベリー
   ジェラルディン・チャップリン
   トニー・カーティス
   エドワード・フォックス
   ロック・ハドソン
   キム・ノヴァク

ストーリー
老婦人のミス・ジェーン・マーブルはセント・メアリー・ミードに住む推理好きで有名な人気者だ。
この町では今、映画『スコットランドの女王メアリー』の撮影が行なわれており、スクリーンを遠ざかっていた往年のスター、マリーナ・クレッグが主演のため、夫で監督のジェースン・ラッドと共に長期滞在を予定している。
町中あげての歓迎パーティでホステスを勧めるマリーナのもとに様々な人々がやってくる。
婦人会のヘザー・バブコックもそんな一人で、彼女は、昔からのマリーナのファンで以前一度会ったことがある、ということなどを、一方的にしゃべりまくった。
そのころ、製作者マーティと共に主演女優でライバルのローラが到着し、マリーナのいる二階に姿を現した。
彼女を見て一瞬顔をこわばらせるマリーナ。
その直後、ヘザーが死んだ。
彼女の死はたちまち町中にひろがり、チェリーの口を通じてミス・マーブルの耳にもとどいた。
チェリーは、パーティの手伝いに行っていて、会場の様子を詳しく知っていたのだ。
やがて事件解明のためスコットランド・ヤードの警部でマーブルの甥のクラドックが派遣され、ヘザーの死がカクテルに盛られた毒物によるものであることをマーブルに知らせにくる。
しかも、そのカクテルは、マリーナが飲む予定だったものだ。
捜査が難行しているころ撮影現場ではマリーナとローラが火花を散らせていた。
やがて秘書エラが用意したマリーナのコーヒーから再び毒物が発見された。
その件で容疑が深まったエラが、常用していた鼻炎用の吸入器に仕込まれた毒で殺された。
テリーが語った、マリーナの表情が一瞬氷のように変化した、という言葉を考え続けていたマーブルは、その時ヘザーがマリーナに何を語ったのかを調べたところ、その内容はヘザーがマリーナの舞台を見て感激し舞台裏で彼女に思わずキスしてしまったというものだった。


寸評
往年の大女優が久しぶりに映画出演するというのでロケ地である町あげての歓迎パーティが催されている所から映画はスタートする。
往年の大女優マリーナ・グレッグを演じているのが文字通りの大女優エリザベス・テイラーで、かなり体格的にも貫録が出てきている。
マリーナ・グレッグのライバル女優ローラ・ブルースターを演じているのが キム・ノヴァクで、これまた懐かしい名前である。
それぞれの夫を演じているのが ロック・ハドソンとトニー・カーチスときては往年の大スターが集合したと言う感じ。
始まってすぐに事件が発生するが、その事件とは犯人がマリーナ・グレッグ殺害を企てたところ、ふとしたことからパーティに参加していたヘザー・バブコックが殺されてしまったというものである。
犯人は誰か?
この時点で主要登場人物は両女優と二人の夫、そしてグレッグの夫であるジェイソン・ラッドの助手を務めているエラ・ジリンスキー(ジェラルディン・チャップリン)の5人であるから、よほどのことがない限りこの中に犯人がいるというのはサスペンス映画を見ている者ならすぐに想像がつく。
そして一番怪しい人物も何となくわかって来るし、その動機もなんとなく想像がつく。
それが推理映画の定石とでもいうように、観客はそこに導かれていく。
そして、これまた定石と言うべきか、その予想は見事に裏切られる。
しかし一連の流れに緊迫感が生まれてこないのは、犯人が追い詰められて第2の殺人を犯すというくだりの描き方が弱いためだと思う。
最後には、「ああ、そいうことだったのか」と観客を驚かす結末を用意しているのだが、驚きよりも僕はロマンチックなものを感じてしまった。

事件を解決するのは推理好きなミス・マープル(アンジェラ・ランズベリー)なのだが、ミス・マープルの甥でロンドン警察の主任警部ダーモット・クラドック(エドワード・フォックス)の関係が微笑ましくて楽しい。
警部は無能ではないが伯母さんのアドバイスばかりをもらっていて、映画ファンらしくてやたらと映画作品に詳しい
のだ。
それを補足するかの如く作中で楽屋落ち的にハリウッド映画界のことが実名で語られている。
クラーク・ゲーブルの名前が挙がっていたし、監督をジョージ・キューカーにやらせればよかったとかも語られていたような気がする。
途中でプロデューサーでもあるローラの夫マーティ・N・フィンが西海岸に電話を依頼すると、どこの西海岸だと言われるシーンがある。
当然ハリウッドのことを指していると思うし、マーティ・N・フィンはハリウッドのプロデューサーということになっているから不自然ではないのだが、これがイギリス制作なのでハリウッドに対するイギリス流のジョークではなかったかと思った次第。
あまりいい出来とは言えないが、大物が出演していることで何とか体裁を保った作品のように思う。


グランド・ブダペスト・ホテル

2022-06-16 08:56:48 | 映画
「グランド・ブダペスト・ホテル」 2013年 イギリス / ドイツ


監督 ウェス・アンダーソン
出演 レイフ・ファインズ
   F・マーレイ・エイブラハム
   エドワード・ノートン
   マチュー・アマルリック
   シアーシャ・ローナン
   エイドリアン・ブロディ

ストーリー
ヨーロッパ大陸の東端、旧ズブロフカ共和国の国民的大作家(トム・ウィルキンソン)が語り始めたのは、ゴージャスでミステリアスな物語だった……。
1968年、若き日の作家(ジュード・ロウ)は、休暇でグランド・ブダペスト・ホテルを訪れる。
かつての栄華を失い、すっかり寂れたこのホテルのオーナー、ゼロ・ムスタファ(F・マーレイ・エイブラハム)には、いくつもの謎があった。
どうやって貧しい移民の身から大富豪にまで登り詰めたのか? 何のためにこのホテルを買ったのか? なぜ一番狭い使用人部屋に泊まるのか?
好奇心に駆られた作家に対して、ゼロはその人生をありのまま語り始める。
遡ること1932年、ゼロ(トニー・レヴォロリ)がグランド・ブダペスト・ホテルのベルボーイとして働き始めた頃。
ホテルはエレガントな宿泊客で溢れ、伝説のコンシェルジュ、ムッシュ・グスタヴ・H(レイフ・ファインズ)は、ゼロの師であり父親代わりだった。
究極のおもてなしを信条とする彼は、マダムたちの夜のお相手も完璧にこなし、多くの客が彼を目当てにホテルを訪れていたのだが、しかし、彼の人生は一夜にして変わってしまう。
長年、懇意にしていたマダムD(ティルダ・スウィントン)が殺され、その遺言により貴重な絵画『少年と林檎』を受け取ったグスタヴが容疑者にされてしまったのだ。
ホテルの威信を守るため、謎解きに挑むグスタヴとゼロ。
コンシェルジュの秘密結社クロスト・キーズ協会(=鍵の秘密結社)や、ゼロの婚約者アガサ(シアーシャ・ローナン)の力を借りて、大戦前夜のヨーロッパ大陸を飛び回る。
2人に迫る警察と真犯人の魔の手、そして開戦、果たして事件の真相は……?


寸評
ヨーロッパの古いホテルが舞台で、冒頭に今は亡きある作家の銅像が映り、その作家が若き日にホテルのオーナーから過去の話を聞くというスタイルで物語が展開する。
ヨーロッパ一のホテルといわれた「グランド・ブタペスト・ホテル」のコンシェルジュであるグスタヴが、宿泊客のマダムから遺産としてとんでもない価値の名画が贈られることになったものの、殺人犯の疑いをかけられ逮捕されてしまった彼が、ベルボーイ見習いのゼロとその婚約者の協力を得て事件の真相を探るというストーリーなので、サスペンスのように思えるのだが、それをメインに置きながらむしろ軽妙な映画に仕上げている。

舞台になるホテルの独特の情緒が雰囲気を出していて、スクリーンに映し出されるシーンは絵画的でポップな感じがするし、ファンタジーな遠景や、エレベーターの内装まで凝りに凝っている。
1932年、1968年、1985年と時代ごとに映像サイズや色調を変えるなどの配慮も見えるし、何よりも時代を感じさせるノスタルジックなムードが映画全体に広がっているのがいい。
しかし、そうしたテクニックを追及しているためか、あるいはそれがこの映画の目指すものだったのかもしれないが、そのことにより全体が平板で冗長な感じがすることも否めない。
雪の中の追跡シーンや、ホテルでの銃撃戦などもポップな感じで、リアルを追及していないことがよくわかる。
これはウェス・アンダーソンという監督の作風かも知れない。

遺産を巡る騒動はあっけなく解決して、マダムの長男であるドミトリーが失踪し、グスタヴのものとなったホテルは再び優雅さを取り戻して、グスタヴ立ち合いの下でゼロとアガサは結婚式を挙げることが出来、物語は大団円を迎えたかに見えたところで最後のひとひねりがある。
しかもそれを大上段に構えて「どうだ!」と叫ぶような演出でなく、語りで聞かせる演出に、単純な僕などは拍子抜けしてしまうのだ。

ゼロはルッツへ向かう列車の中で、再び軍の検問で拘束されそうになるが、今度は臨時通行証も通用しない。
前回同様に抗議したグスタヴは、今度は救ってくれる人もなく銃殺されてしまうのだが、そのシーンはない。
ゼロとアガサは生き延びて、この後に二人の間に息子が誕生したようなのだが、ところがこの息子は「プロイセン風邪」であっけなく死去してしまっていて、これも語られるだけで描かれることなない。
銃殺されたグスタヴの遺産を継承したゼロは、国一番の大富豪となるが、国は共産化の中にあって、ゼロの資産は国有化されてしまい、古びたホテルだけが残された。
ゼロから聞いた話を小説にした作家は死亡し、女性は墓地で彼の残した小説を読み終える。
小説家の台座には「鍵の秘密結社」の話にちなみ、無数の鍵がぶら下げられているというセンチメンタルなエンディングである。
この意外とも思える展開はドラマ化されていないし、余韻を残すようなエンディングなのに、その感動がイマイチ伝わってこなかったので物足りなさを感じる。
う~ん、これは感性の問題か・・・。
第64回ベルリン国際映画祭で審査員グランプリを獲得するなど、評価も高い作品だが僕の感性にはなじまない。
エンドロールに至るまで遊び心に満ちた作品であることは確かだけど・・・。