おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

マッケンナの黄金

2023-03-31 07:09:39 | 映画
「マッケンナの黄金」 1969年 アメリカ


監督 J・リー・トンプソン
出演 グレゴリー・ペック オマー・シャリフ テリー・サヴァラス
   キーナン・ウィン カミラ・スパーヴ リー・J・コッブ
   レイモンド・マッセイ バージェス・メレディス

ストーリー
1872年、アメリカの南西部。
荒涼たるキャニオンにある小屋は異様な雰囲気に満ちていた。
インディアンが隠した黄金を探し求める無頼漢コロラドと騎兵隊上がりのディブスなどの部下の一団、それに、黄金の谷への道を知って捕虜にされた保安官のマッケンナ。
古くからの因縁でコロラドはマッケンナへの復讐を思っているのだが、殺せば黄金の谷への道が分からなくなるというので、コロラドはいらだっていた。
もう1人の捕虜である判事の娘インガは、少し前にコロラドに父を殺されていた。
そして、そのインガにマッケンナの気持ちが傾いているのを悟った、マッケンナの以前の恋人ヘシュ・ケはいつかインガに復讐しようとしていた。
こうした内部の葛藤の外に彼らは、アパッチ族の襲来を防がねばならないのである。
そこへさらに黄金にとりつかれた町のおえら方たちも現れた。
こうして黄金を求めて集まった20名ばかりの男女の間には、欲とエゴを中だちとする不気味な均衡が保たれていた。
だが、フロンティアたちの黄金への夢はそれ自体が彼らに血を流させ、互いに殺し合いをさせる要素であった。
マッケンナとコロラドの命を賭けた死闘が、そしてインガとヘシュ・ケの戦いが……。
そこへ怒涛のようにアパッチが襲来してきた。
激しい争い後、マッケンナ、コロラド、ディブス、インガの4人が生き残り、そして黄金は彼らの手に入った。
が、その時地震が起こり、命からがら逃げたのはマッケンナとコロラドだった・・・。


寸評
様々な要素が盛り込まれた冒険アクションだが完全昇華するにはもう一工夫欲しかった印象がぬぐえない。
オマー・シャリフ演じるコロラドは保安官に追われる身のようなので悪党なのだろうが、これが極悪非道の悪党というよりは人のいい小悪党のようで、感情移入は出来ないが憎めない所がある。
したがってマッケンナ、インガを伴っての道行に緊迫感がない。
そうなってくると、アパッチの襲撃や騎兵隊の追跡から逃れるアクションシーンが期待されるのだが、両者との銃撃戦は行われない。
騎兵隊が銃撃戦を繰り広げるのは、市民を含む後から加わった連中で、彼等は騎兵隊に壊滅状態にされる。
そもそも市民がコロラド一味に合流する意味がよく分からない。
欲が絡んでのことなのだろうが、何かのんびりした雰囲気が漂ってしまっている。
生き残りはアパッチ族に襲われ全員が死んでしまうことになるが、印象的には急に登場して急に消え去った。

メインは欲に取りつかれた男たちの右往左往なのだが、変化をつけているのが女たちの争いだ。
どうやらマッケンナとインディアン女性のヘシュ・ケは以前に関係があったようだが、あるいはヘシュ・ケの片思いなのか、未だにヘシュ・ケがマッケンナに思いを寄せている。
過去の出来事としてヘシュ・ケの兄の自殺がマッケンナの口から語られるだけで、その他は描かれていないからヘシュ・ケとマッケンナの気持ちのすれ違いが上手く伝わってこなかった。
白人女性のインガが登場しマッケンナといい雰囲気になっていくのをマシュ・ケが快く思わず、インガに対して嫉妬心を燃やし敵対するのはごく当然の展開で目新しくはない。
黄金の谷の場所を知っているのがマッケンナだけというので、マッケンナを生かしておかねばならず、マッケンナは場所にたどり着けば銃とインガを引き渡すという条件を出しインガを守るなど、欲とエゴが絡み合って仲間の微妙な関係が保たれる設定なのだが、途中で加わる別の一団や、騎兵隊の軍曹が変節して仲間に加わるなど、緊迫感を生み出すはずの微妙な関係に間延び感が生じていたのはおしい。
インガが判事の娘だと判明しても大した出来事を引き起こさなかった。
黄金を前にして人々の心が揺れ動く。
インディアンは精霊に忠実になろうとするし、インガも黄金を手に入れたいと思うようになる。
ヒロインであったはずのインガですら黄金の魅力に取りつかれる展開は面白かったが、あれ以上描くと別な映画になってしまってバランスを欠いたのかもしれない。
見せ場はやはり最後のスペクタクルだろう。
これがなければ「マッケンナの黄金」は通俗のB級映画に過ぎなかっただろう。
まずは揺れる岩の影が谷への入り口を指すのだが、それならば当然日にちが関係してくるはずで、春分の日であるとか秋分の日でなければならないとかの設定がないのは脚本不足だと思う。
よくわからないのは、マッケンナとインガが何のために岩場を登ったのか、また何のためにコロラドはマッケンナたちを追ったのかだ。
逃げ道が上にあるからだと思っていたら、結局下へ降りてきた。
地割れが起きるミニチュアセットはもう少し樹木にリアル感を出して欲しかったが、金の鉱脈が崩れた岩に埋もれていく迫力だけは見所となっている。

街の上で

2023-03-30 07:07:18 | 映画
「街の上で」 2019年 日本


監督 今泉力哉
出演 若葉竜也 穂志もえか 古川琴音 萩原みのり
   中田青渚 成田凌

ストーリー
下北沢の古着屋で働いている荒川青(若葉竜也)は、ライブを見たり、行きつけの古本屋や飲み屋に行ったり、基本的にひとりで行動している。
口数は多くもなく、少なくもないが、生活圏は異常に狭く、行動範囲も下北沢を出ない。
付き合っていた川瀬雪(穂志もえか)の誕生日を祝っている最中に、彼女から浮気したことを告白された上で振られてしまったが、いまだに彼女のことが忘れられない。
雪への未練が残る青だったが、行きつけの飲み屋でマスター(小竹原晋)や常連(五叉路)と過ごしたり、古書店で店員の田辺冬子(古川琴音)と「センシティヴ」な会話を交わしたり、ふらっとライブを観に行ったり、路上で警官(左近洋一郎)に身の上話を聞かされたりしながら暮らしている。
そんな青に、美大に通う女性監督・高橋町子(萩原みのり)から、自主映画への出演依頼が舞い込む。
演技経験の無い青だったが、逡巡の末に撮影に参加することにし、田辺に演技の練習に付き合ってもらう。
撮影日になり青が待機場所で出番待ちをしていると、雪がファンだった朝ドラ俳優の間宮武(成田凌)が出演者の一人としてやってきた。
撮影では緊張から自然な演技ができなかった青だが、撮影終了後の打ち上げに参加することになり、衣装係の城定イハ(中田青渚)に話しかけられる。
二次会に行くつもりのなかった青は誘われるままイハの自宅へ行き、恋バナを始める。
一方、雪は青が映画の撮影現場で出会った俳優の間宮武と話し合いをしていた。
翌朝、青が帰宅しようとするとイハの三番目の彼氏(岡田和也)が現れ、無言で立ち去る。
青とイハがコンビニまで歩いていると、雪がマスターと二人で歩いているのに出くわし、そこにイハの三番目の彼氏も加わって言い争いになり、事態は一気に進展する。


寸評
下北沢がどのような土地柄なのか知らないし、今泉監督にとって下北沢にどれほどの思い入れがあったのかは知らないが、場所選定としてはよかったと思う。
映画は、そこでの荒川青を中心とした若者たちが繰り広げる日常の会話劇である。
見終った後に何とも言えないような心地よさを感じさせたのだが、それは登場人物たちが演技を感じさせない等身大の姿で等身大の会話をし、少なからず他人を思いやる気持ちを持っていたからだと思う。
飲み屋での会話は、僕が飲み屋通いをしていた頃を思い出させた。
役作りの為に太っている客がいるのだが、自分ではなく元力士が選ばれてしまい落ち込むことになる。
彼の努力を知らなかった元力士は飲み屋を訪れ「悪いことをした、謝ろうと思って」と言うだけで、寡黙にウーロン茶を飲んで待ち続ける。
青と一時は気まずい雰囲気になった本屋の店員の冬子は既婚者にしか魅力を感じない女性だったが、青の為に演技の練習に付きあうようになり、彼の努力を監督に訴えてやる。
ストーカーのようなイハの三人目の彼氏は、青の存在を知って「イハを幸せにしてやってほしいと」とイハの家の鍵を青に渡す。
出番を全てカットされていることを知っている青は上映会に参加しなかったが、古着屋を訪れたイハは「出ていたよ」と嘘を言う。
青もそれを受け「じゃあ見に行ってみよう。次の上映会が有ったら教えて」と返す。
青には恋バナを聞いてくれるイハ、雪には恋バナを聞いてくれるマスターがいて、それぞれを応援してくれる。
普通の街の普通の人たちが見せるちょっとした思いやりと、彼らが見せる生態と会話が可笑しく、つい笑ってしまうユーモアが満ち溢れていたことも心地よさをもたらしたのだと思う。

青が喫煙場所近くに立っていると、見ず知らずの女性が「煙草を一本頂けません?」と近寄ってくる。
「僕も無いんです」と青が答えると、女性は別の男性に「煙草を二本頂けません?」と声をかけ、男性が二本渡すとその内の一本を青に渡すという思わず笑ってしまうシーンで、しかしそこから何かが起きるわけではない。
ちょっとした出来事を紡いでいるだけのシーンだが、映画はそんなスタイルでエピソードをつないでいく。
飲み屋での会話といい、コーヒーショップでの会話といい、普通の会話を描写しているだけなのだが、その雰囲気が作られたものを感じさせず、まるでドキュメンタリーの一コマを見ているような雰囲気で描かれている。
友達と友人はどう違うのかなどという他愛のない会話が続いていくが、その自然さがいい。
それらの雰囲気は青とかかわる女性たちとの関係においても同様である。
撮影の打ち上げに参加した青は雰囲気に馴染めず、同じ気持ちのイハと仲良くなり彼女の部屋に誘われる。
普通の映画ならそこで二人は結ばれるのだが、ここでは二人はお互いの恋バナを始めるだけである。
青は雪のことを包み隠さず話し、イハも自分の恋を語るが、想う相手には言えないことをお互いに素直に話し合える仲となるのだが、二人の会話は面白い。
彼らが一堂に出会う場面があり、そこは大笑いしてしまった。
暴力シーンがなく、特に誰かが傷ついた風でもない作品で、普通の人々が普通に暮していることが似合う街が下北沢なのだろう。
それぞれの人にちょっとしたドラマがあり、それが普通の人の人生なのだと思う。

マダムと女房

2023-03-29 07:20:32 | 映画
「マダムと女房」 1931年 日本


監督 五所平之助
出演 渡辺篤 田中絹代 市村美津子 伊達里子 横尾泥海男 吉谷久雄
   月田一郎 日守新一 小林十九二 関時男 坂本武 井上雪子

ストーリー
劇作家の芝野新作は、「上演料500円」の大仕事を受け、静かな環境で集中して台本を書くため、郊外の住宅地で借家を探し歩いていた。
そのうち新作は路上で写生をしていた画家と言い争いになり、それを銭湯帰りの「マダム」が仲裁する。
妻・絹代や2人の子供とともに新居に越してきた新作だったが、仕事に取りかかろうとするたびに、野良猫の鳴き声や、薬売りなどに邪魔をされ、何日も仕事がはかどらない。
ある日、隣家でパーティが開かれ、ジャズの演奏が始まった。
新作はたまらず隣家に乗り込むが、応対したのはかつての「マダム」だった。
マダムは自身がジャズバンドの歌手であることを明かし、音楽家仲間を紹介した。
新作は言われるままに隣家に上がり、酒をすすめられ、ともに歌った。
その頃、絹代は窓越しに隣家の様子を見ていた。
絹代は『ブロードウェイ・メロディ』を口ずさみながら上機嫌で帰宅した新作を叱りつけ、嫉妬心からミシンの音を立て始め、果てには「洋服を買ってちょうだい」とねだる。
新作はそんな絹代に取り合おうとせず、「上演料500円。不言実行」と告げて机に向かう。
数日後、芝野家は百貨店から自宅へ戻る道を歩いていた。
住宅の新築工事や、空を飛ぶ飛行機をながめながら談笑し、一家はささやかな幸福を噛みしめた。
そのうち「マダム」宅から『私の青空』のメロディが流れ、一家は口ずさみながら家路につくのだった。


寸評
話の内容は他愛のないものだが、本格的トーキーとして映画史に記録される作品である。
明らかにトーキーを意識しており、全編「音」が鳴りっぱなしの賑やかな作品となっている。
同時録音だったこともあり、撮影現場はありとあらゆる防音対策が取られたという。
今見ればなんて事のない作品だが、当時としては音を拾うことに並々ならぬ努力と工夫が必要であったろう事は想像に難くない。
劇作家と画家の言い争いに始まり、ラジオから聞こえる声、猫の鳴き声、目ざまし時計の鳴る音、生演奏のジャズなどが次から次へと聞こえてくる。
日常生活の中で聞きなれた音が初めてスクリーンを通して聞こえてくることが、当時の観客に驚きをもって迎えられたことであろう。

僕にとってこの映画は日本初の本格的トーキー映画ということよりも、若かりし頃の田中絹代さんが出演していることの方が興味を引いた。
地味な顔だちで、歳の割にはちょっと老けた感じがする人との印象がある田中絹代さんだが、さすがに21歳の彼女は若いと、ある種の感動を得た。
今回も既に二人の子持ちで旦那にきつく当たることもある女房役を務めていて、やはり実年齢よりも上の役をやっているのだが、旦那が隣家のマダムと楽しそうにしている姿を垣間見て、マダムに嫉妬したりするところなんて可愛いと思わせる。
田中絹代が旦那とマダムの関係に焼きもちを焼いて「エロ100%だわ」と非難する会話にはドキリとした。
当時でもそのような会話が普通にあったことに驚いた。
渡辺篤のダンナと妻である田中絹代の掛け合いが夫婦漫才の様で愉快である。
全編コメディタッチで、押し売りにおだてられて買ってしまうところなどはベタな描き方だが、二人がやると思わず笑みが漏れてしまう。

タイトルバックでは幾何学的な装飾を施された文字が右から左に並んでいて、その中に録音として土橋武夫、土橋晴夫の名前が見える。
この土橋兄弟が1931年にサウンドトラック方式による「土橋式松竹フォーン」の開発に成功し、国産トーキーの導入に熱心だった松竹蒲田撮影所長の城戸四郎が本作の製作を決めたとのことである。
トーキーの魅力が一番発揮されるのはマダムの家で行われるジャズ演奏シーンである。
マダムはこのジャズバンドのボーカルなのであろうか、唄って踊っての楽しい場面となっている。
夫がマダムと楽しんでいることに妻が嫉妬する場面なのだが、そことを描くにしてはジャズ演奏のシーンが全体時間配分からすれば長いと思う。
五所としてはここで一気にトーキーの楽しさを観客に示したかったのだろう。
それまでは音を意識した演出はあるものの、不自然にとりいれたものではなく無理なく物語に溶け込んで描かれていたが、この明るいはじけたシーンは日常を離れたもので、楽しさ倍増となっている。
マダム宅から「私の青空」のメロディが流れてきて、一家が口ずさみながら家路につくラストシーンは良質なホームドラマを感じさせてくれた。

毎日かあさん

2023-03-28 07:17:31 | 映画
「毎日かあさん」 2011年 日本


監督 小林聖太郎
出演 小泉今日子 永瀬正敏 矢部光祐 小西舞優 正司照枝
   古田新太 大森南朋 田畑智子 光石研 鈴木砂羽
   柴田理恵 北斗晶 安藤玉恵

ストーリー
今日もサイバラ家に、嵐のような朝がやってきた。
仕事場の机で寝てしまったサイバラリエコを大声で起こす母トシエ。
息子のブンジは6歳になってもまだオネショのクセが治らない。
ブンジと4歳の娘フミを保育園に送り届けるが、サイバラのママ友でもある麦田さんが5人の息子たちを体育座りさせ点呼をしたり、子供たちが走り回ったりとそこは戦場のような世界。
そんな保育園を後にして、ようやく忙しい朝は一段落するが、締め切りに追われる人気漫画家のサイバラは休む暇もなく仕事開始し、優秀なアシスタントの愛ちゃんと共に夜遅くまで働くのだった。
だが仕事が終わると、次は子供たちを寝かせる時間だ。
一日の終わりのひと時の楽しみは、子供たちは絵本、母は酒。
一方、元戦場カメラマンの夫カモシダは、アルコール依存症で病院に入院中。
ところがある日、勝手に退院してきた彼は、作家になると宣言したものの原稿も書かずにまた酒に手を伸ばしてしまう。
やがてカモシダの心は日に日に混乱し、妄想がひどくなり、とうとうサイバラは彼に離婚届けを渡す。
失ったものの大きさに気付いたカモシダは、完全隔離された病院に転院することを決意。
しかし克服どころかますます悪くなる一方で、ついにサイバラは離婚を決意する。
時は流れ、子供たちも父親の不在に寂しさを募らせる中、遂にカモシダが依存症を克服、サイバラは元夫を家族として再び迎え入れる。
しかし、喜びも束の間、今度はカモシダのガンが発覚・・・。


寸評
人気漫画家・西原理恵子が日々の出来事を綴った同名エッセイ漫画を原作としているが、ちょっと前にダンナであった鴨志田氏のエッセイを原作とした「酔いがさめたら、うちにかえろう。」が撮られている。
元夫婦の永瀬正敏と小泉今日子が夫婦役で共演するとのことで、話題性は断然こちらの作品が勝っていたが、映画の出来栄えとしては断然「酔いがさめたら、うちにかえろう。」の方が面白かった。
鴨志田目線と西原目線の違いもあるし、西原さんの描き方も違っているが、東陽一監督の「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」の方がペーソスがあったと思う。

本作は西原と鴨志田の切っても切れない関係と言うより、家族とそれを取り巻く人々を多数登場させ、西原一家のバカバカしくも微笑ましい日常を活写している。
ママ友たちとのバカ話シーンもふんだんに登場する。
子供たちも主演級で、特にブンジという息子が強烈キャラでサイバラを振り回し、小泉今日子もそれに負けない肝っ玉かあさんぶりを熱演しているが、これだけ子供が登場するとそちらに目が行ってしまう。
映画の世界では子供と動物には勝てないなという感じである。

キャスティング面において、群を抜く話題性を誇る作品といえる。
離婚する夫婦の役を、離婚した夫婦に演じさせるのは、ほとんどいやがらせのようなキャスティングだ。
妻が一方的にアル中の夫をののしるシーンの迫力はすさまじいもので、まるで実生活における一場面の再現じゃないかと思わせるリアリティを感じさせた。
それはもちろん小泉今日子の演技力のたまものに違いない。
しかし実際に別れた夫婦の演技だけに素直に笑えないものがある。
話題性では成功していても、作品内容的にはそれが邪魔をしていたようにも感じるのだが…。

漫画家で二児の母でのあるサイバラリエコは、6歳の息子や4歳の娘に振り回され、大忙しの毎日を送っている。
戦場カメラマンの夫カモシダはアルコール依存症でろくに仕事もせず、さらに悩みを大きくさせる存在だ。
しかも彼の病状は悪化の一途をたどっていたという中での物語である。
アル中の夫との格闘というよりも、この映画は子育ての大変さとともにその幸福感を上手に描いている。
カモシダを中に挟んだ、母親と子供たちの愛情物語とも換言できる内容である。
子育てに疲れるほど「毎日かあさん」をやっている女性たちが見れば勇気をもらえるのではないか。
やっかいな子供に手を焼きながら悪戦苦闘しているのは私だけではないのだという気持ちであり、こんなにおおらかに子育てってできるのだなあという感覚である。
鑑賞者である僕は男目線で見ていたが、虐待や幼いわが子殺人などが少しでも無くなるのではないかと思ったりしたのである。
アニメを使ったり、想像の世界を描いたりもするのだが、少々てんこ盛りすぎたのではないかとも感じたのであるが・・・。
内容の割には軽い作品である。

まあだだよ

2023-03-27 07:32:50 | 映画
「まあだだよ」 1993年 日本


監督 黒澤明
出演 松村達雄 香川京子 井川比佐志 所ジョージ 油井昌由樹
   寺尾聡 日下武史 小林亜星 平田満 渡辺哲 頭師孝雄
   岡本信人 吉岡秀隆 草薙幸二郎 谷村昌彦 板東英二

ストーリー
昭和18年の春、先生は生徒たちへ作家活動に専念するため学校を去ることを告げた。
生徒たちは『仰げば尊し』を歌い敬愛する先生を送る。
退職後に引っ越した家にも、高山、甘木、桐山、沢村ら門下生たちが遊びにやって来る。
といっても皆、中年のいい大人なのだが。
ある日、先生の家で還暦の祝宴が開かれた。
先生と奥さん、門下生たちの馬鹿鍋を囲みながらの楽しい会話が弾むが、空襲で水をさされてしまう。
先生の家は空襲で焼けてしまい、知人の厚意で貸してもらった、三畳一間の堀建小屋暮らしを余儀なくされる。
先生と奥さんは狭いこの小屋で夏、秋、冬、春……三年半を暮らす。
昭和21年の晩春、門下生たちの画策で第一回『摩阿陀会』が開かれた。
元気な先生はなかなか死なない、そこを洒落で死ぬのは『まあだかい?』というわけだ。
吉例となっていくビールを飲み乾して先生は『まあだだよ!』と答え、宴会は盛り上がり混乱の極致である。
門下生たちの尽力で新しい家ができた。
先生はお礼の申しようもないと感謝し幸せそうで、猫を抱いた奥さんも嬉しそうだ。
ある日、先生もお気に入りの猫、ノラがふいに失踪し、以来先生は哀しみにくれる毎日を過ごす。
ノラを捜す周囲の人たちの善意に、先生の胸は感激でいっぱいになった。
昭和37年、晩春、第17回の『摩阿陀会』。
先生の髪は白くなり、門下生たちは子供や孫を同伴しての出席である。
先生は『みんな、自分が本当に好きなものを見つけて下さい……』と小さな子供たちへ言葉を贈る。
門下生に付き添われて家へ帰り布団の中で眠る先生は、なんだか楽しそうな顔をしていている。


寸評
随筆家・内田百閒とその教え子たちの交流を描いた作品だが、それがどうしたといった内容で、ほのぼのとしていて微笑ましいものがあるが中身はさしてない。
黒澤明の遺作とあって、その思いも見る側としては少し感情移入するところはある。
しかし、さすがは黒澤、老いて益々盛んと言う感じの作品ではない。
夏目漱石の門下生の一人であるらしいが、僕は内田百閒という作家を全くと言っていいぐらい知らない。
無学でもって、この映画を通じて初めて内田百閒を知ったわけだが、ここで描かれたように門下生に随分と慕われた先生だったのだろう。
その門下生との交流がエピソードを交えて次々と描かれる。
黒澤はかつて「良い脚本からひどい映画ができることはあるが、ひどい脚本から良い映画ができることはない」との言葉を残しているが、皮肉なことにその典型のような作品になってしまっている。
旧制中学の先生と生徒の美しい師弟愛と言う平凡なテーマなのだから、もう少しひねりが欲しかった。
登場人物も、演じる俳優も皆大人しくて八歩破れな人物も登場せず魅力がないのだ。

僕が敬遠したのか、それともそれだけのものがなかったのか、僕は師を師と仰ぐ方と巡り合えなかった。
そのことは先生に責任があるわけではなく、すべて僕自身に原因のあることなのだが、ないものねだりで尊敬し敬愛し親しく交流できる先生と出会いたかったという願望はある。
したがって、ここで描かれたような関係はうらやましく思える。
もしかすると、これは黒澤明が得たくて得られなかった人間関係を、自身の願望として描いたのではないか。
立ち読みではあるが、黒澤の弟子ともいえる堀川弘通の記した本の中で「木下恵介と彼の弟子の関係がうらやましい」と言ったことがあるとの表記があったような気がする。
そうだとすれば、この作品を遺作としたことは何だか寂しくて悲しい気がする。

内田百閒はこのような人だったのかもしれないし、門下生と本当にこのような交流をしていたのかもしれないが、映画として内田百閒の松村達郎と所ジョージ、井川比佐志以下の生徒達がいい年をして何をやっているのだということを見せられてもなあという感じなのだ。
確かに僕も未だに学生時代の仲間と居酒屋でバカ騒ぎをすることがあるので、このバカ騒ぎは分からぬでもなく、OB会と称する彼等との一泊旅行は大層愉快なものである。
そんな時、昔に戻って学生時代のバカ騒ぎをやらかさぬわけでもない。
だからと言って、それを素直に見せられてもなあと言うのが正直な気持ちなのだ。

内田百閒に「ノラや」という作品があるらしいから、ノラという野良猫の話は本当だったのだろうけれど、意図したものではないにしろ黒澤には「野良犬」と言う作品がある。
ノラを探し回る所ジョージと井川比佐志を比べれば、野良犬のごとき犯人を捜しまわる三船敏郎と志村喬のなんとエネルギッシュだったことか。
ふと名作「野良犬」を思い出した。
猫より犬の話の方が断然いい。

マークスの山

2023-03-26 08:36:40 | 映画
「ま」ですが、今回は9本程度の紹介となりました。
前回は以下の作品でした。
2020/4/6からの「麻雀放浪記」から「毎日が夏休み」「幕が上がる」「マッシュ M★A★S★H」「マッチポイント」「マッドマックス 怒りのデス・ロード」「祭りの準備」「マディソン郡の橋」「マネーボール」「真昼の決闘」「瞼の母」「まほろ駅前多田便利軒」「まぼろしの市街戦」「間宮兄弟」「真夜中のカーボーイ」「マラソンマン」「マルサの女」「マルサの女2」「万引き家族」に続き、
2021/11/24からの「舞妓はレディ」から「マイ・バック・ページ」「マイ・フェア・レディ」「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「股旅」「街の灯」「招かれざる客」「真昼の死闘」「まぶだち」でした。

「マークスの山」 1995年 日本


監督 崔洋一
出演 中井貴一 萩原聖人 古尾谷雅人 名取裕子 小林稔侍
岸谷五朗 西島秀俊 前田吟 萩原流行 岸部一徳
遠藤憲一 塩見三省 岩松了 豊原功補 角野卓造
寺島進 宮崎淑子 井筒和幸 大杉漣

ストーリー
東京・目黒区八雲で、暴力団吉富組元組員の畠山(井筒和幸)が殺害される事件が発生した。
遺体の頭部には、直径1センチ程の特殊な穿孔が認められ、それは事件の異常性を物語っていた。
この事件は、合田警部補(中井貴一)をはじめとする警視庁捜査一課七係が担当とすることになった。
数日後、今度は北区王子で法務省の刑事局刑事課長の松井(伊藤洋三郎)が殺される事件が起こった。
頭部の傷が畠山のものと酷似しているとの報告をうけた合田は、独断で解剖を許可してしまう。
ところが、それを知った王子北署の須崎警部補(萩原流行)が、合田の勝手な行動に怒りをぶつけてきた。
彼は本部からの連絡で、解剖を引き延ばすよう指示されていたのだ。
情報を流さない互いの捜査の仕方に、ライヴァル意識剥き出しの合田と須崎。
青山斎場での松井の葬儀は厳しい管理の下で執り行われ、彼らの動きは封じ込められてしまう。
辛うじて有沢(遠藤憲一)が入手した式次第から松井の経歴などが明らかにされ、畠山と松井を結んだ線上に修學院大学螢雪山岳会の同期という林原(小林稔侍)という弁護士が浮ぶ。
この男が事件の鍵を握っていると睨んだ合田は須崎と密会し、修學院大学螢雪山岳会という名を須崎に流す。
だが、それを調べていた須崎は、皇民憂国の会の片桐(大杉漣)と名乗る男に刺されてしまった。
一方、林原の留守に聞き込みを行った合田と有沢は、事務員と銀行員の会話から林原が恐喝されている疑いを持つのだった。
またその頃、高木真知子(名取裕子)という金町病院に勤める看護婦が、チンピラの銃弾に倒れ重傷を負うという事件が発生していたが、その犯人が畠山と同じ吉富組の人間だったことから、合田たちは彼女の身辺を洗い、彼女が以前勤務していた精神病院の元患者で、今は同棲相手の水沢裕之(萩原聖人)という若者の存在を知る。


寸評
う~ん、なんとも評価がむつかしい作品だ。
評価しづらいのは全体の構成というか、背景がさっぱり理解できない点にある。
犯人は序盤で分かっているから謎解き映画ではない。
なぜ連続殺人事件が起こっているのかが最後までよくわからなかった。
暴力団員の畠山と刑事課長の松井の殺害犯は同一人物なのだが、なぜ無関係なふたりが殺されたのかが明確でない。
連続殺人は学園闘争の内ゲバに原因しているらしいのだが、その揉め事の関係も不明確だ。
特に南アルプスで殺害された野村久志との関係がよく理解できなかった。
さらに分からないのは高木真知子と水沢裕之の関係だ。
看護婦だった高木真知子と患者だった、しかも精神病患者だった水沢裕之とがどうして半ば同棲するような関係になったのか意味不明だった。
まるで年上の飢えた女が若い男に狂ったような描き方だった。
僕の理解力不足なのかなあ・・・。

訳を分からなくしているのは精神病院での様子も一役買っている。
患者が他の患者のカマを掘り、監視員が遊び半分に患者をボコボコに殴って殺害し、そしてその監視員を絞め殺した患者が退院できて普通に生活できているのだ。
それを目撃していたのが高木真知子なのだが、ことの顛末は描かれていない。
血の付着したアイスハーケンが発見された時点で、それが凶器だということは分かるのに、わざわざグロテスクな検証シーンを挿入しているのだが、このシーンの必要性も不可解だ。
水沢は林原に鉄パイプでメッタ打ちにされながらも、なぜ生きていて南アルプスに登れたのか。
そういえば近距離から3発も撃たれて胸を撃ち抜かれた高木真知子が生存しているのも驚きだ。
ミステリーとして楽しんでもらうために意表を突いた展開にしていたのだろうか。

なんだかよくわからん映画なのに最後まで見せたのは、前半の日本の警察機構、官僚、政治等の国家権力の存在と、それを有する人々に対する合田や須崎という刑事、水沢、真知子という力を持たない一個人の非力さの対比があったからだ。
特に警察内部の派閥意識というのが各署、各班において必要なまでに描かれていて、僕はそれだけで映画の中に入り込んでいけた。
何せ相手を罵倒し、殴り倒し、コーヒーをぶっかけるような対立構造なのだ。
そのくせ、「起立! 礼!」では一斉に同調するという官僚機構そのものの様子が可笑しくもあった。

僕は学生運動にのめり込んだわけではないが全共闘世代ではある。
ゲバ棒を振り回した連中が、学生運動は卒業だと言わんばかりに社会の中枢で結構頑張っていたりしているので、MARKSが社会的地位を得るようになり、過去のことを封印している背景や心理はわかるような気がする。
犯罪を肯定するわけではないが当時の世情は理解できるので最後まで見られたのかもしれない。

本日休診

2023-03-25 13:32:20 | 映画
「本日休診」 1952年 日本


監督 渋谷実
出演 柳永二郎 角梨枝子 鶴田浩二 淡島千景 田村秋子
   三国連太郎 佐田啓二 岸恵子 市川紅梅

ストーリー
戦争で一人息子を失った三雲医院の八春先生は甥の伍助を院長に迎え、戦後再出発してから丸一年の記念日に伍助は看護婦の滝さんたちと温泉へ出かけて行き、三雲医院は「本日休診」にした。
八春先生はこの機会にゆっくり昼寝でもと思ったが、婆やのお京の息子勇作が例の発作を起こした。
勇作は永い軍隊生活の悪夢にまだ折々なやまされ、八春先生はそのたびに部隊長となって号令、部下の気を鎮めてやらなければならぬ。
勇作が落着いたら、こんどは警察の松木ポリスが大阪から知り合いを頼って上京したばかりで昨夜おそく暴漢におそわれたあげく持物さえうばわれた悠子という娘をつれて来た。
折りから18年前帝王切開で母子共八春先生に助けられた湯川三千代が来て、悠子に同情して自分たちの家へ連れて帰った。
八春先生はそれでも暇にならず、砂礫船の船頭のお産あり、町のヤクザ加吉が指をつめるのに麻酔を打ってくれとやって来たので、こんこんと意見もしてやらねばならず、悠子を襲った暴漢の連れの女が留置場で起こした仮病に対処し、兵隊服の男が盲腸患者をかつぎ込んで来て手術をしろというのに付き合わねばならなかった。
かと思うとまたお産があるという風で、「休診日」は八春先生には大変多忙な一日であった。
悠子は三千代の息子春三の世話で会社につとめ、加吉はやくざから足を洗って恋人のお町という飲み屋の女と世帯を持とうと考えたが、お町が金のため成金の蓑島の自由になったときいて、その蓑島を脅迫に行き、お町はお町で蓑島の子を流産して八春先生のところへかつぎ込まれた。
兵隊服の男は、治療費が払えず窓から逃げ出すし、加吉はまたまた賭博であげられた。
お町は一時あぶなかったが、しかしどうやら持ち直した。


寸評
今となっては決して撮られることはないと思われる、ほのぼのとした作品で、柳永二郎の老先生を中心に豪華俳優がわきを固めている贅沢なプログラムピクチャだ。
貧乏なために水商売に出た娘のお町に淡島千景、お町といい仲のヤクザに鶴田浩二。
若い看護師の滝さんに岸惠子が扮し、その病院のばあやの息子・勇作に三國連太郎。
18年前の治療費を払うように母親に進言したのが佐田啓二と、それぞれ主演級である。
彼らを通じて三雲先生の回りで起きる騒動を、手を変え品を変えて次から次へと描いていく。
間に余計な説明を入れず、滑稽な騒動を飽きることなく最後まで引っ張り続けるスピード感がいい。
井伏鱒二の原作がいいのか、斎藤良輔の脚本が素晴らしいのか、はたまた監督渋谷実の力量によるものなのか、小市民の悲哀を感じさせるシリアスさとコメディのバランスが良く、喜劇映画として上手くまとまっている。

医者である三雲先生は本日休診の札をかけて休もうとしているが、引切り無しに貧しい患者が現れる。
そういう貧しい人たちを放ってはおけずに診察に応じる三雲先生がなんとも飄々としていて魅力のある人物で、悪人役が多い柳永二郎が正義感のある善人を好演している。
鶴田浩二の加吉というヤクザは渡世の義理から指を詰めなければならないのだが、痛いからと三雲先生の所へ麻酔を打ちに来る。
後年における東映任侠映画全盛の頃の彼を知っているので笑えるシーンだ。
その彼がユスリに訪れるのが有力者夫人である市川翠扇のところなのだが、この豊子夫人が加吉よりも一枚も二枚も上手で、血気にはやる若い組員が大勢いるような芝居をして、おじけづいた加吉をおっぱらうのである。
豊子夫人が三雲先生に向かって猿芝居を演じた時の、三雲先生の態度には笑ってしまう。

望月優子と組んでかっぱらいをやっている男に乱暴されたのが角梨枝子の悠子なのだが、彼女が可哀そうだと面倒を見るのが三千代という佐田啓二の母親である。
彼女は本当にいい人なのだが、息子が悠子と親しくなると彼女の過去にこだわっていい顔をしない。
彼女にいい相手をとまで考えているのだが、自分の息子のことになると事件のことで反対してしまうという人の弱さを見せる。
人にはそのような一面があるのだと、滑稽なシーンが多い中でやけにシリアスな描き方を見せている。
三國連太郎の勇作は戦争によって精神がむしばまれている。
回りの人間を自分の部下だと思い、何かといえば号令をかけて整列させる。
三雲先生は部隊長になって彼をなだめ、時に命令を下して騒動を収める。
どんな人にも慈しみを失わない三雲先生なのである。

お町と加吉、春三と悠子、医院長と看護師の滝さんとのロマンスが描かれるが、そのどれもの結論を描いておらず、その後を観客の想像に任せている。
勇作が号令をかける敬礼の下、みんなで列を作って飛んでいく雁を見守る場面は、それぞれの人の明日への希望と、作られた時代の空気とでもいうべき戦後の復興を感じさせる印象に残るシーンとなっている。
古さを感じさせる作りだが、安心して見ることができる善良な作品である。

本気のしるし

2023-03-24 09:25:52 | 映画
「本気のしるし」 2020年 日本


監督 深田晃司
出演 森崎ウィン 土村芳 宇野祥平 石橋けい
   福永朱梨 忍成修吾 北村有起哉

ストーリー
どこか虚無感を抱えながら成り行きまかせの日常を過ごしている会社員・辻一路(森崎ウィン)。
会社は社内恋愛禁止だが、辻に想いを寄せる後輩社員の藤谷美奈子(福永朱梨)と関係を続けている。
一方では先輩社員の細川尚子(石橋けい)とも関係を持っていて自宅に招き入れている。
求められれば断れない辻一路なのだ。
ある夜、踏み切りで立ち往生していた不思議な雰囲気の女・葉山浮世(土村芳)の命を救った辻だったが、その日からふたりの泥沼の関係が始まる。
追い込まれるとその場限りの嘘をつき、お金や人間関係、すべてに無責任な言動をとる浮世。
浮世は踏切事故の事情聴取でも、運転していたのは一路だとでまかせの嘘を警官に告げる。
最後には認めた浮世だが、興奮していて運転は無理と判断した一路はタクシーでの帰宅を勧めたが浮世はお金を持っていなかった。
仕方なく一路はタクシー代を貸してあげる。
後日、浮世が乗っていた車はレンタカーでその料金が払われていないことが判明する。
車内に残されていた名刺を頼りにレンタカー会社から一路に連絡が入る。
一路はレンタカー代も払ってやった。
行方が分からなくなっていた浮世は借金のトラブルでヤクザの脇田真一(北村有起哉)の事務所にとらわれていたので、一路はその借金の120万円も肩代わりしてやる。
浮世との関係で深みにはまっていく一路の前に葉山正(宇野祥平)や峰内大介(忍成修吾)という怪しげな男たちが出現する。
だが辻は、そんな彼女を放っておけず、浮世を追ってさらなる深みに嵌っていくのだった・・・。


寸評
テレビドラマを劇場用に編集したこともあって4時間に及ぶ長編である。
上映時間を覚悟して見始めるが、登場人物の誰もがイライラする性格の男女で、彼らを見ているとヤクザの脇田がまともに見えてしまう。
脇田が何度も、「女と男が地獄に堕ちるのを見るのが好きだ」と語るのだが、それぞれの関係が静かな関係なのに言いようのないほどいい加減で「お前たちはどうしてそうなんだ」と怒鳴りたくなってくる。
葉山浮世という女性はつかみどころがない、いい加減な女で「スミマセン・・・」を連発して男を翻弄させる。
線路で立ち往生し辻一路という男性に助けてもらうのだが、現場検証の警官に犯人として彼を突き出そうとしたり、酔った彼女が言葉巧みに彼の家に行こうとする。
彼の家から逃走する彼女を追いかけたら、急に飛ばしてしまった小さな子供の風船を取るように懇願するなど、実にいい加減な女で、常に良い人であろうとする辻一路をうまく利用しているように見える。
ヤクザから救出された浮世が、ファミレスでビールを飲んだ時に見せる笑顔を見ると殴りたくなる。

それでは辻は真面目一途な青年かと言えばそうでもない。
序盤、辻の働く玩具会社のオフィスで女性社員・細川さんの怒号が飛ぶ。
部長が、後輩社員のみっちゃんにパワハラ発言をしたとして前言撤回を求めているのだが、その様子を辻の同期は嘲笑し、大柄な女性で真面目なことに漬け込んで、「モテない面倒な奴」とレッテルを貼る。
辻はそんな後輩の男性社員をたしなめるので、彼は良識派の立派な先輩社員との印象を持たせる。
しかし、そのあと辻は倉庫でみっちゃんとキスを交わし、辻が家に帰ると細川さんが待っており濃厚なキスを交わすので、なんだ辻も真面目ぶっているが二股をかけている女たらしじゃないかと思えてくる。
この辻と言う男は誰にでもいい顔をする事なかれ主義者だ。
女に言われると拒絶することはなく、キスしたり家に入れたりするが、決して「愛している」とは言わない。
そして、そこまでするかと言いたくなるくらい浮世に肩入れをする。
極端な男ではあるが、誰にでもいい顔をする人物は自分の周りにも居たから、作られた人物像とも思えない。

知らず知らずのうちにダメ人間に入れ込んでしまう作品なのだが、僕は先輩社員の細川さんに気持ちが傾いた。
当初は妻気取りの態度を見せる彼女を嫌悪していたが、彼女は介護や借金といった問題を抱えているのに、外見で男に優しくされないので強くなるしかなかった可哀そうな女性であるとわかり同情した。
社内恋愛がバレると左遷されるのは辻ではなく女性社員の細川さんである。
「私の中で警報がなり続けている。細川さんは強い。浮世には俺が必要なんだ」と辻に言われてしまう。
辻だけが自分をわかってくれると信じていたのにそうではなかったのだ。
それでも辻を責めたりはしない大人の女性だ。
逆に自分を認めてくれていると感じた男なら誰でも身を任せていたのが浮世だ。
浮世は他人任せなのである。
自分にも意思があることに目覚めた浮世が取る行動はまさしく青春映画の様相を帯びてくる。
浮世のとる行動は本気度を表しているのだろう。
踏切で始まった映画は踏切で終わるが、この二人は絶対にうまくいかないのではないかと僕は思ってしまった。

ホワイトアウト

2023-03-23 07:58:02 | 映画
「ホワイトアウト」 2000年 日本


監督 若松節朗
出演 織田裕二 松嶋菜々子 佐藤浩市 石黒賢 吹越満 中村嘉葎雄
   平田満 橋本さとし 工藤俊作 古尾谷雅人

ストーリー
日本最大の貯水量を誇り、150万キロワットの電力を発電する新潟県奥遠和ダム。
辺り一面、雪に覆われた12月のある日、ダムの運転員・富樫輝男(織田裕二)は、遭難者救助の為に猛吹雪の中を出発するが吹雪と霧で作り出された視界0の世界「ホワイトアウト」に見舞われ、親友で同僚の吉岡和志(石黒賢)を亡くしてしまう。
それから2カ月後、吉岡のフィアンセ・平川千晶(松嶋菜々子)が奥遠和ダムを訪れた。
ところが、千晶がダムに到着したまさにその時、ダムと発電所がテロリストに占拠される。
犯人グループは、ダムの職員と千晶を人質に取って50億円を政府に要求。
拒否すれば人質を殺し、ダムを爆発すると通告してきた。
ダムが決壊すれば、下流域の住民20万世帯は一瞬のうちに洪水に飲まれてしまう。
期限は24時間、ダムに通じる唯一のルートは犯人グループが爆破しており、悪天候で警察は成す術もない。
そんな中、偶然逃げおおせた富樫は、仲間と住民を救うことを決意。
犯人グループの攻撃をくぐり抜けダムの放水を防ぐと、外部との連絡を取る為、たったひとりで8キロ先の大白ダムへと向かう。
富樫の連絡によって、犯人グループが宇津木(佐藤浩市)を中心とした過激派・赤い月であることが判明した。
しかし、未だ対策本部がダムへ乗り込むことは叶わない。
そこで、富樫は人質を救出する為、再び奥遠和ダムへ戻る。
その頃、ダムの方でも動きがあった。
犯人グループの中に、かつてテロで家族を殺された男が潜入していたのだ。
このことから、大きく崩れ始める宇津木の計画。
やがて、それは富樫の活躍によって完全に阻止され、千晶も無事救出されるのであった。


寸評
テレビでは一時期トレンディ俳優として人気のあった織田裕二と松嶋菜々子であるが、ぼくは二人とも上手い役者とは思っていないのだが、本作における役柄は彼等に合っていて特に織田裕二は頑張っていたと思う。
雪に閉ざされて要塞と化したダムをテロリストが襲うという発想は面白い。 日本版「ダイ・ハード」だ。

ダムに向かっていた車が襲撃されて平田満が射殺されるが、テロリストからすれば予定外の車で、当然同乗者の松嶋菜々子を射殺して邪魔者を取り除いてもいいはずだが、それでは映画にならないので人質にされてしまう。
単純に人質としているのは脚本的に少し無理のあるものだったのではないか。
もう一ひねり欲しかったところである。

テロリストの攻防と並行して描かれるのが警察内部の権力抗争である。
現場を知り尽くした地方警察と県警との対立で、県警はその立場を誇示し「指揮を執るのは我々だ」と恫喝する。
現場に口出しする上層部の姿は現実社会でも起きていることで、福島原発事故時の政府対応などはその悪い姿が出てしまった典型だったように思う。
逆パターンもあって、それは「突入せよ!あさま山荘事件」などで描かれていた。
本作では地方警察側を正として描いていて、その代表が中村嘉葎雄の警察署長だ。
かれはテロリストの行動に疑問を持ち、なぜ同志の解放を要求してこないのだといぶかる。
そして富樫がもたらしたテロリストの一人が、かつて彼らが起こした爆破事件の被害者家族であることが判明し、なぜそのような人物が加わっているのか疑問に思う。
その人物の目的は最後に明かされるが、この人物の描き方はアクションの陰に隠れて薄っぺらい。
この人物の描き方にも、もうひとひねり欲しかった。
そして署長は彼等の拠点の実態を見抜くのだが、先のことも含めここの盛り上がりも欲しかった。

富樫はダムの現場に精通しているのだが、そのことが発揮されたのは放水路を使った脱出時だけだったような気がするし、その脱出スペクタクルも省略されていたのは残念だった。
そこまでして状況を警察に通報したのだが、その成果は救出時に役立っただけで、あまり意味のないものになっていて、結局事件は富樫一人が解決したことになる。
富樫は職員の救出に奮闘するが、人質となった千晶は「彼はこない、彼は逃げる」とさかんにつぶやく。
それは婚約者である吉岡を見捨てたと誤解しているからなのだが、その誤解は彼女のつぶやきだけで表現されているので、最後にわだかまりが解けるエピソードはあっけない。
と、いろいろ欠点を挙げればきりがないのだが、それはこの作品が結構まとまっていて十分に楽しめる作品になっていたし、もう少し頑張ればアクション映画の傑作になる可能性を持っていたからの欲望である。

21世紀はテロの時代とも言われているけれど、日本でもそれは起こりうるのだと思わせる。
狭い国土にダムは点在しているのだから、それが爆破されたら下流の村は壊滅となってしまう。
存在する原発が襲われたらどうなるのか、原発の電源を切断されたらどうなるのか?
テロはどこでも起きうるのだから怖い世の中だ。
その時、富樫輝男のような人物がいるわけではないのだから。

ボヘミアン・ラプソディ

2023-03-22 13:27:40 | 映画
「ボヘミアン・ラプソディ」 2018年 イギリス / アメリカ


監督 ブライアン・シンガー
出演 ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー
   ベン・ハーディ ジョー・マッゼロ エイダン・ギレン
   トム・ホランダー アレン・リーチ マイク・マイヤーズ

ストーリー
1985年7月。波打つほどの大観衆を前に呼吸を整えステージに向かうフレディ・マーキュリーの姿があった。
時はさかのぼり1970年のロンドンでフレディ・マーキュリーと名乗る以前の青年ファルーク・バルサラは空港で荷物の積み下ろしをする退屈な仕事をこなす一方で、時間があれば曲を書き続けていた。
ファルークは厳しい父親が「世の中のために善意を尽くしなさい」と言うのを無視してライヴハウスへ行った。
ライヴハウスで観たバンド“スマイル”に魅了され、演奏が終わった直後の彼らを探すファルークは、そこですれ違った女性に惹かれたのだが、それは、のちに婚約者となるメアリーだった。
スマイルのヴォーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退したことを知り、ファルークは自らをヴォーカルとして売り込んだ。
こうしてメンバーに出会い、結成されたバンド名を“クイーン”とし、フレッドは名前をフレディに変更した。
その1年後、ベーシストのジョン・ディーコンが加入し、伝説のバンド・クイーンが誕生した。
メアリーが働くブティックで再会したフレディは深い仲となっていく。
始動したクイーンは斬新なアイデアでさまざまな演奏方法を試みていた。
まるで子供が遊んでいるかのように演奏している様子を見ていたのが大物マネージャーのジョン・リードだった。
ジョンは彼らのマネージャーを志願し、さらに弁護士のジム・ビーチ、リードの知人ポール・プレンターらが加わり、クイーンの活動が本格的に展開していく。
次第に多忙を極めていく中でもフレディはメアリーへの気持ちを忘れていなかった。
一夜を共にしたある日の翌朝、フレディは指輪を渡してメアリーにプロポーズして永遠の愛を誓った。
全米ツアーを果たし、次々とヒット曲を飛ばすクイーンは次なるアルバムのために、1曲で6分以上の大作「ボヘミアン・ラプソディ」を制作したが、レコード会社EMIの重鎮レイ・フォスターから一蹴されEMIとの契約を破棄した。


寸評
僕は”クイーン”のファンでもないし、どんなバンドだったのかも知らなかったのだが、この映画はそんな僕でも楽しめるものとなっている。
バンドが栄光をつかむまでの経緯が、様々なエピソードとともに描かれていくのだが、ドラマ自体は物足りなく感じるものである。
脚本の欠点を音楽が埋めているという印象である。
それが音楽と一体化することで奥深い世界が広がっていき、フレディの苦悩が一層リアルに伝わってくる。
次々流れ出てくる音楽もあって、何とも言えない迫力を生み出していき2時間があっというまだ。
是非とも音響効果の良い劇場で見たい作品である。

フレディにおける最大のポイントは、彼が同性愛者だということだ。
最初はメアリーと恋人同士として過ごしていたフレディだが、やがて男性への関心に目覚めていく。
フレディはメアリーに、自分はバイセクシャルで女性も男性も愛せるというが、メアリーは「あなたは男しか愛せないゲイだ」と断言する。
そうなれば、普通はメアリーと別れるものだが、彼はそうはせずに隣の家に住まわせ頻繁に連絡を取る。
メアリーがフレディと距離を取り始める姿が切なく映るが、この描写はなかなかいい。
大ヒット曲を集めた制作秘話ものでありながら、LGBTものとしてのテーマ性も併せ持っている。
メアリーは新しい恋人との間に子供を設けるが、フレディの理解者として彼が亡くなるまで友人だった。
フレディのステージを見守る彼女の姿は美しい。
どこかの国の国会議員に見せたい。
フレディを演じたマレックの演技は目を見張るものがあり、音楽と共に彼の存在がこの映画を支えている。

僕が学生だった頃には「ウッドストック」があったけれど、ライブ・エイドは1980年代のウッドストックだ。
その熱気は画面を通じても伝わってくる。
フレディの苦しみ、孤独は、映画の前半からじわじわと積み重なり、重苦しい空気を作ってゆくがそのすべてを蹴散らすクライマックスである。
同性愛者であり、エイズを発症し余命いくばくもないと思われる姿に感動する。
楽曲は基本的にクイーンの原曲を使っているとのことだが、歌声と演奏に不自然さはまったくない。
ドラッグやセックス関連の描写を極力抑えて、フレディの生きざまを描いている点が評価できる。
日本映画にこの手の作品が生まれてこないのは、クイーン程のアーティストがいないことによるのか、それとも音楽映画にチャレンジする監督がいないせいなのか・・・。
しかし、ライブ・エイドってすごいアーティストたちが参加していたんだなあ。

ラストでは、実際のフレディおよびクイーンの映像とともに、1991年にフレディの死と、彼の生涯の最期までハットンが添い遂げ、メアリーが友人として支え続けたこと、フレディの名を冠したエイズ患者支援基金『マーキュリー・フェニックス・トラスト』が設立されたことが語られる。

牡丹燈籠

2023-03-21 06:40:43 | 映画
「牡丹燈籠」 1968年 日本


監督 山本薩夫
出演 本郷功次郎 赤座美代子 小川真由美 西村晃 志村喬
   大塚道子 宇田あつみ 佐々木孝丸

ストーリー
盆の十六日の宵に旗本の三男坊新三郎(本郷功次郎)は、吉原の遊女お露(赤座美代子)を知った。
その夜、新三郎の住居を訪ねたお露と下女のお米(大塚道子)は、武士の娘でありながら吉原に売られた不幸な身の上を語った。
新三郎は、三男坊で長屋暮しをしている自分と同じように、お露が非情な社会の仕組の犠牲者であることに胸をつかれた。
そしてお米のたっての頼みから、せめて盆の間だけでもと、お露と祝言の真似事をして契りを結んだ。
一方同じ長屋に住む伴蔵(西村晃)が、この有様を覗きみた時、お露の裾が消えているのに仰天、易者の白翁堂(志村喬)に駆け込んだ。
伴蔵から様子を聞いた白翁堂は、翌日、新三郎の顔にまざまざと死相を見て驚き、新三郎にそれが悪霊のためだと言う。
一方、伴蔵はお露とお米が、最近自害して果てたことを聞き込んできた。
新三郎は信用しなかったが、二人の女の墓を見ては信用せざるを得なかった。
その夜、再び現われたお露に、新三郎は狂ったように斬りつけた。
しかし、お露は新三郎の心変りを悲しみ、哀れな運命を物語った。
そんなお露の姿に、新三郎は心をうたれ、ひしと抱きしめるのだった。
新三郎は日毎にやせ衰えて行ったので、長屋の人はそんな新三郎を心配し、また悪霊の退散を祈願して、新三郎を籠り堂に閉じ込め、護符を張りめぐらした。
そのため、お露とお米は仕方なく一度は帰ったが、金につられた伴蔵が、護符の一枚をはがした。
お露とお米の二人は喜んで手をとり、戸口の隙間から吸い込まれるように入っていった。
一夜あけて、白翁堂や長屋の人たちが新三郎の身を案じて入ってみると、新三郎はこと切れ、彼の首にしゃれこうべがすがりつき、その脇にもう一つの女の骸骨が横たわっていた。


寸評
映画は、タイトルと製作者の名前(永田雅一)だけを見せて本編に入るのだが、大映の永田雅一のような名プロデューサーが五社にいた頃が懐かしい。
「牡丹灯籠」は怪談話として「四谷怪談」「皿屋敷」と並ぶ有名なものだが、円朝の「牡丹灯籠」が描いているもっと複雑な筋立てを、ここでは新三郎とお露の恋物語に的を絞っている。
いくらでも話を膨らませることができる内容に思うが、山本薩夫の演出はオーソドックスな怪談話として要領よくまとめている。

新三郎の兄が死亡し、新三郎は残された兄嫁と結婚するように父親や親類縁者から言われている。
兄嫁はよい家柄の出で、新三郎家にとっては出世の糸口なのだ。
新三郎は気乗りがしないが、兄嫁は当家の気が済むようにと引いた態度である。
本人の意思よりも家名と家の存続が第一と言う封建制への批判が見て取れる。
僕が子供の頃には、まだまだそのような考え方が残っていて、家同志の格式を考慮した結婚話を取りまとめる仲人家業の人が存在していた。
新三郎はそんな家が嫌で長屋暮らしをしている。
長屋の子供たちに読み書きを教えているのだが、見ているとそれはボランティアでやっているように思える。
それでは新三郎は生活費を一体どのようにして得ているのだろう。
実家が嫌だと言っているが、母親から生活費を援助でもしてもらっていたのだろうか。
新三郎をそんな風な立場に描いておいても面白かったかもしれない。

死者の亡霊に取り付かれるという話はよくあるパターンで、「雨月物語」などもそのような内容である。
幽霊のお露とお米が伴蔵に取り付き、伴蔵の着物の襟が持ち上がり、お露、お米が空中浮揚するシーンではピアノ線が映り込んでいるが、コンピュータ処理がない時代のご愛敬で当時の撮影時の苦労がうかがわれる。
伴蔵はいい加減な男だが何かと新三郎の世話を焼いて、新三郎の身の上を心配しているのだが、実家に帰っていた妻のおみね(小川真由美)が帰って来てから物語は大きく展開を見せる。
おみねは強欲な女としてもっと嫌味が出ていても良かったと思うので、僕は小川真由美のキャスティングはミスキャストだったかもしれないと感じる。
赤座美代子と小川真由美を入れ替えていても良かったかもしれない。

お露は父親が殿さまの気まぐれで役を解かれて死亡し、自分は借金の為に遊郭へ身売りされた立場である。
滅私奉公しながら殿さまの理不尽な扱いを受け入れなければならなかったことも封建制への批判だと思うのだが、そのような主張は色濃いものではない。
山本薩夫なら劇中に封建制度への批判を盛り込んでいるのではないかと思って見始めたが、そのような描き方は排除して、あくまでも正調怪談物語としてのスタイルを貫いている。
新三郎が亡霊に取り付かれて死亡したシーンはラストシーンのように思えたが、「あれっ、伴蔵はどうしたんだ」と思ったとたんに「そう言うことか」となって百両の経緯にも納得。
さすがに山本薩夫、要領よくまとめているなあという印象である。

ホタル

2023-03-20 08:28:20 | 映画
「ホタル」 2001年 日本


監督 降旗康男
出演 高倉健 田中裕子 夏八木勲 原田龍二 水橋貴己 小林綾子
   中井貴一 奈良岡朋子 井川比佐志 小林稔侍 石橋蓮司 小澤征悦

ストーリー
桜島を望む鹿児島の小さな港町の知覧。
漁師をしていた山岡(高倉健)は、妻の知子(田中裕子)が14年前に肝臓を患い人工透析が必要になったのを機に沖合での漁をやめカンパチの養殖を始めた。
子供がいない彼らは、漁船“とも丸”を我が子のように大切にしている。
激動の昭和が終わり、平成の世が始まったある日、山岡の元に青森に暮らす藤枝(井川比佐志)が雪山で自殺したとの報せが届いた。
山岡は再び“昭和”という時代を見つめることになる。
山岡と藤枝は共に特攻隊の生き残りだった。
それから暫く後、山岡はかつて特攻隊員に“知覧の母”と呼ばれていた富屋食堂の女主人・山本富子(奈良岡朋子)から、ある頼みを受ける。
それは、体の自由が利かなくなった自分に代わって、南の海に散った金山少尉、本名、キム・ソンジェ(小澤征悦)の遺品を、韓国の遺族に届けて欲しいというものだった。
実は、金山は知子の初恋の相手で、結婚を約束した男でもあった。
複雑な心境の山岡は、しかし知子の余命が長くて一年半だと宣告されたのを機に、ふたりで韓国へ渡ることを決意する。
だが、金山の生家の人たちは、山岡夫妻の訪問を決して快く迎えてはくれなかった。
それでも、山岡は遺族に金山の遺品を渡し、彼が残した遺言を伝えた。
金山は日本の為に出撃したのではなく、祖国と知子の為に出撃したのだと。
やがて歳月は流れ、21世紀。
太平洋を臨む海岸に、その役目を終えた愛船・とも丸が炎に包まれていくのを、組合長(小林稔侍 )たちと共に見つめる山岡の姿があった。


寸評
山岡は特攻隊の生き残りで、妻の知子は人工透析を受けている。
知子は特攻隊で山岡の上官であった金山少尉の恋人だった人だが二人の仲は睦まじい。
その金山少尉は本名をキム・ソンジェという朝鮮人だったが、金山少尉は特攻隊として戦死してしまっている。
この背景はとてもドラマチックなものだが、描くべき要素が多すぎて上手く表現できていたとは言い難い。
当時日本に併合されていた朝鮮人との恋というだけでも重いテーマだ。
そして生き残った山岡との愛もまた重いテーマだと思う。
特攻隊という非人間的な作戦を通じて戦争の悲惨さを訴える作品は数多くあり、この作品もその一つではあると思うが、反戦映画としては少し弱い。

死が約束された特攻隊員の極限状態は想像することもはばかられるものがある。
特攻隊基地である知覧に富屋食堂があって、そこに知覧の母と呼ばれた山本富子なる女性がいたことは聞き及んでいるが、そこでの出来事も描かれている。
特に蛍となって戻ってきた特攻隊員の話には泣いたなあ。
昭和を語るときには太平洋戦争は避けて通れないが、その昭和も終わっていく時期の話で、昭和天皇の崩御も描かれている。
自分たちの昭和は終わったという藤枝の自殺は何だったのだろう。
昭和の終焉を描くためだけのものだったのだろうか。
これもまた重い話なのだが、あまりインパクトはなかった。
藤枝の孫娘を演じた水橋貴己の素人っぽい演技が藤枝の思いを消していたような気がする。

僕は朝鮮人の特攻隊員がどれほどいたのかは知らない。
しかし、進んで兵役に志願した者もいただろうが、心ならずも兵役に就いた者もいたことは想像できる。
彼等にとって祖国とは何だったのかというテーマはこの作品の中でも一番重いテーマだ。
キム・ソンジェは「自分は大日本帝国のために死ぬのではない。朝鮮民族の尊厳のためと、愛する知子のために死ぬのだ」と言う。
そのことを伝えるために山岡夫妻は韓国に渡ったところ、当初日本軍によって殺されたと思っているキム・ソンジェにつながる一族は反発していたのだが、キムの年老いた叔母によって迎え入れられる。
そこで亡くなったキムの母親が知子を受け入れていたことを聞かされる。
日本と韓国の融和とも受け取れるが、ちょっとご都合主義的だ。
あれだけ反発していた人々の反日感情が簡単に取り除かれたとも思えないのだがなあ。
韓国訪問後のエピソードは、最大のテーマがかすんでしまっていたパートだったように思う。

妻の知子が亡くなり、「とも丸」を焼却するシーンで、山岡と知子が歩んだ昭和の終焉を描いていたが、昭和とはいったいどのような時代だったのだろうと思わせるシーだった。
戦後生まれの僕は成長を遂げていく繁栄の時代しか知らない。

墓石と決闘

2023-03-19 10:14:05 | 映画
「墓石と決闘」 1967年 アメリカ


監督 ジョン・スタージェス
出演 ジェームズ・ガーナー ジェイソン・ロバーズ
   ロバート・ライアン フランク・コンヴァース
   サム・メルヴィル チャールズ・エイドマン
   オースティン・ウィリス リチャード・ブル

ストーリー
1881年10月26日午前11時、OK牧場での決闘は終わった。
ワイアットの兄弟バージルとモーガンは傷つき、敵側はフランクとトム・マクロウリイが死に、ビリー・クラントンが死に瀕していたが、牛泥棒で殺人犯のアイク・クラントンと2人の部下の姿はどこにもなかった。
トゥームストンの保安官に立候補したバージルは、クラントン一味の闇討ちにあって足が不自由になった。
かわってモーガンが立候補したが、再びクラントンに襲われて殺害された。
悲嘆にくれるワイアットのもとに、彼を連邦保安官に任命するという電報がとどき、クラントンと、その一味ピート、フランク、ビル、アンディの5人の殺人逮捕の捜索隊を結成する権限と令状が与えられた。
トゥームストンの商工会議所は2万ドルの賞金をつけ、これを知ったドク・ホリディはまっ先に志願した。
ワイアットはフランクがいるという情報をつかむや、単身で決闘の末にこれを倒した。
追いつめられたクラントン一味によって駅馬車が襲われ、瀕死の御者からピートの逃げ場所が分かった。
捜索隊はアリゾナに向かいピートを山地へ追いつめ、ワイアットは決闘を挑んだが、ピートは馬で逃げようとしたため射殺された。
帰途、ホリディは酒を求めて町に出て酒場でビルと出会い、ホリディの方が早く拳銃を抜いたが、ホリディを探しにきたワイアットが仲間と共に一瞬のうちに射殺してしまった。
その事件後アンディを捜索隊が捕まえ、アープ兄弟殺害事件には関係していないと言うアンディを、ワイアットはいら立たせ、怒らせ、馬鹿にし、ついに決闘にもちこませ、これを射殺した。
ワイアットの弟の仇にかけた執念と、まるで無造作な殺し方で4人まで射殺した冷酷さにホリディが呆れた。
幾日かが過ぎて、クラントンが、メキシコで牛泥棒をしながら豊かに暮らしていると教える者があった。


寸評
実在していた西部劇の登場人物として著名なのはワイアット・アープがダントツだろう。
そして、ワイアット・アープと言えばクラントン一家と撃ち合ったOK牧場の決闘である。
大抵の場合、そのOK牧場の決闘が山場となっているが、「墓石と決闘」は冒頭でOK牧場の決闘が行われ、描かれているのは後日談だというのがユニークではある。
冒頭の決闘場面で決闘に向かうワイアット、モーガン、バージルのアープ兄弟とドグ・ホリディにむかって「クラントンは町を出ていくと言っているじゃないか」という男が出て来るので、実はアープたちが自分たちの利益のために撃ち殺したという新解釈で描かれる”ひねった西部劇”かと思ったらそうではなかった。

裁判が行われ、殺人罪で訴えられたワイアットたちは無罪となる。
その後バージルが襲われた件で再び裁判が行われたが、今度は証拠不十分でクラントン側が無罪となる。
そしてモーガンが殺害されて本筋に入っていく。
二人の弟が離脱しているので、ドグが仲間を集めに行き二人を引き入れるが、この二人のキャラクターに対する説明はあるものの活躍する場面もなく、特に必要とすべき登場人物とも思えず、この映画の印象を薄めてしまっているように思う。
そもそもOK牧場の決闘が冒頭にあるので、全体的に盛り上がりに欠ける展開となってしまっている。

最初にやられるのがフランクなのだが、ワイアットによって簡単に殺されてしまう。
次の相手は駅馬車を襲ったピートだが、これもワイアットの敵ではない。
一方的に一人ずつワイアットが片付けていくことも盛り上がりのなさにつながっている。
バージルが襲撃された時の目撃者はいたのだが、復讐を恐れ出廷を拒んだのでワイアットはその男との約束通り承認申請していなかったのだが、ドグによって復讐するためにわざと無罪に仕向けたのだと指摘され、実は描かれている犯人追跡劇は実はワイアット・アープの復讐劇なのだと変化を遂げる。
僕はこの描き方は面白いと思ったのだが、残念ながら法の番人としての連邦保安官ワイアットと、モーガンを不自由な体にされ、バージルを殺されたアープ兄弟の長男としてのワイアットの苦悩のようなものが描かれていないので、物語としての深みを欠いてしまっている。
ワイアットはドグにあっさりと復讐だと告白してしまっているのはどうなのかなと思う。

最後は当然クラントンとの対決なのだが、1対1でやればワイアットの圧勝になってしまうのは今までの経緯からして当然の結果で、最後の決闘としてもイマイチ盛り上がに欠けていたものとなっている。
ジェームズ・ガーナー、ジェイソン・ロバーズ、ロバート・ライアンと、渋い男たちが出ているので、ラストシーンは哀愁を感じさせた。
ワイアットが病気療養中のドグを見舞って去っていくが、ドグにはトゥームストーンに帰ると言っておきながらそこには帰らない。
おそらくあれがワイアット・アープがドグ・ホリディをみた最後になったのだろうと思わせた。
でも、この映画、女性が全く登場しなかったなあ。

僕たちは希望という名の列車に乗った

2023-03-18 11:08:29 | 映画
「僕たちは希望という名の列車に乗った」 2018年 ドイツ


監督 ラース・クラウメ
出演 レオナルド・シャイヒャー  トム・グラメンツ
   ロナルト・ツェアフェルト  ヘルマン・レムケ
   ブルクハルト・クラウスナー レナ・クレンケ
   イシャイア・ミヒャルスキ

ストーリー
まだベルリンの壁が建設される前の冷戦が続く1956年の東ドイツ。
スターリンシュタット(現在のアイゼンヒュッテンシュタット)にあるエリート高校に通い、青春を謳歌していたテオとクルト。
ある日、西ベルリンを訪れ、映画館に入った2人は、ニュース映像でハンガリーの民衆蜂起を知る。
市民に多くの犠牲者が出たことに心を痛めた彼らはクラスメイトに呼びかけ、授業中に2分間の黙とうを敢行する。
自由を求めるハンガリー市民に共感した彼らのささやかな行動だったが、ハンガリーと同じくソ連の影響下にある東ドイツでは、たちまち社会主義国家への反逆とみなされ、政府が調査に乗り出すほどの大問題へと発展してしまう。
当局の調査が入り、人民教育相自ら生徒たちに一週間以内に首謀者を明かすよう宣告。
従わない者は全員退学と宣告されてしまうのだった。
大切な仲間を密告してエリート街道を進むか、信念を貫き進学を諦めて労働者として生きるか、生徒たちは人生を左右する大きな決断を迫られる。


寸評
僕たちは言論の自由と思想の自由を当然のこととして受け止めているが、それを維持することは実は大変なのだと思わされるし、民族が一つの国家で過ごせることは幸せなことなのだと感じさせる映画だ。
日本も先の大戦中には言論統制を受けていたのだし、間違えば北海道が占領されて民族が分断されていたかもしれないのだ。
30年目を迎えた天安門事件も思い出す。

1956年のベルリンではまだ壁は出来ておらず、検閲が厳しいものの東西ベルリンは行き来が出来ていたようだ。
テオとクルトは西ベルリンに行きハンガリー暴動のニュース映画を目にする。
ハンガリー暴動は1956年にソ連のスターリン批判後にハンガリーで起こった自由化を求める暴動である。
ソ連軍によって弾圧され、指導者ナジ=イムレは処刑され、この動乱で数千人が死に、20万人が難民となって亡命したと言われている。
彼等は若者の純真さで犠牲者に哀悼の気持ちから黙とうをささげるが、それが当局から国家への反逆だとみなされ、首謀者を追及される羽目になり、かれらの動揺と対応ぶりが描かれていくのだが、同時に父親たちの闇の部分もあぶりだされていく。
それを見るとドイツ国民にとって一度はヒトラーを指示したことがあると言う事実の呪縛があるのだなと思わされる。

テオは労働者の家庭で育ち、父親は製鋼所で働いている。
国民教育大臣と面識があった父親は、息子を守るために直談判に行くが、彼らのやりとりからは、父親が1953年の市民暴動に関わっている不満を抱えた労働者とみなされていることがわかる。
1953年のことと何度か語られるが、それは1953年6月に冷戦時代の東ドイツの東ベルリンで、ソ連のスターリンの死をきっかけに自由を求めて起こった市民暴動のことだ。
ソ連軍が出動し鎮圧したが、1400人ほどが投獄され、約20人が処刑されたと言われている。
父親は体制に反抗する息子の気持ちがわかるが、家族の悲願である進学の機会を失ってほしくないという気持ちがある。
やがてテオは、父親が劣悪な環境で酷使されていることを知る。
西へ一緒に行こうとテオは言うが、父親は故郷を捨てることが出来ない。
僕はこの父親の気持ちは分かる。

クルトの父親は市議会議長で、息子が西ベルリンに墓参りに行くことを快く思っていない。
そこに眠るのは母方の祖父で、彼がナチスの武装親衛隊だったからだなのだが、彼はそのことで母親まで蔑視している。
彼にはナチスという悪との間に一線を引くことで自己を正当化しようとする姿勢が垣間見える。
そんな家族の関係はやがて崩れていくのだが、この家族関係は映画としてはよくある関係だ。
母親の子供への強い愛を感じる。
最後に親子が固い握手を見せ父親の愛も感じさせるが、その後父親の母親への態度は変わったのだろうかと思った。

エリックは体制寄りで、級友たちと距離を置いているところがある。
父親はこの世になく、母親は聖職者と再婚している。
亡くなった父親はドイツ共産党の準軍事組織RFB(赤色戦線戦士同盟)の一員だったので、エリックにとっては英雄でもあるその父親を心の拠り所にしている。
だが、冷酷な郡学務局員からある真実を告げられ、自分を見失い暴走していく。
彼が一番の犠牲者かもしれない。

そして取り調べるソ連側の人間もかつてナチスによって拷問を受けた経験を持っている。
彼等にとってはドイツ人は全てナチの生き残りだと見えたのだろうと想像させる。
子供たちとその親たちが、切迫した状況のなかで過去と向き合い、それぞれがそれぞれの行動を選択していく様は、まさに「過去の克服」だったのだと感じる。

子供たちの反逆だけだったら薄っぺらな作品になっていたと思うが、父親たち過去を描くことで考えさせられる作品に昇華している。
僕はテオが可愛がっている弟たちと別れていくシーンが泣けた。
いつの時代にあっても肉親との別れはつらいものがある。

北斎漫画

2023-03-17 07:20:59 | 映画
「北斎漫画」 1981年 日本


監督 新藤兼人
出演 緒形拳 西田敏行 田中裕子 樋口可南子 乙羽信子 佐瀬陽一
   殿山泰司 宍戸錠 大村崑 愛川欽也 フランキー堺

ストーリー
鉄蔵(緒形拳)と娘のお栄(田中裕子)は左七(西田敏行)の家の居候になっている。
鉄蔵は、貧しい百姓の生まれだが、幼時、御用鏡磨師、中島伊勢(フランキー堺)の養子となった。
巧みに絵を描くので、絵師の弟子となるが、尻が落ちつかず、幾人もの師から破門された。
一方、左七は侍の生まれだが、読本作家になりたいと志し、下駄屋の養子に入り込んだ。
左七の女房お百(乙羽信子)は、亭主が黄表紙本などを読むのを心よく思っておらず、さらに、朝から晩まで絵を描いている居候の父娘に我慢がならない。
そんなある日、鉄蔵はお直(樋口可南子)という女に出会った。
鉄蔵は一目でお直にのめり込み、彼女を描くことで、つき当っている壁を破ろうとするが、不思議な魔性に手応えがない。
鉄蔵はお直を養父、伊勢に紹介することで彼女と別れ、また金もせびることにした。
その伊勢も、お直の魔性にとり憑かれ、首をくくって死んでしまう。
その頃、お百が立派な作者になってくれ、滝沢馬琴という名は良い名だと言い残して死んだ。
左七はせきを切ったように書き始め、たちまち流行作家となった。
今や父と長屋暮しのお栄は左七を訪ね、読物の挿し絵を父に描かせて欲しいと頼む。
左七は喜んで引き受けた。
鉄蔵が北斎の名で描いた絵は評判になり、放浪の旅で「富嶽三十六景」が生まれた。
そして、北斎は八十九歳、お栄は七十歳、馬琴は八十二歳となった。
ある日、お栄がお直と瓜二ツの田舎娘を連れてきた。
馬琴は失明しかけているが、お直と娘を混同することはなかった。
そこで「俺の絵でお前は有名になった」と馬琴に話す父に、お栄は「あたしが左七さんに頼んだのだ。一生嫁に行かなかったのも、父のためじゃない、左七さんのためだ」と告白する。
そこで馬琴は「あんたに結婚を申し込む」と大見栄を切った。
一人になった北斎は“お直”を裸にすると、一気に描き始めた。
巨大な蛸が、裸女に絡みつき、犯している図だ。
かくして、傑作「喜能会之故真道」の蛸と海女の性交の図が出来上がった。
馬琴が亡くなり、そして北斎も亡くなった。
二人の辞世にお栄は「死ぬときは誰でも、ていさいのいいこと言い残すものだ」と咳いた。


寸評
女とギャンブルに入れ込んだ男は身を持ち崩すことが多いらしい。
カップルが別れた時に、女性はすぐに気持ちを切り替えられるが、男の方はいつまでも気持ちを引きずるとも聞く。
男は初恋の人などの面影をいつまでも追い続ける生き物なのかもしれない。
北斎はお直の魔力に取り付かれ、北斎の養父はお直に翻ろうされて自殺してしまう。
女に入れ込んで破滅する男の典型である。
当時の浮世絵師は春画も大いに描いていたようで、そのことも有ってお直の樋口可南子もお栄の田中裕子も脱ぎっぷりがいい。
そして綺麗だ。
北斎が魔性に引き込まれるお直を演じた樋口可南子の妖艶さと美しさは見応えがあり、色彩表現が加味されて浮世絵の世界を髣髴させる。
老人となった北斎の前にお直と瓜二つの若い女が現れ、北斎が「蛸と海女」を描くシーンは圧巻だ。
北斎が海女さんから貰ってきた生きた蛸を、裸身をさらした若い女に吸い付かせる。
生きた蛸は張りぼての蛸に代わっているが、「蛸と海女」で描かれた通り、小蛸が女の口に、大蛸が秘所に吸い付き、女は身もだえる。
北斎はその姿に狂喜して絵筆をふるうのだが、当時の絵師は想像ではなく本当にモデルにあのような醜態を演じさせていたのだろうか。

映画は著名な浮世絵作家である葛飾北斎の一代記で、当時の交友関係は実際にもそうだったのではないかと想像させ興味を引く。
「東海道中膝栗毛」の十返舎一九が宍戸錠、滑稽本「浮世風呂」の式亭三馬が大村崑、浮世絵師の喜多川歌麿が愛川欽也で、映画の味付けとして登場している。
北斎が彼らを半ばけなしながら批評しているが、実際の彼も彼らをそのように思っていたのかもしれない。
北斎は驚くほど名前を変え、引っ越ししたらしいが、破天荒な人物だったのだろう。
有名な「冨嶽三十六景」を描く姿を劇的に描いているわけではないし、タイトルとなっている「北斎漫画」は出てこない。
最も著名な作品の一つである「冨嶽三十六景の神奈川沖浪裏」誕生の瞬間に期待したのだが、どうもそのようなことはテーマ外だったのだろう。
むしろ葛飾北斎の奇人ぶりを描いた作品で、これが葛飾北斎でなかったなら平凡な作品になっていただろうと思う。
北斎は当時としては長命の90歳まで生きているが、長寿の秘訣はその制作意欲にあったのかもしれない。
私のような俗人は死生観を達観することは出来ないのだが、それでも人は長生きをして何を行うかであるとは思う。