おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ノスタルジア

2022-12-31 11:26:16 | 映画
{ぬ}は2019/12/16から「ヌードの夜」「ヌードの夜/愛は惜しみなく奪う」を紹介していますが、それ以外に思いつきませんので今回はスキップです。

「ね」は2019/12/18の「眠らない街 新宿鮫」「眠狂四郎 勝負」
2021/8/23の「寝ずの番」「ネットワーク」「寝ても覚めても」「寝盗られ宗介」を紹介しています。
「ね」も今回は紹介なしです。

「の」は2019/12/20から「野いちご」「ノーカントリー」「ノー・マンズ・ランド」「野のなななのか」「野火」「野火」「野良犬」を紹介し、
2021/8/27に「の・ようなもの」を紹介しています。

今回は「ノスタルジア」と「ノッティングヒルの恋人」だけです。
今年最後の作品となりました。

「ノスタルジア」 1983年 イタリア / ソ連


監督 アンドレイ・タルコフスキー
出演 オレグ・ヤンコフスキー エルランド・ヨセフソン
デリア・ボッカルド ドミツィアーナ・ジョルダーノ

ストーリー
イタリア中部のトスカーナ地方。
詩人のアンドレイ・ゴルチャコフは、通訳のエウジェニアと共にモスクワからこの地にやって来た。
目的は、18世紀にイタリアを放浪し故国に帰れば奴隷になると知りながら帰国し自殺したロシアの音楽家パヴェル・サスノフスキーの足跡を追うことだが、その旅ももう終わりに近づいていた。
温泉で知られるバーニョ・ヴィニョーニの宿屋で、アルセニイ・タルコフスキーの詩集をイタリア語に訳して読んでいるというエウジェニアに、アンドレイは反論する。
「すべての芸術は訳することができない。お互いが理解しあうには国境をなくせばいい」と。
シエナの聖カテリーナが訪れたという広場の温泉に湯治客が訪れている。
人々が狂人と呼ぶドメニコは、世界の終末が真近だと感じ家族を7年間閉じこめた変人だ。
ドメニコを見かけたアンドレイは彼に興味を示すが、エウジェニアは、いらだったようにアンドレイの許を去った。
ドメニコのあばら屋に入つたアンドレイは、彼に一途の希望をみた。
ドメニコは、広場をろうそくの火を消さずに往復できたなら世界はまだ救われるというのだ。
アンドレイが宿に帰ると、エウジェニアが恋人のいるローマに行くと言い残して旅立った。
ローマに戻ったアンドレイは、エウジェニアからの電話で、ドメニコが命がけのデモンストレーションをしにローマに来ていることを知った。


寸評
絵画的、あるいは写真家が切り取ったような画面とシーンが続き、その映像美に酔いしれ映像芸術の極致を見る思いがするのだが、僕にはそれだけの作品に思えて退屈だ。
観念的であり事件も起こらないから、この作品は半ば拷問的でもある。
退屈しながらぼんやり見ていると時々ハッとするシーンに出くわし眠気を覚まさせる。
現実の世界は見事な構図で収められ、教会のシーンはもとよりドメニコが暮らす廃墟のような建物すら美しいし、そこに滴り落ちる雨漏りさえも美しく感じてしまう。
アンドレイが過去を振り返るシーンや、彼が空想するシーンはモノトーンで表現されているのだが、時折切り替わるそのモノトーンの映像が新鮮に感じられ、これまた美しい映像美を見せる。

映画は娯楽という一面を有している芸術だが、娯楽の定義を語れば枚挙にいとまがなくなってしまうが、単純に面白さを楽しめると言ってしまえば、僕にはこの作品にそんな要素を見出すことはできない。
もっと単純に言えば面白くないのである。
その一言だけをもってして、僕はこの手の映画はあまり好きになれない。
膨らませる要素は結構あるのだが、そちらの方向にはいかないもどかしさがある。
詩人のアンドレイと通訳のエウジェニアの関係は愛人関係のような所もあり、エウジェニアはアンドレイに浮気もできないとなじって恋人の居るローマに行ってしまう。
二人の関係に物語はそれ以上立ち入ることはしない。
不倫映画、愛情映画ではないのだ。

アンドレイは「すべての芸術は訳することができない。お互いが理解しあうには国境をなくせばいい」と言うが、それは世界平和につながる言葉でもある。
一方、ドメニコは「ろうそくの火を消さずに温泉を往復できたなら世界はまだ救われる」言っていて、アンドレイがそれを実践しようとしているから、そこを見れば世界平和を訴える作品と思えなくもない。
しかし全体から受ける印象にはそんなテーマを感じ取ることはできない。

唯一盛り上がりを感じたシーンはその後に続くドメニコの焼身自殺のシーンだ。
ドメニコの演説を階段で聞き入る人々の配置は演劇的で画面を抑えきるものがある。
音楽が流れドメニコがガソリンをかぶり自身に火をつける。
僕には彼の死の意味がよく分からなかった。
彼の死と引き換えるようにアンドレイはロウソクの火を消さずに湯のない温泉を渡り切る。
世界の終末を感じていたドメニコが死に、アンドレイの行為によって世界は救われたということだろうか。
アンドレイの死期も近づいてきていて、その期に及んで彼は家族の、母の記憶を呼び起こしたということなのか。
よくわからん。
想像することもできない、よく分からないから、だから面白くない。
美しすぎる映像だけが印象に残る作品だ。

日本列島

2022-12-30 12:13:29 | 映画
「日本列島」 1965年 日本


監督 熊井啓
出演 宇野重吉 芦川いづみ 二谷英明 鈴木瑞穂 武藤章生 平田守
   庄司永建 下元勉 伊藤寿章 長尾敏之助 雪丘恵介 長弘
   紅沢葉子 佐々木すみ江 木村不時子 日野道夫 大滝秀治 加藤嘉
   佐野浅夫 内藤武敏 北林谷栄

ストーリー
昭和三十四年秋SキャンプCID(犯罪調査課)のポラック中尉(ガンター・スミス)は、通訳主任秋山(宇野重吉)に、リミット曹長事件の解明を依頼した。
一年前、リミット(チャーリー・プライスン)が水死体となって発見されるや、米軍は死体を本国に送還すると、日本の警察を無視して事故死と発表した。
秋山はかつて最愛の妻が米兵に暴行を受け、事故死として死体が引渡された事件を思い、怒りを新たにした。
この事件を執拗に追う昭和新報記者の原島(二谷英明)と共に、秋山は、警視庁捜査三課黒崎(鈴木瑞穂)から、リミットが死の直前日本に出た贋ドルを追っていたこと、そして、精巧なドイツ製印刷機とその技術者伊集院元少佐が消えた事実を知らされた。
伊集院の一人娘和子(芦川いずみ)を訪れた秋山は、伊集院が数年前正体不明の男に連れ去られ、涸沢(大滝秀治)と名乗る男が家族に他言せぬよう脅迫すると立ち去ったことを聞いた。
昭和二十九年、贋ドルにまつわる信交会事件に、当時検事として立ち会った弁護士日高(内藤武敏)は、涸沢の部下だった佐々木(佐野浅夫)の口から、サンピエール教会を根城として不良外国人がたむろすることを聞きだし調べていた。
佐々木を訪れた秋山、原島は、佐々木が涸沢にリミットが贋ドルを追及していると知らせた事実を知り、やはりリミットは涸沢に消されたのだと確信した。
数日後、佐々木は水死体となってあがり、突然秋山にポラック中尉から調査中止命令が出た。
秋山はキャンプをやめて調査を続行した。
三十五年外国航空スチュワーデス椎名加代子(西原泰子)が水死体となってあがった。
容疑者のサンピエール教会のサミエル神父(ガンター・ブラウン)は、取り調べの終らぬまま突然帰国した。


寸評
事の始まりはCIDのポラック中尉から個人的な願いとして、部下だったリミットの不審死について調べてほしいと秋山に依頼したことだったのだが、調べていくうちに巨大組織の暗躍が浮かび上がってくる。
秋山は「おそらく・・・」と言ったきりで組織名を明らかにしていないが、想像するにそれはCIAと思われる。
映画ではCIAの名前は一度も出てこず、巨大な闇組織という事になっている。
旧日本陸軍の「第9陸軍技術研究所」、いわゆる「登戸研究所」では特殊な研究を極秘で行っていて、その中に精緻な印刷物を刷るドイツ製特殊印刷機(ザンメル)を使用した偽造紙幣の作成もあったようだ。
偽札を大量にばらまいて敵国の経済を混乱させるのが目的だった。
戦後その印刷機を何者かが持ち去ったのだが、それはCIAだったと匂わされている。
作成された偽造紙幣がCIAの手によって使われただろうという推測である。
下山事件や松川事件などの不可解な事件も米国組織が絡んでいたのではないかという描き方である。

秘密組織が動いているので事件の全容が少し分かりにくい。
特殊印刷機ザンメルが何者かによって持ち去られる。
ザンメルの操作に精通していた伊集院が誘拐されるが、米軍占領時代に謀略機関で活躍した涸沢が誘拐事件を話さないように家族を脅迫したことで事件は闇に葬られる。
ザンメルの事を調べていたCIDのリミット曹長が沖縄にいる伊集院に会うために沖縄に行こうとする。
佐々木がかつての上官であった涸沢に、リミットが偽ドルを調べていることを話したことで、リミットは空港で拉致され殺害された。
佐々木がリミット事件を調べている秋山や原島と接触しだしたことで、佐々木も殺されてしまう。
敬虔なクリスチャンで幼稚園の先生だった椎名加代子が、米国諜報機関の画策で憧れのCAに合格する。
諜報機関から香港ルートからの運び屋を依頼され、それを断った椎名加代子も秘密を知ったことで殺害される。
秋山は伊集院が中国人になって沖縄にいることを知り、彼に会うため沖縄に飛ぶ。
しかし発覚を恐れた闇の組織は秋山と伊集院を殺害した。
時系列で追えば、そのような流れになると思うが、出来事が前後して描かれているので分かりにくいのだろう。
もっとも、すぐさま状況把握が出来なかったのは僕の勘の悪さによるものなのかもしれない。

この時代日本はアメリカに完全に支配されているが、その構図は今もあまり変わっていないのではないか。
そしてこの様な闇の出来事も存在しているのではないかと訴えている。
和子は日本でそのようなことが行われないよう子供たちを教育するために先生を続けると言い、国会前を歩いていくが、何だかしらじらしいシーンに思える。
あの建物の中にいる者達も、影ではアメリカと共謀して似たようなことを行っているのではないかと感じるのだ。
政治スキャンダルが多発している現在の政界を見ていると、和子が夢見たまともな日本がそこのあるとはとても思えない哀しい状況なのだ。
日本にも諜報機関が必要との論議もあるが、諜報機関は相手国において非合法活動をしなければならない時もあるのだから、設置すれば誰かが描かれたような活動をしなければならない。
難しい問題だなあと思う。

日本の悲劇

2022-12-29 09:49:43 | 映画
「日本の悲劇」 2012年 日本


監督 小林政広                                           
出演 仲代達矢 北村一輝 寺島しのぶ 大森暁美

ストーリー
大病を患い入院していた不二男が、息子の義男に付き添われて自宅へ帰って来る。
手術をしなければ不二男は残り三ヶ月の命だと医師から宣告され、義男は不二男に病院に戻るよう懇願するが、不二男は全く耳を貸さない。
義男は突然職を失ったことでうつ病を患い、妻・とも子と子とも別れ、未だ生活を立て直せず、不二男の年金を頼りに暮らしていた。
そんなある日、不二男は自室を封鎖し食事も水も摂ることをやめてしまう。
父の狂気に混乱し、怒り、悲しみ、呆然とする義男。
一方、不二男の脳裏には義男ととも子、そして孫を交えた平凡だが幸福感に満ち溢れた日々が浮かんでは消えていくのだった…。


寸評
この映画の特徴は、モノクロ映画だが1シーンだけカラーが採用されていることと、カメラポジションが数か所に固定されていて定点観測を行っているような映像が続くことだと言える。
小林政広は以前に撮った「愛の予感」で、ほとんどセリフのない映像だけで迫ってくる手法に挑んでいたが、今回はまるで二人芝居を見ているような長廻しと、じっとこの親子の姿を観察しているようなカメラポジションで描き続け、それを極端に長いフェードアウトでつないでいくという手法をみせている。

少し前に、亡くなった親をミイラ化するまで自宅で保管し、死亡届も出さずに年金を搾取していたという事件があり、そのことに驚くと共に日本人のモラルもここまで堕ちたかと非難の声があがったことは、まだ記憶に新しいし、その後も類似の犯罪が露見している。
こちらからみれば、それはしごく当然な思いなのだが、なかなか当事者サイド側から見ることは出来ない。
ここに描かれた家族は、たがいに思いやっているのに、リストラにあって生活苦に陥り、抗うこともできず悲劇的に流されてしまう一家の物語だ。

父親は腕の良い大工だったのだろう。
入ってくれば使っていたノミで喉をついて死ぬという言葉に、息子はドアを打ち破って入ることが出来ない。
父親は、息子の就職が決まるまで年金を受給し続けることが息子にしてやれる唯一のことだと思っている。
その間に父親に去来するのは幸せだった頃の想い出で、その時見せる仲代達矢の表情に役者としての真骨頂を見せられた。
対峙する北村一輝が思いのほか熱演していて攻めの芝居を見せている。
カメラはずっと固定されていて、したがって後ろ姿で会話し続けるシーンもある。
カメラがパンすることもなく、人の動きは足音などで想像させられる。
そんな構成が、いったい彼等はどんな心理でいるのかと観客の想像力を大いに刺激する。

劇中では3月11日の震災も描かれ、最後にはその被災者の数や、交通事故による死者よりも自殺者による死者の方が多いことが表示される。
弱者に冷たい日本の社会に対する怒りといったものを作品的にも表現したかったのだろうが、もう一歩何かあっても良かったような気がする。
少し物足りなさを感じたのも事実で、「日本の悲劇」などという大層なタイトルが期待を膨らませてしまっていたのかもしれない。

日本の悪霊

2022-12-28 14:34:30 | 映画
「日本の悪霊」 1970年 日本


監督 黒木和雄
出演 佐藤慶 高橋辰夫 観世栄夫 榎本陽介 鈴木両全 坂本長利
   林昭夫 渡辺文雄 成瀬昌彦 土方巽 岡村春彦 殿山泰司
   堀井永子 岡林信康 奈良あけみ

ストーリー
ヤクザの発祥の地群馬のある小都市。
この都市では新興ヤクザの天地組が古い伝統をもつ鬼頭組を押しまくっていた。
鬼頭組の助っ人としてヤクザの代貸村瀬がこの町にのりこんできた。
過去、日共の六全協に象徴される当時の政治状況のなかで、山村工作隊員として山林地主を殺し逃亡した村瀬にとっては、この町は自己の青春を賭けた土地でもあった。
一方落合は暴力行為取締のデカとして県警本部より派遣された。
ヤクザ村瀬と同一人物のごとくよく似ている落合は、出迎えのヤクザに村瀬と間違えられてしまう。
落合は村瀬と思い込んだ村瀬の情婦と一夜を共にする。
このことがきっかけで、ヤクザとデカが入れ替る。
落合にとってはヤクザの世界は潜在的にあった彼自身の自由へのあこがれでもあり、村瀬にとっては当時の犯罪事件を明らかに調べるチャンスでもあった。
落合は鬼頭組に潜り込んで村瀬としてふるまい、村瀬は落合となって警察の資料室で事件の調書を読み続け、鬼頭組へのガサ入れでは隠してあった刀剣を見つけ、駆け出しの警官に手柄を譲ってやって信頼を得る。
そんな時、地主殺しの犯人として服役していた鬼頭組の親分が出所してくる。
どうやら警察署長と親分との間には事件を巡って密約があったようだ。
村瀬と落合は、次第に親近感を持ち始め、過去のオトシマエをつけるために署長らが列席する、幼稚園の開園祝賀会へとなぐりこんでいった。


寸評
映画冒頭で現代の街並みが映し出され、次の瞬間には壊れた街が登場する。
表面的には完全に生まれ変わった日本、しかしその奥にある精神は崩壊したままであり、いまだ戦争から脱却できていないということを表している。
ヤクザの代貸村瀬はどうやら学生運動上がりらしい。
鬼頭組の組長が新興ヤクザと結託した地主を自分の一存で殺したと持ち上げられているが、実際は村瀬が殺していて、村瀬は警察に潜り込んでその経緯を調べている。
その時の犯行グループの内、逃亡したものが2名いて、一人は村瀬で残りの一人は犯行グループのリーダーなのだが、村瀬はどうもこのリーダーにそそのかされたような印象を持っているようなのである。
この作品が撮られた1970年は日米安保を巡った70年安保闘争の学生運動が盛り上がっていた時期である。
作品内容、描き方からして、見ているうちにどうしてもそちらとリンクしてしまうのだが、安保闘争よりも日米安保をもたらした太平洋戦争に対する日本人自身による総括がなされていないことへの弾劾を強く感じるようになる。
過去の左翼活動、またそれに付随する殺人事件と、警察とやくざ両者の結託による陰謀が描かれていて、「時効」について若い警官に、落合と入れ替わった村瀬が問いかける場面がある。
時効はヤクザ社会では「落とし前をつける」という言葉に置き換わる。
どれだけ社会的に事件が抹殺されようが、その記憶をもつ人間にとっては決して終わりではない。
村瀬にとっての「落とし前」とは地主殺し事件のことであり、村瀬を日本人に置き換えるならば、この映画における「殺人事件」とは、「太平洋戦争」のことなのである。

村瀬に比べると国家権力の代表でもある落合は風采の上がらない男であり、さらに警察署長と来てはメンツを守るために、ヤクザと結託して犯人をでっちあげるような男で、国家権力の危うさを二人によって示している。
なぜ日本は戦争に突入していってしまったのだろう。
時のリーダーに洗脳されて、村瀬が地主殺しに向かったのと同様に突き進んでしまったのだろうか。
上層部のメンツや維持のために国民は動かされてしまったのだろうか。
首謀者は裁かれることなく逃亡したままなのではないかと問いかける。
しかし「日本の悪霊」は風刺映画なので、その訴えはストレートな肩ぐるしさを持たず深刻なものではない。
茶化すように岡林信康が歌うシーンが挿入される。
そのシーンは強烈なインパクトを放つものでなく、何だかはぐらかされたようなものになっているのは残念だ。
ヤクザの親分が出所祝いの席でフォークソングの「友よ」を歌うくだりには笑ってしまうが、どうもテーマが昇華されているとは言い難いものを感じる。
村瀬と落合は共感しあうものを感じるようになるが、一体それはどこから来ているのかよくわからない。
当初、村瀬が目論んでいたように天地組と鬼頭組の手打ちが行われ、両組長と警察署長が出席している幼稚園の開園祝賀会に二人は殴り込みをかけるが、二人の行動の動機づけが僕にはよくわからなかった。
特に落合が行動を共にする理由が不明だ。
ゴミの埋め立て地に突き刺さった日本刀は何を表していたのだろう。
作品の前衛性は買えるし、鑑賞に堪えうるものなのだが、どこか空回りをしているような気がする作品で、その後の黒木作品に秀作が並ぶことを見ると、これはそれを生み出すための助走だったのかもしれない。

二百三高地

2022-12-27 07:18:43 | 映画
「二百三高地」 1980年 日本


監督 舛田利雄
出演 仲代達矢 あおい輝彦 新沼謙治 湯原昌幸 佐藤允 永島敏行
   長谷川明男 稲葉義男 新克利 矢吹二朗 森繁久彌 天知茂
   神山繁 平田昭彦 若林豪 夏目雅子 野際陽子 赤木春恵
   北林早苗 三船敏郎 松尾嘉代 丹波哲郎

ストーリー
十九世紀末、ロシアの南下政策は満州からさらに朝鮮にまで及び、朝鮮半島の支配権を目指す誕生間もない明治維新政府の意図と真っ向から衝突した。
幾度となく開かれる元老閣僚会議で、次第に開戦論がたかまっていくがロシアの強大さを熟知している伊藤博文(森繁久彌)は戦争回避を主張していた。
ある日、開戦論に興奮した民衆が戦争に反対する平民社の若い女、佐知(夏目雅子)に殴りかかろうとしているところを、通りがかった小賀(あおい輝彦)が救った。
その頃、伊藤は参謀本部次長の児玉源太郎(丹波哲郎)と会見、対露戦の勝算を問うていた。
児玉は早いうちにロシアに打撃を与え、講和に持ち込むしか勝つ道はないと訴えた。
明治37年2月4日、御前会議で明治天皇(三船敏郎)は開戦の決議に裁可を下した。
伊藤は前法相の金子堅太郎(天知茂)をよび、アメリカのルーズベルト大統領に講和の調停役を引き受けるように説得を要請する。
そうしたなかでも、神田のニコライ堂ではロシア人司祭によるロシア語の講座が細々と続けられ、出席していた小賀は、そこで偶然にも佐知に出会い、思いがけぬ再会で二人の間に愛が芽生えた。
やがて、小賀も出征することになり、彼を慕って金沢までやって来た佐知と愛を確かめあう。
小賀の小隊には、豆腐屋の九市(新沼謙治)、ヤクザの牛若(佐藤允)、その他梅谷(湯原昌幸)や米川(長谷川明男)たちがいた。
戦況は次第に厳しさを増し、海軍はロシア東洋艦隊に手こずり、陸軍は新たに第三軍を編成、司令官に乃木希典(仲代達矢)を命じたところ、旅順攻略戦はロシア軍の機関銃の前に日本軍は屍体の山を築いていき、ついに11月27日、司令部は二百三高地攻撃を決定した・・・。


寸評
日露戦争最大の激戦地として有名な二百三高地の戦いを描いた大作である。
我々は日露戦争における二百三高地の激戦を歴史を通じて知っている。
旅順攻囲戦は戦争の悲哀を象徴する戦いで、その中でも1904年(明治37)の11月26日から12月6日まで続けられた二百三高地攻略戦で、日本軍は約6万4千の兵士を投入し、戦死者5,052名、負傷者11,884名、合計16,936名という信じがたい数の犠牲者を出したのである。
本作はその語り部となって詳細を描いているわけではない。
それらしきシーンはあるにはあるが、かといって反戦とかの主張が強く感じられる作品ではなく、印象としては歴史物語を見ているようで、これは題材が明治時代におきた日露戦争という時代背景にもよるものなのかもしれない。
反戦映画と言うよりも戦争アクション映画のジャンルに入れたほうがいい作品の様な気がする。

そもそも二百三高地の苦戦は、旅順を簡単に陥落出来るという見込みの甘さがあって、それに加えて乃木の指揮官としての力量不足、伊地知幸介などの参謀の無能さによるところが大きい。
10年前の日清戦争の時には簡単に陥落させていたことが甘く見させたと思う。
しかし日露戦争の時にはロシア軍が強固な要塞をきずいており、日本軍が持たない機関銃を高地に備えていて、突撃してくる日本兵をなぎ倒したのだった。
加えて日本の司令部が無能であったことも災いした。
軍司令官はいうまでもなく乃木希典、そして参謀長が伊地知幸介である。
それにしてもこの乃木・伊地知のコンビは長州と薩摩の派閥均衡人事で、旧日本軍においては最悪のコンビであったと思われる。
そもそも乃木は長州閥によって取り立てられたようなところがあり、西南戦争でも指揮官としての戦功が見受けられない。
書物を読む限り、伊地知幸介などは、なぜこんな男が参謀たりえたのか分からず、まるで戦犯者の如き評価がされている。
伊地知は砲術の専門家としての自負が攻城戦を一つの作戦に固執させ、いたずらに砲撃→白兵戦というパターンを繰り返し犠牲者の数を増やしていったし、乃木はそれを傍観するだけだったようだ。
そんな前知識からすると、乃木は立派すぎるし、児玉源太郎の劇的采配がイマイチ表立っていない。
ともかく見かねた児玉源太郎が大山元帥の代理として指揮をとることになって、ようやく旅順が堕ちた。

ロシア軍は日本軍が所有していない機関銃で、突撃してくる日本兵をなぎ倒す。
乃木と幕僚は、どのような作戦を立てたら良いか分からず、ただ突撃の命令を出すだけだ。
命令を受けた将兵たちも出された命令に従うだけで、文句も言わず死地に向かう。
あおい輝彦が演じる小賀は教師上がりで平和主義者のはずだが、それでも戦友を次々と失っていくことで、ついには素手で殺し合うようにまでなってしまう。
そういう彼等に対する同情とでもいうような感情が多いに出た作品だ。
思想とか、主張とかではなく、アクション物を得意とした舛田利雄監督作品らしい映画である。
あまり深く考えないで、歴史のヒトコマとして見る分にはいい作品だと思う。

ニッポン無責任時代

2022-12-26 07:17:20 | 映画
「ニッポン無責任時代」 1962年 日本


監督 古沢憲吾
出演 植木等 重山規子 ハナ肇 久慈あさみ 峰健二 清水元
   藤山陽子 田崎潤 谷啓 安田伸 犬塚弘 石橋エータロー
   櫻井千里 松村達雄 由利徹 中島そのみ 団令子

ストーリー
口八丁、手八丁の平均(たいら・ひとし)(植木等)は、バー「マドリッド」で太平洋酒乗ッ取り話を小耳に挟んだ。
太平洋酒の氏家社長(ハナ肇)に同郷の先輩の名を持ち出し、まんまと総務部勤務になった均の初仕事は、大株主富山商事の社長(松村達雄)を買収することだったが小切手一枚で見事成功。
新橋芸者まん丸(団令子)も彼の凄腕にコロリ、係長に昇進とは全く気楽な稼業である。
しかし三日天下とはよくもいったもの、乗ッ取り男・黒田有人(田崎潤)が富山の持株を手に入れたと判って、均はたちまちクビになった。
黒田の黒幕は山海食品社長大島良介(清水元)だが、彼の娘洋子(藤山陽子)はボーイ・フレンドの氏家孝作(峰健二)と駈け落ちをした。
均は新社長就任パーテーで黒田に会ったが、余興と宴会のとりもちの巧さから渉外部長に返り咲いた。
一方、トントン拍子の均の下宿にマドリッドの女給京子(中島そのみ)、芸者まん丸、太平洋酒の女秘書愛子(重山規子)が押しかけ、恋のサヤ当てを始めた。
その頃、大島邸を訪ねた黒田が令嬢洋子の結婚話を切り出したところ、彼女には氏家孝作という好きな相手がいると判った。
均の次の仕事は、太平洋酒の商売仇である北海物産からホップの買いつけである。
均は煮ても焼いても食えない北海の石狩社長(由利徹)を、桃色フィルムとお座敷ヌードで攻略したが、美人局の真似とはもってのほか、そのうえ公金横流し、御乱行がバレてクビになった。
だが転んでもただ起きない均は、洋子の縁談のことで大島と黒田が頭を痛めていると知るや洋子の居場所をタネに、氏家社長の復職を迫った。
かくて一転、二転、三転、晴れてその日は氏家家と大島家の結婚式で、そこに均が現れたが・・・。


寸評
クレイジーキャッツが一世を風靡した時代があった。
彼等はそれぞれ一流のミュージシャンであったが、まるでコミックバンドのようだった。
「スイスイスーダララッタ、スラスラスイスイスイ」という「スーダラ節」を初め、「ハイ それまでヨ フザケヤガッテ フザケヤガッテ フザケヤガッテ コノヤロー」という「ハイ それまでヨ」などというコミックソングが大ヒットしたことで、テレビの世界でドタバタコントを演じていたことも影響している。
メンバーの中から植木等が稀代の喜劇役者となってスクリーンに飛び出したのがこの無責任シリーズである。
「日本一の・・・」で始まるシリーズも撮られ、東宝のドル箱シリーズとなった。

いわゆるサラリーマン物だが、それまでの作品は宮仕えの哀しさを笑いと涙で綴るのが常道だった。
この映画はそれをあっけらかんとひっくり返してしまっている。
植木等が演じる平均からは、立派な男についてまわる誠実さであるとか責任感が全く感じられず、男は黙って勝負するといった寡黙さもない。
当時の観客は、ひたすら調子よく生き抜く主人公に大笑いし、時にあこがれを抱いた。
僕はまだまだサラリーマンには程遠い年齢だったが、それでも誰にでも身の回りにはそうだったらいいなと思うことは一杯あったはずだ。
たとえば、学生なら大した勉強もしないのに、上手いやり方でもってテストでいい点が取れてしまうとかである。
映画にシリアスなところは一つもなくて、それはまるで夢物語である。
それが分かっていても、どこかで自分もそうであればという甘い期待を持ってしまうのがこのシリーズだ。
いい加減な男なのに、とにかくモテモテなのだ。

この映画が撮られたのは1962年で、オリンピックが日本で初めて開催される2年前になる。
日本は正に高度経済成長の波にのって、日本全体ががむしゃらに働き始めた頃だ。
会社への忠誠心や出世のために家庭や家族を顧みず、プライベートを犠牲にして上司や会社の命令のまま、がむしゃらに働くモーレツ社員(今では死語)が生み出されていこうとしていたし、受験戦争も始まろうとしていたから、平均の姿は憧れ以外の何者でもなかったのだろう。
主人公の名前は平均だが、とても平均的な日本人ではなく、誰もが憧れる対象者であったのだ。
平均は植木等そのものなのだと思ってしまう。
植木等はあの手この手を使って洋酒会社に入社してしまう。
社長にゴマスリはお手のものなのだが、その割には会社に対する忠誠心はない。
仕事は猛烈にやっているように見えるが遅刻も平気でする。
「まっ、そうカタイこと、おっしゃらずに」とどこまでも調子いい男で、それに「スーダラ節」「ハイそれまでョ」「やせがまん節」などのいい加減な歌が流れる。
極め付けが「無責任一代男」という歌で、「こつこつ、やるやつぁー、ごくろーさん!」とくる。
この場面に、真面目にやっている俺はバカかと思わない人はいないのではないか。
もしかすると、この映画はブラック・ユーモアに富んだ社会派喜劇だったのかもしれない。
映画としては評価できないけれど、当時の世相を示した風俗映画として見れば歴史の1ページを飾る作品だ。

22年目の告白―私が殺人犯です―

2022-12-25 07:40:31 | 映画
「22年目の告白―私が殺人犯です―」 2017年 日本


監督 入江悠
出演 藤原竜也 伊藤英明 夏帆 野村周平 石橋杏奈 竜星涼
   早乙女太一 矢島健一 平田満 岩松了 岩城滉一 仲村トオル

ストーリー
一人のチンピラ(早乙女太一)を追いかける刑事牧村(伊藤英明)の元に上司からの電話がかかる。
チンピラはそのままに急いで戻るとその時まさにテレビ中継される会見が始まろうとしていた。
男は22年前の1995年に起きた連続殺人事件を語りだし、そして男はこう言い放った「私が殺人犯です」。
男の名前は曾根崎雅人(藤原竜也)、自身で事件の詳細を語るため告白本の出版とともに公に顔を出した。
告白本は驚くほどの売れ行きを見せ、男のメディア露出は多岐に渡った。
しかし男はそれ以上の賑わいを求めており、テレビ局が渋る生放送への出演を求めていた。
男は次々とメディアに露出、それは遺族の元に顔を出すまでに至った。
今もなおその苦しみから解き放たれることのない遺族。
書店で働く美晴(夏帆)もその一人であった。
男に父親を殺され、あれから長い年月が経った今、自分が勤める本屋で犯人の本が売られていた。
男はある日、妻を殺されていたもう一人の遺族である医師の山縣(岩松了)の元を訪れた。
病院のロビーで多くの記者が彼らを囲む中、男は突然医師に土下座を始めた。
そしてたまたまそこに居合わせた牧村と鉢合わせ掴みあいが始まった。
その騒動は日に日に大きくなり、彼の端正なルックスからファンが現れることにもなる。
男はあろうことかサイン会を開き、さらに世間を賑わせる。
その中で以前牧村が追っていたチンピラがサイン会で銃乱射の騒動を巻き起こす。
彼の所属する組の組長(岩城滉一)もまた今回の事件の被害者だった。
そんな男の元に、ある番組から出演依頼が舞い込んできた。
元戦場ジャーナリストの仙堂(仲村トオル)がキャスターを務めるニュース番組で、ついに生の声が全国へと響き渡ることになる。


寸評
2010年4月27日に殺人などの時効廃止が成立し即日施行された。
これによりそれまで15年だった殺人事件の時効がなくなった。
理屈から言えば本作で描かれたような事態が起きえたと言うことである。
そのことを中心に物語は進んでいくが、盛り込まれている内容は盛りだくさんで、ちょっと欲張りすぎる感がある。
神戸連続児童殺傷事件、別名「酒鬼薔薇聖斗事件」とも呼ばれるものでは、本人が本を出版し物議をかもした。
大災害で生存した人が「どうして自分だけが生き残ってしまったのか」と自責の念に迫られる後遺症的な問題。
ワイドショーでの事件の取り上げ方や、カッコイイ犯罪者をヒーロー扱いする軽薄な大衆。
犯人の人権が叫ばれ、被害者や被害者遺族の人権が軽んじられる風潮。
心神喪失者を責任無能力として処罰せずとする刑法39条。
本作はそんなものがごった煮状態となった社会派サスペンス劇となっている。

時効成立後に犯人が出版記念会見を行うところからスタートするが、興味はなぜ彼がそのような行動をとっているかのかということだ。
その事に興味が行って、殺人者が事件を題材に本を出版する事に対する是非は蚊帳の外である。
そして時効を迎えた以上、彼が被害を受けるようなことがあれば守らねばならない。
殺された者は守られなかったが、殺した犯人は守られると言う理不尽さに対する怒りも湧いてこない。
若い女性たちが彼に熱狂するように、犯人と名乗る曾根崎が身なりもきちんとしているカッコイイ男で、彼に対する憎しみが湧いてこないような描き方による。
曾根崎雅人はまるでヒーローのようなのだ。

阪神大震災を経験した牧村の妹や、父親を目の前で殺された本屋に勤めている美晴は生き残った自分を責めているが、その事は強調されているわけではない。
騒ぎを受けたくない店主が美晴を解雇する場面は描かれているが、演じた夏帆の存在は重要な要件とはなっていないように思う。
社会派サスペンスとなり得たはずなのだが、どうも社会派の部分が抜け落ちているような印象を受ける。

単純なサスペンスとして見るなら脚本は上手くできている。
ラストはちょっと性急すぎる感はあるものの面白い展開を見せてくれる。
特に犯人の行動理由が明らかになるところなどは「へえ~、そう言うことだったのか」と思わせる。
曾根崎と仙堂が鏡像関係になっているのも面白い。
ラストシーンでは刑法39条が適用されるかもしれないということを匂わせるシーンとなっている。
そこでエンドクレジットが出かかるのだけれど、「そうだ、あの男がまだ残っていた」という本当のラストシーンはなかなかのアイデアだった。
脚本自体は面白いので、もう少し迫ってくるような迫力感が出ていればなあという欲望が湧いてくる作品だ。
だけど、拓巳はどうしてあの場所で指輪を見つけることができたのかなあ・・・。

ニシノユキヒコの恋と冒険

2022-12-24 09:03:47 | 映画
「ニシノユキヒコの恋と冒険」 2014年 日本


監督 井口奈己
出演 竹野内豊 尾野真千子 成海璃子 木村文乃 本田翼 藤田陽子
   滝本ゆに 中村ゆりか 田中要次 麻生久美子 阿川佐和子

ストーリー
ルックス、仕事、セックス……全てが完璧で、女には一も二もなく優しく、女に関して懲りることを知らない男・ニシノユキヒコ(竹野内豊)は、愛を求め続けていた……。
10年前に恋に落ちたのは人妻の夏美(麻生久美子)。
みなみ(中村ゆりか)という5歳の娘のいる女性だった。
みなみは成長して女学生になっている。
そのみなみのところへ「死んだら会いに来ると言っていた」とユキヒコが現れる。
それは交通事故で死亡したユキヒコの幽霊だった。
みなみは彼の葬儀で、料理教室でニシノのとりこになった主婦のササキサユリ(阿川佐和子)から、彼の女性遍歴を聞かされる。
ユキヒコの上司は3歳年上のマナミ(尾野真千子)である。
誘われて行ったバーでマナミは、偶然来ていたニシノのかつての恋人カノコ(本田翼)と出会う。
彼のマンションを訪ねたマナミはニシノが二股に近い関係を持っていると知りながらも彼と関係を結んでしまう。
そんなある日、彼のマンションの隣に住む昴(成海璃子)とタマ(木村文乃)も、ひょんなことからニシノと繋がりを持つ。
ニシノは昴と親しい関係になりながらもタマと出来てしまう。
彼の周りにはいつも魅力的な女性たちがいて、ニシノは彼女たちの欲望を満たし、淡い時を過ごす。
しかし、女性たちは最後には必ず自らニシノのもとを去ってしまうのであった……。
どうして女性とうまくやっていけないのか、答えを求めて彷徨い続けるニシノユキヒコだったが…。


寸評
題名からすれば好色一代男の如き男が繰り広げる波乱万丈、次から次への女性遍歴物語かと思いきや、逆に女性から見た居心地の良い男との触れ合い物語になっていて、都合のよい女性映画の様な雰囲気だ。
もちろん、男性側視点で見れば、素敵な女性と知り合いになって結構な関係になりながらも次の女性が現れて、そちらに乗り移っても恨まれることなくいつまでも慕われているなんて男冥利に尽きると言えなくもない。
そんなやっかみも含めて主人公のニシノユキヒコにはリアリティがない。
それもそのはずで彼は幽霊なのだ。
だから彼のリアリティのなさも何とか受け入れることが出来、そして甘ったるい恋物語に酔いしれることになる。

彼が現れた先は人妻の夏美の娘のところで、5歳だった彼女も15歳の女学生になっている。
母親は男を作って出て行っているようなのだが、幽霊の葬儀に出かけていき、彼の女性遍歴を知ることになる。
ニシノが会社の上司であるマナミにとる態度はまるで女たらしだ。
彼女の乱れた髪をかき上げてやるようなしぐさを見せるが不潔感のあるものではない。
送っていくと言ったり、自分のマンションに誘ったりするが、下心が見え見えと言ったものではなく自然なものだ。
やがて彼女は彼になびいていく。
この映画では一貫していることなのだが、男女間の直接的な場面を極力排除している。
マナミが書庫から戻った時に、上着の中へ手を入れて下着を整え、口紅だかリップクリームだかで唇びるを整える様子を映して何があったのかを想像させる手法である。
この様な描き方の連続がこの作品をポップなものにしている。

マナミはバーでニシノの元カノであるカノコと出会い、その後ニシノのマンションでも鉢合わせをする。
俄然二人の恋の火花が散り始め、終わったはずのカノコもライバル心を呼び起こして復活を狙う。
二人の間でニシノはどうすることもできないのだが、特に二人から責められるようなことはない(うらやましい)。

ニシノの隣の部屋には昴とタマという二人の女性が住んでいる。
最初は昴と仲良くなり、続いてタマとも関係を持ってしまう。
しかも昴が在室している時にである。
そんな女性遍歴を語る料理教室のササキサユリもユキヒコと映画談義をして楽しい気分になっていたのだ。
彼女たちはもしかすると薄幸なのではないかと思えてくる。
ニシノは幸薄い女たち特有の「あたしがなんとか幸せにしてあげる」という母性本能を刺激しているのだろう。
だから彼女たちは被害者ではない。
結婚詐欺を仕出かしそうなタイプなのだが、かれは裕福な家庭に育ったようであり金に困っている様子はなく、立派な外車を乗り回している。
決して声を荒げることのない彼は女性からすれば自分たちの癒しとなる存在なのだろう。
ニシノが死んだことで夏美とみなみの母娘は再会することが出来たというオチとはなっている。
終わってみると、いつまでも男の面影を追い続けることで得られる幸せ感という非現実的な夢物語は映画の世界だなという印象で、雰囲気を味わう軽~い映画だったのだというホンワカした気分だけが残った。

憎いあンちくしょう

2022-12-23 08:02:58 | 映画
「な」が終わり「に」になります。
2019/12/4の「ニキータ」から「肉弾」「にごりえ」「二十四の瞳」「二十四時間の情事」「2001年宇宙の旅」「にっぽん泥棒物語」「日本のいちばん長い日」「ニュー・シネマ・パラダイス」「ニワトリはハダシだ」「人間の條件 6部作」「人情紙風船」を紹介し、続いて
2021/8/11の「にあんちゃん」から「肉体の悪魔」「荷車の歌」「2010年」「日日是好日」「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」「日本のいちばん長い日」「日本の黒い夏 冤罪」「日本の夜と霧」「ニンゲン合格」「人間蒸発」「忍者武芸帳」を紹介しました。
バックナンバーから参照してください。
思いつくままに追加記載いたします。

「憎いあンちくしょう」 1962年 日本


監督 蔵原惟繕
出演 石原裕次郎 浅丘ルリ子 芦川いづみ 小池朝雄 長門裕之
   川地民夫 佐野浅夫 市村博 緒方葉子 井上昭文 草薙幸二郎

ストーリー
北大作(石原裕次郎)はマスコミから追いまわされる「現代のヒーロー」で、映画出演、テレビ座談会、司会、原稿執筆等々、一分一秒まで予定で埋っている。
そんな彼を支配するのは、マネジャー兼恋人の榊田典子(浅丘ルリ子)という近代娘。
二人は二年前から「ある瞬間」がくるまで、指一本ふれないという約束をかわしている。
機械のような生活に倦怠を感じている大作の前に、井川美子(芦川いづみ)が現れて情勢は一変した。
「ヒューマニズムを理解できるドライバーを求む。中古車を九州まで連んでもらいたし。但し無報酬」という奇妙な三行広告が、大作の受け持つテレビ番組でとりあげられたのが事の始まり。
美子の恋人で医師の敏夫(小池朝雄)は、九州の片田舎に住んでもう二年も離れたままだが、今なお二人の間には純愛が続いている。
大作の体中の血がたぎった。
「僕が運びます!」彼が本番最中のテレビ・スタジオを飛び出したので、典子やディレクターの一郎(長門裕之)は大あわて。
典子はスポーツ・カーで、ジープを飛ばす大作を追った。
いち早くこの事件から新番組を企画した一郎たちの取材班、新聞社の車がそれに続いた。
静岡、豊橋、名古屋、京都--。
典子は愛する大作の突飛な行動を正当化し、話題の焦点にしようと一芝居打つが、それは失敗に終った。
大作の心には、井川美子の純愛をたしかめることしかないのだ。
幾多の困難を排してジープは一路九州へ向かう…。


寸評
石原裕次郎の人気絶頂期における主演作品のひとつである。
今までのスターにないイメージで空前の人気者となったのだが、主演作品がすべてヒットする順調さの裏でワンパターン化が始まっていた。
想像ではあるが、石原裕次郎本人としては作品的にも評価されるものをやりたかったのではないか。
おそらく裕次郎作品を手掛ける監督たちも自らの主張を織り込むことができず、同じ思いを持っていたと思う。
そんな両者の気持ちがこの作品では噴き出している。
この作品は主人公の北大作を石原裕次郎が演じていることによって、また当時の石原裕次郎を知っている者が見ていることによって輝きを放っている。
裕次郎にとっては彼自身を自嘲するような内容なのだが正面切って演じている。

ストーリーのバックボーンは愛の証のためのジープを東京から熊本の山村まで運ぶと言うもので、日本初のロードムービーと言ってもいいかもしれない。
裕次郎が運転するジープと、浅丘ルリ子が運転するジャガーが、横浜から静岡県を経て名古屋を疾走する。
京都から大阪駅前にやってくるが大層な人出で、エキストラなのか本当のファンなのかはわからないくらいだ。
走る車の実写もなかなかのもので、時折背景との合成が入るものの十分に鑑賞に堪えるもになっている。
福岡の祭りである勇壮な博多山笠を背景にしたセット撮影では、レンガ塀が押し付けられた浅岡ルリ子によってペコペコ動いてしまう笑うようなシーンもあるけれど、実写部分は成功していると思う。

芦川いづみと小池朝雄は遠距離恋愛で2年間の文通を通じて愛を育てていると思っている。
特に芦川いずみの井川美子という女性は愛は信じるものだと思っている純情な女性だ。
一方の大作と典子のカップルは毎日会って、時には言い争う情熱的な関係だが今は倦怠感を感じている。
最後に二人は「愛は言葉ではない」と告げるけれど、実際浮いた言葉だけで愛は育たないものだと思う。
たぶん言葉だけの愛は、気持ちを募らせることを生じさせても、愛を確認させることはできないと思う。
井川美子は文通を通じて思いを高めていたのだろうけれど、実際にその相手と会った時にはどうしていいか分からず戸惑いを見せる。
しかし僕は彼女の気持ちがよくわかる。
プラトニックすぎる気持ちが、現実を目の前にするとどのような行動を起こしてよいか分からなくしてしまうのだ。
その気持ちは触れ合うことさえも拒絶してしまう。
一方の大作と典子も同様にプラトニックな関係を強いている。
肉体関係を持たない、キスもしないというものだが、二人の間には時間も距離も存在していない。
倦怠期を迎えていながらもお互いの気持ちを体で伝えあっている。
その対比がラストで爆発して爽快だ。

浅丘ルリ子はこの頃から演技派としての頭角を現してきた。
同じような立場の松原智恵子が演技派に向かわなかったのとは好対照である。
雰囲気の役者が多かった日活の中にあって演技派と呼べる稀有な存在になっていった。

南極物語

2022-12-22 06:40:25 | 映画
「南極物語」 1983年 日本


監督 蔵原惟繕
出演 高倉健 渡瀬恒彦 岡田英次 夏目雅子 荻野目慶子 日下武史
   神山繁 山村聡 江藤潤 佐藤浩市 岸田森 大林丈史 金井進二

ストーリー
昭和33年2月、南極昭和基地での越冬隊の活動は例年にない悪天候のため中止と決定した。
犬係の潮田(高倉健)と越智(渡瀬恒彦)は基地に残された十五匹の犬を救うべく“昭和号”を飛ばしてくれるよう小沢隊長(岡田英次)に食いさがったが、満身創庚の“宗谷”には、これ以上南極の海にとどまる力はなかった。
越冬隊と行動を共にした15匹のカラフト犬は極寒の地に置き去りとなってしまう。
初夏、潮田は北海道大学講師の職を辞し、樺太犬を供出してくれた人々を訪ね歩く謝罪の旅に出た。
なかには「どうして連れて帰って来なかったの!」と激しく怒りをぶつけてくる少女・麻子(荻野目慶子)もいた。
潮田の謝罪の旅を知った越智は稚内に向かう。
稚内では学術探険に貢献したとして十五匹の犬の銅像が建てられ、その除幕式が行なわれていた。
その頃、南極では犬たちの生きるためのすさまじい戦いが展開されていた。
戦いは首輪を抜け出すことからはじまり悪戦苦闘の末に自由を得たのは十五頭のうち八頭だった。
基地に食物のないことを知った犬たちは、餌を求めてさすらいの旅に出るが仲間の数は次第に減っていく。
先導犬のシロもリーダー格のリキも悲運の死を遂げる。
一方、第三次越冬隊が組織されることをニュースで知った潮田と越智は進んでその隊員に加えて貰うよう頼み込んだ。
宗谷からヘリで昭和基地に着いた二人は、鎖につながれたまま死んでいる犬たちを見つけ慟哭する。
涙にくもった潮田と越智の眼が、不意に丘の上の二頭の犬をとらえた。
二頭はタロとジロだった。
二人は大声をあげて駆けだした。


寸評
当時としては空前の大ヒット作品となったのだが、フジサンケイグループの総力を挙げた宣伝とテレビ番組を通じたメディアミックスが行われたことが主因だろう。
映画館のない地域でもPTAや教育委員会がホール上映を行ったことが観客動員を押し上げたと思う。
配給収入としては1997年公開の宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」に抜かれるまで1位だったし、実写映画としては2003年公開の「踊る大捜査線2」に抜かれるまで破られなかったというからすごい。
配給収入の割にはドラマとしての見応えはさほどでない。
言ってみれば犬が走り回っているだけの作品で、そこに大きなドラマが展開されているわけではない。
それでもタロとジロ生存のニュースは、僕たちの世代にとっては感動をもって伝えられたニュースの一つである。
詳しい背景など知るはずもなく、子供心に紙面を飾る見だしに、ただただすごいことなんだと思ったものである。
そんなこともあって、大勢の観客に支持された理由もわからないままながらも二時間半を楽しむことはできた。

最初の1時間程は潮田や越智たちが向かった南極大陸の山の一つであるボツンヌーテンへの旅が描かれる。
ここでの撮影隊の努力と苦労が垣間見える映像が観客を圧倒する。
犬ぞりが走る光景をとらえているのだが、その遠景は詩情にあふれ美しい。
遠景である以上、カメラは当然遠くに設置されているはずである。
その遥か彼方を犬ぞりが走り抜けていくのだから、多分撮影は一発勝負だっただろう。
リハーサルなど望むべくもないシーンが何回も登場し、僕はそのたびに撮影隊と犬を含めた出演者の連携に驚嘆していた。
ロケは南極及び北極で行われたらしいが、南極の自然がうまく取り入れられていた。
ボツンヌーテンへの旅では、あわや遭難という場面にも出くわすが、そこからの脱出はもう一つ盛り上がらない。
犬が主役の為か、人間が登場するシーンはイマイチ盛り上がりに欠けているように感じる。
話は感動的なのだから、もう少し脚本に工夫があっても良かったのではないか。

つながれた鎖から脱出したのはタロ、ジロ、リキ、アンコ、シロ、ジャック、デリー、風連のクマの8頭なのだが、動物映画としては擬人化したそれぞれの犬のキャラクターが明確に描き切れていなかったように思う。
ジャックはいずこへともなく走り去りそのまま行方不明となるのだが、オーロラに狂乱する姿をもっと描いてもよかったのではないか。
風連のクマはアンコを連れてタロ・ジロと合流するのだが、そのクマが再び大陸へ消えていく悲劇性も少しパンチがないように感じた。
リキは15頭のリーダー犬だが、リーダーらしくタロ、ジロを守る姿も描かれることはなく、結局はナレーションで処理されてしまっていた。
それでも、潮田と越智の前にタロ、ジロが姿を現す場面は感動的で涙を誘う。
犬たちは人間以上の仲間意識を持ち、南極育ちのタロとジロにとっては昭和基地が故郷で、彼等は故郷を離れなかったということになぜか感動を覚えた。
現在では南極の自然を守るために、外来生物の持ち込みは禁止されているから、南極越冬隊とカラフト犬との交流はないと思われるし、カラフト犬という種そのものの頭数も少なくなっているのではないかと思われる。

名もなく貧しく美しく

2022-12-21 10:07:52 | 映画
「名もなく貧しく美しく」 1961年 日本


監督 松山善三
出演 小林桂樹 高峰秀子 島津雅彦 王田秀夫 原泉 草笛光子
   沼田曜一 松本染升 荒木道子 根岸明美 高橋昌也 加山雄三
   藤原釜足 中北千枝子 三島耕 南道郎 織田政雄 中村是好

ストーリー
竜光寺真悦(高橋昌也)の嫁・秋子(高峰秀子)はろうあ女性である。
昭和二十年六月、空襲の中で拾った孤児アキラを家に連れて帰るが、留守中、アキラは収容所に入れられ、その後真悦が発疹チフスで死ぬやあっさり秋子は離縁された。
秋子は実家に帰ったが、母たま(原泉)は労わってくれても姉の信子(草笛光子)も弟の弘一(沼田曜一)も戦後の苦しい時でいい顔をしない。
ある日、ろうあ学校の同窓会に出た秋子は受付係をしていた片山道夫(小林桂樹)に声をかけられたのをきっかけに交際が進み、結婚を申込まれた。
道夫の熱心さと同じろうあ者同士ならと秋子は道夫と結婚生活に入った。
二人の間に元気な赤ん坊が生れたが、二人の耳が聞こえないための事故から死んでしまった。
信子が家を飛び出し中国人の妾となりバーのマダムに収まったころ、道夫は有楽町附近で秋子と靴みがきを始め、ささやかな生活設計に乗り出した。
グレた弘一が家を売りとばしたので、母のたまが道夫たちの家に転がりこんできた。
秋子はまた赤ん坊を生み、たまは秋子たちのためにかんざしを手放した。
秋子はその金でミシンを買い内職を始めた。
子供の一郎は健全に育ち健康優良児審査で三等賞を受けた。
道夫は一郎の教育を考え靴みがきを止め印刷所の植字工になった。
しかし、一郎は成長するにつれ障害者である両親をうとんずるようになった。
内職の金をごまかされたり秋子の苦難の日はつづく。


寸評
聾唖者の夫婦が助け合いながら戦後の時代を生き抜いていく物語で、それだけを聞くとお涙頂戴映画だと思ってしまうが、泣けるシーンがあるもののむしろ励ましを受ける感動作品である。
聾唖者を初め身障者の社会への受け入れと理解は進んできたように思うが、描かれた時代では随分と偏見や差別が存在していただろうことは想像に難くない。
秋子は耳が聞こえないが、たどたどしいけれど何とか話すことができる。
道夫は全くの聾唖者であるが、いじけているような所はなく、常に秋子を励まし前向きに生きている。
そんな彼等を食い物にする連中が憎々しい。
耳の聞こえない彼等の家に泥棒が入り、物音に気付かない彼等を傍目に楽々と盗み出してしまう。
泥棒の物音に気付いたのは赤ん坊の子供だけで、這いだしたその子は玄関に転げ落ち死んでしまう。
泣き声が聞こえなかったために起きた悲劇で、切なくなってくる。
弟はヤクザな男で、義兄の給料を勝手に前借してしまうし、秋子のミシンも持ち出してしまうような男だ。
秋子の母親はそんな息子に愛想をつかせているのだが、母親たま役の原泉がいい感じだ。
顔立ちからすればイジワル婆さんに見えるのだが、子供に対する優しい心使いを見せるというギャップがいい。
家を飛び出し行方が分からなくなっていた信子を訪ねたところ、中国人の妾になっているという信子からいくばくかの金をもらう。
「娘のあんたがくれたものだからありがたくもらっておくよ」と言って去る場面には、娘の気持ちも母親の気持ちもわかるような気がして僕は泣けた。

弟の非道にたまらなくなり、秋子は弟を殺し自分も死のうとする。
それを思いとどまらせようとする道夫とのやり取りシーンは感動ものだ。
電車に飛び乗った二人は車両が違い、その窓越しに手話で会話する。
会話の内容は文字で示されるが、二人のやり取りは涙失くして見ることができない出色のシーンだ。
二人は「自分たちのような人間は一人では生きていけない」と言う。
そして「普通の人に負けないために・・・」という言葉を何度か言う。
ハンデを負った人には、普通の人に負けないという意識が少なからずあるのかもしれない。
僕の母親も、僕に父親の居ないことを気にかけていたのか「普通の人に負けないように」とか、「後ろ指を指されないために」などという意味のことをよく言っていた。
道夫と秋子の夫婦は搾取されるようなことがあっても文句を言わず真面目にけなげに生きている。
その姿に心打たれるものがある。
秋子は心優しい女性なので、戦争孤児のアキラを保護してくる。
その子供は最初の結婚相手であるお寺一家によって施設に入れられてしまうが、成人となったアキラ(加山雄三)が御礼にやって来る。
喜ぶ秋子だが、ここでまた耳が聞こえないために悲劇が起こる。
この結末はどうなんだろう。
一郎が立派になっていきそうなことを匂わせてはいるが、でもやはり救われない気持ちになってしまう。

夏の終り

2022-12-20 08:13:03 | 映画
「夏の終り」 2012年 日本


監督 熊切和嘉
出演 満島ひかり 綾野剛 小林薫 赤沼夢羅 安部聡子 小市慢太郎
   澤田俊輔 古河潤一 金替康博 久野麻子 眞鍋歩珠

ストーリー
昭和30年代の暮れ。
染色家の相澤知子(満島ひかり)が帰宅すると、一緒に暮らしている年上の作家・小杉慎吾(小林薫)から、木下という男(綾野剛)が訪ねてきたと告げられる。
木下とは、知子が結婚していた12年前に出会い恋に落ち、夫と子どもを置いて駆け落ちした相手だった。
大みそかの夜、風邪をひいて寝込む知子を小杉は優しく介抱していたが、妻の家へと赴く。
小杉には妻子があり、きっちりと週の半分ずつを両方の家で過ごしている。
小杉との生活は8年になり、普段は安定した収入を持ち自立していることに自負を持つ知子だったが、このときばかりは寂しさがよぎった。
年が明けて快復した頃にかかってきた木下からの電話に、寂しさから、会いにきてほしいと言ってしまう。
その日から、小杉が妻の家に行っている間に木下と会い、小杉が帰って来たらいつもの穏やかな日々に戻る生活が始まった。
嫉妬に駆られた木下は、こんな関係がいつまでも続けられると思っているのかと問い詰めるようになるが、知子は木下との関係を断つことができないでいた。
木下の知子への執着が増す一方、知子は揺らぎないと思っていた小杉との生活に疑問を持つようになる。
ある日、小杉の妻からの手紙を見つけて読んでしまい、そこに込められた妻の愛情に触れてしまった知子は小杉の妻の家を訪ねるが、家に溢れる二人の生活を目にし、知子は逃げるように家を後にする。
その後、何事もなかったかのように知子の家に来た小杉は、大衆小説の仕事を引き受けたことを告げる。
軽蔑していた仕事をなぜ引き受けたのか責める知子を前に、居場所がないと泣き崩れる小杉。
二人ともこの関係に息苦しさを感じていたと気付いた知子は、一から人生をやり直そうと決心する。
そして夏の終わり、再出発を切った知子の前に、ある人が現れる……。


寸評
好きという気持ちに正直に生きる女と、彼女を受け止める男の三角関係、男の妻を加えた4角関係を描く。
相澤知子は愛することに正直な女である。
木下涼太を好きになった知子は夫も子供も捨てる。
「女のくせに」とののしる夫に、じだんだ踏んで「好きになったのよ!」と叫ぶ情熱的な姿を見せる。
それでいながら知子は、小杉に慰めの言葉をかけられたことから愛人生活を送るようになっている。
そしてその事に不満を持っているようではない。
むしろ満足しているようでもある。
一方の小杉は妻に愛人の存在を認めさせて、本宅と愛人宅を行き来しているいい加減な男である。
女に対していい加減な男だが、優しい面が女たちを引き止めているのかもしれない。
小杉夫婦と知子との三角関係は異様な関係だが、それはそれで上手くいっているようなのである。
男の小杉からすれば大満足の関係だろう。

しかし元恋人の木下が知子の目に現れてから、男女の関係におおらかと思われていた者たちが嫉妬心を芽生えさせていく姿は面白いと思うが、僕はイマイチ乗り切れないものを感じる。
登場人物たちはいい加減だし、男たちは情けないし、みじめったらしいので、僕には肩入れしたくなる人物が見当たらないのだ。
小杉は自分にとっては都合のいい関係を続けているだけで、木下に対しては他人の物を欲しがる情けない奴だと、自分の仕出かしていることを棚に上げて非難する。
挙句の果てには知子に一緒に死んでくれとすがる情けない一面を見せる。
さらに知子がなぜ奥さんに頼まないのかと問うと、彼女が可哀そうだからと答える情けなさである。
木下は知子に一直線のような態度を取りながらも、小杉との関係をなじりだし知子を責めるようになる。
そこで知子から木下への気持ちは憐憫なのだと言い放たれてしまう惨めな男だ。
知子はそんな男を手玉に取るように二人の間を渡り歩く強い女に見えているが、小杉の奥さんと話すことで嫉妬心が燃え上がる普通の女に変心してしまう。
小杉の奥さんは電話の声のみで登場しないが、本妻としてのプライドが見て取れる。
木下に言われたように、相手は夫婦なんだからということに気持ちがメラメラとしてくる。
女学生のような手紙を見て嫉妬は最高潮に達してしまう。
僕は男なので、小杉の気持ちも木下の気持ちも分らぬではない。
しかし女心は分らんなあ。

一緒に死んでくれと言った小杉がその後どうなったのかわからないし、悟ったように新たな生活を始めようとした知子の筈なのに、あれれ、知子はまだ愛の遍歴を繰り返すのかといったラストで、知子は愛に正直な女と思えるが、同時に愛にだらしない女とも思える。
原作が瀬戸内晴美時代の瀬戸内寂聴なので、知子は恋多き女だった瀬戸内晴美その人だったのだろう。
そもそも「夏の終り」は自身の経験をもとに三角関係に苦悩する女性の姿を描いた小説なのだから、映画にも瀬戸内晴美を感じざるを得ない。

夏の妹

2022-12-19 08:31:01 | 映画
「夏の妹」 1972年 日本


監督 大島渚
出演 栗田ひろみ 石橋正次 りりィ 小松方正
   小山明子 戸浦六宏 殿山泰司 佐藤慶

ストーリー
休みも近い日、素直子(栗田ひろみ)の許に一通の手紙が届いた。
大村鶴男(石橋正次)という沖縄の青年からで、彼の父は、彼が小さい時死んだものだと思っていたが、最近、母から素直子の父菊地浩佑(小松方正)が鶴男の父らしいと知らされたというのである。
そして夏休みには沖縄へ遊びに来てほしい、と結んであった。
夏休みが来て、素直子は彼女のピアノの家庭教師で父が再婚しようとしている若い女性、小藤田桃子(りりィ)に鶴男のことを打ちあけ、鶴男を探しに二人で沖縄へ旅立つ。
船中で二人は、桜田拓三(殿山泰司)という老人と知り合ったが、彼は戦前、戦中の沖縄への熱い憧憬と深い贖罪の念を抱き、誰か自分を殺してくれる相手を探しに沖縄へ行く、と言うのであった。
那覇で素直子は沖縄語を観光客に教えて金を稼いだり、ギターで流す一人の若い男と知り合った。
その男こそ、実は鶴男なのだが勿論お互いに気付かない。
二人は兄妹のように、恋人同志のように親しさを増していった。
一方、桃子はホテルに届けられた鶴男から自分がいる場所と時間を記した素直子宛の手紙を受取った。
鶴男から素直子と勘違いされている桃子は素直子に黙って、ひそかに鶴男に会った。
鶴男は桃子を素直子と思い、また桃子は鶴男に惹かれていき、人違いであることを告白出来なくなる。
鶴男は素直子に兄を探して欲しいと頼まれることにより、妹だと思っていた女性が父であるかも知れない人の婚約者であることを知り、桃子を犯す。
その現場、優しく激しい二人のくちづけ、何も知らない素直子が物陰から目撃していた。
その頃、素直子の父菊地は那覇で国吉(佐藤慶)に会い、又鶴男の母ツル(小山明子)とも再会していた・・・。


寸評
復帰直後の沖縄で全編ロケーションされているので、車は右側通行で走っている。
本土と同じ左側通行になったのは、復帰6年後の1978年の7月30日であった。
僕は1977年に沖縄を訪れているが、当然その時はまだ右側通行だった。
レンターカーで沖縄本島を走ったが、右側通行に戸惑うことはなかった。
アメリカ統治の名残があって、ボコボコになった車体の車が平気で走っていた。
接触事故で傷ついた車をすぐに修理する本土との違いを感じた。

大島渚が青春映画を撮るとこんな風になるのかといった作品で、大島作品としては平和的な内容となっている。
素直子を演じる栗田ひろみの演技はダイコンと言ってさしつかえないものだが、はちきれんばかりの若さがそれを補って余りあるまぶしさを見せ、青春映画らしい。
しかし、この内容だと沖縄での全編ロケをする必要があったのかと思ってしまう。
あえて言えば、リリィの桃子をアメリカに、素直子を日本になぞらえていると思われるからかもしれない。
同様に戸浦六宏演じる殺す男は沖縄であり、殿山泰司演じる殺される男は本土になぞらえていると思われる。
鶴男は沖縄の象徴かもしれない。
そんな風に思わせるのは、鶴男と桃子がキスする現場を見た素直子が「チキショー! 沖縄なんか日本に帰ってこなきゃ良かったんだ」と叫ぶシーンがあるからだ。
大島はこの言葉を言わせたかったのかもしれない。
沖縄は復帰に当たって日本を選んだのだが、鶴男、桃子、素直子の関係を見ると、沖縄は日本ではなくアメリカを選んでいるように思える。
またラストで殺す男が殺される男に海に突き落とされているから、本土は沖縄を突き落としたことになる。
今に続く沖縄が抱える問題の縮図とも思えるが、いかんせん作品は深みに欠けパンチ力がない。

殿山泰司はなぜ殺されたいと思っているのか。
戦時中に自分が沖縄あるいは沖縄の人々にしたことへの贖罪意識なのだろうか。
戸浦六宏はなぜ殺したいと思っているのか。
殺したい相手は本土の人間なのだろうか。
彼が、あるいは沖縄人が戦時中に日本軍からひどい仕打ちを受けていたことへの復讐なのだろうか。
素直子と桃子は桜田老人の案内で沖縄観光をするが、行先はひめゆりの塔を始めとする戦没者施設である。
沖縄の墓も紹介されるが、一族の名前を汚した者や7歳以下の子供は葬られていないらしい。
そうだとすれば葬られていない子供たちも大勢いるのだろうと想像できる。
それらを見せられると沖縄を通じた戦争について、あるいは戦争の犠牲となった沖縄に対する思いが描かれていくものと思っていたら、映画が進んでいっても一向にそのような雰囲気は出てこない。
いつまでたっても素直子とリリィによる鶴男探しが続くのだ。
一堂に会する宴会シーンなどは何だったんだろうとさえ思ってしまう。
大島渚の作風は社会性や政治性が特徴だと思うし、大島映画にはそれを期待してしまうので、僕は彼の作品群の中で「夏の妹」は特異な作品だと感じる。

長い灰色の線

2022-12-18 09:37:36 | 映画
「長い灰色の線」 1954年 アメリカ


監督 ジョン・フォード
出演 タイロン・パワー モーリン・オハラ ウォード・ボンド
   ハリー・ケリー・Jr ロバート・フランシス ドナルド・クリスプ
   ベッツィ・パルマー フィル・ケリー ピーター・グレイヴス

ストーリー
ウェスト・ポイントの体育助教として50年間勤めて来たマーティ ・マー軍曹は、辞職命令に不服で、その撤回を旧友の大統領のところへ頼みに行き、昔の思い出話をする。
1903年、アイルランドからやって来たマーティ青年は、ウェスト・ポイントの給仕に雇われたが、やがて兵に志願してウェスト・ポイント勤務隊に配属され、ハーマン・ケーラー大尉に見出されて体育助教となった。
そしてケーラー家の女中のアイルランド娘メアリー・オドンネルと結婚した。
マーティはいずれアイルランドへ帰るつもりだったが、次第にウェスト・ポイントに愛着を感じて行った。
妻メアリーはマーティには内密に、彼の父と弟をアイルランドから呼び寄せた。
弟がニューヨークで成功し誘われたが、生れる子供をウェスト・ポイントに入学させたいと思って断った。
男子が生れたが、候補生たちが祝福してくれたのも束の間、その子は不幸にも死んだ。
自棄になったマーティは酒に溺れたが、候補生たちの温かい忠告に自己をとり戻すことが出来た。
レッド・サンドストロムという候補生が成績不良に悩んでいたのを、やさしく慰めて、学校の先生をしているキティ・カーターを相談相手に与えてやった。
第一次大戦が始まり、優秀な成績で卒業したレッドはキティと結婚したのち出征した。
大戦は勝利に終わったが、レッドは戦死し、キティは幼児を抱えて未亡人となった。
レッド・ジュニアはマーティ夫妻の庇護の下に成長し、1938年ウェスト・ポイントに入学した。
だが、卒業間際に女性とのことで間違いを起こし、自省ののち自ら退学して折からの第二次大戦に一兵卒として参加した。
メアリーは安らかに生涯を終えたが、マーティの周りにはいつも若い候補生たちがいた。
マーティの話は終わり、大統領はドットスン中将に善処を依頼した。
中将とマーティがウェスト・ポイントへ帰ると、マーティを待っていたのは彼へはなむけのウェスト・ポイント全員の大分列式で、思い出深い行進曲を胸にかみしめながら、マーティ老軍曹は感動の涙を拭うのだった。


寸評
マーティ・マーの半生を描いた作品というよりも、ウエストポイント陸軍士官学校賛歌と言った方がよい。
冒頭でウエスト・ポイントに50年間努めたマーティ・マーが、年齢により学校長から退職の辞令を受けたことを不服として大統領の所に抗弁に行き、映画は回想する形で彼の半生を描いていく。
大統領はアイゼンハワーで彼の教え子でもある。
時に滑稽なシーンを用意しながら叙情的に描いていく心温まるホットな映画となっている。
しかし、長い時系列の中で色んなエピソードが披露され、そのどれもが盛り上がりに欠けているので、ジョン・フォードとしては地味な作品である。
主演のタイロン・パワーを始め、主要な登場人物は若い時から歳をとるまでを違和感なく演じ分けていて、メイクも違和感のないものになっているのは素晴らしい。
ジョン・フォードはアイルランド移民の子で、そのためかアイリッシュ気質を丁寧に描いている。
ドナルド・クリスプがマーティの父親としてアイリッシュ魂を見せるのが愉快だ。

マーティは一本気だが生徒と同じ目線、姿勢で士官候補生に接するので生徒からとても愛されている男で、タイロン・パワーはそつなく演じている。
モーリン.オハラはいつものようにはにかみ屋で頑固、一途、そしてかしこい女性を明るく頼もしく演じていて、当初の無口な女性から、自分の一存で父親たちをアイルランドから呼び寄せ、やがてマーティを顎で使うようになるたくましい女性となっていく。
時間を飛ばして場面が変わっていくが、二人の変化は見ていて微笑ましいものがある。
フットボールの試合で新たな戦術としてホワード・パスが描かれているが、描き方がアッサリとしていて劇的戦術という風には感じなかった。
アメリカ人には周知の試合だったのだろうか。

陸軍士官学校の見学に訪れた若い州知事が「伝統ばかり重んじて現実とかけ離れている。今は戦時で若者が戦場で死んでいる」と批判する。
それを聞いたマーテイは「戦場で兵を指揮するのは誰か、ここの卒業生以外にいない。誰が作戦を立て指揮しているか。アイゼンハワーやマッカーサーだ。将軍は自然には生まれない、育てられたんです」と反論する。
彼の仕官候補生に掛ける情熱と共に、陸軍士官学校の重要性を訴えるシーンとなっている。
そしてまた、レッドが戦死して悲しむキティに「レッドは殺されたのではない。レッドは若い兵士の手本になったのだ」と諭し、遺族となったキティに「私たちも手本になる必要がる」と語らせている。
僕はプロパガンダを感じた。

冒頭から規律正しい陸軍士官学校の生徒たちの姿が描かれるが、エキストラは実際の生徒たちであったそうで、なるほど思わせる人数と整列だ。
圧巻は生徒たちが繰り広げる行進で、描かれるたびに整然とした隊列に身震いが起きる。
そして最後の大分裂行進が懐かしい行進曲に乗って延々と描かれる。
亡くなってしまった懐かしい人も一緒になって行進を眺めている光景は胸打つ。

長いお別れ

2022-12-17 08:44:28 | 映画
「と」が終わり、「な」に移ります。
最初は2019/11/26の「ナイル殺人事件」から「永い言い訳」「中山七里」「嘆きのピエタ」「ナチュラル」「夏の庭 The Friends」「ナバロンの要塞」「楢山節考」と続きました。

2回目は2021/8/2の「ナイロビの蜂」から「眺めのいい部屋」「凪待ち」「嘆きのテレーズ」「NANA」「浪花の恋の物語」「名もなきアフリカの地で」「名もなく貧しく美しく」「南極料理人」を紹介しています。
興味のある方はバックナンバーからご覧ください。

「長いお別れ」 2019年 日本


監督 中野量太
出演 蒼井優 竹内結子 松原智恵子 山崎努 北村有起哉
   中村倫也 杉田雷麟 蒲田優惟人

ストーリー
2007年秋。東京郊外の東家の母・曜子(松原智恵子)は、離れて暮らす娘たちに電話をかけ、父・昇平(山﨑努)の70歳の誕生パーティーに誘う。
長女・麻里(竹内結子)は夫の新(北村有起哉)の転勤で息子・崇(蒲田優惟人)とともにアメリカに住んでいる。
次女・芙美(蒼井優)は、スーパーで働きながら、カフェ経営の夢も恋人(松澤匠)との関係もうまく行かず、思い悩んでいる。
久々に顔を揃えた娘たちは、中学校校長も務めた厳格な父が半年前に認知症になったことを母・曜子から告げられ、動揺を隠せない。
2009年夏。移動ワゴン車でランチの販売を始めた芙美は売り上げが伸びず悩んでいた。
一方、夫の転勤でアメリカ暮らしの長女・麻里は、いつまでたっても現地の生活に馴染めず、思春期の息子のことも気がかり。
麻里は夏休みを利用して崇とアメリカから帰省する。
昇平は「帰る」と言って家を出て行ってしまうことが増えた。
崇が昇平を探しに行くと、昇平は芙美の中学時代の同級生・道彦(中村倫也)と一緒にいた。
そこに移動ワゴン車の芙美が合流し、父の思わぬ行動でお客さんが列をなした。。
昇平が生まれ育った家に帰りたがっているのではないかと考えた麻里は、両親と崇を連れて昇平の生家に向かう。
そこで、東京オリンピックの年に出会った両親の思い出を聞く。
2011年春。芙美は同級生でバツイチの道彦(中村倫也)と付き合い始め、道彦の母親(倉野章子)も店を任せても良いと道彦との結婚を望むような発言をする。
しかし、離婚した妻と娘と楽しそうに過ごす道彦の姿を見て終わりを悟る。
ある日、再びいなくなった昇平を、持たせていたGPS携帯を頼りに探しに行く。
昇平は遊園地で、知らない子どもとメリーゴーランドに乗っていた。
曜子は、その昔遊園地で娘たちと遊んでいると、雨が降りそうだからと昇平が迎えに来てくれたことを思い出す。
2013年秋から冬。芙美は再びスーパーで働き始めていた。
そんな折、曜子が網膜剥離で入院することに。
昇平の世話を買って出た芙美だったが、想像以上に大変だった。
曜子の手術は成功し、順調に過ごしているかのように見えたある日、昇平が骨折して同じ病院に入院する。
麻里は反抗期の崇(杉田雷麟)や、家族の問題に無関心な新との関係に疲れ切っていた。
ほどなくして昇平の容態が悪化し、麻里は帰国する。
母・曜子、長女・麻里、次女・芙美が揃ったところで医師(小市慢太郎)から人工呼吸器をつけるかどうかの選択を迫られた。


寸評
認知症のことを「長いお別れ」ということを崇の先生が最後に教えてくれる。
映画「長いお別れは」認知症を扱った作品だが、認知症の深刻さや悲惨さを前面に出した内容ではない。
むしろ笑いが満載の映画と言っても良い。
認知症になった昇平の言動が笑いを生み出す。
昇平の学生時代からの友人だった中村が亡くなり、芙美と一緒にお通夜に行った昇平は死んだ人が友達の中村だとは分かっていない。
同じく参列していた友人の荻原は弔辞を昇平に頼むが、昇平が認知症だと知り「やはり俺がやる」というくだりは笑わせるが、その後で涙を誘うシーンが用意されている。
昇平は柔道部で一緒だった中村の位牌に向かい「1本!勝者、中村!」と叫ぶ。
参列者はあっけにとられるが荻原だけは拍手を送る。
僕は男の友情を感じて泣けた。

昇平は認知症だが天然ボケともいえるのが明るい妻の曜子である。
何かといえば子供たちを頼り、長女の麻里がアメリカに居るのでしわ寄せは次女の芙美に及ぶ。
頼りなさそうな曜子だが、夫を信頼し尊敬しているらしく認知症が激しくなっても昇平に優しく接している。
その様子は幸せな夫婦生活を送って来ていたのだと思わせるに十分なものだ。
記憶を失った昇平が、もう一度曜子にプロポーズするシーンは感動ものである。

しかしアメリカ暮らしの長女・麻里は、いまだに英語が理解できないこともあって、現地の生活に馴染めず夫との関係もギクシャクしている。
夫が家庭に無関心なのは父親と同じようなのだが、どうも無関心の本質が違うようだ。
判断能力のなくなった父親に悩みを打ち明ける場面には胸が詰まった。
次女の芙美はカフェを開く夢を抱きながらも恋愛につまずくが、行方不明となった昇平を見つけてくれた道彦との新しい恋に出会う。
認知症の昇平が娘に力を与えたということだ。
ところが芙美は厳しい現実を突きつけられる。
4歳の子供が会いたいと言ってきたので出かけた道彦は別れた妻と楽しそうにやっている。
オマケに道彦との結婚を持ちかけてきていた母親も、離れていた孫娘と出会い嬉しそうなのだ。
家族のきずなの強さを見せつけられ、芙美もまた父親に心の内を吐露する。
娘たちは父親が認知症になっても、やはり父親が頼るべき存在なのだ。
認知症にもかかわらず、いやそれだからこそ、娘たちは父の前でありのままの心情をさらけ出すことができたのだ。
いい家族なのだ。

「長いお別れ」は認知症のドラマではなく、家族の再生と絆のドラマなのだ。
死はけっして終わりではないということだ。
昇平がもたらした家族の絆は次の世代にも受け継がれていくことだろう。
新の思いやりによる麻里との修復、芙美に届いた大畑雄吾からのジャガイモがそれを暗示している。
崇は認知症の昇平と心を通わせていたのだろう。
昇平は崇にお別れの手を挙げたのかもしれない。
崇はきっと両親と打ち解け、自分の道を歩んでいくのだろう。
この映画のキャストはいずれも素晴らしい。
特に山崎努と松原智恵子の両ベテランの演技は必見。
竹内結子と蒼井優の姉妹はうらやましいくらいの関係を見せてくれている。