おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

たそがれ清兵衛

2019-10-16 08:33:47 | 映画
「たそがれ清兵衛」 2002年 日本


監督 山田洋次
出演 真田広之 宮沢りえ 小林稔侍
   大杉漣 吹越満 伊藤未希
   橋口恵莉奈 尾美としのり
   田中泯 岸恵子 波哲郎

ストーリー
井口清兵衛は幕末の庄内、海坂藩の平侍。
妻を病気で亡くし、二人の娘とボケの進む老母の3人を養っている。
生活は苦しく、下城の太鼓が鳴ると付き合いは断ってすぐ帰宅し、家事と内職に励む毎日。
そんな清兵衛を同僚たちは陰で“たそがれ清兵衛”と呼んでいた。
そんなある日、清兵衛は数少ない親友・飯沼倫之丞から、清兵衛とも幼なじみの妹・朋江が、嫁いだばかりで離縁したことを聞かされる。
夫の酒乱が過ぎ見かねた倫之丞が離縁させたのだというのだ。
酒乱の夫・甲田に離縁された朋江の危難を救ったことから、剣の腕が立つことを知られた彼は、藩命により上意討ちの手に選ばれてしまう。
秘めていた想いを朋江に打ち明け、一刀流の剣客・余吾の屋敷を訪れた清兵衛は、壮絶な戦いの末に余吾を倒し、その後、朋江と再婚した清兵衛だが、幸せも束の間、彼は戊辰戦争で命を落とすのだった。


寸評
物語は清兵衛(真田広之)の末娘である晩年の以登(岸恵子)の語りですすめられる。そして最後に次のように語る。
「たそがれ清兵衛は不運な男だった」とおっしゃるのをよく聞きましたが、私はそんなふうには思いません。父は出世などを望むような人ではなく、自分のことを不運だなどとは思っていなかったはずです。私たち娘を愛し、美しい朋江さんに愛され、充足した思いで短い人生を過ごしたにちがいありません。そんな父のことを、私は誇りに思っております。

このことは、みすぼらしい身なりを藩主に注意されたことを詰問に来た本家の叔父である井口藤左衛門(丹波哲郎)に対して清兵衛自身の口からも「叔父さんが思っているほど惨めで、不幸せではない」と同様の言葉が発せられている。
つまるところ、貧乏、出世、身なりなどの物質的欲望の充足が人の幸せにつながるのではなく、当人の意識及び精神的な充実感が本当の幸せなのだと訴える。
また子供たちも「お前たち、お母さんがいなくて寂しいか?」との清兵衛の問いかけに、「お父さんがいるから寂しくない」と答えている。
 その母親は清兵衛よりは身分が上の出で、死ぬまで一生懸命働いて出世することを夢見ていた人で、どうも清兵衛はそのことを不満に思っていたようだ。
そして、親友の妹で幼馴染の朋江(やはり身分は上らしい)をひそかに想っていたことも語り明かす。
朋江(宮沢りえ)も清兵衛と同じ価値観を有していたようで、二人は一緒になり幸せな生活を得たという。
朋江は子供たちを女手でひとつで育てて一生を終え、それを感謝した晩年の以登が朋江の墓参りを行い冒頭のナレーションで終わる。

そこでふと思うのだが、代償としての幸せとは何だったのか?
映画の中では、貧しそうな清兵衛一家と、そのことは気に留めていないようなそぶりが描かれている。
そしてどうやら清兵衛は人より秀でた剣術の技を持っているらしいのだが、別段それを見せびらかすわけでもない。
そのようにして世間と隔絶したような生活に勝る幸せとは何だったのか?
それが私には伝わらなくって、なんだか見終わっておなか一杯食べ損なったような気分になった。

山田洋次監督作品としては、以前撮った「家族」などのほうが文字通り家族愛が描かれていたのではないかと思う。
貧乏人なので月代(さかやき)が伸び放題になっているなど、主人公の薄汚さなどが今までの時代劇にない雰囲気を醸し出している。
さすがに山田作品だけに丁寧に撮られていて、子供たちと遊ぶシーンの宮沢りえなどもなかなか良かった。
死闘を終えて無事帰ってきた清兵衛を迎え「心配していた」と告げる、どちらかと言えば淡々とした演技が魅力的だった。
彼女は主演女優としての大芝居をやる時よりも、さりげないシーンに存在感を見せる人だと思うのだが・・・。

時代劇映画があまり撮られなくなっていたが、この作品のヒットによりその後時代劇作品が以前よりは制作されるようになった功績は大きい(特に藤沢作品の多さが際立っている)。

タクシードライバー

2019-10-15 08:33:14 | 映画
「タクシードライバー」 1976年 アメリカ


監督 マーティン・スコセッシ
出演 ロバート・デ・ニーロ
   シビル・シェパード
   ピーター・ボイル
   ジョディ・フォスター
   アルバート・ブルックス
   ハーヴェイ・カイテル
   ジョー・スピネル
   マーティン・スコセッシ
   ダイアン・アボット
   ヴィック・アルゴ
   レオナルド・ハリス

ストーリー
トラビス・ビックル(ロバート・デ・ニーロ)はニューヨークのタクシーの運転手である。
ある日、トラビスは大統領候補パランタインの選挙事務所に勤める美しい選挙運動員ベッツィ(シビル・シェパード)に目をつけ、数日後に選挙運動に参加したいとベッツィに申し込み、デートに誘うことに成功した。
だが、デートの日、トラビスはこともあろうに、ベッツィをポルノ映画に連れて行き、彼女を怒らせてしまった。
毎日、街をタクシーで流すトラビスは、「この世の中は堕落し、汚れきっている。自分がクリーンにしてやる」という思いにとりつかれ、それはいつしか確信に近いものにまでなった。
そんなある日、麻薬患者、ポン引き、娼婦たちがたむろするイースト・ビレッジで、ポン引きのスポート(ハーヴェイ・カイテル)に追われた13歳の売春婦アイリス(ジョディ・フォスター)が、トラビスの車に逃げ込んできた。
トラビスはスポートに連れ去られるアイリスをいつまでも見送っていた。
やがて、トラビスは闇のルートで、マグナム、ウェッソン、ワルサーなどの強力な拳銃を買った。
ある夜、トラビスは食料品店を襲った黒人の強盗を射殺した。
トラビスはアイリスと再会し、泥沼から足を洗うように説得する彼は、運命的な使命を信じるようになった。
大統領候補パランタインの大集会にサングラスをかけモヒカン刈りにしたトラビスが現われ、拳銃を抜こうとしたところでシークレット・サービスに発見され、トラビスは人ごみを利用して逃げた。
トラビスはスポートの売春アパートを襲撃し、スポートをはじめ、用心棒、アイリスの客を射殺したが、トラビス自身も銃撃を受けて瀕死の状態になった。


寸評
トラビスはベトナム戦争の帰還兵であるが、どんな戦場であれ帰還兵の精神は異常をきたしており、経験したストレスに悩まされる姿を報じられたり、描かれたりして来ている。
トラビスもそんな後遺症を内在した男である。
危険を気にもかけず、どんな客でも乗車拒否せず、どんなところへでも乗り入れるタクシードライバーとなる。
目を付けた女性には強引に近づく。
やっとデートの約束を取り付け映画館に行ったのだが、その映画はポルノ映画で女性に愛想をつかされる。
眠れない自分が入り浸っていたとは言え、初デートにポルノ映画に誘う神経は異常だ。
あばずれ女ならその後を誘う手段にもなるのだろうが、相手は大統領選を手伝うレディであること思うと、その行動の異常さが分かろうと言うものだが、どうやらその異常性をトラビスは気付いていないようなのだ。
再度気を引こうと花束などを送るが無視され、その事に切れるのだから身勝手もいいとこだ。

トラビスは偶然大統領候補を乗客にした時にも街をクリーンにすることを語るので、彼のその思いは変質的なまでに昇華していたのだろう。
その狂気性をデ・ニーロの不気味な表情と、ダウンタウンの夜の明かりが浮かび上がらせる。
そこから醸し出される雰囲気が作品全体を覆いつくしていく凄みがこの映画にはある。
トラビスの狂気ぶりと変質者ぶりがエスカレートしていき、ガンマニアのように銃器を購入し、取り扱いのアクションを鍛えていくのだが、こうなってはもはやトラビスは”オタク”の世界に入り込んでしまっている。
トラビスの狂気性は幼稚性を兼ね備えていることで、政治思想などとは関係なく大統領予備選候補のパランタインを暗殺しようと行動に出る。
暗殺動機は自分を振ったパランタインの運動員ベッツィに対する腹いせであることが幼稚性を表している。
頭をモヒカン刈りにして、その気分に浸って笑みを浮かべるトラビス=デ・ニーロの姿が気味悪い。
すさんだ世の中になると、このような気味の悪い人間が自然発生的に生まれてきてしまうかのようである。
存外、テロリストなどはこのような単純分子なのかもしれないなと感じてしまう。

暗殺に失敗したトラビスは、今度は方向を変えてアイリスを食い物にしている男たちをターゲットにする。
パレンタイン暗殺と違って、汚れた街を自分がクリーンにしてやるという本来の思いに立ち返ったものだろう。
矛盾に満ち堕落した世の中で、なんとか自分だけは正義でありたいと願う男の行動ではある。
犯行は狂人が起こした無差別殺人のようにも見えるものである。
駆けつけた警官の目にはきっとそのように映ったはずだ。
トラビス自身も標的者から銃弾を浴びていて、警官に見せる態度はもはや狂人だ。
しかしここである種の奇跡が起きて、彼はヒーロー扱いされることとなり、ベッツィとの仲も修復されそうな雰囲気になるが、トラビスは冷静な態度をとる。
かれは正常に戻ったかのような描かれ方なのだが、バックミラーに移った夜の明かりの中に見せる一瞬の表情は、まだまだ彼の中に狂気が潜んでいるjことを思わせた。
一人のタクシードライバーの物語であると同時に、帰還兵の精神に潜んでしまっている狂気の物語でもあり、大都会の闇の一面を描いた作品として、マーティン・スコセッシを映画史にとどめる力作となっている。

太陽を盗んだ男

2019-10-14 10:00:38 | 映画
「太陽を盗んだ男」 1979年 日本


監督 長谷川和彦
出演 沢田研二 菅原文太 池上季実子
   北村和夫 神山繁 佐藤慶
   風間杜夫 小松方正 汐路章
   水谷豊 西田敏行 伊藤雄之助

ストーリ
東海村の原子力発電所が一人の賊に襲われた。
警察庁長官の「盗難の事実は一切ない」という公式発表に山下警部は疑問を抱いていた。
その頃、中学の物理の教師、城戸誠は、自分の部屋で、宇宙服スタイルで原爆を作っていた。
城戸は完成した原爆の強大な力で、警察に「テレビのナイターを最後まで放映しろ」と要求、連絡相手を山下警部に指名した。
何故なら、東海村襲撃の下見をかねて生徒たちと原発を見学した帰り、機関銃と手榴弾で武装した老人にバスジャックされたとき、生徒を救出し、弾を受けながら犯人を逮捕した男が山下で、教師に飽きた自分と比べ、仕事に命を張った山下に魅力を感じたのだ。
その日のナイターは最後まで放映された。
城戸の第二の要求は麻薬で入国許可の下りないローリングストーンズの入国許可、ローリング・ストーンズの日本公演をラジオ番組を通じて要求する
次に城戸は原爆を作るのにサラ金から借りた五十万円を返すために五億円を要求した。
金の受け渡しに犯人と接触出来ると、山下は張り切った。
金を受けとったとき、警察に包囲された城戸は、札束をデパートの屋上からばらまいた。
路上はパニックと化し、そのドサクサに城戸は何とか逃げ出す。
やがて、城戸は武道館の屋上で山下と再会、二人はとっくみ合ううち、路上に転落、山下は即死するが、城戸は原爆を抱いたまま木の枝にひっかかって命びろい。
タイムスイッチのセットされた原爆を抱いて街を歩く城戸。
そして城戸の腕の中で、強烈な光が……。


寸評
原爆や水爆を描いた作品は例えば「黒い雨」や「第五福竜丸」のように重くなりがちだが、「太陽を盗んだ男」はポップな感じのエンタメ性に富んだ作品となっている。
主人公を演じる沢田研二は1960年代後半に大流行したグループサウンズのバンド「ザ・タイガース」の人気ボーカリストだったが、アイドルグループとしての出演作と打って変わって、この作品においてはじめて演技者としての力量の片りんを見せていると思う。
風船ガムをしょっちゅう膨らませて、けだるい雰囲気を出すスタイルが印象に残る。

主人公がアパートの一室で原爆を作る過程が本当かどうか分からないが丁寧に描かれ、、菅原文太演じる刑事との攻防がリアリティをもって描かれる一方で、バスジャック犯の描き方とか、原爆を警察から奪還するといった重要なシーンがコミカルに処理されているというアンバランスが不思議な魅力となっている。
原発からのプルトニウム強奪シーンは映画の見せ場としてアクションが繰り広げられてもいいのだが、それを施設への侵入から強奪、警備員との銃撃戦までをストップモーションの連続で描いていく手法がスタイリッシュでかっこいい演出となっている。

城戸は理科の先生としてあまり授業に熱心ではないが、こと原爆のことになると受験に関係ないにもかかわらず我を忘れて説明しだす原爆オタクにすぎない。
自分が何をやりたいのかも分からず、せいぜい野球中継の延長やローリングストーンズのコンサート実現を要求する程度の男なのだ。
最後に爆発音が入るが、僕は原爆は爆発していないと思う。
「博士の異常な愛情」では爆発シーンが最後に描かれていたのを思い出した。
山下警部がビルの屋上から突き落とそうとしたときの往生際の悪さから見て、自ら爆発させることなどできず、放射能に犯されみじめに死んでいったと勝手に想像している。
そのみじめったらしさを感じさせた沢田研二はなかなかいい。
城戸はシラケ世代の代表者なのかもしれない。
それにしても池上季実子の沢井零子という存在は何だったのだろう。
面白ければなんでもいいというラジオやテレビへの当てつけか、それともマスコミは何をやっても許されると言う思い上がりへの警鐘だったのだろうか。
彼女の主張がよく分からなかった。

この映画は、スタッフとして制作進行に黒沢清、助監督に相米慎二の名前が見られるスゴイ映画なのだ。
そして今では考えられないようなゲリラ撮影が行われた作品でもある。
無人の首都高速で繰り広げられる犯人と警察のカーチェイス・シーンは、スタッフの車数台で首都高速の入口を塞いで意図的な渋滞を起こして撮ったらしいし、女装した犯人の国会議事堂への潜入シーンなども撮影許可を取らずに行ったものとのことである。
長谷川和彦がこれだけの作品を残して沈黙を守ってしまったのは残念だ。
だから余計にこの作品に愛おしさを感じてしまうのかもしれないが・・・。

太陽がいっぱい

2019-10-13 14:00:19 | 映画
「太陽がいっぱい」 1960年 フランス / イタリア


監督 ルネ・クレマン
出演 アラン・ドロン
   マリー・ラフォレ
   モーリス・ロネ
   エルノ・クリサ
   ビル・カーンズ
   フランク・ラティモア
   アヴェ・ニンチ

ストーリー
トム・リプレイは、フィリップと酔っぱらって近くの漁村モンジベロからナポリに遊びにきた。
トムは貧乏なアメリカ青年だ。
中学時代の友人・金持のドラ息子フィリップを、五千ドルの約束で父親から頼まれて連れ戻しにきたのだ。
フィリップにはパリ生れのマルジェという美しい婚約者がいた。
ナポリから帰ると、フィリップが約束の手紙を出さなかったからアメリカから契約をやめる手紙が来ていた。
友人のパーティーに向うヨットの上で、トムはますます彼からさげすまれた。
フィリップとマルジュはトムが邪魔になっていた。
彼は決意し、まず小細工をして、マルジュとフィリップに大喧嘩をさせた。
彼女が船から下りたあと、フィリップを刺し殺し、死体はロープで縛り、海へ捨てた。
陸へ上ると、彼はフィリップになりすました。
ホテルに泊り、身分証明書を偽造し、サインを真似、声まで真似、金も衣類も使った。
ヨットを売り払う交渉も、親元からの送金を引き出す仕事もうまくいった。
ホテルにフィリップの叔母が現れたが、姿をくらますことができ、別の下宿に移った。
そこに、フィリップの友人が訪ねてきて、何かを察したようだった。
トムは平生から憎んでいたその男を殺し、死体を捨てたが、それは発見され、刑事が調べにきた。
死体確認に集った時、トムはマルジェにフィリップはモンシベロに戻ったと告げた。
トムはモンジベロの家にその夜いくと、フィリップが書いたと思わせる遺書を書き、全部ひき出した預金をマルジェに残して自殺したことにした。
彼は元のトムに戻り、傷心のマルジェをいたわり愛を告げ、結婚することになったのだが・・・。


寸評
少し前の世代はもとより、僕たちの世代になっても美男スターと言えばアラン・ドロンだったのだが、アラン・ドロンは単なるカワイ子チャンのアイドルスターではなかった。
美形でありながら精悍な部分も持ち合わせ、合わせて演技派としての雰囲気も持ち合わせていた稀有な俳優だったと思う。
この作品でも24歳の彼は遺憾なくその持てる魅力を出して作品の成功に寄与している。

先ずはフィリップとトムの放蕩ぶりが描かれるが、二人は友人というよりは上下関係にあることが分かってくる。
フィリップはトムを便利使いしていて、トムはそのことを不満に思っているが表には出さない。
二人の関係が徐々に壊れていく描き方も中々のものである。
トムは隙を見てフィリップの靴を履きジャケットを着てみるが、それをフィリップに見つかる。
そこからはトムがフィリップに抱いていく殺意が徐々に膨らんでいくのだが、そのあたりの二人の心理描写が巧みで、観客である僕たちは彼の心の奥底を読み取るようになっていく。
ヨット上で起こる出来事でサスペンスとしての盛り上がりを見せる。
マルジュが下船し、二人きりになったところでトムがフィリップを殺害すると海は荒れ始める。
死体の後始末をするトムの様子と、波しぶきと共に大きく揺れるヨットの映像が興奮を掻き立てる。
一連の映像処理はクレマンの力量発揮したシーンとなっていた。

その後はいかにしてトムがフィリップに成りきるかに興味が移る。
パスポートを偽造し、サインを真似るために練習を繰り返す。
声まで真似するようになるが、その間にピンチがないわけではない。
それらのピンチをあの手この手で切り抜けていくが、それも心理的に迫ってくるような描き方だ。
最大のピンチは第二の殺人を犯さざるを得ない状況に追い込まれてしまったことなのだが、すでにフィリップに成り切っている彼は「フィリップがやったことなのだ」と、さらに状況証拠作りを行っていく。
サスペンス映画としては一番それらしく仕上がっているシークエンスだ。
やがて刑事が現れ、興味はトムが逃げ切れるか、すなわち欺き通すことが出来るかが焦点となる。
状況の変化に無理がなく、徐々に徐々にと映画の世界に引き込まれていく演出は巧みだ。

トムとフィリップは自分が持っていないものを相手が持っているという妬みをお互いに抱いているのだが、そのホモセクシャル的な関係が物語の底辺を支えていた。
二人の間に割って入るマルジュの性格設定もスパイスを効かせていたと思う。
目のアップが随所に出てきて、当人達が今何を考えているのかと推察させる。
パターンとしては、完璧と思われたことがほころびを見せ破局へ向かうのが通常だ。
そう思って見ているが、もしかして成功するのではと思えてくるほどトムの筋書きは上手くできている。
さげすまれていた彼が「太陽がいっぱいで今が最高だ」という気分になったところで映画は終わるのだが、ラストシーンで呼び出されたトムが見せる笑顔がその後を想像させ素晴らしい。
二ノ・ロータのテーマ音楽はそんなに流れないのに耳に残る名曲だ。

太陽

2019-10-12 08:04:44 | 映画
「太陽」


監督 アレクサンドル・ソクーロフ
出演 イッセー尾形 佐野史郎 つじしんめい
   ロバート・ドーソン 田村泰二郎
   ゲオルギイ・ピツケラウリ 桃井かおり
   守田比呂也 六平直政 西沢利明
   戸沢佑介 草薙幸二郎 津野哲郎
   阿部六郎 灰地順 伊藤幸純 品川徹

ストーリー
1945年8月。宮殿はすでに焼け落ち、昭和天皇ヒロヒトは地下の退避壕か、唯一被災を免れた石造りの生物研究所で生活を続けていた。
食事を終え、御前会議を前に、侍従長たちの手を借りて身支度を整える天皇。
天皇を“神の子孫”という侍従たちに、天皇は「私の身体も君たちと同じだ」と笑う。
戦況は逼迫していたが、彼は戦争を止めることができなかった。
御前会議では、陸軍大臣が必死形相で本土決戦の説明を行う。
だが、天皇は心から平和を願っていた。
戦争はなぜ始まったのか? そしてどうして回避できなかったのか?
その苦悩は悪夢に姿を変え、午睡の天皇に襲いかかる。
巨大なサカナとなった米軍の爆撃機が、小魚の焼夷弾を大量に産み落とし、東京があっという間に炎に包まれていく……。
うなされるように目を覚ました天皇の言いようもない孤独。
彼は、疎開先で離れて暮らす皇后と皇太子たちのアルバムを見つめ、家族に想いを馳せる。
やがて、連合国占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見の日が訪れる。
彼は、ひとつの決意を胸に秘めていた…。


寸評
御前会議での詰問や、マッカーサーとの有名な写真、或いは玉音放送などは出てこない。
我々日本人がよく知っているこれらの事柄が出てこないのだから、この映画は歴史検証の映画ではなく、特殊文化をもった神国日本を舞台にした、神だった人が人間に戻る人間ドラマだ。
侍従長の佐野史郎も頑張っていたけれど、印象的にはイッセー尾形の一人芝居の感があった。
口をモゴモゴして喋る話し方や、「あっそう」という口癖など、昭和天皇になりきっていた。
その適役ぶりは「明治天皇と日露大戦争」における嵐寛寿郎の明治天皇をしのぐものがあった。
僕が育った家の床の間の上には、若き日の天皇陛下と皇后陛下の写真が飾ってあった。
子供心に凛々しい人だと思っていた残像があるので、皇后に見せる人間らしい仕草が微笑ましかった。
明治天皇の歌を引用し、明治天皇と同じく平和を願う気持ちを発していたが、昭和天皇にとって偉大な人は、摂政を務めた大正天皇ではなく明治天皇だったのだろう。
戦中、戦後直後とは思えない別世界を描いていたのは、戦争責任とかの主張を排除して、神であった天皇が苦悩しながら人間になる様を描いていた。
人間宣言を録音した技師が自決したことを聞いて立ち尽くす姿は、現人神として多くの人を戦地で死なせ、今また人間宣言をしても一人の人間を死なせた苦悩を表していたと思う。
阪神淡路大震災の慰問の時に避難民が見せた村山首相に対する態度と、天皇・皇后に対する態度の違いを見ると、国民の天皇に対する無意識のうちの畏敬の念を感じた。
それから連想するに、天皇は戦後の日本にとって再出発を飾る上での、暗闇を照らす太陽足りえたのだろうと想像する。
ロシア人が描いた天皇としてはよく描けていたし、違和感などなかった。
そして、侍従が言う大正13年の侮辱とは、アメリカの排日移民法を指し、人種差別に対する抗議だと思われる。
それを言わせているということは、ロシア人は大東亜戦争を人種差別の撤回とアジアの開放だったと認めたことになるのでは?

大菩薩峠 完結編

2019-10-11 13:29:24 | 映画
「大菩薩峠 完結編」 1959年 日本


監督 内田吐夢
出演 片岡千恵蔵 中村錦之助 長谷川裕見子
   月形龍之介 浦里はるみ 丘さとみ
   山形勲 岸井明 加賀邦男 星美智子
   東千代之介 喜多川千鶴 左卜全

ストーリー
将軍家直領二十五万石、甲府の街で机竜之助は枯草に覆われたつつじが岡の荒屋敷に起居している。
勤番支配・駒井能登守に私怨を抱く神尾主膳の命ずるまま、彼の剣は、甲州街道でいくつかの命を断った。
兄の仇である竜之助を求める宇津木兵馬は、主膳邸に出没した怪盗の犯行にこじつけられ、甲府城に捕われの身となった。
祖父を失ったお松も竜之助を追う一人で、兵馬の入牢を聞き、彼を救うべく主膳邸に住みこんだ。
主膳の狙う女は有馬家の娘お銀で、稀代の名刀伯耆の安綱とともに、つつじが岡の荒屋敷におびきよせた。
しかし、頭巾で覆われたお銀の半面は鬼女の相に等しかった。
お松の手から城内の絵図面を受取った裏宿の七兵衛は、持ち前の侠気から兵馬らを救った。
兵馬は能登守に迎えられ、流鏑馬八幡宮奉納試合に自ら買ってで、主膳召抱えの小森数之進を破った。
その帰途、能登守は竜之助にゆだねられた名刀安綱の切先に立った。
兵馬は能登守に代り竜之助に向ったのだが、竜之介は能登守を斬らず、兵馬の剣をさけた。
さらに主膳の焼打ちにあった竜之助は、お銀を伴い街道をさすらい、やがてその足は八幡村へ--。
宿命の神は、遂に竜之助をお浜の里へ招き寄せた。
水車小屋、お浜の幻影をそこに見た竜之助は、魔刀を一振り、また一人女が闇に消えた。
兵馬は元服していたが、幼少よりただ仇討一途に生きてきた彼とお松を結びつけた不思議な糸は、竜之助であったかも知れない。
二人は大菩薩峠に向った。
豪雨に狂う笛吹川で、盲の竜之助はその濁流の向うに、わが子郁太郎の泣き声を聞いた。
「危い郁太郎、父の手にすがれ……」憑かれたように、引きこまれるように、竜之助は水中に姿を消した。
それを見つめる兵馬らを包み、見下すものは屹然と立つ大菩薩の嶺であった。


寸評
竜之介は第二部でお徳に見せた人間らしさを失くし、再び狂人の如くになり果てている。
新たな女性としてお銀が登場するが、彼女は大資産家の娘であるが顔に大きなアザがあり、近寄ってくる男は皆財産目当てだと思っている。
神尾主膳は財産目当てで彼女と結婚しようと思っているが、彼女の顔を見ても財産のためなら顔の半分くらい目をつむると襲い掛かる。
それを救うのが神尾主膳に雇われた机竜之介である。
お銀は竜之介の目が見えないので嬉しいと彼に身を任せ、竜之介が起居する枯草に覆われた荒屋敷に居ついてしまう。
それでお銀の実家である有馬家が何も騒がないのはどうしたものか。
お銀は心配しなくても良いとの連絡を入れていたのだろうか。

お銀が持ってきた名刀伯耆の安綱を手に入れた竜之介は、お銀との愛欲の日々を送りながら夜半に出かけて試し斬りを行い、娘や老人を殺している。
斬りたいから斬るという精神異常性が再び顔を持ち上げたことが描かれる。
それこそ机竜之介そのものであり、初めに戻ったような感じだ。
このあたりから話は終結に向かって一気に走り出す。
牢屋に囚われている兵馬を助けるために、お松は神尾主膳の屋敷に女中として入り込み牢屋の図面を手に入れるが、それが勤番支配・駒井能登守の屋敷になくて、なぜ組頭の神尾主膳宅にあるのかよくわからない。
牢屋の支配は組頭の専権だったのだろうか。
兵馬は牢屋で幕府討幕の志士たちと知り合いになっているが、その内の一人は駒井能登守と共に学んだ知り合いで、牢破りをしながら逃げるわけにはいかないと元の牢屋に戻ることにする。
そんなユーモアのあるシーンもあり、またお玉が駒井能登守の死んだ妻に似ていて(星美智子の二役)、お玉が能登守に秘かな慕情を抱くといったほんわかムードも描かれて今までにない雰囲気を出す。

駒井能登守の配下となった兵馬は神尾主膳によって能登守暗殺を命じられた竜之介と対峙する場面を得るが、その企みが発覚するのを恐れた神尾主膳によって竜之介を連れ去られてしまう。
邪魔になった竜之介とお銀を殺そうとする主膳だが、能登守から悪事を指摘され江戸送りを命じられる。
逃れた竜之介は郁太郎の声を聞き笛吹川の濁流にのまれていく。
端折りすぎとも言えるぐらい早急な展開である。
目まぐるしく進んでいくストーリの中にあって、このシリーズに秘かに流れていた物を描き出すのが、大菩薩峠で地蔵を彫りながら郁太郎を育てている与八の登場からだ。
人を恨むことの無意味さを与八に語らせご詠歌が流れる。
ご詠歌の様な調べはお玉が引く三味線歌などでも用いられており、仏教の「和讃」を大いに感じさせる。
机竜之介は死ぬことで救われるのだとばかりに血の池地獄のような笛吹川に飲み込まれる。
それを決定付けるのがタイトルバックで、今まで上から下になめていた曼陀羅図を、地獄が描かれた下から天国が描かれた上へとカメラがパンしていくラストだった。

大菩薩峠 第二部

2019-10-10 08:00:53 | 映画
「大菩薩峠 第二部」 1958年 日本


監督 内田吐夢
出演 片岡千恵蔵 中村錦之助 長谷川裕見子
   月形龍之介 浦里はるみ 丘さとみ
   山形勲 岸井明 木暮実千代
   市川小太夫 里見浩太郎 加賀邦男
   星美智子 東千代之介 片岡栄二郎
   左卜全 上田吉二郎 

ストーリー
紀州竜神の池に近く、お豊(長谷川裕見子)の助けで失明の身を癒す机竜之助(片岡千恵蔵)は、再びお豊の亭主金蔵(片岡栄二郎)を斬り、伊勢古市に身をかくした。
お豊は旅篭備前屋に住み込み、竜之助の治療費をかせごうとするが、折しも宿泊した悪旗本神尾主膳(山形勲)に体を奪われ、自殺した。
その遺書をあずかった芸人娘お玉(星美智子)が、竜之助をたずねて出発しようとした朝、愛犬ムクがくわえているのは主膳の印篭だったので犯人と間違えられて追われる身となった。
彼女を助けたのは猿のような曲芸師米友(加賀邦男)であった。
お玉をのがした米友は捕まり、崖から突き落とされるという刑罰を受ける。
米友を助けたの は窃盗の真犯人・七兵衛(月形龍之介)で、医者(左卜全)の治療で米友は回復した。
お玉からお豊の死を知らされた竜之助は虚無僧姿で江戸へ出発、途中神尾主膳の愛妾お絹(浦里はるみ)にひろわれ、二人は駕篭で清水港へさしかかる。
お玉は女軽業師お角(沢村貞子)の一座に加わり、お君と名をかえるが、そこで再び米友と再会、一方兵馬(中村錦之助)たちも竜之助を追って東海道を上る。
竜之助は山間で、お絹を狙うがんりき(河野秋武)の手を切り落としたが、谷底に転落してしまう。
それを救ったのが、一子蔵太郎をかかえた若い後家の薬売りお徳(木暮実千代)。
山間に身をよこたえ、温いお徳のもてなしで、竜之助にも人間らしい心がよみがえるが、その時この山村を訪れたのが悪旗本の主膳で、郷士の婚礼に無理難題をもちかけ、路金をせしめようとする。
竜之助は槍をとって主膳の家来を殺すが、彼のかくれた魔性が再び頭をもち上げた。
「人を斬りたい……」そうつぶやく彼を、主膳は何と思ったか家来に加え、一路甲府へと向う。
主膳はこの度お役御免となり、後任駒井能登守(東千代之介)が甲府へ到着する予定だ。
主膳の心の中には、どういう計画が熟しているのだろうか。


寸評
どろどろとした人間関係が続くが、業を背負った机竜之介に加えて、素行の悪い旗本の神尾主膳が加わり、話はダイジェスト的に展開していく。
中里介山の原作がそうなのかもしれないし、長編小説を映画化するとこうなってしまうのか知れないが、つまみ食い的にエピソードが描かれフェードアウトで終わっていく。

先ずは殺した妻のお浜とうり二つの女お豊が描かれる。
彼女は竜之介に献身的で、竜之介の目の治療のために旅篭で住み込みの中居として金を稼いでいる。
それを神尾主膳に見染められ病気にもかかわらず酌婦として座敷に引っ張り出され手籠めにされてしまう。
それを悲しみ、竜之介への遺書と金、形見のかんざしをお玉に預けて自殺してしまう。
非業を背負ったような女だが、竜之介はそんなお豊に情けを示さない。
お豊の死を聞いても悲しまず、形見のかんざしもお玉にあげてしまい、神仏を顧みない竜之介の姿が描かれる。

お玉は追われる身となって旅の一座の一員となり、刑死するはずだった米友と再開するなど、一度登場した人物は消えては復活するなどして物語にやたらと登場する。
お玉は神尾主膳にも絡まれるのだが、神尾主膳も女がらみで度々登場する。
がけ下に落ちた竜之介は男児をかかえた若い後家のお徳に救われるのだが、考えてみると男女の間にある業も描きたいのか竜之介はやたらと女性に助けられる。
自分の子供と重ね合わせてお徳の子供を可愛がるが、戯れる姿は父と子の設定だが印象は孫と遊ぶ姿に見えてしまう。
千恵蔵御大の年齢を考えればやむを得ないところだな。
登場人物が多いのもこのシリーズの特徴だ(たぶん原作がそうなのだろう)。

竜之介はお徳の願いを聞き入れて無実の青年を助けようとするが、その時お徳の子供を人質に取られてしまう。
子供を助けるために槍を捨てるが、竜之介の非情性ならば子供の命など犠牲にしたのではないか。
一子郁太郎に対する愛情が湧き始めていたことの象徴だとも思うが、お徳との関係はいくら人間性を取り戻した竜之介の姿を描いていたとしても浮いたものだ。
ここから再び理由もなく人を斬る冥府魔道に落ちていくという展開に僕は少々違和感が生じた。
整理してみるとこの話は、机竜之介を兄の敵と追う宇津木兵馬がいつ対決するのかと、素行の悪い神尾主膳がどのように女をたぶらかすのかに別れているような気がする。
二つを微妙に結び付けるのが女たちという図式が見て取れる。
単純なチャンバラ映画とも言えるのだが、内田吐夢の演出はそうは思わせない無常の世界を描き出している。

圧巻はラストシーンである。
神尾主膳の行列に加わり籠に揺られる竜之介のアップから、突如その籠が四方に開くと真っ青な煙の中である。
その中で苦悩するかのごとく舞う竜之介の姿で第二部は終わる。
次作への期待を抱かせる印象的なラストシーンとなっていた。

大菩薩峠

2019-10-09 10:32:40 | 映画
「大菩薩峠」 1957年 日本


監督 内田吐夢
出演 片岡千恵蔵 中村錦之助 長谷川裕見子
   月形龍之介 大河内伝次郎 浦里はるみ
   丘さとみ 日高澄子 山形勲 波島進
   千田是也 岸井明 星美智子 永田靖

ストーリー
剣をとっては天下無敵の“音なしの構え”の机竜之助(片岡千恵蔵)だがの心の底には絶えず自分をさえ信じ得ぬ虚無の嵐が吹きまくっていた。
大菩薩峠で、何の理由もなく巡礼の老爺を斬捨てたのも彼にとっては一陣の突風のなせる業でしかない。
竜之助は奉納試合で宇津木文之丞(波島進)と対戦することになった。
夫の負けを覚悟した文之丞の妻お浜(長谷川裕見子)が龍之介に勝ちを譲ることを頼みに来た。
しかし竜之助はお浜を犯し、試合で文之丞を殺すと、お浜を連れて江戸へ向かってしまう。
それから四年、お浜を連れて江戸に出た竜之助には、一子郁太郎が生れていたが、剣の深淵に混迷する彼は血に飢え、魔心に狂い、地獄の業火にのたうちまわっていた。
その頃、文之丞の弟宇津木兵馬(中村錦之助)は兄の仇を討つべく、島田虎之助(大河内伝次郎)の道場で武芸を磨いていた。
兵馬はふとした機会にお松(丘さとみ)という娘と知り合いお互いに愛情を抱くようになったが、彼女こそ、あの大菩薩峠で竜之助に殺された巡礼の孫娘であった。
一方、竜之助は魔剣に魅せられお浜をその刃にかけてしまった。
そしてただ斬ることのみで新徴組に加担し京に上った竜之助はついに狂気となってさまよい、彼の通った道筋には無惨に斬られた死体が点々と転がっていた。
やっと正気に戻った大和路で彼はお浜と生写しの女、お豊(長谷川裕見子の二役)に出会った。
お豊は彼と江戸に向う日、彼女に横恋慕する男、金蔵(片岡栄二郎)によってかどわかされた。
いまは、善も悪もすべて虚空の彼方に追いやった竜之助は、蜂起に失敗した天誅組の中に身をおいた。
そして、残党狩りの追手の火薬に眼を焼かれ盲目となるが“音なしの構え”はいよいよ冴えていった…。


寸評
僕は中里介山の未完の大作「大菩薩峠」を読んでいないので何とも言えないが、この小説自体が宗教観を漂わせる人間の業と煩悩に満ちた作品なのかもしれない。
机竜之介という主人公はある意味で無差別殺人を繰り返す精神異常者である。
極悪非道の悪人でもなく、当然ながら正義の味方の善人ではない。
理由もなく老巡礼を斬り捨てるし、 神尾主膳(山形勲)のような女狂いではないが女も犯す。
それなのに逆説的に見れば、悩み苦しみながらも輪廻転生し生まれ変われる対象者のようにも感じる。
タイトルバックは仏教絵で、天女が舞う天国からか下りて行き延々と続く地獄絵図となる。
天国はわずかでほとんどが地獄絵となっていることを見ると、この世は地獄なのだと言っているようなのだ。
タイトルバックからして宗教的なものを感じさせる作品だ。

多彩な女が登場するのも特徴的で、女たちはあるときは善人らしく振舞っているのに、或る時に別人格に豹変する二面性を持っている。
宇津木文之丞の妻お浜は、家名大事なばかりに独断で机竜之助に勝ちを譲ってほしいと懇願に出向く。
行きがかり上「親兄弟、家名のためなら女の操も捨てる覚悟だ」と言ってしまい、龍之介に犯されることになってしまうのだが、それが原因で離縁されると犯した相手である竜之介のもとへ走る気性の激しい女である。

少女のお松は亡き母の妹である叔母の店山岡屋を訪ねるが知らぬふりをされる。
それを見かけた何かの師匠であるお絹(浦里はるみ)は当初お松を預かることにして育てるいい人として描かれているが、お松が成人してくると女に目がない神尾主膳に斡旋するという態度をとる。

山岡屋の女将である叔母は丁稚と出来ていて、そのことがばれて店を追い出され屋台を引いて生計を立てる身に落ちぶれているが、或る時難儀しているお松を救うが、やがて遊郭に売り飛ばしてしまう。
そんな風に登場する女は人の持つ二面性を調所で見せるのであるが、そのような二面性は事の大小はあれど誰しもが持っている人の業の様なものだ。

竜之介が殺してしまったお浜に生き写しのお豊が登場するが、心中を計って生き返って来た彼女はまさしく輪廻転生の象徴である。
お浜と違って従順で、非業を背負う竜之介に付き従い彼を非難するようなことはしない。
僕はもがき苦しみながら数奇な道を歩んでいく机竜之助に引き付けながらも、登場する女たちのエピソードに目が行っていた。

内田吐夢の演出はロケ撮影にセット撮影を組み合わせ、重厚な雰囲気を画面全体に漂わせている。
宇津木の追手を斬り伏せ、お浜と共にモヤが煙る松林の奥に消え去るシーンでは、そのモヤが緑色に染まるという演出を試みている。
この演出方法はその後「宮本武蔵シリーズ」や「人生劇場 飛車角と吉良常」でも用いられているから、お気に入りの演出方法となったのかもしれない。

大菩薩峠

2019-10-08 09:58:00 | 映画
「大菩薩峠」 1960年 日本


監督 三隅研次
出演 市川雷蔵 本郷功次郎 中村玉緒
   山本富士子 菅原謙二 根上淳
   見明凡太郎 笠智衆 島田正吾

ストーリー
秀麗富士を遠望する大菩薩峠の頂上。
黒紋付着流しの机竜之助(市川雷蔵)は、一刀のもとに居合わせた老巡礼を斬り捨てた。
この祖父の死に驚くお松を、通り合わせた怪盗裏宿の七兵衛(見明凡太朗)が助けて江戸へ向った。
一方、机道場に帰った竜之助を持っていたのは、字津木文之丞(丹羽又三郎)の妹と偽るその妻お浜(中村玉緒)で、御嶽山奉納試合の勝ちを譲れと願い出た。
お浜の言葉をはねつけ、その帰途を水車番の与八(真塩洋一)に襲わせた竜之助は、その小屋でお浜を犯す。
それから数日、奉納試合は文之丞の意趣で殺気をはらんだが、竜之助の音無しの構えは一撃にして文之丞を倒し、竜之助はお浜を伴って江戸へ。
この兇報に馳せ戻った文之丞の弟兵馬(本郷功次郎)は、竜之助の父弾正(笠智衆)から、妖剣音無しの構えを破るには並大抵の修行ではだめだと教えられ、剣聖島田虎之助(島田正吾)に正剣を学ぶため江戸へ向った。
江戸に出た竜之助は新撰組に出入りし、近藤勇(菅原謙二)、芦沢鴨(根上淳)らと知り合うが、ある夜、誤って島田虎之助に斬りかかった土方らが、虎之助の絶妙な剣の冴えに一蹴されたのを見て動揺する。
また七兵衛に救われたお松(山本富士子)は、生花師匠お絹の家で行儀見習いをするうちに、亀田道場へ通う兵馬と知り合い、恋し合うようになる。
ところで兵馬は、遂に竜之助を探し出し果し状を送ったが、竜之助はこれを知って兵馬に討たれてくれとたのむお浜を斬り、お浜との間に出来た一子の郁太郎を残して江戸を去った。
京都に入った竜之助は芦沢をたよって新撰組に入り、これを追うようにして現われた兵馬は近藤の世話で新撰組入りしたがここでも宿命の対立を見せた。


寸評
衣笠貞之助の脚本がしっかりしているし、三隈研次が堂々と撮っていて見応えがある。
雷蔵の机竜之介は、何の罪もない人を殺したりする彼に憤りを感じさせながら、その底に流れる行動力を見せて活動力のともなったニヒリストという雰囲気を出している。
これは年齢からくるものもあって、東映版の片岡千恵蔵には出せなかったものだ。

市川雷蔵の机竜之介は父親の大先生弾正からも見放される邪剣を使う狂人だが、それ以上の狂人ぶりを見せるのが中村玉緒のお浜である。
字津木文之丞の妹と偽った彼女は家名の為、肉親の為なら女の操も捨てると言っておきながら、水車小屋でいざその場面になると自分は文之丞の妻だとあかし、竜之介に抵抗する偽善性を見せる。
勝ちを譲るように願い出たこと、また竜之介に犯されたことで、お浜は字津木文之丞から離縁されると、自分を犯した竜之介を「憎し!」と言いながら、同時に夫であった文之丞を「ふがいない!」とも言い、たちまち机竜之介のもとに走る女なのだ。
大きな目を見開き、下から睨み上げるような視線で男にくってかかるすさまじい女で、雷蔵の机竜之介もいいが、この一部ではお浜の中村玉緒が存在感を見せている。

中山介山の原作がそうなのだろうが、幕末の剣士たちの名前が登場するのも興味をそそる。
新選組設立にかかわる清川八郎(登場しない)、近藤勇と芹沢鴨はこの映画でもすでに対立関係にある。
宇津木兵馬が支持する島田虎之助も実在の人物で、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉が知られているが、そっくりそのまま作品中でも述べさせている。

照明の岡本健一、撮影の今井ひろしによるシーンも印象的だ。
竜之介とお浜が対面している場面では、長時間に及んでいることを示すためにロウソクが部屋に持ち込まれてくるのだが、その時パッと部屋が明るくなる。
また竜之介とお浜は江戸で一緒に暮らして、郁太郎という子供も生まれているのだが、お浜のグチもあって二人の関係は気まずいものだ。
言い争いをして竜之介が出ていき、郁太郎に添い寝するお浜の後姿を映しながら、日が暮れたことを示すように外の明かりがすーと落ちていく。
非常に細やかな演出で、その丁寧さがこの作品を見せるものとしている。
一番は最後に竜之介が呑んでいる部屋の場面での照明とカメラワークだ。
薄暗い部屋で艶やかな着物を着た山本富士子と、モノトーン調の着物を着た市川雷蔵がいる。
山本富士子のお松が亡霊の存在を感じはじめ、雷蔵の竜之介が変調をきたしてくる。
竜之介は、ついには御簾やふすまを切り裂くようになり、半ば発狂状態である。
そんな見せ場を作り、最後は宇津木兵馬と竜之介の対峙でエンドマークとなる。
次も見たくなるという絶妙の終わり方だが、同じく三隅研次の「大菩薩峠 竜神の巻」、森一生の「大菩薩峠 完結篇」と続く三作の中ではこれが一番の出来栄えとなっている。

太平洋ひとりぼっち

2019-10-07 06:21:54 | 映画
「太平洋ひとりぼっち」 1963年 日本


監督 市川崑
出演 石原裕次郎 森雅之 田中絹代
   浅丘ルリ子 ハナ肇 芦屋雁之助
   神山勝 大坂志郎 草薙幸二郎

ストーリー
1962年5月12日深夜の西宮港に、二人の親友に見送られてヨットに乗り移った青年・堀江謙一がいた。
この22才の青年のあやつるヨットは、“マーメイド号”という、長さ5.88メートル、幅2メートルのもの。
風のみで走るように設計された船は、39時間も大阪湾内を浮きつづけたあげくやっと北風に乗り、大阪湾を乗りきることができた。
しかし太平洋の荒れが彼を待っていた。
食べものは吐くし、ヨットはキリキリ舞い、しかしその代償として、最も恐れる巡視艇にみつからずにすんだ。
彼の行為は日本の法律では許されず密出国となるのだ。
悪天候と体力の消耗、それに狐独との戦いは、人間の限界を越したものである。
憧れの太平洋に出た日、台風三号に襲われた。
大きな巻き波にふりまわされるヨット、苦しい戦いは、堀江青年の苦心の錨操作できりぬける事が出来た。
二日二晩の苦悩は彼に母国への郷愁と、孤独感を残した。
飲めない酒に心をまぎらわそうとするのも、そのためだ。
食事はカン詰を副菜に、水不足のため、ビールで飯を焚いた。
ハワイを過ぎた頃、マーメイド号は一万トン程の貨物船に出会った。
無精ヒゲで真黒にやけた小さな日本人が片言の英語で渡りあう姿に船上の人々は驚嘆の目をむけた。
パスポートの提示を要求されて、危うくこぎ去った堀江青年は目指すサンフランシスコに近づいたのだ。
碁盤の目のようにまたたいている街の灯、長い光の列を目前に、「お母ちゃん、僕きたんやで」青年堀江謙一は操舵席に両足をふんばって立ち、大声で叫けんだ。
百日に及ぶ太平洋征服の夢が今実現したのだ。


寸評
堀江謙一青年による西宮、サンフランシスコ間の太平洋単独横断航海の快挙は少年の僕を驚かせた。
堀江謙一は1962年のこのニュースによってヒーローの一人となったのだが、当時の僕はこれが蜜出国による違法行為だったとは知らなかった。
当時のサンフランシスコ市長が「コロンブスもパスポートは省略した」と、尊敬の念をもって名誉市民として受け入れたため、日本国内のマスコミ及び国民の論調も手のひらを返すように堀江青年の偉業を称えるものに変化したため、僕はその賛辞の事しか記憶にないのだ。
サンフランシスコ市長もなかなか粋なことを言うものだ。
たしか、1か月の滞在も許されたはずだ。

太平洋横断とは関係なく、敷島紡績(現:シキボウ)が、同社商標の人魚マークを入れてくれれば帆を一式寄付するとの申し出をして、堀江謙一はその申し出を受けるとともに船名も「マーメイド」にしたらしい。
社会人となった僕はこの「マーメイド」の商標を付けた商品を敷島紡績から許諾を受け、商品を製造販売する会社に勤めることになった。
商品は夏用の肌着だったが、ギフトケースにはマーメイド号の写真が大きく印刷されていた。
しかしその写真はたぶん「マーメイドIII号」だったように思う。
そんなこともあって堀江謙一という名前は僕の記憶の中に鮮明にある。

この作品は石原プロの制作でもあるし、石原裕次郎は大のヨット好きだからヨット操作のシーンは手慣れたものでリアリティを感じる。
船内のシーンなどはスタジオプールで撮影されたものだろうが、実写との組み合わせで効果を上げていた。
太平洋に浮かぶ小さなヨットの周りには何もない。
島も見えず、ほかの船もいない。
文字通り孤独を象徴するシーンだが、そんなロケ現場を獲得するのに苦労したのではないかと思う。
まさか本当に太平洋の真ん中で撮影したわけではないだろうに。
嵐の中で悪戦苦闘する場面もいいけれど、僕は何度かある太平洋にポツンと浮かぶシーンが好きだ。

航海の様子とリンクするように出港までの出来事が描かれるが、家族とのやり取りがなかなか良い。
森雅之、田中絹代の両親は脇役として流石の存在感を見せ、妹役の浅丘ルリ子もセリフは少ないのに鋭い目線で印象的だ。
それに比べると石原裕次郎の大阪弁は如何ともしがたい。
僕が大阪育ちのせいでもあるが、関西なまりと言うには余りにも違い過ぎるイントネーションに違和感があった。
実際の堀江青年のイメージとも異なるけれど、ヨットに賭ける情熱だけは伝わってきた。
何年も経ってこの映画を思い出すとき、僕の脳裏に思い浮かぶのはインタビューに応じる家族の姿と、ラストシーンで眠りこける裕次郎、堀江青年の姿である。
送り出した家族の不安だった気持ちと戸惑い、事を成し遂げた青年の心底疲れ切った様子が僕の記憶としていつまでも残っていたことになる。

台風クラブ

2019-10-05 13:23:51 | 映画
「台風クラブ」 1985年 日本


監督 相米慎二
出演 三上祐一 紅林茂 松永敏行
   工藤夕貴 大西結花 会沢朋子
   天童龍子 渕崎ゆり子 寺田農
   佐藤允 尾美としのり 鶴見辰吾
   三浦友和

ストーリー
東京近郊のある地方都市の市立中学校のプールに夜、泰子(会沢朋子)、由美(天童龍子)、みどり(渕崎ゆり子)、理恵(工藤夕貴)、美智子(大西結花)の5人の女の子が泳ぎに来た。
彼女たちは、先に来ていた明(松永敏行)に気付き、からかった挙句に溺死寸前まで追い込んでしまう。
そして、偶然出会った同級生の三上(三上祐一)と健(紅林茂)に助けを求める。
担任の梅宮(三浦友和)も慌てて駆けつけ、生徒たちのいたずらを諭す。
授業中、梅宮の恋人・順子(小林かおり)の母親、勝江(石井富子)と叔父の英夫(佐藤充)が教室に入って来て、勝江は梅宮が順子に大金を貢がせたと大声で話す。
そんな様子に授業は続けられなくなり、教室中に動揺が生まれる。
その夜、大学生で帰省中の兄、敬士(鶴見辰吾)と哲学っぽい問答をした三上は、夜のランニングに健を誘いに行き、明を交えた三人はクラスの女の子の話に興じ始める。
明が目撃した泰子と由美の変な関係、健の好きな美智子のこと、そして三上を好きな理恵のこと。
刻一刻と台風が近付いて来る土曜日の放課後、激しい風雨の中、学校を去る梅宮のあとに校内に残った生徒たちのドラマが始まった・・・。
台風が頭上を通過する時刻、学校に残った生徒たちは、カセットから流れる音楽に合わせて踊り始め、一時の憩いを味わい、そして三上を残して全員眠ってしまう。
日曜日、三上は言葉を残して窓から飛び下り、驚いてグラウンドに走りよる健たち5人。
台風が過ぎ去った月曜日の朝、学校に向かって、理恵とプールで泳ぐという明が駆けて行く。
台風が過ぎた今、彼らはまた普通の中学生に戻ったのだ。


寸評
オープニングのシーンがすごくいい。
暗闇の中でプールのコースロープに挟まれた水面が浮かび上がり、明が静かに泳いでいる。
何人かが暗闇に中をうごめいたかと思うと、ライトに浮かび上がった5人の女子中学生が水着姿でBARBEE BOYSの「暗闇でDANCE」という曲に乗って踊り騒ぐ。
始まってたった1分程しか経っていないにも関わらず、彼女たちの躍動感が映画に刻み付けられている。
あっという間に映画の世界に引き込まれてしまうシーンで、僕はこういうオープニングは好きだなあ。

再見して分かったことなのだが、三上君の死はこの物語で最大の出来事のはずなのに、印象に残っていたのは彼らが踊って騒いでいるシーンだったということである。
冒頭プのシーンに始まり、彼らが踊って騒ぐシーンが何度か出てくる。
そのどれもが無軌道だがエネルギーが充満している彼等を感じさせるものとなっている。
教室でのシーン、体育館の舞台でショータイムのように踊り狂うシーン、圧巻は雨上がりの校庭に出て踊りだすシーンで、騒いでいるうちに嵐が再びやって来て女の子たちが素っ裸になって踊るシーンだ。
遠景でとらえたそのシーンは瞼に焼き付く。

三上は、東大に通う兄に対して「個は死を超越できるのだろうか?死は個の種に対する勝利って聞いたけど」と質問を投げかけている。
そして最後に、「オレわかったんだ。なぜ、リエが変になったか。なぜ、みんながこうなってしまったか。オレはわかった…。つまり、死は生に先行するんだ。死は生きることの前提なんだ。オレたちには、厳粛に生きるための厳粛なしが与えられていない。だからオレが死んで見せてやる。いいか、よくみてろよ!これが死だ!」と言って窓から飛び降りる。
そしてその前に酔っぱらった梅宮先生から電話口で、「いいか、よく聞け若造。お前も15年経ったら今の俺になるんだ!」と言われている。
人間の死亡率は100%で、死なない人間はいない。
死はいつかやって来ることが分かっているので、対極にある生をどう生きるか。
三上は感じていた閉塞感に絶望したのだろう。
閉塞感こそが理恵が変になった原因だったのだと思う。
理恵は東京で出会った大学生と話した時に、「わたし、嫌なんです。閉じ込められるの。閉じ込められたまま年とって、それで土地の女になっちゃうなんて…耐えられないです」と言っている。
それは、「あ?あ、台風来ないかなぁ」という部分とも対応している。

台風一過、清々しい一日が始まっているが学校は休みである。
昨夜の学校での出来事を知らない理恵と明は学校のプールへ泳ぎに行く。
三上の死など関係ないように彼等の普通の生活が始まろうとしている。
見方によっては恐ろしくなるようなラストシーンだ。

ダイ・ハード

2019-10-04 06:58:26 | 映画
「ダイ・ハード」 1988年 アメリカ


監督 ジョン・マクティアナン
出演 ブルース・ウィリス
   アラン・リックマン
   ボニー・ベデリア
   アレクサンダー・ゴドノフ
   レジナルド・ヴェルジョンソン
   ポール・グリーソン
   ウィリアム・アザートン
   ハート・ボックナー
   ジェームズ繁田

ストーリー
ニューヨークの刑事ジョン・マックレーンは、クリスマス休暇を妻ホリーと2人の子供たちと過ごすためロサンゼルスへやってきた。
ホリーは日本商社ナカトミ株式会社に勤務し、夫と離れこの地に住んでいるのだった。
ジョンは、クリスマス・イヴの今日、ナカトミの社長タカギの開いている慰労パーティに出席している妻を訪ね、現代ハイテク技術の粋を極めた34階建ての超高層ナカトミビルに向かうのだった。
ホリーは単身赴任によって、結婚と仕事の両立に苦しんでいたが、再会したジョンを目にすると改めて彼への愛を確認するのだった。
ところがパーティも盛りあがりをみせた頃、13人のテロリストがビルを襲い、事態は混乱を極める。
リーダーのハンス・グルーバーは金庫に眠る6億4000万ドルの無記名の債券を要求するが、タカギがそれに応じないのを見てとると彼を射殺してしまい、そしてその現場をジョンが目撃したことにより、彼とテロリストたちの息詰まる戦いの火ぶたが切って落とされるのだった。
ジョンは機転をきかせ、パトロール中のパウエル巡査部長に事件の重大さを知らせ、援軍を求める。
その頃テロリストの一味であるテオが金庫の暗号の解読に成功し、債券はハンスたちの手に握られた。
また彼は、ホリーがジョンの妻であることをTV放送によって知り、彼女を人質にビルからの脱出を企てる。
しかし安堵するジョンとホリーを、1度は彼が叩きのめしたはずのテロリストの1人、カールが執念をもってジョン達を狙い1発の銃声が響きわたる・・・。


寸評
これは単なるアクション映画ではなく、アクション映画をアクション映画の域を超えた次元に導いた作品だ。
脚本は緻密でご都合主義的な展開を排除していて最後まで観客の目をそらさせない。
ジョン・マックレーンは確かに超スーパーマンのヒーローなのだが超人的ではない。
彼は裸足で行動しているのだが、敵側がその弱点を突きパーテーションのガラスを撃ちまくる。
マクレーンは足裏を血みどろにしながら逃げ、刺さったガラスの破片を抜き取りヘトヘトとなる弱みを見せる。
銃やナイフでやられるというのではなく、アナログ的ともいえるガラスの破片で傷つくというのが人間的でいい。
ガラスを狙うように指示するハンス役のアラン・リックマンが悪役リーダーとして優れた演技を見せている。
アルマーニを着こなし、おごれる日本人に天誅を下すと宣言する冷静で理知的なハンスは、マクレーンとの対峙において次第に醜悪な本性を表すようになっていくが、その変貌ぶりが無理のないもので存在感がある。

実行犯たちは粗野な連中が多く、彼等の行動目的が組み合わさって新たな状況を生んでいく展開がスピーディで息も飲ませないノンストップ・アクションとなっている。
ビルの構造を巧みに利用した「密室サスペンス」という側面を持たせながら、最後は「高層ビルの爆発」というスペクタクルへと観客を誘っていくのも素晴らしい構成だ。
後年、キアヌ・リーブス主演の「スピード」を撮ることになるヤン・デ・ボンが撮影を行っているが、彼のカメラも称賛されてよい。

ナカトミ・ビルの内部の状況から、ビルの外でのやり取りに移ると別の側面を見せ始める。
パトカーに乗って巡視しているアル・パウエル巡査がマックレーンと無線で連絡を取り合い心を通わせる。
そのパウエル巡査に高圧的な態度をとるのがロス市警察本部次長のドウェイン・ロビンソンなのだが、これが全くの無能力者でパウエルの意見を聞く耳を持たない。
後からやってきたFBI捜査官に「君はもういい」と除外されてしまうダメ管理職だ。
どちらもジョンソンと言う名の二人のFBI 捜査官は、自分達こそ優秀だと自負している思い上がり者で、テキパキと指示を出しているようだが、それはマニュアル通りという半端なエリートである。
マックレーンやパウエルのような優秀な下っ端に比べて、権力だけをちらすかせる無能なエリートという図式は、ありきたりだがスカッとさせる。
エリート意識を持っているのはナカトミの社員の中にもいて、重役のハリー・エリスは交渉にたけていると思い込んでいてマックレーンの正体を明かし殺されてしまう。
エリート拒否ということが3度も描かれているから、脚本のジェブ・スチュアートやスティーヴン・E・デ・スーザには、エリートに対する恨みがあったのかもしれない。

事件が解決したかと思えたところで、もう一波乱ある。
拳銃の超ドアップで始まる一連のシーンは雰囲気と迫力があって息をのませた。
本当にこの作品は息をのむシーンが多い。
ベートヴェンの第九「歓喜の歌」が効果的で、用いられている音楽はキューブリックへの「時計じかけのオレンジ」へのオマージュを感じる。

大統領の理髪師

2019-10-03 13:36:37 | 映画
「大統領の理髪師」 2004年 韓国


監督 イム・チャンサン
出演 ソン・ガンホ ムン・ソリ
   リュ・スンス イ・ジェウン
   ソ・ビョンホ パク・ヨンス
   チョ・ヨンジン

ストーリー
1960年代の韓国。
大統領官邸“青瓦台”のある町、孝子洞で理髪店を営むごく普通の男、ソン・ハンモは、近所の人々同様、大統領のお膝元であることを誇りに思い、時の政府を妄信的に支持し、熱烈さのあまり町ぐるみの不正選挙にも加担するほどだった。
新米助手のキムを無理やり口説いて結婚し、やがてはかわいい息子ナガンも生まれ、一家は幸せな毎日を送っていた。
そんな中、ふとした事件をきっかけに、彼は大統領の専属理髪師に選ばれるのだった。
町の人々は彼を羨むが、大統領閣下にかみそりをあてなければならない緊張感と、その上大統領府の権力争いで警護室長チャン・ヒョクスと中央情報部長パク・チョンマンの対立の中に置かれ、ハンモは危険この上ない。
ある日の夜、大統領府の後方の北岳山に北のスパイが潜入するが、しかしスパイは突然の下痢にしゃがみこみ、巡回中の軍人に見つかって銃撃戦となる。
この事件を契機に、政府は下痢を「マルクス」病とみなし、下痢の者をスパイと決めつけるようになる。
そんな時、ハンモの息子ナガンが下痢をしてしまい・・・。


寸評
これはソン・ハンモという平凡な一般市民の目を借りて描いた韓国の現代史映画だ。「シルミド」という少し前に見た映画が溶け込んできた。
面白い。面白い視点で描いた映画だと思う。
その面白さを理解するためには、少しは韓国の現代史を頭に置いておいたほうが良さそうだ。
描かれている時代背景はおおよそ以下のようなものだと思う。
1960年3月15日大統領選挙が行われ、李承晩大統領は不正な手段と暴力で権力を維持しようとした。
4月19日に政府の不正と腐敗に対する学生達の抵抗が最高潮を迎え、李承晩政権の崩壊という結果へとつながっていった。
1961年5月16日、朴正熙将軍は軍隊を率いて、4.19革命後に作られた文民政権を武力で倒す軍事クーデターを起こす。
1968年1月21日、数名の北朝鮮ゲリラ部隊が、当時朴大統領が住んでいたソウルの青瓦台を襲撃。部隊は青瓦台にかなり接近したが阻止された。
危機感を持った韓国は特殊部隊を結成し北への報復を計画するが、1971年8月23日に南北融和政策により特殊部隊が抹殺されるシルミド事件が起きる。
独裁者による長期政権は国民を圧迫し、韓国政府と合衆国の関係に悪影響を及ぼしていた。
1979年10月16日に釜山・馬山闘争が起き、政府は戒厳令を発令するが、対処方法をめぐって政府内の対立が表面化し、疎外されたと感じた中央情報部長・金載圭は10月26日朴大統領を暗殺。
この事件により朴政権は崩壊し、全斗煥に権力を握るチャンスを与えることになる。

韓国の歴代大統領は、李承晩 - 尹善 - 朴正熙 - 崔圭夏 - 全斗煥 - 盧泰愚 - 金泳三 - 金大中 - 盧武鉉 - 李明博 - 朴槿恵 - 文在寅と続いているが、描かれているのは朴正熙で、政権が崩壊するときの李承晩と、新大統領の全斗煥が少しだけ描かれている。
李承晩時代の四捨五入論や、北朝鮮のゲリラ進入事件を笑い飛ばして描いている。とにかく全編すべてを茶目っ気タップリに描いているのだ。頭が禿げ上がった全斗煥と思われる新大統領をハゲだと笑い飛ばして、理髪師が袋詰にされて放り出されるのは痛快の極みだ。その描き方は政治を小馬鹿にしたようなもので、すなわちこれは庶民の目を借りた政治映画だと思って僕は見ていた。

だけど、息子のナガンが拷問で足が不自由になって帰ってきてからは、これは一方では親子、家族の愛情を描いた映画でもあったんだとの思いも湧いた。
特に父親のソン・ハンモが全国の漢方医を捜し歩き、ついには息子のナガンを背負って雪解け水の川を渡って行くシーンなどは感動ものだ。
ラストシーンで二人の愛情の深さを確信させられて、政治の暗部に対する感覚ははどこかに飛んで行っていた。
これは韓国国民でない僕の感覚で、韓国の人にとっては見終わった時の感覚は、また違った感じだったのだろうかとふと思った。
今は韓流ブームで、よく似た恋愛物がテレビ各局から放映されているけれども、この映画も間違いなく韓国映画の一つなのだと思った。
それにしても、現大統領の文在寅は日本にとって最低の大統領だと思う。

タイタニック

2019-10-02 07:50:40 | 映画
「タイタニック」 1997年 アメリカ


監督 ジェームズ・キャメロン
出演 レオナルド・ディカプリオ
   ケイト・ウィンスレット
   ビリー・ゼイン
   キャシー・ベイツ
   フランシス・フィッシャー
   ビル・パクストン
   バーナード・ヒル
   ジョナサン・ハイド
   ヴィクター・ガーバー
   デヴィッド・ワーナー

ストーリー
現代。タイタニック号引揚げ作業の責任者ラベットが、タイタニック最大の秘宝と伝えられるダイヤモンド“ハート・オブ・ジ・オーシャン”を身につけた若い美女のスケッチ画を発見。
そのニュースをテレビで見た101歳のローズが、絵のモデルは自分だと名乗り出る。
悲劇の航海の様子が、ローズの口から語られる……。
1912年4月10日、世紀の豪華客船タイタニック号は、世界のVIPを乗せ出港した。
17歳だったローズは、母親ルースが決めたフィアンセで大資産家キャルと共に乗船したが心はうつろだった。
一方、タイタニック号の三等切符を賭けに勝って手に入れた画家志望のジャックは、あこがれのアメリカへ渡れる喜びに酔っていた。
海に身を投げようとするローズを、偶然ジャックが助ける。
ジャックの感性に惹かれていったローズは、ジャックを部屋に呼び肖像画を描いてもらう。
船上の見張り番が巨大な氷山を発見し連絡したが、タイタニック号の船首が氷山に接触し浸水が始まった。
ジャックはキャルによって宝石泥棒に仕立て上げられ、警備兵室のパイプに繋がれてしまう。
女性、子供優先で救命ボートへの乗船が始まるが、ローズはジャックが気掛かりでボートから引き返す。
なんとか警備兵室のジャックを助け出すのに成功、しかし嫉妬に狂ったキャルがどこまでも二人を追ってくる。
1000人を超える生存者が甲板にしがみついていたが、船は割れ大勢の人が人形のように谷底へ落ちていく。
沈みゆく船とともに最後まで愛を貫こうとしたジャックとローズの運命は……。


寸評
3時間を超える長尺を一瞬たりとも飽きさせないキャメロンの演出も相変わらずの達者ぶりで、見応えのある作品に仕上げている。
年老いたローズをメインに持ってきて回想形式にした事で作品に深みを持たせている。
101歳のローズを演じたグロリア・スチュアートに存在感があった。
キャメロン演出は前半のラブロマンスから後半のスペクタクルへと視点を変えて見せ場を作っていく。

豪華客船の様子や、コンピューター・グラフィックスを使った客船の雰囲気とスペクタクル・シーンの迫力などの視覚的効果によって、ゴージャスな映画を見ている気持ちになれる。
その一方で、ストーリーに深みはなく話は単純である。
メインとなっているジャックとローズのラブロマンスが型通りすぎて一本調子になっているのが惜しい。
ローズは没落貴族なのか、一家を支える金のために好きでもない資産家のキャル・ホックリーと婚約しているのだが、この二人の関係描写が薄い。
家名と借金だけを残して亡くなった夫の未亡人であるローズの母親は、娘の幸せよりも従来の生活を維持することに執着しているのだが、この描き方もやはり薄っぺらい。
その結果として、なぜそこまでして二人が結ばれようとしたのかという説得力に欠けるものとなってしまっている。
そこを描くともっと長尺になってしまっていたのかもしれないが、ドラマとしては断然盛り上がったと思う。
前半部分はその意味でありきたりな恋愛映画に見えてしまった。
前半における一番の名場面になっているのが、船首にローズが立ち両手を広げ、後ろからジャックがその手を支えるシーンで、ローズが正面からの風邪を受けて「飛んでるみたい」と叫ぶシーンだ。
夕闇迫る大海原を背景にして二人の愛の高まりを表現するいいシーンで、公開直後のフェリーなどでは同じポーズをとるカップルを見かけたりしたもので、映画「タイタニック」の象徴的なシーンとなっている。

海難事故を思い起こす時、真っ先に思い浮かぶのがタイタニック号沈没事故である。
それは豪華客船であったこと、しかもそれが処女航海であったこと、そして犠牲者の数の多さによるものだ。
氷山にぶつかってからは事実に基づいたと思われる描写で、コンピューター・グラフィックスを駆使した画面が緊迫感を最大限に映し出す。
あらかじめ捜索船内で示されていたように、タイタニック号は船首から沈み始め、やがて船体が真っ二つに折れて船首が沈み、続いて船尾の半分が垂直に立ったかと思うと一気に沈んでいく。
甲板を滑り落ちていく人々、海に落ちる人々などの様子も手に汗を握らせ、記録的な観客動員をなしとげ、アカデミー賞を総なめしたのもうなずける作品となっている。

ラストシーンで年老いたローズが捜索船の船べりに立ち、例のダイヤモンドを海に落とす場面があるが、あれはローズが投げ入れたものだったのだろうか?
僕はあの時ローズがわずかに「あっ」と小さな声を発したので、落としてしまったのではないかと思っている。
思い出を閉じ込めて、「まあいいわ」の気持ちになったのではないのかなと思っているのだが・・・。
長いエンドロールが流れる間はセリーヌ・ディオンの歌声があり席を立てない。

大脱走

2019-10-01 08:43:48 | 映画
「大脱走」 1963年 アメリカ


監督 ジョン・スタージェス
出演 スティーヴ・マックィーン
   ジェームズ・ガーナー
   リチャード・アッテンボロー
   ジェームズ・コバーン
   チャールズ・ブロンソン
   デヴィッド・マッカラム
   ハンネス・メッセマー
   ドナルド・プレザンス
   トム・アダムス
   
ストーリー
新たに作られたドイツの北部第3捕虜収容所に、札つきの脱走常習者・連合軍空軍将校たちが運び込まれた。
しかし早くも“心臓男”と異名をとったヒルツ(スティーブ・マックィーン)は鉄条網を調べ始めるし、ヘンドレー(ジェームズ・ガーナー)はベンチをトラックから盗み出す始末だ。
まもなく、ビッグXと呼ばれる空軍中隊長シリル(リチャード・アッテンボー)が入ると、大規模な脱走計画が立てられた。
まず、「トム」、「ディック」、「ハリー」と名付けられた森へ抜ける数百フィートのトンネルが同時に掘り始められた。
全員250名が逃げ出すという企みだ。
アメリカ独立記念日にトムが発覚してつぶされたが、ほかの2本は掘り続けられた。
しかし、あいにくなことに掘り出し口が看取小屋の近くだったため、脱走計画は水泡に帰し、逃げのびたのはクニー(チャールズ・ブロンソン)と、彼の相手ウィリイ(ジョン・レイトン)だけであった。
激怒した収容所ルーゲル大佐(ハンネス・メッセマー)が、脱走者50名を射殺したと威嚇した。
やがて、“勇ましい脱走者”の生存者を乗せたトラックが到着したとき、ゲシュタポの車が収容所の入口に止まり、ルーゲルは重大過失責任で逮捕された。
かくてドイツ軍撹乱という彼らの大使命は果たされたが、幾多の尊い生命が失われていった。
再び収容所に静けさが訪れたが、ヒルツやヘンドレイは相変わらず逃亡計画を練りあちらこちらでその調査が始まっていた。


寸評
第二次大戦中、脱出絶対不可能とうたわれたドイツの捕虜収容所から、連合軍捕虜が大量脱走したという実話の映画化だそうで、人物設定などを脚色しているが実話であることが冒頭にテロップされる。
その題材の面白さもさることながら、見せ場に次ぐ見せ場を盛り込んだ脚本と、ダイナミックな演出によって痛快な娯楽作品に仕上がっている。
監獄からの脱獄物を除けば、脱走映画でこの作品を凌ぐものは出て来ていないのではないかと思う。
捕虜収容所ものとしても一、二を争う出来になっていると思う。
オープニングと同時に捕虜を乗せたトラックの車列が映し出され、エルマー・バーンスタインのメロデイが心地よくながれ、一気にワクワク感がアップしてあっと言う間の3時間弱である。

脱走映画となればその手口が興味しんしんで、作業の消音方法だったり、必要書類の入手方法など見ていて飽きない。
トンネルを掘っているので、掘り出した土の運び出しとか、運び出した土の処理に困るはずなのだが、これがまた面白おかしく描かれている。
戦争の悲惨さを訴える映画ではないので、捕虜収容所の理不尽な仕打ちなどのシーンは少ない。
わずかに脱獄を繰り返す一人が絶望をきたし、その挙句に鉄条網によじ登り射殺されるくらいだ。
ドイツ軍の捕虜収容所って案外と自由で、捕虜が結構な待遇でもって扱われていたことにむしろ驚くくらいだ。

脱走は紆余曲折を経ながら決行されるが、当初の脱走人数250名が76名で終わってしまうなど、大成功に終わって万々歳とならないところもいい。
収容所内は陽気と言ってもいい雰囲気が漂っていたのだが、ひとたび脱走した途端にシビアで残酷な面が突きつけられるのも場面展開的にいい。
脱走するよりも、脱走してから方が大変なのだということがわかる逃走劇もテキパキとしていて的確だ。
特にスティーヴ・マックィーンの格好よさは特筆もので、私生活でもバイク好きの彼がドイツ軍から奪ったオートバイで草原を疾走し、中立国スイスとドイツの国境線上に設けられた中間地帯にジャンプして着地し疾走する姿は”カッコイイ!”以外に言いようがない。
鉄条網にぶつかり捕えられるシーンまでかっこいい。
このバイクでの逃亡シーンは結構長くて、当然ながらこの映画の見せ場の一つとなっている。

76名の脱走者の内、50名は射殺され、11名が連行され、さらにヒルツが加わるので14名が逃げ延びたことになるが、描かれるのは3名のみ。
ほのぼのとした足取りの者が逃げ延びるのは意図的なものか?
最後に、この映画を50名の戦没者に捧げると字幕が出るが、彼等の名誉のためか彼等の射殺シーンは音声のみで写しだされない。
戦争は悲惨でさけなければならないことだが、この映画はそんな事を感じさせない痛快戦争娯楽映画である。
テーマ曲である「大脱走マーチ」も小気味良い。
見終わった後では口笛でメロディを吹いてしまいそうな軽快感がある。