おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

死の棘

2019-07-16 09:51:48 | 映画
「死の棘」 1990 日本


監督 小栗康平
出演 松坂慶子 岸部一徳
   木内みどり 松村武典
   近森有莉 山内明
   中村美代子 平田満
   浜村純 小林トシ江

ストーリー
ミホとトシオは結婚後10年の夫婦。
第二次大戦末期の1944年、二人は奄美大島・加計呂麻島で出会った。
トシオは海軍震洋特別攻撃隊の隊長として駐屯し、島の娘ミホと恋におちた。
死を予告されている青年と出撃の時には自決して共に死のうと決意していた娘との神話のような恋だった。
しかし、発動命令がおりたまま敗戦を迎え、死への出発は訪れなかったのだ。
そして現在、伸一とマヤという二人の子供の両親となったミホとトシオの間に破綻がくる。
トシオの浮気が発覚し、ミホの果てしない尋問がはじまる。
ミホは次第に精神の激しい発作に見舞われ、トシオはその狂態の中に、かつてのあの死の危機を垣間見る。
それは、あらゆる意味での人間の危機であった。
トシオはすべてを投げ出してミホに奉仕する。
心を病むミホと二人の子を抱え、ある時は居を転じ、ある時は故郷の田舎に帰ろうと試み、様々な回復の手段を講じるトシオだったが、事態は好転せず、さらに浮気の相手・邦子の出現によって、心の病がくっきりし始めるのだった。
トシオは二人の子をミホの故郷である南の島におくりミホと共に精神科の病院に入り、付き添って共に同じ日々を送り、社会と隔絶した病院を住み家とすることで、やがて二人にゆるやかな蘇りが訪れるのだった。


寸評
レビのワイドショーでは不倫問題が盛んに取り上げられ、ダブル不倫などの文字も週刊誌の見出しを賑わしている昨今である。
不倫が原因で離婚に至る夫婦は報道の範囲ではよくあるが、世間ではそれでも夫婦関係を修復させ離婚に至らないケースも多くあるように思う。
離婚しないのは浮気した本人に贖罪の気持ちが強く反省が見られるためなのか、夫であれば妻や子を見捨てられないという責任感なのか、あるいは生活維持のためのお互いの我慢によるものなのだろうと推測する。

トシオの浮気が発覚してもこの夫婦は別れることはしていない。
しかし妻は夫を許したわけではなく、時々その怒りが噴出して夫を攻め続ける。
機嫌のいい日は優しいいい妻なので、夫は「今日は発作が起きなくてよかたねえ」と子供につぶやいてしまう。
オープニングから大芝居的なセリフ回しに始まり、二人の様子はただならぬものがあり、この家庭は崩壊していることがわかる。
妻は夫を折に触れて責め続けるのだが、その行為は病的であり、端的に言えばネチネチとしつこいのだ。
同じことをいつまでも言い続けられる夫も、ついには逆切れしたりする。
時には夫のトシオが自殺をしようと試みるが、それは単なるポーズかも知れない。
妻にはそんな夫を見ると自殺を必死で止めに入るという支離滅裂さがある。
夫も妻に気遣いを見せ、いたわりを見せるが完全修復には程遠いものがある。
ミホは夫一筋で献身的に尽くしてきたはずなのに、夫の裏切りにあって精神的に異常をきたしている。
そんな妻に夫のトシオは逆らうことが出来ない。
そんな関係の二人を、カメラはどっしりと構え凝視し続ける。
静かな映画だが怖い映画だ。

ミホの松坂慶子が迫真の演技を見せ、受ける夫の岸部一徳は終始能面のような表情で貫き通す。
二人のアンサンブルが夫婦間に潜む心の内を見事にあぶりだしていく。
平穏そうに見える夫婦関係でも、それぞれの心の憶測は計り知れないものがある。
口に出して言わないだけで、心の奥では拒否している気持ちがあったりする。
お互いにそれをあからさまにしないから関係が維持されているという一面もあると思うのだが、ミホは怒りがこみあげてくるとトシオにすべてぶつけてしまう。
そんな時、別れた女性への慕情が湧いてもいいようなものだが、トシオはそれを見せない。
もしかすると、そんな気持ちも覆い隠していたのかもしれない。
過去を見つめ、未来を見つめるシュールな映像も挿入されるが、ののしるミホとなだめるトシオの連続である。
それでもトシオはミホを見捨てられないし、精神異常をきたしているミホもトシオを見捨てられない。
夫婦はそんなものなのかも知れない。
夫婦関係の深層心理に切り込んだ、小栗康平渾身の一作で松坂慶子の代表作の一つと言えるだろう。
ありきたりだが、不倫はしてはいけません、バレた後は地獄が待っているのですぞ。

自転車泥棒

2019-07-15 09:28:00 | 映画
「自転車泥棒」 1948年 イタリア


監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
出演 ランベルト・マジョラーニ
   エンツォ・スタヨーラ
   リアネーラ・カレル
   ジーノ・サルタマレンダ

ストーリー
アントニオは長い失業のすえ、ようやく映画のポスター貼りの仕事を得た。
仕事に必要な自転車を質屋から請け出すために彼はシーツを質に入れた。
六歳の息子ブルーノを自転車に乗せ、彼はポスターを貼ってまわった。
ところがちょっとしたすきに自転車が盗まれてしまった。
アントニオは無駄とはわかっていても警察に行ったが、やはり警察は相手にしてくれない。
こうしてアントニオ親子の自転車探しがはじまった。
ローマの朝早く、2人は古自転車の市場に行き、ここで泥棒らしき男に会うが、証拠がない。
その男と話していた乞食の跡をつけるが、乞食も逃げ出す。
途方にくれて女占い師を訪ねるが、もちろんなんの答えもでない。
いらいらしてついブルーノにあたってしまう。
偶然泥棒を発見したが、かえって仲間にやられそうになる。
ブルーノの機転で警官が来るが、肝心の自転車はない。
やけになったアントニオはとうとう競技場の外にあった自転車を盗んでしまうが、たちまち捕ってしまった。
子供の涙の嘆願に許されるが、アントニオは恥かしさに泣き、そんな父の手をブルーノは黙ってとって、タ暮のローマの道に姿を消すのだった。


寸評
見ていても、見終っても悲しくなってくる映画だ。
真面目にやっていれば救われるとか、悪いことがあってもやがて良いこともあるといったところがまったくない。
世の中そんなに甘くはない。
歯車が狂いだすと悪い方へ悪い方へと向かっていく人生だってあるのだと言われているようだ。
戦後間もない頃のイタリアだが、日本だって戦後の混乱期はもっとひどかったのかもしれない。
町には失業者があふれていて仕事を求める人でいっぱいだ。
アントニオは運よく市役所のポスター張りと言う定職を得るが、それには自転車が必須要件だった。
彼の自転車は生活費のために質屋に入っているが、妻はシーツを何枚も質草にして自転車を引き出す。
映画は、やっと生活が安定しそうになったところで肝心の自転車を盗まれてしまい、その自転車を求めてアントニオと息子のブルーノが街中を探し回るという話だ。

ただ探し回っているというだけで、それぞれのエピソードにつながりはなく、突然終わってしまうような印象がある。
気落ちするな、明日きっと見つかると励ましてくれた仲間が一緒に探し回ってくれるが見つからない。
するともう仲間たちは登場することはなく消え去ってしまう。
泥棒と関係のありそうな老人が出てきて教会でひと悶着起こすが、結局この老人も何処へ行ったのか分からなくなってしまい消え去ってしまう。
思い余って伏線として登場していた女占い師を訪ねるが、占い師は「見つかるときにはすぐに見つかるが、見つからないときは永久に見つからない」と訳の分かったような分からないような返答をして終わりである。
通常の映画では必ず行動に意味があり、一見無駄と思われるエピソードもあとでつながってくるとかするものだが、この映画ではそれぞれのエピソードに次の展開がないし、脈略もない。、
しかしそれでも盗まれた自転車を必死の思いで探し続ける父と少年の姿に泣けてくるものがある。
全編市中ロケと言ってもいいような風景がリアルな親子を浮かび上がらせる。
必ずしも正義が勝つとは限りない不条理な世界、真面目にやっても報われない理不尽な世界が世の中にはあるという描き方は、映画としては普通の描き方ではない。
この救われない状況を冷徹に描いていることがネオリアリズモの代表作と評される点だろう。

仕事を続けていくために自らも自転車を盗んでしまうという救いようのない映画だが、ほんのわずかな光明だけは盛り込んでいる。
一つは息子に悪いことをしたと思って、罪滅ぼしに行ったレストランでアントニオが言う「生きていれば何とかなる」という言葉だ。
今一つは、皆に取り押さえられたアントニオを自転車の持ち主が「息子の前で恥を知れ」と言いながらも許してやっていることだ。
どんなに苦しくても何とかなるのかもしれないし、時には善意の人も現れるかもしれないのだ。
そして最大の救いは息子の存在だ。
アントニオは職を失うかもしれないが、息子ブルーノのために歯を食いしばって働く事だろう。
そかし、それでも何だか暗くなってしまう映画で、僕は悲しすぎてあまり好きにはなれない。

七人の侍

2019-07-14 09:52:36 | 映画
「七人の侍」 1954年 日本


監督 黒澤明
出演 三船敏郎 志村喬 津島恵子
   藤原釜足 加東大介 木村功
   千秋実 宮口精二 小杉義男
   左卜全 稲葉義男 土屋嘉男
   
ストーリー
麦の刈入れが終る頃、野伏せりがやって来る。
闘っても勝目はないし、負ければ村中皆殺しだ。
村を守るには侍を傭うことだ、長老儀作(高堂国典)の決断によって茂助(小杉義男)、利吉(土屋嘉男)等は侍探しに出発した。
智勇を備えた歴戦の古豪勘兵衛(志村喬)の協力で五郎兵衛(稲葉義男)、久蔵(宮口精二)、平八(千秋実)、七郎次(加東大介)、勝四郎(木村功)が選ばれた。
もうひとりの菊千代(三船敏郎)は家族を野武士に皆殺しにされた百姓の孤児で野性そのままの男である。
村人は特に不安を感じていたが、菊千代の行動によってだんだん理解が生れていった。
刈入れが終ると野武士の襲撃が始り、戦いの火ぶたは切って落とされた。
利吉の案内で久蔵、菊千代、平八が夜討を決行し火をかけた。
山塞には野武士に奪われた利吉の恋女房(島崎雪子)が居て、彼女は利吉の顔を見ると泣声をあげて燃える火の中に身を投じた。
この夜敵十人を斬ったが、平八は鉄砲に倒れた。
美しい村の娘志乃(津島恵子)は男装をさせられていたが、勝四郎にその秘密を知られ二人の間には恋が芽生えた。
翌朝、十三騎に減った野武士の一団が雨の中を村になだれこんだ。
侍達と百姓達は死物狂いで最後の決戦に挑むが、そこは想像を絶する地獄絵の世界だった・・・。


寸評
間違いなく日本映画が生み出した金字塔の一つで黒澤作品の最高峰に位置する作品だ。
黒澤明 、 橋本忍 、 小国英雄のトリオによる 脚本は申し分なく、撮影の中井朝一、美術の松山崇も力を発揮し、日本画家の前田青邨などが美術監修に加わり、早坂文雄の音楽が作品を盛り上げた。
映画は総合芸術なのだと実感させられる名作で、語り尽くされた内容を今更繰り返すまでもない感動作だ。

打楽器による音楽とともに、映像がかぶらない黒をバックに傾いた文字でスタッフ、キャストが表示される。
何度見ても、それだけでワクワクしてしまうのだからこの作品は力強い。
画面が映し出されると、シルエットで野武士が馬に乗って丘の向こうから現れ疾走する。
野武士が村を襲うことがわかり、村人は長老の意見を聞きに行くが、その時に流れる音楽は絶望的なものだ。
やがて侍が集まり始めたところでテーマ曲が流れるが、このテーマ曲はリズムを変えて度々流される。
このテーマ曲がまた絶妙の効果をもたらすのだから、早坂文雄の才能たるやすごいものがある。
七人の侍が決定するまでが全体の三分の一ぐらいを占めているのだが、それぞれのエピソードが面白い。
勘兵衛に腕は上の上という評価をえる宮口精二の久蔵などは、本当に剣豪のように見えてしまうのだが、当の宮口さんは剣道の心得などは全くなかったらしいので、やはり映画はすごいなあと感心してしまう。

ユーモアも含んだ作品だが、その役割は菊千代役の三船敏郎が一手に引き受けている。
刈り入れの時に隠れていた女たちが出てきた時のはしゃぎ様や、夜警で眠りこけて脅かされた時の慌てぶりもキャラクターを前面に出している。
乗馬シーンでは最初の時も、二度目の時も途中で落馬して笑いを誘う。
最初は作品から浮いたようなキャラクターなのだが、繰り返されているうちに親しみが持ててしまう。
彼を中心にして、野武士を迎え撃つ準備段階がやはり全体の三分の一程度描かれ、色々なエピソードが積み上げられていくが、そのテンポは小気味良く高揚感を醸し出していく。

森の中で野武士を発見して、いよいよ野武士との決戦となるのだが、この森の中のシーンは何回か出てくる。
大木だけでなく木々が入れ込んだ森の中をカメラはのぞき見るように人物を追いかける。
思わず、あの環境下でのカメラ位置を想像してしまうし、撮影の苦労も想像させるいづれもみごとなシーンだ。
そして、野武士の出現にオロオロする村人を鎮めるために菊千代が旗を屋根の上に立てると、先のテーマ曲が高らかに鳴り響く。否応なく拳に力が入る場面で、この盛り上げ方は脚本の妙だ。
さて、雨中の決戦。
もうここは色んなカメラを駆使したカットの積み重ねで、時代劇における集団活劇のひとつの到達点だ。
ローアングルで撮ったと思えば、望遠で捉えたアップのショットなどに加え、あちこちで繰り返される戦いの場面を全体で捉えるショットも展開される。
この戦いの場面だけでも語る価値のある名シーンだ。
勝ったのは百姓だと呟くラストシーンだが、勝四郎はこの村に残るのかもしれないと思わせる余韻を含ませたのも脚本の妙だと感心した。
語り尽くせない。

史上最大の作戦

2019-07-13 10:14:23 | 映画
「史上最大の作戦」 1962年 アメリカ


監督 ケン・アナキン
   ベルンハルト・ヴィッキ
   アンドリュー・マートン
出演 ジョン・ウェイン
   ヘンリー・フォンダ
   ロバート・ライアン
   リチャード・バートン
   ロバート・ミッチャム
   リチャード・ベイマー
   ポール・アンカ
   メル・ファーラー
   クルト・ユルゲンス
   ゲルト・フレーベ

ストーリー
1944年6月4日未明セーヌ河の湾曲部にあるドイツ西部軍B師団司令部で、司令官ロンメル元帥は家族の許へ帰ろうとしていた。
連合軍の大陸侵入作戦を知らないわけではなかったがここ数週間は悪天候だし防御は完璧だった。
南部イングランドで300万近い連合軍を指揮するアイゼンハワー最高司令官は上陸作戦の日(D・DAY)を決定しょうとしていた。
最高首脳部会議は気象部員からの詳細な報告に基づき6日をD・DAYと最終決定し、5000雙からなる大船団はノルマンディへ南下し午前零時15分、米軍空挺部隊の降下から上陸作戦の火蓋は切られた。
5時半の海上からの攻撃開始を西部軍総司令部が知ったのはその30分前、情婦エヴァの側にあったヒトラーやヘルリンゲンの自宅にいたロンメルが知ったのは5時間後だった。
防御陣地は判断を誤った作戦会議のために殆ど無用の長物と化したが、激浪に苦しめられてきた連合軍を海辺に釘づけにして多大な損害を与えた。
しかし物量を誇る連合軍は内陸深く侵入し上陸舟艇はノルマンディの海を覆った。
“上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう--この日こそ連合軍にとっても我々にとっても一番長い日になるだろう”とロンメルに言わせた6月6日は史上最大の作戦をもった連合軍の圧倒的な勝利に終わり、ナチス・ドイツが崩壊し去る運命の日になった。


寸評
独軍はバカだったけれど、連合軍はこんなにも勇敢で、明るく戦ったのだとでも言わんばかりの映画。
連合軍側にも多大な被害が出るがそれを感じさせない。
連合国側が無傷と言うわけはなく、それなりの死者が出るが、それにひるむことなく果敢な進撃を見せる。
事実もそれに近いものがあったであろうことは推察できるが、ここまでドイツ軍をバカ扱いするのは勝者の奢りのような気がする。

出撃はいつかと待ちわびている兵士の様子が冒頭から40分ほど続く。
そして反抗日が決定し、イギリスのグライダー部隊が橋の確保に出撃するところから戦闘が開始される。
米国の落下傘部隊も出撃し、アメリカを象徴するジョン・ウェインがヒーローらしく描かれる。
その他、出てくるわ、出てくるわで、各国の俳優達が目白押しで登場する。
オールドファンには、その俳優確認をしているだけでも楽しくなる作品だ。
アメリカからジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャム、メル・ファーラー、ロバート・ライアン、リチャード・ベイマー、テーマ曲も作曲しているポール・アンカなど目白押し。
イギリスからケネス・モア、リチャード・バートン、ピーター・ローフォード、ショーン・コネリーなど。
フランス側からはジャン・ルイ・バローを初め、ザナックに発見されてこの映画でデビューするイリナ・デミック。
ドイツからはクルト・ユルゲンス、ウェルナー・ハインツ、ピーター・ヴァン・アイクなどだ。
もちろんこれだけたくさんの出演者なのでちょっとしか出ない人もいる。

米、英、独をそれぞれ3名の監督で担当した3時間に及ぶ大作だが、盛り込まれるエピソードに切れがなくやや間延び感がしてしまうのは3名で分担した為かも知れない。
仲間を見分けるための合図に関するエピソード、教会の屋根に引っ掛かってしまった降下部隊の兵士の耳がおかしくなってしまった話、ドイツ兵のブーツの履き違いなど小ネタが散りばめられているのだが、どれもこれも添え物的に描かれていて、作品の重厚感を失わせていると思う。
連合国が勝ちドイツは負けたから仕方がないのかもしれないが、ここまでドイツはバカだったと描くと、かえって信憑性が薄れ映画自体の緊迫感を失くしている。
ドイツのパイロットはたった2機で上陸地点に出撃し、一度銃撃して「ドイツ空軍はよく戦った」と引き上げていく。
事前に戦闘機を終結させるように進言していたのに、それが叶わなかったことへの反発もあるのだろうが、それでも出撃する時には「もう戻ってこれないだろう」と言っていたのにアッサリと戦場放棄だ。
製作年度だけではなくその描かれ方が、今となっては実に懐かしい映画作りとなっていて、この様な作風の戦争映画は二度と見られないのではないか思う。
最初と最後は海岸に残されたヘルメットが映し出されるが、たった一つのヘルメットが失われた命の多さを物語っていた。
そしてオマハビーチの上陸作戦の成功をもって対ドイツ戦は終了したと思わせるラストであった。

でも懐かしいなあ…あのテーマ曲。
以前は今と違ってアメリカ製作のテレビ番組が放映されていて、ミッチ・ミラーの音楽番組でこのテーマソングを聞いたことが有る。
クワイ河マーチと共に耳に残るテーマ曲だ。

シコふんじゃった。

2019-07-12 10:07:27 | 映画
「シコふんじゃった。」 1991 日本


監督 周防正行
出演 本木雅弘 清水美砂 竹中直人
   水島かおり 田口浩正 宝井誠明
   梅本律子 松田勝 宮坂ひろし
   片岡五郎 六平直政 村上冬樹
   桜むつ子 柄本明

ストーリー
キリスト教系の教立大学4年の秋平は、父親のコネで就職も決まり、残りわずかな大学生活を思いっきりエンジョイしていた。
ある日、卒論指導教授の穴山に呼び出される秋平。
授業に一度も出席したことのなかった秋平は、穴山から卒業と引き換えに、彼が顧問をしている相撲部の試合に出るよう頼まれ、仕方なく引き受けてしまう。
ところがその相撲部の部員は8年生の青木ひとりだけ。
相撲を心から愛しているものの一度も試合に勝ったことがない。
やがて秋平と同じようにデブのクリスチャン田中と、秋平の弟・春雄が入部。
さらに春雄に思いを寄せるデブ女の正子がマネージャーとして参加。
このメンバーで団体戦に出場するが惨敗し、秋平は思わず「今度こそ勝ってやる!」とOB達に宣言。
こうして3カ月後のリーグ戦を目指すことになってしまう。
そんな秋平らを見守る名誉マネージャーの夏子。
それにイギリスからの留学生スマイリーも加わるが、人前でお尻をさらけ出すことを拒むスマイリーは、まわしの下にタイツをはく始末。
名門相撲部復活をかけて厳しい練習の毎日が続き、そして夏合宿を経てようやくリーグ戦出場。
秋平らは何とか勝ち進んでいくがやや苦戦気味。
スマイリーも彼らの奮闘する姿に圧倒され、ようやくタイツをはぎ取り試合に出場する・・・。


寸評
本質的にはコメディなのだが、それでいて結構シリアスな場面もあってホロリとさせられたりするのが心地よい。
ドタバタ部分は竹中直人が一手に引き受けているが、このキャラは誰にでもできるものではない。
相撲部存続のためのボランティアで入部してきたと言う秋平に、「ボランティアっつうのはな、なんの見返りもない奉仕活動のことを言うんだよ。どういう条件だしたかはしらねーけど、とにかく試合終わるまではお前、相撲部員なんだ。それまではオレのやり方に従ってもらうからな」と青木は言うのだが、言葉だけ聞いているといっぱしの先輩なのだが青木は試合で一度も勝ったことがない。
相撲を愛し相撲通の青木が見せる理論と実践のギャップが可笑しいのだが、竹中・青木の態度を笑えるかどうかでこの作品に対する評価が分かれるのではないか。
バカバカしいと感じるならこの作品を楽しめないだろうが、僕は楽しめた。

ジャパン・アズ・ナンバー・ワンと言われた時代で、日本企業は世界を席巻していて、外国不動産なども買いあさっていた時代の作品なので、スマイリーを寮費なし、食事代なしの条件で入部させた秋平が、「だけどさ、札ビラで横っ面張り倒したみたいで、思いっ切り日本人しちゃったよな」とつぶやくのはくすぐったい。

あとひとり負ければ三部リーグ敗退となる絶体絶命の場面。
副将・青木の出番であるが、案の定、緊張のピークからゲリピー。
しかし奇跡が起こり、青木が腰砕けで勝利すると、OBの熊田が「最後まで情けねえ野郎だあ」と笑うのだが、 青木に人一倍手厳しかった強面OBが一番喜んだというもので、僕は笑いながらも目頭が熱くなった。
OBと後輩の関係が分かるし、本当に心配し愛情を注いだ者に対してつい表してしまう人間の照れ隠しを感じた。
穴山教授が「明日の試合は恥をかくかもしれない」というと、熊田は「監督はお前だ」と優しく言う。
熊田はすっかりいいOBになっていた。

監督の穴山は入れ替え戦で秋平だけにアドバイスを与える。
「相手は強い。お前が平幕なら向こうは横綱だ。しかしだからこそ勝機がある。向こうは勝って当たり前だからな」
「たぶん突き放してくる。素人とやる時は離れて勝負を着けたいもんだ。喰い付け。我慢して我慢して喰い付け」
「何も言わずにと思ったけど、お前ならもしかしてと思ってな。忘れるな、前みつを掴んだら絶対に離すな」
「安心しろ、オレはここまでこれただけで十分満足している。あとはお前が、満足するかどうかだ」
最後の言葉はラストシーンに持っていくための伏線だが、「もうズルするのはやめた」という秋平の言葉と共にこの作品の最後を締めくくった。
本木雅弘がしこを踏み、入り口に清水美佐がたたずんでいる。
上からは陽光が燦々と降り注いで清水美佐を浮かび上がらせている美しいシーンで、彼女が相撲部に現れた女神であることが感じ取れ、その後の清水美佐の一言にニンマリとしてしまう。

おおたか静流の歌う「悲しくてやりきれない」と「林檎の木の下で」が妙にインパクトがある。
心地よいし、なぜか心に響いてくる。
これを挿入してくるセンスに僕は感心してしまった。

地獄門

2019-07-11 07:36:16 | 映画
「地獄門」 1953年 日本


監督 衣笠貞之助
出演 長谷川一夫 京マチ子 山形勲
   黒川弥太郎 坂東好太郎 田崎潤
   千田是也 清水将夫 石黒達也
   清水元 荒木道子 毛利菊枝
   香川良介 沢村国太郎 殿山泰司

ストーリー
平清盛(千田是也)の厳島詣の留守を狙って起された平康の乱で、焼討をうけた御所から、平康忠(香川良介)は上皇とその御妹である上西門院を救うため身替りを立てて敵を欺いた。
院の身替り袈裟(京マチ子)の車を守る遠藤武者盛遠(長谷川一夫)は、敵をけちらして彼女を彼の兄盛忠(沢村国太郎)の家に届けたが、袈裟の美しさに心を奪われた。
清盛派の権臣の首が法性寺の山門地獄門に飾られる中、盛遠は重囲を突破して厳島に急行した。
かくて都に攻入った平氏は一挙に源氏を破って乱は治った。
袈裟に再会した盛遠は益々心をひかれ、論功行賞に際して清盛が望み通りの賞を与えると言った時、速座に袈裟を乞うたが、彼女は御所の侍である渡辺渡(山形勲)の妻だった。
しかし、あくまで彼女を忘れえないで煩悩に苦しむ盛遠は、加茂の競べ馬で渡に勝ったのだが、祝宴の席で場所柄を忘れて渡に真剣勝負を挑み、清盛の不興を買った。
狂気のようになった彼は刀をもって袈裟と叔母の左和(毛利菊枝)を脅かす。
従わねば渡の命が無いと知った袈裟は、夫の渡を殺してくれと偽り、自らその身替りとなって命を失った。
数日後、頭を丸め僧衣をまとった盛遠は、都を離れて苦悩の旅に出て行く。


寸評
今となってはその呼び名も懐かしいイーストマン・カラーシステムによる大映第一回総天然色映画。
そうとあって、この映画における色彩感覚とその表現には並々ならぬものを感じる。
美術監督は伊藤熹朔で、色彩指導に洋画家の和田三造があたっている。
和田三造はこの作品の色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、1954年の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞しているから、その功績が如何なるものかは想像がつくというものだ。
オープニングでは平治物語絵巻が紐解かれ、この話が平治の乱にまつわるものであることが示される。
そしていきなり内乱の様子が描かれるのだが、この場面の衣装のきらびやかさに驚かされる。
逃げ惑う女官たちの衣装や武士たちの出で立ちの絢爛豪華さにど肝を抜かれる。
簾の色合いまでに気を使った色彩に圧倒されてしまうのだが、この感動は何十年経っても薄れるものではないと思う。
やがて野外の騒乱が描かれるが、人間の争いと同様に路地で争っているのは軍鶏(シャモ)たちだ。
黒い軍鶏が頂いているトサカの赤がこれまたインパクトのあるもので、小道具にまで神経がいっている。
そして上西門院を救うための身替りとして京マチ子の袈裟が登場するのだが、この頃の京マチ子は古典的日本美人の典型といった顔立ちで、「羅生門」や「雨月物語」などでも見せた美貌にはため息が出てしまう。
その彼女が乗る牛車も重要文化財の借受かと思わせるものだし、護衛の長谷川一夫が演じる盛遠の青い鎧も目を見張るものである。
立ち回りは様式的で擬音もないので、現在見慣れている時代劇の乱闘シーンに比べれば迫力不足だが、きらびやかさでは足元にも及ばず、衣装にこれだけの金を掛ける映画はもう作ることは出来ないのではないかと思う。
色彩効果は騎馬武者が乗る馬にも施されていて、朱や紫の鮮やかな馬の飾り物が目を引き、馬比べ場面では風になびく旗も加わって艶やかだ。
渡辺渡の屋敷は平安貴族の屋敷の如くで、襖や簾などの建具に趣向が凝らされている。
セット、衣装を語り出せばキリがない作品だ。
長谷川一夫は豪快さに秀でていたわけはないし、スピード感にもかけていたが、素早い立ち回りの足さばきで瞬間瞬間をピタリと決める美しさに酔わせるものはあり、それが当時の女性ファンを引きつけたのだろう。

時代背景はともかくとして、話は単純だ。
人妻に恋した男が、邪魔になった夫を殺して妻を奪い取ろうとしたが、誤って妻を殺してしまったというもので、昨今世情を賑わすこともある事件と大して違わない。
もっとも袈裟は夫の身代わりとなって自ら討たれるのだが、そんな女性は今はいない。
主人公の盛遠をやっているのが長谷川一夫で、対する渡辺渡を山形勲が演じている。
盛遠のやっていることは、どう見ても理不尽で無茶苦茶だ。
一方の渡辺渡は非常に理性的な男である。
悪役を演じることが多い山形勲が善人の渡辺渡をやり、善玉主人公を演じてきた長谷川一夫が無理無体を押し通す男を演じているキャスティングが、彼らの作品を多く見てきたものには面白く感じられる。
最後は地獄門と名付けられた門を一人の僧が通って行くところで終わり、顔は分からないがその僧が盛遠であることは明白で、苦悩の旅の始まりを暗示している。
其処に至る精神的苦痛の描き方は渡辺渡、盛遠、共に希薄であるが映画の作成意図からすれば、それも致し方のないところか。

地獄の黙示録

2019-07-10 09:08:39 | 映画
「地獄の黙示録」 1979年 アメリカ


監督 フランシス・フォード・コッポラ
出演 マーロン・ブランド
   マーティン・シーン
   デニス・ホッパー
   ロバート・デュヴァル
   フレデリック・フォレスト
   アルバート・ホール
   サム・ボトムズ
   ラリー・フィッシュバーン
   G・D・スプラドリン
   ハリソン・フォード
   スコット・グレン

ストーリー
ベトナム戦争中期。
陸軍空挺士官のウィラード大尉は、妻と離婚してまで再び戦場に戻ってきた。
彼はMACV-SOGの一員として、CIAによる敵要人暗殺の秘密作戦に従事してきた古参兵だった。
その実績を買われ、サイゴンのホテルに滞在中、軍上層部に呼び出される。
そこで彼は、元グリーンベレー隊長のカーツ大佐の暗殺指令を受ける。
カーツは軍の命令を無視して暴走、カンボジアのジャングルの中に独立王国を築いていた。
ウィラードは海軍の河川哨戒艇に乗り込み、乗組員に目的地を知らせぬまま大河を遡行する。
ウィラードは道すがら、カーツの資料から彼の思想を読み取ろうとする。
そして一行は戦争の狂気を目の当たりにする。
サーフィンをするためにベトコンの前哨基地を襲撃する陸軍ヘリ部隊の司令官、ジャングルに突如として出現したプレイメイトのステージ、指揮官抜きで戦い続ける最前線の兵士、そして麻薬に溺れ、正気を失ってゆく哨戒艇の若い乗組員たち。
やがてカーツの王国に近づくにつれて、ウィラード自身も少しずつ心の平衡を保てなくなってゆく。
哨戒艇の乗組員を何人も失いながらも、何とか王国にたどり着いたウィラード。
彼は王国の支配者カーツと邂逅し、その思想や言動に動揺する。
一時は監禁されたものの、改めて自由を与えられたウィラードは、水牛を生贄にする祭りの夜にカーツの暗殺を決行する。


寸評
コッポラが私財をなげうってまで完成させた映画で、コッポラは「ゴッド・ファーザー」で財をなして、この作品で財を失ったと言われている。
それほどハチャメチャな作品である。
手元にある映画チラシには「この世ならぬ2時間半の旅は、あなたの脳裏に永遠に残る!」とか、「過言ではない!まさに世紀の巨篇」や「あなたは6人目の同乗者!」などのうたい文句が並べられており、びっくりマーク(!)が躍っている。
大金をつぎ込んだ挙句のハチャメチャさがどこにあるのかと言えば、2時間半に及ぶ長尺であることや、狂気と混乱を象徴させる多くのエピソードの果てに迎える観念的な終幕などもあるが、何よりも戦争をまるでお祭り騒ぎのような酔っぱらい的バカ騒ぎで描いたことによると思う。
 石油を大量に撒き散らしたようにしてジャングルを一気に焼き払うという、ベトナム戦争のために開発されたナパーム弾をこれでもかとまき散らしている。
 キルゴア中佐は戦争よりもサーフィンに夢中で、花形サーファーのランスを見つけると狂喜し、サーフィンにいい波が来ているという理由でヘリコプターの大編隊を組んでその漁村を襲撃する。流れる曲はワグナーの交響曲で、この映像と音による一大スペクタクルには圧倒されるが、監督(製作者)の道楽もここまで来たかの感を思わずにはいられない。
戦争は拡大再生産ができない究極の浪費だと思うが、それに負けず劣らずの浪費であり、貧乏人の私が無駄使いの時に感じる恍惚感を感じながら撮っていたのでないかと思わせる。
 陶酔のためのバカ騒ぎは、プレイボーイのウサギちゃんマークが描かれたヘリコプターに乗って米軍兵士の慰問に訪れた「ミス・バニー」のショー・タイムなど枚挙にいとまがない。
それがまた、とんでもないショーであり、とんでもない装置と演出で、興奮のあまりギラついた兵士たちがステージになだれ込んだために、彼女達は逃げるように飛び去っていく。
大金がいくらあっても足りない自己陶酔的バカ騒ぎで、ハチャメチャも極めリだ。

この映画を反戦映画と呼ぶには少し抵抗が有る。あえて言えば、反戦風な映画である。
アメリカの自由に対する懐の深さは、このような反戦風的ハチャメチャ映画を受け入れるところだ。
1960年代のベトナム戦争下のジャングルを舞台に、アメリカ軍将校暗殺を命じられた大尉が目撃する戦争の狂気を描いてはいるが、狂気だったのは間違いなくコッポラ監督自身で有ったと思わせる作品だ。

僕の本棚には2002年3月1日に発売された立花隆氏の "解読 「地獄の黙示録」" なる書物が鎮座している。
これは2002年2月に公開された「特別完全版」について書かれたもので、氏は「この映画は映画史上最も特異的に面白い作品で世界文学に匹敵する作品だ」と記している。
一冊の本が書かれるほどで、解読などというタイトルが似つかわしい作品でもある。
僕は特異的だとは思うが、それ以上の評価を持ち合わせていない。
というのも、この作品の記憶としては、所々の印象的なシーンと、あまりにもハチャメチャすぎる全体的イメージしか残っていないからだ。
しかしながら、その強烈なイメージを残したということで言えば映画史に残る名作なのかも知れない。

死刑台のエレベーター

2019-07-09 09:03:44 | 映画
「死刑台のエレベーター」 1957年 フランス


監督 ルイ・マル
出演 モーリス・ロネ
   ジャンヌ・モロー
   ジョルジュ・プージュリイ
   リノ・ヴァンチュラ
   ヨリ・ベルタン
   ジャン=クロード・ブリアリ

ストーリー
未開地開拓会社の技師ジュリアン・タベルニエと社長夫人フロランス・カララは愛し合っていた。
二人の自由を阻む邪魔者シモン社長を亡きものにせんと、二人は完全犯罪を計画していた。
殺害計画実行の日が来て、ジュリアンは拳銃をポケットにしのばせ、バルコニーから手すりに錨つきのロープをかけて上り、社長室に入ると社長を射殺し、その手に拳銃を握らせた。
彼は再び手すりから一階下の自分の部屋におり、何くわぬ顔をして外に出た。
しかし手すりに錨つきロープを忘れて来たことに気付く。
ビルにかけこみ、エレベーターに乗り上りはじめたが、ビルの管理人が電源スイッチを切って帰ってしまったので階の途中でエレベーターは止まってしまい、ジュリアンは閉じ込められてしまった。
彼を待つフロランスは段々と不安にかられ、彼を求めて夜のパリをさがしまわった。
一方、花屋の売り子ベロニックとチンピラのルイはジュリアンの車を盗んで郊外に走り出た。
前を走るスポーツ・カーについて、或るモーテルに着いた彼等は、ジュリアン・タベルニエ夫婦と偽り、そのスポーツ・カーの持主ドイツ人夫婦と知り合いになった。
ルイはふとしたことでドイツ人夫婦を殺してしまい、その嫌疑はジュリアンに向けられてしまうのだが・・・。


寸評
非常によくできた脚本だ。
モノトーンであることがより一層サスペンス感を盛り上げる。
特に夜のシーンが素晴らしい。
疾走する車とライト、にじむ街の明かりと黒いドレスでさまようカララ夫人。
心の中のつぶやきを聞かせながら夜の街を歩き回るジャンヌ・モローの姿と表情は見るものを圧倒する。
それにマイルス・デイヴィスのトランペットとジャズのメロディが重なると、とてつもない哀愁を感じさせる。
それを1時間半にまとめ上げたルイ・マルだが、この時25歳と言うのは驚くべき才能の開花だ。

社長夫人のフロランス・カララは夫の会社の社員であるジュリアン・タベルニエと浮気をしている。
浮気ではあるがタベルニエを心底愛しているカララ夫人は夫を殺して彼と一緒になろうとする。
タベルニエをたきつけて完全犯罪の殺人を行わせるのだが、それがふとしたことからほころびを見せる。
完全犯罪と思われた犯行が、些細なことから破たんしていく作品は数多くあるが、本作では別のカップルによる犯罪でほころびを見せるのがユニークなところとなっている。

別の二人とはカララ夫人などとは別世界の低層の若者たちである。
ベロニックは花屋の売り子だが、ルイという青年はスクーターの窃盗で指名手配されているチンピラだ。
ベロニックはルイの無軌道な行動を注意しながらも、結局彼に引きずられるようにして楽しみに走ってしまう。
ジュリアンの車を奪ったルイたちは高速道路でドイツ車と競争を挑む。
相手はおおらかなドイツ人夫婦で、彼等を部屋に招き入れるのだが、ホテルのチェックインには指名手配の事もありルイは姿を見せない。
このことがやがて起きる事件の伏線となっている。
相手の紳士はルイとは違って大人である。
ルイの嘘も最初から気付いているが、馬鹿にしているのかその嘘に乗っている。
そして車を盗もうとしたルイに葉巻を拳銃に見立てて冗談ぽく詰め寄るが、動転したルイは二人を殺してしまう。
ルイたちが犯行に至り、逃亡に至るまでの経過も実に要領よくまとめられている。
ベロニックとルイの下層としての苛立ちや軽薄さと、偶然のあやが巧みに語られているし、ラストに向かっての伏線も巧みに張られている。

一方のジュリアンはエレベーターに閉じ込められて悪戦苦闘している。
街では出会えなかったジュリアンをカララ夫人が必死で探している。
そしてルイ達の行動がかぶってきて、サスペンスとしての盛り上がりを見せる。
途中で連行されたカララ夫人の証言内容とか、「この件はご内密に」と警察に言わせるシーンを挟むなど、細かな点にも配慮が行き届いている。
そのために、よくある内容ながら、ずいぶんと格調のある作品となっている。
ヌーベルバーグの先駆的作品とも言われているが、25歳と言う若さだけで新しいものを感じさせる作品ではないが、実によく練られた秀作で、ラストも決まっていた。

シカゴ

2019-07-08 08:21:23 | 映画
「シカゴ」 2002年 アメリカ


監督 ロブ・マーシャル
出演 レニー・ゼルウィガー
   キャサリン・ゼタ=ジョーンズ
   リチャード・ギア
   クイーン・ラティファ
   ジョン・C・ライリー
   テイ・ディグス
   ルーシー・リュー
   クリスティーン・バランスキー

ストーリー
1920年代、シカゴ。
ヴォードヴィルのスターを夢見るロキシー・ハートは、人妻でありながら、自分をショーに売り込んでくれるというケイスリーと浮気していたが、その言葉が嘘だったことを知り、彼を撃ち殺し逮捕されてしまう。
一方、ロキシーの憧れの歌姫、ヴェルマ・ケリーも殺人罪で逮捕されていた。
しかしヴェルマは女看守長ママ・モートンを買収して敏腕弁護士ビリー・フリンを雇い、夫と妹に裏切られた被害者として自分を演出し、スターとしてのステイタスをさらに上げている。
それを真似ようとしたロキシーは、お人好しの夫エイモスを使ってビリーを雇う。
ロキシーはマスコミの同情を買い、シカゴ史上最もキュートな殺人犯として獄中から一世を風靡する。
スターの座を得たロキシーはヴェルマを見下すが、社交界の花形令嬢キティーが殺人事件を起こした途端、マスコミの関心はそっちに移った。
ロキシーは巻き返しを図り、ビリーと共に無罪判決を勝ち取る賭けに出る・・・。


寸評
物語の中で人物が登場すると、やがて彼らは衣装をまとい酒場のステージや舞台のステージで歌いだす。
この切り替わりがスピーディで、舞台レビューと映画が一体化して観客に迫ってくる迫力が圧倒的で上質なステージを見ているようだ。
繰り広げられるダンスとジャズ・ナンバーにのめり込ませるテンポとカメラワーク、カット割の素晴らしさは日本映画がまったくかなわない所で、すごいなーと感心してしまう一級のミュージカル映画だ。

ロキシーとヴェルマは刑務所の女性棟に監禁されているが、管理しているのはママ・モートンと呼ばれている女性看守で、彼女は賄賂で囚人たちに便宜を図っているのだが、このママ・モートンの歌も恰幅同様に迫力があるものだった。
ロキシーは騙した男に逆上し、ヴェルマは夫を妹に寝取られ、それぞれ男を射殺して逮捕されている。
他の囚人たちも多かれ少なかれ男絡みの事件で収監されているのだが、その彼女たちが刑務所で繰り広げるダンスシーンは迫力があった。
真っ赤なライトがシンプルな牢屋のセットを浮かび上がらせ、そこで囚人たちが歌い踊ると、もうそれはブロードウェイの舞台そのものだ。
ダンスシーンは、基本的に主人公の妄想という設定になっている。
ロキシーは敏腕弁護士のビリー・フリンを雇うが、このビリーが凄腕弁護士なのか悪徳弁護士なのかよくわからないキャラクターで、被告を無罪にするためならでっち上げなどはお手の物で、頭が悪いロキシーが余計なことを言わないように、ビリーが代わってマスコミに答えるシーンでは腹話術になり、ロキシーはビリーに操られる人形になる舞台らしい楽しい場面になったりもする。
カタリンという無実の罪で囚われている女囚の絞首刑場面でも同様の演出効果で、この演出手法は最初から最後まで貫かれていて、それがこの映画の特徴でもあり素晴らしい部分でもある。
人気をさらわれそうになったロキシーがとっさに妊娠騒動をおこしたのをみて、ヴェルマが「あのアマ!」と叫ぶシーンは包括絶倒でお腹が痛くなった。
そんなコミカルなシーンを併せ持った上級ミュージカルだと思う。
ビリーがロキシーの日記に対する反論を行う場面ではリチャード・ギアのタップダンスが重なり、観客である僕は裁判劇などそっちのけ状態だった。

ヴェルマ・ケリーを演じるキャサリン・ゼタ=ジョーンズは、僕にとっては洋画にのめり始めた頃に見た「黄金の七人」に出ていたロッサナ・ポデスタを髣髴させるボリュームある身体をしている。
それにもかかわらず、あの身のこなしはすごいし、逆にあの体力がないと勤まらないのかもしれない。
ショービジネスに夢見る人の底辺の広さを感じさせる。
ショービジネスといえば、弁護士のビリーにとっても裁判は金儲けの手段で、ある意味ショービジネスなのだという所が面白く、最後でロキシーとヴェルマがコンビを組んでステージに立ち、小道具にマシンガンを持ち出したときに見せるリチャード・ギアの「やってくれるじゃないか」とでも言いたいような苦笑いがそう思わせた。
ロバート・ワイズの「ウエスト・サイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」、ジャック・ドウミの「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」などと共に最良ミュージカルの仲間に加えておこう。 本当に面白い!

シェルブールの雨傘

2019-07-07 10:34:13 | 映画
「シェルブールの雨傘」 1963年 フランス


監督 ジャック・ドゥミ
出演 カトリーヌ・ドヌーヴ
   ニーノ・カステルヌオーヴォ
   マルク・ミシェル
   エレン・ファルナー
   アンヌ・ヴェルノン

ストーリー
1957年11月、アルジェリア戦争ただ中のフランス。
港町シェルブールに住む20歳の自動車整備工ギィと17歳のジュヌヴィエーヴは結婚を誓い合った恋人同士。
ギィは病身の伯母エリーズと、ジュヌヴィエーヴはシェルブール雨傘店を営む母エムリ夫人と暮らしている。
そんなある日、ギィに召集令状が届き、2年間の兵役をつとめることになった。
尽きる事無く別れを惜しむギィとジュヌヴィエーヴはその日結ばれた。
やがてギィは幼馴染みのマドレーヌに伯母の世話を頼み、ジュヌヴィエーヴに別れを告げて入営する。
1958年1月、莫大な額の納税に苦慮したエムリ母娘は金策のために宝石店に行った。
店主との交渉は難航したが、たまたま居合わせたローラン・カサールがその場で全て購入してくれた。
カサールはジュヌヴィエーヴを見初めていたのだった。
2月、ジュヌヴィエーヴの妊娠が判明する。
手紙で妊娠を知ったギィからは「男の子だったら名前はフランソワ」と喜びの返事が届くが、戦争は次第に激化、手紙も途絶えがちとなる。
ジュヌヴィエーヴはギィを待ち続けていたが、ついにカサールの求婚を受け入れて、母共々パリに移住する。
1959年1月、足を負傷し帰郷したギィはシェルブール雨傘店を訪れるが、店は所有者が変わっていた。
ジュヌヴィエーヴの結婚と移住を聞かされたギィは自暴自棄となり、復職した整備工場も些細なトラブルで退職して酒と娼婦に溺れる。
朝帰りした彼を待っていたのはエリーズ伯母の死の報せだった。
マドレーヌの支えもあって立ち直ったギィは、伯母の遺産でガソリンスタンドを購入、マドレーヌと結婚する。
時は流れて、1963年12月のある雪の夜、一台の車がギィのガソリンスタンドに給油に訪れ、運転席にはジュヌヴィエーヴが、助手席には3,4才くらいの女の子が乗っていた。


寸評
ミュージカルはアメリカ映画だけのものではない。
フランス映画が作ればこんな作品になるのだと誇っているような作品である。
汽笛が鳴るとシェルブールの港が現れ、やがて石畳の上に雨が降り注ぐのだが、それを真上から写し込んで色とりどりの雨傘が行きかうなかクレジットタイトルが表示される。
それにテーマ音楽がかぶさるオープニングはフランス映画らしい小粋さが感じられる。
「一部 出発」のサブタイトルと1957年11月とクレジットされると、軽快な音楽と共に自動車整備工場で働く人々が歌でもって会話していく。
このオープニング・シーンで作品全体の作りと雰囲気が分かり、知らず知らず作品世界へと誘われてしまう。

シェルブールで母親と傘屋を営む娘としてカトリーヌ・ドヌーヴが現れるとうっとりとしてしまう。
この後、数々の作品に出演したドヌーヴであるが、一本挙げろと言われればやはりこの作品だろう。
可憐さが残っていた時期に、この作品と出会えたことは彼女にとっても幸せだったのではないか。
そしてドヌーヴと共にこの映画の雰囲気を盛り上げているのが色彩だ。
シェルブールの街も部屋などのセットも鮮やかな色彩で映し出される。
部屋に帰ったギイが上着を脱ぐと青いシャツを着ている。
部屋の壁も青色で、街の石畳や壁も明かりに照らされブルーに浮かび上がっている。
その街にオレンジのコートを羽織ったジュヌヴィエーヴが現れ、真っ赤なホールに入っていく。
この鮮やかな画面を見ていると、多分これは全編を通じて保たれる色彩感覚だろうと感じ取れたが、実際最後までその通りで、部屋のセットなどは見栄えを考慮する演劇の大道具の様なものに見えてきた。

やがてギイは兵役につくことをジュヌヴィエーヴに告げるのだが、その時のやり取りは哀愁のあるテーマ音楽に乗って行われる。
その後の駅での別れのシーンでも同じメロディで会話されていて、このメロディは別れのシーンで使用されていることに気づかされる。
それを意識してみていると確信が持てた。
フランス語では、愛してるはジュテームで、おやすみはボンソワールなのだとこの映画で知った。
「二部 不在」の最後では、カサールと結婚したジュヌヴィエーヴをマドレーヌが悲しげに見送るのだが、最後にマドレーヌを少しだけ登場させる演出がいい。
「三部 帰還」ではジュヌヴィエーヴの結婚を知ったギイの姿が描かれるが、叔母の死と共に救いを求めるギイにマドレーヌはギイの心はまだジュヌヴィエーヴにあるのではないかと不安になる。
愛する人と共に歩みたいと、その愛をマドレーヌに告げ、ギイも幸せな生活をつかむのだが、この作品を小粋にしているのがラストシーンだ。
雪の降るガソリンスタンドで再会したギイとジュヌヴィエーヴは、お互いの子供の名前が二人が語り合った名前であることを確認するが、二人は元に戻ることはない。
ギイもジュヌヴィエーヴもすでに幸せな新しい人生を歩んでいることを示し、悲恋物であるにもかかわらず幸せを感じさせるいいラストシーンで余韻が残った。

シェーン

2019-07-06 10:24:35 | 映画
「シェーン」 1953年 アメリカ


監督 ジョージ・スティーブンス
出演 アラン・ラッド
   バン・ヘフリン
   ジーン・アーサー 

ストーリー
1890年の初夏、ワイオミングの高原に1人の旅人が漂然とやってきた。
男は移住民の1人ジョー・スターレットの家で水をもらい、家族の好意で1晩泊めてもらうことになった。
男は名をシェーンと名乗った。
妻マリアン、1人息子ジョーイと3人暮らしのジョーは、かねて利害の反する牧畜業者ライカーに悩まされていたので、冬まででも働いてくれないかとシェーンに頼んだ。
シェーンは、何か心に決めたことがあるらしく、町の酒場でライカーの手下から喧嘩を売られたときも、相手にならなかった。
図に乗ったライカー一味は、シェーンが再び酒場に現れた時にまた彼に絡んだが、今度はジョーの応援を得てシェーンは群がる相手を叩き伏せ酒場を引き揚げた。
怒ったライカーはシャイアンから殺し屋のウィルスンという男を呼び寄せ、移住民の1人、短気なトリーがウィルスンのピストルの最初の犠牲となった。
ライカーに農場の明け渡しを要求され、農民一同のために命を捨てる決心をしたジョーは単身敵の酒場に乗り込もうとしたが、シェーンはジョーを殴って気を失わせて、マリアンに別れを告げ敵地に歩みを進めた。
酒場で、さすがのウィルスンも一瞬早いシェーンのピストルに斃れた。
殆ど同時に3発目の弾がライカーを倒していた。
酒場を出ようとするシェーンの後を狙ったライカーの弟も一瞬のうちに命を失った。
酒場の表に立つジョーイに、立派な男になれと言ってシェーンは馬にのって去って行った。
その後ろ姿に呼びかけるジョーイの叫び声が、ワイオミングの荒野にこだましていた。


寸評
流れ者がやって来て正義側の世話になり、悪人をやっつけて去っていくという内容である。
ヤクザ映画の多くが旧来の風習を守る側を正義とし、新時代に即した資本側を悪として描くのに対し、「シェーン」では開拓者として苦労したライカーが悪者で、後から入植してきたスターレットたちが正義側になっている。
ライカーは旧来型の放牧による牧畜を行っていて広い土地を必要としており、スターレットは牛舎による家畜生産を目指している。
ライカーがスターレットたちを暴力で排除しようとするのは洋の東西を問わずお決まりの設定で目新しくはない。
この映画に傑作の評価を与えているのは作品全体のアンサンブルだ。
まず背景となる景色がいい。
ワイオミングの美しい山間風景が平和な世界を印象付ける。
オープニングと共に流れるテーマ曲の「遥かなる山の呼び声」が脳裏に残り、この平和を壊す者としてライカーが登場する。

ライカーは悪役には違いないが、憎らしくて仕方がない悪役には見えない。
スターレットたちが非暴力で戦っているから存在出来ている悪役たちで、取り巻きの連中も含めて対決することが出来ない暴力集団という気がしない。
一味の一人が改心する経緯も上手く描き切れていたとは言い難い。
僕は世評ほどこの作品を評価していないのだが、その原因はこの圧倒的でない対立構造にある。
それを補っているのがジャック・パランスの殺し屋ウィルソンの存在だ。
凄腕ぶりは発揮されていたとは言い難いが、黒ずくめの雰囲気は力関係を決定付けるインパクトがある。
アラン・ラッドはこの一作と言ってもいいぐらいの演技で、僕が子供の頃に一番の早打ちはアラン・ラッドで、二番は「ララミー牧場」のロバート・フラーだと話し合ったことを思い出す。

シェーンとスターレットにおける友情の芽生え、ジョーイ少年のシェーンへのあこがれ、シェーンとマリアンとの秘めた愛などが物語を彩り、その描き方のバランスもいい。
僕はマリアンの方がシェーンに対して思いを寄せていたのではないかと感じている。
少年を通じて語る言葉尻などは彼女の思いだったと思う。
何よりも「私を強く抱きしめてと」夫に言う場面は、気持ちがシェーンに向かうのを必死で止めていた表れだ。
ダンス・シーンで夫であるジョーはそれを感じ取っても良かったのだが、深くは描かれていなかった。
悲恋の要素が作品から排除されていることがオーソドックスさを感じさせるのかもしれない。

少年は決闘に向かうシェーンを追っていくが、向かうシェーンよりも少年に焦点を当てた描き方がなかなかよくて、さらに犬を登場させて川を渡らせる遠景描写は、この作品の雰囲気を最後まで保たせたと思う。
そして作品を決定付けるのがジョーイ少年の叫び声で、ラストシーンにふさわしいものである。
「シェーン、カムバック!」の甲高い叫び声がワイオミングの山にこだまする。
このラストシーンあってこその「シェーン」で、「シェーン」と言えばこのシーンだろう。

シービスケット

2019-07-05 07:54:53 | 映画
「さ」が終わって「し」に入りますが、思いついただけでもたくさんありました。
それでは始めます。


「シービスケット」 2004年 アメリカ


監督 ゲイリー・ロス
出演 トビー・マグワイア
   ジェフ・ブリッジス
   クリス・クーパー
   エリザベス・バンクス
   ゲイリー・スティーブンス
   ウィリアム・H・メイシー

ストーリー
1929年の大恐慌以降、アメリカは苦難の季節を迎えていた。
自動車販売で成功したものの、息子を事故で亡くし、妻にも去られた大富豪ハワード(ジェフ・ブリッジス)。
開拓時代の終焉により、時代遅れのカウボーイとなったトム・スミス(クリス・クーパー)。
一家離散の憂き目に合い、草競馬のジョッキーに身をやつした青年レッド(トビー・マグワイア)。
人生の辛酸をなめていた3人の男は、運命の糸に導かれるようにして一頭のサラブレッドに出会う。
その名はシービスケット。彼らと同じく運に見放された小柄な馬だった…。


寸評
日本にも「幻の馬」や「優駿 ORACION」という中々よい競争馬映画があったけれど、この手の映画を作らせると流石にアメリカ映画界は懐が深い。
キャストのみならず、脚本、撮影とスタッフなどに人材の豊富さをうかがわせる。
時代遅れのカウボーイ、トム・スミスが安楽死されそうな馬を助けたときのセリフや、レッドがボクシングで金を稼ぎ、商売女とベッドを共にするときの仕草など、伏線の張り方もなかなか細やかでよい。
登場人物がよい人ばかりなのも見ていて楽しい。
ハワードが亡くした息子の代わりとでも言うように、レッドに接し見守る姿は構成的にも良かったと思う。
オーナー、調教師、騎手と競馬にかかわるそれぞれが一頭の馬に入れ込むのはわかるが、僕はハワードの後妻であるマーセラ(エリザベス・バンクス)の存在がこの映画をよりロマンティックにしていると思う。
気性の激しいシービスケットの暴れる音が聞こえないので「今日はおとなしいのね」と彼女が覗き込むと「あら、まあ・・・」、一緒に馬房に入れられた牝馬に寄り添っている。
必死で応援する彼女の姿は正しくアメリカのロマンそのものだった。
そして、前述のレッドを見守る姿も母親のそれに近く擬似家族を形作っていて、さらに言えば、新しい妻となった彼女、トムや使用人も含めて、そこには失いつつある大家族が描かれていた。
無敵となったシービスケットがレースで故障するシーンを見て、僕は悲運の名馬・テンポイントを思い出した。
彼は昭和53年が明けて間もない1月22日の京都競馬場で行われた日経新春杯で、あまりの強さに過酷とも思われる66.5キロを背負わされて骨折した。
彼はシービスケットのように復活する事はなく、懸命の看病、ファンの祈りも届かず3月5日に死亡してしまう。
そして大恐慌時代の下積みの人たちがシービスケットに肩入れし、応援する姿は今、地方競馬で100連敗を更新中のハルウララを連想させる。
ハルウララはシービスケットのように連勝する事でファンを熱狂させているのではなく、負けても負けても走り続ける、けな気な姿に心打たれるものを感じさせるからだ。
小さな子供達までが「ハルウララー!」と掛け声を掛ける様子や、強さとは関係なく一番人気に押されている事がニュースで流れる事実を見て、80年近く経った今でも変わらぬものが有る事を教えてくれる。
馬券を買わなくなって久しいけれど、三十年ばかり前は関西馬ばかりを買って負け続けていたことも思い出した。

秋刀魚の味

2019-07-04 10:48:57 | 映画
「秋刀魚の味」 1962年 日本


監督 小津安二郎
出演 岩下志麻 笠智衆 佐田啓二
   岡田茉莉子 三上真一郎
   吉田輝雄 牧紀子 中村伸郎
   三宅邦子 東野英治郎 杉村春子
   加東大介 北竜二 岸田今日子

ストーリー
長男の幸一夫婦(佐田啓二、岡田茉莉子)は共稼ぎながら団地に住んで無事に暮しているし、家には娘の路子(岩下志麻)と次男の和夫(三上真一郎)がいて、今のところ平山(笠智衆)にはこれという不平も不満もない。
細君と死別して以来、今が一番幸せな時だといえるかもしれない。
わけても中学時代から仲のよかった河合(中村伸郎)や堀江(北竜二)と時折呑む酒の味は文字どおりに天の美禄だった。
その席でも二十四になる路子を嫁にやれと急がされるが、平山としてはまだ手放す気になれなかった。
中学時代のヒョータンこと佐久間老先生(東野英治郎)を迎えてのクラス会の席上、話は老先生の娘伴子(杉村春子)のことに移っていったが、昔は可愛かったその人が早く母親を亡くしたために今以って独身で、先生の面倒を見ながら場末の中華ソバ屋をやっているという。
平山はその店に行ってみて、まさか路子が伴子のようになろうとは思えなかったが、馴染の小料理屋へ老先生を誘って呑んだ夜、先生の述懐を聞かされて帰った平山は路子に結婚の話を切り出した。
路子は父が真剣だとわかると、今日まで放っといて急に言いだすなんて勝手だと妙に腹が立ってきた。
しかし和夫の話だと路子は幸一の後輩の三浦(吉田輝雄 )を好きらしいのだが、三浦は先頃婚約したばかりだという。
強がりを言っていても、路子の心がどんなにみじめなものかは平山にも幸一にもよくわかった。
秋も深まった日、路子は河合の細君(三宅邦子)がすすめる相手のところへ静かに嫁いでいった・・・。


寸評
小津安二郎は生涯においてホームドラマだけを撮った監督である。
テーマはいつも同じで、親と子、夫と妻などの家族の中での愛情とちょっとしたボタンのかけちがいによる騒動などであった。
だからどの作品も非常に似通っているが微妙に違う。
多様性の中で同じテーマを追い続けていたようにも思うし、小津にとってはもっともっと完成したものがあるはずだと撮り続けていたような気もするのである。
本作は小津の遺作であり文字通り集大成となった作品だと思う。
集大成と言うのは一番優れた作品という意味ではなく、彼が描いてきたもの全てが散りばめられているからだ。
ユーモアに満ちたもの、悲劇的要素の多いもの、遊びの精神に富んだものなどで、そのどれもに及第点の作品を世に送り続けた。
小津が得意としたローアングルによる構図と共に、小津作品と言うだけで安心できるものがある。
僕は小津映画と同世代ではなかったが、後年に小津映画を見た時は自然と安心感が湧いてきたものである。

何気ない一コマに人生の縮図の様なものが織り込まれている。
今回の悲劇の一面はヒョータン先生だ。
奥さんを早くに亡くしていそうで娘と二人暮らしだが、その娘も婚期を逃して父の面倒を見ている。
主人公の平山と対比させているが、ヒョータン先生の娘である杉村春子は酔いつぶれた父親の姿に接して、婚期を逃した自分に対してか、父親を情けなく思ってか、自分を嫁に出してくれなかった父を恨んでか涙を流す。
非常につらいシーンだ。
自分が秘かに思いを寄せた男性がタイミングの違いで他の女性と結婚することになってしまった岩下志麻の流す涙とは全く違った涙であった。
そして、平山たちの先生であったヒョータン先生がかつての教え子たちに卑屈になっている姿も悲劇といえば悲劇で、なんだか情けないものを感じてしまう。

小津が描く家庭はいつもプチブルジョア家庭で、今回の平山も河合も堀もいい暮らしをしている。
彼等の特に平山家に起きる話なので娘の路子が嫁ぐことになる相手は一切登場しない。
路子は河合の会社に勤めているし、個々人の結びつきが強かった時代が描かれている。
岡田茉利子は隣の家にトマトを借りに行っていた。
後妻をもらった堀を料理屋の女将にからかい、その裏返しとして路子の縁談で平山が二人にからかわれるなどのユーモアも挿入されているし、佐田啓二と岡田茉利子夫婦のやり取りも可笑しい。

平山が娘の結婚式の帰りに淋しさを紛らわせるために馴染のバーに立ち寄るが、バーのマダムは「どうしたんの?お葬式の帰り?」と問いかけると、笠智衆の平山は「まあ、そんなもんだ」と答える。
確かに娘を嫁に出した父親の気持ちはそんなもんだと思うが、黒ネクタイでなくストライプの祝い用のネクタイをしている相手に「お葬式ですか?」はないものだと思う。
せめてネクタイを外させておいてほしかったと思いながらも、小津を堪能できる作品であることは間違いない。

三度目の殺人

2019-07-03 11:22:42 | 映画
「三度目の殺人」 2017年 日本


監督 是枝裕和
出演 役所広司 福山雅治 広瀬すず
   満島真之介 市川実日子
   松岡依都美 蒔田彩珠 井上肇
   橋爪功 斉藤由貴 吉田鋼太郎

ストーリー
勝ちにこだわるエリート弁護士・重盛(福山雅治)は、同僚がサジを投げた為にやむを得ず、30年前にも殺人の前科がある三隅(役所広司)の弁護を担当することになる。
解雇された工場の社長を殺し、死体に火をつけた強盗殺人の容疑で起訴された三隅は犯行を自供しており、このままだと死刑は免れない。
さっそく重盛は、どうにか無期懲役に持ち込もうと調査を開始する。
重盛は彼の前科である“一度目の殺人”について調べ始めるが、奇しくも、30年前の殺人事件の裁判で裁判長を務めたのは重盛の父だった。
父は三隅のことを「獣みたいな人間」と言い、当時三隅を逮捕した刑事は「感情のない空っぽの器」と語った。
ところが、肝心の三隅は証言をコロコロ変え、味方であるはずの重盛にも決して本心を語ろうとしない。
三隅は重盛と初めて接見した時は「金目的の強盗殺人」と供述。
その約10日後には「社長の妻の美津江(斉藤由貴)に頼まれてやった」と言い出す。
さらに被害者の娘・咲江(広瀬すず)が事務所を訪れたと知った後は「自分はやってない」と容疑を否認した。
重盛は三隅が会う度に供述を変え、そして動機が希薄なことに違和感を覚える。
やがて重盛が三隅と被害者の娘・咲江との意外な接点にたどりつくと、それまでと異なる事実が浮かび上がっていく・・・。


寸評
犯人探しや真実を求めようとすると肩透かしにあってしまう。
明快な真実が語られることはなく、謎解きは宙に浮いたままで終わったという印象だが、それは是枝の意図したもので、是枝の意図は謎解きではなく、司法制度についての問題提起にあったのだと思う。
硬直化しシステム化された司法制度のもとでは、裁判における判決は法廷よりも法廷外で大方のことが決まり、効率優先の経済性も加味されながら進められている現実を訴える。
法定外で裁判を効率的に進めるための打ち合わせが行われていることは、他の裁判劇でも描かれている場面だが、ここでも裁判官が目配せで意思を伝え、弁護士や検察官が阿吽の呼吸でそれに応じる場面が登場する。
それは「もう判決は決まっている」という裁判官の合図なのだという。
裁判官も検事も弁護士も、法曹界という同じ船に乗っている乗組員なのだと言うのである。
重盛の娘が流す涙のように、法廷での証言にウソが存在していても人は裁かれる。
三度目の殺人を犯したのは法曹界なんだろうな。
あるいは三隅が自分自身を殺したということか?

弁護士は裁判をスポーツの試合の如く勝つことだけを考えている。
いかにして無罪を勝ち取るか、いかにして量刑を減刑できるかだけを考えている。
その為の作戦があり、監督のかれらは選手である被告人を自分のたてた作戦通りに動かそうとする。
僕は被告人になったことがないので弁護士との打ち合わせを経験したことがないのだが、ここで行われたやり取りはオーバーではなく真実に近いものであったような気がする。
三隅の殺人の動機が強盗なら死刑で、怨恨なら情状酌量の余地ありで無期懲役の可能性ありなのだ。
被害者が殺されたという結果は同じなのにその差はどこから来るのかと疑問を投げかけている。
真実とかけ離れたところからもたらされる印象の恐ろしさも描かれている。
人が人を裁くことの意味が問いかけられ、裁きは本当に正しかったのか、人間は人間をきちんと裁けるのかと映画は問いかけている。
しかしその命題はかすんでしまっていると思う。
原因はその命題を浮かび上がらせるための前段があまりにも観客を犯人探しへ、また真実追及へ向かわせる内容になっているからだったと思う。
多くを占める三隅と重盛の接見室で話すシーンは緊迫感にあふれ、スリリングで不気味な雰囲気を醸し出す。
やがて三隅と被害者の娘・咲江との意外な接点が浮かび上がり、なぜ?という疑問が自然と湧き上がる。
三隅と被害者の妻・美津江との疑惑も浮上して、本当だろうかと思わせる。
会社の偽装問題も出てきて真実は混とんとしてくる。
そして衝撃的なおぞましい告白がなされて、もう興味は完全に真実の追及に向かってしまっているのである。
法曹界の矛盾に憤っていた自分はどこかに行ってしまって、最後にはなにか物足りない喪失感が残った。
それは多分、是枝が見る者の判断にゆだねたものが多かったことによるものだろう。
十字架の謎、咲江が北大を目指している理由、三隅がカナリアを逃がしたわけ、偽装の顛末・・・など。
しかし、人間の一生をも左右する裁判劇映画は名作も多くあって面白い。
本作も派手さは無いものの、決して退屈する作品ではなく、最近の是枝演出は手堅い。

山椒大夫

2019-07-02 10:08:48 | 映画
「山椒大夫」 1954年 日本


監督 溝口健二
出演 田中絹代 花柳喜章 香川京子
   進藤英太郎 河野秋武 菅井一郎
   見明凡太郎 浪花千栄子
   毛利菊江 三津田健 清水将夫

ストーリー
平安朝の末期、越後の浜辺を子供連れの旅人が通りかかった。
七年前、農民の窮乏を救うため鎮守府将軍に楯をつき、筑紫へ左遷された平正氏(清水将夫)の妻玉木(田中絹代)、その子厨子王(加藤雅彦のち花柳喜章)と安寿(榎並啓子のち香川京子)の幼い兄妹、女中姥竹(浪花千栄子)の四人である。
その頃越後に横行していた人買は、言葉巧みに子供二人を舟に乗せられた母や姥竹と引離した。
姥竹は舟から落ちて死に、母は佐渡へ売られ、子供二人は丹後の大尽山椒大夫(進藤英太郎)のもとに奴隷として売られた。
兄は柴刈、妹は汐汲みと苛酷な労働と残酷な私刑に苦しみながら十年の月日が流れた。
大夫の息子太郎(河野秋武)は父の所業を悲しんで姿を消した。
佐渡から売られて来た小萩(小園蓉子)の口すさんだ歌に厨子王と安寿の名が呼ばれているのを耳にして、兄妹は母の消息を知った。
安寿は厨子王に逃亡を勧め、自分は迫手を食止めるため後に残り、首尾よく逃がした上で池に身を投げた。
厨子王は中山国分寺に隠れ、寺僧の好意で追手から逃れるが、この寺僧は十年前姿を消した太郎であった。
かくして都へ出た厨子王は関白藤原師実(三津田健)の館へ直訴し、一度は捕われて投獄されたが、取調べの結果、彼が正氏の嫡子である事が分ったが、正氏はすでに配所で故人になっていた。
師実は厨子王を丹後の国守に任じた。
彼は着任すると、直ちに人身売買を禁じ、右大臣の私領たる大夫の財産を没収した。
そして師実に辞表を提出して佐渡へ渡り、「厨子王恋しや」の歌を頼りに、落ちぶれた母親と涙の対面をした。


寸評
森鴎外の「山椒大夫」の元になったのは伝説なのだが、あらましを聞くと残酷描写も多い復讐物語と言えなくもないものだが、鴎外は奴隷解放した山椒大夫が、そのことで生産性をあげて富を増したとしたりして残酷部分を取り除き、厨子王と母親との感動的な再会に力点おき、親子や姉弟の間の人間愛を歌い上げるもとしている。
伝説では安寿は、厨子王丸を逃した罪でなぶり殺しにされるし、山椒大夫の首を息子の三郎に竹鋸で引かせて残酷な殺し方をしているらしい。
溝口はどうかというと、鴎外の原作を踏襲しながら溝口なりの解釈を加えている。
この作品が撮られたのは昭和29年であるから、当時の日本は戦後復興の道が開け、民主主義が国民に定着しかけた時期だったろうと推測する。
おそらく溝口はそんな時代の風潮、あるいは溝口自身の思いをこの作品に転嫁したのではないかと、これまた私は推測する。

原作と違う点の一つは厨子王を兄、安寿を妹としていることだ。
映画の中の安寿(香川京子)はどうみても、兄の厨子王(花柳喜章)よりもしっかり者だし毅然とした顔つきだ。
安寿は厨子王を助け自分は入水自殺を行うのだが、これが兄妹逆転していれば、女は長女であっても家名を守るために男子のために犠牲になるという家族制度を彷彿させてしまうからではなかったかと思う。
時代は家族制度が否定され、男女同権に大きく舵を切っていたのだと思う。

山椒大夫の最後も違っていて、山椒太夫を国外追放とした上で、民衆にその館を燃やさせることによって支配者階級の没落を暗示している。
封建的な抑圧からの民衆の解放物語と見てとれぬこともない。
違うといえば、、母子は山岡大夫というものに騙されることになっているところを、巫女が一夜の宿を貸した後で人買いに売り飛ばすように変更しているのだが、なぜ巫女に変えたのか必然性は見当たらない。
見ていても何か違和感があって、溝口は神道嫌いとしか説明のしようがない。

「人間はみな平等で、人は人を慈しまねばならぬ。自分には厳しく、人には慈悲をもって当たらないといけない」というのが父の教えで、厨子王はこの言葉を心に刻んで、逆境にあっても人間らしく生き、また最後には虐げられた人々を開放しようと決意するわけだが、これなども僕は農地解放などを連想するし、当時はまだまだ残っていた身分制度に対するテーゼのように感じる。

ともあれ、描くのが難しい中世初頭の話を上手く映像化しているし、当時の荘園制度とはこのようなものだったであろうと思わせる描き方も的を得たものだった。
でも僕は見ていてふと思った。
奴隷解放し去っていった厨子王だが、しかし私有の荘園なのだから、やがて右大臣の権力が再び押し寄せてきて元通りの世界になって人々は再び奴隷化してしまうのではないかと。
振り返れば、この映画にはかなり無理な部分が見受けられるのだが、溝口の思いだけは感じ取れる作品だ。
田中絹代は原節子などと違ってこのような役も上手い。