おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

市民ケーン

2019-07-19 07:03:44 | 映画
「市民ケーン」 1941 アメリカ


監督 オーソン・ウェルズ
出演 オーソン・ウェルズ
   ジョセフ・コットン
   ドロシー・カミンゴア
   エヴェレット・スローン
   アグネス・ムーアヘッド
   ルース・ウォリック
   レイ・コリンズ
   アースキン・サンフォード

ストーリー
荒廃した壮大な邸宅の内で、片手に雪景色の一軒家のあるガラス玉を握り、“バラのつぼみ”という最後の言葉を残し新聞王ケーンは死んだ。
死後のケーンに与えられた賛否の声は数多かったが、ニュース記者トムスンは“バラのつぼみ”の中にケーンの真の人間性を解く鍵があると信じ彼の生涯に関係のある人々に会うことになった。
ケーンが幼少の頃、宿泊代のかたにとった金鉱の権利書から母親が思わぬ金持ちになった。
そのために彼は財産管理と教育のため、片田舎の両親の愛の中から無理矢理にニューヨークに押し出された。
青年になったケーンは、友人のバーンステインとリーランドの協力を得て、新聞経営に乗り出す。
センセーショナリズムによってケーンの新聞は売上を伸ばすが、友人たちはケーンの手法を批判する。
世界第6位という財産をバックに報道機関をことごとく掌中にし、彼の権力はもはや絶対的なものになった。
一方大統領の姪エミリーをしとめるに至り知事から大統領への座は目前のものとなった。
しかし圧勝を予想された知事選挙の数日前に、オペラ歌手スーザンとの情事をライバルに新聞紙上で暴露され形勢を逆転された。
それと同時に妻エミリーはケーンのエゴイズムに耐え切れず去っていった。
離婚、落選という初めての挫折にケーンは狂ったようにスーザンに全てを集中した。
彼女の素質も考えず巨大なオペラ劇場を建て自分の新聞で大々的に宣伝をしたが、それはかえって彼女を重圧から自殺未遂へと追いやってしまい、遂には彼女も去っていった。
そして1941年孤独のうちにケーンは死んだのだった。
トムスンの努力にもかかわらず“バラのつぼみ”の意味はわからなかった。
彼の死後身辺が整理され、おびただしいがらくたが暖炉に投げこまれた。
そのなかの1つ幼少の頃に遊んだソリが燃えあがる瞬間、ソリの腹に“バラのつぼみ”の文字が現れた。


寸評
僕はこの映画を学生時代に建て替えられたフェスティバルホールの地下にあったSABホールでの名画鑑賞会で見た。
学生時代のことで何十年も前の話とあって細部の記憶はなくなっている。
その頃の「市民ケーン」の評価は高くて歴代映画のベストワンに挙げられていた。
(2012年、英国映画協会の「映画監督が選ぶベスト映画」の1位に、小津安二郎監督の「東京物語」が選出されている)
期待が過ぎたのかそれほど評価される映画なのかという印象を持ったことが記憶として残っている。
画面の手前も奥も同時にはっきり写るというパン・フォーカスの技術にも、ニュース映画を挟み込んで真実らしくみせる手法も、内幕物として主人公が批判的に浮き彫りになっていくことにも、さして驚くこともなく感銘を受けることもなかった。
当時でもそうだったのだから、今見るとさすがに新鮮な衝撃を受けることはない。
傍若無人に生きて地位を上り詰めたこの資本家も、私生活は空虚なもので誰からも愛されず孤独だったと言うこの映画の内容も目新しいものではない。

しかしこの映画における俳優オーソン・ウェルズは魅力的だ。
批判的に描かれているケーンだが、この主人公が実に生き生きとした魅力を持っており、ケーンはまるでオーソン・ウェルズの自画像ではないかと思わせる。
スーザンを分不相応なオペラ劇場に立たせ、見事に失敗した事実を突きつけられ彼女を見つめるケーンの姿は人間的であり、映画の中では魅力を放つ。
妻エミリーとの食事シーンでの新聞の使い方など印象的なシーンを数多く有している作品である。
オーソン・ウェルズは「市民ケーン」によって監督としての名をとどめ、その功績も大きいものがあると思うが、僕はその後に見たキャロル・リード監督の「第三の男」とで、俳優オーソン・ウェルズの印象が強烈である。

僕がこの映画を思い出すとき、浮かぶシーンはやはりラストシーンである。
カメラは取り散らかした倉庫を横切るが。それは家具や調度品という物への崇拝と、社会における人間的価値の疎外を訴えるという映画的表現だ。
暖炉で燃えるソリ、立ち入り禁止の看板が主人公の孤独と終焉を如実に表している。
「バラのつぼみ」は僕の映画鑑賞の歴史においても消え去ることのない言葉となっている。