「自転車泥棒」 1948年 イタリア
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
出演 ランベルト・マジョラーニ
エンツォ・スタヨーラ
リアネーラ・カレル
ジーノ・サルタマレンダ
ストーリー
アントニオは長い失業のすえ、ようやく映画のポスター貼りの仕事を得た。
仕事に必要な自転車を質屋から請け出すために彼はシーツを質に入れた。
六歳の息子ブルーノを自転車に乗せ、彼はポスターを貼ってまわった。
ところがちょっとしたすきに自転車が盗まれてしまった。
アントニオは無駄とはわかっていても警察に行ったが、やはり警察は相手にしてくれない。
こうしてアントニオ親子の自転車探しがはじまった。
ローマの朝早く、2人は古自転車の市場に行き、ここで泥棒らしき男に会うが、証拠がない。
その男と話していた乞食の跡をつけるが、乞食も逃げ出す。
途方にくれて女占い師を訪ねるが、もちろんなんの答えもでない。
いらいらしてついブルーノにあたってしまう。
偶然泥棒を発見したが、かえって仲間にやられそうになる。
ブルーノの機転で警官が来るが、肝心の自転車はない。
やけになったアントニオはとうとう競技場の外にあった自転車を盗んでしまうが、たちまち捕ってしまった。
子供の涙の嘆願に許されるが、アントニオは恥かしさに泣き、そんな父の手をブルーノは黙ってとって、タ暮のローマの道に姿を消すのだった。
寸評
見ていても、見終っても悲しくなってくる映画だ。
真面目にやっていれば救われるとか、悪いことがあってもやがて良いこともあるといったところがまったくない。
世の中そんなに甘くはない。
歯車が狂いだすと悪い方へ悪い方へと向かっていく人生だってあるのだと言われているようだ。
戦後間もない頃のイタリアだが、日本だって戦後の混乱期はもっとひどかったのかもしれない。
町には失業者があふれていて仕事を求める人でいっぱいだ。
アントニオは運よく市役所のポスター張りと言う定職を得るが、それには自転車が必須要件だった。
彼の自転車は生活費のために質屋に入っているが、妻はシーツを何枚も質草にして自転車を引き出す。
映画は、やっと生活が安定しそうになったところで肝心の自転車を盗まれてしまい、その自転車を求めてアントニオと息子のブルーノが街中を探し回るという話だ。
ただ探し回っているというだけで、それぞれのエピソードにつながりはなく、突然終わってしまうような印象がある。
気落ちするな、明日きっと見つかると励ましてくれた仲間が一緒に探し回ってくれるが見つからない。
するともう仲間たちは登場することはなく消え去ってしまう。
泥棒と関係のありそうな老人が出てきて教会でひと悶着起こすが、結局この老人も何処へ行ったのか分からなくなってしまい消え去ってしまう。
思い余って伏線として登場していた女占い師を訪ねるが、占い師は「見つかるときにはすぐに見つかるが、見つからないときは永久に見つからない」と訳の分かったような分からないような返答をして終わりである。
通常の映画では必ず行動に意味があり、一見無駄と思われるエピソードもあとでつながってくるとかするものだが、この映画ではそれぞれのエピソードに次の展開がないし、脈略もない。、
しかしそれでも盗まれた自転車を必死の思いで探し続ける父と少年の姿に泣けてくるものがある。
全編市中ロケと言ってもいいような風景がリアルな親子を浮かび上がらせる。
必ずしも正義が勝つとは限りない不条理な世界、真面目にやっても報われない理不尽な世界が世の中にはあるという描き方は、映画としては普通の描き方ではない。
この救われない状況を冷徹に描いていることがネオリアリズモの代表作と評される点だろう。
仕事を続けていくために自らも自転車を盗んでしまうという救いようのない映画だが、ほんのわずかな光明だけは盛り込んでいる。
一つは息子に悪いことをしたと思って、罪滅ぼしに行ったレストランでアントニオが言う「生きていれば何とかなる」という言葉だ。
今一つは、皆に取り押さえられたアントニオを自転車の持ち主が「息子の前で恥を知れ」と言いながらも許してやっていることだ。
どんなに苦しくても何とかなるのかもしれないし、時には善意の人も現れるかもしれないのだ。
そして最大の救いは息子の存在だ。
アントニオは職を失うかもしれないが、息子ブルーノのために歯を食いしばって働く事だろう。
そかし、それでも何だか暗くなってしまう映画で、僕は悲しすぎてあまり好きにはなれない。
監督 ヴィットリオ・デ・シーカ
出演 ランベルト・マジョラーニ
エンツォ・スタヨーラ
リアネーラ・カレル
ジーノ・サルタマレンダ
ストーリー
アントニオは長い失業のすえ、ようやく映画のポスター貼りの仕事を得た。
仕事に必要な自転車を質屋から請け出すために彼はシーツを質に入れた。
六歳の息子ブルーノを自転車に乗せ、彼はポスターを貼ってまわった。
ところがちょっとしたすきに自転車が盗まれてしまった。
アントニオは無駄とはわかっていても警察に行ったが、やはり警察は相手にしてくれない。
こうしてアントニオ親子の自転車探しがはじまった。
ローマの朝早く、2人は古自転車の市場に行き、ここで泥棒らしき男に会うが、証拠がない。
その男と話していた乞食の跡をつけるが、乞食も逃げ出す。
途方にくれて女占い師を訪ねるが、もちろんなんの答えもでない。
いらいらしてついブルーノにあたってしまう。
偶然泥棒を発見したが、かえって仲間にやられそうになる。
ブルーノの機転で警官が来るが、肝心の自転車はない。
やけになったアントニオはとうとう競技場の外にあった自転車を盗んでしまうが、たちまち捕ってしまった。
子供の涙の嘆願に許されるが、アントニオは恥かしさに泣き、そんな父の手をブルーノは黙ってとって、タ暮のローマの道に姿を消すのだった。
寸評
見ていても、見終っても悲しくなってくる映画だ。
真面目にやっていれば救われるとか、悪いことがあってもやがて良いこともあるといったところがまったくない。
世の中そんなに甘くはない。
歯車が狂いだすと悪い方へ悪い方へと向かっていく人生だってあるのだと言われているようだ。
戦後間もない頃のイタリアだが、日本だって戦後の混乱期はもっとひどかったのかもしれない。
町には失業者があふれていて仕事を求める人でいっぱいだ。
アントニオは運よく市役所のポスター張りと言う定職を得るが、それには自転車が必須要件だった。
彼の自転車は生活費のために質屋に入っているが、妻はシーツを何枚も質草にして自転車を引き出す。
映画は、やっと生活が安定しそうになったところで肝心の自転車を盗まれてしまい、その自転車を求めてアントニオと息子のブルーノが街中を探し回るという話だ。
ただ探し回っているというだけで、それぞれのエピソードにつながりはなく、突然終わってしまうような印象がある。
気落ちするな、明日きっと見つかると励ましてくれた仲間が一緒に探し回ってくれるが見つからない。
するともう仲間たちは登場することはなく消え去ってしまう。
泥棒と関係のありそうな老人が出てきて教会でひと悶着起こすが、結局この老人も何処へ行ったのか分からなくなってしまい消え去ってしまう。
思い余って伏線として登場していた女占い師を訪ねるが、占い師は「見つかるときにはすぐに見つかるが、見つからないときは永久に見つからない」と訳の分かったような分からないような返答をして終わりである。
通常の映画では必ず行動に意味があり、一見無駄と思われるエピソードもあとでつながってくるとかするものだが、この映画ではそれぞれのエピソードに次の展開がないし、脈略もない。、
しかしそれでも盗まれた自転車を必死の思いで探し続ける父と少年の姿に泣けてくるものがある。
全編市中ロケと言ってもいいような風景がリアルな親子を浮かび上がらせる。
必ずしも正義が勝つとは限りない不条理な世界、真面目にやっても報われない理不尽な世界が世の中にはあるという描き方は、映画としては普通の描き方ではない。
この救われない状況を冷徹に描いていることがネオリアリズモの代表作と評される点だろう。
仕事を続けていくために自らも自転車を盗んでしまうという救いようのない映画だが、ほんのわずかな光明だけは盛り込んでいる。
一つは息子に悪いことをしたと思って、罪滅ぼしに行ったレストランでアントニオが言う「生きていれば何とかなる」という言葉だ。
今一つは、皆に取り押さえられたアントニオを自転車の持ち主が「息子の前で恥を知れ」と言いながらも許してやっていることだ。
どんなに苦しくても何とかなるのかもしれないし、時には善意の人も現れるかもしれないのだ。
そして最大の救いは息子の存在だ。
アントニオは職を失うかもしれないが、息子ブルーノのために歯を食いしばって働く事だろう。
そかし、それでも何だか暗くなってしまう映画で、僕は悲しすぎてあまり好きにはなれない。
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